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葉隠
葉隠(前半)
聞書一 教訓
この『葉隠』は、ご存知のように『死ぬこととみつけたり』のモチーフとなった書で、全文を紹介したいところですが、長文の大作ゆえ、一章だけを紹介。
一、武士たる者は、武道を心懸べき事、不レ珍といへども、皆人油断と見へたり。其子細は、「武道の大意は何と御心得候哉」と問懸たる時、言下に答る人稀也。兼々胸に落着なき故也。偖は、武道不心懸のこと知られ申候。油断千万の事也。
一、武士道と云は、死ぬ事と見付たり。二つ/\の場にて、早く死方に片付ばかり也。別に子細なし。胸すわつて進む也。図に当らず、犬死などいふ事は、上方風の打上たる武道なるべし。二つ/\の場にて、図に当るやうにする事は不レ及事也。我人、生る方がすき也。多分すきの方に理が付べし。若図に迦れて生たらば、腰ぬけ也。此境危き也。図に迦れて死たらば、気違にて恥には不レ成。是が武道の丈夫也。毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく家職を仕課すべき也。
一、奉行人は一向に主人を大切に歎く迄也。是最上の被官也。御当家御代々名誉の御家中に生出、先祖代々御厚恩の儀を不レ浅事に奉レ存、身心を擲ち、一向に奉レ歎ばかり也。此上に、智恵・芸能も有て、相応/\の御用に立は猶幸也。何の御用にも不レ立、無調法千万の者もひたすらに奉レ歎志さへあれば、御頼切の御被官也。智恵・芸能ばかりを以御用立は下段なり。
一、生付によりて、即座に智恵の出る人も有。退て枕をわりて案じ出す人も有。此本を極て見るに、生付に馬鹿はありとも、四誓願に押当、私なく案ずる時、不思議の智恵も出る也。皆人、物を深く案ずれば遠きことも案じ出す様に思へども、私を根にして案じ廻し、皆邪智のはたらきにて悪事と成事のみ也。愚人の習ひ、私なく成事成がたし。乍レ去、事に臨で、先づ其事を差置、胸に四誓願を押立、私を除て工夫を致さば、大迦あるべからず。
一、我智恵一分の智恵ばかりにて万事を成す故、私より天道に背き、悪事を成也。脇より見たる所、きたなく、手弱く、せばく、働かざる也。真の智恵にて了簡する時、道に叶ふもの也。脇より見る時、根つよく、慥に見ゆる也。たとへば、大木の根多がごとし。壱人の智恵は突立たる木のごとし。
一、古人の金言・仕業などを聞覚ゆるも、古人の智恵に任する為なり。私を立まじき為也。私の情識を捨て、古人の金言を頼み、人に談合する時は、迦なく、悪事有べからず。勝茂公は、直茂公の御智恵を御借被レ成候。此事『御咄聞書』に有。難レ有御心入也。又何がしは、弟数人家来にして召置、江戸・上方罷越候時も召連、常住日々の公私の事を弟共と談合有り。それゆへ迦なしとも聞伝たる也。
一、相良求馬は、御主人と一味同心に、死身に成て勤たる者也。一人当千と云べし。一とせ、左京殿水ケ江屋敷にて大僉議有、「求馬切腹」との沙汰也。其比、大崎に多久縫殿下屋敷、三階の茶屋有り。是を借受て、佐賀中の徒者共を集め、あやつりを企、求馬人形をつかひ、毎日毎夜、酒宴遊興、左京殿屋敷を見おろし、大さわぎ仕候。是難に進み、御為に臨で、腹を切覚悟、いさぎよきこと共也。
一、勝・宮企み、内、被2引入1れ筆取也。後、押込の僉議に及で、内、一分を達、座を立、直に山居也。
一、諸組に御家老中より触有り。何も「存寄無レ之」と申出候。勝・宮両組より申出る。組中列座僉議の時、大隈次兵衛、一分申達、「同意不レ仕」と申候。其時御台所役也。正左衛門、「同意ぞ」と申す寄親と争論に及びしを引分候。正左衛門心懸にて御部屋住勤申候。後に、「忠節の者に候間、被2取立1候様に」と被2仰遣1、百石被レ下候。
一、峯五郎左衛門噂に付て、御目付朝倉伝左衛門言上す。後に御父子様よりの御書、御部屋様御筆、伝左衛門忠心御感、三度の咎は御免被レ成旨被レ遊被レ下候。
一、大僉議打崩、彼両人引入被レ申候。
一、一鼎咄に、「相良求馬は、泰盛院様御願に付、出現したる者成べし。抜群の器量也。毎歳暮御願書御書せ被レ成候。御死去前年の御願書、宝殿に残り居申こと有べし。求馬、末期に不足の事あり。「我等に不2相似合1大禄を被レ下、御恩不レ奉レ報事候。世倅助次郎幼少にて器量不2相知1候。然ば御知行返上仕候。名跡御立被レ下候に於ては、助次郎器量次第相応に可レ被レ下」と可レ申処也。求馬ほどの者がぬくる筈はなし。病苦にて忘却かと思はるゝ也。笑止なる事は、三年の内に家潰可レ申候。荷ひきらぬ御恩也」。又、「何某は発明也。のだゝぬ風の奉公人也。四、五年のうち、是も身上崩べし」と被レ申候が、少しも不レ違。不思議の眼と存居候。夫より気を付見るに、のうぢもなき奉公人、今何年ばかりといふ事は、大かた見ゆるものなり。
助次郎(後名求馬)牢人の事。御目付山本五郎左衛門の戸に張紙有。求馬、百姓あたり不レ宜由也。御改の処、不レ宜のみ有レ之候故、家来数人御咎、知行主に候故、求馬牢人被2仰付1候也。
一、主君の味方として、善悪共に打任せ、身を擲て居る御家来は無2他事1者也。一、三人あれば、御所方黒むもの也。久敷世間を見るに、首尾能時は、智恵・分別・芸能を以御用に立、ほのめき廻る者多し。主人、御隠居被レ成か、御かくれ被レ成候時に、早後むき、出る日の方へ取入もの数多見及び、おもひ出してもきたなき也。大身・小身、智恵深き人、芸の有る人、我こそめきて御用に立るれ共、主人の御為に命を捨るだんに成て、へろ/\となられ、香きこと少もなし、何の益にも立ぬ者が、件の時、一人当千と成事は、兼てより一命を捨、主人と一味同心して居る故也。御逝去の時ためし有。御供の所存の者は我一人也。其後見習てされたり。日来口をきゝ、はりひぢをしたる歴々の衆が、御目ふさがると、そのまゝ後ろむき被レ申候。「主従の契り義を重くする」などゝ云は、違ひことの様に候へども、目前に知れたり。只今一はまりはまれば、究竟の御家来出現也。
一、御道具を仕廻物にして取がちに被レ仕候。是にて了簡候へ、頼まれぬ心入也。御秘蔵・御寵愛にて、七重八重の袋・箱に入たる御道具共に直段付をして奪取、主君の御魂入られたる物を我々の家内の道具に仕ふ事、勿体至極もなき事ぞかし。御罰を蒙ずとも、心能有事は了簡に不レ及事也。鼻のさきばかりの奉公、君臣の義理はなき事也。
一、山崎蔵人は、一生、仕廻物と名の付たる物はとられず候。扨又、町人の宅へ一生参り不レ被レ申候。誠に奉公人のたしなみ、ケ様にこそ有たく候。石井九郎右衛門も、仕廻物不レ仕候。近代の衆は、仕廻物とさへいへば、我さきにと望をかけ、町人などの所には無理に押かけ、振廻いたさせ、見せ棚調物に参候事を慰などゝとり成候事、風儀悪敷、侍の本意に非ず、と存候。
一、御逝去前、上方に罷在候処に、何としたる事候哉、罷下度心出来候に付て、何某頼の御使申乞、夜を日に継で下り候。漸参合候。不思議と存候。御気色被�差詰�候と有事は、曾て上方へ不2相知1時分にて候。若年の時より、「一人被官は我等也」と思ひ込候一念にて、仏神の御しらせかと存候。差出たる奉公仕たる事もなく、何の徳もなく候へども、其時は兼て見はめの通り、我等一人にて御外聞は取候しと存候。大名の御死去に、御供仕候者一人も無レ之候ては、さびしきものにて候。是にて能しれたり。擲ちたる者は無きものにて候。只擲さへすれば澄也。すくたれ、腰ぬけ、欲深く我為ばかりを思ふきたなき人が、多候。数年胸わろくして呉候由。
一、御返進物・火中物の義、撰出し置可レ申候に付、指南一と通の事。(口達)世界替り、役人仕事にて無レ之事。両様不レ苦物にて候事。鑰封年寄衆合判伺、引渡候事。御不審相懸り可レ申事。両様御留被レ成候事。目録引合、撰わけ候事。一人に段々御尋、御請候。
一、人に異見をして疵を直すといふ事、大切の事、大慈悲、御奉公の第一にて候。異見の仕様、大きに骨を折事也。人の上の善悪を見出すは安きゆへ也。夫を異見するは安きこと也。大方は、人のすかぬいひにくきことを云を深切のやうにおもひ、夫を受ねば、不レ及レ力といふ也。何の益にも不レ立。人に恥をかゝせ、悪口すると同事也。我胸はらしに云迄也。異見と云は、先其人の請るか、請ぬかの気を能見わけ、入魂に成り、此方の詞を兼々信仰有様に仕成してより、好きの道などより引入候様、種々に工夫し、時節を考、或は文通、或は暇乞などの折にも、我身の上の悪事を申出し、不レ言しても思ひ当る様に、先能事を褒立、気を引立工夫を砕き、渇時水呑様に受合せ、疵外仕にくきものなり。年来の曲なれば、大体にては直らず。我身にも覚へ有。諸傍輩兼々入魂をし、曲を直して、一味同心に御用に立所なれば、御奉公大慈悲也。然るに恥を与へて何しに直り可レ申哉。
一、何某へ異見の事。(口達)牢人の身の上を恨み候事。何某、牢人、内実に非を知候が、五、六年めに帰参候事。前方仰付御断、二度めに御請、誓詞のこと。最前御断にて崩すか、剃髪にて崩すかの時は見事に候事。同じ筋にて牢人の事。ケ様の我非を不レ存間は帰参有間敷こと。今にも、「無2御情1」の、「誰がにくひ者」などゝばかり、胸をこがして、猶々天道の悪みを受る也。何某の評判に、「御罰よ」と被レ申たること也。「人がのがさぬ。罪一人に在と思ひ返され候へ。帰参有まじ」と被レ申候由。
一、沢辺平左衛門を介錯いたし候時分、中野数馬江戸より褒美状遣被レ申候。「一門の外聞を取候」と事々敷書面にて、介錯の分にては、ケ様に被2申越1候事、余りなる事に候と其時分は存候へども、其後能々案じ候へば、老功の仕事と存候。若き者には、少のことも、武士の仕業を調候時は褒候て、気を付、勇み進み候様に仕ためにて可レ有レ之候。中野将監よりも、早速褒美状参候。乍2両通1直し置候由也。五郎左衛門は、鞍・鐙を贈申候。
一、人中にて欠仕候事、不嗜なる事にて候。ふと欠出候時は、ひたいをなで上候へば、止申候。さなくば、舌にて唇をねぶり口をひらかず、又、襟を、内袖をかけ、手をあてなどして、しれぬ様に可レ仕事に候。くさみも同前にて候。あほうげに見へ候。此外も心を付て可レ嗜事也。
一、翌日の事は、前晩より夫々案じ、書付置れ候。是も諸事人よりさきにはかるべき心得也。何方へ兼約にて御出候時は、前夜より向様の事、万事万端、挨拶・時宜等の事迄案じ置候。何方へ御同道申候時分、御咄に、「何方に参り候時は、亭主のことを能思ひ入て行がよし。和の道也。礼儀也。又、貴人などへ被レ呼時、苦労に思ひて行は座付来ぬもの也。「扨々忝こと哉。さこそ面白かるべし」と思ひ入て行たるがよし。惣て、用事の外は呼れぬ所に不レ行がよし。招請に逢ては、「扨も能客振哉」と思はるゝやうにせねば、客にてはなし。いづれ、其座のすべてを前方より腹して行が大事也。酒などの事が第一なり。立しほが入たるもの也。あかれもせず、早も帰らぬ様に有たき也。又常々の事にも、馳走などしんしやくを仕過も却てわろき也。一度二度いひて、其上には、夫を取持たるがよし。不斗行懸りて、留らるゝ時などの心得も如レ斯也」。
一、四誓願の琢上は、「武士道に於て後れを取べからず」、是を武勇を天下に顕すべき事と覚悟有べし。(此こと愚見に委し)「主君の御用に立べし」、是を家老の座に直りて諌言し、国を可レ治、とおもふべし。(愚見に委)孝は忠に付也。同物也。「人のために可レ成事」、是をあらゆる人を御用に立者に仕なすべし、と心得べし。
一、「御祝言御道具僉議の時分、何某殿御申候は、「琴・三絃其書付に不2相見1候。是は無ては」と也。何某被レ申候は、「琴・三絃無用/\」とあらゝかに申て差留候。是は、そとあたりて被レ申たる也。翌日被レ申候は、「御道具になくては不2事足1もの也。極上に二通づゝ」と被レ申候」と咄申人有。「さても気味のよき人哉」と申候えば、「いや/\、夫はよからぬ心得也。皆我威勢立の申分也。大かた他方者に有事也。上たる人に対して先慮外也。御為にも成ぬ事也。道を知者ならば、たとへ入ぬに極りたる物にても、「御尤に奉レ存候。乍レ去、夫は追て吟味可レ仕」などゝ申て、其人の恥に不レ成様にして、能やうにするこそ、士の仕事にて候。しかも可レ入物ゆへ、翌日書加へ申物を、当座貴人に恥をかゝせ、何の詮もなく、きたなく、疎早の心入にて候」と也。
一、覚の士、不覚の士と云事、軍学に沙汰有り。覚の士と云は、事に逢て仕覚へたるばかりにてなし、前方に夫々の仕やうを吟味し置て、其時に出合、仕課するを云。然ば万事前方に極置が覚の士也。不覚の士と云は、其時に至ては、たとへ間に合せても、是は時の仕合也。前方穿鑿せぬは、不覚の士と申す也。
一、「日峯様百年忌に時分、諸牢人不レ残被2召出1度こと也。是が御亡者様の第一に御悦可レ被レ成御法事にて候。其段は我等請に立也。乍レ去、倹約にて行兼可レ申候。近年は、牢人者・切腹の跡などは行捨被レ成、手明鎗・牢人など取立無レ之格のやうに罷成候。国学無2御存1故、手明鎗などを物頭被2仰付1候」と也。
一、酒盛のやう子はいかふ可レ有事也。心を付て見るに、大かた呑ばかり也。酒といふ物は、打上り奇麗にしてこそ、酒にてある也。気が付ねば、いやしく見ゆる也。大かた、人の心入、たけ/\も、見ゆるもの也。公界物也。
一、何某、当時倹約を細に仕よし申候へば、「不レ宜事也。「水至て清ければ魚不レ住」と云こと有。藻がらなどの有ゆへに、其陰に魚はかくれて成長するなり。少々は見のがし・聞のがし有ゆへに、下々は安穏する也。人の身持なども此心得可レ有こと也」。
一、請役所にて、何某、町方何某に「訴訟を可レ渡」と申候時、「請取間敷」と申候を、色々申合候処、何某居合、「先請取置候て、無用と候はゞ、返し被レ申候へかし」と申候付て、「さらば、請取置べし」と申候時、「受取する物を受取ずに置事が成ものか」といやしめ被レ申候由、咄人有。「何某は、最早直りたると思ひたれば、未だ角があれず。惣て、心安き人にても、役所にては、慇懃に取合が士の作法也。さ様に恥しめ候事、きたなき仕方、士の作法にあらず」と也。
一、何某、屋敷を何某殿より所望に付て、可2差出1由申達、行向をも相談申侯半、用事無レ之由に侯。夫に付、段々不届の趣いひ募り候付て、何某殿より断候て、得心、其上にて銀子など得申候由、咄人有。「扨々笑止の仕方也。惣て、人よりだまされて居るは、機分無き事と思ふもの也。それは事が違なり。「たとへ貴人たりとも一言もいわせぬ」などゝ云は、別段のこと也。是は損徳の事也。大根がきたなき事也。夫を歴々に向ひ、過言などを申事、無礼慮外也といふもの也。〆り、銀など取候へば、却て負也。以来の支に可レ成也。惣て、公事沙汰・言分などゝ云事は、皆損徳のこと也。損さへすれば、相手は無きもの也。是ばかりは堪忍して、ひけにならぬ事也。皆がほそき故、見へず」。
一、石井又右衛門は大器量の者にて候。病気出、馬鹿に成候え共、御側仕組僉議の時、何某殿より又右衛門え御歌書方の事被2相尋�候。又右衛門申候は、「病気以来、今の事さへ覚不レ申候。たとへ覚居候とも、殿様の「人にいふな」と被�仰付�候事を各に可レ申哉。増て覚不レ申候」と申候由。
一、何某殿屋敷出火の時、山本五郎左衛門当番御目附にて罷越候処、門を堅め、入れ不レ申、「火事は此方にて無レ之」と申候。五郎左衛門せき上り、「御意を承罷越候者を不レ入ば、なで切可レ仕」と刀を抜しに付て、門を開申候由。内には何某一手ばかり参り、取消申候由。
一、弥三郎に色紙を書せ、「紙一枚に一字ばかりと思ひ、紙を書は破候と思ふて書べし。よしあしは、夫者の仕事也。あぐまぬ一種にてすむなり」とて、染筆也。
一、海音和尚の前にて草紙御読候が、「小者共・小僧達、皆参り聞れ候え。聞手が少ければ、読にくし」と御申候。和尚感心、小僧共に「何事もあの気ぞ」と也。
一、毎朝拝の仕様、先、主君、親、それより氏神、守仏と仕候也。主をさへ大切に仕候はゞ、親も悦、不断御身辺に気を付、片時も離れ不レ申候。又女は、第一に、夫を如2主君1可レ存こと也。
一、仕付方の御云に、時宜の二字をダテとよませ候。伊達する心にてなければ、時宜は不レ成と也。
一、正徳三春、雨乞僉議のとき、会所にて、「金立に雨乞、雨降ること度々なり。風流上下の雑作也。此度随分風流を念入、若無レ験ば重て無用」と、成程結構の三十三囃子に、狂言など仕入申候。金立の雨乞は、前々より不思議の太験にて候。此度は曾て験無レ之候。其日、大太鼓打候者無相伝に打候とて、伝受の者撥をもぎ取申候末にて、及2喧嘩1、下宮にて切合、打合、死人も出来、又見物人にも喧嘩出来、手負有り。其比、下々の説、「今度の浮立は、会所方の御僉議実なき事ゆへ、権現御祟にて、悪事其場に出来候」と申扱候。「神事の場の不吉は前表に成事有」と実教卿御咄にて死亡多し。海辺に金立下宮有レ之由。又、殿中にて原十郎左衛門打果有り。ケ様の事、いかゞと存候也。
一、何和尚は近代の出来もの也。寛大なる事量なし。夫ゆへ大寺能治りたり。頃日も「咄にかゝらぬ病身にて大寺を預、能勤むべしとおもひ候分は仕損可レ有候。成る分と存候故、気色勝ざる時は、名代にて諸事澄し、何とぞ大迦のなき様にと心懸るばかり也」と被レ申候。先々住は、稠し過て、大衆あき申候。先住は、任せ過て、不〆なる所有。今の和尚に成て、是非の沙汰なく、大衆能治り申候。此境を思ふに、麁に入、細に入、能事を知て、扨打任せて、かもはずに役人に捌かせて、若尋らるゝ時は、闇き事なく差図いたさるゝ故、能治り申候と思はるゝ也。去比、何長老、小見解などにて口を利申候を呼寄、「法の邪魔と成也。打殺すべし」とて扣き被レ申候。片輪に成候由。彼是能所多き也。又病気に隠被レ申也。
一、今時の奉公人を見るに、殊外低眼の付所也。スリの目遣の様になり。大形、身の為の欲徳か、利発だてか、少魂の落着たる様なれば、身構をするばかり也。我身を主君に奉り、すみやかに死切て、幽霊に成て、二六時中主君の御事を嘆き、事を調て進上申、御国家を固むる、といふ所に眼を付ねば、奉公人ともいはれぬ也。上下の差別有べき様なし。此あたりにきつと居すはりて、仏神の勧めにても、不レ違様に覚悟せねばならず。
一、或人の咄に、松隈前の亨庵、先年申候由。「医道に、男女を陰陽に当て、療治の差別有事に候。脈も替り申候。然に五十年以来、男の脈が女の脈と同じものに成申候。爰に気を付てより、眼病の療治に仕て相応と覚申候。男に男の療治を仕て見申候に、其験無レ之候。扨は世が末に成、男の気おとろへ、女同前に成し事と存候。是は慥に仕覚申候事故、秘事に仕置候」と申候由。是に付て、今時のおとこを見るに、いかにも女脈にて可レ有也と思わるゝが多く、あれは男也と見ゆるはまれ也。夫に付、今時少し力み申ば、安く上は手取筈也。扨亦、おとこの勇気ぬけ申候証拠には、縛首にても切たる者すくなく、増て介錯などゝいへば、断の云勝を利口者、魂の入たる者などゝ云時代に成たり。股ぬきなどゝ云事、四、五十年以前は男役と覚て、疵なき股は人中に出されぬ様に候故、独候にもぬきたり。皆男仕事、血ぐさき事也。夫を、今時は、たわけの様に云なし、口のさきの上手にて物をすまし、少は骨/\と有事はよけて通り候。若き衆心得有度ことなり。
一、六十、七十迄奉公する人有に、四十二にて出家いたし、思へば、短き在世にて候。夫に付、難レ有事哉と思はるゝ也。其時は死身に決定して、出家に成たり。今思へば、近時迄勤めたらば、扨々いかい苦労可レ仕候。十四年安楽に暮候事、ふしぎの仕合也。夫に又、我等を人と思ひ候て、諸人の取持に合候。我心を能々顕候へば、能も仕澄したる事に候。諸人の取持勿体なく、罰も有べきとのみ存箏に候。
一、何某、主人初知入の供に参候由。夫に付、「此度の覚悟、遠所にて酒だらけたるべく候間、酒を仕切可レ申と存候。夫も禁酒と申候ては、酒曲にて有やうに候間、あたり申と申て、二、三度捨て見せ候はゞ、其上にては、人もしい申間鋪候。又随分礼を腰の痛ほど仕、人の不�言懸�ば、一言ももの申まじくと存候也」と語り被レ申候。魂の入たる者に候。先の事を前方には見替て、おとなしく成たりと云るゝ程に致されよ。初口が大事にて候」と申候由也。
一、湛然和尚の物語に、「無念・無心とばかり教るがゆへ、落着せぬ也。無念と云は正念の事也」と被レ仰候。面白き事にて候。実教卿も、「一呼吸の中に邪を含ぬ所が則道也」と被レ仰候。然ば道は一つ也。此光りを見付候者も無きもの也。純一に成事は、功を積ねば成まじき事也。
一、「心のとはゞいかゞ答へん」と云下句ほど、有がたきはなし。大かた念仏に押置べしと思わるゝ。先は人の口に多くとまりて有也。今時の利口者といふは、智恵の外を錺り粉かす事ばかりをする也。夫ゆへ鈍なる者は直也。右の下句にて心を究見れば、隠所はなき也。能き究役也。此究役に逢て恥かしからぬやうに心を持たき也。
一、何某事、老耄かと思はるゝ也。方々招請に被レ参、心入に成咄など致され候。此前数年の内も人の為に成事ばかりを案じ、極々の奉公好也。夫ゆへ一かど御用に被レ立候。人は得方に老耄するものなれば、奉公老耄、人の為に成て、老耄はあぶなき也。老人は他出せぬが重くして、しまり、よき也。
一、幻はマボロシと訓也。天竺にては術師の事を幻術師と云。世界は皆からくり人形也。幻の字を用事也。
一、御縁組の時、何某一分を申達候。此事、若き衆の心得置べき事也。「申分は成程きこへたり。さすがなり」と云者も有べし。其身、気味よく思ひ候て、可レ云ことをいひて腹切ても本望と思るべし。能々了簡候へば、何の益にも立ぬこと也。ケ様の事を曲者などゝ思ふ。以の外成取違也。先、申出たる事その詮なく。我身が引取、御養育も不レ仕、追付御死去被レ成候、御看病も不レ仕、残念の至也。気過成人は多分誤る処也。惣て、其位に至らずして諌言するは、却て不忠也。誠の志なれば、其事調る也。是忠臣也。若、内談にても、其人不�埒明�時は、不レ及レ力その分にて打過、又は起し立/\すれば、多分かなふもの也。我こそくせ者と云はるゝ名聞ばかりにて、我手柄する故不レ調也。申出たる事、益には不レ立、人には難ぜられ、我身を崩したる人、数多有レ之也。畢竟、真の志なき故也。我身を一向に捨て、主君の上、どうなりともして能やうにとさへおもへば、粉るゝ事は無レ之事也。
一、不義を嫌ひて義を立る事、難レ成もの也。然共、義を立るを至極と思ひ、一向に義を立る所に却て誤り多きもの也。義より上に道は有也。是を見付候事成がたし。高上賢智也。是より見る時は、義などはほそきもの也。我身に覚へたる時ならでは不レ知もの也。但我より可�見付�事不レ成共、此道に至候様は有也。人に談合也。たとひ道に至らぬ人にても、脇から人の上は見ゆるもの也。碁に脇目八目といふがごとし。念々知レ非といふも談合極る也。咄を聞覚、書物を見覚るも、我分別を捨て、古人の分別に付がため也。
一、或剣術者、老後に申候は、「一生の間の修行に次第可レ有レ之也。下の位は、修行すれ共物に成ず、吾も下手と思ひ、人も下手と思ふ也。此分にては御用に不レ立也。中の位は、未用には不レ立ども我不足目に懸り、人の不足も見ゆるもの也。上の位は不レ知ふりして居る也。人も上手と見る也。大方是迄也。此上に一段立越、道の勝たる位有也。其道に深く入れば、終に果なき事を見付るゆへ、是迄と思ふ事不レ成、吾に不足有事を実に知て、一生成就の念無レ之、自慢の念もなく、卑下の心も無レ之して果す也。柳生殿の、「人に勝道は不レ知、我に勝道を知たり」と被レ申候由。昨日よりは上は手に成、今日よりは上手になりて、一生日々仕上る事也。是も果なきと云事也」と。
一、直茂公の『御壁書』に、「大事の思案は軽くすべし」と有。一鼎の註には、「小事の思案は重くすべし」と致され候。大事といふは、二、三ケ条ならで有間敷候。是は平生に僉議して見れば知れて居る也。是を前廉に思案し置て、大事の時取出して軽くする事と思はるゝ也。兼ては不覚悟にして、其場に臨で軽く分別する事も難レ成、図に当る事不定也。然ば兼て地盤をすへて置が「大事の思案は軽くすべし」と被レ仰候ケ条の基と思はるゝ也。
一、宗竜寺江南和尚は、美作殿・一鼎など学文仲ケ間面談の時、被レ申候は、「各は物知にて結構の事に候。然共道に疎き事は平人にも劣也」と被レ申候。一鼎被レ申候は、「聖賢の道より外に道は有間じく」と被レ申候。江南被レ申候は、「物知の道にうとき事は、東え行筈のものが西へ行がごとし。物を知程道には遠ざかるなり。其子細は、唐の聖賢の言行を書物にて見覚、咄にて聞覚、見解高く成り、早我身も夫に成たる様に思ふて、平人は虫の様に見なす也。是、道に疎き所也。道といふは何も不レ入、我非を知事也。念々に非を知て、一生不�打置�を道と云也。聖の字をヒジリと訓は、非を知給ふゆへ也。仏は知非便捨の四字を以、吾道を成就すると説給ふ也。心に心を付て見れば、一日の間悪心の発る事数限りなき也。吾は能と思ことはならぬ者也」と被レ申候に付、一鼎得道の由也。然共武篇は別筋也。大高慢にて、吾は日本無双の勇士と思はねば、武勇を顕すことは成がたし。武勇をあらはす気の位有レ之也。(口伝)
一、『武士道巧者書』に、「巧者の武士はせざる武篇に名をとる道あり」と書れ候。後々の誤可レ有レ之候。「も」の字加へて見申候由。又、志田吉之助、「生ても死てものこらぬ事ならば、生たがまし」と申候。志田は曲者にて、戯に申たる事にて候を、生立者聞誤り、武士の疵に成事を可2申出1と存候。此対句に、「喰かくふまひかと思ふ物はくわぬがまし、死ふか生ふかと思ふ時は、死だがまし」と被レ申候。
一、何某、大坂に数年相勤、罷下り、諸役所へ罷出候節、上方口にて物を被レ申候付、無興千万の物笑にて候。夫に付、江戸・上方に久敷詰候節は、常よりも御国口をひらき可レ申事に候。おのづと其風に移り、御国方のことも田舎風と見おとし、他方に少も理の聞へたる事の有時は、夫を、羨申儀、何の味も不レ存、うつけたる事也。御国は、田舎風にて、初心なるが御重宝に候。余所風まね候ては似物にて候。或人春岳え「法華宗は情がこわき物にて不レ宜」と被レ申候えば、春岳被レ申候は、「情のこわきゆへ法華宗にて候。じやうのこはくなければ余宗にてこそ候へ」と被レ申候。尤の事に候。
