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平家物語
平家物語(一部)
白拍子に関する記述のある「妓王」の巻全文。赤字は多くの資料に引用されている白拍子の始めを述べた部分。
五 妓王の事
太政入道は、かやうに天下を掌の中に握り給ひし上は、世の誹をも憚らず、人の嘲をも顧みず、不思議の事をのみし給へり。たとへば、その頃、京中に聞えたる白拍子の上手、妓王(ぎおう)・妓女(ぎにょ)とて、おととひあり。とぢと云ふ白拍子が娘なり。しかるに姉の妓王を、入道相國寵愛し給ひし上、妹の妓女をも、世の人もてなす事斜ならず。母とぢにも、よき屋作ってとらせ、毎月に百石百貫を送られたりければ、家内富貴して、楽しい事斜ならず。
そも/\我が朝に白拍子の始りける事は、昔鳥羽の院の御宇に、島の千歳(せんざい)・和歌の前、彼等二人が舞ひ出したりけるなり。昔は水干に立烏帽子、白鞘巻をさいて舞ひければ、男舞とぞ申しける。しかるを中頃より、烏帽子・刀をのけられて、水干ばかり用ゐたり。さてこそ白拍子とは名づけけれ。
宮中の白拍子ども、妓王が幸のめでたき様を聞いて、羨む者もあり、猜む者もあり。羨む者どもは、「あなめでたの妓王御前の幸や。同じ遊女(あそびめ)とならば、誰も皆あの様でこそありたけれ。如何様にも妓と云ふ文字を名に付きて、かくはめでたきやらん。いざや、我等も付いて見ん」とて、或は妓一・妓二と付き、或は妓福・妓徳など付く者ありけり。猜む者どもは、「何でふ、名により、文字にはよるべき。幸はたゞ先世の生れ付きでこそあんなれ」とて、付かぬ者も多かりけり。
かくて三年と云ふに、又白拍子の上手一人出で来たり。加賀國の者なり。名をば佛とぞ申しける。年十六とぞ聞えし。京中の上下これを見て、昔より多くの白拍子は見しかども、かゝる舞の上手は未だ見ずとて、世の人もてなす事斜ならず。
ある時佛御前申しけるは、「われ天下にもてあそばるゝと云へども、當時めだたう榮えさせ給ふ平家太政の入道殿へ、召されぬことこそ本意なけれ。遊者(あそびもの)の習ひ、何か苦しかるべき。推参して見ん」とて、或時西八条殿へぞ参じたる。人御前に参って、「當時都に聞え候ふ佛御前が参って候」と申しければ、入道相國大きに怒って、「何でふ。さ様の遊び者は、人の召にてこそ参るものなれ。左右なう推参する様やある。その上、神ともいへ、佛ともいへ、妓王があらんずる所へは、叶ふまじきぞ。とう/\まかり出でよ」とぞ宣ひける。佛御前は、すげなう言はれ奉りて、已に出でんとしけるを、妓王、入道殿に申しけるは、「遊び者の推参は常の習ひでこそ候へ。其の上年も未だをさなう候ふなるが、たま/\思ひ立って参って候ふを、すげなう仰せられて、返させ給はんこそ不便なれ。いかばかり恥しう傍痛くも候ふらん。我が立てし道なれば、人の上とも覚えず。たとひ、舞を御覧じ、歌をこそ聞し召さずとも、たゞ理をまげて、召返いて御対面ばかり候ひて、返させ給はば、あり難き御情でこそ候はんずれ」と申しければ、入道相國、「いでいでさらば、わごぜが餘りにいふ事なるに、対面して返さん」とて、御使を立てて召されけり。佛御前は、すげなう言はれ奉って、車に乗って已に出でんとしけるが、召されて帰り参りたり。
入道、やがて出で合ひ対面し給ひて、「いかに佛、今日の見参はあるまじかりつれども、妓王が、何と思ふやらん、餘りに申し進むる間、かように見参はしつ。見参する上では、いかでか声をも聞かであるべき。先づ今様一つ歌ふべし」と宣へば、佛御前、「承り候ふ」とて、今様一つぞ歌うたる。
君を始めて見る時は 千代も経ぬべし姫小松
御前の池なる亀岡に 鶴こそむれてゐて遊ぶめれ
とおし返し/\、三返歌ひすましければ、見聞の人々みな耳目を驚かす。入道もおもしろき事に思ひ給ひて、「さてわごぜは、今様は上手にてありけるや。此の定では舞も定めてよからん。一番見ばや。鼓打召せ」とて召されけり。打たせて一番舞うたりけり。
佛御前は、髪姿より始めて、眉目かたち世に勝れ、声よく節も上手なりければ、なじかは舞ひは損ずべき。心も及ばず舞ひすましたりければ、入道相國、舞にめで給ひて、佛に心を移されけり。佛御前、「こは何事にて候ふぞや。本よりわらはは、推参の者にて、已に出され参らせしを、妓王御前の申し状によってこそ召返されても候ふ。はや/\暇賜はって出させおはしませ」と申しければ、入道相國、「すべてその儀叶ふまじ。但し妓王があるによって、さやうに憚るか。その儀ならば、妓王をこそ出さめ」と宣へば、佛御前、「これ又いかでさる御事候ふべき。共に召し置かれんだに恥しう候ふべきに、妓王御前を出させ給ひて、わらはを一人召し置かれなば、妓王御前の思ひ給はん心の中、いかばかり恥しう傍痛くも候ふべき。自ら後までも忘れ給はぬ御事ならば、召されて又は参るとも、今日は暇を賜はらん」とぞ申しける。入道、「その儀ならば、妓王とう/\まかり出でよ」御使重ねて三度まで立てられけれ。
妓王は、もとより思ひ設けたる道なれども、さすが昨日今日とは思ひもよらず。入道相國、いかにも叶ふまじき由、頻りに宣ふ間、はき拭ひ、塵拾はせ、出づべきにこそ定めけれ。一樹の陰に宿り合ひ、同じ流れをむすぶだに、別れは悲しき習ひぞかし。いはんや、これは三年が間住み馴れし所なれば、名残も惜しく悲しくて、かひなき涙ぞすゝみける。さてしもあるべき事ならねば、妓王、今はかうとて出でけるが、なからん跡の忘れ形見にもとや思ひけん、障子に泣く/\一首の歌をぞ書き付けける、
もえいづるも枯るゝも同じ野辺の草 何れか秋にあはではつべき
さて車に乗って宿所へ帰り、障子の内に倒れ臥し、たゞ泣くより外の事ぞなき。母や妹これを見て、「いかにや、いかに」と問ひけれども、妓王とかうの返事にも及ばず。具したる女に尋ねてこそ、さる事ありとも知ってけれ。さる程に、毎月送られける百石百貫をもおし止められて、今は佛御前のゆかりの者どもぞ、始めて楽しみ栄えける。京中の上下この由を伝え聞いて、「まことや、妓王こそ、西八条殿より暇賜って出されたんなれ。いざや見参して遊ばん」とて、或は文を遣はす者もあり、或は使者をたつる人もありけれども、妓王、今さら又人に対面して遊び戯るべきにもあらねばとて、文をだに取入るゝ事もなく、まして使をあひしらふまでもなかりけり。妓王、これにつけてもいとゞ悲しくて、かひなき涙ぞこぼれける。
かくて今年も暮れぬ。明くる春にもなりしかば、入道相國、妓王がもとへ使者を立てゝ、「いかに妓王、その後は何事かある。佛御前が餘りにつれ/\〃げに見ゆるに、参って、今様をも歌ひ、舞などをも舞うて、佛慰めよ」とぞ宣ひける。妓王とかうの御返事にも及ばず、涙を抑へて伏しにけり。入道重ねて、「何とて、妓王はともかうも返事をば申さぬぞ。参るまじくば、其のやうを申せ。浄海も計らふ旨あり」とぞ宣ひける。母とぢこれを聞くに悲しくて、泣く泣く教訓しけるは、「何とて妓王は、ともかうも御返事をば申さで。かやうに叱られ参らせんよりは」といへば、妓王涙を抑へて申しけるは、「参らんと思ふ道ならばこそ、やがて参るべしとも申すべけれ。なか/\参らざらんもの故に、何と御返事をば申すべしとも覚えず。此の度召さんに参らずば、計らふ旨ありと仰せらるるは、定めて都の外へ出さるゝか、さらずば命を召さるゝか、これ二つにはよも過ぎじ。たとひ都を出さるゝとも、嘆くべき道にあらず。また命を召さるゝとも惜しかるべき我が身かは。一度憂き者に思われ参らせて、二度面を向ふべしとも覚えず」とて、なほ御返事にも及ばざりしかば、母とぢ泣く/\又教訓しけるは、「天が下に住まんには、ともかうも、入道殿の仰せをば、背くまじき事にてあるぞ。その上わごぜは、男女の縁、宿世、今に始めぬことぞかし。千年萬年とは契れども、やがて別るゝ中もあり。世に定めなきものは男女の習ひなり。いはんや、わごぜはこの三年が間思はれ参らせたれば、あり難き御情でこそ候へ。この度召さんに参らねばとて、命を召さるゝまではよもあらじ。定めて都の外へぞ出されんずらん。たとひ都を出さるゝとも、わごぜたちは年末だ若ければ、いかならん岩木のはざまにても、過さんこと易かるべし。我が身は年老い、齢衰へたれば、ならはぬ鄙の住居を、かねて思ふこそ悲しけれ。たゞ我を都の中にて住みはてさせよ。それぞ今生後生の孝養にてあらんずるぞ」といへば、妓王、参らじと思ひ定めし道なれども、母の命を背かじとて、泣く/\又立ち出でける心の中こそ無慚なれ。
