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好色一代男
好色一代男
井原西鶴著
(一部)
赤字は『かくれさと苦界行』本文(新潮文庫本版240p)言及部分。
巻五
卅七歳
欲の世中に是は又
本朝遊女のはじまりは、江州の朝妻、幡州の室津より事起りて、今国々になりぬ、朝妻には。いつころにか絶て、賤の屋の淋しく、嶋布を織、男は大網を引て、夜日を送りぬ、室は西国第一の湊、遊女も昔にまさりて、風義もさのみ大坂にかはらずといふ、
浮世の事は、しまふた屋の金左衛門を誘引て、同じこゝろの瓢金玉、ぬけ舟を急がせ、其夕暮の空ほでりして、恋の湊に押付、まづは錠をおろさせける、然も七月十四日の夜なり、此所は十三日切に、万世のやかましき事をも互にすまして、盆の有様をみせて、男はちいさき編笠をかづき、女は投頭巾に、大小を指もありて、女郎まじりの大踊、みるから此身は馬鹿となつて、袖の香ひに引るゝ、立花風呂丁子風呂、すなはち爰の揚屋也、広嶋風呂に行て、亭主八兵衛にあないさせて、丸屋姫路屋あかし屋、此三軒に、八十余人の姿を見尽し、其中で天神かこひ七人抓て、誰に思はくもなく、酒になして、あるじに私語しは、「七人のうちにて、何れなりとも気に入たらば、それに枕定めん」といふを聞て、女郎おもひ/\の身嗜、みる程笑し、酔覚しに千年川といふ香炉に、厚割の一木を焼て、きかせけるに、こゝろもなく、そこ/\に取あげてまはしける、いとはしたなし、
末座にまだ脇あけの女、さのみかしこ顔もせず、ゆたかに脱懸して、肌帷子の紋所に、地蔵をつけて居るこそ、いかさま子細らしく見えける、手前に香炉の廻る時、しめやかに聞とめ、すこし頭をかたぶけ、二三度も香炉を見かへし、「今おもへば」といふて、しほらしく下にをきぬ、世之介言葉をとがめ、「此木は何と御聞候」と申、「正しくもろかづら」といふ、「さても名誉の香きゝかな」と、懐へ手を入。又取出す、所をおさえ、「申々わたくしなどが、何としてか聞候べし、其木は江戸の吉原にて、若山様の所縁ではあらずや」といふ、「いかにも/\。あふての名残に、もらひまして」といふ、「さじあるべし、私の与風申候は、備後福山の去御方、江戸にて若山さまの香包と、仮初の袖にとめさせられ、同じ枕の夜、いつよりは、うれしさのまゝに忘れず、いまにおもひ出し候」と申、横手をうつて。「ゑんはしれぬ物かな、其備後衆の十がひとつ、かはいがられたひ」となづめば、亭主床とつて、蚊屋釣懸て、「是へ」と申程に、「夢見よか」とはいりて、汗を悲しむ所へ、龝までのこる螢を数包て、禿に遣し、蚊屋の内に飛して、水草の花桶入て、心の涼しきやうなして、「都の人の野とやみるらん」と、いひさまに、寝懸姿のうつくしく、「是はうごきがとられぬ」と、首尾の時の手たれ、わざとならぬすき也、仮にもさもしき事はいはず、かはいさのまゝに、「人のほしがる物は是ぞ」と、巾着にあるほど打あけて、物数四十切ばかり包て、袖に投入れば。取敢ず、夜もあけて別れさまに、旅の道心者の、「こゝろざし請度」といふ、彼女郎、袖の包がねを、其まゝとらせける、修行者何ごゝろもなくもらひて、四五丁も行て立帰、「是は存もよらぬ事、一銭二銭こそ申請しに、今の女郎にかへす」と投捨てゆく、昔はいかなる者ぞとゆかし、世之介此女の心入をおどろき、様子をきけば、隠れもなき人の御息女なり、請出して直に、丹波に送りぬ、行方しらず。
巻六
四十一歳
匂ひはかづけ物
京の女郎に、江戸の張を、もたせ、大坂の揚屋で、あはば、此上、何か有べし、爰に吉原の名物、よし田といへる、口舌の上手あり、風義は一文字屋の、金太夫に、見ますべし、手は野風程書て、然も哥道に、こゝろざし深し、或時飛入といへる、俳諧師。「涼しさや夕よし田が座敷つき」と、有に、「螢飛入我床のうち」と、即座の脇、是にかぎらず、毎度聞ふれし事ぞかし、一ふしうたふて、引て、自然と此勒に、そなはりし女なり、万かしこき事、おもひの外也、
山の手のさる御方、殊更に、不便がらせたまひ、数々かたじけなき、御しなし、いやといはれず、外をやめて、指に疵などつけて、まことのこゝろになつて、御尤愛しさもます時、さる太夫を恋初、よし田のきはを、色々仕懸たまへども、一つも、憎むべき事あらず、或暮方に、小柄屋の小兵衛斗、召連られ、「何によらず、けふをかぎりに、難義を申懸、手をよく退て、あそびを、替るぞ。いそげ」と、清十郎方に行て、太夫にあひて、抑より横をゆけ共、はや、合点して、すこしも気やぶらず、常の酒ぶり、かさね飲になつて、無理を肴に、なすぞかし、大じんわざと、酔狂して、あたりあらく踏立、間鍋より、漣波たつて、いと見ぐるしく、小兵衛、はな紙にて、せけ共とまらず、よし田が上がへの、褄まで流れよる時、禿の小林、我ぬぎ置し、黒茶宇の、きる物にて、残らずしたみ、かいやり捨ける、太夫につかはれし程の、心得是ぞと、いはずに誉ける、此有様。よし田も、うれしかるべし、春宵一衣、価千牧所也、
花も火ともす時分になつて、太夫勝手へ立さまに、廊下を半過て、とりはづされて、其音に、疑ひなし、世之介も、小兵衛も、横手をうつて、「おもしろの春辺やな、天晴、くぜつのもとだて、重而出たらば、座敷が嗅ふて、ゐられぬといはふ」、「いや、両人ともに、鼻ふさぎて、あのほうから、あらためる時に、けふ、よき匂ひを、かぎにきたと申せ」、是にきはめて、待ども出ず、「よもや出らるゝ所でなひ」と、大笑ひしてみるに、衣装仕替て、桜一本持ながら、立出るより、二人目を付てゐるに、さいぜん、へをこきたる、敷板まで来て、そこにて、こゝろをつけ、障子をあけて、畳の上へ廻らるゝこそ、一代の大事爰なり、小兵衛も、聊尓申てはと、屡し、是をだまりぬ、世之介も、二の足を踏て、かの板敷あゆめども、ならざりし、されども、出しおくれて、ゐるうちに、よし田方より申出して、「此中の御仕方、惣じて、よめぬ事のみ、はじめより。あかるゝまでとの、御つたへ、成程けふ切に、あきました、御げんも、今より後は」と申捨、おもての見世に出、犬にさんたさせて、あそばるゝこそ、すこしは憎し、両人是非なく、へはかづきながら、論はうらをかゝれ、「さらば」ともいはずに、立かへる、「世之介小兵衛、よからぬ仕なし」と、此沙汰あつて、望の太夫も、終にはあはざりき、
よし田此事をつゝまず、末々の女郎、宿屋の内義、重都といふ、座頭、やり手まんなど、集めて、其中にて、ありのまゝに、語りける、「若難義に申懸ば、「それは、賤しき、御申懸、口舌はさもなくとも、ありぬべし」と、申さんために、道替て行に、あのほうに、分別して、いはぬこそ笑しけれ、いかにも、こき手は此太夫じや」と、おもひ切て、申されける、いづれも、悪くは申さず、此利発を感じ、あき日を、あらそひ、此人しのぶ事、八わうじの、柴売、神田橋たてる、願人坊主、金椙の、馬宿までも、君を思へば、かちはだしにて、御町の辻に立ながら、「雲目、風目」と、いはれし身までも、御道中を見て、半分しんでぞ帰ける。
巻七
五十二歳
さす盃は百二十里
露に時雨に、両袖をぬれの開山、高雄が、女郎盛を見んと、紅葉がさねの旅衣、八人肩の大乗物、五人の太鞁持、ばつとしたる出立に、陰陽の神ものりうつり給ひて、世に有程のわけしり男、夜やり日やりに行ば、宇津の山辺にのぼり詰、嶋原への、伝手がなとおもふ所に、三条通の亀屋の清六、乗懸よりおりもあへず、「もろこしは替らずつとむるか、江戸では、小紫にあふてのやりくり、都へさす盃を、ことづかり行」など、立ながらかたりぬ、聞に東の恋しく、京の事なを忘れがたく、「屡しまて」とて、鼻紙に石筆をはやめ、「けふ此細道にて、清六にあふて、やつれたる姿を見せて、そこゆかしさは何程、露といふ命きえずば、又みるまでのしるしぞ」と、岩根の蔦の葉を手折て、仮初に包みこめて、金太夫かたへと渡しぬ、五人の者もおもひ/\の泪、「申々まだ忘れた事は、上林のまんに、首すぢをよく洗へと、慮外ながら御つたへ」と、跡は大笑ひして別れて、苔地のつたひ道おるれば、草葺の幽に、十団子売女さへ美しく、見えて、招けば、手越といふ里に、酒ばやし有、「是こそむかし千手の前の、親仁の所よ」と語る、安部川をわたれば、東の方に、びんざさらにのせて、「こずに待する、殿はうらみ」とうたひしは、「やれ、爰の傾城町とや、見ずには通らじ」と、尻からげをおろし、道中付の扇をかざして、とかくはみぬさきと、沙汰なしにするこそ、よく/\おもしろからずや、京の北むきよりはおとりぬ、三嶋には絶て、遊女の跡までを捜し、女あらたむるは、是ぞ恋の関の戸を越て、武蔵野の恋草の所縁紫を染屋の、平吉かたにつきて、「先吉原の咄し聞たし」新板の紋尽し、「紅葉は三浦の太夫」と、読そめるより色にそまり、「朝の嵐もしらず、散ぬさきに此君を掴め」と、以上六人恋の山入、金竜山を目当に、浅草川の二挺立、駒形堂も跡になして、日本堤にさし懸り、あさぢが原こづか原、名所の野三つあるに付て、三野と申侍り、又山谷とも書り、大門口の茶屋にて、身ぶりを直し、清十郎といへる揚屋に行て、「上方のお客」と申、「御名は先立て承及自然御宿を申事もと、心持は是ぞ」と、襖障子を明れば、八畳敷の小座敷、万新しく、京世之介様御床と、張札して置こそ、かはいらしき、亭主が仕懸、是にかぎらず、盃間鍋吸物椀まで、瞿麦のちらし紋、きのついたる事ぞかし、
「さて太夫は」と尋ければ、「九月十月両月は、去御方、市左衛門方にて、其跡霜月中は、利右衛門方に御入の約束、年忘れ三十日は、是に御けいやく、はや正月も定り、年内に御隙とては、一日もなし、此方に年を御取あそばし、春の事に、なされませい」と申、いづれもあきれて、「其敵は何者じや」ときけば、小判は、木になる物やら、海にある物やら、しらぬ人也、世之介も此度つかひ捨がね千両の光杯では、中々及難し、十月二日、はつの豕の日より話懸て、やう/\其月の廿九日に、清十郎平吉がはたらきにて歎すまし、盗あひと申事に定ぬ、しのべば平吉斗御供にて、暮方より帰姿をみるに、惣鹿子唐織類ひ、帯は胸高にして、身を居てのあし取、また上方とは違ふて、目に立ぬ物かは、近付にも言葉を懸ず、禿も対の着物弐人引つれ、やり手六尺までも、御紋の紅葉、色好の山々、更に動がごとし、是非今宵はと待侘て、夜半の鐘もやるせなく、あはぬ先より恨かぞふるに、人しづまつて、女房乗物入ば、勝手の灯けして、御面影外へは見せず、かゝ州が引わたしのさゝ事過て、はやかぎりある夜とて、床取て、世之介寝させまいらせ、平吉もかせ山といふ女良と、しみ/\〃との枕也、屡しあつて、高雄ぼか/\と来て、「我より先へはねさせじ」と、世之介を引起し、平吉かせ山に、恋のじやまなして呼よせ、皆ふとんの上にあげて、謎懸てとけしなく、「是も面白からず」と、かせ山平吉を、銘々の床にかへし、其後「帯をときて御寝なれ」と、仰られても、おそろしくてとかず、「申、それは私の志し、無に成といふ物じや、初のほどは、ふとんも冷て有しを、よしなき二人をあたゝめさせ候甲斐もなし」と、様子よく帯とかせて、直付に肌をゆるして、「又ちか/\〃にあふ事も希也、御心まかせに」と、初而の床の仕懸、各別世界に、又あるまじき太夫也。
(岩波書店刊『好色一代男全注釈』前田金五郎校注を底本としました)
古今和歌集
古今和歌集(抜粋)
仮名序
和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事・業しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひいだせるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは、歌なり。
この歌、天地の開けはじめりける時より、いで来にけり。(天の浮橋のしたにて、女神男神となりたまへることを言へる歌なり。)然あれども、世に伝はることは、久方の天にしては下照姫に始まり、(下照姫とは、あめわかみこの妻なり。兄の神のかたち、丘谷にうつりてかゞやくをよめるえびす歌なるべし。これらは、文字の数も定まらず、歌のやうにもあらぬことどもなり。)あらがねの地にしては、すさのをの命よりぞおこりける。ちはやぶる神世には、歌の文字も定まらず、すなほにして、言の心わきがたりけらし。人の世となりて、すさのをの命よりぞ、三十文字あまり一文字はよみける。(すさのをの命は、天照大神のこのかみなり。女と住みたまはむとて、出雲の国に宮造りしたまふ時に、その処に八色の雲のたつを見て、よみたまへるなり。や雲立つ出雲八重垣作るその八重垣を。)
かくてぞ、花をめで、鳥をうらやみ、霞をあはれび、露をかなしぶ心・言葉おほく、様々になりける。遠き所もいでたつ足もとより始まりて年月をわたり、高き山も麓の塵土よりなりて天雲たなびくまで生ひのぼれるごとくに、この歌も、かくのごとくなるべし。難波津の歌は帝の御初めなり。(おほさゞきの帝、難波津にて、皇子ときこえける時、東宮をたがひに譲りて、位につきたまはで三年になりにければ、王仁といふ人のいぶかり思ひて、よみてたてまつりける歌なり。「この花」はむめの花をいふなるべし。)安積山の言葉は釆女のたはぶれよりよみて、(葛城王を、陸奥へつかはしたりけるに、国の司事おろそかなりとて、設けなどしたりけれど、すさまじかりければ、釆女なりける女の、かはらけとりてよめるなり。これぞ、おほきみの心とけにける。)この二歌は、歌の父母のやうにてぞ、手習ふ人のはじめにもしける。
そもそも、歌の様六つなり。唐の歌にも、かくぞあるべき。その六種の一つには、そへ歌、おほさゞきの帝をそへたてまつれる歌、
難波津に咲くやこの花、冬ごもり今は春べと、咲くやこの花
と言へるなるべし。
二つには、かぞへ歌、
咲く花に思ひつくみのあぢきなさ、身にいたづきのいるも知らずて
と言へるなるべし。(これは、たゞごとに言ひて物にたとへなどもせぬものなり。この歌、いかに言へるにかあらん。その心えがたし。五つにはたゞごと歌と言へるなん、これにはかなふべき。)
三つには、なずらへ歌、
君に今朝あしたの霜のおきていなば、恋しきごとに消えやわたらん
と言へるなるべし。(これは、物にもなずらへて、それがやうになんあるとやうに言ふなり。この歌、よくかなへりとも見えず。「たらちめの親のかふこのまゆごもり、いぶせくもあるか、妹にあはずて」かやうなるや、これにはかなふべからん。)
四つには、たとへ歌、
わが恋はよむとも尽きじ、荒磯海の浜の真砂はよみ尽すとも
と言へるなるべし。(これは、万の草木鳥けだものにつけて、心を見するなり。この歌は隠れたる所なむなき。されど、はじめのそへ歌と同じやうなれば、すこし様をかへたるなるべし。「須磨のあまの塩やく煙、風をいたみ、思はぬ方にたなびきにけり」、この歌などや、かなふべからん。)
五つには、たゞごと歌、
いつはりのなき世なりせば、いかばかり人の言の葉うれしからまし
といへるなるべし。(これは、事のとゝのほり正しきをいふなり。この歌の心、さらにかなはず。とめ歌とやいふべからん。「山桜、あくまで色を見つるかな、花ちるべくも風ふかぬ世に」)
六つには、いはひ歌。
この殿はむべも富みけり、さきくさの三葉四葉に殿造りせり