一、何某立身御僉議の時、此前大酒仕候事有レ之、立身無用の由、衆議一決の時、何某被レ申候は、「一度誤り有レ之たる者を御捨被レ成候ては、人は出来申まじく候。一度誤たる者はその誤を後悔いたすべき故、随分嗜候て、御用に立申候。立身被2仰付1可レ然」由被レ申候。何某被レ申候は、「其方御受合候哉」と被レ申。「成程某受に立申候」と被レ申候。其時何れも「何を以受に御立候哉」と被レ申。「一度誤りたる者候故、受に立申候。誤一度もなき者はあぶなく候」と被レ申候に付、立身被�仰付�候由。
一、中野数馬は、科人御僉議の時、相当の科一段づつ軽く申出候。一代一ふりの秘蔵の智恵にて候。其比は数人の出座に数馬一人ならで口を開き申たる人無レ之候。口明け殿、廿五日殿と申候由。
一、殿の御心入を能仕直し、御誤なきやうに仕るが大忠節にて候。惣て御若年の時分に、御家の様子、御先祖様御心入など、得と御合点被レ成候様に仕度事に候。御守り大事にて候。
一、昔人の刀は落し指に仕候。今時の刀の指様吟味する人無レ之候。柳生流にはぬき出して指させ候由。夫を相伝もなく、何の了簡もなく、抜出候を見習ひて指申と相見へ候。直茂公・勝茂公もおとし差に被レ遊候由。其時代、手覚有衆皆落しざしに仕候上は、利方よきと相見へ候。まづ抜出しては不図とられ左右に思はれ候。光茂公は勝茂公の御差図にておとし差被レ遊候由。
一、光茂公・綱茂公御在府の時、正月元日御上屋敷にて光茂公え御目見有レ之候に付、其間は綱茂公御式台裏の間に被レ成2御座1候。光茂公、「信濃はどこに被レ居候哉」と被レ仰候時、御小姓何某、「若殿様は御隠被レ成御座候」と申上候。ケ様の誤可レ有レ之こと也。
一、何某喧嘩打返をせぬゆへはじに成たり。打返の仕様は踏懸て切殺さるゝ事也。是迄恥に不レ成也。仕果すべきとおもふ故、間に不レ合。向は大勢抔といひ候時、時を移し、〆り、止に成相談に極る也。相手何千人もあれ、片端よりなで切と思ひ定て向ふ迄也。成就也。多分仕澄すもの也。又浅野殿浪人夜討も泉岳寺にて腹切ぬが落度也。又、主を討せて敵を討こと延々也。若其中に吉良殿病死の時は残念千万也。上方衆は智恵かしこき故、褒らるゝ仕様は上手なれ共、長崎喧嘩のやうに無分別にする事はなられぬ也。五郎申様見事也。惣てケ様の批判せぬものなれ共、是も武道の吟味なれば申也。前方に吟味して置ねば行当りて分別出来合不レ申故、大かた恥に成候。咄聞覚へ、物の本を見るも兼ての覚悟の為也。就レ中武道は今日の事も不レ知と思ひて日々夜々にケ条を立て吟味すべき事也。時の行懸にて勝負は有べし。恥をかゝぬ仕様は別也。死まで也。其場に不レ叶ば打返し也。是には智恵も入ぬ也。曲者といふは勝負を不レ考、無二無三に死狂ひするばかり也。是にて夢覚る也。
一、奉公人に疵付事一つ有。富貴に成たる事也。逼迫にさへあれば疵は不レ付也。又何某は利口者なるが、人の仕事の非が目にかゝる生付なり。此位にては立かぬるもの也。世間は非だらけと初におもひ込ねば、多分顔つきが悪敷して人が請取らねばいか様の能人にても本義にあらず。是も一つの疵と覚へたるがよし。
一、「何某は気情者也。何がしの前にてケ様の義を申」と咄人あり。「それがつらに似合ぬ云分也。曲者といわれ度迄也。卑ひ位也。青き所が有る人と見へたり。侍たる者は先礼義正くしてこそうつくしけれ。そのやうに人の前にて物を云は、鎗持・中間の出合同然にて賤しきこと也」と。
居宅・衣装・諸道具等つらに似合ぬことする人多し。扇・鼻紙・料紙・臥具など少し能物にても不レ苦なり。
一、何某養子鈍に候故気に不レ入、殊に親長柄にて短気に成、不断折檻仕、悪口を申候に付て、養子に居こたへ候義難レ成、近々引取可レ申候様子に相見へ候。此事、養母参候て、「何とも迷惑に候間、乍2病気1諸事堪忍候様に親に御異見頼申」由申。断候え共「是非共頼申候」と涙を流し申候ゆへ、不レ及レ力受取申候。「親に異見は逆にて候。殊に病中也。倅を此方に遣候へ」と申。母不落着にて罷帰候。倅参候に付、申候は「惣て人間に生れ出るも生々の大幸と可レ存事に候。其上御当家の士となる事生前の本望也。百姓・町人を見て思ひ知べし。実父の遺領をとるさへ難レ有事なるに、末子に生れ出て他の家を継、御被官の一人と成事は優曇花の仕合也。是を取迦して無足人に罷成事は不忠、親の気に不レ入は不孝なり。忠孝に背たる者は世界に置所なし。能立帰りて案じて見られ候へ。今其方の忠孝は只親の気に入まで也。気に入たくても、親の気向がわるきとのみ、可レ被レ存候。親の気の直る様を教へ申べし。「私の面つき、其外毎レ物、親の風に入申候様に」と血の涙を流し、氏神に祈らるべし。是私の事に非ず。忠孝の為也。此一念忽親の心感応あるもの也。帰りて見られよ。早親の心直りて居るべし。天・地・人感通する不思議の道也。殊に長病なれば久しかるまじ。纔の間の孝行、逆立するとも安きこと也」と申候へば、涙を流し、「最」と申て帰り申候。後に承り候へば、帰かけに、親申候は「意見に逢たりと見へて先見懸能成たり」と其儘機嫌直り候由。不思議の道理、人智の不レ及所なり。「其時の異見故忠孝共に立候」由、礼に被レ参候。真の道を祈りて不レ叶事なし。天地もおもひほがすもの也。紅涙の出る程に徹する所則神に通ずるかと被レ存候。
一、一世帯構るがわろき也。精を出して見解などあれば済して居るゆへ、早違ふ也。尤精を出して先種子は慥に握て、扨それが熟するやうにと執行する事は一生止事は不レ成。見付分にては位にかなふ事は思ひもよらず、只「是も非也/\」と思ひて「何としたらば道に可レ叶哉」と一生探捉し、心を守て打置ことなく、執行可レ仕也。此内に即道有也、と。
一、山本神右衛門常に申候詞、数ケ条書留候内。
一、一方見れば八方見ゆる。
一、すら笑ひする者は男はすくたれ、女はへらはる。
一、口上又は物語等にても、物を申候時は、向の目を見合て申べし。礼は初にして澄也。くるぶきて申は不用心也。
一、袴の下に手を入る事不用心也。
一、草子・書物を取扱候へば、焼捨被レ申候。「書物見るは公家の役、中野一門は樫木握りて武道する役也」と被レ申候。
一、組付ず、馬もたぬ士は士にてなし。
一、曲者は頼母敷もの。
一、朝は七つに起、日行水、日月代、食は日出に給、暮より休み被レ申候。
一、士は喰ね共、空楊枝。内に犬の皮、外は虎の皮。
一、「人として肝要に心懸、執行すべきは何事にて候哉」と問候時、何と答へ有べきや。先申て見るべし。「只今正念也。時々万事に仕はるゝもの也。是を見付る事も成がたし。見付て不断持事又成がたし。只今の当念の外は無レ之也。
一、昔は寄親・組子無2他事1心入有り。光茂公の御代、御馬廻御使番母袋一人不足の時、御家老中御僉議にて、若手に器量の者に候間、馬渡源太夫に被2仰付1候て、相〆候。此事源太夫親市之允、隠居にて罷在候が、承付寄親中野数馬所え、早走に参候て申達候は、「偖も是非に及ばぬ仕合に候。御組の義、皆御一門衆ばかりにて候故、拙者覚悟には御一門衆を追越、寄親の用に可2罷立1と存部、源太夫にも「一門組にて候間、油断不レ仕、一門衆を押のけ、寄親の用に罷立候様に」と兼て申聞置候。然所に御組内より源太夫御選除候義、面目次第も無レ之。無2御情1被レ成方にて候。此上には知行主に罷成候源太夫は不レ及レ申、隠居仕候拙者にても世間無2面目1候に付て、父子共に覚悟を仕極候」由。屹と申候。数馬承レ之、「以の外の御了簡違にて候。此度の組替りは源太夫規模の仕合不レ過レ之候。御家老中御僉議、器量者に候故被2仰付1候由、父子ながら成程悦被レ申筈に候」と申候へども、市之允申候は、「御僉議の節、彼者は私一門同前に組内に寄合申者に候えば、差出候儀不2罷成1」と被2仰達1筈に候を、御請合被レ成候義と骨髄に通り、意恨に存候」由申し、存部たる様子に申候。其時数馬申候は、「成程尤にて候。今日御家老中え御断申候て見可レ申」由申候付て、「責て其御一言成共不レ承候では、難2罷帰1」と申候て、帰り申候。数馬登城いたし、御家老え申候は、「人の命はしれぬものにて候。私義今朝既にふて腹を突れ申候。ケ様/\の子細にて候間、源太夫義は御免被レ成候様故、余人に被2仰付1と也。
一、五、六十年以前までは、士は毎朝行水、月代、髪に香を留め、手足の爪を切て、軽石にてすり、こがね草にて磨き、無�懈怠�身元を嗜み、尤武具一通は錆を不レ付、ほこりを払ひ、みがき立、召置候。身元を別て嗜候事伊達の様に候え共、風流の儀にて無レ之候。今日打死/\と必死の覚悟を極め、若不嗜にて討死いたし候へば、兼ての不覚悟も顕れ、敵に見限られ、きたなまれ候故に、老若共に身元を嗜申たる事にて候。ことむつかしく、隙ついへ申候様に候へども、武士の仕事はケ様のことにて候。別に忙敷事、隙入ことも無レ之候。常住打死の仕組に打部り、得と死身に成切て、奉公も勤、武篇も仕候はゞ、恥辱あるまじく候。ケ様のことを夢にも不�心付�、欲徳我儘ばかりにて日を送り、行当りては、恥をかき、夫を恥とも思はず、我さへ、快候へば、何も不レ構などゝ云て、放埒無作法の行跡に成行候事、返/\も口惜き次第にて候。兼て必死の覚悟無レ之者は、必定死場の悪敷に極り候。又兼て必死に相極て候はゞ、何しに賎敷振舞可レ有哉。此あたり能々工夫可レ仕事也。又三十年以来、風儀打替り、若士共の出会の咄、金銀の噂、損徳の考、内証支へのはなし、衣装の吟味、色欲の雑談ばかりにて、此事無れば一座しまぬやうに相聞へ候。無�是非�風俗と成行候。昔は二十、三十共迄は、素り心のうちに賤敷こと持不レ申候故、詞にも出不レ申、年倍の者も不図申出候えば、怪我のやうに覚居申候。是は世上花麗になり、内証方ばかりに肝要にめ付候故にて可レ有レ之候。我身に不�似合�おごりさへ不レ仕候えば、兎も角も相澄もの也。又今時の若者の始末ごゝろ有を、よき家持などゝ褒るは、浅ましきことにて候。始末の心有レ之者は義理を欠也。無�義理�者は寸口垂也。
一、一鼎の咄に、「能手本を似せて精を出す人は、悪筆も大体の手跡に成也。奉公人も能奉公人を手本としたらば、大体には成べし。今時能奉公人手本はなき也。夫故手本作りて習ひたるがよし。作様は、時宜作法一通何某、勇気は何某、もの云は何某、身持正しきことは何某、律儀なる事は何某、つゝ切れて胸すわる事は何某と、諸人の中にて第一能所一事宛持たる人の其能事ばかりを撰立れば、手本が出来る也。万の芸能も師匠の能所は不レ及、悪き曲を弟子は請取て似する者ばかりにて、何の益にも不レ立也。時宜能者に不律義なる者有り。是を似するに、多分時宜は差置て、不律儀を似するばかり也」。
一、大事の状・手紙・書付等持届候節、道すがら手に握りて片時も離さず、向様にて直に相渡ものにて候由。
一、奉公人は二六時中、気をぬかさず、不断主君の御前、公界に罷在時のやうにするもの也。休息の間、うかと成候ては其分公界にてうかと見ゆる也。此気の位有事に候なり。
一、短気にしては成ぬ事も有。庵替のこと。(口達)能時節が出来するもの也。此やう成事堪忍が第一也。爰ぞと思ふ時は手早く、たるみなき様にしたるが能也。案じ廻つて、くどつきて仕損ずる事有。又初より踏破て能事も有。愛相も尽、興も覚る様にして却て能事が有也。かやう成時は、別て一言が大事也。とかく気をぬかさず、胸すわるが肝要なり。
一、大酒にて後を取たる人数多也。別て残念のこと也。先我たけ・分をよく覚へ、その上は呑ぬ様に有度也。そのうちのも時により酔過す事有。酒座にては就レ中気をぬかさず、不図、事出来ても間に合様に了簡可レ有こと也。又酒宴は公界もの也。可2心得1こと也。
一、上下によらず、身の分限に過たる事をするものは、つまり比興卑劣などして、下々は逃走をもするもの也。下人などに気を可レ付事也。
一、武芸に貪着して、弟子など取て武士を立ると思ふ人多し。骨を折て、漸芸者にならるゝは惜きこと也。芸能は事欠ぬやうに仕習て澄こと也。惣て多能なる者は下劣に見へて肝要の所が大形に成もの也。
一、吉凶に付、仰渡などの時、無言にて引取たるも、当惑の体に見ゆる也。能程の御請可レ有事也。前方の覚悟が肝要也。又役など被2仰付1候節、内心に嬉敷思ひ、自慢の心などあれば、その儘面にあらはるるゝもの也。数人見及たり。見苦敷もの也。「我等無調法者なるにケ様の役を被2仰付1、何と可2相調1や。扨は迷惑千万、気遣なる事哉」と、我非を知たる人は詞に不レ出とも、面にあらはれ、おとなしく見ゆる也。上気にてひやうすくは、道にも違ひ、初心にも見へ、多分仕損有もの也。
一、学文は能事なれ共、多分失出来もの也。行南和尚のいましめし通也。一行有ものを見ても、我心の非を可レ知ためにすれば、其儘用に立なり。然れどもケ様には成かぬる者也。大形見解が高く成、理好に成也。
一、人の難に逢たる時、見舞に付て一言が大事のもの也。其人の胸中が知るゝもの也。とかく武士はしほたれ草臥るゝは疵なり。勇に進みて、物に勝て浮心にてなければ用に不レ立也。人を引立る事有レ之也。
一、後醍醐天皇隠岐国より還幸の時、赤松・楠御迎に参上、御感の勅諚あり。円心は唯平伏して退く。正成御請申上たり。能御請也。本書にて可レ見也。
一、何某、欠落者追手に罷越候処、駕篭に乗り、戸をさして通る者有。走寄、戸を引明け、「何某にては無レ之哉」と申候えば、他方の者にて候。「傍輩を待兼、疎早仕候」と申候て、差通候由。
一、先年、大僉議の時、其頭取可2討果1覚悟にて何某仕懸、其理聞届申候。又御仕置の上、何某は「御領掌早く候て、御側手薄く頼すくなく可レ存」と申上候。
一、役所などにて、別て取込居候処に無心に何角用など申人有レ之時、多分とり合悪敷、立腹などする者有。別て不レ宜事也。さ様の時ほど押しづめ取合能様に可レ仕事、士の作法也。かどがましく取合候は仲間などの出合のやう也。
一、時により人に用をいひ、物をもらふ事有り。それも度重ならば、無心に成いやしかるべし。何とぞ澄ことならば、用をいはぬやうに有たく也。
一、大雨の戒といふ事有。途中にて俄雨に逢て、濡るゝとて道をいそぎ走り軒下などを通りても、濡るゝ事は不レ替也。初より思ひはまりて濡るゝ時、心に苦みなく、ぬるゝ事は同じ。是万事にする心へなり。
一、万の芸能も武道・奉公のためにと心にかまへてすれば、用に立て能也。多分芸好に成るもの也。学文などは就レ中危き也。
一、唐に竜の図を好める人有。衣服・器物にも竜の模様ばかりを付られたり。其愛心深き事竜神に感通して、或時窓の前に真の竜現れたり。此人驚き、絶入しけると也。内々にては広言をいつて事に臨で違却する人有べし。
一、鎗つかひ何某、末期に一の弟子を呼、遺言いたし候は、「一流の奥義少も不レ残伝授候上は、今更申置べき事なし。若弟子を可レ取と存候はゞ、毎日竹刀を手馴べし。勝負合の事は各別也」と被レ申候由。又連歌師の伝授にも、「会席の前日より心をしづめ、歌書を見るべき」由也。一事三昧の処也。面々の家職三昧に有べき事也。
一、中道は物の至極なれども、武篇は平生にも人に乗越したる者にてなくば、成まじく候。弓指南に、左右ろくのかねを用ゆれども、右高に成たがる故、右ひくに射たる時、ろくのかねに合也。軍陣にて武功の人に乗越べきと心がけ、強敵を可2討取1と昼夜望みをかくれば、心猛く、草臥もなく、武勇を顕すよし、老士の物語也。平生にも此心得有べき也。
一、鉄山老後に被レ申候は、「取手は相撲には違ひ、一旦下に成ても後に勝さへすれば澄む事にと心得罷在候。近年存当り候は、一旦下に成りて居候時、若誰ぞ取さかへ候はゞ負なるべし。始に勝が始終の勝也」と被レ申候由。
一、武士の子共は育立様可レ有事也。先幼稚の時より勇気をすゝめ、仮初にもおどし、だます事など有まじく候。幼少の時にても臆病気付ては一生の疵也。親の不覚にして、雷鳴時もおぢ気を付、暗がりなどには不レ参様に仕なし、泣やむやうにとておそろしがる事などいひ聞候ては、不覚の儀也。又幼少にてつよく呵候へば、入気に成。又わる曲不2染入1様にすべし。染入ては異見しても不レ止也。物言・礼義などそろ/\と気を付させ、欲気など不レ知様に、其外育立様にて大体の生付ならば能成べし。夫婦中悪敷者の子は不孝なるよし、尤のこと也。鳥獣さへ生れ落てより、見馴、聞馴る事移るもの也。又母親愚にして父子中悪敷成事、母親は何のわけもなく子を愛し、父親異見有れば、子の贔屓をし、子と一味する故、其子は父に不和に成也。浅ましき心にて候。行末を頼て子と一味すると見へたり。
一、決定の格悟うすき時は、人に転ぜらるゝ事有。又参会、咄の時分、気脱て居ゆへに我覚悟ならぬ事を人の申懸、咄などするにうかと移りて、夫と同意に心得、挨拶も、「いかにも」といふ事有り。脇より見れば、同意の人のやうに思はるゝ也。夫に付、人に出会ては片時も/\も気の脱ぬ様に可レ有事也。其上咄又は物を申かけられ候時は、転ぜらるまじきと思ひ、我胸に合ぬ事ならば其趣申べしとおもひ、其事の越端を可レ申と思ひ、取合べし。差立たる事にてなくても、少の事に違却出来るもの也。心を付べし。又兼ていかゞと思ふ人には馴寄ぬがよし。何としても転ぜられ、引入らるゝもの也。爰の慥に成事は、功を積ねばならぬことなり。
一、何某事、数年の精勤にて、我人一廉御褒美可レ被�仰付�と存居候処、御用手紙参。諸人前方より祝儀申述候。然処に、役米加増被�仰付�候。皆人案外の事と存候。然共仰付の事故、悦申候へば、何某以の外皃振悪く、「面目なき仕合に御ざ候」などゝ取合、「畢竟御用に不�相立�者に候故、如レ斯の行懸、是非御断申て引取可レ申」などゝ申候を、入魂の衆各々申宥候て、相勤申候。是偏に奉公の覚悟無レ之、唯我身自慢のゆへにて候。御褒美の事は扨置、侍を足軽に被�仰付�、何の科も無レ之を切腹被�仰付�候時、一入勇み進み候こそ、御譜代の御家来にて候。無�面目�などゝ申候、皆私にて候。此所に得と可�落着�事也。但癖者の一通は別に可レ有ことなり。
一、「芸は身を助る」といふは、他方の士のこと也。御当家の士は、芸は身を亡す也。何にても一芸有者也。侍にあらず。「何某は侍なり」といはるゝやうに心懸べき事也。少にても芸能有は士の害に成事と心得たる時、諸芸共に用に立也。此当を可�心得�こと也。
一、風体の執行は、不断鏡を見て直したるがよし。是は秘蔵の事也。諸人鏡を能見ぬ故、風体わろし。口上の稽古は宿元にての物云にて直すこと也。文段の執行は一行の半紙に案文する迄也。右、何も閑かに強み有が能也。又「手紙向様にて掛物と成と思へ」と了山上方にて承り候由。
一、「過て改るに憚る事なかれ」といへり。少も猶予なく改れば、誤り忽滅する也。過をまぎらかさんなどゝする時、猶々見苦敷、苦しみ有。禁句などいひ出したる時、手取早に其趣をいへば、禁句少も不レ残、心屈せざる也。若又咎ぬる人ならば、「誤て申出候故、其謂を申披き候。其無�御聞分�ば、不レ及レ力候。不�存当�にて申候へば、無�御聞�同前にて候。誰上をも沙汰は致し候事」といひて覚悟すべし。扨こそ、隠ごと・人ごとふつゝと不レ可レ云。又、一座をはかりて一言もいふべきことなり。
一、何某申候は、「牢人などゝいふは難儀千万無�此上�やうに皆人おもふて、其期には殊外仕おくれ、草臥たる事也。牢人して後は、さほどにもなきもの也。前方思ふたるとは違ふ也。今一度牢人仕度」と云。尤の事也。死の道も平生に死習ふては心安死べきこと也。災難は前方に了簡したるやうにはなきものなるを、先を量りて苦しむは愚なる事也。奉公人の打留は、牢人・切腹に極たると兼て可�覚悟�也。
一、役儀をあぶなきと思ふはすくたれ者也。其事に備りたる身なれば、其事にて仕損ずるは定たる事也。外の事、私の事にて仕損ずるこそ辱にても有べし。「無調法にて何と可レ勤や」との心遣は可レ有事也。
一、「人の心を見んと思はゞ、煩へ」といふ事有。日比は心安寄合、病気又は難儀の時、大形にする者は腰脱也。都て人の不仕合の時、別て立入、見廻・付届可レ有レ之。恩を請候人には一生の内疎遠に有まじき也。ケ様の事より人の心入見ゆるもの也。多分我難儀の時は、人を頼み、後には思ひも出さぬ人多し。
一、盛衰を以て人の善悪は沙汰されぬこと也。盛衰は天然のこと也。善悪は人の道也。教訓のためには盛衰を以ていふ也。
一、山本先神右衛門は召仕の者に不行跡者あれば、一年の内何となく召仕ひ、暮に成てより、無事に隙をくれ被レ申候由。
一、鍋嶋次郎右衛門切腹の時、何某え四段の異見あり。御仕置の中に世上の聞へを不レ憚しては却て御悪名に成事有。最前此沙汰有とも不レ被�取立�筈也。次に究の時、偽を其分にて被�差留�こと也。其次に咎の僉議の時、先祖の功、近年四郎が旗被レ成�御覧�候義申達、可�差留�こと也。其次、右の段に難レ被レ成ば御同意可レ被�申上�ことなり。
一、諸岡彦右衛門用事有レ之候由にて召寄、被�申聞�候一通のこと。「神文」と被レ申候へ共、「侍の一言金鉄より堅く候。自身決定の上は仏神も被レ及間敷」と被レ申候て、神文相止候。廿六才の事也。(弁才公事の極意のこと)
一、将監介錯一通の事。御目付鍋嶋十太夫・石井三郎太夫也。三郎太夫、「見届候」と詞を懸、屏風引廻候由。
一、造酒切腹に付て一通の事。八助殿に付両人子細の事。預り物御改の時、数馬へ申達候事。番付候時一言申達、内に入れ候事。女房病気に付、医師呼候一通の事。申様聞合事。
(岩波書店刊『日本思想大系26』版を底本としました。)
東インド巡察記
東インド巡察記(一部)
ヴァリニャーノ著 高橋裕史訳
第一章 インド管区の広大さと区域、および位地について、またイエズス会の有するコレジオとカーサについて
計画していることを順序立てて論じるためには、この「東インド」管区の広大さ、区分および位地について、また我々が当管区に有している数々のコレジオやカーサそしてレジデンシアについて知る必要がある。
まず広大さであるが、当管区が、イエズス会の有しているすべての管区の中で最大のものであり、ヨーロッパの全管区を一つに併せたものよりも、はるかに大きいことは、疑う余地がない。
当管区の中心地は王都(real ciudad)ゴアで、他地方への距離を計測する際の起点ともなっている。我々はゴアに当管区で最も重要なコレジオを所有している。当管区はゴアから北へはダマンという都市にまで及んでおり、ゴアからはほぼ90レグアである。以前はオルムスという都市まで及んでいた。オルムズはゴアから北へ500レグアにある。
ゴアから西へ航海して別の地方に向かうとエチオピアに達し、ゴアからは600レグア以上の所にある。エチオピアには総大司教と数人の我がイエズス会員がいる。ゴアから南へはコモリン岬に及び、ゴアからは150レグアである。そこから再び北へ進路を変えると、サン・トメに至る。サン・トメは、コモリン岬から110レグアにある。
コモリン岬から別の地方をめざして同じく航路を南に取り続け、その後、東へ向きを変えると、マラッカという都市に達する。マラッカはゴアからさらに600レグア遠方にある。マラッカから東へ航海するとモルッカ諸島はマラッカからは400レグア以上、ゴアからは1000レグア以上である。
マラッカからさらに別の地方をめざして北へ航海するとシナに達する。シナはマラッカから500レグアの所にある。シナから日本に至るが、日本はシナからさらに300レグア先である。日本を下(地区)からずっと行くと王都ミヤコ(la ciudad real del Meaco)に達する。ミヤコはポルトガル人たちが入港している長崎港から約150レグア以上先にある。
したがって、ゴアからミヤコまでは、およそ1500レグアもある。ここから判明するのは、当管区の諸地域の間の距離が、その末端まで計測すると、いかに広大であり、また当管区内にある数々のコレジオと布教地との間の距離も、いかに遠く離れているか、ということである。この距離は日を追ってますます拡大しており、我がイエズス会員たちも、さらに奥の方へと入り込み、いくつもの布教地の仕事を引き受けている。しかし当管区の領域はかつては今よりも遥かに広大であった。なぜなら、我々はあるカーサをオルムズに、他のカーサをモザンビークに所有していたからである。モザンビークはゴアからカフラリア地方のある喜望峰へ向かって900レグアに位地している。
当管区の位地も、管区内の各地方の間で著しい違いが見られる。なぜなら、先に記したように、当管区の一方は北、他方はずっと離れて南、残りは東に位地しているからである。しかし、ゴアを中心として当管区の各地方までの緯度を測ると、ゴアは北緯15度半で、カナリン人の王国にある。ダマンは北緯20度半、オルムズは北緯27度である。エチオピアは北緯15度、コモリン岬は北緯7度、サン・トメは北緯13度である。マラッカは赤道下2度に位地し、マルコ(諸島)はマラッカの下に位地している。シナの港マカオは北緯23度で、日本は北緯32度から38度までの間にあり、さらにずっと先まで続いている。
当管区の分割の仕方であるが、当管区は我々の方法にしたがうと、ガンジス河よりも内側と外側(citra et ultra Gangem)の、二つの地方に分割される。ガンジス河の内側には、ダマンからサン・トメ一帯の全カーサがあり、我々はこの地方を一般にインドと呼んでいる。しかし実際にはインドはディウという都市からコモリン岬までしか広がっていない。我々がインドと称しているのは、ガンジス河よりも内側の地方一帯のことである。ガンジス河よりも外側の地方を、通常、南部地方と称しており、マラッカ、マルコ、シナそして日本がある。
我がイエズス会員たちは、以上の全域に駐在し、各種のコレジオ、カーサ、レジデンシアに身を置いている。カーサは、これから述べてゆくようにたくさんあるのだが、本書では数を絞り、最重要なものだけを取り上げる。それらのカーサはインド管区長の直接の支配下にあるが、その多くは、さらに多種多様のレジデンシアを抱えている。
