不動智神妙録・武辺咄聞書・麓の花・ベアト・ルイス・ソテーロ伝

不動智神妙録

不動智神妙録

沢庵禅師著
赤字は本文引用部分

無明住地煩悩

 無明とは明になしと申す文字にて候。迷ひを申し候。住地とは止まる位と申す文字にて候。佛法修業に五十二位と申す事の候。その五十二位の内に、物毎に心の止まる所を住地と申し候。住は止まると申す義理にて候。止まると申すは、何事に付けても其事に心を止むるを申し候。貴殿の兵法にて申し候はば、向ふより切太刀を一目見て、其儘にそこにて合はんと思へば、向ふの太刀に其儘に心が止まりて、手前の働きが抜け候て向ふの人にきられ候。是れを止まると申し候。打太刀を見る事は見れども、そこに心をとめず、向ふの打つ太刀に拍子合せて打たうとも思はず、思案分別を残さず、振上る太刀を見るや否や、心を卒度も止めず、其まま付入て、向ふの太刀にとりつかば、我をきらんとする刀を、我をきらんとする刀を、我が方へもぎとりて、却て向ふを切る刀となるべく候。禅宗には是を還把2鑓頭1倒刺レ人来ると申し候。鑓はほこにて候。人の持ちたる刀を我が方へもぎりとりて、還て相手を切ると申す心に候。貴殿の無刀と仰せられ候事にて候。向ふから打つとも、吾から討つとも、打つ人にも打つ太刀にも、程にも拍子にも、卒度も止めれば、手前の働きは皆抜け候て、人にきられ可レ申候。敵に我が身を置けば、敵に心をとられ候間、我が身にも心を置くべからず。我が身に心を引きしめて置くも、初心の間、習入り候時の事なるべし。太刀に心をとられ候。拍子合せに心を置けば、拍子合せに心をとられ候。我太刀に心を置けば、我太刀に心をとられ候。これを皆心のとまりて、手前抜殻になり申し候。貴殿御覧之可レ有候。佛法と引當て申すにて候。佛法には、此止る心を迷と申し候。故に無明住地煩悩と申すことにて候。

諸佛不動智

  と申す事。不動とは、うごかずといふ文字にて候。智は智慧の智にて候。不動と申し候ても、石か木かのやうに無性なる義理にてはなく候。向ふへも左へも右へも、十方八方へ心は動き度きやうに動きながら、卒度も止まらぬ心を不動智と申し候。不動明王と申して右の手に縄を取りて、歯を喰ひ出し、目を怒らし、佛法を妨げん悪魔を降伏せんとて突つ立って居られ候姿も、あの様なるが何國の世界にもかくれて居られ候にてはなし。容をば佛法守護の形につくり、體をばこの不動智を體として、衆生に見せたるにて候。一向の凡夫は怖れをなして、佛法に仇をなさじと思ひ、悟りに近き人は不動智を表したる所を悟りて、一切の迷を晴らし、即ち不動智を明らめて、此の身則ち不動明王程に此心法をよく執行したる人は、悪魔もいやまさぬぞと知らせん為めの不動明王にて候。然れば不動明王と申すも、人の一心の動かぬ所を申し候。又身を動轉せぬことにて候。動轉せぬとは、物毎に留らぬ事にて候。物一目見て其心を止めぬを不動と申し候。なぜなれば、物に心が止り候へば、いろ/\の分別が胸に候間、胸のうちにいろ/\に動き候。止れば止る心は動きても動かぬにて候。譬へば十人して一太刀づつ我へ太刀を入るるも、一太刀を受流して、跡に心を止めず、跡を捨て跡を拾ひ候はば、十人ながらへ働きを缺かさぬにて候。十人十度心は働けども、一人にも心を止めずば、次第に取合ひて働きは缺け申間敷候。若し又一人の前に心が止り候はば、一人の打太刀をば受流すべけれども、二人めの時は、手前の働抜け可レ申候。千手観音とて、手が千御入り候はば、弓を取る手に心が止まらば、九百九十九の手は皆用に立ち申す間敷、一所に心を止めぬにより、手が皆用に立つなり。観音とて、身一つに千の手が何しに可レ有候、不動智が開け候へば、身に手が千有りても皆用に立つと云ふ事を、人に示さんが為めに作りたる容にて候。假令一本の木に向ふて其の内の赤き葉一つ見て居れば、残りの葉は見えぬなり。葉ひとつに目をかけづして、一本の木に何心もなく打ち向ひ候へば、数多の葉残らず目に見え候。葉一つに心をとられ候はば、残りの葉は見えず、一つに心を止めぬば、百千の葉みな見え申し候。是を得心したる人は、即ち千手千眼の観音にて候。然るを一向の凡夫は、唯一筋に、身一つに千の眼が何しにあるらん、虚言よと破り讒る也。今少し能く知れば、凡夫の信ずるにても破るにてもなく、道理の上にて尊信し、佛法はよく一物にして其理を顴す事にて候。諸道ともに斯様のものにて候。神道は別して其道と見及び候。有の儘に思ふも凡夫、又打破れな猶悪し、其内に道理有る事にて候。此道彼道さま/\〃に候へども、極所は落着候。扨初心の地より修行して不動智の位に至れば、立帰て住地の初心の位へ落つべき子細御入り候。貴殿の兵法にて可レ申候。初心は身に持つ太刀の構も何も知らぬものなれば、身に心の止まる事もなし、人が打ち候へば、つひ取合ふばかりにて、何の心もなし。然る處にさま/\〃の事を習ひ、身に持つ太刀の取様、心の置所、いろ/\の事を教へぬれば、色々の處に心が止まり、人を打たんとすれば、兎や角して殊の外不自由なる事、日を重ね年月をかさね稽古をするに従ひ、彼は身の構も太刀の取様も、皆心のなくなりて、唯最初の何もしらず習はぬ時の心の様になる也、是れ初と終と同じやうなる心持にて、一から十までかぞへまはせば、一と十と隣になり申し候。調子なども、一の初の低き一をかぞへて上無と申す高き調子へ行き候へば、一の下と一の上とは隣りに候。
一 臺越。 二 断金。 三 平調。 四 勝絶。 五 下無。 六 雙調。 七 覺鐘。八 つくせき。九 蠻(打けい)。十 盤渉。 十一 神仙。 十二 上無。 
 づつと高きとづつと低きは似たるものになり申し候。佛法もづつとたけ候へば、佛とも法とも知らぬ人のやうに、人の見なす程の飾も何もなくなるものにて候。故に初の住地の無明と煩悩と、後の不動智とが一つに成りて、智慧働の分は失せて、無心無念の位に落着申し候。至極の位に至り候えば、手足身が覚え候て、心は一切入らぬ位になる物にて候。鎌倉の佛國々師の歌にも、
 心ありてもるとなけれど小山田に いたづらならねかかしなりけり
 皆此歌の如くにて候。山田のかかしとて、人形を作りて弓矢を持たせおく也。鳥獣は是を見て逃る也。此人形に一切心なけれども、鹿がおじてにぐれば用がかなふ程に、いたづらならぬ也。萬の道に至り至る人の所作のたとへ也。手足身の働き斗にて、心がそつともとどまらずして、心がいづくに有るともしれずして、無念無心にて山田のかかしの位にゆくものなり。一向の愚痴の凡夫は、初から智慧なき程に、萬に出ぬなり。又づつとたけ至りたる智慧は、早ちかへ處入によりて一切出ぬなり。また物知りなるによつて、智慧が頭へ出で申し候てをかしく候。今時分の出家の作法ども、嘸をかしく可2思召1候。御耻かしく候。

理之修行事之修行

 と申す事の候。理とは右に申上候如く、至りては何も取あはず、唯一心の捨やうにて候。段々右に書付け候如くにて候。然れども事の修行を不レ仕候えば、道理ばかり胸に有りて、身も手も不レ働候。事之修行と申し候は、貴殿の兵法にてなれば、身構の五箇に一字の、さま/\〃の習事にて候。理を知りても、事の自由に働かねばならず候。身に持つ太刀の取まはし能く候ても、理の極り候所の聞く候ては相成間敷候。事理の二つは、車の輪の如くなるべく候。

間不

 と申す事の候。貴殿の兵法にたとへて可レ申候。間とは物を二つかさね合ふたる間へは、髪筋も入らぬと申す義にて候。たとへば手をはたと打つに、其儘はつしと声が出で候。打つ手の間へ髪筋の入程の間もなく声が出で候。手を打って後に声が思案して間を置いて出で申すにては無く候。打つと其儘音が出で候。人の打ち申したる太刀に心が止り候えば、間が出来候。其間に手前の働が抜け候。向ふの打つ太刀と我働との間へは、髪筋も入らず候程ならば、人の太刀は我太刀たるべく候。禅の問答には、此心ある事にて候。佛法にては、此止りて物に心の残ることを嫌ひ申し候。故に止るを煩悩と申し候。たてきつたる早川へも玉を流す様に乗って、どつと流れて少しも止る心なきを尊び候。