と言へるなるべし。(これは、世をほめて神に告ぐるなり。この歌、いはひ歌とは見えずなんある。「春日野に若菜つみつゝ万世をいはふ心は、神ぞ知るらん」、これらや、すこしかなふべからん。おほよそ、むくさにわかれん事は、えあるまじき事にならん。)
今の世の中、色につき、人の心、花になりにけるより、あだなる歌はかなき言のみいでくれば、色好みの家に埋れ木の人知れぬ事となりて、まめなる所には、花すゝきほにいだすべき事にもあらずなりにたり。その初めを思へば、かゝるべくなむあらぬ。いにしへの世々の帝、春の花の朝、秋の月の夜ごとに、さぶらふ人々をめして、事に付けつゝ歌をたてまつらしめたまふ。あるは月を思ふとてしるべきなき闇にたどれる心々を見たまひて、さかい、おろかなりと、知ろしめしけむ。然あるのみにあらず、さゞれ石にたとへ、筑波山にかけて、君をねがひ、喜び身に過ぎ、楽しび心に余り、富士の煙によそへて人を恋ひ、松虫の音に友をしのび、高砂・住江の松も相生ひのやうにおぼえ、男山の昔を思ひいでて、女郎花の一時をくねるにも、歌をいひてぞなぐさめける。また、春の朝に花のちるを見、秋の夕ぐれに木の葉の落つるをきゝ、あるは、年ごとに鏡の影に見ゆる雪と波とを嘆き、草の露、水の泡を見て、我が身をおどろき、あるは、昨日は栄えおごりて、時を失ひ、世にわび、親しかりしもうとくなり、あるは、松山の波をかけ、野中の水をくみ、秋萩の下歯をながめ、暁の鴫の羽がきを数へ、あるは、呉竹のうき節を人に言ひ、吉野川をひきて世の中を恨み来つるに、「今は、富士の山も煙たゝずなり、長柄の橋も造るなり」と聞く人は、歌にのみぞ心をなぐさめける。
いにしへよりかく伝はるうちにも、奈良の御時よりぞ広まりにける。かの御代や、歌の心を知ろしめしたりけむ。かの御時に、正三位柿本人麿なむ、歌の聖なりける。これは、君も人も身をあはせたりといふなるべし。秋の夕べ竜田河に流るゝ紅葉をば、帝の御目には錦と見たまひ、春の朝吉野の山の桜は、人麿が心には雲かとのみなむおぼえける。又、山の辺の赤人といふ人ありけり。歌に、あやしく妙なりけり。人丸は赤人が上に立たむ事かたく、赤人は人麿が下に立たむ事かたくなむありける。(奈良の帝の御歌、「竜田川もみぢ乱れて流るめり、渡らば錦中や絶えなん」。人麿、「むめの花それとも見えず、久方の天ぎる雪のなべて降れれば」「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ」。赤人、「春の野にすみれつみにとこし我ぞ、野をなつかしみ一夜ねにける」「和歌の浦に潮みちくれば、潟をなみ、葦辺をさして鶴鳴きわたる」)この人々をおきて、又、すぐれたる人も、呉竹の世々にきこえ、片糸のよりよりに絶えずぞありける。これよりさきの歌を集めてなむ、万葉集と名づけられたりける。
こゝに、いにしへのことをも歌の心をも知れる人、わづかに一人二人なりき。然あれど、これかれ、得たる所・得ぬ所、たがひになむある。かの御時よりこの方、年は百年あまり、世は十継になん、なりにける。いにしへのことをも歌をも、知れる人よむ人、多からず。今この事を言ふに、官位高き人をば、たやすきやうなれば入れず。そのほかに、近き世にその名きこえたる人は、すなはち、僧正遍照は、歌のさまは得たれども誠すくなし。たとへば、絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。(「浅みどり糸よりかけて、しら露を玉にもぬける春の柳か」「蓮葉の、にごりしまぬ心もて、何かは露を玉とあざむく」「嵯峨野にてむまより落ちてよめる、名にめでて折れるばかりぞ、をみなへし、我おちにきと人に語るな」)
在原業平は、その心あまりて言葉たらず。しぼめる花の、色なくてにほひ残れるがごとし。(「月やあらぬ、春や雪の春ならぬ、我が身一つはもとの身にして」「おほかたは月をもめでじ、これぞこの積れば人の老いとなるもの」「ねぬる夜の夢をはかなみ、まどろめば、いやはかなにもなりまさるかな」)
文屋康秀は、言葉はたくみにて、そのさま身におはず。いはば、商人のよき衣きたらんがごとし。(「吹くからに野べの草木のしをるれば、むべ山嵐をあらしといふらむ」「深草の(春の)御国忌に、草深き霞の谷にかげかくし照る日のくれし今日にやはあらぬ」)
宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。いはば、秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。(「わが庵は都のたつみ、しかぞ住む、世を宇治山とひとはいふなり」)よめる歌多く聞えねば、かれこれを通はしてよく知らず。
小野小町は、いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、強からぬは、女の歌なればなるべし。(「思ひつつぬればや人の見えつらん、夢と知りせばさめざらましを」「色見えで移ろふものは、世の中の人の心の花にぞありける」「わびぬれば身をうき草の根を絶えて、誘うふ水あらばいなんとぞ思ふ」。衣通姫の歌、「わがせこが来べきよひなり、さゝがにのくものふるまひかねてしるしも」)
大伴黒主は、そのさまいやし。いはば、薪負へる山人の、花のかげに休めるがごとし。(「思ひいでて恋しき時は、初雁のなきてわたると、人は知らずや」「鏡山いざたち寄りて見てゆかむ、年へぬる身は老いやしぬると」)
このほかの人々、その名きこゆる、野辺に生ふるかづらのはひ広ごり、林にしげき木の葉のごとくに多かれど、歌とのみ思ひて、そのさま知らぬなるべし。
かゝるに、今、天皇の天下知ろしめすこと、四時こゝのかへりになんなりぬる。あまねき御慈愛の波、八洲のほかまで流れ、ひろき御恵みのかげ、筑波山の麓よりもしげくおはしまして、万の政務をきこしめすいとま、もろもろの事を捨てたまはぬあまりに、「いにしへの事をも忘れじ、古りにし事をも興したまふ」とて、「今もみそなはし、後の世にも伝はれ」とて、延喜五年四月十八日に、大内記紀友則、御書の所の預り紀貫之、前の甲斐の少目凡河内躬恒、右衛門の府生壬生忠岑らに仰せられて、万葉集に入らぬ古き歌、自らのをもたてまつらしめたまひてなん。それが中に、梅をかざすより始めて、ほとゝぎすを聞き、紅葉を折り、雪を見るにいたるまで、又、鶴亀につけて君を思ひ人をも祝ひ、秋萩夏草を見て妻を恋ひ、逢坂山にいたりて手向けを祈り、あるは、春夏秋冬にも入らぬ種々の歌をなん、あらばせたまひける。すべて千歌二十巻、名づけて『古今和歌集』といふ。かく、この度集めえらばれて、山下水の絶えず、浜の真砂の数多く積りぬれば、今は、飛鳥川の瀬になる恨みもきこえず、さゞれ石の巌となる喜びのみぞあるべき。
それ、まくらことは、春の花にほひすくなくして、空しき名のみ秋の夜の長木をかこてれば、かつは人の耳に恐り、かつは歌の心に恥ぢ思へど、たなびく雲のたちゐ、鳴く鹿の起きふしは、貫之らがこの世に同じくむまれて、この事の時にあへるをなむ、喜びぬる。人麿なくなりにたれど、歌のこととゞまれるかな。たとひ、時移り事去り、楽しび哀しびゆきかふとも、この歌の文字あるをや。青柳の糸絶えず、松の葉のちり失せずして、まさきのかづら長く伝はり、鳥のあと久しくとゞまれらば、歌のさまを知り、ことの心を得たらん人は、大空の月を見るがごとくに、いにしへを仰ぎて今を恋ひざらめかも。
古今和歌集巻第一
春歌 上
ふるとしに春たちける日よめる 在原元方
1 年の内に春はきにけり ひととせをこぞとやいはん ことしとやいはん
ふるとしに春たちける 旧年のうちに立春が来た。立春は新年になって来るのが普通だが、時々旧年のうちに来る。
春たちける日よめる 紀貫之
2 袖ひちてむすびし水のこほれるを 春立つけふの風やとくらん
袖ひちてむすびし水 袖がぬれるという状態で、手にすくった水。
題しらず よみ人しらず
3 春霞たてるやいづこ み吉野の吉野の山に雪はふりつゝ
春霞たてるやいづこ 霞が立っているのはどこだ。 雪はふりつゝ 雪がふり、一向に春めいて来ない、という気持。
二条のきさきの春のはじめの御うた
4 雪のうちに春はきにけり 鶯のこほれる涙いまやとくらん
雪のうちに 雪のまだあるうちに。 鶯のこぼれる涙 鶯もなけば涙が出るだろう、その涙が凍っていると想像していう。
題しらず 読人しらず
5 梅がえにきゐる鶯 春かけて鳴けども いまだ雪はふりつゝ
梅がえにきゐる鶯 梅の木の枝に来ている鶯。 春かけて鳴けども 鳴き声に春をかけて、春だ春だと鳴くけれども。
雪の木にふりかゝれるをよめる 素性法師
6 春たてば花とや見らむ 白雪のかゝれる枝にうぐひすの鳴く
花とや見らむ 鶯が枝の雪を花と見ているのだろうか。「見らむ」は「見るらむ」の古い言い方。
雪のふりけるをよめる きのつらゆき
9 霞たちこのめも春の雪ふれば 花なきさとも花ぞちりける
このめも春の雪ふれば 春の雪が降ったところが。霞が立ち木の芽もはる(ふくらむ)ところの春、という気持でいう。
春のはじめのうた みぶのたゞみね
11 春きぬと人はいへども 鶯の鳴かぬかぎりは あらじとぞ思ふ
鶯の鳴かぬかぎりは 鶯が鳴かないうちは。 あらじとぞ思う 違うだろうと思う。鶯の声で、春が来たかどうか決めようとする心。
寛平の御時きさいの宮の歌合のうた 大江千里
14 鶯の谷よりいづるこゑなくは 春くることをたれか知らまし
鶯の谷よりいづるこゑなくは 鶯が谷から出て人里へ来て鳴く声がないなら。 たれか知らまし だれが知るだろうか。知る人はなかろうという気持。
仁和のみかど、親王におましましける時に、人に若菜たまひける御うた
21 きみがため春の野にいでてわかなつむ我が衣手に 雪はふりつゝ
寛平の御時きさいの宮の歌合によめる 源むねゆきの朝臣
24 ときはなる松のみどりも 春くれば 今ひとしほの色まさりけり
ときはなる松のみどりも 一年中色が変わらない松の葉の緑色でも。 今ひとしほの色まさりけり もう一度染汁につけただけの色がこくなったことだ。
歌たてまつれと仰せられし時、よみてたてまつれる つらゆき
25 わがせこが衣はるさめふるごとに 野辺のみどりぞ色まさりける
わがせこが衣はるさめふるごとに わがせこの衣を洗ってはる、という意で言いかけて、春雨を出した。以下は、一雨ごとに野べの草葉の緑がこくなっていくことに気付いた趣きをいう。
26 あをやぎの糸よりかくる春しもぞ みだれて花のほころびにける
あをやぎの糸よりかくる 風にゆれている柳の細い枝を、青柳が糸をよって身にかけていると見た。 みだれて花のほころびにける 花が乱れ咲く意を「ほころぶ」で表したのは、糸はほころびを縫うものとして縁をもたせた。
帰る鴈をよめる 伊勢
31 春霞たつを見すててゆくかりは 花なき里に住みやならへる
春霞たつを見すてて これから美しい花の時節になるのに、それを見ようともしないで帰ってしまう。 住みやならへる 住みなれているのか。
梅の花を折りて人におくりける とものり
38 きみならで誰にか見せん 梅の花 色をも香をも知る人ぞ知る
きみならで誰にか見せん あなた以外に誰に見せようか。あなた以外に見せたい人はいないという意。 知る人ぞ知る あなたこそ、それを知る人なのだ、の意。
渚の院にて桜を見てよめる 在原業平朝臣
53 世の中にたえてさくらのなかりせば 春の心はのどけからまし
たえてさくらのなかりせば 「たえて」は全然。「なかりせばs」に係る。
古今和歌集巻第二
春歌 下
桜の花のちるをよめる きのとものり
84 久方のひかりのどけき春の日に しづ心なく花のちるらむ
うらうらとのどかな春の日の中で散ってゆく花を見て、どうしてこうそわそわと散っているのだろう、と疑っている歌。「など」の語を第四句に補って解す。
ならのみかどの御うた 平城天皇 大同天子
90 故郷と成りにしならの宮こにも 色はかはらず花はさきけり
故郷と成りにしならの宮こ 平安遷都で、旧都となったのでいう。故郷といえば物みな荒廃してゆくという気持がある。
題しらず よみ人しらず
105 鶯のなくのべごとに きて見れば うつろふ花に風ぞ吹きける
うつろふ花に風ぞ吹きける どの野べでも散る花に風が吹いていたわ。鶯はそれで鳴いているのだった、という気持。
106 吹く風をなきてうらみよ 鶯は 我やは花に手だにふれたる
我やは花に手だにふれたる 私が花に手でもふれたか。花の散るのは私のせいではないのだ。
題しらず 小野小町
113 花の色はうつりにけりな いたづらに 我が身世にふるながめせしまに
うつりにけりな あせてしまったことだなあ。いたづらに 賞美されずむなしく、の意で、第二句に係る倒置。 我が身世にふるながめせしまに ながめ(長雨)がしていた間に、の意と、私自身が世に処して行く上でのながめ(物思い)をしていた間に、の意を同時に言う。
志賀の山ごえに女のおほくあへりけるによみてつかはしける つらゆき
115 梓弓春の山辺をこえくれば 道もさりあへず花ぞちりける
梓弓 弓の弦をはる意で言いかけた枕詞。 花ぞちりける 題詞と見合わせると、女をたとえたものと知られる。
寛平の御時きさいの宮の歌合のうた
116 春の野に若菜つまんとこしものを ちりかふ花に道はまどひぬ
こしものを 以前に来たので道はよくわかっているはずなのに、という意。
古今和歌集巻第三
夏歌
題しらず 読人しらず
135 わがやどの池の藤なみさきにけり 山郭公いつかきなかむ
この歌ある人のいはく、かきのもとの人まろがなり
池の藤なみ 池のそばの藤。藤のことを藤波といって、「池」と「さき」とに縁をもたせた。波の立つのを「さく」という。 いつかきなかむ いつ来て鳴くだろうか。早く来て鳴けばいいな。
題しらず 読人しらず
139 さつきまつ花たちばなの香をかげば 昔の人の袖の香ぞする
さつきまつ さつきを自分の季節として待つ意。花たちばなの香をかげば 花たちばなの香に、ふと昔なじみの人の袖の香を感じてはっとしている気持のもの。
140 いつのまにさ月きぬらん あしひきの山郭公今ぞ鳴くなる
いつのまにさ月きぬらん いつのまに五月が来たのだろうと、驚いている気持。 あしひきの 「山」にかかる枕詞。
141 けさ来鳴きいまだ旅なる郭公 花たちばなにやどは借らなん
いまだ旅なる まだ住所が定まっていない意でいう。 花たちばなにやどは借らなん 宿所は、わが家の花たちばなに借りて定着してほしいなあ。
音羽山をこえける時に郭公のなくをきゝて きのとものり
142 音羽山けさこえくれば 郭公こずゑはるかに今ぞ鳴くなる
音羽山 京都から近江に出る道に当たる。 けさこえくれば 今朝越えて来たところが。
題しらず よみ人しらず
145 夏山になくほとゝぎす 心あらば 物思ふわれにこゑな聞かせそ
心あらば 思いやりの心があるなら。 こゑな聞かせそ 声を聞かせてくれるな。いよいよ物思いがそそられるから。
146 郭公なく声きけば 別れにしふるさとさへぞ恋しかりける
別れにしふるさとさへぞ 人の恋しさばかりでなく、ふるさとまでが、という気持。
149 こゑはして涙は見えぬ郭公 わが衣手のひつを借らなん
