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日本切支丹宗門史 1
『日本切支丹宗門史』
レオン・パジェス著
クリセル神父校閲/吉田小五郎訳
第七章 一六〇五年(慶長十年) (一部)
『花と火の帝』で、霧隠才蔵の恋人あいの最期を描くシーンに登場するキリシタン、盲目のダミアンについて書かれた部分とその前後の記述。
(前略)
當時、日本にはマカオや支那にゐた日本の教区に属する者を除いて、百二十一人のイエズス会員がゐた。日本の修道者達は、分れて二箇所の学林、同じく二箇所の中央の駐在所、一箇所の修業所、及び二十三箇所の伝道所に分れてゐた。
フランシスコ会、ドミニコ会、並にアウグスチノ会の修道者達は益々多くなり、その事業を拡張して行った。
日本には、當時七十五萬人のキリシタンがゐた。この年、新に洗礼を受けた者は、五千五百人あり、長崎だけで千二百人以上もあった。新に改宗した者の中には、富裕な商人と、可なり多数の武士がゐた。
若干の大名は、堂々と好意を寄せてゐた。三箇國の領主である肥前殿(前田利長)、安芸と備後を領し広島に城市を持つ福島ファヤドノ(福島正則)長岡越中殿(細川忠興)、博多に城市を持つ筑前殿カミドノ(黒田筑前守)柳河に城市を持つ田中兵部殿(田中吉政)の如き、之であった。内府様の寵臣で、京都の所司代板倉殿(板倉勝重)及び上野殿(本多上野介正純)も亦修道者に力をかすことを憚らなかった。そのお蔭で、キリシタン宗は、首府の中ですら安全であった。
京都に、昔よりずっと美しい天主堂が、新たに建てられた。公方様の居城伏見でも、同じく天主堂と住宅とが建てられた。
長崎の町は、瞬く間に拡大し、住民は挙げてキリシタンで、又世俗の富を求めて来た異教徒と多数の商人達は、金銀なしに贖ひ得る精神的の富を得て、物質的にも精神的にも富裕になって、彼等の故郷に帰って行った。長崎は、司教の常住の地で、イエズス会の主要な学林と大きな駐在所があった。司教の授品を受けた最初の日本人が、最も広大で町の人の出入の多い聖母の天主堂の主任司祭に挙げられた。
一六〇五年に、初めて盛大な聖体行列が行はれた。信者の熱心は驚くべきもので、聖体行列に与かることを第二の洗礼と心得てゐた。宣教師達は、注意して彼等に十分この恩寵を得させるやうにした。
この慰安の最中、色々の波瀾が起った。長門と周防の主で、山口を城下とする毛利殿が宣教師を追放し、キリシタンに迫害を加へた。彼は著名な大名ベルシオール豊前殿(熊谷元直)と、熱心な伝道士である盲人ダミアンの首を刎ねた。肥後の大名主計殿(加藤清正)も迫害を始め、三人の慈悲役、即ち、その領内のキリシタンの柱石であった伝道士を投獄した。
若干のイスパニア人が、無謀な陳述をした。幾隻の船が、新イスパニア(メキシコ)からフィリピンに来たが、その積荷は何かとイスパニア人に質ねた所、彼等は愚しき虚栄からモルッカを占領するために、兵隊と弾薬とを積み、全艦隊を率ゐて来たのだと答へた。この征服は、実に正当な動機から着手されたもので、侵略的の精神から出たものでは決してなく、同年中に実行された。公方様は、この言葉を聞いて大に怒り、直ちにイスパニア人を全部国外に追放しようと考へた。同時に彼は、江戸のフランシスコ会の修道者を数名の大名に預けることにした。
(中略)
ベルシオールの死後、キリシタン達は直にダミアンの死を予見した。ダミアンとは、即ち琵琶を弾じ、古の物語を語って人の布施を貰って暮してゐた一人の盲人のことであった。彼は、もと堺の生れで、二十五歳の時山口で洗礼を受けた。彼には、妻があった。ダミアンは、甚だ活発なる精神を持ち、又度胸もあり聖なる洗礼の恵によってその天才を伸し、僅の間に驚くべき程神に関する事どもを会得した位であった。彼は、もと山口の神父の助手をしてゐたが、神父の去った後はその代理を勤めてゐた。かくて、彼は新たに生れた子には洗礼を授け、無学な者には教理を教え、死者を埋葬し、なほ悪魔に憑かれた者の體から悪魔払いをした。若し、威厳の点に於てベルシオールを筆頭とすれば、ダミアンは教理の点に於て第一位にゐた。イエスズ会では、ダミアンに専心聖務に従事せしめんがために、生活して行けるだけの知行を与へ、又彼のために小やかな家を建て、妻と共に住まはせ、祈祷所とさせた。
ベルシオールの死後四日目に、毛利殿は、城下の萩から二人の役人即ち「奉行」を遣はして、被刑者の財産を差押へさせた。二人の奉行は、ダミアンを召喚した。之は八月十九日のことであった。ダミアンは召喚の動機を察して、身を棄てる前に死ぬ準備をした。彼は身を清め、一番の晴衣を着、二人の善良なキリシタンに附添はれて出て行った。奉行は彼と議論したが、彼は恐しく雄弁に答弁した。奉行は、何も得る所がないのを見て、死刑にしようと決心した。然し、彼等はキリシタンを憚って公然之を行ふことを欲しなかった。ベルシオール(ダミアンの誤り)の伴侶は秘かに返され、夜半彼は馬に乗せられた。一行は、松明の光で罪人を死刑に処する場所の「一本松」といふ山口の刑場に行った。ダミアンは、馬から下されて暫しの間祈祷をし、次いで劃(原文は曾に刀)手の前に首をのべた。其遺骸は、千々に切り刻まれ、一部は川に、一部は附近の森の中に投げ棄てられた。劃手が取りのこした首級と左腕とは、キリシタンによって取り集められた。この殉教者は、四十五歳であった。
(後略)
第十章 一六〇八年(慶長十三年) (一部)
フランシスコ会と、マカオ事件について書かれた部分。
宗教の方から見て、公方様は、年と共に段々神仏に対しては迷信的に、真の宗教に対しては憎悪を持つやうになって来た。然し、彼は迫害を実行するには至らず、而もその教が改宗者の中で鞏固となり、その領域を未信者の上に延して行くのを干渉しなかった。諸侯も亦多く、主権者に倣って寛大になり、或る者の如きは、深く同情を寄せ、改宗せんものと、只管公方様の許可を待つ始末であった。
然し、あちこちに迫害が起って、この平和を乱した。迫害は、主として薩摩、肥後、及び毛利殿の領内に起った。
(中略)
この頃は、最早長崎の外には、公方の許可を得た天主堂は三箇所しかなく、それは京都に於けるイエズス会の神父達の天主堂、他に大坂に於ける同会神父の天主堂、並に江戸に於けるフランシスコ会の人々のそれであった。その他のものは、言はゞ潜りのやうなもので、それも特別の大名達に黙認されてゐる、と言ふだけの事であった。公方は、この状勢には、眼を閉ぢてゐた。
(中略)
江戸のフランシスコ会の人々の伝道は、盛であった。彼等の天主堂は、宗教的の建物らしい所は僅かであった。
宗教の用に供されたその他の建物は、特殊の家の外見を呈してゐた。
紀ノ國の大名(浅野幸長)は、一種の癩病を癒して貰ってから、自費でその城下和歌山に、修道院と天主堂を各々一つづゝ建てた。
同年、江戸と伏見の修道院が再興された。
フランシスコ会の人々は、江戸から十二リュー距った関東の小港浦河(浦賀)に、更にもう一箇所修道院を建てた。
(中略)
オランダ人は、海上に跋扈して、各國に手をひろげて通商関係を結んでゐた。この年アダムスの同僚で、前年シャリテ(リーフデ)号の司令官ケッケルナックと一緒に印度に来てゐた書記サントフォールトが、パタニから日本に戻って来た。ケッケルナックは、その後間もなく、ポルトガル人との戦争中に死んでしまった。サントフォールトの使命といふのは、その同胞と日本帝國との間に、通商関係を調へることであった。その結果は、一六〇九年二隻のオランダ船の渡来となり、平戸に支店即ち商館を立てるに至ったのであるが、その事は後に述べる。
ジェイムス一世の治下に、イギリス人の印度に於ける最初の植民は、この年行はれた、マラバールの海岸に、一商館が建てられた。アダムスは之を知り、當時イギリス人を日本に招き、自分の信用を彼等のために用だてようといふ考を抱いた。イギリス人のためといふ彼の計画は、一六一三年(慶長十八年)に至って実現せられ、イギリス商館の建設となった。
この年、オランダ人の海賊に対する恐怖から、ポルトガル人はマカオから年航船を送ることを妨げられた。同時に、マカオで起った不祥事件は、ポルトガル人のために酷い打撃を与えた。有馬のドン・ヨハネ(有馬晴信)の一船は、この港で越年した。この船の乗組員と土地の人々との間に争が起り、双方に死者を出した。當時のポルトガルの司令官はアンドレア・ベッソアで、彼は若干の日本人に、日本人側のみが悪いといふ證文に署名させた。然るに、この人々は帰國するや、態度をかへ、ポルトガル人に対する強硬な非難を駿河に持込んだ。
この年の始、マニラに住んでゐた日本人が、當局に対して暴動を起した。総督は、彼等日本人に対してクリストファル・デ・メンシヤカを遣した。彼は彼等を鎮め、且つ聖アントニオの草庵の附近にあった日本人の陣地を破壊した。
第十一章 一六〇九年(慶長十四年) (一部)
家康の海外への関心とマードレ・デ・デオス号の来航を述べている部分。
皇帝(大御所家康)は、領土を日本以外に伸さんとして、先づ支那人からLieu Kieouと呼ばれてゐる琉球の島々に目をつけた。この島は、地味肥えて良港もあり、當時支那・日本間の貿易の中心地であった。明朝の創始者である支那の皇帝太祖の時代(1372年)から、琉球は支那の主権を認めてゐたが、それは実際といふより、寧ろたゞ表向きのことであった。太閤様は、晩年この群島の王を威嚇して、日本に服属させようと計った。然るに、朝鮮の遠征と同時に行はれたこの計画は、聊かの効果もなかった。一六〇九年の夏、将軍は薩摩の領主に命令を下し、琉球群島を征服させた。島津氏は、三千人の日本人を率ゐて本島に攻め入り、王商寧を虜にして、この國を属國のやうにしてしまった。
次いで、公方は台湾島と関係を結ばうと計画した。この台湾は、肥沃且つ広大で、一方は日本、他方は支那のマカオ間に位し、航海には甚だ重要な地であった。避難港を得るために、公方は同地に船を遣り、それに言葉を学び住民の意向を質すため、若干の智者を乗せてやった。然るに、台湾の住民は、外國人に乱暴を働き、その中の若干を殺した。生き残った人々が、数名の土着の人を捕虜にして日本に連れ戻った。公方は、事件の報告を聞き、捕虜を懲罰どころか、色々物をとらせた上に帰國させた。
(中略)
二年前からポルトガル船が来なくなり、従って物質的の援助を欠いてゐた。終に、一六〇九年六月、前代未聞の事であるが、航程四十五日の後、丸型の大船「マードレ・デ・デオス号」が、イエズス会の司祭十人と修士二人を乗せ、百萬エクス餘の現金を積んで長崎に着いた。同船は、嵐とオランダ人の厄だけは逃れたが、恐しい災難がこの船を待伏せてゐた。この船は、前年マカオを治めてゐたカピタン・アンドレア・ベッソアに率ゐられてゐた。ベッソアは、政庁に理由を陳情して容認された。然るに、長崎奉行左兵衛(長谷川左兵衛)は、君主の意向を変へることが出来た。この成行は後で述べる。
オランダの東印度会社の取引は當時著しく増大し、その頃から之に宛てるために四十隻の船と五千餘人の船員とを擁してゐた。同会社は、ジャバ、スマトラ、セイロン、ジョホール、ケダ、モルッカ諸島、ベンゴール並に支那と関係を結び、而もこれ等の國々の大部分に、商館を建てゝゐた。
一六〇九年三月、提督フェルホエフェンの指揮下に、一六〇七年首府を発したオランダ艦隊の中二隻の船が、ジョホールから日本に行けとの命令を受けた。これ即ち、「矢のぶつちがひの附いた赤獅子号(Lion-Rouge avee le faisceau du fleches)」と快走船「禿鷹号」とであった。この二隻のオランダ船は、七月三日平戸に着いた。
アブラハム・ファン・デン・ブレックとヤコブ・ピックの二人の手代は、サントフォールトと共に政庁に赴いたが、この一行は、自分達の手で作製しながらオランダの國王、モーリス・デ・ナッソーの手から出たといふ一通の書翰と海上で掠奪した黄金や象牙等、素晴しい贈物を持参してゐた。総て異国人と関係を結ぶ事を熱望してゐた上に、アダムスが側にゐて、オランダ会社の富と勢力とを口癖のやうに語ってゐたので、将軍は彼等を優遇し、なほ四隻の船を以て通商を営み、平戸に商館を建てる自由を与えた。オランダ人は、毎年二隻の船に支那の商品を満載して遣る約束をした。皇帝(将軍)は國王に返翰を送った。
オランダ人達は、平戸の大名、法印(松浦鎮信)から大に好遇された。そこで彼等は、その城下に商館を建て、ジャック・スペックスをもって主任とし、この下に五、六人の人をおいて、彼の命令を守らせた。
平戸の港は、港口狭く、従って之に入ることは困難で、大船より小船を受入れるによく、その港内は広大で、而も完全に避難の出来るやうになってゐた。
二隻のオランダ船は、十月三日に出帆してバンタムに向ひ、更に欧洲に行くことゝなった。
ドン・ファン・デ・シルバに治権を譲ったフィリピン総督ドン・ロドリゴ・デ・ビペロ・イ・ベラスコは、七月二十五日メキシコに行くために乗船した。即ちガリオン船「聖フランシスコ号」、旗艦「聖アントニオ号」、及びそれより小さい「聖アンナ号」の三隻が之である。この旗艦には、前総督と共に、イエズス会のペドロ・デ・モンテス師が乗組んでゐた。師は、既に働き盛りの年であったが、病身のために長老から、もっと気候のいゝ所に派遣せられるところであった。輸送品として、約二百萬箇の商品を積んでゐた。艦隊は恐しい嵐に遭った。「聖アンナ号」は、豊後の海岸で座礁し、而もその地で親切な取扱を受けた。九月三十日、「聖フランシスコ号」は北緯三十五度半、関東の東南岸遥かの沖合二百リューの所で難破した。たゞ「聖アントニオ号」ひとり航海を続けることが出来た。全く破損した「聖フランシスコ号」は、暗礁に乗上げて破壊し去った。船首は砕け、数名の乗組員は死んだ。然し、船員と乗客の大部分は、陸上に避難することが出来た。難船に遭った人々は、ユバンダ(岩和田)といふ一番手近の村で親切な取扱を受けた。同國の領主は難破船の報告を受け、それにドン・ビベロの為人を聞いてゐたので、大に優遇するやうに命令した。事実、総督のビベロは、マニラに捕虜になってゐた二百人の日本人を釈放し、之を送って来たのであった。薩摩の大名は、自らビベロを訪問し、三百人の人々を全部三十七日間自費で接待した。この間に、二人のイスパニヤの士官が、君主(家康)とその子の公方様を訪問のために、駿河と江戸に上った。江戸は四十リュー、駿河は八十リューの距離にあった。
それから八十日後、使者は皇帝の一役人と共に帰った。皇帝は、ドン・ビベロに弔意を表さしめ、政庁に行く許可を与へ、同時に遺失物は全部戻してやるとの保證を与へた。
ビベロは、十月の末頃出発した。彼は、先づ十リューの距離にある大多喜に行った。同地は人口一萬あまり、大名の城下町であった。領主は大に歓待した。彼は、同地を経て、世子(秀忠)の居住地江戸に赴いた。フランシスコ会の人々は、この市内に一つの駐在所を持ってゐたが、早速イスパニヤの貴族のために尽力した。世子は、二日目に秘書役の筆頭、上野殿(本多正純)を以てビベロを迎へさせた。謁見に當り、世子はイスパニヤの貴族に膝元四歩の所まで進ませた。公方様は、ビベロには三十五歳位に見えた。顔は、大分褐色を帯びてゐたが、どこか上品なところがあって、立派な風貌をしてゐた。彼はビベロを優遇した。世子の屋形は壮麗で、善美をつくした装飾が施してあった。二萬人餘の者が、そこに使はれてゐた。
ビベロは、江戸に四日間滞在した後、駿河に行った。一週間後に、彼は皇帝に謁見した。その時の通詞には、イエズス会のヨハネ・バブチスタ・ポルロ師が當った。
皇帝は、二段からなる高い台の上に座ってゐた。その台から四歩前にビベロがゐた。
皇帝は、六十歳位に見えた。彼は中背でかなり肥満し、顔色は世子よりは褐色が薄かった。彼の風貌は、どこか犯すべからざるところがあると同時に、情味があった。ビベロは、例によってヨハネ・バブチスタ師を通詞にしてゐた。ビベロは謁見最中、或る格式の高い大名の入って来るのを見たが、この大名は百歩の所で平伏し、数分間は面を地に伏せ、二萬ヂュカットの価値ある金銀と絹とを献上して引下った。ビベロは、いたく鄭重に送出された。
時に彼は、皇帝に提出したいと思ってゐた要求の覚書を上野殿に手交した。
第一、帝國に在住する各修道会の司祭に対する公式の保護、並にその駐在所及び天主堂を自由に使用すべきの件
第二、皇帝とイスパニヤ王間に於ける同盟承認の件
第三、該同盟の證として、イスパニヤ人の仇敵にして最悪の海賊たるオランダ人追放の件
翌日ビベロは、素晴しい饗応を受けた後、返事を聞かされた。
皇帝は、イスパニヤの貴族(ビベロ)が、只管その宗教と己が君主の為しか目安においてゐないのに、感歎した。
前の二箇条は容れられた。然るに、第三条は、何分オランダ人は日本滞留を許可した皇帝の約束があった為に、今年之を容れることは困難であった。然し皇帝は、オランダ人の真の人柄を知らして貰ったことをビベロに感謝してゐた。
皇帝は、アダムスによって建造された西洋型の船の一隻を彼に贈って、新イスパニヤ(メキシコ)に送らせることゝし、なほ新イスパニヤの坑夫が非常に熟練を以て聞え、日本の坑夫が取れるべきものを精々半分しか取り切れないといふので、坑夫を五十人入要に就き、フィリッピン王に交渉方を依頼した。
ビベロは、君主の命令を手にせぬ中は、坑夫の件に就いては請合ひかねる、また若し殿下のお許しあらば、臣は「聖アンナ号」の碇泊してゐる豊後に行き、若し、この船が自分を乗せて行けそうなら之を用ひたく、然しそれが不可能であったら、皇帝の申出を有難くお受けしたいと答へた。副王は、駿河の政庁に帰って来た時も、出発の時も、坑夫の件に就いてもっと積極的の答をすべきを約束した。
(後略)
(岩波文庫『日本切支丹宗門史』上巻を底本としました。)
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『日本切支丹宗門史』
レオン・パジェス著
クリセル神父校閲/吉田小五郎訳
第十二章 一六一〇年(慶長十五年)
マカオ事件の報復として有馬晴信が「マードレ・デ・デウス号」を襲撃した事件を記した章の全文。この年はまたルイス・ソテーロ師が家康に面会した年で、その事にも触れられている。
公方様は、年をとるに連れて愈々迷信深くなり、宗門に対して益々反感を抱くやうになつた。然し、彼は迫害も加へなければ、教会の増加を妨げるやうな事もなかつた。而も、若干の大名は、公然好意を寄せてゐた。就中、安芸及び備後の領主福島太夫殿(正則)は、その雄なるものであつた。叔父黒田の死後、彼は管区長の許に使を遣って、貴下を信用してゐる由を告げ、常に宣教師達に対して、保護者となり父となることを約束した。なほ彼は、イエズス会の伝道所の敷地を得させるため、異教徒の大名の方面にも大に尽力すると申し出た。
同じく豊前と豊後の一部の大名長岡越中殿(細川忠興)も亦、宣教師達に並々ならぬ好意を示した。公方の孫女と結婚した内記殿(細川忠利)というこの大名の世子も亦、劣らず同情を寄せてゐた。彼は、中津に居住し、司祭一人と修士一人のゐる一伝道所の費用を負担してゐた。そして年々生母ドンナ・ガラシアの記念のミサを立てることを忘れなかつた。それから秀頼の母と大坂の町奉行も、時々宣教師達に献金してゐた。筑後の大名の子も、之に倣ってその領国を嗣ぐに当り、イエズス会に対して手厚い待遇をした。
石見では、某大名の家臣は、主人から信仰を棄てるやう色々誘惑されたが、結局三人の息子と一緒に殺された。而も、意地悪く、罪を犯した為に殺されたのだと発表された。司祭は調査を命じた。このキリシタンの名と死去の年月日は、不明である。
大坂で某大名に仕へてゐた、或る若いキリシタンが、上役の面前に引出され、宗教のことから酷くきめつけられた。彼は信仰の証明を立てるために、命を捨てると鷹揚に答へた。この大名は、二人に互に妥協するやうに勧めた。然るに、偶像信者(仏教徒)は、此キリシタンを待伏せして一刀の下に首を切った。キリシタンの遺骸は、鄭重に埋葬された。何となれば、彼は信仰のために生命を捨てたのであつたからである。
この年、異教徒は酷い打撃を受けた。阿弥陀を礼拝する浄土宗と、釈迦の弟子である法華宗の二宗派は、始終議論を闘はしてゐた。両派とも甚だ傲慢であつたが、法華宗は他宗に比して一層傲慢であつた。法華宗の一人は、尾張に出張してその要旨を説き、キリシタンと浄土宗とを散々に罵倒した。なほ、彼は諸方に出張して、同じ罵詈を繰返すこと百箇所に及んだ。更に口論となり挑戦となり、終には公の討論となつた。この評判は、皆公方様の耳に達した。公方様自らは、もと浄土宗の信徒で、この両方の相手を面前に呼出した。当日になると、法華宗は舌がからんで口がきけなかつた。公方は命令を下してこの仏僧とその同僚全部の位を剥奪することにした。なほ、彼は仏僧達を江戸その他仏僧が悪口ついた所を引廻して恥辱を与へ、終には皆の耳を削がせ、更に主だつた仏僧の鼻を削がせた。この哀れな人達は、世の笑草となり、二十一の壮麗な寺院を後にして京都を逃出した。主計殿(加藤清正)にヨハネとミカエルと其子等を殺す決心をさせた仏僧が、この失敗に捲込まれた。かくして天主の正義は明らかになつた。一体天主の正義は、時に現はれることの遅いこともあるが、常に無謬であり、遅いのは罰の重さによつて償はれるのである。
然し、公方は有馬の大名に、「マードレ・デ・デオス号」を捕獲して、船長ベッソアを殺すか生かすか、兎に角捕縛を命じた。マカオの事件から深い怨を抱いてゐた有馬の大名は、悦んで之を引受けた。彼は千二百人餘りの兵を積んだ多数の小舟を以て、ポルトガル船を包囲させた。その中の若干は、火器を備へた三段の櫓のある船であつた。ポルトガル人を全部片づけるのに、三日を要した。大きな帆に火がつくと、船長ベッソアは火薬に火を点けた。泳いで逃げ出した者は、日本人に惨殺された。其中には、イスパニア人でアウグスチノ会員であるヨハネ・デ・アモリノ師がゐた。師は、ベッソアが最初から上陸を勧めてもきかなかつた。この恐るべき事件の起ったのは、一六一〇年一月七日の事であつた。百萬エクスの価値ある積荷は、殆んど全部波に呑まれてしまつた。ポルトガル人は商品を失ひ、宣教師は二箇年分の補助金を失った。これは宣教師達自身にとり、また教会にとつて大損害であつた。果して、学院は解散し、又若干の駐在所より大勢の生徒をかへさねばならなかつた。有馬のドン・ヨハネ(有馬晴信)とその子ミカエル(直純)とは、将軍に命令を遂行したことを報告のため伺候した。之で彼等は、皇帝の寵を受けるに至った。その後二三箇月で、皇帝は、既に妻のあるミカエルに孫女を妻はさうと言った。憐むべき大名は、不幸にも之を承諾し、嘗てカトリック教の儀式に依って結婚した正室ドンナ・マルタを離婚して憚らなかつた。新しい夫人は、性質粗暴のために、先夫を死に至らしめた者であつた。彼女の宗旨は、浄土宗であつた。この不幸な結婚は、ドン・ミカエルに対する彼女の傲慢を愈々募らせ、遂に彼の破滅を招くに至るのであるが、その事件は後に語ることにしよう。
ビベロは、ガリオン船(かれうた船)の火災を知った時には、未だ豊後にゐた。君主は再び談判を開始するために、彼を幕府に呼び寄せたところであつた。ビベロは、予め京都からルイス・ソテロ師を駿河に遣はして、談判の準備を委任した。そして「聖アンナ号」が、航海に耐へられさうもないことを知って、将軍の申出を承認することに決した。そこで彼は、自ら駿河に来り、同地ではフランシスコ会員の許に投宿した。間もなく彼は、謁見することが出来た。彼は、殿下から予て依頼されてゐた事に就いて思ひ起させ、その懇請に別な形式を採ることにして、先づ新イスパニアの坑夫五十人の件に就いて答へた。彼は殿下の希望を王に伝へることを明言した。然し、運動を容易に成功させるために、彼は殿下に種々な点で譲歩せられるやうに請うた。即ち鉱山の収益の半分は坑夫に与へ、他の半分は国王ドン・フィリップと殿下との間に分けること、イスパニア王に帰する分を管理するために、陛下は日本に弁理人并に吏員を置くことを得、これ等の吏員が各修道会の修道者を同伴すること、なほ宣教師は公開の天主堂を有し、聖務を執行することを許可さるべきこと等であつた。次いでドン・ビベロは、オランダ人追放の請願書を再び作製した。彼はなほ、イスパニア王又はその臣下に属する船が、遇然か或は如何なる理由でも日本に着岸した時は、須らく殿下からその安全を保証し、乗組員と積荷に対しては免状を交付し、殿下の人民の如く取扱うやう命ずる約束を承認されたいと要求した。更に彼は、君主たる王がマニラに派遣するため日本の港で軍艦乃至商船を建造し、又この附近の要塞で軍需品や兵糧を調へることを望む時は、弁理官や吏員をおいてこの事に従事し、当国の相場を以て自由に買物の出来るやうに要求した。
これ等の条件は、ルイス・ソテロ師が依託されて来たものと殆んど同じであつた。之に対して、皇帝はオランダ人に関することは、少なくとも目下条約があるから除外し、その他の条件は全部承認すると答へた。この条約は、一六一〇年七月四日に締結された。
意図の誠実なることをビベロに納得させるために、皇帝は、イスパニア王に大使を送り、之に陛下並に新イスパニアの副王に対し、目も覚めるばかりの贈物を持たせて遣ることにした。彼は、ビベロにこの使命を果すため、自分の名に於て、日本在留の宣教師の中から一人を選ぶことを依頼した。ビベロは、フランシスコ会のアルフォンソ・ムニョス師を推薦した。然るに、皇帝は、公文書や贈物は、之をビベロ自身に依託したいと希望した。
皇帝は、アダムスの建造した船を一隻提供し、イスパニアの貴族に艤装の費用として四千ヂュカットを交付した。彼は、ビベロに船は先方で売払い、その金をイスパニアの品物で返済することを認可した。
ビベロが江戸まで挨拶に出かけた世子は、イスパニア王に贈るべき書翰と美事な贈物とを、自らの名を以て依託した。
ビベロは、その船を「聖ボナペンツ-ラ号」と命名し、一六一〇年八月一日に出帆した。同年の十月二十七日に、カルフォールニア州のマタンチュル港に着いた。
当時オランダ人は、海上を横行し、相当効果ををさめてゐた。提督フェルホエフュンは、バンダで、大勢の部下の士官と共に殺された。然し、彼の同胞は、遂に同国に根拠地を作った。蘭領印度の最初の総督ビーテル・ポットは、ジャガタラに商館を建てた。
フィリピン群島では、提督ヰッテルトが三隻の船を率ゐたまゝ、総督ドン・ヨハネ・デ・シルバから捕獲された。
四月二十四日、イスパニア人とオランダ人との間に起った紛争中、日本から来たアウグスチノ会の修道者ペドロ・デ・モンテーホ師がオランダ人に虐殺された。
この物騒な事件のために、年々品物を満載して船を一隻づゝ送るといふ約束は破られた。
ヨーロッパで締結された休戦条約も、印度の海上では、双方で守られなかつたと言ふことは、明瞭であつた。オランダ人は、依然としてイスパニア人やポルトガル人や、また異教徒に対しても海賊を働き、また一方イスパニア人とポルトガル人とは、オランダ人と深刻に戦ってゐた。
第十三章 一六一一年(慶長十六年) (一部)
秀頼の二条城訪問と岡本大八事件が記されている部分など。
公方様は、六七万の兵を率ゐて、もと政庁の所在地であった京都に来てゐた。若干の諸侯も亦、夫々部下を率ゐて彼に従ってゐた。老公は、秀頼に使者を送って、生前の名残に今一度合ひたい、伺候されたいと請うた。まだ微かながら帝国回復の希望を抱いてゐた秀頼は、望を大坂の城にかけてゐた。然し、若し彼の指図通り外に出たならば、或は、彼はその財産を失ひ、延いて僭奪者から自由にあしらはれたかも知れなかつた。もとより彼は之を拒絶して、取敢へず、城を出る位なら寧ろ自殺すると声明した。然るに、秀頼は、万一戦の起った場合の不吉な結果を見越し、自信をもつて若君の安全を保証する、特に忠誠な家来どもの忠告を容れて、京都に上った。彼が京の近くに着くと、公方の若い息子が二人で、出迎へに来た。秀頼は堂々と入第した。公方は大に礼を厚うして彼を遇し、対等の取扱ひをし、自分が太閤様から受けた恩顧に就いて、縷々語りつゞけた。時に結構な贈物が取りかはされ、やがて秀頼は満足して城に帰ったが、彼の母の喜びは、更に大きかった。公方は息子を派し、自らの名に於て答礼させた。されば、なほ暫くは、平和は保証されてゐるものゝ如くであつた。
前年の記録には、実に熱心なキリシタンとして表はれてゐた、有馬の大名ドン・ヨハネ(有馬晴信)は、過去の功労の結果を失ひ、又嘗てはその祖先に属してゐたのを、祖先が戦役中に失った領地を取り戻さうとの野心のために、宗教に対する興味は禍されてゐた。彼は、息子ドン・ミカエル(有馬直純)と公方様の孫女との忌はしい結婚を承諾したのであつた。間もなく彼は、上野殿(本多正純)の秘書役のパウロ大八(岡本大八)といふキリシタンと関係を結んだ。それは、君に対して甚だ信用があり、領地の分配には屡々参与してゐた、この大名の知遇を得ることを望んでのことであつた。
有馬のドン・ヨハネが大八に沢山の贈物をすれば、大八も又、彼に空々しい約束をした。なほ大八は、大胆にも公方様から得たと称する、偽物の証書の写しをドン・ヨハネに送った。後に彼はこの特権は、若干の反対者、殊にキリシタンや有馬殿その人にとつて不倶戴天の敵である、長崎奉行左兵衛(長谷川左兵衛)等の中傷で取消された、と言ひ出した。やがて有馬の大名は、自ら解決せんと欲し、七月頃、息子ドン・ミカエルとその新夫人とを同伴して政庁に上った。ミカエルは、当時夫人の勤めにより、父を隠居させて相続することを考へてゐた。
教会の一般概況は、色々不安の徴があるとはいへ、依然として隆盛であつた。キリシタンたると未信者たるとを問はず、諸大名は多く領内で自由に説教することを許し、また屡々宣教師達の窮迫に対して大に援助するところがあつた。帝国中最も有力な君(将軍)を除けば、他は皆この点に於て一致してゐた。然も当時は、他の大名が寛容だといつて、非を鳴らす者はゐなかつた。
特に同情を寄せてゐた者の中、福島大夫殿がその第一位にゐた。彼は二箇国を領し、宣教師達に対して実に自由な態度をとり、宗教の発展を公然助けてゐた。筑前の大名も亦、劣らず寛大であつた。この援助によつて、先に得たものはその儘維持し、更に新しい地方に伝道を開拓することが出来た。
(中略)
その間に七月十三日、新イスパニア(メキシコ)から一隻の船が着いた。同船には、メキシコの副王の大使ドン・ヌーニョ・デ・ソトマヨールがフランシスコ会のソテロ師を同伴して乗ってゐた。この大使は、ビベロが受けた好意を謝するために来たもので、同時にビベロを送って行き、メキシコで大歓迎を受けた日本人の乗組員を送って来たのであつた。イスパニア人は、美事な贈物を持参し、また商売用の羅紗を積んで来た。イスパニア人の進物は、君主の嘉納するところとなつた。
ポルトガルの大使は、薩摩を経て八月四日京都に着いた。彼等は二百ベクルばかりの生糸、羅紗、並に金を持参してゐた。彼等は、又豊富な贈物を携帯し、その行列は美事であつた。彼等は、一つには、三年前にマカオで殺された日本人の殺害の弁明をし、又一つには前年長崎で焼打にされた圓型船の賠償を要求して、通商の復活を望んで来たのであつた。ポルトガル人の贈物は、嘉納された。然し、彼等の賠償要求は承諾されず、又彼等の請願には一切回答なく放置された。
オランダ人は航海を続け、八月十六日に駿河に着いた。
(中略)
オランダ人は、八月十七日に謁見し、請願書を提出した。
次いで、彼等もポルトガル人やイスパニア人と同じく、江戸では将軍の息子(秀忠)に敬意を表し、大坂では秀頼公に敬意を表した。
遂に彼等は、願ひ出てあつた特許状を受けたのであるが、その文面は好意あるものであつた。彼等は、翌年再び来ることを約束した。
オランダ人は、九月三日駿河を発し、同月二十七日スペックス並に平戸の商館に必要な人をおいて、パタニに向けて出帆した。
この頃アダムスは、スペックスからジャバに数名のイギリス商人のゐることを聞き、一六一一年十月二十二日附の手紙をもつて自らの消息を漏らし、同時にケント伯爵領ライムハウスにゐる妻に宛てた書翰を一緒にして出した。
(後略)
第十四章 一六一二年(慶長十七年) (一部)
大八事件を受けての有馬晴信の処罰と、それに続くキリシタン迫害に関する記述。
十四年前から独裁君主となった公方様は、慎重に穏健に政治を行ってゐた、この慎重さ穏健さは、彼にあっては先天的のものであった。彼は依然同名の城下町駿河に住み、其領内から上る収入、諸侯の貢物、又ポルトガル人との貿易によって莫大の富を蓄積してゐた、之も彼の性癖の致すところであり、又政治的見地から出たものでもあった。
貿易は、特に彼にとって、好ましいものであった、その為に、キリシタンに目をかけてゐた。然し、同じ利益のために、オランダ商人に対して、矢張り好意を寄せてゐた。
同時に、彼は、素行放肆に陥り、愈々迷信の奴隷になってゐた。この年、彼は心を慰めるためと称して、總ゆる宗派の僧侶を召集した。彼は、彼等の説く所を聴き、大日の流れを汲む天台宗を己が宗旨とした。この宗旨に変ると、彼は叫んだ。『あゝ!哀れな身共じゃ!若し私が二日前に死んでゐたら、私の魂はどこにゐたことであらう!私は邪道に踏み迷ってゐた!私が之まで頼りとして来たものを見てくれ!』「南蛮」即ちヨーロッパの修道者の説く所を聴くやう彼に勧める者もあったが、左兵衛その他の侍臣等は之に反対し、かくて君主の罪の生活は、神の慈悲に対して、謂はゞ如何ともしやうもない障害であった。
(中略)
秀頼は大坂にあって、常に父の遺産を守ってゐたが、又これを使っては、もろ/\の偶像、殊に新しい「大仏」の数を増してゐた。この寺の円柱は、夫々六千エクスの價があった。然し、この君は、愚劣な迷信に捕はれてゐながら、キリシタンの侍に対しても、好意を寄せてゐた。
この年三月二十七日、彼は老将軍に伺候のため京都に上った。同日、内裏(後陽成天皇)は御子政仁即ち「後水尾院」と言ふ御名で呼ばはせ給ふ御方のために、帝位を退き給うた。
二つの主なる原因から、恐しい迫害が起った。その一つは、有馬のドン・ヨハネ(有馬晴信)の大望、他の一つは、イスパニヤ人に対するアダムス及びオランダ人の中傷であった。
ドン・ミカエル(有馬直純)は、予て父の計画を訴へ出てゐた。そこで公方様は、顧問官に調査を命じた。陰謀と贈賄の事実は、明るみに出された。大八(岡本大八)は、妻と共に火灸の宣告を受けた。妻は免されたが、大八は四月殺され、而もキリシタンとして死んだ。その息子も、宣告の巻添をくって首を刎ねられた。
公方様は、ドン・ヨハネが、他の領主に帰属してゐる領地を取戻さうと望んだことを許さず、所領を全部没収した上で、紀ノ國に追放した。ドン・ミカエルが父の領分を全部受けついだ。
ドン・ヨハネは聖週の金曜日、追放の報を受け、而も敬虔に且つ後悔の心を以て、己が運命を受けた。そして彼は、救済の道に入った。誰も、彼は日本の風習からよもや追放を受けまい、切腹するであらうと信じてゐた。然るに彼は、一段と高い勇気に励まされてゐた。而も秀れたキリシタンであった彼の夫人のジュスタは、愈々彼の決心を固くした。彼は復活祭中に出発した。息子の反逆によって、彼は皆の者から叛かれ、捨てられ給うた救主の御受難のことが一入感じられた。配所にあって、彼はその地の領主トサドノから厚遇はされたが、厳重に監視されてゐた。ドン・ヨハネは暇さへあれば、救主の御受難に関する書物、その他修養書類に読み耽ってゐた。彼は、又ありし日の罪を憶ひ起し、息子ミカエルが迫害者とならぬやう祈り、祈らしめた。然し彼は、後に領地を回復したいとの淡い望の中に、政庁と文書を往復した。ミカエルは之を知るや、その恐しい夫人、並に左兵衛と共同して、新に陰謀を企てゝゐるものとして、公方に訴へ出た。而して、彼等は、老侯、並に二度目の結婚によって得た二人の幼児の意に反して、死刑の宣告を受けた。(晴信の流されたるは甲斐、大久保石見守長安方にして、トサドノとあるは誤ならん)
この國の大名と、京都の所司代の長子とは、処刑のことを委せられて、百五十人の者共を率ゐて出発した。彼等は、ドン・ヨハネに自殺を勧めさせた。老いたる大名は答へて、之はキリシタンにとっては禁止された事柄である。然し、自分も妻子も主君の命ずるところに従って、決して反抗しないと言った。僅に、彼は死ぬる用意の暇を請うた。彼は、その息子のミカエルに優しい忠告の手紙を書き送った。次いで、彼は、十字架を前にして、大声で己が罪の大体を語りつゝ、我が救主の御受難と痛悔の釈義とを、静かに読んで貰った。次いで、彼は跪き、暫時祈祷をし、彼が最高官に選んであったカヂザエモンといふ家来の一人を呼びよせて、その事を果すやうに合図をし、二人の侍がこの勇気を見て、感心してゐるところを、一撃で斬首された。
同じくこの場にあったジュスタ夫人は、夫の首を地面から拾上げて之に接吻した。次いで彼女は己が部屋に引きとって、思ひきり悲しみを味はった。彼女は浮世を捨てたしるしに髪を切り、京都に行くことを拒絶して、初婚の時得た一人の子の家に住むことゝし、喪中三年間は異郷の空に暮し、それから夫の遺骸を長崎に移したいと言った。
公方様は、この機会に、家臣の中のキリシタンに対しては、断乎たる処置に出た。彼は、彼等の全財産を没収し、妻子は追放、而も諸侯の之を領内に入れることを禁止した。
迫害の第二の動機は、前年イスパニヤ人に与へられた、帝国の辺海を測量する許可であった。愈々ヨーロッパの事情を公方様に語ったアダムスは、イスオアニヤ人が測量したのは、含むところがるのであって、新イスパニヤ、ルソン、その他イスパニヤ王によって征服された国々は皆さうであったと、公方様に言葉巧みに説いた。公方様は、アダムスの暗示によって、予て疑ひをかけてゐたイスパニヤ人やポルトガル人に対して憤慨した。彼は、この両国人と征服者らしくもなく、キリシタンらしい素振も見えないオランダ人とを区別してゐた。同時に、彼は、上方の地方の天主堂を悉く破壊せよとの命令を発した。既に彼の子たる将軍も、同じ禁令を出してゐた。
諸侯も大方、主権者に倣ってキリシタンの武士を追放し、その財産を没収した。
然し(なほ之は、かうした不幸に対する一つの調節であったが)天主は、京都の所司代板倉殿(板倉勝重)をして、公方の名義で、同市の神父修院長に、その一味の者共に遠慮なく滞在を許し、僅かの追放者を除き、キリシタンをその駐在所に迎へる由を知らせることを許し給うた。同所司代は、フランシスコ会の神父達に対し、許可なしに建てた天主堂は破壊せよと勧告した。なほ上京に在ったイエズス会の伝道所も亦、同様であった。
然るに、京都に在った第二の伝道所と、関東その他遠隔に地に在った伝道所の大方は、金で買ひ戻された。伏見や堺にあったイエズス会の天主堂は、俗間の人の世話に任されたまゝ存続してゐた。但し、実に慎重に管理される必要があった。
伏見に於けるフランシスコ会の天主堂と、京都に於けるドミニコ会のそれも、亦同じく存続されることになった。
大坂の天主堂は、秀頼の特別の領内にあり、もと太閤様の許可を得て建設されたものであるが、完全な自由を得てゐた。
若き公方様の城下である江戸は、これに比してずっと厳格な舞台であった。この事に就いては追って述べることにしよう。
(中略)
有馬のドン・ヨハネと、その第二の夫人ジュスタとの間に出来た、フランシスコと言ふ八歳の子供は、迫害者の努力に一向平気で、之が無いと力が抜けるといって、嘗て首に吊した遺物匣を外したことが無かった。迫害に負けて転んだ人々は、公に懺悔し、立返らして貰ひたいと言ってゐた。中には、実に勇敢な武士レオ・キシザヱモンがゐた。彼は性分に似合はず、言ひ遁れをいってゐたのであった。イエズス会の修道者達は、彼を呼んで、その不心得を指摘した。彼は、直ちに老人ヤマトの許に馳せつけ、大勢の前で、どうしてもキリシタンになるといふ、堅い決心のほどを堂々と宣べた。次いで彼は、妻のクララ同道で帰宅したが、それは天主の御計ひにより、一切のことに覚悟を決めるためであった。
然し、有馬殿は、自らが公方に告発されまいとて、目立つたキリシタンを若干犠牲にして、手本を示そうと思った。彼は、有家のキリシタン二人を死刑に処し、幾程もなく又一人有馬のキリシタンを厳罰に処した。
(中略)
その後間もなく、有馬殿は左兵衛(長谷川左兵衛広智)の命令に従ふために、有馬のレオ・キク・キザヱモン(北喜左衛門)にぶつかって行った。レオは、有馬から三リュー離れた千々石の町の産で、名家の出身であった。彼は子供の頃洗礼を受け、学林が豊後から千々石に移された頃、即ち一五八八年(天正十六年)、宣教師の来たことを大に利用した。彼は甚だ熱心で、表面は厳格であったが、貧乏人に対しては、大に慈愛を施し、また死者の埋葬に努力してゐた。レオは有馬殿の意衷を知り、迫害を受ける決心をし、領主に対って自分は奉公も望めば、キリシタンとして生きても行きたい旨を通じて貰った。この声明の後、彼は死ぬ覚悟をした上に、熱心は倍加した。同時に、彼は四方八方から兄弟達を激励し、侍といふよりは宣教師のやうに見えた。彼は太刀さへも脱した。それは走狗に襲はれたやうな場合、防禦の誘惑を避けたいためであった。あるキリシタンが死んだ、然るに隣人達は禁令のため、敢て之を埋葬しようとはしなかった。そこで、レオが行って最後の儀式を行ったり、埋葬式の祈祷を上げたりした。彼は森林中に四散してゐた難教者達を訪問したり、肥後の追放者を訪問したり、肥後の追放者を訪問して、シャムにゐる富裕な友人から贈られた金を、彼等の許に持参したいと考へてゐた。彼は自分の死ぬ八日前に、有馬殿の領内の金山にゐた一神父を訪うて告白した。
三人の役人が、恐ろしく厳重に吟味をしてゐた折も折、彼は首にロザリオをかけて有馬に行き、屋形に仕へることを止めて、願の結果を待ってゐた。
領主の叔父カモンは、彼を呼びだした。レオは彼が管区長ガスパル・コエーリオの世話で教育を受けながら、棄教したことを非難した。カモンは大いに怒り、之に答へて「反逆者呼ばりは止せ、何ツ、殿様がどうしても地獄へおいでになるなら、俺は地獄までお供する覚悟だ。」と言った。レオは、之に答へて、家来の義務はこの世だけのものである。何となれば、いくら殿様でも、あの世に行ってまで支配権は持ってをられぬからと言った。ゴンザヱモンとヤマトは、なほも弁駁したが、無駄であった。ヤマトが堂々と彼を領主に訴へ出ると、領主は愈々レオを血祭に上げることに決した。
被昇天の八日目の朝(八月二十二日)、レオは有馬殿の面前に呼出されることを期待し、再び剣を腰にし、攻撃されたら脱す心算であった。真実、この主の真の羊は、天主のために命を捧げようといふ強い希望を持ってゐた。この希望は、恐しい狼である吟味役が、この命をとりたいといふ希望よりも、更に強いものであった。
奉行のイチロヱモンは、出し抜けに宣告を実行せよとの命令を受け、これを果すために、レオの友人である二人の侍、即ちヤムブロビョーヱとキムパチを指名した。彼等は、彼を領主の屋形に呼びつけ、其途中で彼等の中一人が特に誘って、『生命の危険に気をつけるがよい』といった。――『私は朝鮮の役その他で、多数の敵の命を奪った。然し、若し之が永遠の救済でなかったら、一切が空だといふことを今日知り申した。』とレオは言った。なほ狭い通りを彼は、先に立って歩かされた。そして役人の一人は、肩の右側からもの凄い一撃を打下し、胸の辺りまで真二つに切った。レオは『イエズス!イエズス!』と呼ばはった。なほ右手で剣を抜いて、遠くに投げた。同じく右手で十字を切らうとしたが、突然こと切れてしまった。享年五十歳であった。
キリシタン達は、彼の遺骸を譲り受け遺物を集めるために馳せ駈けつけた。有馬殿の叔父ヨクセンと、もう一人の大名は、共に秀れたキリシタンであったが、暫時之を城の附近の墓地に埋葬した。ところが夜になると之は掘出され、長崎に移された。管区長は目に立たないやうに諸聖人の駐在所内に墓地を与へた。
(中略)
漸く二十歳になったかならぬかの有馬殿の正室マルタは、千々石の附近に住んでゐた。彼女は再婚を勧められたが、拒絶した。彼女は、長崎の山間に追放され、藁葺の小屋に監禁された。
