ギリシア神話・見聞談叢・剣法夜話

ギリシア神話

ギリシア神話

ヒュギーヌス版 松田治・青山照男訳
(一部)

オリュンポスの神々(括弧内はラテン語名)

ゼウス(ユッピテル) オリュンポス山に住む神々の主神。英語表記はZeus。
ヘーレー(ユーノー) ゼウスの后、女神たちの女王。
ポセイダーオーン(ネプトゥーヌス) ゼウスの兄弟、海の神々の王者。英語表記でPoseidon(ポセイドン)、ローマ神話のNeptune(ネプチューン)。
ハーデース(プルートー) ゼウスの兄弟、冥府の王者。英語表記はPluto。
デーメーテール(ケレース) ゼウスの姉妹、大地母神。ペルセポネーの母。
アポローン(アッポロー) ゼウスとレートーの息子、アルテミスの兄。弓矢をよくし、医療や音楽を得意とする。英語表記でApollon(アポロン)、Apollo(アポロ)。
ディオニューソス(リーベル) ゼウスとセメレーの息子、酒神。バッコスとも呼ばれる。英語表記でDionysos(ディオニソス)、Bacchus(バッカス)。
アレース(マルス) ゼウスとヘーレーの息子、戦神。英語表記でMars(マース)。
ヘーパイストス(ウルカーヌス) ゼウスとヘーレーの息子、またはヘーレーが単独で生んだ息子とも。火、鍛冶の神でアプロディーテーの夫。
アプロディーテー(ウェヌス) その誕生については諸説あるが、一般にはゼウスの娘。愛、美の女神でヘーパイストスの妻。英語表記でVenus(ヴィーナス)。
アルテミス(ディアーナ) ゼウスとレートーの娘、アポローンの妹。狩猟を好む処女神。
アテーネー(ミネルヴァ) ゼウスとメーティスの娘。武装した姿でゼウスの頭蓋から誕生した。さまざまな技術をつかさどる。パルラス・アテーネーともいう。
ヘルメース(メルクリウス) ゼウスとマイアの子。神々、特にゼウスの使いをはたす神。英語表記でHermes(ヘルメス)、フランス語でもHermesだが読みはエルメス。

霧から混沌が生まれた。混沌と霧から夜、昼、冥闇、大気が生まれた。夜と冥闇から宿命、老年、死(モルス)、死(レートゥム)、自制、眠りの神、エロース、リューシメレース、エピプローン、ヘーデュメレース、ポルピュリオーン、エパポス、不和、悲惨、傲岸、ネメシス、エウプロシュネー、友愛、憐憫、ステュクスが生まれた。さらに、三人の運命女神(モイラ)たち、クロートー、ラケシス、アトロポス。そしてヘスペリスたち、アエグレー、ヘスペリエー、アエリカが生まれた。
大気と昼から大地、空、海が生まれた。
大気と大地から苦痛、欺瞞、怒り、悲痛、嘘、誓約、復讐、無節操、争論、忘却、恐怖、傲慢、姦通、闘争、オーケアノス(オケアノス)、テミス、タルタロス、ポントスが生まれた。そして巨神族(テイーターネス:タイタン)、すなわちブリアレオース、ギューゲース、ステロペース、アートラース(アトラス)、ヒューペリオーン(ヒュペリオン)、ポーロス(ポロス)、クロノス、オプス、モネータ(警告するユーノー)、ディオーネーが生まれた。三人の復讐女神(エリーニエス)たち、アレクトー、メガイラ、ティーシポネーが生まれた。
大地とタルタロスから巨人族(ギガンテス)が生まれた。モンケラドス、コイオス(巨人族ではなくウーラノスとガイアから生まれた巨神族の仲間)など(略)。
ポントスから海から魚類が生まれた。
オーケアノス(オケアノス)とテーテュース(テテュス)からオーケアノス族が生まれた。ヘステュアイア、メリテー、アドメーテーなど(略)。
同じ種から多くの河川が生まれた。ストリューモーン、ネイロス(ナイル)、エウブラーテース(ユープラテス)、タナイス、インドス、ティグリスなど(略)。
ポントスと大地からタウマース、ケートー、ネーレウス、ポルキュスが生まれた。
ネーレウスとドーリスから五十人(四十八人、四十九人とも)の娘(ネーレイデス)が生まれた。グラウケー、タリア、キューモドケーなど(略)。
ポルキュスとケートーからポルキュス族が生まれた。ペンプレードー、エニュオー、ペルシス(これに替わってデイノーンを挙げる場合もある)。ゴルゴーン(ゴルゴン)とケートーからステノー、エウリュアレー、メドゥーサが生まれた。
ポーロスとポイベーからレートー、アステリエー、アピラペー、ペルセース、パルラスが生まれた。
イーアペトスとクリュメネーからアートラース(アトラス)エピメーテウス(エピメテウス)、プロメーテウス(プロメテウス)が生まれた。
ヒュペリーオーンとアイトレーから、ヘーリオス(ヘリオス=太陽)、セレーネー(セレネ=月)、エーオース(エーオス=暁)が生まれた。
クロノスとピリュラからケイローン、ドロプすが生まれた。
アストライオスとエーオースからゼピュロス(北西風)、ボレアース(北風)、ノトス(南風)、ファウォーニウス(西風:これはラテン語の名で、ゼピュロスと同義)が生まれた。
アートラースとブレーイオネーからマイア、カリュプソー、アルキュオネー、メロペー、エーレクトレー、ケライノーが生まれた。
巨人族パルラスとステュクス(冥府の川)からスキュルラ、暴力、羨望、権力、勝利、泉、湖が生まれた。
ポセイダーオーン(ポセイドン)とアンピトリーテーからトリートーン(トリトン)が生まれた。
ディオーネーとゼウスからアプロディーテー(アフロディテー)が生まれた。
ゼウスとヘーレーからアレースが生まれた。
ゼウスの頭からアテーネーが生まれた。
ヘーレーが夫と交わらずにヘーパイストスを生んだ。
ゼウスとエウリュノメーから典雅美神(カリス)たちが生まれた。
再びゼウスとヘーレーから、青春、自由が生まれた。
ゼウスとテミスから四季の女神(ホーラ)たちが生まれた。
ゼウスとデーメーテールからペルセポネーが生まれた。
ゼウスとモネータから学芸女神(ムーサ)たちが生まれた。
ゼウスとセレーネーからパンディーアが生まれた。
アプロディーテーとアレースからハルモニアと恐怖が生まれた。
アケローオスとメルポメネーからセイレーンたち、テルクシュエピア、モルペー、ペイシノエーが生まれた。
ゼウスとクリュメネーからムネーモシュネーが生まれた。
ゼウスとマイアからヘルメース(ヘルメス)が生まれた。
ゼウスとレートーからアポローン(アポロン)とアルテミスが生まれた。
大地から神的な龍ピュートーンが生まれた。
タウマースとエーレクトレーからイーリス、鳥女(ハルピユイア)たち、ケライノー、オーキュペテー、ポダルケーが生まれた。
ヘーリオスとペルセーからキルケー、パーシパエー、アイエーテース、ペルセースが生まれた。
アイエーテースとクリュティアからメーデイアが生まれた。
ヘーリオスとクリュメネーからパエトーンとパエトーン族が生まれた。メロペー、ヘーリエー、アステリエー、ディオークシッペー。
テューポーンとエキドナから、ゴルゴーン、コルキスの牡羊の黄金の皮を守っていた龍ケルベロス(一般には冥府の番犬の名前)、上半身は女、下半身は犬の姿をし、ヘーラクレース(ヘラクレス)に殺されたスキュラ、キマイラ、ボイオーティアにいたスピンクス、九つの頭をもち、ヘーラクレースに殺された蛇ヒュドラ、およびヘスペリスたちの龍が生まれた。
ポセイダーオーンとメドゥーサからクリューサーオール、天馬ペーガソスが生まれた。クリューサーオールとカルリロエーから三つの体をもつゲーリュオーンが生まれた。

(中略)

ニオベー

ニュクテウスの娘アンティオペーとゼウスとの息子たちであるアンピーオーンとゼートスは、アポローンの命令で、セメレーの墓も含めて、テーバイ(ポイオーティア地方の首府)を壁でかこみ、ラブダゴス王の息子ラーイオス(オイディプースの父)を追放し、彼ら自身がこの地を支配しはじめた。アンピーオーンはタンタロスとディオーネーの娘ニオベーを妻に迎え、七人の息子および同数の娘を彼女との間にもうけた。この子供たちをニオベーはレートーに誇示し、アポローンとアルテミス(二人ともレートーの子供)に対して、アルテミスは男のように衣服をたくしあげて着用し、アポローンは服が垂れ下がり髪は長すぎるといい、息子の数では自分がレートーにまさっていると、ひどく傲慢に話した。
そのためアポローンは、彼女の息子らが森で狩猟しているときに矢で射殺し、アルテミスは王宮で娘らを、クローリスを除いて矢で射殺した。だが子供たちを奪われた母親は泣きながらシピュロス山(小アジアのリューディア地方にある山で、彼女の父タンタロスが支配していた)で石に変えられたと伝えられ、今でも彼女の涙が流れているといわれている。さらにアンピーオーンはアポローンの神殿を攻略しようとして、アポローンに矢で殺された。

(中略)

ヘーレー

ヘーレーは、エウエーノス川(アイトーリア地方の川。アナウロス川ともいわれる)のほとりで老女に化け、自分をエウエーノス川の向こう岸へ運ぶ者がいるかどうか、男たちの心を試すべく、立っていた。誰も運んでくれなかったが、アイソーンとアルキメデーの息子イアソーンが女神を運んでやった。さらに女神は、ベリアースが自分に犠牲を捧げることを止めていたので、彼に立腹し、イアソーンが片方のサンダルを泥の中に残すよう仕組んだ。

招集されたアルゴー船隊員

イアソーンは、アイソーンとクリュメノスの娘アルキメデーとの息子で、テッサリア(ギリシア本土北東部地方)の人々の指揮者。
オルベウスはオイアグロスと学芸女神カルリオベーとの息子であり、オリュンポス山のエニーベウス川のほとりにある町フレーウィアからきたトラーケー(トラキア)人で、予言者、竪琴奏者。
アステリオーンは、父がピュレモス、母はペレースの娘アンティゴネーで、ペレーネーという町(アカイア地方にある)から、別の説では、彼はヒュペラーシオスの息子で、テッサリアにあるピュレーイオン山のふもとに横たわる町ペイレシアの出身。そこでは別々に流れる二つの川、アピダノスとエニーペウスが合流する。
ポリュペーモスはエラトスとアンティッポスの娘ヒッパイアとの息子で、テッサリアの町ラーリッサ出身で、足がのろい。
イーピクロスはピュラコスとミニュアースの娘クリュメネーとの息子で、テッサリア出身、イアーソーンの母方のおじ。
アドメートスはペレースの息子で、母はミニュアースの娘ペリクリュメネー、テッサリア出身、カルコードニオン山からやってきた。この山から町と川の名前が由来した。アドメートスの家畜をアポローンが飼育したと伝えられる。
エウリュトスとエキーオーンは、ヘルメースとメネトすの娘アンティアネイラとの息子たちで、現在エペソスと呼ばれている町アロペーから。若干の作家たちは二人をテッサリア人と考えている。
アイタリデースは、ヘルメースとミュルミドーンの娘エウポレメイアとの息子である。これはラーリッサの人である。
コローノスはカイネウスの息子で、テッサリアにある町ギュルトーネーから。このカイネウスというのはエラトスの息子で、マグネーシア(テッサリアの町)の人であり、ケンタウロス族に対して、自分が剣槍では決して傷つけられず、木の幹を楔のようにしてその体に打ち込んで、はじめて傷つけられることを証明した。カイネウスは、もともとは女だったという人もいる。ポセイダーオーンが求愛すると、彼女は結婚する代わり、青年の姿に転換された自分がいかなる打撃によっても殺されないように、との願いをかなえてほしいとポセイダーオーンにせがんだ。神はこれをかなえてやった。こんなことは一度もなされなかったし、また、誰であれ人間が剣槍では殺害され得ないとか、女から男へ転換されるといったことは生じ得ないのだ。
モプソフはアンピュクスとクローリスの息子で、アポローンから占いの技術を学んでおり、オイカリア(アイトーリアの町)から。彼をティータロス(テッサリアの町)の人と考える者もいる。
エウリュダマースはイーロスとデーモーナッサの息子であるが、クティメノスの息子ともいわれる。彼はクシュニアース湖(テッサリアにある)のほとりの町ドロペーイスに住んでいた。
テーセウスはアイゲウスとピッテウスの娘アイトレーとの息子で、トロイゼーン(アルゴリス地方の町)から。アテーナイ(アッティカ地方の首府)からきたという説もある。
ペイトオス(テーセウスの友人)はイクシーオーンの息子で、ケンタウロス族の兄弟でもあり、テッサリアの人。
アクトールの倅メノイティオスはオプンティア(ロクリス・オプンティア地方の町)の人。
テレオーンの息子エリボーテースはエレオーン(ボイオーティア地方の町)から。
エウリュティオーンはイーロスとデーモーナッサの息子。
イクシティオーンはケーリントスの町(エウボイア島にある)から。
オイーレウスはホドイドコスとペルセオーンの娘アグリアノメーとの息子で、ナーリュケイアの町(ロクリス・エピクネーミディア地方にある)から。
クリュティオスとイーピトスはエウリュトスとピュローンの娘アンティオペーとの息子たちで、ともにオイカリアの王であった。二人はエウボイアからきたという人もいる。エウリュトスはアポローンから弓矢の技術を授けられると、この贈り物をしてくれた相手と技を張り合ったと伝えられる。彼の息子クリュティオスはアイエーテースに殺された。
ペーリウスとテラモーンはアイアコスとケイローンの娘エンデーイスとの息子たちで、アイギーナ島から。二人は弟ポーコスを殺害したため、自分の住居を捨てさまざまな家を探し求め、ペーレウスはプティーアへ、テラモーンはサラミース島へ至った。後者をロドスのアポローニオス(『アルゴナウティカ』の作者)はアッティカ(ギリシャの中心地方、アテーナイを擁する)の島とよんでいる。
プーテースはテレオーンとエーリダノス川(神話上の名称で、現在のポー川、またはローヌ川などに擬せられる)の娘ゼウクシッペーとの息子で、アテーナイから。
アルコーンの倅バレーロスはアテーナイから。
ティーピュスはポルバースとヒュミーネーの息子で、ポイオーティアの人。彼はアルゴー船の舵取りだった。
アルゴスはポリュボスとアルゲイアの息子だが、ダナオスの息子という説もある。彼はアルゴス(アルゴリス地方の首府)の人で、牡牛の黒い毛皮をまとっていた。彼はアルゴー船の建造者だった。
プリーアースはディオニューソスとミーノースの娘アリアドネーとの息子で、ペロポンネーソス半島にある町プリーウース(アルゴリス地方)から、テーバイの人という説もある。
ヘーラクレースはゼウスとエーレクトリュオーンの娘アルクメーネーとの息子で、テーバイ人。
ヒュラースはオイカリアからきた少年で、父はテオダマース、母はオーリーオーンの娘でニュンベーであるメノディケー。ヘーラクレースの侍童でアルゴスからきたという人もいる。
ナウプリオスはポセイダーオーンとダナオスの娘アミューモーネーとの息子で、アルゴス人。
イドモーンはアポローンとニュンベーのキュレーネーの息子で、アルゴス人だが、アバースの息子ともいわれる。彼は占い術に通暁し、鳥占いの前兆で自分の死が知らされているのを承知していたけでど、それでも宿命を背負った軍隊についていった。
カストールとポリュデウケースは、ゼウスとテスティオスの娘レーダとの息子たちで、ラケダイモーン人だが、スパルタ人という説もある。どちらもまだ髭は生やしていなかった。また、二人の姿がよくみえるようにするため、同時に彼らの頭上に星々が現れた、ということも物の本に書かれている。
リュンケウスとイーダースは、アパレウスとオイバロスの娘アレーネーとの息子たちで、ペロポンネーソス半島のメッセーネー(メッセーニア地方の町)から。二人のうちリュンケウスは地下にひそんでいるものを何でもみたといわれ、どんな闇でも臆することがなかった。リュンケウスは夜間は何もみえなかったという人々もいる。彼は金鉱をみつけることを学んでいたので、地下にあるものをいつも識別できたのだといわれている。彼が地下に潜り、すぐに黄金を示していたので、彼は地下にあるものをいつでもみることができるとの噂が広まった。またイーダースは激烈で獰猛な人だった。
ペリクリュメノスはネーレウスとアンピーオーンおよびニオベーを両親とするクローリスとの息子である。これはピュロス(メッセーニア地方の町)の人だった。
アンピダマースとケーペウスは、アレオスとクレオブーレーの息子たちで、アルカディア(ペロポンネーソス半島の中央部地方)から。
アンカイオスはリュクールゴスの息子だが、孫であるともいわれ、テゲア(アルカディア地方の町)の人。
アウゲイアースはヘーリオスとアンピダマースの娘ナウシダメーとの息子。これはエーリス人(エーリスはペロポンネーソス半島北西部の町)。
アステリオーンとアンピーオーンはヒュペラーシオスの息子たちで、ペレーネー(アカイア地方の町)から。ヒッパソスの息子たちともいわれる。
エウペーモスはポセイダーオーンとティテュオスの娘エウローペーとの息子でタイナロン(ラコーニケー地方の町)の人。彼は足を濡らさず水上を走ったと伝えられる。
もう一人のアンカイオス(もう一人はテゲアの人)は、ポセイダーオーンとテスティオスの娘アルタイエーとの息子で、インプラソス島から。この島はかつてパルテニアとよばれたが、今はさらにサモスとよばれている。
エルギーノスはポセイダーオーンの息子で、ミーレートス(クレータ島の町)から。彼はペリクリュメノスの倅で、オルコメノス(ポイオーティア地方の町)の人とする説もある。
メレアグロスはオイネウスとテスティオスの娘アルタイエーとの息子で、カリュドーン(アイトーリア地方の町)の人だが、アレースの息子だという人もいる。ラーオコオーンはオイネウスの兄弟ポルターオーンの息子でカリュドーン人。
もう一人のイーピクロスはテスティオスの息子で、母親はレウキッペー、同じ母から生まれたアルタイエーの兄弟で、ラケダイモーン(スパルタ)の人。彼は負けを知らぬ走者であり、槍投げの名手でもあった。
イーピトスはナウボロスの息子でポーキス(ポイオーティアの西に隣接する地方)の人。ヒッパソスの息子でペロポンネーソスの出だったという人もいる。
ゼーテースとカライスは、風の神ポレアースとエレクテウスの娘オーレイテュイアとの息子たち。二人は翼のついた頭と足、青い髪をもっていたといわれ、開けた空を利用した。彼らは三人の鳥女たち、すなわちタウマースとオゾメネーの娘であるアエロプース、ケライノー、オーキュペテーを、イアーソーンとその一行がコルキスへ進発しようとしていたころ、アゲーノールの息子であるピーネウスの身辺から追い払ってやった。鳥女たちはエーゲ海(アイガイオス海)にあるストロパデス島に住んでいたが、これはプロータイ島(浮き島)とよばれている。彼女らは頭は鶏で翼をもち、人間の腕、巨大な爪、鶏の足、白い胸と人間の尻をもっていた。他方、ゼーテースとカライスはヘーラクレースによって槍で殺され、二人の墓に載せられた石は父の息吹で揺れ動いている。彼らはトラーケーからきたとされる。
カイネウスの息子たちであるポーコスとプリーアソスは、マグネーシア(テッサリアの町)から。
ディオニューソスとミーノースの娘アリアドネーとの息子エウリュメドネーとの息子エウリュメドーンはプリーウース(アルゴリス地方の町)から。
レルノスの息子パライモニオスはカリュドーンの人。
ヒッパソスの倅アクトールはペロポンネーソス半島から。
ヘーリオスとレウコトエーの倅テルサノーンはアンドロス島から。
ヒッパルキモスはペロプスとオイノマオスの娘ヒッポダメイアとの息子で、ペロポンネーソス半島の西北エーリオス地方の町ピーサから。
アポローンとコローニスの息子アスクレーピオス(医神)は、トリッケー(テッサリアの町)から、[欠文]テスティオスの娘[欠文]アルゴス人。
ネーレウスはヒッポコオーンの倅でピュロスの人。
イーピクロスの息子イオラーオスはアルゴス人。
ミーノースとヘーリオスの娘パーシパエーとの息子デウカリオーンは、クレータ島から。
ポイアースの倅ピロクテーテースはメリポイア(テッサリアの町)から。
もう一人のカイネウスはコローノスの息子で、ゴルチューン(クレータ島の町)から。
アカストスはペリアースとピアースの娘アナクシピエーとの息子で、イオールコス(テッサリアの町)から。彼は外套を二枚重ねて着用した。彼は自発的にアルゴー船隊員たちに近づき、みずからの意志でイアーソーンのつれになった。
彼らは全員ミニュアイ(ミニュアースの子ら)とよばれたが、それは、彼らの大部分をミニュアースの娘たちが生んだからか、または、イアソーンの母親がミニュアースの娘であるクリュメネーの娘だったからである。しかしその全員がコルキスに到着したわけではないし、また全員が祖国へ帰還を果たしたのでもない。その事情は以下のごとくである。
ヒュラースはミューシアでキオスの町とアスカニオス川の近くでニュンベーらにさらわれた。ヘーラクレースとポリュペーモスは彼を探しているうちに、船が風にはこび去られたため、置き去りにされた。さらにポリュペーモスはヘーラクレースからはぐれ、ミューシアで国を建設したあと、カリュベス人の国で世を去った。
さらにティーピュスはプロポンティス(今のマルマラ海)のマリアンデューニア(ビーテューニアで黒海に面した地域)で、リュコス王の王宮で病没した。彼に代わってポセイダーオーンの息子アンカイオスがコルキスまで船を操縦した。
さらにアポローンの息子イドモーンは、ここのリュコスの王宮にいて、まぐさ刈りにいくため外出した折、猪に襲われて死んだ。イドモーンの復讐者はアパレウスの倅イーダースで、これがこの猪を仕留めた。
テレオーンの息子ブーテースは、オルペウスの歌と竪琴を楽しんでいたが、セイレーンたちの魅力に負けて、彼女らのほうへ泳いでいこうとして海に飛び込んだ。アプロディーテーが彼を波からはこびだし、リリュバイオン(シキリア島西端の岬町)に移して生き長らえさせた。以上はコルキスへ到達できなかった面々である。
しかしまた復路においても、テレオーンの息子エウリュバテース、ケリオーンの息子カントスが死んだ。二人はナサモーンの兄弟で、トリートーン湖(リビュエーにある)のニュンペーとアンピテスとの息子である、羊飼いケパリオーンによってリビュエーで殺害された。彼らが棒でケパリオーンの家畜を荒らしたからだ。
さらにアンピュクスの息子モプソスは、蛇に噛まれてアフリカで死んだ。彼は父アンピュクスが殺されたあと、仲間としてアルゴー船の隊員たちに近づいたのだった。
同様にディーエー島からプリクソスとメーデイアの姉妹カルキオペーとの息子たちが寄ってきた。アルゴス、メラス、プロンティス、キュリンドロスであるが、彼らはマリアンデューニアのリュコス王の息子ダスキュロスによって、恐怖に打ちのめされ、ヘーラクレースは彼らを置き去りにした。
しかし隊員一同はコルキスへ進発するとき、ヘーラクレースを隊長にしたがった。ヘーラクレースはこれを拒否し、むしろ、イアーソーンの働きで全員出発するのだから、イアーソーンこそ隊長になるべきだといった。ゆえにイアーソーンが隊長として取りしきり、ダナオスの息子アルゴスが職人仕事を担当し、ティーピュスが舵を取り、彼の死後はポセイダーオーンの息子アンカイオスが操縦した。舳先ではアパレウスの倅リュンケウスが差配し、彼にはなんでもよくみえた。船長役は、ボレアースの息子であるゼーテースとカライスが務め、二人は頭と足に翼をもっていた。
舳先と櫂座にはペーレウスとテラモーンが座っていた。櫂座の中央にはヘーラクレースとイーダースが座った。他の面々は順序を守った。オイアグロスの倅オルペオスが船漕ぎ歌を歌った。のちにヘーラクレースがアルゴー船の船員たちに置き去りにされたとき、彼の席にアイアコスの息子ペーレウスが座った。
これが、アテーネーが星座の中へもたらしたアルゴー船である。というのもこの船は女神の意図で造られたからであるが、この船が海に引き下ろされるとすぐに、舵から帆までその姿が星座に現れた。この船の姿形と美しさをキケローが『星辰論』において次の詩で示している。
だがアルゴー船はシーリウス星の尾のほうへゆっくり滑るだろう。
湾曲した船尾のきらめきを前方へ押し出しつつ。
他の船がよくやるように、衝角で大海原を分けつつ。
海上で前方に舳先を向ける、というやりかたではない。
安全な港に接近したとき、水夫らが巨大な重量をかけて船を回転させ、
船尾を選ばれた浜辺に向けて導くが、
そのように、昔のアルゴー船は、天空で、後方へ回転する。
やがて、飛んでいる船尾から出る舵が、きらめくシーリウス星の後脚に触れる。(この詩はギリシア人アラートスの詩をキケローがラテン語に翻訳したものとされる)
この船は船尾に四つ、右の舵に五つ、左の舵に四つの星をもち、これらの星は互いによく似ており、全体で十三個である。
アルゴー船に乗り組んだ隊員の数は書々によってまちまちで、ヒュギーヌスは六十四人の名前を記している。ボリオによればアポロドーロス四十五人、ウアレリウス・フラックス五十二人、ディオドーロス・シケロス五十四人、アポローニオス五十五人、リュコプロンの古注家百人などとなっている。

(中略)

エウリュステウスに命じられたヘーラクレースの十二の功業

ヘーラクレースは幼少のころ、ヘーレーが送りつけた二匹の蛇を両手で殺した。それゆえ彼は最初に生まれた子と称された。
ネメア(アルゴリス地方の町)のライオンは、セレーネー(月の女神)が出口の二つある洞穴で養っていたが、彼は不死身のこのライオンを殺した。彼はその毛皮を上着がわりに着用した。
レルネー(アルゴリス地方の湖)の水蛇はテューポーンの娘で、九つの頭をもっていたが、彼はこれをレルネーの湖で殺した。この水蛇の毒の力はたいへんなもので、吐く息で人間を殺すほどだった。もし誰かが水蛇が寝ていた場所を通ると、その体の痕跡が息を吹きかけ、その者はよりいっそうむごたらしい死をむかえるのだった。彼はアテーネーの助言を得てこれを殺し、内蔵をえぐり出し、その胆汁を自分の矢に塗りつけた。こうしてその後彼がこの矢で射たものはすべて死をまぬがれなかった。それで後に彼自身も、プリュギアで世を去ったのだ。エリュマントス山(アルカディア、アカイア、エーリス三地方の国境にある)の猪を倒した。
アルカディアの黄金の角をもつ獰猛な鹿を、生きたままエウリュステウス王(英雄に難行を命令した王)の目の前に連れていった。
ステュンパーロス湖(アルカディアにある)のアレースの島にいた鳥ども、これは自分の羽を槍として投げ落していたのだが、これらを矢で射殺した。
エーリスのアウゲイアース王の牛の糞を一日で掃除した。大部分はゼウスの助けを受けた。川の流れを引き入れてすべての糞を洗い流したのだ。
パーシパエー(ミーノースの后)が同衾した牡羊を、クレータ島から生きたままミュケーナイ(アルゴリス地方の町)へ曵いていった。
トラーケー王ディオメーデーと人間の肉をくらっていた彼の四頭の馬を、従者アブデーロスもろともに殺した。四頭の名前はポダルゴス、ランボン、クサントス、ディーノスだった。アマゾーン族の女ヒッポリュテーはアレースと女王オトレーレーの娘だったが、彼女からアマゾーンの女王の帯を奪い取った。そのとき捕虜にしたアンティオペーをテーセウスに譲った。
ゲーリュオーンは、クリューサーオール(ポセイダーオーンとメドゥーサの子)の息子で、三つの体をもっていたが、ヘーラクレースはこれを一本の投げ槍で倒した。
テューポーンの息子である巨大な龍がヘスペリスの園の黄金の林檎を絶えず見張っていたが、これをアートラース山(北アフリカ西部にある)で殺し、林檎はエウリュテウス王のもとへ持ち帰った。
テューポーンの息子である犬ケルベロスを冥府から王の目の前に連れてきた。

ヘーラクレースの付随的功業

ヘーラクレースは大地の息子アンタイオスをリビュエー(リビア)で殺した。この男は客人に自分と格闘することを強要し、力尽きた相手を殺していたのだ。格闘してこれを殺した。
エジプトのブーシーリウスは、客人を生けにえとして神々にささげる癖があった。彼の悪習を聞き知ったヘーラクレースは、頭にリボンを巻かれて祭壇にみちびかれるに任せていたが、いよいよブーシーリウスが神々に祈ろうとしたとき、ヘーラクレースは彼と犠牲を執行する神官たちを棍棒で殺した。
アレースの息子キュクノスを武器で打ち倒したあと殺した。そのためアレースがやってきて、息子ゆえに武器を交えて彼と闘おうとすると、ゼウスが二人の間に雷を送りつけ、こうして二人を分けた。
トロイアで、ヘーシオネーを犠牲として受け取る予定だった海の怪物を殺した。その後、ヘーシオネーの父ラーオメドーン(トロイア王)が彼女をヘーラクレースに渡さなかったので、矢で殺害した。
プロメーテウスの心臓をむさぼっていた鷲アイトーンを矢で殺した。ポセイダーオーンの息子リュコスが、クレオーンの娘でヘーラクレースの妻であるメガレーと息子テーリマコスおよびオピーテースを殺そうと望んだので、これを殺した。
アケローオス川(アイトーリア地方を流れる)の神はあらゆる姿に変身していた。この神が、デーイアネイラとの結婚をめぐってヘーラクレースと闘ったとき、牡羊に変身した。ヘーラクレースは牡羊の角をひっこ抜き、その角をヘスペリスたち(西方の果て、オーケアノス=大洋の岸辺に住むニュンベーたち。一頭の龍とともに黄金の林檎が生える神々の園を見張るのが役目)、またはニュンペーたちに寄進した。この女神らはこれに果実をいっぱい詰め込み、これを豊饒の角と呼びなした。
ヘーラクレースは、ピッポコオーンの倅ネーレウスをその十人の息子たちともどもに殺害した。そのわけは、ヘーレーにより理性をうばわれtらヘーラクレースが、自分の妻である、クレオーンの娘メガレーおよび自分の息子、テーリマコスとオピーテースを殺したとき、ネーレウスが彼を浄めもお祓いもしてくれなかったからだ。
彼がエウリュトスの娘イオレーを妻にしたいと求め、エウリュトスが拒絶したとき、彼はエウリュトスを殺した。
ケンタウロス(上半身は人、下半身は馬の姿をした一族で、テッサリアの山地に住した。蛮族であるが、例外的な知者としてケイローンが有名)のネッソスが、デーイアネイラを犯そうとしたのでこれを殺した。
ケンタウロスのエウリュティオーンが、デクサメノスの娘で、ヘーラクレースの婚約者であるデーイアネイラを妻にしたいと望んだのでこれを殺した。

(中略)

アンドロメダ

カッシオペーは、わが娘アンドロメダの美貌がネーレウスの娘たち(ネーレイデス)にまさると自慢した。そのためポセイダーオーンは、ケーペウスの娘アンドロメダは、海の怪物に提供されるべきだと強く要求した。伝えによれば、彼女が海辺で生けにえとしてさらされていると、ペルセウスがヘルメースからもらった踵の小翼で飛びながらそこへきて、彼女を危機から開放した。彼が彼女を連れ去ろうとすると、父親ケーペウスが、彼女の婚約者だったアゲーノールとともに、ひそかにペルセウスを殺そうと謀った。事を知った彼がゴルゴーンの彼らは残らず人間の姿から岩石に変わった。ペルセウスはアンドロメダをともなって帰郷した。すると、ペルセウスがこれほどの勇気の持ち主であることをみたポリュデクテースは、ひどく彼を恐れ、謀殺しようとした。このことを知ったペルセウスは、ゴルゴーンの頭を彼に示し、彼は人間の姿から石に変えられた。

(中略)

オイディプース

ラーイオス(テーバイ王)とイオカステーとの息子オイディプースが成人すると、彼は他に抜きん出て強靭になり、同年輩の仲間たちは、これをやっかんで、彼に、ポリュボス王は情け深いのに、彼は鉄面皮だから、ポリュボスの本当の子供ではないのだと非難を浴びせた。オイディプースはこの非難が間違っていないかもしれないと感じとった。こうしてオイディプースは両親について知るため、デルポイ(アポローン神殿がある)へ出発した(この時、オイディプースは「自分の母親と交わり、穢れた子供らをもうけ、実の父親を殺害するだろう」というアポローンの神託を得たとされる)。
彼(ラーイオス)には、ほどなく自分の息子の手で殺されるだろうとの不思議なお告げがあった。ラーイオスがデルポイへおもむいたとき、彼の前方にオイディプースがやってきた。衛兵らが王に道をゆずれと彼に命じると、彼はこれを無視した。王は馬を進ませて車輪でオイディプースの足を轢いた。嚇度したオイディプースは、それとも知らず自分の父親を馬車から引きずりおろし、殺した。ラーイオスが死んだので、メノイケウスの息子クレオーン(イオカステーの兄)が王権を領有した。
その間、テューポーンの娘スピンクス(上半身は女性、下半身はライオンで、有翼の怪物)がボイオーティアに送られ、テーバイの人々の畑を荒らしていた。彼女はクレオーン王に次のように挑戦した。自分が提案する謎(「一つの声を有しながら、四足、二足、三足になるものは何か」という謎)を誰かが解くなら、ここから立ち去ろう。しかし出された謎を解けない場合は、自分はその者を殺す。これ以外の形では自分は国境を去るつもりはない、と。このことを聞き知った王はギリシャ全土に布告した。スピンクスの謎を解く者がいれば、自分はその者に、王権をゆずり、妹イオカステーを妻として与えるであろう、と約束した。
王権にそそられて多くの男たちが訪れ、スピンクスに殺されていた折、ラーイオスの息子オイディプースがきて、その謎を解いた(正解は「人間である」と答える)。彼女は身を投げた。オイディプースは父の王座につき、それとも知らずわが母イオカステーを妻に迎え、彼女との間にエテオクレース、ポリュネイケース、アンティゴネー、イスメーネーをもうけた。その間、テーバイでは、オイディプースのこの罪業ゆえに、穀物の不作、飢饉がつづいていた。なぜテーバイがこのように苦しめられるのかと問われた占い師ティレシアースは、龍の種につながる者がもし生き残っていて、その者が祖国のために死ぬならば、彼は祖国を悪疫から解放できるだろう、と応えた。そこで、イオカステーの父メノイケウスが城壁からわが身を投じた。
テーバイでこのようなことが行われているあいだに、コリントスではポリュボスが死んだ。これを訊いたオイディプースは、自分の父が死んだのだと考えて、深い哀しみを覚えた。その彼にペリボイア(コリントスの王妃、オイディプースの養母)が、傷痕から、彼がラーイオすの息子であると認めた。これを訊いたオイディプースは、自分がどれほどの、身の毛もよだつ悪業をしてしまったのかを悟るや、母の衣服からブローチを抜き取り、これでわが目を潰し、一年交代で治めるようにと王権を息子たちに渡し、そして、娘アンティゴネーに手を引かれてテーバイから逃走した。

(中略)

アンティゴネー

メノイケウスの息子クレオーンは、オイディプースの息子ポリュネイケースおよび彼と同道した者をすべて、埋葬してはならないと布告した。彼らは祖国テーバイに弓を引くためにやってきたからだ。ポリュネイケースの妹アンティゴネーと、妻アルゲイアは、ひそかに夜陰にまぎれてポリュネイケースの遺骸を拾い、エテオクレースの死骸が置かれている薪の山に乗せた。彼女たちが見張りの兵士らにみつかったとき、アルゲイアは逃走し、アンティゴネーは王の前に引っ立てられた。王は彼女を、自分の息子で彼女の婚約者だったハイモーンに、殺せといって渡した。
ハイモーンは情にほだされて父の命令を無視し、アンティゴネーを牧人たちにあずけ、彼女を殺したと嘘をついた。彼女は男の子を生んだ。この子が成人に達したころ、競技大会を見物するためテーバイへきた。クレオーン王はこれが誰であるかを認識した。龍の種族の子孫は誰もが体に一つの特徴を帯びていたからである。ヘーラクレースが、ハイモーンのため、許してやってくれと要望したが、諾意を得られなかった。ハイモーンは妻アンティゴネーと心中した。しかしクレオーンはわが娘メガレーをヘーラクレースに妻として与え、彼女からテーリマコスとオピーテースが生まれた。

(中略)

タンタロス

ゼウスとプルートーの息子タンタロスは、ディオーネーとのあいだにペロプすをもうけた。ゼウスは日ごろタンタロスに自分の考えを打ち明け、神々の食卓に陪席することを許していた。タンタロスはゼウスの考えを人間たちに知らせてしまった。伝えによると、そのため、彼は冥府で胴体まで水に浸かって立ち、絶えず喉がかわき、水を飲もうとして手を伸ばすと水は退いてしまう。同様に、頭上に果実が垂れ下がっているが、彼がこれを取ろうとすると、枝が風に動かされて遠のいてしまう。同様に、頭上に巨大な岩がぶらさがっていて、彼はいつもこれが自分にぶつかってこないかと気もそぞろである。

(中略)

オデュッセウス

アトレウスの息子たちであるアガメムノーンとメネラーオスが、トロイアで戦うべく同盟した将軍らを招集したとき、彼らはイタケー島の、ラーエルテースの子オデュッセウスを訪問した。その彼には次のような神託があった。すなわち、もし彼がトロイアへゆけば、二十年後、戦友をすべて失い、ただ一人無一物で家に戻るだろう、というものだった。
かように、自分のところへ弁舌家らがくるであろうことを知っていたので、彼は乱心を装い、帽子をかぶり、鋤に馬と牛をつないだ。彼をみたとき、パラメーデースは、彼が乱心のふりをしていると悟り、彼の息子テーレマコスを揺り籠から奪い取り、これを鋤の前に置き、「乱心を装うのをやめ、仲間に入りなさい」といった。そこでオデュッセウスは、自分もいくと言質を与えた。これがため、彼はパラメーデースに恨みを含んだ。

アキレウス

ネーレウス(海神)の娘テティスは、ペーレウスとのあいだに生んだわが息子アキレウスが、もしトロイアへ戦いにいくならば、死ぬであろうと知っていた。それで、アキレウスに、スキューロス島のリュコメーデース王のもとへいくようにと勧めた。リュコメーデースは、アキレウスを女装させ、名前を変えて、処女である王女たちの中へ紛れ込ませて隠した。乙女らは彼をピュルラ(金髪娘)とよんだが、それは彼の髪がブロンドで、ギリシャ語では赤い髪はピュルロスといわれるからである。
アカイア人(ギリシャ人と同義)たちは彼がどこに隠れているのかを探りだしたとき、リュコメーデース王のもとへ弁舌家らを派遣し、アキレウスをダナオイ軍(ギリシャ軍と同じ)の助っ人として送りだすよう、王に懇願させた。王は彼が自分のところにはいないと主張し、彼らに好きなように王宮の中を捜索してよいと許可した。
彼らには誰が誰やら分別はつかなかったが、オデュッセウスは王宮の応接間に女性向けの贈り物を並べた。その中に盾と槍があり、そこで突然彼は、ラッパを吹き鳴らすように命じ、武器のぶつかり合う音と雄叫びをあげるよう部下たちに命じた。アキレウスは、敵の来襲だと考えて、女の衣装を引き裂き、盾と槍を手に取った。これで彼の正体がばれ、彼はミュルミドネス勢を率いてアルゴス軍(ギリシャ軍と同じ)を助けると約束した。 

(中略)

トロイアの木馬

アカイア勢は十年にわたってトロイアを陥落させることができなかったので、エペイオスがアテーネーに勧められて巨大な木馬を作った。その中に次の面々が乗り込んだ。メネラーオス、オデュッセウス、ディオメーデース、テッサンドロス、ステネロス、アカマース、トアース、マカーオーン、ネオプトレモス。木馬には「ダナオイ勢が供物としてアテーネーにささげる」と書いてあった。そして彼ら(木馬に乗らなかったギリシャ勢)は陣営をテネドス島に移した。
これをみたトロイア人たちは、敵が去ったものと判断した。プリアモスは木馬をアテーネーの城塞にはこぶよう命じた。そして、盛大に祭りを行うよう男たちに宣言した。予言者カサンドレー(プリアモスの娘)が、その中には敵がいると大声で知らせたが、彼女は信用されていなかった。人々はこれを城塞に安置し、彼ら自身、夜の慰安と酒で倦み疲れて眠りこけた。そのときを見計らって、アカイア勢は、シノーンによって開けられた木馬から飛び出し、門衛たちを殺害し、合図でもって自軍をテネドス島から招き入れ、トロイアを占領した。

(中略)

オデュッセイア(オデュッセウスの放浪)