こゑはして なく声はするくせに。 わが衣手のひつを借らなん 私の袖が涙でぬれているのを、お前の涙として借りてほしいなあ。もっと鳴いてほしい気持。
寛平の御時きさいの宮の歌合のうた 大江千里
155 やどりせし花橘も枯れなくに など郭公こゑたえぬらん
枯れなくに 枯れないのに。 など郭公こゑたえぬらん どうして郭公は声が絶えてしまっているのだろう。
みぶのたゞみね
157 暮るゝかとみればあけぬる夏の夜を あかずとやなく 山郭公
暮るゝかとみればあけぬる夏の夜を 夏の夜の短いようすをいう。 あかずとやなく 夜明け方。
古今和歌集巻第四
秋歌 上
秋立つ日よめる 藤原敏行朝臣
169 秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる
秋立つ日、うへのをのこども、賀茂の河原に川逍遥しけるともにまかりてよめる つらゆき
170 河風のすゞしくもあるか うちよする浪とともにや秋はたつらん
なぬかの日の夜よめる 凡河内みつね
179 年ごとにあふとはすれど 織女の寝るよの数ぞすくなかりける
題しらず よみ人しらず
184 このまよりもりくる月のかげ見れば 心づくしの秋はきにけり
186 わがためにくる秋にしもあらなくに 虫の音きけばまづぞ悲しき
これさだのみこの家の歌合によめる 大江千里
193 月みればちゞにものこそかなしけれ わが身ひとつの秋にはあらねど
人のもとにまかれりける夜、きりぎりすの鳴きけるをきゝてよめる 藤原たゞふさ
196 きりぎりすいたくな鳴きそ 秋の夜のながき思ひはs我ぞまされる
題しらず よみ人しらず
205 ひぐらしの鳴く山ざとの夕ぐれは 風よりほかにとふ人もなし
雁の鳴きけるをきゝてよめる みつね
213 うきことを思ひつらねて かりがねのなきこそわたれ 秋の夜な夜な
これさだのみこの家の歌合のうた よみ人しらず
215 奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿のこゑきく時ぞ 秋はかなしき
朱雀院のをみなへしあはせによみてたてまつりける 左のおほいまうちぎみ
230 女郎花 秋の野風にうちなびき 心ひとつをたれによすらん
古今和歌集巻第五
秋歌 下
石山にまうでける時、音羽山のもみぢを見てよめる つらゆき
256 秋風の吹きにし日より 音羽山 みねのこずゑも色ぢきにけり
題しらず よみ人しらず
286 秋風にあへずちりぬるもみぢばの ゆくへさだめぬ我ぞかなしき
なが月のつごもりの日、大井にてよめる つらゆき
312 夕づくよ小倉の山になく鹿のこゑのうちにや 秋はくるらん
古今和歌集巻第六
冬歌
題しらず よみ人しらず
317 ゆふされば衣手さむし みよしのの吉野の山にみ雪ふるらし
322 わがやどは雪ふるしきて道もなし ふみわけてとふ人しなければ
雪のふりけるを見てよめる 紀とものり
337 雪ふれば木ごとに花ぞさきにける いづれを梅とわきて折らまし
年のはてによめる はるみちのつらき
341 昨日といひけふとくらして あすか皮流れて速き月日なりけり
古今和歌集巻第七
賀歌
題しらず 読人しらず
343 わが君は千世にやちよに さゞれ石の巌となりて苔のむすまで
もとやすのみこの七十の賀のうしろの屏風によみてかきける きのつらゆき
352 春くればやどにまづさく梅の花 きみが千歳のかざしとぞ見る
内侍のかみの、右大将藤原朝臣の四十の賀しける時に、四季のゑかけるうしろの屏風にかきたりけるうた
357 春日野にわかなつみつゝ よろづよをいはふ心は 神ぞ知るらん
358 山たかみくもゐに見ゆる桜花 心の行きて折らぬ日ぞなき
夏
359 めづらしき声ならなくに 郭公 こゝらの年をあかずもあるかな
秋
360 住江のまつを吹くからに こゑうちそふる沖つしらなみ
361 千鳥なく佐保の河ぎり立ちぬらし 山のこのはも色まさりゆく
362 秋くれど色もかはらぬときは山 よそのもみぢを風ぞかしける
冬
363 白雪のふりしく時は み吉野の山した風に花ぞちりける
古今和歌集巻第八
離別歌
題しらず 有原行平朝臣
365 立ち別れいなばの山の峯におふるまつとし聞かば 今かへりこむ
さだとみのみこの家にて、ふぢわらのきよふが近江の介にまかりける時に、むまのはなむけしける夜よめる きのとしさだ
369 けふ別れあすはあふみと思へども 夜やふけぬらん 袖の露けき
音羽の山のほとりにて人をわかるとてよめる つらゆき
384 音羽山こだかくなきて 郭公 きみがわかれををしむべらなり
源のさねが筑紫へ湯あみむとてまかりける時に、山崎にて別れをしみける所にてよめる しろめ
387 いのちだに心にかなふものならば なにか別れのかなしからまし
大江のちふるが越へまかりけるむまのはなむけによめる 藤原かねすけの朝臣
391 きみがゆく越の白山 知らねども ゆきのまにまにあとは尋ねん
古今和歌集巻第九
羇旅歌
唐土にて月を見てよみける 安倍仲麿
406 あまの原ふりさけみれば 春日なるみかさの山にいでし月かも
隠岐の国にながされける時に、舟にのりていでたつとて、京なる人のもとにつかはしける 小野たかむらの朝臣
407 わたの原八十島かけてこぎいでぬと 人にはつげよ あまの釣舟
古今和歌集巻第十
物名
うぐひす 藤原としゆきの朝臣
422 心から花のしづくにそぼちつゝ うぐひずとのみ鳥のなくらん
古今和歌集巻第十一
恋歌 一
題しらず 紀つらゆき
471 吉野川いはなみたかく行く水の はやくぞ人を思ひそめてし
題しらず 詠人しらず
534 人しれぬ思ひをつねにするがなる富士の山こそ わが身なりけれ
古今和歌集巻第十二
恋歌 二
題しらず 小野小町
552 思ひつゝぬればや人の見えつらん 夢と知りせばさめざらましを
553 うたゝねに恋しき人を見てしより ゆめてふ物はたのみそめてき
554 いとせめて恋しき時は むばたまの夜の衣をかへしてぞきる
古今和歌集巻第十三
恋歌 三
やよひのついたちより、忍びに人に物らいてのちに、雨のそぼふりけるによみてつかはしける 在原業平朝臣
616 起きもせで夜をあかしては 春の物とてながめくらしつ
題しらず みぶのたゞみね
625 有明のつれなくみえし別れより 暁ばかりうきものはなし
題しらず つらゆき
633 忍ぶれど恋しき時は あしひきの山より月の いでてこそくれ
古今和歌集巻第十四
恋歌 四
題しらず 伊勢
681 夢にだに見ゆとは見えじ 朝な朝な我が面影にはづる身なれば
題しらず とものり
684 春霞たなびく山の桜花 見れどもあかぬ君にもあるかな
古今和歌集巻第十五
恋歌 五
五条のきさいの宮の西の対にすみける人に、ほいにはあらでもいひわたりけるを、む月の十日あまりになん、ほかへかくれにける。あり所はきゝけれど、えものもいはで又の年の春、むめの花さかりに、月のおもしろかりける夜、こぞを恋ひて、かの西の対にいきて、月のかたぶくまで、あばらなる板敷にふせりてよめる 在原なりひらの朝臣
747 月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身ひとつはもとの身にして
題しらず 藤原かねすけの朝臣
749 よそにのみ聞かましものを 音羽川渡るとなしにみなれそめけん
題しらず をののこまち
782 今はとて わが身時雨にふりぬれば 言の葉さへに移ろひにけり
返し 小野さだき
783 人を思ふ心この葉にあらばこそ 風のまにまにちりもみだれめ
古今和歌集巻第十六
哀傷歌
いもうとの身まかりける時よみける 小野のたかむらの朝臣
829 泣く涙雨とふらなん わたりがは水まさりなば かへりくるがに
堀川のおほきおほいまうちぎみ、身まかりにける時に、深草の山にをさめてける後によみける 僧都勝延
831 空蝉はからを見つゝもなぐさめつ 深草の山けぶりだにたて
かむつけのみねを
832 深草の野辺の桜し心あらば ことしばかりはすみぞめに咲け
古今和歌集巻第十七
雑歌 上
題しらず よみ人しらず
863 わがうへに露ぞおくなる 天の川とわたる舟のかいのしづくか
五節のまひひめを見てよめる よしみねのむねさだ
872 天つ風 雲のかよひぢ吹きとぢよ をとめの姿しばしとゞめん
古今和歌集巻第十八
雑歌 下
題しらず 詠人しらず
933 世の中はなにか常なる あすか川昨日の淵ぞ今日は瀬になる
題しらず よみ人しらず
941 世の中のうきもつらきも 告げなくにまづ知る物は 涙なりけり
942 世の中は夢かうつゝか うつゝとも夢とも知らず ありてなければ
題しらず よみ人しらず
994 風ふけば沖つ白波たつた山 夜半にや君がひとりこゆらん
ある人、この歌は「昔、大和の国なりける人の女に、ある人すみわたりけり。この女、親もなくなりて、家もわるくなり行くあひだに、この男、河内の国に人をあひしりて通ひつゝ、かれようにのみなりゆきけり。さりけれども、つらげなるけしきもみえで、河内へいくごとに、男の心のごとくにしつゝいだしやりければ、あやしと思ひて、もしなきまに、異心もやあるとうたがひて、月のおもしろかりける夜、河内へいくまねにて、前栽のなかにかくれて見ければ、夜ふくるまで、ことをかきならしつゝうちなげきて、この歌をよみてねにければ、これをきゝて、それより、又外へもまからずなりにけり」となん言ひつたへたる。
古今和歌集巻第十九
雑体
短歌
題しらず 読人しらず
1001 あふことの まれなる色に 思ひそめ
我が身は常に 天雲の はるゝときなく 富士の嶺の もえつゝとはに 思へども
あふことかたし なにしかも 人を恨みん
わたつみの 沖をふかめて 思ひてし 思ひは今は いたづらに
なりぬべらなり ゆく水の たゆる時なく
かくなわに 思ひみだれて ふる雪の けなばけぬべく 思へども
閻浮の身なれば なほやまず 思ひはふかし
あしひきの 山した水の 木隠れて たぎつ心を
たれにかも あひ語らはん 色にいでば 人知りぬべみ
すみぞめの 夕べになれば ひとりゐて あはれあはれと 嘆きあまり
せんすべなみに 庭にいでて たちやすらへば
しろたへの 衣のそでに おく露の けなばけぬべく 思へども
なほ嘆かれぬ 春がすみ よそにも人に あはんと思へば
旋頭歌
題しらず よみ人しらず
1007 うちわたす遠方人にもの申すわれ そのそこに白くさけるはなにの花ぞも
返し
1008 春されば野辺にまづさく見れどあかぬ花 まひなしにたゞ名のるべき花の名なれや
誹諧歌
題しらず 読人しらず
1011 むめの花みにこそきつれ 鶯のひとくといひしもをる
そせい法師
1012 山吹の花色衣ぬしやたれ 問へどこたへず くちなしにして
古今和歌集巻第二十
大歌所御歌
大直毘のうた
1069 新しき年の始めに かくそこそ 千歳をかねてたのしきをつめ
ふるき大和毎舞のうた
1070 そもとゆふ葛城山にふる雪の まなく時なく思ほゆるかな
神遊びのうた
とりもののうた
1074 神垣のみむろの山の榊葉は 神のみ前にしげりあひにけり
東歌
陸奥歌
1087 あぶくまに霧たちくもり明けぬとも 君をばやらじ 待てばすべなし
相模歌
1094 こよろぎの磯たちならし磯菜つむめざしぬらすな 沖にをれ 波
常陸歌
1095 筑波嶺のこのもかもに蔭はあれど 君がみかげにます蔭はなし
甲斐歌
1097 甲斐が嶺をさやにも見しが けゝれなく横ほり臥せるさやの中山
伊勢歌
1099 をふの浦に片枝さしおほひなる梨の なりもならずも寝てかたらはん
冬の賀茂のまつりのうた 藤原としゆきの朝臣
1100 ちはやぶる賀茂のやしろの姫小松 万世ふとも色はかはらじ
古今和歌集序 紀淑望
夫和歌者、託其根於心地、発其華於詞林者也。人之在世、不能無為、思慮易遷、哀楽相変。感生於志、詠形於言。是以逸者其声楽、怨者其吟悲。可以述懐、可以発憤。動天地、感鬼神、化人倫、和夫婦、莫宜於和歌。和歌有六義。一曰風、二曰賦、三曰比、四曰興、五曰雅、六曰頌。若夫春鶯之囀花中、秋蝉之吟樹上、雖無曲折、各発歌謡。物皆有之、自然之理也。然而神世七代、時質人淳、情欲無分、和歌未作。逮于素戔烏尊、到出雲国、始有三十一字之詠。今反歌之作也。其後雖天神之孫、海童之女、莫不以和歌通情者。爰及人代、此風大興、長歌短歌旋頭混本之類、雑躰非一、源流漸繁。譬猶払雲之樹、生自寸苗之煙、浮天之波、起於一滴之露。至如難波津之什献天皇、富緒川之篇報太子、或事関神異、或興入幽玄。但見上古歌、多存古質之語、未為耳目之翫、徒為教戒之端。古太子、毎良辰美景、詔侍臣預宴莚者献和歌。君臣之情、由斯可見、賢愚之性、於是相分。所以随民之欲、拓士之才也。自大津皇子之初作詩賦、詞人才子慕風継塵、移彼漢家之字、化我日域之俗、民業一改、和歌漸衰。然猶有先師柿本大夫者、高振神妙之思、独歩古今之間。有山辺赤人者、並和歌仙也。其余業和歌者、綿々不絶。及彼時変澆漓、人貴奢淫、浮詞雲興、艶流泉涌、其実皆落、其華孤栄、至有好色之家、以此為花鳥之使、乞食之客、以此為活計之謀、故半為婦人之右、難進大夫之前。近代、存古風者、纔二三人。然長短不同、論以可弁。華山僧正、夫得歌躰。然其詞華而少実。如図画好女、徒動人情。在原中将之歌、其情有余、其詞不足。如萎花雖少彩色、而有薫香。文琳巧詠物。然其躰近俗。如賈人之着鮮衣。宇治山僧喜撰、其詞華麗、而首尾停滞。如望秋月遇曉雲。小野小町之歌。然艶而無気力。如病婦之着花粉。大友黒主之歌、古猿丸大夫之次也。頗有逸鄙。如田夫之息花前也。此外氏姓流聞者、不可勝数、其大底皆以艶為基、不知和歌之趣者也。俗人争事栄利、不用詠和歌。悲哉々々。雖貴兼相将、富余金銭、而骨未腐於土中、名先滅世上。適為後世被知者、唯和歌之人而已。何者、語近人耳、義憤神明也。昔平城天子、詔侍臣令撰万葉集。自爾来、時歴十代、数過百年。其後、和歌棄不被採。雖風流如野宰相、軽情如在納言、而皆以他才聞、不以斯道顕。陛下御宇于今九載。仁流秋津洲之外、恵茂筑波山之陰。淵変為瀬之声、寂々閇 砂長為巌之頌、洋々満耳。思継既絶之風、欲興久廃之道。爰詔大内記紀友則、御書所預紀貫之、前甲斐少目凡河内躬恒、右衛門府生壬生忠岑等、各献家集并古来旧歌、曰続万葉集。於是重有詔、部類所奉之歌、勒為二十巻、名曰古今和歌集。臣等、詞少春花之艶、名竊秋夜之長。況哉、進恐時俗之嘲、退慙才芸之拙。適遇和歌之中興、以楽吾道之再昌。嗟乎、人丸既没、和歌不在斯哉。于時延喜五年歳次乙丑四月十五日、臣貫之等謹序。
(岩波文庫黄12-1『古今和歌集』を底本としました。)
御当代記
御当代記
戸田茂睡著
(一部)
一
一 二月廿七日、酒井雅楽頭(忠清)跡式十五万石之高之内十三万石子息酒井河内守(忠挙)に被仰付、内二万石次男下野守(忠寛)ニ被下、河内守自分ニ参万石拝領仕候御知行ニ被召上候
酒井雅楽頭事、先祖ハ徳川殿松平の家に成給ひまうけ給ひし次男、松平の家をつゞけ、今御当家の御先祖なり、此うへ酒井の家を以御代々御家老の職に補せらるゝ、其上酒井先雅楽頭は、松平御先祖の御下腹の御子ニ而酒井の家に被下たるとの云伝へあり、此段ハしかとしらず、云伝へハ如此し、しかるに延宝申の年十二月九日、雅楽頭に御役御免と被仰出候、是に依て諸人不審致候ハ、雅楽頭ハ御代々御家老職にて定りたる御役儀といふ事なし、病気の節なれば登城も不仕、心まゝに緩々と養生仕候へなどとも被仰付べき事なるに、是ハ思ひの外なるよし諸人うたがふ