(中略)
丹後の大名(京極高知)と、若狭の大名(京極高次)との母であるドンナ・マリア(京極高吉夫人)は、依然その信心にかけては最も良い手本を示し、家庭を一個の修道院のやうにしてゐた。
四旬節に、京都では最初の迫害の徴が見えた。将軍の禁令が布かれ、キリシタンは詮索された。異教徒の家に宿ってゐた若干のキリシタンも亦、追放された。然し、所司代板倉殿は、優しく思慮の深い人で、詮索を続ける気はなく、従って、事はそのまま立消えになってしまった。
同じくこの年、四年前にキリシタンになった美濃の大々名の一人の息子稲葉十兵衛(正貞)は、一修士を招いたが、それは名門出の夫人に教を受けさせるためであった。夫人は、子供や家族五十人余の者と共に、洗礼を受けた。
浄土宗の中で、司教の位にあった、尾張の城下名古屋の一仏僧と、紀ノ國の甚だ尊貴の大名とが、一人の哀れな盲人からキリシタンの教理を教はった。彼等は折も折、聖き洗礼を受け、よく耐えた。
伏見と堺の二箇所には、夫々司祭と修士とが各々一人宛ゐた。公方が上方に来る時、その宿所となった伏見が一番危険であった。然し、イエズス会の伝道所には、普通の家と区別のつくよやうなものは何もなく、而もジュスト右近殿の従兄弟マンビョーヱの名義にしてあった。奉行は、時々一人の神父が来てゐたとか、政庁へ上る途中にあるポルトガル人が泊ったとか言ふ報告を受けた。奉行は、これ等の説明を聞いて満足げであった。
盲人の中には、或る位があって、その一番高いのはクワングコ(検校)と言ひ、之は皆の頭であった。この頭は、堺の一盲人がキリシタン宗に入ってゐることを知って、仲間の者に命じ、その特権と収入とを全部剥奪させた。この盲人は、布施で暮しをたてた。
大坂の伝道所には、司祭が一人と修士が一人ゐて、この伝道所は、素と太閤様の特許を以て設立されたもので、前述の如く息子秀頼の保護下にあるのであった。その伝道所には、ひどい迷惑はかゝらなかった。若干の異教徒が、キリシタンである親や子供や家来に棄教させようと試みてゐただけであった。
かくて、この町に、一人の殉教者が出た。もと肥前の生れで、十年前に博多で洗礼を受けたレオ・カヱモンは、大坂に来て、そこでイマンダ・ファンシローといふ異教徒に仕へ、ファンシローは、彼を家老にしてゐた。イマンダの母は、ファンシローに勧めて、レオに棄教させようとした。レオは、殺すとおどかされ、それが真剣なことを知るや、殉教の覚悟を決めた。果して、七月七日、イマンダは、再び命令を発し、レオがきかないのえお見ると、剣を抜いて足元に切り倒したが、レオは何等抵抗しなかった。彼は享年三十五歳であった。
北國諸州の一である加賀の城下金沢には、一の伝道所があって、こゝには司祭と修士が各々一人づゝをり、その費用はジュスト右近殿(高山右近)が出してゐた。右近殿は、同国の大名肥前殿(前田利長)から弾劾された。すると彼は、自分は唯一の真理を信じてゐる、この年になって今更変へる訳には行かないと答へた。領主は、ジュストとその他のキリシタンを放任しておいた。
同じ名の州の城下町で、公方の常住の地である駿河には、司祭が一人と修士が一人ゐて、此二人は屡々江戸を訪問した。こゝには、迫害前夥しいキリシタンがゐて、一箇年半の中に、二百四十人の成年者が洗礼を受けた。然るに、帝国の中心には、嵐が物凄く吹きまくり、ためにキリシタン達は、皆死ぬ覚悟をしてをった。
諸侯も亦、公方の例に倣ひ、夫々部下の士卒を苦しめてゐた。この艱難の中にあって、全キリシタンの聖なる悦びは、異教徒をいたく感嘆させた、この異教徒は、イエズス・キリストの信仰の中に、深い秘義がない筈はないと公然言ってゐた。職人と細民とは、武家と対抗してゐた。然し、公方は、知行を与へてないキリシタンには、何等とるべき術がないと言った。故にさういふキリシタンは、殊勝な勇気の真価と効果とを失はないやうにして暫し静かにしてゐた。
公方が、近時断乎として追放した十四人の武家の中の筆頭は、ディエゴ小笠原(小笠原権之丞)で、彼は齢二十四歳、僅々六年前に洗礼を受けたものであった。彼は、六千石の碌を食んでゐた。洗礼を受けて以来、彼の生活は天使の如く清く、其なすところは熱心な修道者そのまゝであった。彼は、家中の者三百人に洗礼を受けさせた。彼は領内の一所に天主堂を建立し、また同地に、聖母の会を創らせた。彼は、駿河に於けるイエズス会の駐在所の主なる創立者であり、又その最も有力な保護者であった。彼は結婚した為に、修道生活をすることが出来ないので、常にイエズス・キリストのために死にたいと思ってゐた。
迫害の起り始めた頃、彼は三河にゐた。間もなく、彼は殉教の希望を抱いて帰り、駿河に到着するや家に行かず、宣教師の許にかけつけた。彼は終夜精神的の修業をし、朝になると告白をし、聖体を拝領し、かくて最後の戦に備へるために、力を養ってゐた。然るに当時、公方は何より先に、大八の陰謀にかゝり切ってゐた。ディエゴは三河に帰り、そこで将軍の名に於て、彼がもとの功労に免じて生命は免すが、財産は没収した上追放する旨を記した駿河の奉行の報に接した。ディエゴは、悦んで信仰を告白した。彼がたゞ一つ遺憾に思ったのは、命を捧げることの出来ないといふ事であった。彼は夫人と二歳になる女の子を連れて出発、亡命した。
十四人の中には、二人の兄弟がゐて、兄はヨハキム十郎兵衛(梶)、弟はバルトロメオ市之助(梶)であった。彼等は天下の主(公方)の小姓で、弟は漸く十六歳であった。彼等は、漸く二年前に洗礼を受けたのであった。彼等は迫害に加はらんがため、外からかけつけ、告白してから神父達の住居に来た。それは、其処が一番先に槍玉に上るだろう、と考えたからであった。彼等は、そこに行って自分達の運命を待った。彼等の受洗は、極く最近のことであったため、名簿に、名が載ってゐない事を知って、彼等は直ちに屋形に出頭して自首し、名を登録して貰って漸く安心した。彼等は、悦んで没収と追放の宣告を受けた。その他の侍等も皆同じく勇敢であった。
迫害の起る二箇月前、第一位の武将で公方の寵臣である加兵衛(榊原)は、八歳になる子と部下の或る者と共に洗礼を受けた。追放の宣告を受けると、彼の信仰は弱まった。公方はイエズス・キリストの信仰を物質的の利益のために棄てたといふので、彼を破廉恥漢、また賤民として待遇した。かくて、この不幸な人は、隠れ家もなく収入もなく、面目もなくなり、最早人前に出る気がなくなってゐた。
然し、種々例のある中にも、最も驚嘆すべきは、婦人によって与へられた。大奥にゐたキリシタンの中には、第一位に有名な婦人達、即ちジュリヤ、ルシヤ、及びクララがゐた。彼女等は酷い迫害を受けたが、良く之に耐へたことは驚くべきものであった。
その筆頭は、ジュリヤであった。彼女は、もと朝鮮人で、公方や幕府の人々から大事にされ、非常に人望があった。公方は彼女の強情に甚だ立腹し、当時ルシヤとクララはさて置き、總ゆる手段をもってジュリヤを説伏せよと命じた。彼女は、天晴これに抵抗し、南方伊豆の大島に流された。ジュリヤは、跣足でその地に渡ることを望んだ。一キリシタンの意見に対して、彼女は、我主は肩に十字架を負うてカルパリオに攀ぢ登り給ひ、駕でなく跣足で行かれて血で地面を染めなされたと答へた。ジュリヤは、足が血に染れたので、護衛の者は、再び乗物に乗せなければならなかった。彼女は、網代の地で上船した。彼女の唯一の心残りは、ミサ聖祭を拝聴し、告白が出来なくなると考える事であった。大島に行きつくために未だ六十哩の道程があった。大島にあること三十日で、ジュリヤは新島といふ十五リュー離れた島に移された。そこには既に大奥を追はれた婦人が幾人かゐた。終に彼女は、哀れな漁夫の住んでゐる神津島といふ、更に十八リュー離れた小島に移された。彼女は、駿河の神父に書を送り、サンクトスの御作業や、殉教者伝や、聖なる童貞達の伝記を欲しいと言ってやった。
追放者達は、皆天主の特別のお計ひによって、何処ででも真理の伝達者となった。
(後略)
第十五章 一六一三年(慶長十八年) (一部)
支倉長経(常長)の出発と、セーリスの来日など。
父子二人(家康、秀忠)の主権者は、共同して十全の帝国を営み、帝国内の和協と平和の維持によって、その新しい家系の永続の保証を望んでいた。
その間、宗教はなほも受難の途にあった。そして種々の点で、緩かになつた迫害も、或る地方では愈々激しくなり、目覚しい殉教者が出て、世の注目を引いた。
老いたる内府様の偶像教の迷信と、教会に対する憎悪とは、年と共に加はって行つたが、利得に対する愛着があり、又マカオやフィリピンとの通商を継続したがってゐたので、辛じて之を制してゐたに過ぎなかつた。彼はなほ、ポルトガル人やイスパニヤ人を優遇し、若干の宣教師は之を黙許してゐた。なほ此年この主権者父子は、イエズス会の司教と管区長の使者を好遇した。
その結果、上方の諸国、即ち帝国の首府京都、帝国の都市である大坂と伏見、主要なる商業都市たる堺で、修道者達は無事に伝道を続けてゐた。イエズス会の修道者達は、之等の都市には皆住居し、なほ又フランシスコ会の修道者達は、大坂と伏見に住んでゐた。(何となれば、彼等は迫害の当初からドミニコ会の神父等と共に、京都を追放されてゐたからであつた。)
京都では、御自ら二つの尼院の長にあらせられた内裏(後水尾天皇)の御叔母君は、説教を聴くためにお出ましあり、又その御母君と御妹君、即ち前の内裏(後陽成天皇)の御后をお誘ひ遊ばされた。この御三方は、限りなく天主の教を御珍重あらせられ、若しかゝる高貴な方々にお定りの例の御障害がなかつたら、何れも洗礼をお望みになつたことであらう。然し御三方みな、お側の役人のキリシタンになることを許し給うた。
大坂の駐在所は、常に秀頼とその母の庇護を受け、剰へその臨席を得てゐた。イエズス会の神父達は、長崎ばかりでなく、北国の諸州、安芸の広島、二つの伝道所の所在地である肥前、肥後に属する壱岐、神津浦の島々で自由に伝道してゐた。
(中略)
八月、江戸で迫害が始った。一六一二年に破壊されたフランシスコ会の小さな御堂の代りに、ソテロ師は、市から半リュー距る浅草といふ所にあつた癩病院の中に、藁でかこつた駐在所と礼拝堂とを建て、大勢のキリシタンのためにミサを立てゝゐた。
将軍様は、見すぼらしい礼拝堂も一種の城のやうなものだと言ふ報告を受けとると、江戸とその附近を厳重に調査せよと命令した。彼は、癩病人と発見されたキリシタンを全部、その場に監禁してしまった。彼等は足には桎、首には大きな鉄の環を以てつながれた。番卒は、昼夜見張りをしてゐた。
この難教者の一人アポリナリオは、不潔な牢にぶち込まれ、続け様に四日間祈祷した上、飢餓とその場の臭気のため、一番先に息を引きとつた。
ソテロ師も、その信者と共に捕はれてゐた。アポリナリオを除いて彼等の総勢は二十七人で、皆火炙りの宣告を受けた。諸侯、殊に伊達政宗は、ソテロ師に対する宣告の取消を取計つた。
日本人は、全部次々と殉教した。彼等は、先づ決心を書出すやう仰せつけられた。ソテロ師の伝道士ヨハネ・ミムボク(民牧)は、すら/\と認め、皆の名で署名した。
八月十六日、江戸の八人のキリシタンは、公儀の牢に入れられ、其処から更に江戸と浅草の間に位するトンシヤイ(鳥越か)に導かれ、そこでキリシタンと、同信徒の頭分として死罪に遭うことになつた。彼等は皆首を刎ねられ、その首級は七日間曝された。
八月十七日、浅草の囚徒達十四人は、引き出されて同じく斬首された。宣告文には、彼等が棄教を約束しておきながら、立返った由を記してあつた。実のところ、僅か三四人の者は弱ってゐながら、立派に死んで行った。役人達は、他の者に就いては詐はつてゐた。
総て之等の殉教者に対しては、その屍は試切りにされ、残骸には七日も番人がついてゐた。
九月七日、ソテロ師の従僕で伝道士で秀れた説教師であるヨハネ・ミンボクは、フランシスコ会の神父の従僕で伝道士であるグレゴリオ、某大名の小姓なるパウロとグレゴリオ・ヨヒョーエ(與兵衛)の二人の若者、並に牢内で受洗した一異教徒と共に死刑になつた。ヨハネ・ミンボクは、刑場でも神の言葉を説教した。彼等は皆斬首された。
フランシスコ会の神父の伝道士で、著名な司祭であったロレンシオ板倉(板倉茂九郎)は、奉行所で非常な勇気をあらはした。彼は牢にとり残された。つまり皆彼の心を翻したいと望んでゐたからであつた。彼は、一六一七年、祝福された死を遂げるまで五年の間鉄窓の中にゐた。
ソテロは殉教を望んでゐたが、政宗は彼を其城下に伴れて行った。奥州の大名は、キリシタンになる意のあることを洩し、領内にはどこでも天主堂を建て、伝道を始める約束をした。彼はソテロ師に、部下の士の一人支倉六右衛門を伴って大使として、教皇とイスパニヤ王の許に至り、教皇の前では宗教に好意をもつてゐることを述べ、イスパニヤ王とは政治上並に通商上の条約を結ぶことを命じた。彼等は、間もなく出発した。
その間、有馬のドン・ミカエル、即ち左衛門佐殿(有馬直純)は、予て父の二度目の夫人ドンナ・ジュスタとの間に出来た八歳になるフランシスコと、六歳になるマテオの幼い弟二人を死刑にせよ、と命令してあった。この幼い二人の王子は、四十日間厳重に監禁された。二人は、牢内で我が身の運命を見抜いてゐた。愈々最後の日の前夜になると、二人の伴侶のイグナチオは、二人が敬虔の勤行を激励し、天晴な言葉をはなむけした。夜半一人の卒が牢に入って来て、一撃でマテオの胸を刺し、フランシスコの喉に斬りつけた。祝福されたこの二人の犠牲者は、うき世の死の苦しみも感ぜず、如何にも自然に、天国の幸福の快楽と真の生命に入って行った。
彼等の母ドンナ・ジュスタは、既に流謫の地から呼び戻され、秘かに京都の両親の許に身を寄せてゐたが、聖い諦めを以て、この殉教の報告を受取った。
(中略)
バンタムのイギリス商館の管理人ジョン・セイリスは、「クローブ号」と「トーマス号」とを率ゐ、一六一三年一月出発した。彼はイギリスで積んだ積荷の外に、胡椒七百袋をその二隻の船に積込ませた。六月十一日、彼は平戸に上陸し、同地で老侯法印様(松倉鎮信宗信法印)と、その指図の下に治めてゐる殿、或は殿様から一方ならぬ厚遇を受けた。彼は二人の君主に、イギリス王の書翰を呈した。将軍に提出した他の書翰に就いては、後に述べる。オランダの商館長ヘンドリック・ブラウェルは、この新しい競争者を嫉視したが、敢て公然と妨害するやうなことはしなかった。セイリスは、江戸にゐたアダムスに書を送ったが、その前に先づ支那人の所有にかゝる家を一軒借りることが出来た。間もなく彼は、オランダ人に種々提議をすると、ブラウェルは承知を装うたが、然し之を避けた。七月二十九日、アダムスは平戸に着いた。
セイリスは、八月二日幕府に向けて出発し、大坂、伏見を経て九月六日、駿河に着いた。アダムスは、迅速な進捗を取計うため、直ちに之が報告に行った。八日、セイリスは将軍に謁見し、国王ジェイムス一世の親翰を奉呈した。将軍は、彼を甚だ好遇し、江戸に行って世子を訪問することを勧めた。
この間、セイリスは通商の条項を嘆願した。僅かに一箇条を除き、彼の希望は全部容れられた。その一箇条とは、即ちイギリス人は、支那人と通商を断つてゐたので、捕獲した支那船を全部日本に曳いて来て、之を没収し売却する自由であった。
九月十二日、セイリスは、江戸に向けて出発し、途中「大仏」を見物し、十四日に首府に着いて十七日に将軍に謁見した。
彼は二十一日、江戸を発して駿河に帰り、二十九日同所に着いた。彼は、数日間イギリス王に宛てた皇帝の書翰を待ち、十月八日に至って免許状の案文並に書翰を受取った。
これ等の免許状によって、日本の何れの湊に於ても通商の絶対且つ永遠の自由――関税の全免――商館を建てる権利――蝦夷その他日本に隣接する土地の発見に対する免許等が與へてあった。
セイリスは駿河で、マニラから来たドミニコ・フランシスコといふイスパニヤの大使に遭った。この大使は、イスパニヤ王の許可なくして日本に来てゐるポルトガル人やイスパニヤ人を、フィリピンに送るため、引渡しを要求するために来てゐたのであつた。彼が申請の動機は、オランダ人に対してモルッカ諸島を守るために、甚しく人手の不足してゐるためであつた。イスパニヤ人は、長らく皇帝の返事を待った。ところが、皇帝の宣言では、我国は自由な国故、何人をも強制的に追放する訳には行かぬといふので、返事は否定的のものであつた。大使は不満を抱いて退去した。
十月九日、セイリスは駿河を発して江戸(平戸か)に向った。
セイリスが江戸に着く一箇月前に、皇帝は発令して、新に信者となつた者は長崎に行くべきこと、政庁から十リューの区域内にあつては、天主堂の存在やミサ聖祭を立てることを許さず、違背者は死罪といふことにした。
セイリスは、十月十六日に京都に着いた。彼は皇帝の贈物として「屏風」即ち大絵十枚を受け、十月三十日京都を出発し、伏見、大坂を経て十一月六日平戸に帰着した。彼は老皇帝に日本人の水夫十二人を、イギリスに同伴することを願ひ出て許可を得た。
十一月二十八日、彼は商人達の意見を纏め、シャムやパタニに建てゝあるものに倣って、商館を建てることに決した。その商館は、イギリス一人が八人、日本人の通詞が三人、下僕二人からなるものであった。
同商館では、通商上の利益の外に、次の船の来るまで朝鮮の沿岸(当時の人は、朝鮮を島と思ひ、なほ長い間さう思ってゐた)や、日本の未知の地方とその隣接諸国を、捜索探険する任務を帯びてゐた。
リチャード・コックスは、商館長並に商人頭に任命された。ヰリヤム・アダムス(一年百リーブルで会社に抱へられていた)は、他の六人のイギリス人と共に彼を助けてゐた。
セイリスは、十二月六日平戸を出帆した。彼は十五人の日本人を連れて行った。一六一四年一月三日、バンタムに到着し、二月三日更に同地を出発して、五月十六日喜望岬に達し、九月二十七日プリモースに入港した。
オランダ人スペックスは、この年ヘンドリック・ブルーワーと交代したが、翌年帰らなければならなかつた。
(岩波文庫『日本切支丹宗門史』上巻を底本としました。)
日本武術神妙記一(序文)
日本武術神妙記
中里介山著
序文
これは御覧の通り日本武術の名人の逸話集である、創作ではない、取り敢えず著者所蔵本の一部分から忠実に抜き集め、それを最も読みよきように書き改めたまでであるから著というよりも編ということが、ふさわしいかも知れない、併しそれにしても相当の頭脳を使い取捨の労を加えたことに於て必ずしも著作に劣らない労力を要した、そこで著と称しても潜越ではないと考えられる処がある。 ここに日本武術とはいうけれどもこれは所謂武術の「流派」というものが定まった時代から出発しているので、つまり足利の末、徳川の初期の間に筆を起して最近幕末明治にまで及んでいる。
本来日本は武術の天才国である、それは建国以来の国風であって、その間に箇人としても驚嘆すべき幾多の武術的天才を生んでいるが、武術というものが科学的組織に成功したのはこの「流派時代」に始まるといってよろしい、それまでの武術は特に個々の天才が秀出したり或いは武術というものが戦争の一つの附属芸術に過ぎなかったものを、この期に至って個人武として立派に独立した一つの科学とし芸術としたものである、通常、飯篠長威斎の天真正伝神道派をもって流派というものの起りとしているから本書に於てもそこから始めている。
右の初期に於ては個人武を総て兵法といっていた、後には兵法の学は軍隊運用学のようにとられて来たがその時代は兵法が即ち個人武であってまた必ずしも剣術のみに限らず槍、薙刀、組打等すべて個人武を総称したもので一流一派とはいうけれども初期の人は刀槍その他皆これに兼ね熟していた、また兵法という語の外に芸術という文字も武芸に対して用いられた、今日でこそ芸術という文字は不良文士の専売のようになったが、もとは日本武術の称呼の一つであった、この流派時代の初期は同時にまた日本武術の黄金時代であって、この間に輩出した流祖名人の芸術は真に超人的の神妙を極め得たりといいつべきであった。
それから徳川氏の泰平時代、この祖流は或いは本流は或いは支流となり或いは別派を起し、綿々として二百数十年続き来ったが、その間に広くなり浅くなり、繊巧に堕した弊はあるけれども曾て失墜廃棄されたことはなく、殊に諸武術のうちの主流をなす剣術の如きは徳川中期に於て二百余流、末期に於て五百余流を数えらるるに至った、世界の何れの国にも武術が斯くの如く科学的に而も統制的に普遍的に発達存続せしめられた国は無い。
日本武術を知らなければ日本国民性を理解する事は出来ない、これを剣道の側より見るも、各流儀それぞれ皆特色はあるが、通じて観る処の日本の剣法は我を護ることを先とせずして我を殺すことを先とする、西洋のフェンシングの如きは刀を片手に執り、身を引けるだけ引き、最も多く我が身を護りながら最も多く敵を傷つけようという防禦的経済の理法に出でているが、日本の剣法は、刀を双手に取って全身全力全精神をもって敵にぶっつかって行くのである、そうして死中に活を求むるという超経済の方法に出でている、これは、仏教のうちの禅の宗旨とよく合致した手段である、だから日本の剣法には本来受けるという手はないのであって、討つか討たれるかという二つの端的よりほかはないのである、そこで剣法の勝負は必ず相打であるーということが古流剣法の極意になっている、相打とはいいながら、その深浅精粗が問題なのである、皮を切らせて肉を斬れ、肉を斬らせて骨を斬れ、骨を斬らせて髄を斬れ、と柳生流(江戸将軍の師範なりし剣法)では云う、全く死中に飛び込んで活殺の自在を得るのである、その勝負はオールかナッシングか生か死かの決定的のものである。
その時代から少し下って、漸く稽古に道具をつけるようになり、叩合いがはじまったけれども、本来受けつ流しつの叩合いなるものは一つの稽古に過ぎないので、剣法そのものは斬るか斬られるか、生きるか死ぬるかである、そこで、勝を一瞬に決する、生死を眼前に見詰めることが宗教の境地に達するのである。
そうして、その勝を一瞬に決する勝負の為に一生涯の修練を費して絶対無擬の世界を悠々自若として歩み得るというのが名人の境地なのである、この剣道の特色精神が、事ある毎に日本の国民性を発揮している、剣道と相並んで行なわれた柔術、或は柔道というものにもこの特色がよく見られる、それから、スポーツの一種としての日本の国技とされている相撲に於いてもその特色がよく見られる、日本の相撲は西洋のレスリングやポクシングと違ってちょっと指を地に一本ついても、足を規定線外へちょっと踏み出しても、もうそれで勝負がついているのである、その代り、愈々取組むまでの計画と熟慮は非常に長い、それは日本のスポーツの立派な特色である。
日本の剣道に限らず、日本の武術はスポーツではない、近来軽薄なる記者が、是等をスポーツの中に組み入れているものがあるけれども、これは全然違っている、日本の武術は国民性そのものの発現であり、一種の宗教である、人が和かい気分で、生活の余裕に人も楽しみ我れも楽しましむるスポーツの類と同一視する時は非常なる誤解であり堕落である、日本に於ける大きな仕事は皆この剣道の意気に於て為され、国難はいつもこの武道の精神によって排除せられた、これを言葉に表わして見ると、「熟慮断行」である。
日本国民性は熟慮の際には殆んど無表情にして多くの侮辱を忍んでいる、殆んど忍び難きところまで忍んでいるが、実行となると死そのものの中へ直接飛び込んで活を求める。
明治維新の如きも、歴史的には日本空前の文化的飛躍の時機であったけれども、それを為した人は皆剣道家であり或は剣道家的精神を具備したものであった。それから、明治二十七八年日清の役、三十七八年日露の役、皆この精神によっている、極度まで隠忍し、圧迫に堪え、その間に熟慮計画を樹て、而して万已み難き時に至って初めて断行する。近来、日本も種々の思想複雑し、来り、この特殊の国民性にも大いに疑念を持たれたが、最近の満洲事変の前後の経路を見てこの国民性未だ衰えずということが出来る。例の爆弾三勇士の如きもこの国民性の一つの現われであった。日本国民自身がこの国民性を自ら認めず、或は曲解して自ら侮るようなことがあれば甚だ危ない。また、世界の国民が日本国民のこの国民性を看取し得ずして日本を侮ることあれば、これもまた危ない。この国民性は決してミリタリズム、或は侵略主義を含んではいないということを強調しなければならぬ。この天才的国民的特色を以て争闘性蛮力と見るものは剣道をスポーツと同一視するものの無智と同様である。日本の剣道の真精神を理解する者は、それが絶対に危険性が無く、却って危険を防止し、人間の正義の為に邪悪と闘い、士人の品格と体面と教養を豊かにするものであることを知らなければならぬ。
世界に於て、古来、日本国民ほど武器を愛する国民はなかった。日本国民の武器を愛好する態度は蛮力の表象として誇るのではない。破邪の正器として恭敬するのである。そこで、刀剣を作る鍛冶は斎戒沐浴し、神に祈り仏に仕うる心をもって刀剣を鍛えた。故に日本の刀剣は世界絶倫の利器である。武術の修行に於てもその通り、武術修行の処を道場といい、聖僧が道に精進するのと同じ意味のところとし、必ず神仏を祭り、また、その礼儀正しきこと武術家の如きはない。
そこで、日本では少年時代より士分のものは申すまでもなく、農商の人々まで武術を学んだ。農夫のうちより一流一派の達人を出したのも少くはない。それから日本の古来有名なる武将は固より政治家も皆個人的に武術の達人であった。日本歴史を通じての最大政治家の一人と称すべき徳川家康の如きも武将としてのみでなく、単に剣道家として立たせても一流一派の祖たるべき実力を備えていた。また徳川後期の最も文化政治家である松平定信の如きも柔術の師範として、宗家を継ぐべき実力があった。
そこで、日本の剣法というものは生死の瀬戸際に立たなければ、その神妙がわからないものである。単に道具をつけて叩合いをしたり、勝負を争ったり、また演劇や映画の類によって、そんなものの俤を見ようとするのは大きな間違いである。日本の剣法を知るには日本の宗教の神秘に触れなければわからぬ。
本書記する処は、必ずしも珍書秘書を探ったというわけではなく、取り敢えず著者家蔵本の一部分から抜いたものであることは上述の如くだが、兎も角、右様な精神を以て比較的各方面に日本武術の精髄味を収録した点に於ては最も出色と云って宜かろうと思う。勿論、これ以上に伝うべきものにして、これに漏れたるも多いに相違ないと思うが、それは当然将来相当の続篇を以て集大成しなければならない。ただそれ集であるから必ずしも私見は加えない。諸書に見るうち多少の矛盾錯誤している処はあってもそれはその儘取り容れた。比較、考証等は別に研究書として着手すべき事である。本書の要領は日本武術の神妙の働きを想像感悟せしむるにあるのだから、もとの講談者流や、今日の大衆文学連の為すが如き荒唐妄誕と乱雑冒漬とは極めてこれを避け引用の書物も皆相当信用権威あるものにより、間々稍々荒唐に近き逸話と難も精神修養にとって有益と思われるものは伝説のまま加えたものもある。
それから普通誤り易く紛れ易きもの流名人名等に就いても相当に訊して、まだ決して完全とはいえないが出来るだけは訂正して置いたつもりである。
さてまたこれ等神妙の名人上手の実力に就いての品評は古来よく下馬評にのぼり、炉辺話題に供せらるるものであるが、それはなかなか難しいもので時代を異にし流派を異にする超人間の人々の技量手腕に上下段階を附して見るということは殆んど不可能のことだが、併し離れて大観すれば自ら相当の標準が無いではない。著者はいつか閑があったらば戯れにその番附を持えて見たいと思っているが、まず初期に於て一例を云えば、
大家 上泉伊勢守
柳生但馬守
名人 塚原卜伝
上手 小野次郎右衛門
宮本武蔵
と謂ったような順位は動かないものと思われる。
宮本武蔵の強さに就いては問題になっていることは今に始まったことではなく渡辺幸庵の物語には武蔵は強さに於ては柳生但馬守よりも井目も強いと書いてあり、それからまた或書には柳生但馬守は宮本武蔵の弟子だなんぞと途方もない事も書いてあって強さに於いては日本無双と噂をされたことは随分古い話だが位地としてはこの辺の順序に坐るべきものだと思う、その他これに伯仲上下する名人上手を各藩各家に有していたことは本書によってもその一斑を窺い得らるると思う。
右の如く本書は一に古来の諸書に材料を得、それに取捨選択の労を加えて別に練って書き改めたものであるが、引用の書目は総て、各項の下に著者名或は原書名を記して置いた、また近刊の著書のうちよりも、相当許さるべき範囲内に於て借用摘録をさせていただいているが、本書の主意精神斯の如きものであるにより、一々御挨拶を申上げることの代りに、ここに一言を附して御寛恕を請う次第である。
著者
二(天の巻)
天の巻
(略)
上泉伊勢守
新陰流の祖、上泉伊勢守信縄(かみいずみいせのかみのぶつな)(縄の字を普通には綱に書くが、その家に伝わる処はこの縄の字だそうである)は先祖俵藤太秀郷(たわらとうだひでさと)より出て、代々上州大胡(おおご)の城主であったが、信縄が父の憲縄(のりつな)の代に至って城を落されたということである。信縄は剣術を好み飯篠長意入道及び愛洲移香(移香の字を多く惟孝と書いているが、新陰流の古い免許状の記すところは移香である)に従って遂にその妙を極め信縄は上野箕輪の城主長野信濃守が旗本になり、度々の戦いに功あってこの家で十六人の槍と称せられた。中にも信濃守が同国安中の城主と合戦の時、槍を合せて上野の国一本槍という感状を貰ったことがある。
その後、甲州武田信玄に仕えて、この時から伊勢守と改めた、程なく武田家を辞して京都へのぽり光源院将軍(義輝)が東国寺に立て籠った時にお目見えをして軍監を賜り勝利の後天下を武者修行し、「兵法新陰軍法軍配天下第一」の高札を諸国にうち納め、その後禁裏へ父子共に参内し伊勢守従四位下(じゆしいのげ)武蔵守に任じ、子息は従五位下常陸介に任じて名を現わしたが、この信縄天下一の名人と称せられ、流を新陰と称した。
この流の秘歌に、
いづくにも心とまらば棲みかへよ 長らへばまた本の古郷
この流から出ずる剣術は甚だ多い。
柳生但馬守宗厳も信縄が術を伝え、塚原卜伝もまた信縄に従って学んだものという。 (撃剣叢談)
上泉伊勢守は上州の人であって、新陰流の祖である、諸国修行の時に或村で多勢のものが民家を取り囲んで騒ぎ罵る処へ通りかかった。
「何事であるか」
と上泉が尋ねると、土地の人が、
「答人(とがにん)があって逃げながら子供を捕えて人質にとってしまいました、多勢のものが斯(こ)うして取り囲んではいるけれども下手をすればその子供が殺されてしまいますので、我々は手の出しようがなく子供の親達はああして嘆き悲しんで居ります」
という、上泉これを聞いて、
「然らば拙者がその子供を取り返してやろう」
といって、折から道を通りかかる一人の出家を呼んで云うことには、
「今、悪い奴が子供をとっ捕えて人質としているそうだが、拙者は一つの謀(はかりごと)をもってその子供を取り返してやりたいと存ずるに就いては貴僧を見かけてお頼みがござる、願わくば拙者のこの髪を剃って、貴僧の法衣を貸して貰いたい」
出家は直ちに承認して上泉の髪を剃ってやり、自分の法衣を脱いで上泉に与えた。
上泉がそこで、衣を着して坊さんになり済まし、握り飯を懐《ふところ》に入れて、答人の隠れている家へ入って行った、筈人これを見ていう。
「やあ、来たな、必ず拙者に近寄ってはならんぞ」
上泉が曰く、
「別に愚僧は貴君を捉えようのなんのとの考えがあって来たのではござらぬ、ただ、御身が捕えている童がひもじかろうと思うから握り飯を持って来てやったばかりじゃ、少し手をゆるめて、その子供に握り飯を喰べさせるだけの余裕を与えてくれれば愚僧の幸いでござる、出家というものは慈悲をもって行とするが故に、通りかかってこの事を見過し、聞き流すわけには行かないのでござる」
といって懐中から握り飯を出して子供の方へ投げて与え、また握り飯を一つ出していうには、
「そなたもまた定めてひもじくなっておいででござろう、これなと食べて気を休めなさるがよい、わしは出家の身で、いずれにも害心はないのだから疑い召さるるなよ」
といってまた一つ筈人の方へ向けて握り飯を投げて与えた、答人が手を延ばしてそれを取ろうとする処を飛びかかってその身をとって引き倒し、子供を奪って外へ出た。
村人がそこへ乱入して答人を捕えて殺してしまった。
上泉はそこで法衣を脱いで、以前の出家に返すとその僧が非常に賞美していうには、
「まことにあなたは豪傑の士でござる、わしは出家であるけれども、その勇剛に感心しないわけに行かぬ、われ等の語でいえば実に剣刃上の一句を悟る人である」
といって、化羅(から)を上泉に授けて行ってしまった。
上泉はそれからいつもこの化羅を秘蔵して身を離さなかったが、神後伊豆守というものが第一の弟子であった故にこれに授けたということである。 (本朝武芸小伝)
永禄六年、夏秋の頃上泉伊勢守は伊勢の国司、当時俗に「太(ふと)の御所」と称ばれた北畠具教卿(きたぱたけとものりきよう)の邸に着いた。この具教は、塚原卜伝から「一の太刀」を伝えられた名人であって、その旗下には武芸者雲の如しと云われた。併しながら一人として上泉伊勢守の前に立つ者が無かった。そこで北畠卿は、
「これより大和の国へ向うと神戸(こうど)の庄小柳生の城主、柳生但馬守宗厳というものがある、これは諸流の奥義を極めた人だが、中にも神鳥(かんどり)新十郎より新当流の奥義を伝えて五畿内一と称ばれている兵法者である、貴殿の相手に立つもの、この柳生を措いては外にないであろう」
そこで上泉伊勢守は北畠卿からの紹介を持って先ず南部の宝蔵坊に向った、この宝蔵坊には宝蔵院槍術の宗師として天下にかくれなき覚禅法印胤栄(かくぜんほういんいんえい)がいる、この人は柳生但馬守とは昵懇の間柄で、但馬守と相談し、素槍に鎌をつけることを工夫発明した人である。
「太の御所」よりの紹介をもって上泉伊勢守が柳生と仕合せんが為にやって来たということで、胤栄は急使を馳せて柳生谷へその旨を伝えた。
柳生但馬守時に三十七歳、この年の正月二十七日には松永の手に属して多武の峯を攻めて武功を立て、壮心勃々たる折柄であった、上泉伊勢守来れりとの報を聞いて欣喜雀躍して奈良に来って伊勢守と立合うことになった。
ところが但馬守、伊勢守と仕合して、一度闘ってまず敗れ再び闘ってまた敗れた、而もその敗れ方たるや前後同一の手を以て同じ様に勝たれて了ったのである。そこで但馬守思うよう、同じ勝たれたるにしても負けるにしても、同じ手口で斯うまで手もなく打ち負けるということは心外至極である、よし今度は彼が手法を見極めんと専ら一心に工夫し、更に来三日の仕合となった処がまたしてももろくも前二度の仕合と同じことに、手もなく破られてしまった。
ここに於て伊勢守に全く帰依欽仰(きえきんぎよう)し節を屈し回国の途中である処の上泉伊勢守を屈請して、柳生の居城に招き、それより半年の間教えを受けて日夜惨漕たる工夫精進を重ねた。
南都の宝蔵院胤栄もまた柳生城に立ち越えて、共に上泉の門に入って学んだ。当時、上泉の伴にはその甥と伝えられる処の弟子疋田文五郎景兼(かげかね)があり、また鈴木意伯もあったが、その時上泉伊勢守は疋田文五郎に向って、
「お前にはこれから暇をやるによって、諸国を武者修行の上別に一流を立てるがよろしい」
といった、疋田は入道して栖雲斎(せいうんさい)と号し、後年肥後に於て、疋田陰流を立てて後世に残した。
柳生但馬守は斯くて半歳の間上泉伊勢守に就いて新陰の奥妙を伝え余すところなきに至った。そこで上泉伊勢守は一旦別れを告げる時に臨んで柳生但馬守に斯ういうことを云った。
「余は多年研究しているが、無刀にして勝を制するの術に未だ工夫が足らず、その理法を明らかにすることが出来ない。これのみぞ深き恨みである、貴殿はまだお年が若い、将来この道を明かにするものは恐らく天下に貴殿を措いてはその人が無いであろう。どうかこの事を成就して、末代までの誉れを立てていただきたい、ではいずれ、再会の時もござるであろう」
と暇を告げ再会を約して上泉伊勢守は柳生谷を発足し、中国西国の旅路についた。
柳生但馬守はこれより世に出でざること数年、従来の猛気を悉く勉却して、遂に上泉伊勢守が附嘱を開悟大成した。
永禄八年再び上泉伊勢守が柳生谷を訪れた時に但馬守は己れが開悟成就せる武道の深奥とその妙術を示した。伊勢守はそれを歎称して曰く、
「今ぞ天下無双の剣である、我れも遂に君に及ばない」
と、いって一国一人に限れる印可状を授けて新陰の正統を柳生に譲り、かつ云う。
「以後は揮りなく、この一流兵法を柳生流と呼ばれるがよろしい」
ここに天下第一の者に推薦された。時は永禄八年卯月吉日これぞ柳生流の起元である。 (柳生厳長著「柳生流兵法と道統」)
上泉伊勢守が柳生へ行った時のことを或る一書には次の様に書いてある。
上泉伊勢守は虎伯という弟子(疋田文五郎のこと)を召連れて大和に行った。時に柳生氏は上方に於て兵法無類の上手であった。これ幸いと上泉と仕合を望んだ。上泉が、
「さ様でござらば、まず虎伯と立合い召されよ」
と自分は再三辞退した。
柳生はそこで、虎伯を相手に使ったが、虎伯が、
「それは悪い」
と三度びまで柳生を打った。
そこで、こんどは是非上泉と仕合を所望したので、上泉も辞退しかねて立合ったが向うと直ぐに、
「その太刀を取りますぞ」
といって奪い取ってしまった。
そこで、柳生が大いに驚いて三年まで上泉を止めて置いて新陰の秘伝を受け継いだ。 (武節雑記)
上泉伊勢守が、柳生の処から出て後、関東へ下るといって三州牛久保へ立寄った。
牛久保には、牧野氏三千石を知行していたが、その家臣に山本勘介があった、勘介はきょう流という兵法を遣って、恐らく敵はあるまいと自慢であった。弟子も数多くあったが、有名なる上泉師弟が来ると聞いて、おかしいことに思い、
「上泉とやらが来たならば、うちの先生に会せて思いきり打たせてやろう」
などといっていたが、さて牧野殿が上泉伊勢守と、弟子の虎伯と二人を招いて、
「うちに山本勘介という兵法の達者がいますから仕合をして貰いたい」
そこで、上泉は先ず例によって虎伯と仕合をさせた。虎伯は勘介に向って、
「それではあしいぞ」
と云って勘介を容易く打ち込んでしまった、勘介が立て直してまた立ち向うと、
「それにては取るぞ」
といってツト当って太刀を取ってしまった。
日頃勘介を憎いと思っていた者は、勘介が打たれた打たれたといって評判をしたものだから勘介はそれを快からず思って暇をとって甲州に行ったということが事実の如何は知らず武辺叢書に書いてある。 (武辺叢書)
(略)
柳生宗矩
徳川三代家光は若い時分から柳生但馬守宗矩に就いて剣術を学び、非常に優遇されていたが、世間の人は柳生はただ剣術だけで将軍家のお覚えがめでたいのだと皆思っていたが、その実は剣道によりて政治を教えて居られたものと見え、家光は常におそばの人に、
「天下の政治は但馬守に学んで我れはその大体を得たのだ」
と云ったそうである。
宗矩が老病重かった日、家光はわざわざその家に行って病気を見舞われたことがある、正保三年三月、柳生が亡くなった時は、その頃にためしのない贈位の恩典があって、従四位下に叙せられた、宗矩が死んで後、家光は事に触れては、
「宗矩が世にあらば尋ね問うべきを」
と、歎いて絶えずあとを慕っていたということである。 (常山紀談)
柳生但馬守宗矩は父但馬守宗厳にも勝れる剣術の上手であった。徳川三代将軍家光の師範となり一万五千石にまでのぼった人であるが、武芸のみならず才智も勝れ政道にも通じていた。
或時、この宗矩、稚児小姓に刀を持たせて庭の桜の盛んに咲いたのを余念なく見物していたが、その時、稚児小姓が心の中で思うよう、
「我が殿様が如何に天下の名人でおいで遊ばそうとも、こうして余念なく花に見とれておいでなさる処をこの刀で後ろから斬りかけたらば、どうにも遁れる途はござるまい」
そういう心がふとこの稚児小姓の胸のうちに浮んだのである。
そうするとその途端に但馬守宗矩はきっと四方を見廻して座敷に入り込んでしまったが、尚不審晴れやらぬ体で床の柱にもたれ物をもいわずに一時ばかりじっとして居る。近侍の面々が皆怖れあやしみ、若しや発狂でもなされたのではないかと陰口をきくものさえあったが、やがて用人某が漸くすすみ出で、
「恐れながら先刻よりお見うけ申すに御けしきが何となく常ならぬように拝見いたされます、何ぞお気に召されぬ事でもござりましたか」
それを聞いて宗矩が答えていう。
「さればよ、自分は今どうしても不審の晴れやらぬことが起ったので斯うして考えているのだ、それは自分も多年修練の功によって自分に敵対するものがある時は、戦わざるにまず向うの敵意がこちらへ通るのである、ところが先刻庭の桜をながめているとふと殺害の気が心に透った。ところが何処を見ても犬一匹だにいない、ただ、この租児小姓が後ろに控えているばかりで敵と見るものは一人もいないのに斯ういう心がわれに映るのは我が修練の功いまだ足らざるか、それを心ならず思案しているのだ」
というのをきいてその時稚児小姓が進み出で、
「左様に仰せらるればお隠し申すことではございませぬ、恐れ入りました儀ながら、先刻私の心に斯く斯くの妄念が浮びました」
と云い出したので、宗矩の気色も和らいで、
「あゝ、それでこそ不審が晴れた」
といって、はじめて立って家へ入り、何の咎めもなかった。
この宗矩は猿を二疋飼って置いたがこの猿ども日々の稽古を見習ってその早わざが人間にも勝ったものになった、その頃槍術をもって奉公を望む浪人があり但馬守の許へ心易く出入していたが、或時宗矩の機嫌を見合せ、
「揮りながら、今日は何卒お立合下さって、某が芸のほどをお試し願い度い」
と所望した、宗矩が答えて、
「それは易きことである、まずこの猿と仕合をしてごろうじろ、この猿が負けたらば拙者が立合を致そう」
といわれたので浪人は身中に怒りを発し、
「如何に我等を軽蔑せられるとも、この小畜生と立合えとは遺恨千万である、さらば突き殺してくれん」
と槍をとって庭に下り立つと猿は頬に合った小さい面をとって打ち被り、短い竹刀をおっとって立ち向った、浪人はこの畜生何をと突きかかるを猿はかいくぐって手許に入り丁と重ね打ちをした、浪人愈々怒って、今度は入らせるものかと構えている処へ、猿は速かに来て飛びかかり槍にとりついて了った、浪人はせん方なく赤面して座に戻った。
宗矩は笑って、
「それ見られよ、その方の槍の手並み察するところにたがわず……」
と、嘲られたので浪人は恥入って罷り帰り、久しく但馬守の許へ来なかったが半年余りたってまたやって来て、宗矩に向い、「今一度猿と立合をさせていただきたい」
という、宗矩それを聞いて、
「いや、きょうは猿を出すまい、その方の工夫が一段上ったと思われる、最早それには及ばぬ」
といったが、浪人は是非是非と所望した。それではといって猿を出したが、立ち向うとそのまま猿は竹刀を捨てて帰き叫んで逃げてしまった、宗矩が、
「さればこそ云わぬことではない」
といってその後、この浪人を或る家へ胆煎りして仕えさせたとのことである。 (撃剣叢談)
徳川家光は剣術を柳生但馬守に習っていた、或る時、家光が但馬をそば近く召して頭を畳へつけて拝礼している処を但馬まいると気合をかけた途端に但馬守が家光の坐っていたしとねをあげたので家光は後ろへこけてしまった。
また柳生但馬が或る時お城で敷居を枕として寝ていた処へ、若侍共これを驚かそうと双方から障子をヒタと立てつけた処が一尺ばかり間隔を置いて障子が動かなくなった。但馬は眼を醒して敷居の溝から扇をとり出したということである。 (異説まち/\)
徳川家光品川御殿に遊行し、近侍の者等が剣術の仕合を為すを見て興がり、御馬方諏訪部文九郎を召し、仕合を命ぜられた、時に文九郎、
「馬上にての仕合ならば負けまじきを」
と独語を云った、家光がこれを聞き、馬上の仕合をとなり、近侍の面々馬を乗り出し、文九郎と仕合をしたが、悉く打たれたので、家光大いに感じ、
「文九郎は馬上達者なる故、近侍中一人も勝つ者なし、この上は柳生但馬出て仕合うべし」
とのことである、但馬守、
「畏り候」