オデュッセウスは、イーリオン(トロイア)をはなれて故郷イタケーへの帰途についたとき、嵐によってキコネス人の国へ流され、彼らの都イスマロスを攻略し、戦利品を仲間に配分した。そこからロートパゴス人の国へいった。これは善良な人々で、ロートス(ナツメあるいはエノキ)の葉のあいだから生じる花を食べていた。この食べ物はえもいわれぬほどにおいしかったため、これを味わった者は家郷へ帰ることを忘れてしまうのだった。オデュッセウスが彼らのもとへ派遣した二人の仲間が、彼らによって供されたこの草を食べたとき、船に戻るのを忘れたので、彼みずから二人を縛って連れ戻した。
そこから、ポセイダーオーンの息子、キユクロープス(一眼巨人)ポリュペーモスのところへやってきた。この者には、かつて、エウリュモスの息子である予言者テーレモスから、オデュッセウスによって盲目にされないよう用心せよとの神託が告げられていた。彼は額の真ん中に一個の眼をもち、人肉を常食していた。彼は家畜を洞穴に連れ戻し、入り口に巨大な岩石を置いた。彼はオデュッセウスとその一行を閉じ込め、オデュッセウスの仲間らを食べはじめた。
オデュッセウスは、彼の巨大さ、野蛮さに逆らうのは不可能だとみてとったので、マローン(エウアンテースの息子)からもらい受けていた葡萄酒でもって彼を酩酊させ、自分は「誰でもない(ウーテイス)」という名前であるといった。かくしてオデュッセウスが彼の目を燃えている木の幹で焼き潰したとき、彼は叫び声を上げて他の一眼巨人らをよびあつめ、彼らに「俺の目を潰したのは誰でもない」といった。彼らは、彼がざれごとをいっているのだと思い、無視した。
だがオデュッセウスは、部下たちを家畜に、自分の体を牡羊に縛りつけ、こうして脱出し、ヘッレーンの息子アイオロスのもとへおもむいた。彼はゼウスから風の神々を束ねる権力を授けられていた。彼はオデュッセウスをもろ手を上げて歓待し、風をたっぷり詰めた革袋を贈り物にくれた。ところが部下たちは、これを受け取ったとき、金や銀であろうと信じ、これを分け合おうとして、ひそかに革袋を開いた。すると風どもは飛び去った。彼は再びアイオロスのもとへはこばれたが、今度は追い払われた。彼が神々の権威を犯したように思えたからである。
そこからライストリューゴネス人の国へいった。彼らの王は、(欠文)むさぼり食らい、彼の十一艘の船を破壊した。部下たちがむさぼられたあと、唯一残された船で脱出し、太陽神の娘キルケーの住むアイナーリア島に着いた。彼女は飲み物を与えて人間を野獣に変えていた。彼は彼女のもとへ、二十二人の仲間を添えてエウリュロコスを派遣した。彼女は彼らを人間の姿から変身させてしまった。恐れていたエウリュロコスは、中へ入っていかなかった。彼はその場を逃げ出し、オデュッセウスに報告した。オデュッセウスが単独で彼女のもとへおもむいた。だが道々ヘルメースが彼に薬(モリュという草)を与え、キルケーを取り押さえる方法を教えた。彼はキルケーのもとへきて、彼女から盃を受け取ったあと、ヘルメースの薬をその中へ投げ入れ、剣を抜き、仲間を元どおりにしなければ殺すぞ、と脅した。そこでキルケーは、神々の意志がなければこんなことは起こりえないと悟った。かくして彼女は、こんな悪さはもうしなと約束し、彼の仲間を以前の姿に戻し、彼とベッドをともにして、二人の息子、ナウシトオスとテーレゴノスを生んだ。
そこからアウェルヌス湖(イタリアのカンパーニア地方にある)へ進み、冥府へ降り、そこで仲間のエルペーノールに尋ねた。エルペーノールは、酔っぱらって梯子から落ち、首を折ったのだと説明し、彼オデュッセウスが地上へ戻ったら、自分を埋葬し、墓の中に舵を入れてくれるようにと、執拗に頼み込んだ。さらにそこでオデュッセウスは、母アンティクレイアと、自分の放浪の終わりについて語り合った。ついで地上に戻った彼はエルペーノールを張ってやり、舵を、頼まれたとおりに、墓の中に突き立ててやった。
そこから、学芸女神(ムーサ)メルポメネーとアケローオス(アイトーリアの川の神)との娘であるセイレーン(サイレン)たちのところへきた。彼女らの宿命は、彼女らの歌声を聞いた人間が一人でも通過すれば死ぬというものだった。オデュッセウスは、太陽神の娘キルケーの忠告に従って、部下たちの耳を臘で塞ぎ、ついでみずからを木の帆柱に縛りつけるよう命じた。こうして彼は歌声をききながら通過した。
そこから彼はテューポーンの娘スキュルラのところへきた。この女の体の上の部分は女で、股の付け根から下は魚だった。さらに彼女の胴体からは六頭の犬が生え出ていた。そして彼女はオデュッセウスの船から六人の仲間をもぎ取り、食ってしまった。
シキリア島で太陽神(ヘーリオス)の家畜に出会った。これを彼の仲間が料理したとき、この家畜は鍋の中でうめいていた。オデュッセウスは、テイレシアースに、さらにまたキルケーにも、これに手をつけないように忠告されていた。かくして彼は、そのために、ここで多くの仲間を失い、カリュプディス(シチリア海峡の岩礁、女の怪物)へと流された。彼女は日に三度海水を飲み込み、三度吐き出していた。オデュッセウスはテイレシアースの勧めに従って、これを通りすぎた。しかし、自分の家畜を食われた太陽神の怒りゆえに彼が太陽神の島に至ったとき、テイレシアースはこの島を荒らしてはならないといっていたのだが、オデュッセウスが眠っている合間に、仲間がこの家畜を捕らえた。かくして彼らが料理すると、肉切れが鍋の中から鳴き声を上げていた、ゼウスが彼の船を雷で焼いた。船が難破し、仲間を失って、この場所から漂った彼は、アイアイエー島に泳ぎついた。
ここにはアートラースの娘であるニュンペー(ニンフ)のカリュプソーがいて、彼女はオデュッセウスの容貌に魅せられ、丸一年彼を引き止め、自分の手元から話そうとしなかった。遂に、ゼウスに命じられたヘルメースが、このニュンベーに、彼を送り出すようにと知らせた。そしてそこで、筏をこしらえ、これにあらゆるものを備えつけて、カリュプソーは彼を送り出した。ところがこの筏をポセイダーオーンが大波によってばらばらに破壊した。神の息子である一眼巨人(ポリュペーモス)を彼が盲目にしたからだ。ここで波に翻弄されていると、海中に暮らすレウコテア(イーノーが女神になった後の名前)、すなわち我々のいうマーテル・マートゥータが、水底へ沈まぬように胸を縛るがいいといって、彼に帯を与えた。彼はこれに従い、泳いだ。
そこからパイアケス人たちの島に到着し、裸身を木の葉でつつんだ。そこへ、アルキノオス王の娘ナウシカアーが、洗濯する衣服を川へはこんできた。彼は木の葉から這い出し、そして父親のもとへ彼を案内した。アルキノオスは気前よく彼をもてなし、贈り物をたっぷりもたせて、故郷イタケーへと送り出した。ヘルメースの怒りが再び難船させた。
二十年後にして、仲間を失い、ただ一人で彼は帰郷した。そして、人々に見知られることなく、自分の家に達したとき、彼は、宮殿を占拠してペーネロペーに求愛していた求婚者たちをわが目で確認し、自分は客のふりをした。そして彼自身の乳母だったエウリュクレイアが、彼の足を洗っているうちに、古傷から彼がオデュッセウスであることを認識した。そのあと、アテーネーに助けられ、息子のテーレマコスおよび二人の家来と協力して、矢で求婚者たちを殺した。
[デーイオネウスはケパロスをもうけ、ケパロスはアルケイシオスを、アルケイシオスはラーエルテースを、ラーエルテースはオデュッセウスを、オデュッセウスはキルケーからテーレゴノスをもうけた。テーレゴノスはオデュッセウスの妻ペーネロペーからイタロスをもうけた。彼はイタリアという名称の提供者になった。テーレマコスの息子がラティーノスで、ラテン語(リングワ・ラティーナ)ということばはラティーノスの名前から出ている。]

(中略)

菩提樹に変身したピリュラ

クロノスは、地上でゼウスを探し求めていたとき、トラーケーで、馬の姿に変身してオーケアノスの娘ピリュラと交わった。これで彼女はケンタウロスを生み、ケイローンは世に先駆けて医術を発明したといわれている。異常な姿のもの(ケイローンは上半身は人間、下半身は馬という異形)を自分が生んだのをみて、彼女はゼウスに何か他のものに姿を変えたいと願った。かくして彼女はプリュラという木、すなわち菩提樹に変身した。

クーレーテス

レアがクロノスと交わってゼウスを生んだとき、ヘーレーは、クロノスがハーデースを冥府に、ポセイダーオーンを波の下に投げ落としていたので、ゼウスを自分(ヘーレー)にくれるよう要求した。クロノスがこんなことをしたのは、もし子孫がいれば、それが自分の王座を奪うと知っていたからであるが、クロノスが、レアの生んだものを、食べるために要求したとき、彼女は彼に布に包まれた石を差し出した。クロノスはむさぼった。
彼は、ことを理解するや、地上でゼウスを探しはじめた。そこでヘーレーはゼウスをクレータ島にはこんだ。ところが子供の乳母アマルテイアは、この子を揺り籠に入れて木に吊したのだ。それは、天空においても、地上でも、海においても、子供がみつけられないようにするためだ。そして子供の泣き声を聞こえないようにするため、彼女は少年たちを呼び集め、彼らに小さい青銅の盾と槍を与え、それをその木のまわりで打ち鳴らすよう命じた。彼らはギリシア語でクーレーテスとよばれた。これはコリュバンテスともいわれ、ローマではラーレースと称される。

(中略)

セイレーンたち

川の神アケローオスと学芸女神(ムーサ)のメルポメネーの娘たちであるセイレーン(サイレン)たちは、ペルセポネーがポセイダーオーンに奪い去られた後、各地をさすらった末にアポローンの土地にやってきた。この地で彼女たちはデーメーテールの意志により宙を飛ぶもの(鳥)に変えられた。というのは彼女たちがペルセポネー(デーメーテールの娘)を助けることができなかったからである。彼女たちは、その歌声を聞いた者が無事に通り過ぎることがない間だけ生きられる、と定められていた。
彼女たちの命取りになったのはオデュッセウスである。というのは、オデュッセウスが計略をもって彼女たちの住む岩山を無事通り過ぎたために、彼女たちは海中に真っ逆さまに飛び込んだのである。この場所は彼女たちにちなんでセイレーンたちの岩という異名を与えられている。これはシキリアとイタリアのあいだにある。

パンドーラ

イーアペトスの息子プロメーテウスは初めて泥から人間を作り上げた。のちにヘーパイストスはゼウスに命じられて泥から女の像を作り、これにアテーネーが生命を与え、ほかの神々が思い思いの贈り物を与え、そのゆへに、彼女をパンドーラ(すべての贈り物を与えられた女)と名づけた。彼女はプロメーテウスの弟エピメーテウスに妻として与えられた。やがてピュルラ(デウカリオーンの妻)が生まれた。彼女は最初の人間として生まれたといわれる。

ポローネウス

オーケアノスの息子イーナコスは自分の妹アルゲイアにポローネウスを生ませた。ポローネウスは人間たちのうちで初めて王となった者だといわれている。
人間たちは遥かな昔から、ゼウスの統治のもとで一つの言語を話し、町も法律もなく暮らしてきた。しかしヘルメースが人間たちにいくつものことばを教えてやってからというもの―かくして通訳はヘルメーネウテスといわれる(というのはメルクリウス(ローマ神話の神。神々の使神)はギリシャ語でヘルメースとよばれるからだ。国々を分けたのもヘルメースである)―人間たちの間で不和が始まり、ゼウスを不快にさせた。そのためゼウスは、ヘーレーに初めて供物をささげた善行により、ポローネウスに最初の王権を与えた。

プロメーテウス

昔、人間たちは神々から火をもらい、みずからは火を永遠に保存するすべを知らなかった。その後プロメーテウスは茴香の茎で火を地上に降ろし、人間たちに火を灰の中にうずめて守る方法を教えた。このために、ヘルメースはゼウスに命じられて、カウカソス(コーカサス)山で彼を鉄の心臓を食らわせた。日中に鷲が食った分だけ、夜、心臓は大きくなった。三万年後にヘーラクレースがこの鷲を殺し、プロメーテウスを解放した。

(中略)

アテーナイ

ポセイダーオーンとアテーネーのあいだで、どちらが先にアッティカの地に町を建設するか、争いがあったので、彼らはゼウスに審判を仰いだ。アテーネーは今でも立っているといわれるオリーブの木を最初にこの土地に植えたので、判定は彼女の有利になった。ところがポセイダーオーンは怒って海水でこの地を水浸しにしようと思った。ゼウスはヘルメースに命じてポセイダーオーンがそうするのを禁じた。そこでアテーネーはアテーナイの町をつくり、自分の名前を授けた。この町は世界で最初に建設された町だといわれる。

(中略)

ディオニューソス

ゼウスとペルセポネーとの息子ディオニューソスは、巨神族(テイーターネス)によって八つ裂きにされた。ゼウスは引きちぎられた彼の心臓を飲み物に入れてセメレー(カドモスとハルモニアの娘)に与えた。このようにして彼女が身ごもると、ヘーレーはセメレーの乳母ペロエーに姿を変えて、「娘よ、ヘーレーのもとにくるときと同じ姿であなたのもとにくるよう、ゼウスにお願いしなさい。神と臥所をともにすることがいかなる快楽であるのか、あなたが知ることができるように」といった。乳母にけしかけられたセメレーはゼウスにそう願い、そして雷霆に打たれた。ゼウスは彼女の子宮からディオニューソスを引き出し、ニューソスに与えて養育させた。このため彼はディオニューソスとよばれ、「二人の母をもつ者」と綽名された。

(中略)

オーリーオーン

ゼウス、ポセイダーオーン、ヘルメースはトラーケーのヒュリエウス王のもとに客となった。神々は彼から惜しみない歓待を受けたので、彼に望む物があれば何でも与えようと約束した。王は子供たちを望んだ。ヘルメースは、ヒュリエウスが神々自身のために犠牲に供した牡羊から、皮をはぎ取ってきた。神々はアルテミスを犯そうとしたので、彼女によって殺された。のち、ゼウスにより星の列に加えられた。人々はこの星をオーリーオーンとよぶ。

(中略)

アプロディーテー

エウプラーテース川に天から驚くべき大きさの卵が落ち、これを魚たちが岸まで転がしていき、その上に鳩たちが座り、温められた卵が孵ってアプロディーテーが生まれたといわれる。のちに彼女はシュリア・デア(シリアの女神)とよばれた。彼女が正義と正直さにおいて他の神々を凌いでいたので、ゼウスの好意によって、彼女の願いどおりに魚たちは星の列に加えられた。このためシリア人たちは魚と鳩を神とみなし、それらを食べることもない。

(以上の文は講談社学術文庫『ギリシア神話集』を底本としました)

見聞談叢

見聞談叢

伊藤梅宇著 
(一部)

巻之三

[口宣、宣旨 附参議官]
○口宣と宣旨の別は天子仰ある時蔵人を召してこれを宣ふ。蔵人領して上卿に達す。その口上書きを口宣と云ふ。奥に蔵人の名をかくなり。上卿斗へ達し、いまだ広く行なわれぬ内の口上斗、故に口宣と云ふ。宣旨とは上卿口宣案を以て大外記にわたす。大外記うけ取りて置出すを宣旨と云ふ。故に宣旨の奥には外記七箇国の守を歴て参議の官になること職原方にてやかまし。これは一国を四年づゝ限りつとめて七国を歴て二十八年して参議になるなり。時代によりて年数有余不足もあれども、大概は四年づゝなり。毎年々々その国の年貢国物の勘定帳面相違なく成就するを勘公文と云ふ。公文は公儀の勘定成就の名なり。七箇国の勘定相違なくて参議へうつる。

[清涼殿、殿上、殿上人、地下人、地下四位の諸大夫]
○清涼殿は天子の常居なり。(しかれども常の御殿ととなふは別)其南西に相ならんで一の御殿あり。これを殿上と云ふ。地下の人この御殿にのぼることを不得。五位になればこの御殿に上る。それゆへ五位殿上人と云ふ。又四位にても未だ上殿せざるを地下四位の諸大夫と云ふ。

[昇進の別]
○摂家は若き時二位三位の中将に任じて後、中納言に任じ、その上労をつみて大納言に任じ大将をかけて内大臣になり、左大臣右大臣になるなり。精華も同じ。常の家は四位五位の侍従より段々のぼるなり。

[侍]
○六位の侍 下北面これなり。或は公家諸司の官人、源平両家の武士五位六位に任ずる者皆これを侍と云ふ。それゆへなにゝても異変ある時殿上より六位をよべなどゝあるも、源平両家六位のもの、殿下けいこしある者のことなり。

[公達]
○公達とは精華を云ふなり。或は大将の子中納言にいたる皆公達。たゞ君たちと云ふ心にはあらず。昇進して上み三公に達すると云ふこゝろなり。

[諸大夫]
○諸大夫のこと即ち名家なり。その人四位に任ずれば四位の諸大夫と云ふ。納言に任ずれば諸大夫の納言といふ。

[名家]
先祖より文章の才を本とし、儒家をなし左右弁官をへて職事をかね、才学を以て家をたて、朝廷の有識古事をかね行ふ文官を名家と云ふ。日野、葉室、勧修寺、南家、式家、江家、又は近代の広橋、烏丸、柳原、甘露寺、万里小路、中御門などの類なり。

[公卿補任、見任と非参議]
公卿補任とは官位に進みたる人の姓名を記せる書記なり。補任の内に見任と非参議の差別あり。見任とは在官の公卿。非参議とは前官或は無官の公卿。▲一説に前官の総名を非参議と云ふ。大臣以下参議以上そも官を辞する人皆非参議の列に入。しかれども準大臣は見任の内に入るなり。

[封戸、職田、年給、公卿給]
○封戸とは戸を賜ふを云。職田とは田町を賜ふを云ふ。年給とは毎年賜ふところの禄なり。諸国の掾、目、史生、等参議以上これを賜ふ。太政大臣には目一人史生三人、三大臣には目一人史生二人、隔年に掾一人を給ふ。大中納言には目一人史生一人、三年に一度掾一人を給。参議には目一人史生一人五節を献ずる翌年に掾一人を給ふなり。但しぢきにその人を給ふには非ず。掾なれば掾の禄を給ひ目なれば目の禄を給ふ。その禄にて家侍にても任するなり。

[帯刀・瀧口・北面の侍]
○帯刀は東宮の侍なり。この侍を禁裏にては瀧口と云ふ。院にては北面の侍と云ふ。

[勅任、奏任、判任]
○凡そ官に任ずるに大納言以上左右大弁八省の卿、五衛府の督、弾正尹太宰師を勅任と云ふ。以�勅旨�己を任ずればなり。余の官は奏任と云ふ。太政官論奏して任すればなり。主政、主張、及家令等は判任なり。たとへば一品家の家令、一品家太政官に告してこれに任ずればなり。英按ずるに親王宮方或は摂家、華家に諸大夫をばこしらへらるゝ時は、太政官へ告して任ずる類ひこれなり。今諸国の侯君の受領も判任と云はんか。

[一世二世]
○一世二世のこと天子の御子を一世と云ふ。天子の孫を二世と云ふ。

[諸王]
○諸王のこと漢土にては天子の子、太子にてなきを諸王、或は王子と云。本邦にては親王の子及び孫を諸王と云ふ。いまだ親王になり玉はぬ宮を諸王と云ふなり。

[生公達]
○生公達とは零落しおちぶれたる家なり。尤公達家の末流なり。

[除目]
○目は名なり。官に任ずるを云ふ。前官の目を除ひて当官をしるすの意なり。縣召除目と云ふことあり。京官の除目と云ふことあり。あがた召の除目と云ふは外国の人を召して官に任ずるなり。正月十一日にこれを行ふ。京官の除目はそれよりまえにこれを行ふは公事根源、江次第にあらわる。近代は秋これを行ふ。

[直任]
○直任とは摂政関白の子の二位三位の中将たる人参議をへて中納言に昇ること旧儀なるに、参議をへずして等をこへて直に中納言に昇を云ふ。

[姓朝臣]
○或は源朝臣親房卿又殿上の四位五位は某朝臣と書す。朝家の臣と云ふこゝろなり。三位以上は卿と書く。三大臣は公と書す。参議は公卿といへども朝臣と書す。

[準三宮]
○準三宮とは準三宮大臣のことなり。至極の官位の時この位を給す。準后とも云ふ。三宮とは太皇太后宮、皇太后宮、皇后宮、この三宮に準じなぞらへその三宮ほどの年給を給ふゆへ、準三宮と云ふ。摂政の隠居或は宮方にをくらる。北畠親房吉野におひて準后となれり。

[譜代]
○譜代とは代々系図正しふして、官位の次第みだれざる功ある家をいふ。

[雲客、随身等]
○名家の人昇殿をゆるさるゝを名家殿上人と云ふ。或は雲客と云ふ。五位の殿上を五位殿上人と云ふ。又四位なれどもいまだ昇殿をゆるされざるを地下四位諸大夫と云ふ。清涼殿は天子の常居なり。其南に一の殿あり。これを殿上と云ふ。この殿にのぼる殿上人と云ふ。
給内舎人隋身とは、近衛舎人は随身に両品あり。一を本府随身と云ふ。一を小随身と云ふ。小随身武官家めし仕ふ。御免におよばず。本府随身は御免にて召し仕ふ。

[勘解由大夫]
○判官の五位の人を勘解由大夫と云ふ。勘解由左衛門、勘解由兵衛尉と云ふものは衛門府、兵衛府の勘解由判官に補せらるゝものなり。

[判官]
○判官は賀茂斎院司に判官あり。又勘解由使に判官あり。飯寿(金篇)司にも判官あり。修理宮城使にも判官あり。防鴨河使にも判官あり。施薬院にも判官あり。これはみな諸官にてぜう(丞)をこの官にて丞といわず、ぢきに判官と称す。検非違使の官にては尉ととなへてすぐに判官とも云ふ。勘解由判官宮城使の判官は、皆官をよぶ。廷尉の判官の如きは官をよばずしてたゞ判官と称す。源義経を今世俗に判官と称するは、検非違使五位尉にならるればなり。検非違使の尉は人の員数きわまらず(左大尉二人、右大尉二人、左少尉一人、右少尉一人)あり。しかれども人数きわまらず。

[即闕の官]
○太政大臣 即闕の官と云って、太政大臣になるべき徳の人なれば即闕といふことにて、近代この官にのぼることなし。薨じて後にをくらるゝ官なり。

[正一位、従一位]
○正一位も近代存生内にはいたることならず、死後におくる官になれば従一位と大臣は卿皆のぼるなり。

[追補使]
○追補使の官は古は国々にあるとみゆ。昔の人の系図に助兼三河国の追補使をかぬとあり。

[兵馬]
○兵馬は官令に見ゆ。東百官と云へるはあやまりなり。

[源内、平内、藤内]
○源内、平内、藤内、源平藤の人の内舎人になれるなり。太郎作五郎作は太郎のさくはん五郎のさくはんなるべし。

[主殿、掃部、主水、采女]
○主殿はとのもりならん。掃部はかいもりならん。主水みづもり転じてもんどゝなりたり。采女はうなひめなるべし。

[庄園、庄司]
○庄と云ふは庄園にての私田なるべし。公田にてあるまじ。都に居玉へる高家の人か又寺社の封戸なるべし。是を司どる代官の様なる者を庄司と云ふなり。

[闕国、闕所]
○闕国は国守の役四年にてすみて京へかへり。当分守のなき国をいふなり。闕所は功田賜田など持たる人の罪にあふて亡びて其国の主なくなりたるを云ふ。上へ没収せられて主のなきところなり。

[押領使]
○押領使は国により公儀役にて出る軍兵を召しつれて出る大将のことなり。俗に云ふあふりやうするこゝろにてはなし。押はかゝみることなり。

[五節舞]
○五節舞とは天子位につゐて翌年大嘗会あり、其後五節調台の試ありて常寧殿におひて御覧あり。

[右筆]
○昔の右筆は文才ありて庭訓往来ほどにかきなせる人を用ひ、表向のとりやりの書状皆右筆あり。義絶のふくみ状のたちなり。常の不文のものはならぬ役なり。今時の文言になりたるは公方家よりのこと頼朝畠山へたまわれる書状のうつしをみけるに、みなかなまじりの平話の状なり。これ等は自身に文作にて右筆に印なし。昔の右筆は今の武家の右筆のおよばぬことなり。武家右筆と云役は頼朝義仲の時代よりあり。東監に治承四年六月二十二日の下日大和判官代邦道右筆又治承六年五月十一日下曰伏見冠者藤原広綱始めて武衛に参る。是右筆なり。又曰木曽義仲右筆大夫房覚明在�箱根山中�云々。たとへば禁中にて云ふ外記を将軍家にては右筆と云ふと見ゆ。そのしやうこは重忠が詞に記録所の右筆役へとくと此御成敗の入組を申しふくめんと云々。▲満仲のことばに手跡はよろしからねども、文才あり、書き手にあしゝ右筆にいひつけんとあれば、手跡あしくても文才あれば文の案をしてかき手へわたせるか。漢土にても君の左右に吏官ありて君の言行を記録にしるすとあれば、右筆とかく方よろしからん。君の左右に筆をとりておる役なり。

[衣、小袖]
○袖口大きにひろきを衣(きぬ)と云ふ。袖口の小きにして、手の出入をかぎれるを小袖と云ふ。▲きぬひきかづきなどといふをみれば、小袖とはちがへりと見ふ。うへの衣ともあり。官女は畢竟小袖は下著同然と見ゆ。

[職事]
○弁官にて蔵人頭を兼たる人を職事と云ふ。

[貫首]
○蔵人頭を云ふなり。

[太守、権守、遥授官]
○太守、漢土にては国守の総号を太守と云ふ。本朝にては親王国の守に任ずるを太守と云ふ。親王の任ずるは上総常陸上野の大国ばかりなり。親王の任なり臣下任ずることあたわず。その国へ下向。その国の政を任玉ふには非。只太守と云ふ斗にて在京仕玉ひて介が守にかわりて、其国の政事をなすなり。しかれども外の国の介とちがひ、右三国の介は別して威勢あり。同く権守も俸禄はとれども在京国をへだてゝ居るゆへ是を遥授官と云ふ。

[介、受領]
○親王太守に任じその介、政事をつとめ、親王は在京ゆへ三国の介を受領と云ふ。

[天子常の御座]
○天子常の御座 晝御座(天子の御座席なり。この所に御劔あり。ひるの御座の御けんと云ふ、)

朝餉間(あさかれいのま) 中殿の内にあり。こゝにおひて供お御を献ず。南に平敷二枚、北に絹の屏風を立つ。夜の御殿の方にそへの障子あり。屏風の外に御調度を安んず。

夜御殿(よるのおとゞ) 天子の御寝所。禁秘鈔にあり。曰く夜の御殿四方に妻戸あり。南は大妻戸一間なり。帳は清涼殿に同じ。東御枕畳御座敷なり。御枕に二階あり。御劔神璽を安じ奉る。皆をほひあり。蘇芳なり。御劔の東西の帳のよつのすみに燈楼あり。又帳の南北に畳をしきて女房座とす。

[長橋]
○清涼殿より紫宸殿へ通ふ廊なり。(花鳥余情)

[呉竹台]
○清涼殿の東仁寿殿の間にあり。呉竹河竹ましへ(交え)うふ(植う)。

[萩戸]
○方角不レ審。萩にかぎらず色々の秋花これをうふ。

[殿上、下侍]
○殿上 清涼殿の御表なり。公卿伺公のところ。そのかたわらに下侍(しもさむらい)あり。蔵人などの座。

[左近桜、右近橘]
○左近桜 南殿の前東の方にあり。同殿南面のきだはしに近し。仍て和歌に御階桜と詠す。○禁秘鈔に曰是大略艸創よりの樹なり。貞観(清和帝年号)に枯れしが根より又纔に萠す。坂上瀧守勅を奉つてこれを守、枝葉盛なり云々。醍醐帝延喜記に群列の桜東次にこれあり。天徳(村上帝年号)年中に焼失す。康保(村上帝年号)元年正月にうへらる。又かる。十一月又うへらる。花の宴両度あり。間の一は重明親王の家の木、一は西の京よりうへらる。其後度々焼失近来の木は堀川院の御宇已来なり云々。○兼好徒然草に芳野の花左近の桜皆一重にこそあれ。

右近橘 左近桜の西にあり。禁秘鈔曰遷都以来人家の橘なり。村上帝康保二年正月廿七日左右近衛府に仰せて移しうへらる。○拾芥鈔曰南殿前庭橘樹は旧跡によりてこれをうふ(天暦御記に見ゆと)桜は本はこれ梅なり。桓武天皇遷都の日うへらるゝ所なり。仁明帝承和年中に枯失、仍てあらためうへらる。橘は元来橘大夫の時木也。枝葉あらためずして村上帝天徳年中に及べり。(康和二年の御記に見)▲後世に至りて天子甚衰微し玉ひ、明応の時代御即位の料もなき位にならせられ玉ひし時、桜はやけ残りてあれども、橘根斗存し芽も出でざれども、誰かうへたてまつらんと云し人もなかりき。正親町帝永禄年中に将軍義輝備後海辺叢祠の傍に禁庭の種をうへて栄へし橘ある由を家に侍ひに杉原左京基次と云ふ備後土産のもの、物語にきゝ及び毛利元就その刻十ヶ国の太守にて備後も領知の内なれば、書通にて申通し玉ひければ、御即位料をあげらるゝ程に禁中を尊びらるゝゆへ詮議し玉ひければ、国中にありて折節冬の事ゆへ根をぬかせ、一本実のあるを献ぜらる。如何して遠国へは蔓れりと詮議あれば、稱光帝の時の雑誌司の役の女にその国の神職のもの、女めあり。帝崩じかへる時、橘の実を三つ四つもちかへり、うへをけるなりと。毛利家の侍宍戸家の記録にあり。宍戸某その時橘を備後国中詮議の役になれると見ふと、今松永の塩見明神の傍に橘あり。その樹ならんか。

[官位の座順]
○官位の座順官高き人は位階を論ぜず上座すべし。官位相当なる時は古参の人上座、たとへば蔵人頭は規模の官なり。故に高位の人といへども蔵人の下座につく。しかれども三公納言は各別。

[一の人・一の所・殿・殿下、第一の人・一の上]
○一の人、一の所、或は殿、或は殿下、皆関白の称なり。第一の人、或は一の上、皆次大臣の称也。たとへば太政大臣関白たる時は左大臣を第一の人と云ふ。亦左大臣関白たる時は右大臣を第一の人或は一の上といふ。

[頭弁・頭中将]
○蔵人頭に人あり。右中弁か左中弁にて、蔵人頭に補すれば頭弁と云ふ。近衛中将が蔵人頭になれば頭中将と称す。

[極臈、還昇殿上人]
○六位蔵人四人あり。その内にて第一を極臈と云ふ。極臈に至っては必預�巡爵�と職原にあるは、巡爵はめぐるなり。爵は従五位下を云ふ。言は極臈今六位なれども、めぐり/\て五位に敍すべし。五位に敍すれば蔵人をさりて他官に任ず。しかれば六位の時は卑しけれども蔵人ゆへ昇殿、五位になれば位はたかくけれども蔵人をさるゆへ、地下になりて殿上することならず。故に志しある人は他の官に五位になりても極臈ををさりて新蔵人となり、四人の末座に列す。これを還昇殿上人と云ふ。▲極臈は天子の御衣を拝領著す。

[消息宣下]
○蔵人の任官内侍勅を奉じてこれをなす。勾当内侍内しやうより宣出してなす官なり。総体任官は太政官にて、大中納言奉行なるを上卿と云ふ。

[内侍宣]
○これも同事女官勾当内侍の取次にてなすを云ふ。

[按察使]
○按察使は他国にはなくて、奥羽二国に斗にあるは、大国なるによつて、国の守以下官ありといへども、其外にこの官ををけるなり。二国の守の為に横目の様なる官なり。

[外官、内官]
○凡もろ/\の官、内外をわかつ。公卿八省の官を、京官を内官とす。国守、鎮守府、太宰府などの諸国にある官を外官と云ふ。

[征夷]
○上代は賊兵ある時は征夷をおく。国平らかなる時は、前は常に治不治を論ぜずあれども官人はなし。

[諸王、宮、無品親王、有品親王、法親王、内親王]
○皇子の内をゑらびて、親王宣下とて御ゆるしの儀式あり。なきをば諸王と云ひ、宮と云ふなり。無官無位の時なり。皇子は生れながら五位なり。これを無品親王と云ふ。宣下ありて四品三品二品一品となり玉ふ。これを有品親王と云ふ。僧になり寺に住し玉へば法親王と、皇女も親王の宣下を、式子内親王のごとくたまわることあり。皇女の宣下をたまはりたるを内親王と云ふ。宣下なき皇女を叙一の宮、或は女三の宮と云ふ。

[散一位、卿]
○官ありといへども、卑官なれば散一位、散二位、散三位と云ふなり。凡大中納言、宰相、太政官の政にあづかる故これを卿と云ふ。又官やとひいやしくても、三位以上に敍する人は皆卿なり。

[摂家精華]
○摂家精華は中将より至�参議�参議より納言にいたる名家以下者自�蔵人�弁官に至り、弁官より参議に至り、参議より納言に至る。今代に至るまで中将を歴るの家皆精華の列なり。

[本所侍]
○諸司の侍ひなり。源平の侍ひにあらず。故に職原に外と云ふ。

[二道]
○諸大夫の家は無官を経。生公達の家は中将を経。之を二道と云ふ。職原に二道を離るゝと云ふは、諸大夫弁官をはなれ、生公達中将をはなれて、三位にぬけるを云ふ。

[判官代、主典代]
○院、判官代、主典代。代の字をつくるは院中に限ると。職原にもありて、禁中奉公の人にて、院の判官主典をかぬるなり。禁中の官と院の官と、紛乱するをきらひて、代の字を加へて院の役なることをあらわす。

[国司他官に任じ受領を去りたる場合]
○国守に任ずるの人、他官に任じて受領をさるといへども、位署に書くの時可レ書�何ノ前司�。たとへば前越前守従五位下とかくべし。散位従五位としるさず。

[童形]
○元服までは冠も烏帽子もきず。長絹をきて末広を持ち、頭の髪はからこまげにて、尤太刀もはかず、これを童形と云ふ。下に袴はきるなり。歩行の時は青侍刀をもちてしたがふ。しかるに義経の牛若丸の時こゆひの烏帽子を著し、太刀をはけることは、上代武家の儀式か。公家にてはつゐになし。加冠と云ふか。冠のつけぞめ理髪と云ふか。からこまげをさばきて冠したにゆふことなり。これが元服の祝儀なり。


ここでは、「官位」「禁中」「後宮」の項、及び「官職一覧」の当該項目に附したものを除いた。

巻之六

[重成誓紙使節の詳細]
○木村長門守重成は豊臣右大臣秀頼公の股肱の臣なり。父を常陸介重茲と云ふ。関白秀次の難に逢ふて摂津州茨木の城にて自殺す。その時長門守いまだ一歳にて母にいだかれ、近江州馬淵と云ふ所にのがれ居り、稍せい長せるにいたつて、佐々木義懐の介抱によりて、文武の道に志し、才智衆人にこゑたり。程なく秀頼公の臣となり、忠勤おこたることなし。

慶長十九年の冬不慮に大仏殿鐘の銘より事おこりて東照宮と秀頼公と不和に成せ玉ひ、その事重くなり、ついに大軍をひきゐ玉ひ、大坂城を攻め玉ふ。しかれども、固東照宮寛仁大度の御気質ゆへ、程なく御和談になり、御互に御誓紙の御とりかわしあるべき定まりければ、城中より木村長門守をゑらまれ、茶臼山御本陣へ東照宮御誓紙の御印見届の検使に、十二月廿四日巳の刻にやらしめ玉ふ。(時に長門守二十三歳と云ふ説あれども、常陸介自殺の年一歳なれば当年までにて十九年ゆへ十九歳と云方よろし)長門守大坂二の丸の追御の門を出でゝ、天王寺より、茶臼山御本陣に来る。肌には白小袖を著し、上には浅黄に四つ目ゆひの紋つけたる小袖、同じ色の麻上下、同紋常の大小を帯し、あし毛の駒の太く逞に、鏡鞍おきて、くれなひのあつ總かけしろき手縄をとり、大文箱をあさぎのふくさに包みて、首にかけ、口取一人、士二人鎗はさみ箱、草履とり上下七人斗なり。各すはだ本町八丁目藤堂和泉守持場を一番として、浅野但馬守、伊達陸奥守、段々に道をはさみ、長柄をかざりて警固す。長門守は陸奥守陣場を通りすぎて、御本陣に至り、御門前にて馬より下り、内に入るといなや成瀬隼人、安藤帯刀両人むかへとり、御玄関に伴ふ。こゝにおゐて本多上野介出てむかへて、御書院にいざなふ。この時御玄関御廊下などにむらがれ居れるともがらは大分あれども、木村に対しあだをなしたる者は一人もなく、皆御譜代の御家人にして世上にかくれ無き武勇の人斗りなり。しかれども長門守少も臆したる気色なく黙礼もせず刀をさしながら御ふみ箱を左右の手にさゝげてあほのぎ通る。列坐の諸人いきだふるといへども、大切の御使なれば、牙をかみて堪忍す。すでに御書院に入り、座をまふけんとする時、両わきより、秋元但馬守、西尾豊後守、成瀬隼人、安藤帯刀四人出てゝ、叱叱と云ふ。しばらくありて東照宮出御あり。出御のまへ、御同朋徳阿弥御小蒲団を持ち出、御上段の真中にしく。次に御小姓鳥居左京亮御脇息をもち出て、よき程にさしおく。其つぎに東照宮出御、御肌に著込の御綿子を(尾州義直公御母堂よりたてまつられしものなりと云ふ)召し、其上に茶縮緬の御小袖、をなじ色の御道服、繻子の御はかまの紫ちりめんのほうろく、御頭巾を二つ折にして御いたたきに置せられ、はみ出の御腰物御刀は、竹腰筑後守もち出でゝ御座の御左にさし置きてしざり居る。この一人は始終中にいらず、慎んでかしこまる。その時本多上野介つゝしむで言上す。御城中より御印判の検使木村長門守伺候仕候と、時に長門守かしらを上げすゝみ出てゝ、少しも臆せず言上せるは、主君今度不慮に叛逆あるの所に其つみをゆるされ、御和睦の段萬々慈愍を奉レ仰。ことに将軍太平のはじめとありて御誓詞あそばさるべきの由し、重々の御恩恵なに事かこれにしかん。依てとてもの御儀に御印もと拝見の為めおそれながら拙者を差し越し候と申しおわりてすこ退き、また頭をさげ、つゝしんで畏る。東照宮の玉はく、和睦のうへその儀にをよばずといへども、たがひの誓詞は世上静謐のためなり。もだす可きに非ず、次に使者なんぢは常陸介が子とかや、実におもてざし父に似て天晴器量骨柄およそ百萬の大将にもはづかしき所なし。昔し関白殿全盛の時、北野の松梅院にて汝が父と茶の湯に会合せしが、むざんや常陸介は智勇かねそなわれるたけき大将なるを、太閤石田が讒を信じ玉ひ、無レ罪死をたまわれり。汝その時当歳なりと聞く。弓矢とる身の風情ほど世にあわれなる事はあらじ。但し汝が父のあだ治部少輔、大蔵大輔、右衛門尉などの奸臣は予がうち亡す所なり。相ひかまへてうとくな思ひそと、仰せありければ木村もいかゞ思ひけん不覚に泪をながしける時に、御祐筆曾我左衛門佐御文台に御硯ばこと大御文ぼことを置きて、持ち出て、御前にさしおき退き入る。東照宮御誓詞のしたゝめあるを開き給ひ墨を点じ玉ひて、御名乗及び御判を被遊、封刃を以て御ゆびを玉ふに、御血出でざりしかば東照宮宣く。年おひ血もすくなきゆへふかくつけども出ずと上意あり。この時諸人おもひけるは木村御血判に及ばずと御あいさつあるべきにと存ずるに、しからず。血虚の上意を耳きかざる如くにしてうつぶきながら空目にかけて御手元を詠め居たり。これによりて東照宮やむ事をゑたまわず御舌のはしをさき血をあゑし給へば、御歯医師粉薬を持ち出てゝ、御舌さきに付け奉る。上野介文台ともに御誓詞を開きながら木村にさづく。木村同じくさゝげて御誓詞を拝見す。そのくわしき事やゝ久し。その間に医師入り曾我出でゝ御硯ばこ空しき文ばこをとり入れ、巾をもつてうへを包みて左の手に御文ばこをさゝげ、右の手をつき御暇を申す。左京亮熨斗をはさみて木村にあたふ。これ御傍へちかづけべからざる為めなり。すでにして東照宮内に御入あり。木村も座を立ちて始め刀をおきし所におひて御文ばこを又首に掛け、刀をさして立ち出て御玄関にいたりて、謹んでひざまづき、最前はいまだ君命をのべず、又尊命もきかず、ゆへに各へも一礼に不レ及はその段御免あるべしと。諸人感心のあまりあいさつにあたわず。稍ありて伊奈筑後守御念入り候御事御通りあるべしと申されければ、木村も一礼して出づ。成瀬、安藤両人はしき台までおくりける。翌年夏陣に必死を決し、胄の内に蘭奢待を焼き、忍の緒のあまりを切り、類ひなく戦ふて討死す。(時に年二十歳)首を井伊直孝の家人安藤長三郎うち取り、すなわち長三、三方にのせ持ち出でゝ実検に備ふ。東照宮将軍家共に先づ安藤長三郎と御詞かゝり上覧あり。東照宮さて/\よきたしなみ哉と上意あれば、諸人その御詞につきてちかづき、よりて是を見るに、首はなはだ熏ず。阿部備中侯、本多上野侯、あまりに感心し玉ひて耳鼻までをかぎ玉ふに、口に丁字をつめ、かぐにしたがふていよ/\臭ふ。両御所あたりを見まわし給ひ、汝らこゝろがけなきゆへに、早くこの匂をかぎつけずと上意ありしかば御小姓衆御傍衆のわかての銘々、われも/\とかぎに出て、後にて群集せしかば、両御所さわがしと御しかりあり。時にたれともしらず御小姓衆の中より、かほどに最後をたしなむ身のさかへきの少しながきはいかゞと私語ければ、両御所再たび御叱あり、さだめてこの比風気などか又外に子細ありてそらずに出陣せしめたるか、もとより是の首は討死のかくごなれば、胄のしのびの緒のしまりにわざとさかやきをそらざるか、決定しのびの緒の端はきりてあまりをのこさず、再びぬがず著せざる用意ぞあるらん。それ見よと上意ありしかば、長三郎すなわちもち出て諸人たちよりてこれを見るに、はたして上意のごとし。時に東照宮の玉ひしは若年の倅めに誰れかかくのごとき事をおしへて末代に名をとゞめしむるや。誠に惜しきさむらひ哉とありて、御涙をながされたり。▲城中数百の侍の内より、大切の御使に漸く十九歳になるものをゑらみの上にて茶臼山御陣へこされし事、何様平生木村が行跡常人にかわりて、才智武勇のそなわれるを秀頼も御目がねありと見ふ。たちひなにかあいさつ万事、事に馴れたる老たるものも不レ及ところ、御玄関にてかへりざまに一礼をのべしをもむきのこる所なし。数代の士の子孫ゆへなり。性は人一同に善なれども、習のうつすところしるべし。常陸介家の治めやうを記録せる書あり。尤当歳にて、父にをくれたれども母なる人たゞ人にあらず。楠帯刀の母と同事とあり。その上義懐と云ふ人もたゞの人にあらざれば、教訓も正しからん。左氏伝にもある通、子のよく仕ふるは、父の教忠なればなりと。尤なるかな父も道理をしらでをしふる事もなき家を見れば、見分は大小を帯し、士の様にかつほくは見ゆれども、どこそのつまはづれにて能く家の風儀の善悪しれるなり。つよき斗が武士ともいわれず、大切の事なり。それははやく子を持ちて父母共に子をためをしふる道をしらざればあしきゆへ、三十にして室ありと聖人の法度は尤哉

