寒檠瑣綴・魏志倭人伝・嬉遊笑覧

寒檠瑣綴

寒檠瑣綴(かんけいさてつ)

浅野梅堂著
(一部)

巻之五 (一部)

(前略)

東照神祖ノ御嫡三郎信康君ニ御腹メサセタマヒシ事、仁慈ノ道ヲ缺キテ御失徳ノ一ツトシテ漢ノ武帝ノ衛太子ニ比ス。因テハサマザマノ説ドモアリ。武田ノ奸者ノ謀計ニ出ルハ相違有マジク、又築山殿(神祖ノ御前妻ニテ戸田氏ナリ)ノ嫉妬ヨリ信康君ノ奥方(信長ノ女ナリ)ト御不和ナリシ。酒井忠次ノ調停ニ忽カナリシ三河記ナドニ陳述セシ謂ハ必有タランコトニテ、又信長ノ三郎君ノ勇慓ヲ忌ミ憚リケルヨリハ、事ムヅカシク言越サレタルモノニテ、神祖モ其実ナラザルヲバ御推察アリタレドモ、信長ニ対シ且ハ一国一家ノ興衰ニ関スルトコロヲモ思惟マシマシテ止ムヲ得ザルニ出タレバコソ、何カタエナリトモ逃遁セシトノ御心ニテハアリケケン。岡崎ヨリ大濱エ移サレ堀川ノ城ニ入ラレ、又二股ノ城ニ至リ卒ニコゝニテ御腹メサレシハ、御心ツキアラレンゴトクニナサレシナリ。夫モトゞカヅシテ卒ニカクハナレリケリ。必竟スルトコロ愛ヲ父君ニ失ヒタマヒシ故ニテコソアリケレ。古来和漢帝王ノソノ世子ヲ貶棄セラレシ事故ハサマザマアレドモ、後ヨリサマザマノ説ヲナストイヘドモ、原トコロハ親愛ノ心疏乖セシヨリ起ルトコロニシテ、父子ノ性情ハ他人ニ比スベカラズ。一事一由ノ忽チ来テ夫ガタメニ遽ニ乖戻ニ至ルベキニアラズ、平常ニ親愛ヲ失フトコロアレバナリ。信康君ノゴトキ後世ヨリ其一證ヲ挙テ申サンニ、神祖ノ第六男ニテアリシ上総介忠輝君ハ、阿茶阿ノ局ノ生ミタマヒシトキ御子ノ員ニモナシタマワズ、皆川山城守広照取テ養ヒ、辰千代殿ト名付ケ申、七歳ニナリラマフ時ニ始テ神祖御覧ジテ、恐シキツラ魂カナ、三郎ガヲサナカリシ時ニタガフコトナカリケルト仰セラレシト云コトアレバ、三郎君ヲモカネテハ愛々シクハ初メヨリ覚サデゾアリラン。大凡父子兄弟夫婦ノ情ニ於テハ、愛敬ノフタツヲ離レテハ他人モ同ジキニ至ル故ニ、此三ツノ際ハ愛ヲ以テ主トシテ是ヲ節スルニ礼敬ヲ以テスル故ニ、両ナガラ全ヲ得ルナリ。既ニ其愛情ヲ失ナヘバ却テ他人ヨリモ甚シキニ至ル、是ニ葬倫ノ大変ト云ベシ。コレヨリ後ニ大猷廟ノ御弟駿河大納言忠長卿ヲ忌ミタマヒテ、屡預リ人ヲ替タマヒシモ故智ニ倣ヒタマヒケンカ。後ニ久世大和守ヲ御使トシテ、預リ人ノ安藤右京亮ガ許ニマイリテ御生害ヲスゝメ申セトアリシヲ、右京亮御墨附なくてはと申ケレバ、大和守カヘリマイツテ其旨ヲ申ス。大猷廟コレヲ聞タマヒテ、ナシトモヨキモノナレドモトテ卒ニ御墨附ヲタマヒテケレバ、安藤諾シテ日頃ヘテ束薪ヲ御座所ノ四面ニ堆ク積ミアゲゝレバ、御心ヅキアルト見エテヤガテ御トリカタヅケアツテ御自害マシマシケリ。御幼穉ノ頃ヨリ勢位ヲ争ヒ、御ナカ睦ジカラザリケレバ、竟ニハ誣言ニ溺レ給ヒテ栗市ノ誚ヲマヌガレタマハザリシハ、猷廟ノ御慙徳ト申ベキニヤ。

孫呉ノ兵法モ書面ニテハ其微妙ハ尽サレヌ事ニテ、殊ニハ戦機ト云ハ毫末ノ間ニ勝負ヲ分ツコトナリ。信長ノ桶狭、元就ノ厳島ノ戦ナンド皆ヨク機ニ乗陣ヲ陥レ将ヲ撃シ、鋭気ヲ蓄ヘ天時ヲ仮リテ莫然馳突セシニ出ルモノニテ、敵王相対待シテ互ニ強弱ノ差ナク、智勇トモニ相伴シキ主将ノ出合ヒニコソ、但兵機ヲ以テ勝負ヲ分ツナリ。唐土ニテ高歓宇文泰ノ玉壁ノ戦、我邦ニテハ武田信玄、上杉謙信ノ川中島ノ戦コソ両雄相対シ、マケジヲトラヌ互格ノ戦ニテ機ヲ未然ニ察シテ引ワカレタリケル。夫ニモ増シテ凡慮ヲ以テ窺ヒガタキ神智妙算ハ、小牧長湫ノ合戦ナリ。日本ニ二人トアルマジキ天下ノ主トナルベキ程ノ名将ノ出会ナレバ、往昔ヨリ是ホドノ大戦ハナキハヅナリ。始秀吉地勢ヲ視テ小牧山ニ神祖ノ営ヲ立ラレシニ、大ニ望ヲウシナヒテ早ク此所ヲ取ラザリシヲ悔タリ。是地ノ利ヲ失ヒシ也。サレバ是ニ対スルニ二重濠ヲ構テ戦期ヲ約シ、信長ノ長篠ノ故智ニ倣シニ、剽悍ナル三河武者思ノ外ニ武田勝頼ノ如キ豕突ノ疎忽ナシ。池田信輝ガ岡崎ノ巣窟ヲ擣ントコヒシカ共、秀吉沈吟シテユルサズ。サラバトテ丁寧教諭シテ五陣マデヲ続テ連珠寨ヲナシタリ。岩崎ヲバ攻取テケル此報牒ヲ神祖小牧ニテキコシメスト、其マゝ夜半ニ令ヲ発シ旗ヲ巻、鐚(ヒョウ:正しくは鹿に心)ヲ包テ軽騎四千人モミニモンデ小幡ニ赴ク、秀吉ガ五陣ナル三好秀次、長谷川秀一ガ陣ノウシロヨリ無二無三ニ撃テカゝリ、大ニ是ヲ取ル。彼ガ前軍コレヲ聞テ反シ来闘フ。我先鋒戦マケテ散々ニ打ナサレ、旗本ニナダレカゝル。コノ時諸将ミナ云ハ、勝ホコツタル敵鋒ニアタリガタシ、軍ヲマトメテ岡崎ニ御入アレト。然ルニ高木清秀、渡辺守嗣先手ヨリ戻リ来テ、敵ハ乱レ足ニテ逐来ルゾ。コゝニテクヒトメナバ勝利疑ヒナシトスゝムル。依テ必死ノ血戦シテ卒ニ敵将池田信輝、森長可ヲ馘ス。時ニ午時ナリ。直ニ小幡砦ニ入ラル、秀吉長湫ノ敗ヲ聞トヒトシク、トルモノモ取アヘズモミニモンデ長湫マデ馳付タレバ、戦ハスンデ僵尸野ヲ蔽フテ敵ハ一人モ見エズ。コレヲ土人ニトヘバ、徳川殿ハ早小幡ニ入セラレタリト聞テ、華モ実モアル家康カナト歎息ナシ、日モ暮レナレバ龍泉寺ニ陣シケル本多忠勝ハ小牧ニ残リ留リケルガ、イデヤ敵軍ノ我主ノ跡ヲ逐テ出タルニ、空シクコゝヲ守ランモ益ナシ、コレヨリモ敵ノ塞ヲ撃ベシト云ニ、石川数正一人同意セズ。議論ニヒマトルユヘ、忠勝イヤイヤ長評議シテ主君ノ大事ヲハヅサンヨリ、人ハトモアレ吾一人ナリトモ追付テ先途ヲ見ンモノヲトテ、手勢五百ヲ引率シテ秀吉ノ陣ト川ヲ隔テ押並テ鉄砲ヲ撃カケカケ、必死ヲ極テ大軍ニヒマイラセテ主ノ戦ヲ全クサセントシテケルニ、秀吉モ是ホドノ少勢ヲ易(正しくは足遍)仆シテデモ通ラルベキヲ、先ヲイソギテモミニモンデ馳行レシハ、ムカシ賤ヶ岳ノ戦ニ、佐久間柴田ガ追付ヨ引トレトノ問答ノヒマニ、秀吉馳付テ大捷ヲ得ラレシ故轍也。サルヲ早モ小幡エ引揚ラレシ故ニコソ歎美ハナセルナレ。忠勝小幡ニ参リツキテ、其ガ手ノモノハ新手ナリ、今夜龍泉寺ニ一夜討スベシトアリ。是モ一奇計ナレドモ、神祖許シタマハズ。其夜ノウチニ小牧ノ本陣エ引カヘサセタマフ。始メ信輝、長可等サヘニ岡崎ノ巣窟ヲ擣シトテ軍ヲ出セシニ、マシテヤ秀吉ノ自ラ是マデ出ラレテ、神祖ハ小牧ヘ引キモドサレタルト聞タラバ、タゞチニ三河エ攻コムベキヲ、翌朝ニ至テ其コトヲ聞トヒシク小牧エ引モドサレシハ、凡慮ノ及バヌコトニテ、互ニ上手ノ棋ウチヲ旁観ノ者ヨリハ覦知ルベカラザル処也。コレ等ヲゾ戦機トハ言ベキモノナリ。

 御実記附録ニ、小牧対陣ノヲリ当家及ビ織田信雄ノ兵、敵ノ二重堀ニ攻カゝラントシケルヲ見テ敵陣色メキシカバ、ソノ旨秀吉ニ告ルモノアリシニ、折フシ秀吉ハ碁ヲ打テ居ラレシガ、二重堀破レバ兵ヲ出スベシ、早クシラセヨト云テモトノゴトク局ニ向ヒテ居タリ。又コナタノ御陣ニモカクト注進シケレバ、敵モシ後詰ニ出ルホドナラバコナタヨリモ攻カゝラン、サマデニナクバ戦フナト仰セラレ、日中ニ及ビ両陣引キ上ゲゝル後ニ、筑紫ノ陣中ニ秀吉コノ事ヲ云ヒ出シテ、先年小牧ノ時ナド攻カゝリタマハザリシトイフニ、君ソノ折ニ家臣ドモハ皆軍セヨト勧メツレドモ、某ハ小牧ノ兵ヲコナタニ引付テ討ント思ヒシユヘカゝラザリシト宣ヘバ、秀吉モ手打チテ感歎シ、ヲノレモ二重堀破レバ小松寺ヨリ大勢ヲ出シテ戦ハゞ、必勝ナントヲモヒシト云レケル。誠ニ敵モ味方モ良将ノヨク軍機ヲ熟察アリシハ、期セズシテ符合ヲアハセルガゴトシト、森右近大夫忠政ガ人ニ語リシトゾ。

信玄謙信ノ能兵ヲ用ル、孫呉モ如ヌハ元ヨリ也。然ドモ謙信ハ八千ヲ遣ゴロナリトシテ、韓信ノ多々益辨ズルガ如ナラズ、小田原ノ敗モ大兵ヲツカヒコナシナラザリシ故ナリ。

神祖ノ如キハ多寡トモニ其用ニ適セザルナシ。寡兵ニシテ勝ヲトリタマヒシ事ハ、三河ニヲハセシ時度々ノ合戦史乗ニモ其御軍略ヲ賞賛セル多シ。大兵ヲ遣ヒコナシ給シコトハ、誰モ心ヅカズ、是ハ関ヶ原並ニ大坂夏ノ御陣ノ御籌算ニコソ知ラレタレ。関ヶ原ノ時先台徳公ヲ山道ヨリ向ハセタマウ、コレ兵法ノ多ケレバ分ツト云意ナリ。赤坂ニ御着陣アツテ纔ニ一日、合戦ハ明十五日場所ハ関ヶ原ト定メタマウ。抑関西ノ変ヲ聞タマヒテ、小山ノ御陣ヨリ江戸ノ城ニ着セタマヒシハ八月ノ始ニテ、御先手ノ井伊本多ノ二監軍ヨリ度々御出馬ヲ催促ナシタルヤハカ御出陣モナク、漸ク九月十三日ニ濃州赤坂エ着シ給ヒシホドノ事ナレバ、急ニ撃タネバナラヌト云敵ニ非ズ。又山道ノ軍モ今一日カ二日ニハ必到着アルベキニ、夫ヲ待合タマハズ戦期ヲ定メ給シコト、コレ御妙算也。当時従馳セル福嶋、黒田、池田、藤堂等ノ諸将モトヨリ旧従ノモノニ非ズ。コレヲシテ人々戦ヲナサシメザレバ、粉骨砕身ノ功ヲ奏シガタク、衆ヲ憑ミテ互ニ推誘スル如クニテハ、決テ勝ヲトリガタシト御思惟アリタルニテ、諸将モマタ株瀬川ノセリ合ニテ敵ノ容子ハシリヌ。兵士ミナ腕ヲ撫シ拳ヲ振テアハヤ明日ニモ合戦アレカシ、山道ノモノ共ノ鼻アカシテ大勝ヲ得モノヲト思フ気色ヲ、早クモ御覧ジテコソ御定算アリタルハ、兵機ヲ見コト信玄謙信ナンドノ及トコロニ非ズ也。大坂夏ノ御陣ノ如キ又シカリ。諸国ノ軍勢到着ヲマタズ、六日七日両日ノ合戦モ陣法兵制モナク出合ガシラノ闘撃ニテ、鉄炮セリ合ハジマルト早鎗トナリ、タガヒニ撃ツウタレツ爰ニモカシコニモ所々一時ニ起リ立、目瞬ヒマニ二戦ハ果タルニテ、頼宣卿(紀州ノ始祖)ノ輜重ニ档(とう:正しくは手偏にひかえばしら)ラレセキニセカセタマヒシモ、軍ハテゝ手ニ合タマハラヌヲ歎カセラレシ程ノ事ニテ、夫ユヘニ古老ノ武功者玉虫対馬、藤田能登ナンド甲州流ノ孫子三駟ノ法ナド云、二ノ勝ヲ持ナド云軍法トハ違ヒ、皆量見スギテ却テ卑怯ノ名ヲ取シゴトク無造作ニ戦ハ勝タル、是則チ神算也。昔モ戦闘ニ熟シタル霍嫖姚ノ言ニ、方略如何耳ト云、宋ノ岳武穆ノ運用之妙在一心ナンド云シコソ、兵機ヲ識タル金言妙訣ト云ベキナリ。

大坂城責ノ時寄手ノ陣ヲ巡視セラルゝニ、鉄炮ハゲシク来ル所ヲ避タマハズ御覧ジテアリシナドハ、唐山風ニテ論ゼバ暴虎憑河ノ勇ニ近ク、万民ノ主トシテ天下ノ大事ニ係ル御身ニハアルマジキ御事ノ如クナレ共、日本ノ風ニテハ主将ノ御身トテモ如此ナラザレバ、士気ヲ振奮スルコト能ハズ。此時ニ伊達政宗ノ城ノ際ヲ巡視シテ、弾丸ノ来ル時ニ馬上ニテ身ヲ俯縮セシヲ深ク恥テ、馬ヨリ下テ城ギハマデ至リテ濠底ヲ探テ静カニ帰ル。弾丸稠ク来リシガ幸ニ身ニアタラズト云事アリ。是等モ主将タル者ノ行ヒニ非ズ、鉄炮玉ニ向ヒタリトテアナガチ勇猛トモ云レズ、只ニ死ヲ怯レヌト云マデノコトナリ。又加藤嘉明ノ臣川木宗左衛門、黒川嘉兵衛ノ両人此時ノ戦ニ淀川ヲ渉ルニ、向ヒノ岸高クシテ馬ヲ乗上ゲカネ、人馬トモニ疲テ二騎トモニ押流レテ死シタリ、敵陣ニ向ヒテ前ノ川ヲ渉セシニモアラズ、只一旦スゝミタルヲ引カヘスハ卑怯也トノ意地ニテ、卒ニ死ヌ餘リニ呆豈(正しくは犬旁)ラシキ事ナレドモ、其頃ノ驍勇トイワルゝモノハ皆カクノ如シ。岳武穆ノ文吏不愛銭武夫不愛死ト云ガ如キ、実ニ死ヲ愛セザルノ極ニ至リシ也。

(後略)

(『続日本随筆大成』第三巻所収を底本としました。)

魏志倭人伝

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)

(読み下し文・全文)

『三国志・魏志』巻三〇 東夷伝・倭人(『魏志』倭人伝)

倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。旧百余国。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十国。
郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を歴て、乍は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里。始めて一海を度る千余里、対馬国に至る。その大官を卑狗といい、副を卑奴母離という。居る所絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余国あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市擢(元字はカイヨネ)す。また南一海を渡る千余里、名づけて瀚海という。一大国に至る。官をまた卑狗といい、副を卑奴母離という。方三百里ばかり。竹林・叢林多く、三千ばかりの家あり。やや田地あり、田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に市擢す。
また一海を渡る千余里、末盧国に至る。四千余戸あり。山海に浜うて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕え、水深浅となく、皆沈没してこれを取る。東南陸行五百里にして、伊都国に到る。官を爾支といい、副を泄模(正しくは言偏)瓜(正しくは角偏)・柄渠瓜という。千余戸あり。世々王あるも、皆女王国に統属す。郡使の往来常に駐まる所なり。東南奴国に至る百里。官を兒(元字は凹)馬爪といい、副を卑奴母離という。二万余戸あり。東行不弥国に至る百里。官を多模といい、副を卑奴母離という。千余家あり。
南、投馬国に至る水行二十日。官を弥弥といい、副を弥弥那利という。五万余戸ばかり。南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。官に伊支馬あり、次を弥馬升といい、次を弥馬獲支といい、次を奴佳堤(正しくは革偏)という。七万余戸ばかり。女王国より以北、その戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳かにすべからず。
次に斯馬国あり、次に己百支国あり、次に伊邪国あり、次に都(郡)支国あり、次に弥奴国あり、次に好吉都国あり、次に不呼国あり、次に姐奴国あり、次に蘇奴国あり、次に呼邑国あり、次に華奴蘇奴国あり、次に鬼国あり、次に為吾国あり、次に鬼奴国あり、次に邪馬国あり、次に躬臣国あり、次に巴利国あり、次に支惟国あり、次に烏奴国あり、次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり。
その南に狗奴国あり、男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり。女王に属せず。郡より女王国に至る万二千余里。
男子は大小となく、皆黥面文身す。古より以来、その使中国に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て咬竜の害を避く。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身しまた以て大魚・水禽を厭う。後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異り、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。その道里を計るに、塔に会稽の東冶の東にあるべし。
その風俗淫ならず。男子は皆露介(正しくは糸偏)し、木綿を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相列ね、ほぼ縫うことなし。婦人は被髪屈介し、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。禾稲・紵麻を植え、蚕桑緝績し、細紵・兼(正しくは糸偏)緜を出だす。その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。兵には矛・楯・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。有無する所、憺(正しくは人偏)耳・朱崖と同じ。
倭の地は温暖、冬夏生菜を食す。皆徒跣。屋室あり。父母兄弟、臥息処を異にす。朱丹を以てその身体に塗る、中国の粉を用うるが如きなり。食飲には邉(正しくは竹冠)豆を用い手食す。その死には棺あるも槨なく、土を封じて家を作る。始め死するや停喪十余日、時に当りて肉を食わず、喪主哭泣し、他人就いて歌舞飲酒す。已に葬れば、挙家水中に詣りて澡浴し、以て練沐の如くす。その行来・渡海、中国に詣るには、恒に一人をして頭を梳らず、幾(正しくは虫偏)蝨を去らず、衣服垢汚、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。もし行く者吉善なれば、共にその生口・財物を顧し、もし疾病あり、暴害に遭えば、便ちこれを殺さんと欲す。その持衰謹まずといえばなり。
真珠・青玉を出だす。その山には丹あり。その木には檀・杼・予樟・柔(正しくは木偏)・歴(木偏)・投・橿・烏号・楓香あり。その竹には篠・幹(竹冠)・桃支。薑・橘・椒・蕘荷あるも、以て滋味となすを知らず。爾(獣偏)猴・黒雉あり。
その俗挙事行来に、云為する所あれば、すなわち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀の法の如く、火拆(正しくは土偏)を視て兆を占う。
その会同・坐起には、父子男女別なし。人性酒を嗜む。大人の敬する所を見れば、ただ手を搏ち以て跪拝に当つ。その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年。その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし。その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸および宗族を没す。尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。租賦を収む、邸閣あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。
女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏愽す。常に伊都国に治す。国中において刺史の如きあり。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、および郡の倭国に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。
下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲りあるいは跪き、両手は地に拠り、これが恭敬を為す。対応の声を噫という、比するに然諾の如し。
その国、本また男子を王となし、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて国を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。
女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。また侏儒国あり、その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸国・黒歯国あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋五千余里ばかりなり。
景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わし、将って京都に詣らしむ。
その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。汝がある所踰かに遠きも、乃ち使を遣わして貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮授せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。汝が來使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。今、侯(正しくは糸偏)地交竜錦五匹・侯地芻(正しくは糸偏)粟ケイ十張・センコウ五十匹・紺青五十匹を以て、汝が献ずる所の責直に答う。また特に汝に紺地句文錦三匹・細班崋ケイ五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。
正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔を齎し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・釆物を賜う。倭王、使に因って上表し、詔恩を答謝す。
その四年、倭王、また使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・コウ青ケン・緜衣・帛布・丹・木付(正しくは獣偏)・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。
その六年、詔して倭の難升米に黄憧(正しくは巾偏)を賜い、郡に付して仮授せしむ。
その八年、太守王斤(正しくは頁旁)官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。和の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄憧を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為りてこれを告喩す。
卑弥呼以て死す。大いに塚を作る。径百余歩、殉葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告喩す。壱与、和の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二枚・異文雑錦二十匹を貢す。

(『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』岩波文庫版を底本としました。)











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嬉遊笑覧巻之一

嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)

喜多村信節著
(一部)

巻之一 上

(略)

○局は、女房の居処にかぎらず。禁中に侍従局・内記局・監物局等あり。役所をいふ。『庭訓』などに「局部屋」とある部屋は役人の休息所なり。局をつぼねといふは、つぼやかなる義也。『日本書紀』に「一部」を「ツボ」と訓る。是なり。桐壺・梅壺などみな其一区をさしていへり。『栄花物語』はつ花、「おの/\屏風をつぼねつゝ」。『同』わかばへ、「屏風・几帳ばかりをひきつぼねて」。『今昔物語』、信濃守なる人御坂に落入語に、「宿直壺屋といふ」も有。又、前栽を壺といふは今もいへり。いづれも同義なり。『南留弊志』などに、「梨つぼ・桐つぼ等は壼(コン)と壺(コ)ととりちがへたるなり」といひ、『東雅』に、「何壺といひしものは宮中の道をいひしにはあらず。漢に庭院などいひしもの即是也。しかるをかく名付しは、その人間のさかひにあらざるをもて、方壺・瀛壺などいふ義にとられて、御壺などいひしこと、猶上皇の宮居を仙洞と申す如し」といへるは、いづれもひが事なり。

(略)

○屋根、屋制を『東雅』に、『儀礼』また『爾雅』によりて云。「其制五架なり。正中の衡梁を棟といふ。むね也。其次を屐といふ。これもやなり。(分注に)是は前後に一つづゝ二つある也。もやを母屋としるす。古におもやといふ。又、其次を眉(正しくは木篇)といふ。まぐさといふもの、是なり。これも前後に一つづゝ二つ也。棟と屐と眉と合せて五架といふ。眉の下は門戸を設くる処なれば、眉は門戸のうへの横梁也。まぐさとは、古語に二つあるものをまといへり。屋の両下の制をまやといふがごとし。又、物の限りをきさといふ。波限をなぎさといふが如し。きさをくさといふは転語也。屋の前後両旁の限りある横梁なるが故也。凡屋の内にあらねど、門戸のうへの横梁をばまぐさといふ事になりぬ」といへり。これ屋造りの大よそ也。屋根とは、『万葉集』に見えたり。四阿・両下(マヤ)は『催馬楽』に出。『梁塵愚按抄』に、「四阿は御所造などの四方に軒ありて、雨だり四方におつる屋也。両下は台の屋づくりの両方に雨水落るをいふ」とみえたり。『源平盛衰記』に、育王山に金を送る条、「すなはち檜木のざいもくをもつて、ほうきう作りの御堂をたてゝ云々」。ほうきうは宝形の誤なり。四阿の屋にして屋頂に宝珠の形を設くる也。今は唯、四方に屋の垂たるをほうぎょといふとぞ。屋を葺に檜皮は異なるにや。『職人歌合』、「軒つけをまづふきそむるひはだやのまだむねあはぬ恋もするかな」。『太平記』に、「常法には四品已下平侍は関板打ず、のし葺の家にだも居ぬことにこそあれ云々」みゆ。諸大夫といへども、武士の家は板葺・草ぶき歟(武家板ぶきの事、『海人藻芥』にみゆ)。『北条五代記』早雲寺殿廿一ヶ条に、「四壁・垣根・犬のくゞり処を塞ぎ拵さすべし、下女つたなきは軒を抜て焼き、当座の事をまかなひ、後の事をしらず。万事如此あるべしと深く心得べし」ともみゆ。のし葺は小まいぬきを用ひず。広き板にてはりつめて、上葺するなりとぞ。『寛正五年甲申四月糺河原勧進猿楽日記』、「桟敷之次第、のし葺の分は已上御簾、取ぶきの分は悉く芦簾也。舞台のしぶき、西にひさし有。橋がゝりにもやねあり。広板ぶきかうらん竹」と有。又、こけら葺も今製とはかはれりと見えて、『著聞集』に、渡辺の薬師堂こけらぶきを修理する処、「この堂建立の年紀をかぞふれば、六十余年になりにけり」と有。かく久しくたもつは、葺板の厚き事もかさねの多きこともおもふべし。取ぶきは『落穂集』に、江戸のむかしの事をいひて、「こけら葺と申は、一ヶ所も無之。悉く日光そぎ・甲州そぎなどを以てとり葺いたし、其外かやぶき也」といへり。『西鶴織留』に、伏見の里なる質屋の事をいひて、「取ぶきやねの軒ひくきを作事して、瓦ぶきに白かべ、京格子を付ければ云々」。また『永代蔵』に、是も同じ里の荒たるにはかなき職人などの住よしいひて、「取ぶき屋ねの輪、扇の要刻み」と見えたり。取ぶきやねとは、そぎ板を排次て、押へに石または木などを載置也。今も諸国に此製あり。やねのかうばえ低せざれば危うし。その輪といへるは、上におく石、その儘にては転びやすければ、木または竹をもて輪に作りて、是を敷なるべし。かな釘にて打なば木石置でもあるべけれど、そは用途あまたにてたやすからねば也。古へのこけら葺といへるは是なるべし(『庭訓』に「組押榑」とあるを、或説に、「木を井桁のごとく組つらねて屋の上におき、風の吹損ずるを防ぐ」、又『同書』、「襲木は右押榑の上に太き木を横に置たる屋はあれど、木と石を置たる屋見えたり、貧家には石をも置べし」とあるは非也。古画に木石を置たる屋はあれど、木と石とに貧家の差別有べからず。『庭訓』にいへる押榑は組をおさふる也。板はふくといひて組とはいはず。襲木もいかゞあるべき。組とは天井なり。押へはそのうへにおくをいふなるべし。襲木また異処の材ならん)。

○檜皮屋、坪数のこと。『山城名勝志』鳴海村、『南長尾保古文書』を引て云、「爰成多喜堂(号�願成寺�)、修理料檜皮捌拾井(最上五尺井縄定)、直銭捌貫文代被レ宛�行檜皮大夫紀恒弘�也云々」。按るに、井といふは、今一坪などいふごときか。五尺井縄は五尺四方にはあらず。一束の大小、縄の長短を以て定る。今も屋根板に四尺縄などいひて、一束の多少を定むる、是なり。檜皮等の法に倣へるか。されば屋根板葺に是をかや足といひ、又、巻がやなどいふ葺かたもある也。『宇治拾遺物語』に、「五石なわの釜を五つ六つかきもて来て」。『玉勝間』に、「今世に一斗ばかり入べき鍋釜を斗なかといふことあり」と、是なり。其法縄をもて定めしものとみゆ。

○地葺といふこと、『事跡合考』に元禄中の事をいひて、「こけら、又、とぢ葺にても、速かにせむとするに、兼て幾枚も地上にて葺置、其儘持上り、取合せの処にて釘じめに致候間、暫時出きたり。是急用のこけらやね、地ぶきといふことの始也」といへり。こけらは柿の字なり。『和名抄』造作具に見えて「削木の細片」をいふ。其魚鱗に似たればこけらといふとぞ。『西鶴置土産』に、「焼木も舟大工のこけらを用」。『佐夜中山集』、「鱗をば取ふきにしてこけらずし」。又、とぢ葺は二分とぢ・三分とぢ・五分とぢも有。板の厚さをいふ也。重りては五、七寸の厚みとなる。とぢとは綴の義か。『衣食住記』(作者をしらず、天明の今六十歳と云)、「享保の中頃迄は諸侯・大夫の殿門、表長屋のや根は厚さ五、七寸のこけら葺、棟は瓦を置、烏飛といふ木をわたし、井筒に天水桶を入、火敲を添やねに上置、腰板は栂・檜の節なしきらびやかなりしに、度々の火災故、用心のためにとて瓦やねに作りかへ、腰板も腰瓦にかはれり」。又云、「小屋敷・町屋などは、蠣殻をやねにあげ、軒に介留を板にて打」。新見老人の『昔昔物語』に、「むかしは江戸中に蠣殻葺四、五軒ならでは不見、近年は大かた蠣殻葺となる」と有は、享保十七年に記しゝなり(火の見やぐらを世に享保ごろ出来しといふは非なり。貞享三年寅九月、「火のみやぐらに番置候儀、来月中は風吹候時ばかり差置可申候。十一月は昼夜置可レ申」といふ『町触』あり。又、貞享・元禄ごろ専屋根番とて、屋ねに登り火を見し事あり。其居処作りたるは今も家々ある、火のみなるべし。享保十四年已酉閏九月晦日、「先達而被仰付る町々火之見之儀、其後類焼又は破損等にて建不申処、早々相建可申旨云々」ありしを、此時出来しやうにいふなり。其頃茅葺・わらぶきの小屋は、家根を土にて塗らせらる)。今世土蔵より庇を造り出し塗屋にしたるをぬりたるといふ。そのかみよりの名にや。其角が『類柑子』に北窓の条、「西北にならべる塗垂の間に一株の柳あり云々」。上にみえたる烏飛といへるはからすおどし也。『徒然草』に、「後徳大寺の大臣の寝殿に鳶居させじとて縄をはられたりけるを、西行が見て、鳶のゐたらむ、何かはくるしかるべき。此殿の御心さばかりにこそとて、其後は参られざりけると聞侍る。綾小路の宮のおはします小坂どの、棟にいつぞや縄をひかれたりしかば、彼ためし思ひ出られ侍りしに、まことや烏のむれゐて池の蛙を取ければ、御覧じ哀しませ給ひてなむと、人のかたりし」。

○屋根に用る板、『衣食住記』に、「屋根板は元文の末より杉を片出し月役といふもの有て、こけら葺の下地に用ひしが、是も同頃より(享保年中)広こまひといふ物を工夫仕出し、月役はなくなりぬ。瓦下に杉皮葺を用」(広こまひ、此時始めにあらず)。『雍州府志』、土佐国産物の内、「野根山所出之材、其条理直而、宜レ割レ板。是称�野根板�、また長片といふ。又、方にして細長きものを月役といふ。凡杉あるひは檜を一尺余に伐り、刀もて割たるを片板といふ。又、曾木といひ桁(クレ)ともいふ。もと安芸国より出し故に、庭訓に安芸桁と称す。然れども京師に専ら用るものは信濃木曾山の産さわら木を良とす」。『塵塚噺』、「我等二十歳ころ迄は月役といひ、長さ一間に幅一寸四、五分の割木を以てのぢにし、それより板にて葺、そのうへに蠣殻を敷并ぶる也。月役は田舎にて婦女経行の節は別居して、其節の仕業に屋根に遣ふわり木を拵へし故に、月役と名付し也。京保・延享の頃はのぢは皆月役にて、今の小舞貫は用ざりし也。伊豆国七島などにては、経行を他家ととなへ、住居を隔て小き藁ぶきの家を村々に作り置、経行之節、臨産の時は右の他家へ遣し置事也。経行の忌は七、八日、産婦は五十日も過て家に帰るよし」といへり。のぢとはのし地の略か。のしは熨斗にて平かなるものにいふ。他家は寛永ごろの俳諧に往々みゆ。『発句集』、「たや色の紅葉は月の障り哉、休甫、立田姫たやをやこぼす下紅集 貞徳」(この句は『犬子集』にも出たり)。『安布良加須』に、「客人やさし合ありて帰るらん、たやの日数を待はうかれめ」(『古事記』に美夜受比売月径の事みゆ。そのけがれの事、『伝』にくはし)。

○家にめかくしといふもの、『菟玖波集』に、「脆西上人雲居寺の遊楽堂にすみ侍りける時、坊をふかせけるをみて、京極前太政大臣 ひじりのやをばめかくしにふけ、脆西上人 あめのしたもりて聞ゆる事も有」(法師に、「女かくし」といふ。たはぶれなるべし)。

○三階作りまた江戸町瓦ぶきのこと、『見聞集』に(慶長中記なり)、「今の江戸町の家造りをみれば、二階・三階のとぢ葺瓦ぶきにて云々」。又、「慶長六年十一月二日、するが町かうのじやう家より火出云々。町中草ぶき故火事絶ず。此序にみな板葺になすべきよし御触有て、町悉く板葺に作る所に、滝山弥次兵衛といふ者、諸人に秀て家を半分瓦にて葺、うしろ半分をば板にて葺たり。皆人さたしけるは、本町二丁め滝山弥次兵衛は家を半分瓦にて葺たり。扨もめづらしやと褒美して、異名を半瓦弥次兵衛と云。是江戸瓦葺の始也」(『落穂集』に、「酉年迄は町方の普請も叮嚀に有之。大伝馬町佐久間と申町人、表を三階家に致、二階・三階には黒ぬりにしたる串形窓を明ならべ、殊外目立たり」と有。町家三階造、其後聞えず。火災の度毎にさま/\〃にかはれり。寛文元年丑五月、「町中わら葺・茅葺小屋のやね、土にて塗可申」。又十二月、「わら屋・かや、瓦新規に作候儀、自今已後堅無用」。猶寛文八年申九月、「屋ねを土にて塗可申」と『町触』あり。貞享・元禄迄も町中に件の様なる麁屋見えたり。○三間余の梁は御法度あり。寛文八年申三月、「町人家作り軽々いたし、長押・杉戸・付書院、橡形・ほり物・組もの無用。床ぶち・さんかまち塗候事、并唐紙張付停止之事」。「大名衆・御旗元、并寺社方誂られ候共、三間梁より大なる家は今度御法度被�仰付�候間、自今已後請負仕間敷旨、町中棟梁・大工并普請受負仕町人共に、急度可�申渡�事」と見えたり)。



巻之一 下 

(略)

○額を抜にさま/\〃あり。貞室が『嘉多言』に、「そがうびたひといふは、十河殿といふ武家の人の頭つきよりいひ出たる事とぞ。無下に近き世の事也」(此書慶安三年の刻なり)と有。三好に与したる十河氏なるべし。此風女も学べり(下の女けはひの処にいふ)。『安斉随筆』、『錦芥抄』を引て云、「額を四角にせしは、越前の追手といふ相撲のせしを、みな学びてなり。昔ははながみひたひとて、丸らかに少し抜し也。此説のごとくなるも、本は男達の風にならひし也」といへり(安斉は古風には額ぬく事なしとするより、かくいへり。丸らかに抜は月代也)。はなかみとは、物の端をはなといふ。かみは髪にや。又、みやびたるを花香実などいへる、それにや。箕山が『大鑑』に、「ひたひは大びたひに百会の穴迄取あげ、角を錐さきのごとくとがらせて抜上ること、六法むきの輩、是を用。尤も此道の一派にありといへども、多くは卑賎の所作也。小者中間これを専とすれば、彼に比せむは口惜かりぬべし。されども額はひらき、かり高き方まさる。高く取すべしたるはいやし。ひきからずとみゆる程に有べし。角は蛤角に取べし。猶額の至極は、おのれなりにきはだゝずして、鬢さきのみ、きしりと取廻したるを最上とす」。『洞房語園』に、「男立深見十左衛門といふもの有。延宝年中浪花の宗因、江戸に来りし時、十左衛門其社中に入、それが発句に、名月やきて見よがしの額際、といへり。額を広く抜あげたる故なり。その句の端書に、(上略)治る御代の月はさえて、仲の大路は艶色の最中、前から見えぬひたひ際を来てみよがしのとうたふはたそ」。深見十左衛門と有は、其頃吉原にて小歌にうたひし也。此事『任侠伝』にも出たり。此男髭を生じたる故、髭の十と異名をとれり。『同書』一麿が鯨の発句の端書にも、「髭の達人は唐土に関羽、日本に朝比奈・宗祇、女郎買に無休あり。十あり云々」。又、唐犬権兵衛といふ男立も、大びたひに名高く、唐犬びたひといふこと今にいひ伝ふ(是彼百会の穴まで取あげといへるなるべし)。これは十左衛門などより前のこと也。『一代男草子』承応年中の事をいへる処、「其頃世之助は江戸に来りて、唐犬権兵衛がかくまへて有ける。あたま付、人にかはり云々」あり(大額を世人好みしとみえて、『寛文二年寅七月町触』に、「町人若き者大びたひ取候もの有之。自今已後、無用可仕事」と有。唐犬が組のもの、享保中迄も九十歳ばかりにて、ながらへゐしとぞ)。此等の男立の悪風俗、室町将軍の時より盛りなり。其頃異風の出立したり。半頭なども多し。これは若き武士にも有て、古画にみゆ。常の奴あたまの中程に横に毛を剃残して、今俗これを障子といふ。その処まで剃て、後のかたをそらで置、是半頭なり。又、半かう剃ともいふ(猶相撲の条にいへり)。

○茶筅髪、種々の躰あり。『落陽田楽記』には、「これ放髻」といへり。又、烏帽子したは『貞順故実集』に、「元服の事、髪の根を三重に結候て、わなに留候。又**計置て右のごとく、又、結候。結留はぼんのくぼのかたにあるべく候。其先を引合二枚にて文などのごとく巻て、又、其上を結候へば三々九にて候。髪のうらを柳の板にあて候て、三刀にはやす也。又、五刀・七刀にも能々はやし候を、三度もみ候て、息をしかけもみ申候。扨又、上のかたの結目を解て、根の髪計にて烏帽子を着候。其後上下を着候て祝ふ也」(上下は素襖也。元服の事『秋草』にも出)。これは正しき躰也。『老人雑話』に、「信長美濃の斎藤が許へ聟入に行し路すがら、広袖のゆかた茶筅髪なりしを、迎ひに出たる山城が家老其様をみて、肝をけしたる」よしみゆ。今夫に離れたる婦人の茶筅がみとて、結ふをおもへば、前に向ふも後に仰ぐも茶筅の形したるをいふ名なるべし。織田家にて御茶筅といひしも(信雄の幼名)髪の風によりていひしとしらる。『鷹築波』、「正親 しな/\〃の茶筅がみでや木曾をどり」とあるにても、種々ある事はしらる。元隣の『宝倉』に、「茶筅がみは、なめげなるものなれど、少年の風呂あがり、おもひすてがたきものにして云々」。『松の落葉』源五兵へ踊、「さつま源吾兵衛は目に立男、しやれた髟つき、茶せんがみ、寐て又起ても茶せんがみ」。又、彦惣踊「あたまちやせんでふともとで、ほそもとで、ふともとほそもと、ひきしめて、地下でひとりのだて」。『賢女心粧』に夫婦いさかひする処、「亭主は茶筅がみになりて云々」などあるは、放髻にてことさらに結べるにはあらで、髻のはじけたる也(すべてもとゞりのみして、わげざるは、みな茶筅髪といふ)。

(略)

いにしへより移り変れる時勢粧のこと、委しく知べからねど、武家盛りにして、鎌倉風行はれてより、やゝかはれる事も多かんめれど、猶四民ともにえぼし着たる迄は、いたく異なるやうも見えざるにや。応仁のみだれより後は、戦国の余風改まらず、鉛革せし事もいよ/\多かるべし。