一説にいはく、厳有院(徳川家綱)様御機嫌悪く御本復被成がたき御様躰みへ候に若君もおハしまさず、依之御養子を(の)事をはかるに、当公方様ハ御連枝の御事、誰あってあらそふべき人なく、ひが事と思ふ者もあるまじ、然れども天下を治させ給ふべき御器量なし、此君天下のあるじとならせ給ハヾ諸人困窮仕、悪逆の御事つもり、天下騒動の事もあるべし、しからバ権現様(徳川家康)御精魂をつくされ取しづめられし天下、騒動の事あらば、御先祖御家へ対し不忠不義のわざなり、御子孫ハ何れも同じ御事なれば、天下を治給ふべき御器量を以将軍に守立可申候、徳松様ハ御幼少なれば徳松殿を御養子にと思へども、是ハ厳有院様御ために甥也、同じ御甥とあらば甲府様なるべし、松平摂津守殿ハ千代様の御子なれば是も御甥なれども、甲府殿をさしおきてハなりがたき也、所詮花町天皇(後西天皇)の御子有須川の皇子を御養子と申おろし、しばらく将軍に仰奉り国政を執行、其後有須川殿より尾張の中将(綱誠)殿か摂津守へ天下をゆづらせ申、天下太平にして御代万代のはかり事をなすべき心入の所、厳有院様御気嫌急に御つまり此事難叶、御老中も不合点の衆依有之、館林様を御養子と定る也、此儀必定なれば雅楽頭があやまり御にくミ、尤の事なり、此相談の趣を堀田筑前守一々に館林様へ申上候ニ付、御本丸へ被為入候より筑前守を忠臣とおぼしめし、段々御取立といふ、
又一説、御本丸へ入せ給ひてより雅楽頭様子あしし、是ハ厳有院様御代の時、げには雅楽頭おごり超過仕、諸人下馬将軍といひし程の事なり、さるにより厳有院様御名代として上野へ参詣の時も、上野より帰り候と私宅にて休足致、扨登城し、此段当将軍様兼而御聞被及候にや、上野へ御名代に雅楽頭を被遣候て、御上下をめし、雅楽頭下向を急度御まち被成候所、例之如く私宅へ帰、登城おそし、依之上意に、何とて雅楽頭ハをそく下向するぞと、間をおき両度之御尋なり、御そばの衆此段雅楽頭所へ人をはしらかし告る故、雅楽頭登城せしめて、御名代相勤唯今下向の由申上ると、其段聞召、雅楽頭にハ何とも御言葉なく、御立腹の御声にてかた衣をとるべしと被仰、是ハ上野へ御名代に被遣候に、下向までハ御行義をくつろげられず御座候に、我ままに私宅にて雅楽頭休足仕候て、登城遅々仕との御とがめと聞へし
又慶昌院(桂昌院)様小石川御下屋敷に御座被成候を御城へ御入可被成と、堀田備中守に御普請被仰付出来、御移徒の節御褒美として堀田備中守に御刀を被下、桂昌院の御盃を頂戴仕る、其座過て後、酒井雅楽頭・稲葉美濃守(正則)も桂昌院様へ御目見へ仕候へと被仰付候に付、先規ならば何事にも雅楽頭其次ニ美濃守と段々如此たるべきに、今備中守が跡へ可罷出様無之とや思ひけん、重而御次而之節御目見へ可申上と、其日御目見へ不仕候事
又越後守光長卿の家臣氷見大蔵・荻田主馬両人と小栗美作守相論の事ありて、越後騒動す、依之先年両方対決の上にて、氷見大蔵・荻田主馬御預ケ成、小栗美作守ハ越後へ帰、此段雅楽頭贔屓を以私の裁判のやうに思召、又越後守仕置よろしからざれば、越後を御つぶし可被成との御心得なり、雅楽頭申上るハ、越後の御家ハ結城の秀康卿の御すゑ一伯殿(忠直)の御子にて、公方の御家より御惣領家なり、然れども秀康卿ハ太閤の御養子と御なり、其後結城の家を御継被成候故、御舎兄様と申ながら天下の御譲をうけさせ不給、御三男にて台徳院様(徳川秀忠)将軍にならせられ候、権現様御草創の事も秀康卿の御武勇にて御座候、秀康卿の御子一伯殿御心随意にして御気まゝにてあらき事多く候ゆへ、一伯殿御舎弟方へ御知行を分つかハされ候へバ、御つぶし被成候事いかゞ、其上先規より主人と家老との出入さへ、家老をば御流、主人にハ科を御免被成候例也、まして是ハ家臣と/\との出入にて候へばいかゞと申上る
上意にいはく、然ども越後守ハ大悪人なりとの御意也、雅楽頭又申上る、今の世善人と申ハ御一門様方を始壱人も御座有間敷候と申、上意に、然らば我をも悪人とおもふにやと被仰候、雅楽頭申上、御仕置三年はやく御座候と申、上意に曰、それハ唐の例也、今の世にハあふべからずと大に御立腹の躰なるゆへに、雅楽頭申上る、拙者儀年罷寄、そでもなき事を申上候て上意にさハり申候とて出座仕、雅楽頭上意にそむきむる事ハ、三の諌言申上候ゆへ也、一つハ右越後殿の事、二ハ若君様を西の丸へ被為入候事早く御座候よし、是ハ厳有院様御遺命に、徳松様へハ館林を御城御人とみに進ぜらるゝとの儀ニ候へバ、若君様と御仰被成候事少早く御座候との儀、三にハ御能を自身あそバシ候事を留候事也
酒井雅楽頭が家に権現様被仰置候御軍法其外様々の御書付有、それを被聞召、御城へ上候へとの上意也、雅楽頭申上る、右之御書付ハ誰にもミせ申なと権現様御誓文書御座候まゝ、上意に候とても差上候事難成由申上る、又上意に、それハ他門の事、天下のあるじたる我等にハくるしかるまじ、遣可申との上意也、雅楽頭申上る、何と上意たりといへども指上候事ハ成間敷由申上、子息河内守方へ越候て、右之書付を河内守に渡し、誰人の方より取ニ参候とも相渡し申間敷候、其科により切腹いたし候は、右の御書付を火に焼、水にて呑て腹中におさめて残すべからず、もし是を背たらバ七世までの勘当と申渡し、十二月廿六日下馬前の上屋敷を出て、菅藻(巣鴨)の下屋敷へ引込、夜四ツ時分常のもち鑓をばとゞめ、よの鑓壱本六尺も無紋の物をきせ、供廻りわづかにて忍びたる躰にて菅藻へ参候、
「延宝九辛酉の年五月十九日に酒井雅楽頭忠清於菅藻病死仕事也」
「此だんハ皆雑説にて実正ハしれず候へども書付置申候」
(東洋文庫643『御当代記』を底本としました)
古本説話集
古本説話集
(一部)
赤染衛門事
今は昔、赤染衛門といふ歌よみは、時望といひけるが女、入道殿に候けるが、心ならず匡衡を男にして、いと若き博士にてありけるを、事に触れて、のがひ厭ひ、あらじとしけれど、男はあやにくに心ざし深く成ゆく、殿の御供に、住吉へまいりて、詠みてをこせたる、
- 恋しきに灘波の事もおぼゝえずたれ住吉のまつといひけん
返事、
- 名を聞くに長居しぬべき住吉のまつとはまさる人やいひけむ
逢ふ事の有がたかりければ、思ひわびて、稲荷の神主の許へ通ひなどしけれど、心にも入らざりけり。「杉叢ならば」など詠みたるは、その折の事なるべし。
匡衡、尾張の守などになりにければ、猛になりて、え厭ひも果てず、挙周など生みてければ、幸人といはれけり。尾張へ具して下る道にて、守ひとりごつ、
- 十日の国にいたりてしがな
赤染、
- 宮こ出でて今日九日になりにけり
挙周、望む事有けるに、申文の奥に書きて、鷹司殿へ参らせたる、
- 思へ君頭の雪を払ひつゝ消えぬ先にといそぐ心を
入道殿御覧じて、いみじくあはれがらせ給て、和泉には急ぎなさせ給たりけるとぞ。和泉へ下る道にて、挙周、例ならず大事にて、限りになりたりければ、
- 代はらむと思ふ命は惜しからでさても別れむほどぞ悲しき
- 頼みては久しく成ぬ住吉のまつこのたびのしるし見せなむ
と書きて、住吉に参らせたりけるまゝに、挙周、心地さは/\と止みにけり。その後、めでたき事に、世に言ひのゝしりけり。
師宮通2和泉式部1給事
今は昔、和泉式部がもとに、師宮通はせ給けるころ、久しく音せさせ給はざりけるに、その宮に候ふ童の来たりけるに、御文もなし、帰りまいるに、
- 待たましもかばかりこそはあらましか思ひもかけぬ今日の夕暮
持てまいりて、まいらせたりければ、「まことに久しく成にけり」と心苦しくて、やがておはしましけり。女も、月をながめて端に居たりけり。前栽の露きら/\と置きたるに、「人は草葉の露なれや」とのたまはするさま、優にめでたし。御扇に御文を入れて、「御使の取らでまいりにければ」とて、たまはず。扇をさし出だして取りつ。「今宵は帰りなん。明日、物忌といふなりつれば、なからむもあやしかるべければ」とのたまはすれば、
- 心みに雨も降らなん宿過ぎて空行月の影やとまると
聞こえたれば、「あがこひや」とて、しばし上りて、こまやかに語らひをきて、出でさせ給とて、
- あぢきなく雲居の月にさそはれて影こそ出づれ心やは行
有つる御文を見れば、
- われゆえに月をながむと告げつればまことかと見に出でて来にけり
何事につけても、をかしうおはしますに、あは/\しき物に思はれまいらせたる、心憂くおぼゆと、日記に書きたり。
はじめつ方は、かやうに心ざしもなき様に見えたれど、後には、上を去りたてまつらせ給て、ひたぶるにこの式部を妻にせさせ給たりと見えたり。
保昌に具して、丹後へ下りたるに、「明日狩せむ」とて、者ども集ひたる夜さり、鹿のいたく鳴きたれば、「いで、あはれや。明日死なむずれば、いたく鳴くにこそ」と心憂がりければ、「さ思さば、狩とゞめむ。よからむ歌を詠み給へ」と言はれて、
- ことはりやいかでか鹿の鳴かざらん今宵ばかりの命と思へば
さて、その日の狩はとゞめてけり。
保昌に忘られて侍けるころ、貴船に参りて、御手洗河に螢の跳びけるを見て、
- 物思へば沢の螢もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る
- 奥山にたぎりて落つる滝に玉散るばかり物な思ひそ
この歌、貴船の明神の御返し也。男声にて、耳に聞こえけるとかや。
和泉式部歌事
今は昔、和泉式部が女、小式部の内侍失せにければ、その子どもを見て、式部、
- とゞめ置きて誰をあはれと思ふらん子はまさりけり子はまさるらん
また、書写の聖の許へ、
- 暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月
と詠みてたてまつりければ、御返事に、袈裟をぞつかはしたりける。病つきて失せむとしける日、その袈裟をぞ着たりける。歌の徳に後の世も助かりけむ、いとめでたき事。
清少納言事
今は昔、二月つごもり、風うち吹き、雪うち散るほど、公任の宰相の中将と聞こえけるとき、清少納言は許へ懐紙に書きて、
- 少し春ある心地こそすれ
と有けり。「げに今日のけしきにいとよくあひたるを、いかゞ付くべからむ」と思ひわづらふ。
- 空冴えて花にまがひて散る雪に
と、めでたく書きたり。いみじく褒め給ひけり。俊賢の宰相、「内侍になさばや」とのたまひけるとぞ。
清少納言清水和歌事
今は昔、清少納言、清水に籠りたりけるに、宮より御使さして賜はせたる歌に、
- 山深き入相の鐘の声ごとに今日ぞ日ごろの数は知るらん
また九月九日、月少し山ぎは近くなるほどに、つねまさの少将、高やかに呼びたてて、「これ右大臣殿の御文」とてさし入れたり。香染の紙にて、
- 「みな人の心うつろふながつきのきくに我さえすきぬべきかな
遅し/\」と責めにつかはす。書きつゞくべき方こそなかりしかとぞ。右大臣殿は、粟田口殿の事也。
興福寺建立事
今は昔、山階寺焼けぬ。この寺の仏は、丈六の釈迦仏におはします。昔、鎌足の大臣の、子孫のために造り給て、北山科に堂を建てて、安置し給へり。されば、山階寺とは、所変れども言ふ也。天智天皇の、粟津の宮こに、御門おはします間に、造らるゝ也。その大臣の御子に、不比等の大臣の御時に、今の山階寺の所に、造り移されたる也。三百余歳になりて焼けしなり。それを、当時の御代に造らせ給へる也。
かの御寺の地は、異所よりは、地の体、亀の甲のやうに高ければ、井を堀れども、水出で来ず。されば、春日野より流るゝ水、寺の内に掘り入れて、よろづの房の内へも流し入れつゝ、一寺の人は使ふなり。それに、この御堂の廻廊、中門の北の講堂、西の西金堂、南の南円堂、東の東金堂、食堂、細殿、北室上の階の僧房、西室、東室、中室の、大小房どもの壁塗るに、国々の夫、多く集まりて、水を汲むに、二三町の程なれば、汲みもやらねば、え塗りもやらで、ことの離る程に、夕立の少ししけるに、講堂の西の方に、庭の少し窪みたるに、溜まり水のたゞ少ししたるを、壁塗りの寄りて、その水を汲みつゝ、壁土に混ずとて汲むに、尽きもせず水のあれば、あやしがりて、少しばかりかひ掘りて見に、底より水湧き出づ。希有がりて、方鵜二三尺、深さ一尺余ばかり掘りたれば、まことに出づる水なり。それをそこそばくの壁の料に汲むに、水尽きもせず。さて、その水をもちて、多くの壁を塗れば、遠く汲みしよりは、ことたゞなりになりぬれば、「さるべくて出でくる水也」と、御寺の僧どもも、石畳をして屋を造り覆いて、今に井にてあれば、希有の事にする、その一つ也。
又、供養の日の寅の時に仏渡り給に、空つゝ闇になり曇りて、星も見えねば、「何を標にてか、時をはからはすべきやうもなし」など言ふ程に、風も吹かぬに、御堂の上にあたりて、雲方四五丈ばかり晴れて、七星きら/\と見え給。それをもちて時をはかる。寅二つになりにけり。喜びながら、仏渡り給ぬ。空は星も見せですなはち、もとのやうに暗がりぬ。これ希有の事也。
仏渡り給て、天蓋を釣るに、仏師定朝がいはく、「蓋は大ゐなる物なれば、釣金ども打ち付けん料に、組入の上に、横さまに尺九寸の木の、長さ二丈五尺ならん、三筋渡すべかりけり。思忘れて、兼ねて申さざりけり。いかゞせんずる」、「たゞ今上げば、麻柱結ふべし。また、壁ども所/\毀つべし」、「さらば多くの物ども損じて、今日の供養にしあはすべきにあらず。如何にせん」と、罵り合ひたる程に、大工吉忠、中の間造る長にて、いはく、「中の間の梁の上に、上げすぐして、尺九寸の木の三丈なるをこそ、三筋上げて候へ。「勘当やある」とて、申さざりつる也。それも天蓋釣らん程に当りてや候らん」と言へば、「いみじきことかな」と言ひて、仏師を上にのぼせて、「いかやうにかその木は置かれたる」と見すれば、仏師のぼりて、帰りていはく、「つぶと当りて候ふ。塵ばかりも直すべからず」と言へば、天蓋の釣金ども通してうち釣るに、つゆ筋かいたることなし。これ又希有の事也。
「世の末になりたれども、願はことまことなれば、かくあらたに験はある物也けり。まいて目に見えぬ御功徳、いかばかりならん」と、世の人も仰ぎ拝み奉るなりけり。
西三条殿若君遇2百鬼夜行1事
今は昔、西三条殿の若君、いみじき色好みにておはしましけり。昔の人は、大人び給まで、御元服などもし給はざりけるにこそ。その若君、東の京に思女持ちて、時/\〃おはしけるを、殿、上、「夜歩きし給ふ」とて、いみじく申給ければ、人にも知られで、侍の馬を召して、小舎人童一人許り具して、殿は西の大宮よりは東、三条より北なり、二条へ出でて東ざまへおはしけるに、美福門の前の程に、東の大宮の方より、人二三百人許り、火点して、のゝしりて来。「いかゞせんずる。いづくにか隠れんずる」と若君の給へば、童の申やう、「昼見候つれば、神泉の北の方の御門開きて候つ。それに入りて立たせをはしませ」と言へば、馳せ向かひて、北の方の門に入り給、柱の下に屈まりゐぬ。
