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常山紀談巻一
常山紀談
湯浅常山著
主に上杉謙信、松平清康、忠広、太田道灌関連部分を抄録。
巻之一(一部)
『長尾輝虎越後を治められし事』
長尾輝虎のをさな名を猿松と申す。
輝虎始めは景虎といふ。後京に上られし時、公方より輝の字を賜て輝虎と称す。鎮守府将軍良兼四代の孫、左衛門尉致経(むねつね)二男村岡五郎忠通が末にて、其後長尾と称す。後管領上杉の譲りを得て上杉と称す。甲陽軍艦に梶原景時が末孫といへるは誤なり。
兄を三郎といふ、猿松あら者にて父為景の心にそむく。是継母の讒言故とぞ聞えし。かくて出家にせよとて、下越後の橡原浄安寺に追ひやられけり。金津新兵衛供して米山越にかゝる時、猿松八歳なればかちの士背にかき負て山を登り、嶺なる堂におり居て、破籠(わりご)やうのものとり出しまゐらせけり。猿松遥に頸城府内を眺やり、やゝうち涙ぐみて、我かくおちぶるゝ事こそくちをしけれ。やがて軍をおこして志をとぐるならば、此の山によぢ登り、府内を目の下に見おろすねし。しかるべき軍の地なり、といはれしかば、乳母子なる本條美作守も舌をふるひ、其詞なわすれたまひそ、と悦びけり。
一説に、為景、猿松を憎みて其伝城越前守にあづけらる。此の時十二歳、それより諸国をめぐりて風俗を見、人情を察し地の利を窺ふ、といへり。
かくて猿松、九年の間寺にあれども、僧になるべき志なし。天文十四年為景越中にて討死あり。嫡子三郎暗弱にて越後乱れ、所々を敵に掠奪れたりしかば、父の弔軍せんと思ひ立ち、宇佐美駿河守定行を語らひ、天文十六年正月十八歳にて元服し、平三景虎と名のり、橡尾の城に旗をあげられたり。三郎是を聞き、長尾越前守政景に七千の兵をそへて攻うたしむ。景虎矢倉にありて、敵は今夜引かへすべき物いろあり、といはれけるを、定行聞て、はるばると攻来り空しく退くべきや、といふ。景虎、敵に小荷駄なし。久しく囲むべき計にあらず。ひき退かん處を撃ば勝つこと疑なし、といはれければ、定行も然るべしとて夜半に打ち出る。果して政景の軍みだれたちて敗北しけり。三郎又打向ふ。景虎柿崎の下浜に陣をとり、やがて三郎を打やぶる。三郎府内をさして引退く時、景虎米山の東坂本にて、我れねむり気ざしたり。休て後追ひうたばや、とて小家に入る。定行あるべくもなし、とく追討つならば破竹の勢とは是れなるべしといへども、高いびきかきて眠られしかば、皆かゝる時を失ふ事よ、となげきあへり。やゝ有て景虎つと起あがり、三郎の軍兵山を三分の一あなたに越たりと覚ゆ。いざ追討や、とて馬にのり、螺の貝吹たてさせ、亀破坂よりおとしかけ、大に打勝れけり。定行けふ北(にぐ)るを撃べき時、そら眠せられしは、山を追上らんに敵をかさにうけなば利有べからず。敵下り坂になりて引立たるをうたんとの事なり。是老臣等が及ぶべきにあらず。ことしはわづか十八歳。弓箭をとる事、誰やの人か肩をならべなん、とぞかたりける。景虎越後を治め得て高野山に出奔せんとす。長尾家の長臣相集まり、景虎なくば國を敵に奪わるべし。いざ、とて関の山におひ行きてさまざまにとゞめければ、景虎のいはく、我年わかく威重からず。老臣等我を軽ぜば國の根本立たず。此國人の為に利を求むるは我身の害をまねくなり。是より後吾命を背くまじとならば、神文を書て得させよ。さらずばとゞまらじ、といはれけるに、もとより君と仰ぎ奉るべきなり。いかで命を叛き申べき、と申ければ、さらばとて立帰り、三郎を隠居させ、是より威をふるひ、越中に攻め入て父の弔軍とげられけり。長臣の中に二心ある者を、林泉寺といふ處にて腹切せて、國を治められけり。晩年謙信と称しぬ。
『輝虎平家を語らせて聞れし事 附佐野天徳寺の事』
輝虎ある夜石坂検校に平家をかたらせて聞かれけるに、鵺の段を聞てしきりに落涙せられけり。かたへの者どもあやしみ思ひければ、輝虎のいはく、吾國の武徳も衰へたりとおぼゆるなり。昔鳥羽院の御時、禁中に妖怪ありしに、八幡太郎鳴弦して鎮守府将軍源義家と名のりければ、妖忽消ぬ、といへり。其後頼政鵺を射たれども猶死ずして、井野隼人さし殺してとゞめたりと聞ゆ。義家鳴弦せしは天元元年の事なり。鵺の出しは近衛院仁平三年なれば、僅に四十六年なるに、武徳既におとれる事はるかなり。又今頼政におくるゝ事四百五十年、われ又頼政におとる事遠かるべければ、おぼえず涙の流るゝよ、とぞ語られける。又相似たる物語あり、附記す。相州北條の幕下佐野城主天徳寺勇将なりしに、ある時琵琶法師に平家を語らせて聞けるに、いまだ語らぬ先に、われは唯あはれなる事を聞度くこそあれ。其心得せよ、といひしに、法師承り候、とて佐々木高綱が宇治川の先陣を語り出たりしに、天徳寺雨雫と涙をながして泣たりけり。さて又、今一曲前のごとくあはれなる事を聞きたしといへば、那須與一が扇の的をかたる。半に及て天徳寺また落涙数行に及べり。後日に、側に仕へし者どもに過にし日の平家はいかゞ聞きつる、といふに、皆面白き事に覚え候。但し一つ心得ぬ事こそ候へ。二曲ともに勇気功名なる事にてあはれなるかたすこしも候はぬに、君には御感涙にむせばせられ候。今に不審なる事と申あひ候、といへば、天徳寺驚きて、只今迄は各を頼母しく思ひ候ひしが、今の一言にて力を落したるぞとよ。先佐々木が事をよく心にうかべて見られ候へ。右大将、舎弟の蒲冠者にも賜はらず、寵臣の梶原にも賜はらぬ生妾を、高綱に賜はるにあらずや。其甲斐もなく、此馬にて宇治川の先陣せずして人に先をこされなば、必ず討死してふたゝび帰るまじき暇乞して出ける、其志あはれならぬ事かは、とてしば/\涙をのごひつゝ、しばしありていひけるは、又那須與一も、人多き中より撰ばれて、只一騎陣頭に出しより、馬を海中に乗入て的にむかふに至るまで、源平両家鳴をしづめて是を見物す。もし射損じなば味方の名折たるべし、馬上にて腹かき切て海に入ん、と思ひ定めたる志を察して見られよ。弓箭とる道ほどあはれなるものはあらじ。われは毎も戦場に臨ては、高綱宗高が心にて鎗を取候ゆゑ、右の平家を聞時も両人の心を思ひやり、落涙にたへざりし。然るに各はあはれになかりしとや。思ふに各の武邊は只一旦の勇気にまかせて、真実より出るにてはなきやと思はれ候。夫にては頼母しからず、となげきけるとぞ。
『参河国伊田合戦の事』
善徳公(御諱清康安祥二郎三郎殿と世に称し申す)士卒をあはれみ、勇材おはしませしかば、人々其徳になびき従ひ奉れり。尾張国に向はせ給ひ、森山に陣せさせたまひしに、不慮の事出来て、安部弥七郎弑し奉りける。植村出羽守、未だ新太郎(一説新六郎)と申せしが、十六歳にて御側に有合せ、弥七郎をばたち所に誅してけり。御家人はせあつまりて唯あきれ居たり。植村人々に向て、御敵をば既に切て棄て候。思ひおく事もなし。腹切て御供可レ仕といふ。人々、主君のかたきたらん者をたちどころにうちし其功いふに不レ及。これに候者どもゝ、御側にだに候はゞ誰か御身におとるべき。御身一人幸に御側に有し事、これ神明の冥助とやいふべき。されば腹切て冥途の御供申さん事、また誰かは御身におとるべき。されば各其所存のごとくにふるまひて可レ然。我等は必死近きにあり。今日いたづらに腹きらんとも存ぜず、と答ふ。植村聞て、其必死は如何と問ふ。其時、抑われら必死はわづか十日を過すべからず。殿かくならせ給ひぬとかたきの方に聞えなば、弾正忠信秀軍勢をひきゐて岡崎に攻来らん。われら爰にて腹きらば、誰か若君の御為に矢の一トすぢもはか/\〃しく射出すべき。さればわれ/\が討死は此時に有りと覚ゆ。同じく死せん命、遅速は十日を隔つべし。御身が切腹をしひてとゞめんとにも非ず、といへば、植村聞て、げに理かな、さらば人々と倶に同じく討死をせん、とて岡崎に引返す。案にたがはず織田信秀、八千の兵を引率して三河の国に打入り、大樹寺に陣とりたり。此時内膳正信安も背き参らせ、上野の城に在て兵をも出さず。昨日まで属せし国人ども、多く心変したる御家人等僅に八百人、わか君に御暇乞して、一同にどつとなきさけびてこそ打出けれ。二タ手にわかちて伊田のあなたに打て出づ。此人々の義心を神明感じ給ひけん、此所に見え給ひし八幡宮の鳥居の、かたきの方に向ひて六尺余りみづから動きけるこそ、不思議といふも余りあれ。人々大に力を得て、よせ来る敵をまつほどに、此所は上は霜枯の野路はるかに、下は賤が田の面にかよふ道一トすぢあり。織田家の軍も同じく二タ手に成て、上道下道こなたに向ひてよせ来たる。八幡の宝殿の方よりして白羽の矢ふり来り、かたきの上におちかゝると見物の人の目には見えてけり。上に向ひし味方、野はひろし、真中にとりこめられ、一人ものこらず討死す。植村下道より向ひてまツさきをかく。味方僅に四百人、四千のかたきを打破り、又上道におし向ふ。野路のかたきも散々にみだれ立ち、信秀からきいのち生きて尾張国に引返す。これ伊田の合戦とて、十倍の敵に勝ちし事ためしすくなし。まして大将ましまさぬ軍して、いとけなき君をたてしこと、古今に比類有べからず、と義臣の節操を語りつたへて美談とせり。
『近江国音羽城軍の事』
文亀三年細川武蔵守政元の臣沢倉といふ者、武畧ありて近江を半切したがへけれども、蒲生下野守貞秀入道知閑、音羽の城に拠て沢倉、音羽は山城なれば水乏しからん、とて水の手をとり切たり。知閑、敵より見ゆる矢倉の前に馬どもあまた率出させ、白くしらげたる米を桶に入れ、くみかけて人々裸になりて馬を洗ふ。沢倉遥に見て、思ひの外に此城水多し。かくて久しく陣せば兵粮尽なん、とて囲を解て引退く処を、知閑案内はよくしりつ、小倉なはての要害に撃て出で、一同に切かゝり、十分の勝利を得たり。知閑は氏郷の祖父なり。
『筧平三郎功名の事』
織田備後守信秀、松平三左衛門忠倫と密に謀りて、岡崎の城を攻とらむとす。岡崎に泄聞えしかば、應政公甚いきどほらせたまひて、筧平三郎重忠を召し、上和田に往ていつはりて降参し、三左衛門を刺殺し来れ。偏に汝を頼むよ、と仰ありしかば、筧承候、とて上和田に至り、降参するよしたばかりければ、三左衛門、岡崎の士心を通ずるものあれども、筧兄弟を味方にせばや、といふ折からなれば、大に悦びて懇にもてなしにけり。かくて夜深て後、案内はよく見とゞけつ、忍びよりて賜りたる脇差を以て三左衛門がわき腹を二タ刀刺てのがれ出る。平三郎が弟助大夫正重も兄があとをしたひて上和田に至り、隍の中にかくれ居たりしが、待うけて打つれて岡崎に帰る。上和田の者ども追かくれども及ばず。應政公感状を賜はり、羽栗にて百貫たまはりぬ。天文十六年十月の事なり。慶政公は東照宮の御父なり。
一説、脇差を賜はりける時、これを以て刺殺すべし。つき貫きたる刃をぬかば必声を立べし。然らばおきあはせ、追ツかけて汝のがれ得じ。つき棄て速帰れ、と仰られしかども、賜りたる脇差をすてんこと本意に非ずと思ひ、ぬいて出ければ、果して三左衛門声をあげ、人を呼ける故、各起合て追かくれども、とく逃れ得て帰るといへり。又一説に、平三郎は忠倫が平安城長吉の刀をとり得て帰り、忠倫を刺殺せししるしと申せしかば、即其刀を平三郎に賜はりけるともいへり。
『太田持資歌道に志す事』
太田左衛門大夫持資は上杉宣政の長臣なり。鷹狩に出て雨に遭ひ、ある小屋に入て蓑をからんといふに、わかき女の何とも物をばいはずして、山ぶきの花一枝折て出しければ、花を求るに非ず、とて怒て帰りしに、是を聞し人の、それは、
- 七重八重花はさけどもやまぶきの みのひとつだになきぞ悲しき
といふ古歌のこゝろなるべし、といふ。持資おどろきてそれより歌に志をよせけり。宣政下総の庁南に軍を出す時、山涯の海辺を辿るに、山ノ上より弩を射かけられんや、又潮満たらんやはかりがたし、とてあやぶみける。折ふし夜半の事なり。持資、いざわれ見来らんとて馬を馳せ出し、やがて帰りて、潮は干たりといふ。いかにしてしりたるや、と問ふに、
- 遠くなり近くなるみの浜千鳥 鳴音に潮のみちひをぞしる
とよめる歌あり。千鳥の声遠く聞えつ、といひけり。又何れの時にや、軍をかへす時、是も夜の事なりしに、利根川をわたさんとするに、くらさはくらし浅瀬もしらず。持資又、
- そこひなき淵やはさわぐ山川の 浅き瀬にこそあだ波はたて
といふ歌あり。波音あらき所をわたせ、といひて事なく渡しけり。持資後に道灌と称す。
雪玉実隆の歌に、
- 雨にきるみのなしとてや山吹の 露にぬるゝは心つかじを
抄中後拾遺和歌集云、小倉の家に住侍るころ、雨ふり侍りける日、みのかる人の侍りければ、山吹の枝を折てとらせて侍りけり。心もえでまかり過て、又の日山吹心得ざるよしいひおこせて侍りける返しにいひ遣しける。兼明親王、
- 七重八重はなはさけども山吹の みのひとつだになきぞあやしき ○かなしきイニアル歟
『持資京に上りし時の事 附かゝるときの歌の沙汰』
持資京に上りしとき、慈照院殿(義政)饗応せんとなり。慈照院殿に一ツの猿あり。見しらぬ人をば必ずかき傷ふといふ事を持資聞て、猿つかひに賄して猿をかり旅亭の庭につなぎ、出仕の装束して側を過るに、猿飛かゝるを鞭を以て思ふさまにたゝき伏たれば、後には猿首をたれて恐れ居たり。持資猿つかひの人に礼謝して猿をかへしたり。かくて慈照院殿かの猿を通るべき所につなぎおきて、持資が狼狽するを見んと侍れけるに、持資をかの猿見るとひとしく地に平伏す。持資衣紋ひきつくろひ打過ぎたりければ、唯人に非ず、と大に驚かれたるとなり。彼猿を繋ぎたる戸を猿戸といふ。其より猿戸といふ名はおこれるとなり。
道灌は讒言によりて殺されたり。文明十八年七月廿六日なり。辞世の歌とて世に云伝ふる、
- かゝる時さこそ命のをしからめ かねてなき身と思ひしらずば
松田が家の物語にもかくしるしたり。道灌の和歌の集に見えしは、戦士をいたみし詞にて、康正元年の冬藤沢の役に至り、敵も味方も入まじり、三日をかさねていどみあらそふ事に成ぬ、されどもやかたの武威つようして北條憲定のぬし終に自腹して、餘兵おのが志空しうなり、あるはあたにあたりてかたみに死するも侍りしとき、藤沢のかたへの松原のむれにてたゝかふ男ありしに、味方中村治部少輔藤原重顕とて、京家の人の世にしづみてやかたに扶持せられて侍りしになん。敵の男はくりけなる駒にのりて、二つびき輪のぼり龍の紋付けたるさし物なりけり。遠目ながらよろひいかめしく見えける。しばしたゝかうて鎗をあはせしに、目の前に敵の男つきとめられ、やがて中村が手づから首をとりて、我陣に来りてかう/\なんとかたりけるに、いまだ壮年にもたらぬ男の色しろくしてたけ高かるべき心持して、鬢のあたりたゞならずたきしめつゝ哀もいやまし、あたながらにくからぬおも影なり。中村重顕此こゝろばへのやさしき歌ひとつ物して手向にとすゝめければ、其首にむかひて、かゝるとき云々と見えたれば、松田物語并ニ世に伝ふる所は誤なり。
『輝虎私市城を攻られし事』
輝虎武蔵の私市の城をかこまれし時、此城は後に大なる沼有て堅固の地なり。本丸を外より見ゆるやうに築たりけるを、打巡り見られしに、本丸より二の廓にうつる廊下の橋、すのこにて作りたるに、地白のかたびらきたる人の影、水にうつろひ見えけり。地白のかたびらといふは、地を白くもんを黒く染めたる物にて、其比女の多く著たる物とぞ。輝虎是を見る事三度に及べり。かゝれば本丸には人質の女童をこめおきつると察し、やがて柿崎和泉に下知して大手を攻させられけり。城中あはや唯今攻らるゝといふほどに、われ先にと防ける。其ひまに近きあたりの民屋を壊ち、筏にくみて後の沼に打いれ、鬨の声をあげをめきさけぶ。本丸の女童大に驚きさわいで、二の廓をさして逃まよふ。大手に有て防ける兵ども、さては内通の者ありて、本丸を打破られたると思ひ、或は自害し或は降人となる。輝虎の謀によりて、力を労せずして城忽落たりけり。
『輝虎太田三楽が子を質に取れし事』
輝虎と北條と武蔵の忍にて陣を合す。此時太田美濃守資房入道三楽ひそかに謀を北條に通ず。輝虎かくと聞て馬副の者も具せず。唯一騎三楽が三男安房守十二歳なりしをひしととらへて、よくもおひたちつるよ。いざわが子にせん、とてうちつれて帰られけるに、三楽が軍兵ども其猛威に恐れて、手さすこともなかりけり。是より三楽も誠に心服したりけるとかや。
(岩波文庫『常山紀談』上巻を底本としました。)
巻二
常山紀談
湯浅常山著
徳川家康、上杉謙信、武田信玄関連部分を抄録。
巻之二(一部)
『東照宮大高城へ兵粮を入れ給ひし事』
今川義元尾張国大高の城に、鵜殿三郎長持を置かれけり。織田信長も所々に城をかまへ、丹家には水野帯刀、善照寺には佐久間左京、中嶋には梶川、鷲津には飯尾近江守宗定、又丸根には佐久間大学頭盛重をおきて、其の外寺部擧母廣瀬にも砦あり。大高に兵粮を入れなば、鷲津丸根に貝を吹べし。寺部擧母廣瀬の砦より馳集り、丹家中嶋より後詰せよとぞ定められける。義元東照宮の御ンもとに使をもて、大高に兵粮を運入させたまへ、となり。東照宮、心得候と仰せて、やがて打たち給ふを、酒井石川等、信長の手あてゆゝしく候。中々大高に兵粮入れん事思ひもよらず、と申せども、聞しめし入れられず。われに謀有り、とて先兵をわかち、福釜の松平左馬助親俊、酒井與七郎等四千計、永禄二年四月九日の夜半に、大高、鷲津、丸根をわきになし、寺部の砦へおしよせよ、と下知し給ふ。東照宮は八百計の兵をひきゐ、兵粮米馬にとりつませ、大高の城二十町ばかりわきにひかへ給ひけり。先陣寺部におしよせ、城中さわぐ處を一の木戸口打破り、火をかけて、又梅坪におしよせ、三の丸まで入り、火を放て焼たつる。其の焔天をてらし、鬨の声ひゞきわたりて聞えければ、丸根鷲津より是を見て、三河の敵はる/\〃とふみ越て攻め入りたるは、いかさま故有と覚ゆるぞ。とく後詰せよ、とて寺部梅坪にかけ向ふ。其間に東照宮麾をとらせ給ひ、米おほせたる馬千二百匹打つれて、事なく大高に運入れさせ給ひけり。丸根、鷲津に残る者ども是を見れども、大かた後巻に出でたればせんかたなし。東照宮やがて軍兵をひきまとひ、岡崎にかへらせ給ふ。人々今夜の謀略及ぶべきに非ず、と申ければ、聞し召れ、此甚しき易き手だてなり。先思ひもやらぬ寺部梅坪を攻て火をかけ、丸根、鷲津の軍兵を後づめに出るといへる事あり、とのたまひければ、皆此殿臨済寺の雪斎に兵書をよみ習ひ給ひしかども、かゝる謀はよも出じ。天性すぐれて大将の道を得たまへる、とぞ申ける。此十八の御ン歳の事なり。
『大久保忠俊の事』
大久保藤五郎は越前の人なりしが、武者修行して三河に来り、吾姓をゆづるべきは、宇津新八郎なり、とて大久保の姓をゆづりしが、其しるしに功名せん、とて安祥の城攻に先がけして終に討死しけり。新八郎忠俊後に五郎右衛門といふ。今川義元討たれて、東照宮大高をひかせ給ふ時、夜半に大雨にて士卒みだれけるに、忠俊御側に附そひ奉り、度々乗返し詞をかけ、人衆をまとめて引退きけるとなり。
『桶はざま合戦今川義元討死の事』
永禄三年五月、今川義元大軍をひきゐ、織田信長をうつ。東照宮此の時陣せさせ給ひ、丸根の砦を攻めおとし給ふ。今川家の軍兵も鷲津を攻落し、義元桶はざまに着陣せらる。信長は素より鳴海に打て出、防戦せんとの志なり。老臣ども、大敵なれば清洲を守り給へと諌れども聞入ず、酒宴して猿楽の羅生門の曲舞をまはせられし時、敵既に攻来る、告来る。信長少しもさわがず、人間五十年、下天の内を競れば夢幻の如し、といふ処を、おし返しうたひて忽螺をふきたてさせ、物の具して主従僅に六騎、歩卒二百人ばかりかけ出て熱田の宮に詣で、願文を神殿に納らるゝ中に、軍兵追つゞき来りけり。源大夫の祠より東を見れば、鷲津丸根攻おとされたりと覚えて黒煙たちのぼる。浜手は潮満たれば、笠寺の東の道を一文字にすゝむで、砦々の味方に使をはせ、其兵をひき具し、中嶋の砦に至りて、わが謀は、今川の大軍悉本道へくり出し、旗本小勢ならん所へ、山陰より切てかゝり、忽勝負を決すべき、と大音声にて下知せられしかば、士卒皆きそひさみけり。旗をしぼらせ山かげより桶はざまに打向ふ。義元は駿州の先陣打勝たりと悦び、酒もりして有しに、折しも天俄にくもり、夕だちうつすに似て風雷はげしかりければ、信長の兵かゝり来る物音も聞わかず。不意の戦にあわてたる計なれば、水野太郎作清久一番に首をとる。義元の網代の輿を信長見て、敵の旗本疑なし、とて追たて/\戦れしかば、義元も返し合せて戦れしを、服部小平太鎗つけ、毛利新助其の首をとりたりけり。左文字の太刀松倉郷の刀を分捕にすといへり。
『信長上京の事』
信長桶はざまにて義元を討とりて後、潜に士七八人召具し、京に上り帝都の事ども窺ひ見、それより三好が高屋の城に往て、長慶に望まれけるは、信長が尾張にて領し候地をまゐらせ候べし。其地にあたるほど畿内にてたまはりなば、三好家の先陣たるべし、といはれしかば、三好聞うくべきを、松永弾正諌めて其の事止めにけり。此の時斎藤義龍信長を殺さむ為に、士十二人堺の津に出したりと信長聞て、堺に至り、義龍が士の旅宿にゆき、何義龍が討手とや、にくき奴原なり。汝等一々首を刎べし、とて刀の柄に手をかけ、はたとにらまれたる勢に、恐れあわてゝ平伏しければ、信長散々に罵りて帰られけり。
『東照宮大高城を引取給ふ事』
義元討死の時、東照宮は大高の城におはしませしかば、苅屋の水野下野守信元、浅井六之助道忠をもて、桶はざまに義元敗軍命をおとされ候ぬ。今川家の城々ども皆あけ退候。とく岡崎へ帰らせられ然るべからん、と告申されしかば、はや御帰あれ、と人々申けるを聞し召、下野守はわが母の兄弟なるは、誰もしりたるよ。されども今は敵とわかれたる中なれば、もしやわれをたばからんとの謀なるをしらで、此の城を明退なば、逃奔たりといはれん事、弓箭とる身の恥辱、後の世までもわらひ草たるべし。浅井をおしとめ置て、味方の告をまちて後こそ参河へは帰らめ、と仰ありて、それまでは二の丸におはせしが、本丸に入らせ給ひて、持口を御くばり有ける処に、夜に入りて岡崎より鳥井伊賀守忠吉、義元の変を告奉り、今川家の人々も駿州へ引とる旨を聞し召、此上は兵をかへすべし。されども夜闇くて乱るべし、とて月の出るを待て城を打出させ給ひ、浅井を嚮導に用られ、池鯉鮒の駅につかせ給へば、苅屋よりも討て出、所々一揆起りけるに、浅井馬を乗よせ、水野下野守使者浅井六之助案内者たるよし大音に呼りければ、皆道をひらきて恙なく夜中に大樹寺まで引き取せたまひぬ。後殿は大久保五郎右衛門忠俊なり。翌日岡崎に帰入せたまひけり。浅井をば池鯉鮒より返させ給ひ、後の證にとて御扇子をさきて賜はりける。扇のほね六本なりしゆゑ、永く浅井が家の紋とするとかや。是より東照宮の信義厚き御事に人々なつき従ひ奉りける。
『武田信玄忍の者を討れし事』
甲斐のしのびの者数十人、信玄に叛く事有て、山小屋にたてこもる。信玄謀にてたやすく討とらばやと思ひ、残り居けるしのびの者に、城中に忍び入るに、いかなるが入がたきや、と問るゝに、内の守りきびしく、夜廻りの声しげく、其の体あらはなるはおこたりもまた料り易く候、といふ。信玄いま山小屋にしのび入らんはいかに、と問るゝに、かの者ども既に能其の理をしり、静りかへりて音もせず候へば、其便を得ず、と答ふ。信玄それより山小屋に向て陣し、守り甚きびしく夜廻り透間なく呼らせたり。日数を経てやゝおこたり出来ぬる時、山小屋より夜討に出けるを、素より謀りたる事なれば、伏兵をおきて討とられけり。