○『太平記』廿一、「公家の人々鎌倉風を学びならふ」といふ事、前条に引たり。又、『建武年間記』元年落書に、「此ごろ都にはやるもの、まな板烏帽子ゆがめつゝ、気色めきたる京侍云々。尾羽おれゆがむゑせ小鷹、手毎にたれも居たれど、鳥とる事は更になし。鉛作りの大がたな、太刀より大にこしらへて、前さがりにぞさしほらす。ばさら扇の五骨、ひろこし、やせ馬、箔小袖、下衆上朖のきはもなく、大口に着る美精好、鎧ひたゝれ猶不捨云々」。又、同時の法度条々、「一、鎧、直衣、蜀錦・呉綾・金紗・金襴、紅紫之類、細々警箇之時不レ可�着用�。一、精好大口一切停�止之�、可レ用�練大口�」と有。大かた猿楽能にみる処のさましたり。又、ばさらといふは、『太平記』に、「佐々木道誉が一族若党共、例のばさら風流を尽し、西郊東山の小鷹狩して」と有。ばさら風といふ事、その頃のはやりことにて、猿楽狂言の詞などにも有。『鴉鷺合戦物語』、「けしからぬ事ばさらにて、煉ぬきの母衣をかく」といへり。美を好み侈りたるさま、今いふ、だてものなるべし。闊達の意也。狼藉のやうにも称せり。もと婆裟の字義なるべく、らは助詞ならむ。五骨の扇は中啓にや。末広がりたれば、ばさらといふ。今俗にばさけるといふなり。土佐節浄るり『草ずり引』に、「あふぎうちはのばさらゑにも、うで押・くび引・草ずり引」といへるなどは、唯無骨なる事にいへり。又、はすはの意にもいへり。『去来抄』に、はいかい付合のことに、「白粉をぬれども下地黒い顔、役者もやうの袖のたきもの。此前句今やう、ばしやらの女とみゆ」といへり。

(略)

○だて風、濁りてとなふれども、だては立なり。物を立とをさむとするをいへり。『著聞集』十五、西行法師の事をいふ処、「世を遁れ、身を捨たれども、心は猶昔にかはらず、たて/\しかりける」。『沙石集』巻六に、「山伏はたて/\しきものを」、又、「ある女房腹あしくたて/\しかりける」。又巻五学匠之怨解といふ条、「太刀を抜て走りかゝりけるを、何事ぞといへば、一日悪口したりし、ためしたてんずるぞかしといひける」と有。このたてんずるといふ詞、たて/\しきたてと同じ。後世たもじ濁りていふは、男立、腕立と連声の濁りによる也。さるを伊達氏の小僕が風也などいふは、傅会の説なり。世に人とたてをつくといふは矛楯の義也。歌舞妓に闘の学びをたてといふは、立はたらくの故也。立役といふも此義なるべし。だて風、是を奴といふ。奴と称するに一種あり。奴僕の事にあらず。侠客にして腕立する也。『百物語』に、「あづまの奴を見侍りしに、音に聞しに十倍せり。其たけ六尺あまりの男、大ひげをねぢあげ、先肌には牛首布のかたびら着、上にはふと布のしぶぞめにのりをかひ、馬の皮のふと帯しつかとしめ、熊の皮の長ばふり、まつすぐなる大小十文字にさしこなしたるけしき、身の毛もよだつばかりにて候ひし」(是はことに其さまをしたゝかに書たるながら古きかぶき絵、金ぴらなどの躰、是なり)、『似我蜂物語』、今の都のはやり物といふ諺の中に、「やつこたゞ中、道心者」(これは寛永頃の事にや)、男を立べき最中出家するをいふ。其角が「鉢叩の歌」に、「七十古来稀也と、やつこ道心捨ごゝろ」といへるも是なり。『紫の一本』市谷八幡の条、「祭はさのみ結構にはあらねど、祭に出る男は、みな山の手の奴と人のまねる男ども也云々。是を堺町・木挽町にてまねて、諸人にみせて、遠国迄もしる。当世のはやり物、はやり詞、みな山の手筋より出」といへり。かゝりしものも今は唯赤坂奴の名のみ残りて、常にいひなれたる有。『百物語』に奴はいかいを載たり。「びん水にあたまかつはる氷かな、しやつつら寒き雪の朝ぼの」。『古今夷曲集』、「月を奴詞にてよめる、読人不知、片わきへつとそびけらふ見たくない邪魔入申す月の村雲」。『松の葉』三谷をどりといふ長唄、「だてもうすきも命の内よサ、やがてしぬ/\ひつひけうんのめさはげ、あすをもしらぬ身に」。これらの起りは茨組などの悪風より出たり。鞘あてなどゝいひて、これを咎め、口論す。されど慮外を咎めて免さねは、武家の古きならひと見えて、『古事談』第四、「義家の郎等美濃国にありしが、国房が為に笠咎の間、弓を被レ切」といふこと、又『今昔物語』廿五、「平の惟茂が郎等、慮外馬咎めに射ころしたる男の子のために、被レ殺たる」物がたり有。また『師門物語』に、国司の法制をいふ処、「悪等もののしりあひ、笠咎、おしあひ、かうせき、まちさうどう、あしき事を成敗して云々」。これ後世鞘あての類なり。されど鞘当には、けんくわをかひて、しかくるもあり。『鷹筑波集』、「小尻とがめのけんくわ出来たり、若衆のりんきや酒のゑひ心地」。また同頃の発句に、「螢火の小尻とがめや月の剣」。『一代男草子』芝居町のぞめきをいふ処、「恋も遠慮もむしやうやみに、みしりこしなる人ごとに恐るらん、鐺とがめをしても益なし」。『五元集』、「花に鐘そこのき給へ喧嘩買」。『温故集』に、「万民太平をうたふといふことを、さやあてをさする御代かな山さくら 貞佐」。さて喧嘩買は『室町日記』に、「浪花にて有徳なる者どもの子供、さるべき剛のものをかたらひ、百人、百五十人ばかりにて、堺大小路、天満を始として、人だち多き片を撰みて、異類異形の出立にて、喧嘩かはふ/\と五人、三人づゝ触て巡りける。諸人おそれおのゝきけるを、その頃高橋作左衛門といへる浪人出あひて、其中にて勝れたるものを二人切殺しければ、其余の者どもかさねて一人も出ざりしこと」を記せり。其躰をいひたるに、「大の男のつらつきまなざしいかめしきが、頭は半頭にして、頬髭うは髭あく迄むくつけき云々」有。『百物語』には、「けんくわ売り、遁れたる物がたり」有は、けんくわ買のうらをいへる也。『東海道名所記』に、けんくわを買に来る奴どもみえ、『洞房語園』に、「万治・寛文の頃、町々に六法男立といふ者徘徊して、各一組の異名あり。鶺鴒組、吉屋組、鉄棒組、唐犬組、笊籬組、大小の神祇組などゝいふ者ども、吉原へ入込、抜折羅狼藉の事共度々に及」。『同書』、日本堤謡の中に、「或は白柄ハツハの大小、よしや風の掴みざし」、『一代男草子』、「はさみ箱持、小者と召つれ、よき風の大男、はかま高く、すそ取て、大小よしやがゝりに、あみがさふかく著て」などもあり。此よしやといふことは、浮世くるひ、ばさら風流に出立を、よし人は何ともいはゞいへと、他の謗を顧みざるをいふ。よしやわざくれといふは其頃のはやり詞也。『洛陽集』(延宝八年撰)、「よしや渡世砥水位流るゝ若たばこ 元好」、是もそのかみイ烟草をそしる者多けれども、行はるゝ故にそれをかへりみず刻みて売也。鶺鴒組とは『卜養狂歌』に、せきれいの画に、「当世のよしはらたゝき女郎たゝきこのとりんぼは岩たゝき哉」。はやり詞の女郎たゝきといふより、せきれいと付たる也。鶺鴒は庭たゝき、岩たゝき等の名有。とりんぼは鳥にいひかけたる也。とりんぼのことは吉原の条にいへり。又、大小の神祇組とは或説に、仁木某といふ人、其魁たるによりて仁木組といふと有は誤り也。これは誓詞の言に日本大小神祇とあるを取て其徒を結ぶ誓こと也。『昔々物語』に、奴の事をいへるには、「大身小身の歴々にも奴あり。下々は中小性、徒若党、中間迄も奴あり。身を労する事をいとはず、忠直なるを第一とし、専ら武を励み、意気あるをいふ。歴々には其頃奴の番頭ありて、十三ヶ条の条目などあり。是にかなふ奴をよき奴といふ故に、いづれも利発ならざるはなし。其頃浪人また町人にも是を羨み、町奴などゝて有しが、歴々の奴とは風も違ひたり」といへり(右其党をなしたるは茨組、革袴組など古くあり。また、木鳥市兵衛といへる者などは、後世の幡随院長兵衛等が如きにあらず。剛勇なるもの也。歴々の奴を羨みて町奴出来たるにあらず。もとより其風有し也。今の世も女にだに、はすはなるをきやんといふは侠の音也。またやつこともいふなり。みなむかしの名残也。)(○此風の者、其後迄もありて、「宝永七年庚寅四月、先年有之候男立の類并鳶之者、頃日町人方へ参り、何角ねだりケ間敷儀申、町人共致難義候由、相聞え候云々」などの『町触』有)。

○男子の髪の結ぶり、『織田家記』に、「将軍上洛の時、信長令して云、信長に同心せむものは月代を広大にして半頭をそり、下髻をすべし」とあるは、広大に頭をそりてはおのづから下髻となる也。其頃の画をみるに、髻ぼんのくぼのあたりにして、丸め束ねたり。其の後は次第に剃りて糸鬢さへ出来し也。箕山が『大鑑』に、「鬢の厚きは賎しからねど、初心めきたり。糸びんに剃さげたるは健かにみゆれど、凡卑也。細して毛先のあがりたる猶いやし。びんはたゞ厚からず細からずして直なるよし、是をわけていはゞ、細きかたによるべし。生さがりはなきかた勝るべし。おくれがみは一筋ありてもあしゝ。髪の結やうは立がみ・銀杏がしら・ふと元結、これ六法むき、陽気ものゝ好むところ也。少年の内は元結細きを用。男になりては初心めきたり。然れども、ふと元結の類にはあらず。細からずしてふとめなるを少し巻。まき過しは深く嫌ふ。小切目に仕立る男ならば、髪短かるべし。こうとうなるは、わげを出して鬢先長かるべし。つとのあるはよろしからず」(これ延宝中にいへる事なり)。びんの広狭もさま/\〃かはれり。『諸艶大かゞみ』に、「俄に厚びん、はきかけの帯がおかしたい」などいへる。此ころより厚きも始まれり(猿楽はむかしより厚びん多し。是を学ぶもの其風に倣ふ)。されども今のごとくにはあらず。又、前をば広く剃れども、後は多くそらぬにや。はけ大かたふとし。上にそらしたるを『我衣』に、「蝉折といふ」と有。これは天和ころ、もつはら見え、元禄中も此躰也。師宣が画をみべし。又、はけ先を広げたるは、箕山がいへる銀杏がしらなるべし(今曲の後を広げたるをいふとは異也)。寛文ころの画に多し。髪先をハケといふは何のよしか。思ふにもとゞりして末をひらめ、櫛にてけづる時、其さま刷子に似たり。是をはけ先といふ。さて曲て結たる後は円く細げて置も、猶はけ先位といふはあたらぬ名にや。『我衣』に、「宝永ころ、浄るり太夫江戸半太夫、ばちびんにて、はけ長くたてかけといふ。中ぞり有」(元禄の初、中村伝九郎といひし俳優、この風にて有しとぞ。半太夫が風を少し直したる歟)といへり。『世事談』に、「頃日辰松風とて、元結をこと/\〃しく長く巻、月代のうへのかたへ高く、曲をもつたてたる風あり。辰松は人形遣ひなれば、仰ぐに曲の方、襟の中に入乱るゝ故、髪を高く結也。此風世間にはやりて、うつぶきて業をするものも、これを好めり。うつぶけば、常のかみも高くみゆるを、ましてそらざまに結たる髪、見るだにもうたてかりける」(かくいへるは享歩保十八年也。この髪は曲の元結を針にて留しと也)。『賤小手巻』(作者不知、延享前後の事を記せり)、「ぞべ本多とて、中ぞりをいかにもひろく剃、かみの間より中のみゆる様にして、根をゆるく、わげと一との間際にして、月代にのぞきたるやうにまきかけて置なり。多く堺町辺の歌舞妓ものゝあたまつきにて、歴々にも若き人達、その如く結せて勤むる者も有。不相応のあたま也」(これ上にいへる半太夫が風より出し也)。『居行子後篇』、「三十年ばかり已前は男の髪、合鬢といへば遊治郎のやうにありて、愚も若かりし時は、しかられたりき。移りかはり、今はむかし風となりて、時々のはやり曲、のぞき・のんこ、或は宇和島・ふかし鬢・巻鬢など、いろ/\にかはり行」といへるは、安永五年のことなれば、是延享中浪花の風俗也(『塵塚噺』に、「我等若年の頃、武家の前髪の者は、かきびん、年老の者はあはせびんといふに結たり。左右のびんがみを髻の下へ合せて、まげは前に束ぬる也。此両様近年はさらに見えず。今もかぶきにて由良之助は合せびんにするも有」)。『賤小手巻』、「享保中、宮古路といふ浄るり語り下り、浄るり行はれ、それが風を学びて文金風といへり」。『下手談義』に、「時代/\で伽羅油もつけねばならぬが、それも品が有。其巻びんおいてくれ、小袖のたけが長い、大脇差は居合抜の薬売に払つてやれ。一つ前に着る物きるな。前帯もするな云々」。又、豊後ぶし語りの事をいふ処、「律義の息子も一度この門に入ば、惣びんの毛逆だつて、まげは頂上にあがり、眉毛ぬけて業平に似たり。羽をり長うして地をはらひ、みるもの驚歎せずといふ事なし」。『賤の小手巻』に、「豊後ぶしの流弊、次第に淫風にうつりて、遊士俗人の風、あらぬものに成行て、髪も文金風とて、わげの腰を突立、元結多く巻て、まき鬢とて、びんの毛を下より上へかきあげ、月代のかぎはにて巻込て、結たり。衣類対たけの羽織を着、長き紐を先に小く結び、下駄の歯にかゝるやうにして、腰の物は落ざしにさし、懐手して駒げたをはきて、市中をぶら/\とあるきたり」。『江戸名物鑑』、「春の日にくらべん紐や羽織連」(『我衣』に、「元文元年より上がた浄るり太夫の風を学ぶ。髪油がため、毛筋われめなし。元結多く巻、入がみ少し入、はけ先竹の串入る。都風呂風ともいひ、文金風ともいふ」と有。これ先に辰松風といひしものにて、少しかはりも有べけれど、此時はじめにはあらず。自笑が『色三線』に「ふからくる男、当流のあとあがりのあたま云々」ある、是なり)、『同』云、「豆本多といふは、至極髪をつめて尤すくなくして、わげいかにも小く、豆粒のごとく結也云々。又、巻びんとて、鬢の毛を上へかきあげ、かぎはにて巻込て結たり。いづれも文金風より後の事也」といへり(巻びんは文金風のびん付なり)。『我衣』云、「芝の肴売、日雇取など、正徳ごろ迄三つ折かへしといふ髪位也。元結頃材木屋風也」といへり(つゝ込といふは、近くも結たりとかや。或髪結云、「つゝ込は元結一寸余まく故、油にて元結の汚れぬやうにする手ぎは也。元結三筋ほど続て結故に、油にて汚れがちなるをいとひて、坂倉屋源七といふものなどは、銀のはりがねを用ひたり」とぞ)。小額を置、ひたひ少し異角を入抜たるも宝暦頃よりとぞ。其後は下撫本多など有。『娯息斎集』(明和七年)、「屋船強飲略語遊、下撫本田自風流」。

(略)

○安永中平賀源内、菅原櫛といへるをし出しけるに、或人狂歌を贈りける。「酔て来て小間物みせの御手際は仕出しの櫛もはやる筈也」。返し、「かゝる時何とせんりのこまものや伯楽もなし小遣もなし」。此櫛も瞬息の間の事とみえて、今その形状をしらず。

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(『嬉遊笑覧』一 岩波文庫版を底本としました。)

巻之二

嬉遊笑覧巻之二

喜多村信節著
(一部)

巻之二 上

(略)


上古は帯をタラシと云。仮字に多く用。古歌に「御帯の倭文服結垂」とある如く、帯は結垂る物なる故に此名あるなり。

又古も今も紐を解はたはれたること也。『古今集』秋上、「もゝ草の花のひもとく秋の野に思ひたはれん人なとがめそ」。

古への帯はその服の裁余をもて作れるものにや。『源氏物語』紅葉賀、「おびは中将のなりけり。わが御なをしよりは色ふかしと見給ふ」(典侍のもとより落たる帯を源氏へ返したるに、頭中将の帯にて源氏のにはあらず)。『花鳥』に、「聴直衣人、昔は直衣のきれを帯に用ひたる也」と有。但し女の帯のさだめにはあらぬにや。『七十一番職人歌合』、帯うり有、「人妻にかけし衣の細帯のくけ地もあらば嬉しからまし」。其頃女の帯も男帯の広さ二寸ばかりもあるらむと見ゆるを、左右はいづれにてもあれ脇の帯を被用候つる。慈昭院殿様の御代より被相止候」。人によらざる義か。『女房筆法』に、「古へは帯六つ割にて候し。じせうゐん殿御代より八つ割になされ候。人によるべからず候」(慈昭院殿は東山義政公なり。宝徳より文明の頃)と有。此頃よりやゝ広くなりしを改められしならむ。さて後世に至りては次第に広くなりしと見えて、『大弊』といふ三絃の書に、とり組の歌、「京では一条やなぎやむすめ、よつわり帯をたすきにかけて」(此歌は文禄・慶長ころの歌也)。帯地の幅凡全幅二尺五寸を四つ割としてみれば、はゞ三寸許の帯也。『落穂集』に、「就中殊外に様子かはり候は、上下共に女中の帯にて有之、我等若き頃迄は万の巻物を三つ割に致し、絹・羽二重の類は二つ割と定りたる如くに有之、別て高田様と申は三つ割を又三分狭にくけ、其端を結押込て差置候如く有之候処、四十年ばかり已前より巻物類を二つ割、絹類は一幅を其儘にて用、うしろの結びめなども夥しく大きに致候」。『女鏡』(慶長板)、「帯は広きもせばきも時のはやりに従ふ。広すぐればばしに見えて鄙きもの也。又、ちいさすぐれば腰もとあしく、およそ二寸五分たるべし。染やう大ちらしなどはばしにて宜からず。これもしんにたてなるをほんとす。のりのこはきは宜からず。さげ帯などはかくべつ也。それもやはらかなるをすべし」。『春台独語』、「婦女の帯は金襴を美麗の限りとす。黒地に梅・桜・松を所々に織付け、是を鉢の木帯と名付て珍重しけり。広さ僅に鯨尺二寸ばかり、紙を心として綿などいるゝ事なし。四月より八月迄、婦女の礼服に綿にて広さ鯨尺の八歩ばかりなるを、後に結びて垂るゝをつけ帯といふ。今のつけ帯はむかしの常の帯よりも広し。今人に昔の事を語らば虚言と思ひて露信とせず。これらは我まのあたり見し事也。古き事知たる人あらば尋問べし」。『昔々物語』、「女中の帯皆金織の巾三寸長七尺五、六寸也。又、純子、繻珍の帯も皆おなじはゞ丈なり。半下は木綿金入とて針妙・腰元の帯長さは右に同じ。寛文の末よりはゞ広になりて、延宝のころ弥広く、純子三つ割二つ割などにて長さ壱丈弐、三尺になりぬ。費なる事共也」といへり。但しあそび女の類は早く広きを用ひしとみゆ。『吾繻物語』(寛永十九年)、遊女の衣装を、「御物ずきなるかたびらに、色々の御帯の広さ五、六寸あるべきを前にて片手結びになされ云々」。『東海道名所記』西坂の条、「遊女がましくて来るをみれば、つくもの如くなる髪むさ/\とたばね、なまじゐにははゞ広き帯を腰にまとひ云々」(『女鏡』に、「広過ればばしにみゆる」とはかゝるをいふ也)。西鶴が『一代女』(貞享三年)四巻、「当世の風俗身の程をしらぬぞかし。一丈二尺の帯むすぶも気のつきる事ぞ。昔は女帯六尺五寸に限りしに、近年長うして物好みよげに成ぬ」といへり。爰に昔とさすは寛永頃にや。一丈二尺の帯はゞをいわざれども二つ割なるべし。物うつり変るは常なれ共、其内わきていたくかはる時ありと思はる。天和・貞享頃即是にて、帯広く袖口大になりなどして、風俗大きにかはれり。『紫一本』、浅草並樹の茶屋女をいふ処、「だて染小袖、はゞ広帯、尻のとがりに引かけてぜいをやり云々」。『芭蕉文集』納涼辞、「女は帯の結びめいかめしく、男は羽織長く着なし」(女帯結びめ大になりし頃也)。『唯袖海』(元禄十七年)、「花色しゆすの二つ割、紫ちりめんのかゝへ帯云々」。又、二巻、「胸高なる帯つき」(みな当時のはやり風也。かゝへ帯は今いふしごきの腰帯也。『昔々物語』にも、「帯は巾広胸高に尻を長々と出し、歩行ざまどた/\と身しなもなく」と有)。『俳度曲』、「藪入に押売するぞふくさ帯」といへるは、かゝへ帯をいふ歟。今腰帯ならでも縮緬類の帯をふくさ帯といへど、それにはあらじ。また、帯にも鉛を入たる事あり。『一代男』卅三の条、女帯をいふ処、「帯は紫のつれ左巻、むすびめ後にくけめのすみに鉛のしづを入」とあるは、帯の端下るやうにしたる也。これを吉弥むすびといふ(後に出)。結びめうしろにとことはりいへるも、もと脇の方、前の方などにむすびたりし故也。『天和笑委集』花見の条、「品ことなるだて染に一尺五寸の大ふり袖、ゆき短くつま高に当世やうの身せばに仕立、二つ三つ四つ重ね着て一つ前に引合せ、小づま揃へて着たるも有。腰に余れる丹前帯後へきりゝと引廻し、吉弥やうに結ぶもあり。前に廻してかるた結びにしたるもあり」。『一代男』に、「紫のつれ左りまき」と云るは、これ丹前帯なり。『蚕業袋』(享保)、「帯地類、繻子・島・無地・紋賢或ははかたなど、幅二尺五寸たけ壱丈弐尺、帯だけに織出す。二つ割女帯、三つ割にして男帯とす。(中略)もうる、帯地の織切、或は壱丈弐尺、とび金入.色糸入これも二つ割也。糸織といひて女帯にさつま織・小石織・壱のや織、男帯に琥珀・みよし・斜子・はかた・さつま・丹後其外数々多し。提帯地、厚板の帯といふ。上物は六寸幅に織切にして有。次は幅にて仕入る。三割にして売用す。中入紙を用」と有。六寸はゞなれば仕立ては三寸に足らず。是昔の常の帯はゞなり。

○組帯は『女房衣裳次第』に云、「帯はいつものが可然候。夏は又すゞしの帯をも用候。次にくみ帯は仕まじく候。賎きものにて候云々」。かくいへるにて女の用ひし事しらる。男子の用ひたるは、『室町殿日記』巻十九、諸方の溢れもの党をなし都に徘徊する事をいひて、「此者共愛宕へ参詣すべしとて一やうに出立ける。赤はだかに茜ぞめの下帯、小玉打のうち帯を幾重ともなくまはしてしかとしめ、三尺八寸の朱鞘のかたな云々」。この小玉打、丸組なるべし。又、『一代男』二、寛永ころの男達をいふ処、「染分のくみ帯、せかいらげの長脇差云々」。これまた似たる出立也。『竹斎物語』、ある上人の装束をいふ処、「御衣はひぢりめん、帯は天下にかくれなき二条通りの百足屋が、上人さまの御帯とてわけ心を尽しつゝ、しんくの帯の八つ打に金しやをまぜてぞめされける云々」。此丸くみ帯を女童など用ひたり。又兵衛が遊女をかけるに此帯みゆ、これを名古屋帯とするはわろし。専ら肥前名護屋にて打たるにもあらず。さる故にこれを名古屋帯ともいはず。名古屋帯といふはさなだの袋打也。『蚕業袋』に、「名古屋帯、女帯は絵付はゞ四寸位、男帯はゞ弐寸五分位。尤糸さなだといふは只一枚に織たる物、なごや織は袋打也云々」。右いづれも夏帯地なりといへる、是今も常にあるものにて彼小玉打とは異なり。名古屋帯そのかみはやりしと見えて、『椀久物語』、「重打の紫帯」といへる是なるべし。『入子枕』一巻、「小倉しまの帯やめてなごや帯云々」、いゆ。

○古へは帯紐みな前にて結びしなり。是おのづから順にして本義なるべし。近く猿楽狂言の女みな前帯なるにても知べし。寛文の頃迄は女も多くはさみ帯にして居れり。つき込帯ともいへり。箕山が『大鑑』に、「つきこみ帯といふこと昔はなかりつれど、近代京より始る。帯さきを結ばずに折込こと也。是傾城に一段と取あひたるもの也。結びこめたるはかたし。立居にしやらほどけして帯を引廻しながら座をたちたる躰、おのづからにて風流なり」。又云、「帯のむすびめは真中より少し右のかたへよせて結びたるがよし」。『風流徒然草』、「昔は帯のはゞもせばく胸高なりし故尻小く見え、立に結びめもなくつひはさみたる故とりなりもほそく丸く、腰の平たきよね壱人もなし。当世は帯も繻子の一幅をふじ三里のあたり迄引下、結びめは大なるまな板のごとし。夫故すそ広にあづちなどを立たるやう也。せいひくきよねは一人とりなしあしゝ」といへり。『秋色が句』に、「むかし遊女さしこみ帯や雲の峰」。あそびは常の女と風俗かはるを好み、帯のはゞなどもことに広かりし。『西鶴置土産』三、土人形をいふ処、「遊女にしては帯がせまし云々」。

○吉弥むすびといふは、『西鶴大鑑』六、「東洞院の浮世紺屋の娘すがたのお春といへる名とり有。上村吉弥これをうつして壱丈弐尺の大はゞ帯、くけめの角に鉛のしづをかけ、世に吉弥むすびとはじめて今にはやらしぬ」。『虚栗集』、「かなはぬ恋を祈る清水 嵐雪、山城の吉弥結びに松もこそ キ角、菱川やうの吾妻俤 嵐雪」。『雨夜三杯機嫌』(野郎評判記、貞享板)序文に、「砂は岩ほとなりて吉三風の衣を肩にかけ、金は山となりて吉弥流の帯を腰にまとふ」。又、水木辰之助を評するに、「とかく上村吉弥ともいふべし」などみえたり。『風流つれ/\〃草』には、「吉弥むすびはもと玉づさ結なり。吉弥が結びそめしといふは誤也」といへり。是又例の歌舞伎に奪はれたるにや。『歌舞伎事始』に、「もと女がた前帯する事むかしはかつてなし。是近代の事也。明暦の頃東山辺の茶店のもの、いそがしさの余り後へ廻す隙さへなく其儘に居たりに、其風伝へ移り今世間一統となる」といへるは妄説なり。前帯のこと前にいへるが如し。かつ結目前にありては立ふるまふに障となれば、かた脇にし遂に後にて結ぶことは始りけむ。ことに帯はゞ広くなりては弥便利によりて習ひとなりたるを、ざれたる方にこれを好みしと見えて、『一代女』三巻、「後帯はきらひなれどもそれ/\〃の風儀にかへて、黄唐茶に刻み稲づまの中形帯」といふは屋敷風也。きらひなれどもと有にて前帯のこと知べし。『同草子』老女の隠家といふ条、「むかし小袖に八重菊の鹿子紋をちらし、大内菱の中はゞ帯前に結び」。『女重宝記』(元禄九年刻)、「帯のこと、絹はゞに大ちらしの染帯、長さ八尺にして前結び、これ今のはやり風也。帯は中ごろはやりし茶繻子・花色繻子など、老若にかよひて目にたゝずよきもの也」。元禄八年刻する菱川師宣が『百女図』に、前帯なる多し。わきつめの女にもあり。或人云、宝暦の頃江戸町二丁め兵庫屋に志賀崎といふ遊女あり。帯はゞ弐尺五寸にしてかるた結びにしたり。世に帯志賀崎と異名を呼り。『歌舞伎事始』に、「男の如く四角にするをかるた結といふ。平十郎結といふは三代め村山平十郎といへる立役、立に結び出たるより初る。路考結は二代め瀬川菊之丞初めたり」といへり。『元禄曾我』三、「白しゆすの畳み帯、結び先一文字にして」とあるも似たる結びやうにや。畳み帯とは心を入ざる帯なるべし。

○両面帯は『江戸名物鑑』に、両面帯、「夜昼の帯もとけつゝ閨の月」といふ句を出す。これ昼夜帯なり。又、鯨帯ともいふ。天和中板行の『題林一句』に、「塩吹やあせのうらぎの鯨帯」とみゆ。たゞ両面かはりたるばかりにあらず。もと黒繻子に白裏付たる故に鯨といひ、又、昼夜の名もある也。『昔模様亀山染』八段目、「白いと黒いと巻付たら、鯨帯みるやうでしまりがよかろ」。明和七年の浄るり也。

手すく・前だれ、『外宮儀式帳』に、「木綿手次前垂懸テ天押日蒙テ云々」あるは、ゆふだすきの前に垂るゝをいふなり。『和名抄』に、『式』の文を引て「襷をタスキ」と訓り。袖をかゝぐる由の和字なるべし。『書紀』には、「手繦」とあり。『字鏡』に、「負児帯」とありてスキと訓り。是をもとにて袖をかゝぐるをタスキといふにや。次をスキといふは古言也。後のかな文にもつき/\をすき/\といへり。この故に『古事記』『万葉』等にもタスキを手次と書り。『宋人暘谷謾録』に、女の料理人の事をいふ。「厨娘更�団襖団裙�銀索攀膊棹レ臂而入云々」あり。これは銀ぐさりのたすきなり。『埃嚢抄』巻三、「合の事」、これを前たれとよめり。『字書』に、「末合士服幣膝之衣」、あるひは「護膝」ともいへり。むかしの前だれは大かた赤前だれのやう也。『尤草子』、赤き物の内、「茶やのかゝの前だれ」とみゆ。是は茶師なるべし。『狂歌咄』第二、宇治の事をいふ処、「茶師の家々数十人の女、赤前だれ一やうに」といへり。又、そのかみ八瀬・大原の女ども赤前だれを用ひぬ。又、『狂歌咄』第五、「白布のぼうし・赤前だれして、柴木を戴き」。『寛永発句帳』、「山姫の赤前だれや下紅葉 重時」。『籠耳草子』五、ある侍、友人の家に行て化物をみたりと物かたりする処、「野路の一つ橋を暮六つ過に帰りしが、川の中に女一人すご/\とたちて、髪をみだし腰より下は血にそまり、とをる者をなつかしさうに見送る程に、何者なるぞと咎めければ忽きえうせぬと語る。其家の下女そばに茶をふりて居けるがこれを聞て、その時川中に居たるは我にて候。赤き前だれしていかきに物を入て洗ひ居しが、おまへのお通りなされたるを見居たり。さりながら何もの共御申なされず、只走りて御とをりなされしものをといひければ、咲ひになりて面目を失ひける」と有。茶屋などにもあらず、常の人家にても用ひたるを見べし。其外はたどや女などはもとより也。『松の落葉』四条河原涼八景、「ひゞく芝ゐの朝太鼓、あかねさす日の赤前だれ、すしに出立賤の女か云々」。是は芝ゐの札売女なり、『古今夷曲集』、「赤坂にて、保友 出女が赤前だれの赤坂のあかぬ姿にとまる旅人」。今も娼家の中ゐといふ女ども皆これを用る故、常の人家には絶たり。むかしの画、よの常の下女みな赤前だれ也。

○物は異ながら『源氏』浮舟、「けふはみだれたる髪すこしけづらせて、こききぬに紅梅の織物などあはひおかしうきかへてゐ給へり。侍従もあやしきしびら着たりしをあざやぎたれば、その裳をとり給ひて君にもきせ給て御てうづ参らせ給ふ」と有。これ又まへだれしたるが如し。あざやぎは鮮也。侍従もしびらをきかへたるを浮舟に着せたるは、よき衣にてうづのかゝらむとの用意也。てうづは浮舟に参らせたる也。然るを諸抄共に、匂宮に浮舟しててうづ参らせたりとするは非なるべし。

ふんどしは、ふもだしなりとぞ。『万葉集』十六、乞食者詠に、「馬爾己曾布毛太志可久物云々」。ふもだしはほだしと同言也。『和名抄』、鞍馬具に、「絆(保太之)」とある是也。馬をとゞめ置具にて、其さま似たるよりいひ出しは賤き名也。此服に手綱・はだばかま・たふさぎ等の名あり。手綱は『春湊浪話』に、「犢鼻褌と同じ類なれども短き肌袴也」といへるはいかゞあらむ。『八幡殿着鎧次第』に、「手綱」と見え、又、『曾我物語』、相撲の処に、「手綱二筋より合せ」などあるは、強くしむべきものなれば平常の紐にはあらぬなるべし。猶下にみゆ。『和名抄』に、「褌、方言注云、袴而無レ跨謂2之褌1(和名、須万之毛能、一云、知比佐岐毛乃)」とありて、「唐韻云、松(正しくは衣篇)(楊氏漢語抄云、松子、毛乃箆太乃太不佐岐、一云、水子)小褌也」とみゆ。是を『秋草』に、「毛は犢鼻褌也。はだばかまの下にかくたふさぎといふ事也云々。はだばかまは褌也。犢鼻褌ともいふ。源平盛衰記に宇治川先陣の条、はだばかまをかきと有。褌は長短くして膝の辺迄至る袴なり」といへり。『和名抄』、褌は一条にして、其条下に松も出たり。松は褌のなをちいさきものにて、必しも褌の下に松子を着るにはあらじ(今も其製種々あるがごとし)。されば毛とあるは広く袴のことをいふと聞ゆ。又、『春湊浪話』に、「盛衰記に、難波六郎が布引の滝に入し時に紺の褓をせしと有。褓字した帯と訓せし、いといぶかしき。後代に付たる訓にや。尤古き歌に井手の下帯、又下の帯の道はかた/\などよみて、下帯といふこと其名なきにはあらねど、是はたゞ常の帯の事也。清輔奥義抄、うへしたに帯をばすれば下帯とはいふ也とみえたり。今の俗にいへる下帯といふことはふるく聞えず」といへり。按るに、『和名抄』、「衿帯、陸詞云、衿(和名、比岐於比)、小帯也。釈名云、衿禁也、禁不レ得�開散�也」とみゆ。これ古へにいへる下帯にや。又、今小児のつけ紐を彦帯といふも此ひきおびの転なり。『古事記』、八千矛の神の御歌に、「比古豆比」とあり。ツラヒは即ツリを延たる也。今世に引つると云なり。『源氏』若な上に、「猫のつな長く付たる云々。逃むとひこしろう程に云々」。夕霧に、「惜みかほにもひこしろひ給はねば云々」みゆ。然れば今引しろふといふももとこれ也。小児の彦帯は引帯なり。『俳諧温故集』、一漁の句、「彦帯を母がひかへて柳哉」。『屠竜工随筆』には、「下帯は束帯衣冠の時、下襲の切を細くくけて内衣にしむる也」。又云、「紐といふは袍の入紐、文筥の紐、笠紐、短くて二つあるものゝやうに聞え、緒は玉の緒、大刀の緒、甲の緒など長くして一筋の物のやうに聞ゆる也。さて下紐は下帯にもあらず。又、たふさぎ・ふみとをしにもあらず。万葉第十一、施頭歌の下に、狛錦紐片叙床落邇祁留明夜志将来得云者取置待。これ今の童のつけひものやうに内衣に二つ縫付たり。それが片々落居たるともよみ、又、落たる紐を我ぬひ付むとよめれば、付紐のやふになしたる物に極りたり」といへり。

○『新撰字鏡』に、「褌・昆(正しくは衣篇)・軍(正しくは巾篇)云々。口大袴、志太乃波加万」と有。褌は跨なくて一口に作りたるをいひ、犢鼻は褌に跨ありて二口に分れたるをいふ。

○たふさき、『著聞集』、坊門大納言忠信、交野の御狩に馬にのりて淀川に入、水れんのめでたかりし事をいふ条、「かやうの用意にや、かねてたふさぎをなむかゝれたりける」。『同書』、畠山庄司次郎と長居と相撲の処、「それも立てたふさぎかきてねり出たり」と有。相撲の古画にみえたるもの是なり。

○手綱、『源平盛衰記』、「木曾義仲、院宣の御使に小袴、懸直垂、烏帽子に手綱うたせて出あひしこと、又、藤九郎盛長、頼朝卿の御使にて滝口三郎利氏・同四郎利宗がもとへ向ひし時、御使も憚からず烏帽子に手綱うたせて悪口せし」こと有。是を『春湊浪話』に、「東武士のふつゞかなるも必かしらをあらはさず、烏帽子にかゆるに手綱をば打かけたる也」といへり。安斎これを非として云、「烏帽子に手綱うたせてといふは、えぼしのかけ緒ゆるみてえぼしの動くをいふ也。侍えぼしの躰を云なり。馬に手綱うたするといふは、手づなをゆるく持て馬の頭のうなづくにつれて手綱のゆるぐをいふ也。えぼしのその如く動くを云たるにて、古の諺なるべし」といへり。今按るに、二説よもに非なるべし。古画をみるに、武士甲衣を着たるに烏帽子のうへに鉢巻したる。『職人尽』の放下師などにみゆ。いづれも動きはたらく時の為なれば、常にせぬ事故非礼なることゝ知らる。『曾我物語』、敵討の条、「十郎は白き手綱を以て鉢にかきつゝ、白帷子の腋ふかくかいたる云々」。是上にいへると同じ事也。手綱もまたこの如く、ちから綱にすべき布をたふさぎに代て用ひたるにても有べし。『職人尽』、舞まひなどが立えぼしの懸緒のさま、手綱かきたるやう也。又思ふに、『和名抄』の、「知比佐岐毛乃」、たふさぎと音通にて同言と思はるゝは、ひがごとにやしらずかし。

○今のふんどし、『見聞集』に、「愚老若き頃までは、はだの帯、麻布などにて四尺ほどに切、中より二つに割、わりたる方を腰へ廻し前にて結たりしが、当世の下帯は替りたり。皆人ねりはぶたへなどのやはらかなる物を腰へ引まはし、片むすびになせり。色好みの人達は、純子・綸子・あや・しゆすなどのはゞひろものを二ひろ余りに切、腰へ二重に廻し後にて片むすびにとめ、前へ長くさげ、海道あるくとては裾をかゝげ股・尻を人にみする。下賤小者のたぐひ迄もすると見えたり」といへり。此老人若き頃とは天正年間也。今の下帯の製は慶長よりと知らる。これを思へば手づなも前にて結びたる物歟。古き相撲の画、たふさぎみな前さがりといふものなし。此老人のいへる下帯やゝ似たり。『曾我物語』に、「河津は股野が前ほろをつかむでさしのけ云々」あるも、前の処ほろに似たればいふにて、今の前下りといふものにはあらず。又、二重廻りは、箕山が『大鑑』に、「男をたしなむものは下帯二重廻りを用」といへり。相撲の古図に見えたるは一幅を割たるとは見えず。他の布を添て紐とし、後の方は布を捩りて結べり。大よそ今の越中ふんどしに似て、それをうしろ前にしたらむやう也。古も相撲などに用るは、常の製と異なるべし。次に云、今の越中ふんどしは古体なるを簡便に作りしものか。いづれの家より起りてさる名はあるにか。『みをつくし』(大坂の遊所細見)、「延宝年中木村や又次郎抱へ越中といへる大夫裕。ある時あげやにて我相方の客風呂へ入らむとせし時、下帯迄はづして入らむとせしかば、姿見苦とて俄に思ひ付、湯具の緋ぢりめんの二布をときはなし、それに紐付て与へしより此風を越中ふんどしと云。越中国より始りしとは大なる俗説なり」といへるも又俗説と聞ゆ。むかし浴するにはふどしをかきたり。はづして入らむとする事有べからず。按るに、『茶事指月集』に、「三斎翁、亡洋に物語の内、腋ざしの鞘形を予が鞘は越中流とて人のゆるしつるに云々」あり。又、貞徳が『歌林雑話』に、「彼殿は何事も(幽斎翁を云)古風に掟給ふ」とあれば、このふんどし恐らくは彼越中流ならむ歟。されど『紀長谷雄の絵巻物』は、筆者はしれねど光信前後の画とはみゆ。雑人迄も皆総髪にてもとゞり丸くして頂にあり。其中に小童二人見えたれば其他もかく有を知べし。おもうにこれ小児のむつきより因循して用ひしなるべし。されば古く其躰は有しなり。

○『守武千句』、「町へ出るはいかめしくみゆ、手綱をばかゝず袴はほころびて」。『似せ物語』、「おかし男、芸にもならぬすまふを取けり云々。ちりめんのたんなをして、とゞろ足ふみ出てとりぬ」。『醒睡咲』に、「宗長法師ある方に下帯をわすれ置けるを持せて送りければ、おもひきやおとにたつなの浜風に浪より高き名のたゝんとは」。『俳諧懐子』十、「心ゆるまるたんなゆるまる、早川の水につれつゝおよぎ越」(早川は赤ふんどしをいふ。『尤草子』、赤き物の内、「早川主馬のふんどし」と見えたり。此人みごとなるふんどしをかきたれば、聚落ふしんの時京童の小歌に作りたるとぞ。後には早川といへば赤ふんどしの事となる。されど土器の早川といふ事『狂言記』に有と覚ゆ。是は地名にて早川織なるべし)。『見聞集』にみえたる如く、むかしは相撲とりならでも地厚き織物などふんどしに用ひたり。『諸艶大かゞみ』三、浮世ぐるひの者をいふ、「丸裸になる時緞子の下帯云々」。かゝるものなどには貞享頃までも此風あり。