妓王、独り参らん事の餘りに心憂しとて、妹の妓女をも相具しけり。其の外白拍子二人、總じて四人、一つ車に取乗って、西八条殿へぞ参じたる。日頃召されつる所へは入れられずして、遥かにさがりたる所に、座敷しつらうてぞ置かれける。妓王、こは、されば何事ぞや。我が身に過つ事はなけれども、出され参らするだにあるに、あまつさへ座敷をだに下げらるゝ事の口惜しさよ。いかにせんと思ふを、人に知らせじと、抑ふる袖の隙よりも、餘りて涙ぞこぼれける。佛御前これを見て、あまりに哀れに覚えければ、入道殿に申しけるは、「あれはいかに、妓王とこそ見参らせ候へ。日頃召さぬ所にても候はゞこそ。これへ召され候へかし。さらずば、わらはに暇を賜べ。出で参らせん」と申しけれども、入道、やがて出で会い対面し給ひて、「いかに妓王、其の後は何事かある。佛御前が餘りにつれ/\〃げに見ゆるに、今様をも歌ひ、舞なんどをも舞うて、佛慰めよ」とぞ宣ひける。妓王、参る程では、ともかくも入道殿の仰せをば、背くまじきものをと思ひ、流るゝ涙を抑へつゝ、今様一つぞ歌うたる
佛もむかしは凡夫なり 我等もつひには佛なり
何れも佛性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ
と、泣く/\二返歌うたりければ、その座に竝み居給へる、平家一門の公卿・殿上人・諸大夫・侍に至るまで、皆感涙をぞ催されける。入道も、げにもと思ひ給ひて「時にとっては神妙にも申したり。さては舞も見たけれども、今日は粉るゝ事出で来たり。この後は、召さずとも常に参りて、今様をも歌ひ、舞などをも舞うて、佛慰めよ」とぞ宣ひける。妓王、とかうの御返事にも及ばず、涙を抑へて出でにけり。
妓王、「参らじと思ひ定めし道なれども、母の命を背かじと、つらき道に赴いて、二度うき恥を見つる事のくちをしさよ。かくてこの世にあるならば、又も憂き目に逢はんずらん。今はたゞ身を投げんと思ふなり」といへば、妹の妓女これを聞いて、「姉身を投げば、我も共に身を投げん」といふ。母とぢこれを聞くに悲しくて、泣く/\又重ねて教訓しけるは、「さようの事あるべしとも知らずして、教訓して参らせつる事の恨めしさよ。まことに、わごぜの恨むるも理なり。但しわごぜが身を投げば、妹の妓女も共に身を投げんといふ。若き娘どもを先立てて、年老い齢衰へたる母、命生きて何にかはせんなれば、我も共に身を投げんずるなり。未だ死期も来らぬ母に、身を投げさせんずる事は、五逆罪にてやあらんずらん。此の世は假の宿なれば、恥ぢても恥ぢても何ならず。たゞ永き世の闇こそ心憂けれ。今生で物をを思はするだにあるに、後生でさへ悪道へ赴かんずる事の悲しさよ」と、さめ/\〃とかきくどきければ、妓王涙をはら/\と流いて、「げにも、さやうに候はば五逆罪疑ひなし。一旦うき恥を見つる事のくちをしさにこそ、身を投げんとは申したれ。さ候はば、自害をば思ひ留り候ひぬ。かくて都にあるならば、叉も憂き目を見んずらん。今はたゞ都の外へ出でん」とて、妓王二十一にて尼になり、嵯峨の奥なる山里に、柴の庵をひき結び、念佛してぞ居たりける。妹の妓女、これを聞いて、姉身を投げば、我も共に身を投げんとこそ契りしか、さしてさやうに世を厭はんに、誰が劣るべきとて、十九にて様をかへ、姉と一所に籠り居て、ひとへに後世をぞ願ひける。母とぢこれを聞いて、若き娘どもだに様をかふる世の中に、年老い齢衰へたる母、白髪を付けても何にかはせんとて、四十五にて髪を剃り、二人の娘もろともに、一向専修に念佛して、後世を願ふぞあはれなる。
かくて春過ぎ夏たけぬ。秋の初風吹きねれば、星合の空を詠めつゝ、天の戸渡る梶の葉に、思ふ事書く頃なれや。夕日の影の西の山の端に隠るゝを見ても、日の入り給ふ所は西方浄土にてこそあんなれ。いつか我等も彼処に生れて、物も思はで過さんずらんと、過ぎにし方の憂き事ども思ひ続けて、たゞ盡きせぬものは涙なり。たそがれ時も過ぎぬれば、竹の編戸を閉じ塞ぎぎ、燈かすかにかきたてて、親子三人もろともに、念佛して居たる所に、竹の編戸をほと/\と打叩くもの出で来たり。その時尼ども肝をけし、「あはれ、これは、いひがひなき我等が念佛して居たるを妨げんとて、魔縁の来たるにてぞあるらん。昼だにも人も訪ひ来ぬ山里の、柴の庵の内なれば、夜ふけて誰かは尋ぬべき。僅かに竹の編戸なれば、あけずとも推し破らんことやすかるべし。今はたゞなか/\あけて入れんと思ふなり。それに、情をかけずして命を失ふものならば、年頃頼み奉る弥陀の本願を強く信じて、隙なく名号を唱へ奉るべし。声を尋ねて向へ給ふなる。聖衆の来迎にてましませば、などか引攝なかるべき。相構へて念佛怠り給ふな」と、互に心を戒めて、手に手を取り組み、竹の編戸をあけたれば、魔縁にてはなかりけり。佛御前ぞ出で来たる。
妓王、「あれは如何に、佛御前と見参らするは。夢かや。うつゝか」と云ひければ、佛御前、涙を抑へて、「かやうの事申せば、すべてこと新しうは候へども、申し状によってこそ召し返されても候ふに、女の身の云ふがひきなき事、我が身を心にまかせずして、わごぜを出させ参らせて、わらはがおし留められぶる事、今に恥しう傍痛くこそ候へ。わごぜの出でられ給ひしを見しに付けても、いつか又、我が身の上ならんと思ひ居たれば、嬉しとは更に思はず。障子に又、いづれか秋にあはではつべきと書き置き給ひし筆の跡、げにもと思ひ候ひしぞや。いつぞや又わごぜの召され参らせて、今様を歌ひ給ひしにも、思ひ知られてこそ候へ。その後は在所を何くとも知らざりしに、この程聞けば、かやうの様をかへ、一つ所に念佛しておはしつる由、あまりに羨しくて、常は暇を申ししかども、入道殿さらに御用ひましまさず。つく/\〃物を案ずるに、娑婆の栄花は夢の夢、楽しみ栄えて何かせん。人身は受け難く、佛教には会ひ難し。この度泥梨に沈みなば、多生曠劫をば隔つとも、浮び上らん事難かるべし、老少不定の境なれば、年の若きを頼むべきにあらず。出づる息の入るをも待つべからず。かげろふ稲妻よりもなほはかなし。一旦の栄花に誇って、後世を知らざらん事の悲しさに、今朝まぎれ出でてかくなりてこそ参りたれ」とて、被いたる衣をうち除けたるを見れば、尼になりてぞ出で来たる。「かやうに様をかへて参りたる上は、日頃の科をば許し給へ。許さんとだに宣はば、もろともに念佛して、一つ蓮の身とならん。それにも倒れ臥し、命のあらん限りは念佛して、往生の素懐を遂げんと思ふなり」とて、袖を顔に押し当てて、さめ/\〃とかきくどきければ、妓王涙を抑へて、「わごぜのそれ程まで思ひ給はんとは、夢にも知らず。うき世の中のさがなれば、身の憂きとこそ思ひしに、ともすればわごぜの事のみ恨めしくて、今生も後生も、なまじひにし損じたる心地にてありつるに、かやうに様をかへておはしつる上は、日頃のとがは露塵ほども残らず。今は往生疑ひなし。この度素懐を遂げんこそ、何よりも又嬉しけれ。わらはが尼になりしをだに、世にあり難き事のやうに、人もいひ、我が身も思ひ候ひしぞや。それは世を恨み、身を歎いたれば、様をかふるも理なり。わごぜは恨みもなく歎きもなし。今年はわづかに十七にこそなりし人の、それ程まで、穢土を厭ひ浄土を顕はんと、深く思ひ入り給ふこそ、まことの大道心とは覚え候ひしか。嬉しかりける善知識かな。いざ諸共に願はん」とて、四人一所に籠り居て、朝夕佛前に向ひ、花香を供へて、他念なく願ひけるが、遅速こそありけれ、皆往生の素懐を遂げけるとぞ聞えし。されば、かの後白河の法皇の長講堂の過去帳にも、妓王・妓女・佛・とぢ等が尊霊と、四人一所に入れられたり。ありがたかりし事どもなり。
(『平家物語』(上) 佐藤謙三校注 角川文庫版を底本としました)
兵法家伝書
兵法家伝書(一部)
柳生但馬守著
水月について書かれた部分。
