醍醐随筆他7編

醍醐随筆

醍醐随筆(一部)

中山三柳著
本文190pに関連すると思われる箇所を抜粋。

醍醐随筆 上 

一 小栗栖は醍醐の西にて、小川を一ツへだてたり。明智光秀山崎敗軍の時、此里の百姓おこりて落人をとらへ、物の具はぎける。夜に入て光秀主従三騎、此里を落行けるに、百姓聞つけ鎗をもて垣のこなたよりつきければ、光秀が脇腹つきとをしぬる。馬上二三町こたへて死けらし。其後光秀といふ事あらわれければ、いみじき手柄をしたりと諸人にうらやまれぬるまゝに、彼者たちまち武勇の心いできて、近里遠郷にしれものある時は人よりさきにはせまいり、からめ取きりふせなどするほどに、小栗栖の作右衛門とて聞人おぢおそる。用則成レ虎ためしにや。作右衛門死て子の喜兵衛、代々武勇のほまれあり。(下略)

醍醐随筆にある小栗栖関連の記述は、上記のところだけとなっている。師(隆慶一郎)が「事件からほぼ六十年後の寛永年間、わざわざ小栗栖村へいって調べた者がいたが、問題の中村長兵衛なる男のことを知っている者が一人もいず、果して長兵衛が実在したかどうかも疑わしいと『醍醐随筆』にある。」と書いているので、醍醐随筆にその辺の事情がもう少し具体的に書かれているものと思っていたがそうではない。上記の記述から師のように書くには、その他の資料からの傍証が必要のようだ。

以下、その他の隆慶作品関連記述を紹介。

醍醐随筆 下

一 地獄の画を見侍れば鬼は角を戴きながら、上下牙おひそろひたり。されば角あるものは上歯なきなり。鬼も生物ならば角ありて、上歯あるべからず。いつはりは事ごとにあらはるゝと笑へば、不破翁聞て日本にもむかしは鬼多く有と聞つれど、近代はなきによりて引出してたゞさんやうもなしとて笑ふ。日本の鬼とは鈴鹿山、大江山、羅生門などの事にや侍らん。鈴鹿山の鬼は強盗なるべし。往来の人をころしてはぎとる故に、鬼といひはやしたるならん。大江山の酒顛童子は、叡山の児にて、大酒のみにて色つねにあかし。酒に酔てくるふゆへに酒顛と名づく。強力のものにて酒狂の時は人をそこなふによりて、山を追出されぬ。民家にもゆるしをかざれば、大江山のふもとにたゝずみて、往来の人をなやましぬと聞ゆ。羅生門の鬼も又強盗成べし。勇力あるにより人をなやます。渡辺綱と出合てきられたるを、こと/\〃しくいひ伝るなるべし。

一 松永弾正久秀多門在城の時、果心居士とて幻術のもの有。閑暇の時は語りなぐさむ。ある夜弾正われ戦場にをひて白刃を交ゆるに至ても、終に恐懼の心を動かすなし。汝試に幻術を行て我を恐懼せしめよ云。果心さらば近習の人を遠けて寸刃をも持たまはず、灯もけしたまへなどいへば各立のきける刀剣のたぐひをくべからずといましめ、火うちけして弾正一人箕踞して居れり。果心つゐたちて広縁をあゆみ、前栽の間へ行とて見えし。俄に月くらく雨そぼふりて、風声瀟颯たり。蓬窓の裡にして瀟湘にたゞよひ荻花の下にして、潯陽にさまよふらんもかくやと思ふばかり、物かなしくあぢきなし。気よはく心ぼそくして、たえがたくなむ。いかにしてかく成ぬるやと、はるかに外をみやりたるに、広縁にたゝずむ人あり。雲すきに見出しぬれば、ほそくやせたる女の髪長くふりさげたるが間近くあゆみよりて、弾正にむかひて座せり。何人ぞといへば、大息つゐてくるしげなる声して、今夜はいとつれ/\〃にやおはすらん。人さへなくてといふをきけば、うたがふべくもあらぬ、五年以前病死してあかぬわかれをかなしみぬる妻女成けり。弾正たへがたくすさまじければ、果心居士やめ/\とよばはるに、件の女たちまち居士が声となりて、これに侍る也といふを見れば果心也。いかゞして是ほどまで人をまどはすらんと、弾正もあきれてけり。もとより雨もふらず、月もはれわたりてくもゝさりけり。此居士が術は奈良辺の老人まのあたり見たりといふもの、山人が童稚の比語りぬる。元興寺の塔へいづくよりかのぼりけん、九輪の頂上に立居て衣服ぬぎてふるひ、又うちきて帯しめて、頂上に腰かけて、世上を眺望して下りたるとぞ。種々の神変共多かれど、怪事はしゐて語るべからず。今代も放下といひて幻術目を驚す事のみ多かり。これにつゐて思ふに、仙家に奇妙をふるまひて、古今をまどはすたぐひ論ずるにたるなし。

(吉川弘文館刊『続日本随筆大成』版を底本としました。)

高尾考

高尾考(一部)

 

高尾七代之事

初代高尾
仙台萩にくはしければ、略申候、法名伝誉妙順といふ、土手の道哲に墓あり、

二代目高尾
紀伊中納言御家来、高五百石取申候最上吉右衛門といふもの請出し、紀伊国へつれ行く、是をさい上高尾といふ、

三代目高尾
水戸宰相殿為替御用達水谷六兵衛うけ出す、其後、右六兵衛下人平右衛門と云六十八歳になる男と、不義にて出奔す、其のち半太夫りやううん(梁雲)へ行て妻となる、其後、牧野駿河守へ妾奉公に出て、中小姓河野平馬と出奔す、其後、深川の髪結の女房になり、それより役者袖岡政之助女房となる、叉、三河町元結売の女房となり申候、ある時大をん寺前の鎌倉屋といふ茶屋の前にきたり、たふれ死す、是を水谷高尾といふ、

四代目高尾
三万石浅野壱岐守請出す、是を浅野高尾といふ、

五代目高尾
紺屋九郎兵衛請出す、四代目になきうつくしき女にて、筆跡もことの外よろしく、心ばへすなをにて、誠に貴人の奥方となるともはづかしからぬ生れのよし、しかる処、九郎兵衛は至てあしき男にて、背ひきく、はなひしげ、猿眼にて、ことの外醜男なりしよし、しかし請出して、随分中むつまじく覚しとなり、九郎兵衛染もの下手にて、常にだ染/\と人みないひたりしゆゑ、是をだぞめ高尾といふ、

六代目
拾五万石榊原式部大輔請出す、式部大輔隠居被�仰付�、越後国高田の領分被レ参候節、つき添参り、式部大輔死去の後尼と成り、後世を願ひ、三十餘歳にて病死、

七代目高尾
何もの請出すといふ事をきかず、年明け候て出候や、不レ知、近来、木挽町采女が原に、水茶屋の女となりしを、見るものまゝ御座候、其後はいかゞ成りしや、不レ知、右之通、高尾は七代にて絶たり、此上、高尾の出来ん事をねがふのみ、

右は、御留守居番与力原武太夫ものがたりを、書留置候を写すもの也、

(中略)

吉原大黒舞 

作者 流宣 (宝永六年已丑板)
高雄 太夫 京町 三浦四郎左衛門内

さてもそのゝち、にんわう百九代ごようぜいいんの御宇、慶長のむかし、錦城の都になりて、品川の波しづかに、東叡山の鳥もおどろかざれば、花のお江戸の道ひろく、武家のやかた善つくし、民の町なみ美をつくすに、此色里を柳町にとりたて、ひんじやうの春とさかへしよりも、山本が吉野、三浦が高尾とて、太夫の名を一天にかゞやかし、万人これを恋しのぶ、いまの吉原にうつりけれども、高尾の名は代々につゞき、六代の後胤に、三浦の介高雄とて、島原、新町はいざしらず、此里においては一貴当千のわかもの也、容貌うるはしく、さのみ色はしろからで、けだかし、物ごし尋常に、心やさしく、情をしりて、諸芸ひとつとして欠たる事なし、旦には茶のゆをたのしみ、夕には琴を友として、三味とつての名君也、

○按ずるに、此高尾、仙台高尾より三代目なるや、四代目なるや不レ審、且此書によれば、柳町の比より高尾あり。

吉原丸鑑 

作者 武州真土隠者蝶郎 (享保□年板)
太夫 京町 三浦屋四郎左衛門内
極上々吉 高尾 定紋、丸の内に楓の葉

そも/\是は、元祖高尾より九代の後胤、おさななをしのぶと云、此さきのおうしうと云し君につきそひ給ひ、正徳五年に水あげありて、太夫の位にそなはり給ふ、およそ、此くるはの内の女郎三千第一の美人なれば、そのかほかたちのすぐれ給ふ事は、いはずともしるべし、道中のよそをい、ひときはしづかにして、たとへば、満月の雲なき空をゆくがごとし、座つきのもつたひそなはりたる太夫しよく、座頭に足おとをきかせても、極上々のきみとはさとりぬ、物うち云たるけはひ、いやしからず、一座のけしきは、少し気おもに見へ給ふ事あれども、是気おもなるにはあらず、たいこどものそゝりにのらず、くらゐをおもくしなし給ふがゆへなり、あいなれたまふほど、いとしめやかにして、よくうつる御声もうるはしうて、音曲たぐひなしといへども、なじみあるあいかたにあらざれば、聞たる人すくなし、但し、酒まいらぬはたしなみにあらず、むまれつきの下戸也、打ゑみ給ふとき、唇を少し左りのかたへよする心にて、かたかほにて笑顔をつくり給ふくせあり、其笑顔をたとへて云はゞ、東風温和の気をうけて、南枝花はじめてひらくがごとし、そのかみ、あげやにて、ある客しゆと口説し給ふ事ありしに、さばかりせき合て、物あらそひし給ふ面ざし、たけ/\〃しきさまはみぢんもなく、御かほばせ少しもみぢして、そのうつくしさ弥増也、その後あまりにせきかねて、媚娟たるまなじりになみだをうかべたまふよそほひ、梨花一枝雨を帯たるふぜい、かのもろこしの楊貴妃の泣顔おもひやられぬ、誠なるかな、このさとに三千余人の色ありといへども、其中に高尾と名付るきみは代々一人にして、すげれたる美人にあらざれば、此名を継事あたはず、此里第一の太夫とあがめ侍るをや、

○按、是九代目の高尾也、仙台高尾より何代目なるや、未レ審、

(中略)

万治高尾の考
浅草三谷月光山春慶院は、余が友某の菩提寺なるにより、余現住にまみへて、高尾の墓ある故問ひしに、さき/\〃よりのいひ伝へなりとて、左の如くかたられき、
万治の比、三浦の別宅三谷町にあり、高尾病ひに伏して別宅にありしが、其比、当寺に常念仏ありて、彼の宅にちかく聞ゆ、高尾病床にありて、つねに当寺の鉦念仏の声をきゝ、われ身まかりなば、かの常念仏ある寺に葬し給はれ、といひ置て、万治二年十一月五日、彼の宅におゐて身まかりぬ、元来、三浦屋の菩提所は榧寺なれど、彼が遺言によりて、其からを当寺に埋め、墓を建ぬ、彼の高尾、仙台侯の手に死せしといふは妄説なり、仙台侯かの高尾を身請の志あり、そのなかばに病てうせぬゆへに、薄雲を身請し給ひぬ、とまへまへよりいひ伝へたる当寺の説也、当寺の墓四方塔にて、至極念入たる墓なり、ことに四五年前、惣墓地の地形を直したる事ありて、高尾の石碑もしばらくとりのけたるに、下は石室也、かれこれ考ふるに、葬式も伊達侯の命をうけて行ひしか、三浦がかく迄葬に念を入るいはれ有べからず、とかたられき、
又、三谷町に年久しく住ぬる文七といふ老人の話に、三谷町に三浦長屋といふ処あり、これは、むかし三浦屋の別宅ありし所なり、庭中にありし池、空くあくたの捨所となりて、なかばゝうづもれたれど、形のみは今に残れり、
伊達侯の身受せられし薄雲が出生の地は、信州埴科郡鼠宿なり、その親族今に残りて、かの地にあるよし、友人のもとよりおくりたる万治薄雲の伝記、別書有り、今これを略す、
是等のことを合せ考れば、春慶院に伝ふる説むべなり、はるか後の板本なれど、貞享四年板江戸鹿子にも、二代の高尾、病によりて死したるよしを記せり、三つまたに於て、伊達侯の手に死せしといふ事、妄説なる事明なり、

○駄染高尾考
江戸真砂六十帖(寛延年間写本)に云、大伝馬町一丁目横町に、藍屋九郎兵衛とて駄染屋あり、身上よく、家屋敷をもち、家来大勢にて染物せしに、親九郎兵衛とちがひ、幼少よりきやしやにして、諸芸に達し、美男也、家業をいやしき事に思ひ、遊びをもつぱらとして、三浦の高尾にふかく馴染てかよひぬ、外の客は、駄染屋のむすこと笑ふ、されど、高尾ゆへに家屋敷は売はらひ、商には倒れてせんかたなし、しかるに、高尾、さる屋敷の聞番をたのみて、采女が原の町家に料理茶屋出して繁昌す、大かた門番の振舞をもとゝしけり、其後はいかゞしたりけん、本所三つ目に、夫婦つまらぬ体に見ゆ、としるせり、按に、原武太夫子の話とすこしく異同あり、昔は、上紺屋、駄染屋とて別あり、駄染やは木綿のみ染て、縮緬、きぬを染る事のならぬさだめ也、しかも大家は駄染屋にありし、とある紺屋の老人語りき、