火点して過ぐる物ども見給へば、手三つ付きて、足一つ付きたる物あり、目一付きたる者あり。「早く鬼なりけり」と思ふに、物もおぼえずなりぬ。うつぶしてあるに、この鬼ども、「こゝに人けはひこそすれ。搦め候はん」と言へば、もの一人、走りかゝりて来なり。今は若君、「限りぞ」と思ふに、近くも寄らで走り返りぬ。「など搦めぬぞ」と言ふなれば、「え搦め候はぬ也」と言ふ。「など搦めざるべきぞ。たしかに搦めよ」とて、又異鬼をおこす。同じ事、近くも寄らず、走り返りて往ぬ。「いかにぞ、搦めたりや」、「え搦め候はず」と言へば、「いと怪しき事申。いで己れ搦めん」と言ひて、かく掟つる物走り来て、先/\〃よりは近く来て、むげに手かけつべく来ぬ。「今は限り」と思ひてあるひだに、又走り返て往ぬ。「いかにぞ」と問へば、「まことにえ搦め候まじきなりけり」と言ふ。「いかなれば」と人だちたる者言ふ也。「尊勝陀羅尼のおはします也」と言ふ声を聞きて、多く点したる火、一度にうち消つ。東西に走り散る音して失せぬ。中/\その後、頭の毛太りて、恐ろしきこと限りなし。
さ言ひてあるべき事ならねば、我にもあらで、馬に乗りて親の御許へ帰り給て、心地のいみじく悪しかりければ、やをら臥しぬ。御身もいと熱くなりぬ。乳母、「いづくにおはしましたりつるぞ。殿、上の、「かばかり夜歩きせさせ給」とて言ひて、近く寄りて見るに、いと苦しげなれば、「あな、いみじ。にはかに」とて、乳母惑ふ。その折にありつる様を語る。乳母、「希有に候けることかな。あな、あさまし。さなからましかば、いかならん」と言ひて、額に手を当てて泣くこと限りなし。二三日許り温み給たりければ、御祈りどもはじめ、殿、上、騒ぎ給けり。暦を見給ひければ、夜行にてその夜ありけり。「なを、守りは身に具すべきなりけり」と人言ひて、守りを人懸け奉る。今もなを具し奉るべき也。
(岩波書店刊、新日本文学大系42『宇治拾遺物語・古本説話集』を底本としました)
今昔物語集
今昔物語集
巻第十一 本朝附仏法
第一 聖徳太子、此朝にして、始めて仏法を弘めたる語(こと)
今昔、本朝に聖徳太子と申聖御けり。用明天皇と申ける天皇の、始て親王の真人の娘の腹に生せ給へる御子なり。
初め、母夫人、夢に、金色なる僧来て云、「我は世を救誓有。暫く其御胎に宿むと思」と。夫人答て云く、「此、誰が宣へるぞ」と。僧宣はく、「我は救世の菩薩也。家は西に有り」と。夫人の云、「我が胎は垢穢也。何ぞ宿り給はむや」と。僧宣はく、「我垢穢を不厭」と云て、踊口の中に入、と見て夢覚ぬ。其後、喉中に物を含たるが如く思へて、懐妊しぬ。
而る間、用明天皇の兄、敏達天皇の位に即給へる年、正月の一日、夫人宮の内を廻り行て、****の****至る程に、太子生れ給へり。人来て、太子を懐て寝殿に入る。俄に赤黄る光り殿の内を照す。亦、太子の御身馥し事無限し。四月の後、言語勢長り、明る如し年の二月の十五日の朝に、太子掌を合て東に向て、「南無仏」と宣て礼し給ふ。
亦、太子六歳に成給ふ年、百済国より僧来て、経論持渡れり。太子、「此経論を見む」と奏し給ふ。太子奏し給はく、「我、昔、漢の国に有し時、南岳に住して仏の道修行して年積たり。今此国に生、此を見と思ふ」と。天皇許し給ふ。然れば、太子香を焼、経論を開見給て後、奏し給はく、「月の八日・十四日・十五日・二十三日・二十九日・三十日を、此を六斎の日と云。此の日には、梵天・帝釈、閻浮提の政を見給ふ。然れば、国の内殺生可止し」と。天皇此れを聞給て、天下宣旨を下、此の日殺生を止給ふ。
亦、太子八歳に成給ふ年冬、新羅国より仏像を渡し奉る。太子奏し給はく、「此、西国の聖き釈迦如来の像也」と。亦、百済国より日羅と****衣着て下童部の中に交はり、灘波の****舎奉る。太子驚き逃給ふ時、日羅跪て掌を合て、太子に向て云く、「敬礼救世観世音 伝灯東方粟散王」と申す間、日羅身より光を放つ。其の時に、太子亦眉の間より光を放給ふ事、日の光の如く也。亦、百済国より弥勒の石像を渡し奉たり。其時に、大臣蘇我の馬子の宿禰と云人、此の来れる使を受て、家の東に寺を造り、此を居へて養ふ。大臣此寺に塔を起むと為るに、太子の宣はく、「塔を起てば、必ず仏の舎利を籠め奉るなり」。舎利一粒を得、即ち瑠璃の壺に入て塔に安置して、礼奉る。惣て太子、此大臣と心一にして、三宝を弘。
此の時に、国の内に病発て死る人多かり。其時に、大連物部弓削の守屋・中臣の勝海の王と云ふ二人有て、奏て云く、「我国、本より神をのみ貴び崇む。然るに、近来、蘇我大臣仏法と云物を発て行ふ。是に依て、国の内に病発て民皆可死し。然れば、仏法を被止てのみなむ人の命可残き」と。此に依て、天皇詔して宣、「申す所明けし。早く仏法を可断し」と。亦、太子奏し給く、「此二の人未だ因果を不悟。吉き事****福忽に至る。悪事を政てば過必来る。此二の人必ず過に会なむとす」と。然と云へ共、天皇、守屋の大連を寺に遣て、堂塔を破り仏経を焼しむ。焼残せる仏をば灘波の堀江に棄てつ。三人の尼をば責打て追出しつ。
此の日、雲無くして大風吹き雨降る。其時に、太子、「今禍発ぬ」と。其後に、世に瘡の病発て、病痛む事焼割くが如し。然れば、此の二の人悔ひ悲て奏して云く、「此の病ひ苦痛き事難堪し。願くは三宝に祈らむと思ふ」。其時に、勅有て、三人の尼を召て、二人を令祈む。亦、改めて寺塔を造り仏法を崇むる事、本の如く也。
然る間、太子の御父用明天皇、位に即給ひぬ。詔して、「我れ三宝を帰依せむ」と。蘇我の大臣勅を奏奉して、僧を召して、初めて内裏に入れつ。太子喜び給て、大臣の手を取て涙を流して宣はく、「三宝の妙なる事、人更に不知。只大臣独り我れに心寄たり。悦ばしき事無限し」と。
而る間、人有て、窃に守屋の大連に告て云く、「太子、蘇我***」。守屋、阿都家に籠居て、軍を****助むず。亦、此二人の、天皇を呪ひ奉ると云ふ事聞えて、蘇我の大臣、太子に申して、共に軍を引将て守屋を罰むと為る。守屋軍を発て城を固めて禦き戦ふ。其軍強く盛にして、御方の軍怖惶三度び退き返る。其時に、太子の御年十六歳也。軍の後に打立て、軍の政人、秦の川勝に示して宣はく、「汝ぢ忽に木を取て四天王の像に刻て、髪の上に指し、鉾の崎に捧て」。願を発て宣はく、「我等を此の戦に令勝給たらば、当に四天王の像を顕し奉り、寺塔起む」と。蘇我の大臣も亦如此の願を発て戦ふ間に、守屋の大連、大なる櫟の木に登て、誓て物部の氏の大神に祈請て箭を放。其の箭、太子の鐙に当て落ぬ。太子、舎人迹見の赤榑に仰て、四天王に祈て箭を令放む。其箭遠く行て、守屋が胸に当て、逆さまに木より落ぬ。然れば、其軍壊ぬれば、御方の軍弥よ責寄て、守屋が頭を斬つ。其後、家の内の財をば皆寺の物と成して、荘園をば悉く寺の領と成し、忽に玉造の岸の上に、始て四天王寺を造給ひつ。
亦、太子の伯父崇峻天王の、位に即給て、世の政を皆太子に付奉り給ふ。其時に、百済国の使、阿佐と云ふ皇子来れり。太子を拝して申さく、「敬礼救世大悲観世音菩薩 妙教々流通東方日国 四十九歳伝灯演説」とぞ申しける。其間、太子の眉の間より白き光を放給ふ。
亦、太子、甲斐の国より奉れる黒き小馬の四の足白き有り、其れに乗て空に昇て、雲に入て東を指て去給ぬ。使丸と云ふ者、御馬の右に副て同く昇ぬ。諸の人是を見て、空を仰て見皇(元字は口篇)る事無限し。太子信濃の国に至給て、御輿の堺を廻て、三日を経て還給へり。
亦、太子の御姑推古天皇、位に即給ぬ。世の政を偏に太子に任せ奉り給ふ。太子、天皇の御前もして、袈裟を着、主尾を取て、高座に登て勝鬘経を講じ給ふ。諸の名僧有て、義を問ふに、説き答ふる事妙也。三日講じて畢給ふ夜、天より蓮華雨れり。花の広さ三尺、地の上三四寸満てり。明る朝に、此の由を奏す。天皇此を見給ふに、大に奇み貴み給事無限し。忽に其の地に寺を起てつ。今の橘寺是也。其蓮花于今彼の寺に有り。
亦、太子、小野の妹子と云ふ人を使として、前身に大隋の衡山と云つ****妹子に教て宣ふ、「赤県の南に衡山有り。其の****我が使と名乗て、其所に我住せし時に持せし法華経の合せて一巻なる御すらむ、請て可持来し」と。妹子、教の如く彼の国に行て、其所に至る。門に一人沙弥有り。妹子を見、其の言を聞て、返入て、「思禅法師の御使、此に来れり」と告れば、老たる三人の杖を槌て出来て、喜て、妹子に教て経を取せつ。妹子経を得て、持来て、喜て、妹子に教て経を取せつ。妹子経を得て、持来て太子に奉る。
亦、太子、鵤の宮の寝殿の傍に屋を造て、夢殿と名付て、一日に三度沐浴して入給ふ。明る朝に出給て、閻浮提の善悪の事を語り給ふ。亦、其の内にして諸の経の疏を作り給ふ。
或時に、七日七夜不出給。戸を閉て、音をも不聞ず。諸の人此を怪む。其時に、高麗の恵茲法師と云ふ人の云く、「太子は是れ三昧定に入り給へる也。驚かし奉る事無かれ」。八日と云朝に出給へり。傍に玉の机の上一巻の経有り。太子、恵慈語て宣く、「我が前身に衡山有りし時に持奉りし経、是也。去し年妹子が持来れりし経は、我が弟子の経也。三人の老僧の我が納し所を不知して、異経を遺たりしかば、我が魂遣て取たる也」と。其経と見合するに、此には無き文字一つ有り。此の経も一巻に書けり。黄紙****の軸也。亦、百済国より道欣よ云ふ僧等十人来て、太子に仕る。「前の世に衡山にして法花経説給ひける時、我等廬岳の道士として、時々参つゝ聞しは我等也」と申す。
次年、妹子亦唐に渡て、衡山に行たりけるに、前に有し三人の老僧、二人は死にけり。今一人残て語て云く、「去し年の秋、汝が国の太子、青竜の車に乗て五百人を随て、東の方より空を踏て来、古き室の内に詠める一巻の経を取て、雲を去給ひにき」と云を聞にぞ、太子の夢殿に入て七日七夜不出給りしは然也けり、と知る。
亦、太子の御**柏手の氏、傍候時に、太子宣はく、「汝ぢ、我に随て、年来一事を不違りつ。此れ幸也。我が死なむ日は穴を同くして共に可埋し」と。妃の云く、「万歳千秋の間、朝暮に仕らむとこそ思給つるに、何に今日、終の事をば示し給ふぞ」と。太子の宣はく、「初め有る者必終有り。生ずるは死す。此れ人の常の道也。我れ、昔し、多の身を受て仏の道を勤行しき。僅に小国の太子として、妙なる義を弘め、法無き所に一乗の理を説****此を聞て、涙を流して、此の旨を承はる。
亦、太子****辺、飢たる人臥せり。乗給へる黒の少馬不歩して留る。太子馬より下て、此の飢人と談ひ給、紫の御衣を脱て覆給て、歌を給ふ、
- 志太弖留耶 加太乎加耶末爾 伊比爾宇恵弖 布世留太比々度 阿和連於耶那志
其時に、飢人頭を持上て、返歌を奉、
- 伊加留加耶 度美乃乎加波乃 太衣波古曾 和加乎保岐美乃 美奈波和須礼女
太子宮に返給て後に、此の人死けり。太子悲び給て、此を令葬給つ。其時の大臣等、此の事を不受して謗る人、七人有り。太子此七人を**宣はく、「彼片岡山に行て見よ」と。然れば、行て見るに、屍無し。棺の内甚だ馥ばし。是を見て、皆驚き怪ぶ。
然る間、太子、鵤宮に御坐て、妃に語ひ給ふ。「我れ今夜世を去なむとす」と宣て、沐浴し洗頭し給て、浄き衣を着て、妃と床を并て臥給ぬ。明る朝に久く不起給。人々怪むで、大殿の戸を開て見るに、妃と共に隠れ給ひにけり。其の皃生給へりし如し。香殊に馥ばし。年四十九也。
其終り給ふ日、黒小馬嘶き呼て、水草を不飲食して死。其骸をば埋つ。亦、太子隠れ給ふ日、衡山より持亘給へりし一巻の経**に失。定て亦具し奉り給へるなるべし。今の世に有は、前に妹子が持亘れりし経也。新羅より渡り給へりし釈迦の像は、今に興福寺の東金堂に在ます。百済国より渡り給へりし弥勒の石像は、今、古京の元興寺の東に在す。太子の作り給へる自筆の法華経の疏は、今、鵤寺に有り。亦、太子御物の具等、其寺に有り。多の年を積めりと云へども、損ずる事無し。
亦、太子に三の名在す。一は厩戸の皇子、厩の戸辺にして生れ給へばと也。二は八耳の皇子、数人の一度に申す事善く聞て、一言も不漏裁り給へれば也。三は聖徳太子、教を弘め人を度し給へれば也。亦、上宮太子と申す。推古天皇の御代に、太子を王宮の南に令住て国政を任せ奉りしに依て也。
此の朝に仏法の伝はる事は、太子の御世より弘め給へる也。不然は、誰かは仏法名字をも聞かむ。心有らむ人は必報じ可奉しとなむ語り伝へたると也。
第三 役の優婆塞、呪を誦持して、鬼神を駆へる語
今昔、本朝****天皇の御代に、役の優婆塞と申す聖人御けり。大和国、葛上の郡、茅原の村の人也。俗姓は賀茂役の氏也。年来葛木の山に住て、藤の皮を以て着物とし、松の葉を食物として、四十余年、彼の山の中の窟居給へり。清き泉を浴て心の垢を洗ひ浄めて、孔雀明王の呪を誦す。或時には五色の雲に乗て仙人の洞に通ふ。夜は諸の鬼神を召駆て水を汲せ薪を拾はす。然れば、此の優婆塞に不随る者無し。
而に、金峰山の蔵王菩薩は、此の優婆塞の行出し奉り給へる也。然れば、常に葛木の山とに通てぞ御けり。是に依て、優婆塞、諸の鬼神を召集めて仰せて云く、「我れ葛木の山より金峰の山に参る****道と為む」と。諸の鬼神此の事を承て****侘む事無限し。然れども、優婆塞の責難遁きに依て、鬼神等多の大なる石を運び集めて、造り調て、既に橋を亘し始む。而に、鬼神等優婆塞に申して云く、「我等形ち極て見苦し。然れば、夜々隠れて此の橋を造り渡さむ」と云て、夜々急ぎ造るを、優婆塞、葛木の一言主の神を召て云く、「汝ぢ何の恥の有れば形をば可隠きぞ。然らば、凡そ不可造渡」と云て、嗔て、呪を以て神を縛て、谷の底に置つ。
其後、一言主の神、宮城人に付て云く、「役の優婆塞は既に謀を成して国を傾けむと為る也」と。天皇此事を聞給て、驚て、官使を遣て優婆塞を令捕め給ふに、空に飛び上て不被捕。然れば、官使優婆塞の母を捕つ。優婆塞、母の被捕ぬるを見て、母に替らむが為に、心に態と出来て被捕ぬ。天皇罪を勘て、優婆塞を伊豆の国の島に流し遣つ。優婆塞其の所に御て、海の上を浮て走る事陸に遊ぶが如く也。山の峰に居たり。夜は駿河の国、富士の峰に行て行ふ。願ふ所は此の罪の被免むと祈る。三年を経て、公、優婆塞罪無き由を聞し食して、被召上(以下欠)
巻第十四 本朝附仏法
第七 修行の僧、越中の立山に至りて小き女に会ひたる語(こと)
今昔、越中の国、***の郡に立山と云ふ所有り。昔より彼の山に地獄有と云ひ伝へたり。其の所の様は、原の遥に広き野山也。其の谷に百千の出湯有り。深き穴の中より涌出づ。巌を以て穴を覆へるに、湯荒く涌て巌の辺より涌出づるに、大なる巌動く。熱気満て、人近付き見るに窮て恐し。亦、其の原の奥の方に大なる火の柱有り。常に焼けて燃ゆ。亦、其の所に大なる峰有り。帝釈の嶽と名付たり。「此れ天帝釈・冥官の集会し給て、衆生の善悪の業を勘へ定むる所也」と云へり。其の地獄の原の谷に大る滝有り。高さ十余丈也。此れを勝妙の滝と名付たり。白き布を張るに似たり。而るに、昔より伝へ云ふ様、「日本国の人、罪を造て、多く此の立山の地獄に堕つ」と云へり。
其れに、三井寺に有ける僧、仏道を修行するが故に、所々の霊験所に詣でゝ難行苦行するに、彼の越中の立山に詣でゝ地獄の原に行て廻り見けるに、山の中に一人の女有り。年若くして未だ二十に不満ぬ程也。僧女を見て恐ぢ怖れて、「若し此れ鬼神か。人無山中に此の女出来れり」と思て逃むと為るに、女僧を呼て云く、「我れ鬼神に非ず。更に不可恐ず。只可申き事の有る也」と。其の時に、僧立ち留て聞くに、女の云く、「我れは此、近江の国、蒲生の郡に有し人也。只仏の直を以て世を渡りき。我れ生たりし時、仏の直を以て衣食とせし故に、死て此の小地獄に堕て難堪き苦を受く。汝ぢ慈の心を以て、此の事を我が父母に伝へ告けよ。「我が為に法花経を書写供養し奉て、我が苦を救へ」と。此の事を申さむが為に、我れ出来れる也」と。
