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一刀斎先生剣法書
一刀斎先生剣法書(一刀流剣法口伝書)
古藤田俊定著
(抜粋)
技と道理は一体のもの
夫、当流剣術の要は事(わざ)也。事を行ふは理也。故に先事の執行を本として、強弱、軽重、進退の所作を能く我心躰に得て、而後其事敵に因て転化する所の理を能くあきらめ知るべし。たとへ事に功ありと云ども、理を能く知らずんば勝利を得がたし。亦理を能く明め知たりとも、習熟の功を得る者は是を心に得、是を手に応ず。其至るに及んでは事理一物にして内外之差別なし。事は即ち理なり。理は即ち事也。事の外に理もなく、理を離て事なし。然るを術の学者、事一片に止りて理の邪正を知らず、或は理に着して事の得失を知らざること是れ偏なり。事理偏着するならば敵に因て転化することあたはざる者なり。
故に当伝之剣術、先師一刀斎先生以来事理不偏を主要として、剣心不異に至る所の伝授を秘所とす。予当流の末葉として此術を学と云へども、愚才不功にして、其の妙を知らず。然りと雖ども弟子の執心黙止しがたきに因て、伝来理事之大方を今改めて一紙に是を記るす。実に管を以て天を窺が如く、後見の嘲を求るに似たり。
十分の勝に十分の負あり
術者負る所、勝ざる所を知べし。負る所と云は、先づ勝所なり。勝ざる所と云は敵之能守る所なり。其負る所我に在り。妄りに勝んと欲する者は我が負所を知らず。負る所を勝んと欲する者は敵の勝所を知ざるが故也。
我勝ざれば負けず、我負ざれば勝たず。故に十分の勝、十分の負あり。十分の負に十分の勝あり。勝て負る所を知は、術の達者也。我が事理を正し、彼が事理を察して敵に因て転化すべし。
孫子曰、「彼を知り己を知れば百戦殆からず、彼を知らず己を知らば一には勝ち一には負く、彼を知らず己を知らずば戦う毎に必ず敗る」
威厳をもって圧倒し勢いをもって勝つ
威は節に臨んで変ぜず。其の備、正明にして事理に転ぜられざる全体を威と云ふ。動ぜずして敵を制するは威也。是を不転の位と云ふ。すでに動じて敵を利するは勢なり。是を転化の位と云。威は静かにして千変を具し、勢は動じて万化に応ず。故に威を以つて敵に合し、勢を以つて敵に勝つもの也。威と勢は二つにして一つなり。一つにして亦二つなり。威に勢在り。勢に威在り。不転は無為の全体、其威十分に通貫して恐るに敵もなく、疑がふに我もなし。求めずとも威は自ら我に備はり、勢は自ら其の威に在り。
無心のうちに反射する習練
理は事よりも先達し、躰は剣よりも先んず。是術の病気なり。他に向て其事理を求るが故也。臨機応変の事は、思量を以て転化するにはあらず。自然の理を以て思はざれども変じ、量らざれども応ずる者也。故に我に応ずる所の理を敬して、思慮分別を発せず。心不乱に勝利を疑はず。能く本分の正位に認得すべし。此の法を学ぶ者の心の執行此の如くなり。高上に至ては、心不乱と云ふ沙汰もなく、一理敬する差別もなし。内外打成一片にして、善もなく又悪もなし。千刀万剣を唯心に具定し、十方に通貫して変転自在なり。是一心の執行を以て伝授を離れ、別伝の位に至る所なり。
事にて利を先だてざる習と云は水月を能く守つて邪気を生ぜずば、千変は其の一より転ず。一は無形の全体なり。譬へば水の如し。水には常の形なし。故に能く方円の器に随ひ、躰を先だてざる習は剣前躰後の伝授也。
此の術は其の刃を以て利をなすの法也。故に剣在れば事あり。事在れば理あり。心は事の本なり。」体は剣の本也。
其の本裏に在つて末表に在を実と云ふ。是順なり。末裏に在て、本表に在るを虚は不定の勝也。利事よりも先んずる時、事何を以てか変に応ぜん。体剣よりも先だつとき、剣何としてか人を害せん。故に能く其の本を正して、而して其の末を治むべきもの也。剣体本来の正きに至ることは事理執行の功に在り。
先手を取る術
先に体用の二つ在り。其の備は不変にして無事を以て攻るを体の先と云ふ。すでに其の位変じて処に随て形を現ずるを用の先と云ふ。伝に云く、体の先は体を以て攻め、用を以て守る。是敵の利を奪て其備を破り、合するを以て攻む。其の利を表とし、其の事を裏とする也。用の先は用を以て攻め、体を以て守る。是敵の備を破つて其事を奪ふ。離するを以て攻め、其事を表とす。若し対用攻守の事理を知らず、妄りに乗じて勝んと欲するものは、首を延べて討れ、手を出して斬らるるに同じ。能く鍛練すべし。
受けて立つ術
後は敵の体と用を利するに二つ也。敵体を以て利せんと欲せば其現ずる所に応じて其の体を破るべし。乗って残る者を末に応じ残らざる者を本に随ふ。本動じて末静なるものを、其本を制し、本正して末乱るものを残て是に応じ、本末倶に動ずる者は、其過を殺し、本末倶に静なるものは、其誤を利すべし。然と雖も其の形に随て其の色を追は、奪るる利在り。事理其の先に奪るときんば後に利なし。故に我が伝の後は、其形に向て其色を殺すもの也。向殺の二つは体用の事也。向を以て殺し、殺を以て向ふもの也。剣刀の発り、当の強弱、剣勢本末の備、剣体前後の口伝、其得失は皆事の執行より、剣心不異の全体に至て、臨機応変の事自在也。此の理微妙にして、伝て是を示しがたし。学んで是に至りがたし。実は以心伝心の妙理なり。其の寒温を自知するものは先師刀の骨髄に符節を合するが如し。
間にとらわれれば間を失う
勝負の要は間なり。我利せんと欲すれば、彼も利せんと欲す。我往んとすれば彼亦来る。勝負肝要この間にあり。
故に我伝の間積りと云は、位拍子に乗ずるを以て間と云也。敵に向て、其間に一毛を容れず、其危亡を顧みず、速かに乗じて殺活の当的能奪の本位到る可きもの也。若し一心間に止るときんば変を失す。我心間に拘ざるときんば、間は明白にして其の位に在り。故に心に間を止めず。間に心を止めず、能く水月の位に至るべきもの也。無理無事の位を水月の本心と云也。故に求れば是水月にあらず、一心清浄にして曇りなきときんば万方荷皆水月なり。至らずと云ふ所なし。
古語に云く、遠きを慮からざれば則近きに必ず憂在り、故に間に遠近の差別なく、其間を守らず、其の変を待たず、人に致されずして疾く其の位を取は当伝の的なり。若し夫れ血気に乗じて無に落差するものは我刃を以て独り身を害するが如し。
敵の出方に応じて勝つ
敵の事を以て我が事とし、敵の利を以て我利とす。是を鸚鵡の位と云也。強を強く、弱を弱く、撃つものを請け、うくるものも外す、万化の利何れも此の如し。是を敵の利随ふと云也。実を以て来るものには実を以て向ふ。虚を以て来るものには虚を以て随ふ。敵の能して能せざることを示すときんば、我も亦能して能せざる事を示す者也。術は実を備へて虚に変じ、或は虚を示して実に転ず。敵に向ふ時愚にして先づ負るは、謀の利なり。誠の利なり。誠に兵は詭の道なりと、孫子も云へり。故に偏に是を心得るものは敵に因て転化する事あたわざるものなり。
最後の勝利は技と道理を超えたところに
彼と我と分つて思はざるに来たり、量らざるに去り、待つ所に来らず、行所はふせぐ、我此の如くなれば、彼も亦同じ。其の思はざる所を撃ち、其の量らざる所に応ず。其の変無窮にして真の化常無く、自然の妙理を得て万機に応ず。是を事の勝負と云ふなり。彼と我と一体一心にして、我思ふ所を彼も思ひ、我が量る所を彼も量り、動寂唯一物にして、鏡に向つて影の移るが如く、茲に至って勝べきに事もなく、知べきに理もなし。若し勝んと欲せば即ち負、勝たざれば亦勝ことなし。自然の理と云も当然の事と云も然らず。事理の有無を滅却せずんば誰か是に勝ん。勝たざれば是術の本心にあらず。勝んと欲も亦術の本心にあらず。故に術を放捨して別伝の高上に至らば何ぞ対する敵あらんや。若し茲に来つて向んとせば自ら殺し、向て来らざるは、自ら滅すべし。是殺人刀活人剣。
(吉田豊編『武道秘伝書』徳間書房刊を底本としました。)
異本洞房語園
異本洞房語園
庄司勝豊著
赤字は『吉原御免状』292p(新潮文庫版)引用の箇所です。
洞房語園巻之上 (一部)
○いにしへより、けいせい遊女の称、世に伝へし事久し、異国には、傾城といひ、遊女といふに、隔別の義理ありといへども、爰に、けいせいといひ、遊女といふ、其品二つ有事なし、異国の妓女、本朝の白拍子、皆遊君のたぐひ也、爰に白拍子のおこりを尋るに、人王五十七代鳥羽陰の御宇に当て、落陽に、島の千載、和歌の前とて、二人の舞女有り、いづれも双なき舞の上手也、是を白拍子の濫觴といふ、往昔延喜の帝の御時、江口の里に、白女といひて、歌をよみ、古今集に載られたり、同里の妙、いづれもよく歌をよみて、世に名を知られ、神崎の遊君宮木が歌は、後撰集に入る、万葉集に遊び女の歌あり、
- 津の国の難波の事も法ならめ あそびたはぶれまでとこそきけ 宮木
- いのちだに心にかなふものならば 何かわかれの悲しからまし 白女
白女は丹波守大江玉淵が女なりと、
○元和の頃迄は、古しへの白拍子の風儀残りて、京都武陽のけいせいは、小舞、乱舞を習ひ、茶の湯、数寄の道を常に稽古しけり、去るに依て、諸の祝儀、或は不時の催し、結構にも、御歴々へ召され、御歴々の御方も、兼日約束にて、いづれの日には、誰が家、何といふ太夫が手前にて、茶の会に参るなどゝて、心易き同志は誘引ありしと也、今に至る迄、けいせいのお茶を挽といふも、此節よりの言葉也、
○京都、江都遊女の名目