○榊原高尾考(式部高尾とも云)
泡影記云(自元禄元年至延享元年記録、写本)寛保元年、榊原式部大輔令レ身2請遊女高尾1、而出2淫廓1日、作2大門内外子盛砂1而行粧美也、士跡乗而迎2于宅1、松平和泉守、松平左衛門佐為2侍受1而祝之宴千焉、
新吉原五十間道小田原屋又兵衛といふものは、三浦屋遠縁のもの也、榊原高尾の身請証文を今におさむ、余一覧して写しとりぬ、文左のごとし、

身請証文之事
一、貴殿抱の高尾と申傾城、未年、季之内に御座候処、我等娘分に貰請度申入候得ば、承引被レ致、則樽代金差出し、我等娘分に貰請申処実正也、尤右之高尾諸親類共に引受少しも如在為レ致申間敷候、若不縁にて、其元へ相もどし候はゞ、右之女子金子弐百両相附、勿論、衣類、手道具相そへ、貴殿方へ相返し可レ申候、其時、異議申間敷候、
一、御公儀様御法度に被レ為2仰付1候通、江戸柳町中は申に不レ及、於2脇々之料理茶屋并に道中はたご屋1、総て遊女商売ケ間敷所に、かたく差置申間敷候、若右様之処に差置申候はゞ、御公儀様へ被2仰上1、何分にも仕置可レ有候、為2後日1之女貰証文、仍如レ件、

寛保元年酉六月四日 日本橋南檜物町 貰主 久兵衛

          揚屋町和泉屋  請人 清六

四郎左衛門殿

按に、十代目高尾、十九歳の時身うけせられしといふ説は非なり、この高尾、享保二十年太夫となり、七年をへて、寛保元年六月四日、榊原侯の身請によりて出廓す、町人の名前にて身請せられしと覚ゆ、

享和三年癸亥秋九月  京伝記

(朱書)均庭按るに、厳秘録に、此時請出されし高尾は。本所猿江重願寺といふ浄土寺の門番、花売六兵衛といふ者の娘なりと、慥に知るものゝ語りけると云々、

右高尾考補綴は、山東京伝の持にして、伊東蘭洲の書也、
 

新吉原京町一丁目 三浦屋四郎左衛門抱遊女高尾系譜

高尾(寛永頃之人也)
初代高尾、後尼となりて、日本堤西方寺寺中に庵を結び、一生仏に仕へ、念仏の行者となり、法号、伝誉妙心信女と号す、

  • 寒風にもろくも落る紅葉かな

此句を吟味して、万治三年庚子十二月廿五日身まかりぬ、この寺に塚あり、楓樹を植てしるしとせり、今猶存す、

高尾(二代高尾と号す、石井高尾と呼す)
全盛世にこえたるとなん、石井と号するは、此頃、近江国彦根の城主井伊掃部頭直孝家臣石井吉兵衛元政と云人、二男より新家に直孝に仕へ侍るが、詩歌、管弦の達才にて、側近くこそ侍る、歳十九歳にして、始めて江府に供して下りける、其年の事にや、或人の誘引に任せて北廓に来り、此君を迎へて一夜枕をかわしけるに、いかなる前の世の契りにや、互ひにおもひ忘る事なく、二夜三夜と重る枕に、深くも行すへの事まで誓ひて、その年もはやくれ、翌年の春たつはじめよりも通ひなれて、二月の余寒も袖におぼえず、三月の花も移らぬ心には、あはれと詠め侍りしとなん、誠にや、羽をならぶる鳥、枝をつらぬる紅葉とも、色ふかく、甲斐なふ物の限りあれば、千歳の松も枯れ、万年のいはほもくだくるのならひ、うき川竹の流れの身に逢人がらのうちにも、思はぬにそふならひありて、或人の身請せん事にぞ定りければ、高尾もまかせぬこゝろうち驚きて、吉兵衛が方へ、此よし玉章に書おくりければ、いとせんかたなく打なげくのみにて、今宵は別れの盃せんと、高尾がもとにまかりて、春秋のみじかき夢のさむる方なく、たがひに物いふ事もなうして、ゆふ告鳥のうらめしく、暁の露に袂をうちしぼりてぞ、きぬ/\〃いそぎけるに、その日は、主君直孝の和歌の会にして、道の好人を集られける、吉兵衛此席に加はりて、歌よみ侍りけるに、昼過るほどに、高尾が許よりあはたゞしく一筆の玉章に、申事の候へば、只今御かよひあれ、とのみ申おこしたり、飛たつばかりに思ひ侍れども、和歌のあはれいまだ半ば過ざれば、せんかたなく思ひてとゞまりぬ、其夜も亥の刻ばかりに、漸く会終りて、人々も家路に帰られける、吉兵衛も小家に退て考ふるに、函谷の関、鶏の空音に明しとや侍れども、此館の門は支千の限りなれば、出がたく、たゞ物思ひのやむともなく、灯の影は夏虫の命も、明がたの思ひをとゞめてぞ侍りけるに、折ふし門の戸たゝくは、水鶏ならで、同動の若輩二三人も来りて、主君の御意のよしとて、昼のほどより、吉兵衛が体ひとかたならぬ物思ひにみえ侍りける、いかゞ煩ひにても候べきや、参りて様子承れよ、との条申ければ、いと忝く、いさゝか煩ふ事もなふ、物思ひとてもなふ、いかゞ御覧候や、もはや夜も更候へば、寐申べくとて、しひてかしこまりをし、申されず有ければ、人々怪み、この旨直孝に言上に及びければ、おろかなるものしる処なし、吉兵衛をまづよぶべき由ありければ、そのまゝ吉兵衛が小屋に即時むかへ侍りければ、吉兵衛もいかゞの事とは思へども、駕をまたずして行くの例あれば、時をもうつさず御前に侍りぬ、直孝、吉兵衛を見給ひて、汝今日の不快甚し、嘸々難義ならん、小屋せばうして保養もなりがたし、是より出入のものゝ方に参りて、此枕をして病ひを養ふべしとて、御枕を給りぬ、吉兵衛おし戴て、其席より御館を出、曾に風を切て日本堤にぞむきぬ、漸く引四つの鐘音信るゝ頃、揚屋孔雀屋(揚屋孔雀屋、今はなし、今田町より土手へ上る前、孔雀長屋、即此長や也)に参りければ、内よりみなみなむかひ出て、先きほどよりも、度々三浦屋より御使にてこそ候へ、と早々御しらせ申べしとて、亭主は出てけり、まてども亭主帰らず、女房などいとあやしみ、夫のむかへにぞ参りけるに、間もなく女房帰り来て、高尾が自害のよしを語りける、吉兵衛おどろきて、いかゞの訳ならんとて、女房を伴ひ、三浦やに参りて、高尾が前により、吉兵衛参りたり、何とてかくはやまりし、と声たてゝ申ければ、高尾は終焉の息もたゑ/\〃に、吉兵衛が裾に手をかけ、眼うちひらき、吉兵衛の顔を見、笑ひて、其まゝともしの消るが如くぞなりにける、吉兵衛もかなしさいふばかりなし、あたりを見侍れば、書置とて封じたれば、皆々うちより、おしひらき侍るに、吉兵衛と深くもちかひしかひなう、思はぬ人の身請の事に、吉兵衛が薄き力及びがたきことはりなれば、けふ吉兵衛、草々参りたらんは、ともに死して、西の国にて添ひ参らせんと、こゝろかはらましや、夜も半ばを過るまでまち深く候へば、ひとり死して操たてんとて、かくこそ思ひきはめたれ、猶なき跡をも忘れずも訪ひ給はらば、後世にて待申さんなど、なか/\と哀れにぞ書置たれば、主君より給はりたる枕のうちに、黄金のあまた有ければ、其まゝ高尾が菩提として、跡を厚ふぞとぶらひ、法のおしへもたがはず、野辺の煙にふすべけり、夫より襟ひきのふけ、ふとつのりて、病ひの枕重うして引籠りけるに、卯月もはや立に、彦根に行道すがらも、度々に願ひて、近州草津の駅にて長き暇を給はりければ、うちよろこびて深草の里に小庵を結び、黒髪をそぎて元政法師と名乗、法華の行者となりぬ、とし二十歳(按、二十六歳出家なり)そののち、身延道の記、さま/\〃の和歌詩集に名を残し、道徳諸仏の意にかなひ、高尾が亡跡を弔ひ、行年四十六にして卒去、廿六歳の出家、学文千年を経ても、此法師には及びがたからんか、

高尾(三代目高尾と号す、西条高尾と云)
全盛世に越えたり、此君の時、都がへりの盃といふ名器出来たり、今に扇屋に相伝ふといへり、あるとし、八月十五日夜の月見んとて、盃を客のもとより送られけるに、高尾此盃にて酒のみて、珍らしく京の吉野が(京島原の太夫、世に吉野かんとうの始也)方へさすべしとて、其まゝおくりものをそへて島原へ遣しけるに、吉野もさるものなれば、押へ可レ申とて、高尾が方へ下しける、大坂の高円も合ひをぞたのみけるに、送りものを添てける、高円も合ひをして、おくりものをそへて高尾にもどしける、又もおくり物して吉野へさしければ、よし野ものみて高尾にもどしけるとなん、(高円太夫、新町の太夫全盛たり云々)此君、西条の号は、本郷四丁目南側一丁目を拝領して、蝋の問屋にて、御印籠の御用達西条吉兵衛といふもの深く馴染て、後に妻となる、蓑輪といへる所に別業あり、高尾は別業に住けるとなん、吉兵衛、御用金の事にて、三年寄より金壱万両を借る、後、新川道明方にて又壱万両を借、三年寄の金を済しけるが、其時、年寄の似せ印をして証文の奥に据ければ、後に公事に及び、吉兵衛が罪遁るゝ事なく、千住において御仕置ありしとかや、其後、高尾もせんかたなく、牽頭が妻となりしと也、操なき事は、はじめの高尾にくらべては、笑ふべしとなん、

高尾(四代目高尾と号す、島田高尾と云)
島田重三郎といふもの、此君に深くなじみしとかや、中将綱村朝臣も、此君に四五度も手をかけられしに、島田にみさほを立て、意にしたがはざりければ、綱村朝臣は太夫薄雲にふかくなじみ、身請して、三谷堀より舟にて汐留の屋敷にむかへ、夫より仙台に下りて一子をもふけ給ふのよし、此君、綱村が為に、みつまたにて船につるし、白刃にかゝりて身まかり、或は霊のたゝる故に、永代橋のこなたに、高尾明神と神に祭りたり、と世の人のいふはあやまり也、永代橋の高尾明神は、寛■(欠)の日記、絵図にも有、山城国高尾の神を祭る故のよし、うたがひなし、かゝる風説、みな家臣原田甲斐といふもの、伽羅の下駄の事まで沙汰せんとのはかり事なり、此君は、末に島田此君に別れて、出家して土手道哲と成りし事、みつまたにて死たる高尾が亡がらを、此寺に葬りけるなど、いろ/\の定らぬ説は、考ふるに、初代高尾西念寺に有て死す、後にこゝに葬、高尾が為に出家したるは、二代目高尾がとき、石井吉兵衛が事をかたるならん、今狂言にせんとて、土佐座の作者是を合たらんものか、

高尾(五代目高尾と号す、駄染高尾と云)
神田お玉が池駄染屋の妻となり、一生を過しけるよし、いひつたふ、さのみの全盛なかりしと見えて、世にかたり伝ふ事もなかりける、

高尾(六代目高尾と号す、子持高尾と云)
此君、ながれのふしにも思ひとゞめけん、の人の有てや、子を持侍りけるよし、其子をば坐敷におひてやしなひつつ、年月を過して、何人の妻と成、其子の行衛ともにしれがたし、

高尾(七代目高尾と号、六指高尾と云)
この君、足の指六つありとなん、古今に傾城の足袋を用ひし事、此君に過し、と今に云伝ふ、

高尾(八代目高尾 寛保より元文にかゝる)

高尾(九代目高尾 同断)

高尾(十代目高尾と号、榊原高尾と云 元文の比とや云伝ふ)
此君の全盛、世にしる処也、式部太夫と云人、此君にふかくこゝろをかけて、身請して播磨の国姫路に連行けるとなん、その沙汰世に聞へ、あげて家も危くぞきこえける、流石遠つ親の忠義、末の世までも残りし徳かや、はりまがた遠く雲の越路にうつしけるとなん、此君のおやは、深川浄心寺の門番花売六兵衛と云ものゝ娘なりしが、氏なくして玉の輿とやいはん、越路の雪も安く凌て、寛政十一年、八十四歳にして世を去り給ふとかや、元文の比より六十とせの夢も、邯鄲の栄花の枕よりは羨れぬばかりなり、