「活人剣」(一部)
一 水月附其影之事
右敵と我との間に凡何尺あれば、敵の太刀我身にあたらぬと云つもりありて、其尺をへだてて兵法を遣ふ此尺のうちへ踏入りぬすみこみ、敵に近付くを月の水に影をさすにたとへて、水月と云也、心に水月の場を、立あはぬ以前におもひまうけて立あふべし。尺の事は口傳すべし。
一 水月神妙剣病気身手足此四の分別
一 水月は立合の場の座取也。 一 神妙剣は身の内の座取也。 一 身手足は 一 敵のはたらきを見る 一 我身のはたらき 一 去病は手利剣を見む為也
右しかれば極る所と、手利剣の有無を見る事専一なり。四は大体也。病をさる手利剣見む為也。病さらざれば、かならず病にとられて見そこなふなり。見そこなへば負なり。病とは、心の病也。心の病とは心のそこ/\にとどまるを云也。心を一太刀うつた所にとどめぬ様にすべし、心をすててすてぬ也。
一 敵のかまへ、太刀先き、我が方へむかはば、あぐる所につけてうつべし。
一 敵をうつとおもうて我身をうたすべし。敵が我をうちさへすれば、敵をばうつた物也。
一 水月の場をとれ、夫より心持を専にすべし。我レ場をとらんとするに、敵すでに先に場を取たらば、それをわがにすべし。つもりさへちがはねば、敵がまつて五尺も、先がよつて五尺も、敵と我との間の尺は同じ事也。人が場をとりたらば、とらせて置がよき也。場をとるとかたまりたるはあしし。身をうきやかに持つべし。
一 足ぶみも身のあてがひも神妙剣の座にはづれぬ様にすべし。立あはぬさきから此心がけ、わするべからず。
一 心似2水中月1、形如2鏡上影1
右之句を兵法に取用心持は水には月の影をやどす也。鏡には身のかげをやどす物也。人の心の、物にうつる事は、月の水にうつるがごとく也。いかにもすみやかにうつる物也。神妙剣の座を水にたとへ、我が心を月にたとへ、心を神妙剣の座にうつすべし。心がうつれば、身が神妙剣の座へうつる也。心がゆけば、身がゆく也。心に身はしたがふ物也。又鏡をば神妙剣の座にたとへ、我が身を影のごとくに、神妙剣の座へうつせと云心に、此句を用る也。手足を神妙剣の座にはづすなと云義也。月の水に影をうつすは、いかにもすみやかなる物也。はる/\〃高き天にあれども雲がのくといなやはや水にかげさす也。高天からそろ/\と連々にくだりてうつる物にあらず、目まぢ一ツせぬうちに、はやうつる也。人の心の物にうつる事、月の水に移がごとく、すみやかなど云たとへなり。意速如2水月鏡像1と云経文も月が水に移りて、さだかにあれども、水の底をさぐれば月はないと云儀理にはあらず、唯遠き天の上から、間なくそのまま移ると云心也。鏡に移るかたちも、何にても物がむかふと、はや移る也。すみやかなど云譬へなり。人の心の物に移る事如レ此なり。目まぢする間に、大唐までも心はゆくなり。とろ/\まどろみ入よとおもへば、千里の外の古郷へも、夢は行也。箇様に心の移り行事を水月鏡像にたとへて、仏は説給ふ也。経は呉音に読む程に水月とよむと也。
右の句を又兵法の水月にあてても同じ事也。我が心を月のごとく場へうつすべし。心が行ケば身がゆく程に、立あふてより鏡に影の移る如く場へ身をうつすべし。下作りにかねて心をやらねば身がゆかぬ也。場にては水月、身には神妙剣也。いづれも、身足手を移す心持は同事也。
無刀について
「無刀巻」
無刀とて、必しも人の刀をとらずしてかなはぬと云ふ儀にあらず、又刀取て見せて是を名誉にせんにてもなし。我が刀なき時、人にきられじとの無刀也。いで取て見せるなどと云事を、本意とするにあらず。
一 とられじとするを、是非とらんとするにはあらず
とられじとするを、是非とらんとするにはあらず、取られじとするをば、とらぬも無刀也。とられじ/\とする人は、きらふ事をばわすれて、とられまいとばかりする程に、人を切ル事ばなるまじき也。我はきられぬを勝とする也。人の刀を取るを、藝とする道にてはなし。われ刀なき時に人にきられまじき用の習也。
一 無刀と云は人の刀を取ル藝にはあらず
無刀と云は、人の刀を取ル藝にはあらず、諸道具を自由につかわんが為也。刀なくして人の刀をとりてさへ、我が刀とするならば、何か我が手に持て用にたたざらん。扇を持てなりとも、人の刀に勝べし。無刀は此懸りなり。かたなもたずして、竹杖ついて行く時人寸のながき刀をひんぬいてかかる時、竹杖にあしらひても、人の刀を取り若し又必ずとらずとも、おさへてきられぬが勝也。此心持を本意と思ふべし。
一 無刀は取る用にてもなし
無刀は取る用にてもなし。人をきらんにてもなし。敵から是非きらんとせば、取るべき也。取る事をはじめより本意とはせざる也。よくつもりを心得んが為也。敵と我が身の間何程あれば太刀があたらぬと云事を、つもりしる也。あたらぬつもりをよくしれば、敵の打太刀におそれず、身にあたる時は、あたる分別のはたらきあり。無刀は刀の我が身にあたらざる程にはとる事ならぬ也。太刀の我が身にあたる座にて取ル也。きられてとるべし。
一 無刀は人に刀をもたせ、我は手を道具にして仕合するつもり也
無刀は人に刀をもたせ、我は手を道具にして、仕合をするつもり也。しかれば刀は長く手はみぢかし、敵の身ぢかくよりて、きらるる程にあらずば、成間敷也。敵の太刀と我が手としあふ分別すべきにや。さあれば、敵の刀は我が身より外へゆきこして、われは敵の太刀の柄の下になりてひらきて、太刀をおそふべき心あてなるべきにや。時にあたつて、一様にかたまるべからず。いづれも身によりそはずば、とられまじき也。
一 無刀は当流に是を専一の秘事とする也
無刀は当流に是を専一の秘事とする也。身構へ、太刀構へ、場の位遠近、うごき、はたらき、つけ、かけ、表裏悉皆無刀のつもりより出る故に、是簡要の眼也。
一 大機大用
大機大用、用を用とよむべし。物の体用の時、用とよむべし。物ごとに体用と云事あり。体があれば、用がある者也。たとへば弓は体なり。ひくぞ、いるぞ、あたるぞと云は、弓の用也。灯は体なり、ひかりは用也。水は体也。うるほひは水の用なり。梅は体なり。香ぞ色ぞと云は用なり。刀は体也。きるつくは用也。しかれば機は体也。機から外へあらはれて、様々のはたらきあるを用と云也。しかれば機は体也。機から外へあらはれ、匂ひをはつするごとくに、機内にありて、其用外にはたらき、つけ、かけ、表裏、懸待、様々の色をしかけなどする事、内に構へたる機あるによつて、外へはたらき出る、是を用と申也。大明神、大権現、大菩薩などと云も、大は褒美の言葉也。大機なる故に、大用があらはるる也。禅僧の自由自在に身をはたらかし、何事をいふも、何事をするも、皆道理にかなふて理に通ずる、是を大神通と云、大機大用と云也。神通神変と云て、別に虚空から鬼神がくだりて、不思議をなすなどと云を、神変とはいはず、何事をするも、自由自在をはたらくを云也。数々の太刀構へ、表裏偽り諸道具のさばき、飛上りとびさがり、手にやいばをとり、足に蹴おとし、様々にはたらき、習の外に自在を得事を大用と云也。常々内に機を見せざれば、大用あらはれまじき也。座敷になをるとも上を先見、左右を見て、上より自然落る物あらば心懸ケ、戸障子のきはになをるとも、ころびかせんと心懸ケ、門戸出入とも出入に付て心をすてず、常々心にかくる、是皆機なり。此機常に内にある故に、自然の時、きどくの早速が出合是大用と云。しかれども此機がいまだ熟せざる時は、用があらはれぬ也。万の道に心懸がつもる功がかさなれば、機が熟して大用がはつする也。機がこり堅り居たれば、用がなき也。熟すれば全身全体にのびひろごり、手にも足にも耳にもその所々にて、大用がはつする也。此大機大用の人に逢ては、習のたけをつかふ兵法は手を上る事もならぬ物也。見づめなどと云事もなるべき儀也。大機の人の目にて、にらみたらば、そのまなざしに心をとられて、太刀をぬく手わすれて、ただあるべし。めまぢ一ツする程也とも、おくれたらば、はや負を取ルべし。猫がにらめばねずみが空よりおつる者也。猫の眼ざしに気をとられて、ふむ足をも忘れておつる者也。大機の人に逢て鼠の猫に逢たるごとく也。禅句に大用現前不レ存2軌則1と云、現前とは、大機の人の大用が前にあらはるると云義也。此大機大用の人は、そつとも習ひ法符にかかはらぬを、不レ存2軌則1と云也。軌則とは、習ひ法符法度の事也。万ツの道に、習法符法度とと云事有也。至極の人は、はらりとそれをはなるる也。自由自在をする也。法の外に自在する是を大機大用の人と云也。機と云は、内に油断なく、物ごとにおもひまふけて居ルを云也。しかれば其おもひつめたる機が、いかたまり凝かたまりて、かへつて、機にからめられて、不自由なり。いまだ機が熟せぬ故也。功をつめば、機が熟して、我が▲にとけひろごりて、自由を働く是を大用と云也。機とは、即気也。座によつて機と云。心は奥なり。気は口なり。枢機とて、戸のくるる也、心は一身の主人なれば、奥の座に居る者と心得べし。気は戸口に居て心を主人として、外へはたらく也。