[明智光秀臣斉藤内蔵之助の最後]
○明智日向守光秀没落の後、家来四方へ離散する内に斉藤内蔵之助(那波和泉守、斉藤内蔵之助両人共に稲葉伊予守一徹入道に仕へをれるが、子細ありて、両人ともに浪人かまひあり。光秀と内々悃意ゆへ、両人光秀をたのみ、信長公へ訴ふ。信長公一徹へわびにて、那波は帰参せり。斉藤は少しわけありて、切腹と仰せるけらる。しかる所光秀信長公へ出頭の傍衆、猪子兵助をたのみて、光秀が家来となせり。)江州へのがれ来れり。堅田の者、捕へきたる。太閤三井寺の客殿の前に大床をすへられ、内蔵之助を引き出し、汝一徹入道の方にて、不行跡ありて、かんきを蒙りしが、光秀が蔭にて今まで存生、光秀逆心のおこりも、汝張本なり。仕置にいたすべき筋もつみ深くて却てなし。追付磔に可�申付�。申す事はなきかと、両度までの玉へども、さまで臆せる顔色もなく、うしろを見まわして索を御とり候は、士かざう兵か、左の手少しくつろげ給へといふ。太閤のぞみの通りにせよと仰せければ、少ししばりをはなちたり。左候へば左の手を地へつき、私事光秀が家来に成り居候へば、光秀が申し付の通りにはたらき申候。信長公へ御うらみも無く、光秀が怨み申により、家来ゆへ逆心の場までつき傍ひ申候。逆心のこと達てとめ申候ひしは、私にて候。かやうに申上候は死罪をまぬがれん為にて無く候。罪人との御詞を御わび申候斗にて候。早く命を御召し斗を願ひ奉り候。懐中の一巻御覧に入れ度旨申し、左の手にて右の片手にくゝりつけ候繻子の守り袋を出す。関口左門と云ふ御小姓請取に傍へよられたれば、右の手にて左門うけとられさうなる様子を見て内蔵之助申は、すいさんながら召人の傍にて、右の御手は御出しなきものとにこやかに申候。その一巻を開き見玉へば、いつの間にしたゝめ置候やらん、光秀が逆心とめ申す諌の状と、光秀が返事なり。太閤の玉ふは汝これを今度軍場までもち来れるは、狭間をくゞりて、降参し、この書通にて恩賞をかうむらん術と見ふ。沙汰のかぎりの者とをほせられければ、内蔵之助それは平常の人のことば、筑前守様の御ことばとぞんじ奉らず候。私心底光秀を大切に存じ候段死後までも世上へしらせん為と存じ候斗にて候。はやく命を召し給へとありて、其後何角御尋あれども、最初申あげて詮もなし。御免とばかり申居候。光秀がかばね御詮義ありて尋ね出し、首につぎ粟田口にて磔にをほせつけられ、内蔵之助も同所に磔にをほせつけらる。光秀が鎗とりは、沢村権七といふ足軽、内蔵之助がやり取は伊沢十平といふ足軽、内蔵之助はたほこの上にて両手を釘にてしめける時申しけるは、左の手より右の手さがり候。これにては、つら真向になりがたく候。打ち直し給はれと。されゆへ打ちなほし候へばにつことわらひ、今少し御まちたまわるべしとて目をふさぎ

  • 尸雖レ埋2草野1 魂魄帰2遠天1 生死風前燭 悟故胸中鮮 柳緑花亦紅 三界尽2眼前1

大音にて右の詩をとなへ、死後これを丹波亀山の永元和尚へ御はなしくだされ候へと、奉行へ申し、もし御わすれ候ては私本意に非ず候。今一度申すべし。御書付けをき給れとて、今一度又となふ。奉行行硯にて紙にかきつけ置きければ、これからもはや人界の仕舞にて候とありて、眼をとぢたり。両わきつきて後又眼を開き、因果ふかきと申すが私とをぼふ。いまだ息たへ不レ申候。今一度急所をつよく御つき通し給はれとれ眼を又とぢうなり死に仕舞候。

[太閤五奉行]
○太閤の五奉行は前田徳善院玄以(京の所司代なり)浅野弾正少弼長政、増田右衛門尉長盛、石田治部少輔三成、長束大蔵大夫正家。玄以は京都洛中洛外の難事、神祠、仏字の事をつかさどるべし。大蔵は年貢のことをつかさどるべし。長盛、長政、三成は諸事の相談に入るべし。▲この時の奉行と云ふは、今の御老中のこと、それゆへ国々所々の制札に奉行とあるは昔の例を今もうけ玉御老中の仰せなり。その国の奉行にあらず。それゆへ今の制札にも奉行ととめて、右之通かたくまもるべしと。又その奥にその国々の守護の名をかくなり。

[関白秀次の無法]
○関白秀次公の料理の塩梅を見し役人は盲人にてありけるが、秀次公狩野より帰り玉ひ夕御膳の時御煮物すなありけり。盲目を呼び出し玉ひ甚叱り玉ふ上自身に大わき指にて右の手打ちをとし玉ひ、又左の手をおとさんとおもひ、汝右手うたれてもまだいきて居り度かとあれば、左の手をうち玉へば、最早人界にのぞみなし。申上度事あり。平生御口をあき玉ひて御ありき、それゆへ鷹場にてすなが御口へ入りてありたるならん。その様に口をあき玉ふ様にてはなにとして天下がをさまるべき。御身のわざわひあまり程遠かるまじと申。三日ほどさしをかれ四日めに斬られたりと。不仁の甚しきこととこれも先君子に聞けり。

[妙清孺人遺話天草四郎のことども]
○天草四郎大将になりたる時二十三と云ふ。十九まで道春先生の学校にありて学問し、孔門の子路をしたひて四郎と云ふときく。死せる時いまだすみ前髪の由し。幻術をまなべり。伊豆守様へ大きなる菓子折を上げたり。折のふたを開かせ見玉へば、蒸たてのいげのたてたる包子なり。豆州候をほせに彼がくれしものは不審なり。傍まわりのもの一口もくふことなかれ。すてさすべしときびしくをほせつけられ、それゆへ谷へすてけり。その翌日見せにつかわされければ馬の沓にてありしと。英が外祖母妙清孺人姓は筧、父を九右衛門と云ふ。島原にて九右衛門討死。それゆへ孺人継母某しと、但馬出石小出侯の家臣に縁ありてをち来りおれり。妙清寛永三年に出生、島原落城の時八歳、享保九年甲辰九十九歳にて逝す。それゆへ天草の事は平生より咄せるを長英もきけり。女のことゆへさだかなる咄はなけれども、父も兒も討死、妾腹に当歳の子あり。その妾は天草近郊のものゆへ、その子をいだきて、それが親の方へしのび居り、養育させ外祖母但馬より丹波薗部中川氏嫁し玉ひ、中川氏も暇を薗部にとり、京にて浪人にて終れり。中川氏(即英が外祖父。薗部につかへる時中川弥左衛門と云って、二百石の家禄にて兄の子五郎大夫を看坊しをれり。五郎大夫不行跡。侯よりいとま出でけるゆへ、わが外祖父もいとまをとれり。京にて妙心寺に居住。姓名を改、瀬崎豈哲と云ふ。貞享丙寅の歳七十四にて死去。)それゆへ外祖母吾が先人の家にをれり。四十年前一人の老ひたる侍ひ若党道具どもありて先人をたづね来り、われは筧九右衛門が末子、天草落城の時父九右衛門、兄勘之丞討死、某は母と近郊にしのび居、今松平日向守に仕へ居、知久間平内と云ふものなり。わがあねの女、貴公の妻室と聞く。いかゞと云ふ妙清孺人対面なれども、一歳の時わかれ、年数もへだゝり、見しりもなし。時に平内いへるは、わが母はしせるが、死にのぞめる時くれしまもり袋あり。この袋覚あるべしと。懐中よりとりいだしみせけり。妙清孺人よくみ玉へば家紋もあり。その子うまれし時あねゆへぬひてやりし袋なり。互落涙せり。今に日向侯にその眷族あり。妙清孺人の咄しに落城の日、西のやぐらよりうちし石火箭の音今に耳にありと。その外立のきける時崑崙奴多く船ばたへ水をくみにゆけるををそろしくをぼへたり。その外の事はさゝいなる事ばかりなり。天草落城明正院寛永十五年なり。元文三年までにて百一年ほどならん。

[竹ながしと云ふ杖]
○大坂城へ秀頼公の代人衆をあつめたがりて、籠城する人さへあれば、竹ながしと云ふ杖をあたへり。古義堂へ出入せる指物屋の先祖、大坂へ籠城せる時もらひし竹ながしとてもち居たり。竹ばかりはのこしをけり。まるみ三寸斗竹を乳ぎりにきり、節をぬき、地へつく所にはてつのどうがねありて頭は卯の木にてつめあり。内には正金をいこみたる物なり。

[小野寺十内]
○赤穂四十七人の内に小野寺十内秀和と云ふ人あり。内匠頭様御不仕合の時まで、京の御留主居をつとめをれり。古義堂へも、度々入来、先人と念比なり。中々武勇にも見へず。年齢四十余と見ふ。やせてたけたかし。諸国の京留主居多く見へける内にて、衣服もこしものもかまわぬつきにみへたり。江戸へゆかるゝ前日にみへ所用ありて江戸へゆくと暇乞所存ははなしはなけれども紹述先生や長英が前にてははなはだ残念がらるゝ様子にみへ、紹述先生へ申されしは、人の生死ははかりがたし。仁斎先生へ今一度貴意を得度が、われも五十にちかし。先生も七十なればはかりがたし。われ妻と母とを聖護院の杜にさしをき侯。その辺御経過侯はゞ、をとづれ頼むとありけれども、母子は九十余なれども妻室いまだ五十にみらざればをりふし使をやり玉へる斗なり。吉良公への仇をむくひ奉らるゝと云ふさたありて、古学先生より紹述先生を使として賀しにやり玉ひければ妻室も母子もまことに喜び、顔色にあらわるゝとみへて、手のまひ足のふみをもしらざる景気に、母氏は別てさやう見ゆと紹述先生帰宅後咄し玉ふ。翌年二月十四日四十七人に切腹をほせつけられたる由風聞ある時、又吊かた/\〃紹述先生御越侯得ば多年学問もこゝろがけ候しるし仁斎先生へ幾重にも御礼、人は子にをくれてははやくしにたがるものなるが、私にをひては子が本望を遂候ゆへ世上面白く人へつらもむけよくをもゆへ、これより達者になりて膳どもすへ、吊ひつかわすべしとあり、その後いづ方へゆかれしか、跡もしれぬ様にありけるが、大和の龍門に母氏の弟僧ありてその所にて死去妻室は尼となり、林丘院公と云比丘尼御所にをられし由、古義堂へもたへず音問あり。古学詩集に十内母の賀の詩あり。

[大石主税の人品]
○大石主税江戸を発足前御霊の述子に梱意なる町人ありて、その所にて出会せり。石崎豊之助と名をかへ、近日に江戸へ仕官の為参ると云ふ口上、その内に急にまちがひありて、延引、半年も在京ゆへ七八度も出会、耻をしのび辱をわざとうけられし事幾度といふ事をしらず。また、すみ前かみまで色白く甚びれいにあれども、骨柄たくましき事別て人にすぐれり。その後北野の茶店にてふと又出合、もはや明後は出京といとまごひをなし江戸にては大川主馬と名のるべくあひだ、江戸へこされば小石川辺にてたづねくれらるべしといへり。この間いひつけたりとてふちかしらをみせ玉へるが、地はしやく銅にて、金のをきあげに龍の玉をとる所あり。あとにてをもへばとりにくき首をとりえんとこゝろざせるか。性質とかく、いふにいわれぬ温而厳なる人なり。

[針屋宗春と太閤時代の茶事]
○太閤の時代の茶人はあかつきまで、囲にかまをたぎらせ、ちかづきにてなき人にても案内もせず、路次よりあがり、手前にて茶たて飲みて、通れりときこふ。夜ふけて太閤いづれよりかへり玉ふ時か、今時分にもふと湯のたぎりある所はあらんかと、路次にてたづね玉ふに、御供の人針屋宗春ならではあるまじと申。宗春が茶亭へゆきて御覧じたれば申ごとく湯たぎりて、茶を賞翫し玉ふと。ある時たれか夜ふけて、囲に茶をたておれるが、誰ぞ見てこひと宗春いへるゆへ、見にゆきければ、若党ども多くつれたる士なり。よく問へば石川五右衛門と云ふ。その時代の風儀その様と見ふ。わけありて英もその囲をみけり。なにのかわれる風色もなきが只一つかわりし事、囲の庭のよほどわきに大きなる四方を石にてかこめる池あり。その池へ林の中より筧にてたきながる。茶人のはなしにてはなし。その所を当分かりておれる人のはなしに、茶たぎる音とこの筧の音とあひこたへたりと云ふ。


(岩波文庫『見聞談叢』を底本としました。)

剣法夜話(一)

剣法夜話

直木三十五著

その一

剣法の起源

流布本の価値

 日本の剣法が、単なる闘争的技術から、一つの「道」にまで到達したということは、世界における武技史上の特異なことで、もう少し研究されていいと思う。
 流布されている二三の書における、剣法の起源と発達の径路は、余りに簡単でありすぎ、且つ誤が多すぎる。唯一の信頼すべき書、山田次郎吉氏の『日本剣道史』さえ、この項目のために九頁しか費していないし『武芸小伝』は、伝説そのままを採用し、『撃剣叢談』も、このために七八百字を使用しているのみである。
 そうして各書とも『甲陽軍鑑』をそのままに信じ、謙信流は疑わず、山本勘介を俗説のままに採用し「あいす陰流」の起源に定論なく、読んでこれを疑えば、限りなく信じえられない物が現れてくる。
 荻生但侠は『鈴録』に「当代諸家の軍法といふもの(略)多くは寛永末より寛文の頃迄の人の増補したる物なり(略)畢寛、信玄、謙信二流の外に不レ出、其二流といふも、実は小幡、北条、山鹿、朝倉が流儀にて二公の流には非ざる故」と、書いているが、これは剣法書へも当て嵌めていい言葉である。
 流布本の信用程度を試みるために、仮りに山本勘介の例をとると、剣法史上、勘介は「京流」の達人ということになっている。これの出所は『甲陽軍鑑』であるが、軍鑑以外に勘介の武術者として名の出てくるのは『武功雑記』のみである。史家はこの書を軍鑑よりも信じて、同書の一節、「川中島合戦の時、昌景より勘介を斥候につかはし、帰って山県にもの云ふ体を、信玄御覧、あれは何ものぞとありしに、あれは山本勘介とて、三河のものなり、口才あるものとて山県扶持し置きたりとは申したりといふ」を以て、山本勘介の正体なりとし、彼が根本史料に少しも出て来ない故を以って『軍鑑』の勘介は、軍鑑の作者が作り上げた人物と論じている。これは『軍鑑』という書が高阪弾正の名を借りて、実は小幡景憲が、自分に都合のいいように書いたもので、その史料的価値は信じ得られないから、尤もな次第である。
 然しながら『武功雑記』には、もう一つ勘介の話が出ている。それは、上泉信綱が、東国へ戻る時、三河国牧野氏の所で、勘介と試合して大いにこれを破り、そのため勘介は流浪して甲州の方へ赴いたという話である。
 信綱が、京都を出たのは『言継卿記』に、明記されている如く、元亀二年の夏であって、川中島一騎討戦は、永禄四年、ちょうど十年前に、戦争が済んでしまっているから、この勘介は別人か、或は戦争当時は武田家にいたが、その後三河へ戻ってきたのか?同一書に、こういう矛盾さえあるから、こういう伝記的人物の研究になると、専門史家さえ考察の不足を示している.
 謂んや、文を知らない武人間に、云い伝えられたままを書かれた書が、どの程度に信用できるか?住古は勿論、近年になってさえ、真相の判らないことが可成りに多い。従って剣法の発生についても私は、まず史料によらず、他の方法で考えて行って、やや正確「らしき」結論を、示してみたいと思うのである。

刀剣の変遷

 人間が、刀をもって、人問と争った翌日、又はその夜、或は二三年の後、多分、剣法らしきものは生れたであろう。と、こう想像してみることは、無理な推測でない。従って、刀が発明されて暫くの後に、刀法の原始的型式は生じたであろうと。こういう結論は一体どうであろうか?
 こう、結論して、では、刀のある所に必ず剣法ありやと四方を顧みると、アイヌに、ネグロに、ホッテントットに、生蛮に、刀はあるが、刀法があるか?いや、こういう未開人ではなく、隣邦の文明国支那にさえ優れたる剣法があるか?あったか?
 少なくも、存在を示しうる程度の、剣法、即ち刀の組織的攻防法は、可成りの文明を有する人間でないと発明できないし、これを必要と感ぜしめる適度の状態がなくては発生して来ない。ここに於て、吾等国粋派、髭物作者はまず剣法を生むべき刀というものを考察して日本の刀剣の変遷に、日本独特の現象のあることを発見しなくてはならぬのである。
「片薙ぎ」「片刃」から出たという「刀」という言葉が、日本の純粋語である如く、刀が全く日本独自の産物であるということは、古くから誇りとされ、唐人もこれを称めて詩に唄い、近くは京大の近藤博士によって、科学的にも証明されている。が、刀が其処までになったことは、一朝一夕の業ではなかった。
 外国の殆ど悉くは、古代より現在まで一貫して、突く剣法一つで、片刃の剣を使用して、やや斬るにも使ったのは、スカソジナビアの後海賊時代と、アングロサクソン歩兵の短剣位のものである。そうして、支那に於ても亦、その変遷は極めて少なく、刀剣に対しての研究は到底日本と比較できない。
 それが日本に於ては津軽半島の鉄宇で発見された石刀に内反りのがあり、それから神武天皇熊野平定の時の宝剣、現在大和国石上神宮の神体である「フッノミタヤ」も内反りである。即ち、日本の古代には明かに内反り剣があったのである。これがどうして外反りになったか?これを考えて見ようというのである。
 この内反りが、直剣となり、直剣がどうして、片刃となり、片刃がどうして外反りになったか?この変遷は、明かに刀に対する研究の結果を示しているものであって、この刀に対する研究の変遷に、多少の剣法が伴っていたであろうという想像は、必ずしも、無謀な臆説ではないと思えるのである。
 現存している奈良朝前後の刀剣を見ると、諸刃の中身で装の刀である作、刃端が直角になっている物、刃端が槍の穂先の如く尖っている品、それから後世の如く、鉾尖になっている物と、明かに作剣上の過渡期と、その変遷を物語っていて、ここに刀工と、下命者との、刀に対する研究の存在を明かに物語っているのである。
 そうして、それ以後次第次第に、諸刃の直剣が圧倒され、片刃の刀が勢力を得てきているが、これは明かに斬るという研究が、日本独自の修練を経た結果であって、一切の文化が、支那の模倣であるに拘らず、刀のみが特種な歩みをしているということは、甚だ愉快とすべき現象にちがいない。
 大宝年間の大和国天国の作には未だ反りがついて無いが、大同年間の伯耆安綱、同真守の作には、反りが現れている。この反りの有無は、刀工の趣味で無く、反りが斬味の上に於て有効であると認めた結果であるが故に、この刀の変遷と共に、剣の法は刀の法となりつつ、ここに、剣術の芽が生れつつあったということは否定できない。

古代武人 

では、一体、その剣法は誰の手で起されたか?これはどうも武人によってというより外は無い。
 古代武人は知る如く、隼人族から出た久米部、大伴部である。然し、彼等が武人であった頃は、主として剣であって― と、同時に、彼等は夷であるが故に兵士を勤めていたもので、必ずしも強いから、剣法上手だからのみでは無かった。従って、この武人間には剣法があったとも云えるし、また無かったと云って何の否定すべき証拠も無い。蘇我入鹿の護衛兵を「健人」と云っているが、古代武人は恐らく単に力を主としていたもので、争闘技巧などは余り考えなかったものであろう。これは後世に於てでさえ、専門武人の間に、力は尊ばれたが、剣法は蔑視されていたのであるから、謂んや、往古、石鉾、弓矢の戦のみの時代に於て夷の間に、気の利いた剣法などあろう筈は無いのである。―と云っていい。
 しかも、この兵士の素質は次の時代にすぐ低下して八位以上の人々は、代人を兵に出すことは許され「名是兵士、実同二役夫」とか「兵士の嘆、元レ異2奴僕1、一人被点、一戸随亡」とかいう言葉が残っているように、一種の奴隷で、みじめな下層生活をしなくてはならなくなった。従って、ここに武を練るというような心懸けと、余裕とがあったとも思えないのである。
 そうして、宮廷の人々は、ただ装飾として剣を帯びているのみで、殆ど実力無く、王朝時代になると、護衛者として、必ず、地方武人の従者を借りなくてはならぬようになったから、ここにも亦、剣法は甚だ疑わしい存在になってくる。
 然しながら、かくの如き時代であるに拘らず『令義解』の「軍防篇」は、明かに剣法の存在を示していて次の如くに云っている。「凡衛士者、中分一日上、一日下、毎2下日1、即令下於2当府1教中習弓馬上、用レ刀、弄レ槍」。
 叉『享禄本類聚三代格』には「禁三断兵士差二科雑役」「右声勅、番上兵士集国府一兼撃剣、弄槍」と。即ち「用刀」「撃剣」の文字か示されていて、剣法の存在は否定すべくも無い。
 だが、である。「兵士に雑役を差科する事を禁ず」と云っているように、当時の兵は「同役人」、人夫、百姓にすぎなかったから、兵士かそうなるまでに武備が衰えていたのであるから、従ってこの令も出た訳で、果してどういう修練を、誰が教えるのか?そもそもこの「令」そのものが、唐制の模倣で、こういう風に制度を完備すればよいという立案のみで、どの程度実行されたか?実行されたとしてこの教習がいつまで続いて、どう発達したか?史上に於ては、いよいよ武備衰えて『今昔物語』にある郎党の如きものばかりになったのであるから、単にこの「令」の用刀という文字の存在のみによって、剣法があったとは論断できない。
 私は、刀の変遷に於て剣法の存在を肯定しながら、武人間のことを考えて否定したが、これは矛盾のようである。然し、これは、奈良朝以前の戦の経験が現存の奈良朝前後の刀に現れた訳で、奈良朝前後の遺物と称されていても、それ以前の作もある。と同時に奈良朝前後の兵の、日雇人夫であったことも、また事実である。
 こうして鎌倉期に至るまで、戦と云えば、荘園のエキストラを使用し、常備兵が無く、僅かに親兵、太宰府の取締兵、三関の番兵士が常設してあった位で、この程度の兵士に、兵備に、大した武技の起りようの無いことは、後世の戦争と剣法の関係をみると、よく判る。

支那渡来 

 ここで一考してみるべきことは、拳法が支那から渡来して柔道になった如く剣法もまたそうでないかということである。「刺剣の術」などという言葉は『史記』に出るし、剣侠、刺客伝の話は古くから支那にはいくつもあって、古代支那に剣法の存在していたことを十分に証明している。然し、一体古くから文字のあった支那人は、十分に昔を語って多くを残し得た。剣の話だけでも、干将莫耶のほか数十の物語がある。それに較べると、文字の輸入の遅かった日本は、余りに伝える物に余裕が無く、剣法も大いに有るにはあったが、宮廷記事のみで既に一杯になって、武技の末まで書残す余地が無かったのだろうと― これは都合のいい理窟であるが、云って云えない理窟でも無い。
『止文正要』に「刀百済国博士王仁所レ伝、而所レ云、持レ短、乗レ長、條忽縦横之術也、称レ平法学」とあって、いささか支那渡来らしい趣を見せている。これが事実か、どの程度の術か、全然不明であるが、よしこれを事実としても、支那から渡来して起ったものでないということは、前章の刀剣の変遷から立派に推論できるし、逆に、剣法は日本より支那へ輸出した歴史があるから大したものである。
『三才図会』は「案使レ用、無レ如2倭子之妙1」と称讃しているが、倭冠、八幡船の人々が、支那沿岸を荒すに三尺の刀をもってするに及び、支那人はすっかりその妙術に感嘆してしまっている。
『武備志』に曰く「茅子日(茅手とは茅元儀のことである)武経総要所レ載刀凡八種、而小異者猶不レ烈焉、其習法皆不レ伝、今所レ習惟長刀、腰刀、腰刀非2団牌1、不レ用、故載2於牌中1、長刀則倭奴所レ習、世宗時進犯2東南1、故始得レ之、戚小保於2辛酉陣上1(正親町天皇永録四年である)得1其習法1」
 戚氏は、倭憲を平定しに赴いた大将であって『異称日本伝』には、この時の剣法を、上泉氏の「神陰流」だとしている。こういうのは、支那との戦の都度現れてくるもので『両朝平壌録』をみると、「刀間五尺余、用2双刀1則及2丈余地1、叉加2手舞六尺1開レ鋒凡一丈八尺、舞動則上下四労尽白、不レ見2其人1」と。支那人一流の云うことも大きいが、大きく云うだけ、日本の剣法を恐れていた訳で、これは明かに支那人剣法とちがった、そうして、遙かにより以上の術であったことを物語っている証拠である。
 そうして、小笠原源信斎などは、支那へ逃れて、日本の剣法を拡めなどしていることもあって、支那渡来説は全然成立しないものとしていい。

手がかりの言葉 

で、また日本のみを考察するとして、今度は記録を、調べてみる順序である。想像でなく、何かの手がかりが残されているかいないか。古書を探究してみると、第一には『日本書紀』の記事で「崇神天皇四十八年・正月戊子、天皇勅2豊城命、活日尊1日、汝等二子、慈愛共済、不レ知二易為レ嗣、各宣レ夢、朕以レ夢占レ之、二皇子於レ是被レ命、浄沐而祈寝、各得レ夢也、会明兄豊城命、以2夢辞1奏2予天皇1日、自登2御諸山1、向レ東而八廻弄レ槍、八廻レ撃刀」と、あるものである。
 ここに「撃刀」即ち、たちかき、という言葉が出ていて明かに刀を取扱った様を形容している。然しこれを後世の如き、剣法の型を演じたととるか、ただ刀を、振ったとするか、ちょっと断定はできない。然し、漠然としながらも何かの存在を匂わしている。それから次は『懐風藻』であるが、大津皇子のことを評した中に「及レ壮愛レ武、多力而能撃レ剣」という言葉が現れている。これも、前のと同じく、どの程度か判らないが、とにかく日本に於ける「撃剣」という文字の最初であって、ここに何かの法のあったことが示されている。
 そうして、この二つの記事のままで、奈良朝から、鎌倉まで、ほかに何の剣法上の記録もない。そしてこれは兵制の変遷、戦争の有無とよく一致している。かくて戦の盛んな鎌倉期に入ると、叉現れて『保元物語』は、こう書いている。
「八郎(鎮西八郎為朝)は、今年十八に成と覚ゆ、背は大也とも、未だ身の力はつのるまじ、筑紫生立の者遠矢を射学び、太刀遣う様は知りたらん(略)はやをの若者共、これを聞、すはすは我等をすかし合、残さんとし給ふは、弓矢取ってこそ能あらめ、打物遣ふ事は筑紫に聞ゆる肥後国住人、おいての次郎太夫則高、九国一番のもの切也、それに習ふて、師には蓬かに超過しておはすなる者を―」
 打物つかう、太刀つかう、物切り、と剣法の存在を示す三つの言葉が出てきた上に、剣法の師のあったことをも書き残している。
 然しながら、ここで考えてなくはならぬことは、「弓矢の誉」「薙刀の上手」「豪力無双」というような言葉は、その実例と共に、しばしば軍書へ現れてくるが、剣法上手の功名取が殆ど出て来ないということである。頼政、義家、与一等の弓矢の誉、一来法師、弁慶、景清の薙刀話など、多少お伽話もあるが、彩しい数であるのに刀上手に関しては義経の鞍馬山の稽古きりで、それも後世の仮作であるから、この為朝のこと以外殆ど無いと云ってよく、そして当時の戦法から見ても、太刀は使う場合が少なかったのである。
 使う場合の少ないということは、発達しないということと同じで、南北朝に入っても、戦法に変化がないから、鎌倉と同じく弓矢話が重で、僅かに『太平記』は二つしか剣法の存在を示していない。即ち「大塔六品親王は・・打物は子房が兵法を得給へば」というのと「桃井が扇一揆の中より、長七尺ばかりなる男の是は、清和源氏の後胤に、秋山新蔵人光政と申す者に候、王氏を出、雌レ不レ遠、已に武略の家に生れて、数代只弓箭を把て名を高くせん事を存ぜし間、幼稚の昔より、長年の今に至るまで、兵法を嗜む事、隙無し」というのとである。即ち、ここに「兵法」という文字が「武芸」と同じ意味に使用されて出てくるが、剣法が、鎌倉、南北朝を通じて僅かにこの二の記録に止まっているということに、当時の戦の重要部位が、弓馬戦にあって、剣になかったことを証明しているのである。そして、戦争と共に発達すべき剣法が未発達であったということは、三段論法によりすぐ結論しうるのである。

剣法以外の武技 

 剣法に関した文字が、以上の如く少ないに拘らず、弓、馬、力競べというような言葉は、大いに優待されて、無数の記録に現れている。神代の、千引岩をさげて「然欲レ為2力競1」というのを手始めに、力競べということは、相撲節という儀式にまでなって残っているのに、剣法が天覧になったのはようよう元亀二年になってからである。
 古書から詮議に入ると「武芸」という字の多い『日本紀略』には「延暦十五年三月庚戊、令2諸国1挙2武芸秀衆者1」とあるし『延喜式』には「凡、近衛武芸優長」とあるし『続日本後紀』には「最艮武芸」とあるし、その外いろいろと、この字は現れてくる。
 で、剣法も、馬術も、槍術も、角力も、この武芸という文字の中へ入れてしまって、独立して使用されていないかというと、剣法一つを継子扱いにして、独立させないほか、凡そ他の武芸は立派に、その名で諸書に載っている。これはいうまでもなく、明かに剣法の未発達を語るもので、認められていなかった証拠である。
 試みに『日本紀略』をとると「内裏召2諸衛歩射己上東宮帯刀1有2賭射事1」と出ているように、剣法上の術語は前章の如く四五にすぎぬが、弓のことは「騎射」「まゆみ」「うまゆみ」と同じことを三通りに云ったり、「二の矢」「双矢」「答矢」「遠射」「指矢」「横矢」「筋違矢」と、いろいろの言葉がある。
 しかも『延喜式』などには、歩射の上手には、土地を賜るというような令や『日本書紀』の諸国に、射を習う所を築かせるという令や「観射式」や、全く、いかに優待されているか?正月十七日の射礼など、一冊の本になるだけの記事さえ残している。
 これは独り弓のみでは無い。馬術も又その通りであって、四月二十八日には御覧駒式というのがあるし、五月五日六日の両日には、天皇武徳殿に御出ましまして馬を御覧になるし「凡左右馬寮騎士、毎レ寮」という風に大切に取扱われていて、弓に劣らぬ記録がある。
 相撲もまた、七月には、例として宮廷で催され、古くからあったらしく『続日本紀』は「天平六年七月丙寅、天皇観2相撲戯1」としてあって、宮中関係の記録七月の部には必ず出てくるし「内裏式」には、立派な相撲節儀のことが書残されている。
 それに、剣法は、前章の如く、僅かに四五だけで、宮廷関係になると何一つ無いのであるから、刀剣は装飾として使用され、実用品で無かったと云っても決してまちがいではない。然し、武家の天下になってからは、中条長秀が、足利義満の師になったということが『武家評林』にある。だから、相当に認められたと云えるが― だが、である。
 足利の制度というものはひどく繁雑で、御酒奉行、茶湯奉行、これはまだいいとして、厠の奉行をお栖浄奉行と称したというのだから、剣術に師を置き、兵法所を置くくらい何んでもない。型式整頓の一部分だけであって、この故にすぐ中条長秀の剣法を云々する訳にはいかない。既に、とっくから弓馬諸礼式には、武田、小笠原の両家があったのであるから、剣法もことのついでに置かれた足利特有の繁雑制度の賜物としておいても差支え無い。

武家の記録 

 然し、以上は余りに、宮廷関係のみであるから、武家の間に、何かの記録が無いか、調べてみなくてはならぬ。そこで、例を鎌倉期に取り、その代表的文書の『吾妻鏡』を見てみる。
「仁治二年、将軍家若君御前御乗馬始也」というのがある。その次には「文治六年、被レ遣2御書於河辺庄司行平1、有2其召1、是依レ可レ為2若君御弓師1也、若君、漸御成人之間令レ慣2弓馬之芸1」とあって、また、弓と馬とがしきりに出てきて、若君がこれを習うが、一向剣法を習ったとは書いてたい。
 もう少し行くと「手跡、弓馬、管絃」とあって、その後へ「郵曲以下」として、剣法は匂いもしない。「可レ有2御弓始之1由」とか「又於2御霊前浜1有2千番小笠懸1」とあって、流鏑馬の流行をかいているが、とうとう剣術のことは一つも出て来ないのである。従って若君が剣術を学んだと思えないし、学ばぬ以上知らないし、学ぶ者が無ければ発達する筈はないし、どうも弓馬に較べて、物の数でなかったらしいのである。
 ただ一つ『愚管抄』に「手だれ」という言葉があって、これを頼朝の称め言葉に使っているが、これも剣法というより「武芸達者」と解した方が正しいとすれば、とうとう鎌倉時代に、剣法に関した記事においての次郎太夫一つ切りである。しかも『保元物語』は、必ずしも信用できないし、この記事のある「白河殿焼打」が、史家に云わせると、決して物語の如くでなかった・・この主人公為朝は物語の如く奮闘しなかったというのであるから、すっかり剣術の影が薄くなる訳である。
 だが、念のため、もう一つここで、想像を加えると―。一体剣法上の記録は、足利末期になっても、あれほど盛大になってからでも、残り少ないのであるから、謂んやそれ以前に於て、よし可成り盛であったにせよ、何が残るものか?残っていなくても、盛でなかったとは云い得ない、という理窟である。
 この理窟も一応尤もで、室町時代に於ても、国主、大名が戦場に必要な故に発明したものでなく、民間の人々の創成であるから、よし鎌倉にあったにしても、記録などに残る筈が無い。そうして、中条長秀、尾伊手則高を立派な存在として認めることである。そうすれば従来の剣法史の一部を肯定することになるが、私はどっちかと云えば、これは一理窟のみであって、矢張り、記録に無いものは発達してなかったと断じて、まちがいは無いと思っている。それは戦の方法に関しての考え方と、武士の剣法観と、刀槍併教ということと、三つの理由から主張することが出来る。

戦法の変化 

 江戸時代になって分業行われ、武士の生活が安定され、剣術さえ学んでいたら日が送れるという制度と、室町以前の武士とは、まるでちがったものであった。
 古代武人の所で云った如く、常備兵というものが無く「前九年」「後三年」「天慶の乱」によって、兵の必要を感じるまでは、戦と云えば、急に地方から下級民を徴集したにすぎなかった。そして、戦の必要に迫られて軍法を学ぶようになり、戦法に従って、武芸が起ったのである。従って、鎌倉初期には、何の剣法も無かったと云っていい位で、剣法は戦法と共に消長があるとみていい。
 上杉、武田が戦法を一変して、密集兵の突撃、横槍、槍裏を発明するまでは、鎌倉、南北朝とも、弓矢戦が主戦であった。そうして、多くの戦いに出ている東国の人々が、馬を巧みに使用した関係上、馬は重要となり、従って記録にも、弓馬が多くなった訳である。
 当時の戦いは、遠矢から次第次第に近づき、射立てて退かせるか、接戦となれば薙刀、或は大将同士の一騎討ち程度でけりになったのであるし、第一に当時の刀は、高価で、品が少なく、一般化するまでに至らないものでもあった。
 それから、もう一つは、槍も、薙刀も、刀も法の如く使うのは、道場のみであって、いよいよ戦いとなれば、叩き倒す方が多かったから、剣術など学ぶ必要は無いと考えられていた。薙刀の廃たれたのも、密集部隊発明後で、それの突撃戦の時などには、水車の如く振り廻されては、密集の意義を傷つけるからで、槍の採用はそのためであった。
 刀もまた白兵戦が多くなり、安価に一般化されて、戦場使用になったのであるが、それでも、槍には到底及ばなかった。従って槍ほど重要視されなかったが、少しずつは戦法の変化と共に増加して行ったようである。戦国時代の戦法は、第一に弓銃戦が、敵を威嚇しつつ、煙の内に、槍隊を進ましめ、十五間となって、まず長柄隊が突撃し、その模様を見て士槍が繰出して勝負を決したもので、刀の使用は、それ以上の悪戦、矢つき、槍折れてからの予備武器であった。従って、鎌倉期には発達せず、密集隊の肉迫戦の起った室町時代に隆興した訳である。
 だから、刀を主要武器にしている者は、特殊な人に限られていて、力に任せて叩き倒すべく、福間三郎の七尺三寸、篠塚伊賀守の四尺七寸、禰津小次郎の六尺三寸、南北朝に三四人の記録はあるが、戦国時代になると、真柄十郎左衛門一人位で、剣法という技巧を必要とせず、士も兵も悉く槍を使っていた。
 従って未だ剣術の発達せずに、一口に「兵法」と呼ばれ「刀槍術」と称され「兵法」が剣法の別名になるまで、可成りの時間を費している。そして、剣法の流祖とされている飯篠家直、松本備前、塚原卜伝、上泉信綱、悉く戦場では槍を使用している。
「松本備前守、槍を合はすに十三度、はれなる高名の首数二十五、並の追首七十六。卜伝も鑓九度、高名の首二十一」という風で、上泉信綱も、長野家十六槍の一人と称され、後上野国一本槍という感状をもらったなどと伝わっていて、戦場での用は、到底剣は槍ほどでなかったらしい。だから、鎌倉南北朝期に大して記事の無いのも尤もである。
 で、戦場での必要もあったが、他に理由があって盛になったもので、それが戦国当時の武将の下に起らず郷士の手にのみ起った理由になるのであるが、次からそれを説明して行きたい。

技術の軽蔑 

「戦場の武士は、武芸知らずとも事すむべし、木刀などにて稽古するは、太平の代にては切るべき物無きにより、其切形を覚ゆるまでの事なり、戦場へ出る時は始めより切覚えに覚ゆれば、自然の修練となるなり」
と『甲陽軍鑑』にあるが『譲園秘録』の、「戦場にて名を得れる物師、覚の者と云者、一人も槍太刀の芸の上手もなく、槍も太刀も只棒の如くに覚えて敵を叩倒すことなり」も同じことである。一方剣客、民間に剣術が大いに行われながら、専門武士の考えはこれであった。
 黒田長政の家来の野口一成が、一人の剣客と立合ったが、いきなり対手の木刀を左手で受留めて、右手で一打くれたから、剣客がそんな乱暴な剣術は無いと云うと、戦場ではいつもこうだ、と云ったという話がある。鎧兜で身を固めた代物を、そうそう斬る訳には行かぬから、叩き倒すか、突き倒すのが主で、技術などということは要らなかったのであった。
 だから、ある流の剣術は、背にざるを入れて、対手にそれをなぐらせつつ、専ら下から股を突上げる糟古のみをしたというが、こういう物具で固めていない所でも狙わないと、尋常一様では切れぬし、第一道場の一人一人の稽古と、いざ戦いとなった時とはまるでちがったものであった。
 戦場往来のさる老人が、若者のせがむままに、では見せようと、槍を持って馬上に、いよいよ戦って、槍を左右に打ち振ると、そのたびに馬が、たじたじとしたというが、この位の勢いで戦うものであったから、竹刀で、お面などは、戦場往来の人々には馬鹿馬鹿しくて見ておれなかったにちがいない。
 従って、剣法が発達してからも、戦場派と、技巧派との二つに分れていて、元禄頃までは大太刀が矢張り流行していた。この剣法軽蔑の思想があるに拘らず、追々盛になったのは、流祖と称さるる人々が、中々の人物であったことと、呼吸切れのしないということの判ったことと、武将連中の保護、奨励と、平民の勃興とその発達とからであった。
 近代剣術が、武士階級に起らず、寧ろ、郷士、豪族の手によって起り、それから武士の間へ流布して行き鎌倉、南北朝に大いに起らず、室町時代に入って、突如として隆興したのは、室町時代というものに特異な時代相があってのことである。

剣法発生と郷士 

 以上、剣法は、時々その姿を現しているが、殆ど他の弓馬等の武芸に較べて物の数ではない。これは記録に止めるほど重要視されず、発達していなかったからである。それが、室町期に入り急激な勃興を見たのは、この時代が、剣法を起すべき、諸原因を揃えていたからであった。
「偏下者」「借上者」という室町時代の造語の生れた時、野心、功名心に燃えている青年、庶民は何を考えたか?
 日本中は戦争である。名も知らぬ奴が、いつの間にか四辺を征服して、一国一城の主となっている。それをみた性来の力強いものは勿論、力の無い者は、力になるべき技術を考えるのは必然であろう。ここに剣法発生、発達の原子がある訳である。
 だが、その志を達するためには、故郷にいたままでは不便である。ここに初めて武者修行が流行しかけた。『武将感状記』に「水野勝成、武者修業を成したる時、佐々成政の備を借て居れり」とあるが、大坂役の先陣をつとめた水野勝成、明智光秀等、代表的の人物である。
 これほどの人で無くとも、志を立てて、刀を腰に四方を歩くことは大いに流行したが、この流行に際して一番携帯に便利な武器といえば刀である。そして、当時に至っては可成り安価となり、可成り普及されてきた刀は、一家に、一人一腰ずつと、円本の如く、護身用、自衛用として、使用、携帯の便の上から全国へ著しき加速度で、拡まって行ったのである。
 この普及力は前後無比のものであって、天正十六年七月八日に布告された「刀狩」の文書をみるとよく判る。「溝口文書」に、加賀江沼郡一郡の狩上数の記事が残っているが「刀千七十三腰、腰差千五百四十腰、槍身百六十本、かうがい五百本、小刀七百」としてある。一郡でこれだけの刀数があり、槍に比較してどれだけ多いか。これを見ると剣法の起るのは偶然でない。
 数多いということは、やがて刀法の発達をなすもう一つの因子でなくてはならぬ。そうして、槍を重んじ技術を軽蔑する武士よりも、郷士に多くの剣客を出した原因でもある。軍人でない一般人は、武士の如く従軍しえない戦国の人々は、野心から、自衛から、戦う真似を修練しなくてはならぬ。多くの神に祈って一流を立てたという伝説の存在はその裏書きで、武士が「切覚えに覚えるから、剣術など要らない」と云って、いる間に大いに努力をした。
 それからもう一つ、職業的武士、半職業的「らつは」「足軽」の類は、余りに死に忙がしく、従って享楽のほかに、武を練るというような暇をもたなかった。これ、武士に起らず、郷士に起ったもう一つの原因である。『備前老人物語』に博突に負けた士が、紙の羽織に、板の鋸を腰にさし、真先に進む話が出ているが、上は大将より、下足軽に至るまで、ただ、酒と女と博突のみであった。
 中にも博変は甚しく『塵塚物語』にも「郡卒帷幕の中の慰は、上は大将より、下つ方与力、足軽の者共にいたるまで、彼博変を好み」とある如く、明日知れぬ命と知って、剣術修行どころか、暇さえあれば、刀も槍も賭け代として楽しんでいたものである。
 この間に、地方の郷士、豪族は心を、剣槍の業に潜めていたが、中にも、東国武士の本場である常総野にそういう人々は多かった。上泉、塚原、飯篠、松本等悉くこの一角に起った人である。この関係も、剣法の発生にも重大因を為している。