とて馬上にて立合い、南方より乗り出しその間合い三間程になった時、馬を駐めて文九郎が乗り来る馬の面を一打ち打ち馬の驚いて起った所を乗寄せて文九郎をはたと打った。
家光、これを見て、
「真に名人の所作、時に臨んでの働き尤も妙」
と感心したとの事である。
(略)
柳生宗章
柳生十左衛門宗章は但馬守の弟であるが矢張り柳生新陰をもって旗本の師範をしていた。或時松平出羽守直政の邸へ訪れた時に、丁度そこへ某という有名な剣術の上手が参り合せて宗章に向って是非にと仕合を所望した。十左衛門宗章はそれを迷惑がって断ったけれども相手の剣客は聞かない、斯ういう機会を外しては柳生家と立合いは望まれないと思ったのだろう、是非是非と所望すること故宗章も已むことを得ず立合いを承諾し、相手が竹刀を取るところを言葉をかけて抜き打に斬ってしまった。
さて、衣服を改めて座に着き、出羽守に向って云うよう、
「それがしこそ剣術は未熟でござるが、兄但馬守は将軍家の御師範役である、拙者がもしこの処に於てこの男に負けるようなことがあらば、流儀に疵がつき申すのみならず、将軍家の御兵法未練なる流儀お稽古などと風聞が立つようになっては、公私に就いておもしろからぬ儀と存じ、不欄ながら手討ちにいたし候」
といわれたので、一座が粛とした。 (明良洪範)
(柳生宗章は、兄の五郎右衛門だが、中里氏は十左衛門宗章とし、宗矩の弟としている。生憎、『明良洪範』という書を読んだ事がないので、確かなことは分らないが、柳生十左衛門は柴田錬三郎立川文庫『柳生但馬守』に兵法者望月周七郎の別名としてあるらしい。はたして実在の人物なのか、諸兄の皆様の御教授を乞う次第です。)
柳生三厳
宗矩の子十兵衛三厳(一に宗三)は父に劣らぬ名人であった。若い時微行を好み、京都粟田口を夜半にただ一人通った処、強盗が数十人出て来て各々抜刀を携げて、
「命惜しくば衣服大小渡して通れ」
と罵りかかった、三厳は静かに羽織を脱ぎにかかると盗賊共は着物を脱いで渡すつもりだろうと心得て近々に寄るところを十兵衛はまず一人を手の下に斬り伏せた。
「こは曲者よ」
と賊共一度に斬ってかかる、軽捷無双の三厳は或は進み或は退き、四方に当って戦ったが、太刀先に廻る者は悉く薙倒され遂に十二人まで命を落したにより、残る者共今は叶わじと逃げ去った。
三厳或時、さる大名のもとで剣術をもって世渡りする浪人を一人紹介された事がある、その時、右の浪人が、
「揮りながら一手お立合い下され候わば光栄の至り」
と所望した、三厳はそれを承知し各々木刀をもって立合って打合われたが相打ちであった。
「今一度」
と浪人が所望したので、また三厳が承知して立ち上るとまた相打ちであった、その時三厳が浪人に向い、
「見えたか」
といった、その心はつまり勝負が見えたか、どうだ恐れ入ったろうという意味である。
それを聞いて浪人が、大いに怒って、
「両度とも相打ちでござる」
といった、三厳こんどは主人の方に向って、
「如何に見られたるか」
と問いかけた処が、主人も、
「如何にも浪人の申す通り相打ちとお見受け申した」
との挨拶であった、すると三厳は、
「この勝負が見分けられないようでは、どうも仕方がない」
といって座に着いた、浪人は愈々せき立って、
「さらば真剣にてお立合い下されたし」
と迫って来た、三厳冷然として、
「二つなき命である、真剣立合い要らぬこと、やめにせられよ」
といいきる、浪人愈々いきり立って、
「さ様に仰せられては拙者明日より人前へは立て申されませぬ、是非是非お立合い下さるべし」
と地団太を踏んで躍り立った、それを聞くと三厳は静かに真剣をさげて下り立ち、
「いざ来られよ」
浪人もまた長剣を抜いて立合うや前二回の木刀の時と同じ形に斬り結んだが浪人は肩先き六寸ばかり斬られて二言ともなく廃れた、三厳は無事に座に帰って主人に向い衣服をくつろげて見せると着用の黒羽二重の小袖下着の綿まではきっ先き外れに斬り裂かれたが下着の裏は残っていた、主人にこれを示して三厳がいうよう、
「すべて剣術の届くと届かざるとは半寸一寸の間にあるものでござる、単に勝つだけならば如何様にしても勝つことは出来ようけれど最初から申した処の違いないことを御覧にいれる為に斯様に不欄な事をいたしてござる」
といわれた、主人は感じかつ驚いた、柳生流を学ぷ者のうちにも殊にこの人は十兵衛殿といわれて仰ぎ尊ばれた名人である。 (撃剣叢談)
柳生十兵衛三厳の剣術は飛騨守にも勝れたりということである。
或時、無頼漢が拝み打ちに打ってかかったがその男の手の中へ入って左右の髭を捕まえ、顔に唾をしかけたという。
十兵衛は常に赤銅の鍔を用いていたが、赤銅の鍔というものは時として斬り落されることがある、兵法家にも似合ないと人が云うと、十兵衛答えて、
「拙者に於ては鍔を頼むことはない」と云った。 (異説まち/\)
柳生三厳は宗厳の孫で宗矩の子、術にかけては父祖にも秀れ天下無敵の人であったが、若い時に片眼を失った、というのは三厳の父宗矩が我子の腕を試そうとして、不意につぶてを投げつけた、それを受け損じたのであるが右の眼へ当てられると同時に左の眼を隠したというような逸話がある。 (逸書)
柳生利厳
柳生但馬守平宗厳は、晩年嫡孫柳生兵庫助平利厳に一国一人の印可相伝を授け、新陰流兵法正統第三世たらしめたが、これより先き、永禄八年利厳が年二十五歳で肥後領主加藤清正に客将として赴き三千石を喰んだ比か但しはそれより数年前に属することか分らないが、祖父但馬入道は丁度掌中に握り込める位の大きさの紅紙に片仮名を以て左の一首を書き、これを利厳に与えている、利厳はこれを後年授けられた大部の伝書類と共に秘蔵して印可相伝の書中に含め、後世に相伝した。
切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ たんだ踏み込め神妙の剣 (柳生厳長著「兵法剣道」)
柳生兵庫助平利厳が肥後の国主加藤清正に懇望されて、その家臣となったのは二十五歳の時であった、祖父石舟斎は利厳を推薦する時清正に対して、
「兵助儀は(利厳の初名)殊の外なる短慮者でござるによって、たとい如何様の儀があろうとも三度までは死罪を御許しありたい」と約束した。
慶長八年利厳の肥後に赴くに当り、石舟斎(宗厳)は兵法奥旨二巻の書を授けたが、後利厳は加藤家を去り諸侯の招膀を辞し回国修業すること九年に及んだ。
慶長十一年二月上旬、石舟斎宗厳年七十八もはや死期の迫れるを自覚して利厳に印可を与えて曰く、
「子供及び一族は多いけれども何人にも伝えない、斯の如き義はその方一人にこれを授くるものなり」
と、いって上泉伊勢守相伝の秘書類を悉く兵庫助利厳に授け了った、そこで利厳が新陰正統第三世を継いだことになるのである。
この兵庫介利厳がまた尾張の藩祖徳川義直に剣道を教えている。
家康は柳生流を徳川の兵法指南とすると共に一刀流の小野二郎右衛門忠明を召して、稽古を受けた。
家康が曰く、「小野流は剣術であるけれども柳生流は兵法である、大将軍たるものはすべからく大将軍の兵法を学ぶがよい」
と遺訓されたということで、柳生一流は代々徳川将軍の剣として「お流儀」と称ばれていた。 (柳生流兵法と道統)
柳生家家風
柳生家は代々将軍の師範であったからお流儀と呼ばれていたのは尤である、この門に入って学ぶ者、業なって免許を取った上は、おのれが弟子を取ることも苦しくはないが、その者からまた免許を出すことは出来ないことになっている、その又弟子が熟して人に伝えようと思う時には、改めて柳生家へ入門して学ぶことになっている、辺鄙では代々承け伝えて柳生流と称するものもあるけれどもそれは皆正伝ではないということである。 (撃剣叢談)
相討
徳川時代に於て、幕府の御流儀として最も隆盛を極めたる柳生流を始め、新陰流の諸流派が教ゆる所の趣旨は相討なり、即ち敵を斬ると同時に、己もまた敵刃に倒るる決心をもって打込むことを教ゆ、かくてこそ真の勝利を得るものなり。 (下川著「剣道の発達」)
肋一寸
柳生流に「相討」という言葉はないが、これは真によくわが流の極意を説いてある、我が流の太刀は一切「相討」である、然し「転」の道を認得しないものは、我れからも討ち、敵からも討たるる世間俗に云うところの相討になり、斬合の道の愚拙に陥る、これは「せんだんの打」と称して戒めるところである、我が流に「肋(あぱら)一寸」という教えがある、敵刀我が肋骨一寸を切り懸る時我刀早くも敵の死命を制する剣である。 (柳生厳長著「兵法剣道」)
新陰の極意
敵から斬り懸っても懸らぬでも、我が方は唯一打に、一調子に勝を撹ることは新陰流の極意であります、我が方の構えを頼み、一と敵の懸るを待って、二と敵刀を防ぎ払い、三と敵に勝つこと、世間これを「三の数」と稜えて兵法の根本条理でありますが、この条理を超越し敵の斬り懸るに(同時に)我方から一調子に打込むことが新陰流の極意であります。 (柳生厳長著「兵法剣道」)
伊藤一刀斎
伊藤一刀斎が都にいる時、或る一人が勝負を望んで来たが、忽ち一刀斎に打ち負けて弟子となったが、この者腹の中では無念残念でたまらないが、表面は柔順にして仲間四五輩を連れて来て同じく門弟として術を学んでいた。
或る夜のこと、各々、酒肴等を携えて一刀斎の許へ来てすすめもてなしたので一刀斎も機嫌よく御馳走をうけて快く酔い伏して了ったから、これ等の者共も暇を乞うてそのまま立ち帰った。
しかしこれは計略で、かねて一刀斎には一人の愛妾があって何事も心を許していたが、この妾を悪党共が様々に欺き嫌かして味方とし、自分達が一刀斎を酒に酔わせて寝かせて了うとやがて右の妾に一刀斎の大小を盗み隠させてしまった、そこで今は心易しと夜中過る頃に一同がそっとやって来ると、彼の妾は戸口をちゃんと開けて置いた。
そこで直ちに一刀斎が寝所へ斬り込んで行った。
折柄夏のことであったから、一刀斎は蚊帳を吊って寝ていた、悪党共は入りざまに蚊帳の四ツチチを切って落した、驚いた一刀斎は枕許をさぐったが両刀が無い、ハッと思っている前後左右より透きもなく斬りかかるのをここにくぐり、かしこにひそみ、ようよう蚊帳を這い出し、宵のうちの酒肴の器が手に触ったところから、当るに任せて向かうものに続け様に投げうち、そのうち飛びかかって一人の悪党の持ったる一刀を奪い取ってしまった。今まで無手でさえも手におえなかった一刀斎に今は刀を持たせたことであるから虎に翼を添えたるが如く、当るを幸いに斬りまくる、何かはたまるべき、忽《たちま》ちに悪党共深手浅手を数知らずうけ、今は叶わじと各々手負いを助けて逃げ去ってしまった、裏切りの妾も同じく行方が分らない、一刀斎は類いなき働きをしたけれども、女に心を許したのを恥かしく思ったのかその日都を出でて東国に赴《おもむ》いたということである。
また東国で一人の浪人が「地摺の晴眼」という太刀をおぽえ、これに勝つ者は無いと思い込んでいたが、有名な一刀斎に会って、
「この地摺の晴眼の止めようがございましたら御相伝下されたい」
と所望した、一刀斎は、
「成るほど、それはある、伝え申してもよろしい」
と請け合いながらそのことを果さずにまた他国へ出かけて了おうとする容子が見える。
そこで浪人が心のうちに思うには、
「一刀斎もああは答えたものの、この太刀を止めることは出来ないからこのままで逃げようとするのだ」
と思い込み、一刀斎の立ち出ずる途中に出迎えして行手に立ち塞がるようにして、
「日頃所望の地摺の晴眼の止めよう、御伝授のないことは残念千万でござる、只今、御相伝下さるべし」
と、いうままに刀を抜いて彼の地摺の晴眼でするすると仕かけて来た。
その時一刀斎、物をも云わず抜きうちに切ると見えたが、彼の浪人は二つになって倒れ伏して了った、地摺の晴眼止めようの伝授は地獄のみやげにしかならなかったのである。(撃剣叢談)
伊藤一刀斎景久は伊豆の大島に生れたが十四歳の時初めて武道により身を立てようと志し、板子一枚にすがって三嶋(伊東の東南半里に在り)に泳ぎ渡って来た、その時長時間海中に在ったため、恐ろしき形相となっていた、村の者はこれを見て嶋鬼が来たと騒いだ位である、彼は里人が嶋鬼と呼ぶから自ら鬼夜叉と称し、三嶋神社の床下を寝泊りする所となし、暫く附近を俳個していた、会々富田一放(いつぼう)という兵法者が村に来って人に教えていたので、鬼夜叉は試合を申込んだ、一放は頗る達人であったが、鬼夜叉と出で会うや、木剣を取って身構えせんとする処を素速く打込まれ、散々敗を取り夜逃げをしてしまった。
三嶋の神主は鬼夜叉が富田一放に勝ったのを見てその人と為りを奇とし、我家に養うこととしその志を問うた所が、兵法を学び身を立てんと望んだので、これを励ます為め、嘗て三嶋神社に備前の名工一文字から奉納された刀が、その後年久しく棟木に括り付けてあって縄が腐って落ちた時、下にあった御酒餐を貫き少しも損じなかった稀代の名刀を出し、鬼夜叉にたむけた、鬼夜叉は大いに喜び、明日は善き師を求むる為出立せんと云いやすんだが、夜中に至り、五六人の強盗が押入った、此処に於て神主より貰った計りで柄持(つかごしらえ)もない一文字の刀を以て渡り合い悉く強盗を斬り殺した、(この時一賊が酒餐の中に隠れたのを鬼夜叉飛び懸ってその髪諸共に斬ったところが甕は賊の胴体と共に二つに切り割られたので、その刀を餐割と名づけて益々愛蔵し、後これを極意と共に小野忠明に譲った)神主は益々感じて旅費を彼に与え出発せしめた。
鬼夜叉は江戸に至り鐘巻自斎という中条流の達人の門に入り修業したが、未だ幾何ならずして技大いに進歩し、諸門弟子誰一人肩を並ぶる者がなかった、自斎窃に恐れを抱きその技を惜んで伝えなかった、或る時鬼夜叉自斎に向って剣術の妙機を覚りたる旨を語った処が、自斎怒りて、
「汝が術漸く五年に満たず、妙などとは以ての外だ」
と罵った、鬼夜叉曰く、
「妙は一心の妙であって師伝にもあらず、また年月の長短にも依るべきではござらぬ、疑わしくば自分の覚った妙を御覧に入れましょう」
と頻りに仕合を乞うた、自斎は辞することが出来ず木剣を取って一合したが忽ち敗れた、二度仕合したがまた忽ち負け重ねて三度に及びも遂に勝つことが出来なかった、彼は頗る不思議に堪えず、鬼夜叉に対して、
「吾れ諸国を遍歴し数多の武芸者と立合ったが未だ曾て敗を取らず、天下に知らるるに至った、然るに今汝と立合い、到底勝つべき見込がない、汝は如何にしてこの神妙の技を得たか」
と問うた、鬼夜叉、
「人は夢罧(むび)の間にも足の痒きに頭を掻くものにあらず、足痒ければ足、頭痒ければ頭を掻くものでござる、人間には自ら機能があって害を防ぐように出来ている、今先生が吾を撃たんとせらるる心即ち虚にして、吾の防がんとするは人間の本能にしてかつ実であります、今吾の実をもって先生の虚を打つ、是れ勝を得る所以でござる」 、
と答えた、自斎は大いに感じ、
「汝は我が及ぶところにあらず、吾は今汝の言により頗る啓発される所があった、我が年来極意とせるものも今は汝の身に無用ではあろうけれども参考の為にこれを伝えて置こう」 .
と悉く叡贈の秘伝を彼に授けた、慰卿残は深く師の厚意を謝し是より伊藤一刀斎景久と名乗、諸国修業に出で、一刀流の流祖古今に稀なる名人となったのである。 (内田良平著「武道極意」)
伊藤一刀斎が、剣術の極意無想剣の場を発明しようとして、多年苦心したけれども、容易にその妙旨を得ることが出来ない、鶴ヶ岡八幡宮へ七日七夜参籠したがそのしるしもなく、満願の時神前を引きとろうと思う時に何者とも知れぬ一人、一刀斎の後ろに忍び寄って来たものがある、それは一刀斎を討とうと思って来たのだか、或は神前の物を盗ろうと思って来たものだかわからないが、一刀斎はその足音に驚き振り返って見ると怪しいものが佇んでいる故そのまま言葉もかけず抜き打ちに払い二つにして引取った。
後に一刀斎がこの事を門人に語って云うには、
「われ昔八幡宮参籠の節あやまりて人を殺害したことがある、然し今つらつら考えるにこれぞ無想剣というものであろう、われ振り返り見て何の思案分別もなく、眼に触るや否やそのまま抜き打にしたがこれぞ全く剣道の極意無想剣の場であろう」 (剣術名人法)
一刀斎の許へ或夜盗賊が忍び入ったのを一刀斎、太刀を提げてその賊を追いかけた処が、その賊大瓶のあったのを楯にとり右より追いかければ左へ逃げ、左より追い廻れば右へ逃げて打ち果すことが出来ない、一刀斎大いにいらってその大瓶もろ共に打ち込んだ処がその瓶が二つになって賊も共に二つになったという、その刀を瓶割と名づけ、一刀斎三十三度の真剣勝負に用いた名刀である。一説にこの刀は一文字の作だともいう。(剣術名人法)
一刀斎が妾宅に於て、襲いかかる悪党の中の一刀を奪い取りてその刀で危うい処を切り抜けて、それから門人小野次郎右衛門忠明に面会し、その切り抜けた太刀の型を伝えて自分はそれから行方知れずになったというのだが、その型が即ち一刀流の仏捨刀或は払捨刀であると。(剣術名人法)
一刀流の地摺星眼などということがあるが、一刀流に地摺星眼というような構えはない、全く下段のことを云いあやまるのであろう。
一刀流皆伝の箇条に、敵をあとに追い込むには、何程太刀を眼中または咽喉につけても敵はあとへは下らぬものである、その節は地上の心ということがある、この心で敵を攻むれば、如何なる豪敵たりとも次第次第に後に下るものである、その事を地摺星眼とはいうけれども地摺星眼の構えというのはないものである。 (剣術名人法)
中条流の富田次郎左衛門景政の門に鐘捲自斎道家(かねまきじさいみちいえ)というものがあった、一派を起して外他流と称し高上金剛刀を以て極意として聞えた、この門に伊藤一刀斎景久が現われた、景久は伊豆の人と干城小伝にあるが伝書によれば西国の産である。
諺に「登り兵法、降り音曲」という事があって、兵法は東国より上り、音曲は上方が本場ということになっているが自分はこれを逆に「降り兵法」にすると云って東国諸州を歴遊し「外他の一刀」と称して立合を試み、真刀の勝負七度に及び、その他の試合にも一度も勝を譲ったことはなかった。
初め、一刀斎が淀の小舟で大阪へ下った時に、逞ましい船頭が一人いて、一刀斎が木剣を携えているのを見て、自分の力自慢が鼻の先きへ出て、つい、
「武芸というものは、人に勝つように出来ているには違いないだろうが、持って生れた地力には勝てまい」
と云い出した、一刀斎も血気の頃ではあり、
「左様な事はない、力ばかりあったって無駄だ、馬鹿力が術というものに勝てる筈はないのだ、論より証拠、陸へ上って勝負を定めよう」
と、船頭も云うにや及ぶというようなわけで、船をつけて上陸し、さて互に誓って死んでも恨みはないということを、他人を証人に立てて立ち上った。
船頭は擢を取って立ち上り真向上段に打ち卸ろしたが、一刀斎に身を開いてかわされた為に、獲物は空を打って余る力でしたたかに擢を大地に打ち込んでしまった、引直そうとする処を躍りかかって木刀で小手を打つと擢を取り落してへたばった、そこで船頭は謝り入り、強いて乞うて一刀斎の弟子になり、諸国を随行して歩いたがこれが即ち「善鬼」なのである。
一刀斎が諸国修行中立合いには、先ずこの船頭善鬼を出すのを例としていたが、大抵これの手に立つ者はない、元来が卑賎無学の者であるから今は師匠を除けば天下に敵なしと自讃するようになった、そこで浅ましくも、師匠を殺しさえすれば自分が真正の天下無敵になれると考えて、道中の泊り泊りにも、師匠の寝息をうかがうようになった、一刀斎早くもこれを感づいたが、彼を殺すのは容易いが、表面上その名が無いのに苦しんでいるうち、江戸に着いて、一刀斎の剣術は有名になり、遂に家康の上覧を経て家臣に召し抱えられるということになったが、一刀斎はこれを辞して、門人「神子上典膳(みこがみてんぜん)」(小野次郎右衛門)を推挙したのであった。
そこで高弟たる善鬼が憤慨して師匠に迫った為に、一刀斎は然らば神子上と立合った上、勝った方へ極意皆伝の上仕官を周旋ということになって、下総小金ヶ原の立合いとなったのである。
また一刀斎が鎌倉八幡に参籠の事や、妾の事から敵に寝込みを襲われたということは捏造に過ぎない、前後の事情として一流開祖というべき人の覚悟行動でない。 (山田次郎吉著「日本剣道史」)
一刀斎が天下を周遊して上総の国に来た、この国には剣術の名ある者が多かった、中にも神子上典膳は三神流の剣術に達してその名が聞えていた。
景久は宿につくと思う所やありけん、直ちに高札を家の前に立てさせた、その文句には、
「当国に於て剣術に望みある人あらば、来って我と勝負せよ」
という意味のもので、その奥には狂歌のようなものまで書き添えた、それを見るほどのものが憤慨したが、一刀斎が天下の名人であるという名に聞き怖じて誰一人出ようというものがない、これは神子上の外にはない、神子上なれば、せめて相打ぐらいはやるだろうと、斯くて典膳は一刀斎の宿へ推参して行った、一刀斎対面して云う事には、
「この国では、君がよく剣術を使うそうだけれども、我が術に当るというわけには行くまい、真剣であろうと、木刀であろうと好きなのを持つが宜しい、君もまだ弱年故、その命を奪うも大人気ないによって」
と一刀斎は其処にあった薪の一尺ばかりなのを提げて立ち向った。
神子上は自分の差科なる波平行安(なみひらゆきやす)の二尺八寸の一刀を右脇に構えて進み寄ったが、一刀斎景久は、神子上が太刀を奪い取りその脇にあった薪を載せる棚へ置いたままで奥の方へ入ってしまった、典膳は茫然として、立ちつくすぱかりであったが、やや暫く思案して、また仕合を所望した、景久が出て来て云う。
「若い者は修業がかんじんだから、何遍でも相手になって上げる、君の身に疵をつけるような事はしないから安心して」
とまた右の薪で立ち向った、神子上は三尺許の木刀を持って、自分が有する限りの力と術とを以て立ち向ったが、一刀斎の衣にさわる事すらも出来ない、打ち落されること数十度、典膳、全く呆《あき》れ果てて帰って景久の事を考えると、真に神の如く、また水の如く、勝てようなどとは思いもよらぬ事である、これぞ全く氏神の化身であろう、我が師と頼むべきものこの人の外になしと、翌日そのあとを追って行き師弟の契約を為した。 (一刀流三祖伝)
小野忠明
神子上典膳(みこがみてんぜん)(小野次郎右衛門忠明の前名)はもと伊勢の人であるが、弱冠より刀槍術を学んで、大いに自得する処あり、上総の国に来って万喜少弼(まきしようひつ)に仕えていた処が、伊藤一刀斎が遍歴してこの地に来った。神子上はこれと勝負を決せんとして旅館に訪ねて行ったが、到底及ぶべからざるを知ってその弟子となり、後一刀斎に従って諸国を修行して歩いた、一刀斎の弟子に善鬼というものがあったが、術は精妙に達していたけれども一刀斎景久はこれを憎んで殺して了おうと思っていた、或る時典膳に告げていうには、
「お前、善鬼を殺してしまいなさい、しかしお前と雖も術に於ては彼に及ばない、そこで今授くる処の夢想剣によって彼を繁して見るがよい」
斯く云い含めて置いて善鬼、典膳二人を引き連れて旅に出て下総の国相馬郡小金ヶ原の近辺に来た時に、一刀斎は二人を近く招いて改めていうよう、
「われ、少年よりこのかた剣術を好んで普く諸州に遊ぶと雖も我に及ぶものは殆んどないといってもよい、そこで今我が志のほども成就したというわけである、よって今日ここで瓶割刀という我が秘蔵の一刀をお前達に授けようと思うが、併しながら、刀は一つで受ける人は二人である、この広野に於て一つ思う存分に勝負を決して貰いたい、その勝った方にこの瓶割刀を授けることにしよう」
善鬼典膳共にこれを聞いて大いに喜んで、即ち刀を抜いて勝負にかかったが、典膳が遂に善鬼を斬って了った、一刀斎は大いにこれを賞して瓶割刀を典膳に授けて云うよう、
「今より我は、ふっつりとこの剣術をやめて仏道を修行するのだ、汝はこれより国に帰ってこの術をもって世に現わるべし」
といって、そこで相分れて一刀斎は遂に行く処を知らない、相馬郡にはなお善鬼塚というのがあって、そこに植えられた松の木をば世人が呼んで善鬼松という。
典膳は遂にもとの処に帰ったがその術が益々進み、就いて習うものが多くなったが、やがてまた江戸へ出て駿河台に居り名声が府下に響いていた。
この時分、江戸近隣の膝折村という処の剣術者が人を殺して民家に逃げ籠っていた、腕利きではあり死物狂いであって、手のつけようがない、村長が江戸へ来て検断所へ訴えて云うには、
「これはどうしても神子上典膳様でなければあの悪者を斬ることは出来ますまい、どうぞ典膳様に仰せつけられたいものでございます」
その事が家康公に聞えると、家康が小幡勘兵衛尉景憲(おぱたかんぺえのじようかげのり)を以て検使として典膳を遣わしてその村に行かしめた。
右の剣術者が隠れ籠っている家の戸前に行って典膳がいうよう、
「神子上典膳が仰せを承って江戸から来た、その方が戸の外へ出て勝負をするか拙者の方から家の中へ入ろうか、何れを所望する」
中にいた剣術者がそれを聞いて答えて云う。
「神子上典膳と聞いては相手に取って不足がない、今まで名前を承ったのみで見参はしなかったが、今日この処でお目にかかれるとは生前の仕合せこれに過ぎたるはない、只今こちらから罷り出て行って勝負をいたすであろう」
と、走り出して大太刀を抜いた。
その途端典膳は二尺の刀を抜いてたちどころにその両手を斬り落し、検使の景憲に向っていうには、
「首を打ちはねてよろしゅうござるか」
景憲曰く
「よろしい」
そこでその首を斬った、その働きに見る者皆舌を巻いて感服した、景憲が江戸に帰って逐一このことを家康に語ると、家康は殊の外感心して、旗本に召し加え三百石を与えることになった、そこで、典膳は外祖父の氏を継いで小野次郎右衛門と改めた。 (本朝武芸小伝)
一刀流三祖伝には、この時の事件を以て次の如く書いてある。罪人は甲斐の国の鬼眼というものであった、鬼眼は身の丈七尺、剛力にして兵法の達者であるから誰とて怖れて手を下す者がない、忠明が将軍の命を受け小幡景憲と共に向って、その籠り居る屋敷の門際に至り高声に、
「鬼眼という兵法者が、人を殺してこの中に籠り居る由、小野忠明が討手として江戸から罷り越した、尋常に出でて勝負をせよ、若し臆病にして出でる事を知らずば、踏み込んで討ち取るがどうじや」
鬼眼この高声を聞くや戸を蹴破って躍り出で叫んで云う。
「音に聞ゆる忠明と勝負をするこそ本望なれ」
藤柄巻の三尺許りの太刀を大上段にかざして、坂の上から飛びかかって来る。
屋敷の前は膝折坂という坂路であって、大男の鬼眼が坂の上から向い掛って来るのだから弥が上にも高く見え、坂の下より進む忠明の身が如何あらんと、検使景憲も気遣った程であったが、忠明は刀を右の脇に構えて向い、鬼眼が打ち出そうとするその両腕を斬り落したが、鬼眼の腕と共に落ち来る刀が忠明の頸に当り血が少し出た。
忠明は景憲に向って、
「罪人の首を打ち落して宜しゅうござるか」
景憲答えて、
「速かに首を刎ねられよ」
そこで首を打ち落した、忠明この時の事を語って云う。
敵の両腕を斬り落し己が頭に触ったのは左右へ身の転じ方を誤ったので一生の不覚であった」
また一説に家光公板橋に猟せられしことあり、時に賊あり人を殺して民家に隠る、公忠明に命じて訣せしむ、忠明適々病みて臥したりしが命を聞きて起ち、子弟の病いを気遣いて止むるをも聴かず、籠に助け乗せられて板橋に至り、籠より出でて家に入り、一刀の下にこれを諌す、公これを賞し、詣められて引籠り届りしもその罪を釈されたり。 (一刀流遺書垂統大記)
二代将軍秀忠は神子上典膳が芸を深く感心し、日々ついて術を習っていたが寵遇の余り一字を授けて忠明と名のらせた、小野次郎右衛門忠明とはこの人である。
その頃、江戸に道場を開いて人に見物させて剣術を指南している人があったが、忠明がこれを見物してどういうわけか、連れの者に向ってさんざんに笑い嘲った、道場の主が大いに怒って、
「如何なるお方でござるか、只今のお言葉聞き捨てにいたしては明日よりこの道場が立ち申さぬ、われ等芸拙くともここに出でて一勝負ありたい」
といった、忠明はこらえぬ人であるによって、その儘板敷へ飛び上り、腰に差していた鼻捻を抜いて立ち向い、彼が打出する大太刀を丁と打ち開いて彼が眉間をひしと打つと鼻血が流れ、尻居に撞と倒れた。
見物の貴賎、それを見るとあれ喧嘩よと一度に崩れて外へ押し出したが、道場の中よりもう一人の師匠が進み出で、
「只今の御勝負はとかく申すに不及、今日はこれよりこの者の介抱にとりかかり申すによって別にお止め申しは致さぬ、明日この場を清め置き申すべきによって、お出であってそれがしといま一勝負なされ被下候え」
と所望した、忠明は、
「心得たり」
といって帰ったが、約束の如く翌日行って見ると、事の有様がきのうとは変り、見物人は皆断ってしまって道場のくぐりが一つ開いているだけである、忠明は同道の者に向い、
「これは戸の向うに待っていて討とうとするたくらみじゃ、何程のことがあろう」
と電の如くそのくぐりから中へ飛び込んで行った。
うちには板敷に油を流し必ずとるように仕掛けて置いたことだから、忠明は真仰向けに倒れたのを待ち構えていた相手は上からどだんを打つ如く、おがみ討にしようとする処を忠明は倒れながら「鍋釣」と名づけた刀を抜いて打ち払い、そのまま立って何の手もなく斬り殺して外へ出て来たので見る人舌を捲かぬはなかった。
二代目次郎右衛門忠常も父に劣らぬ上手で聞えていた、三代将軍家光は深く剣術を好み、柳生、小野二つの流儀を稽古されていたが、但馬守宗矩は将軍を教えるようにあしらい教えたが忠常は天性の気がさで将軍をも揮らず思うまま打ち込んで教えたりするものだから、恩遇が柳生に及ばず、一生格別なる御加恩も無かったという事である。(撃剣叢談)
小野次郎右衛門忠明は、小幡勘兵衛、大久保彦左衛門の二人に真剣をもって立ち向わせ自分は一尺三寸の薪をもってこれをあしらったけれども悉く全勝を得て、彼等二人は歯がたたなかったということである。 (剣術名人法)
小野忠明が薩摩に行った時に、彼の地の剣客、瀬戸口備前という者の招きに応じて仕合をする為に彼の宅を尋ねた、名は仕合であるけれども相手方は忠明を殺そうというのである、忠明もまた十分その心得を以て出向いて行った。
斯くて瀬戸口備前の家に至り、客間へ通ろうとする途中に、十坪ばかりの板敷の稽古場があった、そこに屈強の門人が二十人ばかり控えていたが忠明が半ば通り過ぎた時、彼等は一斉に刃を揃え、忠明を取り囲んで八方から隙き間もなく斬ってかかった、忠明八方へ身を回転して斬り殺すもの八人、重傷を負わす者三人、その余は逃げ散ってしまった。
忠明が奥の間に至ると赤い広袖を着た惣髪の者がいたが、大小を鞘共に投出して叩頭し、
「貴公の術は神の如し、我々共の遠く及ぶ所ではない」
と云って謝罪したから忠明はそれを許し備前の邸を出でて直ちに他国へ走ろうとして木立の茂ったる山の叢の下を横ぎろうとすると、山陰から数十人の敵が現われて斬ってかかった、忠明は立ち処にその六人を斬り発し、五人を傷つけた処、黒いもので面をつつみ目ばかり出した一人の男が九尺ばかりの鎌槍を振って忠明の右の袖へ突込もうとしたのを忠明は袖に搦んで槍を奪い、飛び込んで彼が眉間から乳の下まで斬り下げた、忠明がこの者を斬り倒すと残れるものは皆四方へ逃げ走った。 (一刀流三祖伝)
小野忠明曰く、
「敵が万人を以て来るとも、一時に我に向える者は八人の敵が八方から来るだけのものである、併し、その八人の打つ太刀にも遠いのと近いのと遅いのと早いのとがある、仮令千里の野原の中にあろうとも、敵が我が二尺近くへ近寄りさえしなければその太刀が我に当るということはない、その我に当るべき敵の太刀をさえ制すれば大勢は即ち一人であって万人も即ち一人である、しかのみならず大勢というものは混乱して騒擾するものであるが、我はよく心気を養い、冷静なることを得るの利がある、敵の大勢に対してこちらから猛進するのはよろしくない、ただ敵を近づけてこれを刺殺するがよろしい、敵が十歩動けば我は三歩動いて前後左右に身を転換する、大勢に対して精力を凝し過ぎ心気を揉み過ぎる時は達者と難も自ら疲れ阻んでその術も縮み、却って敵に利を与えることになる」
柳生但馬守宗矩が小野忠明の剣術を一見したいと所望した。
忠明は承諾して柳生の家に至り、一応話をしてから、宗矩に相手を所望する、但馬守は辞して長子の十兵衛に代って相手になることを云いつけたが十兵衛木刀を捨てて云った。
「忠明殿の術は水月の如し、わが太刀を打出すべき処が無い」
次に柳生兵庫が立ち向おうとすると忠明が云うよう、
「但馬守殿のお言葉は、拙者の剣術を御一見の上で仕合をされようとの御了見ではない、御一同の方々や門人衆の術の深浅を試してくれよとの御依頼である、然らば一人試むるも大勢一度に試むるも同じことでござる、故に各々方三人でも五人でも一度にかかって遠慮なく拙者をお打ち下さい、左様致さば拙者が術の程も各々方にわかり、各々方の技も拙者に於て一目瞭然となる次第でござる」
と云った、そこで兵庫と門下の木村助九郎、村田与三、出淵平八の四人が出でて、忠明の前後左右よりかかり、折能くば忠明を打ち殺さんとする気色がある、その時、宗矩と三厳とは口を揃えて云うよう、
「門人共は格別、兵庫は控えて忠明が術を傍より見学しているが宜しい」
斯くて三人の門弟が忠明の前と左右とより向った。
正面からかかって来た助九郎はどうしたものか、未だ太刀を交えざるに木刀を奪われてしまった、忠明は奪い取った木刀で左からかかった村田与三が打ち出そうとする両手を抑えて働かせず、この間出淵平八は忠明の右うしろより木刀を上段に取って忠明を打とうとしたのを忠明はその太刀の下をくぐって平八が両手を抑え与三がうしろへ廻ると平八は忠明を討ち外したのみならず、あやまって与三が頭をしたたかに打ち、後ろに倒れて気絶せしめた、人々が驚いて与三を介抱する、忠明笑って、
「村田氏は思わぬお怪我をなされたな、味方打ちであるから拙者不調法とも申されない」
その後、宗矩が門人共に向って、忠明に向った時の心持をたずねると、門人たち曰く、
「小野先生の致し方、ただ水を切り雲を掴むが如くでございます、偶々木刀に当りますると弾ね返されて持ちこたえられませぬ、名人と云うのがあれでございましょう、でなければ世に云う魔法使いと申すより外はござりませぬ」
十兵衛三厳は、忠明の妙術に感心し、村田与三と共に密かに忠明をその道場に訪ねて、
「願わくば、我が家の流儀をその儘用いて善悪利害を教えられたい」
忠明喜んでその術を授けた、十兵衛も、与三もそれより技が初めて精妙に入ることを得たということである、十兵衛三厳が忠明と仕合をした時の心持を後に語って云う。
「余は忠明に向っていろいろと目附をするけれども、形はあって目附はつけられなかった」 (一刀流三祖伝)
一説に、典膳が江戸に出で、柳生但馬守の各声を聞き、これと勝負を決せんとして、旅宿の主人に柳生邸の所在をたずね問うた、主人聞いて驚いて云う。
「柳生様のお邸へ仕合を申込んで生きて還ったものはござりませぬ、求めて死地におつきなさるにも及びますまい、おやめなされませ、おやめなされませ」
と頻りに差留めた。典膳曰く、
「柳生殿は武術のみならず、徳も高いお方である、どうしてそうむやみに人を殺すような事があろう筈はないから安心さっしゃい」
柳生邸にいたって仕合を願うた、大小を取り上げられ、道場に出で暫くありて但馬守が出で来り、肩衣をはね太刀を抜き、
「我が道場の捉として仕合を求むる推参者はこれを手討と致す、挨拶あらば申して置け」
典膳は道場の一方を見ると戸が少し開いて其処に一尺八寸ばかりの薪の燃えさしが落ちていた、これを取り上げ、
「然らば、これにて挨拶仕らん」
但馬守初めは軽くあしらっていたるも相手が案外に強いので、今は全力を尽して切り結び汗を流して戦ったが遂に典膳に切り附けることが出来ない、却って顔より衣服にかけて散々燃えさしの炭を塗られたので、深くその精妙に感じ刀を投げ出し、
「暫く待たれよ」
と云い捨て、炭の附いたままの服装で直ちに登城し大久保彦左衛門に会い委細を述べて典膳を推薦し、是より柳生小野両家相並びて将軍家に用いらるるに至ったという。
小野次郎右衛門が膝折村で賊を斬ったという事にまた次のような一説がある。
神子上典膳は、はじめ安房の里見が家臣であったが、伊藤一刀斎に就いて剣法を学び、すこぶる堂奥を極め、後に諸国を経歴して江戸に来た時、家康が召してその術を見たが、どうしたものか御気に叶わなかったので、おのずから門人も離散してしまった、その頃、城下にさる修験者があった、人を害して己が家に閉じこもったが、この者日頃より大剛の聞えあるによって、誰もおそれて近寄るものがない、町奉行何某、典膳の名を聞き及んで呼び遣わしたが、典膳は丁度病気で引きこもっていたけれど、辞退すべきにあらず、強いて出で立つ、修験者が門前に行きて、己が名を呼ぱわると、修験者もこれ屈寛の相手と思い切って出でて戦ったが典膳やや斬りなびけられ、次第に後の方へ退き、思わず小溝の中へ踏み入り、仰のけざまに倒れた処を修験者得たりと拝み打ったが、典膳は倒れながら払い斬りにその諸腕を斬落し、起き上って遂に仕止めた、流石典膳であると云って誉めるものもあり、または、敵に斬り立てられ蹟いた上に薄手も負い辛うじて相手を仕止めたのは天幸である、剣法を業とするものに似合わないと議る者もあったが、このよし家康の耳に入ると、今度は却って受け容られて云わるるには、
「何程達人でありとはいえ、つまずくことも薄手負うこともなしとは云えない、剣法はただ当座の修業の上を評するのみである、先に余が彼の術を見た時は、あまり奇異にして、妖法かまたは天狗などが愚いたのかと思ったが、今度は溝へ陥りしによって我疑念も散じ、はじめて正法の剣法なることを知り得た」とあって、秀忠へ附属させて、剣術の相手を勤めさせた、後に神子上をあらため、外戚小野氏を冒して、次郎右衛門忠明といい、その名一時に高く、今も子孫その業を伝えている。 (老士語録家譜)
次郎右衛門は性質が率直で謁諛(てんゆ)を嫌った、去る大名が一日忠明を招いて、
「わが藩中貴所の手筋を見たいと願うものがあるが、拝見はならぬか」
と云った、次郎右衛門は真面目に、
「それは仕合を望むのであろう、御遠慮なく御出し候え、対手を致すでござろう」
と答えた。臆て仕合う時、木剣を逆に執って相手の者に向っていうには、
「扨も入らざる酔興のことを望まれたものかな、怪我をするのが気の毒さよ」
といって、ピッタリ構えた、相手も少しく怒を含んで青眼につけて、ジリジリと寄来るを下より払い上げると見る間に、敵の木刀を打ち落し、翻めく木剣に両腕を打った。
「見えたか」と云いさま身を引いて、定めし腕が折れたであろうと平然と構えた、相手の者は一時気を失ったのを小姓共が介抱して引取ったが、果してその後腕の自由を失って了ったということである。
斯様な気荒な質は将軍家へ対しても聊かも追従を用いない、或時秀忠公が剣術の事に就いて自説を述べると、
「兎角兵法と申すものは腰の刀を抜いての上でないと論は立てませぬ、坐上の兵法は畠の水練でござる」
と遠慮なく申上げた、御不興の体でその場は済んだ、曾て両国橋の辺に剣術無双の看板を揚げ、飛入りを許した興行的の道場が出来た、真剣にて仕合い斬殺さるも苦しからねば、吾と思わん方は相手に御出あれ、人もなげなる張出しをして客を呼んだ、次郎右衛門、門弟を引連れ桟敷にてこの者の業を見物して居たが門弟と共に大笑したのを聞付け、彼は大いに怒り、是非仕合せよと望んだ、天下の膝元にかくの如き兵法者を棲息さするは不本意と思って、次郎右衛門は場に下り立った、彼は太刀を構えて立向うを持ったる鉄扇にて一挫きに脳天を打って昏倒させた、これが上聞に達して次郎右衛門の挙動は天下の師範たるべき行いでない、その身を慎まない下士の所業と御答《おとがめ》あって、蟄居を命ぜられてしまった。次郎右衛門は柳生但馬守に向って、
「御子息にも不肖の伜にも、罪人中腕利の者を申受けて真剣を持たせ、仕合の相手に立たせて斬って捨てさせたらば、良き修業になり申すしと口癖にいわれた、但馬守は、
「いかにもいかにも」
と挨拶のみして一向その説を実行する気はなかったという。
こんな気性で常に刃引を以て稽古し、上様というとも遠慮なしに扱ったので、撹打の柳生流の方が御手直しに採用せられ、天下一柳生流、天下二の一刀流と順序を落されたのは遺憾である。 (日本剣道史)
二郎右衛門(二代)は七十余年毎朝の稽古を怠るということはなかったが、将軍家が上覧という仰せ出しのあった日からその当日までは稽古をやめてしまったそうである、その理由は平常稽古しているから、敢て新たに工夫には及ばぬ、若し取り外して怪我でもあっては却って上覧のさまたげになるといった。 (八水随筆)
塚原卜伝
塚原卜伝は、常陸国鹿嶋郡塚原村の人、父を新左衛門といい、祖父を土佐守平安幹(やすもと)と云った。
安幹兵法を香取の飯篠長威に学び、新左衛門に伝う、その頃鹿嶋氏の家に杉本(松本)備前守尚武という者があって、長威の弟子で剣法の蘊奥を究めていたが、新左衛門もこの人にも教えを受けたのである。
卜伝は父と祖父との業を継ぎ、十七歳の時、京の清水寺に於て太刀を以て仕合して敵に打ち勝ってからその名が世に知られはじめた、或時、近江の蒲生の家で、屏風の側を行き過ぎた時、その陰から躍り出でつつ刀をもって打懸かる者がある、卜伝飛びのき様に脇指抜くと見えたが、その者は既に討たれて死んだ、これは落合虎右衛門という者であって、京に在りし頃、卜伝と木刀の仕合いをして負けた事を怨みての仕業であった、この時、卜伝は三尺計りの太刀をさしていたが、間合いを慮って脇指を用いたのだと云った、卜伝は、
「刀は人の長さによりて長さ短さを定めるがよろしい、鍔の膀を越すようなのは指してはいけない」
と云っていたが、平常は二尺四寸の刀を帯び、事ある折は三尺計りの刀であったそうである、時により処にもよりて長刀をも槍をも用いたが、槍はどういうのを用いたか、長刀は必ず刃の二尺四五寸なのを持った、ト伝戯れに一尺四五寸の脇指を片手に抜き持っている処を人が大太刀で力の極み切っても打ってもいささかも動かなかったそうである。 (塚原卜伝)
ト伝は武州川越に於いて下総の住人梶原長門という薙刀の名人と勝負を決した事がある、この長門は刃渡り二尺四五寸の長刀を以て飛んでいる燕を斬って落し或は薙、鴨などの地にあさるを自在に薙ぎ倒すぱかりか切り籠りゃ放し打など、幾度となくやって、あらかじめ声をかけて置いて相手の左手、右手、それから首と言葉通りに敵を斬り落す手際の鮮かなことは身の毛もよだつ程であった、仕合のことを聞いた門人は、さすがにこの時ぱかりは心配の余りト伝にこの仕合を思いとまらせようと諌めた、卜伝は、
「道理を知らぬ者共かな」
と弟子共を叱って云うよう、
「鵬(もず)という鳥がある、自分より四五倍も大きい鳩を追廻すほどの猛鳥だが『えっさい』という鳩の半分に足らぬ鳥に出合うと木の葉笹陰に隠れて逃げるものだ、その長門という男は、まだ己れ以上の名人に出合った事が無いのだろう、卜伝に於ては薙刀は常に使わないけれども、兵法というものは皆同じ理法のもので、薙刀はもとより太刀間も二尺も三尺も遠くにあるのを切る為のもの故、刃が長くなければ用をなさぬものである、三尺の太刀でさえ思う図に敵は打てぬものを、一尺許りの小薙刀で六尺外の人の左右の手を二度に斬り落すなんどという事は鳥獣の類か、さもなけれぱ武術を知らぬ奴を相手としたからだ、九尺一丈の槍で突き抜かれてさえ、当の太刀は相手を打てるものだ、まして薙刀などで突かれたからとて何程の事がある」
斯くてト伝は二尺八九寸の太刀を指して仕合の場に赴いた。
梶原長門は例の小薙刀を携えて来合わせたが、両人互に床几を離れて近寄ると見る間に、薙刀は鍔もと一尺許り余して斬り落され、長門はただ一刀に斬り伏せられた。 (塚原卜伝)
塚原卜伝が下総の国にいた時分、梶原長門という薙刀の上手がト伝に仕合いを申込んだ、卜伝の門人共は常とちがって、これを甚だ怖れあやぶんでいた、というのは、長門は聞ゆる上手なる故、殊に薙刀のことであるから
(俗に薙刀と太刀とは二段の差があるといわれる)流石の我が師も勝負のほども如何と心配してまず師のト伝の許に行き、
「こんどの仕合、如何思い給うや承り度候」
と、いうと、卜伝は格別気にもとめない体で、