太夫 これは芸の上の名也、慶長年中迄、遊女ども、乱舞、仕舞を習ひ、一年に二三度づゝ、四条河原に芝居を構へ、能太夫、舞太夫、皆けいせいども勤めし也、尤、大人、歴々の御方御見物あり、種々の余情、花麗なる事ども多かりしと也、去によりて、今日の太夫は、誰が家の何といふ太夫が勤る、などゝいひしより、おのづからよき遊女どもの惣名となりけるよし、芝居相違なく仕舞候得ば、太夫の遊女どもは、町御奉行所へ御礼に上る、此例により、今以て、年頭、八朔、両度づゝ御礼に上り申候、(頭書 一日の揚銭三十七匁、と流布本にあり)
天神 勤銀廿五匁なれば、北野の縁日に取て、天神といふ、吉原には此名なし、
格子 京都の天神に同じ、大格子の内に部屋を構居る、局女郎に紛れぬやうに、格子といふ名を付たり、
局女郎 勤銀弐拾目(頭書 寛文年中に散茶といふ者出来て、揚代散茶と同じ、金百疋となる、と流布本にあり)
局の構様は、表に長押を付、局の広さ九尺に奥行二間、或は二間半、亦、横六尺に奥行二間にも造る、入口は三尺、表通りは横六尺のうづら格子也、中閾と庭との堺に、二尺計りのまがきうぃ付る、但、外より内へ入候へば、左の壁際也、うづら格子への通ひに、幅二尺計、長三尺の腰かけ板有り、入り口にかちん染の暖簾を懸け、のれんの縫留に紫革にて露を付る、右局の指図を記す事詮なき事なれども、元禄年中より、局といふはすたり、惣て吉原の古風取失ひし事多ければ、後々若輩どもの為に、是を記し申し候、局上臈と申事に付、古老の申伝へたる事あり、昔、一の宮の御息所しか/\〃の事ありて、土佐の国畠といふ所へ趣せ給ふとて、彼所へは往得させ給はで、芸州の広島へ着せ給ひ、此所に落魄の後に、都の官女達、御息所をしたひて広島へ下り、みやづかひしたまふ、此時戦国にて、又帰上り給はんことも叶はず、広島にて、彼官女達うきふしの勤し給しより、広島あたりにて、京上臈といひならはし、又、官女達の居給ひし所なれば、局といひもて来りしよし、扨又、局上臈といふに付て、一つの拠あり、東山知恩院に、開山円光大師の御伝記有り、忝なくも三代の帝王宸翰を染給ひ、浄家に第一の宝也、此御伝に、近世義山和尚の注解にて、行状翼賛と云あり、本文に、播州室の泊りにて、一人の遊女、元祖上人へ見え奉り、御十念を拝受せし事あり、此段の注に、同書の九巻伝を引て、昔、小松の天皇、八人の姫宮を七道に遣して、君の名を留め給ひき、是遊君の濫觴なりと、一書に、遊女の家の長が先祖を注して、小松天皇姫宮、玉判加陵風芳と云あり、江口、神崎、室、兵庫の傾城は此末也、
禿 未だ簪せぬ小女、
遣手 古来名を花車といふ、花に廻るといふ意か、然れども、くわしやと呼ては聞へあしきとて、香車と書かへたり、香車は将棋の駒の一つなれば、香車と呼ずして、やりてといひふれたり、
○吉原開基之次第
慶長の頃迄、御城下定りたる遊女町なし、傾城屋所々にありし中にも、軒をならべ集り居たる場所、三四ケ所あり、麹町八町目に十四五軒、鎌倉河岸に同断、大橋の内柳町に廿余軒、右大橋の内柳町といふは、今の常盤橋御門の内にて、道三河岸の辺なり、天正年中より、殊に賑ひし町也、其頃、京都万里小路柳の馬場といふ町に、原三郎左衛門といふ者取立し遊女町を、柳町といひし、そかれども、彼名をかり用ひたるにはあらず、江戸の柳町は、其町の入口に、幾年経しともしれぬ大木の柳二本有し故、町の名となりしとか、
慶長十年の頃、御城御普請御用意に付、柳町の場所、御用地に被2召上1、彼所の者ども、元誓願寺前へ引越す、惣て此砌は、御江戸日にまして御繁昌に付、道橋も次第に多くなり、所替、屋舗替の御沙汰度々あり、此節、所々の傾城屋ども相談し、傾城町の場所取立申度由、数度御願申上るといへども、不2相叶1して打過たり、
同十七年の頃、予が祖庄司甚右衛門、始て御訴訟申上し趣は、京都、大坂、駿府、其外諸国の津湊、惣て繁昌なる場所に、古来御免の傾城町すべて廿余ケ所有レ之候、しかるに、御当地日を追て御繁昌に候得共、いまだ定り候傾城町無2御座1、傾城屋所々に分散し罷在候、唯今の如くに御座候ては、御町中の為よろしからざる事ども多く有レ之候由申上、并三ケ条の事書を以て御願申上る、
一、引負、横領之事
一、人を勾引し、并養子娘之事
一、諸浪人、悪党、并欠落者之事
右三ケ条之事書、目安の案文、繁きを恐れ略レ之、甚右衛門御願申上候処、其節の町御奉行所米津勘兵衛様御聞済の上、追々可レ被レ為2仰付1由、被2仰渡1候、
此節は御伝奏所と申す、正保以来、御評定所と申候由、
元和元年の冬十一月と伝承る、忝も両上様於2御前1、佐渡守様窺御披露の砌、上様、大御所様と奉レ申、御諚には、其庄司といふ者は、彼甚内と云しキミガテゝ歟、と御尋の時、佐渡守様、成程甚内が事にて候、と被2仰上1候、
君が親方(テゝ)、又遊女長(キミガテゝ)、傾城屋の亭主をさして、古来大人の仰せられし言葉なり、
慶長五年の秋、濃州関が原御雷動の時、甚右衛門、其頃は甚内といひけるが、鈴が森八幡宮の前に新に茶店を構へ、甲斐/\しき遊女八人を撰て、赤手拭を頂せ、朱市(正しくは艸冠)をさせ、茶店に並べおき、御供奉御同勢の御方へ御茶を上候処、折節、台駕暫く茶店の辺に止りし時、御駕の内より御上覧被レ遊、あの茶店に若き男の袴を着て蹲踞居は何者ぞ、又若き女の一様に出立て並居るは何事ぞ、と御尋に付、御側供奉の御方、其由御尋の時、甚内申上候は、私儀大橋の内柳町に罷在候、甚内と申遊女の長にて候、上様には、去頃奥州へ御発駕、万民の為、ケ様に御賢慮を被レ為レ尽候御事、難レ有次第に候、御城下に居住仕、常に御恩沢を奉レ蒙、安楽に渡世仕候得ば、御冥加の為、且は御出陣必定の御勝利なれば、乍レ恐、御首途を奉レ祝、此処へ罷出、御供奉の御方々へ御茶を差上候、と申上る、此由被レ達2上聞1候処、奇特に被レ為2思召1候由、難レ有上意を奉レ蒙候、上様此時御祝詞の御上意あり、略レ之、彼甚内が事か、と御諚ありしも、此時より知ろし召れしものか、
元和三年三月、甚右衛門を御評定所へ被2召出1、御願申上候傾城町の事御免許被レ遊、ふきや町の下にて、二町四方の場所を下し給はる、同時に、甚右衛門儀、傾城町惣名主に被2仰付1候、此節、五ケ条の御書出し、御条目被2下置1候、略レ之、
同年夏中より、右場所、地形普請に取懸り、同四年十一月より、一同に商売し候也、葭茅生茂りたるを刈捨、地形築立、町作りたる故、葭原といひしを祝ふて、吉の字に書替たり、
江戸町 江都御繁昌の余慶を蒙り、此邑も繁昌し候様にと祝し、江戸町と名付たり、当町のものどもは、大橋の内柳町に居りし者共也、柳町より誓願寺前へ引越し、夫より此町へうつる、
江戸町二丁目 鎌倉河岸に居りし者共、此町へ引越す、多くは、伏見夷町、駿河の弥勒町より御当地へ引越たる者共なり、最初の名は江戸町二丁目なれ共、当町の年寄に山田宗順といひし者あり、此宗順、甚右衛門相談しけるは、柳町といふは天正以来賑ひし町の名なり、しかれば、古実をのこし候ため、当町をば本柳町と申て可レ然とて、本柳町とも云しが、最初に甚右衛門が江戸町二丁目と名付し間、本柳町と云は長く、唯二丁目と云は一口にいひやすき故、長き名をば人々得いはず、二丁目とばかりいひ来りたり、しかる間、本柳町と書たる沽券状令にあり、
京町一丁目 麹町の傾城屋ども、此町へ移る、多くは京都六条より来りし者共ゆへ、町の名を京町と付たり、
同二丁目 吉原開基以後、大坂瓢箪町、奈良の木辻などより、此町へ引越したるもの多し、二年程を経て町作りし故に、新町ともいふ、
角町 京都の角町より傾城屋移りし故、直にすみ町といふ、当町は開基より七八年遅く町作りたり、子細は、甚右衛門が御訴訟より以前に、所々の傾城屋共、傾城町の事御願申上しかど、不�相叶�、其後、甚右衛門始て御訴訟申上候節、脇々の者ども、皆甚右衛門をたのみ、ともどもに御願に罷出しが、角町の者共は、いづれも何の不足なる事もなかりし故か、此事埒明まじとて一向に同意せず、扨、御願ひ相叶、吉原開基以後、角町の者共、一所にて商売致したき由望むといへ共、甚右衛門承引せず、しかる間、表向きは商売を相止めしが、当所に、吉川半兵衛、並木屋半右衛門などゝいひし年寄共、馬喰町雲光院往誉上人を頼み申、此上人の扱にて和睦し、水溜の明地を貰ひ築立、家作普請し、寛永三年寅の春中に、角町より不レ残移る、割あまりの所を取立し故に、外の町並とは違ひ、両側とも裏行十三間半なり、
○庄司甚右衛門が事を、其頃世間におやぢといふし故、元和の頃の小唄に、
おやぢが前の竹連子、その一ふしの、おかしや/\、おやぢが前の竹連子、せめてひとよは、ちぎらばや/\、
おやぢが前の竹連子、幾世も千代もちぎろもの、千代もやちよもちぎろもの、
幾代、八ちよ、ともに甚右衛門が家にて名取の太夫の名をいひこめたり、
○吉原開基の砌より寛永年中まで、吉原町の役目として、御評定所へ、太夫、遊女三人宛、御給仕に上りし也、此事由緒故実も有る事にや、と或とき予が老父良鉄にたづねとひしに、良鉄が申けるは、慥に此故とは申難き事なれども、私に是を考思ふに、扨、御奉行と申は、日々に諸方の公事訴を御裁判被レ成、御政務の御事繁く、平人と違ひ、年中に私の御暇有る事稀也、然ども、遊女などの艶色を御覧の為にはあらざれ共、遊女はもと白拍子なり、されば、御評定所の御会日の節、白拍子などを御給仕に御召あり、公事御裁許以後、一曲ひとかなでをも被�仰付�、御慰に備へられん為に、上様より被�仰付�しものか、北条泰時公の歌に、
- 事しげき世のならひこそものうけれ 花のちりなん春もしられず