心の善悪にわかるは、此機が、外へ出て善に行くも、此機によりて分るる也。戸口にきつとひかへ、たもちたる気を機と云也。人枢を明て外にて、悪をするも、善をするも、神変神通をはたらけば、外へ出て大用があらはるる也。何れも気と心得ては、ちがわぬ也。その有所によりて、いひかへた物也。又しかりとて、おく口と云て、身の内にいづくを奥と云、いづくを口なりと定る事なし。たとへなれば、おくとも口とも云也。人の物いふがごとく、いひはしむる所を口ともいひ、はたすをおくとも云べし。その言葉におく口の座敷はさだまらぬ也。
一 摩怒羅尊者の偈に云く
心隋2万境1転、転処実能幽
右の偈は参学に秘する事也。兵法此意が簡要なる故に引合て爰に記レ之、参学せざる人はとくと心得がたかるべし。萬境とは、兵法ならば敵の数々のはたらき也。其一ツ/\のはたらきに心がてんする也。縦へば敵が太刀をふりあぐれば、其太刀に心が転じ、右へまわせば右に心がてんじ、左へまわせば左へ転ずる。是を隋2万境1転ずとは云也。転処実能幽なりと云ふ所が兵法の眼なり。其所に心が跡を残さずして、こぎ行舟の跡しら波と云ごとく、あとはきへて、さきへ転じ、そつともとまらぬ処を転処実能幽なりと心得べし。幽なりとはかすかに見へぬ事也。心をそこ/\にとどめぬと云儀也。心が一処にとどまりたらば、兵法に負べき也。転ずる所に残たらば散々なり。心は色も形もなければ、目に元より見へぬ物なれども、着してとどまれば。心が其まま見ゆる者也。たとへば、しらぎぬのごとく也。紅をうつしとむれば紅になり、紫を移せば、むらさきの色に成者也。人の心も。物にうつせば、あらわれ見ゆる也。兒若衆に心をうつせば、やがて人が見しる也。おもひ内にあれば、色外にあらはるる也。敵のはたらきをば、能く見て底心を留レば、兵法にまくべき也。心をとむなと云事に此偈を引用る也。下の二句は略して不レ記レ之、参学して全篇はしるべし。兵法は上の二句にてすむ事也。
兵法の仏法にかなひ、禅に通ずる事多し、中に殊更着をきらひ、毎物にとどまる事をきらふ尤も是親切の所也。とどまらぬ処を簡要とする也。江口の遊女の西行法師の歌に答へし歌、
家を出る人としきけばかりの宿に 心とむなとおもふばかりぞ
兵法に此歌の下の句をふかく吟味して、しからんか。如何様の秘伝を得て手を遣ふとも。其手に心がとどまらば兵法は負べし。敵のはたらきにも、我手前にも、きつてもついても其所々にとどまらぬ、心の稽古専用也。
一 是柱不レ見レ柱、非柱不レ見レ柱
龍清和尚示レ衆云、是柱不レ見レ柱、非柱不レ見レ柱、是非意巳去了、是非裏薦取、此話を万の道におもひあて、爰に記置者也。是柱非柱とは是非が柱の立たごとく、是非善悪がむねの内にきつと立てある也。是さへ胸に置事ははつたといやなるに、非な事ならば、猶々いやなり。さる程に不レ見レ柱と云也。是非の柱を見るなと云儀也。此是非善悪が心の病也。此病が心を去ラねば何事をなすともよからざる也。さるによつて是非のうつにまじはりて居よ、是非のうちより至極の位に薦み登れと云儀也。仏法に達したりとも、是非をはなれたる眼、誠に難レ有事也。
一 法尚応捨何況非法
法尚応捨何況非法 此文の心は、法とは真実の正法也。正法也とも、一度さとり終りては、心にとむべからず、法尚応レ捨と也正法さへ悟て後是を胸にとどめず、胸の塵也。何況非法をやと也。正法さへ捨べし、いわむや非法ならば、是を胸に置べからずといへる也。一切の道理を見おはりて、皆胸にとどめず、はらり/\とすてて胸を空虚になして、平生の何となき心にて、所作をなす此位にいたらずば、兵法の名人とは難レ言也。兵法は我が家の事なれば、さして兵法と申也。弓射るに弓射る心がのかずば、弓の病也唯常の心に成て、太刀を遣ひ弓を射ば、弓に難なく、太刀自由なるべし。何事にもおどろかず、常の心よろづによし。平生の心を失ひて、何にても、其事をいはんとおもはば声ふるふべし。常の心を失ひて人の前にて物を書ならば、手ふるふべし。常の心とは、胸に何事も不レ残不レ置跡をはらりはらりとすて、胸が空虚になれば、常の心なり。儒書を読む人此虚心の道理を不レ心得してひとへに敬の字の儀に落る也。敬の字心は至極向上にはあらず、階の一二段にある修業也とぞ。
(岡山研同編著『柳生論語』昭和十六年刊を底本としました)
方丈記
方丈記(全文)
鴨長明
ゆく河のながれはたえずして、しかもゝとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたはかつきえかつむすびて、ひさしくとゞまる事なし。世中にある、人と栖と又かくのごとし。たましきのみやこのうちに棟をならべ、いらかをあらそへるたかきいやしき人のすまひは世々をへてつきせぬ物なれども、是をまことかと尋ぬれば、昔しありし家はまれなり。或はこぞやけてことしは作り、或は大家ほろびて小家となる。すむ人も是に同じ。ところもかはらず、人もおほかれど、いにしへ見し人は二三十人が中にわずかにひとりふたりなり。朝に死に、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似りける。不レ知、うまれ死ぬる人いづかたよりきたり、いづかたへか去る。又不レ知、かりのやどり、たが為にか心をなやまし、なにゝよりてか芽をよろこばしむる。そのあるじとすみかと無常をあらそふさま、いはゞあさがほの露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへどもあさ日にかれぬ。或は花しぼみて露なほきえず。きえずといへども、夕をまつ事なし。
予ものゝ心をしれりしよりこのかたよそぢあまりの春秋をおくれるあひだに、世の不思議を見る事やゝたび/\〃になりぬ。去ぬる安元三年四月(うつき)廿八日かとよ。風はげしくふきて、しづかならざりし夜、いぬの時許みやこの東南(たつみ)より火いできて西北(いぬい)にいたる。はてには朱雀門、大極殿、大学れう、民部省などまでうつりて、一夜のうちに塵灰となりにき。ほもとは樋口富小路とかや、病人をやどせるかりやよりいできたりけるとなん。ふきまよふ風にとかくうつりゆくほどに扇をひろげたるがごとくすゑひろになりぬ。とほき家は煙にむせび、ちかきあたりはひたすら焔を地にふきつけたり。そらには灰をふきたてたれば、火のひかりにえいじて、あまねくくれなゐなる中に、風にたへず、ふきゝられたるほのほ飛が如くして、一二町をこえつゝうつりゆく。其中の人うつし心あらむや。或は煙にむせびてたふれふし、或はほのほにまぐれてたちまちに死ぬ。或は身ひとつからうじてのがるゝも資財を取出るに及ばず。七珍萬寶さながら灰燼となりにき。その費えいくばくぞ。其のたひ公卿の家十六やけたり。ましてそのほかはかぞへしるにおよばず。惣てみやこのうち三分が一に及べりとぞ。男女しぬるもの数十人、馬牛のたぐひ邊際を不レ知。人のいとなみ皆おろかなるなかに、さしもあやふき京中の家をつくるとて、たからを費し、こゝろをなやます事はすぐれて、あぢきなくぞ侍る。又治承四年卯月のころ、中御門京極のほどよりおほきなるつじ風おこりて六條わたりまでふける事はべりき。三四町をふきまくるあひだにこもれる家ども、大きなるもちひさきもひとつとしてやぶれざるはなし。