石火之機

 と申す事の候。是も前の心持にて候。石をハタと打つや否や光が出で、打つと其のまま出る火なれば、間も透間もなき事にて候。是れも心の止まるべき間のなき事を申し候。早き事とばかり心得候へば悪敷候。心を物に止め間敷と云ふが詮に申し候。心が止まれば、我が心を人にとられ申し候。早くせんと思ひ設けて早くせば、思ひ設ける心に又心を奪はれ候。西行の歌集に、世をいとふ人とし聞けばかりの宿、心止むるなと思ふばかりぞと申す歌は、江口の遊女のよしみ歌なり、心とむなと思ふばかりぞと云ふ下句の引き合はせは、兵法の至極に當り可レ申候。心をとどめぬが肝要にて候。禅宗にて、如何是佛と問ひ候はば、拳をさしあぐべし、如何か佛法の極意と問はば、其の答話の善悪を撰ぶにてはなし、止まらぬ心を尊ぶなり、止まらぬ心は、色にも香にも移らぬ也。此の移らぬ心の體を神とも祝ひ、佛とも尊び、禅心とも極意とも申し候へども、思案して後に云ひ出し候へば、金言妙句にて住地煩悩にて候。石火の機と用すも、ぴかりとする電光のはやきを申し候。たとへば右衛門とよびかくると、あつと答ふるを不動智と申し候。右衛門と呼びかけられて、何の用にてか有る可きなどと思案して、跡に何の用か抔いふ心は住地煩悩にて候。止まりて物に動かされ、迷はさるる心を所住煩悩とて、凡夫にて候。又、右衛門と呼ばれて、をつと答ふるは諸佛智なり。佛と衆生と二つ無く、神と人と二つ無く候。此の心の如くなるを、神とも佛とも申し候。言葉にて心を講釈したぶんにては、この一心、人と我が身にありて、昼夜、善事悪事とも業により、家を誰れ國を亡ぼし、其の身の程々にしたがひ、善し悪しともに心の業にて候へども、此の心を如何やうなるものぞと悟り明らむる人なく候ひて、皆心に惑はされ候。世の中にも心も知らぬ人は可レ有候。能く明らめ候人は、稀にも有りがたく見及び候。たま/\明らめ知る事も、また行ひ候事成り難く、此の一心を能く説くとて、心を明らめるにてはあるまじく候。水の事を講釈致し候とても、口はぬれ不レ申候火を能く説くとも、口は熱からず、誠の水、誠の火に触れてならでは知れぬもの也。書を講釈したるまでにては知れ不レ申候食物をよく説くとても、ひだるき事は直り不レ申候。説く人の分にては知れ申す間敷候。此の中に佛道も儒道も心を説き候得共、其の説く如く其の人の身持なく候尾心は、明らかに知らぬ物にて候。人々、我が身にある一心本来を篤と極め悟り候はねば不レ明候。又参学したる人、心持皆々悪敷候。此の一心の明らめやうは、深く工夫の上より出で可レ申候。

心の置所

 心を何処に置かうぞ、敵の身の働に心を置けば、敵の身の働に心を取らるるなり。敵の太刀に心を置けば、敵の太刀に心を取らるるなり。敵を切らんと思ふ所に心を置けば、敵を切らんと思ふ所に心を取らるるなり。我太刀に心を置けば、我太刀に心を取らるるなり。我切られじと思ふ所に心を置けば、切られじと思ふ所に心を取らるるなり。人の構に心を置けば、人の構に心を取らるるなり。兎角心の置所はないと言ふ。或人問ふ、我心を臍の下に押込めて餘所にやらずして、敵の働に転化せよと云ふ。尤も左あるべき事なり。然れども佛法の向上の段より見れば、臍の下に押込めて餘所へやらぬと云ふは、段が卑しき向上にあらず。修行稽古の時の位なり。敬の字の位なり。又は孟子の放心を求めよと云ひたる位なり。上りたる向上の段にてはなし。敬の字の心持なり。放心の事は別書に記し進じ可レ有2御覧1候。臍の下に押込んで餘所へやるまじきとすれば、やるまじと思ふ心に心を取られて、先の用かけ、殊の外不自由になるなり。或人問ふて云ふは、心を臍の下に押込んで働かぬも、不自由にして用が缺けば、我心の内にして何処にか心を可レ置ぞや。答へて曰く、右の手に置けば、右の手に取られて身の用缺けるなり。心を眼に置けば、眼に取られて身の用缺け申し候。右の足に心を置けば、右の足に心を取られて身の用缺けるなり。何処なりとも、一所に心を置けば、餘の方の用は皆缺けるなり。然らば則ち心を何処に置くべきぞ。我答へて曰く、何処にも置かねば、我心一ぱひに行きわたりて、全體に延びひろごりてある程に、手の入る時は手の用を叶へ、足の入る時は足の用を叶へ、目の入る時は目の用を叶へ、其入る所々に行きわたりてある程に、其入る所々の用を叶ふるなり。萬一もし一所に定めて心を置くならば、一所に取られて用は缺くべきなり。思案すれば思案に取らるる程に、思案をも分別をも残さず、心をば総身に捨て置き、所々止めずして其所々に在て用をば外さず思ふべし。心を一所に置けば、偏に落ると云ふなり。偏とは一方に片付きたる事を云ふなり。正とは何処へも行き渡つたる事なり。正心とは総身へ心を伸べて一方へ付かぬを言ふなり。心の一処に片付きて一方缺けるを偏心と申すなり。偏を嫌ひ申し候。萬事にかたまりたるは、偏に落るとて道に嫌ひ申す事なり。何処に置かうとて思ひなければ、心は全體に伸びひろごりて行き渡りて有るものなり。心をば何処にも置かずして、敵の働によりて、當座々々心を其所々にて可2用心1歟。総身に渡ってあれば、手の入る時は手にある心を遣ふべし。足の入る時には足にある心を遣ふべし。一所に定めて置きたらば、其置きたる所より引出し遣らんとする程に、其処に止りて用が抜け申し候。心を繋ぎ猫のやうにして餘処にやるまいとて、我身に引止めて置けば、我身に心を取らるるなり。身の内に捨て置けば餘処へは行かぬものなり。唯一所に止めぬ工夫是れ皆修業なり。心をばいづこにも止めぬが眼なり。肝要なり。いづこにも置かぬばいづこにもあるぞ。心を外へやりたる時も、心を一方に置けば、九方は缺くるなり。心を一方に置かざれば、十方にあるぞ。

本心妄心

 と申す事の候。本心と申すは一所に留らず、全身全體に延びひろごりたる心にて候。妄心は何ぞ思ひつめて一所に固り集りて、妄心と申すものに成り申し候。本心は失せ候と、所々の用が缺ける程に、失はぬ様にするが専一なり。たとへば本心は水の如く一所に留らず、妄心は氷の如くにて、氷にては手も頭も洗はれ不レ申候。氷を解かして水と為し何所へも流れるやうにして、手足をも何をも洗ふべし。心一所に固り一事に留り候へば、氷固りて自由に使はれ申さず、氷にて手足の洗はれぬ如くにて候。心を溶かして総身へ水の延びるやうに用ゐ、其所に遣りたきままに遣りて使ひ候。是を本心と申し候。

有心之心無心之心

 と申す事の候。有心の心と申すは、妄心と同事にて、有心とはあるこころと読む文字にて、何事にても一方へ思ひ詰る所なり。心に思ふ事ありて分別思案が生ずる程に、有心の心と申し候。無心の心と申すは、右の本心と同事にて、固りたる事なく、分別も思案も何も無き時の心、総身にのびひろごりて全體に行き渡る心を無心と申す也。留れば心に物があり、留る所なければ心に何も無し。心に何も無きを無心の心と申し、又は無心無念とも申し候。此無心の心に能くなりぬれば、一事に止らず一事に缺かず、常に水の湛えたるやうにして、此身に在りて用の向ふ時出て叶ふなり。一所に定り留りたる心は自由に働かぬなり。車の輪も堅からぬにより廻るなり。一所につまりたれば廻るまじきなり。心も一時に定れば働ぬものなり。心中に何ぞ思ふ事あれば、人の云ふ事をも聞きながら聞えざるなり。思ふ事に心が止まるゆゑなり。心が其の思ふ事に在りて一方へかたより、一方へかたよれば、物を聞けども聞えず、見れども見えざるなり。是れ心に物ある故なり。あるとは、思ふ事があるなり。此有る者を去りぬれば、心無心にして、唯用の時ばかり働きて其用に當る。此心にある物を去らんと思ふ心が、又心中に有る物になる。思はざれば、曇り去りて自ら無心となるなり。常に心にかくすれば、何時となく後は曇り其位へ行くなり。急にやらんとすれば行かぬものなり。古歌に、
 思はじと思ふも物を思ふなり 思はじとだに思はじきやきみ

水上打2胡蘆子1捻着即轉

 胡蘆子を捻着するとは、手を以て押すなり。瓢を水へ投げて押せば、ひよつと脇へ退き、何をしても一所に止らぬものなり。至りたる人の心は卒度も物に止らぬ事なり。水の上の瓢を押すが如くなり。