政務の御事に御いとまなく、雪月花の御楽みも自由ならざるを詠吟ありしなれば、此歌の意を証にせんや、といひしを、一向所詮なき物語りにもあらねば、捨置がたく、是を記し侍る、
(中略)
○或曰、遊女をよねといふ、宿の字なるべしと、張文成の遊仙窟曰、賭レ宿、十娘問曰、若為賭レ宿、下官答曰、十娘輪レ籌、則共�下官�臥�一宿�、下官輪レ籌、則共�十娘�臥�一宿�、遊女をよねといふは、寛永の頃、羽州坂田に、よねといひし遊女、生所は加州の者、琵琶の上手にてありし、このよねよりよき遊女を見ては、よねと呼て、惣て遊女の別名になりたり、また坂田あたりにて、遊女の事を柄杓とも云、流をくむといふ意か、右にいふ遊仙窟の宿の字は、事を好てむづかし、
○吉原にて、客人に隋ひ、一座を取持、伽になる者を、太鼓もちといふ、織田信長公の時代、京都に似家与左衛門といひしは、太鼓の上手なりし故、大人御所望の時は、鼓桶に腰をかけ、太鼓をもたせて打たり、弟子多き中に、伊太夫といひし弟子、太鼓を持事巧者にて、此伊太夫ならでは与左衛門が気にいらず、与左衛門は生得腹あしき男にて、器用なる弟子共は度々しかりにあひけれ共、芸には不器用なる伊太夫をば、随分不便がりし由、去により、与左衛門が太鼓所望の方々は、伊太夫に言込たのむに付、外の弟子共憤り、伊太夫が事を、太鼓持/\といひしとなり、此時分よりして、人に隋ひ、其人の気に入るやうにとりはやす者を、いつとなく太鼓持といひならはしたり、観世流の太鼓の祖なり、名人なる故、大人の御前にても御免を蒙り、鼓桶にこしをかけ打し由、また一説に、此時分迄は、惣じて太鼓を持せて打しとも申す、又、今のかづら桶は、古代にはつゞみ桶といひ、太夫は床机を用ひ、囃方はかづら桶を用ひしが、いつの頃か、太夫はかづら桶、囃方は床机になりしともいふ、
○紋日 小袖の紋は五所なれば、五節句、祝の日を紋日といふ、吉原にてはもの日といふ、紋日は京の言葉、
(中略)
○或時、町御奉行島田弾正様、甚右衛門へ御尋には、惣て遊女どもの事を轡といふは如何なる子細ぞ、と御たづねありし、甚右衛門申上るやう、傾城屋を轡と申事は、京六条の三筋町より申出候言葉にて御座候、原三郎左衛門と申者、大坂太閤様の御時、御廏付の奉公仕りし者にて候処、病身に罷成候間、浪人いたし、後に六条の遊女町を取立申候へども、彼三郎左衛門儀は、太閤様御出馬の節は、度々御馬の轡を取候者にて候、依レ之、其砌、此子細を被レ存候人々は、三郎左衛門異名を轡と申候、然る間、其頃、京都、伏見などの若き侍衆中は、傾城町へゆかんといふ替ことばに、轡がもとへゆかふと被レ申しより、いつともなく傾城屋の惣名の様になり候由承候、と申上る、
○庄司甚右衛門、出所は相州小田原の者、父は北条家の御内に奉公の者也、天正十八年、小田原落去の砌、甚右衛門十五歳、折節病痾にかゝり、家頼の介抱により御当地へ罷越、柳町に所縁ありて居住しけるに、傾城屋に成下り、恥がはしく存けるが、一生父の名字を不レ明、別に出所を相知たる者有て、子孫に語り伝へし事ありといへども、甚右衛門が本意にたがふ故不レ書、甚右衛門が姉は、おしやうぶ(和尚婦)といひて、氏政公の寵妾也、甚右衛門、始の名は甚内といひし、子細あれて、慶長年中、甚右衛門と改めたり、甚右衛門、正保元年申霜月十八日、六十九歳にて終る、
(中略)
○風俗の、殊やうに衣服など美麗に出立たるを見ては、伊達といふ、これは寛永三年寅の秋、御上洛の節、仙台伊達家の諸士の出立粧、一きははなやかに、御行列拝見の諸人目を驚かす、是よりして、京童共の言葉に、風俗の美々敷出立たる人を見て、伊達衆か、といひふれしより、今に至て、花車、風流に見ゆるをダテと云、又男達と云者あり、吉原へも入込し中に、一組/\の名もありし、鶺鴒組、吉屋組、鉄棒組、笊籬組、唐犬組、神宜組、其外独立にて町々に徘徊せし、博突の徒に異名ありし候、勝げてかぞふるにいとまなし、此男達といふに付て、或人のいひしは、任侠の文字を書べしと、(史記遊侠列伝の廓解伝に審也)しかし博突の徒に任侠の字を用るにも及ぶまじ、
○爰に一つ、昔々の咄あり、正保の頃、すみ町並木源左衛門といふ者の家に、佐香穂と云し格子の遊女ありし、同二年の霜月、小雨のふりし夜に、髪を切て吉原を紛れ出、司市(頭書 司市は市伊か、町奉行のこと也)御奉行朝倉石見守様の御役所へ参り、私儀、年来発心の望み候得共、奉公の身なれば心に任せず、打過候、此度は頻に思ひ立、かやうに髪を切り、是迄参り、御願申上候、御慈悲に主人を被2召出1、暇を呉候様に被2仰付1被レ下候へ、と申上る、去間、遊女さがほは御役所に被2留置1、主人源左衛門を御召あり、右の通仰ありて、召連罷帰り、兎も角も主人の心次第に可レ致由被2仰渡1、さがほは主人へ御渡被レ成たり、此時源左衛門申上る様、此遊女の儀は、幼少の時より召抱置候処、平生志のすなをなる者にて、奉公よく仕り、一廉私為にもなり候ものにて候、其上、年季も末一年余に成候へば、彼が望に任せ、暇とらせ可レ申由、申上る、夫は主人が心次第たるべし、と仰ありし間、召連帰りて、長谷川町本立寺といふ寺にて出家為レ致、法名を貞閑といひける、切麦町に貞閑がゆかりのものありし故、其裏地に庵をしつらへ可レ置、と主人はからひけれ共、当分は主人の許に居りたき由を申て、源左衛門方に仏事のみ業として居たり、
- しら浪のよする渚に身を過る 海人の子なれば宿もさだめず
といふ古歌を菩提の道に取なし、江口の君のかりのやどりの歌の意をも弁へしものか、抑、貞閑が発心の事、他事の望とは申けれど、実には、其頃、西国方の大家の家士、かくし名を梅といひし壮士、年月佐香穂にふかく逢馴染しが、私ならぬ事にて本国へ趣くとて、同じ年の春、餞別の余情こまやかに、又来る春の再会などいひかはし西国へ下りしが、其年の秋、月のはじめとかや、不慮に世を早うせり、未だ存生の内に、さがほ方へ文に筐(頭書 筐は記念也)の一品を添へ持せ越したり、其文霜月初に届きたり、文の内に、
- かつむすびかつ消かえるうたかたの あはれはかなき世のちぎり哉
と云一首あり、佐香穂大に歎き、気分あしきとて勤をひき、打ふしたるが、髪を切り、終に発心を遂たり、彼壮士梅は殉死のよし、後に聞へたり、又、小石川筋より村といひし人、これもさがほに馴染、折々通はれしが、其砌、発心の事は夢にも知らず、揚屋方へ来れれ、佐香穂が事を聞き、大に不興にて帰り、二三日過て、さがほ尼貞閑が方へ、金拾両送られたり、
○鎌倉将軍頼家公の御時、微妙といひし白拍子、歌唄ふ声は梁塵を飛し、舞の袖は白雪をめぐらす、公も頻に感じ給ひけるとかや、然るに、微妙は孝行の志ふかく、父の為に、建仁二年八月十五日夜、栄西律師の弟子祖達坊を師と頼み、髪をおろして持達尼と改名しけると也、爰に、古郡左衛門保忠、此折しも甲斐国へ打越、扨鎌倉へ帰りて微妙が事を聞き、大に腹を立、祖達坊の庵室へふみ込んで祖達坊を捕へ、散々に打擲しけり、其事頼家公へ聞へて、保忠は公の御気色を蒙りしと也、今の村といふ客人とはそくばくの違ひかな、右の外、遊女の発心に尼になりたるためし多し、室の遊君羽黒、都の祇王、仏御前、大磯の遊君愛受、同じく虎、これらはいづれも世上に名を知られたる遊女也、其中にも、大磯の虎は唯人にあらず、鴫立沢円位堂の縁起に、虎姫実は伏見大納言実基が女、とあり、法名を貞巌院虎心善尼と云、扨、前段にいふ並木屋が家のさがほ尼貞閑は、其生所相州鎌倉玉縄の者にて、後に彼所へ引籠り、草結して道心堅固に行ひすまし、八十余歳にして正念往生を遂たり、(後略)
○承応、明暦の頃、新町山本芳順が家に、かつ山といふ太夫ありし、元は神田の丹後殿前紀国風呂市郎兵衛といふもの方に居りし風呂屋女なりしが、其頃、風呂屋女御停止にて、かつ山も親里へ帰り、又、吉原芳順方へ勤に出たり、髪は白き元結にて片曲のだて結び、勝山風とて今にすたらず、揚屋は大門口多右衛門にて、始て勤に出る日、吉原五町中の、太夫、格子の名とり共、勝山を見んとて、中の町の両側に群り居たりける、始ての道中なれ共、遊女の揚屋通ひの八文字を踏て通りし粧ひ、(遊女の揚屋通ひの往来をドウチウと云)器量、おし立、又双びなく見へしと、全盛は其頃廓第一ときこへたり、手跡も女筆には珍き能書也、勝山がよみし歌に、
- いもせ山ながるゝ川のうす氷 とけてぞいとゞ袖はぬれける
同じ家の常盤といひし女郎も、勝山と全盛をあらそひし太夫なり、よみし歌に、
- おもひいづる道こそかはれ人毎に 忍ぶはおなじ昔なりけり
京町大文字屋俳諧名乗重頼といひしもの、同じく雛屋立甫二人、去大人に隋ひ、ときはが一座をとりもちし時、重頼が発句に、
- 見まいらせ候はぬときは花に夢
立甫が発句に、
- 姫松のかはらぬ色や常盤御前
右勝山と常盤が自筆の短冊二枚、今に山本方にあり、又一日、半井卜養燕(正しくは酉扁:サカモリ)の上にて、狂歌に、
- 御仏が三国一じやえ申まい 美酒勝山は借銭のたね
勝山、丹後殿前風呂屋に居しときも、すぐれてはやりたる女なり、寛永の頃はやりし女かぶきの真似などして、玉ぶちの編笠に裏付のはかま、木太刀の大小をさし、小唄うたひ、せりふなどいふ、其立振舞見事にて、風体至てゆゝ敷見へしと也、多門庄右衛門などゝいひし芝居者も、勝山が風を真似し故、丹前の名は此かつ山より始る、神田丹後殿前なれば、丹前といひたり、
(中略)