常総の流祖 

 伝説によると、鹿島、香取の神々は、中にも鹿島には「鹿島の太刀」というものが、天津吹屋根命十代の孫、国摩大鹿島の子孫、国摩真人によって発明されて、代々神官によって伝えられていたということである。そうして、これを剣法の最初としてある。これと、流祖の多くが、この地方に起ったため結びつけているが、必ずしもそうは断定できない。
 この地方は阪東武者、東夷、東方濱従者の産地であって、且つ「偏下者」には、もって来いの所であった。尾張の織田、甲州の武田、奥州の伊達などという領民の見て歯のたたぬような領主は一人も無く、上野の上杉、上総の里見、下総の古賀、常陸、佐竹、小田、下野の那須、宇都宮、小山、結城、悉く後に滅亡した人々で、この領主を頂く領民が、いかに手に曄して立とうと望んでいたか?と同時に、この領主を攻める多くの敵を防ぐため、いかに忙がしく戦わねばならなかったか。即ち、時代思想、刀の普及、個人的武勇に富む人々の多い地方、そうしてその地方の模範的乱世相、この理由と、平民の自衛、及び野心が手伝って、一時に剣祖は輩出してきたのである。同じ戦つづきであるのに鎌倉に起らず、南北朝に起らず、室町に入って空前の発生をしたのは、この諸因が剣法が起らなければならなくしたからであった。
 もし「鹿島の太刀」が日本剣法の元祖で、いくらかでもこの時代相以外に剣法発生を助けたとすれば、香取に住んでいた飯篠家直がこれを学ばぬ筈はない。然るに、彼は自修したとも云い、鹿伏菟刑部を師としたともいうから、この鹿島の太刀は名のみであって、剣法がこの地方に発生した原因にならない。それにもう一つ、鹿島の祝部、松岡兵庫が、卜伝からこの太刀を学んでいるのも不思議である。何とならば、卜伝は、鹿島の神官松本備前から、この太刀を伝えられたというのだからである。
 それからもう一つ、軍神は、独り鹿島、香取のみでなく『梁塵秘抄』にある如く「諏訪の宮、叉比良の宮、阿波の北滝の口、熱田に八剣、伊勢には多度の宮」と外いろいろと有ったから、鹿島を中心に諸士輩出した以上、この軍神を祭ったどの一ヶ所からか、一人でも剣客が出なくてはならぬのに、一人も出していないから、主としてこの地方の雰囲気が、剣客養成に適していたためであって、暇のある、財のある人々の間に、殆ど時を同じうして勃興した原因は、以上の如く考えるよりほかに理由がみつからない。
 この東方に於ける剣客の勃興に対し「京流」が西に現れているが、これの正体は甚だ怪しいものである。堀川鬼一より鞍馬の僧に伝え「京八流」とも称すというが、恐らくは、東の人々が、東方の剣法以外のものを総称して「京流」と云っていたのでは無かろうかと思われる。もし「京流」が一流儀の名なら、その流祖は多少とも伝えられていなくてはならぬ筈である。それに、京師にも一記録なく、ただ『甲陽軍鑑』『関八州古戦録』位に漠然として「京流」とのみ書かれているだけであるから、西の人々の使う剣法を総称して云った称号としておいていいと思う。

刀槍分派前 

 然しながら、この頃の剣法がどの程度のものであったか?徳川期に入って剣術の技巧が発達すると、剣は剣、槍は槍として一人で両道を極めるということは容易でなかった。それにこの発生当時の人々は悉く刀槍二道から、ト伝の如きは弓にまで達していたのであるから、恐らくはその技巧は型として数少なく、刀槍を両用して、優に余裕があったと思えるのである。
 一例をとると、卜伝の「一の太刀」という名であるが「右の太刀に、一つの位、一つの太刀、一つ太刀、如斯太刀一つを三段に見分候」とある如く、これはこの三つの型だけではなかったか、と思えないことも無いのである。
 背後へ引く業を教えるなど持っての外のことだ。戦場でそういうことをしようものなら、と評している言葉があるが、当時の戦場用剣術としては、後世の一人一人の素肌対手とちがって、技巧は簡単でよかったのであろう。
 戦場のみでなく、平常の試合にしても、真剣又は木刀で死ぬか傷つくかであって、稽古も型のみで、間際まで木刀が行くと「よくつめた」と称めた位で、後世の竹刀とは大ちがいであるから、いざとなっての斬込みは烈しかろうと、型は複雑でなかったに違い無い。江戸期に入っても、空鈍流は「右の態一つにて、万方に応じて勝利を得るという」としているが、飯篠家直も、松本備前も、塚原卜伝も、太刀数は少なかった。
 これに理論を与え、型を整え、竹刀を発明したのは上泉信綱であって、新当流、天真正伝神道流の二つながらが神陰流に押されたということは、主として、この太刀数の如何と、竹刀稽古によるのでは無かったかとさえ思われる。
 然し、この太刀数の少ないということは剣術の拙いということとは全然ちがう。後の巧妙な人々と立合って、ト伝は三種の技巧で勝つかも知れぬ。ただ、ここに剣術が「道」にまで到る発足点として見逃せない人格を流祖に見出して、私結論にしたいのである。

流祖の人格と結論 

 剣術本来の使命は、殺人法の技巧である。もしこれがただ強勇のみの流祖によって発明され、それを墨守する人々によって流布されたとすれば、私は剣術を角力、拳闘と同視して、あまり尊敬しないかも知れぬ、
 ところが、剣法は、いかなる武術よりも「心がけ」を説く点に於て、深く、多い。書物としても、口碑としても、人物第一ということを主眼にしている。これは後世の付加、漸進的発達でなく、流祖の播いた種の生育である。
 塚原卜伝は、将軍義輝の師範として「大鷹三もとすゑさせ、のりかへ馬三疋ひかせ、上下八十人ばかり」を連れた生活をすてて、故郷に引退した「明良洪範」などの、馬の尻を遠廻りした話、例の無手勝流の話、用心深い子供に秘伝を譲った話等、いずれも一貫してト伝の謙遜した態度を物語っている。
 上泉信綱の書に曰く「兵法は進退窮まりて一生一度の用に立つる為なれは、上手と人には見らるるとも、毛頭も心の奥に正しからざる所あれば、心のとはば如何せん、火炎の内に飛入、盤石の下に敷かれても、滅せぬ心こそ頼むあるぢなれ」
と、彼ト伝と同じように用心深く、一人の男を捕えるのに、頭を剃り、袈裟をまでつけてから捕えている。所謂、疋夫の勇を少しも出さない点、その最後の教えが悉く、心の修業にある点、この境地へ、この発生当時の剣客が漸く到着していたということは、他の武術に較べて剣術の発生史上見逃せない点である。
 彼等の修養と、その人物の高潔さは、戦国当時の人人の誰よりも上に位するものであって、上泉信綱の如き、その学問よりみても、明智光秀に優っていると云っていい。それが信玄の留めるを振り切り、柳生に客生するまでの精進、伊藤景久の態度と晩年、沢庵と柳生宗矩、小田切一雲、鈴木正平、宮本武蔵の晩年、数えて限りなく、一人物であることを物語っているが、その種芽は、この剣法発生当時の人々の内に含まれていたのであった。
 以上、私は剣法発生の概観を書いてきたが、結論として云えば、剣法はそれぞれの時代に多少とも存在し発生していた。然し、それは、必ず次の時代に伝えられたもので無く、時代が不心要となれば、消失し、叉必要によって、発明されていたものである。
 だが、室町時代以前の剣法は以上の如く、今これを求むるに術が無く、室町時代に於ける剣法発生の状態より推すと、それは記録に止めるまでもなく幼稚なものであったらしく、剣法は室町時代になって勃興し、連綿として伝えらるるだけの価値あるものを生じたのである。その個々の発生と発達について考えるべきことは、禅宗との交渉、流祖各伝、戦国武将の剣法奨励と保護、武士階級の制度と、剣法上の二派、居合と小太刀の発明、太平期に入りて後の技術と理論の発達と、時代にしては寛永前後まで― この通論によって他日この小論を完全にしたいと思う。


(『網迫HP』で公開されている未校正OCRデータを元に作成しました)

(二)

剣法夜話

直木三十五著
その二

剣法の発達

発生に就いての梗概

 剣法の発達を述べる順序として、発生に就いての大略を云っておく必要がある。発生を研究するに対して私は次の如く考えて行った。
一、従来流布されている剣法史中の発生論は信用出来ないということである。『武芸小伝』『撃剣叢談』『武術流祖録』『武術系譜略』の如き、悉く「夫れ刀術は武窪槌命十握剣を抜きて地に逆まに植ゑ、その鋒端に賜して」流であって、真面目に対手が出来無いし、もっと、近代になってからでさえ、出鱈目が多く根本的に調べてみる必要がある。
二、大和石上神宮の神体、神武天皇侃用の「フッノミタヤ」の宝剣は、内反りである。この内反りの刀、双刃の直剣が、何故今の刀の如く外反りの片刃になったか?この変遷には、変遷すべき理由、即ち、刀に対する研究が無くてはならぬ。そして、刀に対する研究には、剣法も勿論影響力があったと考えて差支え無い。
 それでは、剣がいつ刀になったか?現正倉院にある刀剣をみると、いろいろの型があって明かにその過渡期であることを語っているから、その頃既に剣法は有ったであろう。この変遷、即ち、突く剣よりも、斬る刀が発達したということは、世界中日本のみであって、西洋の如き後海賊時代とアングロサクソンの歩兵が僅かに斬る刀をもっているのみである。従って、剣法は奈良朝前後に、日本で独特の発明をされたものにちがい無い。名をあげると、大宝年間大和の天国に反りは無いが、大同年間の伯耆安綱以後悉く反りがついている。
三、剣法は、勿論武人間に起ったであろうが、剣が刀に変った当時の武人はすでに、疲弊の極にいて、人夫、奴隷と同じ状態であったから、彼等の間に起ったとは思え無い。『令義解』に「用レ刀」のことが出ているが、どの程度か疑わしいから、存在はしていたが、極めて微々たるもので、剣より刀になったのは、それ以前の戦争当時の経験からではあるまいかと思われる。
四、ここで一考すべきは、支那から渡来したのでは無いかという疑いであるが、これは第一に刀の種類がちがうし『三才図会』の「案使レ刀、無レ如二倭子之妙」この如く『武備志』にも『両朝平壌録』にも、逆に日本剣法が支那へ行って称められているから、全然支那渡来では無い。
五、古書を見ると力競べ、弓、馬という言葉は無数に出てくるし、一例をあげると、弓などは、歩射、かちゆみ、騎射、うまゆみ、ニノ矢、双矢、答矢、遠矢、指矢、横矢、筋違矢等、いろいろの名称さえ現れてくるが、剣術のことに就いては、ケの字も出て来ない。この点から推すと、剣術はひどく軽蔑されていたか、発達していなかったかの二つである。
六、宮廷関係の記録には、馬、弓、角力のことがうんとあるし、武家の方にも、この方のことはあるが剣法のことは『愚管抄』に「手だれ」という文字があるだけで、これも、剣法のみのことでは無いから、朝廷の記録を通じて、鎌倉時代まで、剣法は発達もしていなかった。
七、では全然無いかというと、少しはある。『日本書紀』の、崇神四十八年に「八たび撃刀す」という言葉、『懐風藻』に「多力にして能く剣を撃つ」という言葉、その次はずっと離れて『保元物語』に、源為朝のことを「打物使ふ事は筑紫に聞ゆる肥後国住人於いての次郎太夫則高、九国一番のもの切也、それに習ふて師には遙に超過して」、次は『太平記』に「打物は子房が兵法を得給へば」同じく「兵法を嗜む事隙無し」と、これだけである。
八、ところが、従来の剣法史によると、足利義満の剣法の師として、中条長秀が召されたことになっているが、どの程度か怪しいものである。何故かなら、足利家の制度というものは前後無比の繁雑さを極めたもので、お酒奉行、茶湯奉行はいいとして、厠に奉行があって、お栖浄奉行と云った位だから、必ずしも剣法を教えずとも任官したかもしれぬ。
九、以上の如く、剣法は足利時代までに発生はしていたが、発達していたとは思えない。鎌倉、南北朝と戦争があるのに発達せず、何故、室町時代になって急に盛になったか、この原因の一つは刀がその当時高価で、少なかったということが一つ。もう一つは、弓と馬との戦で、そう白兵戦の劇しさが無かったからということ。
十、だが、室町末になっても、剣法よりは槍の方が重くみられて、一口に「兵法」という言葉で称されて剣術と独立して呼ばれるようになったのは、後のことである。多くは「刀槍術」と、刀と槍とを併合して呼ばれ、剣祖といわれる人々もまた、刀槍二道に亘っていて、後世の如く二つに分れてはいなかった。
十一、何故、室町時代に急激に、剣法は流行したか。第一に、下剋上の思想、百姓でも武士でも武術が上手なら一城の主になれるという考え方の流行。第二に乱戦つづいて、居家旅行の際の自衛上から武技を学びだしたこと。従って、専門的武士は、後に至るまで剣を軽蔑していたし、剣法は殆ど、郷士の手で起ったものである。第三に、携帯する武器として何よりも便利であり、ずっと安くなって、誰の手にも入りよくなったこと。第四に戦が猛烈となり白兵戦となって、槍をすててから矢張り練習していた者の方が分がいいということが判ったこと。第五に流祖と称さるる、人々の人格が何れの人も揃って高潔であったから、甚しく人に信任されたこと。第六に、武将が大いに保護奨励をしだしたことと、以上が剣法を急に発達せしめた原因である。

一の太刀 

 私は本論として、これから発達のことに就いて書かなくてはならぬが、余り厳密な意味に於て、発生と発達との区別は出来ない。広く流布されたから発達したとも云えるし、流布されなくとも精妙な剣術は、それも確かに発達したものであるからである。と同時に、技巧の上手な剣術も発達したと云えるが、元々戦場用であるから、技巧などは要らぬとも云えるからである。この意味に於て、寛永時代までに筆をすすめると、ある人々は、その頃から剣法は退歩したのだと云われるかも知れない。
 松本備前守尚勝は鹿島神宮に伝わる鹿島の太刀から「一の太刀.」を会得したと云われている。この「鹿島の太刀」というのは所謂「関東七流」の根元であって「太古流」叉は「中古流」「神流」とも称されているものである。『鹿島神宮記』によると天津吹屋根命十代の孫、国摩大鹿島の末に国摩の真人という人があって、これを発明し、それ以来、鹿島の神官が代々伝えてきたものであるとされているものである。
 この「一の太刀」とは何であるか。諸流祖伝には多くの人が尚勝に学んだことになっているが、ただなっているだけで何の証もないし、尚勝自らも、戦には槍のみである。それはいいとしても、香取の郷士、飯篠家直がこの太刀に価値があると知ったなら、勿論学んでいなくてはならぬ筈であるが、彼の伝記によると、家直は自得した剣法であり『北条五代記』によると、鹿伏菟刑部から学んだことになっている。
 もう一つの疑問は、松岡兵庫介が、その鹿島の祝部であって、鹿島の太刀を知っていなくてはならぬ筈であるのに、彼が塚原卜伝から、それを教えてもらっていることである。卜伝は、松本尚勝から学んだのであるが、もしこれを合理的に解釈するとすれば、鹿島の太刀も、松本の一の太刀も、大した技でなかったが、ト伝が大成したものとしておいてもいい。
『甲陽軍鑑』は、この太刀のことを伝えて曰く「此太刀をつかい出者は松本備前守也―右の太刀は一つの位、一つの太刀、一つ太刀、如斯太刀一つを三段に見分候」と、恐らく、この三種の技術のみでなかったであろうかと思われるし、或は、単に一心万法の原則を説いた心得だけでは無かったでは無かろうかという疑問もある。
 それは「神陰流」が型を伝えているのに拘らず、飯篠、塚原両家ともに、何物をも残していないことである。これは弟子の多少ということより、太刀数が、型が簡単であって、書残すべきことを持たなかったのでは無かろうかと疑っていい。もう一つは、卜伝が、細川義孝、足利義輝、北畠具教などという大名連中に秘伝を授けていることである。これは後世の武術の如く太刀をとっては技術によって伝授したと見るより、一つの太刀筋と、それを打つ時の心懸け、平常死に対する用意というような物を伝えたと見られぬことも無い。神妙剣とか高上金剛刀というような者の太刀もこの種であろう。
 尚勝、卜伝、家直等が、少しの剣法上の技術的記録をも伝えず、独り上泉信綱のみが伝えられているのはその弟子の多寡、後人の所為よりも、この人々の剣法が書残さるべき種類では無かったと考えた方がいい。そして残し得ない剣法とは、即ち簡単な技巧による烈しき太刀打と、死に処する不断の覚悟とを知っていることのみに終っているものである。もう一つ、これを裏書するものは、上泉以外の三人に弟子の少ないということである。これは、ただ修練を重ねて一つの境地を会得するのみで、上泉の如く、型、教則が完全で無かったから、その形式を受継ぐということが出来ず、自然に自得して、砕岩の太刀を発見するのみにとどまったから、容易に行き着き得なかったからであろう。
 そういう簡単た剣法のみで、一流が存在しられようかという疑問があるが、それは江戸時代の如く型の華やかな時にあっても「空鈍流」の如きただ一つの太刀しか無いものが立派に通っている。「右の、態《たい》一つにて万方に応じて勝利を得るといふ」と、伝えられているが、針ヶ谷夕雲から、小田切一雲に伝えられた無住心剣の流がそれであって、上段太刀一つしかない。
『甲子夜話』に曰く「可児才蔵、宝蔵院に逢て云には我元来槍法を知らず、槍はいかにして勝を得るや、院答、上段、下段、相かぶりの外無し、才蔵解らず」と。この程度は簡単でよい、武士はこの程度の、当世ならば、チャソバラ好きの子供でも心得ていることさえ解らない武士が多かったのである。
 然し、当時はそれでよかったのである。主として戦場であったから、後世のとは全くちがった種類のもので、後方ヘ引くという如き法は全然考えられていぬし、頭を主として打つということも不可能であったし従って、戦場用剣術が実際に稽古される場合には、ただ進んで、敵の股を突き、脇を斬り、道具外れのみを打つ練習をしたものである。
 平素の試合にしても、練習でない、本気の試合となれば、真剣か木剣かであったら、死ぬか、不具か、負傷かで、記録に残っている多くの試合をみても、大抵一太刀で勝負がついている。それ以上の技巧など、真剣の場合に無用であったのである。
 勝負の要は間にあり、というような話もあるが、殆ど一髪の間に勝負のきまるものであって、致命的部分へ届く太刀が、幾秒早いか遅いかだけの差で、不十分な記録であるが、当時の試合の様をみると、飛退ったり、避けたりということをしていず、打込む刀の早遅によって勝負を決している。この間の消息を知る一つの話がある。
 柳生宗矩が、さる所で浪人と試合した。浪人は相打だといい、座の人々もそう見たが、宗矩は自分の勝だといった。浪人怒って真剣を所望するので、宗矩仕方無く立合うと、一合して浪人は倒れた。宗矩座について、人々に脇腹を示すので、みると袷二枚まで斬れていたが、宗矩は、勝負はこの位の差できまるもので、木剣だと相打に見ているは尤もだと云った。
 江戸時代になって、武士階級が確立され、日常剣槍を学んでおれば暮して行けるようになった時に起った剣法と、発生当時の剣法とは、その技巧に於て甚しく相違している。従ってこの簡単な術法のみの剣法は、その背後にその人物の覚悟、用意、態度の高低を有することによって、差を生じることになった。卜伝に次のようなことがあるc
「さて勝利は右か左か、必定片手にて利すると聞届け(対手がいつも片手を使って勝つと聞いて)相手の方へ、左太刀の片手勝負は利する共卑怯なり、無用と、十度に及び使を立る。十度ながら(対手の云う)左太刀片手にて打をいやと思召賜らば、勝負なき以前卜伝の負にせられよと返事致す。そこにてト伝仕合仕る」
 これはトリックであって、後世の剣客の見て卑怯とする所である。然し、当時の人々はこれを是認していて、こういうことに引懸る方の人間を不覚者としていた。伊東一刀斎なども敵の懸引にかかるものを心の出来ぬ者として戒めているが、この迷わず疑わず、という境地へ、心を置くということを、剣技以外に発見したいということは、そして、それを自己の人格に生活に、延長せしめたということは日本剣法独特の種類であって、ここに流祖の人格価値を見出さない訳に行かなくなってくる。

神陰流 

 この簡単な一刀万法の剣術に対し、教則を立て、しないを発明したのが、上泉信綱であって、これより剣法は組織的となり、教えるに弘めるに便利になった。
 現在の日本剣法は、警視庁流と、武徳会流の二つが一般的の物であって、二つとも古流の粋を集成したものである。警視庁流は、木太刀表形組太刀十本、八相、変化、八天切、巻落、下段の突、阿呼、 一二の太刀、打落、破折、位詰と、各流の精華を集め、居合形を五本、前越、夢想返し、廻り掛、右の敵四方ということになっている。
 武徳会の型としては、構に上段、中段、青眼、下段、八相、脇構、天の構、地の構、人の構、業に十種、残心に七本、小太刀残心に三本という風に分けているが、この最近の剣法に於ても、右の如く、表としては十種を出ない。
 ところが、上泉信綱は、剣法創始の時に於て、既にこの程度の複雑化した型をもっていたようであるからその技巧の上に於て、卜伝、家直、尚勝より甚しく多岐であったことが覗える。そして技巧の多いということは一般化しやすい物であって、三家を凌いで独り神陰流の流行した所以は、その挽を使用し出した故のみでなく、この技巧の華麗さにもよったのである。
『異称日本伝』にはその技巧の名を伝えている。それによると表として、猿飛、遠廻、山影、浮船、流波。三学として、覧行、松風、花車。位詰として、高浪、逆風、岩砕。口伝として、破軍、観念、紅葉。この外に虎飛、陰見、青嵐、三光の利剣というようた名が見える。
 恐らく、神陰流は後世の太刀数に決して遜ってはいないであろうと思えるが、太刀数の多いということは、学んで入り易く、信綱はこの上に挽を発明した。挽が発明されるまでは木剣であるが、挽で稽古するのとの差は、『本識三問答』がよく語っている。曰く、
「他流には木太刀を以て剣術を教ふる也、木太刀の上ばかりを打て手に当てず、手の際まで木太刀にて詰めて、はやよく詰りたりと誉めて置く。真の味ひ、何としてか手に覚んや、柳生流は『しなひ』にて剣術習ふなり、挽は真剣の味なり、真剣は惜まず打つ、挽もをしまず打つ是同意なり、木太刀は手に当てられず、惜みて打ばかりなれば唯さすりておく同前なり」
 現在は竹刀稽古以外に何の方法も無いが、一刀流は刃引の刀を用い、木剣も長く使用されていて、挽派と木剣派とは常に争論していたから、上泉当時に於ける頃、既に竹刀を採用したということは、劃時代的な企であって、信綱の頭のよさが覗える訳である。
 然し、技巧は多岐に発明されていたが主として戦場用であるから、「切返し」という風の技巧は無かったらしい。退いて外して打つということも無かったであろう。こういう非戦場用技術は多く長沼四郎右衛門時代から流行したものであって、技巧としては巧を加えてきたが、当時の人々には考えられぬものであった。
 この神陰流の挽の常尺は、三尺三寸であるが竹を細かく割り、三十から六十筋位に合せて袋に入れたもので、鍔が無い。この鍔が無いということは、いろいろの理由もあるが、当時の剣法が、進んで打つを主とし、引いて守るを従としたことを物語っている一片でもある。

新技巧の発生 

 神陰流の定尺が三尺三寸、現在の竹刀は三尺八寸で、これは講武所の制定尺であるが、戦場で使用する太刀の長さは、手に合い身に適する範囲にて長いがいいとされていた。重くて堅い物を斬るのであるから、刃も厚く、丈夫なのがよく、来金道厚重ねと云ったような堀正春の大太刀と云ったような三尺以上の物が好まれたのである。
 ところが、その一方に於て、早くも小太刀が出現していて、非戦場派のために技巧の妙を誇ることになっている。卜伝の如きは、戦場へは長い刀、試合の時には短いものを使っているが、剣客の中には純粋に小太刀のみしか使わない名手の多くが現れてきた。
 永禄三年、富田勢源が試合した時には、一尺四五寸の得物で、敵の三尺以上の木剣に対している。柳生宗巌も一尺七八寸の竹刀を使っているが、技巧が優れると、得物を短くした方も、いよいよ使い易くていよいよ冴えてくる。これは剣技進歩の自然であると共に、一面から見れば、非戦場用の遊戯業として卑しむ説の起るものである。
 然し、剣法が、独り戦場用のみでなく常住の必要となり、江戸期に入るに至ってこの小太刀は益々流行して、宝暦年間に於てさえ『長月物語』にあるが如く、
「直心影流にては身の丈三尺五寸のしないを用ふ。けしからぬ長き事たりとて、他流にてはあざみたることなり、其頃の他流の挽は二尺内外にて、父の若かりし時稽古せしが、猶残りてあるは、しない革一尺八寸なり、それに二尺四寸の竹をこみて、柄を六寸とし、男竹の細きを丸のままにて先をささらにして鍔はなかりしと也」と、二尺五寸の竹刀をさえ長いというまでになった。
 と同時に「居合」ということが、発明されて、これが一派を為し、剣術の一別派として独立するまでになった。林崎甚助重信をこの始祖としているが、この人は元和二年七十三であるから、天文八年の生れである。この人の伝によると、文禄四年から慶長三年まで七年間、武州の大宮にいて居合の奥義を悟ったというから、その時が五十五歳である。塚原卜伝の死んだのが元亀三年、上泉信綱の死んだのが天正五年であるから、約三四十年の間に剣法は殆ど原則的技術の規範的一切を創生するまでに、発達したものとしていい。
 居合は、知る如く、刀を抜く術である。刀は如何に侃びているのがいいか?柄へは如何に手をかけるか?脚はどう踏んでいるべきものか?鯉口はいかに切るべきものか?ここまで研究してくれば剣法は微に入り、細に亘ったものと云っていい。この技術は日本の剣法にあるのみで万国その比を見ないものである。南北朝以前の戦に於て大太刀を使う人々が、戦前既に抜き放ってもっていたというのと、居合の法則として、まず対手に抜かせてしまうというのと、雲泥の差になるまで技術は進歩してきた。居合の心得の歌として、

  • 抜かば切れ、抜かずば切るな此刀、ただ切ることに大事こそあれ

と、いうのが有るが、所謂、鞘の中にて勝つというのを極意としている。
 然しながら、少なくも、これは戦場用では無い一人に一人、一人に二三人の時にはいいであろうが、一度抜いてしまって一人二人を切った後に最早居合は存在しない。従って、かくの如き技巧が、戦国の最中に現れたということは、剣法の発達を示すと同時に、主として、戦場用のためと見られていた剣法が、技巧のための技巧に走らんとする発芽を生じたもので既に当時から次の如き批評さえあった。『玉話集』に「居合は武芸にあらず、といふは抜打の勝負にて出口を肝要とす。左様なれば全く鞘の内にある所に勝はあるなり、先の人、刀を抜たるに思ふ図にて抜払ふべきと思ひぬる所が早や負なり。其上仕損じ先の抜たる刀にて討るる時は猶以て大なる趾なり、人は抜懸れども出ロにて致すべきと思ひぬる所を、武道に非ず武芸にあらずとするぞ、決して捨つるにはあらず」
と、あるが、江戸時代へ入ると、水野正勝はこの「鞘の中にて勝つ」という理論を非とし、対手の抜かぬうちに、斬ることを主張した。「柔新心流」がそれである。これは理論として正当である。
 然しながら、二者共にその根抵とするところは、剣法と同じく、その人の態度如何の問題である。末にあっては、腰の構え脚の踏み方であるが、居合の根本的精神は、剣法と同じく心の持ち方、落ち着方を第一義としている。『甲陽軍鑑』に武田信勝が小姓に扇切をさせる話がある。一人が扇をとって構えると一人は未だ扇を手にせず、右手の指を立てて拘うが、信勝は試合をさせずに、後者の勝とした。心の用意を称めたのである。
 敵が既に刀を抜いているのに対し、悠然として立向うということは、余程の余裕を心に持たぬと出来ない態度であって抜打ちの早業よりも、この心の落着と用意とを主にしている点、結局剣法の人格修練と同じことで、本源に戻れば人間、人格の問題に帰してくる。
 この居合を大成したのは「田宮流」の田宮重政であるが、この人が殆ど林崎甚助と同時代に長柄刀を発明している。普通の柄より長く、八寸の柄にしたのである。一口に「柄に八寸の徳、みこしに三重の利」と称しているが、これも、微細なる研究から発明されたものである。
 力学上から見て、重心が手元に近ければ近いだけ、刀尖の運動は早く、鋭くなる。三尺の刀へ五寸の柄をつけたのと、八寸の柄をつけたのと、腕の疲労の比率、力の入り方、切味から見て、長い柄の方がいい。特に、居合の如く、早く抜き、早く斬らんとする術にとって、この柄の長短は研究に価するものであって、田宮重政がこれを発明したのは居合家として当り前の話である。
 かくして、天正、慶長の頃に於て、殆ど剣法の技術の総ては一通りに、発明され、発達し、後世はただそれをより巧妙にしたのみになるのである。

諸将の奨励と保護 

 平行行蔵は『剣徴』に於てこう云っている。「勝負は巧拙に在らず勇怯淫庭を為す、今世の武技を講ずる者は是に異る也、巧拙を以て勝敗をなす。巧拙にて勝負は論ぜられぬことぞ、されは、古より剣槍の上手、名人と称せらるる者、戦場にて功を為せしは嘗て聞かず、已に鳥銃の達人、稲富一夢は百歩にして柳葉を打ち、茅屋の中に在て屋上の鳴声にて其集る処を察し、此を打つにあやまたず打落せり、かかる上巧なれども朝鮮陣の時、敵に向っては一玉も中らざりしと也」
 平山讃は、文政度の人であるが、この時代に於てさえ、こういう人があった位だから、戦国時代に武術を遊戯視して、不必要だと主張していた人のあるのは当り前であった(剣法の起源篇参照)。これは、剣法の表をみて底を見ない論であるが、剣法が盛になると共に戦国諸将の中には、これの必要を認め、それの流祖に感じ、大いに奨励、保護したが、これも剣法発達の一因に数えることが出来る。
 その以前までに於て、剣法が用いられたのは、中条長秀が足利義満の師に聴せられたということのみであるが、戦国時代中期に入ると、可成りの国主、大名を剣客の門人に見出すことが出来る。
 徳川家康は.「有馬時貞と奥平休賀斎とに剣を学び、休賀斎には皆伝を受て、その礼として三階紋を許している。そして、疋田景忠の槍法を見て、彼は、将に教へると、士に教へるとの区別が無い」など評している言葉が残っている。
 織田信長は、弓を市川大助に、鉄砲を橋本一巴に、刀を平田三位に学んでいるが、本能寺の夜討に弓をとっての働きは、史上に有名なものである。
 伊勢の国司、北畠具教が塚原卜伝に学んで「一の太刀」の伝授をうけていたことは、卜伝が死に臨んで一子彦四郎に秘伝は伊勢の国司に伝えてあるから行って聞けと云っているので明かである。
 足利義輝も叉塚原卜伝に学んで名誉の人であった。室町御所の戦いに幾振りもの刀を座右に置き、取りかえ、取りかえ、斬ってまくった話は『応仁記』を見るとよく判る。
 武田信玄は、上泉信綱が兵法修行に出ようとした時自分に答えないで主取りしてはならぬと云っているのを見ると、上泉を惜しんでいたことがよく判るから、信玄も又剣法のことを心懸けていたにちがい無い。
 上杉謙信は、天徳寺了伯の弟が、塚原ト伝の門人として名があり、信玄の紹介によって越後へ来た時に、歩兵弓頭として、長刀、剣法の指南を命じている。
 加藤清正では『続撰清正記』にある如く「奉公之道油断すべからず、朝寅の刻におき候て、兵法をつかひ、飯をくひ」と大いに剣法を家中へ奨励している。
 そのほか、細川三斎公が、松山主水、佐々木巌流、宮本武蔵を召抱えていたこと、前田家が富田重政を抱えていたこと、寺沢高広の如きは「明良洪範」に出しているのを見ると、士卒と食を共にして武芸の稽古をしている。
 このほか、多くの人々を引用することが出来るが、これらの人々は、剣客を可成りに優遇していた。後世の一流の達人が、二百石、三百石で召抱えられているのを較べると、剣一本で可成りの高禄を食んでいる。これは、稀らしいというよりも、剣の必要を感じていたということと、流祖の人物が立派であったということとの裏書である。
 上杉景勝が、上泉主水を召抱えたのは三千石であった。これはただ上泉信綱の弟であるというだけであったから、上泉の名声を思うべしである。
 塚原卜伝は、京都にいる頃「大鷹三もとすゑさせ、乗換馬三疋引かせ、上下八十人ばかり召しつれてありき」と、記されているようないい生活をしている。その門人、祐願寺が謙信へ抱えられた列禄が一千貫である。千貫というとかりに一文を今の一厘に換算して一貫が千文であるから、千円の禄、当時一貫文で一石二斗九合の米が買えたから、千二百九十石である。
 居合の田宮重政の子長勝が、紀州家に仕えて八百石。富田流の、富田景政が前田利家に仕えて四千石。養子重政は、利家から利常の三代に仕えたが一万三千石までを領して、柳生宗矩の一万二千五百石と相対し剣客中での高禄者である。
 この高は、慶長前後又はそれ以前のであるから、随分高く買われていた訳であって、当時の戦功の求むるものでも、高々五百貫か千貫であるから、刀一本の売物にしては、いい価である。
 そうして、この剣法の発達は、同時に天覧にも入ることになって、上泉信綱、斎藤伝鬼、片山久安の三人が、禁裡庭に於て、刀を振っている。この記録は、上泉以前はなく、片山久安以後は、明治十一年まで無いものであるから、当時の剣法の流行は以て窺える訳である。中でも、徳川家康が最も多くの話を遺していて家光が剣法を奨励したのも、この祖父の血を引いているからであろうと思われる位である。
 こうして、一方、戦場には不必要だと称されつつ発達してきた剣法は、その流祖の人格的影響と剣法の根本的精神と、禅宗との結合によって、その剣技よりもその人の精神を重んじるような傾きを見せ、明かに心本技末の説を立てるようになってきた。

その発達程度 

 私は、大胆に、総ての武技のうち、即ち、弓、馬、槍、柔などのうちで、剣法が一番、深い所へまで発達していたと、断じていいと思っている。
 そして、その理由として、他の総ての競技武技に関したものが「道」を蹉かず、説いても少なく、且つ、浅く、遺されている人々の書物、逸話を考えても、技の末のみのことであって、剣客の到りついた境地へまで行っている人が、殆ど無いからである。
 囲碁は、競技のうちで、可成り古くよりあり、可成り発達し、可成り高級視されているところのものである。試みに、これと剣とを比較してみる。
 初代の本因坊、即ち本因坊算砂は、名人として、将棋の嗜みも深く、戦国当時の人として、ちょうど上泉信綱と時代を同じうしている人である。そして、元僧侶で日海と云っていたが、この人に碁、将棋十首というものが遺っている。二三を挙げると、
  筍くも、諸道の非難無益なり 手前の義理のせんさくはよし
  文武をばつよく修めて何事も 勘忍するは道の道たり
と、いうようなものである。それから上泉信綱にも歌がある。
  よしあしと思ふ心を打てすて 何事もなき身となりてみよ
  おのづから映れば映るうつるとは 月も思はず水も思はず
 この二つの歌を較べてみるがいい。共に同時代の人で、一人は僧侶、一人は武弁。そして共に一技の祖たる人であるが、どちらが、深く研究しているか。本因坊の、事大主義的常識以外へ出ない作と、信綱の悟りを含んだ歌と―それは殆ど、有名な「心頭滅却すれば、火もまた涼し」と同じ境地を味得している。
 一時代に於ける剣客中の名人は、大抵この悟りに入り、そして、一転して、禅と合し、老子の思想を体得し、儒教との合致を見出し、いや、そういうものと合一点を発見する前に既に立派な「道」を「道徳」を説くまでに、剣より、剣の技巧より心へ潜入してしまっていた。
 私は、単に、算砂と、信綱とを、この歌だけから判断しようとは思わないが、叉、判断しても差支えあるまいとも考えている。すべての競技、武技は、究極するところ勝敗の道、勝負の技巧である。だから、.算砂の歌をとっても、残る八番は、その技巧に於ける戒めのみを説いている。そのほかの武技、競技も説くところは、殆ど勝敗、技巧の末である。
 ところが剣法のみ独り、殺人的技巧の研究から入って、技巧の根元を抜け、人格を説き、修業を云い、道徳を重んじ弓、馬、槍、柔と同じ道を行き、同じ所へ到着すべき種類であるに拘らず、独りとび離れて「道」を尊んでいる。
 私は、これをもって、剣は、弓、馬の行き得なかった所へまで行ったものと断じ、そして、各時代の名人が、それを体得したということは、勿論その人々もえらいではあろうが、最初にそこへ行きついて剣の究極はここにあると示しておいた流祖たちの人物を称めない訳には行かぬ。
 この流祖たちの拓いておいた「道」は、他の武技、競技の祖に於て、全く見られないことであって、古今東西、剣法のみにある。驚くへき―それは、今日のスポーツ精神などという言葉によって説かれるものより、スパルタ人より、とにかく、古今東西無比なる立派な境地へ到達したものである。
 殺人ということより、活人ということを考え、人に打勝つことより、人に負けぬという風に考え、勝敗は末であって、根本問題は、生死の解脱であると観じ、生死の解脱は一転して「垂手入塵的」態度を取るようになり、ここに仏書、哲学に説かれる道徳と同じものが生じ、武人の人間修養上の最捷径として、迎えられるようになった。
 この発達のプロセスは、剣客の間に於て、甚だ明瞭に、甚だ多くを遺されているのが、他の勝負事に於ては、殆ど比較にならぬ。今日、かくの如くスポーツが盛んであるが、それの哲学化、それの「道」の無いことを思う時、単なる殺人的技巧の研究によって、無学なる一武人が、五百年前に、当時の、いや東西古今の哲人、聖者の到ったと同じ所にまで行っていたということは、その発達が、どの程度であったかということを考えるのに、最もいい問題である。
 そして、流祖が、よくそれを体得し、よく説いておいてくれたから、後世の剣客が、到達しなかったということも見逃せない。ここに於て、私は、流祖の人物を、戦闘時代の一切の英雄、学者の上に位せしめて、少しも差支え無いと云いたいのである。
 恐らく、戦国時代に於ける武人で、信綱、卜伝如き虚心的態度と、謙遜なる道徳家的高踏生活をしていた人は無いであろう。二人ながら、仕官しておれば、越前の富田重政、徳川の柳生宗矩の如く、剣一本が万石以上の要職をしめられたにちがい無いが、二人ながらそれをすて、一生を流浪の旅に送っているが、当時の人として、いかにも尊い心がけである。

流祖の言行 

 その二三の例を引くが―上泉信綱は、一人の男を捕えるため、頭を剃り、僧になってかかった。これは対手が強かったのでなく、ここまでして自分の身を守るのに、大事をとったのである。そして、一生を流浪して、柳生の庄に客死したが、その遺文に曰く、
「兵法は、進退谷りて一生一度の用に立つる為なれば、上手と人に見らるるとも、毛頭も心の奥に正しからざる所あらば、心のとはば如何に答へん。火炎の内に飛入、盤石の下に敷かれても、滅せぬ心こそ頼むあるぢなれ」
 彼は技から入って、立派に心へまで「道」へまで到達している。人間の心得べき最高の心懸けを、剣から生死から入って行って把握した。
 塚原ト伝の逸話も亦これと同じものである。馬を避けて横丁から遠廻りした話、船中の侍を、島へ置去った話は、小学修身書で有名であるが、その継嗣を選ぶ時にも、用意周到であった長子を選んで技を誇った次子を斥けている。そうして「大鷹みもと据ゑさせ、乗換へ馬三疋引かせ」ていた豪著な生活をすてて故山へ帰臥して、隠者的生活を喜んでいる。
 伊東景久は、小野善鬼の技を認めていたが、彼の心懸けに廉らずして、神子上典膳に奥秘を伝授し、行方を知らせずに一生を送った。もし、こういう逸話を求めるなら、余りに多く有りすぎる。
 神谷伝心斎は、青年にして既に十五流を究め、新陰流を、直心流と改めた人であるが、六十七歳の時に、初めて悟って剣法は仁義礼智を知るためである。身を守るのは直心のほかに無い、直心に進んで悲心を断つ、これが剣の極であると云った。そして極意を「非切」と称して、八十二歳で死ぬまで、剣法は人間の道を行うもので、心の非を切る法であると説いている。
 もし「空鈍流」の小田切一雲が著す『天狗芸術論』を読むなら、針ヶ谷夕雲と、一雲の二人が、どういうことを考えていたか?それは老子の谷神章と合致点を見出した。平常無敵流と、同じ所へ行っていることが判るであろう。『当流括要』に曰く、
「表も無く、裏も無し、太刀の構もなく、総じて仕組一つも無し、唯神気素直にして、平生の形にてすらすらと出て―」
と即ち、老子の、
「谷神レ不死、是謂二玄牝一、玄牝之汀是謂二天地根一」から出たもので、平常は平等の意、無敵とは、己が虚心であれば、敵というようなものは生じないという意味で、強いから敵する者が無い、というような解釈は剣法の真を知らぬ人である。
 とにかく、刀を抜くということは、自他何れかの生死の問題である。自分の殺されるということは大変であるが、他人を殺すということも亦容易な業でない。剣客は、毎日こういうことを心懸け、こういう境地を通っていた。そしていつの間にか、生死のことを超越し、悟ったのである。
 人間が、生死を越えるということは、生死以上に大変なことである。現在の如く、医学がすすみ、世が太平ならば、これは殆ど無関心でいられるが、戦国当時の武人にとっては何よりの問題であった。それが解けてその心で世に処す以上、人生はその人の掌の中にある。正平道人鈴木正三はその心持を解釈して、
「痛まず、悩まず、悲しまず、変ぜず、驚怖せず」
と云った。これが剣客の心であるとすれば、このくらい安らかな生活は無い。勝海舟は、よく、
「自分の処決は万事剣からきている」
と云ったが、翁は幕末の剣聖、男谷下総守の親族として、そういうことを教えられたであろうと思う。
 こうして、説いてくると、生死の間に、自然の悟りを得た剣法と、不立文字の禅とは、よし、沢庵と柳生宗矩の関係が無くとも、剣祖慈恩が禅僧で無かろうと相通じるもののあるのは当然の話である。試みに、その相通じている二三の所を抜いてみる。