かくて我々は、1579年現在、この東インド管区全域に五つのコレジオと七つの主要なレジデンシアを所有している。コレジオは、ゴア、サルセッテ、バサイン、コチン、マラッカのコレジオで、レジデンシアはトラバンコール海岸のコウラン、ペスカリア海岸、サン・トメのカーサ、モルッカ諸島、シナの港マカオ、日本、エチオピアのレジデンシアである。以上のすべてと、それに付属しているレジデンシアについては、それぞれ該当箇所において取り上げるつもりである。
第十四章 シナのカーサについて
マラッカからさらに北に進路を取ると、シナの港マカオがあり、我々はそこに五つめのカーサを所有している。マカオはシナ大陸と境を接している街区で、北緯22度、マラッカからはおよそ450レグアに位地し、広東からは20レグア離れている。広東は非常に重要な都市であり、ポルトガル人たちは広東産の商品の取引に行く。ポルトガル人たちはマカオ港に一つの居留地を設けたが、この居留地は今や小さな都市となり、その結果、200を超すポルトガル人の家屋があり、キリスト教徒も相当数いる。加えて、インドやその他の地方から毎年大勢の商人が当地に参集し、シナ人と売買をしている。彼らが買い入れる商品には日本へ送られるものもあれば、インドへ送られるものもある。このシナと日本との取引は、東洋で行われているあらゆる取引の中で最大である、おまけにマカオ港は、インドで売買をして日本へ向かう際の通り道でもある。こうしてこの居留地マカオは、短い日時のうちに著しく発展したのである。
この居留地には司教が一人と、司祭が八人から十人いる。我がカーサのイエズス会員たちを除くと、他に修道士はいない(その後、フランシスコ会所属の跣足派托鉢修道会士も、当地にカーサを設けた。彼らはルソネス諸島から渡って来たのである。そのカーサには五、六人のフランシスコ会士が住んでいる)。我々のカーサだは、八人から十人のパードレとイルマンが起居を共にし、カーサ・プロフェッサの場合と同様に、全員が喜捨で生活している。彼らは立派な修道院を所有している。その修道院は昨年竣功したもので、十の部屋、快適な執務室、非常に収容力のある礼拝堂が備わっている。しかし設計を誤ってしまったので、いずれこの修道院を移転しなければならないだろう。 また児童用の学校もある。
我々の教会と聖母教会では、マラッカでのものと同じ聖務がおこなわれている。パードレやイルマンは、インドの他のレジデンシアよりも当マカオ市の方に、なすべきことをたくさん抱えている。その理由は、イエズス会以外に他の修道会士はいないこと、教区司祭たちがほとんど学問を修めていないこと、マカオは商取引がおびただしく活溌におこなわれていること、である。このカーサでは、十二人もの我がイエズス会員が余裕をもって生計を立てられ、またこのカーサは立誓修士用のカーサとしても約立てられよう。というのも、当市には大勢の人員は不要なのであるが、かの南部の諸地方に準管区長を置いた際には、マカオ市はこのカーサを利用して日本の窮乏を速やかに救うことができるからである。我が主がいつの日にか、福音のための扉をシナに開き給うならば、このカーサにできる限り大勢の会員を置くのはシナ布教にとって大いなる助力となろう。
このシナという王国は、東洋の他のありとあらゆる王国や地方と著しく異なっている。そのため、シナ王国に一歩足を踏み入れると、未知なる一世界に足を踏み入れたかのようである。シナ王国はヨーロッパと類似点も数多く、これが一層この王国を多くの点で他の東洋諸国より優越させているのである。
シナは極めて巨大な国土である。第一に、シナ全土はたった一人の王の所有に帰している。この国王は最も富裕であり、しかもこの世のあらゆる王たちや領主たちは彼に服従している。シナには十五のとても広大な地方区があり、各地方区には非常に重要な都市が一つ置かれその地方区の要衝となっている。それらの地方区はどれも、地方区自体の副王なり総督なりを擁している。また王室参事官その他、吏員も抱えている。吏員たちは、一つの地方国を的確に統治するうえで、平時や戦時には不可欠の存在である。シナは、これまでに発見されたあらゆる地方の中でも最も見事に統治され、富裕で人口も多く、肥沃な国土なのである。
(以下略)
第十五章 日本のレジデンシアについて
日本は、その全域が様々な島嶼からなっている地域で、三つの地方もしくは主要な島々に分かれており、以上の全域を合わせると国内には六十六の小国がある。最も重要な地方は一つの巨大な島で、五十三の王国がある。その島の中央には日本全土で最も重要な都市があり、日本全体の支配者であった国王が居を定めている。この都市はミヤコと呼ばれている。この国王は、かつて、日本全土の唯一にして真の王であり、上述の諸国に自分の総督たちを置いていた。ところが今や、国王は日本全土に一つとして自らの領国を持ってはいない。その理由は、国王の総督たちが謀叛を起こし、その誰もが自分のために手に入れられるものは悉く手に入れてしまったからである。国王には、一切のものの上に立つ威厳と優越性、それも現実的なものというよりはむしろ形だけのものしか残らなかったのである。
これら五十三の王国は、大勢の領主たちの間で分割されている。彼らの中では二人の領主が、目下のところ全領主の中にあって最も傑出している。この二人の領主は現在も絶えず戦火を交え、ミヤコに対する覇権を競っている。これらの王国全体の中で、最も抜きん出て傑出しているのは信長である。信長は今やミヤコ以外にも二十三、四の王国を支配している。もう一人は山口の王で、彼も信長と同じように十二、三の王国を支配している。彼らは互いに大敵で、各地に大勢の領主を従え絶大な権力を有し、いつも戦火を交えている。ミヤコのほかにも、さらに色々な王や領主がいるが、信長や山口の王よりも小身である。
日本の第二の地方は九つの王国に分かれている一つの島で、これを下という。下とは、より下に位置している。これらの王国は、大勢の領主たちの間で分割されている。彼らの中で最も傑出し、支配者のような存在となっているのは豊後の王であって、五つの王国の支配者である。日本の第三の地方はもう一つの別の島で、これを四国という。四国とは四つの王国という意味である。四国も同じように複数の領主の間で分割されている。
日本は寒く雪の多い地である。その理由は、日本が北緯30度から37、8度にかけて位置しているからである。人々は皆色が白く、洗練されており、しかも極めて礼義正しい。そのため、他のあらゆる人種に優っている。
日本人は、生まれつき非常に優れた能力の持ち主ではあるが、いかなる種類の学問も持っていない。世界中のあらゆる人種の中で、日本人は最も好戦的で戦争に没頭している。そのため、若者であれ老人であれ、あるいはどのような地位の金持ちであれ貧乏人であれ、十五歳をすぎると誰もが年がら年中、刀と脇差を帯にはさんで携行している。また貴人であれ下層民の出の者であれ、各人は自分の子供、家臣その他、自分の支配下にある者に対しては主人の立場となるのである。そのため、ごく些細な理由であっても、自分の判断によって誰彼なしに殺し、その者の所有になる土地や収入を没収する。なぜなら、主人たる者は自分の領地を絶対的に支配しているからである。しかし家臣の中でも有力な者は、自分たちの間で同盟を結び主人が思い通りのことを頻繁に行なえないようにして、主人から我が身を守っているのが一般的である。
日本人は、人を殺すことを、動物を殺すことよりも重大には考えていない。そのため取るに足りない理由からだけではなく、自分の刀の切れ味を試すためであれば人を殺してしまうのである。各自は自分の屋敷でも人を殺すことがあり得るし、戦争が実に絶え間ないので、大部分の人々が刀で命を奪われているものと思われる。日本人は次のような非常に残酷な行為に及ぶ。すなわち、母親自らが子供を産むや否や「この子は養えない」とだけ言って、ごく当たり前のように首を踏みつけて殺してしまうのである。それに自らの脇差を使って切腹し、自害する者も大勢いる。
その一方で日本人は、私が眼にした限りの人種の中で、とても愛想がよく親愛の情を表に現わす。しかし怒りや腹立ちを表に出すことはしないので、仲間内であれ外部の者との間であれ、ある日本人のうちに何らかの口論や怒りの言葉が見られるならば、それは驚くべきことなのである。したがって人々が殺されても、それを理由にして殺した人に不当な言葉を口にすることもないし、人々の間にはどのような類の中傷も見られないのである。
他方、この国民は世界中のあらゆる人種の中で、最も偽善的で上辺を取り繕う国民である。なぜなら、日本人は幼い頃から本心を露わにしないことを学びそれを分別あることとし、それとは反対のことを愚行と考えているからである。そのため、軽々しく本心をさらけ出してしまう者たちは愚か者と見なされ、心が一つしかない者と呼ばれて軽蔑されてしまう。その結果、親も子も共々、彼らの間では約束も親愛の徴も信用できないので、互いに信じ合ったままでいることはない。そのためこの国民は、何か悪事を行なおうとの決心を固めるほど、さらに多くの誉め言葉を利用する。すなわち、彼らがある人物を殺そうとする場合、その人物をまさしく殺そうとする間際ですら、その人物に多大な礼義を尽くしさらに親愛の情に満ちた言葉を投げかけ、自分たちの目的を一層効果的に果たせるように振る舞うのである。実際に人々は、これ以上の方法を用いては、自分たちの間では生きていけないのである。
以上の事情と、また日本が大勢の領主と多くの王国の間で分割されているので、日本では戦争や裏切りが絶え間なく生じ自領にあっても身の安全な領主はいない。それゆえ、日本は決して安定した状態にはなく、むしろ車輪のように絶えず動き回っている。そのため、今は権勢を誇っている領主でも明日になれば無一文となり、またこのように勢力が拮抗した状態にある者は、自分たちの収入と栄誉を増大できる好機が到来すると別の領主と結んで、本来の領主を裏切って見捨て、自分自身の両親のことすら気にかけないこともしょっちゅうなのである。両親は、子供たちが成人すると、我が身の許に引き留める方法として次のような方法しか打つ手がない。つまり、子供たちに収入と家屋を譲り、自分たちは我が身のために残してある僅かな貯えを持って隠居し、ひっそりと暮らす。これは日本の一般的な風習なのである。
これとは別に、日本人もやはり非常に貧しい。そのため、驚くべきことに、王や領主ですらごく僅かの物で糊口を凌いでいるほどである。王や領主は、自分の領地を家臣の間で分割してきたため、たとえ出費を伴うことなく、またあらゆる面で家臣たちから奉仕を受けていても、手許にはごく僅かの収入しか残らないのである。一方、人々は誰しも、とりわけ貴人たちは互いに極めて丁重かつ高潔に供応しもてなし合うので、あのように非常に貧しいというのに、これほどまでの丁重さと立派な礼儀の遵守が可能となっていることも驚くべきことなのである。衣、職、儀式その他様々な事柄において、日本人の行動はどれも、ヨーロッパ人や他の人種とは著しく異なっている。そのため日本人は、あらゆる事柄を他の人種とは反対に行なうことを、故意に学んでいたかのようである。
したがって、ヨーロッパから当地へやって来る者たちは全くの新参者に等しいので、食事、着座、日本人との会話の仕方、服の着方、礼儀作法その他、日本人が行なうあらゆる事柄を、子供のようになって最初から学ばねばならない。これがゆえに、インドでもヨーロッパでも、日本の諸事情が正確に判断され明確となるのは不可能なのである。その理由は次の通りである。つまり、日本ではインドやヨーロッパとは別個の世界、別個の作法、別個の習慣や規範が通用しており、その結果、ヨーロッパでは礼儀正しく名誉あるものと評価を受けている事柄の多くが、日本では著しく不名誉で侮辱的なものと見なされているからである。また当地日本では、ごく一般的で、しかもこれがなければ日本人と暮らしたり交際したりできない事柄の多くが、ヨーロッパとりわけ修道会員たちの間では、下品で破廉恥なものとされているからでもある。
一般に、この国民は、誰もが自分の意志通りに生きることを全く当たり前としている。男も女も、幼時よりほとんど束縛されずに育てられたため、したいことをし、何らかの事柄においては両親からの支配を受けない。というのも、両親は彼ら自分の子供を鞭打ったり、厳しい言葉で叱責したりはしないからである。とりわけ貴人や領主は、自分勝手に我がままに成人してしまっている。そのため、たとえ彼らの行なおうと欲していることが善きことであれ悪しきことであれ、彼らの家臣であると友人であるとを問わず、誰一人として異を唱える者はいない。むしろ自分の主人の意向がどこにあるかを知ろうと努力する。そうして主人に助言し、主人の欲していることは善きことであると語るのである。
その他の事柄の中で、日本人が慣習としているのは、第三者を介さない限り重要な諸案件を面と向かっては絶対に口にしないことである。そのため、両親は子供に対して、子供は両親に対して、他者を介さなければしかるべき重要事について依頼も協議もせず、また助言や訓論を与えることもないほどである。それゆえ、重大な事案や用件について、日本人と協議をして結論を出すのは難事であり、非常に時間がかかるのである。
日本人は、ヨーロッパでは極めて重大な罪を徳として考えており、坊主も神官も、罪は徳なり、と人々に説いて教え込んでいる。親でさえも子供にこのように説き、教えているのである。とりわけ、男色の罪においては、口に出すことも目にすることもはばかれることが罷り通っている。日本人には数々の邪悪な習慣があり、法律はあまりにも不当で自然の理に反している。そのため、日本人を説き伏せて、我々の法に則った生活を行なわせるのは極めて困難である。それにもかかわらず日本人は、キリスト教徒となってから陶冶されると、この種の様々な悪習を棄ててキリスト教と神への崇拝に強く心を傾け、教会と秘跡の授与に足を運ぶ。そして、他のあらゆる人々よりも、素晴しい畏敬の念と外面の謙譲さをもって、神に関わる事柄を色々と論じる。とりわけ中層階級の人々と農民たちがそうなのである。というのも、貴人や領主は、傍目には彼らと同じような様子を呈していつのだが、中層階級の人々や農民たちは、非常に苦労して進歩し、本心からキリスト教信仰に入っているからである。
結局のところ、日本人は、シナ人を別にすると、かの東洋全域の中で最も有能で立派に教育を施されているので、我々の聖なる法に関する諸事を正しく理解し、東洋全域の中で最良のキリスト教徒となるには、最適な国民なのである。
以上は、この国民が我がイエズス会員の手でキリスト教徒として陶冶されている地方においての偽りのないところであり、これについては次章の中で言及してある通りである。
第十六章 日本において我々が所有しているカーサの数と行動様式について
日本には、キリスト教徒の改宗と向上を妨げる障害、悪習、戦争があまりにも多い。しかし、我がイエズス会のために、我が主の恩寵が、今日まで日本においてなし給うた事は数々ある。それに、しかるべき時に収穫するのを目的に既に種を蒔かれたものは、断然数多い。なぜなら、現在までに日本の諸王国で、十万人近くのキリスト教徒が誕生していることから明らかである。その中には大勢の貴人や領主がいる(キリスト教徒は既に十五万人ほどである。日本は、本書執筆後に数多くの改変が行なわれ、管区同様に整った。修練院やコレジオ、そして貴人の子弟用のセミナリオが二つ開設されたが、レジデンシアはこれまでとは別の形態に縮小された。我がイエズス会員の数も増え、日本とシナの準管区長が任命され、ついに日本は、本書の記述よりもはるかに大規模なものとなった。日本に関しては、別に一書を著わしており、私はそれを参照している。したがって、本書の記述は、日本がそのように組織を整える前の状況に関するものである)。
さて、改宗への扉が開けられて、これまでとは比べようがないほど、はるかに多くの事柄が短時日のうちに行なわれた。というのもパードレたちは、日本では既によく知られ、敬意を払われており、神の法も多くの地方で受け入れられ、善きものとして認められているからである。この結果、日本の大部分の地方では、異教徒ですら自分たちの崇めていた様々な偶像をほとんど尊重卯せず、また領主たちの中には、所有している収入の一部を割いて、それをキリストの戦士たちのために使う方が好ましいと判断している者が大勢いる。我がイエズス会員たちは、日本の色々な王国に居を定めており、また日本語のできる者も多い。そしてついに日本は、我が主からの御援助があれば主の聖なる法が日本全土に広まってゆくであろう、と期待されるほどにその陣容が整ったのである。
既述のようにイエズス会は、日本の各地にカーサとレジデンシアを数多く所有している。イエズス会はミヤコという都市にカーサを一つ所有している。そのカーサは、ミヤコの重要性と名声の故に、第一等のカーサと称することができる。大多数のキリスト教徒と我がイエズス会員の大半は下の諸地方にいる。下には日本の布教長が常駐している。また、同地方に毎年来航するポルトガル人のナウ船のことを考慮して、イエズス会はそこに他の地方よりも大きな力を注ぎ、価値を置いている。こうして我々は下の諸地方に、多くのキリスト教界と多数のカーサを擁しているのである。第一のキリスト教界は、現在、肥前の国の三人の有力領主の領地にある。これは下地区で最大のキリスト教界である。
一つめの地は高来といい、有馬の王が領有している。有馬の王は、かつてこの肥前王国全土の支配者にして首領でもあったが、今から十年ほど前に有力な領主たちが謀叛を起こし、彼の手許には、一周25レグアほどの領地のうち、この高来しか残らなかったのである。ここ高来にはたくさんの要塞と村落があり、全土には五万人強の住民がいるであろう。しかし、今や肥前全域の支配者のごとき竜造寺とのある年の戦争で、有馬の王は大半の要塞を失ってしまった。その結果、王の手許には、高来の要となっている有馬要塞のほか、その周辺にある四つ、五つほどの要塞が残ったにすぎなかった。それらの要塞には二万人前後の住民がいるようだが、その全員がキリスト教徒である。
この領主有馬の王は、本年(1580年)、大勢の人々と一緒にキリスト教徒となった。彼はドン・プロタジオと称し、今となっては貧しい小身の領主ではあるが、それでも、かの有馬のカーサの中心人物であるため、非常に尊敬されている。もしも、彼の希望通りに運気の車輪が再び戻ってきたならば、彼は高来全土を容易に掌中に収めるであろう。高来のキリスト教界は日が浅く、その大半は今年になって作られたものであるが、信者たちは信仰を持ちつづけ、十分に信仰心を育まれる準備ができている。なぜなら、坊主も偶像も残ってはいないし、それに我々は今現在、高来のキリスト教界にレジデンシア用として、三つのカーサを所有しているからである。
一つめのレジデンシアは有馬にある。有馬には、原住民用のセミナリオが一つ開設された。このセミナリオには、現在、三十人の原住民が身を置いており、またいつもパードレ二人とイルマン三人が起居を共にしている。三つめのレジデンシアは口之津にある。口之津は海港である(口之津のレジデンシアでは、既にある程度の改変が行なわれた。というのも、現在そこにはパードレがおらず、有馬から通っているからである。イルマン一人と一緒に有馬に住んでいるパードレは、加津佐の要塞と、同地にあるもう一つの、もっと小さな村落にも通っている。もしも神からの御援助を得て、高来全域が再びこの領主有馬氏の支配下に入るならば、高来は多大な至宝を生み出し得るキリスト教界となり、土地となることだろう。
第二のキリスト教界は大村地方にある。大村の領主はドン・バルトロメウである。彼は有馬の領主ドン・プロタジオの甥で、大村の周囲およそ30レグアに多くの要塞と村落を所有している。大村地方全域には都合五万から六万人のキリスト教徒がおり、たくさんの教会もある(これらドン・バルトロメウの領土でも、やはりレジデンシアで改変が行なわれた。その結果、郡のレジデンシアが廃棄され、長崎と大村のレジデンシアでは、パードレとイルマンが増員された)。この大村のキリスト教界は非常に古く、ここからも多大な至宝が生み出されるに違いない。現在、我々はそこに、次の三つのレジデンシアを所有している。
一つめのレジデンシアは長崎である。長崎には、およそ四百軒ほどの家屋からなる村落がある。この村落は今から八年前に当地に作られたもので、我がイエズス会員とキリスト教徒たちの努力の賜物である。このキリスト教徒たちは、各地で異教徒の領主から迫害を受けたために生来の土地を追われ、長崎の土着民となった者たちである。
長崎は、ナウ船の重要性ゆえに日々拡大し、極めて堅固な地となっている。大村の領主は本年、長崎を、茂木というもう一つの村落共々、イエズス会に譲渡してくれた。茂木は長崎から1レグアに位置している。これら長崎と茂木を保持し、堅固なものとすることが重要である。これは、我がイエズス会員たちと、我々が日本で生計の手段としている資産の増大と安全のためであり、また大村地方全域のキリスト教徒の利益と安全のためでもある。
二つめのレジデンシアは大村にある。大村は大村地方全域の要で、我々はそこにカーサを一つ所有している。このカーサは修練院、または日本語学習者用のセミナリオを設けるのに非常に適している。
三つめのレジデンシアは、大村から半レグア郡という要塞の中にあり、パードレ一人とイルマン一人がそこに住んでいる。現在のところ、これらのレジデンシアに身を置いているパードレたちの担当地として大村全域が割り当てられている。しかしパードレたちは、度重なる求めには応じられないので、パードレを増員せざるを得ない。
有馬は、諫早と称する異教徒領主の領地と分割されている。諫早はこれまでずっと、この二人の領主そして我々の聖なる法に対する、大いなる敵対者であった。そのため我々は、海路以外には、ある土地から別の土地へ赴くことができない。それゆえもし我が主が、いつの日にかこの敵対者を完全に取り除き給ふならば、有馬と大村の諸地域のキリスト教界は、一つ残らず極めて安全で堅固なものとなるであろう。
第三のキリスト教界は、平戸地方にあり、そこには三千人を超えるキリスト教徒が二つの小さな島にいる。この二つの島は、キリスト教徒の兄弟のものである。一人はドン・アントニオ、もう一人はドン・ファンという。平戸の領主、それに領内のほぼ全領民も異教徒であるが、彼の家臣たちの中でこの二人は最も有力なので、平戸の領主はキリスト教徒たちをそれらの島々で平和裏に暮らさせるのを黙認している。パードレたちは、平戸に自分たちのレジデンシアを所有している。これは、レジデンシアが平戸の拠点であり、また同地にポルトガル人のナウ船が頻繁に来航することが慣わしだったからでもある。
現在、平戸での改宗の成果はほとんど挙げられていない。というのも、平戸の領主は目下のところ、家臣や領民がこれ以上改宗するのを望んではいないからである。それにも拘わらず、平戸に身を置いている二人のパードレと一人のイルマンは、時間を無駄にすることなく、キリスト教徒たちを実に立派に陶冶してきている。我々が願っているのは、時が経つにつれて神の種が平戸に広まってゆくことである。平戸は勢力や人々の点で大村や有馬に優るとも劣らない。平戸は大村から18から20レグア以上も先に位置している。以上の者たちは肥前の国にいる。
第四のキリスト教界は、肥後の国の天草地方にある。肥後の国は豊後の王の管轄下にある。天草は五人の領主が治める一つの島である。この五人の中で、最も有力な領主は天草殿で、彼も、また彼の治める全領民もキリスト教徒である。キリスト教徒は八百人から千人以上であろう(同じく天草でも改宗が行なわれた。すなわち、レジデンシアが一つ設けられ、パードレとイルマンが増員された。我々は当地に千五百人のキリスト教徒と、たくさんの教会を擁している)。
天草には、我がイエズス会員のレジデンシアが二つあり、パードレ三人とイルマン二人が起居を共にしている。たくさんの教会もある。そのレジデンシアの一つは、河内浦にある。この河内浦こそ、殿と呼ばれていた領主が亡くなった地である。残りの一つは本渡という別の要塞にある。本渡は有馬から3、4レグアの所にあり、少なくともこう一つ別のレジデンシアが必要であろう。この五人の領主のうち、志岐殿という領主の配下には、さらに千人を超すキリスト教徒がいる。しかしこの領主は異教徒でしかも性悪である。というのも、この人物は受洗後に元の宗教に戻ったからである。もし、この五人の領主たちが改宗するに至るなら、天草島は非常に堅固で安定したキリスト教界となり、日本に見られる数々の戦争や騒乱の只中にあっても、このキリスト教界からは多大な至宝が生み出されるであろう。
第五のキリスト教界は、博多にある。博多はおよそ八千軒の家々からなる大都市で、筑前の国にある。筑前も同じく豊後の王の管轄下にある。住民たちは異教徒であるが(というのも、我々はそこに三百人のキリスト教徒しか擁していないからである)、この都市は非常に大きく、また重要なので、我がイエズス会員はそこにレジデンシアを設けた。このレジデンシアでは、いつもパードレ二人とイルマン一人が起居を共にしている。彼らはそこからもう一つ別の地に通っているが、その地は秋月という異教徒領主のものである。その地は博多から5、6レグアにあり、六百人ほどのキリスト教徒がいるであろう。竜造寺と秋月との間の戦争が妨げとならなかったならば、秋月ではさらに多大な成果が挙げられていたことであろう。その戦争が原因で、本年、パードレたちはこのレジデンシアから退去せざるを得なかった。しかい神の御加護によりこの戦争が終結したならば、パードレたちはレジデンシアに戻って来るであろう。