「長刀と雖も身は二尺に過ぎない、我が刀は三尺あるによって何のあやうきことがあろう」
と、いった、さてその日になって見ると、かねてその評判を聞き伝えたものだから見物が雲霧の如く集って各々勝負如何と固唾を呑んで見物したが、卜伝は前日の言葉の如く長門が左の腕を斬って落して勝を制した。
このト伝は門人が多きのみならず、国々に豊富の弟子共が多くつきまとっていたから、かりそめに処を移すにも、鷹を据えさせ、馬を牽かせなどして、外より見ると、さながら大名のような体で往来していたということである。 (撃剣叢談)
塚原卜伝は、常州塚原の人で父を塚原土佐守といい、飯篠長威斎に従って天真正伝を伝えた。卜伝はその後野州へ行って上泉伊勢守に学んで心要を極め、後京都に至って将軍足利義輝及び義昭に刀槍の術を授けたのであるが、諸大名諸士卜伝に従って武術を習うものが多かった、伊勢の国司、北畠具教卿の如きはト伝の門下として、最も傑出していた一人で、卜伝はこれに「一の太刀」を授けた。松岡兵庫助というのも、その道の妙を得たが後家康にこの「一の太刀」を授けて褒賞に与ったことがある。
このト伝の太刀の極意、「一刀」を使い出したものは松本備前守である、この人は鹿島香取の仕合に槍を合すこと二十三度、天晴れなる功名の首数二十五、並の追首七十六、二度首供養をして結局首一つ余ったということである。
或る時卜伝が或る上手の兵法使いに仕合をしかけられて承知いたしたと返事をし、それから門下の者共にこんど相手の兵法人がこれまで数度木刀で仕合に勝った作法と様子を尋ねて見ると、
「さ様でございます、構えは左立ちで、さて勝負に相成ると右か左か、必ず片手で勝をとるという仕方でございます」
それをト伝が聞き取ると、どういうつもりか相手の方へ使を立てて、
「左立ちの片手勝負というものは勝っても卑怯である故に御無用になされよ」
と、十度びも使を立てて云ってやった処が、先方から十度びながらの返事、
「左立ち片手で討つのを嫌と思召《おぼしめ》しになるならば、勝負をしない前に貴殿の負とせられるがよろしい」といって来た。
が、ト伝はそれを聞き捨てにして仕合に出ながら、
「見て居られよ、拙者の勝利は疑いなし」
といって立ち合うや否や相手の額から鼻、唇を打ち裂いてト伝が勝利を占めた。 (本朝武芸小伝)
卜伝は諸国修業の後に故郷の常陸に帰り、いよいよ最後の時にその家督を立てようとして三人の子供を呼び、それを試すことにした、まず、木の枕をとってのれんの上に置き、第一に嫡子を呼ぶと、嫡子は見越しの術というのを以てそれを見つけその木枕をとって座に入って来た。次に次男を呼ぶと次男が帷を開いた時に木の枕が落ちて来た、そこで飛びしさって刀に手をかけてから謹んで座に入って来た。
こんどは第三男を呼ぷと、三男はいきなりのれんを開く途端に木枕が落ちて来た。それを見るより刀を抜いて木枕を勇ましく斬り伏せて座へ入って来たので、卜伝が大いに怒って木の枕を見てそんなに驚く奴があるかと叱りつけた。
そこで嫡子の彦四郎の挙動が最も落ちついていたので、それに家督を譲ることになったが、その時云うよう、
「父が一ノ太刀を授けたのは天下にただ一人しかない、それは伊勢の国司北畠具教卿である、その方行って具教卿に就いて習え」
と云い終って死んでしまった、つまり彦四郎は家督は譲られたけれども一ノ太刀は終に伝えられなかったのである、そこで、父の遺言に従って遥々伊勢の国へ出かけたが、自分が長子でありながら伝えられない「一ノ太刀」は如何なるものか教えていただきたいと云いにくくもあり云っては具教卿から拒絶されるか知れないということを慮って、わざと国司に向って言った。
「拙者も父のト伝から一ノ太刀を譲られましたがあなた様へ父の御伝授申上げたのと異同を比べて見とうございますが」と云った。
具教卿がそれを聞いて「一ノ太刀」の秘術を見せた為に彦四郎はそれを知ることが出来たということである。 (本朝武芸小伝)
ト伝が、江州矢走(やぱせ)の渡しを渡ることがあって、乗合六七人と共であった、その中に三十七八に見える逞しい壮士がいた、傍若無人に兵法の自慢をし天下無敵のようなことをいう、卜伝は知らず顔に居眠りをしていたが、遂に余りのことに聞き捨てにしかねたと見え、
「貴殿もなかなかの兵法家のようでござるが、われ等も若年の時より型の如く精を出して兵法を稽古したけれども、今まで人に勝とうなどと思ったことなく、ただ人に負けぬように工夫する外はなかった」という、右の男これを聞いて、
「やさしいことを云われるが、して貴殿の稽古された兵法は何流でござる」と尋ねる。
「いや、何流というほどのことはござらぬ、ただ人に負けぬ『無手勝流』というものでござる」
と答えた、右の男がいうのに、
「『無手勝流』ならばそなたの腰の両刀は何の為でござる」
卜伝これを聞いて、
「以心伝心の二刀は敵に勝つ為にあらず我慢の鋒を切り、悪念の兆しを断つ為のものでござる」
右の男それを聞いて、
「さらば貴殿と仕合を致そうに、果して手が無くてお勝ちにならしゃるか」
と、卜伝が曰く、
「されば、我が心の剣は活人剣であるけれども、相手をする人が悪人である時にはそのまま殺人剣となるものでござる」
右の男、この返答を聞いて腹に据えかねて船頭の方へ向き、
「如何に船頭、この舟を急いで押し着けよ、陸へ上って勝負をする」と怒り出した。
その時卜伝は、ひそかに眼をもって乗合と船頭に合図をして云うことには、
「陸は往還の巷であるから、見物が群がるに相違ない、あの辛崎の向うの離れ島の上で人に負けぬ無手勝を御覧に入れよう、乗合の衆何れもお急ぎの旅にて定めて御迷惑の儀と存ずるが、あれまで押させて御見物されたい」
といって船を頻りに押させて、さて彼の島に着くとひとしく自慢男は、こらえず、三尺八寸の刀をスルリと抜き、岸の上に飛び上り、
「御坊の真向、二つにいたしくれん、急ぎ上り給え」
と、ののしり立つとト伝がそれを聞いて、
「暫く待ち給え、無手勝流は心を静かにせねばならぬことでござる」
といって、衣を高くからげ、腰の両刀を船頭に預け、船頭から水樟を借りうけ、船べりに立ち、その水悼で向うの岸ヘヒラリと飛ぶかと見ると、そうではなくて樟を突張って船を沖へ突出してしまった。島へ上陸した男がこれを見て、
「どうして貴殿は上陸なされぬのじや」
と足ずりをする、卜伝これを聞いて、
「どうしてそんな処へ上れるものか、くやしくば水を泳いでここへ来給え、一則授けて引導をしてあげよう、我が無手勝流はこの通り」 と高声に笑ったので、彼の男は余りの無念さに、あししきたなし、返せ、戻せといったけれども、更に聞き容れず、湖水一丁ばかり距ててから扇を開いて招きつつ、
「この兵法の秘伝を定めて殊勝に思われるのであろう、執心ならば重ねてお伝え申さん、さらば」
と云い捨てて山田村にぞ着きにける。 (本朝武芸小伝)
塚原卜伝は前原筑前のように奇特のことはなかったけれども、諸国を兵法修行して廻る間大鷹を三羽も据えさせ、乗り替えの馬を三匹も曳かせ上下八十人ぱかり召し連れて歩いた、斯様な修行振りであったから皆々一方ならず尊敬するようにもなった、卜伝などは兵法の真の名人というべきである。
山本勘助或はなみあい備前等は長刀を以て我は一人敵は二百人ばかりあるを七八十人斬って、その身は堅固に罷り退いたことがある。
小幡上総守は兵法を三つに分けて第一を兵法使いといい、これは最初の前原筑前の如きを称し、第二は塚原卜伝の如きを兵法者といって名人に数え、第三の山本勘助、なみあい備前守を兵法仁と称している、これは実際の兵法にかけては上手でも名人でもないけれども、その臨機応変の働きによって名人以上の手柄を立てたものを云っているらしい。
名人のト伝は一つの太刀、一つの位、一太刀と云って太刀一つを三段に分けて極位としていたそうである。 (甲陽軍鑑)
塚原卜伝が十七歳の時、京の清水で真剣の仕合をしてより、五畿七道に亘って真剣勝負十九カ度、軍の場を踏むこと三十七度、木剣の仕合等は無数であるが、疵は一力所も被らない、ただ矢疵は六カ所あったが敵の物の具がわが身に当ったことはない、戦場仕合を合せて敵を討取る事二百十二人ということである。
卜伝は何事にても人の芸能の至り顔をするを見ては、いまだ手をつかい申すといったそうである。 (武道百首奥書)
関八州古戦録には、卜伝が一つの太刀の極意を伝えたのは伊勢国司北畠権中納言具教の外、京都で細川兵部大輔藤孝にも伝えたとある、一の太刀というのは、凡そ一箇の太刀の中三段の差別あり、第一一つの位とて天の時なり、第二は一つの太刀とて地の利なり、是にて天地両儀を合比し第三一ツの太刀にて人物の巧夫に扶く結要とす当道心理の決徳なり、とある。
宮本武蔵
宮本武蔵政名は播州の人、二刀の名人である、十三歳の時に播州に於て有馬喜兵衛と勝負をし、十六歳の時に但馬に於て秋山と勝負をしてこれを撃殺し、後京都に於て吉岡と勝負を決して勝ち、彼船島に於て、巌流を撃殺した、凡そ十三歳より勝負をなすこと六十有余度、一度も後れをとったことがない。
吉岡と勝負を決した時は当時扶桑第一と称していた吉岡の嫡子清十郎を蓮台野に於て木刀の一撃の下に打ち発して眼前にて息が絶えたが、門生達が板に乗せて運び去り療治を加えたので漸く回復したけれども、それから剣術を捨てて髪を切ってしまった、その後一族吉岡伝七郎とまた洛外に於て勝負を決するの約束をした、伝七郎は五尺余の木刀を抱えて来たのを武蔵その期に臨んで彼の木刀を奪い、これを打って地に伏せしめた、たちどころに死んでしまった。
吉岡の門生は、これはとても術をもって相敵するわけには行かぬと、吉岡又三郎は門下数百人に兵器と弓矢を持たせて武蔵を謀殺しようとした、それを敵の意表に出でて武蔵は一人で悉く追い払ってしまった。
中村守和という人の話に、巌流と宮本武蔵の仕合のことを或る年寄から聞いたというところを次に記して見る。
既に仕合の期日になると、貴賎見物の為船島に渡るものが夥しい、巌流もしのびやかに船場に来て船に乗り込んだ、そうして渡し守に何気なく訊ねていう。
「今日は大へんに人が海を渡るようであるが、何事があるのだ」
渡し守が答えていうのに、
「あなた様は御存知がないのですか、今日は巌流という兵法使いが、宮本武蔵様と船島で仕合をなさる、それを見物しようとてまだ夜の明けないうちからこの通りの始末です」
巌流がいうのに、
「実はおれがその巌流なのだ」
渡し守が聞いて驚いて、さて小さな声でいうには、
「あなた様が、巌流様でいらっしゃるならばこの船をあちらの方へつけますから、このまま早く他国へお立去りになる方がよろしゅうございます、よし、あなた様が神様のような使い手でいらつしゃろうとも、宮本様の味方は人数が甚だ多数でございますから、どちらにしても、あなた様のお命を保つことは出来ますまい」
巌流それを聞いていう。
「お前のいう通り、きょうの仕合、さもありそうな事だが、拙者は必ずしも生きようとは思っていない、かつ堅く約束」たことであるから、たとい死すとも約束を違えることは出来ない、拙者は必ず船島で死ぬであろう、お前、我が魂を祭って水なと手向けてくれ」
と、いって懐中から鼻紙袋をとり出して渡し守に与えた。
渡し守は涙を流して巌流の剛勇に感じ、そうして船を船島に着けた。
巌流は船から飛び下りて武蔵を待っていた、武蔵もまた此処に来て勝負に及んだ、巌流は精力を励まし、電光石火の如く術を振うと雛も不幸にして一命をこの島に留めてしまった。
この物語をした中村守和という人は十郎左衛門といって侍従松平忠栄に仕え、刀術及び柔術に達した人である、この話によると巌流の器量が却々優れて見える。
もう一つの説に、武蔵が巌流と仕合を約束して船島に赴く時に武蔵は水樟の折れを船頭に乞いうけて脇差を抜いて持つべき処を細くしそれをもって船から上って勝負をしたということである、巌流は物干竿と名づけた三尺余の大刀をもって向ったということである。今に船島には巌流の墓がある。 (本朝武芸小伝)
武蔵流は宮本武蔵守義恒(よしつね)(諸書に皆正名(まさな)につくる、今古免許状によって改むるなり)。
武蔵守は美作の国吉野郡宮本村の生れである、父は新免無二斎といって十手の達人であったが、武蔵守もこの術に鍛練し、後つらつら思うには十手は常用の器ではない、我が腰を離さざる刀を以て人に勝つ術こそ肝要であるといって、改めて新たに工夫し、二刀の一流を立てた。
岸流というものと仕合した時、船頭に竿を乞うて二刀とし、岸流は真剣で勝負をし、遂に武蔵が勝って岸流を撃殺したこと、悉しくは砕玉話に出ているからここに説かない。
また一説に宮本武蔵、佐々木岸柳と仕合をすることに決ったが、双方の弟子共甚だ恐れあやぶんだ、武蔵の弟子の山田某という者が岸流の第子の市川というものと話の序に双方の師匠の得意の点を物語ったが、武蔵の弟子山田がいうには、
「うちの先生の仰有るのには岸流殿は秀れて大太刀を好みなさる由、然らば打ちひしぎて勝とうといって木太刀を拵えました」
岸流の弟子の市川がいうには、
「うちの岸流先生は虎切りといって大事の太刀がござる、大方、この太刀で勝負をなさるのでしょう」山田がこの由を帰ってつぶさに武蔵に告げると、武蔵が聞いて、
「虎切りは聞き及びたる太刀である、さぞあらん」
と、いって勝負の日になったが、武蔵は軽捷無双の男であるから、岸流に十分虎切りをさせて飛び上り、皮袴の裾を切られながら飛び下り岸流が眉間を打ち砕いて勝った。
また一説に、武蔵は京都将軍の末に、都に上り、兵法の吉岡拳法と仕合し、打ち勝って天下一の号を将軍より賜わったという、この拳法と勝負の時も岸流と仕合の時も、共に一刀で、二刀は用いなかったのだとも云われる、是等の説が真であるかどうか、この流儀の免許状などに天下一の印を捺し、また天下一宮本武蔵義恒とも書いているが、武蔵夢想の歌として、
なかくに人里近くなりにけり あまりに山の奥をたづねて
武蔵流は一般に称えるところであって、この家では流名を円明流と称えるのか免許状等にすべて円明流と見えている。 (撃剣叢談)
古老茶話という書物によると、宮本武蔵が小笠原領、豊前の小倉で佐々木眼柳という剣術者と同船したが、船の中で仕合のことを申出し、武蔵は擢を持ちながら岸に上る、眼柳は真剣をもって、武蔵が上る処を横になぐる、武蔵が皮袴の裾を凡そ一寸許り横に切った。
武蔵は持ったる擢をもって眼柳を打ってその船の中へ打ちひしいだ、これよりその島を眼柳島と名づけた、「武蔵は一生の間に七十五度仕合して残さず勝っている」と書いてある。 (古老茶話)
京都北野の七本松で宮本武蔵と吉岡兼房とが仕合をすることになった、その刻限を双方朝五時と約束した、兼房は早く起きて刻限に北野に行ったが、武蔵は遅参して昼時に及んでもまだ出てこない、使いを遣って見ると武蔵はまだ寝ている。
「急ぎ出で向き候え」と申すと、「心得候」といってまだ寝ている、従者が、
「如何でございます」というと、武蔵は、
「勝を考えているとまだ気が満たない、追っつけ出かけよう」
と、いって、漸く袴肩衣で北野に出かけて行った。
吉岡がそれを見て、焦立ったる心持で、
「待ちかねていた」
というと、武蔵が、
「ちと不快にて遅参いたした」
と答えて立ち上って仕合、吉岡は木刀、武蔵は竹刀にて相打ち、吉岡鉢巻のうち左の小髪、武蔵左の肩衣の肩の後のところを打たれた。
これは武蔵がわざと吉岡に気を屈させようと、悠々と時を延ばしたのである。 (古老茶話)
武蔵が吉岡と仕合をした時、武蔵は柿手拭で鉢巻をしたが吉岡は白手拭で鉢巻をした、吉岡が太刀、武蔵が額に当る、武蔵が太刀もまた吉岡が額に当る、吉岡の方は白手拭だから血が早く見え、武蔵は柿手拭であるが故に、暫くして血が見えたということである。
また一説には、この時吉岡はまだ前髪で二十に足らず、武蔵より先立って弟子を一人召し連れ、仕合の場に来り、大木刀を杖について武蔵を待っていた、武蔵は竹輿でやって来たが、少し前門で輿より下り、袋に入れた二刀を出して袋で拭い、左右に携えて出る、吉岡大木刀をもって武蔵を打つ、武蔵これを受けたには受けたが鉢巻が切れて落ちた、武蔵沈んで払う木刀で吉岡が着た皮袴を斬った、吉岡は武蔵が鉢巻を斬って落し、武蔵は吉岡が袴を斬った、いずれ勝り劣りのあるまじき達人と見物の耳目を驚かしたということである。
また或る説には武蔵は二刀使いであるけれども仕合の時はいつも一刀で二刀を用いない、吉岡と仕合の時も一刀であったと、どれが本当かわからないが聞くに任せて記して置く。 (本朝武芸小伝)
吉岡との最初の争いの時、武蔵、つくづく思うよう、我さきに清十郎、伝七郎と仕合をした時は、いづも後れて行った、今度はそれに引きかえ、先に行こうと、鶏鳴の頃一人で出かけて、道に八幡の社がある、武蔵おもえらく、
「幸いに神前に来た、勝利を祈って行かでは」
と社壇に進んで、神前に下っている鰐口の緒を取り、将に振り鳴らそうとして、忽ち思うに、
「余は常に神仏を尊んで、神仏を頼まずと心に誓っている、今この難に臨んで、いかに祈るとも神様が受け容れたもう筈がない、我ながらおぞましい心を起したものだ」
と、漸椀して社壇を下った処が、後悔の念忽ち至り、汗が流れて足の踵に及んだ、即ち直に馳せて一乗寺の下り松の処まで来たが、夜がまだ明けず四方寂々、依って松陰に暫く休んで待つ処に、又三郎案の如く門弟数十人を率い、提燈を照して歩み来り笑いながら、
「武蔵はこの度もまた遅れて来るだろう、心にくき彼の松陰、いざや、あれで休もう」
と云い云い近づいて来るを、武蔵、
「やあ又三郎待ちかねた」
と大声に呼ばわり、大勢の中に割って入る、又三郎驚きあわてて抜き合わせんとする処を真二つに斬り殺す、門弟等狼狽しながら、槍または半弓を以て突きかかり、射放ち、剣を抜いて切りかかるを、武蔵は悉くこれを薙ぎ払い、追い崩し、何れも命からがらにて逃げ去った、この時武蔵は矢一筋を袖に止めたのみで小疵だに負わず、威を震って帰った、武蔵後にこの事を人に向って云うには、
「事に臨んで心を変ぜざるは六つかしい、自分ながらあの時は危くも神明に頼ろうとした」
と云った、これで吉岡家は断絶したのである。
二天記によると、岸流島の仕合は吉岡に勝って後慶長十七年四月二十一日の事である。
そもそも巌流事佐々木小次郎は越前国宇坂の庄浄教寺村の生れで、富田勢源の門人であったが天性非凡に加うるに幼少より稽古を見覚え、長ずるに及んで、勢源が打太刀を勤めた、勢源は一尺五寸の小太刀を持ち、小次郎に三尺余の太刀をもたせて、常に仕合をしたが、小次郎ようようその技熟するに至り後には勢源が高弟等一人も小次郎に及ぶものなきに至り、一日勢源が弟治部左衛門と勝負をしたが、これにもまた打勝ったので、小次郎大いに我が技能の勝れたるを誇り勢源が許を駆落して、自ら一流をたて巌流と云った。
この時の仕合は武蔵の方から細川家の家老長岡佐渡を通じて希望したものであった、斯くて小次郎(巌流)は太守細川三斎の船で、武蔵は家老長岡佐渡の舟で、決闘の場所向島へ渡される事になったのだが、その前の夜になると武蔵の行方がわからなくなった、中には、さすがの武蔵も巌流に怖れをなして逃げたのだろうなどと噂をするものもあったが、長岡佐渡が心配に堪えず探しに出ると、下の関の問屋小林太郎左衛門という者の家にいた、そこで武蔵は長岡佐渡に手紙を書いて御心配なかるべき由を通じた。
翌朝になると日が高くなるまで武蔵は起き上らない、亭主も心配し小倉からも使があって、小次郎は最早定刻島へ渡ったとの事である。
武蔵はゆるゆると起上り、手水し、飯を食い、亭主に請うて櫓を求めて木刀を削った、そこへまた小倉から急使が来た、武蔵漸く絹の袷を着、手拭を帯にはさみ、その上に綿入れを着て小舟に乗って漕ぎ出た、召しつれるのは宿の僕一人である、さて船の中で紙捻をして裡にかけ、彼の綿入れをかけて寝こんでしまった。
島では警固特に厳重であった、武蔵の舟が着いたのは巳の刻近い頃であった、舟を洲崎にとどめ、着ていた綿入れを脱いで、刀は船に置き、短刀をさし、裳を高くかかげて、彼の木刀を提げ、素足で舟から降り、波打際を渉ること数十歩、行く行く帯に挾んだ手拭を取って一重の鉢巻をした。
小次郎の方は狸々肌の袖無羽織に染革の立附を着し、草鮭をはき、備前長光の三尺余の刀を帯びて待ち疲れた体であったが、武蔵の影が向うに見ゆるや、憤然として進み、水際に立って、
「拙者は時間に先立って来ているのに、貴殿は約束を違うこと甚だしい、わが名を聞いて臆れたか」
そういうのを、武蔵は聞えぬふりをして黙っている、小次郎益々怒り、たまり兼ねたる気色で、刀をスラリと抜き、|鞘《さや》を水中に投げ捨てて、猶進み寄る。
その時、武蔵は水中に踏みとどまって、莞爾と笑い、
「小次郎、負けたぞ」
という、小次郎、いよいよ怒って、
「何の理由で、負けたという」
武蔵それに答えて、
「勝つ気ならば、鞘を捨てるには及ぶまい」
小次郎怒気紛々たるままに刀を真向に振りかざして武蔵が眉間を望んで打った。
武蔵も同じく打ち出したが武蔵の木刀が早くも小次郎が額に当ると小次郎は立ち所に倒れた、最初、小次郎が打った太刀は、その切っ先、武蔵が鉢巻の結び目にあたって、手拭が二つに分れて落ちた。
武蔵木刀を提げながら倒れた小次郎を見つめていたが、暫くたって、また振り上げて打とうとする時、小次郎は伏しながら横に払った刀で、武蔵の袷の膝の上に重ねた処を三寸ばかり切り裂かれた。
その時、武蔵が撃った処の木刀で小次郎が脇腹横骨を折られて全く気絶し口鼻から血が流れ出でた、武蔵は木刀を捨て、手を小次郎が口鼻に当て顔をよせて死活をうかがったが、やがて遙かに検使に向って一礼し、起って木刀を取り、本船の方へ行きこれに飛びのり供と共に悼さして早速下の関へ立ち帰り、長岡佐渡に手紙を送ってお礼の意を述べた、巌流島の仕合とはこれを云う。 (二天記)
ある年正月三日の夜、肥後熊本細川家花畑の邸で、謡初があって、人々が集まったが、武蔵もやって来た、規式はまだ始まらない前に、大組頭の志水伯耆という人が、上座から武蔵を見かけて言葉をかけ、
「貴殿が先年佐々木と勝負ありし時、小次郎が先きに貴方を打ったのだとの風説がござるが、その実否如何でござる」
とたずねた、武蔵は何とも返答をせず、席に立てた燭台を取り伯書の膝下ちかく、つかつかと進み坐り直して、
「我等幼少の時、蓮根という腫物が出来、その痕がある為に月代がなりがたく、今に総髪にてござるが、小次郎と勝負の時は、彼は真剣、我は木刀でござった、真剣で先に打たれたならば、我等が額に疵痕があるでござろう、能く能く御覧下され」
と、左の手で燭台を取り、右の手にて髪を掻き分けて我が頭を伯者の顔に突き当てた処が、伯耆後ろへ反って、
「いや/\一向に疵は見え申さぬよ」
という、武蔵猶もおし寄り、
「篤と御覧候え」
という、伯耆、
「いかにも篤と見届け候」
といったので初めて立て燭台を直し、元の座につき、髪掻き撫でて自若たるものであったが、その時には一座の諸士いずれも手に汗を握って、鼻息するものもなかった。これ伯耆一生の麁忽なりと、その頃の評判であったそうな。
或る者が、武蔵に兵法修行の上達如何を訊ねたら、武蔵は畳の縁を指して、
「此処を歩き渡って見られよ」
といった、その通りにすると武蔵が、
「若し一間ばかり高い所で今の縁の広さを渡れるか」
とたずねた。
「それはチト難しい」
といえば、
「然らば三尺の幅あらば渡るや」
という。
「それならば渡られます」
と答える、武蔵この時に頷いて、
「当時姫路の天守の上から増位山(姫路より南方一里にある)の上へ三尺幅の橋を架けたらば渡れるか」
と反問した。
「これはとても渡れるとは申されぬ」
といえば武蔵合点して、
「さもあらん、剣法もその如し、畳の閾を渡るは易く、六尺高となれば幅三尺の板に安心を止め、天守増位山の高さとなれば間隔一里に三尺の渡にては心許なく、過失を恐るる臆病出で来るが修業の足らぬ所である、始は易く、中は危くそれを過ぎてはまた危し、始中終の本心が確と備わるときは何の危き所はない、故に精気を練りて畳のへりを能く踏み覚ゆれば一里高も百丈も怖るることなく二三尺の橋桁を踏外ずすことはない」
と、語った。
宮本武蔵が名古屋に在った時、或る日門弟二三人を連れて外出した処が、一人の武土が前の方から歩いて来る、それを見て武蔵が門弟に向って云うことには、
「この人の歩き方は遅からず早からず、真に活きた人の態度である、俺は江戸を出てから久し振りで活きた人に出逢った、これは必ず柳生兵庫であろう、そうでなければ当城下に別に斯様の人がある筈は無い」
と云いつつ進んで行くうちにパッタリ行き会った、そうすると、先方から声をかけて、
「宮本先生ではござらぬか」
と云った、そうすると武蔵は、
「さ様に仰有るあなた様は柳生先生ではござりませぬか」
と答えた、兵庫も武蔵もまだ未知の間であったけれども双方その態度を見てその人を覚ったというのである、この話は怪しいけれども記して置く。
武蔵が名古屋へ来た時に召されて、候の前に於て兵法つかいと仕合した時、相手すっと立合うと、武蔵は組みたる二刀のまま、大の切っ先を相手の鼻の先きヘつけて、一間の内を一ペんまわし歩いて、
「勝負かくの如くに御座候」
と云った、また一人立合ったが、これも手もなく勝った、(この仕合は城内虎の間であったともいう)武蔵はその後、長野五郎右衛門が柳生流の達人だと聞いて、仕合をしたいとの内談の為五郎右衛門方へ推参したが、五郎右衛門出迎えて、
「かねがね御意得度存じていた処、ようこそお出下された」
とて、もてなし、打ちくつろぎて話す時に、長野は武蔵に向って、
「何と武蔵殿、三十五カ条と申す書を一覧致したが、あれは其許の御作でござるか」
と問うた。
「成程、私の作りし書物でござります」
と武蔵が答えると、五郎右衛門が、
「近頃粗忽なる申し分ではござるが、あの書物はお書き損いでござって、嘸かし後悔の事とお察し申す」
と長野から達慮なく云われて武蔵が、
「さてく、お恥かしき事にて候、未熟の時分作り出し、只今は後悔千万の作でございます、然し一天下に流布して貴殿まで御覧下さるるようになっては、今更如何とも致し難く残念に候、さても承りしより貴殿は上手、感心仕りました、あの書物を書き損いと申すは天下に貴殿一人、さりとはお頼もしく存じ候」
と云って、仕合の事は申出でず、快く物語して絵などを書いて帰った、それから、やがて名古屋を立ち出でたとの事である、武蔵この時、方々の仕合に勝ち、尾張には兵法遣いなしなどと云われては、心外千万と思った処、長野が一言で雌伏させたことを君公も聞いて甚だ悦ぱれたそうであるが、斯様な事で、武蔵は尾張には召抱えられなかった。 (近松茂矩著「昔咄」)
武蔵が出雲国松平出雲守の邸に在った時分、この家には、強力の兵法者が多かったが、ある日、出雲守は武蔵に命じて、家士の尤も強力の者と勝負をさせた、処は書院の庭上、家士は八角棒の八尺余なるを横たえている、武蔵は常用の木刀二本を提げて、書院の踏段を徐に降りて来た、この時家士は書院の正面を横身に受け、武蔵が来るを待ち受けている、武蔵踏段の二段目より直に中段の位に構えて、面をさす、家士驚いて八角棒を取り直さんとする処を、左右の腕をひしぎつきて、強く打つ、打たれてひるむところを即時に打ち倒して勝を獲た、出雲守いたくせきて、
「余自ら仕合せむ」
と望まるる、武蔵答えて、
「いかにも自身に成されないと、真に兵法の御合点は成りがたし、一段然るべき儀と存じます」
家人等事容易ならずとおもい、強いて諌れども出雲守聴かず、武蔵に立向う。
武蔵二刀を以て、三度まで追い込み、三度目には出雲守を床上に追い上げてしまった、出雲守なおひるまず、木刀を振り直されたのを武蔵直に突入り、ねばりをかけて石火の当りでしたたかに当った処、木刀二つに折れて、一は天井を打ちぬいた、出雲守は驚怖し平伏して門弟となった、かくて武蔵は暫くここに留まりて、剣道を指南したそうである。 (武芸雑話)
ある時、武蔵伊賀国にて宍戸某という鎖鎌の達人に会し、各野外に出でて勝負を決す、宍戸鎖を振り出す処を、武蔵短刀を抜き投打に宍戸の胸を貫く、宍戸働かんとすれども働かれず、直ちに斬られた、宍戸の門人等これを見て大勢斬ってかかったが、武蔵は、すかさず斬り崩し、四方へ遁走するを武蔵追いもせず、悠然として帰り来ったという。
或る時、小笠原信濃守の邸で人々打ち寄り、武蔵の兵法を批判していたが、この時庖丁人に、少し腕力のある男があったが進み出でて、
「武蔵にもせよ、鬼にもせよ、だまし打にうたば打たれぬ事はあるまじ」
と云った、人々が、
「だまし打でも打てまい」と争う。
「然らば、今夜武蔵が来る筈、打ちて見よ」
と賭物をかけて約束した、庖丁人がそこで時を計って暗い所に隠れてこれを待つに、果して武蔵が入って来て、何心もなく過ぎゆくと、やり過ごさせて、うしろより声をかけつつ木刀をもって、ひしと打った、武蔵はうしろざまに身を以て中り、右の手に持った刀のこじりで、胸板をしたたかに突いたので、彼の男仰けざまに倒れ、起きんとする処を、武蔵更に刀をぬき、むね打に、右の腕を四つ五つ打ちて、刀を鞘に収め、さあらぬ体で次の間に来て坐った、その後へ大勢立ちよって気付よ薬よと騒いだ、信濃守が聞きつけて、次の間に出で、
「何事であるか」と武蔵を見ていえば、武蔵、
「只今何ものか、御前近く物さわがしき仕方いたしたるにより戒しめて置きましたが、ようも動きは致しますまい」
と答えた、その時庖丁人は療治を加えたけれども治らず、遂に暇をつかわされたという事である。
武蔵、已に名をなして、二刀の法を発明し、家芸十手の法に換えて一家を成したは、何時よりだか分明しない、京都に吉岡と仕合の頃はまだ一刀であった、杉浦国友の武蔵伝には、曾て備後靹津を遊歴の時、海辺の農民夏の炎田に水争いがありて、各村闘争に及びし時、滞留の庄屋何某に頼まれ、援助して木刀を片手に警戒に出張した、路傍に擢のありしを左に執って待ち受けたる処へ一群の土民得物を執って押寄せて来た、武蔵心得て多勢を迎え左の擢にて敵の打下す得物を受け止めては右の木刀にて敵を伏せ、一人にて多勢を追い散らし、頗る左の擢が頼りになった、爰に初めて二刀の形を思いついて工夫研究の結果、一派を立てたのだと記してある。
ある日一人の少年が武蔵の宅に来り、
「拙者父の仇を討たむ事を領主に願いお許しを得ました、既にその場所を設け、竹矢来を結び、勝負は明日の定めでござります、先生願わくば我に必勝の太刀筋を御伝授下さい」
という、武蔵曰く、
「其許の孝義感ずるに余りがある、その儀ならば我に必勝の太刀あるにより、今其許に伝えてあげる、まず左の手に短刀を取り、真向に横にさしかざし、右の手に太刀を持ち、まっしぐらにかけこむがよろしい、敵の打つ太刀、我が短刀にがっしと当るを相図に、右の太刀にて敵の胸先を突くがよろしい」と云われた。
右の伝授を聞いた少年は終夜この太刀の練習をして自得する処があった、武蔵それを賞めて日く、
「決勝疑いなし、また明日その場に至り、腰を掛けるとき、自分の足もとの地を心つけてよく見るがよい、蟻が這い出ることがあれば必勝の兆である、かつ拙者は宿に於て、摩利支天の必勝の法を修すによって、勇々以て心強く思われるがよい」
と云って少年を帰した、少年その場に到り、地面を見ると蟻の出ることが甚だ多かった、いよいよ心丈夫に思い、勝負に及んだが、武蔵の教えた通り、何の苦もなく強敵を殺し、多年の宿望を遂げたということである。
また武蔵が播州に在った時、夢想権之助という兵法使いがたずねて来て仕合を望んだ、武蔵は丁度楊弓の細工をしていたが、権之助は兵法天下一夢想権之助と背中に書いた羽織を着、大太刀を携えていたが、武蔵は楊弓の折を持って立合い権之助を少しも働かせなかったという。 (本朝武芸小伝)
細川家の臣、家角左衛門というは武蔵の弟子であったが、一日、西山に遊びその帰途、農夫の馬を取り逃したのに逢って衣服を破られた、角左衛門大いに怒って直ちにその農夫を斬殺した、武蔵これを聞き、角左衛門を招いて、
「君は農夫を斬ったそうだが本当か」
と詰問した、角左衛門、
「その通りでござる」
と答えた、武蔵曰く、
「汝は文武の道をわきまえた武士ではないか、東西をも弁えざる農夫が誤って馬を逸するならば、どうして速かに兵法によってその傷つくべき道を避けないのだ、また衣を傷つけられたと云って農夫を斬殺することがあるか」
と、角左衛門が答えて、
「彼を打ち果さなければ藩の罰を受ける事でござりましょう」
武蔵が怒って、
「藩の罰とは何だ、馬を逸する罪は軽く、人を殺す罪は重い、兵法を穢し、武士道を汚す、刀の恥これより甚だしきはない、汝がごときは今日限り名簿を削って再び見ない」
と云って放逐してしまったという事である。 (武蔵顕彰会本)
或る時、武蔵が召使の若党に用事を申しつけたが、若党が口返しをした、武蔵が、
「此方に向って左様な事を申すものではない」
と云った、若党それにも懲りず、また口返しをして慮外な事まで云い出したものだから、武蔵はそこで持っていた五尺の杖を取り直しただ一撃にその頭を打ち砕いた、若党は忽ち息絶えてしまった、このものは髪の毛あつく、月代伸ぴた男で、頭は砕けたけれども血は流れ出でなかったそうだ。 (武蔵顕彰会本)
武蔵が小倉の小笠原家の家臣、島村十左衛門宅で饗応になって届り、種々物語などあるうち、玄関取次の者が、
「武蔵様へ、青木条右衛門と申す者参上、お逢い下され候ようにと願って居りますが」
という、武蔵そこで青木をその席に引き、一通りの挨拶了って後、
「兵法はいかに」
と尋ねると、青木が、
「絶えず致して居りまする」
と申す、さて表など一覧、ことに機嫌よくて、もはや何方へ参り指南しても苦しからずと褒めた、青木は大いに悦び、次へ退かんとする時、袋に納めた木刀の紅の腕貫のつきたるをちらりと認め、武蔵早くも咎めて、
「その赤いのは何か」
と問う、青木当惑しながら、
「これは諸国を廻り候時、仕合を望まれ、已むを得ざる時に用いる物でござります」
とて、八角の大木刀に、紅の腕貫附けたるをさし示すと、武蔵、忽ち機嫌かわり、
「その方はたわけものである、兵法の仕合などとは思いもよらぬ事だ、最前褒めたのは唯幼年のものに教うるにはよしとおもったまでである、仕合を望む人があらば、早速その処を去るがよい、その方など、未だ兵法の仕合すべきがらではない」
と大いに叱り、さて十左衛門が児小姓を呼んで、飯粒を取りよせ、小姓が前髪の結び目に飯粒一粒をつけて、
「あれへ参り立って居れよ」
と云って、自らも立上り、床上の刀をおっ取り、するすると抜いて、上段より打ち込み、結び目につけた飯粒を二つに切り割いて、青木が鼻にさしつけ、これを見よとて三度までして見せた、青木が甚だ驚歎し、一座のもの何れも舌を捲いたが、武蔵曰く、
「この通り手業が熟したりとても、敵には勝ち難いものである、汝等が仕合などとは以ての外である」
と云って、追い返したという事である。 (武蔵顕彰会本)
武蔵、門弟が数多ある中、熊本の寺尾孫之丞は、多年の功を積みて皆伝を得た、或時、武蔵の打太刀で、小太刀を入れしめ、かえすがえす指南をしていると、小太刀が中より折れて、武蔵の木刀寺尾が頭に中ると見えたが、月代のきわにて打止め、少しも頭に疵をつけなかった、斯様に手業のきいたことの例は常のことであった。 (武蔵顕彰会本)
或時、長岡寄之が武蔵に向って、
「差物樟の強弱はどうしてためしたらよいか」
と問われた、武蔵、
「竹があらばお出し下さい」
というに、その頃取りよせて置いた竹百本許りをさし出すと、武蔵は一々その竹の根を取り、縁端に出て打振ると、皆折れ擢けて、完きもの僅かに一本だけ残った、そこでこれをさし出して、
「是は大丈夫でござります」
と云った、寄之感賞して、
「いかにも確かなるためし方であるけれども、貴方の如き力量の人でなければ出来ない検定法だ」と云って笑った。 (武蔵顕彰会本)
宮本武蔵は十三歳より人と剣法を試み、勝負を決すること六十余場、一度も不覚を取ったことは無い、必ず前かどに定めて云う、敵の眉八字の間を打たなければ勝とはいえないと、いつもその言葉の通りにして勝っている。 (瓦礫雑考)
宮本武蔵が或る夜、庭の涼み台に腰をかけ、団扇をもって涼んでいた処へ、門弟の一人が武蔵の腕を試そうと思って、不意に短刀を提げて涼み台に飛び上って来た、その瞬間、武蔵はツト立ち上りざま涼み台に敷いたゴザの片側を掴んでぐっと引寄せると弟子は真逆さまに倒れて落ちた、武蔵は何の騒ぐ色もなかったということである。
武蔵自身五輪の書の序に記していう。
「我若年の昔より、兵法の道に心をかけ、十三にして初めて勝負をなす、その相手新当流の有馬喜兵衛という兵法者に打勝ち、十六歳にして但馬国秋山という強カの兵法者に勝ち、二十一歳にして都に上り、天下の兵法者に逢いて数度の勝負を決すと雖も勝利を得ずということなし、その後国々所々に至り諸流の兵法者に行逢い、六十余度まで勝負すと雖も一度もその利を失わず、その程十三より二十八九までのことなり、三十を越えて跡を思い見るに兵法至極して勝つにはあらず、おのずから道の器用ありて天理を離れざるが故か、または他流の兵法不足なる所にや、その後猶も深き道理を得んと朝鍛夕錬して見れば、おのずから兵法の道にあうこと我五十歳のころなり云々」
武蔵が真に江戸に技倆を試みたとなれば、当時柳生の配下には庄田、木村など錚々たる傑物がある、新陰流には紙屋伝心の如き名人がある、一刀流には小野次郎右衛門が控えている、この他天下の御膝元とあって、各流の名家が雲集しているに拘らず、武蔵はこれを避けて一人も訪問した形跡が残って居らぬ、甚だ不審といわねばならぬ、武蔵の武者修業が吉岡を除く外大家に接触せぬのは後世より見て武蔵の為め、将た兵法の為め極めて遺憾のことである。 (山田次郎吉著「日本剣道史」)
宮本武蔵の真価に就いては昔から相当に疑問があった。松平周防守の家来に、神谷文左衛門と、心影流の高橋源信斎の高弟で伝信斎という人と或る道場で武芸者の晶評をした揚句、宮本武蔵のことになって、文左衛門が、
「宮本武蔵こそは真に剣道の名人である」
と、云ったところが、伝信斎はこれに反して、
「武蔵は決して剣道の奥義を極めたものではない、ただ、術に詳しいだけのものだ」
といったので、文左衛門が大いに怒り、何の理由をもってそういう事をいうと反問する、伝信斎は負けてはいず、自分の研究した処によって、武蔵非名人説を主張する、議論紛々として火花を散し、どうしても納まらない、遂に立ち合っている人達が、
「然らぱ論より証拠でござる、術の拙ないものは評もまた拙いわけで、腕の優れたものは自然そのいう処にも自得しているものがあるに相違ないから、どうです、二人がそこで立合をして勝負を決して見たならば各々の議論の正邪も分るではないか」
そこで両人は是非なく木剣を携えて道場に登って仕合をしたが伝信斎が勝って文左衛門が負けた、武蔵非名人説が勝ったのである。
また一説がある、師の源信斎が、或人の問に答えて、
「宮本武蔵は名人である」
と、いった、そうすると、弟子の一人伝信斎が末席より進み出でて、
「失礼ながら只今のお答えは、拙者には十分に合点がなりかねます、門人の暗いのを明るくしてやるのが名人といい、導いて上達せしめるのが上手というと承りましたが、武蔵はさ様ではなく、手頃の者を打ちくじき、投げ倒し云い倒し、自分の力の剛強を侍む癖がある、却々以て上手名人の位ではない、一体武蔵は巌流が慢損に比べると潅かに謙益はあるけれども心底を叩けば覇者であり、郷愿(きようげん)に過ぎないものだと思います」
と、揮る色もなく云った処が、師の源信斎はそれを聞いて、怒りを含むと思うと、却って非常にこの言葉を賞美して、
「これは名評だ、よく武道の本領を得た云い分である、お前のような人に譲るこそ本望だ」
といって、極意印可を授けた上に数百の門人もそっくり譲り、自分は伊豆の奥山に引き籠って仙境に入ったという話である。
宮本武蔵は尾張へ仕官しようと思って来たものらしいが、尾張には柳生あって意を達し難くして去ったようである、一書に、宮本武蔵は名古屋を立ちのいて帰りは木曾路を経て何れへか向ったが、尾州家の岐岨の領分を見て、同伴の人へ語った言葉は、
「名古屋へ入っては仕合をせず頭から柳生の弟子になって尾張殿へ仕える事にしたらよかったものを、無分別で大兵法を|遣《つか》い損ねてしまった、生涯の残念である」と云ったそうである、胸中にいかなる工夫が有ったのか、いぶかしい言葉である。 (近松茂矩著「昔咄」)
(略)
諸岡一羽とその弟子
天正の頃常陸の国江戸崎という処に諸岡一羽という兵法の名人があった。鹿島の飯篠家直(いいざさいえなお)の刀術を伝えたものであるが、この諸岡一羽の弟子に土子泥之助、岩間小熊、根岸兎角という三人の弟子があって負けず劣らず稽古を励んでいたが、そのうち師の諸岡は重き病気に臥して(癩風)立ち居も叶わず、岩間と土子とはよく看病したが、根岸だけは師の病気を見捨てて逃げ出した。二人の弟子、さても憎い奴じゃ、師の深き恩を忘れ難病を見捨てて逃げ走る奴、いつか思い知らせんと矢尻を磨いでいたが、二人共貧しい身であるから、刀、脇差、着ている着物まで売り払って師匠の為に医術を尽し、三年が間看護したが、師の諸岡はついにあの世の人となった。
さてまた、師の重病を見捨てて出奔した根岸兎角は相州の小田原へ来て、天下無双の剣術の名人だと云いふらした、この者丈高く髪山伏のように眼に角があって物凄く、常に、魔法を行い、天狗の変化だといわれ、夜の臥所を見たものが無い、愛宕山太郎坊が夜な夜な来て兵法の秘術を伝うるのだといって、微塵流と称して人に教えているうち、弟子共が多くなった、その勢で、武州江戸へ来て大名小名にも弟子が多くあって、上見ぬ鷲のような羽振りである。
常陸に師を看病していた土子泥之助、岩間小熊の両人はこの風聞を伝え聞き、憎い奴、愈々以て許し難き奴、師に対しての不仁非義のみならず、師伝の流儀を埋め私流を構え微塵流などとよばわること、先師も草葉の陰にてさぞや憎いと思召さるでござろう、さらば木刀にて打ち殺し、彼が屍を路頭に晒し、恥を与え天罰のほどを思い知らせてくれよう、ただし、彼一人を二人して討つはうれしくないこと、世間への外聞もある、われわれが手並は根岸奴もかねてよく知っている筈、二人が中で籤をとり、その籤に当った者が一人江戸へ行って彼を討つであろう、と、二人はそこで籤をひいたが、岩間小熊がその籤に当って江戸を指して行くことになった。
泥之助は国に止まっていたが、時を移さず鹿島明神に詣でて願書を奉った。
敬白願書奉納鹿島大明神御宝前、右心ざしの趣は、某土子泥之助兵法の師匠諸岡一羽亡霊に敵討の弟子有、根岸兎角と名付この者の恩を讐を以て報ぜんとす、今武州江戸に有之、私曲をおこない逆威を振い畢、是に依って彼を討たん為相弟子岩間小熊江戸へ馳せ参じたり、仰願くは神力を守り奉る所也、この望足んぬに於ては、二人兵法の威力を以て日本国中を勧進し、当社破損を建立し奉るべし、若小熊利を失うにおいては、某またかれと雌雄を決すべし、千に一つ某まくるに至っては生きて当社へ帰参し神前にて腹十文字に切り、はらわたをくり出し、悪血を以て神柱をことごとくあけにそめ、悪霊と成りて未来永劫、当社の庭を草野となし、野干の栖となすべし、すべてこの願望毛頭私願にあらず師の恩を謝せん為なり、いかでか神明の御憐み御たすけなからん、如件。
文禄二年癸巳九月吉日 土子泥之助
と書いて鹿島明神の御宝殿に納めてわが家へ帰って来た。
さてまた、岩間小熊は夜を日に次いで江戸へと出て来たが、本来小男で色が黒く髪はかむろのようで頬髭が厚く生えた中から眼がきらめき、名にしおう小熊の面魂であった。
江戸へ来ると根岸の方へは何とも沙汰をしないで、お城の大手、大橋のもとに先札を立てた、その札の文句は、
兵法望みの人有之に於てはその仁と勝負を決し、師弟の約を定むべし。
日本無双 岩間小熊
文禄二年癸巳九月十五日
と書いた、根岸兎角の弟子は数百人あったが、この札を見て、
「憎ッくき奴めが札の立てようかな、今天下に隠れなき我等の師、根岸兎角先生が江戸においでになることを知って立てたのか、知らないで立てたのか、この先札を打ち割って捨て、小熊という奴をわれわれ寄り合って只棒にかけて打ち殺せ」
といって罵っている処を、兎角が聞いて、
「おろかな奴、飛んで火に入る夏の虫とは、この岩間小熊とやらが事じゃ、拙者がただ一討に討ち殺して諸人の見せしめにして呉りょう」