○明暦二年申十月九日、御奉行所様へ吉原年寄共を御召ありて、唯今迄の場所、御用地に付所替被2仰付1候、但代地の事、本所の内か、浅草日本堤か、両所の内にて勝手次第御願申上候へ、と被2仰渡1候、年寄共申上る様は、四拾余年罷在候所を、遠方へ罷越候段、迷惑至極仕候、と申上候へども、急度御請可2申上1候由被2仰渡1候間、奉レ畏、皆々罷帰、相談し候処、日本堤可レ然に相決し、其通り御願申上る、石谷将監様被2仰渡1候は、此度遠方へ被レ遣候、其代りには所徳あまた下し賜り候、難レ有奉レ存候得との御事也、
一、只今迄弐丁四方の場所なれ共、此度新地にては五割まし、弐町に三町の場所被2下置1候事、
一、只今迄昼計商売いたし候得共、遠方へ被レ遣候代り、昼夜の商売御免の事、
一、御町中に弐百軒余有レ之候風呂屋共、悉御潰し被レ遊候事、
一、遠方へ被レ遣候に付、山王、神田両所の御祭礼、并出火の筋、跡火消等の町役御免の事、
一、御引料、御金壱万五百両被レ下候事、(小間壱間に付拾四両ならし)
同十一月廿七日、将監様御番所へ年寄共被2召出1、今日浅草御蔵へ参り、御金頂戴可レ仕旨被2仰渡1、即日五町年寄、月行事の者共罷出、頂戴仕候、同日、年寄共へ被2仰渡1候は、当年は月迫に及候得ば、来春より代地の普請に取かゝり可レ申との御事也、
同三年酉正月十八日、本郷の本妙寺より出火し、吉原も類焼したり、同二月始に、吉原年寄どもを御奉行所様へ御召あり、此度の大火に付、所替の事追て御沙汰有べし、当分は仮家にて商売可レ致旨被2仰渡1候、程なく諸国より諸職人等御当地へ入込て、江都の賑ひ始に倍々せり、同四月、石谷将監様、神尾備前守様(地方)、曾根源左衛門様、日本堤へ御越、場所御見分被レ成、傍に御定杭御建被レ下候、今の大門口より土手迄、真直に縄ばり致し候を、備前守様御指図にて、三曲に道を作りたり、其間五十間なる故、今以て五十間道といふ、土手の下り坂より、大門口が見ゆると衣紋かいつくろふとて、衣紋坂といふ、六月九日、吉原の年寄共を将監様へ召出され、当月中、引越可レ申旨被2仰渡1候、同時に、今戸、新鳥越、三谷村の百姓どもへ被2仰渡1候は、吉原町の者共代地へ移候に付、家作出来迄は、右三ケ所の者共住宅をかし、商売為レ致候事くるしからず、但、宿賃は相対次第可レ致由被2仰渡1候、(頭書 仮宅の始)
(中略)
○諸国遊女町
一、武陽浅草新吉原 一、京都島原 一、大坂瓢箪町 一、伏見夷町(しゆもく町共云) 一、同所柳町 一、奈良鳴川(木辻とも云) 一、大津馬場町 一、駿州府中弥勒町 一、越前敦賀六軒町 一、同国三国松下 一、同国今庄新町 一、泉州堺北高洲町 一、同国同所南津守 一、摂州兵庫磯の町 一、石見塩泉津稲町 一、佐渡鮎川山崎町 一、播州室小野町 一、備後鞆蟻鼠町 一、芸州多太海 一、同国宮島新町 一、長門下関稲荷原 一、筑前博多柳町 一、肥前長崎丸山町 一、薩州樺島田町 一、同国山鹿野(寄合町共云)
右都合二十五ケ所
洞房語園巻之下 (一部)
○明暦丁酉六月十四日十五日には、遊女共浅草三ヶ所の旅宿え移るとて浅草寺まうでながら、殊に花麗に粧ひて、歩行より往もあり、或は智音の方より、送り迎ひの屋形ふねを出し、浜町の河岸より乗りて駒形へ着るもあり、かゝる序に木母寺の古跡を拝まんと、待乳山を跡に見て、隅田川へ寄するもあり、浅草本堂東西の欄干、三門随身門の間には、参詣の遊女を、見物の貴賤群聚したり、同じく八月上旬には、代地の普請大方に出来たり、代地は五割増に被レ下、地面広く成しゆへ、元吉原にて所々に居し揚屋共を一所に集めて、直に揚屋町といふ、遊女どもは八月十四日より、はじめての約束也、新吉原新揚屋町、新月の色も、いとゞめづらかに見へしといふ、
○万治寛文の間、名を取りたる、太夫格子の遊女共を、三十六の歌仙唄に作り、其頃の太鼓持など唄ひし覇歌あり、これをも思ひ出し次第に書申候、
名よせ
いでやふりける、しなものよ、小よし吉田と誰も夕霧、薄雲はるゝ西尾きつと見たれば、月の桂のをとて、だてかや、雲井にかゞやく彦よしみよし、千代野松山波越すとても、ちぎりくちせぬ金太夫、泉のこしゆ故、口舌になりて、かこちながらの一トふしに、心丹しゆも、ツイ中なをり、うきな高尾に、たつともまゝよ、こがれこがるゝ身は高瀬舟、志賀唐さきの浦波に、うちよせかくるお情は誰もせきしゆと、へだてぬ中よ、ふかき井筒のむつごとに、泪つらぬく玉葛、千とせ万よも、かはるなかはらじと、祈る千じゅの利生もあれば、中を左京と思はぬ気ざし、八橋沢辺のしこなしは、雲手にものをおもへとや、見ねば思はじ、よし何事も、もとのしら地が、ましじやもの、ふぢ枝桜木、対馬に坂田、いつも若狭の御すがた、ちらと見そめて見そめてな、一夜二夜より三谷に通ひ、三谷に通ひてはる/\〃と、春は青柳糸はへて、梅が枝かほるに鶯の、初音はいとゞなつかしや、どうもたまられぬ
○加賀ぶしの章歌
まれにあふ夜は、人目をつゝむ、せめて夢には、うちとけよ、とはおもへども夢も又、忍ぶ御げんを見し故か、人目つれなく、あふ瀬はあらで、今はたよりの文斗り、とは思へども是もまた、筆のことをあかずみよ、つらきわかれを、おもふもしらで、いつもながらの鳥の声、とは思へ共鳥もまた、鳥も勤も身じやものを、光源氏のおもひの螢包むともなきちぎりかな/\、草の枕の霜夜にぬれて、独り音をなくきり/\〃す/\、思しめすやら、その恋風の、来ては枕にそよ/\と、閨のそらだき、うきぬの床に、来ては枕にそよ/\と、阿波の鳴戸に、身はしづむとも、君の仰はそむくまい、とは思へども世の中の、人のこゝろは飛鳥川、あすか川とは、夢にもしらで、語り尽せしはづかしや、とはおもへども河竹の、流れつとむる身じやものを、たのむまいぞや流れの方を、あふ瀬/\に替る身を、/\、一ト日はかなく咲朝顔の、花と露との仇くらべ、とはおもへ共色かへぬ、松の千とせもあるものを
(中略)
○分限にすぎて自分をひけらかし、人をあなどりて不礼がちなる者の事を、傾城の言葉に、しやらくさいといふ、其文字もしれず、但、越前の三国あたりにては、遊女の別名をしやらといふ、又、人の女房、娘抔の、遊女の風俗に似たるを見ては、しやらくさいともいふ由、たとへば坊主の坊主くさい、或は、知恵だてする者を分別くさいなどゝいふに同じ、しかれば、傾城のしやらくさいも、三国あたりよりいひ広めし言葉か、
○吉原にて、歴々の客人をだいじんと云、世話の浮世双紙に、大尽と書たるもあり、是は卒に作りたるもの也、並木寿見斎と云ひし老人は、大人と書べしといひき、又、余が師村井一露斎とて、元禄の初九十余歳にて終りし、此一露斎のいはれしは、大人と書くならば、迚もの事に大の字をすみて、たいじんといたし(脱字あるカ)此邑にはめづらしき堅やかなり、やりて、ぎう共抔がものいひに、漢呉の差別にも及ぶべからず、
○やりて、ぎう出所、是は以前の風呂屋よりいひ出したる言葉也、承応の頃、葺屋町に和泉風呂の弥兵衛といふものあり、彼が家に、久助とて年久しく召仕ひし男ありて、風呂屋遊女をまはし、客を扱ひしが、生得せむしにて、せいちいさき男也、たばこを好きのみしが、他人のきせると紛れぬやうにとて、紫竹のふときを、長さ一尺七八寸計りにきり、吸口、火皿をつけ、常にはなさず、腰にさして居たり、彼の風呂屋の家作りは、今の吉原の散茶のかゝりと同じ事にて、見せの庭の隅に、畳小半畳計りの腰かけ有り、此こし懸にせぬしの久助が、長ききせるをさしてなをり居たる形、せむしの小男なれば、及の字の形に似たりとて、其頃、若きもの共の、久助が異名をぎうと名付、彼風呂屋が方へゆかふといふべきを、ぎうが所へゆかふ、などゝいひふれしより、いつともなく、惣て風呂屋の男共の惣異名となりたり、
○万治の頃、京町新屋三郎右衛門の家に、吉田といひし太夫あり、中の町浄月といふ揚屋を常宿として、外の揚屋へは不レ行、茶の会などを常の遊びとして、三味線などはさはがし、とて禿が手にもとらせず、揚屋へ通ふには、禿二人、草履取一人、揚屋浄月も送り迎ひにはつれず、亦、沓の二郎兵衛とて、其頃世間に名をしられたる太鼓持なるが、是も折々吉田が供に付添たり、新屋方へ、星野玄庵といふ医者、常に心易く出入けるに、或とき、吉田玄庵に向ひていひけるは、夕べ夢を見て、大きに汗をかきました、といへば、玄庵が、如何様なる夢にて候ひし、と問へば、吉田はいふやう、三十計の女房が来て、是は約束の文じゃとて、私に渡しましたを開て見れば、七七七と申す字を書て、何とも合点まいらぬ故、何の事じやと彼の女に問へば、はやく返りごとをせよと計りいふて、其女のかほつきがおそろしくなり、大きに汗をかき、目がさめました、といふ、玄庵が聞て、これは目出度夢かな、女が七の字を三つ書たる文を持て参りしなれば、必近き内に身うけなるべし、其意は、女へんに七を三つ書けば、嬉しいという字なり、女中にはやつし文字こそ相応なれ、女郎の身の上には、身請ほど嬉しい事は有まじ、と判じたり、吉田大きに悦び、三日過て夢合を祝ふとて、新屋が方へ出入する程の誰かれ二十人あまり、又、定時といひし俳諧師に、近世の俳諧好五六人まねき、二汁七菜ほどの料理にてかたの如く饗応し、其上、名物の伽羅一包宛の引もの也、吉夢に是程の造作をさせて、若し年季の明く迄身請の沙汰もなくば、玄庵は吉原を夜逃にせずばなるまい、と若き者共はいひなしけるが、玄庵がいひし如く、二タ月計過て、去大人の方へ身請されて行けるこそ、ゆゝ敷目出度事なれ、その時玄庵へは、小袖壱重、銀十枚、吉田が置みやげなり、よき夢を占ふて思ひもよらぬ徳つきしかば、若き者共の口に、邯鄲の玄庵とぞ申しける、