下の諸地方に属する第六の、そして最後のキリスト教界は、豊後の国にある。我々は豊後各地に五千人以上のキリスト教徒と、いくつかの教会を擁している(豊後には修練院とコレジオ、そしてレジデンシアが設けられた。私が日本を去る時には、我々は既に一万五千人を超すキリスト教徒と、十五、六の教会を抱えていた)。現在の統治者の父親である老王は、二年前にキリスト教徒になったのであるが、王子と、この豊後の国の他の領主たちは異教徒である。国王はキリスト教徒でmしかもその子息は常に我々の友人であったので、現在、多くの我がイエズス会員は、豊後の国にある二つのカーサに配置されている。
一つは臼杵という町にある。臼杵は豊後の国王が自分の廷臣と共に居を定めている地で、日本語を学んでいるイルマンが十四、五人いる。残りの一つは府内にある。府内は豊後国最大の都市で、臼杵から6レグアの所にある。八千軒を超す家々からなり、我がイエズス会員も五、六人いる。この二つのカーサは近隣の村落にいるキリスト教徒たちの許に足を運んでいる。
国王がキリスト教徒となってから、豊後王国の全土と他の諸国を改宗するうえで、大いなる扉が開いた。その理由は、王子とその妻、それに大勢の領主が受洗を決意していたからである。ところがその時期、それら豊後の王国全域で凄惨な戦争が起こった。加えて坊主と異教徒たちは、老王がキリスト教徒となり、また豊後王国を統治している王子もキリスト教徒になるのを望んだためそれらの王国は一つ残らず滅びるであろう、との流言を広めていた。このためいつも何人かのキリスト教徒が誕生していたというのに、人々の改宗への情熱が、今一度豊後王国の人々の中を駆け巡ることが期待できる。これら豊後のレジデンシアは、有馬と博多から25から30レグア以上も先の所にある。以上のレジデンシアは、先に記した三つの地区のうちの一つである下地方にある。
今一つの、さらに重要な地方は、既述のように、五十三の王国を擁しているミヤコ地方であるが、我々はその各地に一万五千人を超えるキリスト教徒を抱えている(これらミヤコの諸地方では、カーサとキリスト教徒が著しく増加した。我々は既にそれらの地方に、我がイエズス会員用のレジデンシアを四つ、信長の第一の要塞に原住民用のセミナリオを一つ所有しているからである)。このキリスト教徒のうち、五十人が山口の王国にいる。彼らはおよそ二十四年にもわたってパードレもイルマンもいない状態に置かれていたからである。彼らの国王も、また山口の王国内の他の全員も異教徒であり、この国王はパードレたちが山口国内にいるのを容認していないので、必然的に、山口のキリスト教徒たちは教理教育を受けられないし、その数が増えることも不可能なのである。
その他のキリスト教徒たちは、ミヤコ、河内、津の国、尾張などミヤコ地方の近隣諸国、そして堺市にいる。これらはどれも信長の領土である。これらの地は異教徒の地であるが、その指揮官と有力貴人の中には、家臣全員とともにキリスト教徒となっている者がいる。彼らは日本の全キリスト教徒たちの中で、このうえなく立派に陶冶された最良のキリスト教徒である。彼らは、既述のように、日本全土の首都であるミヤコからあまり遠く離れてはいない所にいるので、我がイエズス会員たちはミヤコに第一のレジデンシアを開設した。そこにはいつも、六人から八人のパードレとイルマンが起居を共にし、折を見ては教会とキリスト教徒の許へ視察しに赴いている。ミヤコでは戦争は終結しているが、現在、ミヤコ以外の諸地域では実に多くの戦争が起こっているので、我々はミヤコにもう一つ別のレジデンシアを所有することなく現在に至っている。それゆえ、カーサとレジデンシアをたくさん設けてキリスト教徒たちに教理教育を施し、改宗を拡大していく必要がある。
以上が、当1580年までに我々が日本に所有しているレジデンシアについての既述である。
第十七章 キリスト教徒の作り方とその保持の仕方について
日本は、イエズス会が東洋に有している、最も重要な布教事業の一つである。そこで、現在の日本の実情にしたがって、どのようにきりすと教徒を作り、保持すべきか、その方法について、若干捕り上げるのが妥当であろう。それには、総会長猊下は以下のことを理解されねばならない。
神の恩寵と御援助に次いで我々がこれまで手にしてきた、そして今に至るまで手にしている、キリスト教徒を作り出すうえでの第一の援助は、毎年シナから来航するポルトガル人のナウ船とジャンク船である(これは本書執筆の際に、私だけが眼にした頃の下地区のことを意味している。豊後地区とミヤコ地区は、ナウ船との関わりはない。ナウ船はそれらの地方には来航しないからである。領主たちが狙っているナウ船からの様々な利益のことを取り上げる場合も、同じく、ポルトガル人のナウ船が来航する下地区に限っての問題なのである)。既述のように、日本の領主たちは非常に貧しいのであるが、ナウ船が領主たちの有する港に来航した際に、彼らが手にする利益は極めて多大なので、彼らは領内にナウ船が来航するように大いに尽力する。彼らは、ナウ船が向かう先は、キリスト教徒や教会の存する所やパードレが入港して欲しいと思っている所だと確信しているからである。
そのため、ここから次のような事態が生じているのである。すなわち、たとえ異教徒であっても大勢の領主は、領内にパードレたちが身を落ち着け、教会を設け、キリスト教徒を生み出すように尽力する。なぜなら、こうすればナウ船やあるいはパードレから、その他の色々な利益を獲得できようと大勢の領主が判断しているからである。日本人は、自分の主人には非常に従順なので、主人がそうするように命じたり、あるいはそれが大筋において、最初にキリスト教信仰の中に入って来る扉である。このようにして、我々は日本に受け入れられ、各地でキリスト教徒を作り始めたのである。
したがって、インドの人々について述べてあるように、日本人についても同様に言い得るのは、ナウ船を介さずに我々の法を直接受け入れ始めた者はほとんどいないということである。ただしミヤコでは、このようなナウ船の利益に対する打算は見られない。しかしインドの人々と日本の人々との間には、次に記すような相違が見られる(日本人とインド人との相違はあまりにも大きすぎて、他に比較できるものなど何一つないほどである)。すなわち、インド人はその一人一人が、改宗するに当ってはそれ相応の事柄を特に強く求める。彼らは色が褐色であり、知力にもほとんど恵まれていない。そのため、彼らは時が経ても陶冶しにくく善きキリスト教徒にはなり難い。ところが日本人は、自分が期待している利益からキリスト教徒になるのではなく(というのも、これは支配者たちだけの狙いだからである)、自分の主人の意志のために改宗するのが一般的だからである。既述のように、日本人は色が白く、育ちもよく、才能にも恵まれている。しかも異国の宗教を非常に好むので、喜んで教会や説教に足を運ぶ。それゆえ、日本人は陶冶されると誠に素晴しいキリスト教徒になるのである。ただし領主は、概ね、最も軽蔑すべき者たちである。自らの私利私欲のことえお気にかけ、あのように戦争にうつつを抜かしているからである。
ミヤコでは、このような打算は見られない。これまでに改宗した領主たちは、我々の法に関する事柄を色々と聴き、その後、それらが善きものであると判断したことが一番の理由となって改宗したのである。家臣もまた領主からの歓心を得るために改宗する。彼らは、下地区の人たちの通らない扉を通ってキリスト教信仰の中に入って来ているので、下地区の人たちよりもさらに優れた判断力で我々の聖なる法を理解している一層素晴しいキリスト教徒なのである(これらミヤコの地方では、大勢のあらゆる階層の人々が、我々の法に関する様々な説教に耳を傾けている。それは、キリスト教徒領主の家臣であろうと異教徒領主の家臣であろうとを問わない。そして我が主に感銘を受けた人々は、他のどんな利益も問題とせずに改宗している。自分の主人が既に改宗してしまっているかどうかを確認する者が多いとはいえ、我が主が主人同様彼らの心を揺り動かすまで改宗しない家臣は多い)。
さて、以上の地方では、洗礼に先立って、全員に説教が行なわれる。日本人は、我々の聖なる法に関する事柄を実に正確に説明し、インドの他のあらゆる地方でよりも、はるかに十分に自らの誤謬を証明する。日本人はインドの人々とは異なる資質と知力を備えていて、より理性に従う人々だからである。また教理教育を施されると、さらに優れた理解力を身につける者もいる。とはいえ、そうではない者もいる。最初からの学習内容に応じて、陶冶された後には、ある者たちよりもはるかに立派なキリスト者となる。このように、彼らは主人から命令されると、たやすく我々の聖なる法に耳を傾け、キリスト教徒になるのである。ところが主人が、そうするようにと命じると、彼らはすぐに元の宗教に戻ってしまう。
しかしまた、陶冶されて、我々の聖なる法の諸事に染まってしまうと、元の宗教には戻らないので、土地を追われたり殺されたりする者さえ大勢いる。彼らは皆、キリスト教徒となった後には、自分たちの様々な偶像を全く顧みないのが一般的である。日本人はその点において、インドの人々をはるかに凌駕している。インドの人々は、キリスト教徒となった後ですら、さんざん苦労をして初めて、自分たちの様々な偶像への愛着を断ち切るからである。
このようなわけで、日本のキリスト教徒は、他のあらゆるキリスト教徒の中で、比べるまでもなく最高であって、最も信仰を保持しやすい。日本は極めて重要な布教地であるが、働き手の不足やその他の原因があって、数々の困難を抱えている。そのため、我々は他のどの布教地にも増して、日本で、原住民からの援助を受けぬばならない。これは該当箇所で言及してある通りである。
キリスト教徒と我がイエズス会員を保持し、その数を増やすことについてであるが、日本の絶え間ない政治的な変動、キリスト教界およびイエズス会の抱えている様々な問題が原因で、これは計画の途上にある。加えて、日本の諸国に堅固な基盤すら手に入れられなかったため、それらの問題を間違いなく処理したり、その原因を解明したりすることはできない。
しかし、日本の諸国の現状を考慮すると、日本人のキリスト教徒と我がイエズス会員を的確に統轄するには、カーサを三つ設け、そこで数人のパードレとイルマンが、コレジオでの場合と同様に秩序と瞑想のある共同生活を送り、日本のすべてのレジデンシアをそれらのカーサの支配下に置くことが適切で、不可欠であると思われる(これらのカーサは既に開設した。地区長たちも当地で指名され、既述のように、準管区長も置かれた)。このようなカーサを増設して、パードレたちが職務を遂行し、キリスト教徒たちも陶冶されるようにしなければならない。それには働き手を大勢補充する必要がある。さもないと、キリスト教徒の陶冶は不可能であるし、我がイエズス会員たちも、あのような辛い職務に耐えられないだろうからである。
これら三つのカーサのうち、一つはミヤコ地区に開設しなければならない。かの都市ミヤコは日本の首都なので、ここに確固とした基盤を置き、イエズス会の聖務、教会の聖なる礼拝や典礼をできる限り立派に行なうことがイエズス会とキリスト教徒が信望を獲得し、善き統轄のためには非常に重要だからである。二つめのカーサは豊後の国に開設しなければならない。その理由は、この豊後の国の王は既にキリスト教徒であり、しかも豊後全土に容易に広まってゆくだろうからである。三つめのカーサは下地区の肥前の国に開設されなければならない。というのも、肥前の国には、既述のようにポルトガル人のナウ船が常時来航しており、また我々は今に至るまでそこに多数のキリスト教徒を有し、より大いなる価値を置いているからである。
働き手が不足し、しかも戦争や変動が絶え間ないため、我がイエズス会員が大勢で共同生活のできる大規模な建物やコレジオの建設は不可能であり、イエズス会の安寧に必要なあらゆる事柄を同一の場所で行なうことも不可能である。そのため、諸聖務を次のようにこれら三つのカーサに振り分けねばならない。一つめのカーサは日本語を学ぶ者たちのためのセミナリオとして、二つめは修練院として使用すること、三つめのカーサは人文諸学の研究のために使用し、日本語を学んだ者と修練を終えた者たちをそこに送り込むこと。修練を終えた者たちは概ね日本人となろう。これら下、豊後、ミヤコの三地区には、それぞれ、一人の地区長の配置が不可欠である。地区長は、自らの責任下にあるすべてのレジデンシアを毎年巡回、視察し、日本全体の上長に視察地の抱える最重要事項を報告すること。日本全体の上長も、三年ごとに日本全域を巡察するようにできる限り努めねばならない。このように大勢の者たちの間で分担させれば、職務はより適切に遂行されるだろうし、成果も多大であろう。
しかし、掌中にある様々な布教事業を前進させようとも、原住民からの援助がなければ、また大勢の原住民を入会させなければ、イエズス会は日本で存続してゆくことができない。それゆえ、原住民用のセミナリオをできるだけたくさん設け、原住民をキリスト教の諸習慣と諸学の中で教え導き、彼らがキリスト教徒とイエズス会を援助するのに相応しい者となるようにするのが何にも増して必要なのである。その目的は、原住民の中にはイエズス会に入会する者もいれば教区司祭となる者もいるので、将来この者たちにレジデンシアを委ねられるようにすること、また別の者たちには、日本語と、色々な地域でイエズス会員が従事している諸聖務とに関してイエズス会を援助してくれるようにすることである。原住民である日本人は、多くの素質と天賦の才を備えているので、きちんとした指導を受けるならば、これら一切の聖務を行なうのに相応しい者となるであろうことは疑いの余地がない。このすべてのためと日本の善き統轄のためにも、上長のための規則、レジデンシアで暮らしているパードレのための規則、セミナリオに導入すべき方法の規則を必ず遵守するよう、全力を傾けて努力しなければならない。それらの規則は多大の熟慮と、日本での私の経験を取り入れて作成されたものだからである。
日本で起こっている絶え間ない戦争tp変動が原因で、我がイエズス会員の生命と資産は、いつ滅亡に瀕するかもしれないという大きな危険にさらされている。これは、神の愛によるものでも、神の栄光や神の聖なる法を護持するうえで必然的であるからでもなく、単に戦争に際しての日本人の習慣によるものであるにすぎない。つまり日本人は、戦時の習慣として自分方のものであれ敵方のもであれ、眼に入るものを悉く破壊し、自分たちが崇敬している様々な偶像に対してさえ何一つ考慮を払うことはないのである。したがって、これらの地方での経験がある我々全員は、キリスト教徒と我がイエズス会員たちを保持するために、長崎港はドン・バルトロメウの領内にあり、いつもナウ船が来航しているからである。長崎港は自然の生んだ堅固な土地であるため、いかなる日本人領主といえども力ずくでナウ船を奪うことはできないのである。かの地の領主になるものは誰でも、パードレたちが長崎港を管理しナウ船から上がる利益を確保することを喜ぶであろう。なぜなら長崎はナウ船の来航する港だからである。このようなわけで、長崎は我々の資産を保護し、火急の際には、人々が頼みの綱とするには実に都合のよい、安全な地であると思われたのである。
長崎から1レグアの茂木というもう一つの要塞は、ドン・バルトロメウの領地から有馬へ向かう出入り口なので、この双方の地を安寧なものにするために、茂木の要塞を我々の責任で引き受けることもやはり適切であると判断した。そしてドン・バルトロメウは、快くそれらの両地を我々に与えてくれたが、その理由は以下の通りである。彼の考えによれば、こうすれば自領の全域が安全となって常時ナウ船を長崎港に確保することになり、そうなると彼はナウ船から税と利益が入るので大いに敬意を払われ、立派な領主になるであろうからであった。彼は我々に若干のものを与えてくれたが、これはナウ船が長崎港に停泊する際に慣行として毎年支払われているもので、合計すると1000クルザドに達する。その一部は長崎港で暮らしている我がイエズス会員の経費と、これら長崎と茂木二つの地所を要塞化するための経費にあてられ、また一部は別のキリスト教徒領主たちの間で分配するためにあてられている。
このようなことはヨーロッパでは奇異な事柄として、また我々の『イエズス会会憲』とも相容れない事柄として判断されるかもしれない。ところが、ここ日本に身を置き、日本の経験を積んでいると打ち続く変動に対する経験は、これら長崎と茂木の要塞を贈与者の領主ドン・バルトロメウは、イエズス会に不利となるような条件を何一つとして今に至るまで付けずに、それらの要塞をイエズス会に永久に贈与して下さったのである。日本からローマまでの距離が余りにも遠大であるので、インド管区長にこの権限を委ねるのが適切であると思われる。またイエズス会総会議の決議がなければそれらの地所を譲渡できないというようにして、それらの地所の譲渡を是非とも受諾する方が賢明であることを時の経過が認識させてくれるならば、この贈与をそのような方法で是認してもよいであろう。
我がイエズス会員は、主としてナウ船による貿易で生計を立てている。シナでナウ船に荷積みをしているポルトガルの商人たちと我々が締結している契約によって、我がイエズス会員は、この貿易から毎年およそ6000クルザドの収益を上げている。この契約とは次のようなものである。
マカオの商人全員が共同で日本に輸出する生糸の会社を作り、この会社では、我々に対する施しのために我々の持ち分の40ピコの生糸を日本にもたらす。1ピコはおよそ1キンタル強に相当する。彼らマカオの商人はその生糸を日本で売りさばくのであるが、生糸全部を売り切ることができなくても、この会社の所有する他のすべての生糸を売却する価格で計算した40ピコ分の売上金をいつもイエズス会に与えてくれる。この売却金によって、同社の有する他の全生糸が売りさばかれ、これによっておよそ3000クルザドの儲けがある。また彼らマカオの商人は舶載してくる生糸をすべて売りさばけないので、売れ残りの生糸の中から別枠で50ピコの生糸を適切な価格で我がイエズス会員に譲ってくれている。それらの分は、日本にいる我々のポルトガル人プロクダトールの手でナウ船の出航後に売却される。ここからさらに3000クルザドの儲けがある。
我がイエズス会員は、主としてこのように生計を立てており、色々な教会やキリスト教徒を維持するために、日本で必要とされているあのような巨額の諸経費を捻出しているのである。我が主が、貿易以外の別の救済手段を我々に施し給うまで、日本のイエズス会もキリスト教界もこれ以外の方法では維持できないのである。
日本はインドのバサインの地にあるいくつかの村落に、さらに800ドゥカドの定収入を所有している。それらはミサ用の葡萄酒、オリーブ油、その他の必要物資を購入したり、インドから来日する会員たちのための食糧を購入したりするのに使われる。この定収入は、そのほとんどがこうした物資に費やされ、現金で日本にもたらされるのはごく僅かにしかすぎない。ポルトガル国王陛下は、日本で生活しているパードレたちのために、別に毎年1000クルザドをマラッカの定収入の中から支払うよう命じられた。しかしこれらは、今に至るまで全く支払われたことがなかったし、これから先もそれらを手にできる望みはほとんどない。というのも、その定収入は、国王陛下がマラッカで必要ろされている諸経費を埋め合わせられるほど十分なものではないからである。たとえこれらが支払われ、また日本にさらに2000ドゥカドが施されようとも、それらは、日本が必要としている諸経費には十分ではないであろう。なぜなら、日本では毎年8000クルザド以上の収入が必要であり、しかもその経費はキリスト教徒とカーサが増えてゆくにつれて、日を追う毎に増大しているからである。
既述のように、茂木と長崎を除き、ここ日本では世俗的なものであれ宗教的なものであれ、我々は日本人に対する裁治権を何ら有していない。というのも、世俗的な裁治権は殿と呼ばれている領主たちに帰属し、宗教的な裁治権は認識されていないからである。なぜなら、日本人は他の人種とは異なる特質の持ち主であるため、我がイエズス会員は、インドでのように、裁治権を日本でも担当することができないからである。したがって、我が主が日本教会に別の扉をお開きになって宗教的な裁治権を導入して下さらない限り、司教その他、日本人を司牧する職務を負った高位聖職者を、ここ日本に派遣しようと努めるべきではない。その理由は以下の通りである。当地日本の特質は、しかるべき裁治権を有している高位聖職者や外国人司祭を受け入れないこと、日本のキリスト教徒はあのように重い信者としての責務に堪えられるほど成熟していないこと、日本のキリスト教界は、その中で優先順をつけられるほど多くもなければ統一も取れていないこと、領主たちの絶え間ない変遷や転封が原因で司教座聖堂の創設が不可能なこと、国王も領主も自領内で高位聖職者がしかるべき裁治権を持つのを許容しないこと、これらがその理由である。
以上が、日本のレジデンシアに関する記述である。
第二十二章 当管区の上長が有すべき資質と権限について
(略)
この準管区長はヨーロッパの管区長たちよりも優れた素質と健康な肉体の持ち主で、得に航海のことを十分に理解していなければならない。というのも彼はほとんどの場合、船に乗りつづけて各地に行かねばならず、それは非常に時間のかかる苦労の多い危険な航海だからである。この準管区長も最低五年間はその職に留まり、その間にマルコ。マラッカ、シナ、日本の諸地方を一度は巡察しなければならない。それらの地方を短時日で巡察することは不可能だからである。しかし、モンスーンの時季にはできる限りマラッカにいるようにしなけらばならない。なぜなら、マラッカは南部地方への航海に好都合な場所だからである。この準管区長は、自分の活動について常時管区長に報告し、全面的に彼の配下にあって服従しなければならない(既述のように、この準管区長はマラッカ、マルコ、シナ、日本の準管区長を兼務してはならず、マレイ人とマルコの準管区長であらねばならない。彼はインド管区長に服するであろうから、上長を更迭する権限以外は、本章で言及してある諸権限を持つだけで十分であろう。またインド管区長は必要と判断したならば、彼にレジデンシアを新設する権限も与えるべきである)。
同じように、日本の布教長も、この南部地方の準管区長が置かれていない間は、徳操と賢慮を十分に兼備し、その点に関しては、インド管区長自身に劣っていてはいけない。これは以下の理由によるものである。
第一に、日本は東洋全域の中で最上の布教事業であり、より多くの成果と重要性を持っている。日本では様々の非常に重大な問題と新規の布教事業が日々生じていて、それらは着手すべきか、もしくは放棄すべきかのいずれかである。しかし日本はインド管区長の許から極めて遠く離れているので、日本の布教長自らがそれらの問題と布教事業の着手の是非に裁決を下さねばならない。それゆえ、日本の布教長は、徳操と賢慮を十分に兼備していないと非常に深刻な過ちを犯すことであろう。
第二に、日本人の有する様々な特質と習慣は、他のあらゆる人種と著しく異なっているばかりか相反してさえいる。そのため、日本人はありとあらゆる事柄を、他の人種と反対に行なうことを故意に学んだかのように見える。それゆえ、日本を自らの眼で見て、さらにその経験を積んで日本のことに精通している者でなければ、様々な情報だけで、日本を理解して統轄することは不可能なのである。
第三に、我がイエズス会員たちの日本での生活方法は、ヨーロッパやインドの他のカーサやコレジオでのものとは、あらゆる事柄において、全く異なっているものである。
第四に、日本は極めて広大な一地方である。各国にはカーサとレジデンシアがたくさんあり、実に大勢の我がイエズス会員がいる。したがって、この布教長は数多くの権限を持たなければならないので、著しく賢慮を欠いているならば、数々の過ちを犯すに違いないからである。
第五に、日本にいる我がイエズス会員たちは、あのような僅かの現金での資産以外に生計の手段はなく、この資産によって日本のイエズス会は維持されている。この資産は貨幣であり、支出は押さえることができないので、日本の布教長が賢慮を持ち合わせていないと、彼は実に容易に、短時日のうちにすべてを崩壊させてしまいかねず、その結果、パードレもキリスト教徒も、何一つ救済策のない状態に陥る可能性がある。それゆえ、日本を統轄すべき布教長の選出にあたっては細心の注意を払わねばならない。そして何にも増してインド管区長は、日本の上長たちとレジデンシアにいるパードレたちのために、そしてセミナリオのために作成された諸規則が遵守されるように仕向けねばならない。というのも、それらの規則は数々の助言を取り入れ、また私が日本での経験を積んだ後に作成されたものだからである(もし日本がインド管区から独立した管区となるならば、日本管区長は、インド管区長よりも広範で数多くの権限を持たなければならない。たとえ独立しなくとも、日本準管区長にはインド管区長と同等の権限が不可欠である。その理由であるが、日本はローマからもインドからも余りにも遠く離れており、国内ではいつも変動が絶え間ない。それに日本では改宗の機会が生じると、その機会に応じてすべてが増大し、新たに作り出されてゆくこととなる。その結果、日本準管区長には書簡を認めたり、総会長猊下あるいはインド管区長からの回答を入手したりすることが期待できないからである。日本は、カーサやレジデンシアの面ではインド管区には引けを取ってはいないし、より重要な布教事業をいくつも抱えているので、この日本の管区長や準管区長の人物については、あらゆる点でインド管区長よりもできる限り優れていることが求められている。というのも、日本ではすべてが新たに作られている途上であり、イエズス会をはじめとして日本教界全体も、日本を統轄する人物の有する思慮の深さと優れた能力に依存しているからである。