禅との共通点 

 沢庵和尚が、柳生宗矩へ与えた『不動智』には、「水上に胡慮子を打っ、捻着せんとすれぽ即ち転ず、ふくべを水へ投げて、押せばひよと脇え退き、何としても一所に留まらぬ物や、至りたる心は、ちっとも世に留まらぬ水上のふくべを押すが如くたり」
と、云って、禅の極意を説いている。俗に謂う「八方破れ」の気持ちである。
 柳生流から出た「無住心剣」針ヶ谷夕雲はこう説明している。
「凡そ、心を極め、天命を知るとならば、たとへ天地が忽ち微塵と成るとも、柳か変動するの気、自己にはあるべからず、況や其外の一切有爲世界の諸欲の上にて論ぜば、天下を授受するの所に至っても、義と不義との了簡(判断の事)をするは格別なり。これが為に欲心を動かしての裁判はあるまじき事なるに僅かに三百、四百石の知行分限の沙汰にさえ欲心を動かして、兼てより所持する人は失はん事を恐れ、所柱せぬ輩は義を忘る。面々に己が赤子の時と帰り見れば、天地の破裂するにも目もまじろがず、天下を得ても悦とせず、一切世間有為諸欲、一箇も赤子の心に感ぜざる。然れども飢えては乳をのみ、飽ては離れ、乳の出ぬのは捻り出し、今日我々当然の用に事欠かざる程の真知の働は、自由に備りて有る也、ここを、主一無適といひ、純一無類とも云えねど敬也、誠と知らねど誠也、放心と嫌ふべき物無く、閑思離慮と忌むべき様無く、本より不遍不羅なれば過不及もなし、不悉不信不義不孝といふべき物も無し」
と、これ剣より得たる哲学で、文字は足りないとしても立派に、老子哲学を体得したものである。又宮本武蔵は、その『五輪書』に於て、
「我兵法を学ばんと思う人は道を行うにあり第一に、邪無き事を思う所」
と、説いている。伊東一刀斎の、
「内外打成一片にして、善く無く、悪も無し、千刀万剣を唯一心に具足し、十方を通貫して転変自在也。讐へば水の如く―」
は、沢庵の言葉と同じである。
「よく行に達する者は、先に止りても先に不奪、事を守りても心其事にそまらず、形在ると欲すれば全形無し、形無きかと見れば正に形あり、勝負の根元は、自然の理にして、是非全く計りがたし、不レ思に勝、不レ量に負く、何に同って勝事を楽み、何に向って負くる所を悲しまんや、人間無常の習、其得失は唯天道自然の妙理也、故に敵に向うは勝負の是非を念はず一心生死を放念す」
と、こういう種類の言葉と、禅の二三とを比較する時、剣法がいかに「道」へ到っているかが判るであろう。『坐禅用心記』の、
「身心倶脱落、坐臥同遠離、故不レ思レ善、不レ思レ悪、能超一越凡聖」
は、即ち、夕雲の説くのと同じである。
「説法豊有二定式一、只随二時機一也耳夷」
は「八方破れ」と同境地である。永源寂室和尚語の
「参禅無二秘訣一、只要二生死切一至祝々々」
は、剣客の第一心得である。禅と、剣との関係は『病間長語』の云う如く、
「刀槍の印可などといふ目録は、多くは皆禅家の語を仮用の心の動ぜぬといふ理を教へたるものなり。その昔刀槍など能せし武士も、ただ武辺のみのことのみにて、文事は一向知らざりし故に、禅僧など雇ふて作りてもらふたるが」
と、いう如き、単なる関係ではない。もっと奥深く不立文字の諦悟が、共通していたのである。後世になって、いろいろの人々が、例えば白井亨の如き、参禅して剣を悟り、山岡鉄舟の如き、又禅から力を得ているが、流祖の人々は、殆ど、禅と何の関係もない。記録によれば、僧慈恩を以って、開祖としているが、慈恩が禅僧であって、古い剣客者としても、職国初頭の流祖には全く関係がなく、卜伝も、信綱も、家直も、悉く、自ら得た技と、悟りである。それがたまたま後に禅と結び、柳生宗矩が沢庵和尚と交遊するに及んで、禅が、剣を助けたように見えてきたが、剣は流祖たち自得の道で、少しも禅からの力を借りているものでは無い。
 日本の禅僧の誰に較べても、名人、上手の人々は劣ろうとは思えない。本人は、坊主の前で、頭を下げるか知らぬが、私は、断じて下げさせるとは思わぬ。もし、その体得したる実践力に至っては、幕府の御用を勤めている坊主輩の遠く及ぶところでは無い。辻月丹程度の剣客ですら、そこらの儒者などより蓬かに人物である。「道」を心得ている。

二流の消長 

 剣術は、勿論、戦場に於ける必要技として発生し発達してきた。従って、荒稽古をし大太刀を使い、主として、戦場でいかに敵を斬るべきかの研究であった。
 ところが前述の如く、理論的に、体験的に、戦場より遠く離れてしまったから、ここに二派の対立をみるのは当然のことである、そうして又、世が太平となり単に剣法を武士の嗜みとして学ぶようになって以来、戦場派の衰えてくるのは是非も無いところである。
 そして、道場剣法が盛になり、技巧が細かくなるにつれ、一面より観て剣法の堕落と罵られるのも当然のことである。
 徳川初期まで、即ち、古流剣法は、主として小手への打込みを習いとした。これは、木剣、刃引の稽古であるから面胴の如きへは危険で、打込めなかったからである。そして小手でなるべく近くまで打込んで、その手練を、
「よくつめた」
と、云って称めたものである。それからもう一つは対手の得物を叩き落して勝負にするのと、乱稽古はこの二つ以外を出なかった。そして、別に組太刀を学んで、型の稽古をしたものである。
 これを不便として、前篇に説いた如く袋竹刀(軸)を、上泉信綱が発明して、面、小手自由に打てるようになったが、猶他流では軽蔑して、柳生流のみの使用にすぎなかった。
 将軍家指南役として、一刀流、柳生流の二派が出ていたが、一刀流は刃引を用いて稽古が荒く、天下御流儀といえば柳生流に限られた如く、柳生流のみが用いられた。そして、それは単に将軍家のみでなく、一般にもその傾向をみせていた。そして、一面に於て、
「凡そ、武技は乱れたる世ならんには学ばずとも可成るべし、今治まれる世に生れては、武士を以て、名を呼ばるる者は、かかるわざに身を委ねてこそ、其職業をわすれざるの一端ともなすべけれ」
と、いうような思想が起ってきたから、柳生流の如き、組太刀も無用、構も無用と云った如き、心本技末流の盛大になるのも当然で、入り易いから、流行るのは尤もである。
 そしてこういう傾向は、戦場で人間の密集している時には使えないような太刀を多く発明しだした。即ち後へ退るとか、横へ飛び開くとか、わざと倒れて敵の打込んでくる胴を薙ぐとか、戦場流から見れば、笑うに堪えたる業である。
 だから、荻生祖徠の如き、この傾向の流行を、片腹痛く思って、その『護園秘録』で大いに罵倒しているが、曰く、「戦場に名得たる物師、覚の者と云者、一人も槍太刀の芸の上手もなく、槍も太刀も只棒の如くに覚えて敵をたたき倒すことなり。総じて武芸は、手足を習わしめ、走り廻りの達者になるべき為なるに、わざをいやしきことに云ふて理を談ずる類は、皆太平の戯玩に似たり。剣術にて戸田流、神道流などは戦国にてはやりたる流なれば何れも所作多く手足の習はしによかるべし。殊に跡へ引くことを第一にする流などは、戦場には敗北の媒たるべし」
 そして、戦場派は、主として、太股、二の腕、股を突上げる、という風の鎧の隙を規うての稽古を主としていた。敵の懐へ早く飛込む稽古のため、背に旅を入れて、いくら叩かれても、一心に、敵へ素早く突込むという風なことさえやっていた。
 然し、それは到底、長くつづく訳が無かった。雲引流に「鉄面」が行われて間もなく新陰流六代目、直心影流の長沼四郎左衛門が出るに及び、「打込み」「切返し」等の技巧から、面、小手をつけ、袋竹刀を、現在の如き竹刀に改めるに及んで、遂に戦場派は破れ去ってしまった。
 これは一面に於て堕落的傾向を見せたと同時に、発達史上当然のプロセスであって、如何とも仕方の無いことであった。享保年中の人、新見老人はその著すところの『昔々物語』に慨嘆しているが、
「むかしは侍衆、大身小身共に振舞夜話の出会を聞に昔御陣の咄、先祖の手柄、又は当世の武道、武辺の詮議、刀脇差の物ずき、喧嘩口論の是非の取沙汰、男道の嗜、和らかなることは茶の湯ばなし是より外に別の義なし。さるに由て刀脇差のこしらへ。座敷に相客十人あれば十色の物ずき。三尺余の刀もあり、二尺許りの刀もあり、軽き有、重き有。近年は一時のはやりに随ひ、似よりたる尺寸、その外拾に付ても皆同じ、何の思もなく、人の真似して持へたる」
と、いうのも是非ないことになってきた。そして、流石の一刀流も、とうとう宝暦の中西派二代目中西忠蔵に至って、竹刀、抱をいるようになった。
 そのうち、寺田五郎左衛門の如き、猶刃引を用い、戦場派復帰を叫ぶ人々も、時々出て来たが、この大勢はどうすることもできなかった。

(『網迫HP』で公開されている未校正OCRデータを元に作成しました)



















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剣法夜話(三)

剣法夜話

直木三十五著
その三

武勇伝雑話

宮本武蔵の強さ

 武蔵は、書き残しておいた『兵法三十五ヶ条』『五輪書』があるし、養子の宮本伊織の建てた碑もあるし、相当研究された、熊本の宮本武蔵顕彰会本もあるし、そのほか、書画、工芸品が残っていて、剣客中で一番事蹟が、はっきりとしている。然し、その強さに到っては、強いというだけでその程度が判らない。
 仮えば、佐々木小次郎との試合は、武蔵一生の大試合であるが、その技倆の問題になると、必ずしも負けた小次郎の方が弱い、とはいえない。
 齢からみて、小次郎は二十一歳から、十九歳までの間、武蔵が三十八歳である。試合の駈引からみて武蔵の方が場数を踏んでいる。場数を、技倆と別に考えると、ここに、いくらかのハンディキャップがある。
 それから、武蔵は、小次郎の刀を十分に調べている。そして、それよりも自分の刀の方が短いから、わざわざ揖を買って、自分で削りあげて、その刀より長いものを作って試合している。これなど、明かに、武蔵の腕と、小次郎の腕と差の無いことを語っているもので、二人位になると、刀の長短で勝敗がきまるのである。その差一寸で勝敗が決するのである。
 それから、いつも武蔵の手段として、定められた時刻より、ずっと遅れて試合場へ行っている、それは吉岡と立合った時にも用いた手段で、対手を待たせて、いらいらさせようという心理的計略である。これは、待たされて、じりじりするような対手が悪いのであるが、卑怯といえば、いえぬこともない。
 そうして、いよいよ立合う前になると、小次郎が怒って、鞘をすてて向ってくると、小次郎お前は負けた。勝つなら、何故、鞘をすてたか、と、齢若の小次郎を、巧みに弄んでいる。そうして、小次郎との試合は、小次郎を打つと同時に、武蔵も、鉢巻を切り落とされているから、ただ、得物の長短の差であったといえる。だが、勿論、こういう差とか、計略とかを含めたものが、その人の強さであるならば、確かに、武蔵は強いし、小次郎は、当時、西国の鬼と呼ばれていた人だから、それに勝った武蔵は、勿論強いとはいえる。
 佐々木小次郎は、富田流の富田勢源の弟子で、十六の歳に、既に、一家の腕があり、勢源の弟、五郎左衛門と勝負して勝ったので、一流を立てることを許され「岸流」と、名をつけたのである。「岸流」は流派名で、姓名ではない。
 この試合のほかに有名なのは、京都の吉岡との試合であるが、武蔵の方の記録では、又三郎、又七郎の二人の兄弟と試合して、二人ともに破ったと書いてあるが、吉岡の記録だと、又七郎直綱と試合さしたので、所司代板倉重政が立合って相打ちになったといっている。そして、世上、吉岡が負けたというのは、武蔵の鉢巻が柿色で、血が滲み出ても判らなかったし、自分のは白で、それがよく判ったからだと弁解している。
 そこで、武蔵の方の記録にない、武蔵の不利な話を挙げると、二階堂流の松山主水を恐れて、その土地をこそこそと逃げ去ったという話があるし、尾張藩の師範役に、
「貴殿、兵法三十五ヶ条などを書かれて、今後悔しておられぬか」
と、詰問され、
「仰せの通り」
と、赤面している話がある、、『兵法三十五ヶ条』と『五輔書』とは、同じ内容で粗密の差があるだけであるが、これは、明かに『兵法三十五ヶ条』が世上で評判よくなかったためであると解してもいい。少なくとも不備であったから、後に訂正したのが『五輪書』である。
 それから、江戸へ出て、一人の江戸の名剣客とも試合していない。当時は、柳生、伊藤の両客は勿論、小笠原源信斎、幕屋大休、紙屋伝心など、有名な人がいたが、一人も立合っていない。残っているのは、名もない辻風某と試合して勝った、という話だけである。
 然し、決して弱くは無かったし、武蔵の来ていることは可成り評判だったと見えて、小笠原源信斎が、
「武蔵は、強いという話だが」
と、いうと、門人の紙屋伝心が、
「武蔵くらいなら、負けません」
と、いって、源信斎が、武蔵の型通りに打ってくるのを、一撃に破る話が残っている。
 この源信斎というのは、上泉信綱の弟子で、亡命して支那へ逃れ、後戻ってきてからは、相弟子の疋田小伯をして「吾、源信に及ばず」と、嘆ぜしめた名人で、新陰流三代の正統である。
 また、紙屋伝心は、十五流にわたってその奥義を究め、後に真心流と称して、新陰四代目になった人であるが、私の推案では、当時の武蔵は、この人々より強くなかった、といいたい。
 それは武蔵の記録を読むと判るが、だんだん修養して行って晩年には相当の境地に達したんであるとは思えるが、残しているものに信綱等に見る鋭さがない。常識的であって哲学が無。『五輪書』にも、心得として、いろいろのことが書いてあるが、たとえば、小田切一雲の『天狗芸術論』の如き鋭利さがない。
 それから、細川三斎公に抱えられた時の禄高が、当時として、又、今思われているような強い武蔵としては、少なすぎる。手許に、記録が見つからぬので正確に書けぬが、確か、十七人扶持、玄米三百石であったと覚えている。
 この武蔵に比べると、養子の伊織は、三千石になっているから、少し時代がちがっても少々おかしい、当時、三百石といえば、相当の知行で、客分扱いだから決して、悪くはないが、第一流、唯一者としての高ではない。然し細川三斎は、有名な武術好きで、武蔵は愛されていた方だから、それで、この知行では、少なくも唯一無二の剣客で無かったことだけは、断言できる。
 それから、武蔵は、三斎公に、自分の得手は、剣術よりも、政治向の方のことだといっているが、これはそうらしい。他の剣客に比較して、頭の知識的なことだけは動かせない。画も海北友松に弟子となって上手であるし、自分で、鞍だの、鍔などを造って、今も残っているが、そのほかに、当時の武芸者にない前の二書を著述しているし、その言行を見ても、剣術それだけの強さより、頭のよさが、非常に含まれている。死ぬ時にも、
「自分の考えが、実行されないし、聞かれない中に死ぬのは残念だ」
と、いっているが、然し、それについても、何の書き残したことも無く、いったこともない。島原の乱に出陣しているが格別の話も伝えられていない。ただ細川家の軍事顧問として行ったことだけは確からしい。
 ただよく自省していたことは、修養していたことだけは、十分に判る。一生、妻が無かったとか、湯へ入らなかったとか、髪をすかなかったとか、金包みを天井へぶら下げていて、用があるとそれを下ろして開いたとか、武士の風貌を知ることのできる話で、その残されている肖像の鋭い顔をみる時、非凡人であったことが判る。
 ただ剣道全盛の時代としては、余りに他の剣客の事蹟が残っていないので、武蔵一人が目立つようであるが、武蔵の強さを語る、いろいろの逸話も、そう驚くには当らない。たとえば、一人の男の額へ米粒をつけておいて、それを両断したなどの話は武蔵でなくとも出来ることである。
 時々いうが、武蔵は決して二刀を使っていない。先年の天覧試合など、明かに二刀を持って試合している人があるし、道場では竹刀で、有利に立合えるが、これは竹刀だけ、道場だけの御なぐさみ剣術である。武蔵は馬上とか、そのほかの場合、片手でも刀を十分使えるように、平常から、片手の剣術を稽古させたので自分ではっきりそういっている。二刀を試合に使い出したのは、ずっと後で、道場剣術全盛になってからのことである。
 真剣で二尺二三寸になれば、古刀でも、一貫七八百目はある。これ位の重さがないと、人は斬れない。それを両手で、戦うなど以ってのほかで、三十分もしたら疲れて、叩き落されてしまう。
 もし、それより短い刀を二本持ったとしたなら、こっちのが届かぬ先に、対手の長いので斬られてしまう。第一に真剣は、竹刀とちがって、片手では十分に中々斬れるものではない。右手で調子をとって、片削ぎ(刃が外れる、真直にはならず、少し斜めになること)にならぬようにし、左手に力を入れて引かんと斬れない。
 僕らもよく、抜討ちの片手薙などとやるが、片手で完全に斬れる人は達人である。武蔵は自分の流儀を、円明流と称していた。門人の青木半左衛門が、初めて鉄人二刀流とつけてから、二刀流の名が起ったので、手近い例をとると、維新前後、剣術の再び盛になった頃には、二刀流などという馬鹿馬鹿しいものは一人も使っていないし、実際にも、二刀で斬合った例は一つもない。流石の出鱈目講釈、大衆物でも、維新になると、新撰組にも、一人の二刀流も出して来ない。有利な剣法なら、誰かが利用するはずであるが、下らないからである。現在の二刀流の如き、剣術の堕落的現象で、見た眼に派手でおもしろい舞踊剣術である。少なくも、一家をなす人は使っていない。天覧試合に講釈師が招待されて、
「二刀流の成績は中々よろしい、矢張り、二刀流は有利なようです」
と、何をじゃらじゃら。武蔵も、もう少し、後に生れたら、或は、大石進が六尺の竹刀で、江戸中を驚かしたように、二刀流で、紙屋も、小笠原も負かして、日本一の武芸者になっていたかも知れぬ。若い武蔵は、可成りの山気と、街気と、術策と、自家宣伝とは上手であったらしい。ただ晩年はえらい。一流であることは明かである。

上泉信綱と宮本武蔵 

 菊池寛は江戸時代に於ける武蔵への蔭口が、私に伝わったものだと、私の武蔵への非難を、解釈している。然し武蔵に対する私の攻撃は、武蔵を偉人とする「宮本武蔵顕彰会」の『宮本武蔵伝』によったものであって、私の解釈が正しいか、どうかは、後に、武蔵の匹夫的行動を列挙して、これを論ずることにする。
 もし、単に蔭口云々のみに対して、反駁するなら、私の云う、何が蔭口であるかを聞かぬと、わからないし、他の剣客に、武蔵のように非難されている例があるか、ということも、聞かなくてはならぬし、私の引用する書物が、蔭口を伝えているか、当時の、正しい話を伝えているか、又『宮本武蔵伝』は、武歳に有利なことと共に、不利な物をも加えておるか、それとも武蔵を顕彰する会から出た本ゆえ、武蔵に有利なことをのみ伝えている、不利な記録を収録していないか、ここまで調べてみなくてはならぬ。
 もし、その一例をとるなら、吉岡の試合の如き、武蔵伝と、吉岡家の記録とは、全くちがうが『武蔵伝』には、反対側の、吉岡の記録を、全然、収録していない。これで、公平に、考えることができるかどうか、それとも、両者を比較して絶対に『武蔵伝』の方が、正しいとでもいう人があるなら、その研究方法を、聞きたいものである。
 武蔵は、いろいろと、自分でも書き残しているし、『宮本武蔵顕彰会』などというものまで出来ているし、伜が小笠原の家老であったが故に、碑も立派に立っている。芝居となり、講談となり、広く、人の頭に残されている。これは、その人が、残されない他の人よりも、数段えらかったのではなく、一つの偶然である。
 由比正雪は、誰でも知っているが、別木庄左衛門の名は誰も知らないし、忠臣蔵は、残らず日本人が、知っているが、浄瑠璃阪の仇討は、少数の人しか知らない。維新の剣客にして、千葉周作や、近藤勇はよく知られているが、剣聖と称されていた男谷下総のことは、誰も知らない。爆弾三勇士の名を知っていても、八勇士の名は知らぬし、空閑少佐は記憶していても、尾山大尉は、それほどではない。
 これらの人々の事蹟が、有名と無名と、そんなに、格段の差があるかと云えば、大したことではない。ジャーナリズムが、宣伝したか、せぬかの差のみである。忠臣蔵に、士分以下の加盟者は、寺阪吉右衛門一人であるが、浄瑠璃阪には、七八人も年期奉公の仲間が加わっている。恩を知っている点から云えば、遙かに、忠臣蔵より優っているが、不幸にして、芝居にも講談にもならないから、一般化されずに、無名である。
 武蔵は、芝居となり、講談となり、一般化されているし、そして、事実に於ても、第一流の剣客であるから、多少研究した人には、成る程、武蔵は、えらい人だと、感心するが、感心した人が、他の剣客のえらさをも調べて、感心しているのか、武蔵だけを見て、感心しているのかと云えば、武蔵伝を一冊見ただけで感心してしまって、余の人の事蹟は、少しも、研究していないらしいのである。又、するにしても、本もないし。凡そ、剣客中で、ちゃんとした伝記の出ている人は、武蔵と、斎藤弥九郎と千葉周作ぐらいのものであろう。
 この点に於て、いささか、私は、余人のことをも、研究しているから、武蔵を、一流の中へは加えるが、ナソバーワソには、決してしない。何故かと云えば、上泉信綱がいるからである。

二 

 菊池君は、次に、武蔵の試合の回数は六十三度という数字を上げている。そして、名は試合でも、実は果し合いだと云って、称めているが、試合は、必ずしも、果し合いではない。果し合いのような試合もある。佐々木小次郎との試合のように、ちゃんと、願い出て、上の許しを得ないと、そう果し合い的試合というものは、軽々しく出来るものではない。いくら、戦国時代末と雖も、ちゃんと、国の治まっている時に、濫りに人命を損じるようなことは、上で許しはしない。
 武蔵は、果し合い的試合もした。と、同時に、傷つかぬ試合的試合もした。ことごとくを、果し合い的に見るのは当時の法令を知らぬからである。それで、かかる試合を、六十三度したからと云って、その数の多いのは、必ずしも、誇りにはならない。
 試合に於て誇るなら、一つでもいいから、天下第一の人と試合をして、打ち勝つことである。天下第一人を避けて、六十三人の弱い奴に、勝ったとて、何の誇りにもならない。もし、試合の回数に於て云うなら、「塚原卜伝は、十七の時、京の清水で『真剣勝負』をして以来『真剣勝負』のみ十九度、戦場の働き、三十七度、木剣の試合数百度、矢疵六ヶ所を受け、敵を討取る数、二百二人。松本備前守、高名の首二十五、並の追首七十六。波合備前、長刀をもって、我は一人、敵は二百人ばかりを、七八十人斬りて、その身は、堅固にまかりのく、切所とは申しながら」
と、いくつもある。武蔵は、戦場へ、六度出ているが、一向に、武蔵が、戦場で、働いたという話は伝わっていない。
 だが、回数なんかは、どうでもいい。武蔵が、当時名ある人と試合をしたのは、佐々木小次郎と、吉岡家の人と、二人である、しかも、吉岡との試合は、吉岡の記録では、相打ちとなっている。小次郎との試合は、武蔵は、小次郎の得物の長さを聞いて、それより長い木剣を作っているし、時間を、わざわざおくらせて、小次郎の年若に乗じて勝っているのであって、もし、二人が、道で出逢っての試合なら、どっちが勝ったか、わからない試合である、
 しかも、武蔵は、江戸へ行って、当時の名ある剣客とは、誰一人、試合をしていない。当時江戸には江戸子守唄の中に「剣術幕屋、薬は外郎」と唱われていた幕屋大休、小笠原源信斎、紙屋頼春、庄右喜左衛門、針ヶ谷夕雲、小田切一雲、小野、柳生の両家をのけても、名人が、揃っていた。この人々の一人とでも試合をして、見事に勝ったのなら、私はえらいという。だが、武蔵は試合をしていない。
 しかも『撃剣叢談』の中には、武蔵が、試合を避けたという話さえ伝わっておるのだから―これが蔭口という原因であろうが、私は、他にもっと、見事な試合振りを示している人があるから、その人を、武蔵の上に置くのである、誰かと云えば上泉信綱である。
 当時、柳生流の元祖、柳生宗巌は、近畿第一と称されていた。この人の所へ、上泉がきた時、試合となって、上泉は「まず」と、門人、疋田文五郎を出した。宗巌が、立ち向うと、文五郎、
「右をとる」
と、いうと、ばんと、右が入る。
「左をとりますぞ」
ばんと、左が入る。段ちがいだ。宗巌と、門人の疋田で、これだ。これを、武蔵が、小次郎に対していろいろ作戦をして、辛らくも勝ち、後に、あの時に、武蔵も額をやられたというような噂の残る位に、際どい勝負をしているのと較べると、上泉信綱の段ちがいさが、よくわかってくる。六十三度試合しないでも、この一度で、十分である。武蔵は、六十四人目に破れるか知れんが、信綱は天下無敵である。
 然し、信綱のえらいところは、真剣勝負などを、濫りにしないところにある。武蔵の如く、「吾れ弱年の頃より」などと、その自叙伝に、自分の強さを、書かぬ奥床しさのある点にある。武蔵は、その『五輪書』に、自分は、十三の時に、誰に勝ち、一生の間、六十三度、一度も、不覚をとらず、などと麗々しく書いているが、これをもし、菊池寛が「吾れ、十三にして、作文に志し、二十五歳にして、傑作をかき、六十三冊の本、一冊も、売れざることなし」とでも、自叙伝の冒頭に書いたら、人は、何んといって、わらうだろう。武蔵が、己れの強さを麗々しく、吹聴しているのと、塚原卜伝が、馬の尻をよけて、横丁へ廻った態度と、ここに、人間として、格段のちがいがある。このことは、後に云うが、その人物に於て、武蔵は、その技よりも遍かに劣っている。この点に於て、断じて、第一人者にすることはできない。
 余技がうまいということは、剣客としての価値に影響しないから、論じたい。高野佐三郎氏、斎村五郎氏が、矢張り、武蔵を称めておられると、菊池君は書いているが、両君の剣道は、十分に認めるが、両氏の剣客伝、剣道史は、認めない。現在の剣客中、剣道史、剣客の研究をしておられるのは、呉の堀正平氏をもって、オーソリチーとする。この人の説は、傾聴していいが、恐らく、上泉信綱を研究したなら、武蔵と、段のちがうことを感じるにちがい無いことは、誰でもであろうとおもう。以下、武蔵と信綱に対する、僕の小論を述べて行く。

三 

 武蔵のことは、次の五点を論じると、よくわかる。
  第一、その人物の、傲頑不遜
  第二、その著作の価値
  第三、剣道上の邪道としての二刀
  第四、当時に於ける武蔵の杜会的地位と名声
  第五、門人に傑物の出ざること
 右の内第一から、論じて行くと、武蔵について残されているその性格上の逸話は、幼年時代から、老年にいたるまで、一貫して、傲慢であり、勝気であり、勇を誇り、辛辣であり、武人としては、豪勇であったということがよくわかるが、およそ、聖者、仁人の道とは遠いものである。
 私の観るところによると、塚原卜伝も、上泉信綱も飯篠家直も、伊東一刀斎も、針ケ谷夕雲も、紙屋頼春も、小田切一雲も、ことごとく、名僧の悟りと同一境へまで、到着している。
 武から入っていって、武を離脱し、聖人、君子のもつ、寛大と仁慈の道へ、立派に踏込んでいて、名利を忘れ、武勇を超越している。私は、そこがえらいと思うが、武蔵はその境地へまで、到っていない。その時代から、順に武蔵の、そうした面影を上げて行くと、
一、少年時代、武蔵は、父無二斎に、己れの武を誇って父から叱責されている。生国の但馬から播磨の国の寺へあずけられていたのは、父の手に負えぬ少年であったらしく思われる。
二、十三歳で、有馬喜兵衛と試合した時の話に、有馬の立札へ、墨を塗ったという話があるが、嘘にしても、本当にしても、武蔵としては、有りそうな話である。十六の年も、秋山と闘っているのにしても、子供の癖に、自分から大人へ試合を申込むなど、強くもあったが、利かん気で、乱暴な面が多かったとおもえる。
三、関ヶ原の戦いに従軍した時、武蔵は友人と、竹藪の上の道を歩いていた。竹藪の竹が切られて、削げ竹が突立っていた。武蔵が友人に、この下を敵が通ったら、どうするかと聞くと、飛びおりると、竹で足を刺されるから、友人は見逃すほかにない、と云った。すると武蔵は、俺ならこうだと、その竹の上へ飛びおりた。勿論、足の底を傷つけた。これなど、全然、匹夫の勇で、不良少年が自分の強さを誇るのと、何の変りもない。
四、富来城を攻めた時、武蔵は、友人に、今、あの敵の槍をとってみせる、と云って、城の狭間へ股を当てた。敵が、この股を突き通すと、武蔵は突かれながら、その槍を折って、どうだと云った。前のと同じで己れの強さを誇る以外、殆ど価値の無い行為である。武士の心得とは、こんなに己れの身を、手軽く傷つけるということでは、断じてない。
五、小笠原家にいた時分、というから、武蔵が五十をすぎてからのことであるが、この齢になっても、武蔵には、この辛辣さが、残っていた。それは、小笠原の厨房人が、武蔵とて、不意討ちかけたなら、打てぬことはあるまいと、暗い廊下で打ってかかった。すると、武蔵は、刀の錨でこの男の胸をついた。男が倒れると、刀で男の手を打ったので、男の手が折れてしまった。武蔵ほどの人物なら、錨でつき倒すのさえ、烈しすぎる。避けておいて、馬鹿とでも叱ればすむことである。それを、刀の錨で倒れるまで、強く突いた上に、手を叩き折るなど、乱暴で、大人気の無いことである。
六、ずっと後になって、大事があった。一人の男が屋根から屋根を、飛鳥の如くに、飛び廻っていた。人々が、その身の軽さに感心すると、これが武蔵であった。これなど、老人の冷や水の甚だしいものである。
七、佐々木小次郎との試合に、小次郎が頭を打たれて倒れた。勝敗は、これで決している。だが、武蔵は、その上に、小次郎の肋骨を叩き折って殺してしまった。
八、この時、小次郎の刀が、武蔵の鉢巻を切ったので、後まで、武蔵も傷ついただろうという噂があった。それである時、一人の人が、それを聞くと、武蔵は、燭台をとって、自分の額を見せながら、その人の前へ、突きつけて、何処に傷がある?何処に傷があるかと、三度まで、額をつきつけたので、その人も閉口した。これは、武蔵が細川家へ仕えた後だから、五十をすぎている齢である。
九、島原の役に、武蔵が従軍して戻ってきた時、一人の人が、今度は戦功がなかったですね、と聞くと、武蔵答えて、自分は、参謀をつとめていた。それを、貴殿知らずに何を云われるか、と、色を成して叱った。
 以上の逸話をみる時、武蔵の少年時代から、その晩年まで一貫したものが感じられる。自己の勇を誇ること、人に対して寛大でないことである。
 武蔵伝に伝えられている如くならば、吉岡家の兄弟三人と試合をして、僅か、十七歳の少年をも討ちとり、遂に、吉岡家を断絶させたなど、残忍極まる話である。兄弟二人を討つなら、わかっているが、幼少の又七郎を討ったとて、少しも武蔵の勇武に、価値を加えるものではない。それに、この少年を討って、吉岡家を断絶させるなど義も情もない、と云われても、弁解の辞はあるまいとおもう。
 武蔵には、こうした辛辣な逸話は多いが、彼の人格の円満を語る話は、一つもない。この態度と、塚原ト伝が、馬の尻を避けて、横町へ迂廻し、又、武士の試合を挑むのを避けて、洲の中へ置きざりにし、無手勝流だと、笑った話とを較べる時、同じ、戦国の武士でも、雲泥の相違のあることを、知らねばならぬ。菊池君は、戦国時代だから、ということを云っているが、卜伝も、信綱も、武蔵よりは、もっと、烈しい時代の人物である。それが、人はおろか、馬を避ける心、これが剣道から道へ入った達人の心得である。この心得の模範的行動が、上泉信綱の逸話の中にある。
 上泉信綱が、疋田文五郎を連れて、一日、ある所へ通りかかった。村人が、騒いでいるから聞くと、乱暴者が人を斬り、捕えようとすると、子供を質として、小屋の中へ逃げ込み、手のつけようがない、というのである。
 信綱、それを聞いて、僧から袈裟、衣を借り、頭を丸めた。疋田が、頭まで丸めずともというのを、笑って、信綱は、握り飯を二つ作ってもらい、それを携えて、小屋の中へ入った。そして、浪人に、空腹であろうから、これを進ぜようと握り飯を投げ、叉、子供にもと、もう一つを投げ、浪人が双手に、それを持った隙に、飛込んでとらえた。
 武士でありながら、頭を丸めて、信綱ほどの豪の者が、僧侶になってまで、人一人を捕えるのに、細心の用心をした。ト伝は、馬の蹴るのを避ける位は、訳の無いことであろうが、馬が一杯になっているとみて横町を迂廻した。この勇を誇らぬ態度、常人よりも臆病にみえる態度は、剣道上に諦悟した人で無いと、できぬ業である。これらの人々に比して、いかに武蔵が、血気の勇に逸る人であるか、前の逸話を見る時、読者は、ほうふつとして、武蔵の面影が、浮んでくるにちがい無い。
 武蔵のこの、自らの勇を侍み、猛獣の如く、うそぶいている態度は、よく彼の著作の中にも出てきている。『五輪書』の冒頭にそれがある。

四 

日く、
「兵法の道二天一流と号し、数年鍛練の事、初めて書物に書き顕はさんと思ふ。時に、寛永二十年十月上旬の頃、生国播磨の武士、新免武蔵藤原玄信年つもりて云ふ。我、若年の昔より、兵法の道に心をかけ、十三歳にして初めて勝負を為す、その対手新当流の有馬喜兵衛という兵法者に打ち勝ち、十六歳にして、但馬国秋山という強力の兵法者に打ち勝ち、二十一歳にして都に上り、天下の兵法者に逢ひて、数度の勝負を決すと雖れども勝利を得ずといふ事なし。その後国々所々に至り、諸流の兵法者に行逢ひ、六十余度まで勝負すと雖も、一度もその利を失はず―」
 これは、人の書くことであって、自ら書くべきことではないようである。前に云ったが、もし菊池寛が、「吾十三歳にして、文章世界に投書して一等賞をとり、十六歳にして、大学首席にて出で、二十一歳『啓吉物語』をかいて、文壇を震憾し、四十六歳の今日まで、作する所六十余冊、一冊と雖も、売れざるものなし」と、自叙伝にかいたら、人々は何んというであろうか?
 菊池君の推称する、武蔵が死の前にかいた独行道十九ヶ条とは、どういうものであるか?曰く、
  一、万づ依枯の心なし
  二、身に楽をたくまず
  三、一生の間欲心なし
  四、我事に於て後悔せず
  五、善悪につき他を妬まず
  六、何の道にも別を悲しまず
  七、自他ともに恨みかこつ心なし
  八、恋慕の思なし
  九、物事に数寄好みなし
  十、居宅に望なし
  十一、身一つに美食を好まず
  十二、古き道具を所持せず
  十三、兵具は格別、余の道具をたしなまず
  十四、道にあたって死を厭はず
  十五、老後財宝所領に心なし
  十六、神仏を尊み、神仏を頼まず
  十七、我身にとり物を忌むことなし
  十八、心常に兵法の道を離れず
  十九、世々の道に逆くことなし
以上である。
 この中で、菊池寛の推称する「神仏云々」「事に当り後悔せず」「物を忌む事なし」などはおもしろいが、齢とったから財産は欲しくないとか、依枯の心がないとか居宅の望なしとか、道具はいらんとか―いかにも愚劣極まることである。
 もし、誰かが、下宿の部屋に「われ恋愛せず」「我自他を恨まず」「我古道具をもたず」というようなことを、自らを戒める言葵として、麗々大書して貼りつけておきでもしたら、軽蔑のほかはないであろう。宮本武蔵の独行動だというから、この中に、面白さを感じる文句こそあれ、これを、公平にみたら、六十いくつの死の前の、自戒の文として、どれだけ価値があるか?ゲーテは、七十になっても恋愛したから「我恋慕の情を断つべきなり」と六十歳にかいてもおかしくないが、宮本武蔵が、古道具はもたぬとか、自分一人ではうまい物を食わない、とかという文句と一緒に、恋愛しないなどと、大真面目にかいているのは、家に望みがたいとか、一生の間欲心なしとかいっているのと同じように、ただ幼稚なだけである。
 この独行道十九ヶ条と『五輪書』の右の文とを見るとき、武蔵の悟道がどの辺のものか、よくわかるであろう。武人としては、一流の人であるが、ナンバーワンと許せないとは、ここを惜しんでいうのである。
 上泉信綱の言葉の中に、
「兵法は、世間に能く見られたき事にあらず、たとひ上手と人には見らるるとも、毛頭も心の奥に正しからざる所あらば、心のとはば、如何答へん。為なくば、見苦しくて、初心のやうに見ゆるとも、火炎の内に飛入、盤石の下に敷かれても、滅せぬ心こそ、心と頼むあるぢなれ」
  この正しき心を、第一の心得としている点、信綱の流より出た針ヶ谷夕雲の『剣法夕雲先生相伝』の
「如何とならば、兵法大概は、如レ此迷暗邪曲なる畜生心、所作二心を移して、工夫の種とし、漸く鷹の鳥をとり猫の鼠を捕ふる程の所作をし、上を打つよと見せて、下をはらひ、横を払ふふりをして頭を竪割りにし、飛ちがへ引きはづし、七転八倒し、兵法上手の名を得、世間より崇敬をもうくる故に、夕雲は一代畜生心、畜生兵法とて、かかる物を嫌はるるなり」
こう、説き起して、
「真知の働は、自由に備りて有也、ここの気を活然とも云はば、活然にも成るべし。ここを主一無適といひ、純一無雑とも云ふべし、敬といはねど敬なり、誠を知らねど誠也、放心と嫌ふべき物無く閑忠雑慮と忌むべき様もなし。本より不偏不羅なれば、過不及もなし、不忠不孝不信不義といふべき物一つもなし」
と、無心を説き、強い者には負け、弱い者には勝つのでは、いつまで経っても、真の兵法に、悟入はできぬと論じ、分量にして『五輪書』の半分強であるが、全文、剣道者の心、態度を教えるところなど、到底『五輪書』の粗雑の比ではない。
 この外に『一刀斎先生剣法書』沢庵の『不動智』など、剣法の書に、優れたものは、いろいろとある。一々、書抜きもできぬから、有志の方はその本について読まれたい。そして、猶お、もし『五輪書』が、天下第一とでも云われる方があるなら、いつでも御対手をする。
 それから、武蔵に、門人の少ないのは何故であるか。信綱に、傑出した門人の多いのは何故であるか。という点から、当時の武蔵の杜会的地位と、信綱の杜会的地位とを文献によって比較し、武蔵の禄高の少ない点、大阪城の戦いに従軍したのは、何故か、という点。そして、上泉信綱の全貌を紹介して、天下第一の剣客は、この人である、ということを断じよう。

五 

 前節に於て、私は武蔵の性格を、十ヶ条に亘って引例し、その自信の強さ、武人的獰猛性について説明をし、次に、彼の著書によって、それを裏書していることを挙げ、独行道の価値を評して終った。
 然し、右に関しては、吉川英治君が「読売」でいっているように、私の挙げた十ヶ条と武蔵の逸話を、ことごとく考証的証明がなければ信用できない、という論が出てくるかもしれない。それで、私の挙げたそれが、誤りであるという考証が出て来ないとは、私も断言できぬが、もし吉川君に対してのみ云うなら、吉川君は、私の所説に考証的根拠の無いのを指摘していながら、自分が何ら考証的根拠を示さずして「武蔵のようなえらい人を悪くいうのはいけない」とか「武蔵の精神力もあの位なら」とか、断言しているのは、少しおかしすぎる。どういう風に、えらいのか、一々その実例を、その考証と共に発表してもらいたい。
 又、独行道に対しても、私は武蔵が、六十にもなって、我女に惚れずなどと、正気で云っているのが、おかしいと思うが、いや武蔵はえらいからおかしくない、と主張する人があったなら、それは、見解の相違だから、私は、引込むほかはない。
 だが、私が、これから、武蔵に対して、加えて行く批評は、右のような「見解的」のことでなく、もう少し「その当時」の、動かすことのできない事実を科学的に解釈したものである。それは武蔵が、細川家に仕えた禄高のことである。
 武蔵は、熊本の細川家に仕えたが、この時の禄高が三百俵十七人扶持である。この事実に対して、武蔵を日本一の剣客だと見ている人は、どう解釈しているか聞いてみたいのである。
 名声と、技倆と、禄高とは、ほぽ一致しているものと考えていい。武蔵にとって、客分として三百俵十七人扶持の客分という禄高が、武蔵の技倆と一致しているとすれば、一流剣客の中の一人ではあるが、断じて当時、日本一などと、そんな馬鹿馬鹿しいことは今日だからこそ、当時の剣客について何も知らぬから、比較的宣伝されていて、通俗化しているだけの武蔵を、日本一だと、相当な人が云えば、大衆はそれは、そろだろうと考えるであろうが、当時、他に多くの優れた人のいた時代には、武蔵を、日本一などとは、一寸云えたものではなかった。
 もし、当時武蔵が日本一の剣客なら、そんなにえらい剣客を、僅かに三百俵十七人で召抱えた細川も細川なら、又、抱えられた武蔵も武蔵である。西国では、島津についでの大藩、熊本四十二万石と云えば、加賀、仙台、島津の次に位する大大名である。この大名中の大大名で、しかも父に細川三斎という、大名中での武芸好きをもった細川が、日本一を仮令、客分としての三百俵としても、それだけでは抱えもしまいし、又抱えられる武蔵でもないだろう。もし日本一と、当時、武蔵に折紙がついていたなら、その人物を、僅か三百俵でしか待遇しない細川は天下の馬鹿で、六十近くまで浪人でいながら、その年になって、僅か三百俵で抱えられる武蔵も、以ってのほかの人間である。従って、この三百俵十七人扶持は、武蔵の当時の価値を計る、動かすことのできない標準である。
 現在何等の寛永時代の剣客の事蹟をも研究せずして、単に武蔵一人のみを知っていて、これを日本一と考えるのは剣客を専門的に研究しない人として無理はないが、それでも、この武蔵の禄高をみて、これが、日本一の剣客であると考えらるるであろうか?寛永当時に、武蔵が、この禄に甘んじ、細川がこれだけしか与えず、又、世間もそれを当然としていたという事実は、何を語っているであろうか?
 三百俵十七人扶持とは、どの程度であるか、読者には十分合点行くまいから、少し説明すると、武蔵は、格は大番組であるが、客分ゆえ知行がもらえず、忠利公から現米で支給されるのである。当時一俵は三斗五升であるから、三百五十石である。現在の市価として仮りに一石三十円とすれば、年収三千百五十円。月給にして、二百七八十円である。
 寛永という武芸盛の時代の武芸者、今日にたとえると、一流の経済学者が、三井か、三菱か、住友へ仕えて、二百七八十円の月給をもらう。そんな馬鹿馬鹿しいことがあろうか。寛永の武道全盛に、住友へ仕えて三百俵、これを、普通の家来のように、知行高に直すと二百五十石である。表高五十石、当時四公六民として、二百五十石の四割が実収入だから、百石、ほぽこの見当である。
 然し、これは、客分としての禄だから正式の家来よりは勿論少ないし、大番組は、士分の中でも上席であるが、それにしても、日本一を遇する高ではない。それとも、昭和時代に宮本武蔵を日本一だという人は、寛永時代の細川公よりも、剣術がわかるから、細川は明盲で、僅か二百石で、武蔵を召抱えたり、これを批難しなかった国民も、今日ほど、剣道のことは知らなかったらしいとでも云うなら、私か、彼か、いずれかが多少、狂人的である。