○寛文のはじめ、同じ新屋が方に、千とせといひし格子女郎あり、全盛はよし田におとらず、或大人千とせと馴染、平左衛門といふ揚屋が許にて、頃は三月中旬、春雨のしきりに降りて、夜もいたくふけ、もの淋しき折から、側にありし硯を引よせ、一双玉手千人枕、半点朱唇万客嘗、と鼻紙に書れたるを千とせが見て、是は何と申事ぞ、と問し時、唐人の詩じゃ、と計答へられたり、千とせは幼少より手習を好み、手跡を尋常にて、歌書などをも好し故、押返して其詩のこゝろは何と申事にや、と問ければ、さすが出来のうそもつかれず、これは古き詩にて、唐にも遊女は有りて、其遊女の事をいひし詩也、一双とて一にならべて居る、遊女のうつくしき手は千人の枕ともなり、さしけはひたる口べにも、誰かれ大勢の客のなめるものと成るといふ事じゃ、と云れしとき、千とせは如何思ひけるか、しばしものをもいはず泪ぐみて居たりしゆへ、客人は不審におもひ、心もちでもわるいか、と問ければ、千と勢が申やう、其詩の意の如く、流をたつる身はあさましきもの哉、今宵殿に逢ひ、他事なく申かはし、あすは又いかなる田舎人にか逢ひて、心に染ぬ事もあれば、うきふしの勤に行末の事まで思はれて、といへば、さしもすいなる大人も、此挨拶にこまり、末の事を案ずれば、誰が身の上もしれぬ也、酒を飲て歌でもうたへ、とて亭主平左衛門夫婦のものを呼、夜の明るまで宴して遊ばれしが、千と勢が心ばへのやさしきを感じられしにや、夫より廿日計過て、千とせは目出度方へ身請して行ける、千とせ風ひきたりとて、例の玄庵を呼、脈を見せ、けさの暁は寝汗が出ました、といへば、玄庵、夫はこわい夢でも見てか、と問ふ、何心なくふといひたるにや、但し、前のよし田が事を思ひ合すれば、底意をかしくこそ聞ゆれ、
承久の昔、中納言宗行卿は、菊川の駅長が家の柱に詩を書て、千歳にあはれを残し、今の千とせが客人は、吉原の揚屋が亭に詩を書て、千金の賑ひをなす、夫は兵乱の事、是は泰平の余慶、殊に異なる哉、嗚呼、
○散茶、寛文五年巳のとし、江戸所々に居し茶屋共、吉原へ降参して、七十余人入込たり、此茶屋共、多分は明暦年中に御停止被レ遊し風呂屋の者共、又、品を替て料理茶屋と看板など掛て、内証には売女を数多抱へ置しを、吉原より御訴申上たる故、厳敷御吟味被レ遊候間、御町中にて御制禁の商売難レ成、吉原へ降参にたり、此節、茶屋共抱置し遊女を、五百人余召連たり、江戸町二丁目の名主源右衛門といふ者、此砌、別て世話致したるゆへ、降参の茶屋共、多くは弐丁目の年寄共相談し、面々の居宅の裏通りを切て、堺町、伏見町を作る、名主源左衛門をはじめ、年寄共の内、其先祖伏見の者多く有し故、ふしみ町と名付、次に出し町は、角町と二丁目の堺なれば、堺町と名付たり、右の両所を作りて、降参の茶屋共に借し、商売為レ致たり、降参の者共は風呂屋くづれ多く有しゆへ、見せを風呂屋の時の如く構へたり、今の散茶これなり、扨、岡より吉原へ来りし遊女は、いまだはりもなく、客をふるなどゝいふ事はなし、されば、いきはりもなく、ふらずといふ意にて、散茶女郎といひけり、是は、吉原遊女共が時の戯に散茶女郎といひしが、いひ止ずして、今に散茶といひもて来りしなり、
(中略)
○延宝の頃、江戸町助左衛門が家に、つしまといひし太夫は、かの勝山、吉田が全盛にもおとらず、同じ家の、いづみ、稲葉二人ともに格子女郎にて、近江ぶしの浄瑠璃に名を取り、語斎も及ばぬ所ありといふ、爰に語斎が名の出たるに付て、元吉原より今の吉原に渡り、諸芸に好入、其みち/\に名を知れたる者数多あり、予意に追善共ならんかと、是を左にしるしはべる、
西村庄助 春斎門弟、後伊達家へ仕、正保、慶安、住2江戸町1
上坂常安 式部宗斎弟子、能書、正保、寛文まで、住2新町1
並木源左衛門 宮本武蔵弟子、正保、承応、住2角町1
山田三之丞 右同前、住2江戸町二丁目1
野村玄意 柔気一流の祖にて剣術の名人、一橋如見斎の弟子、住2新町1、後江戸町
河合九兵衛 茶人、承応、明暦、住2京町1
森甚之丞 三絃の名人、近江語斎が師也、正保、明暦、住2江戸町1
揚屋嘉斎 同上手、嘉斎が六筋がけとて、名を取し者也、慶安、明暦、住2二丁目1
近江大掾 浄瑠璃太夫、俗名吉左衛門、其元新町家持、後入道して語斎、承応より貞享迄
松下文右衛門 小鼓の上手也、紀州下村又右衛門仕立、後幸清弟子、越前松前へ被2召抱1、元は角町家持
松村正阿 盤斎弟子、好2連歌1、明暦、寛文、延宝、住2江戸町1
並木寿見 盤斎弟子、好2俳諧1、明暦より元禄、住1角町1
沢道智 玄意弟子、柔気の上手、住2弐丁目1
玉越四郎兵衛 太鼓葛九郎兵衛弟子、寛文、住2江戸町1
筒井八郎右衛門 神保団助弟子、寛文、住2江戸町1
北川宗智 茶人、寛文、延宝、住2江戸町1
県升見 大酒、三絃上手、住2江戸町1、近江語斎が合方也、能書
大理三左衛門 鞠の上手、可真斎弟子、寛文、延宝、住2角町1
村井一露 医者、能書、算術の達人、延宝、貞享、住2揚屋町1
平井浄然 無双弁舌者、寛文、貞享、住2江戸町1
藤山弥左衛門 能太夫也、中条殿弟子、延宝、貞享、住2京町1
(中略)
○伝聞、慶長年中、庄司甚右衛門、傾城町開基の事御願可2申上1と存、同志之友を始め、此事如何あらんと相談するに、岡田九郎右衛門といふもの申けるは、此事無用也、京都、大坂などの先例は隔別、御当地に於ては御免許有べからず、只今まで、遊女屋所々に有て、遊女は何の不足もなし、我等が定業とはいひながら、遊女は好色の翫もの也、傾城町は遊興の場所なり、しかれば、此事を御訴訟申上ればとて、御公儀様御沙汰に及び、御免許あるときは、彼傾城町へ参りて遊べ、と諸人に教えさせ給ふに似たり、しからば、ばさらを好ものも世間に多くなりて、無益なることなるべし、此道理を考ふれば、申上候とも、中々御取上は御座あるまじく候、然れば、以前に御訴訟申上しかど、不2相叶1、此事決て無用に可レ被レ致、と申す、甚右衛門が申様、其方が申所も一理有やうに聞へ候得ども、分量せばき了簡也、其子細は、傾城が不足なるに付、傾城町を取立るといふにてはなし、以前に御訴訟申上し者共は、何の了簡もなく、只一ト通りに其場所を拝領の御願申上たるのみなり、当時江戸の御繁昌諸国第一なり、然るに、定りたる遊女町なき故に、年月を重ぬるに隋ひ、所々方々に遊女屋際限もなくふゑて、古来の者は次第に衰微し、新来の者手柄次第はびこるべし、然れば、遊女の数も夥しくふゑ、ばさらを好むものも、又、無レ限多くなるべし、傾城の類御制禁とあらば、とかふに不レ及事也、乍レ去、今迄有来ことなれば、中々一円には相止まじ、結句、犯人、科人も多く出来、不義の争論、訴事の絶る事有る可らず、只今まで有来りし傾城商売の者の内にも、不埒なる筋もあれば、とかく傾城町の場所一ケ所御定ありて、其外には遊女の類ひ無レ之は、世間町中の為にも可レ然道理也、と申ければ、山田宗順(頭書 山田宗順は、玉屋山三郎先祖也とぞ)といふもの、甚右衛門申所尤なり、と一同して、いよ/\甚右衛門を棟梁として御願申上べくに相極りたり、扨、甚右衛門が別て三ヶ条の儀を申立、御願申上候処、御吟味の上、元和元年に至り、元吉原の境地を甚右衛門に下し賜り、今に到り百十余年、泰平長久安堵すること、難レ有御事にあらずや、
○此時相談に加りし岡田九郎右衛門といふ者は、元誓願寺前に居りしもの也、此相談にさのみすゝまぬもにくからず、表向は大体三千貫目の分限といはれしなれども、内証は四千貫目にも近からんと申せし由、吉原開基して江戸町へ移りしが、寛永の始に、抱の遊女二十人計り、并家屋敷、家財を添、久しく召仕たる手代半三郎といふし者に譲り、其身は京都長者町へ引越、富饒に栄えたり、手代半三郎が跡は、江戸町一丁目、今の桜屋これなり、
(中略)
○元和、寛永の初、傾城に粉敷ものありて、世に是をもてはやしたり、都くになどゝいふ歌舞妓の女、柴居を構へて、狂言物真似の間には、舞をまひ、唄をうたひ、男の真似をして木刀をさし、種々のもの真似をする、其相手に男もまじりたり、是のみならず、彼歌舞妓の女、金銀を取て客を引き、ばさら成事多かりし故、同年中に歌舞妓の女芝居は御停止なり、男の物真似狂言は御構ひなく、芝居立来り、慶安年中に、京都四条河原にて遊女共が能をいたしたるは、流を立るを表にして、隠して遊女の勤を相兼たり、いにしへの白拍子の類に似て、風俗のばさらにいやしきこと大におとりたる者、と古老のもの語り也、此歌舞妓の咄しに付て、或人、予に羅山先生の歌舞妓の弁を見せられたり、捨置がたくして、爰に其略文をしるし侍る、
今の歌舞妓は古への歌舞妓に非ず、男は女の服を服し、女は男の服を服す、髪を断ち、男の髻の如くになし、刀を横たへ嚢を佩、いやしき歌を唄ひ踊る、出雲の国の淫婦に九二と云者、始て是をなす、都鄙共に是をもてはやす事いふ計なし、古への才人学士の、娼妓の類ひを愛せられし、君子はしかり給ひしなれば、可レ慎事也、色を好むの心をもて徳を好むの心に替なば、可ずや、戒むべし/\、と此歌舞妓を放たずして世にはびこりもてはやす事は、誰が咎ぞや、と大意右の如くにて略文あり、近年町々に踊子といふものはやり出て、寛永の歌舞妓女に似て、まぎらはしきものなりしが、是又御停止にて漸止けり、当時御政道正しく、治教糾明なり、爰におゐて、万民万歳を歌ふ、治る御代こそ目出たけれ、
享保五庚子年八月勝日
庄司又左衛門書
(中央公論社刊『燕石十種』第五巻を底本としました。)
宇治拾遺物語
宇治拾遺物語 (一部)
巻一