この日本布教長の権限は、布教長のために作成された規則の指令にしたがって、ある点では広範なもの、別の点では非常に縮小されたものでなければならない。彼の統轄すべき期間もやはり五年間ろしてよい。日本布教長は非常に有能な人物、なかんずく堅固な意志と勇気の持ち主であらねばばらない。日本で生じている様々な困難と危険は実に絶え間なく、深刻なものだからである。過酷を極める迫害も頻繁に起きているので、もしこの布教長が大いなる勇気を欠き、恐怖による心の動揺を抑えられない人物であるならば、彼は自らの身と他の人々、それに日本のキリスト教界を極めて深刻な危険に陥れる可能性がある。
(以下略)
第三十九章 各布教地に配置すべき会員の人数と、その資質について
(略)
キリスト教徒の中にあるレジデンシアについてであるが、既述のように、日本は最も重要な地なので、なお一層十分に会員を補充しなければならない。日本のための働き手たちについては、その人数を確定することはできない。また、たとえ日本向けの会員を確保し、彼らを養うための手段を獲得したとしれも、日本が必要としているだけの働き手を日本に派遣することはできないであろう。しかし、先に述べたところにしたがって、日本にはできる限り大勢の会員を派遣しなければならない。たとえポルトガル人のレジデンシアその他、すべてのレジデンシアで会員の不足が生じても、日本は、既に述べた理由から、管区長が会員を補充すべき筆頭の布教地だからである。
(以下略)
(東洋文庫734『東インド巡察記』を底本としました。)
武江年表 一
武江年表(一部)
斎藤月岑著
青字は隆慶作品で描かれた事柄の関連記述。
天正十八年(1590)庚寅
今年八月一日、台駕はじめて江戸の御城へ入らせ給へり。そのころは御城の辺、葦沼汐入等の地にして田畑も多からず、農家寺院さへ所々に散在せしを、慶長に至り始めて山を裂き地をならし、川を埋め溝を掘り、士民の所居を定め給ひしより、万世不易の大都会とはなれり。しかりしよしこのかた、万民干戈の危きを忘れ、鼓腹して娯みを極め、泰平の御恩沢に浴し奉るのありがたき事、申すも中々おろかなるべし(中古より八月一日を田の実と号して佳節とす、わけても今年御打入八月一日なるゆえ、毎年八朔の御祝儀五度の佳節と等しく、御嘉例となりしとぞ)。○今年七月、北条氏政一家滅亡、小田原落城あり。○「事跡合考」に、御入国の後、不日に行徳の塩を江戸へ運送の為、彼の地より船の通路を掘らしめ給ふ。是れ今の高橋の通りなりといへり(天文より元亀のころは、行徳より小田原へ塩の年貢を納めしよし、彼の地の口碑に残れり)。○八月、平河天満宮、御城内梅林坂より御城の北平河口へ移さる。○夏伊勢の与市といへる者、銭瓶橋の辺(此の時は未だ此の橋無レ之)に銭湯風呂一ツを立つる。風呂銭永楽一銭なり。皆人珍らしきとて入る(「慶長見聞集」に出づ)。○円満山広徳寺(今は下谷にあり)小田原に在りしが、今年北条家滅亡の後江戸へ来り、今の昌平橋の沼地を草庵を営む(此の時の住持を希叟和尚といふ。後神田へ移り、夫より後寛永中今の地へ移る)。○天正の頃、関東に乱波風間といへる強盗あり。党を結び陣中へも忍び入りて盗みをなす。諸人恐れたるが、今年より何れへか逃退て其の噂絶えたり(「北条五代記」に出づ)。
均(正しくは竹冠)庭云ふ、此の条いたく誤れり。乱波とはそれらが総名にて、其の中に風魔といへるが有りしなり。これは軍中にめしつかひし間者、しのびのわざをなす者どもなり。されば「北条五代記」に、是れ等のものどもを国持大名衆扶持し玉ひぬ。氏直も乱波二百人扶持す。同類の中四頭あり。山海の両賊強竊の二盜是れなり。これを使ひて敵国を侵し、謀計調略するが為めなり。天正の頃のみ有りしものにはあらず。但し、かの風魔は氏直の時の者なれば、天正十八寅年小田原滅亡してうせたるなり。委しくは本書を見るべし。
天正十九年(1591)辛卯 正月閏
正月、関八州の諸家、歳首の御賀として始めて登城ありしと云ふ。○十一月、関東諸社に、御寄附領の御朱印を給はる。○赤坂一ツ木町屋出来る。○十二月、関八州通用のために、大判小判を造らしめ給ふ(此の時代銀一枚凡そ金壱両にあたるといふ)。○小田原の霊鳳山種徳寺、今年糀町へ移り、後赤坂一ツ木へ移る。○[均補]此の年、奥州九戸乱に依りて御進発。
文禄元年(1592)壬辰 十二月八日改元
御城の西北の地、大御番組衆宅地を給はる。六組に分ちて、一番より六番までの名目あり(是れより、番町といふ)。○田島山誓願寺、天正十八年小田原より当国へ呼下し給ひ、今年本銀町の地に寺院を給ふ(慶長元年又須田町へ移さる。其の外の寺院多く江戸へ移させ給へり。また彼の地の商農も次第に江戸へうつれり。吉原傾城町の開発人庄司甚右衛門は、北条家に仕へし者の子なり。父果てて後小田原落居あり、其の頃年十五歳にてありしが、家来の介抱にて江戸へ下り、所縁のものにちなみて居住しけるが、成長の後傾城町開基の事をはかり、官許を得て廓をひらけり。尚元和の件にしるせり。又小田原の豪家増田太郎右衛門友嘉、明人に五霊香といふ眼薬の方を授かりしが、北条家亡びて後江戸に来り、大いに験ありて行はる。今は他人の家に製せり)。
均庭云ふ、吉原開基の事は別に論あり。目薬を売りし益田が事、「事跡合考」抔によりて見れば、もと小田原にて豪家とも思はれず。[均補]此の年、太閤秀吉公朝鮮征伐初まる。
文禄二年(1593)癸巳 九月閏
天正十八年の後、品川へ寺地を給はりし日照山法禅寺(開山英誉心阿上人)、今年道三河岸へ移る(天和三年深川今の地へ移る)。○惺窩先生(藤歛夫)始めて江戸へ下る(旅寓の室中に扁して我有と書く)。台命を得て「貞観政要」を読まれし閑暇、四景我有レ解の文を作りて、東関の遨遊とすと(四景とは士峯、武野、隅田、筑波を云ふ。其の文は先生文集に見えたり、長ければ略す。「惺窩和歌集」、東に下りはべる時、
たかなさけかくやは家をおくりゆかむ 都の月の東路のそら
○天正の頃常陸国江戸崎といふ所に住する、諸岡一羽と云ふ兵法の名人あり。土子泥介、岩間小熊、根岸菟角と云ひて、名を得たる弟子三人あり、諸岡重病の時、菟角のみ病人を見捨てて逐電し、江戸へ来て微塵流と名付け、一派を起して弟子多く隋へ、上見ぬ鷲の勢ひをなす。一羽は三年過ぎて病死したり。両人の弟子莵角が事を聞きて、弥憤り、両人の内江戸へ下りて莵角を討つべしと議し、鬮をとりて小熊に当りしかば、小熊は江戸へ赴く。泥介は国に止まり、鹿島の社に莵角調伏を祈る。小熊江戸へ下りて、文禄二年九月十五日、日本橋にて莵角に出合ひたり。官府より此の事を聞き、刀脇差を預り、木刀の仕合をゆるし給ひしかば、両人木刀を持ちて立合ひける。莵角打負けて、其の場より逐電して行方を知らずとぞ(以上「北条五代記」の文を略す。曳尾庵が編の「我衣」に、千太が谷八幡宮の額に莵角と名書したる額ありしと記せり。今は見えず)。([正誤]小熊莵角の出会ひを、「北条五代記」画上の書入れになづみて、日本橋の上とす。案ずるに此の時は未だ日本橋の懸らざる前なり)。
均庭云ふ、小熊といふ者莵角といへる者と戦ひし処、日本橋にあらず。御城の大手大橋のもとゝいへれば今の常盤橋にや。此の時に奉行衆橋の両方に弓鑓を以て警固あり、小熊は橋の西より出で、莵角は東より出でむかう、豊後守といふ人是れを見て、莵角御城へ向ひて闘ふ。如何で勝を得んといへりとぞ。果して莵角は橋桁に押付けられ、橋げた腰より下にありければ、川の中へ彼の者さかさまに落ちたりと云ふ。此の事「北条五代記」作者の三浦氏、親しく見聞せし処なるよし、其の書にいへり。是れ日本橋ならぬこと知るべし。
(平凡社東洋文庫『増訂武江年表1』を底本としました。)
上の東洋文庫『増訂武江年表1』の補注者均庭こと喜多村信節の「補正略」が『続燕石十種』第一巻にあるので、内容は重なるが以下に抄録。
『武江年表補正略』 均居喜多村翁手録
天正十八年条下
○天正の頃、関東に乱波風間といへる強盗あり、党を結び、陣中へも忍び入て、盗をなす、諸人恐れけるが、今年より何れへか逃退て、其噂絶へたり、(北条五代記に出)
此条いたく誤れり、乱波とはそれらが総名にて、其中に、風广といへるが有しなり、これは、軍中にめしつかひし間者、しのびのわざをなす者どもなり、されば、北条五代記に、是等のもの盗人にして盗人にあらず、此者どもを、国持大名衆扶持し玉ひ、又、氏直も乱波二百人扶持す、一の悪者あり、かれが名を風广といふ、同類の中四頭あり、山海の両賊、強窃の二盗是なり、これを使ひて敵国を侵し、謀計、調略するが為也、天正の頃のみ有し者にはあらず、但、かの風广は氏直の時なれば、天正十八寅年、小田原滅亡してうせたるなり、委しくは本書を見るべし、
天正十九年の条下
此年、奥州九戸乱に仍て、御進発、
文禄元年の条下
此年、太閤秀吉公朝鮮征伐始る、
○吉原傾城町の開発人庄司甚右衛門云々、
吉原開発のことは、別に論あり、
○小田原の豪家増田太郎右衛門友嘉、明人に五霊香といふ眼薬の方を授りしが、北条家亡びて後、江戸に来り、本町四丁目に住して、彼薬を售ふ、
目薬を売し益田が事、事跡合考抔によりてみれば、もと小田原にて豪家ともをもはれず、
文禄二年の条下
○天正の頃、常陸国江戸崎といふ所に住る、諸岡一羽といふ兵法の名人あり、土子泥介、岩間小熊、根岸菟角と云て、名を得たる弟子三人あり云々、
小熊といふ者、菟角といへる者と戦ひし処、日本橋にあらず、御城の大手大橋のもとゝいへれば、今の常盤ばしにや、是時、御奉行衆、橋の両方に、弓、鑓を以て警固あり、小熊は橋の西より出、菟角は東より出むかふ、豊後守といふ人、是を見て、菟角御城へ向ひて闘ふ、如何で勝を得ん、といへりとぞ、果して、菟角は橋桁に押付られ、橋げた腰より下にありければ、川の中へ、彼者さかさまに落たりと云、此事、北条五代記作者の三浦氏、親しく見聞せし処なるよし、其書にいへり、是日本橋ならぬこと知るべし、
(中央公論社『続燕石十種』第一巻を底本としました)
二
武江年表(一部)
斎藤月岑著
赤字は本文引用箇所。
慶長元年(1596) 丙申 七月閏
十二月二十七日改元
(中略)
慶長ニ年(1597) 丁酉
神田に光明山感応寺(開山日感上人なり。昨年地所拝領、今年寺を建つる。今谷中に在り、神田感応寺といふ)
慶長三年(1598) 戊戌
(前略)○八月、三縁山増上寺。日比谷より今の地へうつる(其のころは今のヤヨスかしの南、日比谷町の方にありしとぞ。この辺をひゞや町といふ事、むかしは潮入の地にして、漁人海中に枝付の竹を並べ立て、魚の入るのを待ちて取る。これをひゞといふ。正字なし。今も海苔をとるに此のひゞを用ふ。ひゞかせぎをなすもの住居の地なれば、ひゞや丁といへり。後芝口にうつされても、ひゞや町と号しけるが、後に芝口と改む。新肴町、弥左衛門町、畳町も此旧地に有りしとぞ)。(後略)
慶長四年(1599) 己亥 三月閏
(中略)
慶長五年(1600) 庚子
小判に光次と墨書せしを極印に改めらる(光次は徳乗の名乗なり)。○六郷橋再び掛かる(長さ百二十間と云ふ)。○始めて京都に所司代を置かる。
均庭云ふ、濃州関ヶ原御勝利の後、始めて関東より京都所司代を差置かる。奥平美作守(信昌)これを勤む。
○池上本門寺大塔建立(翌年に至り全く成就す)。
慶長六年(1601) 辛丑(かのとうし) 十一月閏
五月、大小分判(ぶばん)、挺銀(ちょうぎん)の形制を定め給ふ(駿河江戸判など[手偏に不]といふ)。大黒銀も此の時より肇まる。
○「貞観政要」板成る。「孔子家語」「武経七書」板行せしめ給ふ(御治世以来の刻本こゝに始れるべし)。
無声云ふ、家康僧三要に命じて、慶長四年「孔子家語」を開版せしむ。これ其の権輿(けんよ)なり。同年又「六韜(りくとう)」及び「三略」の開版あり。「貞要」観政は其の翌年に成り、「七書」は慶長十一年に刊行す。皆活字版にして世に之を駿河版と称す。
○安南始めて奉レ書。寛永九年まで通路不レ絶。柬埔塞(カンボジア)始めて奉レ書、寛永四年の後絶えたるにや。呂宋始めて奉レ書、慶長十八年迄。今年より寛永十一年まで三十三年の間、御朱印船とて我が国々商人、亜馬港(アマコウ)、ノヒスハン、暹羅(シャム)、安南、呂宋等の国々に、年毎に行きては商売し、此の外にも私に行きて商ふ事年々絶えずとなり(以上「草廬雑談」所載)。
○十月十六日、大地震、房総の山を崩し、海を埋め、丘と成し、又海上俄に潮引く事、三十余町干潟と成る。十七日、潮大山の如く巻上げ流死夥し。
○十一月二日巳の刻、駿河町幸之丞家より火を出す。此の大焼亡に江戸一宇も残らず、人多く死す。畢竟町中草葺故火事絶えず、此の序(ついで)に皆板葺になすべきよし、官府より命ぜられければ、町中ことごとく板葺に作る所に、滝山弥次兵衛といふ者、諸人に秀でて家を作らんと工(たく)み、海道表棟より半分瓦にて葺き、後半分をば杉にて葺きたり。皆人沙汰しけるは、本町二丁目の滝山弥次兵衛は、家を半分瓦にて葺きたり。さても珍らしや奇特哉と、人ほうびして異名を半瓦弥次兵衛と云ふ。是れ江戸瓦葺きの始めなり(以上「慶長見聞集」に出づ)。
慶長七年(1602) 壬寅
(中略)
慶長八年(1603) 癸卯
今年、江戸町割を命じ給ふ。「慶長見聞集」に、日本六十余州の人歩をよせ、神田の山を崩され(今駿河台の東南なり)、南の入海四方三十余町埋めさせ、在家を立てさせ給ふと云ふ(是れまでは大名小路の辺、八代洲河岸、道三河岸の辺、麹町の辺等に、町屋連りてありしとぞ。凡そ江城の辺、むかしは千代田、宝田、斉田、芝崎等の村なり。南伝馬町、小伝馬町は千代田村の内なり。大伝馬町は宝田村のうちなりしとぞ。千代田、宝田ともに今の竜の口大手の辺ならんといへり。福田村は本石町、銀町の辺也。桜田村は今の桜田御門の辺なりしが、御城御造営の時、今の地へ移させられしよしなり。麹町は最も古く、御打入の時開き給ひしよし「紳書」にいへり。赤坂一ツ木の町屋になりしは、天正十九年の事なるよし或る古記に見えたり。三河町は江戸御打入の砌、三河の国より御小人を召され、此の所に旅宿の地を開かれ、こゝに居らしめ給ふ。尤も時節を定め、かはる/\本国より此の所に交代せしが、後に町屋に改まりしかど、古名を其の儘に三河町と号すると云々。猿楽町といふは観世太夫の屋敷ありしを、後外へ移されしよし「紳書」にあり)。
(中略)
◯この時、日本橋をはじめて掛けらる。「見聞集」云ふ、大川なれば、川中へ両方より石垣を築出し掛け給ふ。敷板の上三十七魔四尺五寸、広さ四魔弐尺五寸なり。又云ふ、この橋御普請の時分、日本国の人あつまりて掛けたる橋なり。此の橋の名を人間はかつて以て名付けず、天よりや降りけん地よりや出けん、諸人一同に日本橋とよびぬる事、希代不思儀と沙汰せりと云々。
(後略)
慶長九年(1604)甲辰 八月閏
二月、日本橋をもとゝ定められ、東海道及び越後陸奥等の諸道へ、一里塚を築かしめらる。三十六丁一里の積りなり(道の左右へ松を栽えしめられ、夏は木陰に休らひ、冬は風を除きて旅人の裨益となし給へり)。○永楽銭の代りに鐚四文を当て用ふ(青木氏の説に、びた銭五十貫文金壱両に当るといへり。此の時代銀貴く米賎くして、十匁に一石を易ると見えたり。諸物価も賎ければ、武家のうれひもなかりしよしなり)。○五台山源空寺、湯島に開創(開山円誉門上人)。○[均補]此の年、朝鮮より使来りて和平を乞ふ。故に生捕の者を帰さしむ。
慶長十年(1605)乙巳
増上寺門前の老翁、吉夢を感じて和尚に告ぐ。翌日、伽藍営構の台命を下し給ふ。夫より本堂回廊等御建立ありて大伽藍となる。方丈も此の時御造営有りしと云ふ(「事跡合考」云ふ、此の本堂の惣柱槙の木を以て造る故に、千歳に至りても不朽なりといへり)。○大城御普請に付き、柳町の馬場御用地になり、この辺の遊女屋ども元誓願寺前へうつる。○此の時代追々に道橋多くなり、武家藩邸移転多し。○南蛮よりタバコ、蕃桝(とうがらし)を渡す。長崎にて桜馬場へはじめてタバコを栽うる(一説、天正中南蛮人持ち渡るともいふ)。
慶長十一年(1606)丙午
(前略)○大城を築き給ふ。三月より始まり九月に成就あり(この時加藤肥後守清正、肥後国より大石を献れり。芝浦よりひかるゝ時、自ら異様の出立して音頭を取り、曳かしめられしといふ)。○暹羅(シャム)へ御書并びに物ども賜はる。彼の国の使も常に来る(寛永六年の頃迄なり。商船は其の後年々渡り来れり)。占城(チャンパ)并びに田弾(デンタン)へ御書被レ下(以上「草蘆雑談」にあり。草蘆云ふ、田弾といふ国名不詳。もしくは番丹のあやまりかと云々)。(後略)
慶長十二年(1607)丁未 四月閏
二月十三日より十六日まで、御城の辺にて、観世金春勧進能興行あり。
均庭云ふ。江戸御城御本丸と西御丸との間にて興行す(詳しく「慶長見聞集」出づ)。
○同二十日、同所にて、出雲の神子お国、勧進哥舞伎興行あり(「見聞集」に、おくには出雲国小村三右衛門といふ人の娘云々。おくにかぶきの事、山東の「骨董集」にくはし)。○煙草諸州へ弘まる。上下これを翫ぶ(始めは葉を刻みて紙に貼し、これを巻きて火を吹き、其のけふりを吸ひ、其の後は、きせるを用ひて紙に貼せず。きせるの製は真鍮を用ひ、或ひは竹のラウを用ふ。又、丈長きものを下部にもたせて、遊行せる図も見えたり)。○近衛関白信尹公御下向あり。此の時、梅若寺を木母寺と改め給ひ、額を給ふ。
こたへせば我いでゝこし都鳥とり あつめても事とはましを
来て見るにむさしの国の江戸からは 北とひがしの角田川なり
○閏四月、朝鮮信使初めて来聘(正使呂祐吉、副使慶邏、従事丁好寛)。○八月八日、客星現ず。
慶長十三年(1608) 戊申
(中略)
慶長十四年(1609) 己酉
三月四日、月の容方(しかく)にして現はる(「皇年代略」に、方形の月出づ、満没如レ春)。○四月、島津侯琉球を征して中山王尚寧を将ひ来らる。○八月、阿蘭陀始めて入貢奉レ書、唐船始めて来る。○煙草御禁制(一説に、元和元年ともいふ)。秋、品川海道筋、西山際より海端まで、三十間余の道幅を広げられ、往還自由をなさしめらる。
慶長十五年(1610) 庚戌 二月閏
(中略)
慶長十六年(1611)辛亥
正月三日、竜口蒲生侯御藩失火。其の門に仙人羅漢の彫物ありて美麗なりしが、此の時焼けたりとぞ。○琉球聘使来る。○京其の外耶蘇宗再発。○竜徳山雲光院、阿茶局建立(馬喰町の続きなり)。○六月二十四日、加藤肥後守清正卒す。○官医養安院正琳卒す(四十七歳、玉翁と号す。山城国の人なり。曲直瀬道三の門人にして、師の姓を冒す。慶長十年江戸へ召されて官医となり、後俸を嫡子正円に譲りて別荘に退去す)。
慶長十七年(1612)壬子 十月閏
亜馬港臥亜はじめて奉レ書、元和七年迄。新伊西把弥亜始めて奉レ書、其ののちなし。○七月二十四日、大霰降る。○大鳥逸兵衛并びに同類誅せらる(喧嘩を好み仕切りをなすの悪党なりしとぞ)。
均庭云ふ、逸兵衛が事、三浦氏の「見聞集」に見えて、牢内の旧習を改め法式を立つといへり。
慶長十八年(1613)癸丑
漢乂刺亜始めて奉レ書。○六月七日、神田社地より、南伝馬町へ始めて御旅出あり。○九月、千葉家後胤国分庄兵衛正勝といふ人、先祖相伝の捺物を牛御前へ寄進す。○十二月、耶蘇宗の者、浅草に於て誅せらる。○強盗勾坂甚内同所に誅せらる(浅草元鳥越の辺、其の頃の刑罪場なり。此の所の橋を、今も甚内橋といふ。八月十二日を以て今もまつりをなすといふ)。
均庭云ふ、凡そ御仕置ありし処を地ごくと呼べり。糀町三丁目の裏なる地を地ごく谷と云ふ。「貞享江戸鹿子」に、昔は成敗場にて人を殺したる所なれば名づくと云へり。「紫の一もと」にも、此の谷のこと見えたり。浅草刑罪場のこと、「事跡合考」に、御入国前は本町四丁目なり、御入国後は、浅草旅籠町あり、其の後、今戸橋の南木戸際、西方寺と云ふ寺の前、少し土高き処明地にて、十間計りの長さ、幅ニ間計りもあらん所に移されたり。又、其の後、今の小塚原に移さる。西方寺は今、俗にだうてつと呼ぶ寺なり。此の道心者、罪人の為に昼夜念仏して居りしが、死後西方寺に葬れり。故にしか呼ばるなり。「合考」又云ふ、はたご町に刑罪場ありしとき、其の事に汲み用ひたる井、後までもありし也。此の所の橋を、其の頃の俗唱に地獄ばしと云へり。享保中より御蔵前火除の為として、浅草通り明地とせられし故、かのはたご町南木戸も、彼の井の形残りて有りしも、あとかたなく成りしなり。宝永正徳の頃まで、彼の木戸かげに埋もれたる井の形、丸く地上にあらはれたりしは、予も往返に見知りたることなり、と云へり。橋は甚内橋に非ざるを思ふべし。甚内がこと古老云ひつたふ。彼を召し捕しとき瘧を病み居たり。これに依つて、今もこの疾ひのもの願をかくるに、往々しるしありといふ。
(中略)
慶長年間記事
(前略)△江戸町に、大谷隼人といふもの、居風呂(すえぶろ)といふものをたくみ出す。
均庭云ふ、「見聞集」予が見し本には、すい風呂とあり。そのかみ湯風呂と云ひしは、蒸し風呂と聞ゆ、それに対して湯を沸かしたるを、すいふろといふなるべし。「遣老物語」の内、永禄已来出来たる物の中、すいふろと有りて、「朝鮮物語」名古屋陣中より出来たり、と見ゆ。
(中略)○この頃、傾城屋、定まりたる廓はなく、所々に散在す。麹町八丁目に十六、七軒、京六条より来る。鎌倉河岸に十四軒、駿河弥勒町より来る。大橋の内柳町に二十余軒、慶長十年に、元誓願寺前へ引越す。大橋は今の常盤橋にて、柳町は今の道三河岸の事なりと云ふ。醒世翁の「奇跡考」にも、前の説を挙げて後に云ふ、是普通の説なれど、「事跡合考」、今の京橋具足町の東、葦沼の汐入りを築き立て、傾城町とす。其の地取り丸くして、一方口にして、南の片側をすみ町、北の片側を柳町と名づけ、中一筋の通りを中の町と名づくと云々。この説によれば、慶長の頃の傾城屋は、京橋の柳町にや。今猶、柳町、すみ町ありと云々(道のほとりのふたもと柳、風にふかれてどちらになびこ云々といふ小うた、この頃はやりしなり)。○この時世、風呂屋湯女はやり出す。(「見聞集」に、天正の頃の銭湯の事を云ひて後に云ふ、その頃は風呂不たんれんの人あまたありて、あゝあつの湯の雫や、息が詰りて物もいはれず、烟にて目もあかれぬなどゝ云ひて、小風呂の口に立ちふさがり、ぬるき風呂を好みしが、今は町毎に風呂あり。びた十五銭二十銭づゝにて入るなり。湯女といひてなまめける女は、二十人、三十人ならび居て、あかをかき髪をすゝぐ。扨又、其の外にようしよくたぐひなく、心ざままいうにやさしき女房ども、湯よ茶よといひて持ち来り戯れ、浮世がたりをなす云々とあり。「落穂集」に云ふ、風呂屋江戸所々にあり。朝よりわかし晩は七時に仕舞ひ、昼のうち風呂に入る人の垢を流し候湯女も、七つ切りに仕舞ひ、夫よりは身の仕度を調へ、暮れ時に至り候へば、風呂の上り湯を用ひたる格子の間を座敷にかまへ、金の屏風などを引廻し、火を燈し、件の湯女は衣服をあらため、さみせんをならし小歌やうのものをうたひ、客集めをせしなり。右の風呂や木挽町辺にも一、ニ軒ありしと云々)。(後略)
(平凡社東洋文庫『増訂武江年表1』を底本としました。)
上の東洋文庫『増訂武江年表1』の補注者均庭こと喜多村信節の「補正略」が『続燕石十種』第一巻にあるので、内容は重なるが以下に抄録。
『武江年表補正略』 均居喜多村翁手録
慶長三年の条下
此年、太閤薨じて朝鮮征伐やむ、
慶長五年の条下
○始て京都に諸司代を置る、
濃州関ヶ原御勝利の後、始て関東より京都諸司代を差置る、奥平美作守信昌これを勤む、
慶長九年の条下
此年、朝鮮より使来りて、和平を乞ふ、故に生捕の者共を帰さしむ、
慶長十二年の条下
○二月十三日より十六日まで、御城の辺にて、観世、金春勧進能興行あり、同廿日、同所にて、出雲の神子お国勧進歌舞妓興行あり、
江戸御城御本丸との間にて興行す、
[頭書]見聞集に、慶長十二年二月十三日より、御本丸と西丸との間、今のもみぢ山下の辺にて、観世、今春が乞奉りしに任せられて、勧進能興行す、同廿日、くにといへる女来りて、かぶきをかの徒の跡にてせしことも有しに、諸人をなぐさめ、士風を和らげ玉ひしゆへ、此頃の江戸のさま、思ひやるべし)
慶長十五年の条下
一説、十五年庚戌、琉球国王、駿府、江戸の御城に来朝す、是、去年、島津家へ仰付られ、彼国征伐、降参するに依てなり、
慶長十七年の条下
○大鳥逸兵衛、并同類誅せらる、
逸兵衛がこと、三浦氏が見聞集に見へて、牢内の旧習を改め、法式を立といへり、
慶長十八年の条下
○十二月、耶蘇宗の者、浅草に於て誅せらる、
○強盗勾崎(ママ)甚内、同所に誅せらる、(浅草元鳥越の辺、其頃の刑罪場なり、此処の橋を、今も甚内橋といふ、八月十二日をもつて、今もまつりをなすといふ)
凡、御仕置ありし処を、地ごくと呼り、糀町三丁目の裏なる地を地ごく谷と云、貞享江戸鹿子に、昔は成敗場にて、人を殺したる処なれば名くと云り、紫の一もとにも、此谷のこと見へたり、浅草刑罪場のこと、事跡合考に、御入国後は、浅草はたご町也、其後、今戸橋の南木戸際、西方寺といふ寺の前、少し土高き処明地にて、十間計りの長さ、幅二間ばかりも有ん所に移されたり、又其後、今の小塚原に移さる、西方寺は、今俗だうてつと呼ぶ寺なり、此道心者、罪人の為に昼夜念仏して居しが、死後西方寺に葬れり、故にしかよべるなり、合考又云、はたご町に刑罪場ありし時、其事に汲用たる井、後までもありし也、此処の橋を、其頃の俗唱に、地獄ばしといへり、享保中より、御蔵前、火除の為として、浅草通り明地とせられし故、かのはたご町南木戸も、彼井の形残りて有しも、あとかたなく成しなり、宝永、正徳の頃まで、彼木戸かげに埋れたる井の形、丸く地上にあらはれたりしは、予も往返に見知りたること也といへり、橋は甚内橋に非ざるを思ふべし、