僧の云く、「君、地獄に堕て苦を受くと云ふに、如此く心に任せて出来る事、何に」と。女の云く、「今日は十八日、観音の御縁日也。我れ生たりし時、観音に仕らむと思ひ、亦、観音経を読奉らむと思ひき。然か思ひきと云へども、今々と思ひし程に、其の事を不遂ずして死にき。然れども、十八日に只一度精進して観音を念じ奉たりし故に、毎月の十八日に観音此の地獄に来給て、一日一夜我に代て苦を受け給ふ也。其の間、我地獄を出でゝ息み遊ぶ。然れば、我れ此く来れる也」と云て後、掻消つ様に失ぬ。
僧此れを奇異に恐しく思て、立山を出でゝ、此の事の実否を尋むが為に、彼の近江の国、蒲生の郡に行て尋ぬるに、父母有り。僧女人の云ひし事を不落ず語る。父母此れを聞て、涙を流して泣き悲む事無限し。僧は此の事を告つれば返去ぬ。父母忽に女子の為に法花経を書写供養し奉りつ。
其の後、父の夢に、彼の女子微妙の衣服を着て、掌を合せて、父に申く、「我れ威力・観音の御助に依て、立山の地獄を出でゝ刀(元字はりっしんべん)利天(とうりてん)に生れぬ」とぞ告けゝる。父母喜び悲む事無限し。而る間、亦、彼の僧の夢にも如此く見けり。僧此の事を告むが為に、父母の家に行て夢の事を語るに、父亦我が見る所の夢を語に、其の夢亦同くして違ふ事無し。
僧此れを聞て、貴びて返て、世に語り伝へたる也。其れを聞き継て語り伝へたるとや。
第八 越中の国の書生(しょしょう)の妻、死して立山の地獄に堕ちたる語
今昔、越中の国に書生有けり。其の男子三人有り。書生朝暮国府に有り。而る間、書生が妻俄に身に病を受て、日来煩て死ぬ。夫并に子共泣き悲むで、没後を訪ふ。葬家に僧共数籠て、七々日の間思ひの如く仏事を修す。
而るに、七々日畢て後、思ひ歎き恋ひ悲ぶ事、忘れ草も不生ずもや有けむ、「我が母何なる所に生を替へたりとも相ひ見ばや」など云ひ合へる程に、其の国に立山と云ふ所有り。極て貴く深き山也。道嶮くしてたやすく人難参し。其の中に種々に地獄の出湯有て、現に難堪気なる事共見ゆ。而る間、書生が子共三人語ひ合せて云く、「我等此く母を恋ひ悲むと云へども、其の心不息ず。去来彼の立山に詣で地獄の燃らむを見て、我が母の事をも押し量て思ひ観ぜむ」と云て、皆詣にけり。貴き聖人の僧を具したり。
地獄毎に行て見るに、実に難堪気なる事共無限し。燃え焦れて有り。其の地獄の有様は、湯の涌き返る焔、遠くて見るにそら我が身に懸る心地して、暑く難堪し。何況や煮ゆらむ人の苦び、思遣るに哀れに悲くて、僧を以て錫杖供養せさせ法花経講ぜさせなど為る程、地獄の焔宜く見ゆ。如此く地獄十許を廻て見るに、中に極て勝れて難堪気なる地獄に至て、前の如く経を講じ錫杖振など為す程は、焔し少し宜く成る様に見ゆ。其の程に、体は不見ず、巌の迫に、我が明け暮れ恋ひ悲む母音にて太郎を呼ぶ。此れを聞て、不思懸ず奇異に思て、僻耳ならむと思へば、暫く不答ず。頻に同音にして呼ぶ。恐れを成し乍ら、「此は何なる人の呼ぞ」と云へば、巌迫(いわおのはざま)の音答て云く、「何に此くは云ふぞ」と、「我が母の音不聞知ぬ人や有る。我れ前生罪を造り、人に物を不与ずして、今此の地獄に堕て苦を受る事量無し。昼夜に息む時無し」と。子共此れを聞て奇異に思ふ。夢なむどに示すは常の事也。現に此く告る事を、世に不聞えぬ事也と云へども、生しく母の音にて有れば可疑きに非ず。然れば、子共の云く、「何なる善根を修してか、此の苦をば遁れ可給き」と。
巌迫の音の云く、「罪み深くしてたやすく此の苦を難免し。広大の善根に於ては、汝等身貧して力不堪ずして、修せむに不能じ。然れば、多の劫を経と云ふとも、此の地獄を離るゝ事不有じ」と。子共の云く、「而るにても、何許の善を修してか遁れ可給き」と。巌迫の音の云く、「一日に法花経千部を書写供養したらむのみぞ此の苦は可遁き」と云ふに、子共の思はく、「一日法花経一部を書写供養するそら堪へ有る人の事也。何況や十部にも非ず百部にも非ず、千部までは可思懸き事にも非ず。然れども、現に母の苦を受けむを見て、家に返て安らかに有らむ事は。只我れも地獄に入て母の苦に代らむ」と云ふに、亦、人有て云く、「祖の苦に子の代て罪を蒙る事は、此の世の事にこそ有れ。冥途には各業依て罪を受くれば、代らむと思と云とも其事不能じ。只家に返て、力の堪へに随て、一部も法花経を書写供養し奉らば、少しにても苦は怠りなむ」と云泣々く家に返て、此の事を父の書生に語る。書生此れを聞て云く、「実にも哀に悲き事にこそ有なれども、法花経千部までは力不及ず。只志しの至る程、力の堪に随て可書き也」と云て、先づ三百部許を思ひ企つ。
而る間、国の司***云人に、人有て此の事を語る。国の司此を聞て、道心有る人にて、其の書生を召て面に問に、書生委く申す。国の司此を聞て、慈の心を発して、「我れ其の事同じ意心に思ひ立む」と云て、隣の国々、能登・加賀・越前などに縁々に触れて勧む。国司心を合て営む間、遂に千部の法花経を書写して、一日の法会を儲て供養しつ。
其後、子共の心息まりて、「我が母今は地獄の苦免かれたらむ」と思ふ程、其の後、太郎が夢に、母は微妙の衣服を着て来て告て云く、「我れ此の功徳に依て、地獄を離れて刀利天に生ぬ」と云て、空に昇ぬ、と見て夢め覚ぬ。其の後、此の夢の告を普く人に語て、喜び貴びけり。後に、子共立山に行て、前の如く地獄を廻り見るに、其の度は巌迫の音無かりけり。其の立山の地獄于今有なり。
此の事***比、比叡の山に年八十許なる老僧の有けるが、若かりし時越後の国に下だりしに、「我れも、其の時に越中の国に超て、其の経は書き」と語ける也。*比まで六十余年に成たる事なるべし。
実に此れ希の事也。地獄に堕て、夢の告に非して現に言を以て告る事、未だ不聞及ざる事となむ語り伝へたるとや。
第四十 弘法大師、修円僧都と挑める語
今昔、嵯峨の天皇の御代に、弘法大師と申す人御けり。僧都の位にして、天皇の護持僧にてなむ御ける。亦、山階寺の修円僧都と云ふ人在けり。其れも同く護持僧にて、共に候ひ給ぬる。此の二人の僧都、共に止事無き人にて、天皇分き思食す事無かりけり。而るに、弘法大師は唐に渡て、正しく真言教を受伝て弘め行ひ給けり。修円僧都は心広くして、密教を深く悟て行法を修す。
而る間、修円僧都、天皇の御前に候ふ間、大なる生栗有り。天皇、「此れ令煮て持て参れ」と仰せ給へば、人取て行くを見て、僧都の云く、「人間の火を以て不煮ずと云ふとも、法の力を以て煮候なむかし」と。天皇此れを聞給て、「極て貴き事也。速に可煮し」とて、塗たる物の蓋に栗を入れて、僧都の前に置つ。僧都、「然れば、試に煮候はむ」とて、被加持るに、糸吉く被煮れたり。天皇此れを御覧じて、無限く貴むで、即ち聞し食すに、其の味ひ他に異也。如此く為る事、度々に成ぬ。
其の後、大師参給へるに、天皇の此の事を語らせ給て、貴ばせ給ふ事無限し。大師此を聞て申し給ふ様、「此の事実に貴し。而るに、己れ候はむ時に、彼を召て令煮め可給し。己れは隠れて試み候はむ」とて隠れ居ぬ。其の後、僧都を召て、例の如く栗を召て令煮給へば、僧都前に置て加持するに、此の度は不被煮ず。僧都力を出して返々す加持すと云へども、前の如く被煮るゝ事と無し。其の時に、僧都奇異の思を成して、「此は何なる事ぞ」と思ふ程に、大師喬より
出給へり。僧都此を見て、「然は、此の人の抑へける故也」と知て、嫉妬の心忽に発て立ぬ。其の後、二人の僧都極て中悪く成て、互に「死〃ね」と呪詛しけり。此の祈は互に止めてむとてなむ延べつゝ行ひける。
其の時に、弘法大師謀を成て、弟子共を市に遣て、「葬送の物具共を買ふ也」と云せむとて令買む。「空海僧都は早く失給へる。葬送の物の具共買ふ也」と教へて令云む。修円僧都の弟子共此を聞て、喜て走り行て、師の僧都に此の由を告ぐ。僧都此れを聞て、喜て、「慥に聞つや」と問に、弟子、「慥に承はりて告申す也」と答ふ。僧都、「此れ他に非ず、我が呪詛しつる祈の叶ぬる也」と思て、其の祈の法を結願しつ。
其の時に、弘法大師人を以て窃に修円僧都の許に、「其の祈の法の結願しつや」と問はす。使返着て云く、「僧都、「我が呪詛しつる験の叶ひぬる也」とて、修円は喜て、今朝結願し候にけり」と。其時に、大師切りに切て其の祈の法を行ひ給ひければ、修円僧都俄に失にけり。
其の後、大師心に思はく、「我れ此れを呪詛し殺しつ。今は心安し。但し、年来我に挑み競て、勝るゝ時も有りつ劣る時も有て年来を過つるは、此れ必ず只人には非じ。我れ此れを知らむ」と思て、後朝の法を行ひ給ふに、大檀の上に軍荼利明王、踏*て立給へり。其の時に、大師、「然ればこそ、此れは只人に非ぬ者也けり」と云て、止ぬ。
然れを思ふに、菩薩の此る事を行ひ給ふは、行く前の人の悪行を止どめむが為也となむ語り伝へたるとや。
第四十二 尊勝陀羅尼の験力に依りて、鬼の難を遁れたる語
今昔、延喜の御代に、西三条の右大臣と申す人御けり。御名をば良相とぞ云ける。其の大臣の御子に、大納言の左大将にて常行と云ふ人御けり。其の大将未だ童にて、勢長の時まで、冠をも不着ずしてぞ御ける。其の人の形美麗して、心に色を好て、女を愛念する事並無かりけり。然れば、夜に成れば家を出て東西に行くを以て業とす。
而る間、大臣の家の西の大宮よりは東、三条よりは北、此れを西三条と云ふ。其れに、此の若君み、東の京に愛念する女有ければ、常に行きけるを、父母夜行を恐て強に制し給ひければ、窃に、人にも不令知ずして、侍の馬を召て、小舎人童・馬の舎人許を具して、大宮登りに出でゝ東ざまに行きけるに、美福門の前の程を行くに、東の大宮の方より多の人、火を燃して惶(元字は口篇)て来。若君此れを見て云く、「彼れ何人の来るならむ。何にか可隠き」と。小舎人童の云く、「昼る見候つれば、神泉の北の門こそ開て候ひつれ。其れに入て、戸を閉て、暫く御まして令過め給へ」と。若君喜て馳て、神泉の北の門の開たるに打入て、馬より下て柱の本に曲り居ぬ。
其の時に、火燃たる者共過ぐ。「何者ぞ」と戸を細そ目に開て見れば、早う、人には非で鬼共也けり。様々の怖し気なる形也。此れを見て、「鬼也けり」と思ふに、肝迷ひ心砕て、更に物の不思ず。目も暮て***臥たるに、聞けば、鬼共過ぐとて云なる様、「此に気はひこそすれ。彼れ絡め候はむ」と云て、者一人走り係て来なり。「我が身、今は限りぞ」と思ふに、近くも不寄来ずして走り返ぬなり。亦音有て、「何ぞ不搦ざる」と云へば、此の来つる者の云く、「否不搦ざるぞ。慥に搦めよ」と行へば、亦他の鬼走り来る。亦前の如く近くも不寄来ずして走り返ぬ。「何ぞ。搦たりや」と云ふに、「尚、不搦得ざる也」と云へば、「怪き事を申すかな。我れ搦めむ」と云て、此く俸つる者走り係て来るに、始よりは近く来て、既に手係く許り来ぬ。「今ぞ限り也ける」と思ふ間に、亦走り返ぬ。「何に」と問ふなれば、「実に不搦得ざる、理也けり」と云へば、亦、「何なれば然るぞ」と問ふなれば、「尊勝真言の御ます也けり」と云ふに、其の音を聞て、多く燃たる火を一度に打消つ、東西に走り散る音して失ぬ。中々、其の後、頭の毛太りて物不思えず。
然れども、此くて可有き事に非ねば、我れにも非で馬に乗て、西三条に返ぬ。曹司に行て、心地極て悪しければ、弱ら臥ぬ。身に暑く成たり。乳母、「何くに行き給つるぞ」と、「殿・御前の此く許令申め給ふに、「夜深く行かせ給ふ」と聞かせ給はゞ、何に申させ給はむ」など云て、近く寄て見るに、極て苦し気なれば、「何ぞ苦し気には御ますぞ」と云て、身を掻き捜れば、極て暑し。然れば、乳母、「此は御ますぞ」と云て、迷よふ。其の時に、若君有つる様を語り給ければ、乳母、「奇異かりける事かな。去年、己れが兄弟の阿闍梨に云て、尊勝陀羅尼を令書て、御衣の頸に入れしが、此く貴かりける事。若し不然ましかば、何ならまし」と云て、若君の額に手を当てゝ泣く事無限し。此くて三四日許暑して、様々の祈共被始れて、父母も囂ぎ給ひけり。三四日許有てぞ、心地直たりける。其の時に、暦を見ければ、其の夜、忌夜行日に当たりけり。
此を思ふに、尊勝陀羅尼の霊験極て貴し。然れば、人の身に必ず可副奉き也けり。若君も其の尊勝陀羅尼衣の頸に有りと云ふ事不知給ざりけり。
其の比、此の事を聞き及ぶ人、皆尊勝陀羅尼を書て守にしてなむ具し奉けりとなむ語り伝へたるとや。
巻第二十 本朝附仏法
第一 天竺の天狗、海の水の音を聞きて此の朝に渡れる語
今昔、天竺に天狗有けり。天竺より震旦に渡ける道に、海の水一筋に、
- 諸行無常 是製滅法 生滅々已 寂滅為楽
と鳴ければ、天狗此れを聞て、大に驚て、「海の水何なか止事無き甚深の法文をば可唱きぞ」と怪び思て、「此の水の本体を知て、何でか不防では有らむ」と思て、水の音に付て尋ね来るに、震旦に尋ね来て聞くに、猶同じ様に鳴る。
然ば、震旦も過て、日本の境の海にして聞くに、猶同じ様に唱ふ。其より筑紫の波方の津を過て、文字の関にして聞に、今少し高く唱ふ。天狗弥よ怪て尋ね来る程に、国々を過て、河尻を尋ね来ぬ。其より淀河に尋ね入ぬ。今少し増て唱ふ。淀より宇治河に尋ね入れば、其に弥よ増て唱ふれば、河上に尋ね行くに、近江の湖に尋ね入たるに、弥よ高く唱ふれば、猶尋ぬるに、比叡山の横河より出たる一の河に尋ね入たるに、此の文をかまびすしく唱ふ。河の水の上を見れば、四天王及び諸の護法此の水を護り給ふ。天狗此に驚き、近くも不寄ずして、此事の不審さに隠れ居て聞に、怖(元字は月篇)るゝ事無限し。
暫許有ては***中に劣なる天等の近く御するに、天狗恐々づ寄て、「此の水の此く止事無き甚深の法文を唱ふるは、何なる事ぞ」と問ひければ、天等答て云く、「此の河は比叡の山学問する多の僧の厠の尻也。然れば此く止事無き法文をば、水も唱ふる也。此に依て、此く天等も護り給ふ也」と。天狗此れを聞て、「妨げむ」と思つる心忽に失せて思はく、「厠の尻だに猶此く甚深の法文を唱ふ。況や此の山の僧の貴き有様を思ひ遣るに、云はむ方無し。然れば、我れば、我れ此の山の僧と成らむ」と誓を発して失にけり。
其の後、宇多の法皇の御子に、兵部卿有明の親王と云ふ人の子と成て、其の上の腹に宿てなむ生たる。誓の如く法師と成て、此の山の僧と有けり。名をば明救と云ふ。延昌僧正の弟子として、止事無く成にけり。浄土寺の僧正と云ひけり、亦大豆の僧正とも云ひけりとなむ語り伝へたりと也。
第二 震旦の天狗智羅永寿、此の朝に渡れる語
今昔、震旦に強き天宮有けり。智羅永寿(ちらようじゅ)と云ふ。此の国に渡にけり。
此の国の天狗に尋ね会て、語て云く、「我が国には止事無き悪行の僧共数有れども、我等が進退に不懸らぬ者は無し。然れば、此の国に渡て、修験の僧共有りと聞くは、「其等に会て、一度力競せむ」と思ふを、何が可有き」と。此の国の天狗此れを聞て、「極て喜」と思て、答て云く、「此の国の徳行の僧共は、我等が進退に不懸ぬは無し。凌(元字は手篇)ぜむと思へば、心に任て凌じつ。然れば、近来可凌き者共有り。教へ申さむ。己が後に立て御せ」と云て行く後に立て、震旦の天狗も飛び行く。比叡の山の大嶽の石卒塔婆の許に飛び登て、震旦の天狗も此天狗も道辺に並居ぬ。