○もつこふんどし、『明良洪範』に、「伊藤三白と云老医、細川三斎公に物がたり、深手負又は討死せし者下帯なきよし諸人申候。何共合点参らぬ事と申上候へば、なる程其事実正なり。医者などは其理心付べき事也。死候へば肉落る。分て戦死は知も多く出、結び付し物たまるべきやうなし。夫故巧者、心がけの者は、下帯の結めと前の方とに緒を付て首へかけ、もつこふどしと申て用ひ候。これ死後脱落ぬ用心と被申候」有。是等の物語より越中ふんどしの事もいふ歟。又、製作は異なれどももつこふどしの名はこれなり。又、相撲取たふさきかくに、先紙を畳みて前陰にあつるは固く褌を引しむる故也。戦場にはさる事もすまじき也。然るに何を見聞していへる歟。『全浙兵制』に、我国の風俗をいふに、「夾2青紙一幅1掩2其穀道1以2布或紬1成2小袋1嚢2其玉茎1、名曰1法檀那和皮1上穿2其褌1云々」といへり。

○湯具といふは、男女ともに前陰をあらはして湯に入ことは、もとよりなきことにて、必下帯をかきかへて湯に入故湯具といふ。女詞にはゆもじといふべし。或はいまきともいふは非なり。いまきは湯巻ともいひて、湯殿に用る具にはあれど異もの也。又、今湯かたといふものは湯帷子也。『和名抄』、澡浴具に、「温舎経云、澡浴之法用2七物1、其七曰2内衣1(和名由加太比良)。論語注云、明衣以レ布為2沐浴具1也」とみゆ。ゆまきは、『栄花物語』卯花巻、中宮影子後一条院を産給ふ処、「女房みな白き装束どもにて、御湯殿のいまきなどみなおなじ事也」。『紫式部日記』、「御湯どのゝ宰相のきみ、御むかへ湯は大納言の君(源遍子)、ゆまきすがたどものれいならずさまことにおかしげなり」。『禁秘抄』恒例毎日次第の篇、「凡禁中着2湯巻1上臈一人典侍一人也。是候2御湯殿1故也云々」。壺井義知云、「湯巻は白生衣也云々。ゆといと音通ずる故いまき共いふ」といへり。『東鑑』、建長四年壬子四月朔日条、「御明衣一、今木一」と見えたり。今木は詞に付て訓を借たる也。婦人湯あぶる時はこの服を着たるなるべし。『貞順故実集』、「身拭と申よりは御湯かたびらと申は上り候」とは詞の尊卑をいふ。湯かたびらを身拭ともいひし也。後世略して湯かたと云。『猿楽狂言記』などにも見えたり。『望一千句』、「傾城のくどく風呂よりあがりきて、湯かたの袖も匂ふかよひ路」。此くどく風呂とは功徳ふろにて施行の風呂也。『備前老人物語』に、「渡辺水庵は風呂屋の竿に湯帷子・わり下帯数多かけ置、風呂を焚とき男二人板の間に置て、垢かき二、三人用事とゝのへさせ、風呂屋の口にしかと番をすゑ、他の下人一人もあがり屋へ入れず。常に往来する浪人其外も入かはり/\終日風呂を焚く。あがりやへ入込人なれば、腰の廻りの道具、衣類に至る迄見苦きを恥る事もなく、心を安くゆるやかにあらしめむと也」といへり。水庵は渡辺勘兵衛が事也。さて割下帯は湯に入為に設くる也。『見聞集』にいへる割かけたるふんどしなるべし。これを思ねばわりふんどしといふはこれの名にて、今世のふんどしにはあらず。

○さて湯に入時用るを風呂ふどしといふ。『犬子集』(寛永十年撰)巻三、「わかれを惜みひくはだの帯、いつかまた逢んとかたる風呂の口」。『佐夜中山集』、付句、「さぞ出替を待し六尺、風呂の内せばきを何としたの帯」。『一代男』七、遊所の事をいひて、「ふんどしのかきかへもなき人ゆく所にあらず」とあるも、湯具の事とみゆ(前に見えたる遊女越中の客、湯に入るに下帯迄はづして入らむすといへるは、有まじきよしをいへる也。其頃とても野躰の者はさなきも有べし)。又、女の湯具は、『宗因千句』、「ほの/\〃と赤ゆぐほせる春の日に、湯をあがりゆくふりをしぞ思ふ」。男だに褌をかきて浴すれば女はさら也。先つとし信州の草津に温泉あみに行しに、先旅舎につく時、やどり居らむ間用ふべき調度を借もし買もする。その内定りて人毎にひさく一本・下帯一条は必買て浴するに用。今世人丸裸にて湯に入ならひなれば、その処のものも入る旅人も、是は温泉なればかくする故あるべしとて、男女ともに湯具して入れ共、温泉に限りたる事にはあらず。

○「たのしみは夕皃棚の下すゞみ男はてゝら女は二布して」。此歌あまねく人のしりたるなれど、何に出たるに歟未考。『和訓栞』に、「てゝれ、綴の俗語也」ともいへり。或は褌をよめり。今加賀人は襦袢をてゝらといふとかや。さりながら此歌女の二布せむには男は褌にてあるべけれど、褌をてゝらといふこと未詳。『異本四季物語』七月の条、「かやりふすぶる賤の女も、すゝけたるはだへあらはし、女も男もさゝやかなるもはぢかくしもやらで、ともにこぞりつどひて云々」。此文などによりて彼歌は作りしにや。さゝやかなるもとはちいさきものといふに似たり。

○女の湯具をしたもといふこと、『后宮名目抄』に、「御した裳、下裳と書。これは御ゆぐのことにて、した/\〃にてはおゆもじなど申侍るは無下のこと也。為家よみ侍る歌にも、対のみやをいわゐ奉りて御産湯ひかせおはしまし侍る時に、波よする松のしたもによろづ代となれきてなくやとも鶴の声とつかふまつりける。此こゝろばへなり云々」。この下裳は湯巻なるべし。又、『小柴垣』とて古き春画あり。その絵をみるに下裳みえず。又、古画に、狂女裸体に紅の袴着たるを書たり。『旧本今昔物語』、女医師の許に行て瘡をみする条、「女袴の股立を引開きて見すれば云々。其腫頗心不得見ゆれば袴の腰を令解て、前のかたをみて毛の中にて不見云々」。これら下裳はなきやう也。されば下裳は後に出来たるものにて、古への女は下賤なるも袴きれば、下はたゞ紐にて肌着を結たるまでにや(男子の如く褌を用るには及ばざる歟)。袴を着ぬに及て彼湯巻を用ひたるか(『万葉集』、「ふたりして結ひし紐をひとりして吾は解みずたゞにあふ迄」。『伊勢物語』、「二人してむすびし紐を一人して相見る迄はとかじとぞ思ふ」。『古事記』に、「汝所堅之美豆能小佩者誰解」と、皆同意也。いにしへに下帯ともいふは是なり)。応永にかきたる『日高川の絵巻物』には、女裸にて今の湯具めくものを着て、河に入る処を模せり。

○『吉原徒然草』、「ふんどしははゞ広なるがよし。湯具に紐付ること色里にはあらず」といへれど、師宣が遊女写しゝに紐付たるがあり。『胸算用』(元禄五年)、「湯具も本紅の二枚がさね、白ぬめのたびはくなど町人の女房の分として云々」いへり。合せに作りしも有と見えたり。

(略)

傘(一部)

○古への遊女は常に傘さして船にのりたり(遊女の条にいへり)。『栄花物語』などに、それを笠とばかりあれ共、唐かさなることしるし。古書に笠とのみいひたること多し。よりて思ふに、『太平記』に、「さしてゆくかさぎの山を出しより云々」の御歌は、傘によせ給ひし也。傘は笠に柄をさしたるがもとなれば、笠とばかりもいふべき也。かさとは覆ふの義也。故に今の俗にも傘をかさとのみもいへり。

(略)



巻之二 下

刀脇差 

漢土にももと兵学は械也など注して其義なるを、後には転じて兵を執る人を兵といへり。こゝにこれをツハモノと訓り。そも器械の兵の義なるべし。『書紀』に、兵卒の兵はイクサヒトと訓る、是然るべし。『古事記』に、神武の御子兄弟当芸志美々を殺し給ふ段の『伝』に、「和名抄に、兵庫寮は豆波毛乃々久良乃官とあれば兵はツハモノと訓べし。刀鉾などの総名也」といへるはよし。ツハモノの名義を釈して、「鐔は和名抄に都美波とあり。後世ミを省きてツバと云。刀鉾の属の物多かる中に兵器に限りて鐔ある故に、ツハモノとは鐔物なり」といへるはいかゞあらむ。然らばツハと略けるも後世のことにあらじ。鐔ものとせでもツハモノにてツヨモノの意なるも妨げ有べからず。都美波は留刃の義なりといひ、又『和訓栞』などは、「ツバは刀盤の音にや」といへり、穏ならず。物を喰ふをつむ、又つみとも活きいへば、ツミハは是なる歟。「俗に鍔をツハとよむはあたらず。葵鍔は古歌に出、練鍔は保元物語、粢鍔は庭訓に見えたり。太刀の鍔は果(正しくは穴冠)に極り、打刀の鍔は丸つばの物也。透し鍔は義教将軍の物好に出」と、谷川翁いへり。

○古くかたなといへるは小刀(少サ刀即こかなたにて今世にいふとは異也。『散木集』、「被下恋、てかたなのつかのまにだにあはゞやと思ふ身をしもさやはさくべき」。さげさやと聞ゆ)にて、本名はさすが、又腰刀、又さやまきともいふ。さすがは剃刀の略言也(今世に小がたなをさすがといふは非也)。さやまき、転訛してさうまきとも。其製鞘を巻たるが、木にて其形を鞘に刻むを鞘巻きるといふ。たけ短く九寸、一尺を限りとす。柄を巻ず、鐔を入れず、鞘尻多くは方に切、小刀・かうがいをさす。柄も鞘も木にて造りたるも有。これを帯ること今人の脇差さすが如し。『貞順が故実集』に、「刀の柄巻たるは略義にて候。烏帽子・上下の時はさゝず候。又巻たるをさす事時宜によるべし」。『古事記』四、出羽守斉頼鷹を好む条、「たくの直垂袴に、九寸許なる腰刀のつかにくすね糸まきたる、脇つぼにさし」などみゆ。加茂氏の『雑問参考』に、「柄を巻は軍用の時也」と云は誤なり。古へは軍の時の太刀には柄をまかず。京都将軍の末ざまより、糸巻の太刀とて、柄また帯取のもとを糸して巻たる物出来たり。是は私に、風流の為にしたるものなるべし。

○腰がたな、『新撰六帖』、「正三位知家卿 今はわれまろばにとげるこしがたなよにつかはれぬとぞなりにし」。刺刀、『後撰集』十九離別部、「貫之 折々に打てたく火の煙あらば心さすがをしのべとぞおもふ」。『曾我物語』五、「けはひ坂の女 いそぐとてさすが刀をわするゝはおこしものとや人のみるらむ。返し、梶原かげすゑ かたみとておきてこしもの其儘にかへすのみこそさすがなりけれ」。

○倭健命の古事に拠て、旅行に火打を贈る事あり。『後撰集』に、「みちの国へ罷りける人に火打を遣すとて書付ける云々」。『八雲御抄』に、「小刀。心さすがともいふ」。『為家卿の抄』に、「さすがは腰刀なり、燧につくるもの也」と有。今も物きる小刀をさすがと云。『源平盛衰記』、日本武尊の燧袋の事をいひて、「今の世迄も人の腰刀に錦の赤皮を下げて燧袋と云ことは此故也云々」。『軍器考』に、「火打袋着る事、寛正の頃の記に、足利殿の御腰物にも此物付られし事見えたり。織田殿の頃迄も猶此物の事みえたれど、今はかゝる物つくるは見えず」と云り。

○脇ざし、『古事記』に、宇受売命海鼠の口を折くと云処に、「以�紐小刀�云々」と有。『書紀』には、「匕首」と書れたり。是を『伝』に、「紐とは懐中に佩て下帯に挿す故の名也。宇受売命も女なる故懐中に佩たるにや。或人云、今世脇指と云ものは脇指の刀とて、古へのは六、七寸許の長さにて懐中に隠してさす物なり。脇の方へよせてさす故に脇差といへり。用心のために隠しさして身を守る刀なる故に守り刀ともいへり。東山殿の頃より、下部の者など顕はして腰にさし初しとみゆ。今世の脇差其形大に変じたり」と云り(按るに、後々便利に随ひさま/\〃とり雑へて作れるなるべければ、たしかにそれの伝はりしとは云がたかるべし)。

○脇ざしの刀と云ものむかし有しものなれど、今とは異也。これは少さ刀よりも短く、作りさま少さ刀に似て鞘尻丸く下緒短し。『大内問答』に云、「わきざしの事、隠剣とて人に見せざるやうに自然さゝれ候歟、殿中などへはゆめ/\御さしなき事にて候云々」。今俗に、身に親しく召使ふものをふところ脇差といふも、これをいふ也。『法曹至要抄』に、「一尺三寸を用」と見えたり。

○打刀といふもの有。『東鑑』に、「上総ノ五郎兵衛懐中帯2一尺余打刀1云々」。『平家物語』に、「乗円坊慶秀衣の下に萌黄にほひ腹巻、大なる打刀まへだれにさしほらし云々」。『埃嚢抄』巻三に、「三宝名義抄并順和名に、短刀又野剣と書てノダチとよむ、倩これを思ふに今の打刀なるべきか云々(和名抄、「兼名苑云、剃刀、短刀也、和名能太知」と有)。足もなくて大なるを云、打刀といふ名古きものに見えず。近ごろいひ出したるにや。大人の短刀を長くなして野太刀と云故に、昔の短刀を今打刀と云」と有。されど『著聞集』九巻、頼光鬼同丸をきる処、「大の童打刀をぬきて走り出」とも見ゆ。『新野問答』、「野剣是は真剣に候、蒔絵野剣・螺鈿野剣・蒔絵螺鈿野剣三つの品有之候、蒔絵野剣は平生出行の時車に入、歩儀には人に令持候云々。蒔絵螺鈿野剣を平鞘とも申候。また革緒の剣と抄し候。毛抜形の剣とも申候。真剣候故目貫をはしらせぬ為に、目貫に毛抜形を打て手に握らしむるやうに構候。一名四名に候云々。又衛府の剣とも申候云々」。『貞順故実集』に、「打刀を鍔刀とも申候。去ながら打刀と申たるが能候、さやは青漆たるべし。覆輪は金にて候。是本式にて候」と有(金覆輪は胴がねなるべし)。『新野問答』野剣の条に、「柄は銀の熨柄も候」など見えたれば、のし付の刀といふもこの作りなるべし。昔は腰刀ばかりをさし、太刀は従者に持せし也。古画にも其躰多くみゆ。さて太刀は足・帯とり・しば引・股よせ・鞭結びなにくれと製造むつかしく不便利なる故、後世軍中にはみな太刀を止めて今の刀大小となり、遂に平日もこれを指ことゝなれる也。

○中昔、さや巻と云は、今千段巻といへるさまに刻み目ある鞘なり。『七十一番職人歌合』に、「さや巻きり」と云工匠あり。其頃はやう/\廃るゝ趣にいへり。是もと糸など繁く巻たらむ物と思はる。又みせ鞘と云は、思ふに彼隠剣の如く隠してはさゝず、露はしてさせれば見せさやとは云歟。これもさや巻にて、革を裁て巻る、其革の巻余りを鞘の小尻の下に垂たり。もと彼隠剣の衣服の下帯に挿む為に設けしにや。此さや巻に一種ゑびさやまきと称るは、刻みたる鞘にて小尻を蝦の尾の形に作れば也。曲りたる形して尾尖はなし。されどもみせ鞘の形より作りしなるべし。古画に多くみせさや有。大かた小袋を紐付て下げたり。袋は円きも角だちたるもみゆ。角は上の方三角立たり。これ燧を入る袋にて、後は何をも入るゝなるべし。然れば是古への刺刀なるべし。後世茶人等さげざやとて竹の筒に小刀をさし、巾着のやうなる袋を夫に付て下げたり。是も燧袋とは呼べ共、内には茶碗など入。『著聞集』盃酌の条に、「宮(梶井宮也)行算まいれやと仰られければ、等身衣にかりばかまきたる侍法師参りたり。其袖きりて参らせよと仰られければ、腰より包丁刀を抜たりけり。まづ興ありてぞ見えける云々」あり。これ今のさげざやなるにや。

○今の脇ざしは、昔の脇指の刀とさや巻と打刀と、三色かねたるやうのもの也。打刀も『室町日記』などに数多見えて、長短さま/\〃に記せり。今の刀の如きも多し。其内茨組の事をいふ処、「三尺八寸の朱鞘のかたな、二尺一寸のうちがたな同じやうにこしらへ」といへるは、全く今の脇差也。それをかたなは打刀、わきざしは脇ざしの刀、いづれも其たけを長くしたる物とするは非なるべし。『卜伝百首』に、「今の世は太刀はすたるといひながらもおなじ心なるべし」。又、脇差は幽斎『九州道之記』に、「わきざしの代をしとへばやすよしのなかご正しきめいの浜かな」。これは今の脇ざしをいふにや。

○剣も刀も通はしいふばけれど、『和名抄』、『四声字苑』を引て、「似レ剣而一刃曰レ刀」、此間小注に、「太刀(和名太知)小刀(加太奈)」、また、「両刃曰レ剣、今按僧家所レ持是也」とあれば、彼隠剣といふものは両刃とみえたり。又、大小の名も爰に出たり。古今ともに人の好みも異なるべし(『古事記伝』云、「和名抄、四声字苑云々いへるは漢国のさだ也。此に依て剣をば必ツルギとよみ、タチをば必太刀と云ことゝ心得るは後世の事也。さて師の古へのは皆諸刃、片刃なるは後の物ぞといはれしは信にさる事也、但し上代にも小刀には片刃なるも有つとおぼしき事あり。玉垣宮の段に、紐小刀か片薙かの意と聞ゆ。和名抄にも太刀はタチ、刀はカタナ、又刻鏤具にも刀子はカタナとあり、然るを片刀なるがたよりよき故に、いつとなく後には太刀をも凡て片刀にする事にはなりけむ」)。『甲陽軍鑑』十九、「所によりはやり道具有之と見え候。尾州より上方五畿内迄は大略刀小く、関東は何れも大刀と聞え候」。『北条五代記』四、「昔関東北条氏直時代迄、長柄刀とて人毎に刀の柄を長く拵へ、腕貫をうつて柄にて人をきるべき体たらくをなせり云々。其始は鹿島の住人飯篠山城守家直、兵法の術を伝へしより広まりぬ云々」いへり。此風も小田原ほろびて悉くすたる(古き祇園会の画に、犬神人などが長柄に腕ぬき打たる大小させるがみゆ)。

○むかし、町人私に大小をさす事はやれり。『見聞集』二、「金六といふ者町人に似合ぬ大かたなをさしたる」事をいひ、又、『可笑記』(正保元年記)巻三、「この頃の町人ども皆侍を学び、二尺余りの大脇ざし三尺余りの大かたな、てりかゞやくばかりのだてこしらへ、真十文字に指云々」いへり(『室町日記』十六、秀吉公の時百姓等がわきざし停止の事あり。後々も御法度ありて止ざりしを、天和中厳禁有けり)。さる風俗故、脇ざしも長きがはやれり。『一代男』七、寛文頃の事をいふ処、「町人ごしらへ、七所の大わきざし少しそらして(其已前はそりなきかたなはやりたる也)、あゐざめをかけ、鉄の古鍔ちいさく、柄長く金の四つめぬきうつて云々」(七処拵とは、縁・頭・目貫・折がね・栗形・裏かはら・笄、此七処を対にして地がね彫ものを揃る也)。

○金鍔。寛永中の草子に多くみゆ。『色音論』に、「さめさや巻の大小に金鍔かけてさしはさみ」、『薬師通夜物語』、「花かいらぎの鮫ざやに金鍔大小打ちがへ」。『浮世物がたり』に、「たゝきざやの中脇差金鍔をきらめかし」など多くみゆ。箕山が『大鑑』はたゞ遊治の具をいふなれども、其代の流行を見べし。「刀は直に、脇ざしは長きを本とす。腋ざしの短き、遊処にこれを嫌ふ。たとひ老人・法師たり共、合口の小わきざしわろし。拵は紋など付る。初心の至なれど遊所にはよし。はゞきにも猶紋など付、すかしなどして波鑢・苔やすりの類を用。をり金・栗形等に至る迄彫物うや/\しうして唯目に立ぞ宜き。鮫はちりめん・ばつぱ・岩石・海子などよし、巻糸は花色・萌黄ばかりを制す。其外は好みに任すべし、鍔も無地を制す。又、金鍔は武家の外いたく是を制す、小刀柄の裏ぐゝみに限るべし、下げ緒は紫よろしからず、外は何にても用べし」(是寛文中の至りせんさく)と云り。其後立鼓柄、角鍔など好める事あり。『錦繍緞』(元禄十年)、「暖に京は羽織を長く着て、絵にかく鍔に障子霞める キ角」。『産業袋』(享保十七)、「柄の寸は当代短く、立鼓に柄糸のひしも大きく巻あげ、風流だてに仕立」。『竹丈点前句付』、「そろり/\と、くわんくわつも昔をしのぶりうご柄」。『隻(正しくは竹冠)絨輪(わくかせわ)』、「腕まくりして咄す九十九、立鼓独鈷と握る二王心 冠角」(是等の句をみれば、そのかみ立鼓柄はやりし也)。

○『昔々物語』、「むかしは刀脇指の拵やう、人の年相応に寸尺長短物ずき有て、客の刀の刀掛にありても、是は誰殿の刀ならんと知れたり。近年はさのみ長短なく、大かた二尺三、四寸位にて、細拵はやれば皆々細く、鞘ひらめ流行ば皆々平く、近年(享保なり)四分一の縁頭はやれば皆四分一、大かた引通しの柄也。是よきかあしきか心得がたし。自分もの好せば十腰が十色に替る筈なるを、まねをして一同になるは武道不心懸の事也」(『白石翁佐久間洞巌に贈れる書簡』に、「古人脱俗と申事心得可有候歟。老拙常に子弟等に申教候一条有之候。衣服・刀脇差のこしらへを初め、常に申詞にても世上にはやり候と申事を好み候が、夫が取もあへず俗人と申者に候。俗とはこなたの訓にならはしなど申歟。されば平生の物好をいかにも当世の俗をまぬがれ候と申ても、異形の事にては猶も不可然候間、何も/\不出不人処などとくと心得候へと申事に候。我等衣服のこしらへ五、六十年いつも同じ事に候云々」)。

○佐野紹益は本阿弥光悦の親族にて、幼年よりそれに随ひて物聞ける也。それが書る『賑草』に、「刀脇差に反を直すとすと云事三、四十年已来にもや有けん出来たり。是いかなる故、世に好みて止ずなす事やと押はかり見るに、歩若党・鑓持のたぐひは大なる男を諸方より好める故、国々より集り来る彼等がさすは、たけに応じて長く、少しも反あるは歩む形容相応せずとて、棒のやうなる大刀脇ざし差こなしたる歩みぶり、日頃の稽古も有けむ、人数あまたあれ共同じふりなる、若き心の人々の目には、さても見事と見る程に気移りして、歴々たるもわかき人は棒のやうなる刀を好みて、作よし出来もよしといへども、そりたるは同心にあらずとて求めぬ事になりにければ、おのづから反あるは代物下直になるが故に、なべて反直す事になれり、悲しき哉云々」あり。これ六方のはやりし故也。『屠竜工随筆』に、「六方は長き大小と両の腕と六方へふり分る心なるべし」といへり。『賤の小手巻』、「腰物も其頃(宝暦)遊客・俗士のさしたるはあながち身は吟味もせず、疵ありてもなまくらにてもかまひなく、細身にて切羽・ハバキも焼付にして、鍔などの吟味勿論なし。三分糸の花色などにて花奢に巻せ、目貫も何にても貪着なく、只七子の銀縁を専に用たり。今も銀縁をさす人あり。いかなる心なる歟。今も俗人の心得は皆然り。拵は何となく物すき相応に、対の大小などさすもあれど、身に於ては吟味もせず、用に立ばすまぬ物と大悟発明して高を括りたるは、浦山しきすましかた也」といへり。遊治の少年も、延宝・天和の頃迄は長大なる大小なりしが、貞享・元禄に至りて細身の長きが流行て、明和・安永に至れり。細身のお太刀といひしが、其後さま/\〃なるやう也。

○だんびら、長かたなは『太平記』ころより多くみゆ。神南合戦条、「山名が郎等福間三郎、七尺三寸の太刀たびら広に作りたるを、鍔もと三尺ばかりおいて蛤歯にかき合せ云々」有。今世はゞ広きをだんびらといふは、たびら広の略也。されどたびら狭ともいふことあり。『鴉鷺合戦物語』(一条禅閤作)、「げにも七尺には余るらむとおぼしきが、すゑおくれに三かしらさがりて、寸よりはたびらせばに、はゞきもとに穴をおいて分よりは厚くまつすぐ也。柄三尺五寸に見えたり云々」。かゝれば只だんびらにては広狭は分らぬ語也。たびらは手掌にや、唯平たきをいふ。

○刀剣の金ものになゝこといふ紋あり。帛にもなゝこあり。今七子と云り。『装剣奇賞』に、「金具に細点をつくるより出て、帛の織目に似たればやがて倣ひ呼る也。其紋の魚胎に似たるをもて名づけたるべし。魚を古語になといへば魚の子の義にて、のをなといふは音便なり」といへり。いかゞあるべき。糸には一とこ、二タこなどいふなれば、帛の織かたより出し名にはあらぬ歟。又、今小づか・笄の裏にのみくゝみといふ。古くは柄・さや皆金にて哺みたるなど云は、今いふ胴がねなるべし。又古く焼付といひしは今の金きせ也(『穴太記』、「天文十九年五月、将軍義晴公薨。六月廿一日御遺物を禁裡へ参らせらる。鮫鞘の御腰物、金具焼付、桐の丸の目貫、段子の袋に入られたり云々」。御腰物とあるは刀なるべし)。

○もと目貫といふは目釘のこと也。今は二物として目貫の金ものは虚飾となりぬ。根がねに丸く作りて、ほぞと穴との如きを陰陽の根がねと称するはいはれなき事也。是もと目釘の躰にて、表裏よりさし込て堅むる也。古書に目貫とある、みな目釘のこと也。又まふたぎといへり。『古事記』二、「赤つかの刀のまふたぎに貝摺たる差て」と有は、目釘の頭に貝を用たるにや。『拾遺集』に、「白かねのめぬきの太刀」とよめり。もとより金銀にても作れり。目釘の走らぬ為に押へたる金物也。古へは刀剣の金もの、細密なる彫物もなかりし也。後藤祐乗よりよき細工出来たり。伝へいふ、祐乗はじめ桃核に山王七輿、彌(正しくは獣篇)猴あまたを彫刻せしとかや。後世吉岡因幡介が先祖それに擬して桃核に右の図を彫しが、上覧を経て家に蔵め伝ふ(猴はみな棹をさし舟をこぐ。神輿頭宝珠付たる中に鳳皇付たるも有。その細工の密なること目を驚かす。されども金物の細工の論にはあらず。後藤の中頃迄には信に不思議の作ども有。桃核に細密の彫刻、東軒主人『述異記』に見ゆ)。

○伊勢安斎人の問に答云(問は立原翠軒也)、「大小刀をぬきて打合せて誓ふをきんちやうと云。古書に所見なし。信長・秀吉の頃已来、武士の大小を帯する風俗なりしより其事あるか。古代この事なく、又、漢土にもなき事なれば可然文字もなし。両刀を打合する事なれば金打と書也」といへり。『和訓栞』鐔の条に、「楠正行が誓て打死せんとて後醍醐帝の陵に参り、鍔を叩て立さりしは金打の義也」と云り。谷川氏も是をいかに心得しかおぼつかなし。さて安斎のは臆説のひがこと也。是はもと仏に誓ひてかね打事也。『旧本今昔物語』十六、「ある者双六に打負て渡すべき物なく、只貯へたる物とては清水へ二千度詣たる事なむ有、それを渡さんといへば、勝たる者、いとよしとて約束する処に、勝侍のいふに随て渡す由の文を書て、観音の御前にして師の僧を呼て金打の事の由を申させて、其二千度参りたる事慥にそこに双六に打入つと書て与へたり」(此こと『宇治拾遺』にも載たれど、かね打ことをいはず)。又『宇治拾遺』一、「源大納言雅俊一生不犯の金うたせたる」物語あり。『義経記』七、陸奥下りの処、「弁慶申けるは、今度の道中上下向の間、笛をふかじといふ誓言をなし給へとて、権現の御前にてかねをうたせ奉りて候へば云々」。『鴉鷺合戦物語』祇園林には今度中鴨を責おとさずは生て帰らじと、金打をし神水をのみてその幾人と契る」。『甲陽軍鑑』、修理と釣閑と口論の処、「釣閑腹を立、おのれが分として某に、みたけの鐘をつけと百姓あてがひの申様、口惜き次第也」。『鷹築波集』二、「いとかたう約束しても来もせいで、打たるかねのばちやあたらむ」。『三絃大弊』ふしやう組、「おもふまひとのかねうてば、かねの罰やら猶思はるゝ」。『八虹点前句付』、「年々の事/\、金うてどかねのばちやらやりたうて」などあまた見えたり。かね打といふより、大小の刀なども打合する事もあるにや。戯場院本などには多くある事なれど、そは作者の巧意に出るもしるべからず(『姫小松子日の遊』、「おやすが鏡のきんちやう」の類は、又一転したる也。『夏山雑談』四、「何にても仕馴たる業をふとやむる事を鐘うつといふ諺あり。御八講などの論義の時、証義師鐘といへば、威儀師磐を打ならすにはたと論義を止る也。此意なるべし」といへり。仏家に、無言戒に鐘つく事経文にはなき事とぞ。されどこれは本邦にて古きならひと見えて、『源氏物語』末摘花、「いくそたび君がしゞまにまけぬらんものないひそといはぬたのみに」。『花鳥』に、「童部の諺に、無言を行ぜむと約束して無言/\とうしまにかねつくといひて、何にても打ならして後ものいはぬことをする也。しまといふはしゞま也。棲遑と書てしゞまとはよめり。やすらひたる心也」。又、『明星抄』は、『河海』の説に随ひて、「日本紀、進退の訓に、しゞまいてと有をとりながら、それをしまにかねつくかたに取なして、よそへいへるなるべし」といへり。又、按るに『楽歌』、桜人の詞に、「その舟ちゞめよ」とあり。ちゞめはとゞめなり。又、しゞめともいふべし。しとちは横通也。『尤の草子』、「しづめる物、をどりのおんど、しゞまのかね云々」。今も小児が戯に、茶碗を鳴して無言になる事をするは、古き事としらる。手習ふ子共が無言とて線香を燃し立るは又転りたる也。是は隙を限る也)。

(略)



『続日本紀』、「養老六年夏四月、唐人王元仲始造�飛舟�進レ之」とみゆ。飛舟は櫓の多き快船なるべし。『図書編』にも、「十漿飛船」あり。船に名をつけ位を賜はりし事、『同紀』、「天平宝字七年八月、初遣2高麗国1船名曰2能登1。帰朝之日風波暴急漂2蕩海中1。祈曰幸頼2船霊1平安到レ国必請2朝庭1酬以2錦冠1。至レ是縁2於宿祷1授2従五位下1」。ふなだまといふこともこゝに見えたり(是はこの船の霊にして、他の神にはあらず。『延喜式』に、「住吉神を祭」とあるは、何れの船をも守り給ふ神なれば也。『神功紀』に、住吉神の誨に、「往来船を看む」とある是なり。漢土には天妃を祭る。其功徳天に配する義にて名づくるを、女人の像とするより、是をうけて本邦にて今俗には船だまを女とす。いとあるまじき事なり)。後世、船の名には必何丸とよべり。まろは古へ人の名に多く、男子の通称なり。自称にもいへり。才なく愚なる意也。又、物の名に呼もの、中古より多し(猿まろ・いなごまろの類。又、器物には剣の名何丸と名付る、いと多し)。今は唯船にのみ其例のこれり。

○又、いにしへ新羅船などをも用ひられしとみゆ。『続日本後紀』、「天長七年九月癸酉朔丁亥、太宰府言、対馬司言云々。伝聞新羅船能凌レ波行、望請2新羅船六双之中分給一双1聴レ之」とあり。双は艘字の誤歟。

世に名高きあたけ丸といふ御舟のこと、諸説定かならず。何人の記しゝか、此御舟壊たれし時に書るよしの物あり。それには承応已後に造られたるやうにいへり。先この一条にて、妄説なる事しるし。此ごろ友人山崎久卿、よき証を得たりとて記しておこせたり。その説、「加賀見遠清といふ人、江戸砂子標識に云、阿宅丸はもと北条家の船也。天正十八年以来秀吉秘蔵して、秀頼の時慶長十九寅の冬陣に、千賀与八郎・向井将監・小浜民部・九鬼大隅守夜討して乗取、豆州下田に繋置れ、寛永十二乙亥年六月江戸に御取寄、天海僧正不動明王を加持す。同六月十一日御乗船、八月三日再御乗船、国主大名御饗応。天和二年四月八日堀田筑前守正俊が言上に仍て、安宅丸破壊の事阿部豊後守被申渡、寛永十二年乙亥年伊豆より安宅丸江戸へ来り、御蔵へはいらず、今の柳川町松浦屋敷辺に堀をほり繋置。一年大風雨に鎖を切て伊豆をさして走る。三崎の番所にて止め、其後堤風除をしつらひ此処に置。周二、三尺の鉄の大鎖四、五十筋にてつなぎ置る(右阿宅丸旧地条)。此説実を得たるに似たり。九鬼大隅かたより相越侯云々。又、清正記にも、番船のおさへとてあたけをかけ置候はんやなどみえたり。かくのごとく天正年間に記せるもの往々これあり。近世武家編年略(寛永十二年の条)我古路裳(天和二年のことゝす)などに記せし所は、蓋伝聞の謬ならむ歟」(已上山崎氏の説也。此一条はゞかりあればこゝに載べきにあらねど、友人のかくねもごろにしるしおこせたる儘しばらくかいつく)。按るに、『近世武家編年略』に、「寛永十二年乙亥六月、公嘗命�向井将監�令レ造�巨船於相州三浦�而成。長三十尋以レ銅包レ之、有�三重楼�、構レ櫓二百挺、水主四百人、号�安宅丸�。公乗レ之蓋備えレ変也」と有。また、『我古路裳』には、「天和二年、安宅丸出来。長卅二尋、十二船玉東叡山南光坊・大山八大坊両僧勧請の御船也」といへり。『中興武家盛衰記』には、「海賊向井将監忠勝仰を蒙り、寛永十年相州三浦に於て、工匠を撰み年月を経て造り立、同十二年乙亥五月、江戸へ漕来」といへり。信節なほよく考ふるに、加賀見氏の説、時代はかなふやうなれ共明証なし。先年ある人のもたる画巻物を見しに、師宣がかけるなるべし、細密なる濃彩の画也。両国川の岸に唐さまの大船繋ぎたる処あり。天和の頃の有さままのあたりみてかきしものなるに、かゝる船の事覚つかなく見過しぬ。其後三浦浄心の記したる『見聞集』をみるに、唐船の事あり。その文、「昔慶長年中(神祖御諱)公唐船を作らしめ給ひ、浅草川の入江につながせ給ふ。かゝる大船を作り海へ浮むる事云々。(中略)先年造らしめ給ふ浅草川の唐船は、伊豆国伊東といふ浜辺の在所に川あり、是唐船作るべき地形なりとて、其浜の沙のうへに柱を敷だいとし、其上に舟の敷を置、半作の頃より砂をほり上、敷台の柱を少しづゝさげ、堀の中に船を置、此船海中へ浮むる時に至りて河尻をせきとめ、その川水を舟の有る堀へながし入、水のちからをもて海中へおし出す」とあり。此御舟いはゆる阿宅丸なるべし。『堺町狂言座猿若勘三郎由緒書』に、「寛永九申年、伊豆より阿武丸の御舟御当地へ御入之節、金の麾を頂戴し、御船の先にて木やり音頭仕候」と有(かゝれば御舟出きたるを慶長の末年としても、その間十九年伊豆に置れたる歟。『三浦の記』に、唐船を作らしめ、浅草川の入江につながせ給ふとあるは、大よそに書たるものなり。作らしめ給ひてより程経て、江戸には来るなるべし)。北条家の船といふは妄説ながら、よしなきにもあらず。阿武といふは、軍船の櫓多くかまへなどしたるの名也。『北条五代記』七、「氏直伊豆国に於て軍船を十艘作り給ひぬ。是をあたけと名付たり。一方に櫓二十五丁、両方合て五十丁立の兵船也。常にひとりさぐる鉄炮にて、十五間さきに板を立、玉のぬけざる程に椋の木板をもて舟の左右・艫舳をかこひ、下に水主五十人、上の矢倉に侍五十人有て、矢ざまより鉄炮を放つやうに作りたり。舳さきに大鉄炮を仕付置たり。伊豆重須の湊に兵船こと/\〃くかけ置、沼津よりは二里隔りぬ」とあり。かやうの船をあたけと呼。『清正記』に、「あたけをかけ置候はむ」とあるも是なり。さればいづくにてもいへる名也。さてかの御船浅草川に置れしことは、『色音論』(寛永廿年の草子也)、すみだ川わたし場の条、「ふねこぎもどし、はる/\〃とかはべをいづるおりふしに、ひがしにみゆる人うみのまん/\たれば、たましゐもそらにするがのふじさんか、しゆみの山かとうたがはる、大船うかび見えにけり。あれはいかにととひければ、せんどうこたへ、さればとよ、その名かくれもあらばこそ、あれは竜頭鷁首と申御座舟也けるが、船のむかしを尋ぬれば、(略)御座船のいく千代かけてきみがよのひさしかるべきためしなり。又、わがてうにならびなき、ひとつのみふねなりければ、日ほんまるとも名づけたり。あの入うみにうかびいで、さほさす人もなけれども、われとかはべにいでいれば、あたけ丸とも申けり」。又、『東海道名所記』(万治元年刻)、「海の中にうし島新田あり。若宮八幡やしろある故に、八幡新田と申すなり。新田の北をば深川といふ。このうちにあたけ丸とて日本一の御舟をつながれたり」としるせり。此御船の大さをいへるに異同あり。さのごとし。長サ三十尋(『近世武家編年略』)、卅二尋(『我古路裳』)、長サ卅五間、胴の間七間、御上段やぐら四間に八間(『阿武丸之事書』)、長サ卅八間、胴間十八、九間(『江戸砂子』)。いづれもたしかなるはあるまじく思はる。又、これを壊たれしにも諸説まち/\にして、浮たること多からむ。椋梨一雪が『新緒聞集』(宝永元年九月の序あり)、「天和年中、安宅丸の御船を由有て解ひらきて、それ/\〃に払物になし給ひし。然るに柳原和泉殿橋の酒屋市兵衛と云もの、板を買求めて穴蔵の蓋にしけるに、召つかひの女に物つきて、我は安宅丸の魂也。憚りもなく某を穴蔵の蓋とし、穢はしき雑人原に踏せぬるこそ遺恨なれ云々」あれば、御舟は板までも御払ひ物になりしにや(これを售れし事いかゞとおもへど、其事書る侍僅に廿年過ぬほどの事なれば、さも有しならむ。物つきの事は論に及ばず)。又、其時風説を書たる物に、「仮令不益なる物なり共、何ほどの費あらむなど、かたぶける者も有」とみえたり。其時執政の心をいかゞはしらむ。口さがなきは下々の常也。また、此御舟、伊豆へ帰らむとてうめきたりといひ伝ふ。この声何と聴えたりけん、覚つかなし。但し、うめけるはさも有べし。物の自ら鳴こと古より伝へいへり。釜・竈などは今も時々鳴ことあり。奇とするに足らず。

(『続日本後紀』、承和七年五月丁丑、但馬国言、養父郡兵庫鼓、無レ故夜鳴声聞2数里1云々」。『三代実録』、「天安二年冬十月云々、陰陽寮漏刻盛レ水銅器自鳴一声云々」。『百練鈔』、「天延三年四月一日、南殿母屋柱吼如レ牛云々」などみゆ。船のうめくも此理におなじかるべし。『癸辛雑識続集』、「越中宋邸両舫舟、忽有レ声如�牛吼�、移レ時方止。俗謂2之船吟1、不祥之徴也云々」あれば、これも又ためしあり。因に云、今田舎にて釜なることあれば、婦人の新しき褌のいまだ肌にふれざるを、上より覆へば鳴やむといへり。『博聞類纂』雑法門に、「釜鳴不レ得2驚呼1、須一男子作2婦人1拝即止。或婦人作2男子1拝亦可」といふも、似よりたること也。