『信玄鹿島伝右衛門を呼れし事』
鹿島伝右衛門といふ者伊豆の人なり。わかき比武名有けるが、後に髪を薙て久閑と称し、伊東に引こもりて居たりけるを、信玄聞て、三千貫の地をあたへて招けり。久閑、われ老たり。何の為に奉公すべき、とて出ざりけるを、尋問べき事あり、とてしひて呼出し、春より秋まで夜々軍物がたりせさせて聞れ、自筆とりて是を書しるされけり。信玄四方に大国の敵ありて威名をふるはれしも、かく心を用ひられし故にや。
『上杉謙信小田原へ攻め入れし事 附上京の事』
永禄三年謙信八千の師を相州小田原に出さる。関東の諸将皆々なびき従ひて十五萬に及べり。旗本は高麗寺山の麓に押し、先陣太田三楽は小磯に陣す。北條の兵戦はずして城に引入ければ、蓮池まで攻入り、それより鎌倉に赴き、鶴岡の八幡宮に詣らる。上杉憲政の長臣等も皆群参す。成田長安毛警護の者と争論の事あり。誅罰に及ぶべきといへどもこれを宥らる。成田謙信の怒を恐れ病して出ず。(これを甲陽軍艦に謙信成田を打つとしるせしは非なり)同年六月謙信上京せらる。六月廿八日京都に至り、七月七日光源院殿(義輝)に謁し、吉光の太刀黄金三千枚を献じけり。光源院殿より管領の任、又諱の字を賜り、兄弟の義に準ぜらるゝの命を承り、越後に帰られけり。
謙信相州に攻入る時、京都より近衛関白前久公を進られ、管領の職を承る事此の時より始るともいへり。又鶴岡に参詣し、管領の職に任ず。近衛関白前久公下向ありて、光源院殿の公方より大和兵部少輔使たりともいへり。執か是なる事をしらず。又謙信上京の事、三千計の人数にて、越後を出られしといへり。光源院殿に三好松永謀叛の相あらはれ見えて候。御書を賜はり候ならば、馳上り誅罰すべき由、密に申されしを、三好松永も察しけるにや、深く恐れけり。程なく永禄七年三好長慶河内の若江にて病死しけるを、松永かくして翌年の春に至りて公方も聞し召、越後へ御書を賜りける處に、松永此をや泄聞きけん、いそぎ光源院殿を殺しけるといへり。
『新発田治長が事』
謙信小田原の蓮池まで攻入り、明日は鎌倉に赴くべし、とて軍評定ありし時、新発田因幡守治長其の比十五歳なりしがすゝみ出で、かゝる手くばりならば、一定味方敗北すべし、と申す。謙信怒りて、舌のやはらかなるまゝに物ないひそ、といはれしかば、治長居直り謹んで、けふより君臣の義を絶せたまはり候なば、小田原に馳参り、北條家の先陣して君を追討まゐらすべし。酒匂川のこなたにてはたやすく討とり奉らん物を、と申す。謙信其時色をやはらげ、天晴剛の者よ。神妙にも申たる哉、明日の後殿をせよ。と命ぜられける。治長軍だてしか/\すべき、とてやがて事よく小田原を引とりたり。治長後景勝の世に及て二タ心ありければ、景勝これを討るゝに、新発田、五十野両城を守りて、三年を経て城落ければ、治長染月毛といふ馬に乗、三尺五寸有ける光重の刀を抽持て、大軍の中にかけ入討死しけり。比の馬はきはめて色白き尾かみなりしに、茜の汁をはけにて染たれば、年月を累て後真紅の糸をみだしかけたるに似たりしとかや。井筒女之助比の馬を得て乗しといへり。又景勝治長を攻らるゝ時、治長が士に波多野忠左衛門といふ強力の者あり。景勝のよせらるゝ道二タすぢの中に、近き方を三淵の岩穴にかくれ居たりける。景勝既に打向ふ時、皆口々に、近き方よりよせ給へ、と申す。景勝聞ず、兵法に迂を以て直とすといふ事あり、危き道に不意の患あり、といひて三淵にかゝらず、道をまはりてすゝまれしかば、波多野がしたく空しく成けり。
『信濃国川中島合戦の事』
永禄四年七月、甲州に謙信より入れおかれし間者ども越後に帰りて、信州の士二心ある者あまた有りしを、五月上旬信玄川中島に赴きて死罪に行はれ、是れによりて疑を生ずる者多し。又和利が嶽の軍に士卒多く手負討死しける由を告けるを、謙信聞て、三軍の禍は狐疑より生ずといへり、是一つ。労たるに乗ずべき是二つ。八月に至て師を川中島に出すべき、とて士大将を盡く呼あつめ、各謀を問るゝに、存ずる旨を書しるして出しけるを、撰わかちて上中下の三等とし、其下策を用ゆべし、といはれしかば、此は如何候べき、と怪しみければ、謙信のいはく、上策は既に敵の察する処にて、われを待つべき謀おこたらざる由を聞、待設たる所へ攻入らんにいかでか勝べき。中策は数年評議せし所なり。下策を用ひて貝津の城をふみ越、西條山に陣し、姑く敵の後巻を待ん。是れ兵を死地に陥るゝに非ずや。信玄おしよせば、其の時勝負を一時に決すべし。もし信玄貝津の城に入らば囲み攻ん。又信玄川中島に陣どりて吾帰路を塞ぐならば、吾軍雨の宮の渡りを渉らず、直に貝津の城に向ひて攻破らんに、信玄必ず救来るべし。其時又一戦してかなはずば討死すべし。是下策を用るいはれなり、とて八月廿四日西條山に押入り陣したりければ、信玄後巻して、暫対陣せられしが、広瀬のわたりを越て、貝津の城に入たりけり。かくて九月九日の晩、謙信士大将をあつめ、明日信玄必ず打出て戦ふべきよ。今夜雨の宮のわたりをさか寄して其の不意を撃べし。用意せよ、とて寅の刻に至りて川中島に兵をおし出す。先陣は柿崎和泉、後陣は甘粕備後なり。果して十日の卯の刻ばかりに、信玄一萬余の兵を率ゐ筑摩川に打て出、善光寺の要路に待たれし処に、謙信軍をすゝめて一ト手ぎりの合戦をはじむ。謙信旗本真くろになりて切かゝり、信玄の旗本をおし崩す。甲斐の兵討るゝ者数をしらず。かゝる所に西條山の甲州の軍兵一騎がけに馳来るを見て、謙信兵をまとめ勝を全くせられたり。甘粕備後後陣の兵をすゝむるを見て、信玄の旗本ふみとゞまりたるが、又乱れたちて広瀬のわたりに引き退く。甘粕是に因て西川辺に陣する事三日にして引とれり。
是謙信実記に拠りてしるす所なり。川中島の戦異説多く、分明ならず。一説に、天文廿三年八月十八日、川中島にて戦あり。謙信旗本半町計敗北する処に、宇佐美駿河守定行横あひにかゝり、信玄の兵大に乱れ、御幣川へ追ひ入れられ討るゝ者多し。信玄は川の中に馬を立たる処に、謙信緑の曇子にて包たる肩衣にこてをさし、白き手ぬぐひをもて頭を包み、三尺計の刀を抽もち、虎のあれたる如くなる鹿毛の馬に打のり、信玄はいづくに在りや、と呼る。原大隅、信玄何事に爰にあるべきや。うろたへ者よ、と罵り、鎗にて突けれ共つき外す。謙信川へ馬を乗こみ、信玄にかけよせ、三刀まで斬れしに、信玄持たる軍配団扇も切をられ、手負て既に危かりしに、原大隅萩原弥右衛門鎗をとりのべ、たゝみかけて謙信をたゝきけるに、馬のさんづにあたり、馬川の深みに飛入ける。其の間に信玄の馬副の者ども、信玄の馬を川岸に引あげて物わかれしたりとなり。宇佐美駿河守謙信より賜りたる感状にも、天文二十三年八月十八日川中島に於て、横鎗をもて信玄のはた本を突崩したる由のせられしかば、板垣駿河、一條六郎、諸角豊後、初鹿源五郎、輪形月織部、山本勘介を始めとして、討死する者多し。甲斐の先陣上山よりかゝり来り前後に逼りける故、謙信川を渉て引とられけり。此の時に宇佐美駿河守先陣して功あり。又永禄四年九月十日川中島の戦に、武田の先陣敗北す。信玄の旗本を以てもり返し、長尾政景等陣をみだしてかゝりける所に、渡邊越中一陣衆をこえて鎗を入れ、遂に甲斐の軍敗北せし事、皆謙信家臣に賜し感状伝はれり。甲陽軍鑑川中島数度の軍を附会して一度となすなるべし。又一説に、永禄四年九月十日の戦の事は、謙信の家にいひ伝たる事なしといへり。然れども謙信の感状を伝へて、謙信実記と符合するに似たれば、九月十日戦有し事疑ふべからず。上杉義春入道入菴京都に閑居して有しが、徒然の余り甲陽軍鑑をよませて聞れしに、事実謬れる事のみなり。高坂が死後の事を多く書載、川越の軍も年月大にたがひ、人の姓名も以ての外謬れる事多く、又なき人の名を造りこしらへたるもあり。謙信の世の事は予よくしりたるに、如此あやまれるなれば、此の書更に信ずるに足ず、とて復よまする事なかりしといへり。今を以て是を視るに、甲陽軍鑑過半は贋物なり。又按るに、今の世に専行るゝ書に、川中島五戦記といへるあり。此書は川中島の戦五度なりとしるせり。然れども其中に疑ふべき事なきに非ず。これも又正しき書とも信ぜられず。謙信鶴岡に詣て忍の成田を打たりしかば、関東の諸将なびき従はずば、いかで其年京に上る事の有べき。是事情時勢の顕然たる事にして、甲陽軍鑑の虚妄論をまたず。
『謙信軍中に青竹を持れし事』
謙信は長さのみ高からず。左の脚に気腫有て、あゆむ時足をひく如く見えしとなり。物の具する事は尠く、黒き木綿の胴服を着、鉄にて造たる小き車笠をかぶり、ザイとる事も尠く、青竹を三尺計にして、杖の如く提げもちて、士卒を下知せられけり。梁の韋叡が竹如意の遺風也とぞ。
北魏の兵鐘離城を攻し時、梁より韋叡を以て後援させられけり。北魏の将大眼勇将にて、数萬騎を率て戦ひしに、叡は素木にて造りし輿に乗、白角の如意を執て軍兵を下知し、切りかちたる事史に見えたり。
『謙信松山城後巻の事』
永禄五年三月、北條氏康父子、武田信玄父子、数萬の兵を以て、武州松山の城をかこまるゝと聞き、謙信八千の兵をもて後巻せられしが、十五日厩橋に著陣あれば、城落ちけると聞えければ、さればこれより山の根の城へおしよせ打破らるべし。敵後づめするならば、北條武田父子四将の大軍にうち合せて軍せん事尤望む所なれ、といふより早く刀根川を打わたり、かけたる船橋を切流させ、山の根の城におしよせ、忽攻おとし、小田助三郎を始めとして皆なで切にしてけり。かくて使を四将の陣にやりて、松山の城に向はれ候由を承り、出向ひ候に城早く攻とられ、軍つかまつる事なくて、弓箭の礼義に背て候。唯今山の根の城を攻候ほどに、後巻や候らんといひ送られしかば、氏康かゝりて軍せんとす。信玄のいはく、今勝たりとも、謙信には四人してかちたり、と人に誹れん事口をしき、とてしひてとゞめてさて止けり。信玄、実はしからず、日比謙信の勇気倍々にても戦ひがたきに、松山の城落ちて怒をふくみたれば、其の鋒にむかひがたく、虎を恐るゝが如くなりし故とぞ。
又一説に、此の時信玄兵をすゝめ、太鼓を鳴し、軍威厳然たり。越後の軍兵も物の具し、はや打向はんとせしを、謙信、いや/\信玄かゝり来るに非ず、引きとらん為なり。馬の鞍をおろし、甲冑をぬいで休息すべし、といはれしが、果して信玄引返されたりといへり。
『東照宮一向宗の党と厚木坂にて御ン軍ありし事 附蜂谷半之丞が事』
永禄六年十一月十五日、一向宗の党と厚木坂にて軍ありし時、一揆より蜂谷半之丞、渡邊源蔵、真先にすゝみ、味方には上村庄右衛門黒田半平鎗を合せ、渡邊黒田を突倒したるに、味方きそひかゝりて追たつれば、蜂谷も渡邊も引退て細なはてにかゝりを、水野藤十郎、蜂谷いかにのがすまじ、と詞をかくれば、蜂谷ふみとゞまりにつこと笑て、藤十郎いかでかわれらに敵すべき、いざ参らん、とて鎗を地につきたてゝ手につばきをはきかけ、さらば、といふ。水野もふみとめて近づき得ず。蜂谷さればこそ、とて又しづかに引退く。蜂谷が鎗は三間柄の中を少ふとくして、長吉が鍛たる刃なるが、勝れて物を貫きけるといへり。東照宮御ン馬を乗出され、蜂谷め返せ、と御ン詞をかけらるれば、跡をも見ずして逃る。松平金助あますまじと追つむれば、蜂谷ふむとまり、殿なればこそ逃たれ、御ン身にはひくまじい、というて取てかへし、金助を五六度もつきしりぞけたりしが、蜂谷鎗をなげづきにして金助を突倒す。東照宮、蜂谷めとて又御ン馬を乗つけさせ給へば、蜂谷引返し逃退けるとぞ、
蜂谷其後は先だちて一向宗の党をはなれて降参し、夫より人々願申て、終に一向宗の党の者ども罪を御赦有てけり。其後二連木の合戦に本多平八郎牧宗次郎鎗を合せけるに、蜂谷少しおくれたりしが、蜂谷早とく鎗は合せたるにいかに、といふ者有りしを半之丞聞て、他人鎗をしたらんに、我は切合ふまでよ、と言ひすてゝ、刀を提げて敵の中へ飛込で二人なぎ伏たるに、河井正徳といふ者鉄砲をかまへたる所に走りかゝる。正徳かくれなき手だれにてうちたるに、痛手なりしに起あがりて、そこをば引きとりたれども、蜂谷つひに死しけるとぞ。又此正徳ある時せはしき場にて後殿しける時、後より其手おひ討ちとれと呼る。これは正徳生れつき跛なりし故、手負たると思ひてかくいひたるなり。其時ふみとまりて、弓箭神に誓ひて手負にてはなし。生得のちんばぞ、といひけるより、今川家にほめて正徳といひけるとなり。又蜂谷が痛手おひたると其老母の聞て、いかに首尾の有りつるぞ、と問ふ。其さまこれ/\なりと答ふれば、うれしや士の戦場に出て、矢にあたるは常の事なり。もし手負ざまのあしかりせば、死したりとも冥途に面目なかるべし、といひけるとぞ。戦国の時婦人の身も、弓箭とる家に生れたるは、志す所大にことなるもの、想みつべき事なり。
『東照宮針崎合戦の事』
永禄七年正月十六日、三河一向宗の党と針崎にて終日のせり合あり、中根喜蔵と名のりて一番鎗を合す。一揆の相手は渡邊半之丞なりしが、鎗をすて刀をぬいて飛込だり。中根も刀を抜き互に手負ひ相引にしける処に、鵜殿十郎三郎渡邊を目がけ追かけたるを、渡邊が父源五左衛門たすけ来て鵜殿を突伏たるを、東照宮御覧じて御ン手づから鎗を提給ひ、鎗くみたまひて突伏給ふ。うす手なりしかば引き退くを視て、石川十郎左衛門、渡邊源五左衛門、競かゝりて、東照宮に向ひ奉る。内藤甚市弓とり直し、源五左衛門が股を射貫ければ、半之丞父をかき負て引退き、それより物わかれせり。内藤は渡邊が甥なりけれども、御急難の時にあたりける故、射倒たるとなり。
『向井與左衛門かへり感状の事』
謙信信玄と和平を結んとせられし時、長遠寺の僧を使にせらる。此僧は遊説の人なり。謙信かの僧に、甲斐の士に向井與左衛門といふ者やある、と問るゝに、これ有と申す。又創の痕や有る、と問るゝに、面に刀の瘢有り、と申す。謙信のいはく、川中島の戦に名乗かけて、われを後よりつき通す処を、振り顧て一刀斬たりしぞかし。よもたすからじと思ひつるにながらへたるよな、とて、萌黄の胴肩衣に鎗のあと有るをとり出し、書簡を添て向井におくられけり。此を世にかへり感状といふ。其書中に川中島の事をのせられたりといへり。
(岩波文庫『常山紀談』上巻を底本としました。)
巻三
常山紀談
湯浅常山著
徳川、織田、武田関連その他、及び姉川、三方ケ原合戦関連記述を抄録。
巻之三(一部)
『石川数正浅岡某にユガケの緒を習ふ事』
東照宮今川氏真と御不快の事起りし時、兼て駿河に岡崎三郎君とゞめおかせ給ひしを生害すべきよし聞ゆ。石川伯耆守数正此の由聞て、いとけなき御身の失はれさせ給はんに、御介錯に侍ふ人なからん事こそ口惜けれ。よし/\数正罷向て、冥途の御供にこそ参らめ、とて唯一人駿府におもむく。かゝる処に今川家の侍大将鵜殿が子二人生どられ、氏真なげき給ふと聞き、わか君の御外祖関口刑部大輔と相はかり、若君返させたまはんには、鵜殿が子返しまゐらせん、と望む。氏真悦びてやがて若君を返し参らす。数正肩にのせ申、岡崎に帰りければ、御家人はいふにや及ぶ、国中の貴賤御むかひに参りつどうて感ぜぬものこそなかりけれ。三方原合戦の時、数正は信長の加勢として遠州に向ひけるが、武田おしよすると聞きとつて返す。美濃の守護土岐家に有といふ浅岡の某、弓箭をとりてさるふる兵と聞えしかば、彼が許に行き、此度本国に帰りなば必ずうち死仕るべし。数正弓箭をとり打物とりて、かたのごとく軍にあふ事度々なり。然れども軍に臨むの日ユガケの緒むすばん様、故実ある事と承りていまだ学候はず。されば死後にユガケの緒とむる骨法しらざりしと、かたきに笑れ候なん事、骸の上の恥辱にて候へば、教を承り度こそとて習ひ伝へ、夜を日につぎて馳下り、三方原の軍にも殊にすぐれて武勇をふるひたりけり。其の後太閤に欺かれ、岡崎の城を出て上方に登り、豊臣家に奉公す。太閤和泉をあたへ、武者奉行を命ぜられぬ。数正徳川家累代の君恩に叛き、一生の忠節武功を空しくす。血気既に衰ふる時は是を戒むる事得にあり、といへる聖人の言しらざりけるこそうたてけれ。
『東照宮三河国一宮城御後巻の事』
東照宮三河の一の宮の城に本多百助信俊を守りにおかせ給ふ。永禄七年五月今川氏真二萬余の兵を以てかこまれけり。其の中八千を引わかちて、武田信虎を大将として後巻の防にせられぬ。東照宮かくと聞し召、早うち立て一騎がけに馳むかひたまはんと見えしかば、敵は味方に比ぶれば十倍もあらん。殊に信虎は聞ゆる勇将に候、と老臣ども諌奉れども、其理は然るべからん。されども人は貴賤にもよらじ。信義の二ツによりてこそ身をたつるならひなれ。敵の城攻おとし、其まゝ壊すてなばさもあらんを、既に味方を入れおきて、今さら敵大軍なればとて驚くべきや。主の大事は従者が救け、従者の危難は主のたすくるは弓箭とる道なり。今は後詰に打まけ、屍を戦場に曝すとも、運の尽ぬる所なり、と仰せければ、是を聞く人々、あはれ頼もしき大将かな。此殿の御為にはいのちをすてん事、露ちり計も惜からじ、といさみすゝむ。其勢に乗て二千計の兵にて後づめに打向はせ給ひ、信虎の八千にてひかへたるをよそに見て、真直に城ぎはにおしつけ給ふ。城中きそひ悦ぶ事限なし。氏真、さらば四方を取囲で、一人もあまさず討とらん、と評定する。其の間に、東照宮は百助を召具し給ひ、城を出て引返したまふ。百助、今日の戦は身にかけてはげむべく候、とて手の者四百余をもて信虎の軍にかけ合せ、打破りて利を得たり。酒井左衛門尉忠次、石川伯耆守数正、牧野右馬允康成は後殿となる。追かくるほどならば忽ち切くづすべき色あらはれて見えければ、氏真も進み得ず。東照宮事なく帰陣せさせたまへり。此廿二歳の御ン時なり。
『三好松永光源院義輝朝臣を弑する事』
永禄八年三好義継、松永久秀、大和河内より京に打入り、五月十九日辰の刻、光源院殿の館をかこみ乱れ入りければ、防ぐ者ども或は討れ或は自害す。沼田上野介と福阿弥と言ふ者、敵の相じるし竹の葉を腰に挿て、外よりまぎれ入り、光源院殿の御前にまゐり、われ等二人を始として防ぎ箭仕り、思ふほど戦ひ候はん。其間に日比愛せさせ給ふ早足の御馬に召され、東川原にかけ出させたまはゞ、御運をひらかせ給ふべき、と涙を流し申ければ、尤忠義の志神妙にも申しつるよ。されども汝等討死したる跡に残りとゞまるべきや、とて散々に防ぎ戦ひて終に自害有ける。其のきはに、
- 五月雨は露か涙かほとゝぎす わが名をあげよ雲の上まで
自ら筆を把て書残し給ひけるとぞ。光源院殿の弟に鹿苑寺の周高といふ有りしが、平田和泉守といふ者迎に遣し、北山より出たる道にて討とりしに、供せし十三四の童忽ちにかの平田を討とりければ、世の人ほめあへり。
是れ義俊光源院殿を追善和歌の序に見えて、扶桑拾葉に見えたり。されども童の名見えず。後に信長記を見じに、此人の姓名をしるせり。小川の住人美濃屋小四郎とて、容貌世に勝れしが供したりしに、此変にあひて三條吉則の刀を抽て、和泉が首を打落し、手もとにすゝむ者五六人切ふせて、腹切て死せしよし見ゆ。
『三好実休戦死の事 附光忠の刀の事』
三好修理大夫長慶は細川讃岐守持隆の臣なり。三好は其先甲斐の源氏小笠原の族にて、信州に住せしが、三好長房の阿波の守護として世々阿波に有り。京都に攻上り、細川晴元に代りて五畿内の事を執る。第二の弟豊後守之長(後実休と号す)、其の弟安宅摂津守冬康、其の弟を十河一存と言ふ。天文二十一年実休持隆を弑し、其の後室を己が妾とし、悪逆を恣にす。永禄五年佐々木義弼京に攻上りしかば、萬松院殿は八幡に在て防ぎ給ふ。畠山尾張守高政佐々木にくみし、紀州より泉州にうち出るにより、実休阿波より渡海し、岸和田の東久米田に陣す。久米田寺に橘諸兄公の墓あり。実休墓を掘り石の郭をとり出す。聞く人眉をひそめずといふ事なし。三月五日高政兵をわかち、先陣を額が原におし出す。実休山上より見おろし、自真先に進で高政が先陣を打破る。檜木山に伏おきたる高政の兵に根来法師相加り、不意に切てかゝり、三木内匠一番鎗を合せ、実休が先陣敗北しけり。実休は将机に腰かけて引な者共と下知し、散々に戦ひ残り少く討れしかば、実休をば根来左京打とりたり。高政大に利を得、河内におし入、此の時長慶が籠りし飯盛の城をかこみ攻る。冬康兄の弔軍を志し、且長慶を救はん為に岸和田を打出で、高政と藤井寺の南葉引野にて軍あり。冬康勝利を得たり。実休討死の刀は光忠が作也。信長光忠が刀を好み二十五腰まで集られしが、堺にて第一の好事木津屋といへる商家に、彼の光忠の刀を残らず見せて、此中に実休光忠や有る、と問るゝに、一腰とり出して是ならんといふ。信長何とて見しりたるや、と問るゝに、切先の少缺て候は、実休打死の時根来左京を刎られしに、臑あてに当りてかけたると承り候、と申ければ、信長よくしたりたり、といはれしとぞ。
実休討死の時、長慶は飯盛にて連歌せしに、告来る。
- すゝきにまじる蘆の一むら
といふ句人々附わづらひたりしに、其書を坡てとかくをいはずさしおき、
- 古沼のあさきかたより野となりて
と附終て、さて実休打死なり、と告来れり。今日の連歌是にて止べし、とてさて兵を出されしとなり。
信長都に攻上るに及て松永は降参し、三好長慶が養嗣義継は河内にて自害し、三好の家滅亡せり。
一説、実休は泉州岸和田を安宅摂津守冬康に守らしめたり。畠山高政は紀伊国廣浦といへる所に流落の体なりしが、熊野根来寺の法師をかり催し、岸和田へおしよする。実休後巻せんとて渡海し、堺の津にて勢揃せり。高政、岸和田を攻んとする兵を城の上なる山に引とり、城を見下したり。四国の兵は篠原右京進長房、一宮長門守成助等岸和田の大手に陣し、実休旗本は久米田に有しに、高政が陣を見て、高政は東をさして引退くと覚ゆ。遥々爰に来て討もらさん事口惜き事なり。山上へおしかけて一騎もあらすまじ、と下知するを、摂州高槻の城主入江左近大夫、鹽田采女正二人、京よりの使として来り居しが、敵を小勢なりと見て、左のたまひ候へど、今巳の時なり。高政軍配よし、味方の為には大凶なり。唯今かゝらば十に十敗北すべし。暫時を移し東の谷より二タ手にてあひしらひ、午の時に及て軍をすゝむるか、又敵を南山へそびき出すか、此の二ツの間に過じ、といへば、実休、心安かれ。時を過さば敵に利有べし。切てかゝりなばあれなる山を尾伝ひに東北へ下るべし。左なくば南へ下り右の尾さきへ引とるべし。入江鹽田二タ手に兵少なければ篠原をさしそへなん。打つれて伏兵になられよ。高政夢にも知らずして、東北の道に出なんを待かけて討たば安かりなん。高政もし物見を出して見付るほどならば、南の山に登り横合に突かゝられよ。高政は籠中の鳥也、とて二人の詞を用ひず。入江等東北の山ぎはに進で待居たり。実休は篠原が兵をもて高政を誘せけるに、長房いさみかゝり、勝敗を一時に決すべし。阿讃淡の三国の兵を引請けて一手立なくばあらじ。もし実休をうちもらさば、ともに戦死すべし、といへば、孫市子細にや及ぶ、とて山を下り立、真一文字に実休旗本におしかゝり、忽ち実休を鎗だまにあげて討とりたり。鹽田等は敵をまてども見えざれば、いかにと思ひ物見を出す所に、実休討死を告来る。さらば高政が陣に切ツて入り討死せよ、とてかけ向ひけるに、勝にのりたる敵をかさに受、鹽田も討死しければ、残る兵ども堺をさして敗北しけり。是永禄五年壬戌三月五日久米田合戦にて、実休三十六歳なりといへり。