高尾(十一代目高尾)
此君の世にや、三浦屋の家も絶て、今はあともなかりしとなん、ものゝかぎりこそあるものならんと、おどろかれぬ、咲ばちる花のならひなれば、入月の山の端のくらき道を迷ふも、燈籠の灯ならでは、誠の光をみがくこそ、人の人たるもの常に心得て、傾城家をかたぶけるの器ものには、たちよらざるこそめでたけれ、

高尾(玉屋山三郎が家にて、寛延の比)
抑玉屋山三郎といふは、古へよりの娼家なりけるとなむ、いつの比か、三浦屋四郎左衛門が聟と成りしと、其時ひきで物とて、小紫といふ名を貰ひしとかや、故に、今において、太夫名に付て、此家のほまれとす、且三浦屋の家の跡とてもなかりければ、此比の人々、古の聟のちなみのよしかたり伝へて、ふたゝび高尾の名を付たりしが、いかゞしたりけん、其後はしひてその沙汰もなかりけり、あたはざるを求るの教ならんかと云々、

文化元歳次甲子仲冬下廿二焉村上氏某より恩借、写レ之、 藤忠許

私曰
元政十九出家、四十二歿、身延紀行は寛文卯のとし、

  • 捨る身の目はさみだれのこよひ哉

初代高尾、万治二年に死に、是浅草引移は明暦三年なれば、はつか三年なれば、初代高尾はふきや町にて勤たると見えたり、
文化六巳年暮秋   方円門得笠写レ之
文化七年仲秋之末借、写レ之 挙翠館
文化十年癸酉得野木爪亭藤本而写レ之

時五月十一日也、 杏花園

高尾考追加

楓の落葉
文化六已巳年、百五十回に当りしとて、五月廿五日に取越し供養あり、塔婆の施主(池田屋母、寺僧云、此池田屋は高木善兵衛 千住宿の旅籠や也)予住職に逢て尋しに、高尾の戒名を埋みてこの塚を建しと云、春慶院にある事を尋ねしかば、かれは高尾になじみし客の建し墓也、と当寺にては申伝へ侍る、とかたられき、
夫より春慶院に行て尋ぬるに、住職にやあらん、萌黄の衣を着し居たるが、出来りていひけるは、当寺には高尾の墓は、高尾病中の遺言に任せて、当寺へ葬りしよし、言伝へのみにて、別にしるしたるものもなしとて、かれ是物語せられし処、前文、京伝子の尋ねし時の答にたがはざれば、こゝに略す、
春慶院の高尾の墓を見居候時、五十あまりの老婆の、裾すこしかゝげ、杖つきて、予がそばへ来り、何を見るぞと問ふ故に、是は高尾が墓なりといひければ、此女かしらかたぶけ、しばし考へていひけるは、高尾が墓あh道哲にあり、こはたがへるなるべしといふ故、これ見よ、道哲にある戒名同じ事にして、年と日のたがひあり、とこたへければ、道哲にあるこそまことならめ、いかにとなれば、ことし百五十回に当りぬれば、竹屋七兵衛と云人、かの高尾塚を築て碑を建たり、其頃、高尾にはいかなる縁ありて、こたびかく塚を立られし、と尋ねければ、高尾には少しもゆかりなし、されども、三浦の老尼、高尾百五十回の時は、道哲へ塚を建度よし常々いはれけるが、一両年あとに、此老尼身まかりたり、こたび此塚を立る事は、名聞にあらず、たゞかの老尼の本意を立しまでなりと、七兵衛物がたりしよし、此老婆のかたりし也、よくもかくくはしくしりし事よと思ひて、そこはいづくの人ぞと尋ねしに、おのれは丁なり、とこたへて、わかれぬ、
又老婆云、仙台侯、高尾病中いまはの時、三浦方へ来らせ給ひて、すぐに御やしきへ駕にてつれ行給ふ、折から土手を過る頃、駕籠の中にて高尾息絶たるよし、これを道哲へ葬りしといへり、高尾出廓の時、大病の事なれば、身請金の沙汰にも及ばず、後日、仙台侯より角力取など附添、ことの外賑やかにして、三浦方へ金子三包被レ下候節、あまりわづかなる金子なれども、死せし後は是非なし、とてつぶやきつゝ、封をきりて見れば、残らず黄金にて有し故、大によろこび、右の内より、道哲へも高尾のとびらひ料として、其ころ少しは納めたるよし、夫ゆへに、今に道哲の方はたえず折々のいとなみもあれば、をのづから道哲の方は人のしるやうに成て、春慶院の方はしる人もすくなかるべし、と語りき、
高尾、三股にて死せしといふ事伝へ聞ず、と笠家左簾といふ者かたりしよし、此者は三浦四郎左衛門が実子にして、三浦家断絶の後、飯田町もちの木坂に俳諧の宗匠となり、廿四五年以前迄居たり、其比、六十八歳なりし、と同町渋谷氏の話なり、

按、高尾、仙台候に切害せられし事、世にいひ伝へしなれば、すこしは事のありしなるべし、推考に、高尾、三股涼舟の中にて、仙台侯のために手は負たれど、即死せず、三浦方にて療治せしかど、しるしなくて、十二月に至りて死せしなるべし、辞世の句、十二月に紅葉もちと時過しやうに思はる、きはめてこれは、十月頃、手疵おもりし頃、案じ得たるなるべし、且春慶院にある四面塔の墓、あまり古代の質素のものとも見へず、屋根の紋所といひ、戒名の左右に、日輪、月輪を彫り、塔の左右の表へも蓮をほりたるなど、あまり細工過たり、是まさしく、道哲にて墓を建しはるか後、何人か此春慶院に立しなるべし、いかにとなれば、転誉妙身の為也とあり、此為也にて推量すべし、これ妙身菩提のため、後に立たる事あきらけし、年号、月日も道哲の方よりうつし取る時、道哲の方年経て、しかともわからざるまゝに、万治三年を二年、十二月廿五日を五日とうつしたがへし物ならむ、辞世の句も、塔の角の所へ、無レ拠、あとより彫入たるやうに見ゆれば、予は道哲のかたを実とす、されど春慶院の方を実とする人は実とし給へ、遮莫々々、

文化已巳十月の中の十日あまり  文宝しるす

右口碑に残りたることの葉をひろひあつめて、奉レ入2御覧1候迄也、按はまことに愚按に候へば、他見御高免希ひ奉る也、

吉原遊女高尾七代

仙台高尾 初代高尾 伝誉妙順
(板本に、三浦屋が内二代目高尾、万治三年、伝誉妙心、土手下弘願山専称院西方寺、俗に土手の道哲と云、按に、法名は如レ図妙身なるか)
仙台高尾と云は、能く人の知る所なれば、伝は洩す、但し、今はその上のかた、流れよりたる処とて、永代橋川手前へ左りの脇に、高尾大明神として、腰より上の願望をかくるとて、女の櫛笄の類ひ奉納して見ゆ、一説に、中洲の三つ股にて落命せしとは、其頃の説にして、実は亭中にての事とも云ふ、

最上高尾 二代目高尾
紀藩(五百石)最上吉左衛門根引して、是を最上高尾と世にいふ、

水谷高尾 三代目高尾
水府侯為替用達水谷六兵衛根引して、その後六兵衛が内平左衛門(六十前後のものなり)とみそかごとして出奔、それより神田ゑびすや忠兵衛の妻となり、半太夫梁雲と通じてはしる、後、牧野駿河侯へ妾に出て気に応ず、又、小性平馬と密通して、此処をも走りて、深川八幡前の生業髪結をなすものゝ妻となり、それより俳優者袖岡政之助方へ走り入て、政之助が婦妻と成、その後如何なりしや、ある時、浅草大音寺鎌倉屋と云茶屋の前に来り、倒れ臥て死す、これを水谷高尾といふ、

按に、古語にも、女子と小人とはあひつけがたしと、況や傾城傾国のたぐひをや、みなかくぞあるべし、されども、情を表にして、うちに貞烈のいさほしをいだくは、遊君の掟とも云べきか、既に万治の高尾はいさぎよく死に臨み、水谷高尾は淤泥に倒る、その名を継、其かんばせならべて、如レ此天地懸隔の違ひある事にや、

浅野高尾 四代目高尾
浅野因幡守(三万石とかや)が引かせ給ふ、これを浅野高尾といふ、

だぞめ高尾 五代目高尾
紺屋九郎兵衛根引す、此九郎兵衛が染物、殊の外はやりけるよし、されども、一ツたひの染方よろしからず、世以てあだ染ものと評判ありしよし、是をだぞめ高尾と云、

榊原高尾 六代目高尾
越後の辺の侯引つれて、彼国へ隠居の折召連らる、死後高田辺にて(彼ものなりや)尼と成て終る、是を榊原高尾と云、

七代目高尾
何人根引せしや、又、年の限りにて、廓中を離れたるが、後に築地采女が原へ水茶屋を出して、世に評判ありしが、其の後はいかゞなりしやしらず、此後高尾なしと云、

或説に、いつの比の遊君にや、上州辺去りがたき御方とある人、青楼に高尾をいとなみ、つゐにそのもの高尾を根引せしが、その御方とやらんが世に出ましたる事もや有けん、住所をかへて、三州辺に高尾を忍ばせしとぞ、今に彼国に高尾が琴ありし、是は御方より給りしことのよし、

仙台荒町法花日蓮宗法竜山仏眼寺に墓あり、
藩中近衆目附役
椙原進太夫(六百石余、もと千石也、直に分地して六百石也)
小塚善六(善八跡三百石)
所に高雄が書数百枚、尺にてあり、(高尾、高雄と改む、七十八にて死す)
燕沢善応寺和尚うけ書して、お杉の方と云ふ、
三浦屋二代上巻、新荘小よし、二代目高尾なり、

奥州ばなし(工藤平助女真葛撰)曰、むかし、国主、たかをといふ遊女をこがねにかへて、くるはを出し給ひて、御館までもめしいれられず、中洲川にて切はふらせ給と世の人思へるは、あらぬこと也、是は、うた上るりに、おもしろく事そへて作りなせしが、やがてまことの如くなりしもの也、高尾はやはり御館にめしつかはれて、後老女と成りて、老後あとをたてくだされしは、番士椙原重太夫、又新太夫と、代々かはる/\〃名のりて、(禄玄米六百石)今目付役をつとむる重太夫、則その末也、只野氏(滝沢解云、只野氏は則この草紙の作者、真葛の良人也、その実録たる事疑なきものか)近親なる故、ことのよしはしれり、杉原家にても、世人あらぬ事をまことしやかに唱ふるは、をかしと思ふべけれど、我こそ高尾が末なりと名のらんも、おもたゞしからぬば、おしだまりて聞ながしをるとなりき、又、白石の女あだ打とて、宮城野しのぶなどいふも、またくなき事なり、此両説は作りごとの世にひろごりしなり、
 

(中央公論社刊『燕石十種』第一巻を底本としました。)


 

高尾追々考

高尾追々考(一部)

加藤雀庵著

南畝先生の高尾考、醒々翁の追考ありて、高尾の考これにて明也。しかはあれども、予も又いはまほしきことなきにしもあらざれば、思ひよれることを、ひとつふたつ書出づ。さて二書の例にならひて、蔵するところの細見記を写し出す。されど予が蔵するもの、三家の蔵にありて已に上に写し出せるものは、こゝにはぶきつ。さて高尾の考、上の二書につまびらか也といへども、その年序をさぐるにわづらはしければ、山東翁が奇跡考に著はしたる、正しければ、はじめにこれを写し出す。追考は享和三年の筆記、奇跡考は文化元年の発兌なり。奇跡考巻の四、三浦高尾考、上略今春園先生の高尾考にもとづき、古書を参考として、年序をさだめ、好事家の考訂をまつのみ。

初代高尾
元吉原の時代、引拠無きによりて、つまびらかならず。

二代高尾
数代のうち、すぐれて名妓のきこえ高し。これを万治高尾といふ。貞享板江戸鹿子の説を用て、二代と定む。万治三年十二月廿五日死。或云、万治二年十二月五日死。

三代高尾
袖かゞみに、高尾を評して、いまだ年わかとはいひながら、さきの二代高尾にをとれりと有り。をいて三代と定む。袖鏡に年号なきを以て、時代詳かならずといへども、延宝四年板本しづめ石に、高尾ありて、今はとしたけ給ひてとあれば、此高尾寛文の末をさかりにへたるべし。天和三年の写本紫の一本に、高尾、小紫、今はなしとあれば、天和の頃は中絶なるべし。

四代高尾
元禄四年板本幕ぞろひに、高尾あり。元禄七年板本草ずり引に、いつぞやわづらひより、古里へおかへりのよしとしるしあれば、此高尾は元禄五六年の間に出廓せしなるべし。

五代高尾
元禄十二年春出廓のよし、元正間記に見えたり。

六代高尾
宝永六年板本大黒舞に、六代の高尾とあり。證とすべし。宝永七年春板一枚摺細見大鏡に高尾あり。

七代高尾
引拠なきによりて詳かならず。

八代高尾
正徳三年板本えにし染に、高尾あり。丸かゞみに、正徳五年高尾いできしとあれば、此高尾、正徳四年出廓なるべし。

九代高尾
享保五年板本丸鏡に、奥州がかぶろしのぶといへるが、正徳五年太夫となる。これ元祖より九代目の高尾なるよし、たしかにしるしあり。證とすべし。宝永六年板本に、六代の高尾ありて、丸鏡に九代の高尾、正徳五年いできしとあれば、わづか五年程の間に、七代、八代と高尾二代ありし事、いぶかし。二代ともはやく出廓せしにや。