○一説に、「彼あたけ丸を繋ぎ置たる御船蔵の内にて、繋たる鎖の音大地を轟し、彼御舟しはがれたる声をあげて、伊豆へ行う/\と幾度となく鳴云々。数百人の大工并人足の者を以て打くだく。江戸中の賤男女見物市をなし、其日数三十日に及ぶ迄、とかく夜に入静れば鳴ける也」と有は、壊たるに及て鳴たりと也。『太平記』、三井寺合戦の条、「文保二年三井寺炎上の時、この鐘を山門へ取寄て朝夕是を撞けるに、敢て少しもならざりける間、山門法師共悪しみ、其義ならば鳴やうに撞とて、撞木を大に拵へて、二、三十人立かゝりて、破よとぞ撞たりけり。その時この鐘海鯨の吼る声を出して、三井寺へゆかうとぞ鳴たりける」とあるなどに依て、いひけるにや)。

『江戸砂子』に、「阿宅丸の旧地、新大橋の少し北手なり」とのみ有。その時は、今のごとく小高き塚にてはあらざりしにや(伝へいふ、御舟取くづし此処に埋めて塚にしたるなりとは、彼御払物となりし外に、朽たる物などを埋めしか)。安宅といへるは、『孟子』に、「仁者人之安宅也」といへるに取なるべしといへれど、非なり。「清正記にあたけとあるは、朝鮮役の時のことなれば、安宅丸造られたる年より遥かに前に、さる名の有ければ、其名をとりて呼れしにて、大船の事をさしていへるやう也」と久卿いへり。今按るに、あたけは放逸の義也。『源氏』『狭衣』等にあだへといふ詞あり。あだけと同義なるべし。ひそまぬ意といへり。今人怒りて物などを打なげ砕くやうのことを、あたけるといふも是なり。『色音論』に、「われとかはべにいでいれば、あたけ丸共申けり」と有は、名義をさとしたるやう也。師宣が画の唐船、うたがふべくもなき此御舟の図なり。写さで過しゝはいと悔し。されど皆よくうつし取たる人もあれば、後日もとめてうつさまし。『色音論』にも、聊そのかたあれど、絵拙くあらぬさまなれば、証としがたし。

○昔、江戸・近國共に大船なかりしと也。『見聞軍抄』四巻、「**公、大坂にまします。兵士の扶持かたのため、関東より八木を船にてのぼせらるべき由仰有て、伊豆・相模・武蔵・下総・上総五ヶ国、津々浦々の大船共を改め給ふ処、大坂迄大海を渡すべき大船一艘もなし。され共江戸川に百石づみを頭とし、八十石積の船を下として、四日市に二艘、舟町に二艘、伊勢町に二艘、小網町に一艘、合せて七艘帳に付給ふ。此大船を隅田川につながせ、伊奈の熊蔵下代に富田吉右衛門といふ人奉行にて、牛島の御蔵米をつまらせられたり。米の上乗御奉行には榊原式部大夫家中衆乗。此七艘の大船夥しくぞ聞えける。然るに今は千石・二千石づみの大船、関東浦々に幾共その数をしらず」といへり。今といへるは、『同書』七に、「天下治て三十年此かた」と云り。

○高瀬舟、『三代実録』四十六巻、神泉苑に舟を置るゝ所に見えたり。『和名抄』に、共(正しくは舟篇)を訓り。「共は艇小而深者云々。和名太加世、俗用2高瀬舟1」と有。艇はをふね、又はしふねと訓り。「小船也、一、二人所レ乗也」と見えたり。今江戸にて高瀬と称するは、古へ高瀬といひしものとは異なり。『東雅』に、「凡物の長短高卑をも、せの長さ短さなどいふこと也。船の底深ければ、旁高きもの也。故にたかせふねといひしを、世人高瀬舟などしるしぬれば、和名抄にかくは注したる也」といへるは非なり。高瀬をさす舟なればしかいふなり。『源氏物語』橋姫、「あやしき舟どもに柴かりつみ云々。はし姫の心をくみてたかせさすさほのしづくに袖ぞぬれぬる」などあるを思ふべし。いと少き舟とみえたり。もしせの高きをいはゞ、せたか舟とこそいはめ。たかせとはいかでいはむ。『和名抄』、其次の条なる帯(正しくは舟篇)の注に、「和名比良太、俗用�平田舟�」とあるは、上と同例にはあらで、ひらたき義なるべし。今ひらだと呼舟もさる形したるものながら、いたく異なるべし。

○帯、ひらた舟、『風俗文選』、李由が湖水賦に、「大丸子・小丸子・小ばや・川御座は大名舟、高瀬・伝馬は川舟なり。段平に大石をつみ、帯は耕作のたすけ也」。自注に、「准2肥付馬1不レ入2舟数1」とあり。これ田舟なり。苅穂を積、また糞汁を運ぶ。『和名抄』にいへるも是なるべし。近*あたりには、今も是をひらだといふにや。田舟とのみいふは略称也。又、今江戸の俗にひらだといふ舟は、石など載る舟なり。修羅とも異名するは、大石を動かす(大石を帝釈と取也)といふ例の謎の名なり。されば舟にのみ此名をいふにあらず。石屋宗山が『明暦火事の記』に、「戌年に御天守台をほぐし。又、ふるくは『林逸が節用集』に、「修羅引2大木1材木也」といへれば、今の地車はこれより出たる也。「江戸にて慶長ころには、夏日の納涼に平田船に屋形を造りつけ、是を惜したり」と、『昔々物語』にいへり。又、『落穂集』に、「慶長五年已前、伝奏屋敷より葭原町の遊女を召れて、船に乗参候節、船のうへには苫覆を致し、幕簾などをかけ候を手初にいたし、外々にも屋形舟と申ものは始め候よし」といへり(『洞房語園』に、「此事吉原開基より寛永中迄あり」といへるは非也。この開基といふは元和三年なれば時代かなはず。其うへ『落穂集』を考ふれば、程もなく止しこゝ見えたり。思ふに慶長四、五年の頃は止たる時なるべし)。屋形といふは、『野府記』、「寛仁元年十月十二日丁丑、辰剋許被レ参2桂山庄1。到2大井1傍レ河南行、於2贄殿辺1乗レ船」、注に、「屋形船二艘其外有1橋船1。前摂政被レ設1菓子干物等1、船中勧レ酒云々」。また、船の屋形といふこと、『平家物語』『源平盛衰記』等にもみゆ。『和名抄』に、「車蓋をやかた」と訓り。車も船も義はおなじ。さて件の後屋かた船を大に作れり。東国丸といふが大船の始也。山市丸はそれよりも大にして、屋かた八間にしきるに依て八間市丸と名付。熊市丸は屋かた九間にしきり、又、十一丸とて十一間あるに至るとなん、『紫一本』『昔々物語』等に見えたり。かく夥しく流行て華奢になりし頃、『寛文八年申三月、万事倹約御法度』之内、「遊山船、金銀之紋、座敷之内絵書申間敷事」と有。其後度々法度出たり(天和二年戌七月二日、「町中有之候借し屋形舟、近年大き成舟共相見へ候に付、今度舟之寸法御定被成候間、只今迄持来候共、御定より大成屋形舟自今已後堅借申間敷候。尤所々之川岸にも繋置申間敷候」。『天和二年七月御定』、「屋形舟寸尺、舟長さみよしより戸だて迄四間三尺、表梁間四尺六寸、胴之間梁間六尺五寸但中敷居に致仕切可申候。鞆之梁間五尺三寸、表之小間長四尺八寸、胴之間長さ壱間三尺、鞆之間長壱間、屋根之高板子之上棟木之下端迄五尺、軒之高さ舟端より三尺七寸、軒之出端壱尺壱寸、間数胴之間・筒之間此二間より外仕間敷候」。また、貞享元年子六月廿九日、又、元禄十四年巳七月***は、「向後新規作り度存候者は、前方町年寄へ相断、差図次第可仕」。元禄には、「先年相定候寸尺より大成も有之船取上船主曲事可申付」など御触有之)。船も小くなり減少のやうなれど、享保の頃に至りても、江戸川筋やかた船、水道に六、昌平橋二、和泉橋七、江戸橋六、浅草橋十二、駒形四、木挽町十三、南八町堀四、北八町堀三、芝金杉四、牛込八、両替町五、土手蔵九、本町河岸七、後藤河岸五、鎌倉河岸二、本所二つ目一、総計九十九艘なり。こは百艘あるべき也。其内、川市丸・桜丸・高砂丸・川吉丸・福市丸等は、同名多し。難波にては、是を屋形御座とも御座舟ともいへり。京師にもありしと見えて、『洛陽集』(延宝)、「嵐丸関吹越て夏もなし」といふ句有。

○二挺立といふは今いふちよき舟也。三挺は今もしか呼り。原三谷がよひの船なれば、異名を勘当舟といふ。『吉原徒然草』に、「三線筥はかんだう船ばかりには、のすべからず。ゆれて糸まきくつろぐ」などいへり。『江戸砂子』に、「此舟をちよき舟といふは、長吉船の略也。押送船の長吉といふもの、船の頭をやげんの如くにして至てはやし。此船の作りをかんがへ、見付の玉屋勘五兵衛・さゝや利兵衛などゝいふ者、始てちよき舟を作る。近き頃二挺を御停止あり。今は一挺也。近来猪牙船と書り。又一説に、此舟作り祖は兵庫や何某とかや、昔より今戸橋の端に居住し、今に栄へて船作ることを業とす」。是によりて聞に、長吉といふ者慥ならず。若作り出せし頃、其船健かに動を見てちよきと呼そめしにや知らず。『紫の一本』に、「窮屈丸といふ舟あり。かはりたる舟なればしるさず」有。舟まむぢうの舟の異名歟。『同書』又云、「二丁立の小船に屋ねを付たるを、きり/\〃すといふ。吉原かよひの舟也。遺佚が云、此舟をきり/\〃すと名付るは、おほひ多く、乗るにも出るにも四つ這し、舟ぐら/\して今水に入かと思ひ、面白き事もわすれ、通ふにも此舟を思ひきり/\〃すといふ心なるべしと。鎰屋仁左衛門といふ舟宿がいふ。左様の埒もなき事にては御坐なし。舟いそぐ故に、櫓の音が二丁できり/\〃すと鳴故に名付ましたといふに、皆大笑になりぬ」とあり。今の屋根舟は此船にて、二丁櫓は止められたる也。すべて昔の大やかたは、幅に比ぶれば竪に長すぎたるものにて、何丸などゝ舟の名をしるすは、金物にて文字を刻み、入口の戸のうへの横木に打付たり。今の如く額を作りて懸たるはなし。

○船の法度のことは、正徳三年癸巳三月廿七日、「二挺立・三挺立之船御停止ニ成候上は、右之船来月九日迄ニ不残解船ニ可仕候。無拠子細有之新規ニ茶船拵候者は、向後月番之番所ヘ相伺可申事」。同三月晦日、「屋形船之儀、百艘に御定、焼印札相渡置候上者、武士方より預り候屋形舟并御支配違より預候屋形舟有之候はゞ、町中致吟味早々舟主方へ為相返可申候。子細も有之候はゞ船主之名并預り主之名書付、来月七日奈良屋所へ名主・月行事持参可申候云々」。同五月十九日、「町中屋形舟員数之儀、宝永三戌年百艘ニ相定、其節舟主共へ焼印札渡置、猶又此度令吟味、右之者共へ焼印札壱枚づゝ相渡、弥員数百艘ニ相定候間、右之外は屋形舟壱艘も所持仕間敷候事。二挺立・三挺立之日除舟・川舟方為御用員数宛渡置候。此外一切所持仕間敷候事」。同八月十日、「ちよき舟之儀、当夏中令停止不残解船ニ申付候処、今以ちよき舟有之由相聞不屆之至ニ候云々」。ちよき舟の事、諸説みな誤り也。これもと漁猟の船なり。『正徳四年八月十六日日記』、「深川黒江町・大島町諸町・相川町・熊井町・蛤町・中島町・北川町・奥川町に、前々よりちよき舟を乗漁猟仕来候処、此度ちよき舟御停止解船ニ可仕旨、江戸一統之御触に付、右猟船之分者往古より之通、ちよき船用申度段奉願候へば、元来ちよき船と申は猟船にて御座候を、悪処通之船ニ借申者処々に出来候ニ付、悪処船之名ニ罷成、猟師共家業之可罷成迷惑存奉存候間御訴訟申上候。此段右町名主共申来候」と有。

○ちよき舟の名を按るに、今御舟手にちよろと呼小舟有。二挺立は是に類したる物にて、其名も是を転じて呼べるにや。ちよろといふも小き物の疾き義也。ちよきは今も小手廻しよきをちよき/\といいふ。ちよろとおなじ意也。小早といふ舟あり。ちよろは即是なり。又、小はんと呼舟は小早の転じたる也。『松落葉』三、岡山通踊といふ歌、「をか山がよひの六ちよこばやにろを八丁立て云々」。又、しとゝん踊といふ歌、「四丁の五丁の六丁こばや、花のゑしまへおせやれをのこ云々」。『松の葉』、船歌に、「ちよきや/\ちよきりやちり/\や」などあるは、櫓の音をいふ也。是等にてもさとるべし。

○茶船といふは、『童蒙先習』十、「いそがはしきもの、茶舟こぐ、凡度量のびざる奉行の事をなすは、茶船こぐに同じ」。『俳諧染糸』、千句の内、「湯の山で見たる名所をかたられよ、茶舟挙つてさても寝がたき」(此句、淀川の渡舟などをいふに似たり)。ちよき舟などの出こぬ前には、此船もいそがはしきものにてありしなるべし。前にみえたる触書にも、二挺立・三挺をも茶舟とあり。総て小船をいふ。茶筅にて茶をたつるは急なる物故、准へていへりとみゆ。『風流徒然草』、「二挺・大三挺をおさせ」と見えたる大三挺は、今のにたり舟をいふか(大茶舟は後に出来たる物とみゆ。昔の茶舟は今のにたり舟や)。にたりを荷足と書れ共、その義にはあらじ。三挺などに似たるの義歟。或は云、茶舟が原大船の荷物を分ち載て、運送する為の舟也。上荷よりも小き舟をいふ。『永代蔵』巻一、「難波橋より西、見渡し云々。上荷・茶舟限りもなく川波に浮む」といへり。上荷は廿石づみ也。そも堀江舟は三十石もある也。茶舟は十石の荷を運ぶ舟なりとぞ。当時大坂七村に荷舟九百廿艘、中船六百七十二艘、新上荷茶舟五百、茶舟千三十一、堀江舟五百、都合三千六百二十三艘となむ。

○檜垣は大坂廻船問屋の大船、垣だての筋を檜垣の如く作る故の名也。

○はがひそは越前舟也。舳形鳥の羽がへの如くなるによりて名付。

○いさば、小船にて、磯辺を行を以て名とす。

○押廻し、千石船也。舳をたかくまげ上る故にいふ。

○北国尾船にドングリ舟と云は、形の似たる故也。

○過書船、淀河筋運送の舟。三百石を積べし。今は川筋浅くなりて用がたし。故に小舟を出てテントウ船といふ。三十石舟也。転送舟の呼誤り歟。

○けんさき舟、荷物十六駄を載す。大和・河内へ運送の舟也。長さ九尋余、深さ一尺四寸、へ先尖りて剣の形也。

○ハイロン、端午の競渡はもと屈原を祭る事より起るとかや。『長崎歳時記』、五月朔日条、「競渡船は別に製作有。近き浦々より出る。今は漁猟祭と唱へて、崎中より一里ばかり沖の方、神の島・小ケ倉のあたりにてこれを催す。船長さ十五尋、又廿尋。一艘に五、六十人づゝ撰び立たる大の男、多は裸にて乗。艫には町印・浦印の幟、又長刀或は幣を立、どら・大こを打、互にかひを入て渡を競ひ、両舟飛が如く、両を二そうぜり・三艘ぜり・四そうぜり有。市中貴賤、浦々老若舟を浮て見物。知音の者競渡舟に酒樽等贈る。此船争ひをハイロンと云は競竜の唐音也」といへり。琉球にては重陽にこれあるよし。張学礼が『使琉球記』に見えたり。

○上総より物積てくる船、帰る時空船なれば必芥を載てかへる舟あり。これを五大力など呼は訛りにて、もと五大喜村の舟なるべし。

○馬ふね・酒ふね、何にまれ横長なる箱のたぐひ、なずらへて舟といふは常のこと也。『色音論』、浅草寺の条に、「御堂になれば手水鉢、ちから及ばぬ大石を、船の形に作りなす」とあるを、めづらしげにいへるもの有。此舟の形とあるをいかに思*るにか、天和の頃師宣がかける『浅草寺境内の図』に、本堂の前に大なる石の手水鉢の横長なるをかけり。即是也(今は手洗ふ*右の傍によりたり)。船形といへばとて、艫舳具りて首尾異なるやうに作りしにはあらず。先つとし大和国なる長谷寺に詣しに、楼門の前に石の櫃めくもの有。其形凡長さ一丈ばかり、横五尺余り、高さ二尺二、三寸もあるらむとみゆ。こは古き手水鉢にて今は不レ用してあるなり。いにしへ参詣郡聚せし時、かばかりの物にあらずは手水足るまじ。これに似たる手水鉢の図、『清涼寺融通念仏縁起』の画にもあり。いにしへのはみな此さまなりしとみゆ。

○小舟に傘をさして帆とする事あり。楊誠斎が『舟過2安仁1』といふ詩に、「一葉漁船両小童、収レ竿停レ棹坐2船中1、怪生無レ雨都張レ傘、不2是遮1レ頭是使レ風」。また、陸放翁が『農桑詩』、「采レ桑蚕婦念2蚕飢1、陌上忽々負レ籠帰、却羨隣家下レ湖早、画船青繖去如レ飛」といへるも、おなしきにや。近時聞たる発句、「我を帆やつくばおろしに帰る猪牙」、「傘を帆にしてもどる三谷船」。

(『嬉遊笑覧』一、二 岩波文庫版を底本としました。)

巻之三

嬉遊笑覧巻之三

喜多村信節著
(一部)

巻之三 

書画

筆を口にくはへ、或は頭に鉢巻してそれに筆を挟みなどし、又は左手にも、もの書戯あり。『著聞集』に、「弘法大師は筆を口にくはへ、左右の手に持、左右の足にはさみて、一同に真草の字をかゝれけり。さて五筆和尚とも申なりとかや。ふしぎなること也」とあれど、是、書法の論にあらず。『桂林慢録』に、「これ曲筆とて、下劣なる者の戯に為ること也。按に、書法正伝、韓方明が執筆の五法を載す云々。空海は書を韓方明に学べりと云伝れば、此執筆の五法に通達して五筆の名を得しなるべし」といへり。又世に道風のふるひ筆といふも、『同書』に、「まことにや道風朝臣、大師のかゝせ給へる額をみて、難じていひけるは、美福門は田広し、朱雀門は米雀門と略頌に作りて嘲り侍りける程に、やがて中風して手わなゝきて、手跡も異やうになりにけり」といへり。『桂川地蔵記』(弘治二年二月六日誌と有)、「道風之経手、金岡之霊筆」とも見えたり。『寛永発句帳』に、「道風に動くやふるひ筆つばな 正直」などいひ来れり。恐らくは、揮筆(フルヒフデ)を誤りてわなゝく事とし、付会の説を設しにやあらむ。『観鵞百譚』には、「南唐の李后主(名*)、顫掣筆とて書給ふ。ふるひ筆也。金錯刀の法とも称す。又、元の張体、字は孟庸も隷書を能し、又時に金錯刀を学びて、顫掣勢とてふるひ筆を出しける也。小野道風たま/\此法ありといへり。藤原敏行は一旦卒して蘇生す。その後、一切経を自書し、遂に廿七歳にて身まかれり。『輟畊録』十五、「江淅平章子山公、書法妙�一時�、自�松雪翁之後�、便及レ之、嘗問レ客、有下人一日能写�得上幾字�、聞趙学士言、一日可レ写�万字�、公曰、余一日写�三万字�、未下嘗以�力倦�而輟上レ筆、公号�正斉恕叟�云々」。これ、たゞ早がきのみにあらず。気力の勝れたる也。左手は『老学庵筆記』に、「陸元長宗室不楮微梁子輔皆用�左手�作レ字、勝�於右手�。又趙広以�左手�画�観音大士�」。この事、さまで奇とするに足らず。こゝには今も往々これあり。されば包丁・刀売る店には、左り刃の刀作り置も、左手を用る者、常にある故なり。

○『栄花物語』木綿四手、「姫みや、みゝずがきにせさせ給へる、これいかであての御もとに奉らん」(三条院崩御ありて、中宮の姫みや御年五つにならせたまふ)。童の蚯蚓がきは、今もいふ字の調らぬ也。はしり書はなほざりにて、心にもいらぬをいふ。ちらしがきは色紙・短冊・えん書等にいへり。はなちがきは幼き頃の手、一字づゝはなしたる躰也。おひつきがきは、追付の義にや。『源氏物語』あげまき、「みちのくがみに、おひつきかき給て」。『細流抄』に、「ちらしなどもせざる也」と有。書つゞくるをいふなるべし。是は艶書なれども、かやうにも書たり。又艶書はたて文もあれど、多くは包み文とみゆ。やどり木の巻に、「例のうはべは、いとけざやかなるたてぶみにて」。是は艶書也。わざとたて文にしたりとみゆ。浮舟巻に、「みどりの薄やうなるつゝみ文のおほきやかなるに、ちいさきひげこを小松につけたる、またすぐ/\しきたてぶみとりそへて」(是は、つゝみ文もたて文もえん書にはあらず)。若紫の巻に、「御手などはさるものにて、たゞはかなうおしつゝみ給へるさま云々」。『河海抄』に、「おしつゝみては、たて文也。艶書をたてぶみの事、本儀也。堀川院艶書合にも、同大納言紅のうすやう、たてぶみにて云々」有。今その『艶書合』をみるに、初めに大納言公実の歌ありて、次に同大納言とあるは、上を指也。このたて文を本儀とは、いかゞあるべき。漢土には、えん書を方勝とて、菱形に畳む。勝とは、もと婦人の首飾也。そはともあれ、たて文にてけざやかならむは、似つかはしからず。『花鳥余情』に、「嫁聚記、艶書のやうは、仮令ば、紫或は紅の薄様二重に歌を書て、おしたゝみて引むすびて墨を引て、其をまた薄様一重にて、薬もしは砂金などの如くつゝみて、おなじ薄様をほそくきりて、ひねりて頸をゆふ也。これに墨を引、不引は両説也」と有。今封じめに〆とかく。是、引墨也。『北山抄』に、「封字のかはりに、近代は忽引墨」とも見えたり(俗にこゐじめといふ事、『閑秘録』に、「今世公儀の地方、或は普請方等に、惣入用の帳を清帳といふは、済牒の俗称也。古代は是を公文といへり。其金・銀・銭、或は米穀の類、惣都合する字に、卜字を用る事、古今の通法也。されば今も卜銀・卜米など、公義の帳には直に書也。世俗、略して〆と書。俗の目印也。さて卜字は、鳥の木に居を木居と云。依之〆と云都合を俗称に木居と云。猶俗にはこゐじめといふ。然して香聞の、仮に包みたる紙をさす針の形、かの木居に似たればさもいふべきを、春の諸鳥、木に居初るは鶯故に、木居をうぐひすとはいふ也」といへり。鶯の説は非なり)。『莵玖波集』十九、雑体連歌俳諧、「すみを引かと見ゆる黒かみ、思ふ筋かきやる文の結びめに 良阿法師」。『同集』第九恋部、「むすぶ文にはうはがきもなし、いはしろの松とばかりは音づれて 信昭法師」。又、第十一恋下、関白家千句連歌、「かへしてみれば跡のおもかげ、玉づさをうらせばきまで書なして 藤原家平朝臣」。また第十六雑、「むすぶ庵ぞ山の奥なる、捨る身を文ばかりには書おきて 藤原長泰」。結び文、艶書のみならず。おもふに、封じ文は遠方のおとづれにて、程近きあたりは、艶書といへども糊など用ひざるにや。『枕双紙』心もとなき物の段、「遠き処よりおもふ人の文えて、かたくふむじたるそくひなど、はなちあぐる、心もとなし」。『秋草』に、「捻文、古式は一重ねに状を書て巻て、そのうへを白紙一枚にて巻。是を礼紙といふ。其礼紙のうへを、白紙を横にして包む。これを表巻といふ。此表巻の上下、状より余りたる分をひねる也(ひねりやう有)。捻りたる処を、紙捻を後より前へ廻して、まむすびにして切る也(上下おなじ)。此表巻に、名書をする也。是を式の立文といふ云々。艶書をば、ふみの真中をねぢりてむすぶ也(俗に、是を玉づさといふ)。此艶書の結びやうを、男の状の頭にむすびたるを今、結び状とて通用する也」といへり。大かたは此分なれ共、又、さばかりにもあらぬは、上の件のごとし。玉づさは、『万葉集』などにみゆ。『玉勝間』に、「讃岐国人、女をよばふに、藁を結びておくる云々。万葉に玉梓といへるは、かゝる事にはあらじか。今の世に、草の実の仁に玉づさといふがあるも、件のわらの結びざまに似たりと云々」いへり。草の実とは、からす瓜のたね也。その形、結び文に似たり。『今昔物語』叡山義清阿闍梨の条、「怠り文、書て進てんと云て、忽に手筥を聞きて吉き紙四枚取出して、何か書にかあらん書つ。それを押巻て、懸紙して立文にして、上書には云々」有。懸書は、表巻といへるもの也。紙四枚は、重ねと礼紙と懸紙なり(『莵玖波集』に、「玉づさのうら狭き迄」とは、重ねの紙に書る也)。『俳諧染糸』千句、「しる人に言づてしたくおもふ也、書ぬる文にらいしあるかや」。今の俗に、書ものゝ端をらいしといふ、是なり。消息ならぬものに、礼紙とはいふまじきこと也。

○『源氏物語』などに宣旨がきとあるは、今いふ仰せ書也(明石巻には、娘の返事を父の入道が書るをも、宣旨書といへり。唯、他筆を然いひなれたるにや)。『遊学往来』に、仰書は「硯入レ水向�御前�、摺レ墨染レ筆後可レ申�案内�」と有。又、うちむかひ文ともいふにや、『後宮名目』云、「うちむかひ文と申侍るは、うへのおほせごとにても、さらぬ主君の申さたせられ侍るにも、其御前につめさふらひて、案じぶみなどもものせで、つかふまつる文なり。うちまかせての筆人は、さやうのはれわざは用捨あるべき事なり」とみゆ。案ぶみとは、下がきをせぬなるべし。又、『栄華物語』に、「御くちふで」とあるは、今の口上書といふものにや。『玉勝間』に、「三代実録十三、宣命の中に口状と有。今世に口状を口上と書は、もの語書に几帳を几丁、本性を本上とかけるたぐひ也」といへり。『郡砕録』に、「爰書、爰換也。以�文書�換�口辞�也」。これ、口上書なり。されど『天香楼偶得』に、「爰書、爰換也。以�文書�代�其口詞�。若�今録�囚口供�是也」とあれば、今世、口がきといふもの也。

○漢土に、文を筆といふ事を論じて、『亥(正しくはコザト篇)余叢考』二十二、「文心雕竜曰、今俗常言無韻者筆也。有韻者文也。是六朝人以�韻語�為文、散行為レ筆耳云々。可レ見�文与筆自レ是二者種�」といへり。分ちていはゞ、さもあるべけれど、こゝには書にまれ、絵にまれ、筆にてかくもの故、筆とはいふ也。

○今、返用の書翰の起頭に、「一筆致�啓上�候」かく事、寛永頃より始ると見えたり。婦女の、一筆と書出すことは、古き文にたま/\これあり。『東海談』『翁草』等にもいへり。

○『醒睡笑』に、「筆だてに日の字あり云々。とかく当世は文章の短きがはやる」。筆だては、書出る初筆をいふ。文章の長短も世につるゝにや。女の文も、むかしは今と異也。古き遊女が文をみるに、長きはなし。常の女の文は、推て知べし。但し、心用ひもあることなり。『女鏡』(慶長三年刻)ふみの書やう、「わかき内は、あまり細かにしたるきは、人のひはん多き事也。かろきをほんとす云々」。又、貞享・元禄の頃、『女教訓の草子』には、「女中の文章は、御所がたを学び、文つら・手の風は、京の傾城風を習ひ給ふべし」といへるは、その頃までは、遊びに能書多かりし故也。八千代なども、拙からず。書しものに印あり。是は定紋を印にして、封じ文に用ひし也とぞ。『諸艶大鑑』、「ことに上包みを二重に、封じ目には印判定紋を押て、御念の入たる事ぞかし」。永禄の頃までは、世間に状文さへ包て封る事なし。まして遊女の文などは、当座のなぐさみに見捨しに、昔この里、六条にありし時、玉虫といふ女郎、客のかたへ銭壱貫のむしん、初て封じ文つかはしける。箕山が『大鑑』、「あげ屋の女あるじに文やる事、たとひこまごとありとも、折紙にてかくことなかれ。数多く書どもたて文にして、巻たる上を中より折封ずべし。封文の事、女郎よりはうつくしく封てこすもの也。男より遣す封文は、ひし/\と折まきて、封じめ計に糊を付て、上下は其儘おくべし。若大事の用をいひやらば、封じめに印判を致すはくるしからず。それとも上下を折かけ、糊付るは初心也。文箱に入て、封付たるなどは苦しからず。細川三斎は、封文の上下はいふに不及、封目に糊多く付る事さへきらひ給ひし。糊多付るは、野体なる物也」とあれば、女郎のみならず、客の文にも印判を用ひたり。又、文の散し書は、歌をちらして書より出たり。安斎云、「歌のちらしやうに法もなし。されば文のちらしやうとて、定りたる法もなし。只、文字のふときとほそきとにて、見わかるやうに書しこと也。近き頃は、三べん返し・五へん・七へん・九へんなどゝて、其手本かき、朱にてよみやうの次第の印に、一・二・三の文字を付るあり。是、近世こしらへ出したる物にて、故実にあらず。むかしは男も女も文かくに、さのみ長々しき文言はなかりし也。長く言たき事は、文持てゆく使の者に、申ふくめてつかはしたる也。もし長き事は、二へんは返して書こともあるべし云々」。『昔々物語』に、「むかしは用事の手紙、取かはし希にて、つかひにて口上に申遣す。女中方も、大かた下女使にて、用事口上にてすむ。夫故筆・紙、近年の十分一も入らず。依之紙、下直也しが、近年は口上にて済こと迄も書状になり、猶以上封までも致す故、紙も多く入也。半切紙といふものは、かつてなし。六十年已前より、半切紙を用る事也(かくいへる享保十七年より六十年前は、延宝の初也)」といへり。これのみならず、公私の書ものも、事繁ければおのづから多く、又、手ならふ童も、近ごろは黒き双紙を用ひず。下々迄さあれば、是又その費、計りがたし。封筒も『朱氏談綺』に、「尺牘封筒図式」等出たれども、世人、好むものもなかりしが、近頃は俗間の手簡、みな書翰袋ととなへて、是を用。彩色・金ずり・さま/\〃鄙俚なる模様、野郎が紋所さへに出きぬ。是亦、費の至り也。

○てづゝといふこと、今はものかく事のうへにはいはずして、たゞねびゆかぬ事に広く用ふれど、さにはあらず。『紫式部日記』、「一といふもじをだに、かきわたし侍らず。いとてづゝに、あさましく侍り」。又、くちづゝといふこともあり(かきわたし、渡しとは、こゝよりかなたに及ぶ。されば、いさゝか一の字にも然いへり。『狭衣』に、式部卿の宮のうへ、姫君の代筆の処、「いとつゝましげに、かゝへなどはせで、ひとゆきにひきわたされたる筆の流れ、文字やうなど、是を上手とはいふべきぞかし」。かゝへは、考へなどせぬなるべし)。

○女の文に、昔はまいらせ候といふ事、多く書たり。男のにも有。今は希也。諺にも、まいらせ候にして済す、などいへり。物を大方にして置をいふ。『誕生日』といふ大坂の前句付、八虹点、「雨の降のに/\、寄らずともまいらせ候にしておきやれ」。『西翁千句』、「よしや吉野も花もまいらせ候、かな文字のおく山さみし春淋し」。其角が『類柑子』に、「まいらせ候や竹に辛皮」。椒皮は、竹にはさむ物也。

○片かな・平がな、『空穂』『狭衣』などに、「かたかな」とあるは、かりそめに歌かくにいへり。これは、今の片かなとも思はれず。『下紐』に、「草の文字なるべし。俗に大和仮名と云也」といへり。これは、今のいろはがなゝるべし。平がなといふ事は、近き世の浄るり本よりいふなるべし。そは、文字をつめて平たく書る院本より云也。

○児童手習、はじめ漢土には冬を用るか。陸游が『秋日郊居詩』、「児童冬学鬧�比隣�、拠レ案愚儒却自珍、授�罷村書�閉レ門睡、終年不レ着レ面看レ人」。その自注に、「十月乃遣レ子人レ学謂�冬学�、所レ読雑字百家姓之類、謂�之村書�」。但し、これは素読のみするなるべし。

○童子の手本に往来といふものは、『礼記』に、「礼尚往来」と云より出たり。故に『庭訓』『風月』など、状毎に反報あり。其後は往来ならぬをも、なべて往来と云。『東ユウ子』に、「爰に元禄の頃、京都の訓蒙師、堀流水軒と云人の著作とかや、唯一帖のものに、商売往来と号けしは、いかにぞや。流水軒自筆を書林大野木氏開板せしより、津々浦々迄も布まり」といへり。然らば是、その作俑なり。

○こゝにて『実語教』など、村書ながら古き物なり。『雑談集』、「筥根山中葦河宿にて、或旅人、実語故不レ貴、飯大なるを以て為レ貴といふを、家主とりもあへず、人肥るが故に不レ貴、以�賃多�為レ貴と。互に入興したり」と云り。



(略)

詩歌

ゐんふたぎは、掩韵と書り。『西宮記』宸宴の条、「延喜二年七月十七日(略)有�掩韻事�」。『源氏物語』榊の巻、「はかせどもめしあつめて、ふみつくり、ゐんふたぎなどやうのすさび云々」。『河海抄』に、「古集の韵字をふたぎて、何文字として勝負する事也。上古掩韻為レ宗不レ好�連句�云々。見�孝範朝臣記�」。その何字と推あてたるを、明といふ也。『清少納言』に、「ゐふたぎのあけとうしたる」などある、是也。明るの疾をいふ。又これに似たる事に、へんつきといふあり。『同物語』橋姫の巻、「碁打・へんつぎなど、はかなきあそびわざにつけても云々」。称名院の説に、「文字のつくりと篇とを分て、つくりをかくして、篇をもつて何といふ文字といひあつる」とあり。されど『栄華物語』月の宴、「おほんものいみにて、つれ/\〃におぼしめさるゝ日などは(醍醐帝の御事也)、おまへにめし出て(女房達を)、ご・すごろくうたせ、へんをつかせ、いしなとりをせさせて御らんじなど、まてぞおはしましければ」とみゆ。このへんをつかせとあるは、偏につくりをそへて、何の字となるを知るわざと聞ゆれば、つくりをかくして云々の説は非なるべし。

○『文字合』といふものあり。何人の作れることをしらず。其序に、「抑文字合は篇継と名づけて、いそのかみ古き昔は、やごとなき人々の翫び給ふとなむ侍りしが、いつしか此こと絶はてゝ、とりはやす人もなくなりぬ。然るを予、愚にも清少納言の文より思ひつき、児達の大和・唐土の書をも学び給ふのはしともなり侍りなんや。先はいまだしらざる文字を、人にも問ずして自ら知り、たとへば雀・隹(正しくは艸冠)・干(正しくは衣篇)・于(正しくは衣篇)等のまぎらはしきをも弁へ、又は知らざるを恥て、友どちのはげみともなりなんに、艸出なば、斉字を薺と読てとりなむものをと思ひ侍りしに、月篇出たればかたへの人、いちはやく臍とよみて取けるもをかし云々」。享保十年とあり。凡例に、「合せやう歌がるたの如く、篇・冠は中に重ね置、造は悉く并べ置。諭へば初めに魚篇出れば、魚篇の文字をおもひ/\に取つくし云々。手出たらば、合といふ字を拾とよみ、又、寺といふ字を持とよみてとる。いづれもかくのごとし。多く取たるを勝とす。造ごとに、其造につく篇四、五字づゝを和歌に綴りて、覚えやすからしむ」とあり。思ふに、小野篁の『歌字尽』といへるもの、此類なり。篁の作とするは、論ずるにも足らず、たゞ文字合の料とこそ見ゆれ。さりながら、此躰にて古きものも有。『瑣玉集』(岸本由豆流所蔵、古写本也)序に曰、「愚昧沙門円一念仏之暇、徒然之余開�一字篇作�以合�本字�、々綴成�三言�云々。康応元年上旬信州小菅山眠居、比丘円一謹記之」とあり(康応は何朝の元中六年にて、たゝ一年なり)。其句躰は、天一大・日月明・地土也・卉木*・日者暑・月良朗・弗人佛・慈心慈、かくの如し。こは、篇継の料にも有べからず。字説のやうなるもの也。韻塞の歌、『中務集』、「なつ山のしげりをわけてなく鹿をいかでとものゝ人尋ぬらむ」。

○『蒙求』などの如く、人の覚え易きやうに作れるを、略頌といふ。又、諷誦と云も、諷吟すべきやうに作れる也。『源平盛衰記』二十、兼隆を追善の処、一紙の諷誦あり。「法花経開八巻心成仏身云々。法の花終にひらくる八牧には心ほとけの身とぞ成ぬる、とよみ」といへり。

○『今昔物語』に、「天智天皇の御代に、御子在ましけり。心に智有て、才賢かりけり。文の満ちをば極めて好み給ひける。詩賦を造ることは、此御子の時よりぞ此国には始りける」。この事は『本朝一人一首』に、「日本紀曰、詩賦之興、自�大津�始也。紀淑望古今和歌集序曰、大津皇子始作�詩賦�、何不レ言�大友�乎。想夫壬申之乱、大友天命不レ遂而太弟得レ志、即是天武帝也。舎人親王者天武子也、故撰�日本紀�時諱而不レ言レ之乎、抑亦大友子孫、憚而不レ伝レ之乎。大友久蒙�叛逆之冤�、故其詩不レ伝�于世�。是以淑望亦未レ見乎、微�懐風藻�、則大友之寥々乎」(『懐風藻』一巻巻首に、「大友皇子(二首)、河島皇子(一首)、大津皇子(四首)」、かやうに次でたり。此書、撰者をしらず。弘文院林氏の弁に「大友皇子の曾孫淡海御船なるべし」といへり)。これを始めにて、『続紀』よりこのかた、盛りに行はれたり。

○漢土の人童子の時、属対とて一句を出して、それに対句を作らしむ。文辞声律に熟習する事なり。されど、北人はさもなしと見えたり。『日知録』に、「今南人教�小学�先令�属対�、猶�是唐宋以来相伝旧法�。北人全不レ為レ此、故求下其習�比偶�調�平仄�者上千室之邑幾無一、二人」といへり。

○後世、聯詩ともいふ。『玉海』に云、「文治三年二月廿七日御書所作文云々。先例連句不レ過�五韵�云々。而天永以往多有�二十余韻�、余可レ追�旧例�之由、予以仰�宗隆�。仍連句有�二十韻�」と見えたり。

○『十訓抄』に、「漏剋博士季親は周易博士にて、其道に覚ありけれど、風月の方にうとかりけり。或文亭の聯句の座にのぞみ、沈思しけるを、其中に宗徒の儒者有けるが、是をあなどりけるにや、閉レ口後来客といひたりける。言下に季親、含レ陰先達儒とぞ付たりける。にがりていふことなかりけり」。五山の僧徒、この技に長ず。其式、漢土の連句とは異なり。創意に造りしもの歟といへり。これにも、点とり有。東山の如月和尚が『幼学詩句』といふものに、「予わかい時、タンダンの韵にて百句あつたに、買レ糸春秀(正しくは糸篇)レ蝶としたに、被レ縛日纏レ蚕とつけられたぞ。点を景徐にとるぞ。此一対まるあり。予が章句を皆ほめられたぞ。買レ糸秀作平原君と云句でしたぞ」と見えたり。又、対のことを、つれといへり。嵯峨の策彦和尚が『蠡測集』に、「何やうに菊を秋の靖節としたぞ。海裳は春の貴妃のつれぞ」など、往々見えたり。連句の連字の意にや。漢和連句のことは。『古築波集』に始て出。「和漢は挙句、漢たるべし。漢和は挙句、和句たるべし」と、『無言抄』にいへり。『枕双紙』に、「蘭省花時錦帳下と書て、すゑはいかにとありしかば、そのおくに、すびつのきえたる炭のあるして、草の庵をたれかたづねん、と書つけし」と有。漢和連句に似たること也。『雅筵酔狂集』に、「漢句も、五言のみに限るべからず。殊に横折の懐紙は、さのみ目にもたゝねど、竪の一巡の時は、和句長さに漢句五言にてはつり合ず、見ぐるしければ、七言をも相交へては如何にと、里村昌純にたづねければ、答へに、愚拙も兼々左様に存候へ共、然し漢句の式は、連歌師の定むべきにもあらず候。何とぞ官位高く、文字ある方の遊ばし初められたらば、おのずから世にも行はれなむかし。と有けり。近ごろ、甲良道二といふ隠者あり。里村氏が一家故に、連歌の事能しれり。詩は石川丈山に学びて、文才拙からず。井上友貞といふ俳諧師と、狂吟の和漢々和千句に追加二百韵つらねけり。其作、むかしよりこれ程のよろしきはなし。狂連といへば、たゞ野鄙なるものとのみおもふは非也。其趣をよくしる時は、真の句もおなじことにて、只俳言を用るばかりのちがひ也云々。昌純が詞の末残り多く、且又、百句つらぬるにもあらず。いひ捨の章句ばかりには子細あるまじきが、かの道二、すでに七言の句もあるにならひて、今これをまじへ侍る云々」見ゆ。狂詩といふもの、古くは聞えず。五山僧等がざれごとより出きしなるべし。一休和尚『狂雲集』二巻あり。其内、狂詩多し。漢土にて狂詩といふは、殊也。狂詩また、逸狂詩ともいふ。『残唐五代史演義伝』の内に往々あり。其躰は、「潼関賊破冠無レ休、堅守招レ兵或可レ収、恨殺奸臣無�計策�、軽移�車駕�上�祁州�」。この類にて、みな当時のことを、ありの儘に賦したり。こゝにいふ落書の躰に肖たり。捧腹すべき詩句などを、狂詩とはいはず。をかしきは、歪詩なり。拙悪なる詩を云。『咲林』に詩あり。「日暖看�三織�、風高闘�両廂�、蛙翻白出闊、蚓死紫之長云々」。自注に、「方レ昼見�三蛛結�レ網、又見�両雀闘�于廂簷�、次聯云、一蛙跳擲而忽翻�白肝�以�出字�、一蚓死�于砌下�、如�紫之字�也云々」。おもふに『席上腐談』に、「或謂、蛙形象レ出、蚓形象レ之、此皆魚骨象レ乙之意也云々」。もと、かやうの語あるをとりて、作れる詩也。また『高敖曹が詩』に、「桃生毛弾子、瓠長棒槌児、牆歌壁亜レ腹、河凍水生レ皮」などの類、多し。こゝにも、是に似たる連句少なからず。