さながらひらにたふれたるもあり、けたはしらばかりのこれるもあり、かどをふきはなちて四五町がほかにおき、又かきをふきはらひて、となりとひとつになせり。いはむや、いへのうちの資財かずをつくしてそらにあがり、ひはた、ふきいたのたぐひ、冬のこのはの風に乱るが如し。ちりを煙の如く吹たてれば、すべて目もみえず。おびたゞしくなりとよむほどに、ものいふこゑもきこえず。彼の地獄の業の風なりとも、かばかりにこそはとぞおぼゆる。家の損亡せるのみにあらず、是をとりつくろふあひだに身をそこなひ片輪づける人かずもしらず。この風ひつじさるの方にうつりゆきて、おほくの人のなげきをなせり。つじ果はつねにふく物なれど、かゝる事やある。ただ事にあらず。さるべきものゝさとしかなどぞうたがひはべりし。又治承四年みな月の比、にはかにみやこうつり侍りき。いとおもひの外なりし事なり。おほかた、此の京のはじめをきける事は嵯峨の天皇の御時みやことさだまりにけるよりのち、すでに四百余歳をへたり。ことなるゆゑなくて、たやすく、あらたまるべくもあらねば、これを世の人やすからず、うれへあへるさま、実に理にもすぎたり。されど、とかくいふかひなくて、帝よりはじめたてまつりて大臣公卿みな悉くうつろひ給ひぬ。世につかふるほどの人、たれか一人ふるさとにのこりをらむ。つかさくらゐに思をかけ、主君のかげをたのむほどの人は、一日なりとも、とくうつろはむとはげみ、時をうしなひ、世にあまされてごする所なきものは、うれへながら、とまりをり。のきをあらそひし人のすまひ日をへつゝあれゆく。家はこぼたれて淀河にうかび、地はめのまへに畠となる。人の心みなあらたまりて、たゞ馬くらをのみおもくす。うしくるまをようする人なし。西南海の所領をねがひて東北の庄園をこのまず。その時おのづから事のたよりありて、つのくにの今の京にいたれり。所のありさまをみるに、「其の地狭く条理をわるに足らず。北は山にそひて高く、」南は海ちかくてくだれり。なみのおとつねにかまびすしく、しほ風ことにはげし。内裏は山の中なれば、彼の木のまろどのもかくやとなかなか/\やうかはりていうなるかたもはべりき。ひゝにこぼち、かはもせに、はこびくだすいへ、いづくにつくれるにかあるらむ。なほむなしき地はおほく、つくれるやはすくなし。古京はすでにあれて新都はいまだならず。ありとしある人は皆浮雲のおもひをなせり。もとよりこの所にをるものは地をうしなひてうれふ。今うつれる人は土木のわづらひある事をなげく。みちのほとりをみれば、車にのるべきは馬にのり、衣冠布衣なるべきは多くひたゝれをきたり。みやこの手振りたちまちにあらたまりて、たゞひなびたるものゝふにことならず。世の乱るゝ瑞相とかきけるもしるく、日をへつゝ世中うきたちて、人の心もをさまらず、たみのうれへつひにむなしからざりければ、おなじき年の冬なほこの京に帰り給にき。されどこぼちわたせりし家どもはいかになりにけるにか、悉くもとの様にしもつくらず。つたへきく、いにしへのかしこき御世にはあはれみを以て国をゝさめ給ふ。すなはち殿にかやふきて其のきをだにとゝのへず、煙のともしきをみ給ふ時はかぎりあるみつき物をさへゆるされき。是民をめぐみ、世をたすけ給ふによりてなり。今の世のありさま、昔になぞらへてしりぬべし。又養和のころとか、久くなりておぼえず。二年があひだ世中飢渇して、あさましき事侍りき。或は春夏大風洪水などよからぬ事どもうちつづきて、五穀こと/\〃くならず。空しく、春耕しなつううるいとなみありて秋かり、冬をさむるぞめきはなし。是によりて、国々の民、或は地をすてゝ、さかひをいで、或は家をわすれて山にすむ。さま/\の御祈はじまりて、なべてならぬ法どもおこなはるれど、更に其のしるしなし。京のならひ、なにわざにつけても、みなもとはゐなかをこそたのめるに、たえてのぼるものなければ、さのみやはみさをもつくりあへん。ねむじわびつゝさま/\の財物かたはしよりすつるが如くすれども、更にめみたつる人なし。たま/\かふる者は金をかろくし、粟をおもくす。乞食路のほとりにおほく、うれへかなしむこゑ耳にみてり。まへのとしかくの如くからうじてくれぬ。あくるとしはたちなほるべきかとおもふほとに、あまりさへ、えきれいうちそひて、まさゝまにあとかたなし。世人みな病死にければ、日をへつゝ、きはまりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり。はてにはかさうちき、足ひきつゝみ、よろしきすがたしたる物、ひたすらに、家ごとにこひありり。かくわびしれたるものどもの、ありくかとみれば、すなはちたふれふしぬ。築地のつら、道のほとりにうゑしぬる物のたぐひ、かずも不レ知。とりすつるわざもしらねば、くさきか世界にみち満て、かはりゆくかたちありさま、目もあてられぬことおほかり。いはむや、かはらなどには、馬車のゆきかふ道だになし。あやしきしづやまがつもちからつきてたきゞさへともしくなるゆけば、たのむかたなき人は、みづからが家をこぼちて、いちにいでゝうる。一人がもちていでたるあたひ、猶一日が命にだに不レ及とぞ。あやしき事はかゝる薪の中にあかきにつき、はくなど所々にみゆる木あひまじれり。是をたづぬれば、すべきかたなき物、ふる寺にいたりて、仏をぬすみ、堂のものの具をやぶりとりて、わりくだけるなりけり。濁悪世にしもむまれあひて、かゝる心うきわざをなん見侍し。又いとあはれなる事も侍き。さりがたき妻をとこもちたる物はそのおもひまさりてふかき物必さきだちて死ぬ。その故はわが身はつぎにして、人をいたはしくおもふあひだに、まれ/\えたるくひ物をもかれにゆづるによりてなり。さればあやこある物はさだまれる事にてあやぞさきだちける。又はゝの命つきたるをも不レ知していとけなき子のなほちをすひつゝふせるなどもありけり。仁和寺に隆曉法印といふ人かくしつゝ数も不レ知、死る事をかなしみて、そのかうべのみゆるごとにひたひに阿字をかきて縁を結ばしむるわざをなんせられける。人かずをしらむとて、四五両月をかぞへたりければ、京のうち、一条よりは南、九条より北、京極よりはにし、朱雀よりは東の路のほとりなるかしら、すべて四万二千三百あまりなんありける。いはむや、その前後にしぬる物おほく、又河原白河西の京、もろ/\の辺地などをくはへていはゞ際限もあるべからず。いかにいはむや、七道諸国をや。崇徳院の御位の御時、長承のころとか、かゝるためしありけりときけど、その世のありさまはしらず、まのあたりめづらかなりし事なり。又おなじころかとよ、おびたゞしくおほなゐふること侍き。そのさまよのつねならず。山はくづれて河をうづみ、海はかたぶきて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、いはほわれて谷にまろびいる。なぎさこぐ船は波にたゞよひ、道ゆく馬はあしのたちどをまどはす。みやこのほとりには在々所々堂社塔廟ひとつとして、またからず。或はくづれ、或はたふれぬ。ちりはひたちのぼりてさかりなる煙の如し。地のうごき、家のやぶるゝおと、いかづちにことならず。家の内にをれば、忽にひしげなんとす。はしりいづれば、地われさく。はねなければ、そらをもとぶべからず。龍ならばや雲にも登らむ。おそれのなかにおそるべかりけるは只地震なりけりとこそ覚え侍しか。かくおびたゞしくふる事はしばしにてやみにしかども、そのなごりしばしはたえず。よのつねおどろくほどのなゐ、二三十度ふらぬ日はなし。十日廿比すぎにしかば、やう/\まとほになりて、或は四五度、二三度、若は一日まぜ、二三日に一度など、おほかたそのなごり三月ばかりや侍りけむ。四大種のなかに、水火風はつねに害をなせど、大地にいたりてはことなる変をなさず。昔齊衡のころとか、おほなゐふりて、東大寺の仏のみぐしおちなど、いみじき事どもはべりけれど、なほこのたびにはしかずとぞ。すなはちは人みなあぢきなき事をのべて、いさゝか心のにごりもうすらぐとみえしかど、月日かさなり、年へにしのちはことばにかけていひいづる人だになし。すべて世の中のありにくゝ、わがみとすみかとのはかなくあだなるさま、又かくのごとし。いはむや、所により、身のほどにしたがひつゝ、心をなやます事はあげて計ふべからず。若おのれが身かならずして、權紋門のかたはらにをるものはふかくよろこぶ事あれども、おほきにたのしむにあたはず。なげきせちなるときもこゑをあげてなくことなし。進退やすからず。たちゐにつけて、おそれをのゝくさま、たとへば、すゞめのたかのすにちかづけるがごとし。若まづしくして、とめる家のとなりにをるものは、あさゆふすぼきすがたをはぢて、へつらひつゞいでいる。妻子僮僕のうらやめるさまをみるにも、福家の人のないがしろなるけしきをきくにも、心念々にうごきて、時としてやすからず。若せばき地にをれば、ちかく炎上ある時其災をのがるる事なし。若辺地にあれば往反わづらひおほく、盗賊の難はなはだし。又いきほひある物は貪欲ふかく、独身なる物は人にかろめらる。財あれば、おそれおほく、貧ければ、うらみ切なり。人をたのめば、身他の有なり。人をはぐくめば、心恩愛につかはる。世にしたがへば、身くるし。したがはねば、狂せるにゝたり。いづれの所をしめて、いかなるわざをしてか、しばしも此の身をやどし、たまゆらも、こゝろをやすむべき。