十代高尾
享保十三年板本細見の図、并に両巴巵言一本、ともに高尾あり。享保十五年板本両巴巵言に、高尾なし。此高尾、享保十三、十四両年の間に出廓なるべし。九代と同人のやうにおぼゆれども、九代高尾、正徳三年に太夫となり、享保十三年まで年数十四年なれば、同人とさだめがたし。享保十五年より同十八年までの細見記をならべみるに、高尾なし。此間四年中絶なり。

十一代高尾
享保十九年細見記三本あり。二本に高尾なし。一本全盛鏡といふに、高尾ありて、あげまきがかぶろしづや、当年十月九日、太夫となりたるよしをしるす。又享保二十年板本志家位名見といふにも、あげまきがかぶろしづや、高尾になりたるを記す。しかれば則此高尾、享保十九年十月九日太夫となり、わづかに六年を過て、寛保元年六月四日出廓す。其身請證文、今に蔵せる人あり。此後の細見記をならべああせみるに、高尾なし。十一代にてたえたる事明なり。宝暦五年細見記入相の花に、三浦屋ありて、同七年細見の花橘に、三浦なし。宝暦六年家たえたり。

高尾十一代の年序、是改して明白なり。さて写本洞房語園(享保五年記)原武太夫盛和が記、三浦家伝説(宝暦八年)右の三本異同ありて、ともに誤れり。正説はすでに上の巻に記、洞房語園参巻に、三浦四郎左衛門抱の太夫高尾七代あり。

初代 妙心高尾 我産たる子を乳母にいだかせ、道中せし故に、子持高尾と云。
二代 仙台高尾
三代 西条高尾
四代 浅野高尾 浅野因幡守請出す。今はだんぜつ。
五代 水屋高尾 水野庄右衛門請出す。
六代 だぞめ高尾 だぞめや九郎兵衛請出す。享保十年。
七代 榊原高尾 延享、寛延之頃。

万治元年新好原細見図(一枚摺のものなり。)
三浦 四郎左衛門
太夫 高雄
太夫 薄雲
太夫 花紫

按るに、此高尾は、数代のうちすぐれて名高かりし、かの万治高尾これなり。此翌年十二月五日終れり。
寛文七年印本讃嘲記犬まくらの部に、「たかをたんしうが手跡」とあり。これ能書なりし一證とすべし。又過にし方恋しきものゝ部に、「てんよみやうしんがはか」、是又当時人もてはやしゝ一證とすべし。又高きものゝ部に、「みうら高尾が名」など見えしは、みな此二代目高尾が事なり。さて又讃嘲記に載たる高尾は、三代目にして、万治三年印本総まくりに見えたるたかをと同人なるべし。さて讃嘲記に、おもしろきものゝ部に、「たかをがめざし」といへるは、三代目をいへるなるべし。
同太夫薄雲は、高尾歿後、伊達侯の身請したまふ薄雲なるべし。かゝれば万治二年の十二月のすゑか、同三年の春かなるべし。

(中略)

○万治高尾考
浅草三谷月光山春慶院(浄土宗)の寺あるじ大秀和尚は、敷島の道に心をふかめり、又性として、古きを好めり。予も同癖なるをもて、年頃交りふかゝりしより、寺の伝へに残りたる二代目高尾が事を物語りて、かの西方寺なるは名高く、此実跡を世にあらはしひろめ見んと思ひおこし、しば/\予にかたらひき。その寺伝のおもむき、享和の頃、山東翁がこゝの住職にきけるといへると同じ。さてありて、いとほどなく大秀師遷化せられて、此ことをはたさずありぬ。寺も此事を助けむと思ひたりしほいにたがひてくやしく、なき人のみかは、高尾が不幸をも思ひつゞけて、をりにふれては、筆ずさみに、ひとつふたつかいつけおきしが、今又、此大人、かの翁の考へをみるに及びて、なき人の事思ひ出つゝ、折からのしぐれに藤ごろもの袖ぬらして、かの人の心やりにもと、又ちび筆をとるにこそ。○太田先生曰、「春慶院の誠の妙身が碑は、如レ此埋れて、誰知る人もなく、道哲の虚妄の碑を、江戸砂子、江戸鹿子等にしるしとゞめて、世人のとりはやす事、なげかはしからずや。又妙身が幸ならざる事の不便也。心あらん人、江戸砂子、江戸鹿子等の先板の不足を補ひて、妙身が誠の遺骸の納りし春慶院の真実の碑を、世にしらしめて、供養に手向けよかし」下略同追考に、上略「醒翁曰、これらの事を合せ考れば、春慶院に伝ふる説むべ也」下略などいへるくだりを、なき人、世に有しほどに見せなましかば、めでくつがへりてよろこばれなんかし。
太田先生、山東翁、天明、享和に此寺に尋ねて、二代目高尾がはかどころは、こゝに考へ定められしを、又文宝子のかにかくとあげつらひしは、かにかくにうべなひがたくなむ。
蜀山先生、此考のはじめをひらかれしはよし。しかれども其説の中、「又いはく。道哲にて、法名、辞世まで一字もたがはず写しける内に、年暦壱箇年を書ちがひける事の不審也」云々、此考はあやまたれたり。かくては、仙台高尾は三代目はいはゆる最上高尾にして、神かゞみに、「いまだ年わかとはいひながら、さきの二代目高尾におとれり」とあるによりて、京伝翁の三代目と定めし。これその実を得たり。
万治高尾の事跡、先哲の説及諸書によりてつら/\考ふるに、高尾、綱宗君を浅からず思ひ奉りし事は、「君は今駒形あたりほとゝぎす」の一吟をもてもしらる。さて綱宗君、万治二年といふとしの夏の頃、高尾をたづさへ給ひて、かの三ツまたに舟遊び有しならむ。君もとより短気にて、酒に乱るゝ性にして、いさゝかの詞のあやが、み心にさはることなどありて、酒気、怒気合して、一刀ばかり疵つけたまひしを、其座に侍りし誰かれ、急にとどめまいらせ、高尾は直に三浦が方へいたはりおくりて、さて山谷なる三浦が別荘にて療治などせしならむ。さて有て、これが病のもとゝなり、余病なども出て、万治二年初冬の頃は、病重やかになりゆきしをり、「寒風にもろくもくつる紅葉かな」の一詠をば吐しならむ。しかしてその年十二月五日に至りて、もろくもくちしもみぢ葉の跡を、生前ののぞみにまかせ、春慶院に葬りしものなるべし。さて葬式及墓石等のひとかたならざりしは、仙台侯の内命によりて、いとなみしものなるべし。追考にもいへるごとく、寛政の頃、墓石の地形を直せる時、高尾石碑も取のけたるに、下は石室なりといへるなど、思ひ合すべし。さて又仙台侯、高尾身まかりて後、薄雲を身請せられしならん。これらの事によりて、上の御沙汰よろしからざるにより、翌年(万治三年)七月十八日、御隠居願ひ出され、同月二十八日、願ひのごとく隠居も被2仰附1しものなるべし。さて又此巷談かまびすしく、南畝先生、山東翁の説のごとく、土佐ぶしの浄瑠璃三世二河白道に、その頃名高き道哲を附会し作れるより、参詣の輩を導かんが為に、西方寺にかの墓石を偽造したるならむ。されどさすがに近きをはゞかりて、年月を異にせしものなるべし。(石碑の上に彫る紋も異也。)
文法子の非をひとつふたついはん。文宝曰、「春慶院に有る四面塔の墓は、あまり古代質素のものともみえず。屋根の紋所といひ、戒名の左右に、月輪、日輪を彫り、塔の左右にの表へも蓮をはりたるなど、あまり細工過たり。是まさしく道哲にて、墓を建しはるか後、何人か此春慶院に立しなるべし。いかにとなれば、転誉妙身の為也とあり、此為也にて推量すべし」。雀庵云、此説甚非なり。屋根の紋所といひとは、いかに心得られしにや。万治高尾が定紋也。そは杏園先生の、さきに袖鏡を引て云へり。これをば何とか見たりけん。かへりて西方寺なる墓石の、同高尾所持の羽子板といへるものにあるところの紋こそ、ともにうけられね。さてその墓碑の左の如く工みなるは、上にもいへるごとく、伊達侯の造るところなれば也。又為転誉妙身也。此為也やは、かの君のこの君の為に建る為なりかし。推量せば明らかなるべし。又文宝云、「年号月日も道哲の方より写し取ける時、道哲の方、年経てしかとわからざるまゝに、万治三年を二年、十二月廿五日を五日と写たがへし物ならん」。雀庵云、こも又いかなる説ぞや。道哲の方なる高尾が年月、今も現に万治三年十二月廿五日とよまるゝものを、又写し得んとするほどの事に至り、その年その日を写し違へんや。年経て写し違へしとは、笑ふに絶たり。万治三年より今に至りて百八十四年也。春慶院なるものを、いつ頃と思ひ定めて、年経てといへるにや、をかし。
杏園先生高尾考に、「土手の道哲に高尾がもてる羽子板とてあり。今は垂撥の代りとなせり。古風なる模様也」とあり。南畝先生はかりそめに見すごしたまひけんを、奇跡跡に図を写し出す。その羽子板の裏の方の上に、春の字ありて、さて醒翁説に、「此羽子板に春の字あるをもて、予が考あれども、こゝにはもらしつ」といへるを、何とも思ひわきがたかりしに、近き頃考へ得たり。こは尾の中納言宗春卿の十一代高尾にとらせ給ひしもの也。(その事は下に記す。)則春の字は君の御名の一字なり。しかれば此羽子板は十一代目高尾が遺物にして、万治高尾が物にはあらず。此一品の偽物なるにつきても、その他の高尾が襟掛地蔵(銅仏立像一寸八分。高尾守袋へ入れし仏なりと云ふ。)などいへるものも、思ひやらるゝになむ。
又高尾考に、「永代橋西の橋詰に眷朧地神の宮あり。土人云、これ仙台高尾の首の流れよりけるを、埋めて小祠をたてし也。故に女の縁切の願ひをかくるに、櫛ををさむると云。又いつの頃の事にやありけん、年月未レ詳、近頃御船手の下役大橋長左衛門といへる人、正月元日に川辺に女の首を見て埋しとも云。高尾大明神といへるのぼり多し」とあり。これらによりても、当時かの一件、世にいひもてはやしゝことを思ふべし。こを高尾とするは、あげつらふにも及ばねども、かのうわさは高く聞へしならむ。又さきに記し置し一説あり。因にこゝに附す。「永代橋の西のたもとに、高雄大明神といへる禿倉あり。これは、享保年間、山城国高雄神護寺の僧、行旅頓病によりて、此所に臥死したるを、土人こゝに葬りし也、と云へり。こは深川に住る甲翁の話なりと、亡師焉馬翁語られき。何れの頃よりか、かの三浦屋の万治高尾に附会して、梳笄など納る事となりぬ。男女の違訛さへをかしきに、況んや是は僧徒也。丸き頭首に、櫛、髪掻の差合、思はぬ世俗の迷惑、あゝ永代虚話を伝へやせむ。かゝるは世に多かり」下略、此両説何れが是にや。とまれかくまれ、高尾とするはひがごとなるを、俗間にはたゞかの高尾に定りてや、高尾茶屋などいへるさへ、その辺に出来たり。かのもみぢばのもろくちりても、はえある色はさめやらで、こゝらにも又染残しつ。

○又春慶院なりと云一證
貞享四年三月印本江戸鹿子巻二に、「高尾の紅葉、葉柴村正光院と云浄土寺あり。そのかみ吉原三浦四郎左衛門が所の二代目高尾、その身太夫の位そなはり、かたちのうるはしきことはいふもさらなり。手跡は、佐理、行成にもおさ/\おとるまじく、琴、三味線の秘曲は底を極め、あさか山のあさからぬ三十一字をもたどり、万にいみじき遊女なりしに、おもはずおもき病におかされ、去る万治のはじめつかた身まかりぬ。そのからを今の正光院の客殿の左の方に埋て、伝誉妙心と戒名して、なきあとのしるしに、紅葉を一もと植置ぬ。初はおふるばかりの細木なりしが、いつとなく古木となり、枝葉おひ茂りて、今は牛をかくすべきほどの大木となりぬ。秋の頃は、好士の者は、余木にかはりて興ずるなり」とあり。又元禄七年印本国花万葉記にもいへれど、大かた同じければ略す。さて右二書に正光院と記しゝは、春慶院を誤れるものなるべし。此地今は山谷といへれど、そのかみは橋場に属せしにもやあらむ。又左なくとも、その地近く橋場につゞきたれば、おほらかに葉柴とも記せるにや。又は、春慶院、万治の頃は正光院ともよべりしかもしるべからず。又かの土佐ぶしの浄るりに、正覚院といへるは、こゝにうつなし、上のをぢ/\てらし合して思ふべくなむ。又土地の古老の話に、昔此寺の門内に大木の楓樹有りしが、享保の末に枯しとへり。これ又、上の文にあはして、一證とすべくなむ。又記、寛文七年印本吉原讃嘲記犬枕のうち、むじやうなるものゝ部に、「一、はしばのけぶり」とあるは、今のやき場の事をいへるなり。此他、明暦、万治頃のものにも、こゝを橋場といへり。これらをも又證とすべし。