此の天狗、震旦の天狗に教ふる様、「我れは人に被見知たる身なれば、現には不有じ。谷の方の薮に隠て居たらむ。其は老法師の形と成て、此に居給て、通らむ人を必ず凌ぜよ」と教へ置て、我れは下の方の薮の中に、目を側にして隠居て見れば、震旦の天狗極気なる老法師に成て、石卒塔婆の傍に曲り居り。眼見糸気疎気なれば、「少々の事は必ず為てむ」と見ゆれば、心安く喜し。
暫許有れば、山の上の方より、余慶律師と云ふ人、腰輿に乗て、京へ下る。此の人は只今貴思ふに、極て喜し。漸く卒塔婆の許過る程に、「事為らむかし」と思て、此の老法師の方を見れば、老法師も無し。亦、律師も糸平らかに弟子共数引き具して下ぬ。怪く、「何に不見えぬにか有らむ」と思て、震旦の天狗を尋たれば、南の谷に尻を逆様にて隠れ居り。此の天狗寄て、「何ど此は隠れ給へるぞ」と問へば、答ふる様、「此の過つる僧は誰そ」と問へば、此の天狗、「此れは只今の止事無き験者余慶律師と云ふ人也。山の千寿院より内の御修法行ひに下るゝ也。貴き僧なれば、「必ず恥見せむ」と思ひつる物を、口惜く過し給ひつるかな」と云へば、震旦の天狗、「其の事に侍りとよ。「者の体の貴気に見えつるは此れにこそ有めれ」と喜しく思えて、「立出む」とて見遣つるに、僧の形は不見ずして、腰輿の上の、高く燃えたる火の焔にて見えつれば、「寄ては火に被焼もこそ為れ。此れ許は見過してむ」と思て、和ら隠ぬる也」と云へば、此の天狗疵咲て云く、「遥に震旦より飛び渡て、此許の者をだに引き不転ずして過つる、糸弊し。此の度だに、渡らむ人必ず引き留て凌ぜよ」と。震旦の天狗、「尤宣ふ事理也。吉し、見給へ、此の度は」と云て、初の如く石卒塔婆の許***て居ぬ。
亦、此天狗も初の如く谷に下て、薮に曲りて見れば、亦罵て人下る。飯室の深禅権僧正の下給ふ也けり。腰輿の前に一町許前立て、髪握かみたる童の杖提たるが腰*たる、人を掃ひ行く。「此の老法師、何すらむ」と見遣れば、此の童、老法師を前々に追ひ立て打ち持行く。法師、頭を*て逃ぬ。敢て輿の傍に可寄くも不見えず。打ち掃て過ぬ。
其の後、此天狗、震旦の天狗の隠たる所に行て、初の如く恥しめ云へば、震旦の天狗、「糸破無き事をも宣ふかな。此の前に立たる童の可寄くも非ぬ気色なれば、「被捕て頭打ち不被破ぬ前に」と思て、急ぎ逾ぬる也。己が羽の疾さは、遥に震旦よりも片時の間に飛渡るに、此の童の早気なる気色は、己には遥に増たり気也つれば、益無く思ひて立隠ぬる也」と答れば、此の天狗、「尚此の度だに念じて、渡らむ人に取り懸り給へ。此の国に渡り給て、甲斐無て返なむは、震旦の為に面目無かるべし」と、返々す恥しめ云ひ聞かせて、我れは又本の所に隠れて居ぬ。
暫許有れば、人の音多くして下より登る。前に赤袈裟着たる僧の、前を追て人掃て渡る。次に若き僧、三衣筥を持て渡る。次に輿に乗て渡り給ふ人を見れば、山の座主の登り給ふ也。其座主と云は、横川の慈恵大僧正也。「此の法師に取懸けぬらむや」と思て見れば、髪結ひたる小童部二三十人許、座主の左右に立て渡ぬ。
而る間、此老法師も不見へず、初の如く隠れにけり。聞ば、此小童部の云く、「此様の所には由無き者有て伺ふ事有を、所々に散て吉く*て行かむ」と云へば、勇たる童部楚を捧て、道の喬平に弘まり立て行と見るに、益無ければ、弥よ谷に下て薮に深く隠れぬ。聞けば、南の谷の方に、此童部の音にて云く、「此に気色怪き者有り。此れ、捕へよ」と。他の童部、「何ぞ」と問ば、「此に老法師の隠れ居ぞ。此は只者には非ざめり」と云へば、他の童部、「慥に搦めよ。不逃すな」と云て、走り懸りて行ぬ。「穴極じ。震旦の天狗被搦ぬなえい」と聞と云へども、怖しければ、弥よ頭を薮に指入れて、低し臥せり。薮の中より恐々見遣たれば、童子十人許して、老法師を石卒塔婆の北の方に張り出て、打ち踏み凌ずる事無限し。老法師音を挙て叫ぶと云へども、***者無し。童部、「何ぞの老法師ぞ。申せ申せ」と云て打ば、答ふる様、「震旦より罷渡たる天狗也。渡給はむ人見奉らむとて此に候ひつるに、初め渡給ひつる余慶律師と申人は、火界の呪を満て通給ひつれば、輿の上大に燃ゆる火にて見えつれば、其をば何がはせむと為る。己れ焼けぬべかりつれば、逃て罷去にき。次に渡り給ひつる飯室の僧正は不動の真言を読て御しつれば、制多迦童子の鉄の杖を持て、副て渡り給はむには、誰か可出会きぞ。然ば深く罷り隠れにき。今度渡り給ふ座主の御房は、前々の如く、猛く早き真言も不満給ず、只止観と云ふ文を心に案じて、登り給ひつれば、猛く怖しき事も無く、深くも不隠ずして、傍に罷寄て候つる程に、此く被搦れ奉て、悲き目を見給つる也」と云へば、童部此の事を聞て、「重き罪有る者にも非ざなり。免して追ひ逃してよ」と云て、童部皆一足づゝ腰を踏て過ぬれば、老法師の腰は踏み被齟ぬ。
座主過ぎ給て後、此の天狗、谷の底より這ひ出て、老法師の、腰踏み被折て臥せる所に寄て、「何ぞ。此度は為得たりや」と問へば、「いで、穴かま給へ。痛くなの給ひそ。其を憑み奉てこそ、遥なる所を渡て来りしか。其れに、此く待ち受て後、安くは教へ不給ずして、生仏の様也ける人共に合せて、此く老腰を踏み被折れれぬる事」と云て、泣き居り。此の天狗の云く、「宣ふ事尤も理也。然は有れども、「大国の天狗に在しければ、小国の人をば、心に任て凌じ給ひてん」と思て教へ申しつる也。其に、此く腰を折り給ひぬるが糸惜き事」と云て、北山の鵜の原と云所に将行てなむ、其の腰を茹癒しいぇぞ、震旦には返し遣ける。
其の湯ける時に、京に有ける下衆、北山に木伐に行て返けるに、鵜の原を通ければ、湯屋に煙の立ければ、「湯桶なめり。寄て浴て行かむ」と思て、木をば湯屋の外に置て、入て見ば、老たる法師二人、湯に下て浴む。一人の僧は腰に湯を沃させて臥たり。木伐人を見て、「彼れは何人の来るぞ」と問へば、「山より木を伐て罷返る人也」と云けり。而るに、此湯屋の極く臭くて、気怖しく思えければ、木伐人頭痛く成て、湯をも不浴ずして返にけり。其後、此の天狗の人に託て語けるを此木伐人伝へ聞てぞ。其日を思ひ合せて、鵜の原の湯屋にして老法師の湯浴し事を思ひ合せて語りける。
此天狗の人に詑て語けるを、聞き継て、此く語り伝へたると也。
第三 天狗、仏と現じて木末に坐せる語
今昔、延喜の天皇の御代に、五条の道祖神の在ます所に、大きなる不成ぬ柿の木の上に、俄に仏現はれ給ふ事有けり。微妙き光を放ち、様々の花などを令降めなどして、極て貴かりければ、京中の上中下の人詣集る事無限し。車も不立敢ず、歩人はたら云ひ不可尽ず。如此き礼みののしる間、既に六七日に成ぬ。
其時に、光の大臣と云ふ人有り。深草の天皇の御子也。身の才賢く、智明か也ける人にて、此の仏の現じ給ふ事を、頗る不心得ず思ひ給けり。「実の仏の此く俄に木の末に可出給き様無し。此は天狗などの所為にこそ有めれ。外術は七日には不過ず。今日我行て見む」と思給て、出立給ふ。日の装束直くして、檳榔毛の車に乗て、前駆など直しく具して、其所に行き給ぬ。若干諸集れる人を掃ひ去させて、車を掻下して、楫を立て、車の簾を巻き上て見給へば、実に木の末に仏在ます。金色の光を放て、空より様々の花を降す事雨の如し。見に、実に貴き事無限し。
而るに、大臣頗る怪く思え給ひければ、仏に向て、目をも不瞬ずして、一時許守り給ひければ、此仏暫くこそ光を放ち花を降しなど有けれ、強に守る時に、侘て、忽に大きなる屎鵄の翼折たるに成て、木の上より土に落て*めくを、多の人此れを見て、「奇異也」と思けり。小童部寄て、彼の屎鵄をば打殺してけり。大臣は、「然ればこそ、実の仏は何の故に俄に木の末には現はれ可給きぞ。人の此れを不悟して、日来礼みののしるが愚なる也」と云て返り給ひにけり。
然れば、其庭の若干の人、大臣をなむ賛め申しけり。世の人も此れを聞て、「大臣は賢かりける人かな」と云て、賛め申しけりとなむ語り伝へたると也。
第四 仏眼寺の仁照阿闍梨の房に天狗の託きたる女来たれる語
今昔、京の東山に仏眼寺と云ふ所有り。其に仁照阿闍梨と云ふ人住けり。極て貴かりける僧也。年来其寺に行ひて、寺を出る事も無くして有ける程どに、思ひ不懸ず、七条辺に有ける薄打つ者の妻の女の、年三十余四十許也けるが、此の阿闍梨の房に来たり。餌袋に干飯を入れて、堅き塩、和布など具して持来て、阿闍梨に奉て云ふ様、「自然ら承はれば、「貴く御ます」と聞て、仕らむの志有て参たる也。御帷などよそわしめて奉らむ事は安く仕てむなむと事吉く云て、返り去ぬ。
其後、阿闍梨、「何くの奴の、此くは来たりつるならむ」と怪て思けるに、二十日許有て、亦前の女来たり。亦、餌袋に精たる米を入れて、折櫃に餅、可然き菓子共など入て、下衆女に頂かせて持来たり。如此くして来る事、既に度々に成ぬれば、阿闍梨、「実に我を貴ぶ志の有れば、此くは不絶ず来る也けり」と哀に思て有るに、亦七月許に、此の女瓜・桃など持せて来れり。
其間、此の房の法師原、京に行て皆無し。阿闍梨只一人有を見て、此の女房の云く、「此の御房には、人も不候ぬか。人気も不見ぬは」と。女、「吉き折節にこそ参り会候にけり。実には可申き事の候へば、此く度々参り候つるに、人の不絶ず候つれば、不申ざりつるを。大切に可申き事候ふ也」と云て、人と離たる所に呼び放てば、阿闍梨、「何事にか有らむ」 と思て、寄て聞けば、此の女、阿闍梨を捕へて、「年来思給へつる本意有り。助けさせ給へ」と云て、只近付きに近付ば、阿闍梨驚て、「此は何に何に」と云て、去むと為れども、女、「助け給」と云て、只凌ずれば、阿闍梨侘て、「此なせぞ。吉かなり。云はむ事は聞かむ。安き事也。但し仏に不申ずしてなむ不然まじき。仏に申して後に」と云て、立て行けば、女、「逃げなむと為るなめり」と思て、阿闍梨を捕て、持仏堂の方へ具して行ぬ。
阿闍梨、仏の御前に行て、申して云く、「不量ざる外に、我れ魔縁に取り籠られたり。不動尊、我を助け給へ」と云て、念珠の砕く許に擬て、額を板敷に宛て、破許に額を突く。其時に女、二間許に投げ被去て、打ち被伏れぬ。二の肱を捧て、天縛に懸て、転べく事、独楽を廻すが如とし。暫許有て、音を雲ゐの如く高くして叫ぶ。其の間、阿闍梨念珠をもみ入て、仏の御前に尚低し臥たり。女四五度許叫て、頭を柱に宛てゝ、破れぬ許打つ事、四五十度許也。其後、「助け給へ々々」と叫ぶ。
其の時に、阿闍梨頭を持上て起上て、女に向て云く、「此れ心不得ぬ事也。此は何なる事ぞ」と。女の云く、「今は隠し可申き事にも非ず。我は東山の大白河に罷通ふ天狗也。其に、此の御房の上を、常飛て罷り過ぐる間に、御行ひの緩み無くして、鈴の音の極く貴く聞つるは。「此れ、構て落し申さむ」と思て、此の一両年此の女に詑て謀つる事也。其れに、聖人の霊験貴くして、此く被搦れ奉ぬれば、年来は妬く思給つれども、今は懲申しぬ。速に免し給てよ。惣て翼打ち被折て、難堪く術無く候ふ。助け給へ」と、泣々く云ければ、阿闍梨仏に向ひ奉て、泣く々礼拝して、女をば免てけり。其時に、女心醒て、本の心に成にければ、髪掻き馴しなどして、云ふ事無くして、腰打ち引て出に去にけり。
其より後、女永く見え不来ざりけり。阿闍梨も其より後は、殊に慎て、弥よ行ひ緩む事無くして有けるとなむ語り伝へたるとや。
第七 染殿の后、天宮の為ににょう(女篇に尭)乱せられたる語
今昔、染殿の后と申すは、文徳天皇の御母也。良房太政大臣と申ける関白の御娘也。形ち美麗なる事、殊に微妙かりけり。而るに、此后、常に物の気に煩ひ給ければ、様々の御祈共有けり。其中に世に験し有る僧をば召し集て、験者修法有ども、露の験し無し。
而る間、大和葛木の山の頂に、金剛山と云ふ所有り。其山に一人の貴き聖人住けり。年来此所に行て、鉢を飛して食を継ぎ、瓶を遣て水を汲む。如此く行ひ居たる程に、験無並し。然れば、其聞え高成にければ、天皇并に父の大臣、此由を聞食して、「彼れを召して、此の御病を令祈めむ」と思食して、可召き由被仰下ぬ。使、聖人の許に行て、此由を仰するに、聖人度々辞び申すと云へども、宣旨難背きに依て、遂に参ぬ。御前に召て、加持を参*るに、其験し新たにして、后一人の侍女忽に狂て哭き嘲る。侍女に神詑て走り叫ぶ。聖人弥よ此を加持するに、女被縛て打ち被責る間、女の懐の中より一の老狐出て、転て倒れ臥て、走り行事能からず。其時に、聖、人を似て狐を令繋て、此を教ふ。父の大臣此れを見て、喜給ふ事無限し。后の病、一両日の間に止給ひぬ。
大臣此れを喜給て、聖人暫く可候き由を仰せ給へば、仰に随て暫く候ふ間、夏の事にて、后御單衣許を着給て御けるに、風、御几帳の帷を吹き返したる迫より、聖人髴に后を見奉けり。見も不習ぬ心地に、此く端正美麗の姿を見て、聖人忽に心迷ひ肝砕て、深く后に愛欲の心を発しつ。
然れども、可為き方無き事なれば、思ひ煩て有るに、胸に火を焼くが如にして、片時を思ひ遇すべくも不思えざりければ、遂に心澆て狂て、人間を量て、御帳の内に入て、后の臥せ給へる御腰に抱付ぬ。后驚き迷て、汗水に成て恐ぢ給ふと云へども、后の力に辞び難得し。然れば、聖人力を尽して凌じ奉るに、女房達此れを見て騒て罵る時に、侍医当麻の鴨継と云ふ者有り。宣旨を奉て、后の御病を療ぜむが為に、宮の内に候けるが、殿上の方に、俄騒ぎ罵る音しければ、鴨継驚て走入たるに、御帳より此聖人出たり。鴨継、聖人を捕へて、天皇に此由を奏す。天皇大きに怒給て、聖人を搦て獄に被禁ぬ。
聖人獄に被禁たりと云へども、更に云ふ事無して、天に仰て、泣々く誓て云く、「我忽に死て鬼と成て、此后の世に在まさむ時に、本意の如く后に陸びむ」と。獄の司の者、此を聞て、父の大臣に此事を申す。大臣此を聞驚き給て、天皇に奏して、聖人を免して本の山に返し給ひつ。
然れば、聖人本の山に返て、此思ひに不堪ずして、后に馴近付き可奉き事を強に願て、憑む所の三宝の祈請すと云へどm、現世に其事や難かりけむ、「本の願の如く、鬼に成らむ」と思ひ入て、物を不食ざりければ、十余日を経て、餓へ死にけり。其後忽に鬼と成ぬ。其形、身裸にして、頭は禿也。長け八尺許にして、膚の黒き事漆を塗れるが如し。目はかなまり(金篇に完)を入たるが如くして、口広く開て、剣の如くなる歯生たり。上下に牙を食ひ出したり。赤き裕衣を掻て、槌を腰に差したり。此鬼俄に后の御ます御几帳の喬に立たり。人現はに此れを見て、皆魂を失ひ心を迷はして、倒れ迷て逃ぬ。女房などは此れを見て、或は絶入り、或は衣を被て臥ぬ。疎き人は参り不入ぬ所なれば不見ず。
而る間、此の鬼魂、后をほらし狂はし奉ければ、后糸吉く取り繕ひ給て、打ち咲て、扇を差隠して、御帳の内に入り給て、鬼と二人臥させ給ひにけり。女房など聞ければ、只日来恋く侘かりつる事共をぞ鬼申ける。后も咲嘲らせ給ひけり。女房など皆逃去にけり。良久く有て、日暮る程に、鬼御帳より出て去にければ、「后何に成せ給ぬらむ」と思て、女房達忽参たれど、例に違ふ事無して、「然る事や有つらむ」と思食たる気色も無てぞ、居させ給たりける。少し御眼見を怖し気なる気付せ給ひにける。
此由を内に奏してければ、天聞食て、奇異く怖しきよりも、「何成せ給ひなむずらむ」と歎かせ給ふ事無限し。其後、此鬼毎日に同じ様にて参るに、后亦心肝も失せ不給ずして、移し心も無く、只此鬼を媚き者思食たりけり。然ば、宮の内の人皆此れを見て、哀れに悲く、歎き思ふ事無限し。