と、言い放ち、奉行所へその仕合のことを申し出でた。
そこで、日を定めてこの大橋で両人の仕合が行われるということになった。
奉行は双方の手に弓、槍を持って警護し、両人の刀脇差を預った、さて両人は橋の東西へ出て来た、その様を見ると根岸兎角は大筋の小袖に朱子の目打ちのくくり袴を着て白布を撚ってたすきにかけ、黒はじき草鮭を履き木刀を六角に太く長く造り、鉄で筋金をわたし、処々にイポを据え、これを携げて悠々として出て来た。
さてまた、一方岩間小熊は鼠色の木綿袷に、浅黄の木綿袴を着、足半をはき、余りあがらぬ風采で常の木刀を持って立ち出でた。
さて、両方より進みかけて討ち、両の木刀はハタと打ち合い、互に押すかと見えたが、小熊は兎角を橋ゲタ(ランカンの事なるべし)へ押しつけるや片足を取って倒さまに川へかっぱと落してしまった。
小熊は相撲も上手だという評判であったが、成るほどそれに違いないと皆々評判した。川へ落された兎角はぬれ鼠の姿になってその場から何処ともなく逃げのびた。
この時のこの勝負は一代の人気を沸したと見え、徳川家康も城のうちにあって、これを眺めたということ、見物の人も多かったが岩沢右兵助という人の言葉に、
「その節、拙者も奉行のうちに加わって橋許にあって勝負をたしかに見ていた、小熊が出足早く、西から出て、兎角は東から出向ったが、拙者の近くに高山豊後守という老人がござったが、この両人が出会い頭、まだ勝負もない以前にすわ、兎角が負けた兎角が負けたと二声申されたのを拙者は不審に思い、その後右の老人にその理由を尋ねた処が、豊後守が申されるに、小熊は右に木刀を持ち、左で頭を撫で上げ『如何に兎角』と言葉をかける、兎角は『されば』と云って、頬髭を撫でた、これでもう、高下の印が現われたのである、その上兎角はお城へ向って剣を振う、どうして勝つことが出来よう、これぞ運命の尽きる前表である、されば兎角は大男の大力である上に小熊をあなどってただ一討と上段に構えた、小熊は小男でありかつ無力であるけれども巧者であるが故に合討をしてはかなわないと速妙に機を見て下段に持っている、案の如く、兎角が一討と討つ処を小熊はハタと受け止めて兎角を橋ゲタヘ押しつけた、橋ゲタは腰より下にあったから兎角は川へ倒さまに落ちたのである、すべて兎角は強力を頼みとして是非の進退をわきまえぬ血気の勇である、小熊は敵強く傲れども吾れは傲らず、敵によって転化すという三略の言葉も思い当るのでござるといわれた」
日夏能忠(ひなつよしただ)が云うのに、
「根岸、岩間が勝負のことを拙者も昔老翁から聞いたが、小熊は小男、兎角は大男であったが、根岸笠にかかって小熊を橋桁へ押しつけて働かせず、小熊あやうく見えたが、どうしたことか、小熊が反対に兎角が片足を取って橋の下へ落し、脇差を抜いて、『八幡これ見よ』と、高声に呼ばわって欄干を斬った。この太刀あとが明暦三年正月の大火の前までたしかにあったのを見たそうである、またこの勝負は家康公も櫓の上より見物したということである」
この前後の話、少し相違するけれども前の老人の説の方が確かであろうといわれる。 (本朝武芸小伝)
一説に、家康公関東に入らせ給いし時、江戸に小熊某、渡辺某という二人の剣法を教うるものあり、その門流二つに分れて、互に相競う事あり、ある日台徳院殿を伴わせ給い、二人の術を大橋の上にて御覧あり、小熊は長袴、渡辺は赤き帷子きて、両人共に木太刀をせいがんに持ちて打合い、橋の上を追いつ返しつするほどに、小熊やや勝色になり、渡辺を橋欄におし付け、そが足とって川中へ投げ落せしかば、渡辺は水を多く飲み、辛うじて岸に上ることを得たり、人々小熊の捷妙をほめぬものはなかりき。 (見聞集)
ある書には、根岸兎角の門人がその後岩間小熊に向って師の仇を報ぜんとして相謀り、小熊を浴室の中に入れ、周囲を閉し、熱を加えて生気を失わしめて、小熊、漸くにして浴室を這い出たが、出でると同時に倒れるところを兎角の門人が寄ってたかって惨殺したということが書いてある。
富田勢源
富田勢源は越前の国宇坂の荘、一乗浄教寺村の人で中条流の名家であった。眼病の故で父の遺蹟を弟に譲って髪を剃って勢源と号して隠居の身となったが、永禄三年中夏の頃、美濃国へ遊びに出かけた。
美濃国のその時の国主は斎藤山城守義竜であったが、国中に大分兵法が流行っていた、その師匠は常陸の国鹿島の住人、梅津という者であった。
この梅津は関東に於て隠れなき神道流の名人であった、折柄越前国に名だたる富田勢源この地に来ると聞いて弟子共に向って云った。
「勢源が来ているそうだが、一つ出会って中条流の小太刀を見たいものだ、勢源が旅宿へ行って一つ所望して見ようかしら」
弟子がこれを聞いて、勢源の方へ行ってこの事を伝えると勢源が答えていうには、
「愚僧は兵法未熟でござるから、その御所望に応じかねる、強ってお望みなれば越前へおいでになるがよろしい、また中条流には曾て仕合ということはないものでござる」
梅津がこの返答を聞いて云うよう、
「我が兵法は関東に隠れもないもので、三十六人の同輩が一人として我が太刀先きに及ぶ者なく、皆んな拙者の弟子になった、先年この国へ来た時、吹原大書記、三橋貴伝は随分の師匠でござったが、それも拙者が太刀には及ばなかったものでござる、勢源も越前に於てこそ広言を吐け、この梅津には及ぶまい」といった。
斎藤義竜は梅津が高言をほのかに聞いて此奴は一番勢源と出会わせたいものだと武藤淡路守、吉原伊豆守二人を使として勢源が旅宿なる朝倉成就坊(あさくらじようじゆぼう)の宅へ遣わして梅津との仕合を所望させた。
朝倉成就坊というのは、越前の朝倉殿の叔父坊子であったが、その頃斎藤の武威が盛んなるによって朝倉殿から成就坊を美濃国に詰めさせて置いたものである。
さて両使が館へ来て勢源に主人の所望を申伝えると、勢源が答えていうことには、
「中条流には仕合というものが無いのでござる、その上無益の勝負は嫌うところでござる」といって、承知をするけしきも見えないから両名の使は帰って、主君義竜にこの趣を申上げると、義竜が云う。
「勢源が申す処尤であるけれども、梅津が過言他国までの嘲りとなる儀であるによって、ひとえに頼み度いものだともう一遍申伝えて来るがよい」
そこで両人がまた勢源が許へ行って主君義竜の再度望むところを申聞かせると、勢源がそれを聞いて、
「この上は辞退いたす儀ではござらぬ、斯様の勝負は人の怨みを受くることであるによって拙者に於ては曾て致さぬところであるが国主の命背き難し」
と答えた、両使が急ぎ帰って義竜へ伝えると義竜大いに喜んで、
「然らぱ武藤淡路守宅にて仕合を致させよ」
そこで七月二十三日辰の刻と時刻を定められた、勢源は検分の者を望むにより義竜は武藤、吉原を検士に申付けた。
梅津は国主の一家大原という者の宅にいたがその夜からゆがかりをして信心を始めた。
勢源がその旨を聞いて、心直なれぱ祈らずとも御利益はある筈だといって成就坊が方から供人四五人を召し連れ、淡路守の宅に行き、売買黒木の薪物の中で如何にも短い一尺二三寸の割木を見出してこれを皮で巻いた。
梅津は大原同道で弟子数十人、木刀の長さ三尺四五寸なのを八角にけずり錦の袋に入れて持たしてやって来た、見た処、器量骨柄優れているから誰しも必ず勝は梅津のものであろうと云った。
梅津は検士に向って、願わくは白刃にて仕合を致し度いという。
検士がその希望を勢源に告げると勢源が云う。
「そなたでは白刃にてせらるるとも、勢源は木刀でよろしゅうござる」
と答えるによって、梅津も大木刀に定めた、梅津はソラ色の小袖、木綿袴で木刀を右脇に構えた、その気色竜の雲を惹き、虎の風に向うが如く、眼は電光に似ていた、勢源は柳色の小袖、半袴を着て立ち上って板縁より歩行して、かの割木木刀を提げて悠然として立つ風情、牡丹の花の下の眠り猫とも見える。
その時、勢源、梅津に言葉をかけ、進んで勝負を試みたが、梅津どうしたものか小髪から二の腕まで打たれ、頭を打ち切られ、身体中悉く朱に染まった、梅津は木刀を取り直して振り上げて打つと、勢源騒がずして、梅津が右腕を打つ、梅津勢源が前に倒れて持ったる大木刀勢源が足下に当るのを一足に踏み折って飛ぶ、梅津起き上って懐中の脇差を抜いて勢源を突かんとするを勢源は木刀を打ち上げて打ち倒した。
その時に検士がその間に入ってこれを扱い梅津を武藤が宅へ入れて養生し、大原が旅宿へ帰した。
勢源は淡路守の処に届け、武藤、吉原の両人が勢源が木刀と梅津が折木刀を義竜の一覧に供し、仕合の様子を悉細に申述べると義竜が甚だ賞美して末代の物語にとて割木木刀を留め置き、鵡眼万疋、小袖一重を勢源に贈られた、勢源が申すには、
「中条流は斯様の勝負差止めでござるけれども国主の命背き難きことでござるによって、敢えてこれを為した儀故御賞美とあって下さるものは受納なり難い」
と云って返納してしまった、使者再三申したけれども終に受納しなかった。義竜は甚だ勢源の志を感じて対面をして見たいということを申し送られたけれども辞退して行かず、この国にいて梅津が弟子にうらみをうけてはならないと翌朝越前へ帰ってしまったそうである。
この勢源と梅津の仕合のことについては、また別に一説がある、それは勢源が兵法修業の為京都へ出て、黒谷に住んでいたことがある。この時、梅津という剣術家が黒谷へ来て勢源に会って、富田流の小太刀は物の役に立つものではないとそしった、勢源がいうに、
「兵法は何も太刀の長短によるべきものではない、大太刀だから必ず勝つというのはヒガ言である」
梅津が怒っていうのには、
「然らば仕合をしてその勝負を定めよう」
と、勢源辞すること能わず、検士を乞うて日限を定め、人をして黒木の一尺四五寸もあるのを尋ね出し、皮でまいてこれを携えることにした、既にその日になると、梅津は弟子共を多く召し連れて、三尺四五寸の大木刀を携え、勢源よりは先きに来て見物の輩にその剛勢を見せようとて、かの大太刀を打ち振っていた、勢源は弟子なく、すごすごと黒木の木刀を持って来た。
さて、検士が立ち会って、いざ勝負ということになると、梅津は大木刀を打ちかたげて出で、ただ一打ちと勢源に打ってかかった、勢源は受け流して梅津が真向をしたたかに打ち破った、額から血が走り出した。
検士がいう。「勢源が勝だ」と。
梅津がいう。「いや/\拙者の太刀の方が先きに向うへ当っている」
勢源がいう。「いや少しも当らない、拙者が十分の勝である」
といって、勿々旅宿に帰って、湯あみをしている処へ、検士がやって来て、
「梅津の太刀の方が先きに当っているといってどうしても聞かぬ、果して然らば貴殿の何れかに創のあとがあるであろう、それによってあらために参った」
勢源が答えて、
「幸い丁度、ゆあみをいたしている処でござる、これへおいであって篤と御覧候え」
という、検士が行って見ると、身体の何処をあらためても創というものがない、そこで勢源が勝ということに決定したということになった、実をいうと、梅津が木刀も勢源の左の甲にしたたか当っていたので黒くあとがついていたのであるが、検士が見た時に右の手でその左の手の甲をおさえて置いて身体中を験べさせた為に流石の検士も遂に発見することが出来なかったのだという。
また一説には、黒木ではなくて鉄扇で勝負をしたのだと。
是等の説、皆それぞれ違っているが、最初の富田伝書の説が最も正しいだろうといわれている。 (本朝武芸小伝)
(略)
吉岡建法
慶長十六年六月二日、禁裏お能の節、町方の者にも南庭にて見物をお許しであったが、その頃までは町人は脇差、武士は両刀で参上して御門の切手ということもなく、自由に出入が出来たのである。
その頃、京都西洞院三条の末、しゃむろ染屋の中、吉岡又三郎というものが一流の染物を発明して吉岡染といって売り出していたがこの又三郎断髪して建法と名をつけた処から建法染ともいわれていた、この又三郎職業柄にもにげなく自然と剣術に名を得て吉岡流という一流を開いて、京都中にその名が聞えていた。
その剣術は染物の形をつける紺屋糊の引切りようで太刀の打ち込みを発明して一流をとりたてたということである、この吉岡建法がその日お能見物に禁庭へ入り込んで来た処、係りの雑色が来て、
「あたまが高い」
と、いって持っていた金棒で建法の頭を叩いた、これは日頃建法が町人のくせに剣道に秀いで名声が盛んであることを快からず思っていたのが打って出でたものと見える。
そこで、建法がじっと我慢していれば何のことはなかったのに、これを怒って、差していた脇差でその雑色を斬ったからさあ大変になったのである、庭中が遂に騒動し、建法を捕えんとする、こちらは腕におぼえの達人だから当るほどの者を斬りつけて、南門の方の塀を乗り越えて逃げようとした時に、着ていた袴が塀に引っかかり、働きかねている処を引き下し、捕えて処刑せられたということである。 (古老茶話)
吉岡又三郎が慶長十九年六月二十二日朝廷の猿楽興行を見物に行った時、雑色があやまって杖を吉岡に当てたが、吉岡が怒ってひそかに禁門を出で刀を着物の下に隠して来て入るや否や右の無礼なる雑色を斬り殺した、その席騒動して雑色等は大勢で吉岡を殺そうとひしめいたが、吉岡は敢えて騒がず、舞台に登って息をひそめ雑色等が群り進んで来ると飛び下りてはこれを斬り、また舞台に飛び上り、また進んで取り囲んで来ると飛び下りてこれを斬る、斯の如くすること屡々、多数の雑色がこれが為に命を落した。
後、袴のくくりが解けた為にあやまってつまずき倒れた、そこをすかさず多勢かかって遂に吉岡を斬り殺したということである、その時に吉岡の一族は多くその場にあったけれども敢えて騒がず、皆手を束ねてその働きを見ているだけであった、事が終って所司代板倉勝重は吉岡一族があの際よく鎮まっていたことに感心して敢えてこれを罪にしなかったということであるが、事実彼等が気を揃えて又三郎を助けた場合には大変な騒ぎになってしまったろうという。 (本朝武芸小伝)
太田忠兵衛
吉岡拳法が禁庭のお能見物の時に雑色と喧嘩をしでかし、拳法に斬られて手追い死人が数多出た時の物語にまた一説がある、その時誰も拳法の手なみに恐れて近寄るものもなかったが処司代板倉伊賀守勝重の臣で太田忠兵衛という者が薙刀の上手であったがこの騒動を聞いて駈けつけ、薙刀をもって拳法と渡り合い、しばし勝負も見えなかったが、どうしたものか拳法があやまって踏みすべり仰向様に倒れた、忠兵衛それを見て声をかけ、
「倒れたものは斬らぬぞ、起き上って尋常に勝負せよ」
と、いった、さしもの拳法もこれを聞いて、こちらが起き上って尋常に立合うまで待つとはやさしい心得だと安心して足を踏み直し、半ば起き上ろうとした処を、忠兵衛がすかさずふみ込んで斬り伏せて勝を得た、それを見ていた人々の評判に、
「太田殿は大したものだ、拳法が倒れたところこれ幸いと斬った処で相手は拳法のことだからこちらの名折れにはならない、それをわざわざ起して斬るというのは腕も腹も十分の勝である」
といってほめた、忠兵衛がこれを聞いて大いに笑って云うよう、
「それは拳法を知らぬ者の云うことじゃ、その時拳法は倒れたけれども、こっちをキット見て太刀を構えた気にはなかなか近寄って勝てるわけのものではないと思ったからそこで右の如く声をかけた処、拳法ほどのものであるけれども少し油断して立ち上ろうとする處を斬って勝ったまでである、ゆめゆめ我が腕の勝れたる故ではない」と。 (撃剣叢談)
京都の吉岡建法(或は拳法)騒動のことを常山紀談には次の如く書いてある。
板倉伊賀守勝重が所司代の時分、慶長七年禁裏に猿楽があって、貴賎群集した、吉岡建法という染物屋は剣術の名人であったが、無礼の事があったというので、雑色から咎められた、建法はそのまま外に出て羽織の下に脇差を隠し、もとの処へやって来て、先きの雑色を一刀の下に斬り殺し、それから縦横に駈け廻ったが固より飽迄手利きである、手を負うものが数を知らなかった、所司代勝重は御前間近い出来事に大責任を感じたと見え、御門にいたが自から眉尖刀(なぎなた)を取って走り向って来た、太田忠兵衛がそれを見て、
「あなた様がお手を卸し給うはよろしくござりませぬ」
と遮り止めて、自分が建法に馳せ向うを、勝重は、
「然らば、この眉尖刀を持て」
と与えられた、太田忠兵衛は吉岡に向い、
「悪逆無礼の男、首をのべよ」と走りかかる。
吉岡は紫震殿の階に息をついでいたが、それを見ると、
「この建法に向って太刀打をしようというものはお前でもなければ」
と云いながら階を下りて立ち向った、太田忠兵衛は、
「眉尖刀は無益なり」
というままに刀を抜くと吉岡は走りかかったがどうしたはずみか打ち倒れて了った、その時太田忠兵衛は大音を挙げて、
「倒れたのを斬るのは武士の恥である、立って勝負をせよ」
と云った、吉岡が立ち上る処を飛びかかって一刀のもとに斬り殺してしまった。
板倉勝重は大いに喜んで忠兵衛に禄を増し盃を与えて後云った。
「その方が吉岡が倒れた時に斬らなかったのは、勇気余りある処ではあるが気象に少し驕りが見えるようだ、吉岡はたとい身分賎しき商人であるとはいえ、剣術にかけては無双である、倒れしこそ天の与えであるものをそこを斬らなかったのは虚を打つ道理を知らないのではないか、成功したからいいが、やりそこなえば……」
と云った。忠兵衛はそれに答えて云った。
「まことに有り難い仰せでございますが、ここには一つの所存がござります、かかる場合に普通敵が倒れたのを起しも立てずに斬ろうといたしまする故に我が身を忘れて却ってこちらが斬られて、倒れた方が勝となるものでござります、倒れようには虚と実とがござりまして、吉岡が倒れたのは虚でございました、たといまた実に倒れたといたしましても、容易く斬られる男ではございません、倒れた時は身を防ぐことに気を取られて虚の様に見えますけれども近寄らば斬ろうとする心持は実でございます、虚にも実にも倒れた者の起き上らぬということはござりません、その起き上りまする瞬間は身を防ぎ敵を斬り払わんとする心が虚になりますので、そこを打って容易く斬り止めました、斯様のことは小さい業、匹夫の仕事でござりますから、殿様などの御承知になるべき筋合でもござりませぬが、大軍を率い、軍馬のかけ引きを致す道にも幾らか共通したところがござりまするかと、揮りもなく申上げるのでござる」
と云ったので、勝重が大いに感心したとのことである。
なお吉岡が剣法に就いては、享保年間に出た漢文の「吉岡伝」という書物には吉岡家の剣術を称揚し朝山三徳という九州第一の天流の名人を仕合で撃殺し、その事を伝え聞いて仕合に来た鹿島村斎という荒法師をも撃殺し、宮本武蔵も来て仕合をしたが眉間を打ち破られ、改めて仕合をやり直すという約束の日に至って武蔵は迩を晦まして逃げ去ったと書いてある。
斎藤伝鬼
斎藤判官伝鬼坊は相州の人である、北条氏康に仕え、天流或は天道流という一流を開いたものであるが、常陸国真壁郡下妻の城主、多賀谷修理太夫重隆に刀の術を教えていた、なお諸大名、諸士の入門するものが甚だ多かった。
その頃、この地方に霞という神道流の達人があって、その弟子一味も甚だ多かったが、伝鬼に向って勝負を決せんことを申込んで来た、伝鬼は直ちに承諾して立合ったが、忽ち霞を撃殺してしまった、霞の一党が密かに伝鬼を殺して讐を報いようとした。
或時、伝鬼は鎌槍を携えて弟子一人を連れて道を通りかかると霞の一党が数十人不意に来ってこれを取囲んでしまった、伝鬼はもう遁れられない処だと観念して弟子に向い、
「お前はここで死ぬに及ばぬ、早く立去れ」
弟子が聞かない、伝鬼は強いて弟子を逃がしてしまって、それから道の傍らに不動の祠があるのを見かけ、その祠の中へ入ると霞の一党は急にこれを囲んで周囲から矢をあびせかけた。伝鬼はそこで鎌槍をもってその矢を切って庭上に落すこと数十、それから霞の一党が進んで攻めて来て乱戦となり、遂に衆寡及ばず、そこで伝鬼は一命を落したが、その勇敢筆舌の及ぶところではなかった、その怒気が後に至るも消えず、奇怪の崇りがあるというので土地の者がこれを祭って判官の祠と称し今も真壁郡に存している。 (本朝武芸小伝)
また一説にこんなのがある。
斎藤伝輝坊は常州真壁郡井出村の産である、塚原卜伝に就いて剣術を学んだが、後鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮に百日参籠して、天正九年十一月二十一日の満願の日霊夢を蒙り妙境に達しそれより天流と唱えて諸国を修行し、京都に至って紫良殿の庭上へ召されて天覧を蒙り一刀三礼と号し左衛門尉に任ぜられた、ここに於て井手判官伝輝坊と名のり、五畿内中国を遍歴して、本国常州へ帰り、なお関八州を俳掴して、北条家の幕下をはじめ、無数の弟子を持っていた、小松一卜斎というのを第一の高弟とし、多賀谷修理太夫、真壁安芸守、同姓掃部助、益子筑後守、笠間孫三郎、結城の城主采女正伊野弥太夫と云ったような大名株もこれに就いて修業し、当世これに過ぎたる術はなしというほどに見えた。
時に真壁に暗夜軒道無というものがあった、やはり塚原卜伝の弟子であったが、この道無が打太刀の高弟に桜井大隅守というものがあって、これが漸く熟練し、伝輝坊の剣術を誹謗するに至った、伝輝坊、これを聞いて腹に据えかね、
「然らば仕合の勝負を決せむ」
と申送って、真壁の不動堂を約束の処とし、日限に至り伝輝は弟子二人をつれて約束の処に待っていた、暗夜軒がこの仕合の事を聞いて、
「桜井は、おれが取立てた秘蔵の弟子である、彼に勝負を望むのは即ちこの暗夜軒に仕合を申込むのと同じことだ、本来、あの伝輝めは当家領分の郷士であって、わが譜代の家の子にひとしい者であるに、近ごろ術に慢じて推参の振舞い奇怪千万、憎い奴、大勢出向いて彼奴を暗討にしてしまえ、と馬廻りの侍十余人に弓鉄砲足軽を添えて指し向けた。
その時、伝輝は十文字の鑓を下げ、不動堂の中央に腰かけている、弟子二人は縁側に控えていたが、さすがに高名の手利であるから、寄手も左右よりは懸り兼ねていると、斎藤万黙というものが弓に矢をつがえて、伝輝にさし向け、
「いかに伝輝、御辺は日頃矢切の太刀という秘術を持って居られるそうな、併しながら斯うなっては最期、是非に及ばず一矢受けて見られよ」
伝輝坊これに向かいて微笑し、
「同姓万黙ござんなれ、心得たり」
弦音高く放たれた矢を十文字でかけ落す、つづいて射る矢を三本まで切って落したが、これを相図に寄手が一同に雨の如く射かけたので、伝輝もはじめは防いだが、その身金鉄にあらざる故に遂に射伏せられてしまった、生年三十八歳、惜しまぬものはなかったそうである。 (関八州古戦録)
村上吉之丞
二階堂流兵法は相州鎌倉の中条兵庫助が末流松山主水から出たものであるが、その子孫が、また松山主水を名乗って、肥後の細川越中守忠利に仕えた。
忠利|朝臣は強力で甚だ剣術を好んでいた故に、この松山主水を寵遇した、主水が剣術は初めに一文字を伝え、次に八文字、十文字を極意とする、また「心の一法」といって、敵を働かせない伝がある。
忠利の近習に村上吉之丞という者があったがこの者がまた兵法に心力を注ぎ、抜群と称せられ、主君忠利と両人一緒に八文字を伝えられたがその時は人払いをして一間の間を堅く囲み、そのうちで伝授したのであるが、外で聞いていると、何か知らんどっと倒れるような物音がしたが、そこで早速伝授が済み外へ出た処を見ると越中守も吉之丞も汗びたりになっていたので、人々疑い怪しんだという事である。
その頃、越中守忠利と父三斎入道との間がとかく面白くなかった、家来達も隠居附き当殿附きと分れて、さながら仇敵のようであったが、或時、松山主水が隠居附きの侍と舟の中で口論し、下駄をもってその侍を川の中へ叩き落した、隠届三斎、これを聞いて大いに怒った、忠利も秘蔵の主水ではあるけれども、流石人情国法を破るわけには行かず、当分勘当して近き在郷に蟄居せしめて置いた。.
三斎これを聞いて、愈々安からず、近侍の士に云いつけて、主水を殺してくるものには望み通りの恩賞を遣わすということにまで立ち至った、併し、一人や二人で打ち取れる主水ではないから、皆猶予してお受けするものがない、処がただ一人の家来が、
「如何に名人と雖も永い間様子を窺って居るうちには隙というものが無いこともござりますまい、その隙を窺って彼を討ち、御憤りを晴しまいらせようと存じます」
といって、主水が住んでいる辺に行って一心に窺っていたが、討つべき隙とては更になかった、そのうちにその年も過ぎ翌年の夏に至り、或る日の事真仰向きに前後も知らず寝入っているのを見た、丁度あたりに人もなし、時節はよしとひそかに近づき寄って主水が胸を刺し通して了った、刺された主水は起上り、そのまま心の一法で詰め寄り、相手を短刀で刺し貫いていうことには、
「貴様は我が寝ている処を刺したけれども、この主水を殺そうと思う心はエラい、豪傑だ」といってその身も其処で息が絶えた(肥後物語には尚異説がある)。
主水が死んで了うと吉之丞に及ぶ者はなくこれが門人となるものも多かった、その頃、宮本武蔵が、自分の流儀を拡めようとして九州を経巡り、熊本の城下近くの処の松原で稽古をして見せたが、丁度夏のことであったので武蔵は伊達なかたびらに金箔で紋を打ったのを着て目覚しく装って、夜な夜な出でては太刀打をした、武蔵は固より軽捷自在の男であったから縦横奮戦する有様が目覚しく、愛宕山の天狗などは斯うもあろうかと評判であった。
村上吉之丞がこれを聞いて人を以て勝負を望んだ、武蔵はひそかに吉之丞が芸の様子を聞くと却々自分が敵いそうもないということを悟ったのでそれとなく他国へ行ってしまったそうである。
しかし武蔵の名は天下に高いけれども吉之丞は知る人もない、これは一方は諸国を周遊して芸を拡め、一方は国中だけで終った相違であろう。 (撃剣叢談)
松林蝙也
松林蝙也(へんや)は通称左馬助、常州鹿島の人であったが、弱冠より剣術を好み、精妙に達し、伊奈半十郎忠治に事(つか)えて武州赤山に居り、一流を立てて願流と云った。
後、仙台侯忠宗(義山)伊奈氏を介して三百石を以て左馬助を招かんとしたが左馬助千石ならばという、仙台侯笑って、初めより希望に随うわけにはいかないが、折を得てということで出でて仙台侯に事えた。
三代将軍家光が武術台覧の事があった時、左馬助は、将軍の前で阿部道世入道を相手として仕合を試みた、その時彼が妙手身体軽捷飛動縦横にして、衣服の裾が楯櫨(ひさし)に当ること両三度、その様さながら蝙蝠のかけ廻るに似ている、将軍からお褒めの言葉があったので、それ以来「蝙也」と称することにした。
蝙也が年期三年と定めて一人の侍婢を召抱えた、この婢に向って云う事に、
「何でもいいから、お前がこのわしを驚かす事をしでかしたならば、その時には三年分の給金をやった上に、勝手に暇をくれてやる」
と云った、婢もその気になって心得ている、或時、蝙也が泥の如く酔って家に帰り閾を枕にして酔い倒れて寝てしまった、婢はここぞとばかり頭脳も砕けよと障子を立てきって見るが障子は動かないで蝙也が目をさまし、平気な面で、
「そんな事では、とても三年分の給金は取れぬぞ」
という、敷居の溝に鉄扇を入れて寝ていたのである。
ある時、また蝙也がよそから帰り足を洗おうとして、婢に「湯を持って来よ」と云った、婢はまた心得て、わざと熱湯を桶に満して持って来た、蝙也油断せずそろそろと湯加減を試みて、
「こんな熱い湯を持ってくるようでは三年分の給金は取れないぞ、水を持って来てうめろ」
と云った、そこで婢が水を取って来て、ざんぶと桶の中へうめて、
「これならば加減がよろしゅうございましょう」
と云った、そこで蝙也が両足を桶へ入れたが、どうした事か、
「あっ!」
と云って飛び上った、これには蝙也もやられた、水をうめたと思ったのは、更に熱湯を加えてつぎ込んだのであった、そこで蝙也が歎息して、
「誠に敵となって狙われていると、婦女子にさえも討たれる事がある」
と云って、直ちに約束の如く三年分の給金を婢に与えて暇をとらせたということである。
仙台城下の染屋町の水辺は螢の名前で涼み客と見物とが群がるのであったが或年の夏、蝙也も二三の門弟をつれて、涼みに行き、さて集う人々の賑やかさと、螢の飛び交いて水にうつる風情等をながめて余念なかったが、その時、一人の門弟が、蝙也の背後からだしぬけに肩をついてかかった、これは前同様、いつ如何なる場合にても我を驚かして見よ、との予告があって、今宵こそは、この隙にと門弟がやったものであるが、蝙也は忽ち前の岸に飛びついて、また悠々寛々としゃがんで見物をしている、その川の飛び越しっぷりというものが、いかにも神速軽易の妙用で、讐うるに物が無い位であったという。
それから、ゆっくり愉快に遊んで謡などをうたいながら家に帰って上機嫌で居ったが、その翌朝、右の門人が抜からぬ面をして訪ねて来て、
「昨夜は実に先生のお伴で愉快な涼みを致し恭い事でございました」
とお礼の言葉を述べると、蝙也が取り敢えず、
「君、何か遺失物は無かったかい」
とたずねる、門人が、
「いかにもその事でございます、大切なものを遺失して残念千万でございますが、いつどうしてどこで遺失したか、どうしても心覚えが無いので弱って居ります」
と答える、蝙也がその時、褥の下から白刃を取り出して、
「落し物はこれだろう」
と投げ与えて、油断大敵の教訓をした、つまり、これは昨夜、師の余念なきを見すまして後ろから突き倒そうと試みた途端に、中味を奪われたのがわからないで、家へ帰って見ると鞘ばかり差していたというわけであった。
南部で有名な剣術の士があったが、それが藩でなかなか身分のある家の娘をそそのかして仙台につれ出して来て国分町の旅籠に泊っていた、本国から捕手が十名やって来たが、その男、それは賎しいものであるが、腕は並々ならぬものであった、南部侯からも仙台侯あてに、貴国をお騒がせして相すまぬ事ではあるが、家柄の者の娘である為に是非捉えたいものであるとの手紙まで来ていた。
そこで、南部の捕手につかまえさすよりは、蝙也に命じて捕えさせた方が隣国への面目もあり本意でもあると思って、蝙也にその事が命ぜられた、蝙也はそこで、人を縛ることに妙を得た一卒をつれ自分の懐には一塊の鉛を入れて、件の旅籠屋へ行った。
隠れていた南部の剣士は、蝙也が上って来たならば一討と真向に斬りかかる処を、蝙也は懐中していた鉛丸を白刃目がけて投げつけて刃に当てた、剣士は手ごたえがあったので斬留めたと少し油断をしている処を、間髪を入れず、蝙也は剣士の足をさらって楼の下に落してしまったので、待ち受けた一卒が手早く縄をかけて、それから南部へと引き渡した。
蝙也が門に集まみものは、男子の門人ばかりではなく、婦人少女までが縷しく、蝙也を仏菩薩の如く信仰して門前市を為すが如くであった、神変無量の奇特があるというので切支丹だとか戸隠明神の権化だとか云われるようにまでなったそうである。 (揚美録)
また一書に、
蝙也斎、名は永吉、信濃の人とも云い鹿島の人ともいう、諸州を経歴して遍く豪傑に交わり師伝に由らずしてその妙を極め、自ら一派を立てて願立という。
慶安四年正月二十五日、将軍家光武術台覧の時に阿部道是(或は道世或は道豊)を相手にして仕合を試み大いに将軍の賞讃を蒙り、安芸右京亮の手で時服三襲を賜わったが、そのうちの一枚は紅絹(もみ)の裡がついていた、これは特賞のしるしである。
昔、源義経は柳の枝を切って、八断したがまだ水に墜ちなかった、その云い伝えを聞いて、蝙也が試みにそれをやって見ると、水に墜つるまでに十三に切ったので、見る者が激称した。
毎日の日課として、刀を抜くこと千遍であったが七十五にして死する時までこれを廃さなかったという事である。 (東藩野来)
林田左門
黒田家の臣林田左門は西の国には隠れなき剣術の名人であった。
或時、同家の者五六人寄り合いの時信田大和守なども来ていたが、武術談が出ると、そのうちに一人血気盛りで力も馬鹿に強い男があったが、それがいうには、
「兵法は武士のつとむべき道には相違ないけれども、|強《あなが》ちこれを習わなければ武道が成就しないという限りもあるまい、一心さえ臆していなければ、仮令兵術を知らなくても功名は出来るだろう」
と、威丈高になって云い出した、左門はこれを聞いて、
「如何にもその方の申す処は一応の道理はあるが、心が剛なる上に兵法が優れていれば鬼に金棒だろう」という。
右の若侍はなお承知しない。
「いやく一心さえ動かなければ、たとい木刀仕合であろうとも、そう負けることはござるまい、ちと、仕合を致して見たいものでござる」
という、左門それを聞いて、
「それはよい心掛けじゃ、然らばいざまいろう」
という、血気の若武者、
「心得たり」
と早くも座を立って庭に飛び下りあたりを見ると庭木に添え木として結びつけた長さ一間ばかりの小丸太があったのを、
「これにてお相手を|仕《つかまつ》ろう」
と引き抜いて、土のついたのを拭い二つ三つ振り試みて待っている。
左門も座敷を立って縁を見ると、小木刀があったのをおっ取って提げ、庭に下り立って云うことには、
「随分根限りの精を出し、出来るだけ大力を振って打ちかかって見られい」という。
「仰せまでもござらぬ」
といって、彼の丸太を打ち振り廻し、左門も小木刀をさげ、そろそろと近く寄って来たのを、間合いはよしと、彼の若者が一打ちと力一杯打ち込んで来たのを左門は引き外し、飛びちがいざまに木太刀の先きで、彼のものの額を少し打って、
「まいったかな」と声をかけた処が、若者、
「如何にも木刀が当りましたようでござる、思ったよりも早いお太刀でござる、却々どうも」と云って丸太を投げ捨ててしまった、その時左門は、
「残り惜しくござらばもう一仕合まいろうか」といった処、
「いや/\もう沢山」
といって若者は止めてしまった、双方座に帰ってから、左門が、
「向後は我を通しなさることはやめ、我を折るようになさるがよろしい」
というと、若者は、
「如何にも心得ました」
と最初の勢に似ず悄気返って答えたので一座の人々も皆打ち笑った。
ところが、彼の若者の額が見る見るうちに少し腫れ上って来て血もにじみ出して来た、うわべにはそれを見せなかったけれども内心にはよほど痛くもあり、無念でもあり、面目も踏みつぶされたわけだが、どうしようもなくてその座を立ち去った。
右の次第を主君の黒田長政が夜話の折聞くところとなって、早々この若者をよび出して、
「その方はこの間左門と木刀仕合をして負けたということだが、果してその通りか」
と尋ねられて、
「御意の通りでございます」
と答えた、長政その返答を聞いて、
「若い者にはその位の勇気がなくてはならぬ、左門であろうとも、打ち込んでやろうという勇気は感心なものだ、若い時その位の勇気がなければものの用には立たない、してまたその方が仕合に負けたからといって、少しも恥にはならないぞ、あの林田は世間に許された兵法の名人である、その方が素人であるによってなんと焦っても勝てる筈はない、負けたのは道理であるけれどもいざ合戦となれば剣術の上手が必ず勝つというわけのものではなく、剣術が下手でも功名は出来るのだからそこは格別のものである、我も昔は柳生但馬守、疋田文五郎に就いて剣術を習ったがその方同様の我意をたてて打たれたことが度々あったぞ、併しながら武芸を修行しなければ武士の家に生れた道理に背くこと故、その方もこれから左門の弟子となって兵法剣道を学ぶがよろしい」
と教えたのでv彼の者は有難涙をこぼした、それから直ちに左門の処へまいって右の次第を申し、子弟の契約をなし昼夜出精したところから後に上手になって主君長政の教示をむなしくしなかった。 (良将言行録)
松平筑前守忠之の家士林田左文(或は左門)は戸田派刀術の妙手であった。鉄砲二十挺の頭となった、一日足軽六人で人を殺して相共に出奔する事があった、左文はその折馬に乗っていた処へこの事を告げ来る者があったので直ぐ|様《キヱよ》馬で追いかけ途中で追いついた、足軽共がそれを見て心に思うには、いかに左文と難も六人一緒になってかかられてはたまるまい、彼を返り討ちにするのは|容易《たやす》い事だが、今まで頭として立てて来た人ではあり、無事に帰してやろうという気になり、
「折角お出でにはなったが、ここでお目にかかったという事は他国へ参っても人には語りませぬ故に、このままお引取り下さい」
と云った、左文は静かに馬から下りて、
「その方達六人同じく人を殺すといえども必ず罪に軽重があるだろう、六人悉く同罪という筈はない、拙者がここへ来たのはその是非を糺さんと思うが故である」
と云って歩みよる処を一人刀を抜いて斬りかかる、林田刀に手も掛けず、色をも変えず、足をも動かさず、
「その方率爾な振舞い致すな」
と云って間近くなる時、
「無分別者哉」
と云って抜くや否や手の下に斬り伏せ、
「その方達鎮まって我が言を聞け、敵対する故に斬ったのだ、敵対さえせねば斬りはせぬぞ」
というを、また一人斬ってかかる、
「馬鹿者奴が、死物狂いをするか」
と云ってわざと後じさりにしさる、踏込む処を飛び違え、またこれをも斬伏せた、これは皆に気をゆるめさせ、一度に切ってかからせないようにした作略であった、斯くして三人斬伏せて今残る三人、これはもう物の数でもないとまた一人斬伏せ、一人に手を負わせ、一人を蹴倒し、手負せたる者と蹴倒したる者とはその帯を以て縛り馬に乗り先にたてて帰った、是程の者なれば一国の士多くは林田に刀術を学んだが、ひとり馬爪源右衛門と云う者は鉄砲に熟練して百発百中の名手であり、総ての武芸を好んでいたが林田が刀術を学ばなかった、人にその故を問われたが笑って不応、後林田が罪ありて切腹をした、馬爪が後ひそかに親朋に対して云う事には、
「林田には姦邪の性格がある、何事をしだすかわからない男であった、その刀術はエライもので学びたいには違いないけれども、已に師とたのんでしまっては難に臨んで居ながら見て居られない事も出来るに相違ない、見捨てては道にそむき見捨てない時は義を失うというような場合もないとは云えぬ、あらかじめ交を結ばずに置くことが拙者如き愚人の一得である」と。 (続武将感状記)
家光と御前仕合
「寛永御前仕合」と云って講談等に於ても有名であるが、勝伯等の著した陸軍歴史にもその記録として次の如く出ている。
三代将軍家光公御代寛永十一甲戌年九月二十二日に於吹上御覧所剣道仕合の面々左の通り
下谷御徒町住人井場泉水軒 浅山一伝斎 播州住人竹内加賀助 仙台藩由井直人 芝高輪住人佐川幡竜斎 肥州郷士関口弥太郎 大久保彦左衛門 加賀爪甲斐守 荒木又右衛門 豊前小倉宮本八五郎 初鹿野伝右衛門 朝比奈弥太郎 仙台黄門正宗 秋元但馬守 和州柳生之住人柳生市之丞 石川又四郎 江戸小石川石川軍東斎 御取立之御旗本松前帯刀 上州之郷士樋口十郎兵衛 甲府中之郷士中条五兵衛 備中之郷士芳賀一心斎 遠州之郷士難波一刀斎
右之通上覧
併し右は史実としては疑いがあるが、「大猷院殿御実記附録」に次の如くあるは信愚するに足るべし。
慶安四年春の頃より何となく御病気勝ちにおわしければ、御心地慰ませ給わん御為めにとて、諸人の武技御覧あり、二月二十六日に、越後の処士山本加兵衛久茂が無遍流の槍法を御覧ぜられ、その後奥殿にて大番頭池田帯刀長賢、先手頭久世三四郎広当、書院番組頭岡野権左衛門英明、筒持頭坪内半三郎定次、持弓頭兼松又四郎正尾等が剣法をも見給う、三月二日、また加兵衛久茂が槍法及び船手頭溝口半左衛門重長、柳生内膳宗冬が剣技を御覧あり、同じ六日には肥藩の剣士木村助九郎、居合抜き多宮平兵衛を御座所に召して御覧じ、両人に時服、銀かずけらる、十日、また肥藩の石野市蔵、原田多右衛門が槍法を見給い、是も賜物例の如し、同じ十四日には諸家の陪臣槍剣に達せるものの姓名註記して奉るべしと仰下され、十八日には水藩伊東孫兵衛、木内安右衛門が剣法を見そなわし、その頃剣法に妙を得し尾藩の柳生兵庫が子二人封地より召寄すべしと仰下され、二十四日には藤堂大学頭高次が家士内海六郎右衛門、沢田甚右衛門が槍術、永井信濃守尚政が家士山崎兵左衛門、同源太郎、桂原四郎右衛門が剣法御覧ありて、各服、銀下さる、二十五日、松平陸奥守忠宗が家人松林左馬助が剣技ありてその敵手せし道与にも賜物あり、四月五日には先に召されし尾藩の柳生兵庫が二子茂左衛門、兵助が剣法見給いし後、両人に服、銀かずけらる、同じ六日にも重ねて両人の技を御覧あり、十一日には小笠原大膳太夫忠真が家人高田又兵衛その子斎宮、弟子和光寺七兵衛の槍術を御覧に供え、例の如く下さる、斯く御大故に近くならせ給うまでも、武道を忘れさせ給わで、その技を見そなわし、もてはやさせ給うにぞ、下が下までも自ら奮励して怠慢する事能わざるに至らしむるは、実に治に乱を忘れ給わぬ御心捉にていと畏き御事にぞ。
武将と武術
徳川家康
徳川家康は個人武に於ても当時第一流の中に加えらるべき資格を持っていた、東照宮御実記の附録に、
姉川の戦に、奥平九八郎信昌敵二騎斬って、その首実検に備えしかば、御感の余り、汝若年の小腕もて、奇功を奏せし事よと宣えば、信昌うけたまわり、凡そ戦闘の道は剣法の巧拙にありて、筋力の強弱によらずと申せば、汝は誰に剣法を学びしとお尋ねあり、信昌、奥山流を学びしと申す、さらば汝が家臣急加斎にならいしならむ、我若かりし頃その流を学びしが、近頃軍務のいとまなきに、久しく怠りぬ、こたび帰陣の上は、必ず彼を召して対面せんと仰せらる、この急加斎といえるは、奥平貞久の四男にて、孫七郎公重と称し、甲斐の上泉伊勢守秀綱が門に入りて、神陰流の剣法を学び、その奥義を極め、三河国奥山明神の社に参籠して、夢中に秘伝の太刀を授かり、これより奥山流と唱えけるとぞ、先にしばしば岡崎に召して御演習ありしが、この後天正十年十月、信昌もて召され、重ねて学ばしめ給い、御誓書をなし下され、御家人に召し加えらるべしとの御書をも給いしなり、また、三河にて有馬大膳時貞といいしは、新当流の剣法に達せし由聞かせられ、これも召してその奥義を伝わらせ給い、青江の御刀下され、采地を給わりしが、後に大膳死して嫡流絶えければ、庶孫豊前秋重をもて家を継がしめ、紀伊家に附属せられしなり。 (奥平譜、貞享書等)
疋田豊後といえる撃剣の名を得し者を召してその秘訣ども御尋ねありし後、人に語らせられしは、彼は成る程名手なれどもこの技の人によりているといらぬけじめを弁えず、天下の主たるもの、または大名などは、必ずしも自ら手を下して人を斬るに及ばず、もし敵に出逢いて危急の時は、その場を避くれば、家人ら馳せ集りて敵を打つべきなり、さる故に貴人は相手がけの事はいらぬなり、かく大体を弁うるをもて、第一の要とすべきなりと仰せけり、また台徳院殿の剣法を学ばせらるるを聞召し、大将は自ら人を斬るに及ばず、危難のとき、避けん様を心得らるべし、人を斬るに、何ぞ大将の手を労せんやと仰せられき、かかる御心用いにや、御一生の間、あまたたびの御合戦に一度も御手ずから人を斬らしめられしことはなかりしと申伝えたり。 (三河物語、君臣言行録等)
御放鷹のおり、伏見彦太夫某が、三尺五寸の大太刀に、二尺三寸の差添を十文字にさし違え、山路を走り廻ること平地のごとし、君御覧じ、汝が剛勇比類なし、その太刀抜いて見せよと宣いしかば、彦太夫直ちに抜き放ちて、二振り三振り打振りしに、太刀風りんりんとしていとすさまじ、仰せに、汝は尺の延びたる刀の利を知るかとあれば、ただのべかけて敵を一討に仕るばかりにて、外に心得候わずと申せば、いやとよ寸の延びたる刀は鎗にあてて用いんが為なり、向後わすれまじと教え給いしなり。 (感状記)
君には予ねて海道一二の健脚にておわしますとて、その頃世にかくれなく申伝えけり、小田原陣の折丹羽宰相長重、長谷川藤九郎秀一、堀久太郎秀政の三人、秀吉が先陣打って御金越より小田原に押寄せんとて、小高き所より谷際を見下してありし折しも、こなたの御陣押なれば、みな打寄りて、海道一の馬のりが乗りざま見んとてたたずみ居たり、谷河二条ながれ、細き橋架けたる所に御人数行きかかると、みな馬にて渡ること叶わず、下馬し歩行になりて越えたり、君にも橋詰までおわすと、同じく馬を下り給い、御馬をば橋より上の方二十間ばかりの所を、口とり舎人四五人して引過ぎ、君は歩行の者に負われ給いながら、橋を過ぎ給いぬ、かの三人の士卒共は、はじめより目を注して、いかがし給うと思い居たりしに、この御さまを見て、これが海道一の乗りざまかとて笑わぬ者なし、流石三将は、さてく斯くまでの御巧者とは思わざりき、実に海道一の馬乗とはこの事なるべし、馬上の巧者は危き事はせぬものぞとて、大いに感じけるとなん。 (紀君言行録)