○又一考
文宝子の上に写し出せる寿繁栄草紙といへるものは、もと万治三年の印本也。そを寛文二年に再板す。もとの名吉原に奇(鳶魚註:名寄か)総まくりといへり。さるを又、寛政頃再板して、寿繁栄草紙と書名を改題したるものなり。按るに、万治三年は、かの道哲なる高尾が歿年と同年にして、ことに十二月廿五日よりすゑに、此書出べき日数なし。なほ寛文二年に道哲の一条を加へたるとしても、高尾歿後わづかに三四年なり。さて道哲の寺伝に、道哲、高尾と同日に終るといへるによれば、道哲、高尾が菩提の為に、僧と成しといふにあらず。(道哲、高尾と同日に終るといふ寺伝も、おぼつかなし。)もとより此事は妄説にて、すでに先哲の明説あれど、こは戯にいふのみ。さて右の総まくり、全本をみるに至らざれば、その事を今明めざれど、推考するに、元本にはただ道哲が事のみ有しを、寛政再板のをり、安永印本の吉原大全の妄説などを写ししるして、蛇足の□をそへしものならむ。さて又右の総まくりの画中に、たかをさまとしるして、その像あり。これはいはゆる西条高尾なり。よりて按るに、三代目高尾は万治三年より出て、天和二年出廓せしなるべし。こは吉原の旧記にあるよし、花街漫録に記せり。これらによりても、道哲なる墓石の年号は、いよ/\非なることをしるべし。
万治高尾は、下野国下塩原塩釜村(江戸より四十里。)の産にて、父を長助といひて、その子孫今にありと云へり。(なほ奇跡考にくわし。)

○三代目高尾がしなかたち
寛文七年印本讃嘲記に、(巻頭にあり。)
たかを かぶろはつ 京町三浦四郎右(右は左の誤。)衛門内
袖かゞみにいはく、「太夫四天王の第一にして、多門天の位にそなふ。こゝろあひなつかしうして、一度見え奉ればその心もくらまの、御なさけらしき御ことばにあづかる時は、大慈大悲の多門さまと申侍る」といへり。またいわく、「しやみせんもきゝにくからず。されどおし出してひかせ給はぬ也。筆はならびなくうつくしき手跡也。たかをがはね字とて、んの字に見所あり。おのづから太夫にそなはりたる心ざま、つくろふわざは少しもなく、応和の変にしたがふこと、ひゞきの物にをゝずるがごとし。生れつきまことに諸人にすぐれ、すがたたをやかにやさし。中略この頃は色のくろみてみえたまふは、いかなる事かとおもへええええば、三谷の水あしうして、此町にすみて久しければ、必ず色くろみ侍ると云々。中略今此たかを二十かとおぼゆ。さかりのまつさいちう、ぜんせいのはなのときなれば、いつをかうえうのときといはんや。紅葉は秋のときなれば、おいてのち見所あらんとや。中略あるひとのいはく、おとゝし、去年の春の頃よりは、今はすこしおとりてみえたまふ」といへり。
まんまことわきの太夫を花とみば なのみたかをはあきのもみぢは
按るに、此高尾、年代をしるさゞれども、三代目なることしるし。されどこゝに廿とあれば、天和二年出廓の年卅五歳なり。延宝四年板しづめの石に、「今はとしたけ給ひて」とあれども、あまりにたけたり。(天和三年の紫一本に、「高尾、小紫、今はなし」とあれば、天和二年出廓はよくあへり。)

○十一代目高尾伝
十一代目高尾は、深川六間堀の髪結市兵衛と云者の娘也。幼名をとめといへり。兄は平右衛門とて、渡り徒士也。父兄ともつねにかけをこのみ、同好の友死次第の五分三とよべる者に、此娘を金子のかたにとられ、さて三浦屋へうられしもの也。さて又高尾と成しは、十七の年にして、これを仕立給ひしは、尾の中納言宗春卿にてぞ有ける。又此君、高尾が相方に播州姫路十五万石の君榊原式部大輔(始右京大夫)政永侯を引附たまひし也。尾州君の里の替名三左衛門殿、榊原侯は仁左衛門殿といひける由。其頃はやり歌の終りに、三左衛門どん、仁左衛門どんと、江戸中専らうたひけるよし。さて寛保元年六月四日、榊原侯、此高尾を身請したまふ。此事によりて、御咎として御隠居仰附られ、同年越後へ御国替ありし也。(此高尾が墓、今に越後高田春日山にありと云。)されど髪結市兵衛は廿人扶持くだされて、深川清住町に焔硝蔵有し、その家守と成て終りしとぞ。其地今新寺と呼、(尾州公遊興にふけりしは、み心ありての事也。事長ければこゝに略す。さて上にいへる二代目高尾のものとせる羽子板、表裏ともに総金墨蒔いと大にして、つねなみのものにあらず。こは市兵衛西方寺旦那か、又はゆかりもつきて、かの寺へおさめたるものなるべし。)されば二君とも、おほやけの御とがめにあひ給ひて後、是より高尾の名とともに、貴人の里がよひたえたるによりて、かの里のおとろへは、こゝにきざしたるべし。
寸錦雑綴に載たる高尾が上蓋衣といふものあり。総体孔雀の羽の縫にして、紋角ぎり角に三つもみぢをつけたり。右にいへる羽子板の紋によりて思ふに、こも十一代目高尾がものにや。
奇跡考(巻四)に、吉原の駿河屋魚躍が手より出て、某君の蔵となれるよしの高尾所持髣(正しくは髟に兵)水入の図あり。紋所をもて思ふに、万治高尾のものにあらず。四代以下のものならむ。花街漫録に載たる高尾所持紅葉香合(花明園蔵)といへるものは、ふたうらに堆朱、揚成が造れるよししるしありといへば、是は万治高尾がものならむ。(揚成は万治頃の名人。二代目高尾の盛、浅草山谷町某蔵。)
同書に、高尾所持の杯(近江屋半四郎蔵)高尾の上着(中村氏蔵)土佐家の筆高尾の図(花明園蔵)是は万治高尾なるべし。紋春慶院石碑のものと同じ。
西条高尾の図(花明園蔵)高尾真蹟、裁出之裏、高尾の真蹟色紙(同蔵)
たかを
秋のいろはと山のみねのうすもみぢ よしやしぐれになほそめずとも
寸錦雑綴に、三浦高尾が緘印、これらのもさへ、世に伝へて人のめでもてあそべるは、実にたか尾がほまれといふべし。
予元禄十三歳辰四月吉日、鳥居庄兵衛清信画、和泉町板木屋七郎兵衛板とある高尾の像一本を蔵す。肖像の上に、◆如レ此紋あり。按るに、是宝永六年板本大黒舞、同七年大鏡にも見えたる六代目高尾にして、いはゆる駄染高尾なり。再按るに、此高尾、元禄十三年より出て、(五代目。元禄十二年春出。)宝永七年のすゑか正徳のはじめに、大伝馬町一丁目横町藍屋九郎兵衛といふ駄染屋に受出されしなるべし。

○土手の道哲
事跡合考(延宝三写本)に、「今戸橋(誤也。新鳥越橋也。)の南木戸際、西方寺と云寺の前少し土高き所、空地にして、十間計の長さ、幅は二間計もあらん所、昔罪人を刑せられたる処なり。其時道哲と云道心者、彼罪人仏果得脱の為に昼夜念仏したりしが、滅後此西方寺に葬りし故、道哲の唱あり」。又江戸砂子に、「弘願山専称院西方寺は、開山念誉上人也。巡誉道哲は住職にあらず。常念仏発起の願主道心者也。徳ある僧にて、世人当寺開山のやうに云来れり」。此が説にて、道哲が実伝明らか也。さて吉原恋の道引(延宝六年印本)「堤のかたはらに、いとかすかなる庵有り。是をいかにと云に、さりし明暦の頃より、道哲といひし道心者、世をむづかしくや思ひけん。処も多きに、こゝに庵をなん結びて住しが、二六時中鉦の音たえせず、念仏かすかに聞て、いかなるも哀を催さぬはなし」。又紫の一本(天和三年写本)に、「日本堤のきはに道鉄が寺あり。あるものゝ本に、淋しきを道哲が鉦の声とあり。今はやる百作ぶしの小歌に、そつちでうて道鉄と唱ふるも此寺也」。又松の葉(元禄十六年印本)の小唄に、「かねをたゝいて仏にならばさ、土手のだうてつは気のとほつた仏ぢや下略」。又誰袖の海(宝永元年印本)「心の闇に呉竹の薮の内、道鉄の寺の前につなぎとめたるからしの数下略」。又見聞詩林(元禄十七年写本)「吉原八景の一道哲晩鐘」、又吉原讃嘲記(寛文七年印本)犬枕のうち、「むじやうなる物、道哲がしやうこのおと」、又恋の道引総まくり(万治三年印本)万治元年細見記、天和頃の画巻物等に、その図見えたり。(なほあるべし。今思出るのみを記。)そのかみ、如レ此高尾とともに名高かりしまゝに、かの妄説は出来、妄説出来しまゝに、又かの墓石出来たるより、道哲は高尾に名高く、高尾は道哲に名高く、いよ/\ます/\こゝのみ聞えて、かつ遊里へ通ふ堤の初にあれば、貴賤となく知りやすくして、世にひろまりしものなりけり。されば今に至りては、高尾がをくつきといへば、こゝをいはざるものなく、なほ又近き頃高尾塚と記し候碑さへ出来しかば、犬うつ童も知るに至れり。その実跡は知る人稀になり行しこそくやしけれ。
後の長月すゑつかたより、夜々燈下に書もてきつるものなれば、反故にひとしき草稿なれども、きよ書せんもわづらはしくて、そゞろに高尾再々考と号け、とぢぶみとし、高尾考のしりへに附しおく。

天保十四年十月二日夜亥中刻

雀庵記

高尾年序の誤、高尾考に朱をもて改正したるが、三本(原盛和が記、三浦家伝説、洞房語園。)ちらばりて、見るにわづらわしく、又誤もこれかれあれば、左にひとつらに写しつゞめて、誤を正し補ひ改めしるす。そも/\右三本の内、原氏説誤りあれども、その伝説はもつともくはしく、実なるべし。そのうち七代目高尾といへるが伝たる、誤られたり。こは六代目とせる駄染高尾と同人也。笑うべし。又その駄染高尾の条りは、江戸真砂六十帖の説とはうらうへにて、美男なるを醜男となし、又染物下手なる故に駄染とよびしなどには、九郎兵衛をそねみ、にくめる者に伝聞の誤りなるべし。又駄染とよべるゆゑよしも、山東庵の説は、実を得たりといふべし。

妙心高尾 初代 元吉原の時代也。妙心高尾といふ。我産たる子を乳母に抱せ道中したる故、子持高尾とも云へり。(洞房語園)
伊達高尾 二代 伝記已に上にくはし。
西条高尾 三代 紀伊中納言殿御家来高五百石取最上吉右衛門(イに西条。)といふ人請出し、紀伊国へつれ行。(原氏説)按に、五代将軍綱吉公いまだ上州館林にいらせられ候節、ひそかにをり/\御通ひ有し高尾も、是なるべし。(元正間記)或御蒔絵師西条吉兵衛請出す。(洞房語園)
浅野高尾 四代 三万石浅野壱岐守請出す。(原氏説)或云、浅野因幡守請出す。今は断絶。(洞房語園)按るに、明暦四年発兌の武鑑によれば、浅野長政五代の孫なる因幡守長治君なるべし。
水谷高尾 五代 水戸宰相殿為替御用達水谷六兵衛(イに六郎兵衛。)請出す。其後右六兵衛下人平右衛門と云ふ、六十八になる男と不義をして出奔す。其後半太夫粱雲妻となる。其後牧野駿河守へ妾奉公に出て、又中小姓河野平馬と出奔す。其後深川の髪結の妻となり、又役者袖岡政之助妻と成。又三河町元結油売の妻と成、大音寺前の鎌倉屋と云茶屋の前にて、たふれ死す。(原氏説)
元禄十二年春、水谷六郎兵衛請出す。(元正間記)按るに、洞房語園に、水野庄左衛門請出とあるは、水谷六兵衛(イに六郎兵衛。)の誤りなるべし。
だぞめ高尾 六代 紺屋九郎兵衛請出す。四代目(五代目の誤り。)までに無き美しき女にて、誠に貴人の奥方となるとも、はづかしからぬ生れのよし。しかるに九郎兵衛は至てあしき男にて、背ひきく、鼻ひしげ、猿眼にて、ことの外醜男なりしよし。しかし中むつまじく栄えしとなり。九郎兵衛染物下手にて、太染々々と人云ひし故、是をだ染高尾と云。(原氏説)大伝馬町一丁目横町に、藍屋九郎兵衛とて駄染屋あり。身上家屋敷を持、家来大勢にて、染物こと/\〃に、親九郎兵衛とちがひ、幼少より花車にして諸芸に達し、美男也。家業を賤き事に思ひ、遊びを専らとし、三浦の高尾に深く馴染て通ひぬ。外の客は駄染屋の息子と笑ふ。されど高尾故に家屋敷を売はらひ、商には倒れ、せんかたなく、高尾さるやしきの聞番をたのみて、采女が原の町家に料理茶屋出して繁昌す。大方聞番の振舞をもどしけり。(江戸真砂六十帖)按るに、(京伝説)原武太夫の話と、すこしく異同あり。昔は、上紺屋、駄染屋とて別有。駄染屋は木綿のみ染て、縮緬絹を染る事のならぬ定也。しかも大家は駄染屋にありしと、ある紺屋の老人語りき。(山東説)これにて駄染といへる證詳なり。又洞房語園に、だぞめや九兵衛(九郎兵衛は誤り。)神田紺屋(伝馬町を誤る。)享保十年請出すと有るは誤也。此高尾は、上にも記す如、大黒舞、大鑑及予が蔵鳥居清信が筆にも見えて、元禄十三年初て出、宝永七年か正徳元年の出廓成る事、すでに云へり。又だぞめ身請後、たばこやとなり、高尾たばこと申。(三浦家伝説)