而る間、此鬼、人に託て云く、「我必ず彼の鴨継が怨を可報し」と。鴨継俄に死にけり。亦、鴨継が男三四人有けり。皆狂病有て死けり。然れば、天皇并に父の大臣此を見て、極て恐ぢ怖れ給て、諸の止事無き僧共を以て、此鬼を降伏せむ事を懃に祈せ給けるに、様々の御祈共の有ける験にや、此鬼三月許不参ざりければ、后の御心も少し直りて、本の如く成給にければ、天皇聞食て喜ばせ給ける程に、天皇、「今一度見奉らむ」とて、后の宮に行幸有けり。例より殊に哀なる御行也。百官不闕ず皆仕たりけり。
天皇既に宮に入らせ給て、后を見奉らせ給て、泣々く哀なる事共申させ給へば、后も哀に思食たり。形も本の如くにて御す。而る程間、例の鬼俄に角踊出て、御帳の内に入にけり。天皇此れを、「奇異」と御覧ずる程に、后例有様にて、御帳の内に忽ぎ入給ぬ。暫許有て、鬼南面に踊出ぬ。大臣・公卿より始て百官皆現に此の鬼を見て、恐れ迷て、「奇異」と思ふ程に、后又取次きて出させ給て、諸の人の見る前に、鬼と臥させ給て、艶ず見苦き事をぞ、憚る所も無く為せ給て、鬼起にければ、后も起て入らせ給ぬ。天皇可為き方無く思食し歎て、返らせ給にけり。
然ば、止事無なかむ女人は、此事を聞て、専に如然し有らむ法師の不可近付ず。此事極て便無く憚り有り事也と云ども、末の世の人に令見て、法師に近付かむ事を強に誡めむが為に、此くなむ語り伝るとや。
第九 天狗を祭る法師、男に此の術を習はしめむとしたる語
今昔、京に外術と云ふ事を好て役とする下衆法師有けり。履たる足駄・尻切などを急と犬の子などに成して這せ、又懐より狐を鳴せて出し、又馬・牛の立る尻より入て、口より出など為る事をぞしける。
年来此様にしけるを、隣に有ける若き男を極く*ましく思て、此法師の家に行て、此事習はむと切々に云ければ、法師の云く、「此事は輒く人に伝ふる事にも非ず」と云て、速にも不教ざりけるを、男懃に、「尚習はむ」と云ければ、法師の云く、「汝ぢ実に此事を習はむと思ふ志有らば、努々人に不令知ずして、堅固に精進を七日して、浄くして、其桶に入て、自ら荷ひ持て、止事無き所に詣で習ふ事也。我れは更に教へむに不能ず。只其を導く許也」と。男こ此れを聞て、法師の云ふに随て、努々人に不令知して、其日より堅固の精進を始て、注連を曳て人にも不会して、籠居て七日有り。只極て浄して、交飯を儲て浄き桶に入たり。
而る間、法師来て云く、「汝ぢ実に此事を習取らむと思ふ志有らば、努々腰に刀を持つ事無れ」と懃に誡め云ければ、男、「刀を不持ざらむ事安き事也。難からむ事をそら、此の事にも懃に習はむと思ふ志有れば、辞び可申きに非ず。況や刀不差ざらむ事は難き事にも非ざりけり」と云て、心の内に思はく、「刀不差ざらむ事は安き事にては有ども、此の法師の此く云ふ、極て怪し。若し刀を不差して、怪しき事有らば、益無かるべし」と思ひ得き。蜜に小き刀を返々す吉く鐃てけり。
精進既に明日七日に満なんと為る夕に、法師来て云く、「努々人に不知せで、彼交飯の桶を、汝ぢ自持て、可出立き也。尚々刀持つ事無かれ」と誡め云て去ぬ。暁に成ぬれば、只二人出ぬ。男は尚怪ければ、刀を懐に隠し差して、桶を打ち肩持て、法師を前に立てゝ行。何くとも不思えぬ山の中を遥々と行に、巳時許に成て行く。「遥にも****来ぬるかな」と思ふ程に、山の中に吉く造たる僧坊有り。男をば門に立て、法師は内に入ぬ。見れば、法師木柴垣の有る辺に突居て、咳きて音なふめれば、障紙を曳開て出る人有り。見れば、年老て睫長なる僧の、極て貴気なる出来て、此法師に云く、「汝ぢ、何ぞ久くは不見えざりけるぞ」と云へば、法師、「暇不候ざるに依て、久く参り不候ず」など云て、「此に宮仕へ仕らむと申す男なむ候」と云へば、僧、「常に此の法師由無し事云ふらむ」と云て、「何こに有るぞ。此方に呼べ」と云へば、法師、「出て参れ」と云へば、男、法師の尻に立て入ぬ。持たる桶は、法師取て延の上に置つ。
男は柴垣の辺に居たれば、房主の僧の云、「此尊は若し刀や差たる」と。男、更に不差ぬ由を答ふ。此僧を見るに、実に気疎く怖しき事無限し。僧、人を呼べば、若き僧出来ぬ。老僧延に立て云く、「其男の懐に刀ば差たると捜れ」と、然れば、若僧寄来て、男の懐を捜むと為るに、男の思はく、「我が懐に刀有。定て捜出なむとす。其後は我れ吉き事不有じ。然れば、我が身忽に徒に成なむず。同死にを、此老僧に取付て死なむ」と思て、若き僧の既に来る時に、蜜に懐なる刀を抜て儲て、延に立たる老僧に飛び懸る時に、老僧急と失ぬ。
其の時に見れば、坊も不見ず。奇異く思て見廻せば、何くとも不思ず大きなる堂の内に有り。此導たる法師手を打て云、「永く人徒に成つる主かな」とて、泣き逆ふ事無限し。男更に陳ぶる方無し。吉く見廻ば、「遥に来ぬ」と思ひつれども、早う一条と西の洞院とに有る大峰と云寺に来たる也けり。***男我れにも非ぬ心地して家に返ぬ。法師は泣々く家に返て、二三日許有て俄に死にけり。天狗を祭たるにや有けむ、委く其の故を不知ず。男は更不死ずして有けり。此様の態為る者、極て罪深き事共をぞすなる。
然れば、聊にも、「三宝に帰依せむ」と思はむ者は、努々、永く習はむ心無かれとなむ。此様の態する者をば人狗と名付て、人に非ぬ者也と語り伝へたるとや。
第十一 竜王、天狗の為に取られたる語
今昔、讃岐国、***郡に、万能の池と云ふ極て大きなる池有り。其池は、弘法大師の、其国の衆生を哀つれか為に築給へる池也。池の廻り遥に広して、堤を高築き廻したり。池などゝは不見ずして、海とぞ見えけり。池の内底ゐ無く深ければ、大小の魚共量無し。亦、竜の蘓栖としてぞ有ける。
而る間、其池に住ける竜、日に当らむと思けるにや、池より出て、人離たる堤の辺に、小蛇の形にて蟠り居たりけり。其時に、近江の国、比良の山に住ける天狗、鵄の形として其池の上を飛廻るに、堤に此の小蛇の蟠て有るを見て、*鵄反下て、俄掻き抓て、遥に空に昇ぬ。竜力強き者也と云へども、思不懸ぬ程に俄抓て行くに、天狗、小蛇を抓砕て食せむとすと云へども、竜の用力強きに依て、心に任せて抓み砕き散む事不能ずして、潦て、遥に本の栖の比良の山に持行ぬ。狭き洞の可動くも非ぬ所に打籠置つれば、竜狭く*破無くして居たり。一滴の水も無ば、空を翔る事も無し。亦、死なむ事を待て、四五日有り。
而る間、此の天宮、「比叡の山に行て、短を伺て、貴き僧を取らむ」と思て、夜る東唐の北谷に有ける高き木に居て伺ふ程に、其向に造り懸たる房有。其坊に有僧、延に出に、小便をして手を洗はむが為、水瓶を持て、手を洗て入るを、此の天狗木より飛来て、僧を掻き抓て、遥に比良の山の栖の洞に将て行て、竜の有る所に打置つ。僧水瓶を持ち乍ら、我れにも非で居たり。「我今は限ぞ」と思ふ程に、天狗は僧を置くまゝに去ぬ。
其時に、暗き所に音有て、僧に問て云く、「汝は此れ、誰人ぞ。何より来ぞ」と。僧答て云、「我れは比叡の山の僧也。手を洗はむが為に、坊の延に出たりつるを、天狗の俄に抓み取て、将来れる也。然れば、水瓶を持乍来れる也。抑も此く云は又誰ぞ」と。竜答て云く、「我は讃岐の国、万能の池に住竜也。堤に這ひ出たりしを、此天狗空より飛来て、俄に抓て此洞に将来れり。狭く*て、為む方無しと云へども、一滴の水も無ければ、空をも不翔ず」と。僧の云く、「此の持たる水瓶に若し一滴の水や残たらむ」と。竜此を聞て、喜て云く、「我此所にして日来経て、既に命終なむと為るに、幸に来会ひ給て、互に命を助く事を可得し。若し一滴の水有らば、必汝本の栖に可将至し」と。僧又喜て、水瓶を傾けて、竜に授くるに、一滴の水を受つ。
竜喜て、僧に教て云く、「努々怖る事無して、目塞て我れに負れ可給し。此恩更に世々にも難忘し」と云て、竜忽に小童の形と現じて、僧を負て、洞を蹴破て出る間、雷電霹靂して、空陰り雨降る事甚だ怪し。僧身振ひ肝迷て、「怖し」と思ふと云へども、竜を睦び思ふが故に、念じて被負て行く程に、須臾に比叡の山の本の坊に至ぬ。僧を延に置て、竜は去ぬ。
彼の房の人、雷電霹靂して房に懸と思程に、俄に坊の辺暗の夜の如く成ぬ。暫許有て晴たるに見ば、一夜俄に失にし僧、延に有り。坊の人々奇異く思て問に、事有様を委く語る。人皆此を聞て驚て奇異がりけり。
其後、竜彼の天狗の怨を報ぜむが為に、天狗を求むるに、天宮、京に知識を催す荒法師の形と成て行けるを、竜降て蹴殺してけり。然れば、翼折れたる屎鵄にてなむ、大路に被踏ける。彼の比叡山の僧は、彼の竜の恩を報ぜむが為に、常に経を誦し、善を修しけり。
実に此れ、竜は僧の徳に依て命を存し、僧は竜の力に依て山に返る。此も皆前生の機縁なるべし。
此事は彼の僧の語伝を聞継て、語り伝へたるとや。
第十二 伊吹の山の三修禅師、天宮の迎へを得たる語
今昔、美濃国に伊吹の山と云ふ山あり。其の山に久行ふ聖人有り。心に智り無して、法文を不学ず、只弥陀の念仏を唱より外の事不知。名は三修禅師とぞ云けり。他念無く念仏を唱て、多の年を経にけり。
而る間、夜深く念仏を唱へ仏の御前に居たるに、空に音有て、聖人に告て云く、「汝懇に我を憑めり。念仏の員多く積りにたれば、明日の未時に、我れ来て、汝を可迎し。努々念仏怠る事無かれ」と。聖人此音を聞て後、弥よ心を至て、念仏唱て怠る事無。
既明る日に成ぬれば、聖人沐浴し清浄にして、香を焼き花を散て、弟子共に告て、諸共に念仏を唱へて、西に向て居たり。而る間、未時下る程に、西の山の峰の松の木の隙より、漸耀き光る様に見ゆ。聖人此を見て、弥よ念仏を唱て、掌を合て見ば、仏の緑の御頭指出給へり、金色の光を至せり。御髪際は金の色を磨けり、眉間は秋の月の空に耀くが如にて、御額に白き光を至せり。二の眉は三日月の如し。二の青蓮の御眼見延て、漸月の出が如し。又様々の菩薩、微妙音楽を調て、貴事無限し。又空より様々の花降る事、雨の如し。仏の眉間の光を差して、此聖人の面を照給ふ。聖人他念無く礼入て、念珠の緒も絶し。
而る間、紫雲厚く聳て菴の上に立ち渡る。其時に、観音紫金台を捧て、聖人の前に寄り給ふ。聖人這寄て其蓮花に乗ぬ。仏、聖人を迎取て、遥に西に差て去り給ぬ。弟子等此を見て、念仏を唱て貴ぶ事無限し。其後、弟子等其日の夕より、其坊にして念仏を始て、弥よ聖人の後を訪ふ。
其後、七八日を経て、其坊の下僧等、念仏の僧共に令沐浴むが為に、薪を伐て奥の山に入たるに、遥に谷に差し覆たる高き椙の木有り。其木の末に遥叫ぶ者の音有り。吉く見ば、法師を裸にして縛て木の末に結ひ付たり。此を見て、木昇する法師、即ち昇て見れば、極楽に被迎れ給し我師を、葛を断て縛付たる也けり。法師是を見て、「我が君は何で此る目は御覧ずるぞ」と云て、泣々く寄て解ければ、聖人、「仏の、「今迎に来らむ。暫く此て有れ」と宣つるに、何の故に解て下ぞ」と云けれども、寄て解ければ、「阿弥陀仏、我を殺す人有や、をう/\」とぞ、音を挙て叫びける。然れども、法師原数た昇て解き下して、坊に将行たりければ、坊の弟子共心踈がりて、泣き合へりけり。聖人移し心も無く、狂心のみ有て、二三日許有ける程に死けり。心を発て貴き聖人也と云へども、智恵無ければ、此ぞ天宮に被謀ける。弟子共又云ふ甲斐無し。
如此の魔縁と三宝の境界とは更に不似ざりける事を、智り無きが故に不知ずして、被謀る也となむ語り伝へたるとや。
巻第二十八 本朝附仏法
第二十七 伊豆守小野五友の目代の語
今は昔、小野五友と云ふ者有りけり。外記の巡にて伊豆守に成りたりけり。其れが伊豆守にて國に有りける間、目代の無かりければ、東西に「目代に仕ふべき者や有る」と求めさせけるに、人有りて云はく、「駿河國になむ、才賢く弁有りて、手など吉く書く者は有る」と告げければ、守、此れを聞きて、「糸吉き事なり」と云ひて、態と使を遣して迎へ將て來たりけり。守見れば、年六十許の男の、大きに太りて宿徳氣なり。打咲みたる氣も無くて、■(心偏に惡)氣なる顔したれば、守此れを見るに、「先づ心は知らず、見目は吉き目代形なめり、人・物云■(心偏に惡)氣なる氣色したり」と思ひて、「手は何が書く」とて書かせて見れば、手の書樣微妙くは無けれども、筆輕くて目代手の程にて有り。「弁は何が有らむ」と思ひて、掻亂したる事の沙汰文を取りて、「此の物、何らか入りたると沙汰せよ」と云ヘば、此の男、文を取りて、引披きて打見て、算取り出だして糸輒く打置きて、程も無く、「何らなむ候ひける」と云へば、守、「心は知らず、先づ弁は極じき者なりけり」と喜び思ひて、其の後、國の目代として萬の事を知らせて、引き付けて仕ひけるに、二三年許に成りぬれども、露守の氣色に違ひぬる心ばへ見えず。只萬の事を直しく定めて居たりけり。人の遅く沙汰せし事共をも、即ち疾く沙汰して、常に暇を有らせてなむ有りける。此く萬に賢ければ、守、便をも付けかしと思ひて、國の内に然るべき所共を數た知らせけれども、指せる徳付きたりとも見えず。然れば、館の人にも國の人にも極じく受けられて、重き者に用ゐられてなむ有りける。然れば、隣の國まで賢き者となむ聞えたりける。
而る間、此の目代、守の前に居て、文書共多く取り散らして、亦下文共を書かせ、其れに印指さする程に、傀儡子の者共多く館に來て、守の前に並び居て、歌を詠ひ笛を吹き、■(言偏に慈)く遊ぶに、守も此れを聞くに、我が心地にも極じくすずろはしく■(言偏に慈)く思えけるに、此の目代の印を指すを見れば、前には糸吉く指しつる者の、此の傀儡子共の吹き詠ふ拍子に随ひて、三度拍子に印を指しぬ。守、此れを見るに、恠しと思ひて護る程に、目代■(暴に皮)れ宿徳氣なる肩を亦三度拍子に指す。傀儡子共、其の氣色を見て、詠ひ吹き叩き増して、急に詠ひ早す。其の時に此の目代、太く辛びたる音を打出だして、傀儡子の歌に加へて詠ふ。守、奇異しく、「此は何に」と思ふ程に、目代、印を指す指す、「昔の事の忘れ難く」と云ひて、俄かに立ち走りて乙でければ、傀儡子共彌よ詠ひ早しけり。
館の者共此れを見て、興じ咲ひて■(口偏に皇)りける程に、目代恥ぢて印を投げ棄てて、立ち走りて逃げぬれば、守、此の事を怪しがりて、傀儡子共に、「此は何なる事ぞ」と問ひければ、傀儡子共の云はく、「此の人は、古へ若く侍りし時、傀儡子をなむ仕り候ひし。其れが手などを書き、文を讀みて、今は傀儡子をも仕らで、此の樣に罷成りて、此の國の御目代にてなむ候ふと承はりて、『若し昔の心ばへ失せずもや候ふ』と思ひ給へて、實には御前に罷出でては、早し候ひつるなり」と云ひければ、守、「實に印を指し、肩を指しつる氣色、然か見つる事」となむ答へける。館の者共は、此の目代の立ち走りて乙でけるを見ては、「傀儡子共の此く吹き詠ひ遊ぶが認さに堪へずして、立ちて乙づるなるべし。然れば、然樣の物興爲べき氣色も無かりつる人の」など思ひ云ひける程に、傀儡子共の此く云ふを聞きてなむ、「然は、此の人は本傀儡子にて有りけり」とは知りける。其の後は、館の人も國の人も、傀儡子目代となむ付きて咲ひける。少し思下りにけれども、守、糸惜しがりて尚仕ひけり。然れば、一國の目代に成りて思ひ忘れたる事なれども、尚其の心失せずレて、然か有りけむ。其れは傀儡神と云ふ物の狂はかしけるなめりとぞ人云ひけるとなむ、語り傳へたるとや。
文中の**は欠損部。
(岩波文庫『今昔物語集』本朝部上を底本としました)

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