三、鬼ニ瘤被レ取事
これも今は昔、右の顔に大なるこぶある翁ありけり。大かうじの程なり。人にまじるに及ばねば、薪をとりて、世をすぐる程に、山へ行ぬ。雨風はしたなくて、帰にをよばで、山の中に、心にもあらずとまりぬ。又、木こりもなかりけり。おそろしさすべきかたなし。
木のうつほのありけるに、はい入て、目も合はず、かゞまりて居たるほどに、はるかより、人の音おほくして、とゞめきくる音す。いかにも、山の中にたゞひとり居たるに、人のけはひのしければ、少いきいづる心地して、見いだしければ、大かた、やう/\さま/\〃なる物ども、赤き色には青き物をき、黒き色には赤き物をたうさきにかき、大かた、目一ある物あり、口なき物など、大かた、いかにもいふべきにあらぬ物ども、百人斗、ひしめき集まりて、火をてんのめのごとくにともして、我居たるうつほ木の前に居まはりぬ。大かた、いとゞ物おぼえず。むねとあると見ゆる鬼、横座に居たり。うらうへに二ならびに居なみたる鬼、数をしらず。その姿、おの/\いひつくしがたし。
酒まいらせ、あそぶ有様、この世の人のする定なり。末よりわかき鬼、一人立て、折敷をかざして、なにといふにか、くどき、きせゝる事をいひて、横座の鬼の前にねりいでて、くどくめり。横座の鬼、盃を左の手に持ちて、えみこだれたるさま、たゞ、この世の人のごとし。舞て入ぬ。次第に下より舞ふ。悪しく、良く舞ふもあり。あさましと見るほどに、この横座に居たる鬼のいふやう、「こよひの御あそびこそ、いつにもすぐれたれ。ただし、さもめづらしからんかなでを見ばや」などといふに、この翁、ものの付たりけるにや、又、しかるべく神仏の思はせ給けるにや、「あはれ、走出て舞はばや」と思ふを、一度は思かへしつ。それに、何となく、鬼どもがうちあげたる拍子のよげに聞こえければ、「さもあれ、たゞはしりいでて、舞てん。死なばさてありなん」と思とりて、木のうつほより、烏帽子は鼻にたれかけたる翁の、腰によきといふ木きる物さして、横座の鬼の居たる前におどり出たり。この鬼どもおどりあがりて、「こはなにぞ」とさはぎあへり。翁、のびあがり、かゞまりて、舞べきかぎり、すぢりもぢり、えい声を出して、一庭を走まはり舞ふ。横座の鬼よりはじめて、集まり居たる鬼どもあさみ興ず。
横座の鬼のいはく、「多くの年比、この遊をしつれども、いまだかゝるものにこそあはざりつれ。今より此翁、かやうの御遊にかならず参れ」といふ。翁申やう、「沙汰に及び候はず。参り候べし。このたびは俄にて、おさめの手も忘れ候にたり。かやうに御覧にかなひ候はば、しづかにつかうまつり候はん」といふ。横座の鬼、「いみじく申たり。かならず参るべき也」と云。奥の座の三番に居たる鬼、「この翁はかくは申候へども、参らぬ事も候はむずらんとおぼえ候に、質をや取らるべく候らむ」と云。横座の鬼、「しかるべし。/\」といひて、「何をか取るべき」と、をの/\いひ沙汰するに、横座の鬼のいふやう、「かの翁のつらにあるこぶをや取るべき。こぶは福の物なれば、それをぞ惜しみ思ふらむ」と云に、翁が云やう、「たゞ目鼻をば召すとも、此こぶはゆるし給候はむ。年比持て候物を、故なく召されむ、ずちなき事に候なん」といへば、横座の鬼、「かう惜しみ申物也。たゞそれを取るべし」といへば、鬼寄りて、「さはとるぞ」とて、ねぢて引くに、大かた痛き事なく、さて、「かならず此度の御遊に参るべし」とて、暁に鳥など鳴きぬれば、鬼ども帰りぬ。
翁、顔をさぐるに、年来ありしこぶ、跡かたなく、かひのごひたるやうに、つや/\なかりければ、木こらん事も忘れて、家に帰りぬ。妻のうば、「こはいかなりつる事ぞ」と問へば、「しか/\」と語る。「あさましき事哉」と云。
隣にある翁、左の顔に大なるこぶありけるが、此翁、こぶの失せたるを見て、「こはいかにして、こぶは失せさせ給たるぞ。いづこなる医師の取り申たるぞ。我に伝給へ。この瘤取らん」といひければ、「是はくすしの取りたるにもあらず。しか/\の事ありて、鬼の取りたる也」といひければ、「我、その定にして取らん」とて、事の次第を細に問ければ、をしへつ。
此翁、言ふまゝにして、その木のうつほに入て、待ければ、まことに聞くやうにして、鬼ども出で来たり。居まはりて、酒のみ遊びて、「いづら、翁は参りたるか」といひければ、此翁、おそろしと思ながら、ゆるぎ出たれば、鬼ども「こゝに翁参りて候」と申せば、横座の鬼、「こち参れ。とく舞へ」といへば、さきの翁よりは、天骨もなく、おろ/\かなでたりければ、横座の鬼、「こたびは、わろく舞たり。返/\わろし。そのとりたりし質のこぶ、返したべ」といひければ、末つ方より鬼いで来て、「質のこぶ、返したぶぞ」とて、いまかた/\〃の顔になげつけたりければ、うらうへにこぶつきたる翁にこそ、成たりけれ。
物うらやみは、すまじき事なりとぞ。
十七、修行者、逢2百鬼夜行1事
今は昔、修行者の有けるが、津国までいきたりけるに、日暮て、りうせん寺とて、大なる寺の古りたるが、人もなき、有けり。これは人やどらぬ所といへども、其あたりに、又やどるべき所なかりければ、如何せんと思て、負、打おろして、内に入てゐたり。
不動の呪をとなへゐたるに、夜中斗にや成ぬらんと思程に、人/\の声、あまたして来る音す也。見れば手ごとに火をともして、人、百人斗、此堂の内に来つどひたり。近くて見れば、目一つつきたりなど様/\なり。人のもあらず、あさましき物どもなりけり。或は角おひたり、頭もえもいはずおそろしげなる物ども也。おそろしと思へども、すべき様もなくてゐたれば、をの/\みな居ぬ。ひとりぞ、また所もなくて、え居ずして、火を打ふりて、我をつら/\と見ていふやう、「我居るべき座に、あたらしき不動尊こそ居給たれ。今夜斗は外におはせ」とて、片手して、我を引さげて、堂の軒の下にすへつ。
さる程に、暁になりぬとて、此人/\、のゝしりて帰ぬ。「実にあさましく、おそろしかりける所かな、とく夜の明よかし、往なん」と思ふに、からうして夜明たり。うち見まはしたれば、ありし寺もなし、はる/\〃とある野の来しかたも見えず。人の踏み分たる道も見えず。行べきかたもなければ、あさましと思てゐたる程に、まれ/\馬に乗たる人どもの、人あまた具して出来たり。いとうれしくて、「こゝは、いづくとか申」と問へば、「などかくは問給ぞ。肥前国ぞかし」といへば、あさましきわざ哉と思て、事のやう、くはしくいゑば、此馬なる人も、「いと稀有の事かな。肥前国にとりても、是は奥の郡なり。是は御館へ参るなり」といへば、修行者、悦て、「道も知候はぬに、さらば、道迄も参らん」といひて行きければ、是より京へ行べき道など教へければ、船たづねて、京へのぼりにけり。
さて、人どもに、「かゝるあさましき事こそありしか。津の国のりうせん寺といふ寺にやどりたりしを、鬼どもの来て、「所せばし」とて「あたらしき不動尊、しばそ雨だりにもおはしませ」といひて、かきいだきて、雨だりについすゆと思しに、肥前国奥の郡にこそゐたりしか。かゝる浅猿き事にこそあひたりしか」とぞ、京に来て、語けるとぞ。
巻二
二六、晴明、封2蔵人少将1事
むかし、晴明、陣に参りたりけるに、前花やかに追はせて、殿上人の参りけるを見れば、蔵人の少将とて、まだわかく花やかなる人の、みめ、まことに清げにて、車よりおりて、内に参りたりける程に、この少将のうへに、烏の飛てとほりけるが、ゑどをしかけけるを、晴明、きと見て、「あはれ、世にもあひ、年などもわかくして、みめもよき人にこそあんめれ、式にうてけるにか、この烏は、式神にこそ有けれ」と思ふに、然べくて、此少将の生くべき報やありけん、いとおしう、晴明が覚て、少将のそばへ歩みよりて、「御前へ参らせ給か。さかしく申やうなれども、なにか参らせたまふ。殿は、今夜えすぐさせ給はじと見奉るぞ。然べくて、をのれには見えさせ給へるなり。いざさせ給へ。物心みん」とて、ひとつ車に乗りければ、少将わなゝきて、「あさましき事哉。さらば、たすけ給へ」とて、ひとつ車に乗て、少将の里へいでぬ。申の時斗の事にてありければ、かく、出でなどしつる程に、日も暮ぬ。
晴明、少将をつといだきて、身をかためをし、又、なに事か、つふ/\と、夜一夜いも寝ず、声だえもせず、続きかせ、加持しけり。秋の夜の長に、よく/\したりければ、暁がたに、戸をはた/\とたゝきけるに、「あれ、人出して、きかせ給へ」とて、聞かせければ、この少将のあひ聟にて、蔵人の五位のありけるも、おなじ家に、あなたこなたにすへたりけるが、此少将をば、よき聟とて、かしづき、今ひとりをば、事の外に思おとしたりければ、ねたがりて、陰陽師をかたらひて、式をふせたりける也。
さて、その少将は死なんとしけるを、晴明が見付て、夜一夜、祈たりければ、そのふせける陰陽師のもとより、人の来て、たかやかに、「心のまどひけるまゝに、よしなく、まもりつよかりける人の御ために、仰をそむかじとて、式ふせて、すでに、式神かへりて、をのれ、たゞいま、式にうてて、死侍ぬ。すまじかりける事をして」といひけるを、晴明、「これ、聞かせ給へ。夜部、見付参らせざらましかば、かやうにこそ候はまし」といひて、その使に人をそへて、やりて聞きければ、「陰陽師はやがて死けり」とぞいひける。
式ふせさせける婿をば、しうと、やがて追いすてけるとぞ。晴明には泣く/\悦て、おほくの事どもしてもあかずぞよろこびける。
たれとはおぼえず、大納言までなり給けるとぞ。
巻六
八三、広貴、依2妻訴1、炎魔宮へ被レ召事