雀庵再按るに、色三味線に見えたる高尾は六代にして、右にいへる大黒舞、大鑑及鳥居が筆のもの、ともに同人なり。さて元禄十三年始て出たるといへるはよし。宝永十三年か正徳元年の出廓なりといへるは誤れり。色三味線によりて考ふるに、宝永十六年より已に前の出廓なる事、明らかなり。されば大鑑に見えたると同人にて、七代目なり。六代目とするは誤なるべし。
七代、何者請出すといふ事をきかず、年明けにて出しや不レ知。近来木挽町采女が原に、水茶屋の女となりしを見るものまゝ御座候。其後いかゞなりしや不レ知。(原氏説)是上にいへる駄染高尾を、七代目と誤りし事知る可し。又原氏云、「右之通高尾は七代にて絶たり。此上高尾の出来ん事をねがふのみ」といへり。こは原氏古書によらざるの誤也。さはいへ、洞房語園にも七代と誤る。是も同じ誤。さてかの七代を榊原高尾と誤る。三浦家伝説には、六代を榊原高尾と誤る。原氏も同く、六代を榊原高尾とす。三本ともに誤れり。
八代、九代 按るに、七代、八代は山東庵のいへるごとく、引つゞきて出廓せしにやあらむ。すべて七代より十代に至るまで、名ある人の身請もなくて、世に聞えざれば、ものに記しとゞむる人もなく、おぼろげになり来しならむか。さて榊原候の身請に至りて、ことに美しき行粧にて、泡影記にしるすが如く、松平和泉守、松平左衛門佐待ちうけられて、これを祝されしなど見えたれば、世の中ゆすりて、此評判高かりしかば、此高尾をばしらざるものなく、ものにもこれかれ記すに及びて、誤りも又出来し成けり。又五年程の間に、七代、八代と、高尾二代有しは、醒翁のいへるごとく、いぶかしきに似たれど、上にいへる玉屋山三郎が高尾は、秋の細見に始て見えて、翌年春は見えざる例もあり、又吉原なる三浦が家にて終りたる高尾ありしといへる話を、予がわかきちき、吉原人に聞しことも有りき。今その時代を知るよしなれば、もしくは、七、八、九代のうちにてはあらぬか。されば又さま/\〃のわけ有て、はやくかはれる事も有るべし。とにもかくにも、此三四代は、世に聞えざるほどの事なりけむかし。
十代 醒々翁年序に、證書によりて、此高尾は、享保十三、十四両年の出廓なるべしと記せり。享保十三年七月発板の細見に高尾なければ、享保十三年七月以前の出廓也。
十一代 すでに上にくはし。原氏話に、「十五万石榊原式部大輔請出す。式部大輔隠居被2仰附1、越後高田の領分にも参候節、附添参り、式部大輔死去の後尼となり、後世を願ひ、三十余歳にて病死」と云。これ原氏六代とし、三浦家伝説も六代とし、洞房語園に七代とするもの、此高尾なり。この高尾が身請の年を、同書に、延享、寛延とするの誤りは、すでに云へり。三浦伝説に、「榊原身請十九歳、寛保元酉年」と記す。こは非なるに似て、かへりて実なり。その愚考、またつぎにしるす。

十二歳の高
追考に、「按るに、十一代目高尾、十九歳の時身請せられしといふ説は非也」といはれしは、かへりて非也。それその出廓の年によりて逆算すれば、高尾となりたる年十二歳なれば、太夫の年にふさはしからずと、誰も思ふことなれども、こはつねなみの事にはあらず、さきに連記す、尾張中納言宗春卿の御全盛のみいきほひもて仕立たまひし高尾也。さて享保十九年発板全盛鏡に、あげまきがかぶろしづや、当年十月九日太夫となりたるよしをしるし、同廿年板志家位名見にも、あげまきがかぶろしづや、高尾になりたるがめづらしければ、二本ともにしか記せしものならむ。右の三浦屋の伝説、余の説、杜撰なるに似ず、此一条はいとめづらかに證となりて、秘蔵の記といふべくなむ。十二の高尾はめづらしからずや、山東翁追考にあやまてるふし一つとしてなきを思ひ、こゝに至らずして、此一説のみあやまられたり。いはゆる千慮の一矢なるべし。
又云、或記録に、宗春君の相方を春日野と記す。三浦屋を五郎兵衛と記す。五郎兵衛は四郎左衛門を誤れること論なく、(又按るに、四郎左衛門が名尤高く、誤るべくもあらず。此記に、春日野の父を四郎左衛門と記す。もしくは五郎兵衛は春日野が父の名にして、故有て、かく違ひて記し置しにもあらむ。)又春日野といふ遊女、此ころの細見記、三浦出みせのうちにもあることなし。これその実はあげまきなるべし。さてつら/\按るに、宗春君此里に入初給ひしは、享保十三年の後、十四、十五年のほどならむ、さて此節三浦に高尾なければ、(小紫はあれど。)あげ巻を相方とし給ひ、かの伊達侯、その他の諸侯におとれりと、御心にあかずおぼしゝより、揚巻が禿しづやを高尾となしたまひ、十四五の頃まで御寵愛ありて、さて榊原侯にゆづりたまひしものなるべし。
又云、かぶろしづや高尾と成たる此年、高尾寺開帳有りけれども、暗合の縁にして、あやしくも又をかし。
又云、つぎて又思出づ。さきに記す永代橋高尾の条に、享保年間高尾山の僧、かの地に死たる由の一説を記し置しが、こゝに又思ひよれるに、此開帳につきて来りし僧には有らぬか。しかれば享保十九年の事なり。又三浦が家、宝暦六年断絶の事は、既に記す文宝子記す。廿四五年前、飯田町もちの木坂にて、六十余歳にて終りし俳諧師左簾は、四郎左衛門実子なる由。按ずるに、三浦は此左簾が代に絶たる也。一両年後に身まかると云へる三浦屋の老母と云は、右の左簾が妻などにてもや有らむ。かゝれば此老婆、左簾歿後尼に成て、ゆかりにつき吉原に有りて、文化四五年の頃をはりし者ならん。

同月四日の夜

越後人の蔵に、遊女いづみといへるものゝ筆あり。
去年のしはす五日に高尾の君みまかりたまふときゝて
とほく聞風のたよりやちるもみぢ
こはさきにさへづり草十二の巻に記し置しが、今見出るまゝにこゝに追記す。是又二代目高尾が古跡は、春慶院なりといふ一證とすべくなむ。江島屋其碩が著作八文字屋三さみせむといへる、その一なる色三味線江戸の巻、三浦屋のところに見えたる高尾は、上にいへる六代目高尾なるべし。さて此草紙発兌の年号見えず。伏見橦木町の巻中に一證ありて、宝永六年より前のものとは定むるにぞ。去秋身請と見えたるによれば、上に引る宝永六年大黒舞及同七年大鑑にあはず、いぶかし。そは此色三味線を宝永六年のものと定めても、此高尾身請すとあるは、宝永五年に当れば也。(嘉永五年十二月廿五日記)

○道哲寂日の不審考
浅草新鳥越橋の南、日本堤の上り口に、弘願山西方寺と云ふ浄土宗の精舎あり。此寺の門の扁額に、道哲と記るす二大字あり。こはかの榧寺、篠寺などの例に似たれど、その義異にて、道心者の法号なれば更にをかし、他国の事は姑く置て、大江戸いく千の寺院、法師の号を、寺門山号の額にかへて揚げたるもの、あることを知らず。さらば江戸に二つなき名物といふべし。さるは此道心者は、させることもなき法師なるを、そのかみ世に名高く聞えて、今にその法号の亡びざるが如きその徳、実に奇妙といふべし。そは西方寺の号は知らぬものもあらんを、土手の道哲は知らぬ者なきが如し。按ずるに、延宝六年印本吉原恋の道引に、「堤のかたはらにいとかすかなる庵あり。是をいかにととふに、明暦の頃より、道哲といひし道心の者、世をむづかしくや思ひけん。所もおほきに、こゝに庵をなん結びて住しが、二六時中鉦の声たえせず、ねぶつかすかに聞えて、いかなるも哀れ催さぬはなし」と見え、又延享三年の記、事跡合考に、「今戸橋の南木戸際に、西方寺と云寺の前少し土高き処、昔つみんどを刑せられたる所なり。その時道哲と云道心者、彼罪人無仏果得脱の為に昼夜念仏したりしが、滅後此西方寺は、開山念誉上人也。巡誉道哲は住職にあらず、常念仏発起の願主道心者也。徳ある僧にて、世人当寺開山の様に云来れり。汗かきの弥陀、立像三尺、安阿弥の作、道哲の持仏也」といへるはよし。高尾が事は、寺伝によりて誤を記せるなりけり。さて西方寺にあるところの道哲が墓は、石像に存生のかたちを写せる者也。しかるに此墓石に、其卒年月日を彫せざるを、年頃いぶかしく思ひ過しに、今一考を得たり。そはかの二代目高尾が墓をこゝに偽造する頃にや、かの道哲、俗たりし時、高尾が私夫也など云へる俗説の妄談、及土佐節三世二河白道などのつくり事によりて、こゝに名ある道哲なれば、なほもその奇をしめして、高尾の実跡となさんの心より、ゑせ者のかねて刻しありし年月日を、ひそかにけづり去りし者なるべし。例せば、これに同じゑせわざ、同所橋場の法源寺、同新鳥越易行院などの類ならんか。此二条はすでに上の巻に記せり。かくして道哲は、高尾と同年同月同日に寂すと云へる虚妄の奇伝を云へりしならんが、なか/\につたなくして、かへりて其非を知らるゝ事の一助となるに似て、笑可し。奇跡考に山東庵云、予西方寺に至りてたづぬるに、道哲、万治三年十二月廿五日、高尾と同日に寂すと云。されど恋の道引に、道哲庵の図を出せるを見、紫の一本の文を考れば、延宝、天和の頃迄ながらへし様に思はる」云々とうたがへるぞ、むべなると云べし。紫の一本の文といへるは、「日本堤のきはに、道哲が寺あり。ある者の本に、淋しきを道哲が鉦の声と有。今はやる百作ぶしの小歌に、そつちでうて道哲と唱も此寺也」云々と見えしを、上に引る恋の道引に合していへる也。さて又雀庵、山東翁の説を助ていはむに、寛文七年印本讃嘲記に犬枕の条、むじやうなるものゝ部に、「だうてつがしやうこのおと」と見え、元禄十六年印本松の葉の小唄に、「かねをたゝいて仏にならばさ、土手の道哲は気のとほつた仏ぢや、すいた仏ぢや」など有り。これらによりても、道哲は、寛文、延宝、天和はさら也、元禄の末迄ながらへし者なる事を思ふべし。さらばかの延宝六年の菱川が筆に見えたる者、及天和の画巻なるものは、存生中の肖像なりけり。なほいはむに、寺伝に、道哲、高尾と同日に終れりと云説によらば、此法師は、新吉原こゝへうつらざる以前、すでに名高かりしが如し。しかりとせば、理にかなはずと云ふべし。そも此法師の名、一時に世に高く成は、吉原こゝへうつりてよりの事なりけり。恋の道引に、明暦の頃より云々とあるを考れば、吉原今の地へうつれると、道哲此門前庵をむすべる同時なるべし。さて此門前は、かの駕にのりて通ふ遊客はさら也、そのかみかちにて通ふ人も、此寺の門より土手へ曲りてゆきゝしたる事、既に上にしるすが如し。吉原の本道也。さればくるはがよひのともがら、夜となく日となく多きものから、道哲が鉦の声を聞知らざるものなきが如くにて、云伝へ聞伝へて、一時にその名高くなれる事思ふべし。よりて二代目高尾が偽跡も、これにつれて世に聞え、多くはこゝを実跡として、かの春慶院なる誠の跡は埋れて、知るものなきが如くになれる也けり。又当時什物とするところの二代目高尾が羽子板は、十一代目高尾がものなるよしは考て、既に高尾考に云へり。つきて又按ずるに、同什宝とする高尾襟掛地蔵、同位牌などいへるもの、同じく享保頃に出来しものにやあらんか。又思ふに、寺伝に云道哲の歿日も、高尾同日とせんには、万治二年十二月五日とせざれば、其実にかなはず。さるをこゝの年月日にしたがひていへる。これ又享保はじめ頃の印本助六の双紙に、こゝらの地を画る中、まつち山に二王門あり、同頃印本江戸八景に図すると同じ。さて又その辺に道哲庵ありて、その庵に法師の鉦うち居るさまを画る。かの菱川筆及天和の画巻に見えたるが如し。これによりて又思に、道哲は明暦の頃はいと若くして、さて九十余歳の高寿にて、享保の初の頃迄、なほながらへありしにや有らんか。こゝに至て又うたがひおこりたれば、西方寺に至り、かの石像をつら/\みるに、文化の昔みたるとは違ひて、全体すべて全からず。こは近き年のナヰ(地震の和名。)の為に損じたるや、石像の頭欠落たるをつぎて、漆、膠もてつくろひあり。なほ橦木を持てる右の手も、数珠をかけたる左の手首も、欠失たり。されど奇跡考に、其そこねざりし頃の全体をうつしをさめたれば、なほ今にしてまたき俤を見るが如し。されば昔しみしよりは、けふみるところ、いたく古びたるが如くなれど、今此石質をしたしくみて思に、此石像万治頃のものには思はれず。おそらくは、近く享保年間造立の物にやあらんか。さらばかの高尾同日に卒すと云へるも、かの十一代目高尾とせば、あたれるに似たり。こはこゝろみにいへるのみ。とにもかくにも、こゝの寺門に其法号を掲し迄。当寺に名ある法師の墓石に、其歿年の月日をかきたるは、不審き限りにして、又遺憾といふ可し。