七 

然し、右の禄高論に対しては『丹治峰均筆記』で荻昌国の『武蔵論』からして、反駁をする人があるかもしれぬ。それは、その反駁が出た時に、論ずることにする。
 それで、右に云った武蔵が、今吾々が考えるえらい武蔵としては、当時、余りに薄給である、という事実に対して、三百俵では薄給でない、どういう訳で薄給か、という人が出ないとも限らぬ。そういう人のために、当時の他の武芸者の知行高を挙げると、この比較がよくわかるであろう。
 柳生但馬守宗矩は、一万一千五百石であるが、この人は剣のほかに、政治的功労があるから、これは別としておいても、名人越後と称されていた富田流の流祖、富田越後守重政が、一万千石で、越前松平に抱えられている。剣客の家で、万石とった人を、柳生は人々が知っているが、この名人越後は、人が余り知らない。
 柳生宗矩門下の木村助九郎、出淵平兵衛など、名も聞いたことの無いようた人でも、五百石ずつ、仙台藩では、剣道の師には、千石を給与している。塚原卜伝は「乗換馬を引かせ、上下の供七八十人ばかり」と、書いてあるが、供の人数も七八十人をつれるには、三千石以下ではできない。
 徳川時代の制定では、百石で家来士分一人、草履取一人、槍持一人、挾函一人と四人を抱えなくてはならぬから、千石で四十人、二千石で八十人という風になる。然し、外へ出るのに、草履取が石数に応じて、二千石で二十人にもなる訳ではないから、士分が多いと見なければならぬ。その士分が、五十人ついているとすれば、五千石と計算することができる。内輪に見ても、三千石、塚原卜伝の地位として、この位が当り前である。これと武蔵の二百五十石と、いかがであろう。
 又、私が日本一なりという上泉信綱の例をとると、信綱の弟、上泉主水が、京都の相国寺にいたが、これが、直江山城守に、召出された時に三千石。名聞、技倆とも、兄に比すべくもない主水が、何んと三千石、武蔵の十倍である。以って当時に於ける上泉信綱の名声は察すべきで、さればこそ『言継卿記』に、三十二ヶ所まで、一武芸者の記事が現れ、日本最初に、剣道を、天覧に供したのである。
 信綱来るの声を聞けば、洛外洛中の人々が、その動静に注意し、言継卿は、それを日記に誌し、柳生宗巌は、礼を厚うして、これを迎え、帝は信綱の妙技を御覧になろうと、仰せられるのである。さればこそ、武田信玄が、別れに臨み、決して他家へ仕えるな、もし仕える時には、わしの所へ届けよ、とまで惜しんだのである。
 こういう当時の、いろいろの事実によって、信綱と武蔵とを較べる時、二人の地位は、余りに上下がありすぎる。当時の人々が、信綱を買いかぶり、武蔵の価値を知らないんだというほかに、この事実を動かすことはできない。現在の不足した知識で見るよりも、当時のこの評判の大小は、二人の真価を語るに十分である。信綱を知らぬからこそ、武蔵如きを称めるが、信綱を知つたならばその段ちがいのほどすぐにわかってくる。

八 

 その次に論じたいのは、もし、武蔵が日本一なら、とっくに、大名がすててはおかぬということである。寛永時代前の世の中に、武蔵ほどの人物を、浪人させておくものではない。それが老年まで浪人をしていたのは、抱えるものがなかったからか、或は又、武蔵が抱えられなかったからかの二つである。武蔵日本一論者は、勿論、後者を、とるであろう。
 それで、私はその論者に質問したいが、では、何故武蔵が、大阪夏の陣へ、従軍したか。浪人が、戦場へ出るということは、仕官以外に何物もない。浪人しては困るから、命がけで仕官の口を求めるのである。
 しかも、武蔵は、新免の家に生れ、浮田家の家人として、関ヶ原に従軍して西軍として、働いていたに拘らず、大阪役には、東軍水野日向守勝成の御陣場借りをして、東軍の下に働いているのである。私は、武蔵に、節義が無いなどと攻撃はせぬが、御陣場借りまでして戦場へ出るのは、仕官の望み以外に何もない。武蔵従軍の理由もこのほかに見出しえない。そして、仕官していないのである。意地悪を云えば、出来なかったのである。
 武蔵は、細川へ仕える時「口上書」を出している。その中に、「一、若年より軍場に出候事、都合六度にて候。その内四度は其場に於て拙者より先を馳候者一人も無之候―」
と書いている。これも、馬鹿馬鹿しい極みの、自己推薦である。戦場に於ての功名は、一番槍、一番首、しんがりである。常人以上の功名を立てた時には、必ず、感状が下がる。仕官の時にはそれが唯一の資格、証明書になるのである。武蔵の場合には、一番槍でなく、人より先であったというので、浪人隊にいる以上人より先は当り前で、遅れたら、常人以下である。
 戦いの最先鋒が、浪人隊で、生きても死んでもいいから、その手の大将は、いつも浪人を真先に出すし、浪人も、仕官している連中の後方にいては、仕方がないから、最前線へ出ているものである。その最前線に武蔵も出ていて、衆に遅れなんだのであろうが、一流の剣客として、当り前である。自慢にも何にもならない。
 一枚の感状もなく、一個の一番首もなかったということは、武蔵が、仕官を志して、従軍しながら、遂に誰も召抱えなかったという原因であろう。どんな戦記をみても、武蔵の功名は書いてない。
 然るに、一刀流の小野次郎右衛門忠常のことは、ちゃんと戦場の働きが、残されている。上田城に、秀忠の下として、真田を攻め、首七つを上げていることは立派に残っている。相当の剣客として従軍している以上、功名があれば、小野忠常の如く、残るのが当然である。日本一の剣客が、何一っの話も残さないで、ただ六度のうち四度までは人に遅れなかったなどと云っているのは、むしろ、悲惨である。
 上泉信綱の如き、戦場では「長野家十六槍」の一人として謳われている位で、安中城を攻めて、城主安中某と槍を交え、これを討ち取って以来、「上野国一本槍」と称されていた位、槍をとっても上手であった。
 しかも、上泉信綱は、箕輪城主長野業盛の副将をつとめていた。この業盛が生存している間は、流石の武田信玄も上野国へ一歩も入れなかったという位の名将で、上杉謙信が、上野国の守護神として、箕輪へ置いておいた人である。その人の副将を勤めていたというから、いかに、信綱が戦場で働ける人であったかということが、わかるであろう。
 武蔵は又、その「口上書」の中へ「武具の扱様軍陣に於て夫々に応じ便利なる事」と戦場で、自分の役に立つことを書き上げておるが、何の兵書もなく何の手柄もない。六度も、実戦へ出れば、武具の扱いようを知っている位、当り前である。わざわざ書き出す値打ちのないことを、もっともらしく、仰々しく書き出していること。独行道に於て、「一人ではうまい物を食わない」とか「年をとったら家具はいらぬ」とかと書いているのと同じ幼稚さである。

 上泉信綱は、上泉流の軍学を、倅の秀胤に伝えている。秀胤から、井伊家の家来、岡本半助宣就に伝わって、この岡本の見事な働き振りは、大阪陣の中へ出てきて、ここに、上泉流の軍学のことが、しばしば現れてくる。武蔵の自家広告に較べて、いかがであろう。
 第一に、この「口上書」なるものを呈出するのが、おかしい。
「我等身の上の事岩間六兵衛を以て、御尋に付、口上にては難申分候間」
と書いて、これこれのことが、自分にはできると、右に挙げたようなことを書いているのであるが、もし武蔵が当時日本一の評でもあれば、細川は、当然師の礼をもって武蔵を遇すべきである。口上書を出させて三百俵を与えるなど甚しく無礼極まることで、武蔵の性質から云って、承知しそうにも無いことである。それを、細川が、口上書を出させ、武蔵がそれを書き、三百俵で自他共に怪しまなかったということは、武蔵に対して当時の人々が日本一などと、誰も決して考えていなかったということを、この上もなく、証明していることである。

九 

 以上のことを、猶、証明しうる事実がある。それは武蔵の門下に、傑出した人のいないことである。
 門人に傑出した人のいないということは、師に欠けたところがあると考えるのが、公平である。武蔵は、門弟運が悪かったということは、想像としては、考えうる一つの理論であるが、私としては、武蔵が、一流の剣客ではあったが、日本一と称すべき人ではなかったから、門人も少なく、従って傑出した人も出なかったのだ、と論じたい。これが、公平な見方である。
 武勇伝雑話系図で示すと、「符与右衛門と、三人が、武蔵」(薙驚賄一刀鉄人流)
 いい弟子である。然し、この後、名を上げた人は、この武蔵の流から、一人として出ていない。 
 最も、適切な例として、維新時代をとってみるがいい。維新時代、もし武蔵の剣法が、優れているとすれば、門人にいい人も多く出で、名高い人も輩出し、流儀も、自然淘汰の法則として、日本一の剣客即ち日本一の剣法なら、もっと盛になるべきである。それが、一種の、けれん剣道、邪道的剣法としてのみしか興味をもたれていない、ということは、何を語っているであろうか。 
 今日、剣法が、実戦に必要の無い時だからこそ、二刀流の、二本の竹刀をもって、稽古している人も時にはあるが、実際、斬りつ、斬られつした時代には、二刀流など、馬鹿馬鹿しくって使えたものではない。       
 斬り、斬られした時代に、誰か一人でも、宮本武蔵の剣法をならったり、武蔵の二天一流の復活を唱えた人があったか?
 もし、武蔵が、いやしくも日本一の剣聖であったなら、その剣法は、維新当時に於て、多少の活躍をしなくてはならぬ筈である。それが、他流に圧倒せられて二刀の二の字も云われなかった、ということに対して武蔵日本一論者は、果して何と答えるか?
 優れたる剣客によって創始されたる、優れたる剣法が、残り、栄えて行くのは、当然である。弟の主水すら三千石でかかえられた上泉信綱のが、今日まで連綿として残って、名人、上手相ついで出で、三百俵の武蔵のが、次の代に消えてしまったのは、当然であってこの石高が、武蔵の価値であり、この一代きりが、武蔵剣法の真価である。

一〇 

 試みに、上泉信綱の流派から、誰が出ているか、ここに示してみると、大凡次の八氏が出ていることが判る。
 そして、どのくらいの勢力があったかは、丸目蔵人が、己の流派にて、殆ど九州を、たい捨流にしたという書が残っていて、これを証することができるし、この丸目蔵人は、常時九州第一と称されていた人であるが、信綱をわざわざ京都へ慕ってきて、入門したのである。
 しかも、今日まで、
神護伊豆守
疋田文五郎(疋田陰流)
柳生宗巌(柳生流)
丸目蔵人(たい捨流)
奥山久賀斎(徳川家康の師)
西一頓
松田織部介(松田新陰流)
那河弥左衛門
この八人の弟子の中の、柳生宗巌からは、猶連綿として残っている柳生流があるし、奥山久賀斎の次には、陰流第三世、新陰流の小笠原源信斎、次に十五流を極めて後、新陰流へ入ってきた紙屋伝心斎、それから、維新になって、男谷下総が出て、ずっと、今日まで、つづいている。一刀流も又然り、神道無念流も叉然り、優れたる流派は、常に、長く残るし、名人の出てくるものである。それに較べて、何んと武蔵の後の寂奥たることか。
 武蔵の門人には、ぐうたらばかり集っていたとか、武蔵だけが、超人的に強かったから、誰もついて行けなかったとか、理窟を云えば、何んとでも云えるが、公平に、当時の他の人の禄高に比較し、門人のことを比較し、流派の消長を考える時、武蔵は一流中の一人にはちがい無いが、断じて、日本一などというべき人でない、ということがわかってくるであろう。
 この前に、一寸引用した、小田切一雲のことを、いっておくが、一雲の曰く、
「武士が刀を抜く時は三つの場合しかない。一つは、戦場に於て、一つは、御意討ちに赴く時、一つは喧嘩を吹っかけられた時。戦場では、討死が当り前である。どんどん斬り込んで死ね。御意討ちの時には対手を斬らなくてはならぬ。然し対手が強かったら、自分も斬られるから、相打ちの覚悟がいい。喧嘩の避けられん時には仕方が無い。対手を斬って、自分も死ぬ。即ち、武士が刀を抜く時には、自分を殺す時である。然し、ここで問題なのは、自分が弱くて、対手の強かった時にはどうなるか、斬られるほかにない。それでは困る。ではどうするか?」
 剣道上の哲学である。武士の心得を、こう説いてきて曰く、
「自分も死ぬ。対手も殺す。その覚悟である。それを世上では、自分は助かり、対手だけを殺そうなどと、いい気になるから、上を打つと見せかけて下を払ってみたり、右へこけると見せかけて、左へ開いてみたり―対手より自分が強ければ、それでいいが、弱かったら、徒らに、醜をさらすだけである。そんな技巧を用いずに、上段一手だけでいい。対手を斬る。その代り、こっちも斬られる。その覚悟で上段一手だけを稽古すれば、それで強いも弱いもない。大抵の弱い者でも、大抵の強者と相打ちにはなれる。武士が、刀を抜く時は、右に云った、三つの場合で、何れも死ぬべき時だから、相打ちで結構ではないか。いつまでも、強い者には負けるようになっている剣道を学んだって仕方がない。相打ちの覚悟一つ。信綱先生が仰せられている。頼む主は心である、と。剣の極意もそれである」
と、武蔵の剣道論の中に、これだけ徹底した議論があるであろうか。信綱から三代目の、紙屋頼春は若年の頃より、十五流に亘って研究しつくした人であるが、この人は「剣道とは、心の非を切る術である」と悟って、極意を「非切」と称した。
 この根本的の覚悟、人格、態度、生死を第一の教としている剣道と「刀は左右両手で使った方が便利だ」という末節から、二刀で稽古して、これを二刀流にした武蔵の剣道観と根本的にちがっている。
 武蔵は、一流の創案者として、勿論、立派な剣客である。私は、彼の一流であることを決して否定しはしない。然し、剣道の技巧上の、強さ弱さは、殆ど同じだとみていい。一流に達した人の強さは紙一重の差である。将棋でも囲碁でも、何んでも、そう段ちがいの無いものである。その一流の中で、日本一を選出するなら、その人間その人格を標準にしなければならない。この人格の点に於て、武蔵は、鋭さこそあれ、信綱、ト伝、一刀斎に見るような、己の武をかくして現さぬ、という境にはまだ到達していない。
 五十をすぎてから、無礼を働いた料理人の腕を斬って一生廃人にしたり、十七歳の叉七郎まで討ちとったり。信綱は、そんなことを決してなかったであろう。
 講道館の横山八段が、将棋八段の大崎熊雄氏と、土方に喧嘩を吹っかけられ、大崎氏の闘いかけるのを止めて、逃げ出した。これが、達人の心得である。
 武蔵が、股を突かして槍をとってみたり、竹の上へ飛びおりて足を怪我したり、若い時から老年まで負けん気のみである。
 しかも、彼の逸話の中に、他人から「小次郎との勝負の時に、貴下も額を斬られたそうですが」と、質問されたり、「島原へ従軍なさったが、功名は無かったようですな」と、冷かされて、怒ってやっつけているなど、武蔵に、徳望がなく、誰も、日本一などと尊敬をしていない証拠である。そして、かんかんになって、
「何処に傷があるか、この傷は、小さい時おできの出来たあとである。さ、その外に、何処に傷があるか」
と、その人へ、額をつきつけている武蔵など、一介武人の負けず嫌いのほか、何の称める分子も含まれていない。
 もっと、的確な、こうした徳望の無い一証を見せておくと、
「忠之公、三千石にて召抱、光之殿の御師匠に可致と御意なさる」
 即ち、武蔵の来たのを聞いて、黒田忠之が子の師匠として、三千石でどうだろうと、云ったのである。
「何も思いがけなきこと故、御受け申す人もなし」
 家来がびっくりして、誰もよかろう、という者がないのである。
「其後二三日をすぎ、表へ御出被成、先日の武蔵は異相なるものにて、.若き人の師匠には成難し、無用に可致と御独言に被仰とかや」
 立派に黒田忠之は、武蔵を一蹴しているのである。その名を聞いて、三千石を出そうかと思ったが、武蔵に逢うか、見るかして、武蔵の、面貌の余りに殺ばつなのに、若き人の師匠には向かぬ、無用だ、と、武蔵が仕官にきたのを、断ったのである。そして、武蔵は黒田を断られて、細川へ行ったのであるが、この忠之が武蔵を見て「若い者の師には向かぬ」と云ってるのと、前述の武蔵の逸話を考え合せる時、強いばかりで、人格的には非難のでる所のあった人であるということが、はっきりしてくるにちがいない。
「武蔵は強いには強いが、どうもね」
と、誰しも云って、召抱える人がなかったので、老年になって、死所を求めに、三百俵で、細川へ仕えたのである。父に反抗して、家を出で、十三で、人を殺してから、血気の勇のみを示している青年時代から、とやかく、人に非難されている晩年まで、武蔵にはただ檸猛さがあるだけである。
 以上、私は武蔵を相当に非難した。しかし、一流の武人であることは、幾度も云っている通り否定しない。ただ、日本一と、かかる人格の人が云えるか、どうか、以上の考証的事実によって、判断を乞いたい。そして私は、日本一の武芸者として、上泉信綱を挙げるが、この中へ、少しずつ引用してあるから、それで察してもらってもいいが、改めて、信綱の全貌は、信綱のみを紹介することにする。
 この武蔵ナソバーワソ否定論には、隙がある。この私の説を、ある程度まで、反駁するに足る材料は、残っている。私はそれを知らんではない。だが、余りに長くなりすぎるから割愛した。もし、残っている材料によって、反駁する人があるなら、いつでも、私は応戦する、私のナソバーワン否定論は少しも変らない。その反駁する材料を、又反駁しうるからである。その材料の入っている書目は、前に挙げておいたから、有志の人は御覧になるといい。
 繰返していう。武蔵は有数剣客の中の一人である。然し実価以上に、講談及び芝居によって、他の、そういう者にならぬ人よりも、高くなりすぎている。そして、多少、武蔵の正体を知っている人も、他の剣客を研究するほど専門的でもないから、武蔵をもって剣道家の随一と考えているのである。そこに、武蔵日本一の独断が現れてくる。
 菊池君は、文芸家であって、史家でないからいいが、中村孝也博士、笹川臨風博士は共に史学の人である。この人二人が、口を揃えて、武蔵の日本一に賛成しているのは、どういう訳かを私のこの武蔵日本一否定論に対して、両先生の御説が聞きたいものである。
 私は、信綱を以て、日本一だと考えているし、信綱の教えが、武蔵よりも立派だと思っているから、両先生や、菊池君に対して、こういうことを云ったのは、大変不遜なことだと恐縮しているが、実は、この間、信綱の幽霊が出てきて「直木君、武蔵もえらいが、物は公平にした方がいい。菊池君は文学者だからいいが、史家である中村、笹川君などが、最も公平に、物を見、最も慎重に物を研究しなくてはならぬ史学者であるのに、一刀斎や、卜伝のことを黙っていて、無責任な俗論を、臆面もなく喋っているのは、注意した方がいいね」
「はっ!然し、私は先生のことを」
「ああ、僕のことはいいよ。僕あ、君、知っての通り引込み思案でね」
というと、どろろどろろと、引込んだ。別に僕としては、両先生へどうの、こうのというのではない。折角、注意してくれた信綱への義理で、こう云ってみるまでである。そのうち、武蔵の幽霊でも、怒って出たら、さっそくあやまるつもりである。何んしろ二人とも、身の丈六尺というのだから、がっちりした幽霊だ。今度出たら、銀行へ勤めないかと、いおうと、思っている。

(『網迫HP』で公開されている未校正OCRデータを元に作成しました)

(四)

剣法夜話

直木三十五著
その四

大衆文学落穂集

為朝の弓

「武勇伝雑話」の中へ、源為朝の弓の強さは、それほどでもない、というようなことをいった。
 宮本武蔵は日本一の剣客でないとか、荒木の斬ったのは二人だけだとかいうようたことを多少調べて、本当のことを云っても、こういう民衆の概念を破ったことをいうと、相当反抗心が起るらしく、中里介山先生の雑誌『隣人の友』では、新聞広告に「厚顔無智なる直木某」という字句を使って教えて下さるし、そのほか二三「お前は本を読んでいないだろう」というような恐縮すべぎ批評を頂くし、本当のことを書いて割に合わぬ損な什事である。
 為朝の強弓の実例は、白河殿の夜討に、伊藤六の胸板を射通し、余る矢が、伊藤五の射向の袖に立ったのが第一であろうが、ここを読んだ人は、すぐ次の行に
「彼の祖八幡殿、後三年の合戦の時、武則が申しければ、君の御矢に中る者、鎧兜を射通されずということなし。義家革よき鎧三領重ね、木の枝にかけて、六重を射通し給いければ、鬼神の変化とぞ恐れける」
 この八幡太郎義家の弓勢はどうであろうか。鎧三領を一矢にて射貫いている弓勢は、為朝に劣っていようか?しかも、他の本では、この時、義家は、わざわざ弱い弓を望んだとあるから、弓の上手にかけては、義家の方が上であろう。力に任せて強弓を引くのは、誰にも引けるが、技の上手は、そうは行かない。
 もう一つこれを裏書きする話が天喜五年十一月、黄の海の柵の戦いの時に残っている。この戦いに安倍貞任は、風雪を利用して、源頼義の軍を襲撃し、頼義破れて、残る者二百余人となり、その中から主従七八人が、敵に追跡されて落ちて行く。その時に踏止まったのが、義家で、残っている矢七本か八本かで、追ってくる兵十三人までを討ちとったので、恐れをなして、追うのをやめた。武則が、義家の弓勢を見たいと望んだのは、この働きが知られていたからであった。
 この八幡太郎の働き振りと為朝が白河殿での働きとを較べると、為朝の弓が日本一とはどうしても云えない。一人を射貫いて、もう一人を傷つける位の弓勢は、ほかにもいろいろとある。八幡太郎が、源氏の大将として名高いのは、その人物のえらさにもよるが、この強さも大いにある。保元以降の武勇伝は、物語本になっているから、為朝などすぐ思い出されるが、八幡太郎などは、時代が一つ古いので、荘漠として二三の逸話のほか、多くの人は知らないが、いろいろに比較すると、中々素晴らしい武勇の人であって、私は、その弓の上手さに於ては為朝の上へもって行きたいと思っている。為朝の弓の特別な仕懸け、鎌の大さなどより、いろいろのことが論じられるが、私は、為朝を日本一だとは絶対に信じない。

平井、林田、国定

一時に、誰が一番多くの人を斬ったか?
ということに対して、私が林田左門が、足軽六人を追っかけて四人を斬り、二人を生捕りにして帰って着たのが第一だ、と書いたら、矢張り『隣人の友』で「平井八郎兵衛のことを知らんか」と叱られた。
 平井君は一人で、試合の戻り道に十二三人に斬りかけられ、二三人斬って、あとを追い散らした豪傑である。私は知らんことはない。然し、この話は上州地方の物語として残っているので、真偽がはっきりしない。それから、夜である。林田の如く白昼でなく夜なら十二三人でも二十人でも、昼問とは訳がちがう。それからこの十二三人の腕が問題になる。林田の足軽は一口に足軽というが、足軽大将が実戦の中心の如く、当時は足軽が軍の中堅で、士同様腕に覚えのある奴ばかりである。だから林田が、それを斬ったのが評判になったのだし、林田に斬られる時も、一時にはかからず、一人二人ずつ斬ってかかっているが、平井の話になると、暗討ちで、数を頼んだ卑怯な振舞い、暗の中で、矢鱈に斬りかかって、一人二人斬られると、あとは逃げてしまったのである。
 こんな武勇伝なら、今度の戦争にでも、いくつもある。めちゃめちゃに暴れて、二人や三人斬るのなら力さえあれば大したことではない。剣道は量よりも質であるし、十二三人とか、二三人を斬ったとか、甚だあいまいの数でしか残っていない話を、そのまま持ち出すなど私には出来ない。暗夜だから五六人でも、十二三人らしく感じたかも知れないし、二三人斬ったのも、殺したのではなく倒しただけであったかも知れないし、第一林田は、完全に四人を斬っているのだから、これだけでも、二三人よりは二人叉は一人多い訳である、介山先生主宰の雑誌で、人の揚足をとろうとして信用できないことを持ち出して、私に「厚顔無恥」と罵るなど、少しどうかしているらしい。
 田村栄太郎氏が、国定忠治は、治が本当で、次は嘘だとか、その反対だとか、当時の調査に治と書いてあるから、治だとか、何んとか云っていたが、調書を唯一の証拠にして、こういうことをいうのは、作家から見ると、称められない。役人が「次は次か」と云えば、忠次は(次て何んだろう)と思いながら「はい」と答えたかも知れぬし、「治は治まるか」と云っても「はい」と答えて(俺ら、ちゅうじろだ、治まったって、次いだって、どっちだっていいじゃねえか)と考えたかも知れない。当時の博変打が一々治と次の区別なんかすることはないし「ちゅうじろ」なら忠次郎でも忠治郎でもどっちでもいい訳なんだ。栄太郎氏は、治と次とを挙げているが、この外に「忠二」と書いたのもある(子母沢氏の話)、これを挙げなかったのは「二」とかいた本を知らないせいだろう。こんな遊人の名なんかを、調書を唯一の頼りとして断じたりするのは無用の業である。
 その時、長谷川伸氏に「出役」を「でやく」でも「しゅつやく」でも、どっちでもいいと、やっつけられていたが、これは長谷川氏の方が正しい。この位の程度で大衆作家に教えようなどというのは少し身のほど知らずである。吾々は黙っているが、皆相当に知っているんだ。史学専門で、人をやっつけるなら、もう少し考え直してやっつけることだ。僕らも知らんことは多いが、田村氏程度からそう多く教えられようとは思わない。徳永直なんぞが、一々教えを乞うているなど、直君程度の無学にならいいだろう。

三角兼連

 私は、近代思想の一部に人間の道徳観念よりも、利害観念で動く方が、自然的でもあり、正しくもある、というような考え方があったり、常識的人間の、道徳的純一行為を不自然だと観るような偏見に対して『楠木正成』を書いてみたが、正成と同じように純粋な道徳的観念から、二十三年の間、弓折れ、矢尽きるまで、南朝のために働いた人で、全く知られない人が一人いる。石見国の人、三角兼連がそれである。
 今でも、兼連の菩提寺の正法寺奥の院に、巨大な二つの穴が残っているが、兼連は、ここへ内宮と、外宮とを奉祀していたもので、ここへ七度詣でると、伊勢へ一度参ったことになると、今でも、里の人は参詣している。
 兼連が、南朝へ馳せ参じたのは、船上山の旗上げが最初であって、この時に『太平記』は「石見国には沢、三角の一族」と、書いてあるが、それ以外に、この兼連は知られていない。
 元憲の役の時に、石見も、海辺防備をしたが、その時に三角氏の築いた城が一番堅固で石見の豪族としては、代々誉の家であった。
 だから、尊氏破れて西国へ走った時にも、上杉憲顕が、三角兼連の所へきて、味方せられたいと懇請したが、兼連一喝して、これを追い、再び旗を立てた、そして、尊氏兵庫に勝つや、兼連は、安芸、長門、石見の兵を孤城にて引受け、これを破るや、長駆して、長門へまで攻め入って、勝利を得た。
 それから後、興国二年の戦い、同四年の戦い共に打ち勝って、正平五年、高師泰の兵二万三千を、三隅城で引受けた。この防戦も、見事なもので、支城九ヶ所が陥落して、三隅一城を取巻かれたが、正平五年六月から、六年正月まで防いで、とうとう守りを完うした。この城戦の上手さは、兼連の名将であることを語っているもので、高軍は、城の水路を断ったが、兼連は巧みに水を引いていて、屈しなかったし、一小山城の三隅城を、二万以上の兵で取囲まれながら、守り通した力量は、京都近くでの戦なら、優に、正成と併称されたであろうが、地が石見の片田舎なので、少しも世上へは伝わっていない。
 兼連の戦死は、正平九年で、足利直冬と共に、京都にて尊氏と戦って、死んだのである。死ぬ時に「わしの墓を東に向けて立ててくれ、逆賊滅亡を見ぬ内は、西方浄土とても見たくはない」と遺言している。
 人間として、軍人として、当時の一流の人の中へ加えて少しも遜色がないが、土地が中央と掛け離れていて、『太平記』の作者なども、ここまでは手が廻らなかったらしいから、見事な戦い振りの割にひどく損をしている人である。埋もれている人で、時々立派な人があるが、三角兼連などその一人で、機があったら詳しく書いてみたいと思うている。

遊侠物について

 仁侠とか、遊侠とか、達引とか、意地とかいう言葉が、日本で使われているような内容をもって、外国にもあるかどうか。手許に、外国の百科辞典さえ無いから、手軽な説明も出来ないが、階級的に、又生活的にみて「ギャング物」が、やや日本の「遊侠物」に当り、「白浪物」に類似するが、外国物と日本物とは、その主人公の持つ、自己、仲間及び、弱者に対しての道徳、人情が、少しちがうようである。
 日本の「白浪物」「遊侠物」に於ては、それが、どんなに拙い作であろうとも、殆どその全部と云っていい位に、その主人公は、仁侠的な活動、又は、小さくとも、道徳的行動をするが、「ギャング物」には、事件のみあって、この道徳が少ない。
『ルパソ』にやや仁侠的な事件があるが、彼でさえ、それを己の卓抜なる才能によって解決しようとはするが、死をもって、他人のために犠牲になろうとはしない。日本に於てはかかる種類の中には数多く、ほんの僅かの恩のため、意地のために、自ら死を迎えようとする物語がある。

 寛永時代に、やや明確な形をとってきた仁侠的思想が、武士の生活に於ては、十分にそれを、行動の上に発揮することができず、単に、心得としてのみに止まって、形骸に成り果てたが、日常生活の上に於て、比較的、そうした物を実行しやすい立場にある市井の魚商人、遊人、博徒が、しばしば仁侠的行為と、利益とが一致するが故に、その仲間の中に、その思想の形と通俗的解釈とを普及させるようになった。
 この現象は、当時のブルジョア階級にしか、その読者を持っていない馬琴等の道徳小説、春水等の愛欲小説には、書かれなかったが、講談として発表されると共に、非読書階級の同感を得て「軍談物」から「御家騒動」へ移り「御家物」から砕けて「白浪」「政談物」「侠客」となるに及んで義賊侠客が専ら迎えられ「何何小僧」「何々水滸伝」「何々五人男」の類が、無数に出てきたのは、それが実在し、同感されていたに拘らず、如何なる形に於ても、発表されなかった物が、発表されたことに対しての歓迎である。そして、それらと前後して「実録物」が刊行され読書階級へも入ると共に、寛永以来の「仁侠的思想」は、市井階級のもつあらゆる道徳中の、一番普遍的にして、一番それを現わす機会が多く、そしてしばしば利益とも一致するが故に、通俗道徳の第一位となったのである。
 然しながら、江戸時代の階級制度が、それの自由な氾濫を許さなかったし、それを実行して、一番都合のいいのは、遊人仲間であったがために、比較的彼等の中に、多く保存されるようになった。都合のいいということは、一番利益と一致することが多いからである。商人の場合には遊人の如く、明瞭に、勝利の利益にはならないが、遊人に於ては、強者を懲らすということが、又は、兄弟分のために傷を受けたということが、直ちに自己の地位の昇進となるし、時として、対手の縄張りが、己の物となるからである。
 だが、教養の低い遊人の仲間に於ては、思想的に発達することができないし、遊人それ自身の、杜会に於ての地位が低いし、「商売往来に無え商売」と、時としては、杜会外の生活でもあるし、元々杜会外の生活に入る位であるから、何処かに欠陥のある人間が多いし、江戸市井道徳の中心的な物でありながら、少しの発達もしないのであった。
 それを当時に「実録物」の著者及び講談師に、その精神を明確に把握し、それを発達させるような人も無く、だんだん別個の道徳のような形をとって、今日に及んだのである。

寛永前後、加賀爪、水野、三浦等の徒が、武士道より出たる遊侠道の初期的形を作り出し、反抗と、仁侠とをもって、幕府及び大名に対して、示威行動をとった時には、明かに、社会批判が含まれていた。『武蔵鐙』に書かれている不平が、それである。
 従って、幕府と、町人の擡頭とに対して、彼等の行動言論が、市井の徒の如く、自由であるならば、もっと、この精神は発達したであろうが、こうした行動が市井の徒にも影響して町奴を出すに到って、武士としては禁止されてしまった。
 二百四十万人以上の武士階級という全然の不生産階級があり、その中でも、旗本という地位のみ高うて、財に乏しい階級が、こうして糾織に対して反抗し、大名制度に反感をもって批判するのは当然で、これが、武士道徳の一つである仁侠と結ぶ時「伊賀越の仇討」ともなるのであるから、幕府としては黙しておれないであろう。
 そして、武士にこの社会批判の傾向がなくなり、単に仁侠的方面のみ残ったものが市井の徒の内へ入り、市井の内に於ても、特殊なるグループヘ流れ込んだから、日本人の養われてきた道徳中の一番特色的なものであるに拘らず、その思想的発達を見ずして、今日まで、続いて来たのである。
 遊侠の徒は、この道徳をもって、自らの地位を外の社会から保護すると共に、自己の仲間に於ても利用しこれを根本精神としたがために、今日に於ても、この仲問に、一番深く残っているが、果して、それだけでいいであろうかと、私は云いたいのである。

 仁侠とは、一つの犠牲的精神の形である。それが稀に現われる時には「犠牲的精神」と呼ばれ、それを本職業とするか、又は人格として連続的に現われる時には、仁侠の文字が使用されるが、この精神は、人間の道徳中、死と最も密接なる関係が多く、利益と最も遠い点に於て、日本に於て、最も、普遍的なものである。
 それは、北清事変の時及び欧州大戦の時の、外国兵のやり方と、日本兵のやり方とを較べると、明瞭である。外国のために屈せられて難局に当るのでもなく、煽てられて危地に臨むのでもなく、そうせずにおられない道徳衝動から現われてくる善美の行為である。その弊が、日本に刺客の多いことになるのであるが、この根強い思想を、遊侠物の中に、今日の幼稚なる形のままに置いておくのは、惜しいような気がしてならない。
 大衆の中の勢力である浪花節、講談、大衆文学に於て、無条件に喝采されるのは、仁侠物である。江戸時代に於ては、裁判に対する大衆の批判、要求が「大岡捌き」の類となって現われ、施政方針、社会制度に対しての憤怒、批判が「義賊」となり、「鼠小僧」が、大奥の寝所を見て畷い、大名を襲って、その金を貧家に分けるのに喝采し、「幡随院長兵衛」に、武士へのうっぷんを晴らしたが、大正以後、神田伯山の「清水次郎長」余りにも多くの作者をもちすぎる、「国定忠治」に至っては、そうした精神もなくなり、又は少しの発達も見せずに、僅かに、長谷川伸一人が「遊侠人情」に、味を見せているだけである。
 元来、社会人として、町人、武士と対等に交際することのできぬ欠陥をもっている江戸時代の遊人であるから、彼等をして、今日の複雑なる社会情勢を批判させることは不可能であって、この点、ここを規って真山脊果は「国定忠治」に於て失敗をしているが、遊侠物は忠治程度の人間には限らないし、博突打にも限らないし、主人公のほかに、人物を出してもいいし、もう少し、広い杜会と、深い生活とを描いても悪くはないと、私は考えている。
 少なくとも、前述の講談種には幼稚でも、そうしたものが現われているに拘らず、今日の作者が、それを発達させないということは、いけないことであるし、今日以後の人々が、それを描かないなら、日本特有の「遊侠物文学」は、衰えるのみであろうと思う。
 そして、遊侠物の中に、仁侠という道徳の一つが、一番多く含まれている点に於て、そして、それが、日本の市井文学の中の、唯一、最高の道徳にして、且つ国民に一番親しめる道徳である点に於て、もっと、明瞭にこの精神は把握され、大きく美事に、高麗に現わされていいものであろうと思う。
 江戸時代からの講談、実録は、多く廃れたが、今日でも十分に残存して、同感しうるものは、仁侠的の種類のみである。大衆文学に志す人々が、これをもう一度考えてみるということは無意義でないと、私は信じている。日本の博徒と、アメリカのギャングとは、種類がちがう。この二つを、二人の日本人にしても、今の遊侠物は、一新生面を開くであろうし、ルパンとルパン以上の鼠小僧とを描いても、日本の市井人は、喜ぶであろう。いつまでも、江戸時代遊侠物に残滓をなめている時ではない。
「武侠」又は「剣侠」と称されるものも、大衆文学に於ては重要であるし、この型は外国にも、支那にもあるが、それも、いくらか、日本の型とはちがっている。その類は『プルターク英雄伝』と『武将感状記』又は『名将言行録』この類であるが、このことは、別に論じたい。
 早々の執筆で、意を尽さぬところがあるが、御推読願いたい。

強い剣客

 流泉小史が「日本一の剣豪は誰か」を書いておられる。読み終っても「誰が日本一か」断定的のことは判らないが、男谷信友と、奥山休賀斎と、長沼国郷とを挙げて居られるらしい。そして窪田清音の「武蔵、秀綱、宗知の如き、名実にすぐ」等も、肯定しておられるらしい。宮本武蔵の名が、実に過ぎていることは、この「武蔵の告白」に書いた如く、僕も賛成である。又、柳生宗矩は、僕に、材料が無いから、何んとも云いかねる。それから「名実相当の所では、斎藤伝鬼、松林長吉、長沼国郷」と、清音が、書いているが、疑問は、その名と、その実の差である。
 武蔵の名が伝鬼の名よりも大きいから、実力を比較すると、丁度同じ位だという意味か。素人はとにかく玄人仲問では、宮本も、伝鬼も、同じ位高名だが、宮本は名ばかりで、実力は伝鬼の方が上だという意味か、この区別が、はっきりしない。
 第一に、窪田清音は、可成りの著書を残しているがそういう史伝になると、いい加減なもので、ずい分、出鱈目をかいている。清音の知識で「秀綱は駄目、伝鬼の方がえらい」などと云っても、幕府当時の無学剣法者の中ならいざ知らず、僕は「馬鹿云え」といくらでも論争していい。伝鬼と、秀綱(正しくは、上泉武蔵守信綱)は人間が、段ちがいだ。
 伝鬼は、自分の弟子に当る大名と、争って、矢を受けて殺されてしまったが、信綱はこんな小さい人と争うような人間と、人間がちがう。伝鬼の伝を読むと、鶴の羽根で作った着物をきて、仙人か、天狗のようだと書いてあるが、それ位の活気は、十分にあった人物らしい。信綱が、たった一人の男を捕えるに、頭を剃ったり、卜伝が、馬を避けて、その後方を通らずに、横丁を廻ったりした、この人間としての謙遜さが伝鬼には微塵もない。自分の強さを誇って、矢を受けながら、死ぬまで戦って死んで人魂を出すなど、匹夫の勇である。名剣客は悉くこういう勇気を戒めているが、この点一点で伝鬼は落第にしてもいい。
 上泉信綱のことは度々書いたから、もう書かぬが、「名実にすぐ」という人があれば、その事実を挙げるがいい。いつでも、僕は反駁してみせる。
 維新当時の剣客でも、人によって、さまざまである。新陰流第十五代の正統山田次郎吉先生は、中山博道氏など、頭の上らぬ人であるが、この人に聞くと、維新当時では、富士浅間流の中村一心斎が一番強いと、云っておられた。どうしてか、と聞くと、千葉周作の高弟で、周作より強いと称されていた庄司弁吉、海保半平ら三人が、水戸へ召抱えになる時、この一心斎が試合をしたが、七十幾歳でありながら、血気盛りのこの使手を総なめにしてしまったからである。
 柳生宗矩は、一万八千石にまでなったが、越前の富田重政も剣一本で、一万五千石を頂戴している。この人のことなど誰も云わないが、名人越後と称されて、北国の雄でもあったが、立派な人らしい。
 奥山休賀斎は、徳川家康の師匠であるが、この人の、次代小笠原源信斎なども、えらいと思える。支那へ逃げて行っていたが(家康に反抗したため)戻ってきた時、兄弟子の疋田小伯と立合って「われ、及ばず」と嘆ぜしめた傑物である。
 この弟子の紙屋伝心なども、年少にして十五流の奥義を究めたという人で、源信斎の門に入って、新陰流四代の正統となる人であるが、事蹟をみると中々の人物である。
 こうして挙げてくると、誰が強いか、えらいかなど明瞭に断言はできるものでない。事蹟の比較的残っている人はいいが、えらかったらしい位で、何一つ伝えられていない人は、気の毒である。
 維新前でも、浅利又七郎位までは、よく判るようになってきたが、寺田五郎左衛門になると、もう人が知らない。白井亨なども知らない。これらの人々は、当然もっと有名になっていいが、維新よりほんの少し前だけに有名でない。寺田五郎左衛門などの、竹刀の尖から火を吹く、と云われた位で、高柳叉四郎の音無し試合よりも、凄かったらしいが、あまり知る人が無い。
 島田虎之助、仏生寺弥助など、いずれも名剣客であるが、紹介者が無いために埋もれている。


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(五)

剣法夜話

直木三十五著
その五

日本一の剣客は誰か?