わがみ乳かたの祖母の家をつたへて、ひさしく彼の所にすむ。其後縁かけて、身おとろへ、しのぶかた/\〃しげかりしかど、つひに跡とむる事をえず、みそぢあまりにして、更にわが心と一の菴をむすぶ。これをありしすまひにならぶるに十分が一なり。居屋ばかりをかまへて、はか/\しく屋をつくるにおよばず。わづかに築地をつけりといへども、かどをたつるたづきなし。たけをはしらとして、車をやどせり。雪ふり、風ふくごとに、あやふからずしもあらず。所かはらちかければ、水難もふかく、白浪のおそれもさわがし。すべてあられぬよをねんじすぐしつゝ、心をなやませる事三十余年なり。其間をり/\のたがひめにおのづからみじかき運をさとりぬ。すなはちいそじの春をむかへて家を出で、世をそむけり。もとより妻子なければ、すてがたきよすがもなし。身に官禄あらず。なにゝ付けてか執をとゞめん。むなしく、大原山の雲にふして、又五かへりの春秋をなん経にける。こゝに六そぢの露きえがたにおよびて、更にすゑはのやどりをむすべる事あり。いはゞ旅人の宿をつくり、老たるかひこのまゆをいとなむがごとし。是をなかごろのすみかにならぶれば、又百分が一におよばず。とかくいふほどに齢は歳々にたかく、すみかはをり/\にせばし。その家のありさま、よのつねにもにず。ひろさはわづかに方丈、たかさは七尺がうちなり。所をおもひさだめざるがゆゑに地をしめてつくらず。つちゐをくみ、うちおほひをふきて、つぎめごとにかけがねをかけたり。若心にかなはぬ事あらば、やすくほかへうつさむがためなり。そのあらためつくる事いくばくのわづらひかある。つむところわづかに二両。くるまのちからをむくゆるほかには、さらに他のようとういらず。いま日野山のおくにあとをかくしてのち、東に三尺余のひさしをさして、しばをりくぶるよすがとす。南にたけのすのこをしき、その西にあかたなをつくり、北によせて、障子をへだてゝ阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢をかけ、まへに法花経をおけり。東のきはにわらびのほどろをしきて、よるのゆかとす。西南に竹のつりたなをかまへて、くろきかはご三合をおけり。すなはち和歌、管絃、往生要集ごときの抄物をいれたり。かたはらに、琴琵琶おの/\一張をたつ。いはゆるをり琴つぎびはこれなり。かりのいほりのありやうかくの如し。その所のさまをいはゞ、南にかけひあり。いはをたてゝ水をためたり。林の木ちかければ、つま木をひろふにともしからず。名を外山といふ。まさきのかつらあとうつめり。谷しげけれど西はれたり。観念のたよりんきにしもあらず。春はふぢなみをみる。紫雲のごとくして西方にゝほふ。夏は郭公をきく。かたらふごとに、しでの山ぢをちぎる。あきはひぐらしのこゑみゝに満てり。うつせみのよをかなしむかときこゆ。冬は雪をあはれぶ。つもりきゆるさま罪障にたとへつべし。若念仏物うく、読経まめならぬ時は、みづからやすみ、身づからおこたる。さまたぐる人もなく、又はづべき人もなし。ことさらに無言をせざれども、独りをれば、口業をゝさめつべし。必ず禁戒をまもるとしもなくとも境界なければ、なにゝつけてかやぶらん。若又あとのしらなみにこの身をよするあしたには、をかのやにゆきかふ船をながめて、満沙彌が風情をぬすみ、もしかつらのかぜはをらならすゆふべには濤陽のえをおもひやりて源都督のおこなひをならふ。若余興あれば、しば/\松のひゞきに秋風楽をたぐへ、水のおとに流泉の曲をあやつる。芸はこれつたなけれども人のみゝをよろこばしめむとにはあらず。ひとりしらべ、ひとり詠じて、みづから情をやしなふばかりなり。又ふもとに一のしばのいほりあり。すなはち、この山もりがをる所なり。かしこにこわらはあり。とき/\きたりてあひとぶらふ。若つれ/\なる時はこれをともして遊行す。かれは十歳これは六十。そのよはひことのほかなれど、心をなぐさむることこれおなじ。或はつばなをぬき、いはなしをとり、又ぬかごをもり、せりをつむ。或はすそわの田ゐにいたりておちほをひろひて、ほくみをつくる。若日うらゝかなれば、みねによぢのぼりて、はるかにふるさとのそらをのぞみ、こはた山、ふしみのさと、鳥羽、はつかしをみる。勝地はぬしなければ、心をなぐさむるにさはりなし。あゆみわづらひなく、心とほくいたるときは、これよりみねつゞき、すみ山をこえ、かさとりをすぎ、或は石間にまうで、或は石山ををがむ。若は又あはづのはらをわけつゝ蝉歌のおきながあとをとふらひ、たなかみ河をわたりてさるまろまうちきみがはかをたづぬ。かへるさにはをりにつじぇつゝさくらをかり、もみぢをもとめ、わらびをゝり、このみをひろひて、かつは仏にたてまつり、かつは家づとにす。若夜しづかなれば、まどの月に故人をしのび、さるのこゑにそでをうるほす。くさむらのほたるはとほく真木の島のかゝりびにまがひ、あか月のあめは、おのづからこのはふくあらしににたり。山どりのほろとなくをきゝても、ちゝかはゝかとうたがひ、みねのかせぎのちかくなれたるにつけても、よにとほざかるほどをしる。或は又うづみ火をかきおこして、おいのねざめのともとす。おそろしき山ならねばふくろふのこゑをあはれむにつけても、山中の景気、をりにつけてつくる琴なし。いはむや、ふかくおもひ、ふかくしらむ人のためにはこれにしもかぎるべからず。おほかた、この所にすみはじめし時は、あからさまとおもひしかども、いますでにいつとせをへたり。かりのいほりもやゝふるさととなりて、のきにくちばふかく、つちゐにはこけむせり。おのづから、ことのたよりに、みやこをきけば、この山にこもりゐてのち、やむことなき人のかくれ給へるも、あまたきこゆ。まして、そのかずならぬたぐひ、つくしてこれをしるべからず。たび/\の炎上にほろびて、おそれなし。ほどせばしといへども、よるふすゆかあり、ひるゐる座あり。一味をやどすに不足なし。寄居はちひさきかひをこのむ。これ身しれるによりてなり。みさごはあらいそにゐる。すまはち人をおそるゝがゆゑなり。われまたかくのごとし。身をしり、よをしれゝば、ねがはず、わしらず。たゞしづかなるを望みとし、うれへ無きをたのしみとす。惣てよの人のすみかをつくるならひ、必ずしも身のためにせず。或は妻子眷属の為につくり、或は親昵朋友の為につくる。或は主君師匠および、財宝牛馬の為にさへこれをつくる。われ今身の為にむすべり、人の為につくらず。ゆゑいかんとなれば、今のよのならひ、此の身のありさま、ともなふべき人もなく、たのむべきやつこもなし。縦ひろくつくれりとも、たれをやどし、たれをかすゑん。夫人のともとあるものは、とめるをたふとみ、ねむごろなるをさきとす。必ずしもなさけあるとすなほなるとをば愛せず。只絲竹花月をともとせんにはしかじ。人のやつこたる物は賞罰はなはだしく、恩顧あつきをさきとす。更にはくゝみあはれむと、やすくしづかなるとをばねがはず。只わが身を奴婢とするにはしかず。