應無所住而生其心

 此文字を読み候へば、をうむしょじようじやうごしんと読み候。萬の業をするに、せうと思ふ心が生ずれば、其する事に心が止るなり。然る間止る所なくして心を生ずべしとなり。心の生ずる所に生ぜざれば手も行かず、行けばそこに止る心を生じて、其事をしながら止る事なきを、諸道の名人と申すなり。此止る心から執着の心起り、輪廻も是れより起り、此止る心生死のきづなと成り申し候。花紅葉を見て花紅葉を見る心は生じながら、其所に止らぬを詮と致し候。慈圓の歌に、
 柴の戸に匂はん花もさもあらばあれ ながめにけりな恨めしの世や
 花は無心に匂ひぬるを、我は心を花にとどめてながめけるよ、と身の是れにそみたる心が恨めしと也。見るとも聞くとも、一所に心を止めぬを至極とする事にて候。敬の字をば主一無適と註を致し候て、心を一所に定めて餘処へ心をやらず、後に抜いて切るとも切る方へ心をやらぬが肝要の事にて候。殊に主君抔に御意を承る事、敬の字の心眼たるべし。佛法にも敬の字の心有り、敬白の鐘とて、鐘を三つ鳴して手を合せ敬白す。先づ佛を唱へ上げる此敬白の心、主一無適、一心不乱、同義にて候。然れども佛法にては、敬の字の心は至極の所にては無く候。我心をとられ乱さぬやうにとて習ひ入る修行稽古の法にて候。此稽古年月つもりぬれば、心を何方へ追放しやりても、自由なる位に行くにて候。右の應無所住の位は、向上至極の位にて候。敬の字の心は、心の餘所へ行くを引留めて遣るまい、遣れば乱るると思ひて、率度も油断なく、心を引きつめて置く位にて候。是は當座心を散らさぬ一旦の事なり。常に如レ是ありては自由なる義なり。たとへば雀の子を捕へられ候て、猫の縄を常に引きつめておいて、放さぬ位にて、我心を猫をつれたるやうにして不自由にしては、用が心のままに成る間敷候。猫によく仕付をして置いて、縄を追放して行度き方へ遣り候て、雀と一つ、居ても捕へぬやうにするが、應無所住而生其心の文の心にて候。我心を放捨て猫のやうに打捨て、行度き方へ行きても、心の止らぬやうに心を用ひ候。貴殿の兵法に當て申し候はば、太刀を打つ手に心を止めず、一切打つ手を忘れて打つて人を切れ、人に心を置くな、人も空、我も空、打つ手も打つ太刀も空と心得、空に心を取られまいぞ。鎌倉の無学禅師、大唐の乱に捕へられて切らるる時に、電光影裏斬2春風1といふ偈を作りたれば、太刀をば捨てて走りたると也。無学の心は、太刀をひらりと振上げたるは、稲妻の如く電光のぴかりとする間、何の心も何の念もないぞ、打つ刀も心にはなし、切る人も心はなし、切らるる我も心はなし、切る人も空、太刀も空、打たるる我も稲妻のぴかりとする内に、春の空を吹く風を切る如くなり、一切止らぬ心なり。風を切ったのは、太刀に覚えもあるまいぞ、かやうに心を忘れ切って、萬の事をするが上手の位なり。舞を舞へば、手に扇を取り足を踏む、其手足をよくせむ、舞を能く舞はむと思ひて、忘れきらねば、上手とは申されず候。未だ手足に心止らば、業は皆面白かるまじ。悉皆心を捨てきらずしてする所作は皆悪敷候。

求放心

 と申すは、孟子が申したるにて候。放れたる心を尋ね求めて、我が身へ返せと申す心にて候。たとへば犬猫鶏など放れて餘所へ行けば、尋ね求めて我が家に返す如く、心は身の主なるを、悪敷道へ行く心が逃げるを、何とて求め返さぬぞと也。尤も斯くなるべき義なり。然るに又、邵康節と云ふものは必要レ放と申し候。はらりと替り申し候。斯く申したる心持は、心を執へつめて置いては労れ、猫のやうにて身が働かれねば、物に心が止まらず、染まぬやうに能く使ひこなして、捨て置いて何所へなりとも追ひ放せと云ふ義なり。物に心が染み止まるによって、染ますな、止まらすな、我が身へ求め返せと云ふは初心稽古の位なり。蓮の泥に染まぬが如くなれ。泥にありても苦しからず。よく磨きたる水晶の玉は、泥の内に入っても染まぬやうに心をなして、行き度き所にやれ。心を引きつめては不自由なるぞ。心を引きしめて果つるなり。稽古の時は、孟子は謂ふ求2放心1と申す心持能く候。至極の時は、邵康節が心要レ放と申すにて候。中峯和尚の語に、具2放心1とあり。此の意は即ち、邵康節が心をば放さんことを要せよと云ひたると一つにて、放心を求めよ、引きとどめて一所に置くなと申す義にて候。又具2不退転1と云ふ。是も中峯和尚の言葉なり、退転せずに替はらぬ心を持てと云ふ義なり。人ただ一度二度は能く行けども、又つかれて常に無い裡に退転せぬやうなる心を持てと申す事にて候。

急水上打2毬子1念々不2停留1

 と申す事の候。急にたぎって流るる水の上へ手毬を投ぜば、浪にのつてぱつ/\と止まらぬ事を申す義なり。

前後際断

 と申す事の候。前の心をすてず、又今の心を跡へ残すが悪敷候なり。前と今との間をばきつてのけよと云ふ心なり。是れ前後の際を切って放せと云ふ義なり。心をとどめぬ義なり。

水焦上、火酒雲

 武蔵野はけふはなやきぞ若草の妻もこもれり我もこもれり
此の歌の心を誰か。
 白雲のむすばは消えん朝顔の花
 内々存寄候事、御諌可2申入1候由、愚案如何に存候得共、折節幸と存じ、及レ見候處、あらまし書付進じ申候。
 貴殿事、兵法に於て今古無雙の達人故、當時官位俸禄世に聞えも美々敷候。此の大厚恩を寐ても覚ても忘るることなく、且夕、恩を報じ忠を盡くさんことをのみ思ひたまふべし。忠を盡くすといふは、先づ我が心を正しくし、身を治め、毛頭君に二心なく、人を恨み咎めず、日々出仕怠らず、一家に於ては父母に能く孝を盡くし、夫婦の間少しも猥になく、礼義正しく妾婦を愛せず、色の道を絶ち、父母の間おごそかに道を以てし、下を使ふに私のへだてなく、善人を用ゐ近付け、我足らざる所を諌め、御國の政を正敷し、不善人を遠ざくる様にするときは、善人は日々に進み不善人もおのづから主人の善を好む所に化せられ、悪を去り、善に遷るなり。如レ此君臣上下善人にして、欲薄く奢を止むる時は、國に寳満ちて、民も豊に治り、子の親をしたしみ、手足の上を救ふが如くならば、國は自ら平に成るべし。是れ忠の初なり。この金鐵の二心なき兵を、以下様々の御時御用に立てたらば、千萬人を遣ふとも心のままなるべし。則ち先に云ふ所の千手観音の、一心正しければ千の手皆用に立つが如く、貴殿の兵術の心正しければ、一心の働き自在にして、数千人の敵をも、一劔に随へるが如し。是れ大忠にあらずや。其の心正しき時は、外より人の知る事もあらず、一念発る所に善と悪の二つあり。其の善悪二つの本を考へて、善をなし悪をせざれば、心自ら正直なり。悪と知り止めざるは、我好む所の痛あるゆゑなり。或は色を好むか奢気随にするか、いかさま心に好む所の働きある故に、善人ありとも、我が気に合はざれば善事を用ひず、無智なれども、一旦我が気に合へば登し用ひ好むゆゑに、善人はありても用ゐざれば無きが如し。然れば幾千人ありとても、自然の時、主人の用に立つ者は一人も不レ可レ有レ之。彼の一旦気に入りたる無智若輩の悪人は、元より心正しからざる者故、事に臨んで一命を捨てんと思ふ事、努々不レ可レ有。心正しからざるものの主の用に立ちたる事は、往昔より不2承及1ところなり。貴殿の弟子を御取り立て被レ成にも箇様の事有レ之由苦々しく存じ候。是れ皆一片の数寄好む所より其の病にひかれ、悪に落ち入るを知らざるなり。人は知らぬと思へども、微より明らかなるなしとて、我が心に知れば天地鬼神萬民も知るなり。如レ是して國を保つ、誠に危き事にあらずや、然らば大不忠なりとこそ存じ候へ。たとへば我一人、いかに矢猛に主人に忠を盡くさんと思ふとも、一家の人和せず、柳生谷一郷の民背きなば、何事も皆相違仕るべし。總て人の善し悪しきを知らんと思はば、其の愛し用ゐらるる臣下又は親しみ交はる友達を以て知ると云へり、主人善なれば其の近臣皆善人なり。主人正しからざれば臣下友達皆正しからず。然らば諸人みななみし、隣國是を侮どるなり。善なるときは諸人親しむとは此等の事なり。國は善人を以て寳とすと云へり。よく/\御體認なさるべし。人の知る所に於て私の不義を去り、小人を遠ざけ、賢を好む事を急に成され候はば、いよ/\國の政正しく、御忠臣第一たるべく候。就中御賢息御行跡の事、親の身正しからずして子の悪しきを責むること、逆なり。先づ貴殿の身を正しく成され、其の上にて御異見成され候はば、自ら正しくなり、御舎弟内膳殿も兄の行跡にならひ、正しかるべければ、父子ともに善人となり、目出度かるべし。取ると捨つるとは義を以てすると云へり。唯今寵臣たるにより、諸大名より賄を厚くし、欲に義を忘れ候事、努々不レ可レ有候。貴殿亂舞を好み、自身の能に奢り、諸大名衆へ押して参られ、能を勧められ候事、偏に病と存じ候なり。上の唱は猿楽の様に申し候由、また挨拶のよき大名をば、御前に於てもつよく御取り成しなさるる由、重ねて能く/\御思案可レ然歟。歌に、
 心こそ心迷はす心なれ、心に心心ゆるすな。

(岡山研同編著『柳生論語』昭和十六年刊を底本としました)

武辺咄聞書

『武辺咄聞書』(一部)