『中村新兵衛永原安芸守一騎打の事』
佐々木と三好と軍す。佐々木は糺に陣し、三好は赤山に有。三好使を以て、中村新兵衛といふ剛の者あり。われと思はん人あらば出されよ。人まぜもせで戦はせん、といひしかば、佐々木が内にて江州にかくれなき永原安芸守と言ふ者をすぐり出す。修覚寺村石地蔵の前に出あひて、永原は直鎗、中村は十文字の鎗にて散々に戦ひけるが、永原を突伏首をとる。中村は近江国の人なり。一日に鎗を合する事十七度、首四十一級を得たる事有りければ、世に鎗中村と称しけり。
永原を討とりし時、室町将軍霊陽院殿義昭江州矢島にて是を聞し召、感状に朱塗の物の具、朱柄の鎗をそへて賜りけるといへり。一説に、摂州を半分領しける松山新介が士にて、唐冠金纓の胄をきたりといふ。
『北條綱成地黄八幡の旗を捨る事』
相模の深沢の軍に、北條家の先陣の大将北條左衛門大夫綱成敗北して、すてたる旗をひろひ取て譏りけるを、信玄聞て、逃走てきたなく棄たるに非じ。必ず地利をはかりて戦を心がけたるならん。旗を棄しは旗さしの罪なり。いかでか嘲りわらふべき、とて真田一徳斎が末子の源次郎に、左衛門大夫が武勇にあやかれ、とてかの旗をあたへられけり。練絹三幅くち葉地黄にて八幡といふ文字を染たる物にて、世に地黄八幡ととなへしなり。左衛門大夫かくと伝へ聞て、信玄の詞にて恥辱を雪たり、と悦びけり。是れ信玄遠き慮ありてかくはいはれしなり、左衛門大夫は其比すぐれたる勇将なれば、嘲りわらはるゝと聞て、必死の軍するならば、其の鋒支へがたし、と察せられて其の憤を散ぜん為とぞ。
『柴田勝家水缸を破て城を守りし事』
永禄十二年佐々木承禎、柴田勝家が守る所の長光寺の城をかこみて攻る。遂に惣かまへを打破る。勝家本丸に有て爰を専途と防ぎ戦ふ。郷民佐々木が陣にゆきて、此城は水の手遠く、遥なる所より水をとり候。それをとり切る程ならば城は保つべからず、と告しらせければ、承禎悦びて水の手をとり切たり。城中是に困めどもよわれる色をあらはさず。承禎之を見ん為に和平せんとて、平井甚介を使にして城中に入れたり。平井勝家に対面し手水を請ふ。缸に水みちたるを小姓両人してかき出たるに、平井手を洗ければ、小姓残れる水を庭にすてたり。平井帰りてかくといへば、事のたがひたる故にあやしみあへり。かくて城中既に水渇ければ、勝家、明日は討て出で切死にせん、とて諸士をあつめ最期の酒宴す。残れる水を問へば、二斛計入るべき缸をかき出す。さらば
此間の渇をやめよ、とて人々汲のみてければ、勝家眉尖刀の石づきにて缸を砕たり。夜明方に門を開き打て出る。佐々木思ひもよらざれば、大に敗北しければ、勝家首八百余級を得て岐阜に献ず。勝家は猶長光寺にあり。信長感状をあたへ賞せらるゝ事大方ならず。是より勝家を缸わり柴田と世に称しけり。
『勝家先陣の将となる事』
信長勝家をもて先陣の大将とす。勝家固く辞すれども再三しひて後、仰を承りぬとて退出する時、安土の城下にて信長旗本の士に遭たりしに行きあたれり。勝家無礼をせめて遂に切てすてたりければ、信長怒られけり。其時勝家謹んで申けるは、さればこそ先陣をば是非とも辞し申たるなれ。子細なくて辞申べきや。先陣の大将たる者威権なき時は下知行はれざる物なり。いかに、といへば、信長詞なかりけり。
『坪内某料理の事』
三好家滅し時、料理包丁の上手と聞えし坪内何がしといへる者生どりなりしが、放し囚にして有しに、年経て後菅谷九右衛門に賄ひ申ける。市原五右衛門、坪内は鶴鯉の包丁は云ふにも及ばず、七五三の饗膳の儀式よくしれる者なり。其上子ども両人は、既に奉公申候へば、ゆるされ候て、厨の事を司らせ申さん、といひけるを、信長聞て、明朝の料理させよ。其鹽梅によらん、となりしかば、則坪内をして膳を出させけるを、信長食して、水くさくてくはれざるよ。それ誅せよ、と怒られしかば、坪内、畏り承り候。今一度仕らん。それにても御心に応ぜずば腹切ん、といへば、信長許容せられけり。さてその翌日膳を出しけるに、味のうまき事殊の外によかりければ、信長悦びて禄あたへられけり。坪内辱き由申て、さて昨日の鹽梅は三好家の風なり。けさの鹽梅は第三番の鹽梅なり。三好家は長輝より五代公方家の事をとり、日本国の政をとりはからひぬれば何事もいやしからず。其の好む所第一等の鹽梅を昨日奉りければ、いやしみ給ふ事ことわりなり。けさの風味は野鄙なるゐなか風にて候へば、御こゝろに入たるなり、といひければ、聞人、信長に恥辱をあたへたる坪内が詞なり、といひあへり。
『大沢左衛門が手の者ども東照宮を窺ひ奉りし事』
永禄十二年四月、東照宮浜松に帰らせ給ふ時、
これは今川氏真を武田信玄攻め落し、氏真ときの山家に引こもりけるを、東照宮父義元のよしみゆゑに遠江をば徳川家よりをさむべし。信玄にとられたるよりはまさるべきなり。さらば小田原と相はかりて両旗にて信玄と軍すべき、と氏真に仰せられしかば、忝き由申て掛川の城を徳川家にわたし、氏政信玄薩捶山にて対陣し、足軽ぜり合有り。東照宮の先陣駿河へ攻め入り、山県三郎兵衛を追おとしければ、信玄前後にとりはさまれて勝利有るまじきを計りて、甲州へ兵を返されけるゆゑ、東照宮も御帰陣なり。
これより前永禄十一年、東照宮遠江を過半治め玉ひし時、降参しけるものなり。
堀川の城を打過ぎさせ給ふ時、大沢左衛門尉が手の者ども、去年よりおちぶれたる面々相計り、尾藤主膳村山修理両人を大将にして堀川にひそかに一揆をかまへ、通らせ給ふを待かけて討ち奉らんとしたくしけるに、それをしろしめさずして七騎にて打過ぎさせ給ひぬ。一揆ども、あまりに騎馬の少かりければかくともしらず、其あとより石川伯耆守数正通りけるを見て、さては先に通らせられしにや、たやすく討べき物を、と悔みけるとぞ。創業の人君天の佑おはしけると覚えたり。其後堀川の一揆を攻めらるゝに、此城潮のさしたる時は船の出入自由なるに、折しも引潮にて唯一方口の城なりしかば、落つべきかたなくて皆討とられけり。
『清洲にて東照宮信長公御対面の事』
永禄十二年尾張の清洲にて、東照宮信長に始て御対面の時、他の刀持たる士式台にとめたるに、植村庄左衛門家政御ン刀を持て通らんとす。これをもおしとゞむれば、徳川家の士に誰が下知にて止るや、といひすてゝおしとほり、御前の白州に参りたるを、信長見て、何者ぞと問はるゝに、東照宮、わが士にて候、と答給ふ。信長、植村は聞ゆる勇士なり。今日の会は大事に非ず。心安かるべし。あつぱれよき士あまた候、とぞ感ぜられける。庄左衛門後出羽守といふ。
『信長公伊勢の国司を亡し給ひし事』
永禄十二年信長伊勢の国司北畠中納言具教を大河内の城に攻る。数月経て城強くしてちつともひるまず。信長織田掃部介を使にして、信雄を以て具教の子具房の養子として和平すべし、といはせられしかば、人質をとるに同じ、とて和平事なりぬ。信長岐阜に帰り、二男茶筅丸十二歳なりしが、士あまたつけて伊勢に行く。大河内に至りて国司に対面し船江にあり。具教は世を具房に譲りて三瀬といふ所に閑居せられしが、尚信長に背く志ありければ、信長国司の家の者共をかたらひ、天正四年十一月廿五日三瀬にて弑しけり。具房は信雄の養父なれば河内におしこめて置れけるが、天正十六年に死去、其の元祖親房卿より具房に至て十世に及ぶとなん。具教の弟南都東門院の住僧なりけるが、具教弑せられけるを聞、南都を出て伊賀に赴き、還俗して北畠具親と称し、三瀬河股多芸小梨の諸士をかたらひ、仇を報ぜんとすれども、利なくして中国に流落し、毛利家をたのみ、備後の鞆に居たりけり。具親兵を起す時、天正六年信雄の兵波瀬峯の城を攻おとす。六呂木、山副、波多瀬三郎此の三人を生どりたれば、死罪にすべきと議せられしに、三郎が容貌世にすぐれしかば、信雄たすくべし、といはれしを、三郎聞て、三人同じく生どられ罪又相同じ。二人死して一人たすかる事面目なし。共に誅せられ候へ、といふ。二人は年老ぬ、惜むべき身に非ず。三郎は仰に従ひ候へ、とすゝむれども聞入れず。遂に三人共に磔にかけらるゝ時、三人、君の御為に命をすつる事士の思ひ出、面目これに過る事無し、とて謡をうたひ物語して誅せられけり。三郎此の時十五歳、をしまぬ人なかりしといへり。玉井新次郎といふ者具親に心を合せ信雄に背しが、父兵部少輔と母ともに、神戸にかくれ居たりしを、捜出して櫛田河原にて磔にせらる。兵部少輔子の新次郎を呼て、汝今度君の御仇を報い、北畠の家を興んと志しける事、士の本意吾生前の悦なり、とて水を乞て、父子三人盃をくみかはして、其の後殺されしとぞ。織田家の刑罰仁者の道にあらず。其の暴虐終を令せざる事尤ことわりなり。
『大久保忠隣功名の事』
永禄十二年今川氏真、遠州掛川の城没落の時、天王山にての合戦に、大久保治右衛門忠佐敵をつき伏、甥の新十郎忠隣に、其の首とりて汝が功名にせよ、と呼りければ、忠隣十七歳なるが、人のくれたる首何にかすべき、とて敵の中にかゝりて首をとる。箕形原にて諸軍散乱して東照宮につき奉る人少かりしに、御側をはなれず、後は歩立にて御供しけるを、小栗忠蔵敵の馬をとり来て、それに乗れ、と仰有て、其の馬に乗て御供申しけり。後に相模守と申せしは此人なり。
『高木主水村越與三右衛門後殿の事』
遠州にての事なりしが、いづれの時の軍にや、東照宮の御内に、高木主水清秀、村越與三右衛門とて聞ゆる兵二人、味方にはなれ細なはてをしづ/\と引退く処に、敵十騎計追来る。高木鎗おつとり直し、一足も引くまじきぞ、と呼る。村越、弓に箭をつがひ鎗わきを射ん。心づよく鎗をせよ、といひければ、敵しらむゆゑ両人又引退く。かくする事数度に及べり。かくて左右沼にて一騎うちの地になりて、こゝぞよき所、といふほどこそあれ、高木ふみ留り、先かけたる敵をつき伏れば、村越大音あげ、其首とれ、といふまゝに敵一人射倒す。敵ひるむ所を高木いさみ進て又一人つき伏せければ、村越も又一人射倒て、それより追ざれば心しづかに引とりけり。
清秀は水野下野守信元に属せし時、三州苅屋の戦に度々功名あり、後徳川家に仕ふ。水野に属せし時、石が瀬といふ所にて、三河の兵と鎗を合する事一日に七度、石川伯耆守十七歳にて内記といひしが、互に名のりて鎗を合せ相引にしたりけり。長久手の軍には、清秀内藤四郎左衛門武者奉行たりき。清秀老年の後関が原の時隠居せしが、野州小山へ参りければ、度々の功名を仰られ、台徳院殿錦の御羽折を賜はりけるとぞ。戦国の時も一日に数度の鎗は罕なる事なり。高天神小笠原與八郎が士林平六郎、遠州豆大寺にて六度鎗を合せ、信玄伊豆韮山を放火し、山県をおさへに置れしに、城兵打て出、引とり口に、三河の浪人河村伝兵衛白四方に船の字のさし物にて敵を追ちらし、鎗を合する事一日に六度といへり。
『太田下野識鑒の事』
太田三楽が内に太田下野といふ士よく人を識る。其詞たがはざりしかば、三楽、いかなる故ぞ、と問ふ。下野、別の子細も候はず。たとへば連歌する者の古歌を覚候は、わが連歌の益にせんとなり。士の功名を志す者も又しかなり。其の人々の嗜好む所によりて察候へば、十に八九はたがひ候はぬものなり、とぞ答ける。
『北條丹後指物の事』
北條丹後、一尺四方の白練に黒き蟻を繪に書て指物にしけるを、謙信見て、汝がさし物あまりに小きはいかなる子細ぞ、と問るゝに、丹後誠に味方よりは見えがたく候べし。さはあれども進むに先がけし、退くにいつも後殿せんに、他人の大なる指物も、此小四半と敵の見る所は同じからんと存るなり、と申せば、謙信、ことわりなり、といはれしとぞ。
『浅井長政斎藤龍興と軍の事』
浅井備前守長政淵川をかぎりて斎藤龍興と軍す。ある時長政五百計の兵をすぐり、関原野上の宿に火をかけ、樽井の前なる小川に、柵の木ゆひて待かけたり。龍興一萬計にて出ると長政聞て、百人計を菩提に径より敵の後へまはらせ、自四百計を以て、敵のおこたるを夜討にしたりけり。径よりの兵もはせ来り、思ひもよらぬ所より鬨の声をあげしかば、龍興、内通の物あるよと思ひ、あわてゝ岐阜にひき返す。長政大垣の辺所々に火をかけさせければ、龍興、敵勝に乗て大垣を攻るならん。いざたすけよ、と岐阜を出しかば、長政やがて引返す時、足軽の物になれたるを三十人樽井の土民の家にかくしたり。龍興樽井に入て士卒も疲しかば、兵粮つかうておこたりける時、かくしたる足軽ども、所々に火をかけて焼たつる。長政思ひもよらぬ所へおしよせて散々にうち破り、やがて南宮山に登りて敵を待つ。龍興二度まで敗北し、口をしく思ひて、四面をとり巻てあまさずうたん、とおし寄たり。長政見て、敵は大軍なり、十死一生の戦とは是なるべし。わが下知なき内は箭の一筋も射べからず、といひて攻かゝるを待て、山の上より一文字に切てかゝれば、龍興大に敗軍し、是より長政を恐れて復軍する事無りけり。
『丸毛兵庫助軍配の事』
丸毛兵庫助長住其の子三郎兵衛長隆、龍興に奉公して、美濃の多藝郡大塚の城に有り。安藤伊賀守氏家常陸介龍興に叛て大塚におし寄る。兵庫父子三百計大塚より一里あまり出て陣し、城近き百姓老若男女をいはずかり催し、手々に竹竿をもたせ大軍の体にもてなし、つひに氏家を撃破りしかば安藤等も亦龍興に降参し、丸毛父子に禄を増し感状をあたへられけり。
『馬場美濃守今川の館を焼く事』
信玄駿河に攻入る時、朝比奈兵衛を始として軍する者なく、今川氏真落られしかば、信玄とく今川の館に馳行て、名物の宝ものども奪とり来れ、と下知せらる。馬場美濃守氏房聞もあへず、唯一騎鞭に鐙を合て館にかけ入、火をかけて焼はらひけり。是れ宝物ども奪とりて、貪欲の師なりと嘲られん事を慮りたるべし。
『信長公東照宮に為朝の鏃を進らせられし事』
元亀元年六月信長朝倉をうつて龍が鼻に陣す。東照宮援兵の為、廿四日江北に御著陣、評定の時、信長鎗を持出て、此の鎗は鎮西八郎の鏃なり。徳川殿は源氏なればまゐらせ候。明日の軍に勝利候へ、といはれけり。今の虎の皮なげざやの御鎗是なり。
『姉川合戦の事』
姉川の軍に信長は、龍が鼻山を左にして浅井長政に向はる。東照宮は龍が鼻を右にして朝倉が二萬あまりに向せ給ふ時、小笠原與八郎氏助二千計先陣に進で川を渉る。氏助が兵伏木久内、中山是非之助、吉原又兵衛、林平六、伊達與兵衛、門奈左近右衛門、渡邊金太夫照、七人鎗を合する中にも、渡邊は朱の傘に金の短冊十八つけたるさし物をさし堤の上を進む。信長見て其夜召出して、天下の鎗なりといふ感状に貞宗の刀を添てあたへらる。残る六人の者共憤りて、各猶すゝむで鎗を合せしかども、畠の中なりし故見とめられず候、と申ければ、六人共信長感状をあたへらる。
『姉川合戦榊原二の手功名の事』
姉川にて酒井左衛門尉忠次先陣たり。二陣は榊原康政なり。酒井を始め小笠原與八郎菅沼新八郎奥平等川を渉てかゝりけるに、岸高く上りかねたる処に、榊原真一文字にすゝんで、上りがたき岸を、無二無三におしあげよと、ゑいとう/\といひておしあがり、酒井が先にすゝまんとするを見て、酒井が兵おくれては無念なり、と競かゝりて利を得たり。東照宮、榊原が二の手のしかた以来の手本なり。二の手はかくのごとくしたくこそ、と仰ありけり。
『三井角右衛門生瀬平右衛門功名穿鑿の事』
姉川の戦に坂井右近が子久蔵十六歳にて討死す。久蔵は十二の時信長始て京に入し比、近江北郡にて鎗を合せたる剛の者なり。三井角右衛門、生瀬平右衛門二人とも久蔵が首を得たりといふ。二人後関白秀次に仕へければ此事沙汰ありて、三井がいつはりなりとて、鷹部屋におしこめおきて罪に行れんとす。三井、いのちを惜むに非ず、人の功名を盗たる悪名の子孫の恥とならん事口をしければ、今一度詮議してたまはり候へ。証拠は浅見藤右衛門に問れなば、賛否正しかるべし、と訟たり。浅見を安土より呼れけり。浅見は生瀬と久しき友なり。三井とは日比中よからず、不通なれば、疑もなく三井がいつはりに定るべし。三井惑乱して浅見を證人にしたり、と誹笑ふ人多し。さて聚落の広間に奉行列坐して、雀部淡路守をもて尋問る。浅見承り、生瀬は年ごろの知音なり。三井とは不通にて候。是非世の人の評せん事も迷惑なり。他人に仰付られよ、と懇に辞し申す。中よからぬ三井が虚妄をいふに、心よからぬは理なれども、證人にひきたる上はとく申せ、と勧らるれども猶辞し申す。秀次聞て、重て辞すべからず、となりければ、其時浅見、今は已事を得ず候。武義の論少も許偽候まじ。坂井が首は三井がとりたるにまぎれなく、又其はたらきも比類少く候。生瀬は何と存過ちたるにや、といひければ、一坐駭きてとかくいふ人なく、これによりて三井を赦て賞せらる。生瀬は秀次に寵せらるゝの故に罪に及ばず。右近は信長の大将なり、三井、生瀬は朝倉、浅井両家の士なり。浅見は後京極高次に仕へて、大津の城にて武名をあらはしけり。
『金松弥五左衛門物見の事』
信長浅井長政をうつ時、長政が木造の陣俄にさわぐ体の見えしかば、猪子兵助を物見にやられけるが、又金松弥五左衛門をも出されけり。猪子馬に白あわかませて馳帰り、敵は引退候、といひもはてぬに金松乗帰り、敵おしよせ候、といひすてゝ、又先陣にゆいて鎗を合せたり。信長後に二人を呼て、汝等見し所はいかに、と問るゝに、猪子、敵は荷つけたる馬を遥に遠く引のけ候ほどに、引退くと見て候、と申す。金松承り、見る処は猪子に同じく候。されども軍を志し候長政、ゆゑなくして空しく退くべきや。おしよせて戦はん為と存じ候ひき、と申せしかば、信長大にほめられけり。
『信長公朝倉を撃給ひし事』
信長越前に攻入る時、朝倉義景二萬計の兵にて刀根山といふ大山に陣どり、麓に信長の先陣ひかへ居たり。ある日信長井楼に上り敵を見わたし、敵は今夜必ず引退くべし。先陣の者共なおこたりそ、と使を度々やりて下知せらる。是を聞て、殿はいかでかくは仰せ候やらん。敵大軍にて山に拠り地の利を得て且主戦なれば、何條引退くべき、とあやしみけり。夜に入ても信長は猶井楼に在て、敵陣を睨で目もはなたずして有しが、丑の刻ばかりに、すはや敵はひくぞ、といふほどこそあれ、螺ふきたてさせ馬に乗り、先陣の大ぬる山のやつばらかゆだんしたるに、旗本の者ども功名せよ、とて真一文字にすゝまれしが、果して先陣はおくれて信長の旗本にて勝利を得られけり。信長常におこたる者を大ぬる山とてわらはれしとぞ。
『長野信濃守上野国箕輪城を守る事』
上杉の旧臣上野の長野信濃守業正は、在五中将業平の後胤なりといへり。世々上野箕輪に在り。此の城は大名明神の山の尾崎をとりて城の郭とす。郭の形箕の手に似たりとて箕輪といふ。上杉家衰へけれども独立して武威をふるひ、信玄に属せず。信玄これを攻ること五年、終に一度もおくれをとらず、病の後二年を経て落城すといへり。
『箕形原合戦の事』
元亀三年信玄参河遠江に軍を出し、二股の城をとり巻水の手をとり切ければ、中根平左衛門力の限り支へけれども、竟にかなはで城落たりけり。信玄それより箕形原に軍をすゝむ。浜松には織田家の加勢も有、と信玄聞てはる/\〃来りて、客戦はすまじきとておさへをおくべきや、といふ処に、三河武者城をおし出すと聞えければ、さらば一戦に及べし、と備くばり有り。浜松の軍兵日既に暮なんとすれども、いさみかゝりて一ト軍すべし、と口々に申す。鳥井四郎左衛門物見して乗帰り、人々はいかに申候とも、今日の御合戦は然るべからず。敵は大軍なり、先陣に使をやり兵をあげさせ給へ。もし是非御一戦とならば、敵ほつたの郷へおしゆかん処をしたひてかゝらせ給へ、と申す。東照宮聞し召、汝は用にもたつべき者と思て、けふの物見にやりたるに、何とておくれたるや。目前に敵をおめ/\と通しては生がひもなし、と怒らせ給ふ。四郎左衛門承り、目のあきたる故にこそ、勝敗の利害をば見きはめて申候へ。御敗軍をしろし召、御かゝりあらんは殿の御心のまゝなるべきなり。勝敗の道を知ぬ人こそおくれ者よ、と以ての外に罵り、そこをつと乗出し成瀬藤蔵を尋けるに、功名したりと聞、即はれなる討死したりけり。
味方原の前夜手わけを定らるゝ時、成瀬と鳥井と先後を争ふ事有て、既に刺ちがへて死すべき色あらはれしを、かたへの人々おしとゞめたるに、鳥井成瀬に向ひて、明日信玄と一戦あるべきなり。織田家の援兵も来りぬ。士は一人も大切の時なるに、私の争論して死んは不忠ならずや。二人共犬死して殿に損かけ奉らんより、明日の軍に功名くらべして討死せんはいかに。成瀬につことわらひ、いしくも申されたる哉。われも左こそ思へ、明日討死せん。いざ、とて酒くみかはし深更に及べり。東照宮これをしらせ給はで、成瀬は信長の加勢の目付としてあら井本坂に向ふべし。鳥井は浜松先陣の目付せよ、とぞ仰られける。二人は必死を期したれば、鳥井も一所に有り。二騎先かけて二萬余の敵に馳向ふ。鳥井胄首三ツとりて、成瀬も首三ツとりて行あひ、共に打わらひて首をば抛すて、又かけ向ふ。鳥井又首とりて成瀬をとへば、只今山縣が陣にかけ入て討死し、敵其首をとりたり、といふを聞て、成瀬に先だゝれしよ。汝はとく帰りて朋輩にかたり候へ、と従者にいひすて、信玄の旗本をさして、かけ入らんとせしを、土屋右衛門が手の者どもとりかこみけり。鳥井はすぐれてたくましき剛の者にて、三尺余りの野太刀を打ふり、死狂に切て廻る。土屋が胄を破よくだけよと斬たりけるに、目眩て馬より落る。多兵四方より鎗すくめにして鳥井をうち取りたり。敵も味方もおしなべて惜みあへり。
渡邊半蔵守綱も物見して馳帰り、是も味方中々危く候。先陣をよび返させ給へ、と申す。されども壮士等いさみかゝりて、柴田七九郎、大久保治右衛門すゝみゆくを、半蔵ひらに止れといへども聞入れず。甲斐の先陣小山田に向て足軽をかくる。軍始りて先陣乱れ足になりければ、石川伯耆守数正馬より下りたち鎗を提げ、一ト足も引くまじ、と呼り、一陣の士卒各折しきて鎗ぶすまを作り待ちかけたり。甲斐の兵競かゝるを、近々と引受、一同に立あがり、ゑい/\と声をあげて追かへす。外山小作一番鎗を合せたり。日暮ければ甲斐の大軍進みかゝる。東照宮御旗本をひきゐて切てかゝらせ給へば、遠江の山家三方小山田追立られ敗れけり。申の刻より軍始りて、夜ふくるまでの軍に、衆寡支がたくて崩れたちしに、榊原は東の方西島に向て引退く。信長の侍大将平手汎秀は、いなといふ所にて返合せ討死す。鳥井四郎左衛門を始として、河澄源五郎、長谷川紀伊守、加藤二郎九郎等逞兵三百余人討れ、敵しきりに追来る。本多肥後守忠直後殿して、敵近付ばとつて返し遂に討死す。甲斐の士大将秋山伯耆守晴近透間なく追かけ奉り、御馬まはり残り尠くなりしかば、東照宮御馬をひきかへさせられし時、夏目次郎左衛門吉信、こゝは御ン討死の時にては候はず、と申て、御馬の口を浜松の方へひき向、鎗をとり直し、御馬のさんづをたたみかけてたゝきければ、御馬かけ出ぬ。夏目ふみ止り、多勢にとりまかれ、鎗の柄の折るゝ計に戦て討死す。