○ちるもみぢ
越後人の話に、かの国の或人、遊女いづみといへるの筆を蔵すと。
去年のしはす五日に高尾の君みまかり給ふときゝて
とほく聞風のたよりやちるもみぢ
とあるよし。按るにいづみは、寛文七年印本讃嘲記に、新町三浦九郎左衛門内と見えたる遊女にや。此九郎左衛門といへるは、万治元年の細見記に見えて、三浦屋四郎左衛門が出店なるべし。そはとまれ、かのはし書に、去年のしはすとあるによりて按るに、此遊女他国に根引せられて、万治三といふ年の吟なるべし。
上に記しゝは、ふと思ひ誤れるにて、寛文は万治の後なれば、上にいへるいづみは、讃嘲記に見えたる姉女郎などにや、また異人にや。そはとまれ、しはす五日といへるぞ、二代目高尾がをはれる日の実にして、廿五日は誤なるべし。かゝれば高尾が古跡は、春慶院に定めてむ。

(三田村鳶魚編『鼠璞十種』上巻中央公論社刊を底本としました。)












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竹取物語 

竹取物語(一部)

かくや姫の生ひ立ち

 いまは昔、竹取の翁といふもの有けり。野山にまじりて竹を取りつゝ、よろづの事に使ひけり。名をば、さかきの造となむいひける。その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人いとうつくしうてゐたり。翁いふやう、「我あさごと夕ごとに見る竹の中におはするにて、知りぬ。子となり給べき人なめり」とて、手にうち入れて家へ持ちて来ぬ。妻の女にあづけて養はす。うつくしき事かぎりなし。いとをさなければ籠に入れて養ふ。
 竹取の翁、竹を取るに、この子を見つけて後に竹とるに、節を隔てゝよごとに金ある竹を見つくる事かさなりぬ。かくて翁やう/\豊になり行。
 この兒、養ふ程に、すく/\と大きになりまさる。三月ばかりになる程によき程なる人に成りぬれば、髪上げなどさうして、髪上げさせ、裳着す。帳のうちよりも出ださず、いつき養ふ。この兒のかたちけうらなる事世になく、屋のうちは暗き所なく光り満ちたり。翁、心地あしく苦しき時も、この子を見れば、苦しき事もやみぬ。腹立たしきことも慰みけり。翁、竹を取る事久しくなりぬ。いきおひ猛の者に成りにけり。この子いと大きに成りぬれば、名を、三室戸斎部のあきたをよびて、つけさす。あきた、なよ竹のかぐや姫と、つけつ。この程三日うちあげ遊ぶ。よろづの遊びをぞしける。おとこはうけきらはず呼び集へて、いとかしこく遊ぶ。

貴公子たちの求婚

 世界の男、貴なるも賤しきも、いかでこのかぐや姫を得てしがな、見てしがなと、をとに聞きめでゝ、惑ふ。その辺りの墻にも、家のとにも、をる人だにたはやすく見るまじき物を、夜るは安きいも寝ず、闇の夜に出て、穴をくじり、かひばみ、惑ひあへり。さる時よりなむ「よばひ」とは言ひける。

(以下略)

仏の御石の鉢(石つくりの皇子の話)

 猶、この女見では、世にあるまじき心地のしければ、「天竺にある物ももて来ぬ物かは」と思ひめぐらして、石つくりの皇子は、心のしたくある人にて、「天竺に二つとなき鉢を、百千万里の程行きたりとも、いかでかとるべき」と思ひて、かぐや姫のもとには、「今日なん天竺へ石の鉢とりにまかる」と聞かせて三年ばかり、大和国十市郡にある山寺に、賓頭廬の前なる鉢の、ひた黒に墨つきたるをとりて、錦の袋に入れて、作り花の枝につけて、かぐや姫の家にもて見せければ、かぐや姫、あやしがりて見るに、鉢の中に文あり。ひろげて見れば、
海山の道に心をつくし果てないしのはちの涙ながれき
かぐや姫、「光やある」と見るに、螢ばかりの光だになし。
  おく露の光をだにぞやどさましをぐら山にて何もとめけん
とて返し出だす。鉢を門に捨てゝ、この歌の返しをす、
  しら山にあへば光のうするかとはちを捨てもたのまるゝかな
と詠みて入れたり。かぐや姫、返しもせずなりぬ。耳にも聞入れざりければ、言ひかゝづらひて帰りぬ。かの鉢を捨てゝ又言ひけるよりぞ、面なき事をば、「はぢを捨つ」とは言ひける。

逢莱の玉の枝(くらもちの皇子の話)

 くらもちの皇子は、心たばかりある人にて、おほやけには、「筑紫の国に、ゆあみにまからむ」とて暇申て、かぐや姫の家には、「玉の枝とりになむまかる」と言はせて下り給に、仕ふまつるべき人々みな灘波まで御をくりしける。皇子、「いと忍びて」とのたまはせて、人もあまた率ておはしまさず。近ふ仕ふまつるかぎりして出で給ひぬ。御をくりの人/\見たてまつり送りて帰りぬ。おはしぬと人には見え給て、三日ばかりありて漕ぎ帰り給ひぬ。

(以下略)

火鼠の皮衣(あべの右大臣の話)

 右大臣あべのむらじは、たから豊かに、家ひろき人にぞおはしける。その年きたりける唐船の、わうけいといふ人のもとに、文を書きて、「火鼠の皮といふなる物買ひておこせよ」とて、仕うまつる人の中に心たしかなるを選びて、小野のふさもりといふ人をつけて遣はす。もて到りて、唐にをるわうけいに、金をとらす。わうけい、文をひろげて見て、返事書く。
「火鼠の皮衣、此国になき物也。をとには聞けども、おまだ見ぬなり。世にあるものならば、この国にも、もてまうで来なまし。いと難きあきなひなり。しかれども、もし天竺にたまさかにもて渡りなば、長者のあたりにとぶらひ求めむに。なき物ならば、使にそへて、金をば返したてまつらん」と言へり。

(以下略)

龍の頸の玉(大伴の大納言の話)

 大伴のみゆきの大納言は、わが家にありとある人召し集めて、のたまはく、「龍の頸に、五色にひかる玉あなり。それ取りてたてまつりたらん人には、願はんことを叶へん」とのたまふ。pのこども、仰の事を承はりて申さく、「仰の事はいともたうとし。たゞし、この玉たはやすくえ取らじを。いはむや、龍の頸の玉はいかゞ取らむ」と申しあへり。大納言の給、「てんの使といはんものは、命を捨てゝも、をのが君の仰ごとをば叶へんとこそ思ふべけれ。この国になき、天竺・唐の物にもあらず。此国の海山より、龍はをり上る物也。いかに思ひてか、なんぢら、難きものと申べき」。おのこども申すやう、「さらばいかゞはせむ。難き事なりとも、仰ごとに従ひて求めにまからむ」と申すに、大納言見はらゐて、「なむぢらが君の使と、名を流しつ。君の仰ごとをば、いかゞは背くべき」との給て、龍の頸の玉取りにとて、出したて給。この人々の、道の糧食物に、殿内の絹・綿・銭など、あるかぎりとり出でゝ添へて遣はす。「この人々ども帰るまで、いもゐをして吾はをらん。玉取りえでは、家に帰り来な」とのたまはせけり。

(以下略)

燕の子安貝(いそのかみの中納言の話)

 中納言いそのかみまろたりの、家に使はるゝ男どものもとに、「燕の巣くひたらば、告げよ」とのたまふを、うけたまはりて、「何の用にかあらん」と申。答へての給やう、「燕のもたる子安の貝を取らむ料也」とのたまふ。男ども答へて申、「燕をあまた殺して見るだにも、腹に何もなき物也。たゞし、子産む時なん、いかでか出すらむ。はらくかと申。人だに見れば失せぬ」と申。又、人の申すやうは、「大炊寮の飯炊く屋の棟に、つくの穴ごとに、燕は巣をくひ侍る。それに、まめならむ男どもをいてまかりて、あぐらを結ひあげて、窺はせんに、そこらの燕、子産まざらむやは。さてこそ取らしめ給はめ」と申。中納言喜び給て、「おかしき事にもあるかな。もつともえ知らざりつる。興あること申したり」との給て、まめなる男ども廿人ばかりつかはして、あなゝいにあげ据へられたり。殿より使ひまなくたまはせて、「子安の貝取りたるか」と問はせ給。

(以下略)

御門の求婚

 さて、かぐや姫、かたちの世に似ずめでたきことを、御門きこしめして、内侍なかとみのふさこにのたまふ、「多くの人の身をいたづらになしてあはざなるかぐや姫は、いかばかりの女ぞと、まかりて見てまいれ」との給ふ。ふさこ、うけたまはりてまかれり。竹取の家にかしこまりて請じ入れて、会へり。女に内侍のたまふ、「仰ごとに、かぐや姫のかたち優におはす也、よく見てまいるべき由のたまはせつるになむ、まいりつる」と言へば、「さらば、かく申し侍らん」と言ひて入りぬ。

(以下略)