徳川家康、大久保忠隣改易関連。

第一話

 松平御家御相続御繁昌被成候事に付、老人の物語に、家康公は天文十一年壬寅十二月 廿六日、参州岡崎城にて御誕生被成候、但し御胎内十二か月と云々。御母は刈屋城主水 野下野守為妙の孫、右衛門大夫藤原忠政の御息女也。水野下野守信元同和泉守忠重の御 妹也。後に伝通院殿と申奉る。家康公御字は竹千代丸と奉号。天文十三年甲辰三月三日 夜、御父岡崎次郎三郎広忠の御夢想に、
  神々の永き浮世を守かな 薮心は千代竹の宿
右の歌を金の短冊に書、松の枝に付て来ると見て夢覚たり。広忠卿不思議に思召、其後 参州大浜の称名寺十五世其阿弥上人に御語被成「扨々不思議の夢也」と被仰。称名寺上 人被聞「目出度御夢想、不可過之。殊更竹千代殿当年三歳に成給ふ。行末繁栄疑所にあ らず」と、祝ひの百韻興行有。称名寺上人、第三を被致候。
  玉をしく砌の月は長閑にて
此御夢想に不違、日を追、年お重て御繁昌也。慶長二年正月二日、伏見に御座候時、家 康公石清水八幡宮へ御参篭、目出度夢想を御覧被成、伏見の御屋敷へ御帰被成、御祝有。 其月十四日に、江戸御留守居酒井備後守忠利、封候一書を差上る。是御使番米津清右衛 門妻女、此月二日夜夢想に見たる歌并夢の記也。米津か妻女の記は、八幡宮の社頭へ家 康公御参宮被成候所に、白衣立烏帽子の神人、榊の枝に短冊を付て家康公へ奉る。神人 其歌を数返高らかに詠ず。
  盛りなる都の花はちりはてゝ 東の松ぞ代をはつぎける
此記を家康公御披見被成に、二日夜八幡にて御覧被成候御夢想に少も不違と云々。其年 より四年め、関ケ原御陣にて天下御手に入なり。天正十年五月、明智日向守光秀逆心の 企にて、祈念の為愛宕へ詣て連歌興行せしに、
  時は今天か下しる五月かな
と言ふ発句也。其十一句十二句目に御当家御繁昌の吉兆有り。
  立つづく松の梢やしげるらん  御子孫繁昌の兆
  浪にまかひの入海の里  江戸繁昌の兆
此懐紙を聚楽に秀吉公御座被成候時分より世に披露せしに、天正十八年に家康公江戸の 城へ御移り、其時より世上に松平御家次第に栄へ、江戸繁昌可有と申けるとかや。

第二話

 大坂御陣の時、霜月廿八日に天満口仕寄御巡見被成。家康公、片桐市正且元か寄口備前嶋へ御廻り、竹束の外へ御出被成、御立城中を御覧被成。本多上野介正純・永井右近 大夫直勝、矢表に立塞るを見て、小栗又市・横田甚右衛門・山本新五左衛門・山城宮内少輔・嶋弥左衛門、同しく御矢表に立塞。上野介・右近、再三諌奉りけれ共、御承引な く、御目見に来諸大名御供の面々は竹把の内に罷在候。良久城中御覧被成候処に、鉄砲、 嶋弥左衛門か鎧の草摺に当る。然共身には不中。其後竹把の内へ入給ふ。近所仕寄の諸大名参て御目見有り。然る所へ秀忠公御出被成。家康公御機嫌能「いさ/\将軍、城中の様子御見候得」と、御同道にて又竹束の外へ御出、御立双城を御覧被成。本多上野介・ 安藤帯刀・成瀬隼人・永井右近、種々制止まいらすれとも、御挨拶もなく、静に御見物被成。其後茶臼山へ御還被成、半町程御通過被成候と、石火矢を城中より五つ六つ放しかけ候。片桐主膳、其玉を持て追付参らせ差上候。何も三貫目四貫目の玉也。城に篭るは天下の諸浪人なれは、家康公を見知り奉り、鉄砲の手垂とも筒先を揃へ奉打けれとも、不中。後藤又兵衛政次、制止て「大剛勇猛の大将には鉄砲は当らぬもの也。若打当たり共、名利を失ふ物也。位高き名将軍を打たる人、名利を不失は稀也。必無用」と下知しけるとかや。

第三話

 家康公御、幼少にて駿府に被成御座候時、今川義元の妹聟鵜殿長持を尾張の大高の城に差置、織田信長を押らるゝ。信長より砦をかまへ、大高の城と対城を取る。丹家の城には水野帯刀・山口海老丞・柘植玄蕃を差置、善照寺城には佐久間左京、中嶋の城には 梶川平左衛門、鷲津城には飯尾近江守・同隠岐守、丸根城には佐久間大学篭置て、大高城と取合。其外に寺部・挙母・広瀬とて三城有。信長下知して曰「若今川方より大高城へ兵粮を入れは、鷲津・丸根は第一手先にて近けれは、早々貝を立へし。其貝を聞は寺部・挙母・広瀬の三城は速に大高表へ可馳参。丹家・中嶋二城の兵は丸根・鷲津へ後詰可仕」と定故、義元より大高城へ兵粮入候事不叶、大高城中難儀する。永禄二年四月、義元より家康公へ使者を立「大高の城へ兵粮入給」と有り。「心得候」とて、四月十日に大高の城へ兵粮入んとて、宵より其支度にて岡崎を打立給ふ。酒井与四郎正親(後に任雅 楽頭)同小五郎忠次(後に左衛門尉と号)石川与七郎数正(後伯耆守と号)等諌申は「信長兼ての城の手配り能候へは、中々兵粮御入候事は難成候半」と諌申候。家康公御年拾八歳、いまた何の御分別も可有御齢ならねとも、少も家老中の諌を用ひ不給「我次第に致せ」と宣ふ。先勢を分け、松平左馬助親俊・酒井与四郎・石川与七郎等四千余を先手となし、九日夜半に打立。大高城をも鷲津・丸根の敵城をも脇になし、乗越て寺部の城へかゝらせ、家康公は逞兵八百余にて兵粮小荷駄千弐百駄を引連、大高城廿町脇に備給ふ。御先手は大高・鷲津・丸根をも踏越、遥奥なる寺部城へ取掛け、急に攻入候。信長 方には不思寄、上を下へと返し、漸々取合防戦候。元来九日丑の刻の事なれは、暗さはくらし、遽騒き城方防得す。御先手は一の木戸踏破り、火をかけて颯と引取、又梅坪城へ取かけ、二三の丸迄推入、火を掛て攻戦ふ。其火の光、天を曜し、鬨の音響渡り、鉄 砲の音頻也。大高の向城、丸根・鷲津両城に此体を見て「三河勢手先の城をは差置、は る/\奥へ働き入候は如何不審成り。先寺部・梅坪へ後詰せよ」とて、大高表を指置、皆々寺部・梅坪へ馳向ける。家康公、忍ひを付置、丸根・鷲津両城より寺部・梅坪へ後詰に趣たるを聞給ふとひとしく、急に采を振、兵粮を押立、何の障もなく大高の城へ入給ふ。 丸根・鷲津両城より是を見るといへ共、宗徒の勢は皆寺部・梅坪へ後詰に行、残る所は 留守居計なれは、無為方。家康公は思の侭に兵粮を入、人数をさつと引取、要害の地に備へ立給ふ。丸根・鷲津両城の兵とも、寺部・梅坪より打帰て、大高城へ兵粮入たる事を聞、手を拍て驚きつゝ「謀られけるよ」と頭をかき、後悔すれ共甲斐なし。御先手石川・酒井・松平等も引返しけれは、家康公も岡崎へ帰城被成。皆々御前へ出「今日の御手柄、申上も中々疎にて候。我等共若年より軍中に生長候へ共、かゝる手立は不及候。然共猶心に疑候は、君今朝兵粮を大高城へ入候事は急き給はず、先御先手を出しつゝ、大 高を余所に見、丸根・鷲津をも踏越、はる/\奥の寺部・梅坪両城を攻させられ候は、如何成る御工夫にて候哉。其上やす/\と大高へ兵粮入給ひ、彼に付是に付、凡夫の及所 にあらす。御謀の御奥意を承度奉存候」と皆一同に申上る。家康公御笑ひ被成「是知れ 安き術也。鷲津・丸根両城は、大高の城へ兵粮を入を防ん為の手当にて、しかも寺部・梅 か坪の城より後詰するを頼居たり。今朝我若し大高へ兵粮を入んとせは、丸根・鷲津に貝を立へし。寺部・梅が坪等の城に貝を聞て大高表へ馳集らは、兵粮入候事は扨置、味方の大事に可及。是を了簡する故、先思ひも不寄寺部・梅坪両城へ攻かゝり、火をかけて敵の気を奪ふによつて、丸根・鷲津両城も後切の放火を見て大高表を捨て、寺部・梅坪へ助来れり。是所謂先奪ふ其所変て其兵を分者也。是を以鷲津・丸根に人数なし。我兵粮を大高へ入るにやす/\と功をなし、少も気遣なし。兵法は神速を貴ふとかや。人の不及に乗、不意の道により其守所を攻者也。是皆近き大高へ兵粮入ん為、遠き寺部・梅坪を攻させたり。近して遠きを示す謀、別に珍しからぬ術也」と宣へは、家老物頭舌をふるひ「此君、幼少より臨済寺の雪斎にたより、兵書を読習給ふと言共、ケ程の明智はよも不出。生付給へる名将也。老前き頼母敷」と感しける。是を大高の兵粮入とて、御手柄初とそ。

第四話

 大久保相模守忠隣は小田原城主也。幼少之時、新十郎と言。家康公御寵臣也。七郎右衛門忠世が子なれは、御心安第一也しか共、如何成る事か有けん、慶長十八年の冬、家康公関東御鷹野砌、十二月六日、中原にて忠隣預りのもの馬場八右衛門一通の訴状を上る。是忠隣隠謀の企有事を申上。この段本多佐渡守正信御相談。其後京都へ切支丹御制禁の使に相模守を被差登、京都へ着候時分を考へ、同十九年正月廿二日、小田原の城を召取給ふ。京都へは其段被仰遣しかは、板倉伊賀守勝重上使として、相州か宿所へ被参ける折節、相州は将棋をさして被居けるか、家人共密に告けるは「伊賀守上使は御流罪の御意たるよし。如何あらんと」囁けるに、相州少も不騒、将棋さし終て後、上下を着し、伊賀守に対面す。伊賀守上意の趣申渡す。其上井伊掃部頭直孝に召預させ給ふ間、江州の配所へ可罷越由也。相模守奉畏旨御請申上る。家人共是を聞「無実の讒により身を亡んより、一戦して可打果す」と罵りけれは、是より京中騒き立「すはや相模守か切て出るは。火を掛へし」と言程こそあれ、上を下へと走散る。東西南北只乱のことし。二条の御城にも御門々々をさし固め、皆弓箭を取、火縄をはさみけるに、相州是を聞、小田原より持来る甲冑兵杖一つも不残板倉方へ渡しけれは、洛中皆鎮りけり。「能き仕方」 又は「忠臣也」と云敢り。其後配所にて、掃部頭、相州に対面し「何とて申分をもせら れぬそ。近比残多侍る」と被申けれは、忠隣「申分を仕らは、御赦免疑なし。左候へは、讒言を聞し召入られ候君の非を顕し候に罷成候間、仮令無実に身を亡し候共、いかてか主君の非を顕し候はん」と被申ける。「忠信義理ふかき人也」と、世挙て感せぬはなし。