夏目は浜松の御留守なりしが、矢倉より軍の様を見ていそぎ馳参り、とく御城に帰らせ給へと申せども、吾城下に於て打まけなば、いのち生て何にかせん、とて御馬副の者に口をはなせと仰せられしを、吉信、御馬の口なはなしそ、とかたく下知し馬より飛下り、御諱をたまはり候へ。討死仕るべし、とて御馬に付たる畔柳助九郎に下知して、御ン馬を御城の方にひきむけさせ、鎗の柄にて御馬のさんづをたゝき、取て返し、十文字の鎗にて追くる敵を支て討死しけるともいへり。是より前三河一向宗一揆の時、彼宗門を信ずる人々ひし/\と相あつまり、桜井の松平監物、大草の松平七郎もくみしけり。中にも夏目次郎左衛門は一族も多かりけるが、彼宗門に徒党して己が知行所に要害をかまへたてこもりしを、松平主殿助伊忠不意におしよせ、木戸を打破り攻入しかば、夏目防ぎかね帑蔵の中にかくれ入たるを、殺すは籠の中の鳥を殺すに似たり。たすけてこそ、と仰有り。主殿、うち殺して後申べき物を、といひながら人数を引とりぬ。夏目岡崎の方をふし拝み、かゝる仁愛ふかき殿に楯つきし事の悔さよ、とて其の日より宗門の本尊の前に参りて、殿の御為にいのちをすてさせ給はれといのりけるが、果して義死をとげにけり。又一説に、夏目、大津半右衛門、同伊織乙部八兵衛等六千余、額田郡野田のふる城にたて籠りけるに、深溝の城より松平主殿助伊忠是を攻る。乙部はもとより一向宗に非れども、夏目と無二の知音たる故同じくこもりしが、遂にゆるすべからざる事を察し、夏目をたすけん為に久留善四郎と相はかり、伊忠に内通し、寄手を引入しかば、半右衛門は針崎へおち行き、夏目は蔵の中にかくれしを、乙部、夏目を助け候へ、と伊忠に乞ふ。乙部が朋友をすてざる事を伊忠感じ、夏目も亦武功有し者ゆゑ、蔵をとりまきて此旨をなげき申ければ御赦ありけり。夏目愚にして一揆にくみせし事を後悔し、蔵より出て伊忠に降参しけるともいへり。
水野右近大夫もひきさがり支へけれども、敵猶きそひかゝれば又御馬をひき返させ給ふ。成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛歩だちて御供す。敵六七騎すゝみ来るを、成瀬一騎切て落し、御馬をかへさせ給へば、六騎は追とゞまりぬ。大久保新十郎忠隣御ン馬のかたへをはなれ奉らず、大久保七郎右衛門忠世さいがかけの辺に御旗をおし立、敗軍の味方をあつむる、其ひまに浜松に引とらせ給ひけり。敵城近くおし寄れば、鳥居彦右衛門元忠玄黙口より討て出相戦ふ。渡邊半蔵兄弟、勝屋甚五兵衛、桜井庄之介名のりかけて鎗を入れ、敵五人討とり、おしかかる敵を追はらふ。石川伯耆守と大久保七郎右衛門と相はかり、鉄砲をつるべばなしにうちたてさすれば、つめ寄たる敵も皆引返す。味方疲はてけるに、天野三郎兵衛、大久保七郎右衛門と心を合せ、敗軍の中を求めて鉄砲只十六挺ありしを引具し、信玄の陣さいがかけに向ひてうちかけしかば、甲斐の軍夜合戦にかゝるかとあわてゝ、くらさはくらし案内はしらず、さいがかけへ落る者其数をしらず。
又一説、其の夜酒井左衛門尉忠次、今夜武田の軍兵疲たらんは必定なり、夜討せん、とてしのびを出し、信玄の陣屋の様を見せけるに、爰には何色の旗の紋あり、かしこには此いろの旗を立たり、といひける忠次聞て、疲れたる兵を後陣に引退け、後陣を先にくりかへたるなり。信玄の慮浅からず、とて夜討はせざりけり。後に聞に、其夜信玄の士卒一人もねむれる者なかりしともいへり。
夜あけて信玄兵をかへして、おさかべに越年あり。是れ元亀元年十二月廿二日遠州箕形原の合戦なり。
『箕形原合戦信玄遠謀の事』
箕形原の軍終りて、皆浜松の城を攻んといひけるに、信玄、勝て胄の緒をしむるといふこと有、とて軍をかへされけり。此時信長は、白須賀に毛利河内守、山中に瀧川伊予守、吉田に稲葉伊予守、其兵三萬あまりにておかれたり。もし信玄勝に乗て引とらずば、信長二萬五千をひきゐておしよせ、毛利瀧川等も思ひもよらぬ所に打てかゝるほどならば、必ず浜松よりも切て出、中にとりこめて軍せん、と吉田より岐阜まで一里に一人のしのびの者をおいて待れけるに、信玄ひき返されしによりて、信長の謀空しくなりぬ。
『箕形原合戦東照宮御退口の事』
味方原の軍に甲斐の兵はげしく追かけたりしかば、東照宮幾たびとなく御ン馬を返し給ふ。大久保五郎右衛門忠次手負て歩だちになりしが、菅沼藤蔵定吉に詞をかくれば、忠次を馬の前輪にのらせて退たりけり。後に菅沼に長光の刀を賜はりて賞せさせ給ふ。菅沼又引返して追くる敵を防けり。天野康景、長坂源次郎、坂部又十郎等もふみとゞまりて防ぎ戦ふ。大久保相模守忠隣(此時新十郎)馬を射られ、歩だちに成て危かりしを御覧じて、小栗忠蔵久次(後に忠左衛門と称す)に、新十郎わか武者なりあれ助けよ、と仰せられしかば、久次己が馬に忠隣を抱きのせて引退く。敵透間なく追つめ奉りける武者ありけるを、野中三五郎重次返し合せて討とりければ、後に信国の刀を賜りぬ。畔柳助九郎御馬のかたへをはなれず、後に金の扇を賜りて賞せさせけり。猶敵手しげく追つめ奉りけるに、水野太郎作ふみとまりて防戦ふを御覧じて、又御ン馬を引返さる。成瀬吉右衛門正一は、兄が最後に汝は此あたりの案内よくしれり。御供して恙なく引とらせ奉るべき由云たりしかば、御前につき奉りしが引返して敵を追ひしりぞけ、終に浜松の城に入らせ給ふ。鳥居彦右衛門元忠に御下知ありて、玄黙口の御門をひらきて引とる兵を入せらる。たとへ敵したひ来るともわがこもる城にたやすく討入るべきや。門を閉ずしてかゞり火を所々にたくべし、と仰せらる。此日は天曇り雪ちりて寒気殊に甚し。御供して馬より下立、城中に入る人々は松平八郎三郎康定、松平弥九郎景忠、平岩七之助親吉、大久保忠隣、菅沼定吉、都築惣左衛門秀綱等なり。都築が妻粥を持せ来りて御供の人々にくばりあたふ。後に衣服を賜りて賞美あり。今日敵の跡をふんで戦はゞ勝べきに、味方はやり過て心ならず敗軍しぬ。口惜き事なり、と仰せあり。湯づけ飯を侍女久野奉りければ、三度かへたまひ、われつかれたり、とて御枕をかたぶけられ、いびきかきて御睡りあり。山縣城近く攻よせ、門の扉をたつるに暇なしと覚たり。いかに攻め入らばや、といふを、馬場美濃守聞て、打まけて引とりたれば、門をとぢ橋をも引べきに、左はなくてかゞり火白日の如し。もし謀あるべきか、かろ/\〃しく攻べからず。徳川殿は海道一の弓とりなり。よく見届てこそ、とて猶予しける処に、城中より鳥井彦右衛門、渡邊半蔵、同半十郎、桜井荘之助、勝屋甚五兵衛を始として、くつきやうの剛の者ども百余人突て出しかば、甲斐の兵虎口を引退きて攻ざりけり。
(岩波文庫『常山紀談』上巻を底本としました。)
巻四
常山紀談
湯浅常山著
赤字は『影武者徳川家康』(上巻)120、121p引用部分。
巻之四(全文)
『山崎長門守詫美越前守討死の事』
天正元年江北の軍に朝倉敗しかば、信長の兵追事急なり。朝倉が士大将山崎長門守、詫美越前守柳瀬にてふみ止り支へけるに、はげまされて返し合せて討死する者多し。山崎も大軍の中にかけ入て討れけり。詫美矢立の硯とり出し、詩一首書て、落ゆく者にたのみて故郷にかへしけり。
- 萬恨千悲有2驀然1誰識今夜入2黄泉1故園更莫レ灑2愁涙1屍暴2戦場1唯是天
かくて散々に戦ひて討死しける。其の間に義景のがれ得て、越府にひきとれり。
『中川重秀和田惟政を撃つ事』
天正元年将軍義昭、織田信長と不和の事出来て、和田伊賀守惟政、将軍の味方して摂津の国に陣す。信長和田を始として、誰某が首とりたらん者にはしか/\〃可レ賞、と書記して札を立られたり。中川瀬兵衛重秀、此時は荒木村重に属したりけるが、此の札を打見筆とりて、和田が名に点をかけ、自姓名をしるし家に帰り、妻に向ひ事の由を語りて、萬一生て帰りなば又こそ見参すべけれ、といひしに、妻聊患る色なく、さらば軍の門出祝たまへ、とて羹すゝめ酒とり出したり。其の夜子の刻ばかりに、伊賀守が首とつて来りけり。村重大におどろき、いかでかくたやすう和田をば討得たるぞ、といふ。重秀、さん候。明日必ず戦を決すべし。されば討るゝ者少かるべからず。同じく死むいのちを此夜の中にすてなんには、和田が首とり得つべし。敵も明日の合戦を大事に思ひ淀河の浅深をふみ見んに、惟政さる大将なり、物見をたのむべからず。自ら来らんは必定なり、あつぱれ討とらんず物を、もし又討死せば多くの敵の中に入て、大将の首とらんとて討死したりと人いはんは、武名は朽じと思ひ定め、水をわたりあなたの岸の柳かげにふしかくれてまつ。案の如く和田二陣にひかへて出来るをまぎれ入り、終にうちとりて水中に飛入、のがれ得て帰ぬ、と申ければ、人々感じあへる事大方ならず。
『梶川弥三郎槙嶋先陣の事』
天正元年信長霊陽院殿を宇治の槙嶋の城に攻る時、折しも雨ふりて川水岸をひたせり。信長馬を水涯に駐て、昔の梶原佐々木も鬼神にてはよもあらじ、といはるゝ処に、武者一騎川へうち入たるを見て、梶川弥三郎高盛なるべし。梶川討すな渉せ、と下知して、それよりわれ先にとうち入てわたしけり。此の戦の前に信長黒の馬を梶川にあたへらる。其の時信長、梶川が志重ての軍に真先かけんずる者なり、とあざ笑ひていはれしが、果して其の詞にたがはざりけり。
『山内一豊馬を買れし事』
山内土佐守一豊其はじめ織田家に仕へたりけり。東国第一の駿馬なりとて、安土に牽来てあきなふ者あり。織田家の士是を見るに、誠に無双の駿足なれど、価あまりに貴し、とて求むべき人なく、いたづらに牽て帰らんとす。一豊其の比猪右衛門といひしが、此の馬望みに堪かねたれども、いかにも叶ふべからざれば家に帰り、身貧きほど口惜き事はなし。一豊奉公の初にあつぱれかゝる馬に乗て、屋形の前に打出べき物を、とひとり言しければ、妻つくか/\〃と聞て、其価はいかばかりにてか候、と問ふ。黄金十両とこそいひつれ、と答ふ。妻聞て、さほどに思ひ給はんには、其馬求め給へ。其料をばゐらすべし、とて鏡の奩の底よりとり出して、一豊が前にさし置たり。一豊大におどろき、此年ごろ身貧しくて苦しき事のみ多かりしに、此の金ありともしらせたまはず。心強くも包み給ひけん。今此馬得べしとは思ひもよらざりき、と且は悦び且は恨む。妻仰の旨ことわりにてこそ候へ。さりながらこれはわらは此御家に参りし時、父此かゞみの下に入れ給ひて、あなかしこ、よの常の事にゆめ/\用ふべからず。汝が夫の一大事とあらん時にまゐらせよ、と戒めたまひ候き。されば家の貧しきも世の常なれば堪忍ても過ぬべし。誠に今度京にて馬揃あるべしと承れば、此事天下の見物なり、君も又つかへの始なり。よい馬召て具参せさせまうさんと存候てこそ奉れ、といふ。一豊悦ぶ事限なく、頓て其馬求めてけり。程なく京にて馬揃ありし時打乗て出しかば、信長大におどろき、あつぱれ馬や、とて事の由聞給ひ、東国第一の馬遥にわが方にひきて来りしを、空しく帰さんは口をしき事ぞとよ。それに年比山内は久しく浪人して有しと聞く。家も貧しからんに求得たるは、信長が家の恥をすゝぎたるうへ、弓箭とる身のたしなみ是に過たる事やある、と感じて、是より次第に用ひられしとぞ。
『奥平貞能父子帰降の事』
天正元年三河作手筑手の城主奥平監物貞勝入道道文、其子美作守貞能、孫九六郎信昌、皆勇気たくましき人にて有しに、近ごろ道文は武田家に心をよせ、勝頼の士大将甘利の作手の本丸におき、奥平父子は外郭に在り。信昌信玄の死したる事をかくせるを悟り居し処に、東照宮より本多豊後守廣孝を以て帰降の事をすゝめ給ふ。信昌父と大父とにすゝめて密約をなす。武田家奥平に人質を出せよ、と下知せらる。貞能いかにもすべき謀なくて、庶子千丸十三歳になりけるを、黒屋甚九郎をそへて出しけり。東照宮を不意に襲打べき謀を家臣を以て告奉る。武田にも是をあやしみ、土屋右衛門直村黒瀬に在けるが、使を以て貞能を呼よせ、勝頼の検使城所道寿も出向ひ、二心ある由聞ゆる所に、とくも来られけるよ。神妙にこそ、と詞をかくる。貞能、かゝる時には父子の間も疑ひ思ふ事世のならひなり。然れ共愛子にて候千丸を人じちに出し候へば、何の子細の有べきや、と駭くいろなければ、いざ碁をうたん、といふ。貞能心しづかに碁をうち終り、暇乞して門外に出るを、道寿又よびもどし湯漬飯を出す。貞能之を食するひまに、道寿士を門外に出し、待居たる貞能が士に向ひて、主人叛逆あらはれ、唯今討れし由をいはせけれども、奥平六兵衛うちわらひて更に駭くいろなし。これは貞能素より武田方にていかなる事をいふとも、吾首を見ざる中は驚く事なかれ、と固くいひふくめし故なりけり。かくたばかりすまして、貞能馳帰り、其夜一族打具して退散し、岩崎に赴ければ、松平主殿助伊忠、本多豊後守廣孝等、東照宮の仰を奉り出迎ひて滝山に引とりけり。
『東照宮大井城御退口大久保忠世高名の事』
天正二年四月、東照宮天野宮内左衛門景貫が大井の城を攻させ給ふ時、霖雨にて兵粮運送の便よからず。三倉の砦にひきとらせ給ふ処を、天野討て出、つけしたふ。高山光明の城々よりも出あひ、田野大窪の郷民も相加はり、こゝかしこより鉄砲をうちかけ、声をあげて攻かゝる。後殿の人々あまた討れしをしろしめさず。東照宮三倉にて聞し召引返させたまへば、はや敵引とりたり。玉井善太郎後殿しけるが、股を鉄砲にてうたせ、御あとをしたひて三倉にまゐりければ、手負たるか。あとに鉄砲の音せしをあやしく思ひしに軍有けるよ。此馬にのれ、と仰られ、御馬よりおりさせ給ひけり。人々君の士をいたはらせ給ふに感ぜざる者なし。大久保七郎右衛門忠世が同心杉浦久蔵(一説、惣左衛門久勝に作る)深手おひたりしに、七郎左衛門馬より飛おり、是に乗て引しりぞけ、といふ。久蔵うつけたる馬の下り所かな。わが如き者はいか計討れたり共何事かあらん。大将たる人の馬ばなれする物かは。八幡も照覧あれ、乗まじい、といへば、七郎右衛門礼義も所によるぞとくとく、といへば、久蔵、われ此馬に乗て生き、大将をすて殺してはいかゞせん、とて乗ざれば、七郎右衛門、いなゝらば馬をすつるよ、といひすてゝひかんとする処に、小玉甚内(一説石上兎角)馳来り、七郎右衛門は早のきたるぞ、といひて久蔵をひきたて馬に打のせ、やがて七郎右衛門に走りつきたり。七郎右衛門には兵藤弥惣と犬わかといふ小者と三人打つれて、細道の崖を引返し処に、跡より退来る者七郎右衛門をつきおとす。二人もつゞいて飛ける所に、犬わかあげ羽の蝶のさし物を持たるを投すてたるを、敵見てこれをとらんとする所を、弥惣走り懸りかなぐりとらんとすれば、敵弥惣を一ト刀切たりけるに、七郎右衛門とつて返し敵三人打取たり。東照宮、剛将の下に弱兵なし、と忠世を御賞美ありけり。
『渡邊守綱を鎗半蔵といふ事』
東照宮と武田の兵と大天龍にての戦に、近藤伝次郎手おひて渡邊半蔵守綱を見かけ、手おひたるぞつれて退よ、といふ。心得たり、とて手に提げたる首を投すてゝ、伝次郎を肩にかけ、三里あまり引退てたすけければ、東照宮聞召し、味方一騎討るれば敵千騎の強みといふ事あり。味方をたすけたるは七度の鎗を合せたるよりもまされり。今より後鎗半蔵といふべし、と仰あり。後に半蔵人にかたりていはく、伝次郎をわれなればこそたすけたれ。何としてのけおほすべき。かゝる時は大かたたすくる体にもてなし、刺殺して棄らるべし。味方なればとて頼みにはならぬものよ、といひしなり。
又一説、永禄五年九月参河の八幡にて、今川氏真と三河の軍戦有りて利あらず、二手にわかれて引退く。敵急に追かくる。半蔵守綱、石川新九郎返し合せ三度鎗を合す。後には半蔵一人十度に及て小返しして又三度鎗を合す。矢田作十郎足をいたみ引かねたるを、半蔵肩にひきかけて退けり。これより鎗半蔵と人にいはれしといへり。半蔵弟を半十郎政綱といふ。後新五左衛門といふ。味方原の軍に草鞋の緒のとけたるを下に居て結びけるを、半蔵いそげども心しづかにむすびて引とれり。兄の半蔵聞ゆる剛の者なるが、半十郎がごときしぶとき者はつひに見ず、と常に語りけるとぞ。
『謙信単騎佐野城に入られし事』
天正二年北條氏政、三萬の兵をもて佐野政綱をかこまるゝと聞て、謙信八千計の兵をひきゐ後詰せられけり。城危しと聞えければ、謙信、後巻はわれにおとらぬ士大将あまたあれば心やすし。佐野の城にかけ入て力をそなへん、とて物の具も著ず、黒き木綿の胴服をうちかぶり、十文字の鎗を横たへ、僅に十三騎ひき具し、氏政の陣の前を馬を静にあゆませ、佐野の軍兵見て、夜叉羅刹とは是なるべし、とて恐れて近づく者もなし。氏政囲をといて引退くを、謙信やがて門をひらかせたまへども、氏政一軍もせで引しりぞきけり。
『大河内政房節義の事』
天正二年勝頼高天神の城を囲んと師を出す。小笠原與八郎長忠、軍の目付大河内源三郎政房と相議して防ぎけり。東照宮後詰を信長にこはせ給ふ。勝頼城の巽の嶺に陣し、大文字の旗を中村の内公文といふ所に立る、後まで其地を大旗と称す。兵粮竭士卒疲るれば後巻を待かね、姉川の専功を捨させ給ふ、と怒て七月二日城を出て降参す。軍の目付大河内政房は、應政公の妾華陽院の甥なり。勝頼に降らざりしかば、小笠原生どりて石の牢に入置たり。勝頼降らば本領に倍してあて行ふべし、と説せけれども志を変ぜず。勝頼怒て牢の口を鎖す。政房、ことしより高天神落城に及ぶまで八年の間牢中にあり。甲斐の士、横田甚五郎高天神に来て在番せしが、大河内が節義を深く感じ、殊にねんごろにいたはりたり。かくて東照宮高天神を攻させ給ひて、天正九年三月廿二日の夜、城の守将岡部丹後真幸、横田甚五郎尹松、相木市兵衛昌朝已げ切て出、岡部は討死し、横田、相木は切ぬけて甲府に落行けり。城落ければ石川伯耆守数正城に入て政房を捜し出す。牢中に年久しく有て足痿ければ、むしろにのせて東照宮の御前に出す。多年石の牢に有し艱厄いふべからず、とて御涙を流され、御手づから刀、脇差、黄金をあたへらるゝに、政房生どられし事を口惜く思へる色あらはれしかば、人々、敵のとりことなる事は小笠原が不義にして武田に降参せし故なれば、何方にのがれ出づべきや。志は比類有まじき事なれば、生どりと成ぬる事なかなかほまれとなりたり、と口々にいひけるが、猶も其の心に憤りけん、剃髪して肖空と称せしが、仰によりて尾張の津島の湯に浴し、足の痿も愈ければ、遠州稗原の地を賜りしが、長久手の戦に討死しけるとぞ。
『鳥居強右衛門忠節の事』
天正三年勝頼奥平平九八郎信昌が三州長篠の城をかこみ攻る。東照宮援兵を織田家にこはせ給ひ、後巻の謀をめぐらし給ふ処に、城中粮米既に尽んとせしかば、此旨を告奉らん為、鳥井(ママ)強右衛門勝商に命じて密に城を出す。鳥居のがれ出る事を得ば、向のかんほうが嶺に烟をあぐべし。三日過て又かの山に烟を両度あげば、後巻なしとしり給ふべし。三度あげなば後巻ある事をしり給へ、と約しければ、信昌鈴木金七郎を鳥居にそへて、五月十四日の夜、城の西なる山の岩根をつたひ川に入、寄手素より大野川、瀧川の水底に縄を張てなる子をかけたれば、通るべきやうもなし。二人水練の達者にて川の浅瀬はよくしりつ。小脇指を抽て川底を潜り、縄を切て通りしかば、から/\となりけるを、番の兵どもあやしみけるに、其の中に一人、五月雨にはかゝる川をば鱸の通るならん、といひければさてやみぬ。二人は早瀧の下広瀬と言ふ処に上り、かんほうが嶺にて烟をあげ、十五日に岡崎に参て、しか/\の由を申処に、信長其日岡崎に着陣せらる。鳥居は、信昌尚心もとなくや候らん、しのび得て城に入る事を得ば、早後巻候べき事審に申さん、とて引返す。鈴木は信昌が父美作守貞能に告べし、と鳥居に別れけり。鳥居かんほうが嶺に上り相図の烟三度あげて後、篠原といふ所にゆき忍入らばやとするに、柵重々にふりて砂をまき、出入の人の足あとを改めしかば、中々入べき様なくてためらひけるを、穴山の手の者見付てあやしみて遂にからめられけり。勝頼逍遥軒信綱を以て子細を問るゝに、鳥居、事の由を有のまゝに答へしかば、勝頼鳥居を呼て、汝がいのちをたすくべし。汝城際に往て信長は上方の軍にて、此城の後巻重ひもよらずといはゞ城兵降参すべし。さらば汝に厚く賞せん、といはれしかば、鳥居則ち心得候とて城門近く至り、後巻とて信長父子岡崎まできのふ旗を出され、先陣は一の宮に陣せり。徳川殿御父子、野田まで御馬を出されたり。此の城運を開ん事掌の内に有、といひければ、甲州の者ども大に驚き、鳥居をひき連て、勝頼にかくと申せば、大に怒て城に向て磔にしてころされけり。長篠にて勝頼敗北して後、信長を始め鳥居が無雙の忠なる事を感じ、作手の甘泉寺に懇に葬られけり。
『酒井忠次鴟巣城を乗取れし事』
勝頼長篠の城を囲攻る事甚はげしかりしに、信長東照宮と共に後巻あり。軍評定の時酒井忠次すゝみ出、今夜わき道より長篠の附城鴟巣へおしよせ攻破らば、勝頼必ず敗北すべし、と申もあへぬに信長あざ笑ひ、汝は三河遠江の小ぜり合には慣つれど、大軍の計策はしらざりけり、と嘲られしかば、忠次いふべき詞なくて出ける処に、信長東照宮にさゝやき申されけるは、左衛門尉が申す処尤然るべし。又呼出されよ、とて酒井が側近く居より、誠にゆゝしくも計りたる哉。されども外に泄聞えんかと思て、わざといつはりて誹りたりき。とく馳向て鴟巣を攻破り候へ、といはれしかば、忠次承りて出んとする時又ひきとゞめ、同じくは信長が向ひ度所なり。あたら武功を汝に譲りき、と申されける。忠次大にいさみて、夜半計に思ひもよらぬ所におしよせて、武田兵庫頭信実、三枝勘解由、和田兵部を始としてあまた討とり、火をかけたる煙を武田の軍兵顧みて、大に勇気抽て終に敗北のもとゝなりけるとなり。此夜討に天野惣次郎は指物をさゝず、戸田半平は、道遠し夜あくる事もあらん、とて指物を持せけるが、城を焼たる火のひかり白日の如く、天野戸田先を争ひけるに、戸田が銀の髑髏のさし物かゞやきわたりて、人の目を驚しけり。信長後に酒井が功を賞して、汝は前に眼有のみにも非ず、後にも眼あり、といはれしかば、忠次忝き由申て、さて終に後を見たる事はなく候、と申ければ、信長笑て、前後の計たがはざる事を賞せんとていひ過たり、といはれければ、忠次其時、仰の旨面目有り、とて退出したりけり。
『長篠合戦の事』
長篠にて信長の先陣と旗本との間に、ほり切をかまへ柵の木ゆひて欺きて敗北すれば、武田の猛兵、敵はにぐるといふて追来り、柵の木に行なづみたる処を、数千の鉄砲雨のふるがごとくうちかくれば、空矢なく中りて討るゝ者数をしらず。引退んとすれば柵より出て付けしたふ。戦をいどめば柵の中に入りてうちしらます。勝頼の士大将勇気余り有といへども、打破るべき様なく、皆的になりて討死しけり。
『内藤四郎左衛門返答の事』
同じ時徳川家の先陣を下知せよとて信長の使来る。内藤四郎左衛門、われ等が主君は、先陣の下知を他人にうくる者には候はず。内藤承りて返答仕りたりと申されよ、とあらゝかにいひて追かへす。信長聞て、徳川家よき士数をしらず、といはれけり。
内藤を鳥井に作れるあり。然れども鳥井は三形が原にて討死したれば、内藤の事なるべし。
『多田久蔵が事』