浜松におわしませし時、櫓の上に鶴の居しを御覧じ、これよりあわい何程あらんと近臣に尋ね給えば、五六十間と申す、さらば常の小筒にては及ぶまじ、稲富外記が製せし長筒もて参れとて取りよせ給い、暫くねらいをつけて放し給えば、あやまたず鶴の胴中に中りぬ、後に近臣等その筒取りてためしけるに、二十人ばかりのうちに十分にためし得しものは一人もなかりき、これにて人々はじめて御力量の程を測り知りけるとぞ、また慶長十六年八月、浅間山に御狩ありて、鉄砲を打たせらるるに、みな的の中心にあたりぬ、近臣等はいずれもあたることを得ず、また鳶三羽をつづけ打にうち給えぱ、二羽は地に落ち、一羽は足を打切りて飛び去りしなり、いずれも御術の精妙なるに感じ奉る。 (武徳大成記その他)
武田信玄
甲斐の信虎は侍二百二十人の中から手柄の場数あるものを七十五人すぐり、またその中から三十三人すぐって身を離さず召し連れて歩いたが、その中に白畑助之丞という勇士が一人あった、この白畑が或時一人のかせものを折橿し、そのかせ者が逃げて行くのを後ろから刀を抜いて追いかけた、そうして白畑の刀がかせものの背中に触るるほどになった時かせ者は不意に刀を抜きながら引返し、脆いて片手討に払うと、追って来た白畑の両腕を添えて首諸共にその一刀で打ち落してしまった、あたらの勇士白畑助之丞がムザムザと下僕の為に斬り殺されてしまったのである。
その時原美濃は若盛りであったが、長身の槍を持って右の曲者を突き殺すと曲者は寝ながら槍を取って原美濃が腕を少しずつニカ所斬った、斬られたけれども美濃のことだから少しも去らず、つきつけて動かぬようにしていると、多田淡路が来かかって、まず曲者の片腕を斬りそのあとで止めを刺した、意外の豪敵なので後で質して見ると、この曲者は鹿島の松本備前守が外戚腹の孫であったということである、白畑は大豪の者であったが対手を侮った為に自分の下者に斬り殺されることになったのである。
武田信玄はこの例を引いて臣をいましめて、
「他所ではどうともあれ、信玄の家では逃げ行くものに追いつかぬからと云って、卑怯とは申さぬぞ」と云った。 (甲陽軍鑑)
北畠具教
塚原卜伝が、唯授一人の「一の太刀」は伊勢の国司北畠源中納言具教卿に伝えただけであるが、卜伝の死後嫡子彦四郎が、わざとあざむいて具教卿から伝えられたということがある。この具教卿は天正四年十一月二十五日、家中の者が織田信長にかたられて裏切りをし三瀬の御所を囲んで攻めたてた故、具教卿自ら太刀を取って防ぎ戦い、近づく者十四人を手の下に斬り伏せ、遂に衆寡敵せず打たれてしまったけれども、この最後の働きによっても平常の修練のほどが推し計られる。 (撃剣叢談)
(略)
馬場信房
或る剣客が、武田信玄の許へ行って、仕官を希望した、体格群を抜いて却々見事である上に仕合をさせて見ると勝つ者がない、そこで信玄もその男を召し抱えようとしたが、その時信玄の旗本馬場信房が、どういうつもりか信玄に向って、さ様なものはお召し抱えあるなと云って差し止めた。
そこで右の剣客は甲斐を去って相模へ行って北条氏康に仕えたがその後信玄と氏康との和睦が破れて合戦がはじまると氏康の陣中から姓名を名乗って馬を馳せ出して来るものがある、信玄方の将士がこれを見ると以前仕官を求めに来て馬場信房によって諌止された剣客であることがわかった、皆々その手並みを知っているものだから敢えて進んで太刀打ちをして見ようというものがなかった。
その時馬場信房は、信玄の止めるのも聞かずに徐ろに馬を進めて右の剣客に近寄って行ったが、やがて駆け違いながら太刀を一振り振ったと見ると忽ち剣客の首を刎ねてしまった。
大河内政朝
大膳太夫大河内政朝は家康の名臣善兵衛政綱の子であるが、まだ若かりし時、大久保玄蕃頭の処へ行った時に、その頃柿沼一甫入道という新当流の兵法者があって、徳川家の旗本の面々を数多く弟子に持っていて、木刀、|輻《しない》の袋に天下無双一甫入道と書きつけていたが、丁度玄蕃頭の処へ来合せたのを政朝が見て玄蕃頭に向い、
「新当流の兵法はもっての外ゆるい剣術である故に稽古は御無用になされよ」
と云った、一甫がそれを聞くと腹に据えかねて、
「あなた様は何がし様でいらせられるか存ぜぬが、新当流の兵法を不足に思召さるるならば一太刀仕合を仕りたいものでござる」
政朝はその早業に於いては如何なる兵法の達人なりとも必ず相討ちにはすべき自信を常々もっていたから直ちに答えて、
「仕合所望ならば早々に立て」
と云って、自分も轄を取って立ち上った、その座席にいた大久保荒之助忠綱が一甫に向って、
「年若なる者をその方が相手には不似合である、勝ったとて益がない、要らざることだ」
と叱ったけれども、一甫は聞き容れず輻をとって立向ったが、政朝は身軽く走り寄ってしたたかに一甫を打ったので、まさかと思った座中の人々が大いに驚き、かつ感心した、一甫は打たれて赤面したが、それからいずくともなく出奔して行方知れずになってしまったということである、政朝の豪勇に就いてはなお驚異すべき数々が家記の中にある。 (大河内家記)
徳川光友
尾州家二代光友は連也を師とし新陰の正統第六世を嗣いだ人であるが、連也と度々仕合をし、後々は全く同格の処まで行って、互にしないを取って立合い、じっと見合せているうち連也の方から、
「いや御負け申し候、及ばず」
と云い出ずる時もあり、また光友の方から、
「ならざるぞ、みえたみえた」
と、言葉をかけることもあって、なかなかしないを打合せるまでに至ったことは無かったそうである、この光友(瑞竜院)はまた生来の大力であって、七十歳の頃、八人がかりの石の水鉢に水を満たしたのを少しもこぼさず、きりきりと置き直した事があり、琵琶の新線を四筋も合せて一時にぷつりぷつりと断ち切ったそうである。 (昔咄)
津軽信政
津軽中興の名主と称せらるる津軽信政は剣術を最初梶新右衛門に就いて一刀流を究め、その後天下の兵法所と謂われる小野次郎右衛門に就いて皆伝を受けたものだが、その頃天下に小野次郎右衛門の弟子が三千人あるうちの三人の一人に数えられたということである。
次の信明も代々流儀の一刀流を学び、小野次郎右衛門に就いて修業、これも皆伝を得た。 (玉話集、無超記)
徳川吉宗
徳川八代将軍吉宗は、紀州に在った時分から岡村|弥平直時という者に就いて弓馬拳法の業を学んだが、その後将軍となり江戸城に移って後も召して近習の人々に習わしめた、この弥平が父弥五八直行というのは関口柔心の高足の弟子であった、吉宗の父紀伊中納言光貞は柔心を膀して拳法を学び常に、
「拳法は諸芸の父母のようなものである、凡そ武芸を学ばん者はまず拳法より入るがよろしい」
と云って近習の人々にも学ばせ、吉宗も幼少より深くその言葉を信じて各近臣にも習わせたのであるが、弥平一人では多くの人々を教習し難かったので重臣が孫の万右衛門氏一に云ってやって、秦直左衛門武善という者を呼んで二人して拳法を教えさせた。
斯く吉宗は材芸ある者を喜び迎えたことにより多くの武術家が集まった、剣術は木村左衛門、山田新十郎、槍術は小南市郎兵衛達寛(これは紀州大島雲五郎の流儀として)大筒は斎藤十郎太夫、兵学は松井勝右衛門、射芸は安富軍八、馬術は岩波沖右衛門(これはもと諏訪因幡守の家来)依田佐助、熊谷平内等錚々たるものが集まった。 (享保盛典)
松平定信と鈴木清兵衛
松平定信(楽翁)は起倒流鈴木清兵衛邦教に柔術を学び諸武術の中殊に心力を尽して研究した、初め朋友の中、津侯、三田侯等が鈴木清兵衛の勝れたる事を定信に吹聴し、人の上に立つ者が学んで修身の助けとなる事少くないと、再三勧めたのだけれども、彼の鈴木の術余りに奇怪なりと云うものもあったので、委しく探索させて見ると別段怪しむべき事も無かったのでこれに入門して業大いに進んだが、或日鈴木は病気だといって来ない、弟子の秀いでた者二人を代りによこしたがこの二人は代る代る立合って遠慮会釈なく定信を投げつけ起しも立たせもしないから、定信もいろいろ工夫をこらして立合い直して見たけれどもどうしても歯が立たず、尚激しく投げつけられて了った。
元来師匠の鈴木は立合い中に、「あれは悪い」「これは無理だ」と一々親切に教えるのを常としていたから、定信もその例に習って、当日の二人に向って、いろいろ質問を試みたけれども、二人は何の答えもなさず、
「ただ自分の腕一杯に努めたばかりでございます」
というばかりだから、定信甚だ不愉快で、昼の膳を出しただけで彼等を帰した。
その後で、定信は早速家来の水野早苗を呼んで今日の稽古場の顛末を語り、
「如何に余が術の未熟である故とはいえ、今日の彼等の仕打ちは余りのことと思われるによってこれより鈴木の宅に赴いて事の次第を詰問しようと思う」
と、いった処が、早苗は大いに驚いて、
「殿様が御自身でおいでになっては、鈴木も大いに迷惑を致すことでございましょう、拙者がまず出向いてこの事を問い質して参りましょう」
と、いって座を立ち上った、そこで定信は日頃の沈着なるにも似合わず、早苗の帰りを待ち切れないで、数名の家来を従え、本所なる鈴木の宅へ押しかけて行った、門弟が出て来て、
「折悪しく主人不在でございます」
定信曰く、
「では暫く待ち合せていよう」
と、座敷に通って一時間ばかりも待っていると、やがて鈴木が頬笑みながらまかり出で、
「斯様な茅屋へお越し下されたお志の厚さ、御熱心のほど今の大名方には全く見られぬ御殊勝さ」
と云って、喜色盗るる如く感泣して平伏し、さて、
「今朝よりの不遜、お詫びの申上げようも無き儀でござるが、何分寛大のお許しを蒙りたく、如何にも本日の稽古に門弟二人を代りに差上げたのは、心中聊か思う仔細があってのことでございます、その理由と申しますのは門弟のうちに理と法とがよく分っていて、技に拙いものがございます、技に長けていて、理と法とがよく分らないものとがございます、ところが、その後なるものは、多く卒業しますけれども、前なるものは大抵途中で止めてしまいます、あなた様の如きはお聡明なるが故に却って理と法とに長じて技に拙なき前の者のお仲間でありまして、それではこの術を卒業なさることが覚束ないと存じましたから、わざとあの二人の門弟をやって手強くお稽古をなさせた次第でございます、一度お業を崩してより、また導きまいらする一術がござりまする、いざお立ち下さい」
と、それより打方をしながら、何くれと教えたので、定信も舘然として悟り、種々質問し、太く歓んで帰ったということである、是より事理一致して、大いに進歩し愈々深く学んでその後皆伝を受けたが、清兵衛の物語に、数百人の門弟の内(三千人の弟子なり)皆伝を許したる者十人に過ぎず、その中殊に勝れしは、ただ三人にして、その三人のうち一人はこの定信であったという、退職の頃は清兵衛の嫡子や杉山七左衛門(田安家用人)を呼び、その後は水野若狭を相手として互に研究し終身怠る事が無かった、子息松代侯幼年の時、また昵近の輩へも自ら教えて定信から奥儀まで授かった者が三人ある、年寄ってからは、合離の術というのを深く工夫し一流儀を発明した。 (御行状記料)
(『網迫HP』で公開されている未校正OCRデータを元に作成しました)
三(地の巻)
地の巻
(略)
宝蔵院胤栄
宝蔵院覚禅房法印胤栄はもと中御門氏であった、南部の僧であるが、刀槍の術を好み宝蔵院流の槍を創始した人である、その門下に中村市右衛門尚政がある、胤栄は身僧都でありながら武術を学ぶことの非なるを悟り、寺中へ兵器を置かず、皆纏めて中村に授けた、慶長十二年正月二日に享年八十七で胤栄は亡くなったが、その後継禅栄房胤舜は時に年十九歳であった。
後を継いだ胤舜が思うには、
「この宝蔵院という寺が有名なのは仏教に於て有名なのではない、槍術に於て有名なのだ、だから矢っ張り自分もその術を極めて置いた方がよい」
といって、宝蔵院の傍らに奥蔵院というものがあり、そこに日蓮宗の坊さんが一人いて、その坊主が先師胤栄に従って槍の精妙を極めていたから、胤舜はそれを招いて稽古を始め、遂に入神の技を得るに至ったが、年六十で慶安元年に死んだ、その後を継いだ胤清法印は矢張りまた槍術の妙を極めたが、元禄十二年四月四日六十二で亡くなった。
穴沢という長刀の達人が、胤栄と仕合をしようと思って、姿をやつして奈良へ来て宝蔵院の下男に住み込んだ、ところが胤栄が、そのけしきが並々でないことを見て取って、こっそりと呼んで尋ねた処が、果して穴沢は宝蔵院流の宗家と仕合をしたい為めに推参したものだということを自白したので、胤栄は大いに驚いて座敷へ連れて行ってそれから望み通り勝負をして見せた。
奥蔵院という小僧が傍らに在ってこれを見ていたそうである。 (本朝武芸小伝)
穴沢盛秀
右の穴沢というのは穴沢流薙刀の祖、穴沢主殿助盛秀の事であるか知らん、そうだとすれば、武芸小伝に、穴沢主殿助盛秀は薙刀の達人にしてその術神の如し、諸州を修行して後秀頼公に奉仕し、その術を秀頼公に教ゆ、慶元両年浪花に於て戦功を励み、終に討死、その芳誉児童もこれを称す。
とある、その人である。
宝蔵院派門下
将軍家光は、越前家の士、中村市右衛門という者が、宝蔵院流の名人であると聞し召してその術を見た、この市右衛門は、元来南部で酒を商っていた者であるが、その術に於ては賎しからぬ者であるが、流石に将軍の前の事とて、その晴れがましさに臆して見えた、その時上意で近習の中から大久保求馬が進み出で、彼が相手になり、暫く挑んだけれども、雌雄が分らなかった、そこでまず休まんとした時、中村が門人高田又兵衛という者が馳せ出で、求馬を突伏せ、勝を取った、これによって又兵衛に御褒美を下される、又兵衛は小笠原右近太夫家より出でた者である処から、その節右の働きを以って、又小笠原家へ召出され段々昇進して、子孫代々相続している、斯る仕合で、又兵衛も宝蔵院胤栄が直弟子となり、その子もまた上覧の時首尾よく勤めた。
然るに家元の胤栄が子胤舜、その子胤清の代に至って、槍術の業を止めた、その仔細は、凡そ治世にも武を忘れずしてたしなむことは武門の所為、我等は元来僧徒の身として、斯く太平の世に武術を心掛けるは無用の事、時宜知らずであると云って、槍術を止めて、僧業を専らとし、その上唯今まで妻帯であったのをも改め、清僧となった、然るにその弟子胤風という者、先師より代々伝来せし流儀なれば、私に止むべきにあらずとて、また槍術を興し、専らに師範をつとめたという。 (良将言行録)
高田又兵衛
寛永中から寛文の時代十文字槍の名人、高田又兵衛は小笠原右近太夫の家来であったが、紀州の南竜公がその高名を聞き及び、
「若し又兵衛が使者にでも来たならば引止めて一つ彼の槍を見たいものだ」
と、いわれていたが、程なく或時又兵衛がやって来たので、早速大島流の槍の上手を出して試合を所望せられた、又兵衛も是非なく承知して槍をとって向うと、直ちに相手の拳を突きとめてしまった、余りの呆気ない勝負と思ってか、
「今一槍所望」
と、申出でると又兵衛が答えて、
「右近太夫家にては死人と槍を合せることは仕りませぬ」
と答えた。 (古老茶話)
二代又兵衛
二代目高田又兵衛が、入道して後のこと、水戸の一家の松平大学頭がまだ若かったが、又兵衛に向い、
「われ等と仕合候え」
と所望した、又兵衛已《や》むを得ず、
「御所望ならば仕るべし」
といって直ちに槍を合せるや、たちどころに三本まで叩きつけてしまった、そうして置いて又兵衛が大学頭に申すには、
「私も槍をもって千石の知行をいただき、只今右近太夫の家老を仕り届る身分、お手前がお勝ちになって私をお潰しになってもまたあなた様がこの様にお負けになってもどちらもよろしいことではござりませぬ」
といったので、大学頭一言もなかった。 (古老茶話)
関口柔心
紀州関口流柔術の祖、関口弥六左衛門入道柔心翁は武芸修行に心を入れ、専ら刀、槍の業に達していたが、尚天下の良師に会わばやと諸国修行して肥前国長崎に至った処、もろこしの拳法に習い、捕手という業をする老人を見つけ出し、これに従って学んだ、この老人捕手から柔のとり方を工夫し、一流を開いたものである、諸侯争ってこの人を招かんとしたが遂に紀州の南竜公に膀せられて日本に於ける柔術の祖となったといわれる。
南竜公は自身柔心に就いて日々稽古するのみならず、若殿にもすすめて学ばせた、紀州家では吉宗公に至るまでこの柔術を学び、近侍小姓の面々にまでも稽古をさせた。 (柔話)
関口流柔術の関口弥左衛門は紀州に仕えていた、猫の屋根から落ちて来るのを見て柔一流を工夫し、請身当身の妙を極めた、また居合太刀をも工夫して広く世に伝えた、或時剣術の勝負を望み来るものがあった、弥左衛門が庭に下りて立ち合って見るに、これは如何にも勝ち易い相手であると思ったから、傷をつけても大人気ないと思って、庭の隅に池があったので、詰め寄せ詰め寄せそこへ追いつめるとその男は仰向け様に池に陥って這々の体で這い上がった。 (撃剣叢談)
関口氏行
関口柔心の嫡子八郎左衛門氏行も父の苗字をうけて斯道に熟達し、文学の才もあったが、江戸に逗留していた時分は、芝の浜松町に道場を建てて指南をしていた、その時分、虎蔵という童を一人召し使い、外へ出る時はこの虎蔵に刀を担がせ、自分の前へ立てて歩かせ、虎蔵には伊達染または大島の着物などを着せ朱鞘の脇差を一腰差させて、大童の勇ましい装ちをさせ、自分は丸ぐけの帯に脇差を差し或は鉄扇一本などを差して歩行したそうであるが、そうしているうちに虎蔵の稽古が上達し、十八九歳にもなると却々の腕になったが、どうも心術がよろしくない、斯ういうものが芸が上達したところで、末々身を立てる見込が無いのみならず、どうやら悪人となるらしい、その時はこの芸が却って世の中の人の禍となり、これは関口が門人であると云われるようになっては当流の恥辱であると思って、或夜出歩く時、例の如く伴につれて青山の新坂という処へかかった時に、虎蔵を討ち果してしまった、その時刀を拭った紙は信州松代の真田侯から貰ったものだという、そこで、虎蔵の屍を吟味の時にこれは若しや真田家のものの仕業ではあるまいかと云われたものである。
そこで八郎左衛門が真田侯へ指南に参った時、真田侯が、
「虎蔵はひどい目に遭ったそうだが不欄のことだ、聞く処によると、虎蔵を殺した奴が刀を拭った紙はこちらから出たものだと聞いた故、若し我が家中の者の仕業ではないかと大いに心配してひそかに詮議をして見たけれどもどうも手がかりがない、先生さぞお力落しの儀と察し入る」
といわれたので、現在自分が殺しているのだからちょっと返答のしようがなかったけれども体よく挨拶して帰ったということである。 (柔話)
真田伊豆守はこの八郎左衛門(魯伯)に入門して稽古されたのであるが、或時伊豆守が申されるには、
「武芸の名人は壁を渡り歩くとのこと、先生にも壁を横に走り歩きまわることがお出来なさると承り及びました、斯様に懇意にしている以上は、どうかその事を見せて貰いたいとわしの周囲の者がその願いをわしに所望して見よとのことであった、どうぞそれを一つやって見せて貰いたい」
といわれたので、魯伯は笑いながら、
「何ぞうまきものを御馳走して頂きたい、そうすればその術をやって御覧に入れましょう」
そこで大名のことだから早速結構な御馳走を取り出して振舞われたので、そこで八郎左衛門は壁際によって壁に添って子供がするようにしゃちほこ立ちをし、
「さあ、これでよい」と云った。
伊豆守をはじめ、不満足で、
「いや、そうではない、壁を立って走って見せてもらいたい」
といわれた、その時氏行が席をかえて威儀を正して云われるには、
「殿には格別なる武辺のお家柄であって三軍の将をも承り給う御身でありながら、さ様なる胡ろん、不吟味のことなどは仰せられるものではござりませぬ、正道の武士は私なき武芸修行を心にかけるもので、右様のことをして人を証かすことはあってはならない、真の武士の道を学ばん者にはさ様な妖術の類があるべき筈がござりませぬ、我が父柔心、塚原卜伝、神子上典膳などよく世間のものを知らぬ者共が畳をくぐり、壁によって身を隠したなど、もの知り面に鼻をうごめかして説く人もござるが、この名人たちがどうして斯様の妖術をなすべき筈がござりましょう」
といわれたので、真田殿も恥入って先生の厳しき教えを有難く謝し申したということである。 (柔話)
この魯伯先生が若い頃、天王寺の塔へ登って窓から出で、屋根の端に出で飛び下りたということで、人々それを見物して感心して門人になったものがあったということである、いや/\そうではない、氏行殿が屋根へ出て下を見られたが、思わず踏み外して落ちたのである、落ち際に体が正しくなったから、飛んだように見えたのであるという者もある。
魯伯は或時、屋根から猫の狂い落ちるのを見て、猫のような小さいからだでさえも高い処から落ちて直ぐに馳け走りをする、人間もそれが出来ないこともなかろうと云って夜具蒲団を下にだんだん高く積んで怪我をしないようにしてそうして屋根から転げ落ち転げ落ちして、体の扱いを覚え、だんだんに下の敷物を減らして後は直ちに落ちて走られるようになったので高い天王寺の塔から飛んだというようなことはないことである。
氏行が常に云うには、
「多くの芸、師をとることは大切である、はじめ悪しき師に学べば、それがこびりついて一生の病いとなるのである、よって、それほどでもない師匠について三年学ぶよりは、良い師匠を選んで学び努めようと、師匠を求める為に三年を費した方がよろしい」
といったとのことである。 (柔話)
関口氏英
氏行は嫡子ではあるが、次男(弟)の万右衛門氏英の業には及ばないと云って自らへり下って、兄ではあるが愚魯であるとの意味から魯伯と名をつけられたということである。
この氏英は「柔聖」と兄貴達からいわれた位であるから、非常の天才であったらしい。
この人了性先生といわれ、老いて稽古を見て居らるる時、安藤帯刀の家来に某という者が稽古が上達し、自力もなかなか強かったものであるが、或時了性先生に向い、
「今日は先生にお願いがござる、拙者鬼身を突くにより、悟るように御指南を願いたい」
と云ったので、了性先生が、「出でよ」といって自ら立ちしなに具足の刀を杖に「ヤッ!」といって立たれて行かるるように見えたが、どうしたものかその者が仰向けに倒れて絶え入った、各々寄って水を注ぎなどして漸く息を吹き返させたが、歩いて帰ることは出来ないで、駕籠に乗って帰ったということである。
また或時、了性先生が杖をつきつつ歩いて行く途中向うから、
「泥棒泥棒、止めて下さい止めて下さい」
と呼んで追いかけて来る者がある、そこで了性先生が突いていた杖を走り来る者の先きへふっと突き出すと、彼の者がその杖に手をかけるのをそのまま下を払うとくるりと打ち返される、そこを直ちに杖でおさえて、
「そりゃ」といって渡された、その型をあとでいろいろの人がやって見たけれども、どうしても出来なかったということである。 (柔話)
斎藤節翁
仙台の家士斎藤節翁は高禄の人で東軍流の剣術に於て無双の名があったが、早く隠居して東国を周遊して武を講じて楽しみとしていたが、この人の伝に耳に視て目に聞くという秘伝がある、この秘伝を聞くとその術が進むことを覚えるという、この節翁の昔話に真に心掛けのある侍というものは、天下に稀なもので、我れ武勇を好むに任せて人を試むること度々ではあったが、早速に応ずるものとてはなかったが、或時晴れた月夜に下総の小金のあたりを通った処が侍が一人馬でやって来るものがある、一見したところこれはさるものと思ったから行き逢いざまに鐙を返して蹴ね落した処、未だ地に落ちない先きに抜きうちにこちらの肩を斬りつけて来た、節翁も刀を抜いて、伏している相手の上を一太刀斬って手ごたえがあったからそれまでにして別れた、あたりに人は無し、後年に至っても尋ねる由はなかったが、年経て下野の宇都宮の城下に至り処の者に、
「御当地に有名な剣術者があるか」
と尋ねた、処が如何にも某という名高い先生がある、それではその方をお招き申して話をしたいものだがどうだろう、宿の者が先方へ左様伝えたところが、その人も早速に尋ねて来てそこで酒を酌み交して節翁と二人武術の話に興がのったが、そのうちに節翁が尋ねていう。
「今まであぶない目にお遭いなさったことはありませんか」
彼の者が答えて、
「如何にもその事でござる、或年下総小金の辺を通った処が、斯様斯様の首尾で鐙をかえされ腰に手をおわせられたことがござる、その時手綱を解いて強く腰に巻き、腰にはさんだ撃縄を手綱として乗ってかえり、ひそかに創療治をして癒したことがございます」
節翁がそれを聞いて、手を打って、
「さてはその時の相手は貴殿でござったよな、某若気の余りこの頃まで諸方で人を試したことが幾度もござりましたが、貴殿の如く早速に応ずる人は他に一人もござりませんでした、これがその時の記念でござる」
といって肩の創を出して見せた処、彼の侍も腰の創を示して互に歎賞し合って別れたということである。
この節翁の芸は、なかなか凡人とは見えない、世の常の上手だなどといわれる人が立ち合って見ると、更に打とうと思うきっかけもなく、自ら屈服して了う、相手には太刀を持たせて、節翁を無刀であいしろうにたしかに打ったと思う太刀も悉く抜けて身に当らない、遠近の位が甚だ明かなることであるから如何ともすべきよしがなかった、斯様な妙手故に野総の間に巡遊して安心していられたのであって、この辺の土地は人の心が強堅にして武芸に長ずる者が多い、この辺で尊ばれる師匠は何処の国へ行っても人の下に居るということはないということである。 (撃剣叢談)
庄田喜左衛門と三夢
庄田流の庄田喜左衛門は柳生宗矩の高弟であって自ら一流を開いたのであるが門人が甚だ多いうちに市輔という者があって、修練の功現われ多数の門弟中一人もこの市輔に及ぶ者がなかった、そこで市輔が天下に我に及ぶものあらじと自慢して、或時、師の喜左衛門に勝負を願い、十本を定めて立ち合いをした処が悉く打たれて市輔が太刀は一度も喜左衛門に当らなかった。
この時市輔が思うよう、日頃の修練も最早これまでである、自分が常に腰に侃ぶる刀をさえ思うままに為し得ない位ならば侃びない方がよろしいといって、その日に髪を剃って「三夢」と名を改め一本の杖をついて諸国行脚に出かけてしまった。
さて奥州を巡っているうちいつどうということなく、ふと槍で人を突くべき理を豁然として悟り得て了った、自らも驚き怪しんで、仙台の城下に至り、或る槍術家の処を訪ねて見物し、さて仕合を乞うて我が術を試むると敵するものが一人もなかった、その槍術家が甚だ感心して家に留め置くとそれを聞き伝えて芸を試みる人も多かったが鎗長刀、十文字等に出逢っても三夢の槍は速かに敵に当って遂に敵は何物をも容れることが出来ない、その後諸国を遍歴したが三夢が槍に執心して弟子とならんことを乞うものが多かったけれども、三夢が槍は自然に得たのであるから教えることも学ぶことも出来ないで終にその道を授得したものは一人もなかったという事である。 (撃剣叢談)
柳生連也
尾州柳生家は柳生の大祖但馬守宗厳には孫、江戸の柳生但馬守宗矩には甥に当る処の兵庫助利厳に始まるのであるが利厳の三男厳包が傑出し中興と称せられた、厳包は後入道して連也斎と云った、この連也は幼時、故ありて姉婿三州御油林五郎太夫という者の方で成長し、十歳許りの時に名古屋に来て剣術を修行し、毎日稽古が終って人々がかえった後になると父兄の侍、若党奴などを集め、銭を持ち出して、
「我を叩きし者には取らせん」
と賭にして毎晩たたき合ったが、余りに強くたたかせた時は、仕舞うて寝間へ入るに腕がいたんで帯が廻らないものだから母に頼む、母、
「これでこそ上手にはなれるであろう」
と締め直してやっては涙を流したこと度々であったという、その後同格の弟子があって、いつの仕合も互角の勝負であったが、或夜連也はふと自ら発明する事があって、父の如雲利厳に向い、
「どうも不思議の事がありました、今晩何となしに自分がずんと強くなったように覚えます」父から、
「そうか、では明日仕合をして見よ」
と云われたばかりであったが、その翌日例の互角の弟子が来るのを待ち合せて、仕合をして見ると十本が十本、みんな打ち勝ってしまった、すると彼の弟子が大いに立腹して、直に如雲の前へ出で、
「わたしは只今まで師弟の礼にそむいたことはござりませぬつもりですが、これでは余りに依枯なる取り立て方、堪忍が出来ませぬ、切腹を仕りますからさ様に御承知を願います」
と云った、如雲さわがず、
「それはどうしたわけじゃ」その弟子答えて、
「昨夜迄相討のこなた様に、今日は十本に一本も勝たれ申さぬ、一夜の間にかくの如くちがい申すべき筈はござりませぬ、これは御子息故に御贔屓がありて格別の大事御相伝にちがいないと存じますから、堪忍が出来ませぬ」
という、如雲が聞いて、
「さて/\それは大変な事じゃ、実は昨晩伜が何か発明した様に申す故今日仕合をして見よと申しつけたばかりじゃ、こういう事が中々一朝一夕の口伝相伝でなるものか、この間中からの仕合ぶりを見ていると、兵助(連也幼名)はもはやこの地位に至るべき事がわかっていた、そなたは今三年はかかるであろうと思っていたが、案の如くであった、そなたは今より三年怠りなく稽古をして、今日の兵助が段に至らなかったならば、その時腹をお切りなさい」
と云われたので彼の弟子は信服してそれより猶々出精したが、三年目に漸く自得したそうである、然し連也ははやその中に、また復その上の段に至った事故終に生涯勝つ事は出来なかったという事である。 (近松茂矩著「昔咄」)
兵庫介の子が茂左衛門厳方でその子が兵庫厳包で隠居して連也斎と号した、尾張の人は今日でも単に連也と称し、却って本名を知る人は少ない位である、連也は柳生支流中出色の名人で学問も広く弁舌も爽かに、胆力も据っていた、躯幹は普通で背は梢々高く痔肉の方であった、眼光は炯々というほどではなし温和なところもあったが、一種清爽の気が眉宇の間に溢れ、犯すべからざる威厳を備えていた、平素門弟を教える事に極めて懇切でよく変化を示したが稽古中少しでも惰気を生ずるものがあると命を遣取りする稽古ぞと叱ったそうな、仕合の時は刀を取って立ち上るやヤッと一声かけると共に直に勝を取ってしまうので、対手の者はいつも呆気にとられる、余程の達人でなければ四五合に及んだことはなかったそうである。
連也の高弟のうちに松井某というものがあって、連也は中年以後碁を好んでこの男と碁を囲んで楽しんでいたが、碁の方では松井の方が数目強かった、この松井は散々我が師をためそうと心懸け、或日、また碁の対手となって非常に師を悩まし、連也は苦心惨漕盤面を見つめ工夫を凝らしている、この機逸すべからずと密かに盤の陰で拳を固めると連也がヒョイと顔をあげて松井を見たので、松井は素知らぬ顔して拳を解いたが連也が顔をあげたのは此方の意思を悟ったのであるか或は偶然であったのか判然しないから松井は今一度試そうとわざと連也の石の置き方を非難してまた困らせて置きながら、
「まだお考えがつきませんか」
と催促し、拳を固めあわや拳が盤の側面から躍り出そうとする途端、連也は忽ち反身になって、
「オイ悪戯はならぬぞ」
と云ったので松井は悟られたと思ったか、
「イヤ、ナニ」
とごまかしながら更に碁を打続けたとのことである。
その後一年余、もはや連也が前のことを忘れたであろう時分秋草を賞する為に連也は俳譜師並びに門弟二三を連れ松井もその中に加わり、野遊びに出かけた、程よき場所に弁当を開き皆々そこで火を焚き食事の用意などをしている、連也は川の方に行って何気なく小便をしている、その隙を見た松井は今日こそと連也のうしろに忍び寄り、力を極めて連也の腰のあたりに突きかけたが、ヒラリと横へかわされた為に松井は空を突いて川の中へ飛び込んでしまったが連也は平気で小便をしている。
後で一行はなぜ川の中へ飛び込んだのかわからない、連也から、
「また悪戯をしたな、もうやめぬか」
と云われたので事が露顕し、狂歌や狂俳の材料となっていいもの笑いに供された。
連也がその後松井を呼んで云いきかせることには、
「その方が度々余を試そうとするのは武芸の真意が分らぬからである、立合には相方の間に必ず機というものが生ずる、その機に乗ずることは勿論だが、機に乗ずるというだけでは未だ足らぬ、その機をこの方で自由にするようにならねばならぬ武術が上達すれば機は我から開くことが出来る、我から開くというのは敵をわが思う壼へ惹きつけるのである、また事には『きざし』というものがある、これは機といってもよいのであろうが機よりも今少し早く極めて微妙なものである、その方が碁を打ちながら余を打たんとした時も、川端で突き飛ばさんとした時にも、その日その方の顔を見た時に、今日は何かやるなと悟った、これが即ち『きざし』でその方の心の動きが顔にあらわれて余の心に響いたのである、尤も突き飛ばさんとするをかわしたのは術であるが、既に何かするなと悟った上十分に気を附けているからその方は不意に出る積りでもこの方では不意でも何でもない、元来心は恰も鏡のようなもので不断曇らぬようによく磨いて置けば他より来る事が善悪共に我心の鏡に映るものである」
松井が或時、
「人から不意打をかけられる場合も甚だ多いものでございますが最も防禦のしにくいのが夜間熟睡の時であることを誰でもよく知って居りますが、その場合の心得方は如何でございましょうか、幸いに御教示に預かりたい」
とたずねた、連也が答えていう。
「イヤ、熟睡中のことは我とても別によい防ぎ方はない、誰でも知っている通り、第一に戸締めを忘れぬようにすること、第二に仰向けに寝ぬことだ、仰向けに寝ることは敵に此処を突けと示しているようなものだ、横に寝れば、たとい少しの手疵を受けても防禦の出来る場合が多い、第三に枕刀を蒲団の下に置くは勿論であるが、いつも同じ処に置いて場所を変えぬがよい、イザという時に直ちに其処へ手が行く、第四は鼾をかかぬこと、鼾をかくは敵に不覚を示すのである、口を塞いで寝れば鼾はかかぬものだ、その外に大酔した時、遠足した時、働き過ぎた時、空腹の処へ飽食した時の類、これらのことのあった後に寝につけば必ず熟睡して死人同様になる、斯様な場合には平生家人に言附けて置いて気をつけさせるより外はないが、武士として一身の守りを他の者に頼むというのは恥ずべき事である故、御用の外はなるべく磯飽労逸を平均にすることを心掛けねばならぬ、尚余が多年の実験によれば、常に心を練って、気を安静ならしめて置けば熟睡しても事があれぱ目が覚め易い、その他は心に油断せぬ癖をつけること、行住坐臥も耳に聞き眼に見る事は何事にも気をつける、毎日同時刻に聞く寺の鐘さえも同様、是は甚だ煩雑に似てはいるが、その瞬間だけであとは滞りさえしなければ何でもない事、毎日か様にして行くうちに漸く心に油断なき癖が出来る、これを熟睡中に試みると、少しの物音、少しの気色にも目が覚める、そうして目が覚めても事がなければ直ちに睡られるから、養生の害にはならぬ、これで多少万一の場合に間に合うであろうと思う、この外には熟睡中に来る敵の害を避ける仕方はない、心を練って物に動ぜぬように修行することが第一である」 (楠正位著「武術系統講話」)
高田三之丞
柳生兵庫介利厳が、はじめて尾州家に仕えた時分は天下に兵法修行の者が甚だ多く、兵庫の許へも大勢やって来たが、誰れが来ても高弟の三之丞が立合って勝った故、兵庫が自身に立合われたことはなかったそうである、或時帯刀(朱念)という遣い手が来り、
「御太刀筋を拝見仕り、御門弟になりたき願いでござりまする」
といい入れたので三之丞が挨拶仕るべしとて進み出で、
「それは御殊勝のお心がけ、拙者御立合申すべし」
と云ったが先方が聞かず、
「御自分とは望みなく候、兵庫殿にこそお立合いが願いたいのでござります」
という、三之丞、
「いや兵庫が手を下す者は天下にこれなく候、まず斯く申す三之丞に勝つ者さえ覚えず候」と云ったので、先方も是非なく立ち合い帯刀は木刀、三之丞はしないであった、いつもの通り三之丞は手をちぢめ、袖口元ヘ引付けて、小をたてに持って出たが、するするとしかけ、
「おいとしおや」
というより早く眉間を打ったので先方では切出すことも出来なかった、二本目するするとしこむと、小を捨てて取って投げ、三本目も手もなく勝った。
この「おいとしおや」という懸け声は三之丞のくせであったそうである。
兵庫は、のぞいて見て居たが、
「一生の出来だ」
と云って賞めた、相手の帯刀は殊の外信服して直に弟子入りを望みし故、三之丞は兵庫に向い、
「只今まで参った他国者のうちでは第一の遣い手、後の用にも立ち申すべき人と見受け申すによりお弟子になされたが宜しかろうと存じます」
と云うと、兵庫が、
「その方の手際にたたき伏せた事であるから、その方弟子にするがよい、稽古は一同にさせよう」
と云った故三之丞の弟子とし、稽古は兵庫へも出でた。
三年滞留しているうちに、帯刀は余程よく遣うようになった頃、三州吉田の城主より兵法指南の者ほしき由を申し来ったにより、
「帯刀事、もはや他国にたたくものはなく候、遣わされ候え」
と、三之丞の世話で、吉田へ仕えるようになったが、その後三之丞が江戸上りの時であったか、または使者に行った折であったか、帯刀の処へ立寄ると、殊の外馳走し、岡崎矢矧の橋の上迄、帯刀が馬の口を取って来たから、三之丞は橋の上で下り立ち、昔黄石公は下那の土橋にて張良に一巻の書を授けた由、我はそなたにこの橋の上で神妙剣を伝えんとて相伝した、帯刀は涙を流して別れたという事である。
この三之丞は若い時は至極男だてにて、喧嘩闘争度々のことであった、或時銭湯へ行ったが、あぱれ者共二三人一時に入込んで来て、三之丞へ無礼をしかけたにより、三之丞は右の者共を取ってさんざんに打ち擲げると、ほうほうの体で遁げ出でたが無念の思いで大勢かり催して待伏し、三之丞が町の木戸口をくぐり出でる所を斬りかけた、三之丞抜合わせ大勢に渡り合い、二三人太刀下に斬りしき、その外大勢に手負わせたによって、皆々遁げ散じ、その身は一カ所も手を負わなかった、但しこの時三之丞毛雪踏をはいていたが、余りに烈しい場合で、これを脱ぐ暇なく、とりそうになって難儀をし、已に一代のおくれを取ろうとした処から、それより雪踏、革草履類をはかず、子孫、門弟にも必ずはくべからずと遺言したそうである。
老年に及んでも、この三之丞早業など少しも違いはなかった、或時奥の間へ入った処、向うから十二三歳になる孫の三右衛門が帰って来るのを見ると、ふところヘ両手を入れていたので、
「さて不心得なやつじゃ、日頃ぬき入手は武士はしてはならない事と教えて置いたのに不届な仕方じゃ、その腰の扇子をぬいて見よ、ぬかれまいに」
と叱った、そこで三右衛門袖口から手を出したのではとめられてしまうと、素早く振袖のわれ目から手を出して扇子を抜こうとする所を、三之丞かけつけて差しとめてしまったそうである、子供ながら充分に仕込まれている三右衛門も呆れて祖父が立っていた所からの間を測って見ると九尺余あったという事である、三之丞が門人共に云う事には、
「仕合をする時は真剣勝負の心ですべきものじゃ、我は数十度勝負を争ったが今仕合をする毎に昔の白刃を以て戦いし時の情になり、白刃をしないに替える事のみである、爰を以て仕合に一度も負けた事はない」 (近松茂矩著「昔咄」)
林崎重信
林崎甚助重信は奥州の人である、林崎明神に祈って剣術の精妙を極めたが、この人は中興居合の祖である、その門下に田宮平兵衛重正という者がある、これが入神の技があって田宮流を創始したのである、刀を抜いて人を斬るに、傍えの人にはただ鍔鳴の音だけが聞えて、鞘を出入する刃の色は見えなかったけれど、相手の首は既に下に落ちていたというような逸話がある。
浅田九郎兵衛
浅田九郎兵衛は宝山流の名師で、作州森家に仕えて二百石を受けていた。
或時、東国浪人の三間与市左衛門という者が作州に来って居合を指南したが弟子も多くついた、この与市左衛門は十六歳から十二社権現の神木を相手にして二十年届合を抜いたが遂にその神木が枯れたということである、流名を水鵬流と名づけて世に広めていたが作州で剣術を好むほどのものが大抵勝負をしたけれども皆三間の居合に負けて一人も勝つ者がなかった。
この上は九郎兵衛でなければ相手になるものはなかろうというので、人々がすすめて三間と勝負をさせることに決ったが、九郎兵衛の弟子共が心のうちに危ぶんで、師匠に向い、
「三間が居合は東国のみならず、諸国の剣術者で勝てる者が無いということでございますが、先生にはどうして勝とうと思召されるや承りたし」
と、いうと、九郎兵衛が答えて、
「居合に勝つことは何もむずかしいことではない、抜かせて勝つまでじゃ」
と、いった、三間がこの由を伝え聞いて、
「浅田は聞きしに勝る上手である、その一冒で勝負は知れた、我が及ぶ処ではござらぬ」
といって立合わなかったとの事である。
「抜かせて勝つ」という意味は、つまり居合は鞘の中に勝をもって太刀下で抜きとめて勝ち、或は詰めよって柄にて止める業等がある、抜かせてしまわぬうちに勝ちを含んでいる、抜かせてしまえば勝が我にあるという道理だが、必ず相手を抜かせるようにするにはまた妙境を極めなければ出来ないことである。
この浅田九郎兵衛は十七歳の時讃州金光院に寄宿していたが、宮本武蔵の門人沢泥入という者と立合って勝ったことがある、島原陣にも功名したということである、森家に仕えたのはその後のことであった。 (撃剣叢談)
この浅田九郎兵衛の門人に都築安右衛門という者があった、多年宝山流に身力をゆだね浅田門下では及ぶものなきほどに至ったが、別に一家を樹てることを所望したけれども九郎兵衛が許さない、そこで大いに失望して宝山流を止め、林太郎右衛門という新陰流の師匠と謀って一流を始め、宝山如水を改めて新陰去水流といって人に伝授した。
九郎兵衛がこれを聞いて大いに怒り、人をもって去水一流を見たいものだと云い遣わした、安右衛門が様々に辞退したけれども承知しない、そこで、日を期して都築、林と出会うことになった。
別に双方から仲に立てた人を扱い人としてその場に出合ったが、九郎兵衛が、
「いざ去水の手合い見申さん」と、いう。
太郎右衛門が、まず出でたるにより九郎兵衛が高弟で安右衛門と肩を並べる各務源太夫という者を出した。
側らの人がしないを取って出すと九郎兵衛が、さえぎって、
「しないでは勝負はわかり兼ぬるものである、木刀で致さるるがよい」
木刀は真剣に類する、危険を慮って皆々が止めたけれども九郎兵衛が聞かない、そこで仲人が、
「然らば相方木刀にて金面をつけられたがよろしかろう」
九郎兵衛はそれも不同心であるけれども已むなく双方金面を着せて立ち合わせたが源太夫が勝って太郎右衛門が金面の篠二本打ち折った。
その時九郎兵衛が立ち上って、
「いざ、安右衛門と一本まいらんし」
と、いう、傍らより各々が押し止め、安右衛門もだんだん詫言して日頃の過を謝したるによりようよう少し納得して、
「然らば宝山流の燕飛の構え、今日より出すこと相成らず」
安右衛門もこれをもって詫言の印とした、去水流には燕飛の構えを左の手に持つことになっている、然しながらこの都築、林両人ともなかなか上手は上手であったから門弟も年を追って多く集り、流れを広く伝えている。 (撃剣叢談)
新之丞
柳生家の弟子に新之丞というものが紀州へ召し出され、お目見えにお盃を下された時、殿様が、
「柳生流に無刀取ということがあるということだが、本当か」
新之丞、かしこまって、
「ございます、私もそれを習いました」
紀州公、
「果してその方無刀取が出来るか」
新之丞、答えて、
「武士というものは偽りを申さぬものでございます」
紀州公、
「それ」
と合図をする、お酌の者が抜き打ちに斬ってかかるところを新之丞がひしとその刀を取ってしまった、また一人抜き打ちに横なぐりに斬りかけたのを新之丞がひしとその刀を取ってしまった。
新之丞がその後尾張へ行った時、尾州の剣術の達人が仕合を望んで来た、そこで先方の弟子が大勢で矢来を結んでその中で仕合をすることになった。
先方の剣士は大木刀で矢来の中に入って来る、新之丞は柳生流の枇杷木刀を以て立ち向ったが何の苦もなく先方の剣士の眉間を一打に打ち割いてしまった、弟子共がそれ討ち殺せと騒いでいる隙に矢来をくぐって新之丞は退いたがその時木刀を落して帰った、それから、新之丞の方では敵の眉間を打ち割いたというし、先方ではこっちが勝った印に木刀を取ったと云い争う、そこで今度は新之丞の方より再勝負を申出でて再勝負をすることになったが、その時新之丞がいう事には、