大坂陣の真田幸村、大助関連。

第五話

 真田左衛門佐信賀(一説に幸村とあり後に改名か)は、父安房守昌幸と同しく、高野山九度山に配せられ、父昌幸は慶長の末に彼地に病死す。左衛門佐、独九度山に住居せ しか、大坂御陣の初、秀頼公より大野修理亮治長承にて御頼有しかは「大坂の城へ可篭」とて内支度する。紀伊国守浅野但馬守長晟よりも橋本峠村近辺の百姓共に下知して「若世上騒き候へは、真田左衛門佐大坂走篭む事有へし。油断不可仕」旨触られたり。高野門主并衆徒中よりも、其旨九度山辺へ申付る。真田は此色を察しつゝ「九度山近辺、橋本・到下・橋谷等の庄屋・年寄・小百姓、不残振舞候はん」と触廻し、不残九度山宿所 へ呼寄、仮屋を打て、数百人並居、様々饗応し、酒を出し上戸も下戸も不論酒を強る事不斜。皆酔臥、前後も不知成ける時、百姓共の乗来れる馬共にひた/\と荷をつけ、妻子をは乗物に打乗せ、上下百余鉄砲弓を前後に押立、紀川を渡り、橋本・到下・橋谷へかゝり、木目峠を越、河内へ入、大坂さして趣けり。道筋の百姓共は、不残九度山に集り酔伏たり。在々所々には、女童扨は小百姓計なるに、真田は鑓長刀抜身にて鉄砲に火縄はさみ通りけれは、可止様なし。百姓共は是を不知、沈酔して、其夜は真田か宿所に酔臥し、夜明酔さめて見れは、真田宿所には一人もなし。雑具迄取払ひ、跡形なし。「是は出し抜れたり」とて東西を尋れ共、昨晩退たる事なれは、可追付様なし。橋本・到下・ 橋谷の己か家々に帰尋れは、留守の者共「昨日の八つ時分に、真田殿は奥方御子達引連、 馬共に荷を付け、弓鉄砲押立てつゝ、河内の方へ通り給ふ」と告けれは、百姓共皆頭を かひて後悔すれ共甲斐なし。真田は大坂に着、其身計大野修理方へ行、其比は伝心月叟 とて薙髪成しが、玄関にて案内乞に、奏者番罷出「やまぶしは何方よりそ」と問ふ。真田態と手を束ね「大峰辺の山伏にて候か、御祈祷の巻数差上、御目見を望候」といふ。奏者番承り「殿には御登城にて御留守也。此方へ被通候へ」と番所の脇へよひ入「御帰宅の刻、御目見へめされ候へ」とて待せる所に、若侍十人計、刀脇指の目利する。一人の若者、真田に向て「和僧の刀脇指見せられよ」と言。真田聞いて「山伏の腰刀、只犬お どしの為迄なれは、中々掛御目候物にて無之候得共、刀の悪敷は元来知れ候得は、御慰計に」とて指出す。若者するりと抜て見れば、出来恰好は不及申、刃の匂、金の光、兔角不及云に、「扨も見事成」と誉る。外の若者見て「山伏は能刀さしたり。脇差も見せよ」 とて、抜見るに、是又見事さ言へき様なし。「さらは中小身を見よ」とて、銘を見るに、 脇差は貞宗、刀は正宗と銘有り。中身の見事さ無言計。皆々怪み不審して「いか様只者にはあらし」と怪み思ふ所へ、修理城より帰り「玄関にて目見し給へ」とて、奏者番引 具して出るを見て、修理手を拍て「是は/\」と計にて、真田か前へ来り、手をつき、畏て「近日可有御越とは承り候へ共、早速御出、満足不過之候。秀頼公へ可申上」とて、其旨御城へ申遣し、書院へ請し入、馳走限なし。秀頼公より速見甲斐守守之御使として「遠 方早速馳参条、御満悦不過之候。旅宿不自由可有」迚、黄金弐百枚・白銀三拾貫目被下 けり。「組勢与力の事は重て可被仰付」と有しかは、玄関の侍共、興を覚しあゑり。真田心立おかしき者にて、後々迄彼者に逢ては「刃物の目利は上りしか」と尋しかは、皆赤面せしとかや。

第六話
 家康公大坂へ御立寄可被成前方に、家康公は真田隠岐信尹(真田一徳斎末子にて昌幸弟也左衛門佐信賀か叔父なり)を御使にて、真田左衛門佐方へ被仰遣候は「秀頼合力の心を翻し味方に参り候はゝ、信州にて壱万石可被下候」との上意也。左衛門佐承り「上意之趣難有奉存候。然れとも信賀事は関ケ原一戦に御敵仕、其罪科に依て九度山に蟄居 仕候て山賎の体に罷在候処に、秀頼公より被召出相備八千余の大将に被仰付候儀、何より忝存候間、心替りの儀は罷成間舗」旨申切けり。此旨申上しかは「左候はゝ、重て信濃国一円に可賜」と被仰出。隠岐守、此旨重て申聞候。左衛門佐大に怒て「忠儀に軽重なし。禄の多少によるへけんや。一度秀頼公の御扶持を請候上は討死と志候。乍去若御和談に成候は、領知の望なし、貴殿の合力を請、関東へ奉公可仕候。合戦有之内は大坂に罷在討死仕候条、重て上意の御取次、可為無用」と申切けりとそ。

第七話

 左衛門佐信賀は、冬陣には出丸に居て加賀越前佐和山勢と戦、名を揚、夏陣には五月六日誉田口へ出張、伊達政宗とせり合。前方後藤又兵衛・森豊前守勝永と申合「六日未明に国分口へ出ん」と約束せしかとも、又兵衛独約束のことく夜通に平野へ詰、片山を取敷、水野日向守勝成・本多美濃守忠政・松平下総守忠明・伊達政宗と戦、数刻及、終に又兵衛討死せしかは、此口一番に破しに、森豊前守は葛井寺に至り、真田左衛門佐は 誉田に至り政宗と合戦し、政宗先勢を両度迄誉田へ追込、手柄を振申候。殊に子息真田大助信隆、拾五歳にて高名し、高股に鎗手を蒙り、翌七日の合戦には、左衛門佐は秀頼御馬の出る事の延引を待かね、大助を人質に本丸へ入ける。其跡にて軍始りしかは、真田勘解由・大塚清安・高梨主膳と一所に左衛門佐討死す。四拾六歳也。首は越前少将忠直卿の家人、西尾仁左衛門捕之。真田か首共不知して鼻にせんとしけるを、御使番真田隠岐守通り懸り「其首は見知りたる所有り。其冑はなきか」と尋ぬ。「是に候」とて指出す。真田家の重代抱鹿角の冑也。隠岐守申候は「是は我甥真田左衛門佐信賀か首也。向歯二枚ぬけて可有」とて口を開き見れは、果して其通り也。其にて真田か首に極る。

第八話

 越前忠直卿御使番は金の九本馬藺也。其使番は皆諸国にて名有覚の兵共也。甲州浪人原隼人佐と云者も使番也。真田左衛門佐と旧友なれは、冬御陣御和談に成と、真田方へ隼人を振舞に招請し、種々の馳走也。酒宴始しかは、真田も小鼓を出し乱舞有。息大助に曲舞二三番舞せ、扨其後茶を点し、懇意を尽して又書院へ出、真田申は「今度討死可仕身にて候か、不慮の御和談にて今日迄の命をなからへ、二度見参仕る事、悦入候。信賀身不肖なれ共、一方の大将を承りぬる事、今生の面目、死後の思出と存候。御和談も一旦の事、終には又御弓箭に可罷成と存候得は、我等父子も一両年の内に討死とこそ思 ひ定候へ。臨終の晴にあれ御覧候へ。床に飾り置たる鹿の抱角打たる冑は、真田先祖代々の家の宝なるを、亡父昌幸此信賀にくれ申候へは、是を着て討死仕候はん。若此冑御覧に於ては、信賀か首そと思召、一遍の念仏廻向に預へく候。君の為義の為討死致すは武士の習にて候へ共、世悴大助か是ぞとおもふ事にも不逢、一生浪人にて歳拾五六に成やひとしく、戦場の苔に埋れん事、不便に候へ」とて涙くみけれは、隼人も涙をなかし「哀、武士程墓なきものは候はす。戦場に趣く身は誰か前後を定めんや。必冥途に参会せん」と語りける。其後白河原毛なる馬の太く逞しきに、六文銭を金にて摺たる白鞍置て引出し、 真田ゆらりと打乗、五六返乗て静に乗納めなから「若重て合戦あらは、御城は破却せられぬれは、平場の合戦なるへし。天王寺表へ乗出し、東の方の大軍に駆合、此馬の息の継ん程は戦て討死可仕と存候へは、一入秘蔵に候」とて、馬より下て又酒宴になる。「大方是か今生の暇乞たるへし」とて、盃を擬数盃の興を催して及夜半立別れける。果して翌年五月七日に彼冑を着し、件の馬に乗て討死しけるこそ哀なり。