これも今は昔、藤原広貴と云物ありけり。死て、閻魔の庁に召されて、王の御前とおぼしき所に参たるに、王の給やう、「汝が子を孕て、産をしそこなひたる女、死たり。地獄に落て、苦をうくるに、うれへ申事のあるによりて、汝をば召したる也。まづ、さる事あるか」と問はるれば、広貴、「さる事、候ひき」と申。王の給はく、「妻の訴へ申心は、『われ、男に具して、ともに罪をつくりて、しかも、かれが子を産そこなひて、死して地獄に落て、かゝるたへがたき苦をうけ候へども、いさゝかも我後世をも弔ひ候はず。されば我一人、苦をうけ候ふべきやうなし。広貴を諸共に召して、おなじやうにこそ苦をうけ候はめ』と申によりて召したるなり」との給へば、広貴が申やう、「此うたへ申事、尤ことはりに候。大やけわたくし、世をいとなみ候あひだ、思ながら、後世をば弔ひ候はで、月日はかなく過候ふ也。たゞし、今にをき候ては、ともに召されて、苦をうけ候とも、かれがために苦のたすかるべきに候はず。されば、このたびはいとまを給はりて、娑婆に罷帰て、妻のために、よろづをすてて、仏経を書供養して、弔ひ候はん」と申せば、王、「しばし候へ」との給て、かれが妻を召し出て、汝が夫、広貴が申やうを問給へば、「実〃、経仏をだに書供養せんと申候はば、とくゆるし給へ」と申時に、又、広貴を召し出て、申まゝの事を仰聞かせて、「さらば、こたびはまかり帰れ。たしかに、妻のために、仏経を書供養して、弔ふべき也」とて、かへしつかはす。
広貴、かゝれども、是はいづく、誰がの給ぞとも知らず。ゆるされて、庭を立て帰る道にて思ふやう、「此の玉の簾のうちに居させ給て、かやうに物の沙汰して、我を帰さるゝ人は誰にかおはしますらん」と、いみじくおぼつかなくおぼえければ、又、参りて、庭に居たれば、簾の内より、「あの広貴は返しつかはしたるにはあらずや。いかにして、又参りたるぞ」と問はるれば、広貴、申やう、「はからざるに御恩をかうぶりて、帰がたき本国へ帰り候事を、いかにおはします人の仰ともえ知り候はで、まかり帰候はん事の、きはめていぶせく、口惜候へば、恐ながら、これをうけ給はりに、又参りて候なり」と申せば、「汝、不覚なり。閻浮提にしては、我を地蔵菩薩と称す」との給を聞きて、「さは、炎魔王と申は地蔵にこそおはしましけれ。此地蔵に仕らば地獄の苦をばまぬかるべきにこそあんめれ」と思ふ程に、三日といふに生帰て、そののち、妻のために仏経書供養してけりよぞ。
日本法花験記に見えたるとなん。
巻八
一〇五、千手院僧正、仙人ニ逢事
昔、山の西塔に住給ける静観僧正と申ける座主、夜更て、尊勝陀羅尼を夜もすがら見てあかして、年比になり給ぬ。聞く人もいみじくたうとみけり。陽勝仙人と申仙人、空を飛びてこの坊の上を過けるが、この陀羅尼の声を聞きて、おりて、高欄のほこ木の上に居給ぬ。僧正、あやしと思ひて問ひ給ひければ、蚊の声のやうなる声して、「陽勝仙人にて候なり。空を過候つるが、尊勝陀羅尼の声をうけたまはりて参り侍なり」との給ければ、戸を開けて請ぜられければ、飛入て前に居給ぬ。
年比の物語して、「今はまかりなん」とて立けるが、人気にをされてえ立たざりければ、「香炉の煙を近く寄せ給へ」との給ければ、僧正、香呂を近くさし寄せ給ける。その煙に乗りて空へ上にけり。
此僧正は、年を経て、香呂をさしあげて、煙を立ててぞおはしける。此仙人は、もとつかひ給ける僧の、おこなひして失にけるを、年比あやしとおぼしけるに、かくして参りたりければ、あはれ/\とおぼしてぞ、つねに泣き給ける。
一〇六、滝口道則、習レ術事
昔、陽成院位にておはしましける時、滝口道則、宣旨を承て陸奥へ下る間、信濃国ヒクニといふ所に宿りぬ。郡の司に宿をとれり。まうけしてもてなして後、あるじの郡司は郎等引具して出ぬ。
いも寝られざりければ、やはら起きてたゝずみ歩くに、見れば、屏風を立てまはして、畳など清げに敷き、火ともして、よろづ目安きやうにしつらひたり。空だき物するやらんと、かうばしき香しけり。いよ/\心にくゝおぼえて、よくのぞきて見れば、年廿七八ばかりなる女一人ありけり。見めことがら、姿有様、ことにいみじかりけるが、たゞ一人臥したり。見るまゝに、たゞあるべき心地せず。あたりに人もなし。火は几帳の外にともしてあれば、明くあり。さて、この道則面ふやう、「よに/\ねんごろにもてなして、心ざし有つる郡司の妻を、うしろめたなき心つかはん事、いとをしけれど、この人の有様を見るにたゞあらむことかなはじ」と思ひて、寄りてかたはらに臥に、女、けにくゝも驚かず、口おほひをして、笑ひ臥したり。いはんかたなくうれしく覚ければ、長月十日比なれば衣もあまた着ず、一かさねばかり男も女も着たり。かうばしき事限なし。我きぬをばぬぎて女の懐へ入に、しばしは引ふたぐやうにしけれども、あながちにけにくからず、懐に入ぬ。男の前のかゆきやうなりければ、さぐりてみるに物なし。おどろきあやしみてよく/\さぐれども、頤のひげをさぐるやうにて、すべてあとかたなし。大きに驚きて、此女のめでたげなるも忘られぬ。この男の、さぐりてあやしみくるめくに、女すこしほゝ笑みて有ければ、いよ/\心得ずおぼえて、やはら起きて、わが寝所へ帰てさぐるに、さらになし。あさましく成て、近くつかふ郎等をよびて、かゝるとはいはで、「こゝにめでたき女あり。我も行たりつる也」といへば、悦て、此男いぬれば、しばしありて、よに/\あさましげにて此男出で来たれば、是もさるなめりと思て、又異男をすゝめてやりつ。是も又しばしありて出来ぬ。空をあふぎて、よに心得ぬけしきにて帰てけり。かくのごとく七八人まで郎等をやるに、同じ気色に見ゆ。
かくするほどに、夜も明ぬれば、道則思ふやう、「宵にあるじのいみじうもてなしつるを、うれしと思つれども、かく心得ず浅ましき事のあれば、とく出でん」と思て、いまだ明果てざるに急て出れば、七八町行程に、うしろより呼ばひて馬を馳て来る物あり。はしりつきて、白き紙に包みたる物をさしあげて持て来。馬を引へて待てば、ありつる宿にかよひしつる郎等也。「これは何ぞ」と問へば、「此郡司の参らせよと候物にて候。かゝる物をば、いかで捨ててはおはし候ぞ。かたのごとく御まうけして候へども、御いそぎに、これをさへ落させ給てけり。されば、拾い集めて参らせ候」といへば、「いで、何ぞ」とて取て見れば、松茸を包み集めたるやうにてある物九あり。あさましくおぼえて、八人の郎等共もあやしみをなして見るに、まことに九の物あり。一度にさつと失せぬ。さて、使はやがて馬を馳て帰ぬ。そのおり、我身よりはじめて郎等共、皆「あり/\」といひけり。
さて奥州にて金うけ取て帰時、又、信濃の有し郡司のもとへ行きて宿りぬ。さて郡司に金、馬、鷲羽などおほくとらす。郡司、世に/\悦て、「これは、いかにおぼして、かくはし給ぞ」といひければ、近く寄りいぇいふ様、「かたはらいたき申事なれ共、はじめこれに参りて候し時、あやしき事の候しはいかなることにか」といふに、郡司、物をおほく得てありければ、さりがたく思て、有りのまゝにいふ。「それは、若く候し時、この国の奥の郡に候し郡司の、年寄りて候しが、妻の若く候しに、忍びて罷寄りて候しかば、かくのごとく失てありしに、あやしく思て、その郡司にねん比に心ざしをつくして習て候也。もし習はんとおぼしめさば、此度は大やけの御使なり。速にのぼり給て、又、わざと下給て習ひ給へ」といひければ、その契をなして、のぼりて金など参らせて、又暇を申て下りぬ。
郡司に、さるべき物など持ちて下て、とらすれば、郡司、大に悦て、「心の及ばん限は教へん」と思て、「これは、おぼろけの心にて習ふ事にては候はず。七日、水を浴み、精進をして習事也」といふ。そのまゝに、清まはりて、その日になりて、たゞ二人つれて、深き山に入ぬ。大なる川の流るゝほとりに行て、様/\の事共を、えもいはず罪深き誓言どもたてさせけり。さて、かの郡司は水上へ入ぬ。「その川上より流れ来ん物を、いかにも/\、鬼にてもあれ、何にてもあれ、抱け」といひて行ぬ。
しばしばかり有て、水上の方より、雨降り風吹て、暗くなり、水まさる。しばしありて、川より頭一いだきばかりなる大蛇の、目はかなまりを入たるやうにて、背中は青く、紺青をぬりたるやうに、首の下は紅のやうにて見ゆるに、「先来ん物を抱け」といひつれども、せんかたなくおそろしくて、草の中に臥しぬ。しばし有て、郡司来りて、「いかに。取給つや」といひければ、「かう/\おぼえつれば、取らぬ也」といひければ、「よく口惜事哉。さては、此事はえ習給はじ」といひて、「今一度心みん」といひて、又入ぬ。
しばし斗有て、やをばかりなる猪のしゝの出で来て、石をはら/\とくだけば、火きら/\と出づ。毛をいらゝかして走てかゝる。せんかたなくおそろしけれども、「是をさへ」と思きりて走り寄りて抱きて見れば、朽木の三尺ばかりあるを抱きたり。ねたく、くやしき事限なし。「はじめも、かゝる物にてこそありけれ。などか抱かざりけん」と思ふ程に、郡司来りぬ。「いかに」と問へば、「かう/\」といひければ、「前の物うしなひ給事は、え習ひ給はずなりぬ。さて、異事の、はかなき物をものになす事は、習はれぬめり。されば、それを教へん」とて教へられて帰上りぬ。口惜事限なし。
大内に参りて、滝口どものはきたる沓どもを、あらがひをして皆犬子になして走らせ、古き藁沓を三尺斗なる鯉になして、台盤の上におどらする事などをしけり。