いかゞ奴婢とするとならば、若なすべき事あれば、すなはちおのが身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人をしたがへ、人をかへりみるよりやすし。若、ありくべき事あれば、みづからあゆむ。くるしといへども、馬くら牛車と心をなやますにはしかず。今一身をわかちて二の用をなす。手のやつこ、足ののりものよくわが心にかなへり。心身のくるしみをしれゝば、くるしむ時はやすめつ、まめなればつかふ。つかふとてもたび/\すぐさず。物うしとても心をうごかす事なし。いかにいはむや、つねにありき、つねにはたらくは、養性なるべし。なんぞいたづらに、やすみをらん。人をなやますは又罪業なり。いかゞ他の力をかるべき。衣食のたぐひ又おなじ。ふぢの衣、あさのふすま、うるにしたがひて、はだへをかくし、野辺のをはぎ、みねのこのみ、わづかに命をつぐばかりなり。人にまじはらざれば、すがたをはづるくいもなし。かてともしければ、おろそかなる報をあまくす。惣てかやうのたのしみとめる人にたいしていふにはあらず。只わが身ひとつにとりて、むかし今とをなぞらふるばかりなり。夫三界は只心ひとつなり。心若やすからずば、象馬七珍もよしなく、宮殿楼閣ものぞみなし。今さびしきすまひ、ひとまのいほり、みづからこれを愛す。おのづからみやこにいでゝ、身の乞匈となれる事をはづといへども、かへりてここにをる時は他の俗塵にはする事をあはれむ。若、人このいへる事をうたがはゞ、魚と鳥とのありさまを見よ。魚は水にあかず。いをにあらざれば、その心をしらず。閑居の気味も又おなじ。すまずして、誰かさとらむ。抑一期の月かげかたぶきて、余算の山のはにちかし。たちまちに三途のやみにむかはむとす。なにのわざをかゝこたむとする。仏のをしへ給ふおもむきは事にふれて執心なかれとなり。今草庵をあいするも咎とす、閑寂に着するもさはりなるべし。いかゞ要なきたのしみをのべて、あたら時をすぐさむ。しづかなるあか月、この理をおもひつゞけて、みづから心にとひていはく、よをのがれて、山林にまじはるは心をゝさめて、路をおこなはむとなり。しかるを汝すがたは聖人に似て心はにごりにしめり、すみかはすなはち浄名居士のあとをけがせりといへども、たもつところはわづかに周梨槃特が行にだにおよばず。若、これ貴賤の報のみづからなやますか、はた又妄心のいたりて狂せるか。そのとき、心更にこたりる事なし。只かたはらに舌根をやとひて不請の阿弥陀仏両三遍申て、やみぬ。
于時建暦のふたとせやよひのつこもりごろ、桑門の蓮胤とやまのいほりにしてこれをしるす。
(岩波文庫417 昭和42年41刷版を底本としました。)
墨水消夏録
墨水消夏録(一部)
伊東蘭洲著
巻之一 (一部)
吉原
北条家の浪人庄司甚右衛門といふもの、慶長の始、駿河国旅店のあるじ二十五人打寄、相談の上、江戸御城下、朝日のごとく繁昌のよし、各抱置し旅人の足あらひ女召連下り、遊女宿となりなば、抜群豊饒の身となるべし、と皆々一同して、女どもを召つれ、江戸に下り、御城下に入ては御咎めもあらんと恐れて、今の荒井宿の浜辺の出町の地をかりて、表に紺の木綿の三尺幅に仕立たる長暖簾の端に、鈴を附置、客来りて暖簾を動すと鈴のなるを合図に、女ども出たるを見たてゝ、其宿に思ひ/\に客上りし故、此所を鈴が森と名づけたる也、森とは、此町の入口に大井社の森あれば、なぞらへていふなり、神君、品川筋御鷹野御成の節、此処の浜辺に床几を置、それにざし給ひ、彼遊女どもに茶をはこばせ被2召上1、且又、栖レ首の盃にて御酒被2召上1候事あり、其後、右二十五人のものども御願申、今の京ばし具足町の東、葦沼の汐入を拝領し、築立、その地どり丸く、一方口に南の片側を角町、北の片側を柳町と名づけ、中一筋の通りを中の町と名づく、此一筋に、表に釜を懸おき、入来る客に茶をうる、是を茶屋といふ、両町の内、又南北の道をつけゝり、その町十文字をなし、丸きうちに十字の町あるゆへ、あだ名を轡町といひ、雅人はこれを十字街といふ、そのぐるりも通りにして、下品の女を置く、これを河岸傾城といふ、扨その町のうちに、揚屋とて、客女郎を招き遊ぶ宿あり、是はもはや繁花になりての事也、その頃より遥後迄も、町人の類中々此所に至る事決てなし、悉く御家の武士、諸家の陪臣也、とかく武士たるものならでは、通はざる事なりし、其揚屋の勝手の方に馬屋を立置き、馬五疋づゞ飼置、暁に客の帰時、その馬に鞍置きさせて乗らせ、送りし也、按ずるに、此事は至て古風の事也、曾我物語に、大磯の遊女虎が許より、十郎祐成、彼亭の馬にて帰りし事あれば、殊勝の体也、然して、その揚屋にたちばなやといふ最上の者也、依レ之、その頃正月の始、猿引其揚屋中の馬屋をはらひいたしに来る時、まづ橘屋が馬やよりさるを舞始めし也、依レ之、末代、揚屋に馬は飼ざれども、今にいたる迄、毎年正月、始て猿引吉原町に至る時は、まづ揚屋町橘屋がかたより舞始る也、然るに、日を追ひ年を重て、遊女宿こゝかしこに出来、糀町などにもあり、かの庄司甚右衛門、分別の上、今の堺町の東に於て、葦沼谷地拝領し、江戸中に散在したる遊女宿一所にありたき由願処、凡之通谷地被2下置1、かの京橋柳町、角町の本店をはじめ、所々より集りけるものどもをよせて、其町五町にとり立、その名を吉原町といふ、其五町は、京町、角町、江戸町、同二丁目、揚屋町、都合五町、一方口の門を大きく作り、これを大門口といふ、その中通を中の町といふ、されば、今に大門通りの古名のこれり、その始、駿河国より下れる二十五人のもの、各廿四五歳、三十歳を過ぬものども也、その内、庄司甚右衛門、四十五六歳ばかりにて下りける故、一列の中にて、彼の甚右衛門をつね/\〃おやじとよびける、然るに、此五町に作りし町の一二丁西の方、殊の外葭沼の汐入にて、路次あしく、客人通ひかねけるゆへ、甚右衛門世話をやきて、水をはき、橋をかけて往来せしむ、親父がせわをやき懸たる橋故、その名をおやじばしとよび、終にはしの名となり、今の古名となれり、右五町に取立し吉原町に至て、公儀より厳重に被2仰付1、御書付二通被2下置1、其文、医院両道の輩の外、のりものにて出入不レ可レ致儀一通、何方にても、遊女抱置もの有レ之候はゞ、其女可2召取1候、委被2下置1、其名主、年寄、家主、急度曲事可レ被2仰付1旨一通、被2下置1、然処、明暦三年正月の大火事に、其両通も焼失いたし、此焼後、吉原町遠処へ可レ被レ遺と有て、まづ今の本所弥勒寺の所、その頃、未荒地にて有し故、暫くかの地に移り、夫より今の浅草観音堂後、千束といふ田地へ移さる、此時、引料として、公儀より金三千両被2下置1、又其後、総がこひ、外廻りの大溝水吐ふしん料として、公儀より金百両被2下置1、かの大火に焼失したる御書付二通、再被2下置1候様に願候へども、不2相叶1、今は高札二枚に、右御書付を記して、大門の入口、堤の北方に立置、然して、今の処に移す頃に至て、遊女も数多く成候に付、町数を増し、江戸町二丁目、角町、京町、揚屋町、伏見町、堺町、新町、中の町と立、伏見町、新町、堺町は、後に割合したる也、此浅草に移りてより、新吉原町といふ、原安適曰、我若き時、今の京町に、昔の月行事帳の表書を見るに、柳町と記しありと云々、御入国以後、江戸中所々に、追レ日遊女宿出来候節、御年寄中、御停止にも可レ被2仰付1也、諸武士惰弱にも相成こといかゞ、と被レ窺候処、神君上意に、日本国中の諸武士、末々の者に至る迄、江戸に来て、諸国になき楽をせんと存じ、いさみよるこそよけれ、不レ苦、其まゝに永く差置べし、とのよしにて、末代に至り、遊女町御城下並に被レ置と云々、此事、老輩の申置所なり、と事跡合考に見へたり、
庄司甚右衛門伝
庄司甚右衛門 相州小田原の産、始その名を甚内といふ、時に高坂甚内と云大盗ありしゆへに、甚右衛門と改、正保元年甲申十一月十八日没、年六十九、
子庄司甚右衛門 子庄司甚之丞
子庄司又左衛門 子庄司又左(傍注右イ)衛門
子庄司又左衛門(享保中名勝富)