第九話

 五月七日合戦前に、真田は「秀頼公御馬の出る事遅き故、子息大助を人質に城へ入ん」 と言ふ。大助此時十五歳也か「今日の戦に父御は討死と見へ申候。生れてより以来、父母の懐に生立、拾五歳に成迄片時も離不申。去年御城へ入候とて、母上には生て別れ候。 其後文の便にも『互に命なからへ、逢度事は山々なれ共、父御の御最期を見捨、かまへて生て戻るへからす。同枕に討死し、真田の名を揚よ』と常々御文給り候。只今父御を見捨、御城へ入候事、存もよらず。父御御討死候は、御死骸に双て討死仕候はん。城へ入る事は不可仕」と左衛門佐か鎧の袖に取付泣申候に付、父真田も軍兵も泣ぬ者はなし。 父涙を押拭、大助をはつたと睨み「武士の家に生るゝ輩は、忠儀名利を大切にして父母を忘、其身を忘る。城へ入も秀頼公御最期の御供也。死は頓て冥途にて廻り逢へし。少の別を悲む事、弓矢の家に生れたる身にて甚未練也。早々御城へ可入」とて取付たる手 を引離しければ、大助は残多けに父を見て「左候はゝ、御城へ参候。来世にては必参会 候はん」とて別れにけり。父もさらぬ振にはもてなせ共、涙にくれて東西も不分。大助 は城へ入とひとしく、落城迄つきたる郎等被推阻、只一人に成て、秀頼公の御供して芦 田曲輪朱三櫓へ篭居、七日朝食したるまゝにて、明る八日の午の刻迄矢倉の下に詰居 つゝ、秀頼公御先途の御供三十弐人の其内にて、皆一所に芦田曲輪に詰居けり。父か行末無心元思て、城中へ遁入る人々には「真田左衛門は何と成候」と人毎に尋しかは、「真 田殿は天王寺前にて大勢中へ駆入、馬上にて戦ひ、其後鑓十本計にて鑓玉に揚られ、討 死せられ候」と慥に申者ありけれは、大助それより涙おし拭、物をも不言、古郷の母に別れし時「最期に是を持討死せよ」とてくれたりし水精の珠数、鎧の引合より取出、念仏申て、秀頼公御生害を待居たり。速水甲斐守不便に存、大助か傍に寄「貴殿は一昨日 誉田にて手柄成る太刀打高名し、高股に鎗手負たるときく。疵は痛候哉。秀頼様にも頓て御和談にて御命無恙御出有筈なれは、貴殿は早々除給へ。人を添真田河内守方迄送届 けん」とすかしけれ共、大助いらへもせす、只口の中に念仏唱けり。八日午の刻、秀頼 公御自害有しかは、男女三十弐人皆自害して、矢倉に火を掛け同煙と立上りぬ。真田大助も鎧脱置、腹十文字に掻切て、十五歳にて終りけり。見聞の人々「天晴勇士の子孫かな」と誉と云々。

第十話

 秀頼公最期の御供三拾弐人の内、高橋半三郎〔十五歳〕土肥庄五郎〔十七歳〕高橋十三郎〔十三歳〕、右三人は御小性也。秀頼公最後の時、上臈共は皆介錯申付たり。三人の児小姓と真田大助とは幼少なり。「加藤弥平太・武田左吉、介錯して取らせよ」と被仰付しに、三人の小姓と大助、何も物具脱捨、四人西向に直り、手を合念仏高らかに唱、雪のことくなる身を押肌ぬき、四人一度に声をかけいさきよく切腹せしを、弥平太・左吉介錯し、各皆太刀を捨涙にむせひけるとかや。


塙団右衛門関連。

第二十五話

 判団右衛門直之は元来遠州横須賀衆にて、須田治郎左衛門と云。浪人して上方へ登り、 時雨左之助と名乗、加藤左馬助嘉明へ歩小姓に出る。手柄度々重り、後は千石取、判団右衛門と号し、鉄砲大将に成たり。関ケ原御陣の砌、左馬助差図の場より先へ足軽を張出し、左馬助気に違「己は一代将帥の職は勤得べからず」と被叱を不足に思ひ、伊予松 山より立退時、一句の詩を書院の大床に張付紙に書置。
逐不留江南野水  高飛天地一閑鴎
嘉明此詩を見て無興して奉公天下を被構と云共、金吾中納言秀秋卿へ被召出。惣て秀秋へ被召出者は諸大名構ふ事不成故、団右衛門千石取て鉄砲大将にて居たり。慶長七年十 月十八日秀秋卿逝去の後、尾張の薩摩守忠吉卿へ被召出。是又御所様御子の事なれは、左馬助構ふ事不成。慶長十二年三月五日忠吉卿逝去故、団右衛門浪人して福嶋正則へ出る。 千石取馬廻り也。五年目尾州名護屋御城普請の刻、左馬助直に正則へ断構被申故、団右衛門浪人して道心者になり、鉄牛と名を付、妙心寺大龍和尚の会下に居て、洛中洛外を衣鉢の上に刀脇差をさして鉢を開く。諸人憐て又は貴事不斜。或時中立売の富家の方へ 大龍和尚を始一堂供養の事あり。斎過る迄団右衛門入道遅参也。斎過て来るを和尚殊外 怒り「何とて鉄牛は遅く参候哉」と有り。鉄牛、座具を布て答云。
一鞭遅到勿肯怒  君駕大龍我鉄牛
と。和尚機嫌直り、一座感しけると也。

第二十六話

 老人の物語に、
我其昔芸州広嶋に在候時、福嶋伊与守宅の書院の雪隠に化物有。夜厠に行者をは必臀を 撫る。其手毛生て爪長しと言。暮ては其厠へ行者なし。殊に座敷より弐拾五六間も遠ふ して植篭の内也。或夜伊与守方へ武藤修理・坂井主膳・大橋茂右衛門・牧主馬・村上彦右衛門なと夜咄に行。判団右衛門も行。夜半前に団右衛門厠へ行。亭主心得て小姓に手 燭持せ、供に遣。団右衛門は何心なく手燭請取、厠へ行、用を達する。厠の上に二抱程 成る大松に蔦這、茂りたる梢は十二三間も高し。其梢より何共不知蔦の葉鳴りさはき物 の伝下る音して厠の屋ねへ飛下る。其足音大男なとの足音也。団右衛門吃と驚思ふに 「内々世間に言習はす化物ならん」と思ひ居たるに、厠の屋ねより内を差のそく。其面朱 をぬりたることく、眼の光鏡のことし。牙を噛出しさなから鬼面に似たり。団右衛門少も不騒、はつたと睨返す。件の化物面を引込て不見。其侭厠の下より毛の生たる手にて 団右衛門か尻を撫る。「心得たり」と捕へんとするに、手を引又屋ねよりのそく。又睨た れは又面を引込とひとしく厠の下より尻を撫るを、其手をひしと捕へ内へ引込に、厠の戸破れ何とは不知内へ引込。団右衛門得たりやおふと引組、上を下へと返す。手燭も踏 消組合。書院の縁に残たる拾五六歳の小姓、縁より飛下走り行。其音居間へ聞るに付、 皆々手燭持走り付。小姓は化物の足をとらへ居たり。団右衛門は血に染り、化物を脇差 にて刺通したるを見れは大き成猿也。「扨こそ年比の化物は此奴にて有し」と団右衛門勇力を広嶋にて称美せしと也。

第二十七話

 大坂冬御陣に、蜂須賀阿波守至鎮陣へ判団右衛門夜討を致し、阿波守家老中村右近を 始屈強の士共四人討取、雑兵数十人討捨に致。団右衛門は本町橋の上に将机に腰をかけ、 角取紙の馬験にて士卒を下知せし也。御扱に成、敵味方内外出会の時、団右衛門宿陣は 今橋の詰より廿間計南也。幅一尺長二尺計の札に「判団右衛門」と大文字に書て宿札を 打つ。皆々見て「扨も大成宿札かな」と云。団右衛門か云く「古主加藤左馬介、我等を 成敗仕度と被謂を聞て、討手を請ん為に如此」と笑ふ。寄手数十万の内、団右衛門古傍 輩不残見舞音信する。其内水野日向守勝成家人黒川三郎右衛門見廻に来る。団右衛門云 「我旧き知音林半右衛門は必見廻に可来者なるか、于今音信なし。但し想ふに若此度は当 表へ出陣せさるか。不審也」と云。黒川聞て「林半右衛門は唯今池田武蔵守利隆に奉公して、天満口に有」と云。団右衛門、則黒川を使として林か方へ申送は「古傍輩皆訪来 ませるに、御身終に音信なし、其心いかん」と云遣す。林返事に「黒川殿を使として御 尋忝存候。我ら其元へ無音の子細は、其方若年の時より申合るは『互に何程大名に成るとも、自身鑓を取、太刀を不致は勇士の本意に非』と僉議せしに、此度団右衛門夜討の 体を聞に、其身手を不下、本町橋の上に将机に腰を懸け白旄を取しと也。団右衛門年は 四拾八、勇力の衰る時分にあらす。武辺に年を寄、勿体を付たる所、聞もいやなれは、使も不遣」と返事する。黒川此旨を団右衛門に云時、団右衛門涙をうかめ「林半右衛門か 心中尤至極也。乍去此度夜討に大将の仕形をしたるは別の義にあらす。関ケ原陣に足軽 備を張出し『出過たる』とて古主左馬助以外に怒り、『己は一代人数を引廻す大将には得成間敷』と叱しを無念に思ひ、一生の中一度麾を取、将帥の功を左馬助に見せ度と念願 せしにより、夜討の時も手の痒きを忍て将机にて麾を取し也。最早望足る上は、重ての 事は太刀は目釘のこたへる迄、鑓は端食の抜る迄働て、討死して林に見せん」と云しか、 果して翌年四月廿九日泉州樫井合戦に晴なる討死して名を雲井に揚たり。団右衛門は其刻田子助左衛門・亀田大隅・八木新左衛門(浅井左衛門か家人)・横井平左衛門(上田宗 古か家人)なとゝ戦しか、田子か放つ矢に中り深手負候得共、田子か弓の弦を団右衛門 十文字の鎌にてかける。然所へ八木新左衛門掛り候。団右衛門手負小家の壁に倚かゝり、 八木と鑓組、そこにて討死し、首を八木に被取。其組衆死骸を埋たる塚、樫井町の北の端に有しを、紀伊国衆に小笠原作右衛門と言人、団右衛門親類にて其塚に五輪を建る。于今五輪有故、往来心有人は馬乗物より下て是を拝して通る也。