同じ軍に、甲斐の士一人生どりて信長の前にひき来る。裸に緋緞子のした帯をしたり。信長名を聞るゝに、美濃の者多田久蔵と名乗る。信長手を拍て、汝は伯父の葬礼の時火車を斬たり、と聞り。美濃尾張はわれにしたしみ有る国なり、我に奉公せうとや思ふ。縛りたる縄をゆるせ、悪源太もからめられたり。弓箭とる躬の恥ならず、といはれしかば、長谷川藤五郎かたへにひきのけ縄をとけば、多田わきなる鎗を奪とり四五人つき伏る。長谷川そこにて首を切て信長に出し、しか/\なりと言へば、信長深く惜まれけり。
一説、赤地の唐おりの錦の下帯したる士を生どり来る。唯者に非じ名のれ、といへども名のらず。さら雑人の手にかけて殺さん。士ならば腹切せん、といひしかば、多田淡路が子なりといふ。信長聞て、淡路に久蔵新蔵とて二人の子ありと聞く、いづれぞ、と問はるゝに、新蔵なり、と申す。勇士なり、たすけてこそ、と有ければ、生どりと成たる恥辱とく首を刎らるべし、と乞たり。信長の前にて縄をときしに、門外に立かけたる鎗をとり、あたりの者をつき殺すによりて、遂に新蔵を切ころしけり。
『佐久間信盛偽りて勝頼に降る事』
長篠合戦の前信長謀をめぐらし、佐久間信盛より潜に長坂釣閑がもとに使を遣し、日比信長に恨る子細あり。願はくは勝頼軍をすゝめ戦あらんには、其の時信盛裏切して信長の旗本へ俄に切りかゝるべき旨をいひ送りしかば、釣閑悦んでこれをたばかるとはしらず、勝頼に一戦をすゝめける故、馬場美濃信勝を始として、侍大将の軍評定していひける事共を勝頼悉く用ひずして、楯なしを誓て進で軍すべき、と決断せられしかば、其後は諸大将諌る事を得ざりけるとなり。
『二股城攻内藤桜井功名の事』
天正三年六月東照宮二股の城を攻給ふ。城主は依田下野守幸成なり。其の子右衛門大夫幸致城を出て、鳥羽山の下なる小川を隔て防ぎ戦ふ。内藤弥次右衛門家長、強弓の手きゝにて散々に射しらます。松平弥右衛門忠長が子彦九郎、敵に朱のちやうちんのさし物あるを見て、味方にも此さし物有ければ、あやまりて敵の中へまぎれ入しを、朝比奈弥兵衛一箭にて射伏たり。内藤は彦九郎と縁者のしたしみ有ば引返して弥兵衛を射る。其の箭弥兵衛が乗たる馬の鞆の前輪よりあと輪をかけて射貫く。弥兵衛が弟弥蔵はせ来りて、兄が屍をひき退んとするを、二の矢にて是も射倒したり。城兵二人の屍をひきのけんとするを、本多忠勝等進みかゝりて追つたてたり。城兵引退く中に、一人手負てひきかねたる者有けるを、一人とつて返し、是をたすけ門内に引入けるを、桜井荘之介勝次、敵の首を一ツ取たりしが、又すゝんで追かけ行く。東照宮御覧ぜられ、茜の四半のさし物は桜井なるべし。深入するよ、と仰られけり。其時敵の手負を助くる者やう/\一の木戸揚錠門の中に入り、手負たる者はいまだ半見ゆる処に、勝次走りつき、手負ひたる者の足をとりて三間計ひき出し、遂に其首をとる。其時門内より勝次がさし物を打折けるが、屍にかゝりとまりしをしらずして、五六間計引とる時、従者かくといへば、又取て返しさし物をとり得て鳥羽山に帰り首を奉る。東照宮唯今の勇気のいかめしさ、誠に無双と覚ゆるなり。然れども是より後はゆめ/\今日のごとく深はたらきすべからず、とて遠州にて禄を増したまはりけり。彼の従者も度々はたらき有て後、士となし内田彦右衛門といひけり。
『蘆田信蕃二股城を退く事』
勝頼長篠敗北の後、蘆田常陸介信蕃二股の城を守る。三河の軍五月下旬より此を攻る。南方の山に東照宮御陣をすゑられ、巽の方鳥羽山、東は三十原口の山、西は和田嶋に向城をかまへらる。信蕃固く守りて十一月に至りて、城をわたし甲州に引入べし、勝頼再三下知せらるれども聞入ず。勝頼自筆の書をもて下知せられしかば、十二月下旬に人質を出し、廿三日に城を渡さんと約せしが、雨ふりければ蓑笠にて見苦く候、とて翌廿六日天晴て後城をわたし、二股の川の辺にて人質をとりかへ引とれり。信蕃小勢にて久しく守り、且城をわたす作法正しかりけるを御感ありて、後終に徳川家に仕へけり。
『信長公秋山伯耆を刑し給ふ事』
天正三年信長美濃岩村の城を攻て秋山伯耆晴近を生どり、生ながら逆ばり付といふ物にせられけり。此は信長の姑遠山内蔵助が妻にて、遠山は其の前岩村に有けるを、秋山遠山の七家と称せし人々と和平してたばかり、元亀二年信長の加勢の士三十五騎を殺害し、城を奪とりて内蔵助が後室を己が妻としけり。遠山は是より前に病死し、其嗣信長の男御坊丸を甲州へ送りやり、岩村を居城とせしかば、信長怒りにくまるゝ事深くてかくはせられしなり。秋山口をしくもはかられけるかな。われは信長と縁類のしたしみあり。かくせらるゝ事無念なり、とて歯をかみ、信長の末を見よ、と罵りて、七八日ばかり有て死しけり。信長信州法華寺にて兵粮つかはれける時、いろいろの小袖を著たる女房一人来り、懐より錦の袋に入れたる茶入をとり出し、是を信長に見せたまはり候へ。見しりておはしまさん、といふ。信長走り出て茶入をば石に当てうち砕き、刀を抽てかの女房を切ころされけり。此秋山が妻にて信長のをばなり。
『松平忠次諏訪原城を守らるゝ事』
天正三年八月東照宮諏訪原の城を攻させ給ふ。此の城は甲州馬場美濃守氏勝が、城制の法にてきづきたりし名高き城なりといへども、城兵力弱りて、廿四日の夜城を棄て小山の城に迯落けり。東照宮、此の地は高天神に往来の要路、駿州田中持船の敵と、大井川一筋を隔たり。勝頼必ず隙を伺ふべし。誰か此に在て城を守り、敵を防ぐべき、と仰有けるに、松平左近忠次すゝみ出、身不肖に候へども、此の城を守り申べし、と申ける。御感有て松平の姓を賜はり、御諱の字を下され、松平周防守康親と申せしは此の時よりの事なり。勝頼が暴悪殷の紂王に似たり。これより攻入て打ほろぼすべき、とて諏訪の原の城を牧野の城と改められしとなり。
『山内治大夫進士清三郎功を譲る事』
諏訪の原の城を甲州より攻来りて合戦あり。松平康重(康親の子)の士山内治大夫、進士清三郎、山崎惣左衛門三人殿しけるに、山内は精兵の手きゝにて、射払て引退く時矢だね尽たり。山縣源四郎猶追かくる時、進士清三郎矢一筋を山内ふみ止りて射けるに、志村金右衛門が胸板を射通し、後の松の木に射つけたり。夫より物わかれす。山縣此の矢を康重に送り返して、強弓精兵無双なり、とぞほめたりける。康重其矢に進士が姓名の彫付たりしを見て賞する処に、是は山内が射申たるにて候、と申す。復山内を呼出して、しか/\なりやと聞るゝに、清三郎が射たるにて候、とゆづりけり。康重両人に感状をあたへたり。世の人両人を今の孟子反といひあへり。
『長九郎左衛門能登国発向の事』
天正五年畠山修理大夫義隆毒殺せられ、家臣七尾の城に據て信長に属し、能登大に乱れければ、義隆の伯父上杉弥五郎義春越後に在て是を聞、謙信にかくと告ぐ。謙信即ち師を出して、義春先陣して七尾の城を攻おとす。此の時長九郎左衛門重連七尾にて畠山が長臣温井三宅に殺さる。重連が弟恩光寺使僧となりて、信長に此の由を申せば、柴田勝家、丹波長秀、長谷川、前田利家、羽柴秀吉、瀧川一益、氏家卜全等四萬計にて打立ち、八月五日加州手とり川を渉り永嶋に陣取りたり。謙信は能登一州悉く旗下につけ、八月朔日兵を返して、加州にて長が一族の首七ツ、倉部柏野の間なる浜に竿ゆひ渡しかけ並べ、札を書て立られたり。松任の城主蕪木右衛門大夫と和平し、信長著陣を聞き、松任にて軍評定し、一戦すべし、と手くばりあり。七尾既に落て、謙信これまで打向れたり。爰にて合戦無益なり、とく引退くべし、と信長の陣々いろめき立つ。恩光寺人に首を見するに、名のみにて面貌異なり。上方の軍のおし来るを聞き、謀を以て長一族の首をいつはり設たるならん。能州をすて松任に在は、後詰を防ん為なるべし、といふを聞てさわぎもしづまりけり。即夜戌の刻に及で恩光寺、柴田、木下が陣に行き、先には味方一同に敗北すべきいろ有を見て、たばかりて申せしなり。七つの首は吾父兄弟にて候、と告しらせしかば、爰にて合戦すべからず、とて信長引きかへさる。恩光寺是非一軍と乞へども聞入れず、恩光寺は後信長の命にて還俗し、長九郎左衛門連龍といひしは此の人なり。勝家越前の大橋に札を立て、長九郎左衛門能州に発向す。立身を志す輩はわが被官たりとも参るべし、と書たりければ、相あつまる士八十余人、天正七年三月二日能州穴水の城に入る。旧好の者共馳あつまり百人に及べり。上杉より有坂備中を七尾におきけるが、長曾検見與十郎を大将としておしよせ戦ふに、長敗北して危かりしを、谷大学討死し、長やうやく引とりたり。紀州士鈴木因幡、初長にしたしみ有り。北越に居て今能州に来り、長有坂を和平し、従者は陸、長は船にて有坂が方に来るべし、との使に鈴木来りしに、長に従へる石黒大膳、井久留了意、合田民部、木嶋小介、如何すべき、といふ。石黒、今七尾にゆかば必ず害にあはん。船中にて鈴木を殺して退くべし、とすゝむ。長聞て、汝が志悦ぶべし。然れども陸より囘る家人皆殺されなん。吾独生べき義なし、とて七尾にゆき、法道寺に入て、遂に有坂に対面す。殺害にきはめたれども有坂事故なく長を帰しけり。松川兵部、今日長を討もらし残多く候。おしよせて討ん、といへども有坂聞入ず、長は石動山にかゝり越中に赴く。石黒、敵よせ来らんに残る者なくば口惜きなり。姓名をたまはり候へ。敵を支て討死せん、といへども、長、汝をすて殺し、吾子孫をとりたてたまはれ、といふ処に、七尾の商来りて、敵おしよする、といふ。長は石動山にかゝり、石黒は物の具して待ども敵来らざれば、あとより乗付て共に越中に赴き、神保安芸守氏春のもとに居たり。後長は前田の家に仕へて、浅井なはてに武功ありしは此の人なり。長後又恕庵と称しけり。
『越中にて謙信月を賞せられし事』
謙信越中にて秋夜諸将をあつめ、月を賞して詩あり。
- 霜満2軍営1秋気清。数行過雁月三更。越山並得能州景。任他家郷念2遠征1
『信長公松永弾正を恥しめ給ひし事』
東照宮信長に御対面の時、松永弾正久秀かたへにあり。信長、此老翁は世人のなしがたき事三ッなしたる者なり。将軍を弑し奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大仏殿を焚たる松永と申す者なり、と申されしに、松永汗をながして赤面せり。
東照宮後長臣等を召て、御物語有ける時、此の事を仰せ出され、先年信長金崎を引退きし時、所々に一揆起り危かりしに、朽木が浅井と一味を疑ひ進退きはまりしに、松永信長に告て朽木が方へ参りて、味方に引付け候べし。朽木同心せば人じちをとりて打具し御迎に参るべし。若し又帰りまゐらずば、事ならずして朽木と刺ちがへて死したりとしろしめされよ、といひて、朽木が館に赴き、事なく人じちを出させ、それより信長朽木谷にかゝりて引かへされしなり、と仰られしとぞ。
『山口六郎四郎奥田三河守高屋城を落る事』
松永が士大将山口六郎四郎、奥田三河守高屋の城を守りけるを、信長攻らるゝに、越中力尽て一方をかけ破り落んとせしに、山口風雨の夜鉄砲をあつめ、東の門の寄手へ向て散々にうたせければ、すはや打て出るとさわぎける。其のひまに西の門を開き、一同にかけ出、撃破りて落ゆきけり。
『長坂釣閑跡部大炊邪佞の事』
謙信卒して(天正六年三月九日)養子上杉三郎景虎(改政虎実は北條氏康の子也)猶子喜平治景勝遺跡を争ふ。景虎縁ある故武田勝頼に援兵を頼む。勝頼兵を出す。此時景勝謀て、勝頼の寵臣長坂釣閑跡部大炊助に使者を送り、勝頼に黄金一万両、寵臣に二千両宛を与へて加勢を乞ふ。両寵臣勝頼を勧て政虎を放されたり。是れより諸士勝頼をうらみけるが、終に勝頼の妹聟木曾左馬頭儀昌信長に従ひて勝頼に叛く。勝頼これを討んとて、軍を信州諏訪原に陣す。小山田左兵衛信茂もこれに従ひて、御宿監物友綱に送る。
- 汗馬惣々兵革辰。東西戦鞁轟レ辺恨。世上乱逆依レ何起。只是黄金金五百鈞。
- 砂金を一朱もとらぬわれらさへ薄恥をかく数に入るかな
- 友綱和讃、
- 甲越和親堅約辰。黄金媒介訟レ神恨。倍臣屠尽平安国。可レ惜家名換2万鈞1。
- 薄恥をかくはものかはなべて世の寂滅するも金の諸行よ
両寵臣弥邪義を行ひて武田家滅亡せり。
『東照宮勝頼と大井川にて御対陣の事』
天正七年九月、東照宮勝頼と大井川のいろうにて川を隔て対陣しおはします。時に大木川上にて川にまろび落ける。其の音波にひゞきてこと/\〃しく聞えしかば、すはや勝頼夜討に寄るとさわぎたちてとまらず。牧野半右衛門に、先陣をしづめよ、と仰せられしかば、牧野馳行て、何事にさわぎ候や。御旗本もさわぎ候ぞ。とくしづまり候へ、と呼りければ、愈みだれたちけり。かかる処に、大久保七郎右衛門忠世馳来り、勝頼おし寄べし、とて御ン旗本は物の具固め敵を待かけたるに、何とて先陣の人々かくまで驚きうろたへ候哉。後日に嘲りわらはるべし。とくしづまり候へ、と罵りければ、是に恥しめられて、程なくさわぎもしづまりけり。
一説、持船の城を攻おとさせ給ひ、保ちがたし、とて焚すてらる。此の時勝頼沼津の城普請、ついぢの上にて此の烟を見られしが、北條家の軍を後にして、九月廿日東照宮客戦は危しとや御思慮有けん、兵をかへして大井川の伊呂をわたらせたまふべきに定させ給ひしに、俄に惣軍さわぎたちてしづまらず。牧野半右衛門制し止れども弥さわぎしに、七郎右衛門忠世御旗本に大挑燈を高くさしあげさせ、士をつけおきて、わが帰るまで動くべからず、といひふくめ、先陣に行きて御旗本は二の身を討ん、とてしづまりたり。其の證はあの火の動かぬを見よ、といひければ、是によりてしづまりければやがてのり帰り、先陣はよくしづまりて敵を待体なり。以後先陣の人々にわらはるべし、といひければ、これもまたしづまりけるといへり。
『栗田刑部幸若が舞所望の事附時田が首実験の事』
東照宮高天神の城をかこませたまひ、柵を付て固く守らせらる。城中後詰を乞ども勝頼出ず、粮尽けり。栗田刑部使をもて、幸若が舞を一曲所望し、是を今生の思ひ出にせん、と申けるを、東照宮聞し召、やさしくもいひけるよ、とて幸若に高館を舞せらる。栗田が最愛の小姓時田鶴千代といひし者に、絹紙様の物をもたせ出して幸若に贈りあたふ。其の後落城の時、時田討死しけるを首をとりたれども、女の首なるべしと人々疑へり。東照宮聞し召れ、眼をひらき見よ。女ならば白眼なるべし、と仰せ有りければ、ひらいて見るに黒眼あり。又幸若忠四郎も高館を舞ひける時見しりたれば、時田が首に定りけり。
『岡田竹右衛門見切の事』
天正八年七月、東照宮田中の城を攻させ給ひ、八幡山に御陣有て苅田ばたらきあり。勝頼後巻せんとて甲州を打出る。松平康親が士岡田竹右衛門元次、此ごろ夕立洪水有べき時なり。大井川は一ト夜に水出て渉りがたし。勝頼血気の勇将にて候へば、もし俄に押よせ候事あらん。苅田終らばとく川を渉て、兵をかへされ然るべし、と申す。東照宮尤なりとて、川を渉り兵ををさめ給ふ。果して其の夜大雨はげしく大井川水出でたり。
『朝日千介西郷伊予を討つ事』
田中の城を攻らるゝ時、西郷伊予といふ剛の者足軽を引具し、度々打て出、寄手を破りければ、東照宮、誰かある、西郷をうつべき者は、と仰有けれども、答奉る人なし。其夜菅沼大膳が陣に人々あつまりて、此事をいひ出したるに、菅沼が小姓朝日千介(後には丹後と申す)十八歳なりしがすゝみ出、討とるべし、といふ。菅沼聞て、汝寝言を言ふや、といひしに、必定討取申さん、といへば、さばかりの古兵も軍しかねつる西郷なり。たやすく討ん事思ひもよらず。そこ立され、と罵りければ、かたへより、いやとよ、千介がつらたましひなみ/\ならず。末頼母しきわか者なり、といひなだめけり。千介、あすを待れよ。西郷が首提げて参らん物を、と独言して退きけり。かくて夜深て菅沼が愛せし鉄砲をとり出し、暁陣屋をひそかに出、岡部のかたへの小山に陣しておはせしが、敵又出たると仰せ有ける処に、千介鉄砲をためすゑ、西郷を馬より打落し走り出て首をとり、かけ帰りてかくと申す。東照宮、あはれ、剛の者よ、とほめさせ給へば、是より千介が名高く聞えけり。
『菅沼定盈膽気附山口五郎作後藤金助討死の事』
天正二年勝頼兵を出して、菅沼新八郎定盈が新にかまへたる城を攻んとす。定盈が一族を嚮導として不意におしよする。謀をしりたる者有て告しらせけり。□月廿九日の曙に定盈が士ども、大敵和田嶺本宮坂二筋にわかれて攻め来り候間とく退れよ、といふを聞て一ト軍もせず迯落ん事弓箭とる身の恥なり、といふ。人々永禄年中今川家より攻し時は、西郷孫九郎元正加勢たりき。今多からぬ士卒打ちりたれば、早く城を出て運をひらくの道こそ然るべからん、といへども、定盈兵を出して敵の様を見せしむ。山縣が軍競来る由告けるに、定盈厠にゆきてうたひをうたひて出ず。足軽の頭山口五郎作しひて諌ければ、厠より出手を洗けるが、又湯をもて口すゝぎたる体常のごとし。しひて諌れば南の郭より退きけるが、途中にてわれ等が伏所に火をかけざる事、後に敵に嘲らるべし。誰かは帰りて城に火をかけ、又日比愛したる鷹を携へ来るべき、といひもあへぬに、中山與六十八歳なるが引返し城にもどり、火をかけ鷹を臂にて出たりけり。定盈は宇利を経て西郷へ赴きける。あとをしたひて與六海倉淵まで退きけるに、與六が一族後藤金助追ツかけ来て、きたなくも敵に後を見するよ、と詞をかけたりしかば、與六馬ひき返しむずと組て、既に金助が首をとらんとせしに、多嶺の士あまたおちかさなりて終に討れけり。山口は定盈が後殿して、主従三騎素綯瀬を渉る処に敵追来る。山口引返して敵あまた射伏たれども、馬疲れければ敵は近く。鍬田村にかゝり吉祥山に赴く。敵猶追かけ来れば、散々に射しらましけるが、馬動くざりける故、乗はなちて歩だちになり山にかゝる。箭二筋のみ残れり。菅沼刑部鹽津傅助追つめければ射たれども中らず、指添を抽て手裏剣にうつ。刑部が頭上をうちかすりたり。山口も終にそこにて討死し、其墓今にありといへり。
『岡崎三郎君の御ン事』
岡崎三郎君天正七年二股の城にて自殺おはしましける事は、信長より叛逆の志有て勝頼に内通し、二股の城へ甲斐の兵を引入るべきとの三郎謀あり。此の事は酒井左衛門尉よく存知たりと告申されしより事起りて、つひに死を賜はりぬ。
忠次を信長召寄て、三郎君の北の方より告申されし十二条の悪事をあげて忠次に問はれしに、忠次是より前三郎君の侍女、おふうといひし美人をひそかに己が妾とせし事によりて、三郎君憤深かりければ、陳謝の事に及ばずといへり。
又一説に、佐久間右衛門尉信盛三河に参りけるに、東照宮御馳走ありけるが、三郎君をめされ御対面有しに、佐久間黄なる綿ぼうしをかぶり居たるを、三郎君ひき奪ひてなげ棄、無礼なり、と怒らせ給ふ。東照宮驚き思召けるに、三郎君、われは信長の聟にてこそあれ、仰せられしかば、佐久間無礼を謝し申せしが、是も信長に讒言せし故ともいへり。三郎君は勇気たくましくきはめて物あらくおはしまして、軍に臨て気色かはり髪毛も逆にたつべく見えしを、東照宮御覧じて、摩利支天の像に似たり、と仰せ有しとぞ。
平岩七之助親吉は三郎君の傅なりしかば、臣が諌申さゞる罪を以て死刑に行れ、首を信長におくり、三郎君をば獄におしこめおいて、時を御待あれ、と申けるを、東照宮、汝が忠心は誠にいふべき詞も非れども、よく察せよ。武勇われにまされりと思ふ子を殺すは忍ざるの至なり。汝が首を信長におくるとも、既に吾家の長臣酒井が信長にあくまであしくいひつると覚たれば、なかなか聞き入れられじ。汝を殺さば恥の上の恥損の上の損とは是なるべし、と仰せられけるとぞ。其後年経て忠次目を煩ひて久しく引こもりたりしが、御前に出て、年老候ひぬ、子を不便にせさせ給へ、と申けるを聞召、信康生て有るならばかはかり心を労すまじきよ、汝も子の不便なる事をしりたるが怪しき、と仰せられしかば、言なくて退出したるとなり。又ある時幸若大夫が満仲を舞たりしを御ン聞有て、満仲の舞は大久保は得見まじい、と仰せられしかば、忠世も引こもりけり。これは三郎君を忠世に御ンあづけ有しに、定て引き具しまゐらせて片かげの山林に身をひそめなんと思召けるに、さはなかりける故、三郎君の御事を悔ませ給ふをり/\御ン詞には出ざれども、事にふれ数年の後も愁傷の色あらはれさせ給ひけるとぞ。
『摂津国花隈城落つる事』
摂州花隈の城は荒木摂津守村重が一族荒木志摩守元清こもれり。天正八年信長の命にて付城をかまへ、花隈の北諏訪が嶺には護国公、西の方金剛寺山には士大将伊木清兵衛忠次、森寺清右衛門忠勝、南の方生田の森には護国公の嫡子勝九郎之助守り給ひぬ。いづれも花隈より六七町計を隔たり。三月二日城より兵を出す。勝九郎廿二歳にて組討の功名あり。国清公(此時古新と申す、後に三左衛門尉輝政公)十六歳にておはせしが、是も組討にて首を出す。護国公敵自ら討とり、伊木清兵衛、秋田嘉兵衛、堀與左衛門、芳賀五郎右衛門、石黒武右衛門、佐橋武右衛門、後藤市兵衛、波多野弥蔵等はげしく戦ひて追崩す。ある夜護国公森寺政右衛門を呼で城中へ忍入、よく見来れ、と命ぜらる。森寺行く時梶浦勘兵衛も打つれんとす。森寺、今夜の物見は大事なり、相倶はん事叶べかず、といふ。梶浦聞て、思ひ立たる事空しく帰るべきや。自害するより外なし、と中々帰るべき体にあらざればうちつれたり。陣と城との間に小き坂あり。城中より武者二人鎗を提げ来るに出あひ、二人とも討とり首をば草の中に匿し置たる首を持帰り実検に入れ、城中の有様を申せば、護国公、はや城は攻とりたるこゝちするよ。いかにしてかは此功を賞すべき。但湯桶は何とて行たるや、と問るゝに、湯桶承はりて政右衛門に仰られしを、物かげにて聞候て、と申す。護国公、近習の人をのけていひつる事を立聞し、且軍法を破りたる、と怒りたまふ。其時森寺、只今忝き仰を承り候き。さして賞美の望候はず。勘兵衛が咎をゆるさせ給ひ候へかし、と申せば、護国公、さてやみなん、とぞ仰ける。かくて七月二日に及で、生田の森の南へ馬の草刈に雑人出けるを、城中より兵を伏置て追ちらしけるを、生田の森の付城より是を見て、勝九郎、馬上に鎗を横たへ、つゞけ者共、とて馳向ふ。梶浦兵七、河崎忠三郎、大陽寺左平次、臼田喜平次、日置清十郎など追つゞき声をあげて切かゝる。竹村黄左衛門、乾平右衛門、長谷川新次郎鎗わきを射る。淵本弥兵衛は四寸角の柱の一丈余りなるを打ふりて、敵をたゝき伏相戦ふ。金剛寺山の伊木森寺も大手の軍はげしきを見て、搦手より乗とらんとおしよする。城より野口與一兵衛といへる者、半町ばかり打て出防けるが、野口も討死すれば城ぎはへおしつむる。大手の戦に寄手多く討れ危かりければ、引返さんと護国公、梶浦に詞をかけらるれば、勘兵衛、唯今あげんとせば、弥みだれあしに成べし。さきほどは鉄砲の数少く覚つるに、俄にましたるは、搦手より大手へ救来りぬらん。政右衛門早からめ手へおしつめ乗こみ申べし。然るに只今大手の味方を引きとらば、敵搦手へまはりて政右衛門討死すべし、と申す。護国公尤なり、とくゆきて見来れ、と仰られしかば、勘兵衛馳せつけてしか/\の事なりといふ。政右衛門、よくこそいひたれ。早乗入べし。大手を攻られ候へといへ、といふ。勘兵衛此場を見すてゝ帰らんは口をしけれども、使の仰重ければ、とてかけ帰りかくと申せば、護国公、無二無三に乗破れ、と下知せらる。勘兵衛は城兵の必ず突て出べき門脇につめよせたり。搦手よりも伊木、森寺先をあらそひ門を破りて攻入たり。森寺はことしの春案内はよく見たりし故、門を破る透間にかたへの屏を踰。敵鎗にて突きけれども、飛こみて其まゝ討とりたり。梶浦が察せし如くからめては防ぐ兵少かりければ、攻入て火をかけたり。城兵も大手の門をおしひらき切て出る。勘兵衛待請て鎗を合す。城兵爰を切ぬけんと死狂に成て戦ひけるに、寄手からめてより攻入たるが、敵の後へ切てかゝりしかば、城兵浜辺をさして敗北せり。兵庫の築嶋に雑賀孫一郎花隈の加勢として有けるを、伊木、森寺先陣にておしよせ攻落す。此時湊川にて勝九郎五輪作右衛門といふ剛の者と鎗を合す。森寺政右衛門も馳付たれば、作右衛門引返して退きけるが、五輪のさし物を、是はかくれなきさし物なり、両人へまゐらするよ、といひて川へ飛こみて迯れ得たり。黒き四半に白き五輪の形を染たるなりしとなり。信長より勝九郎国清公に馬をまゐらせらる。護国公、今度の軍わが目前にて、各功名したるなれば明に見届ぬ。中に就て梶浦が決断、鎗を合せたるよりも忙しき場にこそ察したれ、とてかへす/\〃賞美有りけるとぞ。