甚内がこと、古老云つたふ、彼召捕しとき、瘧をやみ居たり、これに依て、今もこの疾ひのもの、願をかくるに往々しるしありと云、
慶長十九年の条下
此年、江戸御城御普請、諸大名被�仰付�、
慶長年間記事の条下
○江戸町に大谷隼人といふもの、居風呂といふものをたくみ出す、
見聞集、予が見し本には、すい風呂とあり、そのかみ湯風呂といひしは、蒸風呂と聞ゆ、それに対して、水を湧したるをすいふろといふなるべし、遣老物語の内、永禄以来出来たる物の中、すいふろ、と有て、朝鮮物語、名古屋陣中より出来たり、と見ゆ、
(中央公論社『続燕石十種』第一巻を底本としました)
三
武江年表(一部)
斎藤月岑著
青字は隆慶作品で描かれた事柄の関連記述。
元和元年(1615)乙卯六月閏 七月十三日改元
太田姫稲荷社建立(するが台)。○六月十一日、古田織部正卒す(一説、六年庚申とす)。○六月十五日、山王御祭礼、出し練り物始めて御城内へ入る(大伝馬町太鼓に鶴の出しも、此の頃既にありしよし、「事跡合考」に見ゆ。茅場町、御旅所は、寛永中地所を給はる所といふ。此の地の天満宮も、春日の局より山王神主へ附属ありて、当所に祀らるゝと云々)。○小石川白山権現社勧請、其の旧地は今云ふ御殿跡の内なりしとぞ。後承応に至り今の地へ移る。○[均庭]当年禁裡仙洞并びに武家及び仏家等の法式を定めらる。
元和二年(1616)丙辰
神田明神社、神田橋内より湯島へ移る。○築土明神、牛込御門外より今の所へうつる。○二月、足立郡前川村観了寺本尊、行基弁(正しくは艸冠)作の千手観世音成りしが、十倍一丈八尺の新仏を造り胎中に納む。○三月、庄司甚右衛門願ひに付き、傾城町の場所一ケ所に下し給ふ(其の地は葺屋町の末にて二町四方なり)。○十月、神田川掘割并びに堤を築かせらる。○麻疹流行。○朝鮮人来聘。○羅山先生「丙辰紀行」成る(此の紀行にいふ。爰に寺あり、尊き観音ましますとて、人多く参詣すと申しければ、大士の日、人に誘はれ余も参りける。げにも人のいふやうに、男女群集する事、京の清水よりも多く見えける云々とあり。浅草寺観世音をいふ也。今嘉永にいたりて三百三十余年の昔なり。今時の繁昌万倍なる事思ふべし。「事跡合考」に云ふ、寛永の頃までは、今の並木町は松並木にてありし。門前より東叡山の岸際まで、蘆一面に繁りし谷にて、一眼に見えけるが、見る内に繁花にはなりしとなん。又寛永の頃並木に桜多くありて、遊観のところとせるよしいひつたへたり)。
元和三年(1617)丁巳
正月十四日、光明山天徳寺焼亡。○神田山智恩寺幡隋意院、下谷池の端へうつる(万治二年今の地へうつる)。○春、目黒不動尊の後、在家より火起きて堂塔焼亡す(此の時霊像煙中を飛び出で給ひて、滝のうへに立ち給ふと云々)。○「朝鮮来貢記」成る、一冊。羅山先生編也。又寛永三年の編もあり。○庄司甚右衛門(小田原産、初名甚内)、官許を得て、遊女屋を一ツに集め、花街を葺屋町の末にいとなむ。翌年十一月、普請成りて、舗を開き商売をはじめ、吉原町と号す(「そゞろ物語」に云ふ、此の町繁昌する故、草の仮屋を破り、西より東より北より南へ町割をなす。先本町と号し、京町、江戸町、伏見町、さかい町、大坂町、墨町、新町などゝ名付け、家居美々敷く軒をならべ、板葺に作りたり。さて又本町を中にこめて、其のめぐりに揚屋町と号し、幾筋とも数しらず、横町をわり、能歌舞妓の舞台を立てをき、毎日ぶがくをなして是れを見せける。其の外勧進舞、蜘舞、獅子舞、角力、浄瑠璃いろ/\さまざまのあそびして興じける云々。○甚右衛門渾名をおやぢといふ。吉原開発の事にあづかりしもの皆壮年なり。甚右衛門は四十に越えたるをもてかくはいへりとぞ。親仁橋も元吉原道路のため、願ひて掛けたるなり。甚右衛門が伝「洞房語園」等に出でて、世人の知る所ゆへこゝに略す。同書に、遊女屋十七軒、揚屋二十四軒、町数五町、方二町とあり。此の時廓中十文字に通りを付して、銜町といふとあり。思案橋、わざくれ橋もこの頃の名なり。是れは元吉原通ひせるわかう人等、吉原へ行かふか行くまじきかと思案する意にて、しあん橋と名づけ、わざくれ橋といふは、其の頃の方言にて、わざくれは今の俗言にマゝヨといふに通ぜり。吉原へ趣くを決意して行く意也。「江戸惣鹿子」に、捨格橋の文字を用ひたれど、編者の意にてこの文字をあてたるなり。但し其の頃の思案橋は今のあらめ橋也。わざくれ橋は安永中よりこれなし)。
均庭云ふ。「見聞集」巻七、「そゞろ物語」にいへるは、庄司甚右衛門が事とは見えず、其の末文に、これに惑ひて、身を亡ぼすに至れる者多かりければ、とかく彼等を江戸に置くべからずとの議にて、女の数を改め給ふに、和尚と号する遊女三十四人、其の次に名を得たる遊女百余人、皆悉く箱根相坂をこし西国へ流し給ふとあり。これ慶長中に一たび加様のことありしなり。「落穂集」にも、慶長五年以前葭原町の事をいへり。然れば甚右衛門は其の後願ひて再興したるなり。右に和尚と号するといへるは、上色の遊女をいへり。又云ふ、思案橋は今の思案橋なるべし。
[無補]七月、浅草御蔵搆土手を築く。
元和四年(1618)戊午三月閏
四月、浅草寺に御宮御建立あり(今の淡島明神の辺なりしといへり)。○日本橋御再興。○御城の辺より失火、桜田迄焼失。○[無補]八月八日、彗星出現。○十月寅の刻、長雲出で、彗星出づ。○目白不動堂御再建。十一面観世音を安んじて、東豊山新長谷寺とあらたむ(中興開山秀算僧正なり)。
元和五年(1619)已未
夏より冬に至りて、毎夜白気東南に出づ。牛の角の如く長さ数十丈、又彗星東北にあつて火炎の如し。○五月より八月まで大旱。五穀登らず、人馬多く死す。○大坂御在番始まる。○長谷川豊前と云ふもの、西久保八幡宮境内にて時の鐘草創。後延宝中芝切通しへ移る。○九月十二日、惺窩先生卒す(九十九歳也。門人林道春先生はいふも更なり。那波道円、堀正意、菅原得菴、松永昌三、三宅寄斎等もつとも世に聞ゆ)
元和六年(1620)庚申十二月閏
福聚山普門院、隅田川の辺より亀戸村へ移る。○三月十四日、後藤(四代)光乗卒す(九十二歳)。○十一月二日、増上寺中興観智国師入寂(七十七歳)。○浅草御蔵始めて建つ。○日本堤を築かせらる(水除の為に築かせらるゝ所なり。日本六十余州の諸侯御手伝ひにて出来候故に、しか名づくる共、或ひは日数六十数日にて出来候故とも云ひて、詳ならず。○[無補]朝鮮より金魚渡る。
元和七年(1621)辛酉
二月、観世太夫一代能興行。其の場所未だ詳ならず。○九月二十二日、小堀遠州侯上京、発足の時友達より馬の餞とて、神奈川のやどりへ酒肴茶など送られし返事、
帰り来んとちぎるもあだし人心さだめなき世のさだめなき身に
均庭云ふ、此の年東福門院御入内、小堀侯上京もこれに依りてなり。
○十二月十三日、織田有楽斎卒す(七十歳。住居の町を元数寄屋町と云ふ。今にあり。有楽斎住居ありし故也)。
元和八年(1622)壬戌
「活所遺稿」、壬戌元旦遇レ雪、雪随�世事�正紛々、閑座聰(正しくは片扁)間東武春、諸葛青蓮開�隻眼�、笑而不レ答当時人、
○十一月、源通村卿関東御下向あり(十二月十六日江戸を立ち給ふ)。江戸にて人にあひ侍りしに、富士にて歌はよみつやといひしかば、
富士のねはみしやいかゞと問ふひとに我こたふべきことの業ぞなき
[均庭]当年、日光御参詣あり。
元和九年(1623)癸亥八月閏
正月、明の福建章(正しくサンズイ)郡竜邑徐勲、浅草寺に観音堂の三字を書して額を掲る。○正月五日、智誉白道幡随意上人寂す(七十四歳。上人在世の時は色々の奇特あり。諸人尊み手書の名号を望み受ける也。慶長年中神田の地に幡随意院創立。檀林と成る)。
○芝増上寺山門は其の頃仰せ付けられ、御下向の時出来と云へり。
○十一月十六日、碁師本因坊日海寂す。(六十四歳。算砂と号す。一書に五月とあり)。
元和年間記事
女歌舞妓を禁ぜられ、男歌舞妓となる(女かぶきといふは遊女なり。勝れたるを称して和尚とよべり。男かぶきになりては、美少年を選びて舞はしむ)。
均庭云ふ、女歌舞妓やみて若衆歌舞妓となる。男かぶきと云ふ名目見えず。
○本所一ツ目より葛西まで掘り通して、一二三四五の橋を掛け、通路せしめ給ふは、元和より寛永の始めの間の事なりといへり(「落穂集」に出づ)。
(平凡社東洋文庫『増訂武江年表1』を底本としました。)
四
武江年表(一部)
斎藤月岑著
青字は隆慶作品で描かれた事柄の関連記述。
寛永元年(1624)甲子 二月晦日改元
伊勢伊雑宮より、長官出口市頭、太神宮を江戸日本橋通三丁目へ祭る。同十年に至り、今の地へ(塗師町代地)遷座なし奉る。○長盛法印霊夢を感じ、永代島に八幡宮を勧請す。同八年再興あり。○目黒村不動堂御再建。○伊西把弥亜使来る。○東叡山寛永寺御建立。開山慈眼大師なり(「事跡合考」に、此の地は藤堂家館の地を寄附ありし所にして、藤堂家の城地伊賀の上野なりし故、居館をさして上野屋敷と云ひしを、略して上野とのみ唱へたりしが、永く此の地の名となれりと云へり。小野照崎社は今の東漸院の辺にありしを、此の時今の地に移さる。又比叡山坂本の名をうつして入谷村の町を坂本町と号す。[正誤]上野の地伊賀の上野に因りてしか唱ふと記せる説は非なり。永禄年中、北条家の、分限帳にも上野の名見えたり)。○道本山霊巌寺開創。(此の時は今云ふ霊巌島の地也。雄誉霊厳上人、他力を以て此の海辺を平治して、建立ありし所なり)。○明石志賀之助寄相撲と号し、四ツ谷塩町にて晴天六日興行す(江戸勧進角力の始めなるよおし、「古今相撲大全」に見ゆ)。
均庭云ふ、「相撲大全」誤り多し。取用ひがたし。明石志賀之助がときは、寛永にはあるべからず。其の故は延宝中の一枚摺りの絵に、これが相撲の図あり。又此のものと丸山仁太夫、京都にてすまふ取れる由物語りあり。侠客伝にも見ゆ。彼の仁太夫延宝頃のすまひ取りなり。志賀之助相撲を、江戸勧進相撲の始めといへるは、非なること知るべし。若しこれを寛永のことゝしても、いたくおくれたり。然にはあらじ。勧進すまふ上み方には、永禄以来文禄中盛りなり。四谷塩町は某の寺社の地にか、さもなくば寛文元年にも法度みえたり。猶くはしくは「嬉遊笑覧」四の巻にいへり。
○二月十五日より中橋に於て、中村勘三郎歌舞妓芝居始めて興行す(此の時櫓は上げしかど、仮建てにてありしとぞ)。○(元和三年丁巳五月、徳永種久といふ人の紀行に、中橋に狂言踊り、上るり、京あやつりの芝居ありし事をいへり。勘三郎興行の前より、芝居見せものゝ街にてありしと見えたり)。○十月十五日、小柄原熊野権現社頭の扉に、竜王の二字現る。三日にして自ら消えたり。よつて別当源昌、竜王の二字を山号とす(以上「別当円蔵院縁起」に出でたり)。○十二月朝鮮人来聘(正使通政太夫鄭立、副使通訓大夫姜弘重、従事辛啓栄)。
寛永二年(1625)乙丑
湯島に麟祥院創立(開山前妙心渭川劉和尚也。この時は報忍山天沢寺と云ひ、寛永十一年天沢山麟祥院と改む。春日の局御菩提所なり。局は寛永二十年癸卯九月十四日逝去あり。従二位麟祥院仁淵了義大姉と号し奉る)。○南八丁堀一丁目に在りし稲荷社は旧社なりしが、此の辺次第に町屋建ちつゞきし故、今年の春摂社八幡宮のありし処へ社を移す(当時の所也。此の所の橋をいなりばしといふ)。○八月、絹紬一端、大工のかねにて三丈二尺、幅一尺四寸、木綿一端同三丈四尺、幅一尺三寸に定めらる。○[均庭]東叡山御草創の翌年、同所に御宮御建立あり。
寛永三年(1626)丙寅四月閏
亀戸天満宮鎮座(寛文にいたり今の所へ移し奉り、社頭造営す。これ大鳥居氏信佑の功なり)。○四月より八月迄、諸国旱魃。○二条御城御在番始まる(但し御番衆三十人、組により差人あり)。○耶蘇宗再発。○九月、上野に神祖御宮御建立(藤堂家より御建立といへり。或る書云ふ、東叡山の院号円頓院と号せらるゝ事、今年なりといへり)。○十月、吉原五町の家々、全く普請成る(すみ町は京橋のすみ町より今年引越したる町なり)。○(「武蔵志料」に、「諸家深秘録」を引きて寛永三年に二条の御城へ行幸あり。此の時伊達政宗の家来、美しき衣類を着ければ、諸国の人々にかはりし故、その時の人、伊達人と云ひ始めしより、今にいたり風流なる人をば、伊達ものと云ひならはしけりとあり)。
均庭云ふ、だてものといふ事、こゝにいへる説は附会なり。もとたて/\しき事より出でたる詞なり。
○「武蔵志料」に、「寛永記」を引きて云ふ、寛永三年十一月十日、烏丸大納言光広卿御下向の序、江戸須田町を通り給ひし頃、平親王の古墳あるを見給ひて、帰京の後、勅勘の儀やゝ久しければ、勅免あらん事を奏聞ありて、同年十二月九日勅免ありしかば、神田の社内にまつりけると云々(按ずるに、元和二年羅山先生の「丙辰紀行」に、神田社は平親王の霊を祭るよし記されたり。元和にしか記されたれば、寛永以前に社地に祭りしなり)。
寛永四年(1627)丁卯
三月、源通村卿下向あり(浅草瑞竜山興雲寺竜岳和尚へ遣はす)。
紫の色にしさきて武蔵のゝ草のゆかりの床なつのはな
○東叡山仁王門、常行堂、法花堂(二つ堂といふ)、経堂、多宝塔等御建立(此の時諸堂宇成就)。○四月八日、芝愛宕山権現社火(災後再び御造営有り)。○八月洪水。○大地震。○十一月、塔伽沙古来る(使の名を理伽と云ふ)。○新羅より琉球へ渉りし西瓜の種、薩州へ始めて渉る(其角が編の「類柑子」に、西瓜は三十年来のはやり物とあれば、江戸にては万治寛文の頃より行はれしなるべし)。
寛永五年(1628)戊辰
正月二日、京橋紀伊国屋又太夫といふもの、元来無筆なりしが、大師河原弘法大師の示現を蒙り、六字の名号を書す。よつて三月二十一日名号を書して、当寺に碑を立る(雪翁月盛居士といふ)。○正月二十日、柳営に於て御連歌会あり(是れ江城御連歌会の始りなりとぞ。承応已来十一日にあらたまる)。○五月二十三日、入谷正覚寺開山厳育禅師寂す(三州岡崎より来りし人なり。寿百五十歳といふ。珍らしき長寿なり)。○一刀流小野派剣術祖小野次郎右衛門卒去す(勢州の人にして神子上典膳といふ。上総に居られし時、伊藤一刀斎に学ぶ。後江戸に居し、外祖父の氏を継いで小野と改めらる)。○十二月十日、官医今大路道三卒す(八十三歳)。○所々、辻斬行はる。○十二月、斎藤徳元(医師にて連歌をよくす)関東へ下り、馬喰町二丁目に居す(関東下向の記あり。其の時の句、むさし野の雪ころはしか富士の雪。○江戸にて句集を梓に行ふ事、この人に始れり)。○[均庭]今年仙洞御造営あり。○[無補]武家方辻番始る。
寛永六年(1619)已巳二月閏
六月上旬より、目黒村不動尊諸願成就するよしにて、俄に江戸中老若男女群集す。○七月二十七日、玉室・沢庵の両僧を流さる。沢庵は羽州上の山、玉室は奥州棚倉へ赴く(玉室の法嗣正隠、大徳寺に出世の儀によりて、玉室、江月、沢庵の三師流罪せらるべかりしに、ゆへあつて江月はなだめられ、玉室・沢庵両師をながさる。下野大田原より二師わかれて、奥羽の両地に趣く。沢庵師一偈をもて別れを告げて曰く、
天分2南北1両鳧飛 何日旧栖同レ翼帰
聚散無レ常只如レ此 世情禽亦有2枢機1
玉室韻を和して曰く、
草鞋竹杖与レ雲飛 旧院何時把レ手帰
水遠山長猶絶レ信 別離今日已忘レ機
八月十五日、沢庵最上に着す。
最上川早瀬に月も流されて しばし浮世にすむかひもなし 沢庵
思ひきやこよひの月を陸奥の あこやの松の蔭にみんとは 同
(二師流罪の事、くはしくは「沢庵和尚年譜」を見てしるべし。この時仙洞の御うたに、
五月雨に沢の庵も玉の室も ながれてのこるにごり江の月
此のころ民間の狂歌に、
江戸味噌を二すりすりて一すりは みそかすばかりのこる江月
○今年より武家かた辻番を置かる。端々に於いて辻斬ありし故とぞ。
寛永七年(1630)庚午
正月八日、隅田川にて、
古塚にしるしの柳心あらば いざことゝはむ昔しるやと 狩野常信
○二月十四日、医師甲斐徳本卒す(百十七歳といふ。いづれの国にて終りしや、伊豆武蔵の間を専らに行きめぐり、かひの徳本一服十六銭と呼びあるきけるとかや。著述の医書を「梅花無尽蔵」と云ふ)。
均庭云ふ、或ひは云ふ、徳本、常に玉丹を一粒五銭づゝに売りたりとぞ、終る所を知らず。如何にしてそれが歿故の日はしれたるにか。
○二月、小湊誕生寺にありし布引祖師像、牛込幸国寺へうつす。○四月二日、身延久遠寺日邏、池上本門寺日樹と宗論、日樹信州飯田に配流。○六月、琉球人来聘。○同二十三日、大地震。毛降る。○八月山王社御造営。○[無補]十二月、八丁堀より出火、禰宜町、長谷川町、吉原町類焼(「洞洞語園」に出づ)。○魚籃観世音、三田の地に安置す(開山法誉上人、豊前の国より携へ来る所といふ)。○十二月二十三日、大地震。戌の刻光物飛行し、其の音すさまじかりし。
寛永八年(1631)辛未十月閏
三月十九日、江戸中に灰降る。○同二十日、諸国甘露降る。○四月二日、浅草寺炎上。○去年より今年に至る、六十州皮癬瘡を病む者多し。○東叡山に大仏像(丈六釈迦)造立あり(堀某侯、泥を黏して石の如くし、これを造らしめらる。後年地震に顛倒して砕けしを、後万治の頃銅像にあらたむ)。○清水観音堂営建。○八月、大風、家屋を壊ち樹木を折る。○十月、灰降る。○十月十三日、後藤氏五代徳乗卒す(八十歳)。○十月十七日、上野大石灯籠立つ(佐久間大膳亮勝之と彫りたり。高さ一丈八尺余)。○[無補]六郷橋普請。
寛永九年(1632)壬申
「諸家深秘録」に云ふ、今年より奥州仙台の米穀始めて江戸へ廻る。今に江戸三分の二は奥州米の由なり。其の頃金一両にて七石四斗程なり。○中村勘三郎が芝居、中橋より禰宜町へ移る(今の人形町なり)。○「草廬雑談」云ふ、「寛明日記」寛永九年の件に、黄金一両に付き銀六十匁替とあれば、国初より六十匁の内外と見えたり。○玉室・沢庵二師、謫処より召還し給ひ、七月二十七日江府にいたり、神田の広徳寺に寓す。この冬沢庵は駒込堀氏に寄居す。翌年二師を大徳に帰せしめ給ふ(沢庵師寛永十四年麻布に寓居ありし頃は、所居を扁して検朿庵といふ)○[無補]是の年江戸地図開版。○[均庭]諸番諸組の母衣、指物、具足等、御定番頭、物頭へ仰せ渡さる。
寛永十年(1633)癸酉
上野忍が岡林道春先生別荘に、先聖殿を建てらる(尾州公御建立也、此の所を桜が峰と云ふ。此のさくらは羅山先生栽えられし所なり。今の山王の山なり。事は「鷲峰文集桜峰記」に詳なり)。○正月二十一、二十二日、諸国大地震。小田原は別けて強し。同二十六日申の刻、大地震。○武州忍の城御番城となりしが、今年松平豆州侯へ給はり、御城番の面々江戸へ帰宅、地を給はりし所を忍原亦忍町とよべり。○四月より六月まで洪水。○南伝馬町三丁目の北川を埋め町屋とせらる。○都伝内芝居御免ありて興行す(其の地未詳)。○[均庭]二条在番衆に組頭を付けらる。
寛永十一年(1634)甲戌七月閏
正月十五日、増上寺了学上人、念仏三昧にして臨終し給ふ。荼毘の後ち身骨悉く舎利となる。○二月二日、御城において御能芝居、町人総見をゆるされ、青銅を賜はる事、是れより始まりけるよし、或る記に見えたり。○三月九日、将棊師大橋宗桂卒す(八十歳)。○三月十五日夜、白雲月を貫く。○王子権現社、芝神明宮、西久保八幡宮、目黒不動堂等御造営あり(何れも御再建なり)。○品川妙国寺本堂、五重塔、二王門御再建。○平塚明神社御建立。秋に至りて成就す。○当年より山王御祭礼備はり、大祭礼と成る。○宝林山養国寺、麹町代地として四ツ谷へ移る。○七月、琉球人来聘(正使佐敷王子金武王なり、京二条まで来る)。○村上又三郎芝居、葺屋町に於て始て興行(市村羽左衛門が祖なり)。○八月八日、或る高貴の御家の室(おさんの御方と云ふ)虫歯をなやみ玉ひ、終ひに今日終に給へり。臨終に遺言あつて、むしばを憂ふる者我を祈らば、応験あるべしと誓ひ給ふ(飯倉善長寺に御墓あり、今も霊験を得る者多しとなん)。○明人按針(鉄砲の上手也)、江戸日本橋按針町を給はり、又相州三浦逸見村を領す。其の妻妙満尼今年七月十六日終す。逸見村浄土寺に墳墓あり。按針が忌日は墓碑に鐫してなしとぞ。
無声云ふ、按針は明人に非ず。諳厄利亜(即ち英国)人なり。本名をウイリアム・アダムスといふ。慶長五年難風に遭ひ江戸に来る。
○[均補]今年、西丸過半焼失。大番十二組に定る。
寛永十二年(1635)乙亥
正月二十五日寅卯の刻、大地震。午未の刻、又地震あり。○駿府御在番始る。○春、烏丸大納言光広卿関東御下向あり。御道の記を「春の曙」といふ(此の時世は度々御下向ありて、久しく御逗留の事もありしと見えたり)。又源通村卿も御下向あり。
春ならぬ木の葉もうるふむさし野の 末までかゝる露の恵に
○安宅丸の御船、伊豆より来る(一説に寛永十一年とも云ふ。柳川町の辺に堀をほり繋ぎ置きしに、一年大風雨の時鎖切れて伊豆へ走る。三崎にて止め、又向両国につなぐ。天和二年に此の御船を解きひらきたまふ)。○三月天台竜宝寺并に浄念寺、駿河台より浅草へ移る。○四月、朝鮮人来聘(和田倉門の内馬場にて、韓人曲馬を乗る)。○六月十三日、大風。遠州豆州渡海の船八百艘破損す。○七月、天赤くして焼くが如し。○高輪如来寺開創。五智如来を安置す(木食但唱上人開基)。○八月、茅場町薬師如来安置。○八月四日、狩野山楽光卒す(七十七歳)。○堺町天下一下り薩摩太夫、紫の幕を鼠木戸の上に張り、人形衣裳結構を尽し、又歌舞妓役者の衣類等も美を尽せしかば、彦作・勘三郎も共に禁獄せらる。○[均庭]当年、武家の掟仰せ出ださる。二条在番衆に番頭両人を付けらる。駿府御城在番始まる。
寛永十三年(1636)丙子
正月元日、日蝕。○高田へ馬場を築かせらる。○高田に八幡宮勧請す(此の時は纔の小祠也。其の後元禄中迄追々御造営あり)。○大城御外廓惣堀、見附枡形等御普請あり。この時、御城辺神社寺院所々へ移る。
「黄葉集」、寛永十三年江戸に侍りしに大樹城廓修理の事ありければ、
人つたふ千曳の石も世のこゑの おさまる春のためしにぞひく 烏丸光広卿
「南向茶詰」に云ふ、麹町六、七丁目の地と、四ツ谷塩町の辺、四方に谷あり。今年御外廓を造らせ給ふ時、御堀の揚げ土を以て東西の谷を埋め、平地になりしが、旧名をもて四谷又坂町ともいふと。又「田舎物がたり」といふ草紙に、四谷といふは昔は原といひし也。○御入国の時、今の麹町両側番町永田町に至りて、本多弥八郎、高木九助両人の下やしきとして下し置かれしかども、御城近きゆへ、市ヶ谷の台此の原を下し給ふ。表四百八十間に只四人さし置かるゝ故、四谷と云へり云々とあり。この御普請の時、京都より牛車牽き来り、其の牛車の置場として、市谷八幡宮の前にて、四丁余の地を下し給はり、御用の事終りて後に江戸に止められ、寛永十六年芝において、今の牛町を給はりしといふ)。○井の頭弁才天社御建立。○高割辻番所始まる。或ひは五年ともいふ。○四月四日、後藤六代栄乗卒す(四十三歳)。○五月、六月の間、更に雨降らず(西石北国は大雨、紀州其外南海にて海鳴る事九ケ度)。○[無補]七月米価暴騰、官倉廩を開きて、一人に一斗二升(小判一両に一石八斗がへ)宛を払ひ下げらる。○新銭を鋳られ(寛永通宝と書す)、六月朔日より通用始る。是れよりして本朝の銅銭ゆたかになれり。昇平の御恩沢ありがたき事にこそ(江戸にては浅草と芝にて鋳さしめらる。芝新銭座といふは、此の時銭を鋳たる所なり。鳴海平蔵といふ人此の事を司るといふ。其の余、江州坂本、南都、信州松本、三州吉田、駿州足洗村、其の外所々にて鋳さしめらる。又其の頃まで通用せし、奥州相馬鋳出しの鐚銭を停止せしめ給ふとぞ。垂加翁云ふ、古銭の世間に流落する、形弊へ文滅し、完全なるもの尠し。今行はるゝ寛永通宝、体質堅厚、輪廓周正、孔豈(元字は豈に欠)が所謂銅を惜しまず、工を愛しまさるものなりと云々。寛永銭近世まで度々鋳改められし度毎、大いに形状等の違ひあり。無仏斎貞幹が「寛永銭譜」に其の図を模し、その説を挙げて詳なり。此本、梓に行はれざれば世に稀なり)。○十二月、朝鮮人来聘(正使白麓任統、副使東宣(元字はサンズイに宣)金世濂、従事青丘黄床、旅館本誓寺なり)。○[均庭]御城外竜の口に評定所を設けらる。
増訂武江年表巻之一 畢
寛永十四年(1637)丁丑三月閏
三月、天海僧正志願により一切経二千巻を刊行せしめ給ふ(上野に於いて事を司る。正保二年にいたりて成就すといふ)。○五月、荻生元甫卒す。浅草祝言寺へ葬す。徂徠の祖父なり。○七月八日、星月を貫く。○十月、肥前島原に耶蘇宗の者蜂起す。翌年二月、誅伐あり。○[無補]江戸町々踊り流行。○江戸中風呂屋女、三人限りに命じ給ふ(此の掟を破りしものを、吉原大門の外にて刑せらる)。
寛永十五年(1638)戊寅
夏より来年二、三月頃に至るまで、遠近の男女、伊勢宗廟へ詣づる事夥し(近ごろいはゆるおかげ参りなり)。○東光山西福寺、神田台より浅草新堀へ移る。○十一月、品川に万松山東海寺御創立(開山沢庵和尚)。○今年以来、蛮国の貢を禁じ給ふと云ふ。
寛永十六年(1639)已卯十一月閏
[無補]五月、阿蘭陀人来る。○[同補]六月、目黒原にてホウロク火矢打ちあり。○駿府御城番、御書院番へ命ぜらる。○高田西方寺開創(開山貞茂和尚、浅草にありし千手観音を当寺にうつす)。○[均庭]江戸御城御本丸御殿焼失(御天主御櫓は恙なし)。
寛永十七年(1640)庚辰
四月、日光山二十五回御神忌、万部修行有り。○四月より八月末に至り、天下牛多く死す。○此頃何某侯に宮づかへせし伊丹右京といへる美少年(十六歳)、男色の意地によりて、今年四月同藩細野主膳といふ者を切害したれば、同月それの日主君より命ぜられ、浅草慶養寺に於いて自尽を給ふ。其の時、右京と男色の契りありし、同藩舟川采女といへるを、此の頃世のかたりぐさとなりけるとぞ。