第二十八話

 板倉伊賀守勝重の物語に、
 紀伊大納言頼宣卿御母儀お万との、駿河にて判団右衛門事を聞及ひ給ひ「御子達に宝物 太刀刀を進るは常の事也。大将の宝と言ふは名有る勇士也。団右衛門は古主に被構奉公不成共、世の中若何事も出来候は能士を壱人にてもいとおしき御子へは進度物なれは、団右衛門を常陸介殿御家人に可被成」とて、御鏡台金とて五百両宛毎年御拝領の金を、弐百両宛団右衛門に御合力有たると也。家康公に御奉公被成、頼宣卿を生給ふ程の御人なれは、女儀にても如此の御心入也。



(「菊池真一研究室」HPからの転載です。)

麓の花

麓の花(一部)

巻下 (一部)

浄瑠璃物語

浄るり物語といへるさうしあり、こは小野ノおつうといへる女房の作なるよし、「江戸咄」巻の六、堺町の条に曰、浄るりの起りは、あまりひさしきものにも侍らずとかや、豊臣太閤秀吉公の御宮仕に、小野のおつうと申て、ゆうにやさしき上らうの有けるが云々、昔、左馬頭義朝の末子牛若丸、くらまの東光坊の弟子と成、舎那王丸と名をつきおわしけるが、十五の歳の春の比、奥州秀平のもとへ下るとて、金売吉次信高が家人にまぎれ、三河国矢矯の宿長者のもとにつき給ひて、長が娘の浄瑠璃御前に忍あひ給ふとて、ぬれにぬれたることの葉を十二段にわけてかきしるし、御台様へさし上げ¥ければ云々」、(「近代世事談」巻の二には、参州矢作浄るり女が事をつくる、薬師の瑠璃光の縁、十二神を象どり十二段とし、浄るり物語と云」と見ゆ)されば、浄瑠璃物語を一名十二段ノ草子ともいへり、余、寛文の比の印本にて、十二段草子とうはぶみせる三冊のものをもたり、又外に、上るり物語の古写本二本、及び近き写本一本をおさむ、各異同あるが中に、いたく違へるは、天正頃の写本には十六段にわかてり、そのうへ、文もことにながやかに書なしなり、これをもて見れば、薬師十二神を象るといふは妄なること、しるべし、

浄瑠璃といへる諷もの

さきにいへる「江戸咄」の同じ条に曰、十二段にわけて書しるし、御台様へさし上ければ、御台様上覧まし/\て、誠に、言葉のつゞきやさがたに、筆せい玉をのべたり、今の世のいせか紫しきぶか、まこと小野のながれ程こそあれとて、御かんのあまり、太閤様の御上覧にそなへさせ給へば、秀吉公取上させ給ひて、是程のものを、そのまゝすておかんもをしきもの也とて、岩松検校に、ふしをつけよ、とおほせ付られければ、けんげう仰を承り云々、通女が作なくば、音曲の妙もむなしからんに、よきさいわひにも生れ合候とて、しばらく閑居して、ふしを付、かたり初めけるとなり云々、それより世上の座頭つたへてかたりけるを、上るりぶしとてもてはやし、次第に事広くなりて云々」、「独語」巻の上に曰、浄るりといふものも、三味線と同じ頃初れりと聞ゆ、小野氏の女、三河国矢作の宿の長者の女、浄るりといひしものゝことを、十二段の昔語に作りしを、其頃盲法師これに節を付て語り出せしとかや」とあるにて、浄るり節の起り知るべし、浄るりといへる名目の、いとふるく見えたるは、「狂言記」外五十番巻の一、昆布売曰、今度は上るりぶしにうれ、▲アド是もうつてきかせ、▲こぶうり心得た、つれてん/\てれ/\てん、まづ是が三みせんのこゝろもちじや」と見ゆ、(「札河原勧進申楽記」に、狂言といへるもの見えたれば、ふるきを思ふべし、此記は寛正五年の記、されど、三絃わたりたる頃のものと覚へたり)

三絃

右にいへる外、狂言昆布売に、三味せんといふこと見えたれば、そのふるく渡れること思ふべし、「讌園談余」巻の三に曰、本朝ニ、寛文ノ比、琉球ヨリ伝ヘタリ」と、「独語」巻の上に曰、慶長の頃とやらん、此国に伝へしといふ」とある説どもの、ひがごとなる知るべし、また「大麻」(貞亨二年印本)曰、三味線の起りは、永禄年中に琉球国より是を渡す、其時は、蛇皮にてはり、二絃なる物なり、泉州堺の琵琶法師中ノ小路といひける盲目小人にとらせたりける故、此盲目よろこびて、しらべつゝこゝろみけれど、教へおかざれば音律かなはず、是を心うく覚へて、長谷の観音へ詣て、一七日参籠し、引やうを祈しに、あらたなる霊夢ありて、階をくだる時に、大中小の糸三筋、盲目が足にかゝる、是より三すぢの糸をかけて引に、無尽の色音いでたり、それより三絃にきはむるゆえに、三味線としかいふ云々」、これにいへるごとく、永禄の頃琉球より渡りしなり、ゆへに、「松の葉」巻の一に、琉球組といへる小歌をのせたり、是彼国より伝へし時に作れる曲ゆへに、しか名づけしなり、おもふ、「大麻」に二絃わたりて後、三絃にせしといふはあしゝ、そは「芸林伐山故事」巻之四、曲名類曰、(今之三絃始2于元時1)小山詞云、三絃玉指双釣、草字題贈2玉娥児1」、これにて、もとより三絃器なるもしるべし、また、三味線に蒔絵などせしことは、近き比の俗と思ひしに、いとふるく見えたるは、「うらみの介」巻の上に曰、ころはいつぞのこと成に、慶長九年の夏の末云々、いまやうの三尾線の転手きりゝとおしまはし、糸を調てかんをとり、あいのてひかせらるゝ、さてしやみせんのけつかうには、心詞ものべがたし、ゑびの尾の所には、雲井のかりの音信て、翅を並べて古郷へ帰る処を、蒔絵にすきて、糸くらの左右に、日月をあの中は夢か現かうつゝとも夢とも更にありてなければ、といふ歌を、かなもじにて書にけり、扨又、筒のまきゑには、都の内をぞかきにける、祇園、清水、加茂、春日」と見えたり、その頃にはいとめづらし、いとくらといへる名どころなど、「和漢三才図会」巻の十八、楽器の部に、三線の図あり、名どころこと/\〃くに出したれど、さる名は見えず、

(後略)

河東節

○十寸見河東が伝は、「近世奇跡考」巻の五に詳なり、されど、そは河東一代の伝にして、其業を伝ふるよしは記さず、今友人平蕪ぬしの蔵本に、「江戸節根元集」といへるもの一冊ありて、甚つぱらなり、今河東節の条一節を抄す、曰、江戸河東節、小田原町御納屋天満屋藤左衛門倅藤十郎、半太夫門弟に成しが、此者近世の名人となり、一流語り出し、藤十郎世となり、御納屋も外へ譲り、母の里浅草御蔵前に在しが、此名字を河部氏と申、彼家に同居せし故、河部の河の字に藤十郎の藤を取り、河藤と呼也、藤の字の訳は、前文有、元祖河東弟子河丈、是は吉原大門外下駄屋庄右衛門といへる者也、二代目河東となり、二番弟子夕丈事二代目藤十郎と改名す、此時一流二つに割れ、藤十郎方へ三弦山彦源四郎附し也、河東方は三弦十寸見古附、このころ双方とも名人多く、賑々敷、相互に励み、繁昌せしなり、藤十郎、後に剃髪して栄軒と改、鳥越辺之御屋敷へ、医師格にて被2召抱1相勤ける也、枠事は塗師職にて、堆朱源蔵と云ものなり」と見えたり、



(中央公論社刊『燕石十種』第六巻を底本としました。)

ベアト・ルイス・ソテーロ伝

『ベアト・ルイス・ソテーロ伝』

ロレンソ・ペレス著 野間一正訳

第一章 ルイス・ソテーロ師の出生並びに初期の修道生活

ソテーロ師の出生

アルトゥーロ・モナステーリオによれば、ソテーロ師は、セビーリャ市に生まれた。このことに関する論拠は充分ではないが、師がセビーリャの上流貴族階級の出であることは疑いない。スーニガは、次のように紀している。「この有徳の士は、1574年9月6日、セビーリャ市参議員ドン・ディエゴ・カバリェーロ・デ・カブレーラとその妻ドニャ・カタリーナ・ニニョ・ソテーロの次男として生まれた。父方の系統をみるに、同様市参議員を勤め、西インド諸島征服に従事し、ドン・カルロス皇帝の恩恵をうけ、エスパニョーラ島総監になった人で、家柄からみても、家名からみても、セビーリャ市一流の地位にあったディエゴ・カバリェーロとその妻ドニャ・シオノール・デ・カブレーラの孫にあたる。次いで、母方の系統をみると、師が姓名を受け継ぐに至った人、宗教裁判所の警務長官を勤めたドン・ルイス・ソテーロとその妻ドニャ・イサベル・ピネーロの孫にあたる。模範的生活を送り、聖女とまで評判された賢母に育てられた結果、師は幼時から、教会と学問へ関心を持った子として成長した。長ずるに及び、サラマンカ大学に於いて、法・医・神の三学科を志した。在学中、俗世間も家柄も学問も棄て、カスティーリャのサン・ホセ管区に在るフランシスコ会跣足派に入会したが、その正確な年は不明である。異教徒の改宗に身を捧げようと志し、祈祷、苦業、難業を重ね、殉教の願いを立て、ほとばしる情熱を懐き、師がフィリッピンのサン・グレゴリオ管区に渡った年も同様明らかでない」