『高天神落城仁科信盛戦死の事』
天正十年勝頼の弟仁科五郎信盛高遠の城を守る。織田信忠僧を使として、勝頼の滅ん事近きにあり、とく城を出らるべし、といひ送りたりければ、信盛怒て返答もせで、僧の耳鼻をそいで追出す。信忠、さらば攻めよ、とておしよせてきびしう攻むるに、城兵残りずくなく討れ、信盛、小山田備中、渡邊金大夫照、春日河内守、原隼人、今福安左衛門、諏訪荘右衛門已下十八人、十二間に七間の広間にこもり、火をちらして戦ふ。信忠浅黄金襴のほろかけて屏にあがり、桐梧の枝にとりつき下知せらるゝを、目にかけ七八度打てかゝる。此の時三十五六歳計の女房の緋おどしの物の具著、眉尖刀を提げ、諏訪荘右衛門が妻なりと名のり、七八人なぎ伏て自害しけり。信盛を始として死狂に切てまはれば、攻あぐみたる時、森武蔵守長可屋根の板引破らせ、鉄砲をこみたりければ、信盛床の上にあがり、腹切て腸をつかんでから紙に擲ち倒れ死す。其の血痕後まで有といへり。小山田已下も自害したり。信盛此の時十九歳なり。信忠のとりつかれし梧桐に鎗刀のあとひしと付きて、大広間の天井も柱も鎗太刀のあとひしと付きて、大広間の天井も柱も鎗太刀のあとありて血にそまらぬ所なし。庭に残れる雪に血かゝりて紫となれりとぞ。
(岩波文庫版『常山紀談』上巻を底本としました。)
巻五
常山紀談
湯浅常山著
巻之五(一部)
『勝頼の首穿鑿の事』
勝頼天目山に落ち行く時、瀧川一益攻入て落人ども討とり、勝頼の首をとりたれども、誰といふ事をしらず。小溝の中に棄けるに、百姓ばら溝の前にて必ず平伏し礼をして打通る。如何なる故ぞ、と問へば、あの溝の中に屋形の御首おはしまし候、といふ。さらばとて首どもとり出す。信忠勝頼の首をわかち置、先瀧川義大夫を呼て、汝がとりたる首はいづれぞ、と問はるゝに、是なりとて出す。此は土屋總蔵昌惟が首なり。伊東伊右衛門といふ者すゝみ出て、勝頼の首を見て、此こそ伊右衛門が取たる、と申す。證はいかに、と問はるゝに、斬口に乗たる馬の栗毛かす毛の血にまじりてつきて候。天目山の麓田野より鞍の四方出に付けし故なり、と申す。果して詞にたがはず、よりて伊東がとりたるに定りぬ。信長勝頼の首を見て、いかに汝が父非義不道なりし故、天の譴のがれがたく今かくなりぬ。信玄一度京に赴かんと志しけると聞く。汝が首を京におくり、女童に見しられよ、と罵り、首を東照宮の御ンもとにおくられけり。東照宮御将机におはしませしが、勝頼の首と聞し召、将机をおりさせ給ひ、偏にわかきゆゑ思慮無くかくならせ候、と礼義正しく仰せあり。是を傅へ聞甲斐信濃の士ども、徳川家に心をよせ奉るもとゝなれり。
又一説に、勝頼の首を瀧川が士瀧川荘左衛門と言ふ使番に持せて信長に見せ申せば、さまざまに罵りて、杖にて二ツつきて後足にて蹴られたり。荘左衛門是を見て、かゝる事こそなけれ。織田家の運命はや尽はてなん、といひけるを、蜂須賀阿波守至鎮の長臣、稲田修理が弟丹波、瀧川が方に信長より置れたるが聞けるが、果して程なく信長弑せられしかば、荘左衛門、心ある者よ、とて蜂須賀の家より捜求めけるに、瀧川の家滅て後、かくれ居たるを召出して仕へけるとなり。
『秀吉勝頼の滅亡を惜れし事』
信長甲州に攻入れし比、秀吉は筑前守とて、西国毛利家に向て、甲州の軍に従はず。勝頼死して甲州平均なりといふを聞、秀吉大息ついて、あたら人を殺したる事の残り多さよ。我軍中に有るならば、しひて諌申て、勝頼に甲信二州をあたへて関東の先陣としたらんに、東国は平おしにすべきに、とくりかへし悔れけり。
『信玄の館の跡を信長公見給ひし事』
勝頼亡て後、信長信玄の館を見んとて、馬を乗入んとせられしに、馬すゝまざりしかば引返されけり。東照宮は程経て甲州を治めさせ給ふ時、信玄の館の跡御覧の時、館の門外にて御ン馬より下させたまひしとぞ。
『勝頼天目山にて最後の事』
勝頼滅亡天目山にての事共、甲陽軍鑑には切死に没せられしよしのせたり。甲州の士民のいひ傅ふるとは異なり。鶴瀬も勝頼に背しかば、天目山をさして落ゆかれしに、一揆所々より起りてければ、百姓の家に従ひし婦人どもをいれ、旁の人家に茅の有けるをはこばせて、出入る口をふさがせ火をかけられけり。小高き所に上りて、武田の家代々持傅へられし楯無といへる物の具を信勝に着せしめらる。土屋總蔵肩入の役をしけり。さて勝頼薙刀を横たへ、寄せくる一揆に向はれしを、總蔵、屋形は新羅三郎より二十八代弓箭の家をつがせたまひ、今のきはに及ばせ給ふとも、一揆ばらに御ン首をわたし申さん事口惜く候、と諌ければ、尤なりとて物の具ぬぎ、總蔵に介錯せさせて終られしとぞ。相従へる人々皆互に刺ちがへて勝頼の供しけり。總蔵と僧の麟岳と残りとゞまれるが、皆事よく終りしを見とゞけて後、總蔵自害しければ、麟岳刀を口にくはへ貫かれて死しけるとなり。されば後甲陽軍鑑、天目山の事はもとより弾正の筆記に非ず、後の人誤り傅へて書たるなるべし。
『禅僧廣厳院勝頼の屍を葬る事』
勝頼父子の屍田野にあれども、信長を恐れて恵林寺の僧を始として收る人なし。田野の西北四里計に、中山といふ所の洞家の禅僧廣厳院来りて、勝頼夫婦信勝已下の屍ををさめ葬る。其後東照宮甲州を御ンをさめ、一寺を建立有て景徳院と号し、田地を寄附あり。小宮山内膳友信が弟の僧なりしを、住持の僧となしたまへり。
『信忠恵林寺を焼るゝ事』
勝頼亡て後、武田家尊崇しける恵林寺に、前将軍義昭公の使大和淡路守、三井寺の上福院、佐々木承禎三人をかくし置きたる聞えありければ、早く出すべき、と信忠下知せらるゝ事三度に及べども出さず。信忠怒て、累世の旦越勝頼をば少の間も境内にとゞめず、其の遺骨をだにとり収ずして詮なき者をかくしたる、とて津田次郎信治、長谷川與次郎等をして寺をとりまいてさがさるゝに、三人はとく逃さりぬ。僧徒皆山門の楼に上りてこもりたるを、其の下に焼草を積て火をかけたれば、快川を始として、坐して合掌して焚死す。其の余をめきさけんで焼死にける者、宝泉寺の雪峯、東光寺の藍田、長禅寺の高山等児童に至て八十四人なり。
又禅僧の語り傅へしには、快川濃州に有し時、信長招待すれども肯はず。今川の家に行て甚今川家を輔佐したりければ、信長にくまれしに、甲州に往て恵林寺の住持たり。信玄の死を深くかくしければ、信長愈怒りて、さま/\にさぐり聞せられしに、快川の方より泄さゞれば、信長怒にたへかねられしが、武田の亡し故遂に焚殺されしとなり。又其の時楼下に鎗先をそろへてあまさじとしたりしに、快川弟子の南華に、法の絶なん事くちをし。とても逃るべきにあらねども、楼より飛て死候へ、と云しかば、南華飛たりしに、郡りたる士卒の鎗ぶすまを作りたる者ども鎗をふせたりしかば、南華たすかる事を得て、後豊後月渓寺にありといへり。又つゞいて飛たる者十六人有りといへども、其の名傅はらずとかや。
『東照宮依田信蕃を助け給ふ事』
天正十年三月、東照宮江尻に御ン軍を出され、成瀬吉右衛門正一を以て、田中城を守りける依田右衛門佐信蕃に降参をすゝめられ、武田sの旧臣悉く背て滅亡近きにあり。とく城を出候へ、と仰せおくられけるに、依田従ひ奉らず。武田の長臣共の書翰を得て、虚実を定むべき旨を申す。其後先年遠州二股の城にてゆかりも候へば、大久保忠世に城を渡すべし、と申せしかば、降参せば信州の本領をあて行るべき由仰出されしに、依田承り、勝頼の存亡を審に承らざる間は、仰を承りがたし、と申て、信州佐久郡葦田に赴きけり。勝頼既に亡て、信長、今度勝頼に二心無き輩といふとも、武名ある者は諸将召かゝゆべからず、と下知し、猶かくれ居る者を捜し出して死罪に行んとなり。東照宮此の事をいたませたまひ、信蕃を市川の御陣に召れ、密旨を蒙り、主従六人遠州飼東郡二股の奥小川といふ所にかくせたまひけり。其の余仁徳によりて人あまたたすけさせ給ひけり。
『武田信綱誅戮の事』
天正十年三月、武田逍遥軒信綱降参しけるを、信忠森武蔵守長可に下知してころされたり。長可各務兵庫元正を使とし武前采女を添たり。信綱刀を膝下に置てはなたず。各務武前行き向ひて、武蔵守が愛する馬の候。なぐさみに見たまはんや、といへば、庭に出づる処を、元正二尺六寸有ける雲次の刀にて一太刀斬たりしに、信綱小脇差を抽く処を、采女続いて切り伏せたり。小姓河野といふ者信綱の刀を持居たりしが、即ち抽て采女を切る。両士遂に河野をも討ちとめたり。元正鎗を合せ首をとる事廿一。ことし高遠の城攻にも、さまより窺ひ見て群りたる真中へ飛入倒れたるが、起あがりて散々に切あひ首をとりけるが、鶏尾の棒のさし物さしてあたりをはらふ有さまを信忠見て、誰と問ふ。長可、わが家の士各務兵庫と申ものなり、といへば、誠に今日の見物なり、といはれしとぞ、
『戸田半右衛門山口小弁佐々清蔵功名の事』
高遠の城にて戸田半右衛門重政一番にかけ入る時、赤ほろに金の戻竹の出し戸張隠のす戸、衝木に当て通り得ず。尻居に倒るゝ其の間に、信忠の小姓山口小弁、佐々清蔵ふみ越えてかけ入たり。戸田後に人に語りて、われらが如き武功にては、ほろ指物の門木戸につかゆべきと心つく事はなき物なり。敵を見てかゝる時、外の志はなきものなり。もし勝れたる武勇の人は別の事よ、といひけり。半右衛門後武蔵守と称し、関原にて討死せり。信長後に感状をあたへらるゝ時、先小弁に手づから国久の刀をあたへ、次に佐々に長光の脇差をあたへ、汝が武功は誠に大功の内蔵助が従子なれば、と詞をかけらる。二条にて明智信忠を攻る時、清蔵、小弁に向ひ、すはだにて死んは、屍の上の恥なるべし、とて打て出、一人づゝ敵を斬伏、其の屍を引入れ物の具とりて打著、又切て出討死せしとなり。共に十六歳、容貌世に超て美しかりけるが、面に血を濯ぎ髪の乱れしを、見る人殊に惜みあへり。小弁は伏見の賤き者の子なれども、美少年にて呼出されけり。
『小山田信茂誅戮の事』
小山田兵衛尉信茂は、武田累世の長臣なりしに、勝頼に叛き降参して善光寺に有しを、信忠堀尾茂助に下知してころせとなり。則武三太夫を討手とす。士一人そへて甲冑を送り、一礼せん時刺殺せ、との事なり。三太夫善光寺に赴き、甲冑を贈りまゐらする由いひければ、小山田出て一礼すれども、則武討べきけしきなし。やゝ有て則武しづかに武田の家士大将として、数世重恩の身、今度主君に叛き不義の至に候故、討手に参候。たち向はれよ、と言ふ。小山田聞て、口をしくも計られけるよ。とく首を刎られよ、といへども則武猶動かず。小山田刀に手をかけ、是までに候、といへば、其時則武立あがりて首を斬たりけり。
『馬場美濃が女召出さるゝ事』
勝頼亡びて後、馬場美濃氏房が女召出さるべし、とて甲州の群代鳥井彦右衛門元忠に仰せ出されしに、尋ねさがし候へど、行へしれざる由を申けり。程経て其のあり所しれたる由申す人の有ければ、東照宮、何かたにかくれゐたるぞ、と御尋あり。即鳥井がもとに潜に匿し置たる、と申ければ、すべて彦右衛門はぬからぬもの哉、と仰せ有けるとぞ。
『辻弥兵衛が事』
辻弥兵衛盛昌は天正三年の勘気にて、七月甲州を出て、信州小諸の與良遠江がもとにしのび居たりしが、勝頼亡びて後、徳川家に仕へ奉る。甲陽軍鑑に、勝頼天目山に落ち行く時、辻一揆の長となりて攻めたる由をしるせるは非なり。
『明智光秀信長公を弑する事』
明智光秀信長公を弑せばやと思ふ事久し。天正十年六月朔日の夜、明智左馬助秀俊を寝所によび入れ、かたへの人をしりぞけ、一大事の有るなり。蚊屋の中に入れ、といふ。秀俊頭を蚊屋の中にさし入れて、何事にてか候、といふ。光秀、汝が首を得させよ、といへば、秀俊聞て、一人のみにて候か、と問ふ。光秀、三人の命をもらひ、猶足ざる故なり、といふ。秀俊、いと易き事にて候。大事ことよく成べし、といへば、光秀、いかにしりたるや、と問ふに、事新しき仰と日比の恨み思ひ合せて候、といへば、いま信長を討んと思ふなり。汝を偏に頼み思ふぞよ。先汝に語らんと思ひしに、中々諌争ふべし。汝力を合せずば志遂がたからん。従はずば汝を斬んと思ひし、とて盃を出す。秀俊、先臣一人に語りたまふならば諌申すべし。はや外にも語りたまはんには駟も不及と申事の候。泄聞えて臍をかむとも益なし。とく打立ち給へ、とて夜半計に俄に軍兵をおし出し、明れば二日の曙に、信長の宿せられし本能寺をとりかこむ。森蘭丸長定、何事ぞ物さわがしき、とて白きからびらの上に、浅黄かの子の小袖をはをり立ち出て見るに、壁の外に水色の旗見ゆる。信長、敵は誰、と問はるゝに、蘭丸、明智にて候、と申しもはてぬに、箕浦大蔵、古川九兵衛、天野源右衛門等大庭にみだれ入、信長白きひとへ物を著、弓持て射られしに弦きれたり。地臙脂のかたびら著たる廿七八歳計の女房、十文字の鎗を持来りけるを、信長おつとり、しばし防れしが内につと入て、障子をひき立たれども、燭台のいまだ残し火に、信長のかげうつりたるを見て、天野鎗をとりのべ刺通す。蘭丸弟の坊丸十七歳、力丸十六歳なりしが、切て出討死しける隙に、内より火をかけ灰燼となりたりけり。
『秀吉備中にて光秀が書を取られし事』
明智信長を弑する時、秀吉は備中にて毛利家に向て陣せしが、秀吉所々にしのびの者を置れしに、備中庭瀬にて怪しげなる飛脚の者を生どりたり。秀吉其書を披き見るに、信長を討とらば、秀吉必ず敗北すべし。秀吉を追撃れよ、と毛利家へいひ送る書なり。もし此書毛利家に到らば、いかなる謀あるべきもしるべからず。秀吉の慮浅からず、と人いへり。又高松の城はたやすく攻落すべきに、水攻にして日を経たるは、信長常に大功の速に成を忌ねたむの心あるを察しての故なりといへり。
『秀吉西国の米を買れし事』
秀吉備中に陣して、毛利と和平せん事を計り、密に手だてを運し、西国の米を価を貴く買れしかば、城米を出して売る者多し。小早川隆景一人固く制してうらせず。信長弑せられて秀吉と毛利家手ぎれなるべかりしに、兵粮のゆたかならざる故、終に和平に及べり。
『光秀居城を築く事』
明智江州坂本に城を築く時、三甫といふ者、
- 波間よりかさねあげきや雲の峯
光秀わきに、
- 磯山づたへしげる松村
又光秀丹波亀山より愛宕につゞける山に郭をかまへ、此の山を周山と名く。自ら武王に比し、信長を殷の紂王にたとふる心後にあらはれたり、と人いひけり。又志賀唐崎の松、いつの比にか枯たりしを、光秀植つぎて、今の松なり。光秀よめる歌、
- われならで誰かはうゑんひとつ松 こころしてふけ志賀の浦かぜ
一説、青蓮院宮尊朝法親王の辛崎の松の記にて見れば、大津の城主新庄駿河守直頼舎弟松菴(東玉)雑斎(直寿)此雑斎天正十九年卯の秋植られし由、其時のうたに、
- おのづから千代も経ぬべし辛崎の まつにひかるゝみそぎなりせば
されば今の松は此新庄の植られしか。
『森蘭丸才敏の事』
森蘭丸は三左衛門可成が子にて、信長寵愛厚し。十六歳にて五萬石の地をあたへらる。ある時刀をもたせ置れしに刻鞘の数をかぞへ居たり。後に信長かたへの人をあつめ、刻ざやの数いひあてなん者に、此の刀をあたふべき由いはれければ、皆おし料ていひけるに、森はさきに数へて覚えたり、とていはず。信長其の刀を森にあたへられけり。信長森が明敏を試みらるゝ事多かりけれども、一度もあやまちなく、其才老年の人も及ぶべきに非ず。明智が恨ある事を察し、潜に信長の前に出て、光秀飯をくひながら、深く思慮する体にて、箸をとり落しやゝ有て驚きたり。是ほど思ひ入たる事別の子細はよも候はじ。恨奉る事しか/\〃なれば大事をたくむらん。刺殺すべし、といひけるを、信長、いやとよ。佐和山をば終に汝にあたふべし、といはれけり。此は森これより先に、父が討死の跡にて候へば坂本を賜れ、と申けるを、明智に与へられしかば、讒言すると思ひ信ぜられず。果して弑せられき。
『光秀反状の事』
光秀天正七年六月修験者を遣して、丹波の守護波多野右衛門大夫秀治がもとに、光秀が母を質に出したばかりければ、秀治其弟遠江守秀尚共に本目の城に来りけるを、酒もりしてもてなし、兵を伏おきて兄弟を始従者十一人を生どり安土につかはしけり。秀治は伏兵と散々に戦ひし時、傷を蒙り途中にて死す。信長秀尚以下を安土にて磔にせられたり。丹波に残り居たる者ども明智が母を磔にしたり。明智遂に赤井等を攻したがへ、丹波を信長より賜はりけり。又信長ある時酒宴して、七盃入のさかづきをもて光秀にしひらるゝ。光秀思ひもよらずと辞し申せば、信長脇差を抽、此白刃をのむべきか、酒をのむべきか、と怒られしかば、酒のみてけり。其後稲葉伊賀守家人を明智多くの禄をあたへよび出せしを、稲葉求れどももどさず。信長もどせと下知せられしをも肯はず。信長怒て明智が髪を攫み、ひきふせてせめらるゝ。光秀、國を賜り候へども、身の為に致すことなく、士を養ふを第一とする由答ければ、信長怒ながらさてやみけり。東照宮御上京の時、光秀に馳走の事を命ぜらる。種々饗禮の設しけるに、信長鷹野の時立より見て、肉の臭しけるを、草鞋にてふみちらされけり。光秀又新に用意しける處に、備中へ出陣せよ、と下知せられしかば、光秀忍かねて叛しといへり。されば信長の暴なるもとより論を待ず。光秀土地を畧せん為に老母を質にしてころしぬる不孝を信長の賞せられたる。君臣共に悪逆の相あへる、終を令せざること理なり。
『秀吉浮田を欺きて上洛の事』
光秀信長を弑する時、秀吉備中より引返さる。此時備前の浮田秀家幼少なれども、長臣老将の面々いかなる謀あるや料りがたければ、先使を岡山の城にやりて、一刻もとく馳上り、弔軍を志候。岡山にて相謀べし、と云はせられける。浮田はもとより光秀に心を通じければ、秀吉の帰路をふさぐべきやいかゞせん、といふ処に、かく告来れば、さらば城中にて討とるべし。願ふ処の幸なり、とひそかに悦びあうて、其謀をぞ相議しける。秀吉六月七日の明がたに高松より引き返し、午の刻ばかりに宮内に著て、やがて岡山に赴くべし、といひふらしけるが、俄に霍乱したりとてうち臥しければ、秀家の使来りたるに、近習の者共出逢て、只今霍乱にて吐瀉せしが、腹の痛少しやみて寝入候、とあへしらひて時を移す。其間に秀吉は奥州驪といふ名馬に乗、雑卒にまじり、吉井川をわたり片上を過、宇根に馳つければ馬つかれたり。さて使を岡山にやりて、急ぐ事の候てわき道を通りて過候ぬ、といはせられしかば、浮田の人々皆あきれけるとぞ。
『黒田孝隆思慮の事』
秀吉信長の弔合戦せんとて備中より引返されし時、姫路に立よらるべし、と人々も思ひけるに、黒田孝隆、姫路に馬を駐らるべき事、少の間も然るべからず候。かりそめの旅にも家出は遅々するが人情なり。今度は主君の仇を討べき為の軍にて候。大和の筒井、細川を始め、明智がしたしみある者ども馳加りなばゆゝしき大事なり。いかにやせん、と思慮のいまだ決せざる中に、いそぎておしつけられよと謀りたりければ、よくこそいひたれとて、一人も姫路にへよりたらん者をば忽ち誅すべし、とふれさせられけり。孝隆先達て人を走らかし、姫路の町人ども河原へ出、粥をしたくして軍兵にもてなすべし、と下知したりければ、食肴を河原へ持出たりければ、立よらずして山崎表へおし付られけり。太閤記に、姫路に二日滞留といへるは誤なり。
『池田家の使者筒井順慶を試る事』
光秀信長を弑せし時、筒井順慶は光秀としたしければ、必ず與せしならんと人々思へり。池田紀伊守其臣日置猪右衛門、土倉四郎兵衛、丹羽山城三人を使として順慶のもとにやらせらる。三人承りて、順慶もし明智にくみせば刺殺すべし、と申す。紀州公、いやとよ、汝等死せばわが片手を折れたるに同じ、と制せられしかば、三人かさねて、順慶と軍せんに幾何の手おひ討死か候べき。さらば三人も討死すべきにて候。三人をもて多くの味方にかへたまへ。順慶をうちとらば光秀必ず敗北すべし、と申て順慶がもとにゆく。順慶出あひて、いかでか光秀が不義にくみすべき。とく信長の弔軍せん、といふに、げにも偽ならぬ体なれば、三人悦びて帰る道にて、山城、今日順慶いなといはんに刺殺さんと思ひて坐中をきつと見たりしに、かたへに十六七歳ばかりなる男の順慶が刀持て居たりしつらだましひ只者ならず。順慶に飛かゝるならば、頭二つに切りわりつべく見えし、と語りければ、日置も土倉も、されば我等もさ思ひつる事よ、といひけり。かの小姓は牧野兵太とて、武者修行して世に聞ゆる剛の者となりけり。
『明智光俊湖水を渡して坂本城に入る事』
光秀信長を弑して安土の城を攻おとし、左馬助秀俊に守らせて山崎に打向ひ、秀吉と戦ひて敗北せり。秀俊安土を出て、光秀を救んと京をさしてすゝむ処に、はや光秀討れたりと聞えしかば、坂本の城に入んと、粟津を北へ大津をさして行く所に、秀吉の先陣堀久太郎秀政に行あひけり。秀俊小勢なればうち破られぬ。本道は敵にふさがれつ、湖水に馬をうち入れおよがせければ、秀吉の軍兵ども汀に並居て、溺れん有さまを見よ、と笑ひあへり。秀俊は白練に雲龍を狩野永徳にかゝせたる羽織を著、二の谷と言ふ胄を著、大鹿毛と名づけたる馬に乗、年久しく坂本に有て、大津より唐崎までの遠浅はよくしりたり。たやすく唐崎ばまに乗あげ、ひとつ松の下にて馬には息あひの薬を飼、追くる敵を見て居たりしが、又馬に乗坂本に入る時、十王堂の前にて馬よりおり、手綱をもて堂に繋ぎ、矢立の硯とり出し、明智左馬助湖水をわたせし馬なり、と札に書て手とりがみに結つけ、坂本の城にいり、光秀の妻子は天守にいれ、安土より光秀が奪とり来れる不動国行二字国俊の刀、薬研藤四郎の小脇差、なら柴の肩衝、乙御前の釜などいへる名物の器を唐織の肩衣に包み、天守より投おろし、其の後女童を刺殺し、火をかけて自害せり。二の谷の胄に羽織と黄金百両添て、坂本の西教寺に送りけり。後に山中山城守長俊が孫作右衛門友俊、胄をのぞみ乞て得たりしが、程経て紀伊の士宇佐美造酒助孝定が許に傅はりぬ。羽織は行方をしらず。馬は無双の駿足にて、秀吉志津嶽の軍に此馬に乗れしなり。
『東照宮和泉国堺より御帰国の事』