右京辞世の歌
春は花秋は月とたはふれて ながめし事も夢のまたゆめ
采女辞世の歌
もろともにいさゝは我もこゆるぎの いそぎてこえんしでの山川
其の顛末を誌したる「藻屑物語」といへる草紙一冊、慶養寺に伝へて在り。作者は詳ならず。西鶴が編の「男色大鑑」にも其の略を載せたり(按ずるに、慶養寺此のときは、浅草西福寺の隣にありし頃の事なり。後年本所へうつり、貞享中今の地へうつる。文化の始め曲亭翁これが評を作り、「へ美のあし」と題して、先考の許へ送られたりしを、今に珍蔵せり)。○六月、呂宋国耶蘇宗の族、黒船一艘に乗り、長崎へ漂着のもの六十余人を誅せらる。○九月六日、御殿山にて([補]この時御殿山御成。数寄屋美麗を極む)。
夕暮を惜みをしまん木の間より はやさし登る海越の月 沢庵
[均庭]江戸御城十二月十三日御煤払今年より始る。
寛永十八年(1641)辛巳
正月二十九日夜、桶町より出火、翌晦日夜へかけて鎮る。町数九十七町、武家かた百三十軒程、慶長以来の大火と聞えし。○「諸家系図」三百七十巻成就(林道春先生、其の余儒士および五山の僧侶修撰ありしとなり。均庭云ふ、是れを「寛永大系図」と云ふ。日光山へ御奉納)。○東叡山両大師院々、巡行執事肇る。上野五条天神社へ、天満天神を合祭す。○柏木村円照寺薬師堂、春日の局御再建。○三崎村を鷹匠町と号す(元禄六酉年、又改めて小川町といふ)。○泉岳寺、桜田より芝高輪へ移さる。○青松寺、貝塚より愛宕下へ移さる。○七月、台命ありて、羅山先生「王子権現縁起」撰述あり。絵は狩野主馬の筆なり。○秋、米穀柑子類不熟。○八月朔日、大風。数十艘の石船品川沖に沈む(後漁人この所を根と号し、漁猟に幸ありとす。一説に慶長十一年五月五日、伊豆国根府川より、大石を積み廻したる船沈没せし処を根と号する共云ふ)。○八月中、田畠東覚寺に仁王尊石像を置く(賢盛代施主道恕宗海上人とあり)。○「そゞろ物語」印行(三浦浄心作)。
寛永十九年(1642)壬午九月閏
正月朔日、大雪。○二月、大雪。○二月十九日、浅草寺焼亡(此の時、木村市兵衛といふもの古絵馬を助く。此の絵馬の事、諸書に其の説出でたればこゝにいはず。但し此の火事は門前よりの失火なり)。○三月十三日、深雪。○三月より七月に至り、天下大飢饉、米価貴躍し、死人多し。御救米銭を給はる。○五月、諸侯参勤交代始まる。○夏、殿下信尋公御下向あり。五月初旬御帰洛の日、沢庵師へ宗要を尋ね給ふ事暁に至る。○三十三間堂始て浅草に建つ(基立人新両替町弓師備後は、天海僧正につかへたる人なり。諸士稽古のため、御当地三十三間堂造営したき志願に付き、僧正の執奏により、御金若干を給はり、其の上諸家の施財をつのりてつひに成就す。本尊千手観世音と八幡宮、外に矢崎いなりの神体は、僧正御寄付ありしところといふ)。○「あづま物語」梓行(吉原細見記の始めなり)。
寛永二十年(1643)癸未
六月、朝鮮人来聘(正使尹順之、副使趙冏(元字は糸篇)、従事申竹堂。旅館本誓寺なり。このとき申竹堂が所望によりて、林春斎春徳二先生「本朝事跡考」を著はされたり)。○今年六月、羅山先生春斎子とともに山王祭りを着るの記あり。先生文集に見ゆ。○羅山春斎二先生上京、「癸未記行」あり。○八月、永代島八幡宮祭礼始まる。○十月二日、天海僧正寂す(齢百三十三といふ)。二月より毘沙門堂御門跡公海僧正御住職あり。○十八年の冬より今年まで、飢饉続けり。○「あづまめぐり」板成る(二巻。始め書名を「色音論」と云ひし由。其の故は、此の時代鶉と椿の花を玩ぶ事行はれしかば、文中に其事を挙げたり。色とは椿の色、音とはうづらの音といふ意なるよし、柳亭翁の話なり。江戸の名所を記せるもの此の書を始めとす)。○[均庭]新御番四組始めて仰せ付けらる。土計の間御番といふ。
寛永年間記事
井上稲富両家、大筒の町間を試られし所を、後築立て鉄砲洲といふ。不忍池弁才は、寛永中天海僧正の基立にして、比叡山の麓竹生島を模さるゝ所とぞ。水谷何某侯僧正と昵懇たるが故、浅草川御普請の手伝ひ人足をして、公用終りて後、此の島を築かしめらるゝ所なりといへり。○西久保八幡宮御再建あり。○仏日山東禅寺は、慶長中麻布霊南坂に開創ありしが、寛永中今の高輪の地に移さる。霊南上人開基の寺なれば、坂の名をしかよべり。○寛永中、千日谷一行院開基本誉上人寂す(始めは永井信州侯の奴隷にして、晩年僧となり千日供養を修行す。其の所を千日谷と云ふ)。○海賊橋より松屋橋、弾正橋迄の川通り(八丁堀なり)、寛永中船通用の為に、長さ八丁に掘り通されし所と云ふ。○目赤不動尊、動坂の草庵に在りしを、堂地を今の所に下し給ふ。○寛永の頃まで神田佐柄木町、雉子町の続きに、堀丹後守殿御屋敷あり。丹後殿前といふを略して丹前といふ。此の辺風呂屋多く、美麗なる湯女もありて、こゝに遊びける若人等のさまを、歌舞妓に学びて丹前風といひし事、諸書に見えたれば爰に略しつ(堀家の御やしき、寛永の末正保の頃、下谷へ引移りたり。承応の江戸図には、既に戸田侯の御やしきに改りたり)。○寛永九年梓行の江戸絵図あり。ひゞや町より先神明町迄皆海道なり。後に新地を築き立てられしなり。今の溜池の所には江戸水道の水上とあり(前に記せる慶長の件と見合はすべし)。
吉原町は、廓内に江戸町、すみ町、京町、新町、けん蔵主町と有り(承応二年の図にも、けん蔵主丁と有り)。思案橋は今の荒布橋と見えたり(今小網町にある思案橋は、昔のしあん橋の所にあらず)。浅草御門内馬喰町辺、寺院、武家のみにて町屋なし(寺院は雷光院、唯念寺、地蔵院、ゑんをん坊、天岳院、しゆげん寺、願行寺、清水寺、本せん寺、大せう寺、せんかう寺、知足院等なり。知足院の傍に遊行道場、神田のやくしあり)。東神田の地も武家方寺院のみ也(誓願寺、法おん寺、しゆせう寺、法せう寺、行ぐわん寺等なり)。今茅場町薬師堂の在る所に、長久寺、しんけう寺、道れん寺あり、同所向ひより南八丁堀迄、殊に寺院多かりし(大増寺、慈眼寺、金蔵寺、不動院、ていれい寺、薬王寺、上行寺、りやう法寺、千日ほうせんじ、大正ゐん、弘そうじ、法とう院、妙こん寺、大かうじ、多門寺、玉せん寺、観音寺、りん久寺、大そうじ、すいこうじ、長りん寺、せうこうじ、永にんじ、玉法寺、大ゑんじ、そうもんじ、海うんじ、りんせんじ、なん大じ、願戒寺、大向寺、法性寺、薬師堂、大せんじ、大せうじ、朗性寺、法恩じ等なり。○今の弾正橋向ひ北八丁ぼりに、島田弾正殿屋敷あり。よつて橋の名にかく呼べり)。町名今と違へるは、なべ町(今の日本橋針店の辺)、しほ町(室町一、二丁目西よこ町)、ごふく町(今銀町と十間店の間、今川橋辺)、六十間河岸(大伝馬町裏、今云ふ堀留)、青物町(今両替町と駿河町の間、西うら通り)、まき町(今堀留の続き、大伝馬町二丁目南裏通り)、ふき屋町(今金吹町)、ばんちやう町(今長谷川町)、をはり町(今新かわや丁の辺)、めつた町(神田多丁の俗称也)、新小田原町(三河丁の俗称也。肴や多くありし故しかいふ)、しんなは町(今の小伝馬上丁の辺也。以後の図にはしりなは丁と記せり。是れは因獄のものゝ居る所の辺なれば、土俗の称呼にかくいへるなるべし)、太兵衛町(宇田川丁神明丁の間)、同朋町(芝神明の前にもあり)、大橋(今の常盤橋)、後藤橋(今呉服橋也。寛文迄の図にもしか記せり)、みごくじま(今の石川島也)。以上寺院の号、町名文字詳ならざれば、原本に拠りて仮字のまゝに記す。○江戸絵図梓行する事は、寛永に始まりしにや。其れより以前のもの世に伝はらず。此の時代の図は南は芝増上寺、芝口を限り、西は御堀端、麹町の入口、溜池を限り、北は小川町、神田川、浅草橋を限り、東は大川を限りて、載る所の方域狭し(承応明暦の図もこれに同じ)。寛文頃より漸次に広くなれり。○世上通用の書翰の起頭に、一筆啓上致し候と書く事、此の頃より始ると見えたり。女子の一筆と書き出す事は、古き文にたま/\之ありとなん(「東海談」「翁草」等に見えたり)。○木村弥十郎高敬が「続武家閑談」云ふ、挟箱は寛永の末に江戸にて出来す。其の前は狭竹といふものを用ふ。是れさへ慶長の頃津田長門守始めて製す。葛籠も稀にして、当番の諸士夜具を木綿袋に入れ、是れを番袋と名付けもたせ遣はすと云々。○薩摩小平太(泉州堺の産、或ひは紀州産と云ふ)、江戸に下り、中橋に於て操芝居を興行す(羅山先生、向陽・読耕の二子を誘引して、見物せられし事、先生文集にあり。さつま太夫が事、予が「声曲類簒」にしるせり)。○「事跡合考」に、浄るり語り、説教語り、人形廻し等、悉く寛永元年以後、追々京大坂より下りたりしもの也といへり。○飛騨踊り、ひんだ節、ほそり、片撥などいへる小唄行はる(岡崎女郎衆といへる小唄も、この時代より行はれたり)。貴賤鶉を畜ひ椿花を弄ぶ事行はる(「あづまめぐり」に、寛永の頃のはやり物といへる件に、もろはく、たんばたばこ、ひごきせる、観世かしまひ、今春かうたひ、さんとめしたの羽折を、夏冬にかけて用ふるよししるせり)。○「春台独語」に云ふ、「寛永の頃風俗、男は冬革のうちかけ革の袴を美服とし、女は紫革の足袋をはくを能きけはひとせり。婦女の帯は金襴を美麗の限りとし、黒地に梅、桜、松を所々に織付けて、是れを鉢の木の帯と名付けて珍重しける。広さ僅かに鯨尺の二寸計の紙を心として、綿など入るゝ事なし。四月より八月迄、婦女の礼服に、綿にて広さ鯨尺の八分ばかり成るを後に結びて、たるゝを付帯といふ。今の下げ帯は昔の帯よりも広し(中略)。男女の衣服、昔は極めて質素なり。男子も女子も、十四、五歳までは長き袖を着たるに、むかしは鯨尺の七、八寸を極りとせしに、貞享の頃より二尺計になり、夫よりやうやく、ますます長くなりて、近き頃は二尺四、五寸になりぬと見ゆ。婦女の帯も、貞享元禄の頃よりも漸く広くなりて、今は鯨尺にて八、九寸に及ぶ。綿をしんとし褥のごとし。男の肩衣といふものは、昔は麻の幅鯨尺の八寸計りなりしに、貞享元禄の頃より幅一尺に及ぶ。寛永の頃迄は、婦女細き麻縄にて髪をつかねて、其の上を黒き絹にて巻きしに、其の後、麻縄を止めて紙にてゆふ。越前の国より粉紙にて、元結紙といふものを造り出して、海内の婦女皆是れを用ふ。夫より絹にて巻く事も止みぬと(中略)。江戸の婦女外に出るに、むかしはきまゝとて、黒き絹にて頭面を包み、目ばかりあらはしける。其の後綿にて頭面をつゝみしは、我二十あまり寛永の頃なりき。今はちいさき綿を頭上にいたゞきけるのみにて、面をばうちさらし、はれやかなる顔にて道を行く(中略)。男は面をあらはすべきものなるに、此の頃は編笠の肩の上迄かゝるをかぶるは珍らしからず。女のごとく帽子をかぶりて面をかくすもあり。常の頭巾に覆面のごとくある物をつくり付けて、目計りをあらはして道を行くもあり。亦此の頃の男は、小袖の裏を紅にし、或ひは紅の肌衣を袖口長にして、腕をまとふ計にしてひらめかするもの多く見ゆ。女はかへりて縹の裏白き裏などを着るめり(下略)。是れは寛永の頃より元禄の頃までの風俗を云はれしなり(その頃より元禄の頃までの風俗を云はれしなり(その頃婦女の塗笠、小袖の縫箔、六尺袖きまゝ頭巾、紫革の足袋等の事、山東の「骨董集」「奇跡考」につまびらか也)。
均庭云ふ、「春台独語」にいへる処を、寛永より元禄までと思へる非なり。此の本末に至りては、享保の末元文頃の風俗あるをや。これらの事、「奇跡考」はもとより論に及ばず、「骨董集」も未だ詳ならず。
○「八木随筆」に云ふ、世に素襖の袖を切りて上下にしたりしは、松永弾正が始めたるといふ事よく人の知る所也。麻上下の裾を切りし事も遠からぬ事なり。裏付上下は、小堀遠州茶の給仕する小姓に始めて着せられしより弘まりて、今常服となれり。夏の緒肩衣に薄物を用ふる事は松平豆州侯より始まる。綟子肩衣に裏を用ひし事、小堀遠州侯二男政尹にはじまるといへり。又「老人雑話」には(江村専斎編)肩衣半袴は、近衛竜山公に始まれりとあり。
均庭云ふ、素襖の袖を切りたる服は、松永に始まると云ふは非なり。足利鹿苑院の頃もはや見えたり。又下文に麻上下の裾を切りしことも、云々といへるはいかにぞや。素襖の袖を切りたるは、今の長上下袖も裾も切りたるが、今常の上下にあらずや。肩衣はもとよりふるくありしものなり。ここに挙げたる説ども皆ひがごとなり。
○木綿足袋、今の製法の如くなるは、長岡三斎の母始めて製し、茶事に出らるゝ時はかせられし由、「老人雑話」に見えたり。○茶師名越弥五郎家昌、寛永中大西村長并びに、堀浄甫等を連れて江戸へ下向す(後京に帰りて終る)。大西五郎左衛門浄清も此の時江戸に下り、明暦三年御釜師となり、後京に帰る。其の子孫代々江戸に住す。○寛永の頃、大伝馬町の豪家、佐久間某が家の婢女たけといふもの、仁慈の志厚く、朝夕の飯米菜蔬、我が食ふべき物を乞丐人に施し、其の身は主家の残れると、又は流しの隅に網を釣りてたまりし物を食し、常に称名怠る事なし。しかるに武州比企郡に住める何がし行者、湯殿山へ参詣し、生身の大日如来を拝せん事を願ひしに、わが形容を看んとならば、江戸に趣きて、佐久間某が婢女たけを拝すべしといふ、霊夢の告げを蒙り、彼の家にいたり、竹女を拝す。其後竹女は念仏三昧にして大往生を遂げたりといふ。其の後佐久間の親ぞく馬込某より、大日如来の像を造らしめて、湯殿山黄金堂に納む。これを世にお竹大日如来と云ふ(佐久間の墓は、増上寺塔中の心光院にありしが、彼の寺赤羽へうつりし頃にや、浅草の善徳寺へ引けたり。彼の家の水盥は、今も心光院に収めてありとかや)。○寛永の頃、泡斎といふ狂僧、町小路をはしる。わらんべ集りて、気違ひよ、はうさいよとはやせり。今以てかくいひて気違ひの名目となれり。其の泡斎はやされて踊るかたち、異形にして人の笑ひをかさねしむ。後葛西の土人踊念仏とて、江戸大路を徘徊す。其のさま物に狂ふがごとくにて、彼の泡斎がさまに似たりとて、泡斎念仏ともよびけるよし「世事談」にいへり。
均庭云ふ、「世事談」はうさいの説然るべし。但しはうさいは寛永以前よりいへる事なり。考へあれども長ければ記しがたし。無声云ふ、はうさいは慶長以前よりありて狂僧にあらず。「ほうさい念仏絵詞(寛永頃のもの)に、昔常陸国に貴き僧一人おはしける。其の名をばほうさい坊とぞ申しける。我が住む寺破損しければ、弟子あまた引きつれ、太鼓かねの拍子をそろへ、踊念仏をくはだて、繁昌の所へ踊り出で、一銭半銭のくわんじんを得て、堂塔伽藍を建立し給ふとかや。されば末代に至つてほうさい念仏と名付け、太鼓かねをたゝきて面白くおどり云々とあるにて知るべし。
(平凡社東洋文庫『増訂武江年表1』を底本としました。)
五
武江年表(一部)
斎藤月岑著
青字は隆慶作品で描かれた事柄の関連記述。
正保元年(1644)甲申 十二月十六日改元
正月二十四日、御彫物師吉岡豊前介重継(七十三歳)、増上寺に涅槃石を彫る。○寛永年中鉄砲洲向ひ干潟百間四方の地を、摂州佃村の漁人へ給はりしが、今年二月漁家を建並べ、本国の名を以て佃島と号し、本国の産土神住吉明神を奉祀す。○上野に慈眼大師堂御建立(此の時は未だ慈眼大師の諡名なし)。○青山仙寿院開創。○二月、町人の長刀、長脇差、羅紗の合羽等御停止あり、又伊勢大山参り、蒲団を重ねて馬に乗る事を停め給ふ。
均庭云ふ、昔時まうでの旅路、又田舎人よろしき婚姻には、つゞら馬にふとんを重ね敷きて乗れり。されば小娘がうたふ手まり歌に、「おゝさんどーのよめ入りじよーらうあとかけ、つーづらふーとんばりしてしまさんこんさん、中のりさんからおふみがまいつた」云々と云ふことも、伊勢参りのことをも交へいへり。又松の葉の小歌、馬かたと云ふ唄に、「春はござせのおつゞら馬よ、あけ七歳のれんせんあし毛」云々とあり。又今も神田祭の練りもの、昔に並びて金うり吉次が行装つゞら馬を牽く。これそのかみの体なり。
○五月十九日、琉球人来聘(正使金武王、国頭王子)。○清朝順治元年より、明亡びて一統す。○木挽町六丁目岡村長兵衛芝居始まる。二代目より後山村長太夫座と改む(正徳四年に至り芝居断絶す)。
均庭云ふ、山村芝居は、元禄十七年申二月六日書き上げ、山村座取立候数之儀、私先祖小兵衛と申す者、寛永十九年より狂言芝居取立仕り候、当申年迄六十三年に罷り成り申し候。尤も其れ已前より当所芝居御座候由、承け伝へ申し候。右小兵衛より私迄五代相続狂言尽仕り来り申し候。元禄十七年申二月六日、狂言座元長太夫と見えたり。岡村長兵衛といふこと見えず。其の上年も違へり。誤りなるべし。
○十一月十八日、吉原開基庄司甚右衛門死す(六十九歳)。今も深川雲光院に墓あり。○十二月二十六日、明人呉完観卒す。二本榎上行寺に墓あり。明朝の乱を避けて来りし人なり。○三十三間堂預り人、弓師備後より堺屋久右衛門へ交代す(久右衛門は最初堂を建てたるものなり。鹿塩久右衛門と号し今に相続せり)。
正保二年(1645)乙酉五月閏
三月十五日、月赤くして丹の如し。○三月二十三日、田宮坊太郎国宗、遁世して空仁と号しけるが、二十一歳にて卒す(復讐の談世の知る所也。墓は東叡山中観成院にあり)。○鳥越熱田明神、浅草より山谷へ移る(此所にありし鳥越山源寿院も、此の時新鳥越へ移る)。○江戸にて始めて瓦を焼く(寺嶋氏某、中氏彦六といふもの、江戸瓦師の元祖といふ)。○十二月二日、長岡三斎卒す(八十三歳)。○十二月十一日、東海寺沢庵和尚寂す(世寿七十三歳也。衆頻りに遺偈を請ふ。師筆を取りて夢の字を書して寂す)。
正保三年(1646)丙戌
十月、漢土兵乱未だ止まず。明の余類平戸一官(鄭芝竜と云ふ、国性爺の父也)、本邦へ援兵を請ふ。○冬、牛込済松寺開創(開山正伝禅師、開基素心尼なり)。○金工平田氏祖道仁卒す。慶長中朝鮮人より七宝流しの法を伝へし人也。○大鳥居氏信祐、太宰府神廟に夢中発句を得、東都に下り亀戸村に宮居再興す。
正保四年(1647)丁亥
二月六日、小堀遠州侯卒す(藤原政一、薙髪の号宗甫、今年六十九歳也。紫野孤峯庵に葬す。古田織部の門人、茶道目利の人、和歌は冷泉為頼卿の御門人也。屋敷は駿河台甲賀町なり)。四月十五日夜、月の暈四方、月影の如く、朧の月四つ現はる。○四月二十日、官医啓迪院岡本玄治法印卒す(広尾祥雲寺に葬す)。○五月十三日、江戸大地震、上野大仏の像砕破す。○七月二十二日、氷降る(大きさ梅の実のごとし)。○九月十五日、刀剣目利木屋庄左衛門終す(織田家に仕へし人なり)。十一月十三日、台命により王子村に於いて、松平薩州君犬追物興行あり(馬場は東西四十三間、南北四十間也。平塚明神の辺なりしといへり。林春斎「犬追物がたり」一巻編輯あり)。○十一月、箕輪薬王寺後向ひ石地蔵尊建つ(四世春海法師造立なり。昔奥州街道にして、道路に建てし所なりと云ふ)。
正保年間記事
正保中、日向国霧島山の躑躅を薩州より大坂へ登せ、大坂より京に登す。其の内富士山麟角と名付けしものは大内に止め給ひ、面向、無三、唐松の三種は、明暦二年の頃武江に下す。夫より接ぎ足して諸州に分てり。○大橋を常盤橋と改められしは、正保の始め頃なりと見ゆ。○十河ひたひとて額をぬく事はやる。十河殿といふ武家の人の頭つきより、いひ出でたる事とぞ。又此の時代、徒若党頬髭を好む。「東海道名所記」に、うは髭を松虫の声に捻り上げて云々と云へるは、松虫の声とは、りんとはねさせたるをいふ詞也とぞ。○「世事談」に云ふ、此の時代京室町髭の久吉、伽羅の油を売始む。其後、三条市中宇賀縄手の五十嵐是れを製す。江戸にては芝の大好庵脊虫喜右衛門など始めなりといふ(虫尾庵の「我衣」には、寛文中室町一丁目へ、若衆方中村かづま伽羅油見世を出す。其の少し前、麹町へ若鳥主水といへる女形油見世を出す。これ油店の元祖なるべしとあり。いづれが先なるか未詳。寛永正保の頃は、前髪立の児小姓などは格別、上下ともに年若き男の髪に、油を付くるはなまぬるき事としけるよし、「落穂集」に見えたり。其頃も、若党中間の頬髭には此の油をつけたりとぞ)。○寛永正保の頃、長崎より唐木の商人和泉屋半三郎といふもの江戸に来り、池の端に住し始めて古書籍の売買をなし、後大書肆と成りたり。是れ古本売買のはじめなりとぞ。○或る御家の所蔵に、正保年中江戸図の写本あり。方域尤も広し。品川、渋谷、柏木、雑司谷、駒込にいたり、東は大川を限りとす。市中の図は寛永の図に等し。図中浅草寺後、石川主殿侯御藩の隣に卜斎が居あり。日本堤の西にどうけん塚といふあり。谷中三浦坂の辺、三浦亀之助殿御藩あり。東叡山は東向ひに門あり。門前并びに寺後に僧正町といへるあり。
(平凡社東洋文庫『増訂武江年表1』を底本としました。)
六
武江年表(一部)
斎藤月岑著
青字は隆慶作品で描かれた人物・事柄の関連記述。
慶安元年(1648)戊子正月閏 二月十五日改元
慶安と改元ありしを、
改年の御慶安隠の天下哉 半井卜養
○春、荒藺山に亮朝院七面堂開基あり(寛文十一年、今の如く高田へうつさる)。○谷中延命院七面宮勧請(開山日朝上人也。三沢の局身延七面宮へ千日の間参籠し、夢中に鱗一枚を感得し、当社を創すと云ふ)。○四月十一日、天海僧正へ慈眼大師と諡号を給ふ。○日光山三十三回御忌、御法会法華八講あり(藤原為景編、「法華八講の記」あり)。○五月、男色をむたひに申掛け、若衆狂ひする事を禁ぜらる。此の時何某鹿蔵といへる美少年の事に付き、騒動に及びし事「昔/\物語」にいへり。男色の事、此の時より止み、寛文の頃にいたり又行はれしが、ことありて止みたるよし同書にいへり(昔の方言に、男色を若道、衆道、野道と云ふ。若道、衆道とは若衆の道、野道とは野郎の道と云ふ縮語にして、尤も俗言なり)。○九月、太田姫稲荷社建立(若林兼次と云ふ人寄付す)。○江戸中風呂屋の遊女御制禁あり(声云ふ、此の令二月二十八日に出でたり)。○[均補]此の年、新番二組別に仰せ付けられ、先年ともに都合六組と成る。井戸新右衛門駿府御城定番となる。駿府定番の始めなり。○[無補]浅草寺五重塔建立。
慶安二年(1649)己丑
日暮里諏訪明神社造営(是れ迄は纔の草祠なりしと云ふ)。○大塚普門山大慈寺御開創。○三月四日、狩野主馬尚信卒す(四十七歳、一本慶安三年四月七日共云ふ)。○麻疹流行す。○六月二十日、武州大地震。江戸中武家町家潰れ、死人怪我人多し(上野大仏像砕けしはこのとき也ともいふ)。○五月十三日、河越大霰降る(重さ二斤、小は四十匁、人馬多く死す)。○八月二十日、江戸大地震。○九月、琉球人来聘(正使具志川王子也)。日光山へ参詣す。○[均補]今年日光へ御参詣、当六月参勤の大名衆は、月末に参勤致すべき旨仰せ出ださる。
慶安三年(1650)庚寅十月閏
二月、山王権現社、御城内より麹町へ移る(一説には寛永七年に移るともいふ。後、万治二年今の所へ移させらる)。○男女、伊勢宗廟へ参詣する事行はる(今云ふおかげ参りなり)。○三月二十三日夜、江戸大地震あり。○[只補]四月七日、画家狩野尚信卒す(年四十四、池上本門寺に葬る)。○四月十三日、侠客幡随院長兵衛死す(其の伝、人口に膾炙すといへども、紛々として定かならず。墳墓は今も浅草源空寺にあり。歌舞妓もの年回を弔へり)。○五月、国々洪水。○諸国毛降る(長さ四、五寸)。○六月三日より浅草寺観音堂御普請始まる。○琉球人来聘。○由井賊起る。○八月七日、秩父郡辺大風雨。氷降る(大きさ八、九匁より十匁位)。
慶安四年(1651)辛卯
東叡山御宮御造営(四月成就、藤堂家先に造られしを、御再建ありしといふ)。○三月十二日、狩野山雪卒す(六十三歳、蛇足町)。○秋深川八幡宮にて、鶴ヶ岡の法式をうつし、流鏑馬興行始まる。○中村勘三郎芝居、禰宜町より堺町へうつる。○十一日二十九日、由井の党類誅伐せらる。○十二月二十七日、谷中感応寺日長上人寂す。
慶安年間記事
酒戦といふ事行はる。慶安のはじめ大塚の地黄坊樽次、池上の大蛇丸底深などゝ仮名せし大酒の輩、党を結びて酒を呑みし事あり。其顛末を記したる「水鳥記」といへる冊子あり(此の書寛文三年に印行せり。池上氏所蔵蜂竜の盃は「奇跡考」に見えたり。又川崎稲荷新田底広が子孫、石渡孫左衛門が蔵せる七合入りの盃あり。中に猩々舞の蒔絵あり)。
均庭云ふ、「水鳥記」酒戦の事は考へあれども、事繁ければ録しがたし。蜂竜の盃、「奇跡考」に見えたりといへるはいかにぞや。「奇跡考」の図は真物にあらず。其の由は其の説にもいへるをや。底広が子孫云々とある広字は深字の誤りなるべし。
○寛永以来承応の頃まで、金銀両替といふ事、駿河町両替町の外には其の筋の商人一軒もなく、金子一分二分づゝか、銭或ひは少々の銀子にて銭に替えへたき時は、本郷、四谷、芝、浅草の果てよりも、日本橋の南北の町へ来りて、とゝのへたる事なり。是れは室町并びに通り町南北四町が間に、銭売りとて数百人、各三貫文づゝ肩にかけて居て、少しき銭両替を数十年の間いたしたる事なり。青物町に両替屋一軒見世を出して、鐚銭を交へず、九十六文本数の銭を、粒銀にても金子一分にても、自由に両替せし故、扨も自在なる見世出たりとて、江戸中この店へ来て両替したり。是れを見て江戸中忽ち両替屋の見世出でたりとぞ(以上「事跡合考」に出づ。按ずるに、爰に云ふ青物丁は、今云ふ両替町の事也)。○この時代、毎年七月盆中にいたれば、市中の男女踊りを催し、夜々賑へり。○浄るり語り薩摩太夫、杉山丹後掾、虎屋源太夫、四郎与吉、あぶらや茂兵衛、鳥や次郎吉、南北喜太夫等行はる。
承応元年(1652)壬辰 十月八日改元
正月廿日の御具足餅、当年より十一日に成る。○十一日暁雪降る、巳時晴る
羅山文集
餅餐座上甲兜鑿 時有2寒花1発2孟陬1
鉄額銅頭変レ銀杏 雪如2白馬1祭2蚩尤1
○品川寺水月観世音の堂を修造し、海照山品川寺といふ(此の寺本尊は弘法大師安置有りしが、永録十二年の兵火に焼かれて、本尊武田方にとられ、甲州にありしを取りかへし、今年九月中旬住寺弘尊寺院を拝領し、堂を立つるよし「名所話」に見えたり)。○六月、若衆歌舞妓御制禁あり(前髪を剃りて紫の帽子をかくる。玉島主水、小晒作弥、市弥、伊織抔云ふもの殊に美少年にてありしといへり)。
均庭云ふ、慶安五壬辰六月二十七日此の御触ありしなり。