○『百物語』に、「いにしへ、はいかいのれんぐはやりし時、名人の句とて人のかたりしは、雲雁過�雲雁�、水魚達�水魚�、鹿々鳴明鹿、鶉々睡暮鶉、咄自�口辺�出、睡令�目下垂�、油因�油断�々、火以�火吹�々」。こは寛永の草子なれども、年号なし。又、卜幽が『東見記』に、連句好対多く載たり(祐長老などもみゆ)。『祐長老が句』、「白川隣�黒谷�、紫野近�丹波�、八坂五重塔、三条六角堂、小僧参�北野�、大仏在�南都�、桜東山地主、梅北野天神」など、いとをかし。『和語抄』に、「宋祇、新菟玖波を撰みしに、桜井永仙が連歌不入。これに依て、落書を立しとぞ。遥見�築波�銭便入、不レ論�上手与�下手�、足なくてのぼりかねぬるつくば山和歌の道には達者なれども」。永仙は桜井基輔なり。連歌師・俳諧師、多く此躰を好めり。咏物には、元隣が『宝倉』などの作あり。下りては、遊女のこと、或は野郎の評判など往々あれども、見るに足るものなし。又、聞えたる作家、たま/\ざれごとに作れるも有べけれど、しられぬも多かるべし。木下氏『剳記』に林道春風鈴詩、「渾身是口掛�虚空�、不レ問東西南北風、終日為レ宅説�般若�、的丁東了的丁東」。或人、紅葉に鹿の絵かきたる扇子をもて、南郭元喬に題詩を請ひければ、其まゝ筆とりて、「客来素丸(正しくは糸篇)覓レ詩処、古歌一首有�相宜�、奥山楓踏分鳴鹿、声聴時曾秋者悲」とかきたりとか。

○又、松岡玄達、薬を荻生徂徠に贈る詩、「調合進申芍薬薬湯、生姜一片煎如レ常、平生食物肝要事、唯許牛蒡与�大根�」。この詩、薬方煎法食忌まで一絶句の中に述たり。近世には、寝惚・銅脈等が狂詩あり。寝惚は太田南畝が戯号也。銅脈は畑中頼母とて、正護院宮の雑掌なり。

○唐にもつかず日本にもつかぬを、ちくらといふ。別源円旨が『東帰集』の雲臥が序に、「学�唐言�説�道理�喚作�新羅人�云々」いへる、是なり。

○詩をあつめて賞物を出したる事、元人呉清が月泉吟社とて、至元二十三年丙戌十月、春日田園雑興といふ題を出し、躰は五七言律詩なり。広く諸州の詩を集めて、翌年丁亥三月三日を掲暁と定む。作者二百八十人、詩二千七百三十五首あり。謝皐(正しくは羽旁)といふものを考官とす。撰に中る詩六十首を集刻し、首名より五十名まで、詩賞あり。筆墨に羅布等を副て贈る。甲乙あり、軽きは、筆墨・吟箋など也。作者皆、偽名を出せり。此事、『徐氏筆精』に見えたり。件の詩集、写本あるもの也。こゝにては、めづらしからぬ事なれど、詩作に於ては、いまだかゝる催しなし。

○仮字の詩といふもの有。その初め、『延宝八年田舎句合』とて、螺子が農夫野人を左右に分ち、詩の躰五十句をつゞるといへども、詩とも聴えず。其後、去来が鼠賦に五十音を韻字とす。『風俗文選』李由が序に、「和文には、文字のかず定まらず、韻字とてもなし。然るを、去来が五音相通の仮字をもて韵をふめる一格也」といへり。其顰にならひて、『本朝文鑑』茶詩、「梅はたま/\詩に忘れけむ、茶は何とてか歌によまれぬ、雨にさびしき俳諧を聴て、豆煎る宿に音をのみぞなく」、「咏蠅、蠅はなど蝶に似ざる、風雅にもにくまれて、疱顔はなぶるとも、兀頭にとまらざれ、香を尋ぬ酒のあたり、花に遊ぶ食のうへ、秋風のたよりあらば、昼ねせぬ国にゆけ」、是等の類也。紀逸が『雑話抄』に、「近きころ、仮名の詩といふ事を人々いひ出侍るを、戯に恵比須・大黒を、かるさんはいて鯛をうろ/\、袋かついで米は/\と、遊びてゆかぬうきよしれとや、七福神も異見いひ顔」、「傾城を、風に柳の身はまかせうち、世をうき草のうきを思ふに、笑ふてかなしき日をくらしかね、泣てうれしき夜を惜むらし」。手柄岡持、仮名の詩(柿山伏の狂言の画)、「これを画工にたのめば、かき山ぶし、これを地口にいへば、柿あまぼし。其形、鳶に似て鳶にあらず、さあれば鷺か大蔵流なるべし」。歌をうたとは、うたふ義なり。漢土の詩におなじ。彼処にも、詩に歌といへるも多し。故に、『万葉集』に歌を倭詩ともいへり。歌にさま/\〃あり。築波の神詠をはじめ、上の句にも下の句にもあれ、二人して一首の歌をよめる、是、古への連歌なり。撰集には『後撰』秋中、「秋のころほひ、ある処に女どもの、あまたすの内に侍りけるに、男の、歌のもとをいひ入て侍りければ、すゑは内より、よみ人しらず 白鷺のおくにあまたの声すれば花のいろ/\有としらなむ」とあり。されど連歌といふ名は、この頃いまだ見えず。『金葉集』に、始て連歌の部を立られたり。『八雲御抄』に、「昔は五十韵、百韵とつゞくることはなし。たゞ上の句にても下句にても、いひかけつれば、いまながらを付ける也。今のやうにくさることは、中頃よりのこと也。賦物なども、中頃よりの事歟」としるし給へり。『築波問答』に、「後鳥羽院、建保のころより、しろくろ、また色々の賦しものゝひとり連歌を、定家卿・家隆卿などにめされ侍りしより、百韵なども侍るにや」といへり。文治五年に普光園良基公。『莵玖波集』を撰まれ、応安二年に同公、『新式』を補はる。猶たらざることあれば、宗砌法師、七句さる物、竹田の舟路云々の歌有。貞徳が『御傘』にこのことをいひて、「新式になしとても、何の疑かあらむ。此宗砌は、連歌道には人丸にたとへて、宗祇のあがめおかれし人なり云々」いへり。其後、宗祇、『新撰築波』を集む。宗祇は紀州の人、楽師家の子なり。自然斎・種玉庵等の号あり。はじめ、ある律院(いづこともなし)にて僧となり、和歌を好みしが、後、山水名勝を尋て遊歴し、東ノ野州常縁に随て、『古今集』の奥義を伝はり(古今伝受といふことの起りなり)、連歌の宗匠ととなり、花の下と称せらる。花の下といふことは、『莵玖波集』の僧正慈遍が真字序に、「或詠�花下�或嘯�月前�之輩云々」。また普光園公の序には、「久しく雲のうへのもてあそび、花のもとのたはぶれとなれり」とあるによりてなるべし(又『莵玖波集』第廿に、「新式・本式相わかれけるに、鷲尾の花下にて、一日二千句連歌云々」。又『花下連歌』、十仏法師、「花に来て雪にわするゝ家路哉」。又、夢窓国師円寂の後、西芳精舎の花下にて百韻連歌侍りしに、二品法親王、「花やゆめ散はうゝの名残かな」など、多くみゆ)。花下を、新在家と称す。宗祇已来、宗匠の居住の地也(『東扇(正しくは片篇)子』に、「此処、今は或御所となりぬ。もとは熨斗目師も住めりとぞ。依て今も猶、のしめ織の標札に、新在家御熨斗目師と書たり)。『見聞集』に、「宗祇、都の会所をあづかり給ふ祝詞の発句に、世にたつも麻にまじはる蓬かな、とせられしこそ殊勝に覚侍れ」。『老人雑話』に、「宗祇は、今よりは百四、五十年以前の人也。其時、会の給仕などせし者に、成庵といへる者に会ぬ」といへり(成庵が物がたり、一つもしるさゞるは残りをし)。

○判者を、点者といへることも古し。建武元年『二条河原落書』に、「事新き風情なく、京・鎌倉をこきまぜて、一座そろはぬゑせ連歌、在々所々の歌・連歌、点者にならぬ人ぞなき云々」。其式もまだよく定らぬ程のことなるに、かく世にはやりて、人々みだりに点者のまねをせしなるべし。さるは、是も歌合などの如く、賭を出し勝負せし事とみえて、『徒然草』に、「何阿弥だぶとかや、連歌しける法師の行願寺のほとりに有けるが、ある処に、夜更る迄連歌して只ひとり帰りけるに、小川のはたにて我かひける犬の、主をしりて飛付たるを、猫またと心得、おそれ驚きて小川にころび入て叫びたるを、家々より出て抱おこしたれば、連歌の賭とりて、扇・小筥なんど、ふところに持たるも水に入ぬ」といへる物語あり。又『同草紙』に(花はさかりの段)、「田舎の人こそ、色こく万はもて興ずれ。花の下にはねぢより立より、あからめもせずまもりて、酒のみ連歌して、はては大なる枝、心なく折とりぬ」といへるは、件の落書にいへる鎌倉武士などの、ゑせ連歌の輩なるべし。かゝる者は、判者をもえらまざりしにや(『似我蜂物語』に、「初心、連歌の会をするとて、大つゑの天神の影をかけ、竹筒に花を活、かはらけに抹かうをふすべ云々」いひて咲へり。されど、其式のかたをば学べり。今の世は、俳諧するが如く不礼なること、いふばかりなし。俳諧も、昔はさやうのことにあらず)。但し、宗祇以前は、百句満る事は稀也といへり。宗祇が子孫の事は、灰屋紹益が『賑草』に、「大虚庵光悦がわかき時、きうじんといひし人あり。光悦が物がたりに、けだかく風流なることいひ出る次でには、きうじんが事をかたりきかせけれども、其ほどは、まだ心もいはけなき程の時なりければ、同じ物がたり度々也、などばかり打思ひて、聞とゞむべき心はさらになかりし程に、きうじんといふ文字も覚え侍らず。さりけれども、宗祇の子孫なりしことは、たしかにしるき事共、覚えて侍る也。其頃八十にも及ぶほどの老人と聞えし」と有。此下に、「宗祇自筆の古今伝授の筥を、きうじん光悦に伝へ写させ、其自筆の原本は、後に光悦媒して光広卿に伝へし」とあり。文長ければ略けり。光広卿は、光悦に手を習はれしによりて也。『和語抄』に、「古今は、宗祇より夢庵・逍遥院伝授あり云々。宗祇、宗匠になられし初めの発句、あらぬ名をかるやあま彦ほとゝぎす。不吉なるやうなりといへば、此発句にてなくば、宗匠にはなるまじといはれし。卑下の心也。宗祇の後は兼載、宗匠になられし。宗匠になりては、白袴にぬり輿にて往還せり。紹巴はこのやうなることを六借がりて、なるべき人なれどもなられず」(此抄作者、本満寺日重は一宗の学者にて、老後、幽斎・紹巴にも親く交りしとなり)。また紹巴が生涯の事は、貞徳が『歌林雑話』につばらなり。宗祇があま彦の句は『菟玖波集』に、西芳精舎にて救済法師、「あまひこが谷と峰との時鳥」といふをとれる歟。夢庵は肖柏が号也。後柏原の後胤なりといふ。泉州堺に居れり。春さかぬ花や心のふかみ草、といふ秀逸ありしより、時人、牡丹花と称す。宗祇門人也。古今伝授は、宗祇より逍遥院・称名院などに伝はり、又、宗祇より牡丹花・饅頭屋に伝ふを、奈良伝授といふ。

○宗祇の時代、江戸品川に道印・幸順とて、父子富有なる町人にて、連歌を好める者あり。此事、『見聞集』にみゆ。原文長ければ略きていふ。権大僧都心敬といふ連歌師、都より年ごとに下りて、鈴木道印父子と知音にて、其家に宿りしとなむ。品川九品寺にて、「九つの品かはりたるはちすかな」と発句したるを、人聞て、河に蓮は珍事也とさたしければ、「極楽の前に流るゝあみだ川はちすならではこと草もなし」と、心敬証歌を引れたり。堀川江城に於て千句ありし連衆は、心敬・宗祇・元祐・道印・幸順なり。開頭の発句に、「幸順 春もきて帰らむ雪のあしたかな」。この幸順、俳諧も好みしにや、反古の裏に書残したる付合あり。元祐は桜井氏にて、生国は下総舟橋の人。都に上り、連歌に長ずる故に参内したりとかや。下向に、品川なる幸順宿に立よりける。上りにはまづしき躰なりしが、此時、衣裳もよきを着たれば、「幸順 あやしや御身誰にかり衣」といひかけければ、取あへず「この小袖人のかたよりくれはとり」と付たりと有(按るに此連歌、『新撰狂歌集』に、「般若坊に、ある人いひかけたり」と有て、御身を御僧と書たり)。

○『可笑記』(正保元年)巻二、「上がた衆は、花車だてはめさるれども、万ふたしなみかと存る。そのいはれは、歌道には公家のめん/\おはします。詩作には五山のめん/\、連歌には昌琢・玄仲の宗匠あり。師匠に不足なけれども、百人が九十人までは、歌・詩作などは少もしりたる侍、まれ也。但その用あらむ時には、それ/\〃に頼みて、まに合せんとやおぼすらん。げにも/\、代官主いんに増るとなれば、さもこそあらめ。但又、灯台もとくらしといへる本の語にもとづき給ふか。東の侍は仏道・儒道・歌・連歌・詩作など、能こそはしらね、少づゝは百人の内七、八十人は心得申候。さりながら能師匠もなければ、ひがごとのみ多かるべし云々」。その頃は、さも有しにやしらず。連歌いづこにも、今の俳諧の如く行はれしことゝみゆ。連歌、後ほど面白き付句なし。この事、『歌林雜話』に、「紹巴法橋、宿にて千句の有しに、天満の由己と丸と二人、夜ふかく行たりしに、いまだ連衆一人もなし。紹巴、自剃をしておはしけるが、人にかたらば偽にせむと云句に、一こゑは秋の山路の時鳥、古人の句に有。連歌は、前句によりて名句ある事、今もかやうの前句あらば、我等も付べけれども、今はかやうに一句の道理なきことはせぬによりて、付句によき句なき也と申されき。又、或時紹巴の御句ばかりをぬき書にせむと申せしかば、其事無用也。今より句は有べからず。我もわかき時はふかく案じつるが、今は毎日ある会、只やりやうをのみ心にかけて、案ずる事なし。若書ぬかむと思はゞ、打こしより書て給はれと申されし。誠に尤なる詞にて侍云々」あり(かくては、いとをかしからぬわざ也。やがて廃れしも理なり)。紹巴は心も剛に力つよく、正直にして無欲なる人なりとぞ。世に光秀が愛宕の連歌の発句の、しるといふ文字を消たるたばかりごと、をいふは、そら言也。関白秀次の時に、嫌をうけて罪を得しことを、まがひて作りごとせし物也。

○安楽庵が『醒睡笑』に、「移徒の連歌に、春の日は軒端につきてまはるらむ、といふ句を出せり。宗匠、消せ/\といはるゝ。執筆、すみが黒うてけされぬといふ時、右の作者、何とやうにも消せ、又付う程に」といへるは、人のしれる物がたりにて、此ごろの咄のやうに人の物するを聞り。此草子に出て、古き話なるをしらぬ也。

○ことわざに、連歌師が露といふ字を質に置といふは、何よりいひ出たるか。『世の人心』五巻、「昔日、立花の家より、鳶尾の前置を金子百両の質に入、連歌の花の本より、露といふ字を黄金弐拾枚に置れける。質にあるうちは、花さしに鳶尾をつかはせず、連歌師に露といふことをいたさせぬ。此約束を迷惑して請られける」といへり。思ふに、作者の滑稽なるべし。立花・連歌、はやりたれば、かゝる説もある也。『温故集』に、「むかし露といふ字を質に置給へるとは、連歌師の風流なり。しら露の手形もどりて今朝の秋 蓮谷」(今これらの趣向にならひていふにや、火消のぐわゑんは草鞋を質に置き、歌舞妓芝居にては、拍子木・太この撥をも質に置となむ)。

○むかしの連歌師は、勤めて古歌を覚えたるにや。玄的は八千首ばかり、昌琢は一万首余り闇記したりしよし、『筆のすさみ』にいへり。昌琢の時より、柳営の御連歌は始れり(『塩尻』に、「天正三年正月十七日の夜、天野康景が妾、目出度夢想の歌を見しとて、十八日の朝啓せしかば、廿日御鎧の御祝の時、連歌しける者共召て、一折仰付られし。これより今に至りても、正月、松の発句にて御連歌あり。彼夢想の歌は、盛りなる都の花は散うせてあづまの松ぞ世をば経にける云々」。但し『三州録』に、「此歌は慶長三年正月二日の夜、江戸にて米津清右衛門某が妻、夢みる所」といへり。それには、「あづまの松ぞ世をばつぎける」といへり。康景が妾は、松の発句を夢想有しとばかりしるして、句はみえず)。寛永五年廿日也。その時の発句、「松はみむ八百万代の春の色 法橋昌琢」。此時、昌琢が歳旦の句、「於�武州江戸�初而越年、寛永五年元旦試毫」と端書して、「長閑さはげに日本のあづま哉」(かゝれば、『塩尻』に引ていへる事共は非なるべし)。昌琢が此二句をかける懐紙、予が家にあり。昌琢、予が家にも来りしとぞ。承応元年九月十八日、改元なり。正月廿日の御連歌并御具足の餅、当年より十一日に定る。

○『京羽二重』(元禄二年板)、連歌会(月次十日六条道場、月次廿五日北野会所)、「また毎年正月四日、北野松梅院に裏白の連歌あり。凡、連歌懐紙は四枚なり。中古執筆の人、あやまりて片面を除て書しるさず。是より流例となり、片々白紙を置、別に紙に一枚をそふ」といへり。是、或書に、「紀伊国熊野権現の本宮の拝殿にて、毎年正月二日、社家と地下の人と相交りて、百韵の連歌興行あり。其発句は、往古神託の句也と云、この山のあるじは花のこかげかな」。

○『花見車』といふ草子に、「紹巴以来、連歌発句とて、人の語ることなし。近頃、北野の能順こそ一ふしある句も出さるゝとて、心なきも耳にふれけれども、七十に余りてかすかに聞ゆる名なれば、日暮て道いそぐやう也」といへり。松永貞徳このかた、俳諧盛りに行はれて、連歌は次第に衰へぬ。

(略)

(『嬉遊笑覧』二 岩波文庫版を底本としました。)

巻之四

嬉遊笑覧巻之四

喜多村信節著
(一部)

巻之四 

武事

むかし武人のあそびには、犬笠・かけしゝ・円ものゝあそびといへる、皆射法なり。犬とは(『禁秘抄』などに、「犬狩といふ事あり。犬追物は、それを習ふ也」とぞ)、犬追ものにて、其式、故実等ある事ながら、又、一人にて路旁の犬を射てなぐさむなどは、常にしたることゝ見えたり。『猿源氏草子』に、「年廿二、三ばかりなるをのこ、つきげの馬に、梨子地の蒔絵の鞍あかせ、しら木の弓のまん中握り、腰よりひきめを出し、犬を追つめ、駒を引かへす云々」。これは、遊女が家の門をとをりすがひの戯なり。章台を遊行する少年の風情、おもふべし。いにしへ源頼光朝臣、鞍馬詣のとき市原野にて、四天王の者どもと牛追物したりといへるも、おなじ趣なり。もと牛にまれ、犬にまれ、追走らかして射て、山野の走獣を射べき伎を習ふなるべし。今の通し矢といふ事も、始は『古郷帰江戸噺』に、「東本願寺卅三間堂并本寺の縁起、矢数の始、是、京都の堂形也云々。弓を射初しことは、豊臣太閤の頃、東山今熊野観音堂の別当、弓数寄にて八坂の青塚にて弓を射、かへるさに卅三間堂に休み、初めてくり矢にて射初しより事起る。指矢の起は、松平下野守の家来川瀬権内、遠矢の無双は、同苗左内村田与助也。然れ共、矢数の多少を論ずるに及ばずして過ぬ。浅岡平兵衛といふもの、初て通し矢数を記して、仏前にかけ置しより、段々上をこして射ける」と也。『尤草子』に、「大橋長兵衛は三十三間堂を、二千八百四十七矢をとをす」。『日次紀事』云、「凡夫数者射人居�堂前�、今昏至�翌日昏�、以下所レ通矢数超�過於他�者上称�弓天下一�、慶長十一年浅岡五兵衛(『江戸咄』には、平兵衛とあり)始通�五十一矢�其名鳴�于世�、次百廿六筋而僅八十余年中高手者累出増レ数、尾州長屋六左衛門、紀州吉見段右衛門、尾州星野勘左衛門、紀州笠井園右衛門、復星野氏、貞享三年紀州和佐大八通矢八千百三十三、惣矢一万五千、凡一息一矢昼夜計一万三千五百中、有�飲食便溺暇�、而放�一万五千�、其秀逸可�以知�」(『訓蒙図彙』には、「惣矢一万三千五百三本、星野は通矢八千」とあり)。江戸にて、浅草の卅三間堂は、弓師備後といへるもの、射術稽古の為に創立せむ事を請て浅草に地を賜り、堺屋久右衛門と云者、受負て寛永十九午年造立す。彼備後は、もと天海僧正に仕へし者にて、この事も僧正の執奏によれりと云。堂前通矢、『寛明日記』云、「正保三年戌四月十四日、阿部豊後守が家来海野仁左衛門といふ者、浅草三十三間堂にて、根矢千射を仕る。通矢二百五十三本、根の長さ九分、込の長さ二寸五分、矢の重さ八匁より十二匁迄」。安斎云、「此海野が矢数千と定て、鉄族(正しくは金篇)の重き矢を以て射たるは、戦場の射芸・弓力の試といふべし。近頃の、麻茎の如き箟に木の族をすげて射るとは同じからず。三十三間堂は、二間を一間として柱を立たれば、六十六間也。戦場にて六十六間射通したればとて、其矢、甲冑を貫かざる事なし。一昼一夜に一万幾千といふ矢数も、無用也。戦場に終日終夜、矢軍ばかりするものにあらず。通矢の射手、布にて腹を巻、粥を啜り、薬を飲ているといふ。如此なる事、戦の用に立ず。如何程古人に矢数を射増、天下一の名を取たり共、用に立ざる事は遊芸に同じ。只、見物の目を慰め、遠人の耳を驚し、名を売、禄を求る迄の事にして、実の武芸にあらず。心あらむ武士は、通矢を望む事なかれ」といへり(古へ、武士を弓執といひて、弓矢は武の専用のものとせしに、中頃は鎗を用ひて功を論ず。されど実利をいはゞ、鳥銃などの利器はなし。其累あまた、大小・長短さま/\〃、専らこれを用ひば、堅田もたのみなく、城塁もたもちがたし。戦場第一の重器なれ共、晩出の異物なれば、よき武士はあつかはず。賤者にまかせてあれ共、今後心付て火術行はれ、其利器たる事はおのづからしられて、古風は改まるべき也)。『貞徳独吟百韵』、「勝やうにせむ弓の射こくら、うしろより参りて拝む堂の前」(自注に、「卅三間堂の躰也」)。『懐子』十、「勝手の方へ人つかふなり、とをり矢をみはやす堂の縁のうへ 玖也」。『新竹斎物語』、「いてきては娑婆八千の大矢かず火宅の篝つみの消がた」。『京童』に、「昔はなかりし事なるに、卅三間堂のうしろの縁にて矢数をいる。ちやうまへといふは、一すじとをすをのぞむ也」と有。ちやうまへとは、矢数をしるす帳前にや。江戸浅草の卅三間堂は、寛永十九年の頃、弓師備後といへるもの、射術稽古の為に創立せむと請て地を賜り、諸家に勧進して建立したりとなむ。又『江戸卅三間堂矢数帳』には、「慈眼大師、発起なり」と有て、定かならず。今其地、矢先と称する処あり。此辺すべて堂前と呼。元禄十一年回禄に罹りて、翌年五月今の地、深川に移さる(『元禄十三年日記』辰八月廿三日、「浅草卅三間堂跡、御金払方同心拝領、屋敷名主三右衛門始て被仰付。下谷黒銀町之名主也」)。『五元集』に新卅三間堂と題して、「若草やきのふの矢見も木綿うり」。

つぶては、『万葉集』巻八、憶良が天河の歌に、「多夫手二毛投越都倍伎天漢敞太而礼婆可母安麻多須弁奈吉(タブテニモナゲコシツベキアマノガハヘダテレバカモアマタスベナキ)」。たぶては飛礫にて、つぶて也。語のもとは、手棄なるべし。うては、すつるといふ古言也とぞ。是は、手に物をつかみて投る事也。抛石は綱にまれ、竹にまれ、石を飛すべきものにて投る也。ことに軍器に用るは、別に其器ありとみゆ。又つむばいといふは、此はじきと異なれども、みなつぶてと通はせいふ。『寛永発句帳』に貞徳が句、「礫にて花の鳥うてすはい桃」。これ、つぶてをつばいといへり。又『同集』良春が句、「打みればいしさうなれやすはい桃」といふも同じ。軍中には、必用の場処ありとみゆ。『甲陽軍鑑』十一、松山城責に、「水の手をせむるに、飛礫にて乗取。是、矢・鉄炮なりがたき所故也云々」(つむばいは、ぶり/\の条にいふ。可併考)。石打を禁制の事、『東鑑』五十二巻、文永三年四月廿一日、「甲乙人等数十人群�聚于比企谷山之麓�、自�未刻�致�酉刻�、向飛礫、爾後帯�武具�起�闘諍�。夜廻等馳�向其所�、生�虜張本一両輩�被�禁籠�之所残悉以逃亡。関東未レ有�此事�、京都飛礫猶以為�浪藉之基�、固可レ加�禁遏�之由、前武禅室執権之時、有�沙汰�被�六波羅�畢。況於�鎌倉中�哉、可レ奇云々」。これ即、印地なり。『嘉多言』巻二、「印地といふべきを、ゐんぢんといふは如何。飛礫をうち侍る場の、陣場に似たるとの心得にて、誤りけるにや。印地とは、うてる飛礫の跡の地につきて、印おしたるやうの心なるべし」といへるは、文字に就てのひがごと也。いんぢは、石うちなるべし。『義経記』に、「白河の印地、五十人かたらひ」と見え、『秋夜長物語』合戦の処に、「三町つぶてのきやう一房」、また天狗共ものがたりの処、「しらかはほこのそらいんぢ、山門なんどのみこしふり」とも見えたり。後世この事、端午の戯となりしは、ひをりの日とて、馬にのり弓射て武を試むることなれば、それを学びて、此戯をし初めたるものなるべし。『雍州府志』に、「端午所レ用木刀、或謂�菖蒲刀�。以�其状之相似�、准�節物�而称レ之。児輩横�腰間�、端午石戦戯後、多以�斯刀�相戦、是謂�菖蒲切�」(『甲陽軍鑑』巻二、「天文の頃、五月菖蒲切といふ事」あるよし見ゆ。この闘なり)。是、印地なり。今、端午にをの童、菖蒲の葉を打組て、是をしやうぶうちといひて地上を打、草履ぬぎて下坐せよなどのゝしる。是、もと打あふために作りたる物か。菖蒲、おにづから勝負の音に通へり。『寛永発句帳』、「けふさすは印地のしやうぶ刀かな」。『見聞集』に、「角田川は、武蔵と下総のさかひを流れぬ。河半よりこなたには石あり。あなたはみなぬま也。爰に浅草の童ども、下総に石なき事をあなどり咲て、五月になればいんぢせんとて、舟に石を拾ひ入、河向に見えたる牛島の里の汀へ舟をさしよせ、牛島の童共をつぶてにて打勝て笑ふ。古歌に、うなゐ子がうちたれがみをふりさけて向ひつぶての袖かざすなり、とよみしは、此事かと思ひ出せり。さる程に、牛島のわらは是を無念におもひ、常に武蔵の石をひろひぬすみ置て、五月浅草の子供、例の舟に取乗来る時、牛島のわらは岸根に出ていんぢをする。其岸へ打たるつぶて、頓てこなたの岸へよると語る。愚老聞て云々。武蔵の石、下総の地にとまらず。かくの如くの国ざかひを如何なる人かよく知て、分られたることのふしぎさよ」といへり(『落穂集』に、「老人物がたりに、浅草川のはゞ、只今の通りにはこれなく、汐干の節は殊の外川はゞせまく流候故、川向ひの子供とこの方の子供と川端に立向ひ、石つぶてを打合申たる義にて候が、いつとなく只今の川はゞになり候」といへるは、永禄頃にことゝ聞ゆ)。『醒睡笑』落書条に、「妙心寺の金蔵主といふもの、加茂の競馬を見物に行て帰る時、印地のある処にて負る方をひいきし、つよみ過て鑓につかれたり」(此事、『新撰狂歌集』夏部にも出たり)といふ事あり。製りざまのよからぬ鑓に、印地鑓といふが有、かゝる処に用る故なるべし。白川ほこなどいひしも、是等なるべし。『紅梅千句』、「永き日にふしんの者が印地して、内裡のうちに大がたなぬく」。坂部胡兮が『到来集』(延宝四年の撰也)、「世に印地今は暗夜の礫かな 舎水」とあるは、此事、禁ぜられて止し頃なり。祝儀に石うつこと、古へに例あり。後世悪風となりて、婚礼の石打などいへるは、即やみの夜の礫にて、此句にかく有は、其頃専ら行はれしなり。『俳諧五節句』(貞享戌辰)、「予、童の頃までは、三条・五条の川原にて礫打。これも、騎射を学ぶと也。果は小弓をもて射る」といへり。『口寄草』といふ前句集(元文元年)、「ひかへこそすれ/\、敵味方沼の匂ひの鉢巻し」(菖蒲を鉢巻にしたる印地の躰也)。此頃も田舎には、猶此事ありしなるべし(鎌倉将軍の頃よりたび/\制禁も有し。とかくに絶ずしていと久しかりき)。

○祝儀に石打のことあるは、神事より起る。此条はさきに『雑考』の中に洩しこと、又、其時おもひ誤りし事のみを挙たれば、先に引たることゞも更にいはず。合せみて知べし。暁月坊が歌の、『新撰狂歌集』に出たりといひしは非也。『きのふはけふの物語』上、「定家卿の弟きやうかくばう、ことの外ふべんにて、年の暮に、ていかの卿へよみてつかはされける、きやうかくがしはすのはてのそらいんぢとし打こさむ石ひとつたべ。返し、定家が力のほどをみせむとて石をふたつに割てこそやれ。この返歌に米一たわら、そへてつかはされけるとぞ「(三井寺教月房は『沙石集』に見え、清水寺敬月は『東鑑』に見ゆ。これは『作者部類』に、「京月」或は「鏡月」ともあり。又、此きやうかくばうを『古今夷曲集』に、「暁月坊」とあり)。

○『唐国史補』中巻、「徳宗晩年絶�嗜慾�。尤工�詩句�、臣下莫レ可レ及。毎�御製奉�レ和、退而笑曰、排公在。俗有�投石之両頭置�レ標、号曰�排公�、以�中不中�、為�勝負�」。この投石の戯は、抛楕(正しくは土篇)の類とみゆ(排公は、目当にする物をいふ)。『類腋』に曰、「梅尭臣禁烟詩、窃窕踏歌相�把袂�、軽浮賭レ勝各飛レ楕(土篇)」。『集韻』に曰、「楕(土篇)徒禾切、飛榑(正しくは土篇)戯也、宋世寥食有�飛楕(土篇)戯�」。『升庵外集』に、「児童飛�瓦石�之戯若�今之打瓦�也」。こゝにて穴一などするも、似たること也。童の、石瓦など水中に投て、水を縫ふやうに飛するを、ちやうまやるといふを、打瓦とおもへるはわろし。てうまは、水馬の名也。是は大なる蚊に似て、足高く水上を走る虫也。西国には、しやうせんともいふ(しやうせんは地黄煎にて、飴のことなり)。さて、ちやうまやるは、これにて石の飛さま、虫の躍るが如く、又その虫を追やればなり。

○望一が『后度千句』、「やりくらをしづの男の石つぶて、麻の衣の肩を脱けり」。武州寄合といふ処は、熊谷宿より五里ばかり秩父の方なり。こゝに、児童の戯に石を抛合ふことあり。細き麻縄を長さ一ひろ半、或は二尋ばかりにして、中程五、六寸が間を三筋にとり、両端を結び、今一つの端をその手に取て肩に打かけ、縄に載たる石を左の手掌に居へて、後の方へ投越すを、右の手にて二つ三つ打ふり、向ふの目当の方へ抛る時、縄の端を放てば石は飛行。縄は、片端小指に結びたれば、手にのこる。かくすれば、石の飛勢ひするどく、行こと高く遠し。し習ひたる者は殊更也。是を名付て、雁殺といふは、鳥などを抛る図と見えたり。『年中行事絵巻物』稲荷祭の処に、童が手に持たるは麻縄にて、石せめ馬(借馬)、『色音論』に、「やう/\ゆけば、こくちやうの末はばくろう町とかや。さぶらひあまた打つれて、みなせめ馬と打見えて、かけ足・ぢみち一流の手綱のひみつ、鞭のきよく云々」。馬を乗ならすを、責るといふ。『夷曲集』、「浄土宗日中のせめ念仏を、宗恒 きせんくんじゆのりの場とて市なせるうまの時々せめ念仏かな」(せめ馬と作りたる也)。『続五元集』、「口をとらせて責ならぶ馬、斯参れ目にて仕はむ新参」(止動方覚の狂言の心なるべし)。馬喰町の馬場は、江戸にて最古き処と見えたり。「寛文頃、車力重右衛門と云者、この馬場を町屋にせむ事を願ひしに、是は関東御打入の時、御見立有て作られたる馬場にて、御代々改めざる処なれば、願ひ不届也との事」の由、『明良洪範』にいへり。信じ難し。其已前より有来りし馬場なる事は、処の名にてもしるし。馬場は『江戸鹿子』に、「湯島新馬場といへるは、天和二年壬戌に出きし故、新馬場といふ」。『江戸砂子』に「桜馬場」といへる、是なり。又『江戸砂子』に、「木挽町四丁め広小路新馬場」とあるは、最遅く出きし也。これらの処に借馬あるを、工商などの何をも弁へぬ者ども、戯に借て騎習へるなどもあり。『沙石集』に或人の歌とて、「埒の外だるまをはする人をこそのりしらずとはいふべかりけれ」(達磨を破するは、駄馬を走るにや。法は乗なり)。『川柳点』(明和二年)、「乗ならひ口をはなすと土手を喰」。

○『夫木集』芝の歌、「知家 駒はなつ野べのうなひが芝くらべ永き日ぐらし是やなぐさめ」。芝くらべは、童が野飼の馬を乗きそふにや。

○曲馬、『甲陽軍鑑』十六、「関口とて、馬のりの上手あり。曲乗は本の事にあらずといへども、是は一入重宝也。一丈二尺あるがけを飛おろし、横一尺五寸の土居のうへをも、早道或はいつさんをのる。貫の木通又は板屋のうへを早道に乗。其外、あら馬・強馬を乗て、馬の薬飼迄上手なれば、関東奥にも、この関口ほどなるはなし」と有。俗説に、小栗判官といふ者、鬼鹿毛といふ馬に騎て、棋盤のうへをも乗たりといへり。小栗が事は『鎌倉大双紙』に出たれども、鬼かげといふ馬のことは見えず。是も『甲陽軍鑑』に巻一、「武田信虎公秘蔵の鹿毛の馬、たけ八寸八分にしてかんかたち、譬ば昔の生食・摺すみにも劣るまじきと、近國迄申ならはせば、鬼鹿毛と名付」と見えたり。俗説は是をとりて、彼名としたりとみゆ。碁盤のりといふ事も有と見えて、『続山井』、「くらべ馬も一もくさんや碁ばんや碁ばんのり」(目算は碁のかけ合せ也。競馬の句ながら、碁ばんのりに作りたり)。

○大坪道全は将軍義満公の命を受て、辰の剋に京を乗出し、吉野山の桜を手折て腰の花かごに入て、午の刻迄に往返。二十六里を乗て帰りしは奇代の名人と、御感に預りしとかや。後世すぐれたるは、備前の藩士市森彦三と云者、年来の心願にて、江戸芝なる愛宕山の男坂六十八段を、馬上にて登り下りしたりとなり。これらの術とはことならめど、享和の頃、源太郎と云曲馬師、両国広小路などにも出て、観せ物に高き階子をかまへて、登るに鞍の上に直に立下乗あげ、下る時は逆立したり。熟したる者也。明人『彭公筆記』、「五月五日賜�文武官�、走�驃騎于後苑�。其制一人騎レ馬執レ旗引�於前�二人馳レ馬継出呈�芸於馬上�、或上或下或左或右謄躑驕(正しくは足篇)捷、人馬相得如レ此者数百騎、後乃為�胡服臂鷹走犬囲猟状�終レ場。俗名曰�走解�、而不レ知レ所�自始�、豈金元之遣俗歟、令�毎歳一挙�之蓋以訓レ武也、観畢賜レ宴而回」。

○享保四年九月、朝鮮人来る。此時、彼国人曲馬を乗る。『徂来集』に詩あり。

的顱といふ馬は、額に白点あるをいふと心得て(『通俗三国志』によりて也)、絵などにかけり。『蜀書先主伝』、松之『世語』を引て、―劉備的盧に騎て檀渓を渡る事を云て、「孫盛曰、此不レ然之言、備時覇旅客主勢殊、若有�此変�、豈敢晏然終�表之世�、而無�釁故�乎。此皆世俗妄説非事也」といへり。又、的顱は『晋書』臾(正しくは广)亮伝に、「初亮所レ乗馬有�的顱�、殷浩以為不レ利�於主�、勧レ亮レ売レ之、亮曰、曷有�己之不�レ安、而移�之於人�、浩慙而退」。さて『字彙』に、「的顱馬首飾、又呼�的顱�紅点也、又黒也」などあり。盧は黒きをいへば、黒点といへる、然るべきか。いづれにも白点にはあらず。

○やぢ馬、『松の葉』端歌の内(馬かた)、「春はござせのおつゞら馬よ/\、あけ七才のれんぜんあしげに、さゞなみくつはをとつつけて、おしかけざんまい、はりゝんしゝ、日本一のやぢむまかたらばなほよかろ、かへして/\、くつはとつてやぢむまかたらばなほよかろ、こまをはやめて」と有(今、諺にやぢ馬といふは、人の尻舞するものをいへり。こは、尻馬に乗るといふことにいへれど、諺にやぢ馬といふをおもへば、やぢは、もとやにちやなるべし。又、やにるなどいふ小児のりやく也。今やんちやんと云、是にて、すかしなだむるをもきかぬなり。さればやに馬は、やんちやん馬也。江戸にては、やにるといふ事を、だゞこねるといへば、ぢやぢや馬といふも是にや)。

○木馬は、鞍懸といふ。『宝倉』に、「鞍懸はもと、鞍をやすむる具也。猶たくましう作りたてゝ、障泥をかけ、手綱をつけて、鐙のおりのり・鞭のあてやうをもならはせり。これ、世に所謂くらかけの馬なり。此器の四足、つよく物を乗るに堪るを借りて、なべて人家のふまへ物とす」といへり。これ、踏台といふ物也。今のは形、異也。もと四足也。大きに作りたるを、今も馬といふは是故也。これは今も四足也。