「前度の勝の印として今度も他の事はしない、前に打ち割いた処をまた同じ様に打ち割いて見せよう」
と云ったが、果してその言葉の如く、試合になると同じ処を同じように打ち割いたということである。 (異説まち/\)
内蔵之助
梅田流の槍の上手柳生内蔵之助に向って高野貞寿が或時問うていう。
「貴殿でも思いもよらぬ時に人に斬りつけられたらばハッと思われますか」
内蔵之助答えて、
「それはハット思う、併し、そのハットが直ぐに先になるのだ、ハットと声を引くのではない、ハット先を打つのだ」と、また曰く、
「こっちが二つになる処でなければ先きも二つにはならない、こっちの先きを打つところを先きより先を打って、その先の先を打つがよい、これがよい先々の先というものだ、併しこれは理窟だけであって術の修行をしなければ、その先の時太刀が出ないものだ、諸道業より入るというのが本当である」
この内蔵之助は兵法使いとは見えぬ男で、あたり前の人のようで、試合をする時に竹刀を担いでスウッと行って打つのが成る程先々の先になっていたという、気合を込めて打つ時は、竹刀の先きがふくれたということである。 (異説まち/\)
渋川父子
板倉甲斐守が或時柔術の渋川友右衛門に向って云うことには、
「わしは、そなたに就いて柔術を学ぶごと久しいが予ねて聞く処に依ると他流には当身ということがあって、四五年も習っているうちには如何様のものでも自由に投げることが出来る、その上種々と伝授の奥儀もあるということだが、その許の流儀に於ては当身ということもなく、人を投げる術もなく、十年習う者も、二十年習うものも何の伝授沙汰もない、いつ迄習っていても許しの沙汰もない、この理由を篤と聞きたいものだ」
友右衛門答えていうよう、
「御不審御尤でございます、併しながらまだ御修行が足りないからその御得心が行かないのでござる、この方のあて身と申すのは差向いて腕ずく力業ばかりのあて身ではござりませぬ、処によりては脇差或は刀、今少し遠い勝負には槍薙刀を用い、また敵の多少によっては、この方よりも人数を加え、弓鉄砲或は長柄と備えを立て列を正し、歩行武者、騎馬、時に応じ、変に従ってこれを当てるのでござる、また伝授の書き物といっても他事はありません、国家がおさまる時には経書を読んで礼を学び、乱るる時には孫呉の術を用います、さ様でござるから別に書物を作るに及びません、経典、諸子、百家の書までおさめ読まなければなりません、これが即ち我が術の秘書でござります、ゆるし允可のことも御尤の仰せではございますが、これは凡そ師匠の授ける許しというものは、その師匠ぎりで用に立たないものでございます、世間の人が許して名人といってこそ、これが天下の許しというものでございます」
甲斐守これを聞いて、
「柔術というものはむずかしいものかな」
といって、その後は何の話もなかったそうだ。
或人この友右衛門に従うこと八九年同学のもの数百人あったけれども趣を得たものは六七人に過ぎなかった、その教え方は一生懸命にこれより上は幾ら習うても力が出ないというところまで身を使わせ、人に負けないようにこらえる道を教え人に勝つという道は教えなかった。
それ故大方のものは途中で止めてしまった、或人、相当に稽古して漸くトリデ(捕手)とやわらの差がわかったという、渋川も末になって斯ういうことを知る人が少くなり、つまらないものをもてはやすようになったのは残念で、今の人はトリデを知ってやわらを知らない。
この友右衛門は京都の生れで柔術のみならず、伊藤仁斎先生の門人であり、その子の伴五郎も東涯先生の門人である。
友右衛門の子の伴五郎は関口柔信の弟子で、別に一家を建てた豪傑である、世の人よくその名を知っている、この渋川伴五郎が若い時団十郎の芝届を見て、
「あの団十郎のあらごとの時、橋がかりから怒って飛び出るのはなかなか組み止められないだろう、役者自身ではわかるまいだろうが我が道から見てもあそこに当り難い鋭気がある」
と話したことがあるそうだが、役者の悲しさにはその芸の瞬間だけで、後にこの団十郎は半六という者の為に刺し殺されてしまった。 (八水随筆)
朝比奈半左衛門
小栗流という剣法は、家康の臣小栗又市の次男仁右衛門政信から起った、仁右衛門政信は大和正木坂の柳生宗厳の門人として極意を得たのであるが、その伝統を山田家の臣朝比奈半左衛門可長というものに伝えた。
小栗の弟子となって剣法の極意を受けたのは明暦三年で、或時小栗方に参じて談話の後辞して帰らんと衝立を廻る所を師匠の小栗が急に、
「半左衛門参る」
と、声を掛けて脇差を抜いて斬り付けた、半左衛門振返りながら、慌てず手元へ飛び込んでその小手を押えたので、師匠はその胆の据り方を賞して印可を与えたという。
この半左衛門、老後に東国の家中町に夜々辻斬が出ると聞いて出で向った処が、大手広小路を忍頭巾に面体を裏んだ武士が来るよと見る間に、行逢いさまサット刀を抜いて打ちかかるを半左衛門携えたる杖を構えて左右に払いのけ附け入れば、敵は愕いて刀を引いて込げ行くを一あて打叩いて徐かに歩を返して家に戻った、これより四年の後、道場に門弟が集って雑談中に、一人の者がいうに、
「イヤこの四五年以前、家中町に辻斬が出るという噂が立ったことがあろう、今は何を隠そう、あれこそ実は自分の仕業であったのだ、刀を抜いておどしかけると武士といわず町人といわず、いや皆臆病揃いで、一人として敵対して来る者はない、あまり他愛がないので面白く思い毎晩出掛けた、或晩のこと、頭巾真深の老人らしい侍が来たので、すれ違いざまに斬り付けた所、持ったる杖で散々にあしらわれ、迩げる背をしたたかに打たれたので、それ以来恐ろしくなって止めてしもうた」
と語った、計らずそれを洩れ聞いた半左衛門は、
「それは多分何年何月何日の夜何時頃の事であったろう」
と星を指したので、話の本人は呆れ返っていると、半左衛門は威容を正して、
「武士の刀は心の剣という、一度び鞘を払えば敵を斬るが武士の魂である、人が迩げ行くから面白いと云って、妄りに心の刀を棒扱いにして振廻すとは、已に腐った魂で刀をも腐らせるのである、左様の人は以後出入無用」と云って破門したそうである。 (日本剣道史)
(略)
寺田、中西、白井
一刀流の中西忠兵衛子正の門下に寺田五右衛門、白井通という二人の組み太刀の名人があった、何れも劣らぬ豪傑で一見識をたてた人々であるからその門に居ながら師家中西氏の教え方とは違って、一つ道場に於て寺田派、白井派、中西派と三派に分れ、もみ合って稽古し、その都度稽古が一致しないで議論が沸騰して来たというから面白い。
寺田氏は、自分の構えたる木刀の先きからは火焔が燃え出ずるといい、白井氏は我が木刀の先きからは輪が出ると云っていた。
寺田は轄打(しないうち)の稽古は更にやらない人で組み太刀ばかり稽古をした人である、或時師家中西の門人が寺田に向って、
「先生一つ翰打の稽古を願いたい」
というと寺田は、
「拙者は何れも御承知の通り仕合は好まない、然し、強って望みとのことならば是非に及ばず、拙者は馴れたる素面素籠手で木刀をもってお相手をする、お手前たちは、面籠手身を堅め、こちらに隙があらば少しも遠慮に及ばぬ故、頭なり腹なり勝手次第に充分に打ち給え」
と、云い放ったので、何れもその広言を憤り、寺田に重傷を負わしくれんものと一人手早く道具をつけ輻を打ち振ってたち向う、寺田は素肌で二尺三寸五分の木太刀を携げしずしずと立ち出でて来た。
スワ、事こそ起りたれと、師の中西氏をはじめ手に汗を握り勝負如何と見詰めているうち相手は寺田の頭上真二つに打ちおろさんと心中に思う時、寺田が声をかけて、
「面へ打ってくればすり上げて胴を打つぞ」
という、そこで相手がまたこんどは寺田氏の小手を打ち折ってやろうと思う途端、寺田は、
「小手へ打って来れば斬り落して突くぞ」
と、悉く相手の思うところ、為そうとするところを察して、そのことを一々機先を制して云い当ててしまうにより、相手はなかなか恐しくなり、手も足も出しようがなくなり、すごすごその場を引き退いて感服するより外はない、その後へ二人三人入り代り、吾れこそ寺田を打ち据え呉れんと、代る代る立合ったけれども何れも同様で寺田に一度も打ち出すことが出来なかったということである。
ここで一刀流の組み太刀というのは、他の流儀で型ということである。 (撃剣叢談)
伊岐遠江守
伊岐流の槍は、伊岐遠江守から出でたのであるが、この人は柳生但馬守の許で剣術を修業し後に直鑓の一流を立てたのであるが、信長、委吉、家康、秀忠に及んで切り組み仕合の術を上覧に供え、殊に家康よりは上意を蒙って下野国やないそうという深山に三力年引籠り、九尺柄、橘槍(つかやり)の勝術を工夫して鍛錬成就した上、駿府に於て家康の前に上覧に供え厚く賞美されたのである、その以後、切組仕合、共に他見を許さず、平素の稽古も免許状相伝も非常に正しく厳かに行われた。 (甲子夜話)
和佐大八郎
紀州泰山公の時、吉見大右衛門が射術の名家であった、三宅伴左衛門、和佐大八郎の両人が門下で傑出していた、伴左衛門が故あって江戸へ立ち退くことになった後で大八郎が三十三間堂の通し矢を仰せつけられることになった。
その以前堂前の通し矢をやったものは、それが済んだ時力がたゆんで帰り途には疲れがありありと見えたということだが、大八郎はそれでは用に立たないといって馬に乗って帰ったという、千万人に秀れた男である、然るに別派の者は誇っている、大八郎堂前の時は射る度に少しずつ前へゆすり出た、だから間数も大分近くなったという、嘘かまことかわからないが、それにしても二間とは延びないであろう、それで一万三千余本を射出して八千百三十三筋の通り矢で馬に乗って帰ったというのは却々凡人には出来ないことである。 (異説まち/\)
(略)
竹村与右衛門
宮本武蔵が慶長年間に於ける時代には、その刀術の流名を円明流と称した、その頃の門人で優秀な人に、青木城右衛門、竹村与右衛門等がある、渡辺幸庵対話に、宮本を竹村といっている、この与右衛門は、名を頼角といって、無双の遣い手であった、讃岐侯に仕え、諸州を遊歴し、二刀流を拡めた、川の中へ桃を浮かせて、一尺三寸の刀で打斬るに桃の種まで割ったという。 (日本剣道史)
(略)
正木利充
美濃の大垣侯の臣で正木太郎利充は、一刀流であるが、また先意流の長刀の奥義を極めて剣術と合せて伝えていた。
或年大垣侯江戸城大手の御門を預って居り、太郎太夫も番を勤めていたが、つらつら思うのに、今ここに不意にあぶれ者か狂人が現われたとして一刻に斬って捨てては後難がある、棒などというものは、足軽以下が手に手にとって出合だであろう、さりとて自分は居ながら見物しているわけにも行かない、何か可然工夫はないものかとそれが因で「玉ぐさり」の術を思いついた、これは袖にも懐にも隠して持っていることが出来、十手、鼻捻(はなねじ)、鎮鎌などの器と用い方が同じである、この太郎太夫は信仰者で、この錬を人に施すにも一々祈薦をして精を入れて施したということである。 (撃剣叢談)
磯又右衛門
天神真楊流の祖、(磯又右衛門柳関斎正足)は伊勢の松坂の生れで、紀州の藩士であった、本名は岡山八郎次と云って、曾て江州草津に両三年足を止めて柔術を指南していた時、人の為に僅かに西村という門弟と二人で百余人の悪者を相手としてこれを追い散らし、人命を救ったことがあるが、その時初めて当身のことに就いて大いに悟った処があるという。
古来戦場に於ては組打ちを専一とし、また敵によって当身の術を行うことは諸流師家は皆知っているけれども、未だ真の当身をもって修業することはなかったが、又右衛門は人命を救わんが為に諸所で真剣の勝負をしたことから真の当をもって修業しなけれぱ勝つことは出来ないということを悟り、それから、当身の修業に心を用い、そこで楊心流と真の神道流とを合して別に一派を立て、百二十余手を定めて天神真楊流と称した、後江戸に出でて幕府の臣となった。
渋川友右衛門
宝永より以後柔術では渋川友右衛門が傑出している、その弟子に伊藤柔順が有名であった。友右衛門の子伴五郎が同じく人に柔術の指南をしていたが、これは関口伴五郎という者に学んで関口流といった。
本家は紀州にあって関口伴五郎といったがこれが元祖である、三代目の伴五郎は柔術が甚だ不器用で父祖の業を継ぐことは出来まいとの評判であったが、それでも修行少しも怠らなかった為に、フト二三年の間にはたはたと上達し、家名に恥じず優れたものになったという。 (異説まち/\)
渋川伴五郎
渋川流は関口弥左衛門の高弟、渋川伴五郎の一流である、この流の柔は相撲に似て羸弱(るいじやく)の人などは修行することがむずかしいというたということである。 (撃剣叢談)
竹内守次郎
竹内守次郎は柔術の名人である、松平三五郎は大力無双の人である。三五郎以為らく、
「守次郎何程柔術が上手なりとも首か腕を我れ撰みなば、その儘撰み殺さん」
とこれを常に広言して居ったが、三五郎は或時、守次郎を招き、先ず試みに家僕に大力なる者あるを呼び出して、
「御手合せを拝見申し度」
と乞うた、家僕は主人より予て内意を受け相手を殺しても苦しからずとの事であった故、守次郎を撰み殺そうと思い、仁王立ちに立って待ち構えた。
守次郎やがて立合ったが、その大力なる家僕を何の手もなく傍へ投げ出し気絶せしめた、これは彼が自分に力を入れ過ぎし故、却って気絶したのである、三五郎驚き入り、
「さて、聞きしにまさる御手際感じ入り申し候、柔術には活を入れるとか申す事これある由聞き及び居り候、何卒あの者を活かし給わるべし」
といった、守次郎、
「さ様なることは存じ申さざるも殺そうと思って投げたわけでないから、死にはしないだろう」
と云いながら気絶した家僕に寄添い、躯に手を掛けると見えたが、家僕は忽ち気が付いた、併しこの僕は背骨を痛め、一人前の業ができぬようになった故、三五郎は一生扶持し置いた、三五郎はこの技に恐れて立合を思い止まり、この時より守次郎が弟子となった、この守次郎は小男で、平生の事には至って手ぬるき者であったという、彼は寛文、元禄頃の人である。 (武道極意)
加藤右計
明和の頃であったか、加藤右計という柔術の達人があった、或る時他の柔術家が仕合を所望して来た処が、右計がいうのに、
「それは無用なことだ、とても柔術での仕合は勝負をして一人死ぬより外はない」
と答えた、然るに相手方は是非是非といって退かないものだから右計も已むなく、
「さらば」
といって立合ったが彼の男、組みつくと直ぐ投げつけられたが、壁を打ち抜いてその身は外へ飛び出して即死してしまった、右計が云うには、
「要らざることである、是非是非というから立合ったもののこの態である、併し彼も達したものである、我が投げた時彼は当身をした故に拙者のあぱらをこの通り蹴破っている」
といって肌をぬいで人に見せたところ、その肋骨が一本折れていたということである。 (甲子夜話)
海我東蔵
秋月の藩士に、海我東蔵というやわらの達人があった、形は如何にも小さくて、見すぽらしいものであった、或時、この東蔵が用事あって田舎に行き、夜更けて帰り途森林の中を通ると一人の大男が躍り出でて立ち塞がり、
「金を渡せ」
と脅かしたので、東蔵はカラカラと打ち笑い、
「泥の中へ捨てる金はあっても貴様達に施す金はない」
といった処、右の男が、
「ほざいたりな此奴、金が無ければ貴様の命をよこせ」
といって東蔵の帯ぎわを取るより早く軽々と眼よりも高く差上げてしまった、差上げられながら東蔵はちっとも騒がず、
「この城下にありながら海我東蔵を知らないか」
といったので、大男の盗人はこれが有名なやわらの達人かと顛え上ってしまったが、さてどうすることも出来ない、そこで東蔵は、
「さあ、投げれば蹴るぞ、おろせば当身を食わすぞ」
といったので、投げることも卸すことも出来ない、とうとうそのまま東蔵を城下まで担いで行って芝生の上にそっと置いて後をも見ずして逃げ去ったということである。
また東蔵が家に予て出入をしている相撲取りがあったが、或時東蔵に向っていうには、
「旦那様がどんなにやわらの達人でござっても、若し不意に出て後ろから抱きすくめて了えぱどうすることも出来ないでしょう」
といった、東蔵がこれに答えて、
「柔術というものは、そんな浅はかなものではない、けれども、お前が若し、嘘だと思うならば論より証拠これから略々一カ月ぱかりの間拙者は夜な夜な出歩くによってどうでもお前のするようにして見ろ」
と云い聞かせて置いた、けれども相撲取りは、それから後、何の音沙汰もなかったからあれは一時の冗談だと思って、東蔵も気にかけないでいた。
処が或日東蔵が大変酒に酔っぱらって火鉢によりかかって、うとうとと居ねむりをしている処へ彼の相撲取りが不意に出て来て背後から力の限り抱き締めた、東蔵は少しも騒がず、
「今一しめ」
と、叫んだと見る間に相撲取りは二三間向うヘ投げ飛ばされていた。これには力自慢の相撲取りも閉口し、
「どうして斯うまで早くやれるものか」
と、訊ねた処が、東蔵が打ち笑いながら、
「どうしてというわけはないけれども、今一しめと言葉をかけた時、お前の手に少しゆるみが出来たから、そいつを利用したまでだ、すべて武芸の奥儀は斯ういうものだ」
と、語ったところが、相撲取りは、まだ残念でたまらないものがあったと見えて、
「では、こんどは正面から立派にお立合いを願いたい」
「それは容易いことだ、さあ来い」
と、東蔵が引受けたから、相撲取りは有らん限りの力をこめて東蔵の胸倉を押して来る、東蔵はまたまた声をかけて、
「今一押し」
と、叫ぶと相撲取りは勃然として、
「何の小癪」
とおしかくるのを、東蔵は得たりと真捨身に弾ねて五六間彼方へ、逆背打に投げ捨てたという。 (隈元実道著「武道教範」)
上泉権右衛門
上泉権右衛門は新陰流の宗師上泉伊勢守の実子であったが、新陰流の兵法はなかなか暁得すべきものでないと云って、父の伊勢守は自分の流儀は伝えずして林崎甚助の流れを汲む長野氏の弟子として居合を修練させたのであった。
そこで権右衛門は精心を砕いて居合を学び遂にその道の名人となり、後に諸国を修行して名古屋の柳生如雲(兵庫介)の許に来た。
名にし負う上泉伊勢守の実子ではあり、己が父祖の宗師たる人の正系であるから、如雲は、斜ならずもてなしどうかして尾張へ留めて置いて居合の指南をさせたいと思った。
そこで、先ず高田三之丞と仕合をさせた処が、初めの一本は三之丞が勝って権右衛門は抜くことが出来なかった、暫く工夫してまた立合ったが、二本目からは三之丞が勝つことが出来なくなっていう。
「扨々神妙なるお手の内でござります、私さえこの通り勝てる術が無くなって見ますると恐らく天下に勝つものはございますまい」
と、そこで、柳生一家の人をはじめ、国中その指南を受けるものが多く、間々免許を受けるものさえ出来た、その中で若林勝右衛門というものが最も傑出していた、この者にも門弟が多かった、藩主|光友へも指南した。
やがて隠居して是入と称し、無刀になってしまった、ある日小山了斎という隠居を訪ねたが了斎がいうのに、
「貴君は居合抜きでありながら、無刀なのは何故ですか」
是入曰く、
「いかにも拙者は居合抜きでござるが、もはや居合が役に立たないことを知った故に隠居をした、居合が用に立つほど達者ならば、まだ御奉公を仕るのである、されば用に立たざる両腰をたぱさんでも何にもならぬ、扇子一本こそ心安く候え」
と云ったのを了斎が聞いて感心し、
「さてく我等も誤まりました、今日よりお弟子になりましょう」
と云って、これも無刀になった。 (近松茂矩著「昔咄」)
深尾角馬
深尾(前姓河田)角馬は因州の人、池田日向の馬廻りで二百石の士であったが、井蛙流(せいありゆう)の祖である、井蛙流は新陰より起り丹石流を祖とし寛文天和の間に最も盛んであった。
その昔、戦国時代には武者修行の来訪に備うる為に剣術を業とする家々では、必ず特に「仕合太刀」という方法を工夫して置いて他流の人に知らせないように秘蔵しているのが習いであった、宮本武蔵の「小くらい」巌流の「おみなえし」と云ったようなものがこれである、角馬が学んだ丹石流にも「かまえ太刀」というのがあって、角馬はその「かまえ太刀」を以て如何なる天魔鬼神と雖も面を向けることが出来まいと云われるほどの荒い兵法を使っていた、然るに井蛙の一流を使い出してから、以前とは打って変って、やわらかにすらすらと向うへ行くばかりで、目ざましい事は一つも無かったという。
高弟の石川四方左衛門というものが或時角馬に向って、
「全く丹石流のかまえ太刀を使えば手の出されるものではござらぬ」
と云った、角馬はそれを聞いて、
「いかにも、名人のこしらえて置いたもので一利の無いというものは無いが、さりながら、これもあしらい様で、かまえ太刀の方から一寸も手の出せぬ仕方があるものだ」
と云って、その仕方をして見せた、また或時の話に、
「二刀というものは畢竟用に立たないものだが、初心のものは目ざましく持ちあつかいたがる、これにもあしらい様がある」
と云って、その仕方をして見せ「二刀くだき」と云った、また、
「すべて一つの業を用うることを他人に知らしめれば、それをさせぬ事を仕かける事が出来る、業を好む兵法には決定の勝というものは無いようである、こちらの仕方を向うにすっかり知られても、何の仕方も無いのが上手芸である」
と云った、角馬は何かの座興の時に、竹刀を掌の上に載せ、放下師のするように立て、
「誰でも宜しい、如何なる方法を以てしてもよいから拙者を打って見給え」
と云った、入り替り立ち替り、色々にして打って見たが、却って角馬が掌にのせた竹刀を向うへ倒しかけたのに打たれないものはなく、弟子一人として、この落ちかかる竹刀を留め得るものが無かった。
孫兵衛忠一
孫兵衛忠一は痩躯短身の小男であった、初めて水戸へ赴いた時、二十八九歳であった、誰も剣客として相手にしない、時に水府では井田喜太夫という者が天流の遣い人で弟子も多かった、門人の誰彼が斡旋で、この喜太夫と孫兵衛の仕合を井田の邸内ですることになった、忠一は一刀流の作法として用具は刃引の刀でなくしては応じ難いといった、井田は心得て数本を取出し自ら長いのを執った、これを見た忠一は心に北隻笑(ほくそえみ)して、はや必勝を期していた、庭内二間四方位の所で互に立向ったが、気合詰となってジリジリと寄って井田が後ろへ退ると、其処には塵坑があった、思わず片足をこれに落した所を附入って押えられた、残念とばかり今一度勝負を望んだので、忠一は唯々として今度は自分が塵坑を後ろに背負って立った、井田は主客の地位を更て存分働き、前の反対に追落そうとした所、却って我にもなく追廻されて最前の穴へ再び陥った、忠一は莞爾として笑って控えた、井田は立上がると一礼し、無言で居間へ赴くと天流の伝書巻物を忠一の目前に持って来て引裂いて捨て、実に子の術は神に入ったものである、今日より直ちに門下となって修業したいといった、並み居る門人も厭きれて師の非を俊むるに促され、尽く伊藤の門下に属した、これより一刀流水戸に流行して忠一の名遠近に振るったという事である。 (日本剣道史)
福島松江
福島松江(ふくしましようこう)は儒者である、巌村侯に仕えたが、若い時、射、術、御、槍等を学んで熟達し、特に拳法に秀でていたが、誰も学者とぱかり見て、武術の事を知る者が無かった、ある時、盗賊がその家に入ったが、松江はこれを捉えて路上へ抛りり出したので、盗賊は命からがら逃げ走ったが三日経つと死んでしまった、誰も武術の事を知る者も無いのに自分でもそれを云った事が無かった、明和元年没。 (先哲叢談)
(略)
吉田大蔵
加賀の吉田大蔵は、大阪陣の時左の指を半分射切られて栂指と人差指だけが満足であったけれども弓は尚妙手たることを失わなかった。
前田利常が、或日鷹狩に出たが、大事の鷹を歴緒(ヘお)がついたまま放して近所の森に入れてしまったが、鷹は木の枝に止まったけれども緒がもつれて逆さにぶらさがってしまった、利常がそれを見て、大蔵を呼んで、
「あの鷹を傷つけないように射取れ」
と、云った、大蔵は一応は辞退したが重ねて命令があったので、
「承り候」
と云って、「かりまた」を番い、鷹の真中を射たと見えたが、鷹はそのまま飛び去るのを後を追って捕えた、利常が感心して、
「どうして射た、名誉のことかな」
と聞かれたので、大蔵が答えて、
「木にまといついた歴緒は射ても解くことは出来ません、これによって、捷子(もおし)を射割りました、斯様の時は鷹の羽を嫌います、鷹の羽を傷めてはなりませぬ故に、軟かな羽で射ることが故実でございます」
といった。 (武将感状記)
寺沢半平
浅野但馬守長晟の弓頭、寺沢半平は寺沢志摩守広高の甥で千石の禄を受けていて、剣術の達人であった、或年、江戸の留守番に行った時、無事閑散の折には友達を集めて打ち合をして負けた者には負け業をさせ、饅頭や麺類などを御馳走して楽んでいた、相手には長い竹を持たせ、半平は扇で戦ったが、いつも勝って誰れに対しても危いことはなかった。
或る二刀使いが芸州広島に来てその術をもって仕官を求めたが、長晟は半平に云いつけてその術を試させた、そこで半平は右の二刀使いを自分の家に招いていろいろ話を聴いているうちに、二刀使いに向って斯ういうことを云い出した。
「お話を聴いていると、もはや貴殿の術を見るまでのことはない、当家へ仕えたいというお望みはお止めになった方がよろしい、御浪人のこと故永逗留は無益のことでござる故もう少し御滞在と申したいが、まず早くお立ち退きなさるがよろしかろう」
と、云った、そこで二刀使いはムッとして怒りを含みて、
「手筋も御覧なされないで、さ様に仰せられるのは心得難い、その儀ならば何卒して一わざお目にかけたいものでござる」
といった、丁度その時門弟が七八人稽古に来たのを見かけて半平が二刀使いに向い、
「一度だけでは心のこりであろうから二度お相手になってあげよう、少しも遠慮なく思う存分に打ち込みなさい」
と云った、が門人の方に向っては、
「さて、こちらはどうして勝とうか、諸君所望をして見るがよい、君達の望み通りに勝って見せよう」
といったが、門弟も急に何とも云いかねていたのを半平から催促されて、
「では、一度は手取り、一度はひしぎ打ちで勝っていただきたい」
「それは容易いこと」
と、いって立ち向うと、怒気紛々たる二刀使いが勢い込んで打ってかかる処を半平は入れ違いて手取りにし、横に投げ倒して、
「これはやわらじゃ」
といって大きに笑った、二刀使いいらだってまた立ち向い、左に持った短い木刀を手裏剣に打ち込んで来たのを半平は左手でもってそれを受け取って了い、右手の竹刀で相手を打つと長い木刀を取り落してしまった、二刀使いは赤面して逃ぐるが如く帰ってしまった。
半平の門弟らは最初から心中あぶなかしくて堪らないでいたが半平がその時いう。
「剣術が十分練熟する時は心と身が相和し、彼と我とがわかるようになると、刃を交えなくとも勝つことは出来るもので決してあぶないものではない」
といった。 (武将感状記)
伊庭総兵衛
池田三左衛門尉輝政の家来、伊庭総兵衛は弓の上手であった、輝政が三州吉田の城にいたが、この人は家康から姫を賜わってその婿に当る人だが、その姫の輿入れの時に諸士達が今切(いまぎれ)に出迎えたがその中で伊庭は弓を持って一行に加わっていた。
家康の方から来た輿副(こしぞえ)の人がそれを見て使いをもってこちらへ申込んで来たのには、
「人も多きうちに、ただ一人弓を持たせられたのは承り及びし伊庭殿にてござるか」
伊庭それを聞いて、
「おたずねの儀は何故でござりまする、如何にも拙者が伊庭でござりまする」
と、答えたところが、また使いを以て、
「然らばこの洲崎に羽白が一番(とつがい)浮いているようでござるが、願わくばあれへ一矢遊ばされとうござる、拝見をいたし度いものじゃ」
と、云われた、伊庭はそれを聞いてさも難儀の所望かな、所もあろうに徳川と池田と両家の諸士達の前で遠慮もあるべきことなのに、とは思ったけれども、
「心得て候」
といって、矢をつがえて進み寄るとその間三十間程になった時に羽白が漸く沖に出て遠ざかって行く、伊庭は弓に矢をつがえて、満を曳いてはいるけれども、余り久しくそのままで放すことをしないものだから、見るものこれはどうしたのかと気を揉んでいる処へ、忘るるばかりあって切って放した、矢がその雄の胴中を貫いて、その雌の尾を射切ったので両家の諸士達が一同に賞むる声海濤に響き渡った。
所望した人が、その矢と共に羽白を貰って取って帰ったが、あとで伊庭の友人が伊庭に向って尋ねて云うことには、
「あの時どうして気抜けのするほど久しく矢を放たなかったのか」
と、尋ねたところが、伊庭の返事には、
「同じことならば番(つが)いながら射て取ろうと思い、並ぶのを待っていたけれども遂に並ばなかった、それでも少し並ぶようになったのを機会に矢を放った為、番いながら射取らないで残念である」
と云った。
伊庭は鉄砲と競技をして矢も弾も十ずつにして小鳥を射るが、負けたことはない、結びたてた大巻藁に左の拳を差しつけ、強からぬ弓でこれを射るが、厚み一寸ぱかりの裏板も通してしまうということである。
放れの殊によい時は髪の元結いがその勢でハラリと切れることが度々あった、灰を掻きあげて土器(かわらけ)を立的として射ると矢が土器を貫いて、土器は割れないことも度々あったという。 (武将感状記)
平井八郎兵衛
寛久の頃、諸岡一羽派の神道流に平井八郎兵衛という達人があって、諸国を修業して歩いた、或時上州で仕合に打ち勝って帰るとき対手の弟子等が十余人、白刃を以て不意に襲いかかった、平井もこれに対して烈しく応戦し三四人を斬って落し、余人を追い散した、この際勇気余って路傍に立てる石地蔵を袈裟がけに斬倒したので、吾ながらその意気の満つる時は超人力の発現することを悟ったという、併し苛も人を殺したのであるから土地の領主へ自訴して出た所、領主は、なかなか味な裁判をやって、平井には擁(しない)或は木刀を持たせ、剣士の弟子を選んで真剣を執らせ、勝負の上、平井が免るるを得たならば命を助けて取らせようという事になった、そこで二十人の剣客を選んで平井と立合わせ、交る交る出て立ち向ったが、一人も平井に勝てるものがない、美事に二十余人を征服して立派に罪を贈った、別るるに臨んで平井はこういう事を言い残した。
「二三人一度にかかっても勝負は一人の時と同じである、諸士が一同に打懸ってもまた同じであるから、兵法の心得あるものは同時に打下すものではなく、若し同時に打下してこれをぬけらるると同士討をしてしまわねばならぬ理窟となる」
それから江戸に出て柳生家の門に入って修業を重ねたが、後常州の故郷へ立帰って鹿島神道流を称えたという。
和田平助
新田宮流を開いた水戸の和田兵助は性質狷介不遙、人を凌ぎその子にすら仮借することがなかった、息子の金五郎も却々の達人であるが、少しも油断をさせない、不意に暗い所で打ってかかったり、寝ている処を侵撃するのは毎回で、金五郎は一度も打たれたことはない、曾て長刀を振って蜻蛉の飛び廻るのを寸断したことがある、併しさすがに父の厳酷に堪え切れなかったか、父に先だって天和中に死んで了った。 (日本剣道史)
(『網迫HP』で公開されている未校正OCRデータを元に作成しました)
四(人の巻)
人の巻
(略)
島田虎之助
島田虎之助は、号を見山と云い、豊前中津の藩士であった、十三の時藩の師範に就いて一刀流を学んだが、十六歳の時には国内中その右に出ずるものが無かった、それから志を立てて九州を武者修行して歩いたのであるが、一旦帰郷してまた十九歳の時、以前負けた剣士を訪問して再仕合をして見たが手に立つものは一人も無かった。
そこで意気騰れる見山は天保九年江戸へ来ると諸方の道場を荒し廻って歩いた、男谷下総守はその時分本所の亀沢町の道場にいたが島田は無論そこへも訪ねて行って男谷に手合せをして貰ったのだが、男谷は島田を見ても矢張り普通の修行者門生同様にあっさり稽古をしただけであったが島田は心の裡に、何、江戸随一の男谷といった処で知れたものだと内心これを侮って出て来たが、それから下谷の車坂に井上伝兵衛の道場を訪ねて仕合を申込んだ。
井上は藤川派の当時第一人者である、島田例の意気傲然とこれに立合って見たがここですっかり田舎仕込と本場所鍛えとの格段が分ってしまった、忽ち井上の手練に打ち込まれて今までの慢心の鼻ッ端がへし折られた、ところで其処は流石に後年天下三剣士の一人と謂われる島田虎之助のことだから、翻然と井上の前に節を折って、
「恐れ入りました、どうぞ今日より拙者を御門下のうちに加えていただきたい」
それを聞くと、井上伝兵衛はニッコリと笑って、
「いや/\この江戸表には拙者の如き剣客は箕をもって計るほどござる、貴殿の太刀先を拝見すると、お若いのに似気なく将来抜群の見込み充分と拝見した、それには良き師匠をお選びなさらなければならぬ」
と云って諭した、島田がそれを押し返して、
「いや、拙者はこれまで至る処の道場を訪問いたしましたけれども未だ曾て先生ほどの名人に出会ったことはござりませぬ、江戸は広いと申しますけれども名前倒れの先生が多く、実力あるものは数えるばかりでございます」
と云った、それを聞くと井上は言葉を改めて、
「では、亀沢町の男谷先生をお訪ねしたか」
と尋ねると、島田は答えて、
「如何にも男谷先生をお訪ねしてお手合せを願いましたが、正直の処思ったほどではございませんでした」
と、島田が答えたのを聞いて、井上伝兵衛は微笑しながら、
「それは貴殿の腕がまだ不足で男谷先生の腕を見るだけに出来ていないからだ、拙者が一つ紹介の労をとるから、もう一遍訪ねて見るがよかろう」
と、そこで井上の紹介で再び男谷の道場を訪ねて見た、こんどは島田もその意気組みでガラリ変った機鋒をもって男谷に当って見ると驚いた。
先きに修行者としてやって来た時には男谷に対して易々と打を入れられたのが今度はジリジリと詰め寄せられる気合の霊妙な光りが我が眼を射て次第次第に手足も疎み、心魂が萎え、背にしていた道場のハメ板に吸い取られるようになり、油汗がたらたらと滲み出ずるばかり、われにもあらず平伏してしまった、それから男谷の門に入って遂に天下三剣士の一人と称せられるまでの達人となったのである。 (日本剣道史)
(略)
中村一心斎
富士浅間流剣術の祖、中村一心斎は七十余歳に及んで水戸藩へ仕合を申入れ、若いものを相手にしたが、悉く勝利を得た、中にも水戸で第一等の達者といわれた鵜殿力之助などとは始終勝負がつかなかったそうであるが、老年のこと故、いずれも三本限りの仕合ではあったが、何しても恐るべき精力であった。 (剣術名人法)
中村一心斎と海保帆平(かいほはんぺい)とが水戸公の前で仕合をしたことがある、一心斎という人はもと久留米の藩士で五千石の大身であったとのことだが、後感ずるところあって富士山中の岩窟に籠って修行し老年になって上総の木更津に庵を結んでいた仙人のような人、海保は上州安中の出、十八歳にして一躍五百石を以て水戸の指南役に召し出された大剛の者未だ仕合に不覚を取ったことがないという者である、水戸公は一心斎の武名を聞いてたっての希望で帆平と立合せることになったが、帆平は何程のことかあらんと大得意の逆上段に取って構えると中村は短剣を正眼に着けたままであるが、帆平はどうしても一心斎を打ち込みかねていると一心斎の大きな身体がツツと進んで海保が振りかぶった上段の下顎に触れるばかりのところへ這入ってしまったのに、流石の海保は刀を振り上げて立ったきり人形のようになってビクとも動かなかった、その刹那に一心斎の身体はまたツツと元の処へ帰ってしまった、それを見ていた水戸公が、
「それまで、勝負はあった」
と、云われたので、皆々呆気にとられてしまった、見物の侍共は物足りぬ面の不平たらたら、海保はどこを一本打たれたでもないのにこの審判に不平面で退いた。
やがて二人とも公の前へ召し出された処が、殿様が海保に向って云うのに、
「お前は今日の審判に不平の様子であるが、剣道の勝負というものは、眼に見える腕前の勝負を争うのが目的ではなく心の優劣を見るのが主でなければならぬ、今日の勝負を見ると、お前はもう立ち合いに於て倒されていたのだ、それにも気が附かず上段に振りかぶって寄らぱ打たんと身構えた、その太刀の下で往きつ戻りつ二つの動作を繰返されていながら一撃をも報ゆることが出来なかったのは心の争いに於て引けを取っているばかりでなく、業の争いに於ても敵を倒そうとして敵に倒されたのである、もっと修養しなけれぱ大勢の藩士の取立てはむずかしい」
と戒めて、それから中村一心斎に向っては今日の神妙な働きを賞め、高禄をもって召し抱えの沙汰があったけれども一心斎は固辞して受けなかったとのことである。 (山田次郎吉談)
高柳又四郎
中西子正(なかにしただまさ)の門人に高柳又四郎という人があった、この人は如何なる人と仕合をしても自分の竹刀を触らせるということがなく、二寸三寸と離れていて向うの出る頭起る頭を打ち或は突きを入れ、決してこの方へ寄せつけず、向うより一足出る処へこの方よりも一足進むことになるのだから丁度打ち間よくなり他流などには一度も負けたことがない、他の人とはちがってよく間合いを憶えている故にこの人の上に出でる者はない、けれども、突きなどは多く悪いとこ勝ちで同門が余りこの人と稽古することを好まなかった、また、如何ようなる初心者に向っても、わざと打たせるなどということは決してしない人であった、常の話にも、
「拙者は人の稽古になるようには剣術をしない、ただ自分の稽古になるように致すのだから、たとい初心者であろうとも、拙者はわざと打たせるようなことは致さぬ」
そういう癖であったが故に、自分の門人にもその通りな稽古の朕方(しつけかた)であった故、門人にも上達の者を一人も出さず、その身一代の剣術で終ったのは残念のことであった。
またこの人他流仕合などの節にも初めより終りまで一仕合のうちに一度も自分の竹刀に触らせぬことが度々あった、これを音無しの勝負などと同人は称えて居った、併しながらまず上手名人ともいうべき人であったには相違ない。 (剣術名人法)
斎藤弥九郎
幕末時代、江戸で剣道の三傑と称せられたのは、お玉ヶ池の北辰一刀流千葉周作、高橋蝸河岸(たかぱしあさりがし)の鏡心明智流の桃井春蔵及び九段坂上三番町の神道無念流斎藤弥九郎の各道場であって、各門弟三千人と称せられた。
斎藤弥九郎は越中国氷見郡仏生寺の農家に生れたのであるが、十五歳の時、僅かに銀一分を持って江戸へ上ったのであるが、数力月にして板橋へ出た時、懐ろには僅かに二朱しか余っていなかったが、その中から焼芋を求めて食い、郷里を出て以来はじめて温い物を口にしたということである。
それから岡田十松の門に入り、遂に師業を嗣ぐようになった。
斯くて剣道の大家となったが、水戸の藤田東湖、伊豆の江川太郎左衛門等と交り深く、水戸、長州をはじめ諸藩より知遇を受け、維新の業に直接間接貢献することが少くは無かった。 (斎藤弥九郎伝)
水戸の浪士に組みして、井伊大老を襲撃した一人、有村治左衛門は江戸にいる時分、よく好んで辻斬に出たものだが、薩摩人の辻斬の方法は、その頃剣法を心得たものも怖れたものであった、幕府の同心の或者が云うことには、
「剣道達者の者と盤も歩きながら人を斬ることは非常にむずかしいことで、不意に行く人を斬ろうとするには自分が先ず立ち止まって体を構えてから刀を抜かなければならないのだが、薩摩人は居合の一流で、歩きながら刀を抜き、すれ違いざまに行人を斬り放して置き、忽ち刀を収めて悠々と歩み去る故、斬られたものが殆んど避ける隙もない、それに普通の人は如何に勇気ある人でも一度び人を斬れば眼面に不穏の色が表れるものだから、物馴れた同心や岡ッ引達は一目見れぱ怪しいと思うけれども、薩摩人は毎度辻斬に馴れて胆が据っているせいか更に顔色にも表れない、吾々も役目によって辻斬のあとを験べに行きその附近に薩摩武士がいると確かにこの人が斬ったに相違ないと思いながら余り平気な面をしているので、此方が心おくれ或は証拠があっても相手が命知らずの無法者だから捕り方の方で危きに近寄らない伝でみすみす見遁すことも多かった」
と、こんな時代であったから、辻斬は愈々流行し、殊に幕人を斬ることを名誉とするような風があって、幕府のお目付田村幾之進というのが供を二人召し連れたにも拘らず柳原で辻斬の為に主従三人とも斬り殺されたようなことがある。
有村はこの例によって或夜九段坂の上の人通り淋しい処で待っていると、最初に来たのは血気旺んな武士であったが、何か寄合いにでも出かける処か一升徳利を下げて肩をそびやかして通ったが、治左衛門これを見て手練の届合で抜き打ちに払ったところカチリと音がして一升徳利が二つに割れ、酒が地上へ流れ出す、その時早く武士は抜き合せて戦うかと思いの外一目散に逃げて行ってしまったので、治左衛門は笑止がり徳利の辻斬に来たのではない、もう少し骨のある奴が出て来いと物陰に潜んで待っている処へ、年の頃五十余りの老人らしいのが腰に一刀を帯び、小声に謡をうたいながら歩んで来る。
「此奴一癖ありそうな人物だ」
と有村は後ろから歩み寄って自慢の抜き打ちに斬りつけたが何の手ごたえもないのだ、これはと間の抜けた途端、早くも利き腕を取られて夢のようにその人物にねじ伏せられてしまった、治左衛門は大いに驚いて跳ね返そうと焦ったけれども急所をおさえられて動Kことさえ出来ない、こいつは逆にこちらが首でも取られるのかと観念していたが、上に乗っていた老人がカラ/\と笑い出し、
「貴様は却々居合が上手だな、その代り剣は余程下手だ、抜き打ちに斬りかけた一刀は少しばかり冴えていたが、あとはまるでデクの坊だ、そんな腕前で人が斬れるものか、第一罪もない人を辻斬にして楽しむというのが不心得千万……察するところ貴様は薩摩の武士だろう、薩摩人が近頃大分辻斬をいたすという評判だがけしからんことだ、貴様の命は助けてやるから仲間の者にそう云って、以来は必ず辻斬を止めさせろ、若し止めなければこの親爺が出かけて行って一々首をちょん斬るからそう思え」
と、厳しく叱りつけた、治左衛門たまらないけれども薩摩と云われたのでは藩の名にかかわると思って、
「否、拙者は薩摩人ではない、薩摩の藩士ではないから仲間の者にどうのこうのということは出来ぬ、斯うなった以上は斬るともどうとも勝手にせよ」
と減らず口を叩いた、老人はその剛情を心憎く思い、
「よし/\、剛情をいうなら一つ攻めてやる、これでもかこれでもか」
と急所を締め上げたので治左衛門は骨身が砕け散るほどの苦しみであるけれども愈々剛情を張って死んでも白状しない根性が見えたので老人も遂に攻めあぐみ、
「なかなか剛情の奴だ、だがその剛情に頼もしい処があるから助けて置いてやるぞ」
といってそのまま立ち上って再び小謡をうたって悠々と歩み去った。
あとで治左衛門は痛みと苦しみをこらえて起き上ったが、この老人の態度に感心して果して何人であろうかとその後をついて行って見ると、老人は当時飯田町に道場を開いていた江戸一流の剣士斎藤弥九郎であった、そこで、治左衛門は成るほどと感心し、その後斎藤の門に入って剣法を学び、後には有数の達人となって自ら道場を開くに至った。 (西郷隆盛一代記)
斎藤新太郎
斎藤弥九郎の長男新太郎(後、弥九郎の名を継ぎ、父は篤信斎と号す)が門人数人を引きつれ諸国修行中、長州萩の城下に乗込んだ時、宿について、主人が挨拶に来た故に、自分が武者修行者であることを告げて、それからこの地の武芸に就いてたずねると、主人が云う、
「当地はなかなか武芸が盛んでございまして、藩では明倫館という道場が新しく立派に出来、すぐれた剣客が雲の如くに集っておいででございます、今現にあの通り遠く聞えている竹刀の音は、即ち明倫館の稽古の音でございます」
それを聞くと、新太郎の一行は大いに喜び、
「それは楽しみである、明日は推参して是非仕合を願うと致そう、定めて達人も多いことでござろう」
となおいろいろ話して寝に就いた。
翌朝明倫館へ出かけて行って、仕合を試み、また宿へ帰って入浴し、晩酌を傾けている処へ、宿の主人がまたやって来た。
「いかがでございました、今日の御仕合は」
とたずねると、一杯機嫌で一行の者が、