○八月二十八日夜、江戸大風雨。
承応二年(1653)癸巳 六月閏
今年、玉川の上水を都下に通じて、衆民の用に充てしめ給ふ。
△玉川上水は、遠く西の方甲州丹波山の幽谷に発し、同国丹波村を過ぎて武州多摩郡に至る。甲州一の瀬より留津浦村迄七里余、夫より羽村まで十三里、夫より六郷迄十六里許にして、羽田浦より海に会す(凡そ四十余里)。承応元年の春、玉川庄右衛門并びに清右衛門といへる者承りて、羽村より江戸までの水道を考へ、同十一月上水道掘割の儀を命ぜられければ、翌巳年初夏より仲冬に至り、羽村より四谷大木戸迄掘り渡し、虎御門まで玉川の水を掛けられしとぞ。其の後諸方武家方市中に分水して日用とす(赤坂御門外玉川稲荷社は、この玉川庄右衛門勧請するところなり)。
△神田上水を開かれし事は、其の始め慥ならず。「武徳編年集成」に、大久保某天正中に台命を受けて水道を考へしより、多摩川の清泉を小石川より引かしめられしといへるは、則ち神田上水の事なるべし、沾涼が説には、江戸繁昌につき此の池水ばかりにては不足なる故、承応に至り玉川を助水にかけられしかといへり。中古神田上水御再修のとき、藤堂家より御手伝ひとして、松尾忠左衛門(一説甚七郎ともあり。俳師芭蕉翁の事也)。堀わりの普請奉行たりしといへり(「俳家奇人談」には、此の時傭夫となりしと云ふ。又堰より少し上の方に竜隠庵といへる庵室ありしも、芭蕉翁此の地を愛して旧址をとゞむるといへり)。此の事世上に伝ふるをもて按ずるに、翁は寛永十二年九月始めて東武に下るといひ、又雉髪したるは一年の余なり。此の頃御普請の事行はれしなるべし。
均庭云ふ、こゝに引く「編年集成」の説は妄なり。「見聞集」に、神田明神山岸の水を北東の町へ流し、山王山本の流れを西南の町へ流し、此の二水を江戸町へ普く与へ賜ふとあり。神田上水と云ふ事は是れなり。御入国以来、猪頭の池水を御公儀御入用を以て、上水道に仰せ付けられ、町年寄り相勤め、玉川上水道は清右衛門、庄右衛門請負ひ申し候に付き、水道端の村々へ我儘申し掛けざるため、又村々に水道へ不浄なる儀仕らず候為め、寛文年中玉川上水羽村と申す処より、代々木千駄ヶ谷村迄十三里程の間、水道両端三間通りづゝ召上げられ、水道南之方は喜多村彦兵衛、北之方は奈良屋市右衛門拝領仰せ付けられ候に付き、右三間二十三里程之場所、其節自分入用を以て、松杉の苗木植え置き申し候云々。此の書き上げ事長ければ略す。桃青が水道にかゝりたる事も其頃の日記にあり。こゝに云へるは非なり。
△神田上水は井の頭の池に発し(多摩郡牟礼村)、善福寺池(同郡廃寺の旧跡也)、妙正寺池(同郡)、多摩川の分水等の諸流中、荒井村の末に至り合して、神田上水の助水となる。今其地を落合村といふ(水流落ち合ふ故の名なり)。牟礼村より落合迄十二村を経て高田村に至り、目白台の下にて二つに分かれ、一流は余水にして大洗堰より江戸川に落ち、一流は上水にして小日向を廻り、水府様御殿の中を東流す。すべて牟礼村より爰に至るの間、樋なくして流るゝを白堀と号す。其の水流御茶の水掛け樋を伝ひ、小川町を経て神田に至る故に、神田上水の名あり、又一筋は神田橋うち竜閑橋より、本銀町、本町辺、南は京橋辺、東は本材木町通り、両国の辺、浜町等に至る、町数凡そ二百七十丁程に及ぶ。
△両上水専ら通ぜざる前は、赤坂溜池の水を引き、其の余所々の水溜りの池水を、ここかしこに引きて用水としたりしかば、殊に不自由なりしに、此の上水の出来て、万民恣に汲んで快楽の思ひをなす事、誠に御恩沢仰ぎても猶あまりとやいはむ。
○正月二日、牛込御門の内青山某の婢女菊といふもの、主家にて秘蔵の皿を破りて害せられ、其の霊魂祟りをなせし事、人口に膾炙すれども、未だ実否を知らず。多くは付会の談なるべし。
均庭云ふ、皿屋敷の談、妄誕いふに足らず。或ひは云ふ、番町皿屋敷と云ふ事なりといへり。是れまた附会の説なり。播州皿屋敷と云ふ浄るり抔もあり。もと小児の戯れにいふ、皿かぞへの化けものより出でたる事と聞ゆ。
○九月琉球人来聘(正使国頭王子)。○金彫工吉岡氏祖重次卒す(八十二歳)。○新鳥越易行院に、侠客助六が墓と称するもの有り。西入浄心信士、承応二年巳二月十一日と鐫し、側に女の法名あり(近頃享和文化中、烏亭焉馬見出だしたるなり。歌舞妓芝居に預りしもの香花をひく)。
均庭云ふ、文化の頃俳優松本幸四郎が弟子染五郎、師にそむき大芝居に出づる事ならずなりて有りしに、焉馬より花川助六と云ふ名を付けてもらひ、市谷八幡社地に芝居ありてそれに出でたり。彼助六の墓に香花を手向けさせしなるべし。
承応三年(1654)甲午
浅草寺観世音開帳(此の時賽銭を金三百両の入札に落し売り渡せしと云ふ。当時平常の香花にも劣れり)。○今年町奴御穿鑿あり(夢の市郎兵衛、唐犬権兵衛などいへる男伊達と号せし悪党の事なり。六方組などゝ号して市中をはいくわいし、喧嘩を仕かけ諸人の妨せしもの也。六方組、六方言葉等の事、醒世翁が「奇跡考」、柳亭翁の「用捨箱」等を見て其の趣きをしるべし。この男伊達の内、山中源左衛門といふもの、正徳年中麹町真法寺にて腹切りし時、辞世、
わんざくれふんばるべいかけふばかり あすはからすがかつかじるべい
これ則ち六方言葉なり。この時の町奴の名三十四人「談海」に見へたり。
○市村羽左衛門が芝居にて、放れ狂言を始む。放れ狂言とは、女鬘をかけて島原傾城買ひの体を仕組み、髪切り島原、坂田島原抔題号にせしより、芝居の総名を島原と云ひしとぞ(この頃上方より小唄三味線の芸者をよび下せり)。
均庭云ふ、羽左衛門芝居のみにあらず、京難波すべて昔は傾城買ひの狂言流行りたり。夫故、傾城何々といへる名題の狂言多く、浄るりも多くありて今にあまた残れり。
○十一月十八日、狩野休伯長信卒す(七十八歳)。
承応年間記事
承応中、芝牛町より品川まで、浦伝ひ岸端石垣を命ぜられ、鈴が森まで築き立てらるゝと有り(「武蔵志料」に出づ)。
○「昔/\物語」に云ふ、慶安の頃、夏暑気強き節、船にて涼み、あるひは屋根船を拵へ出づる。浅草川を乗り廻してすゞむ。是れ船遊山の始まりなり。翌年大身衆も出る故、供廻り多く大勢乗る故に涼しからず。又翌年大船出来、四、五間もあり。承応の頃、船盛りなり。しかるに明暦の酉年の正月、江戸中の大火事後三、四年船遊び止む。万治の頃又々涼み船作り出し、諸人暑を凌ぐ、船従ひて大きく成り、間数多く七、八間の屋形船あり。後、船の名をつけ、川一丸、関東丸、大関丸、山一丸、熊一丸、十間一丸、などゝ名付くる。弁当色々美を尽し、御旗本十人なれば鎗十本なり。簾の隠へ掛けならべ、是れを武士のはゞとする云々(中古納涼看月の船、大かた三股を佳境とせる故、詩人も多く詩に作れり。半井卜養「狂歌集」に、三股といふところにて、
山もあり又船もあり川もあり 数はひとふたみつまたの景
同書云ふ(文を略す)、むかしは女子乗物より下る時は、覆面といふものをかけて顔を見せず、息女達七歳已後他人にまみへず、女子計付け置き、若し出づる時は覆面をかくるなり。明暦の頃迄は、しんめう、腰元かつぎを着てあるきしに、万治の頃より江戸中止む。大火事已後、ふくめんの上に玉ぶちといふ笠をかむり、御橋本衆も玉ぶちといふ編み笠はやり着す。寛文の頃に松坂といふ笠、延宝の頃に熊谷笠、こもそうなどはやり、八分返り笠はやり、又天和の頃、貞享の頃より編み笠止みて菅笠になる。段々上下共に菅笠に成る云々。○大身は格別、小身の人は、侍衆上下ともに上下又は袴ばかり着して、股立を取りて歩行する人もあり。又は柿の三尺手拭にて鉢巻抔しける人もあり。中間は一寸出るにも高端折りして出る云々(「昔/\物語」に、此の時世の風俗雑事くはしく記せり。近年印行して世人の知る所ゆへ略す)。○稲毛領中丸子村羽黒権現は、天正中の勧請なりといふ。承応の頃奥州会津の生れにて、小歌三蔵といふ道中の馬方中風を煩ひ、足なへて歩行叶はず、歯落ちて云ふ語分からず、終ひに非人と成りこの所に来たりしが、当社を祈りて不思議の霊験を得、落ちたる歯立ち地に生じ歩行自在となる。よつて当社に奉仕して香花を献り、又詣人へ神符などあたへければ、江戸并びに近在の諸人参詣群集する事夥しかりしに、明暦三年江戸大火の後、自からにして参詣絶えたりとぞ)。○承応二年刊行の江戸図に、誓願寺今小柳町の所なり。浅草御門内馬喰町の辺に雲光院、弥勒寺、唯念寺、ゑんわうゐん、聖徳寺、海安寺、せんとくじ、願敬寺、日輪寺、知足院在り。神田川の今云ふ新らし橋をくわんじん橋、神田橋を大炊殿橋と記せり。日本橋西河岸より南槙町迄の町屋の内、後藤源左衛門(呉服橋外なり)、道宅、玄宅、驢庵、甫庵、おひこ、セイフン、玄琳、鍛冶橋外にかのほうげん、通り一丁目東うら木はら、同二丁目東側くしもと、弓町裏くわんぜ三十郎、いづも町西裏金春七郎とあり、其の北を八間町、又竹川町の北にも、八間町有り。山王御旅所今の辺りにあり。海賊橋辺より南八丁堀辺寺院(寛永の図に有り)、数宇ありしが、端々へ移りて其の跡大抵武家に改まれり。
(平凡社東洋文庫『増訂武江年表1』を底本としました。)
七
武江年表(一部)
斎藤月岑著
青字は隆慶作品で描かれた人物・事柄の関連記述。
明暦元年(1655)乙未 四月二十九日改元
「梅翁句集」に、年号改元の歳旦(明暦や梅のあらたにひらくる日、といふ句あり。改元は四月なり。いぶかし)。
○下谷正燈寺開創。開山愚堂和尚(和尚は寛文元年丑十月朔日寂す。八十齢。翌年大円宝鑑国師と諡号を給ふ)。○玉川上水今年に至り全く成就せしよし、「瀬田問答」に出づ。○市谷平安寺、月桂寺と改む。○六月二十五日、鈴木正三卒す(称九太夫、号石平道人、浅草法福寺に葬す)。○九月、朝鮮人来聘(正使翠屏趙行(元字は王篇)、副使秋璋(元字はサンヅイ)瑜易(元字は王篇)、従事南竜翼、旅宿本誓寺也。韓人日光山拝詣す)。○十一月十二日、医師板坂卜斎卒す、(名如春。浅草寺中医王院に葬す。林信篤撰れし碑は修善院にあり。卜斎は浅草砂利場の辺に文庫を建て、和洋の書籍を収め諸人に繙かしむ。これを浅草文庫という)。同じ頃、浅草諏訪町の北裏に、堀田加州侯の御下やしきあり、此の内に大なる土蔵を造りて、内に和漢の書数万巻を貯へらる。世に浅草文庫と称しけるといへり。○[均補]八代すがし御殿并びに馬場を造らる。是れ朝鮮人の乗馬上覧有るべき為なり。
明暦二年(1656)丙申 四月閏
正月二十三日夜、赤雲西に出づる。○正月水あびせの事、自己の屋敷にて其の家の者へあびする事は、苦しかるなじき旨を命ぜらる。○浅草寺山門の仁王尊、この頃涎を垂るとて世に云ひふらし、貴賎群集す。○六月、赤気西方に見ゆる、竿の如く二本あり。○六月四日より観世太夫勧進能興行(神田橋太田侯の裏)。○浅草に於て新銭座建つ。○十月九日、吉原町を召し上げられ、右の代地として、二万四千三百坪の地を日本堤の辺(千束の内田地なり)にて下され、引料として金一万五千両(小間割十五両と云ふ)下さるゝ旨命ぜらる。○十月十六日夜、呉服町より出火、北風強く、中橋南鍛冶町、槙町辺類焼。○十二月十六日、茶人金森雲州侯卒す(名長近、号宗知)。○[無補]本町二丁目和泉屋九左衛門(呉服屋)、穴蔵をつくる。これ江戸に於ける穴蔵の濫觴なり(「我衣」に出づ)。
明暦三年(1657)丁酉
正月元日、四谷竹町火事。四日、赤坂町火事。五日、吉祥寺辺御中間町火事。○正月十八日、乾大風。未刻より本郷五丁目裏本妙寺より出火、湯島、神田辺、浅草御門内町屋、通町筋、鎌倉河岸、京橋八丁堀、霊巌島、鉄砲洲、海手、佃島、深川に至る(均庭云ふ、御成御本丸御天主等炎上。西御丸恙なし)。翌十九日巳刻過ぎ、小石川伝通院前新鷹匠町より焼け出だし、牛込御門、田安御門、神田橋御門、常葉橋御門、呉服橋御門、八代洲河岸、大名小路、数寄屋橋御門等焼亡。又同日、番町(麹町五丁目つゞき)より火出で、半蔵御門の外、桜田虎御門、愛宕下、増上寺門前札の辻、海手迄焼亡。此類焼、万石以上の御屋敷五百余宇、御旗本七百七十余宇、但し、組屋敷数をしらず。堂社三百五十余宇、町屋四百町、片町八百町、焼死十万七千四十六人といへり、依りて本庄に二町四方の地を給ひ、非人をして死骸を船にて運ばしめ、塚に築いて寺院を建て、国豊山無縁寺回向院と名づけしめ給ふ(去年十一月より当年正月に及ぶ迄、雨更になし。二十一日に至りて大雪降る。米価一時に登揚して、賤民の困苦甚しく、道路に悲泣す)。正月二十三日より七日の間、火災に逢ふて飢饉に及ぶ輩へ、所々に於いて粥を給はり、又町中へ銀子一万貫目(金にして十六万両、間口一間に三両一分と銀六匁八分づゝといふ)を下し給はる(因獄の罪人を火事の時放たるゝ事は、この時より始まれるよし、「むさしあぶみ」に見えたり)。
「視吾堂集」、江府回禄の後、仮に小屋をしつらひみな人すむを見て、
よしといひあしとやいはむつのくにの こや世の中の暑さ冷しさ 吉川惟足
正月下旬、吉原町小屋掛けを命ぜられ(「事跡合考」に、この時一旦本所の内、今の弥勒寺の所、其の頃荒地にて在りし所へ移る由云へり)、六月今の地へ引きうつり、新吉原町と号し、八月より商売をはじむ(明暦三年正月開板の江戸絵図の内、元吉原は江戸丁二丁、すみ町、京町、新町の名ありて、揚屋町の名なし。是れは元吉原二丁四方の地を、今の地にて五割増しにして代地を給はりし故、すみ町の向ふへあらたに町をひらき、其の頃迄壱町の中に、二軒三軒ありし揚屋を一つにあつめて、揚屋町と名づけしといへり。元地の辺はこれより高砂町、住吉町、難波町などゝ、謡の名目などにより、めでたき町名に改むると云々)。○正月二十三日、羅山先生卒す(七十五歳、墳墓は忍岡の別業に在りしを、元禄十一年の災後、牛込山伏町に移す)。○大火の後、江戸中町家瓦葺を禁ぜらる。
明暦年間記事
東本願寺、神田明神の下加賀屋敷と唱ふる地の西にありしを、明暦中浅草今の地へ移さる(大火の後なるべし)。其の東、今加賀原と唱ふる地は、本多肥後侯の御やしき、花房町の処は太田備中侯の御屋敷なり。其の外、此辺武家やしき多かりしなり。西本願寺、横山町の辺より築地へ移る。○「武蔵鐙」といへる草紙に(明暦の大火の事を記せる書也)、災後の事をいへる件に、白銀町より柳原迄、町屋敷一通りのけられ、高さ二丈四尺に石を以て東西十町あまりに土手を築かせらる。日本橋の南万町より四日市迄の町屋敷を取りのけ、高さ四間に川端にそふて北を受け、東西二町半に畳み上げらる。又日本橋より京橋まで八町の間に、町屋三ヶ所を取りのけて、会所三十間づゝひろくなれり。是は町屋余りにせきあひ、諸人いやが上に入込み、やゝもすれば失火を出し、人をそこなふ事の度々に及ぶゆへ、土手を築きたらば、江戸中のものいか成る事ありとも、退足たやすき為との御事なりと云々。○火災の前まで、日本橋通り四丁目北の側、細き辺を五輪町といふ。此処に墓石を作る工、居たるゆへなり。○災後茅場町に在りし茅商売の者、両国橋向ふへ移さる。其後、元禄始めの頃本所四ツ目へ移さる。よつて本所茅場町といふ。○此の時武家の藩邸移転多し。又寺院も所替へあまた有り。吉祥寺は水道橋より駒込へ移る(水道橋旧名吉祥寺橋といへり。同寺表門の通りなるゆへなり。寛文より元禄頃迄の江戸図にも、本吉祥寺橋としるす)。霊山寺、源空寺、海禅寺いづれも湯島に在りしが、大火後浅草へうつる。瑞林寺、昌平橋外より谷中へ移る。報恩寺、八丁堀より浅草へ、幡随意院、日輪寺(今の弁慶橋の西也)、誓願寺(今の小柳丁の辺)、神田より浅草へ、聖徳寺、天獄院、あさ草御門より浅草今の地へ移る。○此の時分今の如き美食を商ふもの更になし。明暦災後、金竜山の門前に、始めて茶飯、豆腐汁、煮染、大豆等をとゝのへて、奈良茶と名づけて出だせしを、江戸中端々より金竜山のならちゃ喰ひにゆかんとて、殊の外珍らしき事に興じたるとなり。○浅草見附前玉屋勘五兵衛、笹屋利兵衛といふ船宿にて、始めて猪牙船を製す。三谷通ひの輩これに乗る。又所々より白き馬に乗りて通ひしもありしなり(「奇跡考」其の余の草紙に委し。「はるの日のいとゆふわけて柳たをるはたれ/\ぞ、白き馬にめしたるとのごよ」とうたひしも此のころの事なり)。
均庭云ふ、猪牙船、こゝにいへるは「江戸砂子」の説なり。又一説もあれど、いづれもひが事なり。ちよき船悪所通ひに用ひそめそ頃は、二挺立といへり。三挺立もあり。これら御停止にて、今は艪一挺なれども三挺の名は残れり。二挺も三挺も皆ちよき船にて、もと漁猟の船なり。正徳四年八月、深川猟師共願書を出す。そは此の度ちよき船御停止に就いてなり。元来ちよき船と申すは、猟船に御座侯処、悪所通ひの船に借し候もの所々に出来申し候に付き、悪所船の名に罷り成り、猟師共家業之障に相成る可き旨、迷惑に存じ奉り候間、御訴訟申し上げ候云々と見えたり。
○柴垣といふ小唄并びに踊はやる(「還魂紙料」にくはし。此の頃狂歌「芝居をうつの山へのうつけ者夢にも一ツあはぬ手ひやうし」)。○明暦四年山崎闇斎の「遠遊紀行」に、鈴が森に旧より一石あり。これを転すに其の声鈴の如し。近頃人偸み去る、とあり。承応の頃までもありしならん。○爭曲柳川検校、八橋検校行はる(八橋は寛文の末に終れり)。○明暦三年の江戸図、大坂町(今大伝馬町一丁目うら、堀とめなり)、あひもの町(今小舟町二丁目なり)とあり。神田蝋燭町の続きに幸若太夫とあり。
万治元年(1658)戊戌 十二月閏 七月廿五日改元
正月元日夜、市谷安養寺三世秀誉の夢に、白衣の老翁顕はれ、和歌を詠じ白狐となりて去る。よつて稲荷社を建つ。しかりしより霊験著しと、「江戸砂子」にいへり。○正月十日、本郷三丁目より出火、引続き江戸中大半焼亡(其方域未詳)。○[無補] 二月十日、お茶の水掘割成る。○三月木挽町海手、赤坂、小日向等築地出来る(牛込御殿山は築土の西也。小日向築地の時、この山を引き、田を埋め、地形をならしけるといふ)。○四月十五日、狩野素川信政卒す(五十二歳、外記)。六月九日、猿若道順死す(中村勘三郎が元祖なり)。○夏、三田の地に会津侯御別荘の地を給はる。此の地は渡辺綱が老後に住ひし旧蹟なり。則ち綱塚と称ふるも在りて、松樹を植えて遺蹟を標せり(寛文十二年夏、弘文院林怒之「箕田園の記」を作らる)。○狂言師鷺氏、寛永中花子の狂言より名を挙げしが、後遁世して道仲と号し、橋場総泉寺鏡が池の辺に住す。一口の鏡を鋳て、其の銘に本堂再建の趣意を記し、又池の中に弁才天の小祠を建てたり。今年七月二十七日、七十余歳にして終れり(「洞房語園」にくはし)。○八月江戸中髪結株、一町に一ヶ所づゝ八百八株に定まる。按ずるに江戸町数八百八町といふ事、此の時代の事也(寛永の「あづまめぐり」にも、八百八町の事を記せり)。今は千七百余町に及べり。○今年、日本橋御普請始まる。○九月十三日、唐僧隠元禅師、摂州普門寺より江府に来られし時、湯島麟祥院に七十余日逗留あり。貴賎群集す(この時齢六十五と云ふ)。○深川海福寺開創(開山隠元禅師)。○同浄心寺開創(開山日義上人)。○日暮里経王寺開創。○春、山崎闇斎翁江戸に遊び、秋帰京す。「遠遊紀行」あり。○今戸村百姓九郎吉が男九郎助、畑中の道に在りし稲荷社を吉原へ移す。是を九郎助稲荷といふ。○九月、明の軍師国姓爺鄭成功、本邦へ援兵を請ふ(名は芝彪。又森官といふ。今年三十九歳なり。日本の寛文六年に卒す)。○「東海道名所記」成る(浅井了意作、寛文中版行)。○[均補]御切米御張紙始めて出る(一書に承応元年ともあり)。定火消四組始めて仰せ付けらる。
万治二年(1659)己亥
正月二日より三月二十四日まで、火災百五度に及ぶ。諸人安きこゝろなかりしとぞ(「玉露叢」に、正月十二日、二十一日、江戸大火とあり)。○日本橋を掛け改めらる(或る書に昔は麁相の橋にて在りしが、此の時始めて広欄擬宝珠等出来しといへるはいかゞあらん。寛永の「あづまめぐり」の図にもぎほうしゅあり。此時児玉勝次といふ人わたり始めるといふ)。○三月、山崎闇斎翁再び江戸に遊び、八月帰京す。「再遊紀行」あり。其の余、数度東遊あり。○四月二十一日、永田馬場山王権現社、今の地へ御造営、今日御遷宮あり(旧地は御堀端にして、彦根侯の御屋敷より道を阻て北に在りしが、社地狭く火災の時、類焼の患あるが故、当時の所、松平主殿頭殿御屋敷にてありしを、災後社地とはなし給へり)。朱舜水先生、明末の乱を避けて日本へ来る(朱舜水先生の事、安藤為章の「年山紀聞」に、其の碑蔭の文を載せて詳かなり)。○七月二日、大風雨、洪水(浅草御蔵二俵通り水に浸る。よつて五尺ほど築き上ぐるといふ)。○九月、深草元政法師母を誘引し、身延山に詣でける。次に江戸へ下る(紀行「身延行記」といふ)。
「身延行記」、万治二年亥、九月五日池上へまうでたるに、上人谷中へ出給ふといへば、諸堂拝みてやがて江戸へ趣きぬ。たそがれに日本橋のもとにつく。二階なる所も月を見て、
日本橋辺日本秋 更無3一事掛2心頭1
今宵新見江城月 影満扶桑六十州
せばき所に並び居て、つれ/\〃なる儘に唐のやまとの文こゝろ、心に見つゝ、はや幾日にかなりにけん。或は詩作り歌よみて心をやるかたもあり。母は六日のあしたより、そこの館にのみ居給へば、雲井の余所に思ひやるこゝちして、うしろめたく忘るゝ時なし。或時新発意ども旅宿の月という事をよまんとてよめる。
千さとまでくまなき影も旅ごろも 袖のみ曇るむさしのゝ月
うきながら結びなれにし草枕 明くる夜をしき武蔵野のつき
月もまたことゝひかはせすみ田川 都こひしき夜半の寝覚に
○下谷永昌寺に下谷長者(長者町は長者住居の所と云ふ)の墓とてあり。上光院殿本誉玄安居士、万治二年亥九月二十九日とあり。年号新しければ疑はしけれど、長者の子孫の墓にや。○神田川掘割の事、仙台侯へ命ぜられ、今年御普請始まる。明くる年にいたり、大川より柳原通り、御茶の水下通り、駒込吉祥寺旧地側より牛込にいたり、御外廓御堀出来して、大川へ通路と成る(此の揚げ土を以て小石川小日向に築地出来、武家地と成る。此の前は赤城明神下より目白不動辺まで田畑なり。江戸川は小石川へ抜けてあり。飯田橋下の堀どめは江戸川の掘割なりしよしなり)。○今年より本所深川鉄砲洲に地を築き、道をひらき川を通し橋をわたし、武家屋敷に御定めあり。其の後天和二年、回向院と今の沫雪豆腐店の通り町屋計残り、其外本所の武士地町屋は上りて元の田畑となり、元禄元年又昔の通り武士地町屋となれり。○十二月、霊巌寺深川へ移る。其の跡町屋となれり(此の地に有りし円覚寺薬師堂橋本いなり社のみ今に残れり)。○十二月五日、吉原三浦屋の名妓高尾死す。転誉妙身信女と云ふ(山谷春慶院に墓あり。又同所西方寺にもありて、万治三年とするは誤りなり。辞世、さむ風にもろくもくづる紅葉哉。是れより後高尾十人あり。山東翁の「奇跡考」に其の考あり。又柳亭翁の「高尾考」一册あり。未だ梓に上せず)。
均庭云ふ、「高尾考」は太田南畝の著述、京伝の補考あり。猶さま/\〃説あるなり。無声云ふ、種彦の著述は「高尾年代記」なり。刊本あり。なほ京山又雀庵(写本)あり。
○今年より江戸町に斯道多く出来る。○[均補]或ひは云ふ、今年両国橋を造らるとあり。是は今年より造り始めて、翌年落成したるなるべし。
万治三年(1660)庚子
正月十四日十八日、大火有りし由、「玉露叢」にいへり。○谷中延命院七面宮再建。○本所回向院建立成る(明暦丁酉、焼死十万七千余人の死骸を葬り一宇を創し給ふ。信誉といふ道心者日夜爰に念仏を唱へ、塚上に銅像の弥陀を造り安置し、又山門を建つる。当寺二世住職となれり。この山門元禄の火災に罹り今なし。因にいふ。此の時代にはこの辺りをも牛島とよべり)。○両国橋始めて掛けらる(幅四間長さ凡そ九十六間、始めは大橋と呼べり。後に両国と改めらるゝと云ふ。一書に万治三年に御普請始まり、寛文元年に成就すともいふ。「広貢」といふ書に、今の両国橋往古は少し川上にかゝりたるが、度々の洪水に落ちて難儀せしに、川村随軒今の所を見立て、言上し掛けかはりしより此の方、流失の憂ひ少しとあり)。
題2両国橋1 鵞峯先生
杠梁建新枕2長流1 人是陸行吾在レ舟
疑似2猛竜横臥勢1 総州為レ尾武為レ頭
○木挽町五丁目に、森田太郎兵衛始めて芝居興行す(後代々勘弥と号す)。○五月、霖雨出水。○九月二十五日、御将棋所二世大橋宗桂卒す(二本榎上行寺に将棊駒形の石碑を立つ)。○「むさしあぶみ」二巻梓行(明暦大火の事を記せる書也。此の書の事既に上にいへり)。
[無補]是の夏、御室宮日光御社参として下向あり。富岡八幡宮に詣で給ひ、天下安全の御祈念あり。
永き代の栄久しき此の島の めぐみたえせぬ神垣の内
○[均補]日本国中の寺社へ御朱印二百十万石程を附せらる。
万治年間記事
上野に金銅二丈二尺余の大仏の像、明暦万治の頃、木食浄雲再建す(其の頃は濡れ仏也。元禄にいたり堂宇を建て給ふ)。○芝口日比谷稲荷勧請。○大久保法善寺七面宮勧請。○明人陳元贇、彼国の乱を避けて本邦へ来り、江戸三田台町永寿山国昌寺に偶居す。其の時浪人福野七郎右衛門、磯貝次郎左衛門、三浦与次右衛門等に語りけるは、明に人を捕ふる術あり。我其の技を見るにしか/\〃なりといふ。三人此の術を聞き、其の態を工夫す。起倒流柔術の始め也(元贇は寛文十一年六月九日、八十五歳にして尾州に終れり。起倒流柔術福野氏より寺田氏某に伝はり、寺田氏より滝野貞高に伝はる。貞高の門人比留川某又加藤長正に伝ふ。長正は安永中の人にして、門人千余人に及べりとなり)。
均庭云ふ、この事貝原氏が「和事始」に出て、これを柔術の始めなりといへるは誤りなり。もとより其の事はありて居合といへり。今は太刀を抜くわざにのみゐあひといふ。是等のこと考へあれど、事長ければこゝに記しがたし。
○万治の頃、駿州阿部川の辺より、酒楽といへる座頭江戸に下り、諸人の慰みに紙帳の内に入りて、鳴物八人の役を独りしてなすよし、「一代女」といへる草紙にいへり。八人芸のはじめにや。
(平凡社東洋文庫『増訂武江年表1』を底本としました。)

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