信長弑せらるゝ時、東照宮は泉州堺におはしましけるに、小勢にてかゝる乱れにはる/\〃と三河へいかでか引とらせたまふべき、と人々いろを失へり。東照宮素より地理をしろしめされ、河州飯森の宮は要害の地なれば、其地を守て軍あらん、と仰せありて、森口に著せ給ひし時、本多忠勝京都に御使に参りけるが、道にて変を聞き引返して来り、敵大勢にて候らん。とく御帰国然るべからん、と申すを聞し召、案内者はいかゞすべき。敵道を要らんは必定なり。やみ/\と討たれんは口をしからずや、と仰せ有りける処に、信長より馳走につけられし長谷川竹丸、当国の交野郡津田のあたりは、信長の恩を蒙りたる者のあまた候へば、道しるべさせ候べし、と申す。宇津越を経て山城の相楽郡を過木津川をわたり、それより宇治橋の上一里計東の瀬を渉り、江州信楽に出で、それより伊賀の上野鹿伏兎超を、伊勢の白子に至て船に召れ然るべからん、と定られけり。忠勝蜻蛉斬と名づけし鎗を提げ、其の辺の百姓を打具し、此殿の案内申せ、といひて、それより道々の村々にてかくしたりければ、津田よりも案内者来りぬ。其日は山城相楽郡山田村にとまらせ給ひ、所々より心をよせし人々どもあまた警衛し奉る。穴山梅雪はこれまで従ひ奉りしがひき別れけり。
宇治より木幡越を江州高嶋に至り、濃州に赴き甲州に帰るべき旨を申してひき別れしが、一揆の為に山城の綴喜郡にて殺されけるとぞ。
其翌日木津川に至らせたまふ。柴船二艘あり。忠勝からんと言ふに肯はざれば、にくい奴かな切つて棄ん、といふに恐れてのせ奉る。やがて渉りをはらせ給ひて、二艘の船皆打わりて棄たり。其のあけの日、一揆石原村にあつまりて待かけたり。大和より従ひ奉りし吉川善兵衛、其子主馬助柏の木を馬じるしにして、先がけして追はらふ。柏を家の紋にせよ、と仰せ有けるとぞ。それより宇治田原の地士山口玄蕃御膳を献じて、宇治川に到らせ給へば船なし。榊原が士原田佐左衛門馬を乗入瀬ぶみして打わたす。酒井忠次船一艘をさがし出して渡し奉り、雑卒にいたるまで皆わたる事を得たり。江州信楽までは嶮路なれども、警衛につき従へる人々多く、一揆手さす事もなし。多羅尾四郎兵衛光敏は、世々信楽を領しけるが、其子長兵衛御迎に参りたり。人の心はかりがたしと人々恐るゝ処に、忠勝、いや/\光敏御敵するならば、彼が家に入らせたまはずとものがし奉らじ。一向入らせ給へ、と申せば、皆尤なり、とて立よらせ給ふに、御もてなしを設け人々労を忘れたり。
又忠勝此とき、多羅尾二タ心有りと見ば、とらへて刺殺すべし、といひける故、立よらせたまふともいへり。
五日には高見嶺を打越たまふ。御供に候ひける服部半蔵正成は、もと伊州生れの人なれば、忠勝下知して伊賀の案内者したりけり。国士あまた参りて警衛し奉りて、上柘植より三里半計鹿伏兎越といふ深山を越たまひて、六日に白子の浦に著せたまひて、長谷川竹丸秀一(後藤五郎)を始として和州山州伊州の士に御暇たまはり、時を得て浜松に参るべきよし懇に仰せを蒙りけり。それより三河に事なく帰らせたまひぬ。伊賀は去年九月信雄攻め入りて打したがへられし比、逃かくるる者を求出し、殺害を専とせられしかば、国士ども三河に参て、御恩を蒙りたる人多かりしかば、其従類皆警固し奉りけるとなり。軈て明智を追討の為御ン軍を出されしに、伊賀の国士どもあつまりつどひて参りけるを、多くは大番に入れさせ給ひ、恩賞にあづかりけり。
『小寺黒田始末の事』
黒田美濃守職隆(後宗圓と称す)は備前国福岡の人なりしが、播磨の小寺藤兵衛政職に仕へて、子官兵衛孝隆(後如水と称す)共に功名ありて用ひられけり。播州は其比所々に人々地に拠りて守り軍せしが、小寺は五著に有て姫路に小城をかまへ、黒田父子こゝに有て、秀吉にたのみて信長の旗下に属す。孝隆の子長政、其比は松千代といひしを、人質にして秀吉の居城近江の長浜に置たり。此比毛利家の兵勢強かりしかば小寺約を変ぜんとす。孝隆、此は然るべからず。信長物あらき人なれども、一旦天下に旗をあげられん。行末はしらず先時の宜しきに随ふべし。松千代を棄るを悲み、かく申すに非ず、といさめけり。小寺聞入ず、孝隆父宗圓に父子とも誅せられぬべき密謀を告ぐ。宗圓物なれたる士五六人呼あつめ所存を問に、官兵衛、五著に到られなば危かるべし、といふ。孝隆、されば諌は尤なれども、事も見ずして姫路にたてこもらんは、君に弓をひくに非ずや。五著に赴きて力を尽し奉公し、かなはずば自害せん。其後人々心を合せ、父の御ン事たのみまかする由決断せられしかば、人々父子おし隔られむはいかゞ候べき。只病とて五著の奴原に使をもて、媚諂ひ欺くにしくべからず。討手来らば力なし。其後一戦を遂て五著を打破るべし。罪なくて討んとする悪逆の人天の咎なからんや、と口々にいへども、孝隆、各存ずる旨は誠にことわりなれども、今病といはんに実とは聞き入れじ。必ず主君に叛くと人に誹られん事士の志に非ず。君に深く思ひ入りたる忠の空しくならんは運のきはめなれば力なし。われ一人誅せられたりともいかにせん。此姫路をだに取れずば、天下の安危歳月を経ずして定るべし、とてとゞまる色の見えざれば、宗圓、家の恥を思ひて身をすてむと思ひ定る事士の志なり。とく五著にゆきて事かなはずば自殺せよ。あとの事は心安く思ひ候へ。君の志たがふともわれ叛くべからず、といひしかば、孝隆打わらひ、さらばとて座を立ば、人々、只今思し召きられての仰せは遺言にあらずや。もし五著にて難をのがれたまはずば、其時人々五著の城を枕にせん、と誓ひけり。宗圓、官兵衛は官兵衛をせよ。人々は人々の志をせよ、と下知せられしかば、孝隆五著に赴きけり。宗圓見おくり、子ながらも恥しき事なり。先だつべき親の留りて子に死ねといふこそ口をしけれ。されども君恩浅からざるは人の存る処なり。今讒言を信ぜらるゝこそ悲しけれ。孝隆をやらずして引こもり謀叛して、命はをしき物ぞと教るは父の道に非ず。仇となりて身を殺すは恥をしる道なりけり、とてさめ/\〃と泣たりけるが、さぞ五著にてたばかりて見んに、今姫路に弓をひく設なしそ。酒もりして時々舞うたひて日をおくれ、といひしとぞ。孝隆は五著に行きて、心おくべき人のもとに使して求め来れる肴ありとて饗し、しめやかに語りて打とけたる体なれば、いかにつくろふとも心の外にあらはれぬ事はあらじ、などいひあへり。又此を疑ひて、黒田父子は謀たくましき者にてよき士あまた有り。城にこもる用意せん間に、官兵衛を以て欺くべきも計がたし、とて姫路の様を聞に、宗圓金剛に舞まはせて打とけたる体なれば、さては別の事もあらじ、といへり。此時摂州荒木摂津守村重は毛利に属し、信長と戦ひ利あらずして有岡の城にひきこもる。此由小寺聞て孝隆をよびて、われ毛利にくみすべきとは内々荒木といひかはしたる故なり。今毛利家にたよらん事はわが過なりと覚ゆるぞ。されども此まゝにて手ぎれをせんに表裏者といはれんも口をしければ、とく有岡にゆいて荒木を諌て、もし聞き入れば秀吉に謀りて信長と荒木和平をとり行ふべし。摂州信長に従はば、われも真に心をひるがへして信長に従ふべし、といへば、孝隆聞て、信長と荒木と和平は思ひよりも候はず。荒木度々信長に背きたればいかで其言を信ぜらるべき。参りたりともいたづら事ならん。然ども辞し申せば勇なきに似たり、とて有岡に赴く路、姫路に立よりて父子対面し、有岡に至らば必ず首をはぬべきか、おさへて囚とするか、二つの中に過候まじ。五著に死んより有岡にて死候は、信長も聞き又世のほまれともなり候べし、と思ひ切つたる色を宗圓見て涙にむせび、しばし物をもいはざりしが、やゝ有て、誠に困厄の至極なれども、名にかへて身をすつるは義を思ふ故なり、とて見送りしかば、孝隆有岡に赴きたり。小寺兼て村重に密に毛利に一味すべきに、黒田父子人質の松千代を信長に出し置たれば、かの父子は織田に内通の志ありと告しらせつれば、有岡の本丸によび入れ生どりて牢におしこみけり。五著に此由聞えしかば、小寺いつはりて歯がみをなし、荒木が狼藉の次第遺恨深し。然れども此上は信長に一味のこゝろを易て毛利に與し、官兵衛を引とる謀や有べき、といはせしかば、宗圓怒て、官兵衛生どりに成しかば是非の論なし。年老たる身の子を失ひ候事は誠に力なき次第なり。然るに官兵衛をすくはん事いはれなきに非れども、先松千代を信長に出し候事は、君も又臣父子と相計れる処にて候に、今度官兵衛を有岡にて捕へたるは、荒木が横さまのふるまひなり。相はかれる処の人しちを棄て、おしとめたる者をたすくべきは逆ならずや。只順道に随ひて天の冥見を待にしかず。われわかき時より度々の軍に臨み、小寺の家の危難を救候に、今齢かたふき、たのみ切つたる長子をすて候事は口をしく候へども、首をくだかるゝとも、毛利に一味せよとの仰せをば得承らじ、とて刀を抽き誓てければ、使も言なくて帰りけり。宗圓が士ども五著を攻破らんといへども用ひず。村重心あらばいたはるべし。もし五著を攻なば村重も官兵衛を殺害すべし。しらぬさまにてあれよ。かくあらんと思ひて官兵衛が女房をば潜に此比引とり置たり、とて驚かず。村重は小寺にたのまれて孝隆を生どりたれども、己がかたきにも非ればいたはり置けり。かくて信長有岡を攻るに及びて毛利家の後巻もせざれば、城落たりけり。孝隆は牢の中にあきれて有ける処に、栗山備後(其時善助)時々有岡にゆきてしのびて商家をかたらひ、牢の後の沼より姫路の事どもかたりし事度々にて、案内をしたりければ、牢に走り行て見れば番人も落うせたり。此れはと驚き且悦びて、善助すて置たる斧にて鎖を破り、引たてけれども三年居かゞみ、其上に湿瘡を病て起事あたはず。かたへなる牢中の人をたのみかきおはせて城を出、寄手の陣にゆき、さて姫路に帰る事を得たり。秀吉播州に攻入るに及て、小寺は但馬におち行、黒田父子危難を脱るゝ事を得て、孝隆に宍粟郡を賜り、姫路を秀吉の城とす。後に如水と称して智謀たくましく、秀吉の功臣第一と聞えしはこの孝隆なり。
(略)
(岩波文庫版『常山紀談』上巻を底本としました)
常山紀談巻六
常山紀談
湯浅常山著
巻之六(一部)
○山崎合戦の時堀秀政宝寺の山をとる事
山崎合戦の時、堀久太郎秀政の士の子何がしといへる者、明智がもとに奉公して有しが、光秀夜のいまだ明ざる内に、宝寺の山に兵をおしあぐべしと謀りしを、父のもとに告やりて、おもひよらず敵味方となり、明日は一戦に及ばん事を歎きける。其書状を則秀政に見せたりければ、秀政夜半に宝寺の山におし上り陣し、待かけたりけるをいかで知るべき。夜明がたに明智が先手押寄たる處を、秀政山上より鉄炮を打かけ不意に切てかゝり、追崩して一戦に利を得たり。
○森寺政右衛門武名の事
山崎の合戦に明智が先陣と護国公の先陣と戦をいどむ時に、侍大将森寺政右衛門忠勝、真先かけて敵を追たつる。森寺が馬印檜木笠なりしを、明智が者共見て、けふ檜木笠の馬じるし持せたる大剛の者、下知せし有さま目をおどろかし候。姓名を承らばや、と度々呼はりけるを、秀吉聞て、けふの軍、森寺が一人の武名をあげし、とて桐の紋付たるはをりをあたへられけり。
○則武三太夫功名の事
山崎の軍に堀尾帯刀吉晴の士則武三太夫首を取て吉晴の前に来る。吉晴、おもひしよりも出かしたり、と詞をかけられしかば、則武怒て首を提てすゝみより、かゝる時は大将も目のくらくなる物に候。則武三太夫が取たる首よく御覧候へ、と罵る。吉晴も、にくき奴哉、といふまゝに、刀を抽て斬られしに胄の星を削りたり。則武真一文字に敵の中にかけ入り、又首を取て帰る。吉晴は、必ず則武は討死せん、と悔おもはれし處に、則武来れば大に悦んで、汝をさきにほめたる詞、賞する余りにおもひしよりもといへる、剛の者にふべき詞にあらず。わが過にてこそあれ。汝が二度の先がけ大きにすぐれしよ、と感ぜられけり。
○滝川一益厩橋を退く事
天正十年滝川左近将監一益は信長の命により、関東の管領として諸将の質をとり、上野の厩橋にありける處に、六月七日信長弑せらるゝの変を聞、老臣ども事をかくさんといへども、一益悪事千里といふ諺あり。秘すること能はじ、とて上州嶺の城主小幡上総介信真、鷹巣の城主鷹巣三河守信尚、金山の城主由良信濃守国繁、館林の城主長尾但馬守顯長、小股の城主渋川相模守義勝、倉賀野の城主倉賀野淡路守秀景、白倉の城主白倉左衛門佐、藤岡の城主内藤大和守秋宣、安中の城主安中越前守、高山の城主高山遠江守重光、五閑の城主五閑刑部、小泉の城主富岡六郎四郎、石倉の城主長根縫殿介、大戸の城主大戸民部直光、木部の城主木部宮内貞利、和田の城主和田右兵衛大夫信業、那波の城主那波対馬守宗元、武州忍の城主成田下総守、深谷の城主深谷左衛門憲盛、松山の城主上田又次郎政朝等の諸将を招き、信長の変をつげ、各々の人質を帰し、いそぎ上京して弔軍すべき旨をかたる、諸将大に感じ、此一大事を告て人質を帰されんと候に、いかでか二心候べき。人質を其まゝ置て仰に従ふべし、といへば、一益諸将の義心謝するに詞も候はず。北条の表裡定めて一益を討取て上野をおし取べきならむ。此方より打向ひ一軍せんものを、とて城には同姓の彦次郎忠往を守に置、一万計の兵を率ゐて神奈川に押出す。
一説に、北条家より人質を渡し、はやく城を出よ。さらずば一戦すべし、と言送る。一益、吾信長の命を受、関東の管領たり。今危きに臨で何ぞ北条が下知に付べきや、とて兵を出せりともいへり。
北条氏直果して小田原より兵を出し、武州児玉郡本庄に著て、先陣北条安房守氏邦神奈川におし寄す。一益は川を後にして相戦ふ。大敵支がたく討たるゝ者多し。一益厩橋に帰り、其日討死せし人々の姓名を過去帳に書て、黄金を添、寺に送りて供養し、諸将をあつめ暇乞とて酒宴し、一益鼓をうち、兵の交り頼ある中の、とうたひければ、倉賀野淡路守、なごり今はと鳴となり、とはやし、終夜酌酔て太刀刀取出し、上州の諸将に引出物にし、懇に暇を乞て六月二十日厩橋を打出て、各々人質を帰しけれども、皆請取ずして駅馬等の事沙汰し、是を送りて笛吹嶺に至る時、国人の人質悉く帰し、木曽路より帰京す。滝川彦次郎は一益が長男三九郎、二男八丸を伴ひ木曽路にかゝる時、一揆起り八丸を奪ひとられしを、一益が士古市九兵衛一揆を追払ひ、八丸を奪ひとりて一益と同じく長島に帰る。
一説、神奈川の合戦に八丸生捕れしを、古市追討て其適を切ふせ、八丸を奪ひ取て連帰るといへり。又笹岡平右衛門、津田治右衛門ふみ留りて討死しける。其間に一益兵を納て厩橋に帰るといへり。笹岡平右衛門は一益の馬とりより取たてられ、氏は笹岡、彦次郎是をあたふ。武功度々に及て士大将となり武者奉行たり。又酒宴は倉賀野にての事ともいへり。
関東にて一益厩橋を引はらひたるふるまひ殊に賞美しけるとぞ。
○光秀愛宕山にて連歌の事
天正十年五月廿八日、光秀愛宕山の西坊にて百韻の連歌しける。
- ときは今あめが下しる五月かな 光秀
- 水上まさる庭のなつ山 西坊
- 花おつるながれの末をせきとめて 紹巴
明智本姓土岐氏なれば、時と土岐とよみ通はして、天下を取の意を含めり。秀吉既に光秀を討て後、連歌を聞き大に怒て紹巴を呼、天が下しるといふ時は天下を奪ふの心あらはれたり。汝しらざるや、と責らるゝ。紹巴、其発句は天が下なると候、と申。しからば懐紙を見よ、とて、愛宕山より取来て見るに、天が下しると書たり。紹巴涙を流して、是を見給へ。懐紙を削て天が下しると書換たる迹分明なり、と申す。みなげにも書きかへぬ、とて秀吉罪をゆるされけり。江村鶴松筆把にてあめが下しると書きたれども、光秀討れて後紹巴密に西坊に心を合せて、削て又始のごとくあめが下しると書きたりけり。
○志津が嶽合戦秀吉智謀の事
佐久間玄蕃盛政、柳瀬にて中川清秀を討取りける時、秀吉長浜より一騎がけにて来られけり。志津が嶽に到れば日暮ぬ。陣の相去る事二里計なり。盛政使を以て、早くも軍を寄られ候。相待て候ほどに、夜明ば矢合仕るべし、とぞ言送りける。秀吉聞て、是より申さんにゆゝしくも承り候。明日いさぎよく軍をとげ候べし、とて使を返して後、吾に怠らせ夜討せんとの事ならん。遠き異国の張良はしらず、我を欺るべき者日本に有りとは覚えず、とて野にも山にもかゞりを透間なく焚て白日の如し。佐久間は敵人馬の行程を急て疲れたる處へ、するりと押寄打破らんとおもひけるに、秀吉の謀に夜討の支度空しく成にけり。
○堀七郎兵衛見切の事
志津が嶽の合戦に堀久太郎秀政兵を分ち出さんとする時、其臣堀七郎兵衛押留て曰、勝家の陣より佐久間が陣に頻に使来ると見ゆ。疾引とれとの事ならむ。若引取ば玄蕃本の道をば帰るべからず。しからば間近き所にて戦有るべし。玄蕃引取らずば勝家必ず来て軍あるべし。此二つを出べからず。兵を分たずして待べし、といふに、玄蕃も退かず、柴田も進まざりしかば、勝家運尽たり、と言しが、果して敗北しけり。又志津が嶽の事を老功の人に問しに、勝家の詞のごとく玄蕃引取らば勝利を全うすべし。玄蕃が言の如く勝家押詰来らば必ず敗軍すまじきなり。両将互に猶予して勝を失ひたり、とぞかたりける。
○志津が嶽七本鑓の事
志津が嶽にて佐久間が人数乱るべきを秀吉見て、近習の人に向て、爰ぞ鑓を合せよ、と詞を懸らるれば、各競ひ進む。福島市松、加藤虎之介、加藤孫六郎、片桐助作、平野権平、脇坂甚内、糟谷助右衛門七人なり。其夜秀吉、今日の七本鑓の者とて呼れけれども、誰といふ事を知らず。其時指を折てかぞへられしかば、前に進み寄たり。是より志津が嶽の七本鑓と世に唱へけり。中にも福島一番に進で鑓を合せたる上、首を取たりしかば、五千石あたへられけり。其余は皆三千石与へられぬ。福島は紙の切裂じなへの指物、加藤嘉明は紫ほろ、清正は紙のしで馬れん、片桐は銀の切裂えつる、平野は紙子の羽織、糟谷は金の角取紙のえづるの指物さゝれたりとぞ。
○石川兵助戦死の事
志津が嶽の前夜、石川兵助と福島市松と口論し、既に刺違ふべき体なりしを、座に有りし面々、明日の軍に身を捨て高名を遂らるべきに、こはいかなる事ぞ、と押留ければ、石川、面々の前にて口も得明ざる市松、何とてこはき鑓先に向ふべき。明日わが後影を見よかし、と言捨て出けるが、直に柳瀬に趣きて、只一人真先にすゝみて討死しけり。人々其勇気はいかめしけれども、其怒は戒とすべし、といひあへり。秀吉石川が弟長松に感状を与へられけり。其文曰、
- 今度三七殿、依2違貳1軍2美濃大垣1之處、柴田修理亮勝家出-2張柳瀬1、欲レ遂2一戦1之時、兄兵助先赴、合レ鑓令2撃死1、抜群之働(動発也)於2眼前1見レ之。爾雖レ為2若輩1、念2兵助之壯志1、与2秩千石1。向後愈可レ抽2忠節1者也
- 天正十一年七月五日 秀吉
- 石川長松殿
とかゝれたり。
○佐久間盛政生捕るゝ事 附久右衛門安次源六郎実政が事
志津が嶽の軍破れて佐久間を生捕来る。秀吉見て、汝は武勇逞しき者なり、助て国を与ふべし。二心なからんや、と問ふに、盛政冷笑ひ、我に国を与へなば、汝を生捕搦めん事、今日我身の上の如くせん。新に恩を受るとも柴田を忘れんや、といふ。死すべきに及びて、大紋紅裡広袖の小袖白帷子に空だきして呉られよ。一生の終りに風流を尽したし。是一つの望なり、と言しかば、秀吉其望にまかせられしかば、大に悦んで是を著たりけり。玄蕃其時廿七歳。みな人をしみあへり。
柴田亡て後、其従子佐久間久右衛門安次、源六郎実政兄弟紀州に遁れ、粉川法師三池をかたらひ、河内霧坂に城を構へ、後亦南河内天野山の国見を要害にして度々軍しけるが、遂に秀吉に攻め落さる。後に小田原に入り、北条亡びて兄弟金沢の称名寺にありと秀吉伝へ聞、伯父勝家の為に吾を仇とする志、誠に大丈夫といふべし。今日本平均しぬれば心を改めよ、とて安次に一万五千石、実政に一万石与へて蒲生氏郷に附けらる。兄弟氏郷に一礼しける時躓きけるを、人皆笑しかば、氏郷、物の思慮なく、汝等が奉公ぶりを彼に競ぶる事よ。兄弟とも畳障の士にあらざる物を、と言れけり。
○尼子家の十勇士
尼子家十勇士と世に唱へけるは、山中鹿之介、藪原茨之介、五月早苗之介、上田稲葉之介、尤道理之介、早川鮎之介、川岸柳之介、井筒女之介、阿波鳴戸之介、破骨障子之介なり。
○信雄長臣を誅せられし事
秀吉信雄を打亡さんと謀て、先信雄の長臣岡田長門守、津川玄蕃、浅井田宮丸、滝川三郎兵衛をまねき、懇にもてなして後、信雄に自害をすゝめよ。さらば恩賞あつく行ふべし、と語られけり。聞入れずば首を刎ん気色なる上、神文を書よ、と責らる。四人力なく、承りぬ、と言て起請文を書にけり。秀吉も、約を背かじ、と神文を出されけり。是は一人づゝかたらふべきを、一同に招きたるは、信雄に告知らする者有て、残る者を誅せさせんとの謀なり。又皆秀吉に実に心服せずとも、既に神文を書きたれば、疑ひて一和すべからず、と思慮せられたるなるべし。滝川素僧なりしを信長呼出し、四万石の地を賜りし身なれば長島に帰て、信雄に斯と告申せば、頓て三人を誅せん、とて長門は飯田半兵衛、玄蕃は土方勘兵衛、田宮丸は森厳三郎と討手を定められけり。土方承りて、長門をば臣に仰せ付けられ候へ。打留申さん、といふ。飯田、既に定りたるうへは何の申條のあるべきぞ、といへば、信雄、さらば長門をば土方討候へ。飯田は、既に下知したれば討たるに同じ、とて長門を土方に譲りけり。土方が斯言ひけるに故あり。土方は始彦三郎と云ひけるが、ふとく逞しく、胸より手足に至るまで毛生、熊の如くにて勇猛の士なり。長門常に土方に語りて、殿は人の申事軽々しく信ぜられて、日比我を疎まるゝよ、と度々云ひけるを、土方、夫はたはぶれか又は汝の心の違たるならん、といへば、長門、いや/\此長門をば必ず誅せらるべし。其時汝討手なるべきよ。たやすく討るべき身にあらず、といへば、土方聞きて、討手の仰を承らんに、此勘兵衛ならで又誰か有るべき、と語りたるに、長門仰に寄て、此七ツ胴切落したる脇指にて、汝が頭を斬破ん、と云ひける詞に依て斯は申せしなり。天正十二年三月三日の礼に、岡田、信雄の前に出けるを相図とせられけり。岡田其日は脇差を横たへて進み出る。信雄、新に造らせたる鉄炮を見よ、とて指出し、此台尻の穴は何の為ぞ、と問はるゝに、岡田少し差うつむく閧、土方つと寄引組たり。岡田、己をや、といふまゝに脇差を七八寸抽けれども、大力に強く抱かれて抽もはなたずねぢ合ひける處を、信雄、土方放せ、我自ら切らん、と詞を懸られしに、臣と共に斬せ給へ、とてはなさず。信雄、放ざればいつまでも斬まじ、といはれしかば、土方岡田を突はなしざまに小脇差を抽て指通せば、信雄すかさず切て殺されたり。津川は此騒ぎを聞て走り来りけるが、信雄に行逢刀を取延て切たりしに、廊下の長押に切付けたるを、飯田傍より刺殺しけり。浅井をば森討留たり。是よりして秀吉と弓箭をとられけり。
○水野勝成高名并行状の事