井上伝兵衛を標準として

維新の人々

 弁慶と、加藤清正と、どっちが強いか?子供がよく聞くが、大人も「日本の剣客では誰が、一番強いだろうか?に興味をもっている。されば、その強いと云われる人々を、一堂に集めて試合をさせるとよく判るが、それが出来ない以上、古書、記録によって、推察して行くのほかに無い。
 然し、それでは、頼りないではないかと、疑いも出るが、そういう方は、私の説を読んで頂くと、成る程と、頷けるだろうとおもう。強い人には、何処となく強さが、書物の中に光っている。
 ただ、維新当時は、時代も近いし、丁度いい試験台があったので、この時代の人の強さは、明瞭に、比較できる。
 下谷車坂町に、井上伝兵衛という剣客がいた。茂川弥八郎、酒井良祐と共に、直心影流の三羽烏と称された人である。
 喧ましい、島田虎之助が、天保九年江戸へきて、江戸の道場を荒した時、この井上のために打込まれて、弟子になりたいと云ったことがある。容易に人に下る人でない島田が、こう云ったほどだから、井上の腕が判る。
 又、酒井良祐は、二十四の時に、神道無念流の秋山要助(当時五十)に、三本つづけて勝っている。
 ところが、この井上伝兵衛が門人の本庄茂平次のために暗討に逢っている。最初は肩へ、次に脇腹へ、そして殺された。これが有謹『護持院ヶ原仇討』の発端であるが、本庄の腕が、どの位にしても、一太刀も合わせずに殺された以上、井上伝兵衛も、そう強いとは云えまい。そして、これが直心影三羽烏の一人である。
 千葉、桃井、斎藤と称されていた斎藤弥九郎が、矢張り、寝ている所を、盗賊に斬られて、盗賊はそのまま逃げ去ったが、これも不覚である。
 この間、江連力一郎氏が、熱海へ行っていた時、歩いている背後から、三四度撲ったが、いつも、避けられて打てなかった。これが用意している人には、当然であるから、暗討にしろ、寝入端にしろ、斬られるのは、一流の達人として不覚である。それが二人まで、幕末の江戸では一流の人がやられている。そして、名剣客で喧ましい島田虎之助が、その井上に、感心しているのだから、おもしろい。

大石進を試験台として 

 筑前柳河藩の大石進は、江戸在番中、五尺有余の竹刀を提げて、江戸中の道場を破って廻った。神道無念流の斎藤弥九郎は、他流試合はしない、と云って断った。鏡心明智流の桃井春蔵は、高弟上田右馬之助を出して破られ、北辰一刀流の千葉周作は、庄司弁吉に破られ、無念流の秋山要助が破られ、無念流の木村定次郎が破られ、江戸中で、大石進を破ったのは、高柳又四郎一人であった。これが、天保十四年の頃である。
 この中で、桃井春蔵は、老齢であったが、すぐ大石の竹刀を見破って、上田右馬之助に、
「あの竹刀の先には鉛が入っている。だから打ちを入れたのを受けると、先が挽うようになって面へ入る。腕はお前と互格だが、竹刀が違うから負けるのだ」
と云って、同じような竹刀を作って、同じ形でやると、その通りであったという。
 高柳又四郎は、五尺の竹刀を対手とするのに、一尺四方の鍔を作って対手にした。そして、
「五尺の竹刀なんて、一種の機械だから、俺も、こんな機械で対手にしてやるのだ」
と云った。これはその通りで、いざ実戦という時に五尺余などという長刀が振廻せるものでは無い。道場剣術だからこそである。この高柳又四郎が大石進に、
「君は、本当の剣術家と未だ試合をしていない。一度男谷下総守と立合ってみて、それから、剣のことを、話し給え」
と、云って、この大石進を、男谷信友に紹介した。男谷は、講武所の所長で、直心影流である。
 そして、立合って見ると、てんで勝負にならない。大人と子供との試合である。大石も、それで、初めて剣道の奥の深さを知ったというが、幕末では、この男谷下総守信友を第一とする。

男谷下総守 

 水野越前守が武芸を奨励した時に、多くの剣客を集めてその技を見たが、男谷一人飛抜けていた。それで越前守の手で、用いられたのである。
 千葉周作が、この人と試合をして、恐入ってしまった。そして、男谷は、千葉を、
「あれだけ使うようになるには、粉骨砕身したであろう」
と評している。この人は、三本試合に、きっと一本は負ける、だが必ず二本はとる。対手が強くても、弱くてもそうであって、一度、それを破りたいと心掛けても、どうしても破れないで、その底力が判らなかったと伝えられている。
 それでいて、書画が上手で、素人離れがしている。朝起きると、座敷の掃除をし、妻が死んでからは奢らず、時世を知る明があって、親類の子勝海舟に、
「もう、剣術の世で無くなるから、海軍のことを勉強せよ」
と云ったのは、この人である。即ち剣技のみでなく、人格、見識共に、当時の剣客を抜いている。小十人から、三千石にまでなったのも当然で、寛永時代なれば、柳生宗矩の上に位する人であろう。古剣聖の面影を存していて、幕末の剣道、この人の右に出る者はいない。

寛永以後 

 江戸の中頃は太平で、従って最も剣術の堕落した時である。
 然し天真一刀流の寺田五郎右衛門、小野派一刀流の浅利又七郎、直心影流の長沼四郎左衛門、無住心剣の小田切空鈍、直心流の神谷伝心斎を挙げることが出来るであろう。
 寺田は、木剣から火が吹くと云われた人で、白井亨が立合ってさえ、手も足も出なかったというから、その強さが判る。浅井又七郎は、山岡鉄舟の師である。
 長沼は、宝暦年間に、面、籠手を作り、今の竹刀を発明した人で、中々頭がよかったと思えるが、どの位強かったかは、はっきりしない、然し、当時江戸随一であった。
 小田切空鈍は、合打を極意として、剣理に達していた。この人は、
「侍が刀を抜く時は三つの場合しかない。戦場と、上意討と、喧嘩をしかけられた時。戦場で死ぬのは士の恥でないから、働いて死ぬがいい。上意討の時には、討手を殺して、自らも斬られるがいい。それで使命を完うしている、喧嘩の時にも、人だけ斬って自分だけ助かろうとしてはならぬ。対手を殺せば自分も死ぬのが本当だから、相打でいい、即ち、士が刀を抜いたなら、死ぬ時なのだ。だから、自分を殺すと同時に、対手も殺せばいい。当流は、だから相打を極意とする」
と云って真向の太刀一手しか教えなかった。中々徹底した剣道である、
 神谷伝心斎は、若年の頃、十五流に達したという人で、後に、新陰流第五代の正統になった。そして、六十七歳の時に、
「剣道とは、己をすてて直心で進み、非心を断って、自然に生きることである」
と、悟って、極意を「非切」と称し、流名を直心流とした。
 この四人は、それぞれに名人であるが、前の二人は剣術以外に、この技以外に何も無い。ただ強いのみである。空鈍は、一つ悟りへ達しているが狭い。伝心斎は、古剣聖の達した道へ、ようよう六十五歳になって到達している。この四人と、戦国時代の剣客とを較べると、その優劣がよく判る。それを、もう一章に譲って、俗間剣客につき一言しておく。

有名剣客の正体 

 通俗的に有名な剣客は、柳生宗矩、官本武蔵、荒木又右衛門、塚原卜伝、岩見重太郎であろうが、柳生宗矩は、剣客というよりは、政治的手腕で、一万二千石にまで上ったのである。真の剣技は、同じ将軍師範役の小野治郎左衛門の方が、優れていたかも知れぬ。然し凡庸の人では無いが、剣客としてよりも、政治家として働き、剣道の上の仕事を何一つとしていない。男谷下総が、講武所を設けたような、剣道発展の要枢の地位に有りながら、少しもそのことに努力していないのは、甚だ遺憾である。
 宮本武蔵は、晩年はえらくなったが『兵法三十五ヶ条』のような未熟な著書をして人に畷われているし、佐々木小次郎のほか、当時江戸の名剣客と少しも試合をしていない。剣法上の創作的態度に於て、この人も上泉信綱に劣る。書残したものを見ても、徹底しないで、兵法のつまらんことを説いたりしている。ほかにインテリ武人がいないから目立ったが『五輪書』など空鈍の『天狗芸術論』に劣っている。
 荒木又右衛門は、講談師が三十六人斬りなどと勝手なことをこしらえて有名にしてしまっただけで、郡山藩の二百石取の一剣士にすぎない。宗矩の門人では出淵平兵衛が只一人柳生流を許されているが、又右衛門は敵討で有名になっただけで、大した人ではない。
 岩見重太郎は、架空人物だから論外である。塚原卜伝は後に説く。

戦国時代の人々 

 家康の師、上泉信綱、塚原ト伝、奥山休賀斎(新陰流第二代)、斎藤伝鬼坊、富田重政、伊藤一刀斎、飯篠家直、松本備前守。これらの人を、戦国時代の名流として、挙げることが出来るであろう。
 ここで、一つの推論、仮定を設けるが、えらい人には、あちこちに噂、逸話が残っていて、古い時代であるに拘らず、江戸中頃の人々より、詳しく伝記の判ることである。これは、えらいが故に、いろいろと、残り、伝えられたと、云っていい。
 それで、その順で行くと、上泉信綱、塚原卜伝、伊藤一刀斎、斎藤伝鬼というような風である。
 もう一面から見ると、その弟子の多寡で信望が判り、その流派のつづいてきたか、来ぬかでも、その価値が判断される。これで行くと上泉信綱が群をぬいて伊藤一刀斎とつづいて、後がつづかない。
 斎藤伝鬼の最期など、この人の馬鹿さを示しているだけである。飯篠、松本、塚原は、上泉と同時代であるが、三人とも、すぐ彼等の剣法が、廃れてしまっている。
 これは、三人とも、その当人は強いが、人に教える、組織的剣法でなかったからである。仮令ば、卜伝には「一つの太刀、一つ太刀、一の位」と、三つの太刀しかない。空鈍は一つだが、三つの太刀では、習う方で困る。単純すぎるからである。太刀は一つの極意さえ究めればいいが、初心に教えるには十位の形が、基本としてあった方がいい。この人々は、戦国時代で剣道発端当初の人だから、強いが、単純であった。そのため、その人だけで、その極意が判らなくなって、人に伝えることができなかった。だから、すぐ廃れたのである。ところが、この中に、唯一人、上泉信綱だけは、断然光っていて、他を抜いている。

剣聖上泉信綱 

 長野業盛の右腕として上野国一本槍と称された時から、上泉信綱は武人であった。信玄が、箕輪城を攻めて、信綱が斬死しようとするのを「剣道のために死ぬな」と諌め、信玄の信の字を与えて、秀綱を、信綱と改めさせたので、その信じられていた程度がわかる。
 又、信綱は、軍法にも達し、上泉流の軍学を創造し大阪冬の陣に井伊家にあって武名を轟かした岡本半助など、この軍学を学んだ人である。
 又、日本最初の、剣道天覧に供したのが信綱で、この時、武蔵守に任官されている。
 又、信綱の弟主水が、信綱の弟であるというだけで上杉家へ三千石で召抱えられている。信綱の当時に於ける声望、もって思うべしである。
 そうして、信綱は、箕輪落城後、又、主を求めず東に行き、西に旅して、ひたすら剣道のことに尽した。弟さえ三千石になれるのに、一身の栄誉を断って専ら剣道のことに努力し、遂に大和柳生に客死するまで、この人ほど、純粋に剣客であった人はない。
 そして、腕はと云えば当時近畿第一と称されていた柳生宗巌に、その弟子疋田小伯を立合せ、この小伯が右と云えば右を打ち、左と云えば左を打ち、宗巌の兜を脱がせた位、弟子でさえその位の腕であった。そして「剣の極意は、火に焼けず水に溺れず、磐石落ちるとも動かぬ心を養うことだ」と心の大事を説いた。
 そうして、ト伝や、家直などとちがって、剣道を組織的に、攻防の術を二十種ほど作り、幼稚な者にも、達人にも修練しよいようにし、挽刀を発明したその頭のよさに至っては、到底、他の武人の及ぶところではない。しかも、その用意は、一人の浪人を捕えるのに頭を剃って坊主になって行った位に用心深かった。
 私は、尤も、逸話伝記の不明瞭なこの時代の人でありながら、一番多くのいい話を残している点に於て上泉信綱は、断然えらかったとおもう。この人が、日本第一の剣聖、次が、男谷下総守。二人ながら技も心も出来上った人である。他の武人に至っては、ただ強いというにすぎない。

炉辺剣談

井上伝兵衛

 維新の剣客の中で、あまり人に知られていない人の話と、知られていないことを、話ししようと思う。
 上泉伊勢守信綱から、伝えられてきた直心影流の第十二代を、藤川整斎といった。この人は、藤川近義の伜であるが、門人の井上伝兵衛、酒井良祐とともに、直心の三傑と称されていた。
 この中で酒井良祐が、技倆としては第一であろうといわれていたが、良祐二十五の時に、神道無念流の名手秋山要助と五本試合して、つづけ様に三本を取り、それで、勝負が終っているから、いかにもと思える。
 島田虎之助が、上方、中国の道場を破って江戸へ来た時が、二十五六であっただろうか。井上伝兵衛の御徒町道場へいって、めちゃめちゃにやられた。田舎で天狗であった島田虎之助は、すっかり悟って、入門しようとすると、伝兵衛が、
「そちは、男谷信友と、試合したか」
と聞いた。
「幸いにして、勝ちました」
 伝兵衛、それを聞くと微笑して、
「わしが手紙をつけるから、もう一度行って見なさい」
と、それで、虎之助が、男谷へ再度の試合を申込むと、今度は、近づきも出来ない。虎之助が、男谷へ入門したのは、この時からであった。
 この井上伝兵衛が、天保九年十二月二十三日の夜、暗殺された。駿河台の茶の会があったので、その戻り路に、片手に茶壷、片手に雨傘、雨の降る中を戻ってくると、後方から、肩へ斬りつけ、伝兵衛が刀を抜いた時に脇腹を斬って、逃げてしまった。伝兵衛は、近くの自身番へ、よろめきたがら入って、
「車坂の井上だ」
と、いって、息が絶えてしまった。伝兵衛の弟、松山へ行っていた熊倉伝之丞、その子伝十郎の二人が、仇討に出てきたが、伝之丞が、また殺された。この殺された時に、敵が、本庄茂平次だとわかったが、この茂平次という人聞は、鳥居耀蔵の部下で、伝兵衛の門人だから、耀蔵が何か、伝兵衛に頼んで、伝兵衛が聞き入れなかったので、殺させたのだろうと、こういう想像をしたが、行方がわからない。それに、伝十郎一人では、どうにもならない時に、小松典膳という伝兵衛の門人が、助太刀を申出て、二人は江戸中を捜していた。
 ところが、鳥居耀蔵が免職になった、と同時に、その手で匿されていた茂平次が、長崎で捕えられた。そして二人を殺したことを自白したので、江戸へ送られ奉行所から追放されることになったが、これを護持院ヶ原で待受けて討ったのが、有名な『護持院ヶ原の仇討』である。弘化四年八月六日の出来ごとである。

千葉門繁昌の原因

 あまり、千葉周作のことが称められすぎなので、近ごろ、周作は、宣伝がうまかったのだという説が、大部でてきたが、それもあろうが、上手は上手であった。
 だが、それよりも、千葉の名を高からしめたのは、周作の兄弟が三人とも剣客であったことが、その原因の一つであろう。すなわち、兄の叉右衛門は、岡部藩に仕え、弟の定吉は、京橋桶町に道場を開いていて、桶町千葉と称されていた。
 もう一つは、周作の四人の子供が、皆強かった。岐蘇太郎、栄次郎、多門四郎と、この中で、栄次郎が抜群で、千葉の小天狗と称されていたが、岐蘇太郎が三十一歳で、安政三年に死し、同十一月に周作、六十二で、次に文久二年に栄次郎が三十で、多門四郎が、二十四で、道三郎も、明治五年三十八で、ばたばたと倒れてしまった。
 この栄次郎が、ちょうど、同じ齢頃として、九段の斎藤弥九郎の伜、歓之助と対抗していた。歓之助は、渾名して、鬼歓といわれ、長州の来島叉兵衛が来た時僅か十七歳の小腕でありながら、ただ突の一手で、又兵衛以下六人を破ったという豪の者であった。
 この人も、惜しいことに早世してしまったが、九州へ下った時、九州第一の剣豪松崎浪四郎と試合して敗れたほか、手に立つものがなかったといわれている。どのくらい鋭かったかという例としての話に残っているのでは、この歓之助が、容赦なく小手を打つ時には小手の上の皮が切れたというから鋭いよりも凄かった。
 この鬼歓が、栄次郎と試合したが、どうしても、栄次郎の胴へ入れてくるのを防ぐことができない。そして、胴へ入ると、身体中へ、ぴいんと響いて耐えられない。とうとう最後には、女の帯を巻きつけて行ったが、矢張り胴をとられて、呼吸がつまったというから、千葉栄次郎の鋭さは、大したものであっただろうとおもう。この栄次郎が代稽古をしていたので、千葉門は盛だった。
 もう一つは、門人の海保帆平、井上八郎、塚田孔平、庄司弁吉、稲垣定之助、大羽藤蔵などが、ことごとく大名の召抱えになったから、いよいよ千葉の名を高くしたし、門人の中から、坂本竜馬、清川八郎、有村次左衛門などを出して、有名にもなっている。周作の強さからいえば、いろいろと論もあるが、こうして周囲が揃うていたから、一層名聞が響いたのであろう。

大石進の竹刀

 大石進が五尺三寸の長竹刀で、秋山要助、木村定次郎、庄司弁吉、上田右馬之助などを破ってから、急に竹刀の長いのが、流行り出した。
 この流行に対して、頑として、竹刀の長いのを嘲っていたのが、直心影流の藤川整斎で、二尺でいい、短かければ踏込め、といっていた。長沼派が三尺三寸、男谷信友が、講武所長となってから三尺八寸と、今の竹刀の長さにしたが、これが一番穏健らしい。
 二尺の竹刀は、よほどの手練者でないと、不利であるし、五尺三寸は、真剣になると、用をなさない。昔から、刀の長さは己の臍の下へ鍔がくるくらいがいいとされている。二尺七八寸から三尺近くであって、極めて適当している。それより長いと、すぐ疲れてしまって、おのれの力に合わない。大石の長竹刀など、道場だけの、見てくれ剣術で、いざのときの用をなすものではない。
 長い竹刀では、大石進一人が有名であるが、嘉永二年、島津伊賀という人が、矢張り五尺の竹刀で、福井藩を荒している。これがため、福井藩が、一時に長剣に変じたと称されている。徳川慶喜を、水戸へ護衛して行った精鋭隊長、中条金之助という人は、四尺二寸の長刀を侃していた。歩くと、鞘が土に摺れるから、小さい車がつけてあったというが、少しおかしい。

男谷信友の強さ

 男谷下総守信友だけは、幕末の剣客が、別格としていた。水野越前が、武術奨励のため、剣客を集めて試合させた時、男谷精一郎がただ一人、水際立っていた。百俵の小十人から、御徒頭となり、三千石まで昇った人は、この人だけである.
 千葉周作が、男谷と試合した時に、男谷二対千葉一の勝負であったが、千葉はすっかり敬服してしまい、男谷は「あれだけ使うには、なみ大抵の修業でなかろう」と、評した。
 この試合が、男谷の二、千葉の一であるから、千葉も強い、と考えると大間違いで、男谷という人は、どんな弱い者と試合をしても、三本勝負だと、きっと、一本は負けてやった。そして、その勝ち方が、実に、軽くて、あざやかで、底力が、どのくらいあるのか、わからなかったといわれている。
 門人の中から、大名の師範役になった人が二十余人出たというから、千葉も、斎藤も、足下へもおよばない。六十七歳で、死んだが、死ぬ時まで、その三本に一本の試合ぶりを崩さなかった、門人が、口惜しがって、どうかして、二本を取りたいと競ったが、とうとう一人も取れずにしまったという。
 書も、画も素人離れをしている。しかし、一つも落かんをしてない。自分の楽しみに描くので、人に見せたり、くれたりするものはない、というつもりであったらしい。私は、この人の孫男谷国友氏から、一幅譲り受けて、愛蔵しているが、うまいものである。

文人の剣術

 幕末の文人で、剣を学んで相当な人には、渡辺畢山が無念流、鈴木春山が北辰一刀流、藤田東湖が無念流である。前の二人の腕はわからぬが、東湖の腕は、斎藤弥九郎が、「藤田先生は、実に技が拙いが、あれで、真剣を持たせたなら、この道場で屈指の試合をするだろう」
と、称しているので、よく判る。人間がそのくらいに出来ていたのだろう。なまじ、道場で上手なより、腹の据っているほうが、真剣には強いが、弥九郎は、東湖の腕を、その点から、十分にわかっていたのであろう。


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(六)

剣法夜話

直木三十五著
その六

上泉信綱

信綱の家系

 剣術のことを、多少とも調べている人は、上泉武蔵守信綱と書くが、俗には、上泉伊勢守秀綱として通っている。『上州古城塁記』の中の「風土記」に、「太胡加賀守勝広、後に、上泉武蔵守信綱が、居所なりと、按ずるに上泉武蔵守信綱は、上泉の城主にして、天文二十四年春、氏康の厩橋出馬の時詐りて降り、謙信の越山に及んで遂に東上野へ饗導す。又、長野が臣、上泉伊勢守秀綱は、箕輪落城に及んで、桐生に遁れ。風土記に一人とす、詳に考うれば二人なり。けだし父子なるか」
と、あるが、この時分から、別人のように考えられていたこともあったらしい。
 初め、伊勢守秀綱、後に、武田信玄より、信の一字を賜り、信綱と改め、上洛して、武術を天覧に供した時、武蔵守に任ぜられて、即ち、武蔵守信綱である。伊勢守秀綱は間違いではないが、最後の名、官位で、故人を呼ぶのが正しいから、上泉武蔵守信綱と云うべきである。
 信綱は、藤原姓であるが、俵藤太秀郷の後胤になっている。秀郷は、元遠江の国の人であるが、平将門を平げてから、上野国に住んで、ここに一族が栄えたから、信綱も、その一族中の一家なのであろう。
 代々、上野国勢太郡の城にいたが、秀郷六代の孫、淵名太夫兼行の子の代になって太胡を姓とし『東鑑』に出てくる太胡太郎(太胡武蔵守)の時に名を挙げた。
 この太胡から、どう別れ出たか不明であるが、何代目かの人が、群馬郡上泉へ別れ移ってから、上泉を姓とし、そこに一城をもって、信綱の父、上泉秀継(初め憲綱、後義、秀継と改め、後年秀継と称す)の時になった。
 この辺は、上杉管領家の勢力範囲であるから、上泉氏も上杉家の被官であったのであろうが、足利末の乱世となって、上杉の衰亡と共に、上泉城も陥ることになった。そして、信綱は、長野信濃守業政に仕えたのである。

長野家にて及び信綱の槍術

 長野信濃守業政という人は、在原業平の末孫と称せられている人であるが、業平が古今の美男子であると共に、強力無双であったように、傾いて行く上杉家のために、唯一人武田信玄の上野侵入を食いとめたのが、この業政であった。
 居城は、箕輪城で『甲陽軍鑑』の「箕輪攻め」の一条は壮烈無比であるが、この業政在世の時には流石の武田信玄も一指を上野国へ染めることが出来なかった。
 上杉憲政、失政多く、北条氏康のために、越後へ追われ、長尾景虎に、その上杉姓を譲り、景虎が、上杉謙信を名乗るのであるが、この憲政の居城、平井の城が落ち、天文二十年上杉家滅亡の後に、ただ一人、故主のため、氏康、信玄の二名将を対手とし、永禄三年病死するまで八年の問、一歩も譲らなかった、匿くれたる名将が、この在原業政である。
 信玄は、この業政さえ失えば、上野一円は己の手に入るので、二度まで大軍を催して攻入ったが業政のために破られて、その後は兵を向けることをしなかった。
 上泉信綱は、この業政に仕えて、一方の将を勤めていた。そして、長野家十六槍の一人と称されていたが安中城の安中左近と一騎討をして、この人を討取るに及んで、業政より「上野国一本槍」という感状を頂いた。「渋川流」の渋川伴五郎時英が、その著『渋川流柔道大成録』の中へ「上泉伊勢守などが事、よくよく考へて見るべし」と書いているが、それはこの上泉信綱が剣槍二道の達人であったことを指している言葉である。
 当時の人々が、徒らに剣道のみを学び、槍術や、柔道と共に学ばずして、武芸却剣と心得たのを戒めている言葉であるが、その剣名のために、その槍名が圧せられて、聞えなくなってしまったが、上泉信綱の槍術の達者であったことは、この感状問題一つでなく、十分に、それを裏書きする史料が残っている、
 それは、柳生流の「御流兵法之由緒」の中に、「影之流の槍」という名のあることである。柳生も剣法のみの家であるから、この「影の流の槍」は名のみになってしまったが、明かに、上泉の「陰の流」には槍法があったのである。
 それが証するもう一つの史料として、大野一貫の著『懸間録』に「余が修業階梯とせる槍、薙刀の流伝と云へるものは、疋田流と号して伝来せり。疋田流は疋田文五郎云々」とあるが、疋田文五郎は上泉信綱の高弟で、いつも信綱の供をしていた人であるから、前の柳生流の中にある「影の流の槍」と思い合せると、上泉信綱が、いかに槍術に達していたかー「上野国一本槍」が、決して嘘でないことがわかるであろう。
 武蔵を持ち出すのは、いささか、気になるが、菊池氏はしきりに、武蔵の画のうまいことを称めたが、信綱は絵をかかん代りに、槍が出来た。武蔵は槍ができない。文芸家としての菊池寛が、剣術ができなくっても、その価値には少しも影響しないが如く、信綱に絵が描けなくっても、槍が出来れば、武芸者としては、絵の出来るということよりも、価値の点では多いであろう。上泉信綱の槍の達人であることなどは、少しも知られていないが、これで、信綱が剣のみでなく、いかに、武人として各技に亘っていたかが窺えよう(軍学に達していて、上泉流軍法を残していることは後に説く)。
 余談であるが、序に云っておくが、塚原卜伝も飯篠家直も、立派に、槍をとっても一流の使い手であった。後の剣術家が、剣のほか使えないような不自由な武人でなく、弓にも達していて、卜伝の如きは『弓の心得百首』という歌まで残している。こういう人々の足跡まで調べないで、武芸のことを俗説のみによって云々する史家など、滑稽であるだけである。
 そこで、話は元へ戻るが、こうして、長野家に仕えている間に、永禄六年、業政が病となって死んだ。嗣子業盛僅かに十九歳である。信玄このことを聞いて
「自分の手におえぬ奴が三人いたが、太田道灌は岩槻に退いたし、業政死んだ上は、最早や上杉一人になった」
と云って、直ちに兵を出して、箕輪城を攻撃しに来た。この時に、箕輪城の裏門を守って副将格となっていたのが上泉信綱である。
 信玄の兵二万、先ず、松井田城を落し、安中城を陥し、峰の城を平げ、そして総軍二万で箕輪を開んだ。業盛は、大手を防いでいたが、潅かにその外廓を破られて、
  春風に梅も桜も散り果てて 名のみ残れる箕輪なりとは
と歌を残して、白害した。
 この時、裏手の主将、上泉信綱は、疋田文五郎、神後伊豆に、旗を持たせ、美方、道守、町田、寺尾の諸将と共に最後の一戦を試みようと城門を出、円陣を作った時に、信玄の方から穴山梅雪が使いとして来た。
「業盛討死して、戦は最早や終り、武士の道も立った上は討死は無益であろう。伊勢守の武芸をこのまま滅ぼすのはいかにも惜しいから、助命しようと、信玄公より沙汰されているが、そうしては」
と云った。それで、裏門にいた諸将だけは、内藤修理へお預けということになった。そして、暫くそのままでいたが、信綱は仕官を断念して、新陰流を弘めようと決心し、信玄に暇を乞うた。ところが信玄が、中々許さない。『甲陽軍鑑』に「愛州陰の流と申兵法を習ひ得て、此中より某仕出し、新陰流とたて兵法修行仕度候、奉公致すに於ては、信玄公へ注進申べく候、奉公にてはなく修業者に罷成候と申上ぐる故、御暇下さるなり」
とあるが、信玄は信綱を惜しんで、他家へ仕えはせんかと中々許さないので、他家へ奉公はせぬ、武者修行になるのだと云って、ようよう許されたのである。これを『関八州古戦録』が裏書して曰く、
「毛頭他家競望の所存にあらず、もし行先任官の模様あらば、必ず告げ訴へて、信玄の赦宥に任すべし」
 即ち、信玄は、自分の許可なくして、他家へ仕えることはならんぞ、とまで、惜しんだのである。剣客兼武将としていかに、信綱が信玄から、重んじられていたかが、わかるであろう。
 太田道灌、長野業政を、二つの目の上の瘤としていた信玄。この二人の名将のうちの一人の副将を勤めていた信綱、一代の名将、武田信玄がかくの如くにまで惜しんだ信綱。もし、信玄に仕えていたならどの位までに成ったであろうか。黒田家へ仕えんとして断られ細川家へ僅か三百俵でその老骨を売った宮本武蔵と、武田信玄にかくまで惜しまれながら、逆に、一生を流浪の中で終り、新陰流を天下に弘めた信綱と、いかがであろうか御立合。

陰の流及び新陰流の起源

「陰の流」一に「形の流」とも書くが「陰」が正しい。陰は陰密の意を含んで、秘術を表現した字であるという説があるが、これは採らない。柳生流の「柳生流新秘抄」の中に「愚見には、陰は茂れる草村を見る如く、流儀の蓋奥とや云はん」
と、云っているのも、浅薄すぎる。「陰」とは剣道に於ける「内にこもれる力」であって、これが動作に現われると、「陽」になるが、「新陰の流」の教えよりみて「こもって未だ発せざる状態」の陰を指して、流儀の名としたのであろう。形より、陽より、動よりも心を重大視し「肚」を「静」を説くところより見て陰は「無一無雑にして、発さんとして未だ発せざる心」の義である。そしてこの「陰の流」の創始者を愛州移香(惟孝ともかく)と呼ぶ。上泉信綱の『当流由来の巻』の中に、
「当流の起本は、愛州移香といふ人あって、兵法の諸流を極め、その中より一流を選み出し、世に弘めんと欲す。然る後、九州の国に赴きて、霊者あり、これを鵜戸の大権現といふ。移香、かしこに至って参籠する事三七日、当流の天下に於て流布せん事を伏願ふ。既に、夢中に告げを蒙って、陰の流と号す」とあり『師系集伝』には、
「奥州の産、足別氏季世の時の人、幼より万槍の技を好み、広く諸州を修行し、九州に渡り、鵜戸の盤屋に参籠し、剣術の微妙を得んことを祈る。夢に神猿の形に現はれ奥秘を示す。一旦慢然として大悟す。自ら其名を影流と号し、其人に非れば伝授せず。是中興刀槍の始祖也、上泉信綱其伝を継ぐ」
 この移香の長男に、小七郎惟修という人があった。この人から、信綱が「陰の流」を学んだものらしい。「新陰流目録」の系図の中に、この小七郎から信綱へ伝えられているから、愛州移香にも、学んだかも知れぬが、惟修に学んだと見るのが正しいであろう。そして一流を立てて「新陰の流」と称した。
 何時、この「新陰流」を立てたか明かでないが、箕輪落城の時に、信玄が、使いを出して武芸を亡ぽしてはいかんと云っているのを見ると、その時には相当有名であったと見るのが至当である。
 信綱が、長野業政の下へ仕えるまでは、上泉の城にいたという説もある。天文二十四年、上泉城を攻めたので、信綱一旦偽って降り、後に、謙信の道案内として、山上、仁田山、佐野、桐生などを斬り従えた、という説であるが、父秀継の時に、城が陥ったとも云うし、ここの所、よくはわからないが、長野業政に従う前の、平和な時代の折に、既に、剣豪の名は高かったと見ていいであろう。それは長野家へ仕える前後から戦乱つづきで、剣道などを考案している暇がないからである。
 この「陰の流」が、いかなる物であったかは、日本には文書として残っていないで、支那にある。それは茅元儀の名著『武備志』の中にあるのである。
 「茅子日(茅元儀)武経総要所」載刀凡八種、而小異猶不列焉、其習法益不伝、今所レ習惟長刀腰刀、腰刀非2国牌1不レ用、故載2於牌中1長刀則倭奴所レ習、世宗時進犯2東南1故始得レ之、戚小保於2辛西陣上1得2其習法1又従而演レ之、井載2於後1」
 これを、松下見林は『異称日本伝』に記して曰く、
 「今按、戚小保、戚継光、辛酉明嘉靖四十年、当2日本正親町天皇永禄四年1、影流日本剣術者流名也、影当レ作レ陰其徒上泉武蔵守藤原信綱、用レ心損2益之1号新陰流、有2猿飛、猿廻、小影、月影、浮船、浦波、覧行、松風、花車、長短、徹底、磯波等手法1、茅氏、挙2猿飛、猿廻、山陰、虎飛、青鼠、陰見之名1而収2入国亭1伝写之誤、湧草有2欠画1」
 これで、いくらか、その監劃が判る訳である。「新陰流」になると、伝書が、それぞれに残っていて、その精妙なる組織、技巧が、いかに他流に比較して優れているかがよく分かるが、この詳しいことは後に説くことにする。

上洛

 上泉は、京都へ赴く前に、桐生に暫く居たらしい。桐生の城主、桐生大炊助直綱は、破であったが、武芸の嗜みが深く、信綱とは、旧知の間柄であった。
 ここにいる内に、直綱が残し、子が無いので、弟又二郎重綱が後を継いだが、それより家中乱れたので、信綱は桐生をあとにして、上方を志したのである。
 この行に、信綱は子の秀胤と、神後伊豆守と、疋田文五郎を連れていた。そして、永禄何年かに京都に入ったものである。『言継卿記』は、当時の公卿の日記として、唯一のものであるが、この山科言継卿の日記の中に「永禄十二年二月二日太胡武蔵守が邸を訪ねてきた」とかいているが、信綱は、義輝に剣を教えているし、義輝は永禄八年五月に殺されているから、永禄七年三月以前信綱が京へ入ったことは明かである。
 信綱が、京都へ来て以来、近畿の人々が、いかに信綱を見ていたか? 『冒継卿記』は約二年六ヶ月間の日記であるが、その中に信綱のことが、三十二ヶ所出てくる。最後は元亀二年七月十一日で「太胡武蔵守、本国へ下向、暇乞に来る」で終っているが、この日記の中に、次のような文句がある、
「於上泉武蔵守被上洛、久方以下悉兵法軍敗(配)被相伝無比類発名之事実」と、即ち、上泉信綱が剣術のみでなく上泉流の軍学をも教えて、京の評判になっていたことがよくわかる訳である。
 足利義輝将軍、その名声を聞いて兵法を見んとし、信綱は、丸目蔵人佐を討太刀として上覧に供した。そして、義輝将軍から、次の感状をもらった。
  上泉兵法古今無比類、可謂天下一、並丸目打太刀
  是亦可為天下之重宝者也
   三月十日      義輝
                上泉伊勢守殿
                丸目蔵人佐殿
義輝将軍は、先に、塚原卜伝を師として、剣を学んだ人で、後、松永のために、室町御所に攻められるや名刀七八本を抜き座右に置いて、取りかえ取りかえ、斬って出るに近づく者がなかったという、当時上流社会第一の使い手であった。それで、池田丹後が後方から槍で脚をはらって倒し、ようよう打ちとるのであるが、この義輝が、卜伝隠退後、師がないので、信綱を抱えようとしたが、信綱辞して神後伊豆守が、その師となった。
 こうして、信綱の名声が、京にかまびすしいのを、時の帝、正親町天皇が聞こし召して、勅詔によって召された。この時、信綱は、大和国にいたが、直ちに上洛して、元亀二年七月三日、従四位下となって昇殿を許され、剣法を天覧に供した。これが、日本に於ける剣法最初の天覧である。
 この信綱の花々しい名声を、単に、その名声のみとみるか、実力があったからとみるか?他の武芸者がかくの如くにまで、京へ来ても、待遇されないのに、信綱のみがこういう待遇をされているのは、何を語っているであろうか?信綱以外に天下一の剣客があると信じている人に聞いてみたい。
 信綱の名声が、単なる名声のみでなく、天下第一の人格と、技倆とを備えていたということは、次の話で裏書きされるであろう。即ち、当時九州第一と称された丸目蔵人佐が、信綱の名を聞いて、直ちに上洛し、一試合をして、すぐその門に入ったことである。又、当時の近畿第一の使い手と称されている柳生宗巌の中条流を、手もなく打破っていることである。『武功雑記』に日く、
「兵法つかひの上手に、上泉伊勢といふもの虎伯(疋田文五郎小伯のこと)といふ弟子を召しつれ和州へ行く。
 時に、柳生氏、上方にて兵法無類の上手なり、幸ひと思はれ、上泉を呼んで、木刀を所望し見て、心をかしく思ふて上泉と仕合を望む。上泉さらば、先づ虎伯と遊ばせよと、再三辞退す。柳生即ち、虎伯とつかひしに、虎伯、それにては悪ししとて三度まで柳生を打つ。そこにて是非上泉と試合を致したしとて望む。上泉辞退しかねて向ふといなや、其太刀にては取り申すとて取る。之によって柳生氏大いに驚き、上泉を三年まで留置し、しんかげの秘伝を伝授す」
 どうであろう。この試合振りの見事さは、中条流の名人として「兵法無類の上手なり」という柳生宗巌(柳生流元祖)と試合をして「その太刀では打つぞ」と云って打つ…その格段の技倆の相違。宮本武蔵が、佐々木小次郎と試合をするのに時間をおくらせ、小次郎の得物を聞いて、それより長い木刀を作り、小次郎にからかって怒らせ、そして、自分の鉢巻が斬り落されるような、間一髪の試合で勝っているのと、この柳生と上泉の、段ちがいの試合と、試合の数の多いのやら、真剣なんかは誇るに足りない。いかに他の名人よりも強かったかということが誇りである。九州第一の丸目蔵人佐が、直ちに弟子入りをし、柳生がすぐ弟子となった信綱の技倆。これを見ると、天皇が御覧になったことも当り前であるし、言継卿が、日記の中へ、かいているのも当り前で、名実共に、日本一の剣客であったのである。
 この丸目蔵人佐が、信綱の許を辞して、九州へ戻ってから、信綱へ出した手紙に対して、信綱の与えた手紙がある。その中に曰く。
「於、九州他流之兵法者皆以打払之由、満走之至不過之候」
 即ち、丸目の剣道が九州で無敵だったことを語っている。丸目の剣道は、後に一流を立て「体捨流」と称しているが島津では「御国一統之剣術」として、ことごとくの士がこれをならった。『大友興廃記』の中に「御長男五郎義鑑公、御近辺に召し仕はる若侍を皆その頃流行る体捨流の弟子になし」
という記事があって、島津のみでなく、大友家にも流行っていたことが明かであるから、九州全体、体捨流が風靡したらしく、信綱の手紙の「他流の兵法皆打ち払うのよし」の事実であることが、証明されよう。
 宮本武蔵が九州へ行って、二刀流が、これだけ、いやこの十分の一も流行ったであろうか。
 叉、信綱の門人、疋田文五郎の疋田陰流は、唐津、熊本、久留米の三藩には徳川時代三百年を通じて行われていた。武蔵の二刀流など何処で行われていたであろうか。
 優れている剣道が残り、劣っている剣道の衰えるのは当り前である。二刀流が、いい剣道が、新陰流に勝てるのにわざわざ二刀流を捨て、新陰流を学ぶ人はあるまい。遂羅新当時の剣道隆盛期になっても、二刀流の起らなかったのは、起ったって価値がないからである。信綱の新陰流はそのうち、各流に分れたが、いずれも栄えて、今日まで来ている。この事実を、人々は何と見るか?
 私が、以上の事実を挙げ、叉以下の事実を書いて、信綱を天下第一の剣客とするのに、異議ある人は、いつでも御対手をする。蓮の葉は、何枚も用意してある。

その写法

 上泉信綱が、槍に達していたことを裏付けるもっと確実な材料があるから、紹介しておく。
   天罰起請文前書之事
 新陰流之内上野勘平鍛錬之太刀並鑓等心持之処無免許間錐敷相弟子他言有間敷者也
 右之旨於偽者日本六十余州大小神祇八幡大菩薩、春日大明神、愛宕山大権現殊氏神可蒙御罰者也.
 伍起請請文如件
               長岡中納言少輔
   元和九年三月二十八日       孝之
    上野勘平殿
 立派に、新陰流の槍術というものがあった。他の武芸者に槍剣両道の達人が、あるであろうか。
 もう一つ、上泉信綱の優れていた …というよりも宮本武蔵の二刀の稽古を、武蔵独特のように、二刀が取入れられていることである。即ち『新陰流天狗書巻一の中に図入を以って説明しているが、その中の「智羅夫」と「大乱房」とは、大小二本の剣をもって試合さ」していることである。これをもって見れば、二刀は、必ずしも、武蔵の独創ではない。必要に応じては、左右に刀をもつこと位は、信綱だってちゃんと承知して.いたのである。
 その上に、信綱は、軍学に達していた。彼の軍学の師は小笠原宮内大輔氏隆であるが、これは信綱の一子秀胤が剣道をもって立つ器でないので、その代りに、秀胤へ伝えこれを上泉流の軍法と称した。
 この上泉秀胤より、大戸民部直光へ、これが伝えられているが、史上で有名な上泉流軍学で名を残している人は、井伊直政の家来岡本半助宣就である。大坂冬の陣の時に、井伊が真田丸へ攻めかかり、苦戦している時に、この半助が見事に働いた話は、有名なものである。だから『言継卿記』の中に、
「兵法、軍配被相伝無比類」
と、ちゃんと、剣法と軍学を伝えたことを称めているが、剣槍二道に達した上に、軍法にも、一流を編出している武人としての完全さは、誰か他に比較する人があるであろうか。
 さればこそ、上泉信綱の弟、上泉主水憲元は、兄ほどでないのに、直江山城守のために、三千石で召し抱えられたのである。主水は、山形攻めに戦死をするが信綱の弟であるというだけで、三千石に抱えられたのと、宮本武蔵が三百石で抱えられたのと、ここの説明の出来る人があるなら聞きたいものである。

その人格

 信綱の人格については、武蔵の時に少し書いておいたが、曰く、
「兵法は、人の助けにつかふにあらず、進退ここに極まりて一生一度の用に立る為ならば、さのみ世間によく見られたき事にあらず、たとへ、仕なしはやわらかに上手と人には見らるる共、毛頭も、心の奥に正しからざる所あらば、心のとはば如何答へん。仕なしは見苦しくて初心のやうに見ゆるとも、火炎の内に飛び入、磐石の下にしかれても滅せぬ心こそ、心と頼むあるぢなれ」
と、初心者へ云っている。それに、歌が添えてあって、
  初めは我心にて迷ふものなり 吾と我、心の月の曇らして
  余所の光を求めぬるかな 遊身にならず仕懸ること第一也
  解もせず、言も得ざりし所をも 知らぬ物ぞと知るぞ知るたれ
  敵の動きの未だ無之以前に、先に進む志 少しにてもあれば云々
  おのづから映ればうつるうつるとは 日もおもはず水も思はず
  里はまだ降らざりけりと旅人の いふに山路の雪はながるる
 こういう歌が、その伝書の中に、数多ある。それを一貫しているものは、謙遜の心である。その「陰流」の名の条の下に説いておいた「内に蔵して濫りに発せぬ心」ということを、よく説いている。
 最も、それを端的に説明している彼の言葉は「天錐高距、地錐厚不荒踏」の一語である。信綱の人間は、これで十分に説明されていると思う。天は高いから、いくら傲然としていても、天の迷惑にはならぬが信綱は、距する心でいるのである。地は厚いから、信綱がいくら荒く踏んだって、びくともするものではないが、歩く時にさえ、音さえ立てぬ位にする。この心懸けである。
 塚原ト伝は、馬がどんなに素早く蹴っても、それを避けるだけの早さは、十分にもっているが、横町へ廻ってしまったし、信綱は一人の乱暴人を捕えるのに、頭まで剃ったと、前に書いたが、この態度と、この「天錐高距」とは十分に一致している。
「天高錐も距し、地厚しと難も踏み荒さず」この一語と武蔵の「独行道十九ヶ条」とを較べると、比較にならぬ高い心境を、この言葉の中に見出すことができる。武蔵が、死際にたって、自らの道として「吾は恋愛の心なし」とか「財宝をためる心なし」とか、下らなすぎることを得々として書いているのに対して、信綱のこうした彼の信仰している言葉は、どうであろう。
 言継卿が激賞し、日本最初の剣法天覧となり、柳生宗巌が直ちに師事し、丸目蔵人がすぐ入門したのは、信綱の剣の精妙であったのと共に、この人格の力も具っているであろう。宗巌と試合をして
「それでは悪し」
と、云って打ち、
「それではとる」
とて、取っている態度と、武蔵が、吉岡家の年少なる又七郎をまで討取っている無情さとを較べると、ここに、人格の差の、可成り遠いということがわかる。人に勝って、己の強さを誇示しようとする人間と、格段の技倆の差をもっていて、大人が子供に教えるような態度と、ここに、比較にならぬ両者の差と、その腕とがうかがえる。武蔵如きは総ての人に勝てるか、勝てぬかわからぬから、試合をしては、必死の戦をしたが、信綱如き境地、力量になると、ことごとく対手は子供である。
 中条流の剣法をもって、近畿第一と称された柳生宗巌を子供扱いし(信綱の弟子の疋田文五郎が猶宗巌を子供扱いにしている点を見なくてはならぬ。その疋田の、信綱は師であるから、その強さの度が知れない)九州第一の丸目蔵人を弟子入させ、松田織部介(松田新陰流の流祖)奥山久賀斎、西一頓、小笠原源信斎、針ヶ谷夕雲、小田切一雲、神谷伝心斎、幕屋大休、高橋直翁、挾川新三郎と、剣豪を輩出させ、日本剣法の中枢となって、今日にまで及んでいる上泉信綱を、武蔵の下に置くなど、その誤りのいかに大きいかは、大略わかったであろうとおもう。
 こういう人であるから、木刀をもって、稽古するのは、危くて、本当に打てないから、竹刀を作った。「鞭挽」である。今の竹刀とちがって、三四十に細かくわった竹を皮の袋へ入れて、三尺三寸の長さにしたのである。
 当時のほかの剣法は、ことごとく木刀か、刃引の真剣であるから、当ると疵をする。それで当てぬように額の所へ一寸なり、二寸なりの手前で止めるのである。修練すると、これが、だんだん近くなって、止まるようになるので、近ければ近いほど「よくつめた」と云って称めたものである。初心の間は、型ばかりで上手になってようようこれである。だから、本物に、力をこめて、人を撲る稽古ができない。この不便さに対して上泉信綱が「袋竹刀」を使い出したのである。今日の竹刀の元祖で、この一点だけでも、その頭のよさがわかる。
 ほかの流が、人を斬ったり、殺したりしている時代に、信綱は、これだけの発明をしたし、剣を学ぶのは己の勇を誇るのではないという教訓の下に、例えば、
    敬白起請文之事
 一、新陰流不可交他流箏
 一、無許条始参学太刀不可有他名事
 一、対師匠不可有疎意事
  天正十七年二月二十三日       秀次
    疋田文五郎殿
と、残っているように、他流との試合を禁じた。勿論、濫りに人命を損じ、下らなく命を捨てる馬鹿らしさを、信綱は、戒しめるためであった。
 当時の乱世に、こうした覚悟、信条、哲学をもっている人が他にあるであろうか。だからこそ、日本中に新陰流が弘まり、末永く流派がつづいたので、本当の剣術は、こうした哲人からでなくては生れない。五十余にもなって、料理番を叩き倒した上に、その腕を折るような無慈悲な人間の武蔵からは、決して、いい剣法は生じない、武蔵一代にして終ったのは当り前である。