洞房語園に云、庄司甚右衛門は小田原の産にて、父は北条家に仕へしもの也、天正十八年、小田原落去の砌に、かの甚右衛門、十五歳、折節、病痾にかゝり、その家来の介抱により江戸に下り、柳町に所縁ありて居住しけるに、傾城屋になり下り、これを恥て、一生父の名字をいはず、別に出所を知りたるものありて、子孫にかtり伝へしことありといへども、甚右衛門本意に違ふゆへに、しらさずといふ、甚右衛門姉はおしやうといひて、氏政公の寵妾なり、甚右衛門、異名を君がてゝ、又おやぢといふ故に、元和の頃の小唄に、
おやぢが前の竹れんじ、其一ふしのなつかしや/\、
おやぢが前の竹れんじ、せめて一夜はちぎらばや/\、
親父が前の竹連子、いくよも千代もちぎろもの、千代も八千代も契ろもの、
按ずるに、いくよ、八千代ともに、甚右衛門が家にて名とりの太夫の名をいひこめたり、
寛永十五年板本あづまものがたりといふ元吉原の細見記に、左の如くあり、
江戸町 おやぢ内
はし あはぢ まんご まんよ おはな お まん では おせん こはた よしの
たいふ いおり(とし廿三)
庄司甚右衛門子孫、代々庄司又左衛門といふ、その内、勝富、道如斎と号す、享保五年に洞房語園といふ書を著す、
喧(正しくは女扁)鈍
洞房語園に云、寛文二年寅秋中より、吉原にはじまれり、その頃、江戸町二丁目仁右衛門といふもの、温飩、蕎麦きりを一人まへの弁当にして、その価銀五分づゝに売出せり、是を、はし女郎の下直なるになぞらへて、喧鈍といへり、喧は妍とおなじ、嬋妍の妍にて、かほよしなり、鈍はにぶき也、因て河岸女郎のやすきをいふなり、後、麺類なるゆへ、改て飩につくる也、
盆燈籠
吉原角町中万字屋玉菊追善よりはじまる、此玉菊、其時の名妓にて、大酒をこのみ、遂に酒のために病をひきおこし、享保十一年三月二十九日、身まかりぬ、光感(傍注戒イ)寺といふに葬る、その七月、新盆に新霊を祭るため、中の町俵屋虎文、揚屋町松屋八兵衛、発揮にしたるなり、岩本乾什といふ俳諧の宗匠、玉菊追善のため、浄瑠璃水調子を作りしは、享保十三年、三回忌の時也、十寸見河東、山彦源四郎二人にてふしをつけ、これをうかむ瀬、一名水調子と名付てかたらしむ、玉菊は日頃人愛ありしものにて、一廓中こぞりて、かれが死たるをおしみ、盆中いひ合せて、中の町の茶屋の軒端に、だんだらすじと提灯をともし、其闇夜を照らす、三回忌の節は、見事のきりこ燈籠をともしけるが、珍らしとて、格別に賑ひけるにより、段々美を尽し、細工を極る事とはなれり、是吉原盆燈籠の初也、
[頭書]如道人いふ、目もとで拾ふのべ紙の、ふたをりみをり年をへて、いふた言葉をかぞふれば、なくより外の琴の音も、二十五絃の暁に、くだけて消る玉菊の、本来空にかへる身は、とうろもいらずかきたてず、ありし夜見せを其まゝに、と乾什が筆の跡、今につたへたり、玉菊は二十五歳にて身まかりし、
清掻
清掻と書てすがゝきと訓ず、和琴に、所謂、源氏物語に、あづまをすがゝきて、など見へたり、清掻にて、頌歌なく曲をかきならすをいふか、昔のめくら法師等、和琴の清掻を転じて、三絃の手事にうつしたるを、又略してひきたるが、吉原に残れるならん、吉原大全に、元吉原の頃の小唄に、道のほとりの二もと柳、又、白き馬にめしたるとのごよ、などいふを、新吉原に移りし頃、専ら唄ひて、合の手にすがゝきのみひき伝ふ、昔し吉原の名物に、つぎぶしと云小うたあり、今は伝はらず、京島原のなげぶし、大坂新町のまがきぶし、江戸吉原のつぎぶし、是を音曲の三名物たるよし、みをつくしに見へたり、按ずるに、揚升庵集に、三絃は元の時にはじまるといふ、沈純中が詩に、抱得三絃馬上弾、といふ、教坊記曰、平人女以客■選入、内者教2習琵琶、三絃、箜篌、箏1、謂2芻(正しくは手扁)弾家1、永禄年中、琉球より初めてわたる、蛇皮を以てはる、泉州堺の盲人中小路といふものにはらせたり、其後、虎沢といふ盲人、本手、破手と云術をひきはじむ、三絃を手練し、小唄にのす、そのころは浄瑠璃節出来たり、これをのせて弾は、沢角がはじめなり、其のち、大坂に、加賀都、城秀両人、其術を得て、江戸に下りて、加賀都は柳川検校となり、城秀は八橋検校となり、当時、八橋、柳川流と称する也、三絃といふは、三の線ある故也、三の字をさみといふは、閉口の音にて、はねがなをみといふ也、目論をもくろみ、燈心をとうしみ、御帯をおみをび、御袷をおみあはせの類なり、別に味の字を用ゆべからず、
[頭書]道のちまたのふたもと柳、風にふかれてどちらへなびこ、おもふとのごのかたへなびこふ、
いとゆふをわけて、柳手折は誰なるぞ、しろき駒にめしたる殿御よな、
古老のかたりしを記得たるまゝ、こゝにかきつけぬ、如道人
巻之二 (一部)
ぞめき
元禄二年板本吉原徒然草に、諷来(ぞめき)とはかな山言葉なり、役にたゝぬ金の出る時を、ぞめきといふと云々、又、遊女の私夫をまぶといふも、かな山ことばなり、松永貞徳が油糟に、かな山のまぶと申がほれ心、といふ句あり、
鏡池
橋場総泉寺の脇にあり、昔は池の形丸く、鏡に似たるゆへなり、今は蘆草茂りたる沼水となれり、浅茅が原といふも、此あたり也、相伝ふ、此池に梅若の姿のうつりて見えければ、そのまゝ母のとび入てむなしくなりぬ、遺佚が歌に、
哀さは向ふ鏡が池の面に 昔をうつすかげは見えねど
池のわきに塚あり、これは、吉原堺町雁金屋の遊女、采女が塚なり、彼采女は天のなせる麗質なれば、紅粉のかりなる色をもちゐず、名妓のきこえあり、ある僧のこれに心をはこび、采女も深くこれをしたひければ、主人これをきゝ入、来る客のさわりなりとて、きびしくこれを制してちかづけず、ことに人を忍べる出家のことなれば、一身にせまり、ある夜、采女が格子の前に来て、短刀をぬき、自その咽をつきて死せり、住所も知れぬ僧なれば、日本堤へ出して、そのかばねを捨たり、今すて坊主といふは、これよりはじまる也、采女は、さらぬだに、此世おまゝならぬつらさ、恋しさのわりなきに、人しれず袂をぬらし、思ひわびたるに、眼前にかゝるありさまを見しより、胸ふさがり、たへ入けれど、とかくせしほどに、息は出たれども、心は心ならず、伝聞く、奈良の御門につかへ奉りし采女は、恐れながらもきみをうらみ奉り、さる沢の池に身を失ふ、昔と今と時こそかはれ、その人と我とかたちこそちがへ、思ひの切なる事、采女といふ名はおなじ事也、いかで昔におとるべき、と深夜に楼上をしのび出て、浅茅原に行、鏡が池に身をしづめけり、時に、年わづかに十七、夜明て、この地の樵客、牧夫ども、池のほとりの松に小袖の掛あるを見て、怪てこれを見るに、小袖をかけたる枝に、短冊をさげてあり、其歌に、
名をそれとしら(傍注、いは歟)ずともしれ 猿沢の跡を鏡が池に沈めば
かくありしより、采女としられけり、所のものも哀におもひ、死骸をとりあげて、此処に埋たる也、
春慶院
浅草三谷町也、こゝに高尾の墓あり、按ずるに、二代目の高尾なり、これを万治高尾といふ、又伊達高尾ともいふ、下野国塩原郡塩釜村百姓長助といふものゝむすめなり、万治の頃、京町三浦屋の別荘、浅草三谷町にあり、高尾病に伏して、此別荘に居る、其頃、春慶院常念仏ありて、近く聞ゆ、高尾病体にてこれをきゝ、もし身まかりなば、この寺に埋葬せよといひ置て、万治二年已亥冬十二月五日、此別荘にてむなしくなりぬ、
碑面額に楓葉の紋をほり、其下に法号を記し、傍に辞世の句あり、
転誉妙身 万治二年十二月五日
辞世 寒風にもろくもくずる紅葉かな
按ずるに、三浦が寺は浅草諏訪町榧寺なれど、彼遺言によりて、この寺に葬る、此高尾を伊達公に殺されしといふは、甚妄説也、伊達公、高尾を見受の志あり、其半に病て死せり、故に薄雲を見受あり、この住僧いふ、高尾の墓四方塔にて、極念入たる墓なり、殊に四五年以前、総墓地の地形を直すに、高尾の石塔もしばらくとりのけたるに、其下は石室なり、これ葬式も伊達公よりいだされし也、貞享四年板本江戸鹿子にも、二代高尾、病によりて死せり、と記す、
弔2高雄墓1
一自2佳人去1、苔碑幾載経、唯看楓樹色、今日為レ誰青、
高尾といふ名十一代あること、別に高尾考あり、こゝに略せり、
(中央公論社刊『燕石十種』第二巻を底本としました。)

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