御門、此由を聞こしめして、黒戸のかたに召して、習はせ給けり。御几帳の上より、賀茂祭など渡し給けり。
巻十一
一二六、晴明ヲ心見僧事
昔、晴明が土御門の家に、老しらみたる老僧来りぬ。十歳斗なる童部二人具したり。晴明、「なにぞの人にておはするぞ」と問へば、「播磨国の者にて候。陰陽師を習はん心ざしにて候。此道に、ことにすぐれておはします由を承て、せう/\習ひ参りたるなり」といへば、晴明が思やう、「此法師は、かしこき者にこそあるめけれ。我を心みんとて来たるものなり。それに悪く見えては悪かるべし。この法師、すこしひきまさぐらんと思て、供なる童は、式神をつかひて来たるなめり。もし式神ならば召し隠せ」と心の中に念じて、袖の内にて印を結て、ひそかに咒を唱ふ。さて法師にいふやう、「とく帰給ね。後に良き日して、習はんとの給はん事どもは、教へ奉らん」といへば、法師、「あらたうと」といひて、手をすりて額にあてて、立走りぬ。
今は去ぬらんと思ふに、法師とまりて、さるべき所/\、車宿などのぞきありきて、又前に寄り来ていふやう、「この供に候つる童の、二人ながら失て候。それ給はりて帰らん」といへば、晴明、「御房は、希有の事いふ御房かな。晴明は、なにの故に、人の供ならんものをば、取らんずるぞ」といへば、法師のいふやう、「さらに、あが君、おほきなることはり候。さりながら、たゞ許し給はらん」とわびければ、「よし/\、御房の、人の心みんとて、式神つかひて来るが、うらやましきを、事におぼえつるが、異人をこそ、さやうには心得給はめ、晴明をば、いかでさる事し給べき」といひて、物読むやうにして、しばしばかりありければ、外の方より童二人ながら走入て、法師の前に出来ければ、その折、法師の申やう、「実に心み申つる也。仕事はやすく候。人の仕ひたるを隠すことは、更にかなふべからず候。今よりは、ひとへに御弟子となりて候はん」といひて、ふところより名簿ひきいでて、取らせけり。
一二七、晴明殺レ蛙事
此晴明、ある時、広沢僧正の御坊に参りて、物申うけ給はりける間、若僧どもの晴明にいふやう、「式神を仕ひ給なるは、たちまちに人をば殺し給や」といひければ、「やすくはえ殺さじ。力を入て殺してん」といふ。「さて虫なんどをば、すこしの事せんに、かならず殺しつべし。さて生くるやうを知らねば、罪を得つべければ、さやうの事、よしなし」といふ程に、庭に蛙のいできて、五六ばかりおどりて、池のかたざまへ行けるを、「あれひとつ、さらば殺し給へ。心みん」と僧のいひければ、「罪をつくり給御房かな。されども、心み給へば、殺して見せ奉ん」とて、草の葉をつみ切りて、物を読むやうにして、蛙の方へ投げやりければ、その草の葉の、蛙の上にかゝりければ、蛙、まひらにひしげて死たりけり。これを見て、僧どもの色かはりて、おそろしと思けり。
家の中に人なき折は、この式神を仕ひけるにや。人もなきに、蔀を上おろし、門をさしなどしけり。
一三四、日蔵上人、吉野山ニテ逢レ鬼事
昔、吉野山の日蔵のきみ、芳野の奥におこなひありき給けるに、丈七尺ばかりの鬼、身の色は紺青の色にて、髪は火のごとくに赤く、首細く、胸骨はことにさし出て、いらめき、腹ふくれて、脛は細くありけるが、このおこなひ人にあひて、手をつかねて泣く事かぎりなし。
「これは何事する鬼ぞ」と問へば、此鬼、泪にむせびながら申やう、「我はこの四五百年を過ての昔人にて候しが、人のために恨をのこして、今はかゝる鬼の身となりて候。さてその敵をば、思のごとくに殺してき。それが子、孫、彦、やしは子にいたるまで、のこりなくとり殺し果てて、今は殺すべき物なくなりぬ。されば、なを、かれらが生まれかはりまかる後までも知りて、とり殺さんと思候に、つぎ/\の生まれ所、露も知らねば、とり殺すべきやうなし。瞋恚のほのをは同じやうに燃ゆれども、敵の子孫は絶えはてたり。たゞ我独、つきせぬ瞋恚のほのをに燃へこがれて、せんかたなき苦をのみ受侍り。かゝる心をおこさざらましかば、極楽天上にも生れなまし。ことに恨みをとゞめて、かゝる身となりて、無量億劫の苦を受けんとする事の、せんかたなくかなしく候。人の為に恨をのこすは、しかしながら我身のためにてこそありけれ。敵の子孫はつきはてぬ。我命はきはまりもなし。かねて此やうを知らましかば、かゝる恨をば、残さざらまし」といひつゞけて、泪を流して、泣く事限なし。そのあいだに、かうべよりほのをやう/\燃え出けり。さて山の奥ざまへ歩み入けり。
さて日蔵のきみ、あはれと思て、それがために、さま/\〃の罪ほろぶべき事どもをし給けるとか。
巻十二
一四〇、内記上人、破�法師陰陽師紙冠�事
内記上人寂心といふ人ありけり。道心堅固の人也。堂を造り、塔を建つる、最上の善根也とて、勧進せられけり。材木をば播磨国に行て取られけり。こゝに法師陰陽師、紙冠をきて祓するを見つけて、あはてて馬より下りて走寄りて、「なにわざし給御房ぞ」と問へば、「祓し候也」といふ。「なにしに紙冠をばしたるぞ」と問へば、「祓戸の神達は、法師をば忌給へば、祓する程、しばらくして侍也」といふに、上人、声をあげて大に泣て、陰陽師に取懸れば、陰陽師心得ず仰天して、祓をしさして、「是はいかに」と云、祓せさする人もあきれて居たり。上人、冠を取て、引破て泣事限なし。「いかに知りて、御房は仏弟子と成て、祓戸の神達、にくみ給といひて、如来の忌給事を破て、しばしも無間地獄の業をばつくり給ぞ。誠にかなしき事也。たゞ寂心を殺せ」といひて、取付て泣事おびたゝし。
陰陽師のいはく、「仰らるゝ事、尤道理也。世の過がたければ、さりとてはとて、かくのごとく仕也。しからずは、何わざをしてかは妻子をば養ひ、我命をも続侍らん。道心なければ上人にもならず。法師のかたちに侍れど、俗人のごとくなれば、後世の事いかゞと、かなしく侍れど、世のならひにて侍れば、かやうに侍なり」といふ。上人の云やう。「それはさもあれ、いかゞ三世如来の御首に冠をば着給。不幸にたへずしてか様の事し給はば、堂作らん料に勧進しあつめたる物共を汝に与ん。一人菩提に勧れば、堂寺造に勝れたる功徳也」といひて、弟子共をつかはして、材木とらんとて勧進しあつめたる物を、みな運び寄せて、此陰陽師にとらせつ。
さて、我身は京に上給にけり。
一五八、陽成院妖物事
今は昔、陽成院おり居させ給ての御所は、宮よりは北、西洞院よりは西、油小路よりは東にてなんありける。そこは、物すむ所にてなんありける。大なる池のありける釣殿に、番のもの寝たりければ、夜中斗にほそ/\〃とある手にて、此男が顔を、そと/\なでけり。けむつかしと思て、太刀を抜きて、片手にてつかみたりければ、浅黄の上下着たる叟の、事のほかに物わびしげなるがいふ様、「我はこれ、昔住し主なり。浦島の子がおとゝ也。いにしへより此所に住みて、千二百余年になる也。願はくは許し給へ。こゝに社を造ていはひ給へ。さらばいかにもまもり奉らん」といひけるを、「我心ひとつにてはかなはじ。この由を院へ申てこそは」といひければ、「にくき男のいひ事かな」とて三たび上ざまへ蹴上/\して、なへ/\くた/\となして、落つる所を、口を開きて食ひたりけり。なべての人程なる男と見る程に、おびたゝしく大に成て、この男をたゞ一口に食てけり。
巻十四
一八四、御堂関白御犬、晴明等、奇特事
これも今は昔、御堂関白殿、法成寺を建立し給て後は、日ごとに御堂へまいらせ給けるに、白き犬を愛してなん飼せ給ければ、いつも御身をはなれず、御供しけり。
或日、例のごとく御供しけるが、門を入らんとし給へば、此犬、御先にふたがるやうに吠まはりて、内へ入奉らじとしければ、「何条」とて、車より下りて、入んとし給へば、御衣の裾をくひて、引とゞめ申さんとしければ、「いかさま、やうある事ならん」とて、榻を召し寄せて、御尻をかけて、晴明に「きと参れ」と、召しにつかはしたりければ、晴明、則参りたり。
「かゝる事のあるはいかゞ」と尋給ければ、晴明、しばし占なひて申けるは、「これは君を呪詛し奉て候物を、道にうづみて候。御越あらましかば、悪しく候べきに、犬は通力の物にて、告げ申候也」と申せば、「さて、それはいづくにかうづみたる。あらはせ」との給へば、「やすく候」と申て、しばし占なひて、「こゝにて候」と申所を、堀せて見給に、土五尺斗彫たりければ、案のごとく物ありけり。土器を二うち合はせて、黄なる紙捻にて十文字にからげたり。開て見れば、中には物もなし。朱砂にて、一文字を土器の底に書きたる斗也。「晴明がはかには、知たる者候はず。もし、道摩法師や仕たるらん。糺して見候はん」とて、懐より紙を取出し、鳥の姿に引結びて、呪を誦じかけて、空へ投げ上げたれば、忽に白鷺に成て、南をさして飛行けり。
「此鳥のおちつかん所を見て参れ」とて、下部を走らするに、六条坊門、万里小路辺に、古たる家の諸折戸の中へ落人にけり。則、家主、老法師にてありける、搦捕て参りたり。呪詛のゆへを問るゝに、「堀川左大臣顕光公の語をえて仕たり」とぞ申ける。「このうへは、流罪すべけれども、道摩が咎にはあらず」とて、「向後、かゝる態すべからず」とて、本国播磨へ追下されにけり。
此顕光公は、死後に怨霊と成て、御堂殿辺へはたゝりをなされけり。悪霊左府となづく云々。犬はいよ/\不便にせさせ給けるとなん。
(岩波書店刊、新日本文学大系42『宇治拾遺物語・古本説話集』を底本としました)

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