新陰流目録

 目録というものを知らない人のために、及び、新陰流の組織を知るために、上泉信綱から、疋田文五郎に伝えられた伝書を、左に記しておく。
  新陰之流、猿飛目録
    一、猿飛(陰流にもあり)
    一、猿廻し(陰流と同一ならん)
    一、小陰(以下も師伝のみたらん)
    一、月影
    一、浮船
    一、浦波

  新陰三学之巻
    一、覧行(信綱の工夫ならん)
    一、松風
    一、花車
    一、長短一味
    一、徹底
    一、磯波

  新陰位詰之日録
    一、高波
    一、逆風
    一、岩砕
    一、残心
    一、清月
    一、眼勝

  天狗書秘伝之巻
    一、乱勝
    一、鈎極
    一、雲戴
    一、電光
  手留、曲勝、曲勢、手縛、乱勝

  新陰流護頂
  極意之巻
    三光之利剣
    新陰流紅葉
  観念之巻
    八所目着並に、先持後拍子之事
  外之物謀略之巻
    三十三ヶ条
 この目録は、数種現在まで伝えられている。
 現在の、武徳会流は、居合五本、型十本位であるが新陰流は、可成りに種類が多い。これが、どういう技巧かはわからないが、とにかく、これだけの種類の変った剣術の型を、信綱は編出しているのである。殆ど伝えられる物の無かった時代に、愛州小七郎からの剣法を基礎として、ここまで、組織したという功績は、剣法の祖と称して、少しも不当ではない。

その門人の傑物

 信綱は、京都におったが、京都、大和などを、疋田文五郎に任せておいて、己は、神後伊豆一人を供として、諸国を巡り、下総結城正勝へも剣を教えた。それから、柳生へ戻ってきて、天正五年、柳生の荘で、病臥してしまった。
 弟主水が、三千石で召抱えられた信綱、もし、信綱が秀次のいうまま、足利義輝のいうまま、仕えたら、一万石以下ではなかったであろう。一代の名将、武田信玄が、他家へ仕えるなら自分の許しを得てからにせよ、と惜しんだ信綱。その信玄が死んでも、誰にも仕え無いで、柳生で一生を、剣道を弘めるのに尽力して死んだ信綱。ここにも、立派な人格の閃きがある。武蔵が黒田に仕えんとして断られたのと、その卑しさ、高さの比はどうであろう。
 武蔵には、勝れた門人一人さえ居ないが、信綱門下には、いかに、傑出した人材が多いか。
 神後伊豆 …義輝及び秀次への代稽古。
 丸目蔵人佐 …体捨流、肥後球磨郡八吉の人。相良家へ仕え、卜伝に学び、九州第一と称せらる。信綱に試合を乞う。信綱、袋竹刀を出すに、丸目あざ笑う。立合って、再度破れ、三度目、丸目いらって、声もかけず打ちかかるを、信綱体に当て、丸目を倒す。丸目、感じ入り門人となり、九州に帰りて後、九州体捨流にて風靡す。寛永十一年九十三歳にて死す。
 体捨、たい捨、大捨とかく。これには一説がある。それは、丸目が九州へ戻っているうちに、信綱が死んだので、その神妙剣以上の極意を譲づてもらえなかったのを口惜しがり大いに捨つと名づけたというのである。信じていいか、わるいかわからぬ。

 松田織部介 …戒重肥後守の臣。三好党にして信長に亡ぽされた時、それが柳生の案内であった故をもって柳生を怨み、後日、宗巌のことを、信長に密訴し、ために、宗巌所領を没収さる。後家康により回復し、松田を捕え、斬る。これが、松田新陰流の始祖で、この人の主人、幕屋も、一流に達したが、幕屋新陰流とは、それのことである。「薬は外郎、剣術は幕屋」と称されて、子守唄に唄っている達人はこの幕屋大休のことである。
 奥山休賀斎 …奥平出羽守員久の七男、孫次郎定国と称す。三河国奥の山明神に参じ、夢に太刀を会得す。人呼んで奥の山休賀という、徳川家康の剣法の師として、公の一字を頂き、奥平休賀斎公重と称し、三階松の紋を許さる。剃髪して音寿斎、慶長六年、七十七歳にて逝く。
 疋田文五郎景兼 …信綱の甥。家康、信綱に、仕官をすすめし時、信綱辞し、疋田と、柳生をすすむ。家康、柳生をとり、疋田秀次に仕う。秀次、疋田に、富田流の名手、長谷川宗喜と試合せんことを望む。疋田辞す。人々曰く「疋田憶せり」と。再三命ずれど「兵法は遊戯に非ず」とて行なわず。
 この疋田が、殺生関白の命をも奉ぜず、人々の批判に耳をかさず、頑として、信綱の教えを守っているのは、中々えらいものである。秀次のことであるから、怒ったであろうが、どういわれても動かぬところは、尋常の人ではない。
 慶長十年死す。池田家、寺沢家、黒田家に門人多し後細川忠利に仕え、その流、明治初年まで、熊本、久留米、唐沢にて行わる。
 この外に、西一頓、那阿弥在一門がいるし、前に書いた小笠原源信斎は高天神城主の弟で、家康に反しために支那へまで逃れて行った人。支那から戻る時「八寸のべ金の術」を発明し、疋田と立合って、疋田を破った人で、この人が、新陰流の三代目をついだ人である(二代目は、奥平公重)。
 四代目が、剣術を、十五流に亘って、研究し、遂に新陰流を第一として、小笠原源信斎の門へ入った神谷伝心斎頼春。六十七歳の時に、「剣術の勝負は、外逆乱心の業である。剣術の根元は心の非を切る所にある」
と悟って、直心陰流と、流名を改め、極意を「非切」と称したが、この人も、よく信綱の心を得ている。
 この門人に、三十三人の傑出したのがいたが、その中から、高橋弾正左衛門重治が、統をつぎ、直心正統流と称した。この人の、
  兵法は立たざるさきの勝にして 身は松島の松の色かな
という歌は、流の極意を示したものとして有名である。同じ小笠原源信斎に針ヶ谷夕雲がいる。所謂「無住心剣」の創始者で、ただ上段の手一手をしか教えない。この人のことについては、詳しく紹介する折があろう。剣術は己を殺すか、人を殺すかの時にしか使わないのだから、上段に振りかぶって一打ちに、対手を斬りさえすればいい。白分だけが助かろうとするからいろいろの技が必要になるという理論の下に、ただ一手、上段のみを稽古させた。
 ある浪人が、先生の竹刀は鉄兜をも破るというが、私が兜をつけるから、打って見なさいと、夕雲が断っても聞かぬので、一打ちすると、浪人は木の下まで歩いて行って、そこで血を吐いた。こういう腕の人である。
 以下、長沼国郷から、男谷下総守に至るまで、いかなる時代といえども、新陰流には、必ず名人が出ている、しかも、これは、新陰流の正統のみで新陰から生れた柳生流、その他の流儀に至っては無数にある。
 いかに、新陰流が、優れた流であったかが、これでわかるであろう。
 日本の剣道は、天真正伝神道流と、一刀流と、新陰流とを、三大源流とするが、その中でも、新陰が優れている。この、多くの名人の輩出し、長く伝えられるだけの価値ある剣道を創出した上泉信綱を、以上の如き事蹟によって、日本一と称するのは、研究不足のせいであろうか。
 私は、種々の剣客伝を渉猟し、剣法書を読み、公平に考えて、宮本武蔵など、信綱に比べると、二流の人てあると信じるのである。信綱は、芝居にもならず、講談にもならず、花々しい事蹟が無いからこそ、俗書に残らず俗耳になじまず、人々は余りに知らないが、武蔵以外の武人のことを調べずして、彼を日本一とするが如きは、甚だしき不公平でもあり、不研究でもある。
 以上の私の評論に対して、異議があるなら、いつでも論争を辞さない。私は、再度、中村孝也氏及び笹川臨風氏という歴史の大家に対して、彼等の宮本武蔵日本一論をやっつけて、挑戦しているが、一言の挨拶もない。笹川氏の如きは伊藤痴遊氏に対しては、すぐ反駁をしておられたが、私の信綱、武蔵比較論は、数ヶ月を経るも、何の返答もない。改めて、ここに、もう一度、挑戦しておく。私の小論がとるに足らぬものなら、それでもいいから、両先生のとるに足る、武蔵日本一論と、信綱否定論とを聞きたい。もし、私以上に詳細な研究もしていないで、武蔵日本一説を説かれるなら、その非学者的態度に対して、反省をして頂きたい。歴史の大家にして、その研究不足を知らずに、平然として偽説をとっておられるのは、甚だしく、世を誤る物である。


(『網迫HP』で公開されている未校正OCRデータを元に作成しました)

(七)

剣法夜話

直木三十五著
その七

剣法二題

寛永武道鑑

 桜井半兵衛は、門弟に稽古をつけながら「何故、助太刀を、このわしが、しなくてはならぬのか?と、その理由を、考えていた。
 烈しく突き出して来る門弟の槍先を、流石に、修練した神経で反射的に避けながら、声だけは大きく、「とう」と、懸けはしたが、何時ものような、鋭さがない。門弟が、(病気かしら)と、疑うまでに、無くなっていた。そして、羽目板の所に立ったり、坐ったりしながら、囁き合ったり、汗をふいたりしている門弟をみても、(わしのことを噂しているのではないか)とか、(わしを、非難しているのでは、あるまいかしら)とか、考えるようになった。そして、そうした疑いを、門弟にさえも持つようになった自分の心の卑しさを、(意気地無しが…)と、自分で、叱りながら。然し、では、どうしていいのか、それは判らなかった。
(河合又五郎の妹の婿ゆえ、助太刀に出なくてはならぬ。何故かなら、縁も無い旗本が、あれだけ援助しているのに、縁につながる者が、出ぬ筈は無い。尤もらしい言葉だ。然し、又五郎の殺したのは、数馬の弟の源太夫では無いか?弟の仇を討つ―そういう法は無い筈だ。もし荒木と、数馬とが、その法を無視して、叉五郎を討つなら、濫りに、私闘を行った罪として、処分されたくてはならぬし、この明白なことを知りながら、助太刀に出たわしも処分されなくてはならぬ。そうした場合、主君に対して、どうして、申訳が立つか?)
 美濃国、戸田左門氏鉄の、槍術指南役として、二百石を頂いている半兵衛であった。
 旗本と、池田との大争いとたって、池田公が、急死し、叉五郎が、江戸を追われたと、世間へ噂の立った時、家中の人々は、
「半兵衛が、助太刀に出るだろうか」
「そりゃ旗本に対しても、出ずばなるまい。他人の旗本でさえ、あれまでにしたものを、助太刀にも出ずして、むざむざ又五郎を討たれては、武士の一分が、立たぬではないか?」
と云った。だが、氏鉄や、その外の、重臣は、
「濫りに出るべき場合ではない」
と、云ったし、家老は半兵衛を呼んで、
「あの事件が、ただの仇討とか、上意討とかなら、助太刀に出ようと、出まいと、何んでも無いが、御老中まで、持て余されて、池田公を、毒殺したとか、せんとかの噂さえ立っている事件だ。幕府が、こうして、すっかり手を焼いているのに、無事に納めようとしているのに、濫りに助太刀などに出て、ことを大きくしては、上に対して、恐れがある。いかなることが当家へふりかかってくるか知らぬ。よいか、ここの分別が大事ゆえ、家中の者が何と申そうと、助太刀などは致さぬよう、とくと、申付けておくぞ」と、申渡した。だが、半兵衛は、自分に対する、家中の噂を聞くと、稽古の時にまで、考えなくてはならなかった。

 城中の、広庭の隅に設けてある稽古場へ行って、重役の人々に、一手二手の稽古をつけて、夜詰の衆の溜り前の廊下へかかってくると、
「荒木が、御前試合の中へ加わったというのは…そんなにいい腕かのう」
 一人が、腕組したまま、柱に兜りかかって大きい声で話していた。半兵衛は、その言葉が、耳に入ると共に、うるささと、軽い憤りとが起ってきた。(家中の奴等は、わし一人を、いじめている)
と、いう風に感じた。そして、開いている襖から、顔を出して、
「お揃いだな」
と、少し、蒼白くたった額をして、中へ入った。人々は半兵衛を見上げて、暫く黙ったが、一人が半兵衛が坐ると同時に、
「お聞きしたいが」
と、膝を向けた。
「何を~」
「将軍家御前試合に、荒木又右衛門が加わったと申すが、何故、荒木の如き、田舎侍が、歴々の中へ加わったので御座ろうか?是水軒にしても、一伝斎にしても、一心斎にしても、天下高名な剣客であるのに、郡山藩の師範として、高々二百石位の荒木が、何故、この尊い試合に加えられたか、合点が行かぬ」
「腕が優れているからであろう」
と、一人が云った。半兵衛が、
「それも、そうだが、荒木は、柳生宗矩殿の弟子として、又右衛門という但馬守殿の通称を、譲られた位の愛弟子ゆえと、今一つは、例の河合又五郎の一件に助太刀をしてもおるし、一期の晴れの場所ゆえ、一生の思い出として、荒木も出たかろうし、但馬殿も、出したかったのであろう」
「成る程、そういう事情があるかもしれぬ。対手は、宮本武蔵の伜八五郎だというが、これは使い手で御座ろうか」
「武蔵が、好んで、養子にした者なら、申すに及ぶまい」
「では、勝負は?」
「それは判らぬ」
「二百石なら、貴殿も、二百石で、大した相違が、禄高から申せば無い訳だが、矢張り、ちがうものかの。甚だぶしつけだが、もし、荒木と立合えば、貴殿との勝負は?」
 半兵衛は、固い微笑をして、
「時の運」
と、一言云った。人々は、余りに、ぶしつけな質問をしたのに、興をさまして黙っていると、半兵衛が、
「檎をとれば、大言ながら、合打ちにまでは勝負しよう」
そう云うと、立上った。問うた者が、周章てて、
「桜井氏、御立腹なさらぬよう!」
と、叫んだが、もう、半兵衛は廊へ出てしまっていた。(同じ二百石。荒木と、わしと…だが、荒木は御前試合に出て、剣士一代の晴れの勝負をしたし、わしはこの田舎で、一生田舎武士の師範で朽ちるのだ)
 そう思うと、堪らなく、不快になり、歩いている左右の家々も、樹々も、空気も、岐阜の一切が嫌になってきた。(又五郎のことなど、どうでもよい。荒木と、わしとを較べて、わしがそんなに、劣っているか、どうか。自慢をするのでは無いが、わしも、一流を究めているつもりだ。荒木も、勿論達人であろうが、その技の差は、紙一重…討つにしても、討たれるにしても、むざと、負けぬだけの自信はある。又五郎に、助太刀するとか、せんとかは、二の次の話だ。二百石と、二百石。同じ石高で、一方は将軍の前に、その剣技を見せ…わしは…わしは、その試合に選ばれもせぬに、荒木と同じ禄を頂戴している―意地悪く見れは、殿を欺いているものだ。禄盗人だ。よし、わしは荒木より、そんなに、腕が劣っているか、いないか、荒木と勝負してみよう。武を人に教える者として、今の一言は、聞きずてにならぬ。討たれたなら、それは、二百石の腕もないのに、二百石を頂戴していた罰が当ったのだ。討てば…?)
 戸田の家中で、槍をとっては、霞の半兵衛と、渾名されている桜井であった。(討たれても、わしは、見苦しくは、負けまい。立派に勝負して、御前試合へ出た者のみが強いか、出ぬ者でも強いか。天下には、わし以外にも、こんな噂をされて、口惜しがっている師範役が、多いであろう。その人々のためにも、わしは、叉五郎に助太刀してやろう。いいや、助太刀をするのでは無い。荒木と勝負をするのだ。同じ二百石同士の腕を競べるのだ)
 もう暮れかかろうとする町の中を、冬の初めとて、金華山から、山嵐の吹いてくる中を邸の方へ、急いだ。(妻が不憫だが、仕方が無い。武士の意地だ。これこそ、ほんとうの、武士の意地だ…人には云えぬ、半兵衛一人だけの、だが、我慢のできぬ意地だ)
 半兵衛の、頭の中は、熱を持っていた。我慢のしきれぬ、不快な力が、身体中に、温れてきていた。(明朝にでも、立ちたい。一刻も、我慢がならぬ)と、感じた。だが、邸の門が、黒々と見えると共に(女房が、驚くであろうな)と、思って、胸の中に、固くつかえてくる物のあるのを感じた。

 女房の、里恵は、黄昏近いほの明りの縁側に出て、何か縫物をしていた。玄関に、夫を出迎える召使の声を聞いて、縫物を、押入れへ入れて、廊下へ出ようとすると、もうそこに、夫の姿があった。
「お帰り遊ばしませ」
 里恵は、こう云って、ちらっと夫の顔を見たが、夫の表情は、いつもの日と、同じようであった。(今日もよかった)
 里恵は、夫の性質を知っているだけに、何時、助太刀に立とうと云い出すか知れないのを恐れもし、諦らめてもいた。諦らめ切れぬ思いを、諦らめようとして夫の周囲に立った噂を聞いた日から、半兵衛と同じように。いいや、半兵衛以上に、心の中で、夫と別れる時のことを考えては、苦しんでいた。
 その別れは、生別であり、死別であった。戸田の家中の使い手として、海道にも響いている夫が、又五郎の妹婿であるというだけで、自分につながる縁というだけで、生死の判らぬ旅へ出て…。
 里恵は、又五郎を兄としていたが、好ましい兄だとは、思っていなかった。里恵にとって、兄と夫との比較は、他人と、自分との比較と同じようなものであった。ただ一人の男の子として、父母に可愛がられていた我儘な兄、三人の女姉妹の中の子として、一番誰よりも、うとんぜられていて、早く出て行け、と云わんばかりにして、半兵衛の所へ嫁がされた記憶。
 いろいろのことを想い出しても、女姉妹同士には、いくらかの親しみを感じたが、兄の又五郎には、何も感じなかった…というよりも、源太夫を殺して逃げた、刀の鞘を置忘れて逃げた、という話を聞いた時には、夫の前で、口も利けなかった。世間の夫なら、
「やくざの兄だの」
と、不機嫌な顔の一つもするところを、半兵衛は、
「舟遊びに参ろうか」
と、里恵の心を察して、気晴しに連れて行って、何一つ、又五郎のことを口にしなかった夫。
 その夫が兄のために、助太刀をしなくてはならぬ…と、家中の人々の噂は、里恵に、二重の苦しみを与えた。夫と別れる悲しさ、そうして、そんな兄のために、そんなことをしなくてはならぬ侍の義理と、又五郎の妹という苦しさ。(きっと、夫は、助太刀に行くであろう)
 里恵は、(自分にからまる義理。それは、どんなこと!自分は兄を兄と思っていないし、助太刀どころか、兄の首を討って、夫の手柄になるたら、兄を討ってもいい、とさえ考えているのに、その妹に、義理が、からまるとは?妾は、そんな義理など、少しも考えていないのに―そんなことのために、夫が妾へ、義理を立てる!それは、世問体もあろうが、世間体、武士の義理。そんなものが、そんなものが)
 里恵は、兄の叉五郎が、好ましい男なら、自分から夫に、助太刀をしてやって下さいと、云えたが、それさえ云いたくない兄への反感。それに、その妹への義理立てをしなくてはならぬという世間。(何という、訳の判らない世間であろう?)
 里恵は、そう考えていたが…だが、武士の娘であった。いや、半兵衛の女房であった。彼女は、家中に対する夫の面目のために、いつでも、発足できるよう新しい旅支度を調えながら…だが、泣いていた。

「里恵」
そう云った夫の眼、夫の口調、それから、その正しい坐り方に、里恵は、(日は?)
と、そう思っただけで、もう胸の中が、固くなってしまった。
「又五郎殿の、助太刀に出る」
 里恵は俯いた。
「兼々、家中の噂を存じておろう。然し、わしは、噂によって、噂に押されて、嫌々ながら、助太刀に出るのでは無い。形は、助太刀であるが、心は、荒木又右衛門たる者と一手合したいからじゃ。お前にだけは、打開けておくが、荒木も、郡山で二百石、わしも二百石。その荒木が、今度存じておろう。将軍家の御前試合に出た。同じ二百石でありながら、将軍家の前へ出られるのと、出られぬのと、どんな違いがあるか。それを天下に示したい。又五郎への助太刀は、士道の表向の意地立てだけだ、わしは気が進まぬし、断わる口実は立派にある。ただ、形だけのことで、わしは出たくも無いのに、家中の虫けらに、評判されたからとて出て行くほどの小心者でも無い。然し、同じ二百石でも、御前試合へ出る二百石と、出ない二百石とは、格段の相違があろうと云われたのは心外だ。殿に対して、わしは、わしの値打を示さぬと、二度と、この二百石は頂戴しかねる。それに、今出ぬと、半兵衛め、あれ見よ。荒木が御前試合に出るくらい強いから、同じ二百石取りでありながら、怯じ気がついて出ないのであろうと云われるのも、無念だ。わしからすすんで…誰か、何と申そうとも、今度は出る。覚悟をしてくれ」
 里恵は、すぐ、涙の落ちそうにたる眼を伏せたまま、黙って立上ると、押入れの襖を開けた。そして、一包みの物を持ち出してきて、
「旅支度でござります」
と、いうと、はらはらと、涙が落ちた。
「兄への助太刀のためと仰っしゃれば、一度はお止め致す所存でござりました。たれど、妾の覚悟を示すためとしては、これ、この通り、ちゃんと…」
と、云って、風呂敷を開くと、合羽、脚絆、道中服が揃えてあった。
「いつ、御出立になりますか、と、そればかり、毎日毎日」
 半兵衛は、妻の涙を、じっと見つめていた。
「お帰りの時のお顔色、お出ましの時のお顔色、そればかりを見ておりまして、御留守の間には、旅支度を只今も、これにて、腹巻を縫うておりましたが、未練ながら、これが、今生での、お別れになるかと思いますと、生きているのも果敢なく覚えますが、然し、武士の妻として、いつでも、御出立出来るように、用意は」
と云って、真綿入りの肌禰神、差子の股引、それから立って行って、腹巻に、お守札の縫い込んだのを出してきて、
「首尾よく、荒木に、お打勝ち下されますよう、又々」
 里恵の声は顛えて、屑は痙簗していた。
「時の運にて、御不利になりましょうと、背に傷を受けず、御立派に」
と、まで言うと、しゃくり上げて、袖の中へ、顔を包んでしまった。離れ難い、愛着の心を、武士の妻として、立派に処置している若い里恵の泣いている姿をみると、半兵衛は何故かしら、又五郎が憎くて、耐らなくなってきた。
「己が、人殺しをしておいて、己の命を助かりたさにこの罪も無い妹を、こんな目に逢せ、わしをも、生死の境に置いて」
と、思うと、明かに、形の上に於て助けに行、又五郎であるのに、心の中では軽蔑し、憤った。そして、(わしは、わしのために、行くのだ。叉五郎のためにでは無いぞ。誰が、汝等如き、卑怯者を、援けるものか)と、思った。
 いつ、どこで、敵に逢い、討つか、討たれるか判らない夫の身の上であった。

 仏壇には、いつも、灯が新しく、そして、蔭膳が美しく…ただ、その中に一つ、気味の悪いのは、薄絹の上の紙の中にある、髪の切ったものであった。
「御家様、内山様が、お見えなされました」
「まー」
 里恵は、家老の来訪と聞いて、周章てて、客間の用意をさせていると、
「いや、かもうな、かもうな」
と、もう廊下に声がして、内山が、入ってきた。そして、
「おお」
と、笑った。里恵が、両手を突いて、挨拶しかけると、
「忙がしいゆえ、そのまま、そのまま」
と、云って、立ったままで、庭を見ながら、
「よい話を、知らせにきた。実はの」
「はい」
 手を突いたまま、顔を上げると、「城下へ、荒木又右衛門が、数馬同道で、参ったのじゃ」
「ええ?」
 里恵は、顔色をかえた。
「茶店で、或は、宿で、いろいろと、半兵衛のことを聞きただして、すぐ、発足したらしいが、宿の者の話によると、余程、荒木も、半兵衛の槍を、恐れているらしいのじゃ。繰返し、繰返し、槍の長さとか、穂の長さとか、得手は、管槍か、素槍か、とか、いろいろ聞いて参ったそうだ。江戸よりの下り道であろう。半兵衛は、名代の腕ゆえ、荒木も、穿繋に参ったものであろうが、御前試合にて、宮本八五郎と、合打ちになったほどの勇士が、心得とは申しながら、半兵衛のことを、訊ねに参ったとは、武士の誉れじゃ。半兵衛がおったなら、一試合させるものを、周章てて、立去ったと申すが…」
「荒木様と、どうして、お判りに」
「数馬が、古今の美男であるし、すぐ、判って、あとを追うたが、もう、足が届かなんだ。荒木ほどの者が用心しておるのだから、半兵衛も、名誉なことじや。一人で、淋しかろうが、落胆せずに、待っておるがよい。これだけじゃ」
「あの、お茶一つ」
 内山の後姿へ、声をかけたが、内山は、
「又、又」
と、手をあげて、どんどん廊下を、玄関へ出てしまった。里恵は、式台の上で内山を見送ってしまうと、(荒木ほどの者が、と…それは、明かに、夫より、荒木を豪いと考えている言葉だ。夫は、それを憤って出て行ったのだが…)
と、思うと、里恵は、家老に腹が立ってきた。(いいことを知らせるとは、夫よりも、荒木がえらい、ということを知らせることでは御座りませぬ…でも、荒木様は夫のことを、訊ねに…)
と、夫の噂を聞いて、大敵とおもい、様子を尋ねに来た又右衛門のことを考えると、夫を殺す敵だと、思うよりも、夫を理解し、知っていてくれる人だと感じて、何かしら、親しみさえ感じてきた。

 又五郎は、奈良手貝、河合甚左衛門の仮宅に、身を寄せていた。
 江戸から、広島へ、広島から、大阪、奈良へと、己の身体を匿すのに忙がしかった又五郎は、すっかり、陽に灼けて、旅婁れがしていた。半兵衛には、それが可哀そうに見えるよりも、意気地無しのように見えた。そして、それは、又五郎の叔父の、甚左衛門も、同じことであった。甚左衛門は、半兵衛が、知行を捨てて、加勢に来てくれたのを見て、又五郎に、
「貴様、のめのめして逃げ廻るから、皆が、迷惑する」
と、笑いながら云った。そして、
「旗本への手前―旗本か、あれだけ援けて、かばってくれた手前、易々と、池田の者へ首は渡せんから、匿くれるのも尤もだが、然し、逃げ廻ったのは、面白うない。河合又五郎宿泊と、立札でも建てて、もし、池田の者でも、斬り込んだなら、よし、討たれるにせよ、一働き働いて死ぬなら、武名は、後世に残るが、此奴には、その覚悟がない」
「死ぬよりは、生きている方が、おもしろいからなあ。又五郎。近頃の若い士は、武士の面目ということよりも、金と、女と、長生きということの方を尊ぶようになった。時勢らしい」
と、半兵衛が笑った。そして、
「河合殿と、荒木とは、御同藩だが、荒木は、どういう腕、人物」
「彼奴、但馬のお気に入りで、今度も、名誉な試合に出たが、腕は、さのみ、わしに優っておろうとは思わぬ。もし、今にも彼奴と逢えば、勝負は時の運と申そうか!紙一重と申そうか。必ず討つとも言えぬし、必ず討たれるとも申せぬ。人物は…まず、上出来かのう。わしよりは、当世であろうか、わしは、此奴が只一人で、江戸を追われたと聞いた時、すぐ、助太刀をしてやろうと、殿へ御暇を頂戴したが、何を考えたか、荒木という奴は、余程経たんと、お暇をとらなかった。あの間考えているだけ、わしより、分別があるのかのう。あはははは」
 又五郎が、半兵衛に、
「叔父は、古武士気質と申そうか、一徹者で、何か荒木の計にかかるように思えてならん。郡山の藩中の人間に聞いても、腕は、叔父も荒木も互角だが、人気は荒木の方が高い。その高いわけは、稽古は上手下手の手加減がある。然し、叔父には、ただ、荒稽古だけだと…」
「それでよいのだ。わしの荒稽古一つ受けられん奴が一朝事のあった時、馬前の役に立つものか?荒木の稽古で、下手が少々上達したとて、そんな稽古の剣術は、真剣の時の物の役には立たぬ、剣術とは、徒らに竹刀の末の技では無いぞ。いざと言えば、火水の中へも飛び込む肚を憧らえるものだ。お前など、その肚が一番に出来とらんぞ」
 半兵衛は、荒木の稽古振りが判るような気がした。甚左衛門は、己の腕をたのんで、敵を知ろうとしないが、荒木は、己を知り、敵をも知ろうとしていると、考えた。
「半兵衛が来た上は、こんなところに、手間どっている必要は無い。早々に、江戸へ立とう。二百石の格式通り、弓、槍を立てて、いつ荒木と出逢ってもよいようにして、白昼堂々と江戸へ入ろう。よし、討っても討たれても、それが、武士らしい態度だ。ならば、旗でも立てて、河合又五郎一行と書きたいが、そうもならんでのう、半兵衛」
 甚左衛門は、又、大きく笑った。
 馬は、霜柱を、さくさく砕いて、白い鼻煙を、長く吹いていた。長田橋の仮橋の上へきた時、

「半兵衛、待った、待った」
と、甚左衛門が、後方から、叫んだ。半兵衛が振向くと、
「寒うてならんから、一枚重ねる」
と、声をかけて、馬を停めた。半兵衛は頷いたが、(油断をしてはいけないのに)
と、思った。寒い朝であったから、誰も厚着をしていた。その上へ叉重ねては、いざという時に働けまい、と思ったが、然し、荒木の一行が、昨日から見えなかったから、半兵衛も、(寒いのは、耐えきれまい。河合も、もう四十すぎだから…)
と、思って、正面の上野の町やら、来た方の山出を、見廻していた。(武芸も四十を越すと、少し下り坂になるかな。寒さが、あれだけ身にこたえるだけ、若い時よりも衰えたのか…いいや、修業一つだろう。六十になっても、袷一枚でいる人さえあるから)
 半兵衛は、甚左衛門が相当の腕の人だとは思っていたが、その頭、その肚に於て、荒木の方が、優れていると、判断していた。そして、(わしはわし一人で戦うのだ。誰もあてにはしないぞ)
と、思うと、甚左の重ね着に、批評を加えたのも、いけないように思えた。(他人が、何をしようが、わしは、わし一人だ)そう思って、馬をそろそろ歩かせかけると、
「お待たせ申した」
と、甚左が、叫んだ。そして、
「齢をとると、寒さだけには、耐えきれん」
と、云った。
 一行の一番先には、大阪の町人、又五郎の妹婿虎屋五左衛門が馬で、その次に、半兵衛が、槍持と、下人と、小姓と三人を従えてつづき、その後方に又五郎が、供三人、最後に、甚左衛門が、同じく供三人をつれて、槍を立て、飾鉄砲に、弓矢をもち、それぞれその知行の格式で、所謂、槍一筋の家柄をみせて、上野の町小田町へかかってきた。
 突当りが、高い石垣で、その上に、家があった。右へは、すぐ塔世坂の急な坂路が町へつづき、左は、細い小路を、城の裏手へ出る道であった。
 そして、その三つ股道の左右に、鍵屋と、万屋と、二軒の茶店が、角店として、旅人を送り迎えしていた。(右角が、鎌屋であったという説もある。今そこには、新しい数馬茶店というのが出来ている)

 半兵衛が万屋の角を、右へ曲ると同時に、左側の石垣の所の木の後ろに立っていた士が、走り出してきた。白い鉢巻をしめて、袴立ちをとっていた。半兵衛が、(さては)
と思った時、後方に、鋭い気合がかかって、同時にうわっと、乱れ立った人声が、湧き起った。
「喜助っ」
と、半兵衛は、手を延して、槍持から、槍を取ろうとした。そして、槍持が、
「はい」
と、答えて、槍を半兵衛の方へ、差出そうとした刹那、
「うぬっ」
 その駆け出してきた男が、槍持へ、切りかかった。槍持が、その刀を避けたはずみ、槍の柄は、半兵衛の手から、遠去かった。
「喜助」
 半兵衛が、こう叫びつつ、後方へ、横へ眼を配ると右側の立木の間から、走ってきた士が、半兵衛へ刀を向けて、睨みながら、じりじり迫ったので、半兵衛は、槍に心を取られたまま、馬から飛び降りて、刀を抜くと、槍持に、
「槍を、早く」
と、叫びつつ、迫る士に、刀を構えた。そして、(荒木は、甚左と戦っているのであろう。甚左も、むざむざと討たれはすまい。然し、荒木を甚左に討たせたくは無い、わしが強いか、荒木が強いか、わしは、その勝負のために、出てきたのだ)
 半兵衛は、早く、この下人を斬って、荒木と勝負したいと思った。それで、
「下郎、推参なっ」
と、叫ぶと、じりじり刻んで行った。刀をとっても対手とは、段ちがいであった。対手は、真赤な顔をして、唇を噛んて…だが、懸声もできないで、じりじり退りながら、然し、必死の一撃を入れようと、刀の尖の上りかけた隙、半兵衛は、
「や、やっ」
 打込んで、避けさせて、すぐ二の太刀に、肩を斬ると、対手は、よろめいて、三四尺も退った。半兵衛は(槍だ。槍をとらぬと、太刀討はできない、槍だ。槍をとって…)
 甚左の方では、少しも、物音がしなくなってしまった。
(勝負がついたのか、それとも…)
と、思いながら、槍持の方を見ると、もう見物人が坂の上に、木の後方に、石垣の上に、真黒になっていた。そして、槍持は、一生懸命に、槍を振廻して、半兵衛の方へ渡そうと、対手の隙をねらっていたが、対手は、刀で、槍を叩いたり、避けて、飛び込もうとする様子をしたりして、槍持と、半兵衛との間を、妨げていた。半兵衛は、(荒木が、わしの槍を恐れて、わしに槍をとらすなと命じたのだ)と、判断した。
「卑怯者っ」
と、後方で声がした。振向くと、肩を切られて、もう、蒼白になって、尖が、ややもすると下り勝ちになってくるのを耐えながら、半兵衛に、
「逃げるか」
と、叫んで睨みつけた。そして立ち留って肩で呼吸をした。(可哀そうに…この二人が、わしを押えにかかったのだ。荒木は、上手に作戦をした。わしは、荒木の作戦にかかったのだ。今ここへ、荒木が来たなら、わしは、わしの不得手な刀で、闘わたくてはならぬ。槍だ、槍で無いと…)
 殿の名誉のために、妻の志のため、自分の武道のため…(槍をとらぬと…)と、半兵衛は、可哀そうだとおもったが、
「馬鹿っ」
と、叫んで、一刀、斬下ろしておいて、すぐ槍持と戦っている士へ、
「除かぬかっ」
と叫びつつ、血刀を振り上げた。その士が、半兵衛の方へ刀をつけ、槍持が、「旦那様」と、叫んで、槍の柄を延した時、
「半兵衛」
 声と共に、大きい足音がした。(荒木だ)
と、思うと、半兵衛は、槍の方へ、手を延した。だが、又、槍は、ほんの手先の所へ来たままで、遠去かって、槍持の手の中で、必死に振り廻されていた。
「荒木だ」
 少し、蒼白めた顔をして、上背のある荒木が、長い厚い刀を構えていた。半兵衛より、ずっと高くて、がっしりしていた。羽織もたく、鎖鉢巻をして、十分に軽い身なりであった。そしてその唇に、微かな余裕の笑をみせ、その呼吸は落ちつき、その構は十分に、その足は正確に…、半兵衛は、(天晴れだ)
と、感じると共に、槍をもって立合えないのが、腹の底から悲憤して、渉み上ってきた。(何故、この期に、槍がとれない?負けても、勝を譲ってもいいから、槍で、十分の、心ゆくまでの勝負がしたい。この大勢の見物の前で、同じ二百石同士が、御前試合へ出た荒木と、出ぬわしと、どっちが鮮かか、どっちが立派な態度か?わしが、槍術の家の者として、せめて、最後の働きには、槍で十分に試合ってみたい、槍か…)
 半兵衛は、自分に槍をとらさぬよう計った荒木に、(どうだ、噂を聞いて、恐れたのだろう)
と、云いたかったが、それは、口にすべきことでなかった。と同時に、自分の得手を封じて、不得手な刀で勝負しようとしている荒木の、武士らしくない、正直でない、策略のある態度に、怒りが生じてきた。(この見物人は、そんなことを知らんであろう。わしが、美濃の桜井半兵衛であることを知らんであろう。矢張り、剣術の者だと考えているだろう。それはちがうぞ。わしは、槍さえとれば、荒木に五分の勝負は、できるんだ。誰か荒木に、半兵衛に槍をやれ。荒木卑怯だぞ、云ってくれるものは無いかしら…いいや、そんなことを考えるのは、卑怯だ。わしの不得手な太刀で、どれだけ、荒木と戦えるか?勝敗は別としてわしが、どれだけ立派に戦ったか。それでいいのだ。わしの、立派に戦ったことが、国の人へ判るなら、半兵衛が、あの時、槍さえもっていたなら、荒木と互角だと、云ってくれるだろう。槍持が、荒木の計にのったのは、わしの運のつきるところだ。わしは、太刀で、立派に荒木と戦って、立派に、負けてやろう。武士の重んじるところは、勝敗ではない。勝負は末だ。勝負をしている時の態度だ)
 半兵衛は、青眼につけて、荒木と向い合った。そして、そのまま、お互に動かなかった。
 どの位経ったか、半兵衛には、判らなかった。呼吸が苦しくなり、汗が滲んできた。そして、荒木も、もう微笑を消して、眼を異様に光らせて…それは、可成りに、切迫している表情であった。(わしは、わしの不得手な太刀打でも、これまでに試合した。もうこれで十分だ。この大勢の見物の中には、心ある人も、眼の開いた人もあろう。誰かがこのことを、国の人々へ伝えてくれるであろう。それでいい。わしが、得手の槍で負けたのよりも、不得手な刀で、ここまで戦った方が、却っていいかも知れない)
 そう考えた時、一足退った。そして、(しまった)
と、心の中で叫んだ。何かの上へ、踵がのって滑ったからであった。そして、無意識に、荒木が、打込んでくるであろう刀を防ごうとした時、身体が崩れてよろめいた。果して、荒木は、この一髪の機を握んで打ち込んできた。半兵衛は、鍵屋の横の物置の中へうんとつんである枯松葉の中へ、どっと、倒れてしまった。

 身体中が、疹痛に灼けつくようであった。咽喉が干いて全身に熱が出て、気が時々、遠くなった。手当をし、介抱し、薬をつけ、飲ましてくれる人の顔がぽんやりとしか、見えなかった。そして半兵衛の頭も、どんよりとしていて、時々自分が槍で、荒木と戦っているのが見えた。(立派に戦ったぞ。槍でなくとも、立派に…あの枯松葉で、滑りさえしなかったら、勝負は、もっと、長くなったのだ。俺には、二度不運がつづいた。だが、十分に戦ったぞ。このことを、国許ヘ…手紙を書きたいが、誰か、話でもいいから、誰か…)
 ぽんやりしてくる頭の中で、そんなことを、思いながら、
「わしは、卑怯者でないと…」
 一人が、首を延して、口許へ耳を寄せた。
「国許へ、立派に戦ったと…」
 その人が、頷いた。
「背の傷は、倒れてから…斬られた」
「全く、あいつ卑怯な…」
と、その人が答えた。
「国許へ、半兵衛は、荒木と太刀打をしたが、立派に戦ったと!」
「しかと申しますぞ。気を落さずに」
「妻にも、半兵衛は、荒木に劣っていなかったと…」
 そう云いながら、もう、その人の顔が、だんだんぼんやりとしか見えなくなってきた。(わしは、立派に戦った。見ていた人が知ってくれよう。一人が荒木、一人が桜井と、後で判ったなら、知っている者は、わしを称めてくれるだろう。御前試合へ出ても、出なくても、心懸けある士は同じだと…妻に一目、家中の者にも詳しく話をしたいが…ここの人は、伝えてくれるかしら。又五郎の助太刀だと思って、悪く云うか…いいや、志のある人には判るだろう)
 そう思っているうちに、耳も聞えなくなってきた。(わしは、もう駄目かも知れん。然し、士として、武術家として、立派に働きもしたし、考えもした。誰かが…いいや、妻だけでも、あいつだけは、知ってくれる。それでもいい…)
 半兵衛は、灰色の中に、自分と妻と二人きりのところを見た。
 附記 伊賀越の仇討は、荒木方四人、又五郎方士分、小者ともで、合せて十一人と、藤堂家の公文書『累世記事』にも残っているし、その外俗書にも、同じであるが、一竜斎貞山(二代目)が附人を三十六人にして、これが当って以来、すっかり、この方が一般的になってしまった。この桜井半兵衛の如き、二十三歳で、立派な武士だが、本当に紹介されていないのは、遺憾である。この時荒木が斬ったのは、河合甚左衛門と、この桜井半兵衛との二人だけである。


(『網迫HP』で公開されている未校正OCRデータを元に作成しました)






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