「いやもう、いかにも新築の明倫館は立派なものだ、剣術をやる人は雲のように群がってはいるが、本当の剣士というのは一人も無い、丁度、黄金の鳥籠に雀を飼っているようなものだ」
と云い立てたものだから、その事が藩士の耳に入ると激昂甚だしく、よし、然らば長州武士の真の腕前を見せてやろうというわけで、新太郎の旅宿を襲撃しようとする、老士等はこれを鎮撫しようとしたけれども及ばない、あわや血の雨が降ろうという間際に、老士等は先走りして、新太郎の一行に急を告げ、ともかく急いでこの地を出立してしまった方がいいと云われて、一行はその夜中に出発して九州に渡り漸く事無きを得た。 (斎藤弥九郎伝)
斎藤歓之助
併し、右の始末だけでは何分にも長州藩士の胸が納まらなかった、血気の青年等は相談して、新太郎一行が九州に赴いての留守中急に江戸へ押しかけて行って、斎藤の練兵館道場を襲い、猛烈に叩きつぶして腹癒せをしようと、十数人一団となって江戸に上って行ったのである、木島又兵衛、祖式松助等の豪傑が先立ちであった。
そこで、この一団が数多の竹刀と小手道具を釣台に満載して練兵館にかつぎ込み、気色すさまじく仕合を申込んだ。
当時、練兵館の留守をあずかっていたのは、新太郎の弟歓之助であった、歓之助時に年正に十七歳、剛勇無双にして人呼んで鬼歓と云った、「お突き」を以て最も得意としていたが、遠来の長州藩士悉くこの鬼歓の為に突き伏せられ、数日間、食物が咽喉を通らないで寝込んでしまったものがある、遠征の目的全く破れ、敗軍の士は、すごすごと竹刀をかついで長州へ帰って行った。
併し、ここに於て斎藤一族の真の手並みがわかったと共に、長州藩士も大いに雅量を発揮し九州の帰途を礼を以て新太郎を萩に迎えて師範とするに至った。 (斎藤弥九郎伝)
斎藤歓之助はまた肥前の大村で剣法を教えたが、大村の藩中に大兵肥満で力の勝れた某という剣客があったが、この男は他人と仕合をする時に、いきなり体当りを試みて、自分の体重の重いのと力の強さで相手を倒してしまうことが得意で、また事実この男の体当りにかかると如何なる剣客でもあおり倒されないことはなかったが、この男が斎藤歓之助と大村の領主の前で仕合を所望し、そうして立ち合いざまに得意の体当りをくれた処歓之助は却って自分の術をもってオーとそれをはね返したところが大兵肥満の大男がものの見事にうしろへ倒れてしまった、それより歓之助の名は愈々九州に轟いたが、惜しいことにその遺恨で遂に闇討ちに会ってしまった。 (西郷隆盛一代記)
千葉栄次郎
山岡鉄舟が若い時分、千葉栄次郎に数年学んだことがある、栄次郎は有名なる周作の伜で当時出藍の誉れを得た人である。
鉄舟、その時分鬼鉄といわれた血気盛んの時分であったが、或日悪戯心から一つ栄次郎先生を苦しめて見ようと門下の荒武者数人を語らい、
「今日は一つ根限り精限り入り代り立ち代り先生にぶっつかってやれ、如何に千葉の小天狗とはいいながら吾々剛の者が数名その心持で全力を尽して立ち向う以上はかなりへこたれるだろう、その最後を見計って拙者が飛び出して火の出るほど打ちかかるから」
斯ういう約束をして、その約束通り剛の者数人が死力を尽して栄次郎に立ち向い、最後に殿りとして鉄太郎が向って行ったが、却って鬼鉄の方が綿の如く疲れさせられてしまって引き退くのやむを得ざるに至った、ところが、尚剛情我慢の者があって、鬼鉄が疲れて退くその後へ隙間もなく栄次郎に向って打ってかかったが栄次郎はその時左右を顧みて、
「誰れか竹刀の代りを持って来てくれ」
と云った、鬼鉄と戦っていた時分にこの栄次郎先生の竹刀は橘の真中から折れていたのだ、それでも折れた竹刀を持っているとは誰にも気のつかないほど平気でこちらをあしらっていたのでその腕前の秀れたところ人をして舌を捲かせたのである。 (木下寿徳著「剣法至極評伝」)
剣術中足がらをかけることに於て千葉栄次郎は殊に優れ、或門人が入塾八力年ばかりの間に、他流と手合せの間この業で相手を気絶せしめたことが十四五度に及んだのを見たということである。
この栄次郎が或る流儀の師家、天野某というものと仕合をしたが、天野はこの足がらにかかって忽ち気絶した、冷水を頻りに面へかけたけれども容易に回復しない、そこでかたえの人が柔術活法「さそいの法」を施した処、忽ち蘇生したが、この天野氏は蘇生するや少しもひるまず、竹刀を携げ、また暫く栄次郎と仕合をした、見物の者がその豪傑振りを感賞せざるはなかったが、これは必ずしもその人の剛なるという意味のみではなく蘇生者は蘇るや否や元気が回復して以前に少しも変らないようになるのが通常なのである。 (剣術名人法)
山岡静山
山岡静山は江戸幕府の旗本であった、幼時より各方面の武術を研究していたが、年十九の時から悟るところがあって専ら槍術に心を傾け二十二歳の頃には府内に於て及ぶものがなかった、その頃、筑後柳川の人で南里紀介(なんりきすけ)は槍を以て海内無双と称せられていたが、江戸に来ている時分に、静山を訪ねて何かとその道の話をしたが、将に帰国しようとする時静山に請うて仕合をし互に槍を闘わしたが、その光景は実に壮烈の極みで、朝の八時からはじまって午後の四時まで互に秘術を尽し心魂を極めて立ち合ったが勝負は決せず引分けとなった、あとで互に槍を見ると穂先は砕けて一寸余り欠けていた。
静山は幕府の旗本が徒に惰弱に陥るを慷慨して古武士の風を慕い、厳冬寒夜に荒縄を以て腹を締り、氷を割って頭から水ごりを取った後東北に向って日光廟を拝礼黙薦し、午前二時から道場に入って重さ十五斤の槍をふるって突きの猛練習をすること一千回、これが三十夜続くことは毎年であった、槍術に於て一家をなして後も昼は門人に教授し、夜は独り道場に出て突きを試むること或は三千回或は五千回、或は夕方から翌朝の鳥の帰くまで三万回に及んだことがあって、病気の時も猛練習をすると治ったということである。
静山は重い脚気に罹っていた時分、丁度自分の水練の師が仲間の者からその術を|嫉妬されて隅田川で謀殺されると聞き、これを助けに行って水泳中に衝心を起して死んでしまった、時は安政二年六月のことで享年二十七歳であった。
浅利又七郎
浅利又七郎義明は若州小浜藩の剣道の師範であった、この人は中西忠兵衛子正(奥平家の剣法師範小野派一刀流の家元)の二男であって、往いて浅利家を継いだ人である、又七郎の仕合振りは隙があって打つべき処をも打たず、或は突くべきところをも突かないで、
「こちらが勝ちました」
というのを常としていた、相手がもしその言葉を聞かない時は、ここに初めて猶予なく直ちにその極を差し、または打つことを例とした、未熟なる修業者はその言葉に従わないものが多く、それが為に改めて大敗を蒙ってはじめて浅利又七郎の達人であることに驚くのが常であった、ただ、当時有名なる剣客、中条潜蔵(幕末に精鋭隊なるものを組織してその隊長となり、慶喜公、久能山等を擁護した人である)この人が浅利又七郎と仕合する時は、突かれもせず、打たれもせずに、「まいった」と自然的に声を発することがあったという、いずれも機を知るものの剣法である、表小手は隙さえあれば何びとにも打てる処であるが、上げ小手の裏を打ったものは古来殆んど無いといってもよろしく、木下寿徳氏(前帝国大学剣道師範)の如きは、四十余年間にただ一人見ただけであるが、それが即ち浅利又七郎であったと自著「剣道至極評伝」に書いてある。
山岡高歩
山岡高歩(鉄舟)は九ツの時から剣法を学び、初めは久須美閑適斎(くすみかんてきさい)に従って真影流、後井上清虎に就いて北辰一刀流、最後に浅利義明の門に入って一刀流の奥義を極めたのであるが、その頃豊前中津の剣道師範中西家と若州小浜の剣道師範浅利家とで、毎年春秋二季に終日稽古をする慣例があった、天下の我はと思う各藩の剣士、その来り集るものは大低三四百人で、当日は午前五時から午後四時まで仕合が継続せられた、その時大方の者は一仕合毎に面を脱いで一休みしていた、鉄舟もこの終日稽古には必ず出席していた、そして他の大家とは違い、最初に面を被ったらその儘右の三四百人の大家を片端から相手にする例であったので、
「鬼鉄の剣術は飯よりも好きだから叶わない」
と評判されていた、鉄舟が後年の誓願の方法は、この終日稽古から案出したのであった、二十四の時一週間立ち切り千四百回の仕合をしたが更に疲労衰弱を覚えなかったとの事である、世間からはこうして畏擢せられていたけれども、鉄舟は尚心中に嫌々たるものがあるのを憾とし天下無敵の良師を求めて砕励しようと心掛けた。
二十八歳の時に、はじめて浅利又七郎にぶっつかったのである、浅利に会って、はじめて山岡は衷心から恐入ってしまい、これに就いて粉骨砕身の稽古をしたが、夜もろくろく眠らぬので昼道場に出てもうたた寝をすることが度々あった、又七郎この態を見て変った男だと竹刀を取って突然打ち込んで見ると、今まで身動きもせず寝入っていた鉄舟は忽ち身を翻し竹刀を振って立ち向った、又七郎は非常に喜んで特に念を入れて稽古したが、鉄舟勢いこんで立ち向いはするが咽喉に附く又七郎の剣をどうすることも出来なかった。
又七郎の立合は「突き」と云ってきっ先きを敵の咽喉にぴたりと向け、そのまま蛇が蛙を睨んだように如何に相手がもがいても右へかわすと右へ従い、左に避けると左に伴うて丁度咽喉にくっついた様に、敵がまいったと云わぬ以上いつまでもこの形を保って遂には本当に咽喉を突いた、鉄舟がどんなに打っても突いても盤石に当ってハネ返されるようであった、鉄舟はそこに足らざるものあることをつくづく感じた。
そうして、明けても暮れても浅利又七郎の姿が眼先きにちらついてどうにもならなかった。
そこで、苦心惨濾の末、伊豆の竜沢寺の星定禅師に参禅した、江戸から竜沢寺までは三十余里ある間を早暁馬に乗って通ったものである、或は相国寺の独園和尚にも参禅し、或は由利滴水和尚に公案を受くる等、あらゆる苦心を重ねたがまだどうしても浅利の姿が目先きにちらついて容易にその幻影を取り去ることが出来なかった、然るに明治十三年三月三十日の暁に至って船然として悟るところがあって、そこで剣をとって浅利を相手に仕合をする型をやって見たが、今は更に浅利の幻影が見えない、鉄舟は歓喜に堪えず、
「あゝ、今こそ無敵の極所に達した」
と叫んだがこれは鉄舟まさに四十五歳の時、剣を学びはじめてより三十七年のことであった。
その日直ちに鉄舟は高弟籠手田安定(こてだやすさだ)を招いて仕合をして見たが、その時鉄舟がまだ打ち出さないのに、安定は大声を挙げて、
「先生まいりました」
と叫んだ、鉄舟は刀をひいて、
「どうしたのだ」
安定が答えて云う。
「先生に御指南を受けていること長日月でありますが未だ曾て今日のような刀勢の不思議を見たことはありません、到底先生の面前に立つことが出来ません、全く人間業とは思われません」
と云った、そこで鉄舟はまた改めて浅利又七郎を招いて仕合を願った、義明は喜んでこれを承諾し、両雄互に立合ったが、その時鉄舟の威勢に義明は突然刀を拠って容を改め、
「君の業は至る処に至り得た、我等及ぶところでない」
と云って、この日一刀流の無想剣極意を悉く鉄舟に伝えた、鉄舟は尚それに安んずることなく、愈々精究して、終に無刀流の一派を開いたのであるが、この三月三十日が発明の日であるからこの日を記念日稽古はじめとした。 (山岡鉄舟の生涯)
山岡鉄舟の無刀流の道場即ち春風館へ明治十七年の頃、伊藤一刀斎九世の孫という小野業雄が上総から来て家伝の剣法を演じて見せた、鉄舟がこれを見ていうに、
「近世伝うる処のものは多く技を衡うの嫌いがある、思うにこれは御前仕合等に於いて使い崩したものであろう、今小野家の法というのを見るに断じてこの風が無い、これぞ即ち一刀斎の正伝である」
そこで小野氏を春風館に止めて己れに代って門人を教授せしめた、その時小野氏は、一刀正伝の秘奥と家に伝わった瓶割の刀とを鉄舟に伝えたそうだがその秘奥は殆んど鉄舟が発明したところの無刀流と符合していたということである。 (佐倉孫三編「山岡鉄舟伝」)
山岡鉄舟が壮年の頃或夜友人と芝の山内を通りかかった時に、向うから一個の壮士が長い刀を帯び、高下駄をはいて肩で風を切って来るのを見た、そこで鉄舟は友人に向って云う。
「君、あれをどう思う」
友人もまた、可なりの強がりと見えて、
「あれは見た処はなかなか豪傑らしいけれども内心は弱虫だろう、今一つ僕が試してその荒肝をひしいでやろう」
と、よせばよいのに刀を抜いてその前に迫って行った、先方も驚きながら刀を抜いてこれに応じたが、そうして睨み合っているばかりでいつまで経っても一向打ち込む容子はないので鉄舟は余りのことにこれを怪しんで近寄って、それをよくよく見ると両人の顔はさながら青鬼のようで互に二間余りも離れて凝り固まって動かない有様である、鉄舟は、兎も角相方共に怪我のないのを喜んで急に手を以て相方の刀を叩いて見たところが一方はカラリと地に落ち一方は凍りついたと同様になって動かない、よって鉄舟は大声に、
「つまらぬ喧嘩はやめろ」
といった処がはじめて両人は夢の醒めたようであったという。
鉄舟が後日この事を話して人間というものは平生は豪傑のように見えても死生の際に臨めば案外なものだ、深く鍛錬の功を積まねばなんにもならないものだといったという。 (山岡鉄舟伝)
中条金之助
中条金之助は旗本で有名な剣士であって、門地も年配も、鉄舟の上で、剣術もまた鉄舟より秀でていたが、維新後は駿州金谷原に退隠して開墾事業を始めたが、清貧を守り仕官せず自ら原野に出でて耕作をしている時も矢張り短い袴をはいて鋤鍬を取り威儀を整えていた、近郷の民が尊敬して金原の先生といった、鉄舟が無刀流の剣法を開いたことを聞いて上京して仕合をして見たが忽ち気絶するばかりに打たれたので、その無法を憤って箱根まで帰ったが忽ち非を悟って引返し、推服したということだ、その後も時々東京の山岡道場へ遊びに見えていたが、まだ結髪でいたという、或時云う事には、
「余は少年時代から山岡と一緒に千葉、斎藤、桃ノ井等の諸大家の門に遊んだけれどもその頃までは鉄舟の腕は余の腕よりも数等下る位であったが、今や鉄舟の剣はその妙所に至り、前諸大家と壁も未だ窺わざる処を得ている、余の如きは殆んど三舎を避けざるを得ないのである、これはその天性にもよるが全く禅理の妙よりここに至ったものであろう」と。 (山岡鉄舟伝)
後に福井県の知事等を勤めた香川輝が青年時代に山岡鉄舟の道場に行き、鉄舟に稽古を乞うた、その時道場を修築中であったが、香川は、他の門人達と共に砂を敷いた庭へ行って鉄舟に面会をしたが、鉄舟は粛とし動かず、欄々たる眼光射るが如く、香川の眼には神人が面前に現われたるが如く、如何とも仕様がなかったけれどもそのまま帰るべきでもないから勇気を励まして手強くかかって見たが、最後にその雷窪(らいてい)の「突き」に当って真逆様に倒され、殆んど絶息したような気持になった。
香川氏はその帰途思うのに、
「自分は何も剣を持って世に立とうと志して来たわけではない、だからあんな風に命がけでの稽古はこれからやめることにしよう」
と思ったが、翌日になるとまた勇気が回復し再び鉄舟の稽古を受けに行ったが、この日また霹靂の突きに会い後ろに絶倒し、その苦痛前日同様であった。
その日の帰途もまた、昨日同様剣術をやめようかと思ったがまた翌日になって勇気が回復すると三度鉄舟の門を叩き、前の如く打向い激しく突き倒されたこと前日の如くであったから、その晩もうこんどこそはこれ限り剣道をやめようと思い定めて見て、さてまた翌日になると思い返し四度鉄舟の道場に見えたがこの日の鉄舟の教え振りは誠に穏やかで前日とは打って変った別法の感がある、そこでその以後毎日通って勉強をしたが、その後は少しも前の日のような猛烈の態度を曾て見たことがなかった。 (香川著「剣道極意」)
山岡鉄舟の弟子に加賀の藩士で木村という人があったが、この男は居敷の際、相手が他所見をするとかまたはこちらの面を見ないで下を向いて礼をするような時は必ず相手の刀を打ったのでそれが無礼だといって仕合をしない先から喧嘩口論になったことも度々であった、鉄舟がその事を聞くと却って木村の挙動を|賞《ほ》めていうには、
「礼儀も度を過すと却って非礼となるものだ、今勝負を決めようとする場合に他所見をするなどとは以てのほかの事だ」
と云って却って打たれた門弟を戒しめたとのことである。 (剣法至極評伝)
宇野金太郎
宇野金太郎は矢張り近世剣術の名人でその名関西に鳴っていたが、最初の時は明俵に砂石を満しこれを木の下に釣り下げて振り動かし、自分の身体に突き当てて修業していたという事である。
金太郎は紙撚で丸行燈を突くと、行燈の紙を突き破ったが、燈は少しも動かさせなかった、その紙撚一本だけに全力を集中することが出来たのである。
宇野はまた立木に向って打撃を試み、または椋の実を天井から釣下げ、これを刀の錐ッ先きで穿き当てることを独習し、またいつも銃身を携えてそれを揮うのを常としていた。
金太郎は相手の小手に一撃を加えて相手が若し「軽い」とでも云おうものならその声のまだ終らないうちに忽ち第二の小手打が来て相手は数日間腕が腫れふくれて痛みが止まらなかったということである。
金太郎はまた箸を持って蝿を捕うるに妙を得て眼に触るるところ一匹も逃がすことではなかった。
金太郎が竹刀を振るって敵に向う時には、「面」「突」「小手」と打突を入れるに先立って言葉をかけたが、それを防ぎ得るものはなかった。金太郎が短い木刀を取って同時に五人の剣士(いずれも今日の精練証以上)当り、敵の打つ太刀を一回も自分の身に触れしめなかった。
金太郎が曾て髭を剃っていた処へ出入りの魚屋が板台を担いで来た、魚屋が云うのに、
「先生がそうして髪を剃っておいでなさる処をこの天秤棒で打ってかかったらどうなさる」
と、金太郎曰く、
「いいとも、打ち込んで来い」
魚屋、合点だとて天秤棒で無二無三に打ち込んで来た、金太郎ひらりと体をかわしたがやっぱり平気で髭を刺っている、魚屋が仕損じたりと第二撃を加えたところ、金太郎ひらりと身をかわすこと元の如く、不相変髭を剃っている、魚屋が焦って三度撃ってかかると、その体は忽ち庭石の上に放っぽり出されてしまった、併し金太郎は前の通り一向姿勢を崩さずに髭を剃っていたという。
金太郎は常に走る鼠を一打で打ち殺したが鼠が走っている刹那、無心で木刀を鼠の頭の上に下すのである。 (剣道極意)
近藤弥之助
近藤弥之助は講武所の師範で幕末有数の剣客であり、浜町に住んで門弟数百人を取り立てていたから、この人を立たせれば有力な一方の決死隊が出来るというわけで、彰義隊は勧誘を試みたけれども、この人は慶喜恭順の意を体して容易に動かなかった、そこで彰義隊はこれを遺恨に思って彰義隊の戦後、落武者二十余人が抜き連れてその家に乱入し、
「われ等は奥州へ落ち行く、行きがけの駄賃に貴殿の首を貰って行くのだ」
と云った。
その時、近藤の家には主人の他に内弟子が二人いただけであったが、師弟三人刀を抜いて二十余人を防いだ、内弟子の一人は殺されもう一人は重傷を負わされたけれども、流石に近藤は多勢を相手にして一カ所の疵も受けず右に隠れ左に現われ、敵四五人を斬り倒したので皆々退散してしまった、この人は明治の中頃迄生きていたが、或時府下を荒した有名な強盗がこの人の家に入り込み主人の為に真二つに斬られたことがある、当時点検した警官もその腕前に驚歎したということである。 (西郷隆盛一代記)
榊原健吉
榊原健吉は男谷の高弟であるが、講武所の師範役中でも一段水際立っていて、将軍からも寵用された、将軍のお好みによって当時槍術師範の高橋伊勢守と仕合した時、例の得意の大上段に振り被って胸部を敵に与えて、而も繰出す鋭鋒を左右にかわし、附入って見事対手の面を打ちたる妙技などは将軍の感賞斜めならず、並居る人々もその非凡に驚かぬものはなかった、また京都滞在中に、二条城中の庭園で新たに召抱えとなった真陰流の天野将曹と立合った時なども上段に構えて竜尾の剣の働き鋭く、後の先に敵の面を打ったが、将曹も御前仕合といい、新参の首尾に不覚を取っては末代の恥辱という、我慢の意気張に決して参ったの一言を吐かなかった、健吉さらばと手段をかえて勢い猛に諸手突きを喰わしたので飛びかえって顛倒して了った、満座の人々の賞讃はもとより、将軍の御感は|一入《ひとしお》深かったという。 (日本剣道史)
某僧と少年
幕末の頃山岡鉄舟、高橋泥舟、中条志岳等の剣客が皆々剣道の奥義は禅学にあるといって或名僧を聘してその教えを聞いていたが余りに禅に凝ってしまって遂には剣道の方をおろそかにするように見えたから門人が大いに不平を云いたてて諌言を申入れた、ところが先生達、君達の知ったことではないと云って取り上げないものだから愈々憤慨して、これというのもあの坊主があるものだから、あの講釈にわれわれの先生達が迷わされているのだ、彼奴を殺してしまおうではないかということに相談を決めていた。
或時、高橋泥舟の宅で例の通り仏教講話があるということを聞いて、今日こそと一同相談の上松岡某というのを坊主襲撃の役目に選んで時間を計って途中で僧の来るのを待ち合わさせた。
ところが、その日の講話が終った時右の僧がいうのに、
「どうも今日は何だか気分が変だ、自分の身に何か間違いが起りそうだ」
と云って頻りに首をかしげて考えていた、剣道の諸先生方、
「成るほどさ様な気分が起った時にはどうかすると間違いがあり勝だから不自由ながらここへ一泊なされては如何」
といって引止めたけれども、僧はそれほどにも及ぶまいとあって帰ることにした。
「然らば誰れぞ気の利いたお伴を一人つけてあげましょう」
と云ったが、僧はどこまでもそれを断ったけれども断りきれないで遂に十六歳になった高橋の内弟子を僧のお伴につけてやることになった、その時に右の少年に云い含めることには、
「途中たといどんな変事が起ろうとも決して武士の本分を忘れては相成らんぞ」
そうして二人が出かけると待ち構えていた例の松岡が、いきなり飛び出して一刀のもとに僧を斬り伏せてしまった、余りの急に内弟子の少年は一時は気も顛倒したが忽ち一刀を抜いて斬り込んだ暴徒に応戦した、少年も松岡も本来見識り同士のことだから、松岡は大きな声を挙げて、
「おれだよおれだよ、よせよよせよ」
と叫んだけれども更に聞き容れられない、まっしぐらに進んで来る少年をあしらっているうちに片腕を斬り落され、それと同時に肩先き深く斬り込まれ、撞とうしろへ倒れた、少年は刀をさげたまま高橋邸へ戻り、
「斬った斬った」
といって泣き騒いだという。
僧を殺そうとして企んだ門人達の方では松岡の帰りが余り遅いので、その場へ行って見ると松岡は右の如く重傷を負うていた、息も絶え絶えに始末を語ったが、その深手の為に遂に死んでし (木下寿徳著「剣法至極評伝」)
松崎浪四郎
斎藤歓之助が武者修業の時、九州久留米の松崎浪四郎を訪うて仕合を申込んだ、留米は聞えたる武術の地であり松崎は九州一と称せられていた、こちらは名にし負う斎藤の鬼歓である、この両人の立合は実に目ざましいものであったが、歓之助は竹刀を上段に構え、浪四郎は正眼に構えた、歓之助が電光石火の如く浪四郎の頭上目がけて打込むのを、浪四郎はやや体を反らして防ぐ処を隙さず歓之助が得意の体当りを試みたが浪四郎もこれには堪えきれず、よろよろとよろめく処を歓之助が、またも打下さんとした太刀先に、あわや松崎は危しと見えたが、彼もさる者、倒れながら横薙ぎに歓之助の胴を打って、
「命は此方に」
と叫んだ瞬間の働きは見事であった。
歓之助が浪四郎の為に敗れたことを聞いて、後進の吉村豊次という男が、その復讐のつもりで、或時松崎を訪うて仕合を申込んだがこの吉村はなかなか豪胆の男であったが、正直に仕合をしていては、とても松崎の敵でないから、ワザと奇略を以て勝とうと思って、竹刀を交えるや否や、吉村は、故意に浪四郎の拳を目がけて打込んで、
「お小手」
と叫んで、竹刀を引いた、浪四郎は笑いながら、
「お小手ではない、拳だ」
と云うのを、吉村は知らぬ顔で、道場の隅々を歩き廻っているので、
「どうしたのです」
とたずねると、吉村が、
「只今、打ち落した貴殿の拳を尋ねているのでござる」
と云ったので、それを聞いた松崎は烈火の如く怒って、
「憎くき三言」
と云いながら、太刀を使い出したが、心頭にのぽる怒気の為に太刀先が狂い、思うように使えない処を、吉村の方は思う壼と勇気百倍して、散々に打ち込み、
「これでも九州一か」
と叫びながら勝を取ったとの事である。
明治の初年伊藤博文の邸に於て武道を天覧に供したことがあるが、その時この久留米の松崎浪四郎と、佐倉の逸見荘助両人の立合いがあった、その時、互に間合を取って対時すること凡そ三十分であったが、遂に逸見から色を見せその色に乗じてかかろうと企てたのを松崎浪四郎が色を見せたその刹那の機に乗じ逸見の小手を取って勝ったのは古今無類の間合ともいうべき見ものであったそうな。
上田馬之助
上田馬之助は桃井春蔵の高弟であって、維新当時の名人であったが、その頃は矢張り武者修行が流行し江戸の剣客も九州を修行に廻ることが多かった、そうして薩州の鹿児島に来て見たが流石に江戸仕込の名剣客、薩摩には手にたつものが無かった。
ところが日向の国に天自然の剣客に吉田某というものがあった、われこそ上田馬之助を打ち込みくれんと鹿児島へやって来て上田に仕合を申込んだ、上田は快く承諾して翌日城下鍛冶屋町の某藩士の庭上で仕合うことを約束した、当時薩摩の剣術は道場というものがなくて荒っぽい修行をしたものである。
上田と吉田之の仕合のことが忽ち城下の評判となると、後の隆盛西郷吉之助、後の桐野利秋、中村半次郎、有村治左衛門も見物に来たそうである、その他見物山の如く押しかけていた。
やがて相方庭に出ていざ仕合の用意となると馬之助は面小手と胴とをつけ竹刀を拷えて出て来たけれども、吉田は素面素小手でただ太い竹刀を携えたのみであった、それを見ると馬之助が吉田に向って、
「貴殿はどうしてお道具をつけられないのですか、お道具がなければ立合いは出来ません」
といったところが、吉田は豪然として、
「貴殿こそ他国のものであるによって御存知が無いと見えるが、我が天自然流と申すは一切の道具を身に附けず、素面素小手で打合うのが習いでござる、御身はお流儀上道具をおつけにならるるとも差支えないが拙者の身体は鍛え上げて|鉄《くろがね》の如くになってござるにより頭でも腹でも勝手の処をお打ちなされ、竹刀ぐらいが当ったからといって痛いと思うような拙者ではござらぬ」
と軽蔑面に答えた、馬之助は元来謹み深い男であったけれども、この広言を憎いと思ったらしく、
「いや、天自然流のことは拙者も予て聞き及んでいる、先頃も江戸表に於て千葉栄次郎が熊本細川侯の藩中であるところの剣客と仕合を致したが、先方が貴殿同様道具を用いない為に栄次郎も当惑いたし、わざと小手を三本軽く打ち込んだが、栄次郎の腕の冴えをもってその人は手の骨を挫いて使用が出来なくなった、今貴殿の身体が鉄だと仰有るならば、拙者が竹刀はずい分その鉄をも砕くでござろう、念の為に拙者が竹刀の働きのほどを御覧に入れ申そう」
といって家の者に最も丈夫な竹の古胴を貰いうけてそれを庭の大木に巻きつけて云うことには、
「如何に吉田氏、この竹胴は竹も太く、拵えも丈夫であるのに隙間なくこの大木に巻いてあることだから普通では容易にこの竹が砕けるということは無い筈であるが、今拙者はこの竹刀を以てこの竹を砕いてお見せ申そう、若しこの竹が砕けたならば御身も道具を附け給え、貴殿の身体は堅いと仰有るけれどもこの竹胴より堅いことはござるまい」
といって太くもあらぬ竹刀を以て馬之助が突立っている、吉田はまさかこの細竹刀であの竹胴が砕けようとも思わなかったから、
「よろしい、見事貴殿があの竹胴を砕いたならば拙者も道具を附けるであろう」
と約束したが、馬之助、
「えい」
と一声軽く打ち込んだと見えたが近寄って竹胴を験べて見ると太い竹が三本程中から折れていた、吉田もこれを見て胆を冷したが、馬之助は尚一枚の四分板を借りて来て立てかけ、先革の附いている竹刀で、えいと突けば、槍で突いた如く板へ穴があいて竹刀の先きは少しも破れなかった、そこで、
「如何に吉田氏、御身の咽喉の皮が厚いと云われたとてこの板にはかないますまい、若し拙者の竹刀が当って怪我があるといけないから是非とも道具をおつけなさい」
と、遂に吉田に面小手胴を附けさせてしまった、それから相方立合って二三番仕合をしたけれどももとより馬之助の敵ではないから吉田はさんざん敗北したが、強情の代りに邪念のない人であったから馬之助の技量に感心し、それから鹿児島に逗留し、ついて剣法を学ぶことになった。
上田馬之助が鹿児島で竹胴を砕いたことはその頃評判の話で維新の後に至るまで
剣客仲間の話の種となったが、竹刀で板を穿き抜くこともまた馬之助の大得意であった、明治十九年まで日本橋区松島町に馬之助の弟弟子に当る三輪仙之助が剣術の道場を開いていたが、馬之助も時々助け稽古に来て人に拝見を乞われて板を貫いて見せたことがあった。
彦根の藩中で児島某という剣客は彦根の虎と称せられ、虎が出るといえば相手に立つ者がないほどの達者と云われた、その虎とあだ名をされたのは、黒塗の革胴に金蒔絵でもって大きな虎を一杯に描き出し人と仕合をする時はたといほかの処は打たれてもその胴へは決して竹刀を触れさせないと平常自分も自慢にしていたのである、尤も一度竹刀に打たせれば金蒔絵がはげて竹刀のあとが残るのだからこの人は生涯この胴を人に打たせることはなかった、併し、上田馬之助と立ち合う時に限って決してこの胴をつけないで他の胴を用いたことから馬之助から、
「児島さん、虎胴はどうしました」
とからかわれた、児島の腕はその時分並ぶものが少ない程であったのに馬之助にあうと子供のようにあしらわれたのである。
この上田馬之助の云うことには西郷吉之助なども大いに教えられたとのことであるが、有名なる松田の三人斬というのは当時一代の視聴を驚かしたのである。
それは銀座の尾張町に松田という料理屋があったがなかなか安くて勉強するから評判であったが、上田馬之助は或時この辺を通りかかって昼食をしようと松田の楼上へ上ったが、客はなかなか混んでいた、けれども上田はただ一人であったから少し空いた席につき酒も飲まず、ちょっと食事をしただけで帰ろうとすると丁度向うの隅にいた三人の武士がその先きにいた子供連れの商人に向って俄に大声をあげてどなりはじめた。
その事の起りというのは子供が刀を踏んだとか踏まないとかいうことであったが、何分酒の上のことといい、その時分の荒っぽい武士の気風で商人が平あやまりにあやまるのを聞かず刀を抜いて切り捨てんばかりの意気組であった、武士の乱暴は当時珍しいことではなかったが、何しろ客がこの通り混んでいる二階のことではあり、他の客も驚き騒ぎ女中達も共々詫びをしたが三人のものは酒気にかられ愈々暴れ出した。
上田馬之助がその武士の面を見ると一人は天童の織田家の剣術の師範役某というものであった、他の二人はその門弟でもあるらしかった、上田は剣術仲間でその師範役とは二三度面を合せたこともあるのだから衆人の難儀を見るにしのびずその傍へ進んで行って仲裁をした。
先方の三人は何者が出て来たのかと見るとこれぞ桃井の小天狗といわれる上田馬之助であったからどうも相手が悪い、今までの勢いも何処へやら猫のように小さくなってむにゃむにゃとしてしまった。
助けられた商人は厚く上田に礼を云い子供を連れて逃げるように立去ってしまったが、多数の客のうちには上田馬之助を見知っているものもあって、
「あれは名代の桃井の小天狗上田先生だ、あの先生にかかっては世間並みの剣術使が五人や十人束になったとて叶うものではない、だからあの三人も黙ってしまったのだ」
斯ういう私語が聞えたものだから師範役はじめ三人は無念の色を示して居たけれども、何しても相手が上田だから手出しも出来ず、そこで上田は自分の席へ戻って来て勘定を済ませ三人にも挨拶をして立ち上り、何心なく二階の梯子段を二段目まで下り、今三段目に片足を卸そうとする途端、諜し合せた三人の者は一度に抜きつれて上から不意に斬り下した。
その時上田馬之助は梯子段の中程でヒラリと身をかわしたが、
「卑怯者奴」
と云いながら、躍り上って師範役を抜き打ちに払ったところが腕の冴えは恐しいもので大の男が胴切りになってしまった、これはと驚き門弟が後ろから斬りかかるのをふり向きざまに顔の上から顎の下まで一刀に斬り下げ返す刀で今一人の細首を丁と打ち落した、その働きの素早いことほんの瞬く間に三人を仕止めてしまった。
二階にいた客達はそれ喧嘩だと逃げようとしたが梯子段ではじまったことなので逃げ路を失っていよいよ立騒ぐころには早や勝負がついてしまって驚いたり呆れたりするほかはなかった。
それから馬之助は家の者を呼び町役人を呼んで検視を待っていたが、検視に来た役人もその斬口の見事なのに驚き早速見舞に来た馬之助の門弟達と共に感歎しておかなかったということであるが、この三人の死骸は皆んな一刀ずつの斬口で二刀まで加えた跡はなく殊に師範役の胴斬は勝れて見事であったということだ、何しても理非曲直分明なことで見物人が皆保証人であったから
別段咎めがなくて済んだ。
この馬之助は明治になってから警視庁や宮内省に仕えたが、明治二十年頃七十余歳の長寿で亡くなった。 (西郷隆盛一代記)
小太刀半七
二代将軍秀忠の時に、小太刀半七という剣法の達者が鉄扇をもって仕合をすることに妙を得ているということを秀忠が聞いて、それには何か特別の術があるかと尋ねて見た処が、
「別に何の術もございませぬが、仕合を致しまするときに、何となく面白い心持が致すのが極意でございます」
と、返答をしたので、秀忠が大いに感心して云うことには、
「すべて戦などに臨んでもその通り、面白しとさえ思えぱ恐しいことはなくなって、謀も自から出て来るものである、聊かの争いにも心が迫って顛倒するところから手ぬるくなっておくれをとるものだ」と云われた。 (三河之物語)
青地三之丞
備前公池田光政の家来に青地三之丞という弓の名人がいた、或時、この人が梅の花を的として五本の矢を放ったが、その矢が一々五枚の花弁に当ったということである。
正木大膳
安房上総の主、里見義弘の臣正木大膳は十二三の頃から馬を習うのに片たづなで乗ることを好んでいた、馬を教える師匠がそれを見て、怒っていうことには、
「片たづなというものはよくよく乗りおぽえて、ものになってから後のことです、そこ許にはまだ鍛錬もないのにさ様な生意気のことをしては相成りませぬ」
とたしなめる、大膳がいうに、
「侍の大将となるものは馬から下りて槍を合せ功名するということは多くあることではない、馬上で下知をしたりそのまま勝負をしようというには片たづなを達者に覚えなくてはならぬ」
と云い切った通りに、その後度々戦場へ出て馬上で勝負を決した、その中でも鴻ノ台で里見義弘の子息義高が北条氏康と合戦して負けたがその後れ口に正木大膳は馬上で待ち受けて敵のよき侍を或る処では八人また或る処では九人、また或る処では四人という風に一日のうちに良き侍二十一人を馬上で斬り落して立ち退いた事がある。 (甲陽軍鑑)
(略)
野口一成
黒田家の士、野口一成は戦場武功の者であったが、或る剣客と仕合をして、相手の木刀を左の腕で受け止めて、右に持った木剣で敵を突さ倒した、その剣客が、
「腕で受ける剣術というものは無い」
といって冷笑すると野口は具足櫃から籠手を取り出して太刀痕の多く付いているのを示し、
「おれの流儀はこれだ」
と云った話がある、その籠手には筋金を多く入れて、楯の代りにして戦場に用いたものであった、また、謙信流という流儀には、柄の長い刀を地摺につけて敵の股倉を穿き上げる兵法もある。
(略)
徳川光友
尾張の徳川光友が或時、御ふくろ棚へ鼠が入ったのを追出して、自身は小柄を持って、つるつると逃げる鼠をとめてしまった、その手際が何とも云えず軽妙であったので、その座にありし者共が、あっと感心してしまうと、
「これは連也がお蔭であるぞ」
と云ったそうである。 (昔咄第九巻)
柳生又十郎
これは、講談などにも、よく現われる有名な話だが、最初の正確な出処は不明であるけれども、修行の神髄を面白く伝えている処がないではないから次に記して置く。
又十郎が父の勘当を受けて、磯端伴蔵のもとに薪水の労をとりながら、日夜、修行に心を砕いた時分の事である。
或る時、伴蔵先生楽寝をしている、又十郎この隙に髭でも抜こうと懐中から用意の毛抜きを取出して、またその辺で抜いていると叱られると思うから、外へ飛出して庭前の大きな石の上に腰をかけ、前の流れを見ながら頻りに鼻の下の髭を抜いている、そのうち伴蔵眼を細く開いて見ると、又十郎が彼方を向いて髭を抜いている様子、やっと声をかけて肩先を突いた、突かれて又十郎は谷川へ真っ倒に顛り込んで七八間流れたが漸くのことで岩へつかまって濡鼠の様になって先生の前に来て、
「誠に恐入りました、つい余り髭が伸びましたから」
というと、先生は、
「いや、髭は抜こうと抜くまいと随意だが余が後ろへ廻って行くのが気がつかなかったか、竹刀を取って立ち上った時ぱかりが剣術でない、平素の心掛けが肝腎だ、伴蔵だからいいが敵であったらその方の命はあるまい」
と云われた、又十郎、
「恐入りました」
と頭を下げる所をまた一つポカリ打たれた。
その後又十郎炊事をして一生懸命火を吹き付けている処を先生ポカリと背中を打った、又十郎驚いて後ろを見ると、先生が袋竹刀を持って立っている、そのうち先生は又十郎の進境を認めながら、今日は気のついた処を一本打ってやろうと例の袋竹刀を採って又十郎の焚火をしている後ろへ廻って来た処が又十郎今日は気がついている、先生は気がついたなと思いつつ一本やっと打下した、又十郎は後ろへ下ってがっちりと受けた、先生は、
「感心感心」
と賞めて、それでなくては可けないと喜んだので、又十郎が、
「有難う存じます」
と吹竹を置いて御辞儀をする所をポカリと脳天を打たれた、先生は更に、
「どうもまだ油断があっていけない、向後は寝るにしても眼を開いて寝ろ」
と命じた、又十郎二三日は少しも寝ない、身体は綿の如くになって疲労を感じて来た、そこで薪を採りに山へ往って草原の景色のいい処で一寝入り寝込んでそれから帰って来た、その夜伴蔵先生腹の中に、今日はもう四日目だ、大方疲れて寝るに相違ない、眠ったならば一つ打ってやろうと様子を見ていると、さっぱり寝入らない、ハテ不思議だと思っていると、翌る日薪を採りに山へ出て行く、そのあとを見えかくれについて行って見ると、又十郎そうとは少しも気が付かず、例の通り草原で昼寝をしようとすると伴蔵先生突然其処へ飛び込んでポカリポカリと五つ六つ続け打ちに打った。
「これ、その方は不都合の奴だ」
又十郎は、
「どうも恐入りました」
と低頭平身する、先生は、
「斯様な不埒のことで修業が出来るものではない、これから七日の間少しも寝ることはならぬ」
と厳命を下した。 (剣術落葉集)
家光時代の槍
家光の時代槍をもって名を得たのは高田又兵衛、不破けいが、下石平右衛門、この三人が十文字使いであった、素槍は山本無兵衛、これはむへんという、また紀州に石野伝一というのは大島雲平の師匠で聞えたる使い手である、丸橋忠弥は是等の人よりも後のものでかなり有名ではあったのである、又兵衛、平右衛門よりけいがは落ちていた。
徳川二代三代の頃、槍は右の如く追々名人と称ぱれるけれども剣術はそれほどでなく一流を立て千石ともなったものは無い、これは柳生流、一刀流が天下の剣術を抑えてしまっているためであった。 (古老茶話)
槍の長短
伏見の城で人々が槍の長短によって利不利あることを論じ合ったが、論より証拠これは幾度も槍を合せた経験のある人に聞くに越したるはないと、酒井作右衛門重勝を召出してお尋ねという事になったが、重勝は直ちに、
「槍と申すものは長いのが宜しい、昔から定められてある通りでございます」
と云ったので、家光も道理と感じ、その論は定ったそうである。 (寛永系図)
槍術の師、中川柔軒に或人が槍のこしらえのことを尋ねたところが、柔軒がいう。
「どうなりと各々の勝手次第がよろしい、治世の槍はさのみ強いことも要るまい、乱世ならばまき柄、ぬり込めなどにして力にさえ合わば太く重きものを用うるがよい、昔からこしらえように書きつけはあるけれども、それにこだわっては用に立たない、柄の寸も定まりは九尺であるけれどもその技量に応じて大柄のものは一丈でも二間でもよろしい、小男ならば八尺にも七尺にもするがよい、定まったことは無いものだ」と答えた。
小野次郎右衛門も剣道のみならず槍術も人に教えたが、槍の持えように就いて同様のことを云った。 (八水随筆)
無眼流開祖
無眼流剣術の祖、反町無格が諸国修行の節、或る山路を通った処が、長い谷があってその渓流に架せる長橋は丸木橋であって、容易に渡り難い、どうしようかとあたりの石に腰打ちかけて思案していた処が、一人の盲人がその橋へさしかかって来た、無格心の中に思うよう、両眼のある我身でさえも渡りかねたる程であるのを、この盲人にどうして渡ることが出来るものかと息をこらしてそのせんようを見ていると、盲人は右の丸木橋に差しかかるや否や左右よりその丸木橋を杖でさぐり、何の苦もなくすらすらと向うの岸に渡ってしまった。
そこで無格、思わず両手を打って、剣道もここだ、兎角眼があればこそ疑いが起って妙所に至ることが出来ないのだ、眼をつぶして修行をしようと、自ら無眼流と改めて一流を開いた…この逸話には疑問あり、無格はまた事実無眼流の祖ではないとの説もあるが逸話としてはなかなか道の要領を得た処がある。
雲州の某士
慶長年間のこと、播州姫路の近辺へ雲州の侍で四五百石ぱかりとるとおぽしいものが通りかかって駕籠から出で、茶屋に腰をかけて茶を飲んでいる処へ、年のころ十四五歳になる童が走って来て申すには、
「わたくしは親の仇を狙うものでございますが、只今この処にて見かけましたから討ち果しとうございますが、敵は槍を持たせて居りますから、私も槍で勝負をいたしとうございますが、浪人の悲しさに如何とも致し難うございます、就きましては近頃御無心ながらあなた様がお持たせある処のお道具を拝借いたしたいものでございますが」
と頼み込んだ、雲州の侍がそれを聞いて、
「委細承知いたした、御若年の処感じ入りました、しかし、その仇討はかねてお届けになって居られるかどうか」
と尋ねると、浪人の童が答えて、
「かねて、相届けて置きました、今日この処にて勝負を仕ること故に、処の領主へも申し達して置きました、お気遣い下さいませぬように」
雲州の侍これを聞いて、
「然らば拙者の持槍を御用立たいと思うが主用にて旅行の途中でござる故、私の儘にはなり難い、槍は主人の為の槍でござる故お貸し申すことは見合せよう、併しながら貴殿のうしろ立にはなっておあげ申す故心強く思召され候え」
と云われたので、浪人の童も大いに喜んでいるうちに相手の敵も出て来た、相手は大身の槍を提げて来て直ちに少年に向って突きかくる、少年もここをせんどと闘った、雲州の侍は挾箱に腰打ちかけてこれを見物しているところ、相手は大兵の手だれであり長物の得意の道具を持っていることだから少年の方があやうく陰になって見えると、敵は陽に進んでつけ入ろうとする時雲州の侍が、
「その石つきは」
と不意に声をかけた処、敵がうしろへ振り返った処を少年が飛び込んで斬り殺してしまった。
そうしていると、敵の若党共がこの少年に斬ってかかろうとした時に、雲州の侍が槍のサヤを外し、目を荒らげて、
「その方共は剣を追うというものである、退け退け、退かなければ拙者が相手になろう」
といったので忽ち散ってしまった。
あとの事などを雲州の侍がねんごろに世話をして、彼の浪人に向い、
「お手柄天晴れなること感心いたしました、苦しからずば我等主へお仕えあるまいか、それがし、よきに御推挙申上げよう」
といったので、少年は答えて、
「だんだんの御厚意、御好恩辱けなき仕合せにございます、仰せに甘えて御取持に預って御奉公を申上げとうございます」
やがて松江へ同道して主人へその趣きを申上げたところ、殿の感賞斜めならずして、彼の侍には加増を賜り、少年へは新知二百石ほどを与え小姓として召し使われた。後、事があっ

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