居合・やはら、『悔草』(正保四年板)、「我などは、やはら・取手や棒などをあらまほし云々」。『浮世物語』(明暦の頃)、「ゆく/\は渡り奉公、歩わか党にもなさばやと思ひ、居合・やはら・兵法なんど、おさなきより手なれさせ云々」。『一代男』(天和)、「けんぼうといふ男だて、其頃はゐあひはやりて、世の風俗も糸びんにしてくりさげ、二筋がけのもとゆひ云々」。けんぼうは、宮本武蔵と闘し吉岡氏なるべし。慶長ごろのことゝ聞ゆ。『洞房語園』に、市橋如見といふ者の書たる『柔気目録序』を載て云、「右柔気目録序は、先師一橋如見斎より予が祖父玄意斎に伝へ、玄意是を沢道智に伝へ、道智より予に伝ふる所なり云々」いへり。此書作者、庄司道恕が祖父甚右衛門は、正保元年六十九歳にて身まかれり。如見は、これが師にてありし也。宮本武蔵と同時の人にはあるべけれど、如見は年齢まさりたるべし。『原本洞房語園』、「新町野村玄意は、其頃かくれなき柔気一流の名人市橋如見斎が弟子にて、宮本氏とは懇意なり。江戸町二丁め山田屋三之丞・角町並木屋源左衛門は、共に宮本が弟子也。右三人殊に餞し、首途を祝し送る」とあるは、其頃武蔵、遊女雲井にかたらひ、折々通ひける。寛永十五年、肥前島原一揆起りし時、武蔵黒田家の幕下へ見舞の為、島原に行むとする時、かの遊女がもとより旅立するを、人々送りたる也。この武蔵は、初代武蔵の子にて主馬といひしかど、其頃、今むさしと称せられしとぞ。さて此柔気といへるは、やはらの術なり。武蔵が書るやはらの名目は、先に『雑考』の中に載。かゝれば『和事始』などに、「柔術は陳元贇より始る」といへるは、妄なり(元贇が物語を聞て工夫したる浪人、福野七郎右衛門・磯貝次郎右衛門・三浦与次右衛門等三人、これは唯起倒流の始めなる也。此流、福野七郎右衛門より寺田某、それより滝野貞高・其弟子比留川某、又、加藤長正に伝ふ。長正は安永中の人にて、門人千余人に及べりとぞ)。元贇がこゝに来りし万治二年より、武蔵が没にし正保二年は十五年ばかり先也。又「慶長頃、とりて・ゐあひはやる」とあるとりては、即やはら也。ゐあひは『人倫訓蒙図彙』にも、「ゐあひ・とりて」と并べいひて、「柄に手をかくるより、抜出す遅速によつて、勝負こゝにあれば、いかで学びずしてあらんや」といへり。諸流多き中に関口流、其名高し。されども、ふるくゐあひといへるは、かたな抜わざのみをいはず。貞徳が『油嘉須』に、「ふぐりをしめてぎいめかせけり、ゐあひしるものにはならぬ相撲取」と有。是、柔術をゐあひといへり。しからば上に引たる草紙どもに、居合・やはらといひ、とりて・ゐあひとあるは、いづれにかあらむ。思ふに、居合はとりてにも、大刀抜ことにもいふべきことゝしらる。『万歳諸用日記』、もと訓蒙師の童の手本に書たるものにや、年号記さず、寛延元年の反古にて表紙の裏打したり。其中に兵法の処、「抜合の法、関口・多田・片山の諸流、皆其法具り申事にて候。其内大口流の居合刀は、木刀を仕込申候。所作少き者にて候故、世上に曲抜とて、三方に乗、一丈の刀中取仕、或は襷掛など申類は、一つも役に立不申候。抜合は、但鯉口のはなれ一種にて、指て外に子細無之由に候」。『同書』棒の手、「旧法八角に作り、八尺にて筋金入鉄の疣を、末四尺の間に打。是を金さい棒と名付、剛力の所作に仕候。其後、山科流と申は、槲の木にて六尺に作り用候へ共、利方宜からず候故、近代捨りて、今は辺土の順礼の所持に羅成候。棒遣候義、用捨可有候」。又とつたりといふも、とりてのことにや(今も戯場狂言に、とつたりの兵あり)。『上野国郡馬郡蓑輪軍記』に、永禄四年二月みのわの城を、信玄これをせめ落し、内藤修理之助に預る処、「此度預り候侍共、在々所々の取伝の侍共呼出し、蓑輪の城の番兵とす」とあり(猶おもふに、取伝とは其処土着の士にや)。土御門泰邦卿『東行話説』に、「市場村の橋をわたり、山中村を通りて見れば、苧縄あるは網・早縄買くされ、銭ざしはいらぬかとすゝむ。此方は取たの術をしらねば、早縄の入目なく、おあしそへても召れがたし」。

○延宝の頃、かしんとて、居合・やはらをみせものにしたるが葺屋町にありし。これは今の如く、長き刀を抜しなるべし。近時の松井屋源左衛門などのごとく、薬など売たるものか。『東みやげ』と云絵本あり。江戸のみせ物類をかきて、発句を題したり。其中に、居合ぬき有。若衆にて治郎ぼうしして、上下を着し、黒ぬり足駄はきて、三方の上に片足にて立り。発句に、「鉢植の梅の姿や居合腰」とあり。寛延頃の画風也。

○むかしより、上野・常陸等の国は、武術を好みし処也。『北条五代記』四巻、「兵法の起りは、鹿島の神に始るよし」などいひて、鹿島の住人飯篠山城守家直、兵法の術を伝へしよりこのかた、世上に広まりぬ。此人、中古の開山也。また七巻に、「天正の頃をひ、常陸国江戸崎といふ処に、諸岡一羽といふ兵法の名人あり。古へ飯篠長威入道にも劣るべからずといひならはす云々」。また「むかし下総国香取に、塚原木伝といふ兵法者ありしが、是、希代の名人、末代に於て、木伝が一つの太刀といひならはせり。太刀の名さま/\〃ありといへども、極る処は一刀と知られたり。但し一刀と知といへ共、稽古なくしては、本分の位に至りがたし」。『狂歌咄』に、「尼子下野守晴久の家に、杉坂角弥とて才覚すぐれたる侍あり。卜伝一流の兵法に名を得て、門人多し」といへり。卜伝は塚原がことなるべし。

○武者修行、『室町殿日記』義輝公三好を討るゝ処、「今度は丹州の兵ども、そのうへ方々に隠れ住たる牢人、または武者修行にまかり出て、暫くの間方々に滞留しける武士などを撰あつめて云々」。『羽尾記』に、「上州吾妻郡羽尾といふ山里に、羽尾入道何某といふ侍あり。その三男海野能登守、新当流の兵法をよくこゝろざし、力百人に対し勇猛の侍なり。己が勇の人に勝れたるを以て、兄弟親族をかへりみず、古郷を去て兵法執行に出ける。尤至る処、毎々武勇名誉をあらはす」(此人永正七年に死せり)。『海上物語』(明暦二年刻)、「器量人にすぐれたる大男、折しも六月のことなるに、羽二重のひとへ羽織に、大なる朱の丸を付、肩先より帯し迄に、兵法天下一日本開山無双権之助と、金を以て書たるを着たり。さて申けるは、関八州は不及申、奥迄も修行仕り、手合を見候へ共、我にあはするものなし。故に西国かたへ兵法修行に罷下り候也云々」(これは、宮本武蔵が播州明石に住りし時、そこに此者訪らひきて、兵法をつかひ拭み、武蔵が弟子となりしとあれば、慶長・元和のころにや)。『誰身のうへ』巻三、馬鹿気なる町人、其子にかくし芸なりとて、兵法を習はする処、「着るものにも、よの常のかた小紋はつけず、下がへには、きねにつるなどかけちらし、肩さきには、南妙法蓮華経などはねまはり、大わきざしのおとしざし、小鬢すりさげ、かき頭巾、日のてりわるにも鉄子杖、たま/\つかふ詞さへ、関東兵のごとく也。この有さま他人の目にあまり、おやの耳にも入しかば云々」(これ、むかしの男だての奴風といふものなり)。『北条五代記』に、「鹿島の住人林崎勘介といふ者、長柄の刀の益ある事を悟り、これを用ひ初て、田宮平兵衛成政といふ者に伝ふ。成政これを帯て諸国兵法修行し、第一の神秘奥義といつは、手にかなひなば、いか程も長きを用べし。勝こと一寸ましと伝へたり。扨長柄の益といつは、太刀は短し長刀は長過たりとて、是中をとりたる益也(今案に、そのかみ、柄の短き大身の長刀あり。かゝる事の故とみえたり)。北条氏直時代迄、腕貫うつたる長柄刀を帯たり」。又云、「当世はかぎ鑓とて、くろがねを長くのべ、かぎをして、やりの柄に十文字に入、其先に小じるしを付、柄にて人を突べき威風をなし給ふ」(かゝれば、かぎ鑓はいと後の製なり)。長柄刀の利ある事は、今少し古くも見えたり。『鴉鷺合戦物語』(文明八年奥書の写本)、「おつとりのべて、ちやうとうつにも、びんぎによつてかつはとつくにも、柄は長きがよく候。弓はいさゝかも手にすぐれば、いたづらもの也。大具そくはちと腕にあまるやうなれども、あつかはるゝもの也」と有(大ぐそくとこゝにいへるは、長つかの大がたなをいふ)。

○伊藤一刀斎は、剣術を弘めんと諸国を修行し、将軍家より召されしかど、猶遊歴修行の志あるよし申て、門人小野治郎右衛門を吹挙しぬ。『人倫訓蒙図彙』に、「むかしは回国修行の兵法者あつて、盛に是を教弘めしが、やゝもすれば諸流と威勢をあらそひ、仕合・喧嘩の中立となりける故、此事停止なり。今、静謐の御代なれば、其家ならぬ民間に於ては、しらぬこそよけれ」。

○戦国には、らつぱといひて、盗人を多くめし置てつかふ事あり。『北条五代記』に、「氏直、乱波二百人扶持し給ふ中に、一の悪者有。彼が名を風魔といふ。同類の中、四頭あり。山海の両賊、強窃の二盗なり。此乱波、我国にある盗人をよく穿鑿し、己は他国へ忍び入、山賊・海賊・夜討・強盗、その調略、凡慮の及ぶ所にあらず。道の品こそかはれ、武士の智謀をめぐらし、他国を切て取も又、同じ云々」あり。浅ましき事ならずや。これよりやがて、戦船を海賊といひならはせり(これを掌どるもの、もと其やからなり)。徐岳が『見聞録』三、「許魁条夫軽足善水細作探聴、雖�軍中必需之技�、然出�其余力�而為レ盗猶以レ菜作レ韲耳云々」。説鈴本には、此条なし。忌て省けるなるべし。

○『秋草』に鎗の事をいひて、「古代の武士は、弓矢を以て働し故、武士を弓取といひし也。信長・秀吉の頃より、専ら鎗を以て武功の最上とする事になりし故、鎗を称して道具といふ事になりて、かりそめの出行にも、身をはなたず鎗をもたする事になりたるなり。古は侍を弓取といふ。今の侍は鎗取といふべきか、鎗持といふべきか。これら古今の変也」といへり。但この前文に、『武雑記』に、「えぼし上下の時は、長具足持べからず」とあるを引て、「鎌倉将軍より京都将軍の時代に至る迄、鎗をもたする事無之」といへるは非也。『鴉鷺合戦物語』は、一条禅閤の作といへり。軍のてだての条に、「手負はで、またきわざは鑓なりとて、大略鑓を持といふ。うでもある若ものは、やりにてはぬけたるわざはせられず、五き、十き迄まくり立て行も、おつ取こめて打やぶつていづるにも、大ぐそくはよし云々」とて、「わかき衆は、大りやく大だち・大なぎなた也」と有。また『十二類合戦絵巻物』などにも、長具そくさま/\〃みえ、又『奇異雑談』に、応仁の頃、中間、主の手鑓を持て供する事あり。『守武千句』にも、遊山に鑓をもたする事、見えたり。『秋草』に又云、「道具といふ名目は、古は僧家の詞にして、俗家の詞にあらず。俗家にては、調度といふ。武家には弓矢を専一とする故、調度といふ。今世は鑓を道具と称るも、古に同じき意也」と有。されど、広く道具といひしも、近きことにはあらず。弁慶が七つ道具といふたぐひ、見つべし。『宝倉』熊手の条に、「武蔵坊弁慶が七つ道具の名にこそおへれ」、『冬草』に、「弁慶が七つ道具と名付て、鉞・鋸・槌・鎌・くまでの類を肩に負たる形」を画けり。「此七つ道具の事、義経記其外、古き物語等にも見えず。諸書当用抄(北畠家の記)云、七つ道具といふこと、先具足・同かたな・同太刀・同矢をふ也。同弓持・同ほろかくる・同かぶとをきる也。是を七道具、或は七つ物といふ也。他流には、太刀二振・長刀などやう、あまた持事といふ。おかしき事也と見えたり。然れ共、弁慶が七道具、其品是と同じからず。按るに、義経記(往古大物二ヶ所合戦の条)、むさし房は弓矢をも持ざりけり。四尺二寸有けるつかしやうぞくの太刀はいて、岩とほしといふ刀をさし、ゐのめほりたるまさかり、ないかま・くまでを、舟にからりからりと取入て、身をはなさず。持けるものは、いちゐの木のばうの、一丈二尺有けるにくろがねふせて、上にひるまきしたるに、石づきしたるを脇にはさみて、小船のさきに飛のる云々。此ものがたりによりて、色々の物を七道具といひて、背に負へる処を画くなるべし。義経記には背におひしにはあらず、舟に取入しなり」(已上『冬草』)。舟に取入しも、常に持たりし事、しるし。弁慶はさて置、七道具負へる事は、『続狂言記』(朝比奈、地獄に至る狂言)、朝比奈七つ道具を背負て出、閻魔と力を競べて勝により、七つ道具を脱して閻魔に持せ、従者となす事を作れり。是そのかみ、七つ道具を背負へることあるによりて也。『荒山合戦記』、「爰に般若院は大剛の悪僧にて、度々の合戦に名を顕したる兵なれば、其頃の俗、異名をつけて今弁慶とぞ申ける。誠に諸人にすぐれて、色黒く長は六尺三寸云々。指物には、鍬・鎌・熊手・鋸・槌・鉈・鳶嘴等の七つ物取付云々」見えたり。『続山井』、「さす花や七つ道具をよろひ草 末翁」。

因にいふ、千人ぎりといふ事、何によりていひ出たるかと問へるものに、答云、これもそのかみ、専らいひしことゝ見えて、『謡曲外百番』に、『千人ぎり』といふあり。其詞に、「あぶくま川の源左衛門殿と申人、行衛もしらぬ人に父をうたせ、其無念さに千人ぎりをさせられ候云々。扨そのうたれたる処は、いづくの程にて候ぞ。(狂言)此さきに石橋の候。其所にて候」と有。又『秋夜長物語』山門三井寺合戦の処、「千人ぎりのあらさぬき・かなまたの悪大夫・八方やぶりのむさし坊」などいへり。『続五元集』、「心をつむとて消し提灯、出あへと千人ぎりを呼ふらん 晋子」。其角が此句は、おもふに承応三年甲午四月の事とか。山中半左衛門といふ浪人、乱気して丸屋町の辺より刀を抜、往来の者を行合次第に切倒し、日本橋のかたへ通りしに、其間倒れたるもの八人、薄手にて逃れたる者廿五、六人有し。夜の五時ころの事也。其頃、此を通り町の千人ぎりといひけるよし、『洞房語園』にみゆ。是を思へるなるべし。『塩尻』云、「鵜丸の太刀は、濃州久々利の人、土岐悪五郎が太刀也。悪五郎は天文頃の人なり。土俗云、悪五郎、京五条橋にて千人切したりし時、此太刀、川へ落しけるを、鵜二羽くはへて上りし嘴の跡残りし故、鵜丸と名くと云り。野話、此類多し云々」有。辻ぎりと云ことを、かく云しなるべし。

○剣術の師を和尚といふ事、『塩尻』に、「興福寺に宝蔵院といふ有。此住僧、代々鎗を業として人に教へ、東武にも参り、鑓つかふ弟子毎に多く集る。其門人、師を呼て和尚といふ。今、他家にて僧ならぬ者の、剣術・馬芸など教ゆる師をも和尚と呼。もと宝蔵院より風をなせり」とぞ。是もさる事なんめれど、師たるものゝみにあらず、傾城などにも和尚あり。たゞ、すぐれたるをいふ俗語なり。そは、むかし禅宗行はれてより、俗人好みて釈徒の語を学びしが、今に残れる、いと多し。

○『室町殿日記』二巻、冷泉民部少輔討死の処、「活人剣・殺人刀、向上極位の妙剣、十字手裏剣、沓はう身などいふ兵法の術を尽し、きつて廻り給ふ云々」。『似我蜂物語』兵法の手に、「石甲・満字・玉簾・乱除・飛除・半開・半合・清眼・村雲などゝいふ太刀を芸古する人あり。其内に、真妙剣といふ太刀ほど何共ならぬ事かなとて、明暮精に入つかふ。師匠云、道得ざるも三十棒、いかんが不犯を通ぜん。咄、真妙剣といふは、此語の如く也。名有て形なき太刀也。言句にも、まねにもならぬ錬磨の処侍る。諸事万端の芸古に、至極の処あるべし。さる程に、念流の兵法に大雲といふ太刀、懸声を咄々とかけける。是も至極の処にや」といへり。禅意をかりて名づけたるもの、多しとみゆ。『安斎随筆』に、「しやにかまへるといふ俗語、剣術より出たる詞也。刀を提げ、すぢかひにして向ふを、斜に構へるといふ也。かやうの事何のわけも知らずして、人なみにいふ事多し。扇を斜にかまへ、其外何にてもかまへる物ある也。さもなき空手にいふはいかゞ」といへり。おもふに、空手にても正躰に居らず、筋かひにかまへたらんは、斜にかまふなるべし。『葉子譜』(『広百川学海』癸集に収む)、刻画品の骨牌に、「斜眼」また「斜歯」といへるあり。其図をみるに、牌の縁の黒き処、上下に筋かひて星あるは斜眼なり。歯のかたも筋かへるは同じ。斜といふ事、かくの如し。剛臆といふこと、『奥州後三年軍記』、「将軍義家、つはもの共の心をはげまさむとて、日毎に剛臆の坐をなむ定めける云々。日毎に剛の座に付ものはかたかりける。腰滝口季方なむ、一度も臆の座につかざりける。季方は義光が郎等也。将軍の郎等、名を得たる者共の中に、今度殊に臆病也と聞ゆる者、五人有けり。是を略頌に作りけり。鏑の音聞じとて耳をふさぐ剛の者、紀七・高七・宮藤三腰・滝口末四郎。末四郎と云は、末割四郎惟弘が事也」と有。前文の腰滝口とあるは、非なるべし。

○『貞徳文集』に、「富田柳生実手無�残所�御遣覚云々。天狗之自由程無之候者御慎肝要候、生兵法は大疵基と申諺御座候、一笑々々」。『顰草』に、「なま兵法大疵のもとひ、とかや。何にもて、よきほどこそあらまほしけれ」。『吾吟我集』、中/\にやめようさぎのなま兵法いぬにかまるゝ疵の基ぞ」。

○『源平盛衰記』、平家軍兵水鳥の羽音に怖て帰洛の処、「逃るのは剛の者といふ事有とて、人みな笑ふ」と云り。「三十六策走為�上計�」と有をいふか。『亥(元字はコザト篇)余叢考』、「斉書曰、王敬則起レ兵謂明帝父子惟有レ走、故檀公三十六策是上計、蓋引下宋人譏�檀道済�之語上也」。『俳諧三疋猿』、「逃るといふが兵法の奥」といふ付句あり。是も諺なるべし。『隻(竹・明に隻)絨輪』に、「見せ男先三つ指で詰ひらき、兵法自慢伝受逃げ処」。

○『雖知苦庵養生物語』(柳生氏と梅窓といふ人と、養生の事を一渓道三に問ふ、道三の物がたりなり)、「四条縄手にて、正行が敵に後を射させながら、しづかにべんたうつかふといふ事、天晴なる勇将とおもへり。梅窓云、さういやるで思ひ出した。木村が上方勢を追立たいきほひより、討死のとき、大手の前にて敵の方へ尻をむけ、牀几に腰をかけ、手の者五、六人、まんまるにして大仏餅を手に/\持、しづかに食ていた。その躰、ことの外見事にあつた。雨のふるやうな矢玉の中ででの事じや。餅くひしまひ、馬びしやくでうがひ・手水をしたを、皆々感じて見入、誰とめぬに矢留のやうにした」(此梅窓は誰にや。『北条五代記』に梅窓軒といふ人あれど、時代異也)。



相撲

『垂仁紀』に宿禰・蹶速の角(元字は手篇)力より後、『皇極紀』に、「命�健児�相撲」とあるを始にて、相撲の節会を行はるゝ事、毎歳七月に諸国の供御人を召て、先内取あり(右は右、左は左と取也。今いふ地取のごとし)。さて召合ありて後、抜出あり(昨日召合の内を、抜出してとらしぬる也。『拾芥抄』は日数相違せり)。其式は『内裏式』『江家次第』『雲図抄』等に委しく見えたり。最手(ほで)・占手(うらて)・助手(すけて)・相撲長(すもうおさ)・立合(たちあわせ)等の名目あり。今の称にていはゞ、最手より助手迄は、関より小結の位なるべく、相撲長は頭取、立合は行司なり。『玉勝間』に、『江家次第』にすまひの事をいへる処に、「特鼻褌上着�狩衣�差レ紐と見え、古今著聞集には、烏帽子・袴など着ながら、すそをくゝりてとりたりしやうも見えたり。然るを、栄花物語根合巻には、はだかなるすがたどもの、なみたちたるぞうとましかりける、とあれば、むかしより裸にてとりしにこそ」といへり。今おもふに、狩衣など着るは、いまだすまふとらぬ内の儀なるべし。又、常に人の家などにて、かりそめにとる事などあらむには、すそを括る迄にて、裸躰に及ばざることもあるべし(『著聞』に見えたる、是也)。昔、相撲人は、其業のみなすものも有べけれど、大かたは力つよき武士のわざと見えたり。『曾我物語』に、「さすがに、股(正しくは俣の月篇)野は相撲の大番つとめに都へ登り、三とせの間、宮こにて相撲になれ、一度も不覚をとらぬもの也。其故に院内の御目にかゝり、日本一番の名を得たる相撲也」。又おくのゝ酒もりの条、「海老名源八いにしへを思ふに、秀定が若ざかりには、鷹狩・川狩の帰り足には、力わざ・すまふがけこそ面白けれ云々」など有。

(略)

○関といふこと、古は最手・占手・左右あり。みな免田を賜はりて、勅許なり。この故に、最手・脇などに昇進しぬる相撲は、公家猶たやすく雌雄を決せられざること、『古事談』『十訓抄』等に記したり。其後この節会やみて、召合らるゝ事もなければ、最手、其外の位も、私に定むべきやうなく、その事絶たる也(つよき者ありても、私には広く諸国の者とその力をためさん事、たやすからじ)。『著聞集』に、長居といふ相撲、畠山重忠と取て肩骨を砕かれたる事をいふ処、「長居は、東八ヶ国うちすぐりたる大力」とあり。今東西と分つは、かやうにうちすぐりたるの義也。前の『古記』に、「関を名乗」とあるは、勧進もとより定て出るにあらず。合手なき時に名乗、是なり。『日本相撲鑑』(正徳壬辰秋洛陽処士」とあり)、「すまふはそのかみ、大内にて諸国の供御人をめし集め、七月に相撲の節といひて、仁寿殿にて東庭にてめし合せて、御覧あり。供御人とは、相撲を役とて仕へ奉る、諸国の防人也。この故に、今にすまふの長を関といひならはせり」といへり。此説、通ぜず。相撲を奉仕する人、皆防人ならば、其長たる者のみ、せきとはいふべからず。そのうへ『日本紀』『万葉集』等、防人をサキモリと有。崎護の義なるべし。海国の辺塞を守らしむる也。故に島守とも書り。後世に関といふは、其義にはあらず。関門の義にて、これをこゆるものなきをいふ也。『相撲大全』に、「上古、朝庭にて行はせ給ふ時は、関・々脇・小結ともに、二人づゝ是を撰み給ふ。勧進相撲になりても、二人づゝありし也。千菜寺より二度め元禄十三年庚辰六月、高野川原赤の宮にての相撲組を記すに、寄方にも各二人づゝ、勧進方にも各二人づゝあり。三度め正徳六年には、一人宛に成たり。其以前二人づゝの時、表裏になずらへ第一を関といひ、第二を裏関と称しける。立派は古今相違すれども、此裏関の称号は、今にも此道熟達の人々は聞伝へられける云々」いへるは、覚束なし。先づ古へ、関・小結等の称はなく、二人づゝ撰まれしといへるも、明証なし。おもふに古は、左右に同位の最手ありしには有べからず。最手も占手も一人なるべし。彼高野川原にての時は、いかなる故にかあらん、正しからぬことにて不便なれば、次のたび正徳には、今の定めの如くになりしことゝしらる。又、裏関など称することも、あるまじき事にや。是は、古への占手をうら関と心得たる誤ならむ。関脇は、古へも腋といへり。『西宮記』の相撲の条、「最手額田成連与�腋宇治部利里�決�勝負�」とあり。最手といふことは、『三代実録』より見えたり。又「西宮記・江家次第などに助手とあるも、腋のことか」と『玉勝間』にいへり。

○『そゞろ物語』、もとよしはらのさまをいふに、「勧進舞云々。相撲・浄るり」と、観場の種々を挙たり。又『色音論』にも、「禰宜町に、さこんがかぶきまひ・すまふ」とあるは、慶長より寛永頃のこと也。勧進とて、仏寺などの建立・修覆の為に興行するのみにあらず。寄を勧むるをもて、勧進といふなり。『大全』などに、ひたすら彼勧化の為とのみ心得たるにや。それ故、千菜山鎮守八幡宮再建の時を勧進相撲の始、といへるなるべし。

(略)



雑伎

(略)

○小弓、『源氏』若菜(上)、「やよひばかりの、空うらゝかなる日云々。おほやけ・わたくしに、事なしや。何わざしてかはくらすべき。いとさう/\〃しきを、例の小弓いさせてみるべかりけり」。『旧本今昔物語』東三条内神云々の条、「梅の花いと慈(元字は言篇)く栄き、鶯いとはなやかに、世中今めかしく、所々節供参り云々。鞠・小弓など遊ぶ」。又『東鑑』『蜻蛉日記』『著聞集』『義経記』等、其他諸書にみえたる、みな三月或は四月頃、長日に翫ぶこと也。その頃には、坐敷などに出して置にや、『金葉集』に、「公実卿のもとにまかりたりけるに、侍らざりければ、出ゐに置たりける小弓をとりて、さふらじにこれはおろしつ、とふれて出にけり。かの卿、かへりて弓を尋ねければ、時房まうできて、とりつ、と申ければ、おどろきて、院の御弓ぞ、とくかへせ、といひにつかはしたりければ、御弓につけてつかはしける歌、藤原時房 あづさ弓さこそはそりの高からめはるほどもなくいつるべしやは」。又、雀小弓は『庭訓往来』に、「春始御祝云々。将又楊弓・雀小弓勝負とある、その抄に云、楊弓は公卿の御弓なり。あづちを九の杖にこしらへて、広椽などにて射なり。ゆんほこは三尺六寸なり。雀小弓は殿上人のわざ也。弓のほこ、二尺七寸也。的を四寸にして中につり、五間口おいて射也」といへり。此説、何に拠れるか。楊弓は公卿、雀小弓は殿上人とわいだめも有べからず。雀とは、物の小きをいふ。草木の名などにも多し。小弓の小ききをいふなり。『西行法師の歌』に、「篠ためて雀弓いるをのわらは額えぼしのほしげなる哉」とあるなどは、造りざまに、定りたる法もあるべからず。古き『画巻物』に、童の小弓もて小鳥を射る処かける、往々あり。後世田舎には、雀を縛りて、的としている処も有とぞ(安斎が『庭訓往来古抄』の頭書に、『採梔集覧』を引て云、「予が幼年の頃迄は、田舎に於て年始の遊覧とて、生たる雀を括り、目当として、二尺七寸の小弓を以て射さしめたり。もしあたる時は雀を取、中らざる時は、賭を遣はして興としき。疑は、此を雀小弓と云たる歟」と有。雀小弓の説は非なり)。『猿楽狂言』やはた聟に、「弓こそはちいさいときから、はちこ弓の射手にて、すきて御ざる」といへり。はちこゆみは蜂小弓にて、虫など射る小弓歟。『恨之助草子』に、「小弓に小矢のもとすゑをしらざりし頃云々」(幼き時をいへり)。『義理物語』に、小娘の芸をいふ処、「雀小弓、名誉に一筋もはずさず云々」。『軍器考』に、「長日のころ、あづちを作りて、本弓にて的を射るを、小弓引といふよし。是、堂上の小弓に准ふなり」といへり。小弓は、僧徒も翫べり。『新拾遣集』十九、「右近大将道綱家に、人々小弓いてあそびける時、まかり侍らで申つかはしける、贈法印慈応 あづさ弓いてもかひなき身にしあればけふのまとゐにはつれいるかな。返し、道命法師 梓弓君しまとゐにたくはねばともはなれたる心ちこそすれ」。『海人藻芥』に、「諸門跡の芸は、詩歌・茶・香会、春は雀小弓也云々。近代、囲碁会張行有レ之、不レ可レ有事也」ともあり。小弓は楊弓なるべし。雀小弓は、小弓の最小きものとみゆ。『二水記』云、「享禄三年二月三日午時参内、有�御楊弓�」(後には小弓といはず、専ら楊の枝を弓に作りてもて遊びしより起りたるにや」といへり。かくては、雀弓と異なることなし。おもふに、養由基が楊の葉を射たりといふ事によりて、さゝやかなる的矢なれば、楊弓とはいふなるべし。もとより、生物などを射る具にはあらず。雀弓はさゝやかなれ共、其始、童の玩びて小鳥などを射しもの也。『雍州府志』に、「雀小弓は、近世亦玩之」といひしは、天和年間の事にて、その後すたれたるにや。たゞ楊弓のみ、今に絶ず行はる。楊弓の事を書るもの、一巻あり。其式など、委くみゆ。其起原、唐玄宗に始れるよしいへるは、取に足らず。おもふに、『開元天宝遺事』に、「唐宮中毎�端午�造�粉団角黍�、釘�金盤中�、繊妙可レ愛。以�小角弓�架レ箭、射中�粉団�者得レ食。蓋粉団滑膩而難レ射也。都中盛行�此戯�」とあるなどに、傅会したるものなるべし。楊弓はやりしは寛永の頃、『犬子集』近年聞書の部に、「世上に楊弓のはやり侍りければ、楊弓の下手のさじきや夏こたつ」。『鷹筑波集』、「楊弓か雀の森の三日の月」。また『目覚草』(寛永二年、光広卿跋)、「楊弓はいとけなきものゝ、さゝはき矢のやうにて、弓は寸尺にたらず、矢づかもなければ、射法にかゝはらず何の用に立ことをしらず。たゞいたづらにかけ物をあらそへるをみれば、博奕のたぐひ也」。恵中が『海上物語』に、「宮本武蔵が楊弓を削りて楽む」事みえたり(是は慶長・元和の頃なり)。其後、天和・貞享ころもはやりて、草子共に多くみゆ。『一代男』三、「折ふしやうきう初りて、各々やう/\朱書ぐらゐにあらそはれしに、ある御方の道具をかりて、とり弓とり矢にして四本はづれず、一筋はきり穴に通れば、座中目を覚して、猶所望するにかずあり」。『諸艶大鑑』、「東山の遊び、光寂・一中まじりに、楊弓の会も詠くらし」。又『世の人心』に、「楊弓は一中がゝりに、大金貝の看板」など、あまたみえたり。一中は、都一中がこと也。『世事談』に、「近年みやこ一中、此道を得たり。一表二百、のこらず的中したりといふ。元禄の頃、江戸芝辺に五郎・末硯とて、両人の上手あり。百八十四、五の矢数、江戸中詰改場の看板にしるし、無双の上手といへり。頃年は百九十四、五、或は七、八に及ぶ。しばらくの程に、世人かく上手になれり。詰改一表、矢員二百本也。中る処、五十本以上は朱書、百本以上は大金貝といふ。賭には、一銭を紅白の紙に包みし也。是を字といふ。近年は素字とて、裸銭を用」といへり。

○ぼうがた、『雍州府志』に、「凡矢二本称�一手�、二百本謂�百手�、繋レ格台謂レ堋、格中央有�小穴�、是謂�喜利穴�云々」。『和名抄』、「射乏(夜布世岐)、文選東京賦注云、乏以レ革為レ之云々」。『撈海一得』に、「大射礼乏一名レ容、以�今云屏風�、以�牛革�免(元字は革篇)漆レ之。鄭曰、唱獲者所�蔽以禦�レ矢也と。今、此形に似たるを以て、ぼうがたといふ也」といへり。きり穴は、錐穴なるべし。省きて、きりとのみいふは聞えがたし。

吹矢は、『雍州府志』楊弓の条下に云、「又一種有�吹矢�、長三尺或四尺円木突�貫其内�、入�矢於其頭�、以レ息吹レ矢、其矢中レ鳥則立斃云々」。これにも、往々上手あり。『諸艶大鑑』に、「宗益といふ人、鴨は申す迄もなし、雁も吹矢にて留る事、またなるまじき名人」と見えたり。『続山井』、「笛ならで花にねとりを吹矢かな 宗知」、「樋は筒軒に蓬をふき矢哉 百之」。天竺渤泥国の内、買哇柔と云処は、別に一種の俗をなせり。皆、猟戸にて、男は白布にて螺髪を巻き、遍身ホリモノ、腕と膝下は真鍮の張がねをまく。『南海紀聞』に、「ヒヤアジヨは、鳥銃を禁ず。他邦の人、これを持ものは、決て其境内に入れず。黒坊、吹矢を第一の利器とす。筒、長五、六尺、其制、此方の吹矢に同じ。矢、長さ六、七寸、木にて頭を作り、風を受る処、少し凹なり。鏃は毒魚の骨を以て作る。これにて妙用を得。裸体にて深林より野牛・羊を駆り出し、吹矢にて射る。百発百中、其利、銃丸に異ならず。唯一矢にて殪す事も有。目を驚す絶技なり」と云り。

(略)

○はま弓は、はまと弓と二物なり。旧説に、波魔の字義によりていふは、非なり。はまといふ物は、藁にて造る。それを小弓にて射る戯なり。今も田舎にはありといへり(蝦夷の児童、木などを輪に作り、まろばしてこれを射て、走り物の目あてを習ふとなり。其国のこと書る物にみゆ。図は『三国通覧』などにも出)。はまなげは、名は殊なれ共、そのわざは毬杖也。戸車を投て転ばし、竹木などにて打とむる戯にて、弓にて射るにあらず。江戸近き田舎には、逆井村などにて、童部打むれて此戯をなす。是を、はんま廻すといへり(はまをはんまといふは、浜千鳥をはんま千鳥と同列也)。はま弓・はま矢とはいへど、弓はまといふことなし(今、江戸の俗には、弓はまと唱ふる者も有)。『鷹筑波集』、「暖な日はくるふ童、浜弓を一入下手や削るらん」。また『佐夜中山集』付句、「みつばよつば作る若殿のはま矢かな」。『醒睡笑』祝ひ過るもいないもの、といふ条、「惣領の子、六歳なり。こゆみにこやを、とゝのへもたせけるが、元日の朝、矢一つはなち、俵にいつけて云々」。『日本歳時記』の画にも、正月小児の小弓いる処の図あり。『世の人ごゝろ草子』、「五月の節句に甲、正月に破魔弓進じて、祝義とる事もわきまへなく、乳母の奉公になれざるものぞかし」(江戸には昔より、乳母にかゝる習ひ、聞えず)。はま弓、今は、たゞ祝義の物として射らるゝやうには作らず。『寛文七年十一月朔日町ぶれ法度』に、「はま弓、結構に致さず射られ候様可仕候。但人形・作り物等、一句可為無用事」とみゆ。『類柑子』いなつかの灯の条、「破魔弓の矢筒、そゞろはげたるを火吹とし、画ける儘の名を松鶴とよぶ云々」。画やうはかはらねど、吹竹に用ひしは、今の如く紙のはりぬきにはあらず。

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弄玉(たまとり)

(略)

○玉とり・あやおりの伎をする者を、放下といふ。『七十一番職人尽』に、「放下」あり。『謡曲』に、「放下僧」といふ、是なり(謡曲は、親の敵討の事を作れり。牧野左衛門刀禰信俊といふ者の事実、さらに物に見えず。おもふに、放下がまはすこきりこを、輪廻の義にとりて作れる物なるべし)。放下僧は、田楽より出たるなるべし。放下は禅録に、放下・屠刀・立地・成仏など、其外、放下着といふ語、多し。物をはなち捨て、無我の心になるをいふ。『職人尽』放下の歌に、「やぶれ僧えぼしきたればこめらはの男と見てやりしにつくらむ」と有。世に写し伝ふる画には、髪あるさまなるは、誤りなるべし。有髪僧といふもあれど、こは異也。又、僧のえぼしきたりしこと、『沙石集』巻三、破戒の僧をいふ処、「同宿の僧、烏帽子引入て火たきける云々」などもみえたれば、やぶれ僧とは、破戒かとも思はるれど、さあらば、破り僧などこそいはめ、やぶれにては、自他のけぢめ、いかゞ也。よりておもふに、はもじを誤りたるならむ。はふれは、『古今集』の歌に、「身は捨つ心をだにもはふさず」といへり。今も物を打やるを、はふるといふにおなじ。即、放下の義也。此伎する僧の、身をはふらかしたるさまなれば、名づけたる也。又『同職人尽』の歌、「月みつゝうたふはうかのこきりこの竹の夜声のすみ渡るかな」。こきりこは、『蓋(元字は土篇)嚢抄』小児翫物字の内、「筑子は、こきりこ也」とあり。筑は、楽器の名也。『風俗通』、「状如レ瑟而大頭安レ絃以レ竹撃レ之」とある、この竹のことをとりて、筑子の文字は充しもの也(『和名抄』等にも、箜篌などは載たれども、筑は見えず。こゝには用ひぬ物とみゆ)。さて、こきりこは、小切子の義なり。子も小も同じければ、重語に似たれど、竹にまれ、木にまれ、小さく切たるが切子也。又はその打鳴す音をとりて、名付たるも知べからず。もと、大鼓のばちより出たるものか。ばちは、『和名抄』に、「拍浮(おほす)、拍打也、於布須、是也」と有。また大鼓の条に、「抱音、浮字亦作レ桴、俗云、豆々美乃波知、所�以撃�大鼓�也」とあれば、拍桴は、ばちの事也。『油嘉須』に、「お恐ながら入てこそみれ、こきり子を主の踊りにうけとりて」。『懐子集』、「呉竹のふしなき中は慰みて、君こきりこをうつゝなの我 重頼」。『古今夷曲集』、「はやしぬる踊の庭に灯籠をともして持もこきりこぞかし」(切子灯籠をかけ合せて、盆踊をよめり。この灯籠は、火燭の部に出)。こきりこは、指先にて廻し、又は打鳴し、手玉につかひ様々曲をなす。その竹の内に、赤小豆を入。『風俗文選』毛丸(元字は糸篇)が楊揮豆賦に、「赤小豆どのゝ能には云々。あや織の竹にからめき」といへる、是なり。あやおりは、こきりこにてする曲也。『訓蒙図彙』に、「二つ三つ四つ竹を以て、上下へあげおろす手品をいふ也。其意は、機の糸をとをす時、竪の糸上下をなす也。是、織手の足のつかひやう也。今、此わざよく似たるをもて、文織といふ」と有。故に、今はこきりことはいはず、あや竹といふ。

○上に引る、『三代実録』の文に、「透撞」と有は、いかなる伎にか、いまだ考へ得ず。呪擲は、呪師の誤ならむ。『新猿楽記』にも、「呪師(のろんじ)」みえたり。名の意は、呪詛にてのろふこと也。『伊勢物語』に、「天の逆手を打てなむ、詛ひをりける云々。人の詛ふは、負るものにやあらん、負ぬものにやあらん」。『書紀』に、「事代主命、船を踏傾て、天逆手を青柴垣に打成て、隠ります」と云事あり。逆手を打て呪ふ事也。近世に手づま遣ひ、品玉を種々の物に変らするに、呪ひの学びして、手を打事をする。戯れながら、古きさまの伝はりしにや。『江談』第二、「呪師猿楽於�営始�事、三条院円宗寺を供養せしむる時、俊綱朝臣、始構出す」の由、見えたり(『拾芥抄』を按るに、「後三条院、本名円明寺」とあり。俊綱は、宇治殿頼通公の子なり)。幻術なるべし。『事物紀原』に、生花といふもの有、「今京城有�生花種植以戯者�、按前漢張騫伝、眩与レ幻同、即今呑レ刀履レ火、種レ瓜植レ樹、屠レ人戮レ馬之術是也。本自�西域�来、由レ是言レ之、種レ瓜植レ樹、即生花之事也、蓋自�漢武時大宛所レ献眩人�始」云。まじなひて、かゝるわざをなす眩人なれば、呪師といへるなるべし。是も唐侮の図中に、馬の口より人の出る、又、口より火を吐くかたなどかける、此類なり。『新猿楽記』に、「唐術」といへるは、かやうの類を、広くいへるにやあらん。永禄より天正の頃までも、果心といへるもの、怪しき術をして、人を驚かしめしとなむ。其徒、いくらもありつらめど、聞えたるもなし。元禄の頃、塩屋長次郎といふもの、観場に出て、馬などを呑るやうのめくらましをなして、世に名高かりし。今世に手妻といふは、唯その所作、いかにも捷くして、奇み驚かるゝを上手とす。其法は、誰も古めかしく知る事を、然する也。紙の蝶々など、真に生るものゝ群飛が如し。『桂花叢談』に、「張綽と云もの、酒を好む。これに飲ましむれば、意に叶ふ時は、紙を索め、夾(元字は虫篇)蝶二、三十枚を剪り、気を以てこれを吹けば、列を成て飛。如レ此累レ刻以レ指収レ之俄皆在レ手、見者求レ之則以�他事�為レ阻」と云。唐の成通の初の事とかや。これも、馬のすの操つりなるべし。