長久手の軍に水野忠重の嫡子勝成は、目を病て胄を著ず。鉢巻したりけるを、父見て、汝が胄はゆばり壷にしたるか、と罵られしかば、父ながら余りの詞かな、真先かけて首を取るか、吾首を敵にとらるゝか、二ツの中よ、といふまゝに、馬引寄て打乗、もろ鐙をあてゝかけ出す。忠重、あれはいかに、とて太田重助といふ士をして呼帰されけれども耳にも聞入れず。又水野喜右衛門はせ来り引きとめんとするを、勝成はたと睨で、畳の上の諌は聞きも入るべし。只今大軍の中にかけ入り、功名せん時止れとて引返す様や有る、といひすてゝ、秀次の将白井備後守が陣に突てかゝり、胄首をとりてはせ帰る。此日の一番首なり。勝成あら者にて人を物ともせず。忠重の心に忤ひ、虚無僧となりて国々をめぐりて武者修行す。後に忠重死して東照宮勝成に三州苅屋を賜はり、日向守と称して大坂の時、大和口の先陣として大功有し人なり。勝成十万石を賜ひて後愈士に下り身をいやしくして、すべて士に貴賤はなきものなり。主君となり従者となり、互に頼みあひてこそ世はたつ習ひなれ。されば、大事の時は身をすてゝ忠義をなす事ぞかし。汝等我をば親と思はれよ。我汝たちを子と思はん、と常に士にいはれけり。年老て鷹野に出づる時、行歩かなはず、布団にのりて士にかゝれ、士番所にてはふとん共に下に居て、年寄ての鷹狩をかしかるべし。鳥とらん為にあらず。心ありての事なり、と度々いひて打過られけり。或時鷹狩の野にて昔勝成に仕へし士を見かけ、いかになつかしや。我方にて禄三百石なりしに、立ち去りて越前にて千石の禄と聞く。今爰に来られしはいかに、と問ふに彼士、仰の通禄は越前にて増候へども、殿の下をいたはり懇に遇したまふなじみ、禄には換がたく暇乞うて帰り候ひぬ、と申せば、勝成大に悦び、折にふれ思ひ出せしなり、とて即日に禄を増与へられけり。その後勝成隠居して又鷹狩の時、彼士の家の門閉たるを見て、いかにと問はるゝに、美作守の心に背く事有て暇を乞走りぬ、と答へしかば、彼者は越前の禄千石を捨て、小禄の我家をしたひて帰りし者なるに、いかに作州は思へるにや、かくいふ勝成は若き時、心得過ちて武蔵の金川根笹流の弟子となり、尺八一本携へて虚無僧となりて日本国をめぐり、或時は堂塔に夜を明し、或時は野にも山にも日を暮し、様々に艱難にあひ人にも誹られしが、一言虚妄をいふ事なく、不仁のふるまひせざりし故にや、今福山十万石を賜りぬ。然れども下の情をしる事はこれ虚無僧たりし故なり。返す/\〃も惜むべき士を失ひぬるよ。美作は下の事はしられぬぞかし。すべてよき士は、主君又は頭の下知をも無理なる事は心服せず。たとへ少しの過ありとも、能士は二度も三度も知らぬ体して、猶已がたくば傍輩に諌させんものを、美作の政事なげかしきぞ、と泣れけるとかや。
○本多忠勝忠勇の事并忠信の胄の事
東照宮小牧に陣しておはしませしが、秀吉兵を分ち中入すと聞し召し、敵の迹に従うて向はせ給ふ。小牧には石川伯耆守数正、酒井左衛門尉忠次、本多平八郎忠勝を残させ給へり。然るに秀吉大軍を出して長久手に向はれけるを見て、忠次は、秀吉の本陣楽田へ押寄、火をかけて攻撃べし、と云ひけれども、石川、秀吉後に変有りと聞て、弥怒られなん、と強て押へて止りけり。忠勝は秀吉の馬じるしを見るより、僅に五百計引具し小牧にかけ出、小川一筋隔て秀吉に相ならび、長久手さして馳向ふ。路にて足軽を進め、鉄炮を打かけ一ト軍せんとすれども、秀吉見ざる体にて取合ず。竜泉寺の前にて忠勝馬を川に打入口を洗ふ。秀吉、あの鹿の角の立物の胄を著たるは大将よ。誰か見知たる、と問はるゝに、稲葉伊予守道朝、過し年姉川の軍に武者出立見知て候。本多平八郎にて候、と申しもあへぬに、秀吉涙をはら/\と流し、五百に足らぬ士卒をもて吾八万の軍にかけ合さんとする、千死に一生もなきぞかし。然るに道を隙どらせ、己が主君の軍に勝利あらせんとの志、勇と云ひ忠と云ひ、誠に類なき本多かな。秀吉運強くば軍にかたん。あたら者を討べからず、とて弓鉄炮を制せられけり。斯て忠勝、長久手に馳付たれば、軍終りて敵味方ともに見えず。こはいかに、といふ所に、味方打勝小畑に入らせ給へり、と聞き、もみにもんで追付奉り、御ン馬の傍に乗寄、云がひなくも小牧に捨させ給ひ、かゞる軍に合ひ不申、と申しければ、聞し召取あへず、汝が躬は我身なりとおもひて小牧にとゞめ、後に危き事なくてこそ軍には勝たれ、と仰ありけり。其後天正十八年秀吉北条を打ち亡ぼし、七月廿六日野州宇都宮にて平八を呼れけり。忠勝は下総の庁南に有けるが急ぎ参る。秀吉諸大将並居たる中に呼出し、熊野より佐藤四郎忠信が胄を得させたる者有。四郎が忠義後世まで語伝ふ。四郎に劣らぬ人に著せなんとおもふに誰が有る、といはれしに、答ふる人なし。其時秀吉、四郎にまされる者は平八なり。子細はしか/\なり、と長久手の軍物がたり、忠勝の有様審に言れて、則胄を忠勝に賜りければ、忠勝面目身にあまる心地して出られけるに、其晩又忠勝を招き、傍の人を遠ざけ、自茶を与へ、けふいくらも諸大将並居たる中にて、汝が武勇を褒挙たるは秀吉が恩ならずや。主君の恩といづれぞ、と問はるゝに、首を低て物言ず。頻にとはれければ、忠勝承り、誠に忝しとは申せども、累世の主君の恩とならぶべきに非ず、と申されしかば、秀吉愈感ぜられけり。
一説に、忠信の胄を賜りたれども悦ぶ色なし。いかにととへば、いやとよ。忠信武勇さのみ羨しくもなし。主君と仰ぎし九郎判官も吾爵位も同じ。唯世々家に伝へたる鹿角の胄こそよけれ、と言はれしとぞ。後忠信の胄は二男忠朝に譲り、鹿角の胄は嫡子忠政に譲られたりき。忠朝もおもふ所やありけん、其の胄にしころも付ずして置れしとぞ。
○榊原康政秀吉を誹りて札を立てられし事
小牧陣の時榊原康政、秀吉の事を誹て札に書、織田家に向ひて弓を引く事、不義悪逆の至りなり、と書きて所々に立たるを、秀吉歯噛みしていかり、康政が首をとらん者には十万石の地を与へん、とぞ触られける。其後東照宮と和平して婚姻の約ありける。始の使に康政を賜はるべし、と秀吉申されて京に上りしに、秀吉対面し、小牧にて札を立てたる時、汝が悪き首を一ト目見ん事をのみ思ひしに、今斯和睦に及べば其志を悦び思ふなり。此事を直に言はんが為に迎へたり。小平太と呼んはいかゞなり。敍爵然るべし、とて式部大輔とは此時よりぞ申しける。偖饗礼有て厚く馳走ありけるとぞ。
○秀吉東照宮の御陣へ戦書を贈られそ事
東照宮の小牧の陣を、秀吉二重隍の城の櫓に上り見やりて、高山右近大夫幸任を呼で、小牧に書翰を送り一戦せんと思ふなり、十三万の軍兵陣を整へて押出し、後に柵の木結て引退かざる手立せんはいかに、と云はれしかば、高山、是は思召止らせ給へ。小牧よりの返書必ず怒らせ給はん事を申来るべし、といへども、秀吉増田長盛に書翰を書せ、長岡忠興に、敵陣の木戸なる道に立よ、と下知せらる。高山色を変じ、仰なりとも行な、とぞ制しける。秀吉、忠興は弓箭のはげしき所へは思ひもよらじ。剛の者を使にせん、と言はれしかば、忠興高山を睨みてつと立て馬に乗、竹に書翰を挟み乗行て、村だつたる松原の小塚の上に押立て帰るを見て、秀吉悦ばる。やゝ有て小牧の陣より月毛の馬に乗、紅の母衣掛たる武者書翰を取て帰る。しばらく有りて金の枇杷へらの指物さし、鹿毛なる馬に乗たる武者、書翰を竹にはさみ、元の所に立てけり。あれ取来れ、と言はれしかば、忠興又馬に乗、馳行て取帰るを、秀吉披て読るゝに、東照宮の返書にはなく、渡辺半蔵重綱、水野太郎作正重が書翰にて、其詞に、後に柵結て一足も引くまじきと思ひ定めて、軍有らん事兎も角もの事に候。三河者下部に至るまで、一足も逃ると申事露計も不レ存候、とぞ書きたりけり。秀吉読も終らず怒られければ、高山、されば斯候はんとて申たる事よ、と居たけ高に成て申す。秀吉冷笑ひ馬牽出させひたと乗、僅四五騎計にて松原の小塚に上り、臀を打たゝき、敵の大将是喰へ、と大音に呼はるを、小牧より唐冠の胄に孔雀の尾の羽織著たるは秀吉よ。あますな、とて鉄炮を打かくる。秀吉、天下の大将軍には矢の中る物かは、と言て、しづ/\と帰られけり。
○東照宮蟹江御出陣の事
尾州蟹江に滝川一益中入すと告来る時、祐筆尊通といふ者、御出馬可レ被レ成者也、と書きけるを、東照宮、此可の字を削れ。今日に於ては一字も大切なり。大敵を前に置き可2出馬1とはおくれたり。出馬するとは其時をぬかさぬなり、と仰せられけり。
○東照宮の御軍略に依て蟹江城降参の事
東照宮長久手の軍に勝せ給ひ、勢州蟹江の城前田与十郎を御攻あらん、とて打向はせ給ふ所に、加勢多く馳入けるを御覧じて、敵いかほども城中へ入れよ、と仰せられしを、酒井左衛門尉忠次承りて、何とて押留給はぬぞや、と申す。東照宮、いかゞ思ふぞ、と御尋ありしかば、忠次、城は堅固なり。多勢こもりなば争か攻落すべき。いかなる御心か候、と申すを聞し召し、大将謀を言やうや有る、と仰られけるが、其の後援兵の乗来りける船を追払はせ、粮道を絶せ給へば、粮忽乏しく成て城を渡し降参しけり。東照宮四十二歳の御ン時なりとかや。
○九鬼嘉隆蟹江の湊出船の事
蟹江にて井伊直政兵をすゝむ。秀吉の舟手大将九鬼大隅守嘉隆、日本丸といふ大船に乗、蟹江の湊に漕入れて打上り、堤を隔て戦はんとせしが、引退て船に乗るところに、入江の港に東照宮の兵船角新造と言へるを横様にして、左右に乱株をうち、真中に取囲んとす。直政は追かくる。九鬼が者共多く討たれ、水主楫取驚きて船を出し得ず。かゝる處に九鬼が士村田七兵衛鉄炮に薬を込、間宮造酒亮が舳先にて下知しけるに、大音上げて静に相だめにするを、両軍なりを静めて見物す。其中に九鬼が者共ひた/\と船に乗組たるは、村田が躬を捨てしづめん為の謀ゆゑなり。斯て村田おもふ矢坪に中りて間宮倒れしかば、九鬼が者共力を得鉄炮を打かけ、船を乗浮めて湊を出にけり。
○中村一氏紀州の一揆を追払はれし事
秀吉小牧に陣を出す時、紀州の根来雑賀の一揆を押へんため、中村式部少輔一氏を岸和田の城に置れけり。紀州の一揆秀吉大坂を打立つと聞て、二万三千計二タ手に分れ、一手は東の山際より堺に向ひ、一手は岸和田に押寄る。はやり雄の若者ども二騎三騎城を出て、寄手に向ひしかば、士大将早川助右衛門、川毛惣左衛門引帰れ、と使をやるを、一氏聞て、かゝる時進で行重りたる武者を引かんとすれば敗北するものよ。いざ打出ん、とて鉄蓋が峯と名付し胄の緒を〆、城を乗出す。先に進んだ者共菅笠の馬印をふりかへり見て、すはや殿こそ出給へ。軍は勝たるよ、と言程こそあれ、一万余の紀州勢に面もふらず切掛り打破て、七筋に分て逃るを追ふ。一氏は三百計にて、堂の池といふ所に扣て先陣の帰るを待つ處に、堺海道に馬煙くらう見ゆ。是は堺に向ひたる敵の返し来れるなり。荒手の大軍にかけ合ひて戦ん事思ひもよらず、疾城に楯籠らん、と口々にいへば、一氏、いや/\退くならば味方気挫て打負けなん。一寸も退く時は、先陣を捨殺し、城をも攻落さるべし。一揆は何百萬もあれ、先陣をだに切崩すならば、二陣は忽敗北すべし。一氏、馬をば悉く城へ返し候へ。馬を引付け置く時は引退たき心の起るぞ、とて将几に腰かけ、旗本三百計の勢、鑓を膝の上に置きて折敷たり。新藤勘左衛門強弓矢継早の手利なるが散々に射る。射しらまされて手負死人倒れ重りてためらふ時、一氏弓の者の羽壺を勘左衛門に渡せ、と下知せられしかば、愈指詰引詰射ける矢にあだ矢なかりけり。一氏、麾を取りかゝれ、というて立ち上る。黒田如水は大坂にありしが、岸和田に敵押寄すると聞き、子の長政十四歳になりしが岸和田にあれば、いざすくはん、とて七百形にて敵の後にかけ来るを一氏見て、愈すゝみをめきさけんで切てかゝり、追立てて八百余の首を取りたり。如水は長政いかにとおもふ處に、黄羅紗の羽織著て鹿毛なる馬にのり、今朝討ち取りし首を、鞍の四方手に付けて馳廻るを見て悦ばるゝ事大方ならず。秀吉一氏に感状賜ひてけり。一氏は豊臣家諸将の中にも勝れし勇将なれば、加藤嘉明もうらやみ慕ひて、吾子の明成を式部少輔になしけるとぞ。
○竹中重治の事
竹中半兵衛重治は美濃の菩提の城主なり。後に秀吉の軍奉行たり。謀略有る人なれども打見たる處は婦人のごとし。軍に臨む時も猛威なる事なし。馬の皮にて包める甲を著、木綿の羽織一の谷と名付けたる胄の緒をしめ、静り返りて居けり。重治向ふ度ごとに士卒戦はずして既に勝ちたりと勇みあへり。重治或時軍物語せしに、子の左京いまだ幼かりしが、座を立ちければ、重治、物語の大事の席を立つ事やある、といかられけり。
○戦国の士功を譲る事
稲葉治左衛門は美濃齋藤家の士、戦場にて必ず真先に独進み出、芒の如くなる所に居ける故、世の人是を芒の治左衛門と言ひけり。沢喜蔵は美濃飛騨に隠れなく、若き頃より功名有り。芋がら畠の鑓沢一番なり、と言ふを、吾にはあらず稲葉なり、と云ひて、互に譲りて決せず。沢は吾早く進みたれども稲葉がほろの手をしむる隙に先に乗込だり。実は一番稲葉なり、といふ。人皆是を賞しけり。有吉武蔵が足軽鉄炮に鑓を持添て鉄炮を搏、其上に壹番鑓を合せたるが、吾一番にあらず、園部儀大夫がほろの手を〆るを見て駈出ぬ。園部が一番なりと譲りしと同事にて、戦国にかゝる士はまれなる事にこそ。
○羽柴勝雅敵を免す事
羽柴下総守勝雅の許に二蔵三蔵とて物し有り。いづれの城にての事にや有りし、下総守城より出て働き、引取りたるを敵付来る。二蔵三蔵門を固めて揚簀戸を下して敵をたてこめたり。勝雅下知して門を明て、敵二人を出して討ち取らず。近藤石見守加勢たりしが、其子細を問ふ。たてこめられたるは死地に入たる敵なり。是を討ば城兵余多死傷すべし。打とめたればとて軍の勝敗にあづからず、と答ふ。石見守武功の人なりし故大に感じたり。
(岩波文庫版『常山紀談』上巻を底本としました)
巻十一
常山紀談
湯浅常山著
巻之十一(一部)
『秀康卿伏見にて妓女國が舞を見給ひし事』
越前の秀康卿伏見にて、國といふ妓女を召て舞せられし時、襟にかけたる水晶の数珠見苦しき、とて、物具の上にかけ給ふ珊瑚の数珠を賜はりけるが、しばし舞ける時、頻に涙を流し給ふ。人々怪しみければ、秀康卿、今天下に幾千萬の女あれども、天下一の女と世に誉られ、名高きは此の女なり。吾天下第一の男と世にいはれず。あの女にさへ劣り果たるかとおもへば泣れける、と仰せ有りけり。
『直江兼続が事』
越後の士大将直江山城守兼続は、朝日将軍義仲の乳子、樋口次郎兼光が末孫なり。謙信に仕へて景勝に至る。景勝、奥州にて百万石を賜りし時、米沢三十万石を直江に与えられ、陪臣の中第一の大禄なり。長高く容儀骨がら雙なく、弁舌明らかに殊更大膽なる人なり。且文芸にも暗からず、五臣注の文選は此の人板行させたるとなり。詩をも作りて、
- 春雁似 吾吾似レ雁 落陽城裏背レ花帰
などいふ句も世に聞えけり。伏見の城にて諸大名幾等も並居る中に、伊達政宗懐中より金銭収出して人々に見られしに、其頃金銭の始りし比にて、珍しとてもてはやさる。直江が末座に有りしを。これ見られよ、と有し時、直江扇の上に金銭を置て打返し、女童のはねつくやうにして観しかば、政宗、いや苦うも候はず、手に取れよ、と言も終らぬに、直江、謙信の時より先陣の下知してザイ取候手に、かゝる賎しき物とれば汚れ候故、扇に載て候、とて政宗のかたに投戻しけり。兼続父も山城守といふ。もと僧なりしが、還俗して武勇を事としけり。
『石田三成直江兼続密謀の事』
石田三成或雨夜のつれづれ成りしに、直江を近付私語けるは、卑賎より出て天下を治るは大丈夫の志なり。我豊臣家の恩深し。太閤斯世におはしまさん中は思ひ立つべからず。されども終には旗を揚、天下をとらばやと存るなり。其の時徳川家父子をば如何して討亡すべき。武畧を廻らし給はらんや、と語りしに、直江此を幸とやおもひけん。是こそ志す所に候へ。されども徳川父子関八州を領して、且蒲生氏郷といふ勇将に親しみあり。輙く勝べからず。先氏郷を滅し、景勝に会津を賜りなんや。然らば吾景勝に謀りて旗を揚、我先陣して師を出すべし。其時西国の諸将たちをかたらひ押寄て、関東を討亡すべきよ、とこまごまと相謀り、終に氏郷を毒害し、後秀行八十万石の地を削て、会津を景勝に秀吉賜りたるは、此謀より事起るといへり。
『兼続惺窩先生に逢し事』
直江兼続、惺窩藤斂夫に対面せんといへども聞入られず。兼続おして行きたれば不在なり。度々招けども行かざるに、今日来りたるにも逢ず。偽りて他に出たるとや思はん、とて直江が許に行れしに、直江其の日関東に赴きしかば、跡を追て大津に至て対面あり。直江、廃れたる家を急に取立る時、人臣の心得はいかに、と問。惺窩、事を速にせんとせば却て敗るゝ基なり、とぞ答へける。後に直江景勝に進めて旗を揚させ、必ず家を滅すべし、と惺窩いはれしが、果して景勝に事を起させたるが、其の功ならざりき。
(岩波文庫版『常山紀談』中巻を底本としました)
赤字は本文引用部分
10p参考部分
『石田三成が事』
石田治部少輔三成は、近江の石田村の百姓、佐五右衛門といふ者の子にして、稚かりし時、佐吉といひしが、家貧しく、近き邊の寺にやられたりけり。
或時秀吉かの寺に行き、佐吉が明敏ばるゆゑ、呼び出して側に仕へしめしが、頻に禄を増し、水口四万石を與へられけり。
後、秀吉、三成に「人数多招きたらん」と問われしに、「島左近一人呼び出し候」と申す。秀吉、「それは世に聞ゆる者なり、汝が許に、小禄にて、いかで奉公すべき」といはれしかば、三成「禄の半分を分ち、二万石與へ候」と答ふ。秀吉聞いて、「君臣の禄相同じといふ事、聞きも伝えず。いかさまにも、其の志ならでは、よも汝には仕えじ。ゆゆしくも計らひたるかな」と深く感ぜられ、島を呼び出して、手づから羽織を與えて、「是より三成に能く心を合はせよ」といはれけり。三成佐和山二十三万石を賜はりたる時、島に碌増し與ふべき由いひけれども、「禄更に不足にも候はず。他の人人に賜はり候へ」と辞しけり。
左近が父、もと室町将軍家に仕へ、左近、江州高宮の傍に、はかなきさまにて隠れ居たりしを、三成が招き出しけるなり。
(研究社学生文庫『常山紀談』(抄)を底本としました。)
巻十三
常山紀談
湯浅常山著
巻之十三(一部)
『関ヶ原合戦嶋左近討死の事』
黒田長政はもとより石田と不和なりしかば、関ヶ原合戦の前すぐり立てたる士十五騎、明日の軍にぬけ懸すべからず。吾馬の廻りに引そひて軍せよ。石田と手を取組て討ちとらんと用意せられけり。石田が陣の前に柵あり。嶋左近昌仲左の手に鎗をとり、右の手にザイをとり、百人計引具し、柵より出て過半柵際に残し、静に進み懸りけり。長政馬より下立、鎗を堤てにらみ合ひたる處に、管六之助政利少し高き處に上り、五十挺の鉄砲を透間なく横合にうたせけるに、真先に進んだる敵手負て、左近も死生は知らず倒れしかば、ひるむ所を、長政どっとおしかゝり切りくづされけり。左近は肩にかけてそこを退ぬ。管後に六千石の碌賜はり和泉と称す。長政筑前の国領せられて後、関ヶ原にて撰にあひ、長政のかたへに有りて軍しける人々集て閑話しけるが、石田が士大将、鬼神をも欺くといひける嶋左近が其の日の有様、今も猶目の前に在が如し、と云ひけるに、其の物具の事をいひ出して更に定かならず。人々口々にいひしかば、其の軍の頃石田が方に有りける士の筑前に仕へけるを、三人呼寄て問ひければ、左近、胄の立物、朱の天衝、溜塗桶かは胴の甲に、木綿浅黄の羽折を着たりし、と語る。人々驚きて、近々とつめ寄せたるに見覚えざる事、能うろたへたるよ。口をしき事なり、と云ひしに、其の中に取わき剛の者の云ひけるは、見たがへたるはわれながらもことわり哉。左近が引具したるは皆すぐりたる物しにて、七十計は柵際に残し三十計左近に立てて、ザイを取下知したる有様、つくづくと案ずるに、三十人計の兵ども鎗の合べき際にさっと引き取り、味方ばら/\と追かけんを近く引寄せ、七十餘人の者どもえい/\声を揚て突かゝり、手の下に追崩して残なく討とらんとの手だてなりき。今思ひ出れば誠に身の毛も立ちて汗の出るなり。かく酒汲かはして、心安き朋友と物語するとは大にことならずや。人々大かた目のたましひは失ひたるにぞ。若其の時横合より鉄砲にて打すくめずば、われらが首は左近が鎗にさし貫れなん。見たがへたりとて必ずしも恥にあらず、とぞいひける。
(岩波文庫版『常山紀談』中巻を底本としました。)
巻十六
常山紀談
湯浅常山著
巻之十六(一部)
『前田慶次が事』
前田慶次利大忽々斎(まえだけいじとしおきこつこつさい)と号す。加賀利長と従弟なり。
一説に、利大は滝川儀太夫が妻懐胎にて離別し、利家の兄蔵人に嫁して、前田家に生るといへり。
前田の家を立去て、
利大は文学を嗜みさまざま芸にも達せり。滑稽にして世を玩び、人を軽んじける故、利家教訓せらるゝ事度々に及べり。利大大息ついて、たとへ萬戸侯たりとも、心にまかせぬ事あれば匹夫に同じ。出奔せん、と独言せしが、ある時利家に茶奉るべきよしいひしかば、悦びて慶次が許に来られしに、慶次水風呂に水を十分にたゝへてかくし置き、湯風呂の候。入り給はんや、と横山山城守長知をもていへば、利家、よかりなん、とて浴所に至る。慶次自ら湯を試みて、よく候、と言へば、利家何の心もなくふろにゆかれしに寒水をたゝへたり。利家、馬鹿者に欺れしよ。引き来れ、といはれしに、慶次、松風といふ逸物の馬を裏門に引き立てさせて置きたりしに打乗、出奔しけるとぞ。又京にて夏の此馬川入にやりけり。馬取りの腰に烏帽子を付けさせたり。道にて往来の人立ちとまり、ふとくたくましき馬なれば、誰の馬にて候、と問ふ。即(すなわち)烏帽子を著(き)足拍子をふみて、此鹿毛と申すはあかいちょっかい皮ばかま、茨がくれ鉄甲(てつよろい)鶏のとつさか立ゑぼし、前田慶次が馬にて候、と幸若の舞を謡ひて引き通る。見る人の問ひし度ごとにかくしけるとなり。
上杉景勝に仕へけり。
初て目見する時、土大根三本臺に居て出しけり。
朱柄の鎗を持たせかば、何ゆゑぞ、と咎むるに、父祖より持せ来りし、といふ。水野籐兵衛、韮塚理右衛門、宇佐美弥五右衛門、藤田森右衛門、年久しく朱柄の鎗持せん事を望み申せども許されず。然るに慶次を制禁なくば、四人ともに許さへ候へ、と訟へて許されけり。直江山形に攻入引返す時、最上義光大軍にて追かけ、洲川(すかわ)にて軍有りしに、義光旗本をひいて切ってかかり、合戦数刻に及びけるに、上杉勢引き取り兼しかば直江怒て、われ大将として此の口に向ひ、おくれをとる事口惜きよ、とてもだえ怒りけるに、慶次馬の前に立ふさがり、爰はわれにまかせられ候へ、といひすてゝ、敵味方にらみ合ひたる處に馬を乗かけたり。杉原常陸は先陣に有て種ケ島の鉄砲を下知しけるが、慶次におり立ちてかゝられよ、といへば、馬より飛下りたり。慶次其の日の出たちは、黒き物具に猩々皮(しょうじょうひ)の羽折を著(き)、金のいら高の珠数のふさに金の瓢箪付けたるを襟にかけ、山伏頭巾にて十文字の鎗を持ち、黒の馬に金の山伏頭巾かぶらせ唐鍬(とうしりがい)かけたり。前田慶次、と名乗てかゝりける處に、水野、韮塚、宇佐美、藤田四人も同く鎗を引堤げ、をめきさけんで念なく敵を突退けたるに、杉原種ケ島鉄砲二百挺、小高き所へおしあげうたせし故物わかれせしかば、慶次下知して引き取りけり。
慶次指物ねりに大ふへん者と書たりしに、人々、あまりの事よ、といへば、慶次、汝たちは武辺とよみたるや。われ落ぶれて貧しければ、大不辨者といふ事なり、と戯れしとかや。
上杉家禄知削られし後、士多く暇を取て立去けるに、慶次を七八千石、一萬石を以て招く大名あり。慶次、われ此の度の乱に諸大名表裡の心見限たり。景勝ならでわが主君とすべき人なし。扶持し置きてたまわれ、とて五百石の禄にて民間に引込、風月を楽しみ歌学に心を寄せ、源氏物語を講じて世を終れり。
(岩波文庫『常山紀談』中巻を底本としました。)

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