(略)

フランシスコ会に入会

ニコラス・アントーニオはソテーロ師がアンダルシアの跣足派管区に所属していた、と述べているが、サン・ディエゴと称されたこの管区は、1620年12月19日に設立された管区である。年代期編者ワディンゴ並びにディエゴ・レキーリェ神父は、ソテーロ師がフランシスコ会厳修派のベティカ管区に属していたとしている。クリストーバル・デ・モリーナ神父は、1663年11月13日に書いた『当アンダルシア管区の平修士、尊者ファン・デ・ラ・クルスの生涯と死について』の中で、「ルイス・ソテーロ師は当管区の平修士であった」と述べている。また、タッソ・デ・ファブルアーノ神父は、ソテーロ師がセビーリャの厳修派修道院で修道服を着衣したことを明記したのち、次のように続けてている。「修練院長が修道誓願文書に記すところによれば、本5月11日、19歳8ヶ月の青年ルイス・ソテーロは、厳かにフランシスコ修道会の誓願を立てた。」更に、「上述書類の傍註には、二十九年後の8月25日、大村に於いて、ソテーロ師が焚刑に処せられ殉教した報らせが届いた旨記されている」と書き足している。

(略)

1628年3月5日、『論議』の著者ドン・ファン・セビーコス博士は、第三葉に於いて、「ソテーロ神父にとり使節の結末がどのような形をとろうとも、その意図したことは、前述の書簡(政宗がローマ教皇に宛てた書簡)に示されている。即ち、師は自分の属する厳修派(師は跣足派の服装をしていたが)の宣教師を日本に派遣すること、しかも、フィリッピン経由ではなく新イスパニアから日本へ直接渡航することを望み、更に、自ら奥州国並びに東日本の司教に任命されることにあった。上述のことは異教徒改宗にあたり強力な手段になる、と師は強い自信を持っていた。日本から新イスパニアに渡る企ては以前二度試みられており、1610年、当時皇帝の宮廷が置かれていた駿河に於いて…フィリッピンから派遣されるものの数は大変少なく、また喜捨も僅かで生活できない、若し新イスパニアから来るなら喜捨は遥かに多くなるであろう、というようなことを私は耳にした」と述べている。シャルヴォアも同様の言い方をしているし、大部分のイエズス会著述家もそのように述べている。

この考え方はソテーロ師の言動に起因している。即ち、ソテーロ師の筆になること明らかな政宗からローマ教皇宛て書簡の中で、フランシスコ会厳修派修道士の派遣を要請し、また、種々の許可書に混って、1619年3月15日にマニラのフランシスコ・デル・モンテ修道院に於いて師が署名した証明書には、自らフランシスコ会厳修派遣外管区長の肩書を与えている。在フィリッピン跣足派は、広い分野に亘り伝道に従事していたので、ソテーロ師が必要と考えている数の宣教師を日本に派遣しえないという事実を熟知していたし、また、1613年5月1日、サン・グレゴリオ管区本部が長崎駐在を命じた四名を除いては、滞日宣教師はマニラに一旦退去し、そこからイスパニアに帰国すべし、との指令を出したことにも起因して、ソテーロ師が、日本布教を厳修派の責任のもとに行ないたいと努め、それがために、マドリッド在住の西インド総長直属管区長並びにメキシコ在住新イスパニア総長直属管区長に直属する厳修派日本遣外管区長の肩書をえたことは誰の眼にも明らかだったので、前に述べた意見が出された事情は容易に理解できる。もっとも、のちに、即ち1618年にサン・グレゴリオ管区と日本に於けるキリストの代理者減修派の間に保たるべき共通事項に及んだ際、「身なり並びに信仰に関しては、服装及び現行慣習問題で、跣足派との間に何ら変更があってはならない」と師自ら提案しているけれども。

今まで述べた如く種々の説があるが、ソテーロ師は、1594年5月11日、サン・ホセ管区所属サラマンカの跣足派カルバリオ修道院にて入会し、修道誓願を立てたことは疑いない。

(略)

ソテーロ師、フィリッピン宣教団へ転属

さて、セヴィーリャのさる修道院の一員として暮していたが、殉教の誉を受ける熱望に溢れていたソテーロ師は、アルカラ神父及びタッソ・デ・ファブリアーノ神父が述べているファン・ポーブレ・デ・サモーラ師ではなく、ファン・デ・サン・フランシスコ師が募集していたフィリッピン行き宣教団に参加した。1599年6月12日、宣教師一同はセビーリャの貿易事務所に待機し、ソテーロ師も同僚と一緒に、ホアキン・デ・レーテンが指揮する新イスパニア行きの船に乗船した。

ソテーロ師がメキシコに到着した時、師の家族の者が副王モンテッレイ伯爵に書を送り、修道士たちに神学教授のためメキシコで師を必要としていることを口実とし、それ以上旅を続行させないよう請願したことを知った。然し、どのように説得されようとも、メキシコに留まることは師の使命ではなかったので、師を引き留めることは不可能であった。陸路旅を続けアカプルコに至り、再び乗船し、1600年、フィリッピンに達した。師はマニラに於いて、総督がセビーリャ出身の縁者ドン・フランシスコ・テーリョであることを知った。総督は予めソテーロ師の家族より、師が考えているが如き日本へ亘ることは断乎止めさせて貰いたき旨の通知を受けていた。そこで師に対し、総督の任期を勤めあげたら、是非イスパニアへ同伴願いたいと述べ、更に、宣教団の使命問題に話が及んで、暴君太閤は既に歿したが、野蛮な異邦人に囲まれ安心して生活できる保証のない、ひどい情況の日本へ渡ろうなどとは狂気の沙汰である、と言った。

日本人指導担当者に任命される

マニラ到着後、間もなく、修道会はソテーロ師を、ディラーオ在住日本人キリスト教徒の霊的生活指導係に任命した。ディラーオに於いては、1601年1月22日付テーリョ総督の許可により、日本人専用の、藁とニッパ椰子造りの教会を建築した。1602年3月22日、総督は師の請願を認め、将来この地をサン・グレゴリオ管区が定める宣教師が指導できるようにと、日本人の管理を以後サン・グレゴリオ管区に委ねる旨裁定した。総督のこの指令は、1603年9月9日、マニラ司教により承認された。日本人の管理を「特別のものでなく、普通の命令」により、総督の裁定を願ったソテーロ師のこの請願からみて、師が1602年3月若しくは4月以降サン・フランシスコ・デル・モンテ修道院に住んだことがわかる。ディエゴ・デ・サン・フランシスコ師によれば、一年近くかの地にいたことになる。1602年9月8日に催された管区会議に於いて、マニラ修道院の修道院付司祭兼教育学科講師に任命されたことは確実なので、実際は一ヶ年間は滞在しなかった。ディエゴ・デ・サン・フランシスコ師が伝記を著わす際、ソテーロ師がこの任務に長期に亘り携わっていたら明記していたであろうのに、その旨記されていないから、ソテーロ師が間もなくこの職を辞したことがわかる。

前出ディエゴ・サン・フランシスコ師は、ソテーロ師の日本人に対する好意と、サン・フランシスコ・デル・モンテ修道院に於いて実践した生活に関し、次のように述べている。

「この聖者[ソテーロ]がこの地方に来た目的は、日本をキリスト教に改宗させることであったから、マニラに於いて数年、ディラーオ村近くに住む日本人キリスト教徒の指導に従った。日本語をたやすく学ぶ能力があったし、日本人指導のための教会を日本人と一緒になって造ったり、日本人の利益のためにいつも弁護していた。このようなことや、好意に満ちた態度により、師は日本人から大層愛されかつ尊敬された。のち、日本渡航の許可が下りたので、(通常、師にとっては色々の業務や楽しみや沢山の世話仕事である)管理者としての役目を辞めて、マニラより二レグア距った所にある、人里離れた信心の本山サン・フランシスコ・デル・モンテ修道院に隠遁した。この修道院に一年近く滞在したが、師と一緒に日本に赴く予定の宣教師たち並びにこの修道院の気高い精神の修道士たちと、この間中ずっと黙想し、祈りを捧げ、苦業をし、殉教への心の準備をした。

(略)

日本へ派遣される願い成就

1602年5月1日、フィリッピン新総督ドン・ペドゥロ・デ・アクーニャがマニラに到着した。ドン・フランシスコ・テーリョは、総督を解任され、当時の習慣に従い、在職中の責任をとるため、在任期間の執務の監査をうけていたが、1603年4月3日、処理未完のうちに死亡した。

日本宣教団へ参加することを妨げていたドン・フランシスコ・テーリョの圧力から解放されて、ソテーロ師は、1603年6月20日、総督アクーニャの書簡並びに家康、秀忠その他有力な大名数人への豪華な贈物を携えた前管区長ディエゴ・デ・ペルメーオ師に同道し、『小サンティアゴ』号に乗って日本に向かった。ディエゴ・ベルメーオ神父、ルイス・ソテーロ神父、アロンソ・デ・ラ・マードゥレ・デ・ディオス神父並びに他一名が『サンティアゴ』号に乗船し日本に向かった旨、パステルス神父は記しているが、この四番目の人はアンドゥレス・デ・ラ・クルス神父である、とラ・リャーベは記している。然し、家康宛てアクーニャの書簡にみえる次の言葉からも推測できるように、この宣教師四名は、二隻の船に分乗し、それぞれ別の日にマニラを出帆した、と思われる。

(略)



(東海大学出版会刊『ベアト・ルイス・ソテーロ伝』を底本としました。)






















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