○又、輪鼓とあるは、『和名抄』、「本朝相撲記云、輪鼓二人」、その分注に、「諸雑芸之中、弄�輪鼓�之者二人也、今按、此物所レ出未レ詳、但其形如�細腰鼓�、而輪転�於糸上�、故以名レ之」と有。『沙石集』に、「其形、中のくびれたる事」をいへり。また立鼓とも書り。形をもて也。『職人尽』、放下が衣服の紋、りうご也。放下がまはす物なれば、付たる也。是をまはすやうを思ふに、中のくびれたる処に緒を巻て、はかたごまなど廻すやうに、投て緒の上にうけ、少しづゝ投上/\、いきほひつよく廻る処を、高く空へ投あぐるわざなるべし(今、はかたごま廻す、てうのがけといふがごとし)。輪転�於糸上�とは、是をいふならむ。

○放下師を、今は豆蔵といふ。『斎諧俗談』といふものに、「貞享・元禄の頃、津の国に一人の乞士あり。名を豆蔵といふ。市中に出て、常に重き物をさゝげて、銭を乞。又、一人の小児を梯に登らせて、其身は楊枝を加へ、はしごを楊枝の先に立て起居ゆく事、心にまかす。小児も又、馴て怖れず。或は長き鎗を、鼻の先に倒に立て行。又は藁のしべ一筋を、鼻の尖りに立て、其しべ倒れず。唯、煉磨のみといふ。又、外に人ありて、腹のうへに大きなる臼を置、仰て杵にてつかしめ、或は登(元字は登に几:クラカケ)を腹のうへに置て、二人これに登りて躍るといふ。請身といふ類ならむ」といへり。此者より、豆蔵といふ名は起りしにや。これも、其者の渾名なるべし(このうけ身のわざ、今も時々観せ物に出る事あり。真のうけ身には有べからず。蝦夷人の風俗に、スツ打といふ事あり。これが為に、うけ身をならふといへり)。

(略)

(『嬉遊笑覧』二 岩波文庫版を底本としました。)

巻之五

嬉遊笑覧巻之五

喜多村信節著
(一部)
 
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巻之五

(略)

歌舞

新井白石の『楽対』に、「伊弉冊尊かみさりませしを、鼓吹幡旗をもて歌舞て祭るよし、日本書紀にみえたり。此神は、我国開闢の神にてましますを、祭りまいらするに歌舞といふ事あらんには、天照大神の御時より猶さきの代に始れる歟。されど、その祭りに歌舞を用ひしことも、後代の俗に出きしも、又しるべからず。さればまづ、神楽をもて本朝の楽の始とは申す也。庭火より朝倉其駒になる迄の二十四曲、皆これ神代の遺風にて、神を祭らるゝ時に用ひられし楽にてある也。其余の楽曲かれこれと、国史に見えし処ありといへども、其声容の如き、後世に伝れりとも聞えず(殊舞・八倩の舞・田の舞・楯節の舞などいふ事国史に見えたり)云々」いへり。この内、田舞は田植のまひにて後世の田楽なるべし。田舞のことは『続日本紀』に、「霊亀八年五月丁巳云々、五位已上進�装馬及走馬�、作�田舞(元字は人篇)於舞台�、蕃客亦奏�本国之楽�云々」。『同紀』に、「天平十四年正月壬戌、天皇御�大安殿�、宴�群臣�。酒酣奏�五節田舞�、訖更令�少年童女踏歌�云々。六位以下人等鼓レ琴歌曰、新年始邇可久志社供奉良米万代麻提丹」。また、この舞伝はらず。『類聚国史』、「文徳天皇仁寿三年丙午朔、鸞輿幸�大政大臣東京染殿第�云々。御�東門�覧�耕田�、農夫田婦雑楽皆作云々」。これ田楽の初め也。また、『延喜式』大嘗祭に「田舞」あり。田殖の舞なり。『栄華物語』御裳ぎ、「大みや土御門どのにおはしませば(大宮は上東門院なり。此段九巻の本を校正して載す)、との、なにわざをして御らんぜさせんとおぼしめして、このとのゝ御まやのまくさの田は、とのゝ北わたり、せがゐむのもとにぞうゑける。此ごろうゝべかりければ、みまやのつかさめして、此田うゑむ日は例のありさまながら、つくろひたることなくて、おこがましういかにも有のまゝにて云々。その日になりて、かのすみのついぢをくづさせ給。東のたいにみやどのゝうへわたらせ給ふ。女ばう達、さぶらふかぎりは参る。わかう、きたなげなき女ども五、六十人ばかりも、はかまといふものいとしろうきせて、白き笠どもきせて、はぐろめ黒らかに、べにあかうけさうをさせて、つゞけたてたり。田あるじといふおきな、いとあやしききぬ、きやれたる大がささゝせて、ひもときてあしだはきたり。あやしきさましたるをんなども、くろかいねりきせて、はうにといふもの、むらはけけしやうして、それも、かささゝせてあしだはかせたり。又でむがくといひて、あやしきやうなるつゞみ、腰にゆひつけて、ふえふき、さゝらといふものつき、さま/\〃のまひ、あやしのをとこども、うたひゑひて、心よくほこりて十人ばかりあり。そが中に、このたつゞみといふものは、れいのつゞみにも似ぬこゝ地して、こほ/\とぞならしいくめり」とあり(『枕双紙』にも此事見えて同じ趣也)。鼓を田楽といふこと、『今昔物語』廿八巻第二語、「白装束の男共の馬に乗たる、或はひた黒なる田楽を腹に結付て、去(元字は衣篇)より肱を取出して左右の手に桴を持たり」とあり。田殖の雑楽にて田舎びたるを興ぜしに、後には種々の曲を尽すことゝなりぬ。其事さかりに行はれしは、『洛陽田楽記』に、「永長元年之夏、洛陽大有�田楽之事�、初自�閭里�及�於公卿�」。このこと『古事談』に、「永長元年、大田楽事或人記云、七月十二日参内祈年穀奉幣定也。今日有�殿上人田楽事�、卅余人装束式兼被�仰定�云々」(この装束の内に、「以冠筥蓋為笠」といふこと見えたり。今も神事に田楽のきる笠は、両端の折れて筥の蓋めけるは是等のなごりにや)とあり。もと法師の夜にはあらぬを、一種の戯事となりて、僧俗ともにもて興じぬ。『洛陽田楽記』に、「郁芳門院殊催�叡感�、姑射之中此観尤盛。家々所々引レ党予参、不�唯少年�緇素成レ群、仏師経師各率�其類�、帽子繍裲襠、或奏�陵王抜頭等舞�」とあれば、此ころより僧家にもこの伎をなし、殊に堪能のものも多く出来、神事などにも用るに至りて、専ら僧徒の伎のごとく、田楽法師と称してみな僧形なり。『職人尽』などに其躰を画けり。其伎も種々の芸を尽し、唐の舞楽・雑芸、百戯せざる事なし。かつらをかけて女に出たつことなど、『職人尽』の歌に見え、其外さま/\〃の事するよし、『田楽能記』の番組に見えたり。又、『田楽記』云、「侍臣復参�禁中�、権中納言基忠卿捧�九尺高扇�、通俊卿両脚着�平藺笠�」。これを『古事談』に、「永長元年七月云々。上達部尻巻四人、左兵衛督基忠、治部卿通俊、右兵衛督雅俊、宰相中将宗通等、皆直衣持�高扇�付�大物忌�云々。如レ此日々夜々在々所々諸院諸宮已下郷々村々田楽云々」あり。この四人の卿たちは田楽のあとあさへなどゝみゆ。高扇といふは、今も伊勢神宮御田殖に御田扇とて大きなる扇を持出る。是なり。按るに、田をあふぎて蝗を避ること、『古語拾遺』に見えたり(此事前の扇の条にいへり)。両脚はあしだにもあるべからず、恐らくは高脚の誤なるべし。高脚は鷺足といふもの也。春日祭に今もあり。それを乗たる形の似たりとて、豆腐などの串にさして焼たるに、田楽の名を呼なり。能とは何にもいふべけれど、今は猿楽を称ふるやうになれりしことは田楽を始とす。『文安田楽能記』の番組に、「一番熱田のしゆんかう門の能、二番女沙汰の能」などゝみな能と書たり、故に田楽能といふ。また『田楽人数注文』をみるに、「福善麿菊阿」などの如く、皆何麻呂・何阿と名乗れり(法師或は童子なども有べし)。その能あまたあり。『太平記』に至りては、新座・本座の能くらべなどおもひ見べし。『尺素往来』、「為レ勧�進本座新座之田楽�、和州江州之猿楽、各可レ播�所能�候」。この頃は、もはや猿楽はやりて、田楽やう/\廃れむとする程なるべし。『糺河原勧進猿楽日記』(慈照院殿の時、寛正五年四月)、田楽法師祇候の事は見えたれども、もとよりこれは猿楽の勧進にて、田楽は能をせざりしなり。今は神事などに僅にそのかたばかり残りたれども、その趣はおもひ見べし。唱ひものはなけれど、猿楽狂言などのごとく言詞もありて、唯舞ごとゝ、軽わざのみにはあらぬ也。

○『公事根源』、十一月五節の条を考ふるに、「天平五年五月に、まさしく内裏にて五節の舞はありける」と有。標注に『江次第』を引て、「天平五年、無殿上五節、寛平・昌泰間列云々」(今の板本、天平を承平とあるは誤也。天平のことを注するなり)。按るに、天平五年は誤なり。『続日本紀』第十五、「天平十五年五月癸卯、宴�群臣於内裏�、皇太子親舞�五節�、右大臣橘宿禰諸兄奉レ詔奏�太上天皇�云々。飛鳥浄御原宮爾大八洲所知志聖乃天皇命云々。此乃舞乎始賜比造賜比伎」。こは天武天皇上下をとゝのへ和らげむために作らせ給へるに也。孝謙天皇いまだ皇太子にして、五月にみづから舞せ給へば、其頃までして定れる事なかりける歟。『本朝月令』に、「天武天皇吉野宮にて、天女五度袖をかへして舞へるをみそなはせしに起れり」といふ事いとおぼつかなし」(因に云、五節にびんだゝらといふうたひものあり。『公事根源』、「五節帳台試の下に乱舞あり。びんだゝらなどうたふ」。『万葉緯』巻十九、郢曲五節帳台試事の条、「比牟多々良乎阿由加世婆古曾由加勢古曾阿以支也宇川以多礼古止宇号早鬢多々良」とあり。多々良は下垂の義歟。阿由加すはゆるがす也。垂たる兵(正しくは髟)髪をゆるがせば、愛嬌付てみゆとなるべし。これを『今昔物語』に、五節奉る尾張守なる者、内わたりの事を露しらぬものなれば、殿上人達いひ合せて、例年ある事をこの度新たに作り出たるやうにいひて、守なる翁を欺き笑はむとて、其歌をあらぬさまにいひ聞せなどする処、「鬢だゝらといふは、守の主の毛清く、兵(髟)の落たるを、かゝる鬢だゝらして五節所に若き女房の中に交りて居給たるを歌はむずる也。あゆかせばこそ愛敬付たれとは、守の後向ひ歩せ給ふが、*やうなるを歌はむずる也云々」あり)。

○田楽のびんざゝらは拍板なり。『文安田楽記』に、「田楽先、中門口ビンザゝラ菊阿弥笛玉阿弥(着花笠高足駄ヲハク)」とあり。『洛陽田楽記』には、「編木」とありて「ヒンサゝラ」と訓じたり。ヒンとは編字の訛音にや。サゝラは其器の鳴音をもて名とせしと聞ゆ。その形古画にあり。『栄花物語』に、「さゝらといふものつき」といひ、『今昔物語』に、「高拍子突」ともいへるは、かの手玉にとることなるべければ、此さゝらとばかりいへるは(細く長き物に多くきざみ付たるにや)、ビンザゝラには有べからず。高拍子は拍子木なるべし(『一代男』七、「阿部河をわたれば、ひがしの方にびんざゝらにのせて、こずにまたすか今のうらみ、とうたひしは、爰のけいせい町とや云々」いへるは、今もいせ比丘尼が手に握る小き物にや)。中門口といへるは、『職人尽』の歌に、「田楽のちうもんぐちの透れんじのぞくぞ月の細めなりける」。是は内の中門口をいふ也。其辺に参るもの故ならん。舞まひを縁のもの、猿楽を庭のものなどいふ例なるべし。

白拍子とは、もと拍子の名なるが、やがて歌舞の名となりたる也。『甘露寺職人歌合』に、白拍子、曲舞まひとつがひたり。白拍子の歌、「忘れ行人もむかしのをとこ舞くるしかりける恋のせめかな」。『鎌倉職人尽』にも白拍子あり。「秋の思ひ一こゑにてもかぞへばや月みることのつもる夜ごろを」。白拍子はかぞふるものにや(かぞへ歌なるべし)。『長門本平家物語』にも、「白拍子かぞへて」と有(今も春日若宮の神楽、翁の歌に「シラ拍子、ラン拍子」といふこと有とぞ)。男舞とは、『徒然草』に、「多久助が申けるは、通憲入道、舞の手の中に興ある事共をあらびて、磯の禅師といひける女にをしへてまはせけり。白き水干にさうまきをさゝせ、烏帽子をひき入たりければ、男舞とぞいひける。禅師がむすめ、しづかといひける、此芸をつげり。是白拍子の根源也(『源平盛衰記』には、「島千歳・若の前に始る」といへり)。其後源光行おほくの事を作れり。後鳥羽院の御作もあり。亀菊に教させ給ひけるとぞ」。是漢土の剣器に似たるもの歟。『文献通考』舞部に、「剣器古舞之曲名、其舞用�女伎�、雄装空手而舞」。これを『天禄識余』にも、「杜子美公孫大娘、舞�剣器�歌指�武舞�而言、或以�剣器�為�刀剣�誤也」といへり。白拍子を歌舞するさま、『続古事談』に、「妙音院相国云、白拍子といふ舞あり、其曲を聞ば五音の中には商の音なり。此音は亡国の音也。舞のすがたをみれば、立周り空をあふぎて立り。白拍子、後世にもみゆれど、其余流なりや否をしらず。声容は絶て、たゞその名ばかりなるべし。『甲陽軍鑑』、上杉家の事をいふ条に、「其頃こうきり・しやうきり・松きり・藤きり・桜きりとて五人の白拍子の下に、いたいけ美人・しづさと美人などゝて七、八十人もあり云々。五人の白拍子のこてわき・菊夜叉・桔梗・花・おしまなどゝいふ女共云々」あり。『塩尻』に、「武州熊谷の西新堀といふ里に、古より舞女あり。上にもめされ伝馬を賜り、東都に出、その行装驕れる躰大家の婦人の如し。対の挟箱・長刀を先にたて、鑓もたせたる者を供とす(是はその夫なり)。其名を代々桐大蔵と称し富者也。梨園の少年及戯芸者数多扶持し、戯場を開き利を得侍るにや」といへり。彼こうきり等が末なるべし。江戸にめされしといふは、いつ頃の事歟(ひそかに思ふに、御三代の頃、踊を好ませられしとなれば、其頃にてもあるにや。其後いかゞなりけるか。女舞を禁止の事有し後は零落せしなるべし。天明四年甲辰六月廿六日、葺屋町狂言座羽左衛門、借財多きによりて休座致し、桐大内蔵、当時桐長桐名題にて、歌舞妓芝居興行仕度願出、同十月十八日、桐長桐後見昌甫、仮芝居興行願之通被仰付、此後度々羽左衛門休みては、桐長桐名題を以仮芝居興行の事あり。○『家譜』に、「元祖幸若与太夫女子長桐ー犬桐ー坂桐ー桐大内蔵ー千桐ー大内蔵ー桐長桐、元祖より天明四年に至りて二百十五年」といへり)。

曲舞まひは『職人尽』をみるに女なり。後世大頭と称するもの是なるべし。或は大柏とも呼といへるは誤なり。又、大頭・幸若を二派とすといへり。大頭といふことは、『甘露寺職人歌合』廿五番盲の歌に、「いかにしてさのみたつ名を大つゞみかしらうつ迄恋しかるらむ、判詞云、大鼓にかしらうつといふこと侍にや云々」見ゆ。是によて大頭とはいひしなるべし(延年舞にも白拍子・大頭など見えたり)。是も、もと拍子の名なれば、幸若もすべていひしにはあらざる歟。『尤草子』に、「舞の頭は大頭、越前のこうわか」といへるは、二派をいひしことゝも聞えず。もし二派をいはゞ、先幸若をいふべきにや。又、幸若のみ住国をいへるもいかにぞや、されば、これは幸若一人をいふと聞ゆ。『醒睡笑』などに、舞まひの事往々出たる。皆大頭といへり。又、古く幸若舞ともいへり。『応仁別記』、「云々、石見が討れしは、三条殿にて幸若舞ありて、人々群集して帰るさに、辻切のやうに討れし」とあり。『猿楽伝記』巻一、「後鳥羽院の御時、亀菊といふ妓女、其始にして、妓王・妓女・仏御前等皆白拍子遊君也。桃井幸若丸叡山の児童として有しが、其舞の文段を居ながら吟声を付て語る、是賤しからず、面白と流石なる人もならびうたふより、今の幸若の舞といふもの世に広まり、立ての舞、又笛鼓の鳴物も止たり」といへり。此説非なり。先其始を白拍子とす。幸若がうたふ処の軍ものがたりなど、白拍子がうたひし物とおもふにや。笛はもとより、舞まひは用ひざるもの也。又、立て舞はぬものといふも、いかゞあるべき。うたひものばかりならむには、もとより舞とはいふべからず。おもふに、其始、うたひものゝ処々を、聊づゝまふことゝなりて、次第に舞はすなくなれるにや。されども、舞といふもの故に、『醒睡笑』などにも、「うたふとはいはず、皆舞」といへり。又『武林録』巻六、「前田何がし、松風といふ名馬をもてり、馬取腰にえぼしを付、路にて誰の馬ぞとたづぬる者あれば、馬はその儘えぼしをかぶり、足拍子をふみ、この鹿毛と申するは、あかいちよつかいかは袴いばらかくれの鉄兜、鶏のとつかさ立えぼし、何がし慶次が馬にて候と、幸若を舞てとほりける云々」。是にても舞ふこと知べし。『雍州府志』に、「幸若自称桃井直常之裔、代々領�公方家之録�、其舞詞は戦場の事、盛衰の変、恋慕の情種々三十番あり。其後に出きたるを新曲と号す(今書籍目録を考ふるに三十六番外に五番有)。曲節・音声、猿楽と大同小異也。大夫の左右に二人あり。連といひ脇といふ。大小の鼓を用」といへり。『兵家茶話』巻十一、幸若家説を引て云、「越前幸若は八幡太郎義家後裔、桃井宮内少輔直詮、童名幸若丸といふ。これより相続て、幸若八郎九郎、三家共に舞曲を業とす(此下系譜を載たり)。延宝五年、先祖之義御尋、家伝之趣、松平因幡守・石川美作守に相達、此節、胄前立物奉レ窺之処、旗本並に可レ仕旨也。御前にて音曲申候節、半上下にて相勤、御紋時服拝領故不レ憚�着用�也」といへり。舞の詞は大かた、『義経記』『曾我物語』同時のものとみゆ。取用ひて証とすべき事多し。『旅宿問答』(これは、ある神職の大夫と天台宗の僧と問答の書、永正四年にしるしたりとぞ)、「ある説には多武峯に源喩僧正とて、宏才有智の貴僧御座、此僧正、保元・平治、源義賢と義平との一乱を作り出し給ふ。然るを勘解由小路烏丸に、久児若といふ因縁舞の上手、この由を聞及び、多武峯に登り、源喩僧正にかの双紙を申給はり、種々の曲節を付。先づ大納言藤原経実卿にて申レ之、此卿は主上(二条院)内祖父也。経実卿天奏有て権大夫に任云々」(この書中を按るに、因縁舞といへるは説教師のことをいふに似たり。すべて妄説甚しき物ながら是等は拠あるにや)。其他『舞の双紙』も、「幸若は叡山の童子なれば山の僧徒の作なるべし」。『雍州府志』、舞々二派の事をいふに、「中古桃井氏之童、為�小児�、在�比叡山�、岩松家童亦然、是称�幸若丸�。両童共在�山門�、為レ慰�寺僧�作�舞曲�唱レ之、是称�幸若流�。両童共在�山門�、為レ慰�寺僧�作�舞曲�唱レ之、是称�幸若流�。又有�一家�、其家紋大柏葉二枚相並、依レ之其一流称�大柏流�。至レ今有�両派�、今称�大頭�誤�大柏�者乎」。この説、文章のわろき故のみにあらず。その意聞えがたし。桃井・岩松両家の児、共に幸若とはいふべからず。又、大柏の説、捧腹せらる(前にいへる女舞、桐大蔵は、本姓は岩松氏といへれば、是も幸若より出しものか)。『醒睡笑』に、「越中には舞々瀾座・漣座とて二方あり」などもみえたり。又、「大頭勧進舞のワキに笠屋、ツレに池淵といふものなりしが、折ふしわるう雨ふりしに、雨ふらば笠やをきせよ大かしらこゝもかしこも池ふちとなる」。後、女舞に笠屋といふものあるは、これの後か。『春台独語』に、「寛文・延宝の頃迄は、諸侯貴人の宴饗にも、幸若の舞を用ひて、心をなぐさめ、酒をもすゝめけるに、元禄頃より猿楽盛りになりて、幸若舞廃れたり」。『昔々物語』に、「昔は歴々振廻の節、謡うたひか幸若をよび、膳後座敷へ出、尤麻上下云々」。また別条に、「昔は幸若舞はやり、振廻の節は、幸若八郎九郎、其外、伝左衛門・市右衛門とて、数十人有之、座敷へ出て一礼有之、客も御太儀と一礼済て、何ぞ承り度と所望有之時、何かと舞一流れもの、たとへば、太職冠・清祐・新曲・敦盛と、さま/\〃番数を伺ひ極めて舞、仕廻へば客へ暇乞なしに帰る。其時又所望あれば少し休み、小舞にても中舞にても、今少し承度とあれば、不レ帰に相待。近年は絶てこれなし」といへり(今も柳川の藩中などにては常にうたふこと也。音声少し万歳に似たり。詞は近ごろ見せ物に出たる神事舞の如し)。『莚響録』に、「大頭を獅子舞の事」とおもへるはいとをかし。観場に出し女舞・男舞のことは下にいふべし)。

猿楽は、もと散楽の仮字なり(散楽は、『荘子』に散木とある散字の如く、散人・散在の散も同意にて、正躰なき意なり)。『三代実録』、「貞観三年六月廿八日云々。有�雑伎散楽、透撞、呪擲云々之戯�」とみえ、又、『同紀』、「元慶四年庚子秋七月廿九日辛巳晦、島滸人近之内蔵富継、長尾米継、伎善�散楽�令�人大笑�」。その後、村上天皇御製の『散楽策』にも、「島滸来朝而有�解頤之観�」と書せ給ふ。『新猿楽記』に、「猿楽之態鳴許(元字は口篇)之詞」とあり。彼是ともに誤にて鳴滸と書べし。『後漢書』南蛮伝に「烏滸人」とあり、是なるべし。『源氏物語』等のかな文には、散楽をさるがうといへり。故に、『江家次第』には「散更」とも書たり。又、『枕双紙』に、「つれ/\〃なぐさむるもの、をとこのうち、さるがひものよくいふふがきたる云々」。さるがひ、さるがう也。人を咲はす事するをさるがうといふ。『今昔物語』に、「俊平入道がもとにて、女房共庚申しける夜、俊平の弟入道君、かた角に居たりけるを、女房共寝ぶたがりて云やう、入道君、人々咲ぬべからむ物語し給へといふ処、咲はむとだにあらば、咲はし奉らむかしと云ければ、女房は否不レ為、只咲はさむとあるは、猿楽をし給ふか、其は物語にも増る事にてこそあらめ」。又、『同書』に、「世の人、上も下も由无からむ虚して、猿楽に然様ならむ悪き戯れ事は可止云々」。又、『宇治拾遺』(『十訓抄』にも出)、「陪従家綱・行綱兄弟が猿楽の物がたりをみるに、その時に臨みて何にても興あるわざする」とみえたり(今にていはゞ、にはか、茶ばんといふものゝ如し)。又、さばかりにもあらで古き曲もありし。『散楽策』に、「所レ謂船太新靺鞨魚丸世羅国世称�妙舞�」。また、『新猿楽記』、「形勾当之面現、早職事之皮笛、目舞之翁体、巫遊之気装貌、京童之虚左礼、東人之初京上」。なほあまた載たり。『源平盛衰記』にも、「猿楽と申はおかしき事をいひつゞけて人を咲はかし侍るぞかし」といへり。『春湊浪語』に、「文献通考に散楽雑戯多幻術、皆出西域」と見えし。然るに『翰林胡蘆集』(明応の頃僧宜竹が撰也)、「猿楽、もと申楽と書て、其始推古天皇の御時、秦川勝、神楽によりて作り出せし故に、神字を分ちて申楽と名付」と見えたり。是は猿楽の家に伝へたることを聞て書るにや。古書に申楽と書しこと更に見えず(按るに、『本朝通記』にも、「川勝奏�神楽�、当�此時�、以�後代翁舞�名�神楽�、爾後俗間有�可レ祝事�、則致�神楽�、然鄙人恐�神楽之名�、更以�神字�換�申字�、業�其芸�者、遂称�猿楽�」。)根源いやしき業なる故に、『順徳帝の御抄』には、「猿楽のごとき、庭上に参ることを止むべし」と書せ給ひ、『明月記』には、「下衆猿楽を召るゝ、先々此事なし。仍只侍猿楽を可召」といふ事見えたり。下衆猿楽とは其家をたてたる猿楽也。今も同例にて朝廷へ参ることなしとぞ。寛喜の頃より後、散楽衰へ、北条執権の末、京都将軍の初までは、田楽のみ世に聞えて、猿楽のさたはなかりしが、「貞和五年に、四条の橋を渡さんとて、新座・本座の田楽能くらべをせし時に、始て、日吉山王の示現なりとて、猿面を着せし猿楽を舞出せし」と、『太平記』に見えし。是より又田楽は衰へ、猿楽盛に行はる。その後様々の事作り添て、謡といひ、能といふ事に成し、古雅なる事はなく、散楽といひし時の残ると見ゆること更になし。是貞和以来作り出せし故なるべし。『職人尽歌合』に、猿楽又曲舞まひといふものゝ歌、また、判詞をみるに、今の狂言といふは、貞和已前の猿楽といふものなるが如し。昔の猿楽、今の狂言に転ぜし事ある歟(均庭云、『職人尽』、猿楽又曲舞まひの歌、判詞ともに古き猿楽とおぼしき事も見えず。猿楽の画は今の翁舞のかたなり。もとの猿楽は今の狂言のごとしといふに、別に証を求るにも及ばざるべし)。寛正の頃、興行ありし猿楽能の謡の名に、「出雲、十柄、鶴次郎、打入曾我、梶原二度のかけ、星宮」など書しもの有。今の『内外二百番』といふには見えず。今その名の転じたる歟、廃れたるかしらずといへり。按るに、今『二百番』の『外百番』の謡曲に似たるものあり。『十柄』は『大蛇』といふがあり。『二度のかけ』は『梶原座論』にや。『伏木曾我』は『打入曾我』なるべし。外題の昔と替りたる物とみゆ。其謡曲ども見て知べし。其他もあらめどいまだ覚悟せず。能といふ事も古くみゆ。『西宮記』相撲条に、「相撲了能優一番」とあり。田楽などをいふ也。さるを『玉勝間』に是を引て、「此能字は音態なるべきに、のうといふは昔より誤れるにや」といへり。これは態芸の義にあらず、堪能の意なり。番謡の能は、東山殿の頃より始れり。是は笑ふべきこと更になければ、猿楽の本意に背けり。『安斎漫筆』に、「諷は足利の代に作りたるものとおもはるゝは、鉢木・藤永・檀風など北条の代まではあれども、足利の代に至りては憚りて作らず」といへり。『猿楽伝記』は、妄説多き物ながら、又取べき事もあるべし。謡曲作者のことをいふ処、「むかし、村上帝の御文庫に納め置給ひし十六章の謡物の次第を、叡聞に達し置しを思召出され、是謡舞べきもの也と、上代よりの楽人の頭人たる、大和の円満が家のものに賜ふを以て、音曲の鳴物を添て、今の能を仕初たり云々。その十六章の謡物、今の曲舞也。一芭蕉、二東北、三源氏供養、四錦木、五何、六七八九十何々と、十六曲有しを、円満が是を始てより前に作次第の文段を添、跡に論議、切り謡迄の文句を足し、今うたふ処の一番となる云々」。又云、「一休和尚、山姥・山口を作、観世家にて遊行柳出来、朝鮮陣の時、肥前名古屋の御陣城にて、芳野詣・高野詣・明智等の五番、大閤の御慰能として出来たり。羽衣は、○駿府に御座の時出来、角田川は関東御入国の後、彼地の遊民、夫婦して舞に似たる座敷芸を世渡とせし者、し初たるよし也」(上にいへる十六章の謡ものとは、曲舞まひなどのうたへるものにや。それを上より賜はりしなど飾りていへるなるべし)。又、加藤磐斎が『諷増抄』巻一、「諷の作は四座の大夫の作りて、当座々々に能にしたる也。よき人の御作などもある也」といひて、此下に、「大永四年、吉田蔵人為将といふ人、安東典厩之所望によりて、観世弥次郎長俊が物語の趣注置たるを調進す」と奥書ありて、謡の作者を注せる文を載。その作者といふは、大かたふしはかせを付たるをいふ也。其内文句を作れる人を記したるは、「狭衣常盤(三条西殿御作)、喜界(竹田法印宗盛作)、浮舟(細川弘源寺作)、住吉(音阿弥作)、槿(小田垣能登守作)、夕皃上(内藤藤左衛門作、後に河内守と云)、俊成忠度(同作)、木玉浮舟(同作)、吉備津宮(善徳作)、源氏供養(河上神主作、和州十二大夫先祖)、朝比奈(同作)、文覚(同作)、小手巻(同作)」とあり。又、『世ノ子六十已後猿楽談義』といへるものにも謡曲作者のこと、あら/\みゆ。今の猿楽、もとは観世・金春の両座なりしが、近世さかりに行はるゝから、観世より保生分れ、金春より金剛分れて、是を四座の猿楽といふ(暮松大夫がことは神田神事能の処にいふ)。

○大蔵は猿楽狂言の本家とかや。『堺鑑』に、「釣狐寺、南荘少林寺塔頭、永徳年中に耕雲庵といふあり。其住僧を伯蔵主といへり。鎮主の稲荷明神を信仰して、毎に法施不レ怠、或時神感応ありて、森の中に三足の野狐あり、抱帰て養愛す。此狐に霊有達随�仕用�、追�賊難�事あり。其孫々三足にして今に至て寺内に住す。稲荷霊験新なり。世に云伝ふ、釣狐の狂言、又吼歳(元字は口篇)ともいへる、此寺より起れり云々。其時大蔵某狂言に作りしを、彼狐感じ、老翁に化して狂言を見て、猶野狐の骨髄動を口転せしと也。誠に狂言綺語とは云ながら、道に達しぬれば、如是奇特有ことにや。尤家の大事とする狂言也」といへる。誠に俗説なるべし。大蔵弥左衛門虎明が『昔物語』(慶安四年の記なり)、「予が家は狂言の根元なり云々。鷺はもと名字長命也。今の長命次郎大夫は、祖父の子かたになりて名字をもらふ。鷺といへるは、仁右衛門親、摂津国磯島といふ在所に住し、生れ付首長くして水辺に住ほどにとて、異名に付し名也。仁右衛門親は下手にて、わかくして親にはなれしを、三之丞(伯父也)取立しこと、近き頃迄人の知りし事也。それを我家などゝいはむは、かたはらいたき事也と、次郎大夫度々申されし。我又、今の次郎大夫を仁右衛門親かたといはれしを、直談に聞し。されば、鷺の名字四座になし。是今人の知たる事なれ共、世へだゝりては知る人あらじ」。又云、「鷺の笛狂言神楽同かつこ笛の習といひならはせども、鷺は能に有て、狂言には舞なし。然るを、仁右衛門親、鷺舞をまひしとて、それより鷺といふと、知らぬものはいへど、さにはあらず。前にいふ如く、さやうの名をとるべき人にてはなし云々」有。其外家のことをさま/\〃いひたれども、釣狐のことさたもなきは、世に伝ふる処、妄説なるを知べし。狐の猿楽古くもありと見えて、『新猿楽記』に、「氷上専当之取袴」といふこと見えたり(其書下文に専字タウメと訓り。こゝの当字恐らくは女字の誤なるべし)。こは狐が氷をわたる学びなるべし。狂言、いにしへの猿楽に近しといへども、もと下衆猿楽にて、さふらひ猿楽とは異なり。

延年は僧家の舞と見えたり。白拍子・大頭などいふことも、此内に出。『円光大師伝』九巻、「文治四年九月、後白河法皇、如法経奉納の為に、首楞厳院に臨幸あり云々。食堂にして御装束改めらるゝ、此間衆徒庭上に群参して、延年種々の芸をほどこす云々」あり。此処の絵に、童子扇を持て舞、烏帽子着たる男二人、突拍子と鼓をうてり。芝生のめぐり、衆徒あまた居、其うしろに、僧俗混じて見物するさま也。『著聞集』十六、「建長四年維摩会の延年に、児白拍子のれうに、春日の社の神人季綱を、つゞみ打に召具したりけり。此ころより男鼓うちあしとて、大衆うつことになりにける云々」有。もとより僧家の舞ながら、此に至りて全く僧侶の伎となれり。『円光大師行状翼賛』云、「大抵此場、方三十間許芝をたゝんで縁とす。承仕等の者、甲兵を帯し、異形の小童に床机をもたせ来て、腰打かけて、芝居を囲む中に、狩衣着たる児をならべ、其中央にして舞、其芸さま/\〃なる中に(夫催・床掃・僉儀・払露・仮屋米中倶舎)、乱舞遊僧とて、色々の装束きたる法師のわざ也(糸綸・韓神[児童のわざ]・朗詠・白拍子・開口・当ノ井・伽陀・連事・児催・風流・大頭・相乱拍子・退去ノ楽)」とあり。『塩尻』に、「太平記に、猿楽は佳例延年の法なりとあるは、延年の舞とて、舞楽の時、最初にある儀なり。是を露払とも呼、今南都薬師寺の僧坊に伝へて、いづくにても催あれば、彼寺の僧往てつとむ。昔は貴介の家にて時々ありしにや。東鑑に承元五年正月五日、御前の酒盛に及て延年等ありしを記せり。これ古の散楽にして、今の猿楽也。是より事起り、足利家の時に式定り侍るにや」といへり。舞楽の時、最初にある儀なりとは、僧家に舞楽ある時の儀なるべし。又、露払はその間の一事にて、なべての名にはあらず。是を古の散楽也といへるもわろし。今の猿楽の始といへるは、さもあらむか。『太平記』に、「佳例延年の法」とあるは、延年舞の事にはあらじ。『庭訓往来』二月条、「詩歌管弦者遐齢延年方也」とある遐齢の字を、佳例と誤れる也。舞も此意にて、心を楽ましめ、年齢を延るの名にて、何にまれいふべき事也。また、『旅宿問答』に、「久児若といふ者因縁舞の上手」とあるは、説教師をいふに似たれど、名は延年舞を誤りしやう也。延年舞、今も日光山御神事にあり(僧侶袈裟をかぶりて舞へり)。

踏歌は漢土に倣ひしなるべし。『唐書礼楽志』に、「有�葱(元字は草冠にタを口で囲み下に心)嶺西曲�、士女蹌(元字は足篇に合の下に羽)歌為レ隊」。また、『劉賓客嘉話録』に云、「踏揺娘曲乃踏レ身而歌、因名�踏揺娘�。唐閣知微与�突厥�黙啜、連レ手踏�万歳楽于城下�」など、彼国の書にはあまた見えたり(『文献通考』百四十八巻、「三韓其俗言�鬼神�、常以�五月�祭レ之、昼夜群飲鼓レ瑟、歌舞踏レ地為レ節、十月農功畢亦如レ之」。これ又似たる事也)。『源氏物語』初音巻、『花鳥余情』に、「正月十六日の節会をば女踏歌といふ。舞妓すゝみ出る故也。男踏歌は十四日にあり。殿上・地下の四位以下の輩、しかるべき所々をめぐりて、催馬楽をうたひ舞かなづる事あり。是はむかし正月十四、五日に、京中の遊士、月に乗じてあなたこなたをめぐりて、うたひ舞しより事起れり。末の代に、千秋万歳といひて、逸興を催すことあるは、これらの余風也。円融院天元六年正月、男踏歌ありし。其後は記録などにも所見なし。その儀式は西宮記といふ書に見えたり云々」。『年中行事歌合』に、「ひかる源氏の物語にも、男踏歌の事を多くは申侍り。大かた都の遊女の声よく物うたふをめして、年の初の祝ひの詞を作りて、舞をまはせられける也」と有。『和訓栞』に、「あらればしり、踏歌をいふ。持統紀にみゆ云々。聖武紀、天平元年・同十四年に此事あり。釈日本紀に、此歌曲之終必重�称万年阿良礼�、今改云�万歳楽�。あられは可レ有といふ音便也といへり」。天平十四年のことは田舞の処に引り。其時の歌の下句に、「つかへまつらむ万代までに」とありしが、後世万歳となりたる也。また万歳楽は楽曲にあり。あられといひかへたるは楽曲の名にも拠しなるべし(『隣女晤言』に、「踏歌の起りは、唐叡宗正月十六日より五日の間、女踏歌をせられたる事あり。それをならへるなるべし」と云り。此事何に拠れるか)。

○万歳はもと千秋万歳といふ。『古今著聞集』十六、「知足院殿、大とのとておはしましける、侍を御勘当ありけるには、千秋万歳をもちてはやさせて、其侍をまはせられけり。さる御勘当やは有べき」。『新猿楽記』に、「千秋万歳之酒祷」とみゆ。『三十二番職人歌合』、千秋万歳、法師白き装束して、鳥冠を着、手に扇を持てまふ。鼓うつをのこは、あさぎの衣きて坐せり。其歌、「春のにはに千秋万歳いはふより花の木の根はさしさかへなむ、判詞云、千秋万歳の能作は、毎年正月の佳曲なれば、諸職諸道の最初に出て云々。立まへるせんすまん歳いづくにもけしきばかりのろくぞかひなき、判云、いづくにても気色ばかりの禄の乏少なる事をいへる、さぞとおしはからるゝに、袖かへす所を一をれけしきまひ給ふ」とある詞つき、ふと思ひ出て、猶優に聞ゆるにや。『続古事談』、「大饗の鷹飼は、中門のおもて、幔門本にて鷹はすうる也。東三条は、中門より幔門のもと迄はるかにとをし。下毛野二文といふ鷹かひ、西の中門より鷹すえてあゆみ入たりけるを、上達部の座よりあらはに見えけるに、錦のぼうししたるもの、手をむなしくてあゆみきければ、人々千秋万歳のいるは何ごとぞとわらひけり。その後、中門のとにて鷹をすえてゐるなり」とあり。鷹飼は錦の帽子きるものなれば、千秋万歳が鳥かぶと着たるに似しを笑ひける也。千秋万歳も法師の業なりしは田楽のごとし。田楽にも是を取れるにや。『文安田楽能記』に、「立逢(飯阿愛阿寵阿全阿也)揚�万歳声�瓢レ袖事良久」といへるは、『職人尽』の判詞にいへる趣也。『御ゆどのゝうへの日記』に、「元亀三年正月五日、きたばたけのせんずまんざい三人まいる」ともあれば、人数は定まらぬなるべし。北畠は洛陽二条より北にて、その間三町也。後は京師には万歳居らずと見えて、『滑稽雑談』に、「万歳は南都の西南相去ること三里許に窪田・箸尾の両村あり。こゝより出る故に窪田・箸尾の二流あり」。『人倫訓蒙図彙』に、「此流諸国にあり。京に出るは大和より出、中国は美濃より出、東へは三河より出る也」といへり。一説に、今正月に三河の万歳とて素襖・えぼしにて祝語をとなふるもの大江定基より起るといひ、万歳作太郎毎年東都に至り、正月十一日勤仕す。其初尾州白井郡長母寺の開山無住、其詞を作りて、愛智郡印内村の民に教へしとかや。さもあるべけれど、そは万歳てふものゝ起原にはあらず。『日次紀事』、「正月五日禁裏木造始、此日千秋万歳并猿舞、東御庭来云々、故に此早歌に柱かぞへる事をいふ」とみゆ。その唄処々にて異なりとぞ。其内上がた小歌、『糸の時雨』などに万歳になむ。その唱歌に、「やしよめ/\京の町のやしよめ、うつたるものはなに/\、大鯛・小だひ・ぶりの大うを・あはび・さゞゐ・はまぐりこ、そこを打過、そばだなみたれはきんらん鈍子云々」。此小歌、『大麻』、また、『松の葉』などにも載せざるは、近く作りたるにや。されど、万歳がかゝることをうたへるは、そのかみよりのことゝ見えて、『寛永の発句帳』に、「万歳楽まづ売そめや京の町」。また『西武が百韻』に、「六百は堺の町のとりやりに、蛤こんと売やすみよし」。自注に、「万歳楽に、百なら御ざれ、はした物は売ぬもの、蛤こんとうたふ也。住吉は浜ぐりのえんにいふ也」と有。下ざまの家にゆきては似合しき事をうたひしなるばし。『醒睡笑』に、祝ひ過るもいな物といふ条、「春の初の朝より、千秋万歳とも、鳥追ともいふが、家ごとにありきて、慶賀をうたふに、千町万町の鳥追が参たといふて、或門の内へ入らむとして犬に咋つかれ、あらたのしやといふをおたさにあらかなしや」といへる咄あり。かゝれば、鳥追も、もと万歳が農事をうたひしより起れる也(鳥追は下にいふ)。或人語りけるは、「周防国山口に覚定といふもの有、毎歳元旦に国主の城門に参る。此時門をひらくを嘉例とし、それより諸人出入す。祝詞を唱ふる事、千秋万歳に似たれども、やうかはれり。其服水干に鳥かぶとを着る。士庶の家にも至りて此事をなす」といへり。是千秋万歳の古風残りたる也。覚定といへるは、そのかみさる名の万歳法師にてありしが、後々も其名を継たるにこそ。

をどり

をどりは踏歌を始とすべき歟。しかしながら、その説、後世よりさかのぼりて、似つかはしき事をとりていふにやあらむ。古は舞といふより外に名もあらず。但し、踊躍を、をどりといふはもとよりなれど、一つのわざの名となりしは後の事也。『季瓊日録』に、「寛正甲申六月十四日、祇園祭礼、北畠跳戈歌舞加賀舞参、御所旧例也」。また此事は、『尺素往来』、「祇園御霊会云々、処々跳鉾」とみゆ。おもふに、舞楽の振鉾などのやうに、鉾もちて跳れるにや(山鉾は祭祀の条にいへり)。是又、田楽なるべし。『猿楽狂言記正続拾遺』ともに、をどり念仏・盆踊の事往々見えたり。又、『二水記』、「永正十七年七月廿二日、見�躍拍物�、今夜勧修寺張行也。当年毎夜有�此事�、近年不�見聞�事也。倚�天下静謐之所為�歟」。しからば、盆躍といふこと、この頃より行はれし也。『空穂猿』といふ狂言に、「ひんだのをどりは一をどり」といふことあり。いづくにもをどりはあれど、是はことに名高きをどり也。三弦のふるき『組歌』に、「ひんだくみ ふねの中にはなにとおよるぞ、とまをしきねにかぢをまくらに、ひんだのをどりをひとをどり/\」。此たぐひの歌、五うた『大麻』に出。その内三うたには、ひんだのをどりといふ事なし(そのなきかたや、却て初の歌なるべし。その里にて歌ひ出し時、其里のをどりとはうたふまじ。このをどり行はれてより後、添たるひんだにや)。『懐橘談』(承応二年、出雲の紀行なり)、かぶきの歌に、「比太の横田の若苗とうとふも、みな出雲の国里の名にして、此国よりぞ初りける。又云、日田といふ処に日田神有。俗謡にいふ比太の横田也。横田は、古老伝て云、郷の中に田段許あり、形聊長し、遂に田に依て横田と云、横田明神あり」といへり。ひだといふべきを、ひんだといふは、真中をまんなかといふ類にて、唱歌の音便也。歌舞妓の歌にとあるはわろし。くにかぶきより以前にあること、猿楽狂言にても明らか也。

(略)

○灯籠をどりといふも念仏をどり也。『日次紀事』に云、「洛北岩倉花園両村の少年女子、各載�大灯籠�、聚�八幡社前�、男子撃�大鼓�、吹レ笛勧レ踊、是謂�灯籠踊�」。また『俳諧五節句』に、「花園踊(北山辺の在所也)、十五日の夜踊る。在処のよめ、置灯籠の尾のあるに、左右に絃なき弓のやうなる物あり、それを両の肱にかけ、腕におさへ、灯籠を頭に戴き、をどる。赤前垂する也。此灯籠を聟張て遣す。大方、年に三人ばかりは娵よぶ故踊る也(新婦あるをいふなり)。惣踊念仏にフシ有て其中に交る也。題目踊は山城松が崎と云在所也。十六日の夜、南無妙法蓮華経の七字にフシ付、男女一在所踊る。男は中をどり也。大鼓あり、廻向に頬かぶりとり腰をかゞむ。念仏踊は山城賀茂十六日の夜、南無阿み陀仏を唱る、声フシ松が崎の如し」といへり。仏号を唱へて踊ることは、『老人雑話』に、「遊行上人の始祖を一遍上人といふ。隆蘭渓に法を聞、歌学に勝れたり。それより今に至りて、其流を伝ふる者連歌をせり。或人、一遍上人を嘲りて、踊念仏をなすは、仏の踊躍歓喜といへる心なるべし。然れども、これのみにて成仏いぶかし、といひければ、和歌をもて答て云、はねば跳をどらば踊れ春駒ののりの道にははやきばかりぞ、是等の事書たる書一巻ありとぞ」。又、『東岸居士伝』に、「登�高座�説法、或撃�羯鼓�踊躍、或執レ扇舞」とあり(『膾余雑録』に、「自然居士は東岸居士之師也」といへり)。これらみな法を説てをどれりとぞ。

○はうさい念仏とて踊り狂へる念仏あり。『似せ物語』(寛永の冊子)、「おかし男、いとかじけおとろへて米銭もなかりけり。さるを、いな事をならひていざなふものにつきて、世中をすぎんと思ひて、出て踊らむとてかねなどかふて首にかけゝる。出てゆかむ心かるしとわらはれむよのはうさいを人のしらねば、をどらむと思ふ心の歌念仏ありき/\も申ぬる哉」。『卜養狂歌集』、「ある人、はうさい念仏を画にかきて、歌よめといふ、人はみな西方とこそ願ひしにさかさまごとぞはうさい念仏」。古き『絵巻物』(松蘿館所蔵)、はうさい念仏のさまを写せる処あり。その文に、「扨もはうさい念仏とて、花を作りてかさにさし、大鼓・かねのひやうしをうち、踊りとびまはる姿をみる人おかしく、腹すぢをかゝへ、大ぜいこぞりて見侍りける。是わたくしに踊るにあらず。むかし、ひたちの国にたつとき僧一人おはしける。その名をほうさいとぞ申しける。我すむ寺、はそんいたしければ、弟子あまた引いれ、太鼓・かねのひやうしをそろへ、をどり念仏をくはだて、はんじやうの処へ踊り出て、一銭半銭の勧進を得て、堂塔がらんを建立し給ふとかや。されば、今末代に至てほうさい念仏と名付、太鼓・かねをたゝき、おもしろくをどりければ、おさあひは申に及ばず、老たるも若きも我さきとこぞり出、これを見、勧進を入ければ、おもひの儘に米銭をまつべ、破れたる堂寺、そこねたる橋までを建立をなし、其所はんじやうすると申ける」と有て、其絵、塗笠に花唐草の如き物を付、笠の縁にきぬを垂たり。服はたちつけを着て、二人は頸に太鼓をかけ、四人は鉦に緒を付て手に持、打鳴す撥を空へなげあげなどす。一人は朸にて蒲簀を担ひ、ひさくを持り。いづれも狂ひ踊るさまにて皆俗形なり。法師にあらず。此時むかしといひしはいつの程にかあらん。『そゞろ物語』、女歌舞妓の事をいふ処、「とりわけ猿若出て、色々様々の物まねする。はうさい念仏、猿廻し云々」。かゝれば、はうさいは慶長年中の事歟。又、『可笑記』(正保元年記)二巻、「むかしさる人云、狂人走れば不狂人もはしるといへる禅話あり。げにも/\、江戸上下の人々が、慶庵の、泡斎のと云狂人共が町々小路をかけ廻り云々」(慶庵のことは九の巻にいふ)。是は、かの狂ひ踊るをもて、発狂したる者に喩へていひし也。『世事談』に、「葛西の土人、鉦・太鼓に笛をまじへ、踊念仏にて江戸の大路を廻る。是を葛西念仏と云。泡斎といふことは、寛永の頃、泡斎といふ狂人の法師ありて、町小路を走る。童部集りて、気違よ泡斎よ、とはやせり。今もつてかくいふ事ありて、気違ひの名目となれり。此泡斎はやされて踊るかたち、異形にして人のわらひをかさねしむ。彼葛西念仏が踊る処一様ならず。左りへ飛あり。右へはねるあり。頭をうなだるれば、尻をふりて、おのがむき/\心々にして、定れる拍子もなく、たゞ物に狂ふがごとし。泡斎坊が踊るにひとし。よつて泡斎念仏と呼。誠に気違念仏踊ともいふべき也」といへり。泡斎を寛永の頃といへるは、伝聞の誤なるべし。扨、此説、前に引る古画の記文と異なれ共、これは関東の事なれば、沾凉が説然るべし。堂塔建立の説はたしかならず。何といふ寺とも聞えざるやうやあるべき。其後、此念仏廃れたれども、下総佐原のあたりには、今も年老たる者、家事を子孫に任せて、其身逸楽なるは、男は太鼓を打、女はをどりをならふ。年老ていと似げなき事也。おもふに、其始、葛西念仏の踊なりしが、いつの程よりか、あらぬ小歌をうたひ踊るなるべし。

(略)

歌舞妓

『日本後紀』、「桓武天皇延暦十八年秋七月己酉、停�伊勢斎宮新嘗会�、但以�歌舞妓�供�九月祭�」と有。そは、うたまひの伎をいへり。今の歌舞妓といふ名は、もとより古き字面によれるにあらず。且、伎はかゝず。妓とあるは其故あり。かぶきとは傾く義にて、傾国の舞なれば其意もて名付し也。これによりてや、そのかみ、世に諂らひ媚る者をかぶき者といひ、かぶき廻るなどいへり。又、今年春より女歌舞妓諸国に下る。是はお国と申大夫、出雲の者、佐渡へ渡り、京へ出、踊始る。諸人是を見物す。次第に能なり、諸国に女かぶきあり云々」。『恨之助草子』、「慶長九年の夏の末、かみの十日の事なれば、清水のまんどうとて、袖をつらねて都人云々。らんかんに腰をかけ、これよりすぐにとよ国へ。いざや我等は祇園どの。さては北野へいざ行て、くにがかぶきをみむといふ」(これ当時まのあたりに書る文也)。『杉田望一が千句』、「公方の前もおめむさほ姫、かぶきする春の都の町くだり」。『懐橘談』(承応二年紀行)、歌舞妓といへる事、「近き頃久仁といふ巫女が舞出したり。白拍子の類にや、此ころのかぶき、初めは僧衣を着て、鉦をうち、仏号を唱へて念仏踊といひしに、其後名古屋山三郎といふもの、久仁に刀をさゝせ、頭を包みて、早歌を教へ舞せければ、歌舞妓といふ(羅浮子と惺窩の物がたり此間に有)。彼かぶきの歌に、比太の横田の若苗とうとふも皆出雲の国里の名にして、此国よりぞ初りける。貴賤これを興ず。誠に鄭衛の驕惰浮靡の習ある国也。かゝる淫失(元字はサンズイ)の舞なれば、寛永年中にこれを制禁し給ふ。又、小童を女の形に出たゝせて舞侍る程に、いよ/\男色にふけりて淫風甚し。秦の符堅が時に、一雄復一雌、双飛で紫宮に入とうたひしも、実にもとぞ覚えし云々」(好古が『和事始』、懶斎が『睡余録』みなこの説によるに似たり)。羅浮、醒窩の物がたりは、『徒然草の野槌』に出たり。くにが夫、山三郎が事は、『見聞集』には、「慶長の頃ほひ、出雲国に小村三右衛門と云人のむすめに、くにといひて云々」といひ、『東海道名所記』には、「三十郎といへる狂言師を夫にまうけ」といへり。故に或人云、「父も夫も三もじを名に付たれば、それを後に聞ひがめて、名古屋山三郎に混へしにや。名古屋山三郎、或は三左衛門ともいひ、いづれか定かならず。くにはもと遊女なるよしなれば、彼をも是をも夫ととなへし歟。そはしるべからず」とて定めかねたり。遊女なるよしとは、『見聞集』に遊女と書たれば也。されどまことの遊女にもあらねば、幾人も夫といはむはいかゞなり。又後に「聞ひがめて」といへるも非なり。『東海道名所記』は承応二年の記なれば、万治より七、八年前に山三郎といひたれば、後とはいひがたし。されども『名所記』の作者了意は、当時世上の流行など心を入て知れる者と見ゆれば、余人のいへる処と異なるも拠あるにこそ。信景が『塩尻』に云、「森家の系譜を見しに、右中将兼武蔵守源忠政(可成五男)の子侍従忠広、母は名古屋山三(名古屋新蔵人高倍が子なり)妹」と記せり。山三は尾州古渡の人也。又、一条に記して云、「那古屋因幡守敦領が子山三郎、後九右衛門と云(母は織田刑部太輔の女)。山三郎、浪人の後、出雲神子くにと云女を具し、八幡にて女歌舞妓をなす」と云り(山三が父の名、両条各異也。定かならず)。そは沽らく置て、くにが夫の事、明らかに名をしるしたるは、『東海道名所記』のみにて、其外は夫を誰ともいはず。山三郎が事を『懐橘談』にいへるも、「くにに早歌を教へ舞せける」とのみにて、夫とはいはず。山三もとより風流のをのこなれば、かゝる者にも親しかりし事もあるべし。其故名の立しことも有けむかし。西鶴が『一代男』に、「色道二つに、寝ても覚ても夢助とかへ名よばれて、名古屋山、加賀の八などゝ、七つ紋のひしにくみして、身は酒にひたし云々」あり。加賀の八は何人なる歟しらず。七つ紋は七処紋なり。山三郎が紋は、『土佐浄るり』二段目に三つ巴とみゆ。ひしは伴左衛門が紋なり。院本のうへの事なれば、いかゞ有べき。

○また、『東海道名所記』に、「伝助が糸より、三十郎が狂言とて、京中これにうかされて見物す」と有。山東京伝、『歌舞妓事始』を引て、「昔辻々に出せる札の文に云、従�五月八日�於�北野�、名古屋山左衛門、在所糸捻女之所作成レ之、一覧念望之人須�来見�とあるにて、糸よりといへる、在所女の糸をよる躰をまねびたるさるがうとしられたり」といへり。こは彼『事始』に欺かれたる也。先山左衛門といふ名は覚束なき事、上にみゆるが如し。又、札を建るには、一座の頭たる大夫の名を書く事也。『そゞろ物語』、江戸に歌舞妓はやりことをいふ処、「中橋に、幾島丹後守かぶき有と高札を立」と見ゆ(是は遊女が名也)。北野に、くにが歌舞妓興行の時は、くには北野つしまの守と名乗しかば、札には此名を書べき事なり。『了意が記』に糸よりとあるを、さかしらに田舎ものゝ所作とし、札の文字を妄作したる也。糸よりは延年舞の所作なり。『円光大師行状翼賛』、延年の注に、「其芸さま/\〃なる中に云々。糸綸韓神(児童のわざ)」とあり。伝助これを伝へ習ひたる也。又招聘の文に「須来見」などいふべきにあらず。

○おくにかぶきの江戸に行はれしことあら/\記すべし。『そゞろ物語』(三浦浄心の『見聞集』五十二冊の内より抜出て、寛永十八年に開板の書也)、くにがことをいひて、「北野つしまの守と名付(『東海道名所記』に、「五条の東の橋づめにて、やゝ子をどりといふ事をいたせり。其後北野の社の東に舞台をこしらへ、念仏をどりに歌をまじへ」とある、其時の名と聞えたり。『翁草』に、「国が歌舞妓興行の芝居の地は、始め五条の橋の南に有しを、右の橋を只今の処へ掛かへらるゝに依て、其場処、御用地となり、芝居を四条宮川の西畔へ移されけるが、夫も秀吉公伏見より御参内御道筋に近く、憚り有とて、又今の東畔へ移されしとかや」といへり。おもふに、そのかみは後世の如くならず、芝居は竹がこひ、むしろばりなどにて、しばらく興行しては又他所に行しなり。○江戸にて興行は、『ある日記』に、「慶長十二丁未二月十三日、従�今日�於�御本丸与西御丸之間�、観世・金春勧進能あり云々。桟敷銭六十貫文有レ之。一人二十銭をとる。何れも永楽銭也。同月廿日、於先度之能之場処に、国といふかぶき女、勧進かぶきあり」とみえたり)。諸国の遊女そのかたちをまなび、一座の役者をそろへ(『雍州府志』に「凡能大夫・脇大夫・狂言大夫以下、笛・大小鼓・地謡こと/\〃く備る、これを一座といふ」とあり。一座の役者是也)、舞台を立置云々(『了意が記』に、「其時三味線はなかりき。かくて三十郎を夫にまうけ、伝助をかたらひ、三条縄手の東、祇園町の後に舞台を立、さま/\〃にまひをどる」といへり)。中にも名を得し遊女には、佐渡島正吉・村山左近・国本織部・北野小太夫・出来島長門守・杉山主殿・幾島丹後守などゝ名付、是等は一座のかしらにて、かぶきの和尚といへる也(『羅山文集』に、「佐渡島かぶきは、慶長十九年なり」。『了意の記』、「六条傾城町より、佐渡島といふもの、四条河原に舞台を立て能をいたす。脇もつれも地うたひも皆傾城共也ければ、謡は蚊の鳴やうにておかしかりければ、後には脇・地謡は男をやとひて出せり」と有。その頃、歴々の人迄も、これが為に放蕩なりければ、女かぶき止められ、なほ六条三筋町も追たてられて、西朱雀、今の島原に一廓を立、傾城、その外へ出る事を許さず)。佐渡島正吉といふ遊女、かみ方より江戸へ下る(いまだ上方にも盛なりし頃也。払はれしは江戸も同時成べし)。江戸繁昌故、三里四方は野も山も家お造り、寸土のあき間なし。然るに、東南の海ぎはによし原あり。色ごのみする京田舎の者ども、此よし原を見立、けいせい町を立むと、よしの刈あと、爰やかしこに家作りたりし(此もの語は慶長中の事にて、甚右衛門が開きしは再興なり)云々。能・かぶきの舞台を立おき、毎日ぶがくをなして是を見せける。此外勧進舞・蛛まひ・獅子舞・相撲・浄るり、色/\さま/\〃の遊びしてぞ興じける。これらの見物をかごとになし、僧俗老若貴賤、此町に来り群集す(すべてこれらの事、『洞房語園』板本・写本ともに載せず。おもひ見べし)。江戸よし原町にて、来三月五日、かつらぎ大夫かぶきをどり有と、日本橋に高札を立る(いづれの年ともしられねど、元和已前にてはあるなり)。貴賤群集し、見物す(此下に大夫かぶき踊りの事あり。文長ければ略レ之)。大小つゞみ・笛・大この役者は男也云々。弥兵衛善内が狂言の風情、取分猿若出て、色々の物まねするこそおかしけれ(猿若の事は後に出)。はうさい念仏・猿廻し・酒に酔・在郷の百姓・あらゆる物まね、扨もよく似たるものかな(此下、かつらぎ大夫、自然居士の能をしてあしかりければ、皇帝のかつらぎ大夫異名取し事あり)」。遊女ども江戸を払はるゝ条、「とかくかれらを江戸に置べからずと、女の数を改めらるゝに、和尚と号する遊女三十余人、其次の名を得る遊女百余人、みな悉く箱根・相坂をこし、西国へながし給ふ」(吉原の事は娼妓の条にいへり。○古屏風の絵に、四条河原かぶき芝居の小屋、やぐらの下に庵形の札あり。六条三筋町の傾城出て、かぶきするよしを書付たり。「定」とはしに書、正中に、「大夫 蔵人・市十郎・金作」、右に、「来ル八日より、於此処、六条中の町、又一大かぶき仕候」、左に、「御望みかた/\〃御見物可成被成候、卯月吉日」と有。やぐら幕の紋は、水に車なり。又一は、林又一郎なるべし。伏見の繁華こと変り、又一も六条に移りし頃なり。○高札も書やう此様なるべし、『歌舞妓事始』の妄作を知べし。○蔵人は、『西鶴大鑑』に、「大夫蔵人、お国が女かぶきも絶て、若衆を数多かゝへ云々」いへる蔵人なるべし)。

上み方は大芝居も座元永続せず。これに依て先、江戸芝居の事をいふべし。

(略)

おくに歌舞妓を学びて、遊女屋ども皆歌舞妓をなす。是を大歌舞妓と云。此かぶき停止となりしかば、又、美少年を多くかゝへて舞踊らしむ。男風行はるゝ世なれば、是又制止ありて、前髪を剃らしむ。此若衆かぶきは、間もなく右の如くなりし故か、其時の絵も多からず。前髪を落して野郎と呼。これ初め也。此詞はもと薩摩より出、かゝる者を野郎と呼ときは、いと賤き名なるを、ひろくなべての人を自他共に野郎といひて恥ざる事となれり。いとあるまじき事也。『似せ物がたり』に、「おかし男有けり。うたひはうたはざりけれど、よの中の小歌を知たり。かぶきする若衆の座にありて云々。姉なる女のもとに、子息なりける男よみてやりける。驚破とて雲にはのらぬ舞なれどよの歌よりはよくぞあるてふ、となむいひやりける。左門がをどりなり」(そのかみは、役者小歌をうたふ事を専とし、みづからうたひて舞ける也。『夷曲集』に、「かぶき若衆小金といふ者、小歌の音頭上手なりしを、以春 音頭の歌にて人をよぶこ鳥こきん一部の大事とぞきく」)。『可笑記』(正徳元年)、「ある人破れあみ笠ひきこみ、若衆かぶきを見物す」。其条の絵、太夫かづまといへる若衆、風折えぼしに花をさして着、振袖右の肩をぬぎ、太刀を帯、背に弊をさし、扇もて舞、旁にお原木の小歌をかけるは是をうたへる也。『懐橘談』に(承応)、「今は小童の舞をも制し給ふ」と、野郎となしたるをいふ也。『京童』(万治元年)にも、「いまは若年の者のかざりをとらしめ、うるさき形也。ひたひに綿を着、百会を頭巾にてかくし云々」。『江戸雀』に(延宝五年)、「ひたひ髪を取せらる。此故にくゝり頭巾をなせり。狂言に出る時は、付がみをする也」と有。いまだ野郎帽子の体備はらず。これも、『寛文四年辰正月八日町触』、「諸芝居仕候者共へ被�仰渡�事、やらう并女形仕候役者、かづらをかけ申間敷候。但し手巾・綿ぼうしなどは不レ苦事、狂言尽は不レ及レ申、浄るり・説教并舞まひ芝居、其外諸芝居にて島原狂言を仕組、傾城之真似、一切仕間敷事」と有しかど、その令、行はれざることかくの如し。其かみ、傾城買の狂言はやりて、是を島原といへり。此故に、浄るりにも、傾城某といふ外題多し。右の如く付髪かづら禁有しかど、寛文も末頃には、女形の若衆、前髪剃らぬも、其頃『役者評判記』に見えたり。

○西鶴が『大鑑』に、「大歌舞妓御法度の後は、村山又兵衛が物真似狂言尽しに仕掛、大夫数多集め云々。大夫蔵人・お国が女かぶきも絶て、若衆をあまた抱へて、是ぞ世界の花をどり。塩屋九郎右衛門座に見し、岩井歌之助、平井志津馬など申せしは、末代にもあるまじき美少なり。此外四十五人舞子ありし云々」(是若衆かぶき也。江戸にも其頃の事を、『了意が記』に、「勘三郎とかやいふだうけもの、女形の芝居とやら、こと/\〃しき芝居さんじきをかまへ、歌舞妓がましき事をいたす」といへり。女形の芝居とは、其時女のまねする若衆かぶきをいへり。『浮世物語』にもみゆ)。さて、此前髪剃らせられし事、諸の草子、其年月をいはず。是は、「慶安五年壬辰六月廿七日、此度、若衆歌舞妓御法度に被�仰付�候に付、町中にてかぶき子の様なるせがれ抱置、金銀を取、公界為レ致申間敷事」と云『町触』あり。上み方も此年月なるべし。或説云、「明暦二年丙申、橋本金策と云女形、桟敷にて客と口論の事によりて、京都かぶき芝居残らず停止あり。京都座元村山又兵衛、芝居御赦免願ひ出る事十三年にして、寛文八年御赦免あり。村山が大功といふべし」とあるは、若衆かぶき後の事なるべし。

(略)

歌舞妓の者共を、かはら者といふ。河原にて始めたる業なれば其者と伍をひとしくいへり。『似我蜂物語』に、「今の都のはやりもの、かはらかぶき子いらぼの茶碗」といへる童謡あり。かはら者、『雍州府志』に、『伊勢守の記』を引て云、「寛正六年八月、今出川殿夫人安産、当年巽吉方也云々。河原者四、五輩先行預堀レ土置レ壺。胞衣桶、以�赤白絹�二編裏レ之。典薬頭取レ之納�壺内�云々。此時住�河原�者、主�納蔵掃除�」。また、『職人尽』穢多の歌、「人ながら如是畜生ぞ馬牛のかはらのものゝ月見てもなぞ」。『夷曲集』に、「四条かはらにてよめる、宗恒 よせ大こ日はてれつくと打いづる波の音まで河原ものかな」(『皇朝類苑』何楼条下、「俳優人言�河市楽�、説者謂起石付(元字は馬篇)馬云々、其実不レ然」。唐『元和燕行記』、「其中已有�河市字�、大都是不レ隷、名郡中在�河市�者散楽名也」。また、漢土には雑劇、また楽戸をすべて瓦といふ。瓦舎衆伎など云。『古杭夢遊録』に、「瓦者野人戸易散之意也」とあり。こは河原とことながら次でにいふ)。

 

男舞 女舞

大頭のことは前にいへり。其流、寛文年中より御免の舞芝居の名代は、『正徳三年癸巳十二月四条河原名代改帳』に、「仕形男舞又大夫(右又大夫、元禄四年病死仕、倅七之助名代相続相願、元禄六年、御免有て、又大夫と相改)・女舞大頭柏木(寛文七年、女舞相願候処、御赦免有レ之、其後、元禄十一寅年、娘れんに名代譲り申度奉願、御免有て、れん義柏木と申候)・女舞笠屋三勝・同新勝・同吉かつ・同たちやおくに」とあり。『歌舞妓事始』に、「男舞名代、笠屋新大夫・笠屋なつ、子孫新勝といふものゝ一子三郎兵衛、寛文六年、名代御免あり。三郎兵衛が先妻を万勝と云。三郎兵衛娘を春勝と云。後妻せんといひしを、後に新勝といへり。それより姪さつといふものへ譲り、則新勝と改、それよりつやといふ者へ譲り、正徳年中に宮地芝居御停止になり、享保元年、四条にて、後の新勝、前芸唐子をどりをして、後、女舞のわざをなし、両年勤めしに、女芸を禁じ給ひ、享保十六年亥年九月廿三日、新大夫と改り、元文二巳年閏十一月、後の新大夫譲りを受、又今の新大夫へ渡りし也」。『同書』、芝居名代を挙たる処に、「女舞大頭柏木、同笠屋三勝、よしかつ、たちやくに、仕形男舞又太夫、同丹波、右六株は今絶たるもあり、当地に居住なきもあり。延享中、一勝といふ者、大坂にて大頭を催したり。又前かた、大坂にて浄るり小歌にうたひし、半七に馴染たる三勝と云もの、此株の内なりといへるは大なる誤也。それは、簑屋三かつといひし者也」といへり。簑屋三勝といひし者も、舞子などにてありし歟。元禄八年乙亥十二月七日、灘波千日寺にて三勝・半七情死せし。その翌年正月二日より狂言にしたりし時の『役者付』あり。半七に杉山勘左衛門、三勝に花井あづま、みのや平左衛門に座元岩井半四郎等三人、彼が墓碣を建たり。「嵐雪月照信士、月雪妙霜信女」と刻せり。その頃俳諧師嵐雪灘波にありしと見えて、『集』の内に、「あかねやみのやと聞えたる、なき名の流れ止る処は、千日寺の蓬生の露と消かへりぬ、盆のこの頃は、夜ごとに群聚して、逆縁に弔婦人もあまた侍りけり。戒名嵐雪月照と石の塔婆に彫入たり。あるまじき事ならねど、をりからは思ひかけず覚え侍りければ、夢によく似たる夢かな墓参り」と有。おなじ名なりしはをかし。舞まひ又太夫は、『夷曲集』に辞世の狂歌あり。『義理物語』に、御堂前の仇討のことをいふ処、「又大夫が舞を聞」とあり。是は仕形舞なるに、聞といへるはうたふ事をむねとせしにや、女舞は、まひを専としたる歟。新かつが唐子をどりは、くにがやゝ子踊の遺意にや。『鷹筑波集』に、「涙ほろ/\灯火のもと、やゝ子踊夜の更る迄ならすらん」。是は幼きものゝ盆をどりのならしにや。戯場の狂言学ばする事はむかしはなし。江戸は更也。『落穂集』に、「今時町中にて女子供集め、躍を教へ、又は小歌・浄るり・三線など教へ、渡世する者、いか程も有レ之。已前よりの儀に候哉。答云、我等若年の頃迄は、躍子などゝ申者は、仮令高給を以て召拘申度と有ても一人もなく、三味線と申物をば、盲女より外にはひき不レ申事の様にて、恒の女少しならし覚え候者有レ之候へば、世に珍敷事の様に申触候。当時は件のごぜ抔と申者は、さたもなく、野も山も踊子三線ひきばかりの様に成候は、元禄初ごろの儀にても可レ有レ之候哉云々。是は万石已上の郡主、或は国主方へも奉公可レ為レ致望にて、物入をいとはず稽古致させ申事に候」とあり。『寸錦雑綴』に、「志賀山万作は、元禄の頃舞子の師也。天明五年、中村仲蔵、中山小十郎と改名し、志賀山一流の三番叟をつとむ。その子万作中蔵となる。又、小十郎と名乗り、今に志賀山一流をたつる」と有て、元禄中、万作が『院本』を載たり。初めに舞子の名多く出たり。『原本洞房語園』に、「近年町々に踊子といふ者時花出て、寛永年中、九二が類なる歌舞妓の女に粉らはしくなりし処に、是亦御停止にて漸止ける」(享保五年かくいへれば、件の舞子、しが山のけいこぼんは、元禄の末、宝永頃の物ならん)。是今の町芸者と呼ものゝ始なり。上がたにては猶古く見えたり。『一代女草子』に、「万治年中酒楽といへる座頭、みやこにのぼり、風流の舞曲を工夫して、人の為に指南するに、小女集りて是を世わたりに習へり。女かぶきにはあらず。うるはしき娘を此業に仕入て、上つかたの御前様へ一夜づゝ御慰にあげたる。衣装も大かたに定れり。紅かへしの下着に箔かたの白小袖をかさね、黒きそぎゑりをかけて、帯は三色ひだり縄、うしろ結びにして、金作りの小脇差。印籠巾着をさげて、髪は中剃するもあり。つとして若衆の如く仕立ける。小歌うたはせ、躍らせ、酒のあいさつ、後には吸物の通ひもする也」。又、『一代男』四巻、舞子・踊子のことをいひて、「一人金子壱歩也。顔うるはしく、生れ付やさしきを、ちいさき時よりこれに仕入て、とりなり男のごとし。十四、五迄は女中方にも招きよせられ、其程過ては月代をそらせ、声も男につかひなさせ、是を寺方のかよひ小性と申云々」。『風流徒然草』に、「中村勘之丞、扇の手舞の中にて、ふりのよき事をえらびて、ゑがほのおかつといひける女に教へて舞せけり、後に袖とめけれど、人みなをどり子とぞ云ける。おかつが妹松野といひける、此芸を続り。是舞子の開山也。折ふしのはやり歌をわけて謡ふ。其後かめやの小三郎、多くのをどり子供を取たてたり。かまばらひ、お梅が鈴のふりもあり。水木おはるに教へけるとぞみゆ。是かの志賀山の始なるべし」。『いろ芝居草子』に、舞子をいふ処、「水木が七ばけ、沢之丞が浅間の怨霊、こんくわいの鑓をどりのと、恐らく知らぬことなき番数に、いかさまよき鳥のかゝれかしと、此親が願ひも至極ながら云々」。『五元集』に、「青山辺にて、踊子を馬でいづくへ星は北」といふ句あり。馬にて迎ふるをいふ歟。借駕篭禁制の頃にや。此踊子と云もの、始終絶ずして、後は名のみにて躍はせず。それより芸者といふことになりぬ(寛延・宝暦の頃、いまだ舞子あり。『江戸名物鑑』に見えたり。「賀茂で着る夜を舞子の要かな」)。明和・安永・天明の頃、女芸者はやりて、江戸端々遊処はさら也、いづくの町にもなき処なかりしとぞ。

(略)

素人狂言 柴垣をどり

○素人狂言(前にいへる似せ野郎の類也。似せ野郎は、それを業としたる者とみゆれば、又異也)、『賎小手巻』に、「豊後ぶし・義太夫節、夥しくはやりて三線の流行甚し。歴々の子供総領より初め、次男・三男せざるものなく、朝より暮迄音絶ず。此あげ句、下かたといふ歌舞妓の鳴ものを、素人よりたかりてうつ。其弊遂に素人狂言となる。皆これを企て処々に催す。歴々たる者河原ものをまねて、女形・立役・敵役とて立さはぐ。かゝらぬ戯也。寛政より皆やみて正風体となる。黒ちりめんの当世羽織いづくへかなくなりて、皆もめんの馬乗、或は麻の羽織也。落書に、年を経し三筋の糸の音絶て羽織のたてはほころびにけり」。

柴垣は明暦ころの小歌にて、二人むかひて手拍子うち、是をうたひし也。『武蔵鐙』(万治二年板本)、「何者の伝へて始めたりけん。此頃北国の下部の米搗歌とかや。柴垣といふ事世にはやりて、歴々の会合、酒宴の座にても第一の見ものとなり、いやしげにむくつけあら男のまかり出、くろくきたなき肌をぬぎ、えもいはぬつらつきして、目をみ出し、口をゆがめ、肩を打、むねを敲き、ひたすら身をもむ事狂人のごとし。右に左にねぢかへり、あふのき、うつぶき、あがきけるを、座中声をたすけ、手を打て、もろともに興ぜられしを、みる人さへうとましく、かたはらいたかりしが、果して諸家ともにみな柴垣となり云々」(明暦の回禄をいふ)。『卜養狂歌集』、「或人、奴しば垣をうつ処を、絵に書て歌よめとあれば、やつこ衆の名もさ名なもさしば垣をゆひたてられてうつゝなの身や、又(端書有て)、しば垣をうつの山辺のうつけもの夢にもひとつあはぬ手拍子」。しば垣の歌は、『糸竹初心集』に、「柴がき/\柴がきごしに、雪のふりそでちらと見た、ふり袖ゆきの雪のふり袖ちらとみた」。『一代男』、越後寺泊にて、「柴垣踊はしつてかと尋けるに、夢にも知らぬと申。何をいふても是じやもの云々」あれば、天和の初には早く廃りし也。按るに胸を打て拍子とることは古きふり也。『桂川地蔵記』(弘治二年二月記)、「遠近囃手之倫与�老若�群集云々。各自摺�編木�、振�手棒�棹レ頭敲レ胸云々」。また、胸たゝきといふものあり(乞士の条にいふべし)。又、『伊曾保物語』に、「腰ぬけのゐ計らひ、たゝみたいこに手拍子とも、是等の事をや可申」。此諺なども古き事とみゆ。

(略)

蛛舞

蛛舞は『そゞろ物語』、傾城町を江戸に立る処、「勧進まひ、蛛舞、獅子舞云々」(みな観せ物也)。『雍州府志』、四条河原条下、「傀儡之外、雲舞并幻術、連飛、輪脱、緒小桶、水操云々」見ゆ。『事物紀原』に、「百戯は秦漢のとき、蔓衍の戯より起る。後には、高恒(正しくは糸篇)、呑刀、履火、尋橦等あり。一云都盧は山の名、その処の人よく竿に縁て百戯す」といへり。くもまひといふ名、古書には見えず。『尤草子』、軽きものゝ内、又、まふものゝ内に、「くもまひ」有。『油嘉須』に、「あぶなくもあり、めでたくもあり。蛛舞の芝ゐで金や拾ふらん」。『事物紀原』に、「高恒伎は、今戯縄といふものにて索に上るなり」ともいへり。つなわたりの軽わざ也。蛛の糸を引はへたるさまなれば名づく。然らば雲舞と書るは当らず。少納言信西が伝来の『唐舞の図』に、此伎なども見えたり。こゝの古へも是を学べること有しなるべし。延宝・天和の頃、『堺町芝居番付』に、「日下開山(かごぬけ師)竜王連之丞・茶廬市之進また飛竜勝之丞ちやるれんまん」などいふあり。この茶廬とは都盧の訛とみゆ。又おもふに、今軽わざの鳴ものに用る銅角をチヤルメラといふ。こは茶廬ホラの転訛にや。清俗に銅角、一名ホラといへり(又、今えしれぬ浮言をいふを、チヤラホラといふも是なり。省きては唯ホラを吹ともいへり。又、くちぼこといふことゝ、是とを混じてチヤラホコといふは、弥わからぬ言となれり)。高九蚶が『醋徳頌』に、「蜘舞の骨をやはらげて、都に軽業の鷲之助は、女とも見えず、男なりけり」といへるは、女のかるわざなるべし。緒小桶とはいかなる伎にかあらん、緒桶の内に入てなくなりなどする隠形の術にや。幻術は目くらまし也。永禄の頃、大和国に果心居士といふもの有て、奇怪き事をしたるよし諸書にみゆ。それらの類、貞享・元禄の頃、塩屋長次郎といへる放下師、大刀かたな・牛馬を呑でみするものあり。江戸にも来り、堺町に出て、大に行はれしとぞ。『言水が句』に、「朝霧やさても富士のむ長次郎」。其也多くみえたり。連飛また蓮飛と書り。『洛陽集』(延宝)、「軽芸は蓮の実よりも事起れり 貞正」。『歌舞伎事始』に、「蓮飛唐人与左衛門 今はなし」と見えたり。また、田楽の曲に鷺足に乗て飛ことあり。『閑田耕筆』に、「彼が木をのぼりて、れん飛とやらむいふことするに似たれば、田楽と名づくるのみ世にしることゝなりぬ」といへり。然らば、もと田楽の曲の名にや。連の字にはあらで、蓮の実のかたなるべし。『一代男』に、売女やうのものを多くいふ内に、「品川のれんとび、白山・さんざきのえしれぬもの」とあり。是はれんとびの名をとりて呼べるよしあるにや。又は、かるわざの女なる歟、しりがたし。風来が『放屁論』中にも、「険竿の大当り、無三飛新蔵が体は竜骨車のめぐるが如く、早飛梅之丞が一本綱は、五躰を天へ釣かと疑ふ」。これ又蓮飛の類也。輪ぬけは籠脱もおなじわざ也。すべて此等の伎、今は事ふりて、大かた人の奇とする程の事なし。余が弱年の時、源太郎といへる曲馬師、籠の長さ弐間許、口の経り五尺ばかりなる内を馬に騎、笠かぶりて飛脱たり。又、高き階子を馬上に一足立して、上まで登り、下る時は、鞍の前輪に逆しまに立て、梯子五、六段になれば、馬は一飛に下る。其時心得て身をかへし、常さまに騎なほるなど、しなれたるもの也。其後も梯子のりはあれども、かやうの伎する事を聞ず。源太郎が曲馬の頃、両国橋南づめに、政之助とてかる伎の上手有し。壮年を過る程の男なるに、前がみありて、若衆出立なりし身の軽きこと、つぎたる紙をつなわたりの如く歩み、葭一筋を長くつなぎ、宙に引わたして其上をもわたりぬ。水操といへるは水がらくりにや。『洛陽集』、「鼠戸や荻の上風水からくり 琴風」。からくりの水音鼠戸に聞ゆる也。漢土には是を水嬉といふ。其内『癸辛雑識』後集、「呈�水嬉�者、以�休(正しくは髟が上に付く)漆大斛�満�貯水�、以�小銅鑼�為レ節、凡亀竈鰍魚皆以レ名呼レ之、即浮�水面�戴�戯具�而舞、々罷即沈、別復呼�其他�、次第呈レ伎焉」など、あやつりならぬをもいへり。小みせものゝ色々は、『東海道名所記』に、「こびき町のかたへ行たれば、喜大夫が浄るり、其外実かうそか、異類異形の物をみする」。又、『雍州府志』四条河原、「珍禽奇獣或矮人長女、又、施�雑品芸術�者各開レ場、是近世之流風也」といへるは天和年中のこと也。今の如くにて有し也。

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(『嬉遊笑覧』三 岩波文庫版を底本としました。)



 

 








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