かぐや姫の昇天

 かやうに、御心をたがひに慰さめ給ふほどに、三年ばかりありて、春のはじめより、かぐや姫、月のおもしろく出たるを見て、常よりも物思ひたるさまなり。ある人の、「月の顔見るは忌むこと」と制しけれ共、ともすれば人まにも月を見ては、いみじく泣き給ふ。七月十五日の月にていはく、「かぐや姫の、例も月をあはれがり給へども、この頃となりては、たゞことにも侍らざめり。いみじく思し歎く事あるべし。よく/\見たてまつらせ給へ」と言ふを聞きて、かぐや姫に言ふやう、「なんでう心地すれば、かく、物を思ひたるさまにて、月を見たまふぞ。うましき世に」と言ふ。かぐや姫、「見れば、世間心ぼそくあはれに侍る。なでう物をか歎き侍るべき」と言ふ。かぐや姫のある所にいたりて見れば、なを物思へる気色なり。これを見て、「あが仏、なに事思ひたまふぞ。思すらんこと何ごとぞ」と言へば、「思ふこともなし。物なん心ぼそくおぼゆる」と言へば、翁、「月な見給ひそ。これを見給へば、物思す気色はあるぞ」と言へば、「いかで月を見ではあらん」とて、猶、月出づれば、出でゐつゝ、歎き思へり。夕やみには、物思はぬ気色也。月の程に成りぬれば、猶、時々はうち歎きなどす。これを、使ふ者ども、「なを物思す事あるべし」とさゝやけど、親をはじめて、何とも知らず。
 八月十五日ばかりの月に出で居て、かぐや姫いといたく泣き給。人目も、いまは、つゝみ給はず泣き給。これを見て、親どもゝ「なに事ぞ」と問ひさはく。かぐや姫泣く/\言ふ、「さき/\〃も申さむと思ひしかども、かならず心惑いし給はん物ぞと思ひて、いまゝで過し侍りつるなども、かならず心惑いし給はん物ぞと思ひて、いまゝで過し侍りつるなり。さのみやはとて、うち出で侍りぬるぞ。をのが身はこの国の人にもあらず。月の都の人なり。それを、昔の契ありけるによりなん、この世界にはまうで来りける。いまは帰るべきになりにければ、月の十五日に、かのもとの国より、迎へに人々まうで来んず。さらずまかりぬべければ、思しなげかんが悲しき事を、この春より、思ひ歎き侍る也」と言ひて、いみじく泣くを、翁、「こは、なでう事のたまふぞ。竹の中より見つけきこえたりしかど、菜種の大きさおはせしを、わが丈たち双ぶまで養ひたてまつりたる我子を、なに人か迎へきこえん。まさに許さんや」と言ひて、「われこそ死なめ」とて、泣きのゝしる事、いと耐へがたげ也。かぐや姫のいはく、「月の宮この人にて、父母あり。かた時の間とて、かの国よりまうで来しかども、かく、この国にはあまたの年をへぬるになん有ける。かの国にはあまたの年をへぬるになん有ける。かの国の父母の事も覚えず、こゝには、かく久しく遊びきこえて、ならひたてまつれり。いみじからむ心地もせず、悲しくのみある。されどをのが心ならず、まかりなむとする」と言ひて、もろともにいみじう泣く。使はるゝ人々も、年頃ならひて、たち別れなむことを、心ばへなど貴やかにうつくしかりつる事を見ならひて、恋しからむことの耐へがたく、湯水飲まれず、同じ心になげかしがりけり。
 この事を御門きこしめして、竹取が家に御使つかはさせ給。御使に竹取出で会ひて、泣く事かぎりなし。此事をなげくに、髭も白く、腰もかゞまり、目もたゞれにけり。翁、今年は五十ばかりなりけれども、物思ふには、かた時になむ老になりにけると見ゆ。御使、仰事とて翁にいはく、「いと心苦しく物思ふなるは、まことか」と仰せ給。竹取泣く/\申。「この十五日になん、月の都より、かぐや姫の迎へにまうで来なる。たうとく問はせ給。この十五日は、人々賜はりて、月の宮この人まうで来ば捕へさせん」と申。御使帰りまいりて、翁の有様申て、奏しつる事ども申を、きこしめして、の給、「一目見たまひし御心にだに忘れ給はぬに、明暮見なれたるかぐや姫をやりては、いかゞ思ふべき」。
 かの十五日、司/\に仰せて、勅使少将高野のおほくにといふ人をさして、六衛の司あはせて二千人の人を、竹取が家に遣す。家にまかりて、築地の上に千人、屋の上に千人、家の人々いと多かりけるに合はせて、空ける隙もなく守らす。この守る人々も弓矢を帯して、母屋の内には、女どもを番にをりて守らす。女、塗籠の内に、かぐや姫を抱へてをり。翁、塗籠の戸をさして、戸口にをり。翁のいはく、「かばかり守る所に、天の人にも負けむや」と言ひて、屋の上にをる人々にいはく、「つゆも、物空にかけらば、ふと射殺し給へ」。守る人/\のいはく、「かばかりして守る所に、はり一つだにあらば、まづ射殺して、外にさらんと思ひ侍る」と言ふ。翁これを聞きて頼もしがりけり。これを聞きてかぐや姫は、「さし籠めて、守り戦ふべきしたくみをしたりとも、あの国の人を、え戦はぬ也。弓矢して射られじ。かくさし籠めてありとも、かの国の人来ば、みな開きなむとす。あひ戦はんとすとも、かの国の人来なば、猛き心つかふ人も、よもあらじ」。翁の言ふやう、「御迎へに来む人をば、長き爪して、眼をつかみ潰さん。さが髪をとりて、かなぐり落とさむ。さが尻をかき出でゝ、こゝらの公人に見せて、恥を見せん」と腹立ちをる。かぐや姫いはく、「声高に、なのたまひそ。屋の上にをる人どもの聞くに、いとまさなし。いますかりつる心ざしどもを思ひも知らで、罷りなむする事の口惜しう侍りけり。長き契のなかりければ、程なく罷りぬべきなめりと思ふが、悲しく侍る也。親達の顧をいさゝかだに仕うまつらで、まからむ道も安くもあるまじき。日比も出でゐて、今年ばかりの暇を申しつれど、さらに許されぬによりてなむ、かく思ひ歎き侍る。み心をのみ惑はして去りなむことの、悲しく耐へがたく侍る也。かの館の人は、いとけうらに、老をせずなん。思ふ事もなく侍る也。さる所へ罷らむずるも、いみじくも侍らず。老い衰へ給へるさまを見たてまつらざらむこそ、恋しからめ」と言ひて、翁、「胸痛き事、なしたまひそ。うるはしき姿したる使にも障らじ」と、ねたみをり。
 かゝる程に、宵うち過ぎて、子の時ばかりに、家のあたり昼の明さにも過ぎて光りわたり、望月の明さを十あはせたるばかりにて、ある人の毛の穴さへ見ゆるほどなり。大空より人、雲に乗りて下り来て、土より五尺ばかり上りたる程に、立ち列ねたり。これを見て、内外なる人の心ども、物におそはるゝやうにて、あひ戦はん心もなかりけり。からうじて思ひ起して、弓矢をとり立てんとすれども、手に力もなくなりて、萎えかゝりたり。中に心さかしき者、念じて射んとすれども、外ざまへ行きければ、あれも戦はで、心地たゞ痴れに痴れて、まもり合へり。
 立てる人どもは、装束の清らなること、物にも似ず。飛車一つ具したり。羅蓋さしたり。その中に王とおぼしき人、家に、「宮つこまろ、まうで来」と言ふに、猛く思ひつる宮つこまろも、物に酔ひたる心地して、うつ伏しに伏せり。いはく、「汝、おさなき人、いさゝかなる功徳を翁づくりけるによりて、汝が助けにとて、かた時のほどとて下しゝを、そこらの年頃、そこらの金給ひて、身をかへたるがごと成りにたり。かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賤しきをのれがもとに、しばしおはしつる也。罪の限果てぬればかく迎ふるを、翁は泣き歎く、能はぬ事也。はや出したてまつれ」と言ふ。翁答へて申、「かぐや姫を養ひたてまつること廿余年に成りぬ。かた時との給ふに、あやしく成り侍りぬ。又異所に、かぐや姫と申す人ぞおはすらん」と言ふ。「こゝにおはするかぐや姫は、重き病をし給へば、え出でおはしますまじ」と申せば、その返事はなくて、屋の上に飛車を寄せて、「いざ、かぐや姫。穢き所にいかでか久しくおはせん」と言ふ。立て籠めたるところの戸、すなはち、たゞ開きに開きぬ。格子どもゝ、人はなくして開きぬ。女抱きてゐたるかぐや姫、外に出ぬ。え止むまじければ、たゞさし仰ぎて泣きをり。竹取心惑ひて泣き伏せる所に寄りて、かぐや姫言ふ、「こゝにも心にもあらでかく罷るに、昇らんをだに見をくり給へ」と言へども、「なにしに、悲しきに見をくりたてまつらん。我をいかにせよとて、捨てゝは昇り給ふぞ。具して出でおはせね」と泣きて伏せれば、心惑ひぬ。「文を書をきてまからん。恋しからむおり/\、とり出でて見給へ」とて、うち泣きて書く言葉は、
「此国に生まれぬるとならば、歎かせたてまつらぬほどまで、侍らで過ぎ別れぬる事、返々本意なくこそおぼえ侍れ。脱ぎをく衣を形見と見給へ。月の出でたらむ夜は、見おこせ給へ。見捨てたてまつりてまかる、空よりも落ちぬべき心地する」
と書きをく。
天人の中に持たせたる箱あり。天の羽衣入れり。又あるは不死の薬入れり。ひとりの天人言ふ、「壺なる御薬たてまつれ。穢き所の物きこしめしたれば、御心地悪しからむ物ぞ」とて、もて寄りたれば、わづか嘗め給ひて、すこし形見とて、脱ぎをく衣に包まんとすれば、ある天人包ませず。御衣をとり出でて着せんとす。その時にかぐや姫、「しばし待て」と言ふ。「衣着せつる人は、心異になるなりといふ。物一こと言ひをくべき事ありけり」と言ひて、文書く。天人、おそしと心もとながり給ひ、かぐや姫、「もの知らぬこと、なの給ひそ」とて、いみじく静かに、公に御文たてまつり給、あはてぬさま也。
「かくあまたの人を賜ひて止めさせ給へど、許さぬ迎へまうで来て、とりいてまかりぬれば、くちおしく悲しき事、宮仕へ仕うまつらずなりぬるも、かくわづらはしき身にて侍れば。心得ず思しめされつらめども、心強くうけたまはらずなりにし事、なめげなる物に思しめし止められぬるなん、心にとゞまり侍りぬる」
とて、
  今はとて天の羽衣きるおりぞ君をあはれと思ひいでける
とて、壺の薬そへて、頭中将呼びよせて、たてまつらす。中将に天人とりて傅ふ。中将とりつれば、ふと天の羽衣うち着せたてまつりつれば、翁をいとおしく、かなしと思しつる事も失せぬ。此衣着つる人は、物思ひなく成りにければ、車に乗りて、百人ばかり天人ばかり天人具して、昇りぬ。

ふじの山(むすび)

 その後、翁・女、血の涙を流して惑へど、かひなし。あの書をきし文を讀み聞かせけれど、「なにせむにか命もおしからむ。たが為にか。何事も用もなし」とて、薬も食はず、やがて起きもあがらで、病み臥せり。中将、人々引き具して帰りまいりて、かぐや姫を、え戦ひ止めず成りぬる事、こま/\〃と奏す。薬の壺に御文そへ、まいらす。ひろげて御覧じて、いといたくあはれがらせ給て、物も尾きこしめさず。御遊びなどもなかりけり。大臣上達を召して、「いづれの山か天に近き」と問はせ給ふに、ある人奏す、「駿河の国にあるなる山なん、この都も近く、天も近く侍る」と奏す。これを聞かせ給ひて、
  逢ことも涙にうかぶ我身には死なぬくすりも何にかはせむ
かの奉る不死の薬に、又、壺具して、御使に賜はす。勅使には、つきのいはかさといふ人を召して、駿河の国にあなる山の頂にもてつくべきよし仰せ給。嶺にてすべきやう教へさせ給。御文、不死の薬の壺ならべて、火をつけて燃やすべきよし仰せ給。そのよしうけたまはりて、つはものどもあまた具して山へ登りけるよりなん、その山を「ふじの山」とは名づけゝる。その煙、いまだ雲のなかへたち上るとぞ、言ひ傅へたる。

(岩波文庫『竹取物語』を底本としました)

忠直卿行状記

『忠直卿行状記』(一部)

菊池寛著

『影武者徳川家康』中巻(新潮文庫版237p)に述べられている部分の、当該箇所と思われる所を掲載。

 これまでの忠直卿は、国老たちのいうことは、何かにつけてよく聞かれた。まだ長吉丸といっていた十三歳の昔、父秀康卿の臨終の床に呼ばれて、「父の亡からん後は、国老どもの申すことを父が申すことと心得てよく聞かれよ」と諭されたことを、大事に守っていた。
 が、この頃の彼は、国政を聞く時にも、すべてを僻んで解釈した。家老たちが、ある男を推薦して褒め立てると、彼はその男が食わせ者のように思われて、その男を用うることを、意地にかかって拒んだ。国老たちが、ある男の行跡の非難を申し上げて、閉門の至当であることを主張すると、忠直卿は、その男が硬直な士であるように思われて、いっかな閉門を命ずることを許さなかった。
 越前領一帯、その年は近年希な凶作で、百姓の困苦一方ではなかった。家老たちは、袖を連ねて忠直卿の御前に出で、年貢米の一部免除を願い出でた。が、忠直卿は、家老たちが口を酸っぱくして説けば説くほど、家老たちの建言を採用するのが厭になった。彼自身、心のうちでは百姓に相当な同情を懐きながら、家老たちのいいままになるのが不快であった。そして、家老たちがくどくどと説くのを聞き流しながら、
「ならぬ!ならぬと申せば、しかと相ならぬぞ」と、怒鳴りつけた。なんのために拒んだのか、彼自身にさえ分からなかった。
 こうした感情の食い違いが、主従の間に深くなるにつれ、国政日に荒んで、越前侯乱行の噂は江戸の柳営にさえ達した。
 が、忠直卿のかかる心持は、彼のもっと根本的な生活の方へも、だんだん食い入って行った。
 ある夜のことであった。彼は宵から奥殿にたて籠って、愛妾たちを前にしながら、しきりに大杯を重ねていた。
 京からはるばると召し下した絹野という美女が、この頃の忠直卿の寵幸を身一つにあつめていた。
 忠直卿は、その夜は暮れて間もない六つ半刻から九つに近い深更まで、酒を飲み続けている。が、酒を飲まぬ愛妾たちは、彼の杯に酒を注ぐという単調な仕事を、幾回となく繰り返しているだけである。
 忠直卿は、ふと酔眼をみひらいて、彼に侍座している愛妾の絹野を見た。ところが、その女は連夜の酒宴に疲れはてたのだろう。主君の御前ということもつい失念してしまったと見え、その二重瞼の美しい目を半眼に閉じながら、うつらうつらと仮睡に落ちようとしている。
 じっと、その面を見ていると、忠直卿は、また更に新しい疑惑に囚われてしまった。ただ、主君という絶大な権力者のために身を委して、朝暮自分の意志を少しも働かさず、ただ傀儡のように扱われている女の淋しさが、その不覚な仮睡のうちにまざまざと現れているように思われた。
 忠直卿は思った。この女も、自分に愛があるというわけでは少しもないのだ。この女の嫣然たる姿態や、妖艶な媚は皆上部ばかりの技巧なのだ。ただ、大金で退引ならず身を購われ、国主という大権力者の前に引き据えられて是非もなく、できるだけその権力者の歓心を得ようという、切羽詰まった最後の逃げ道に過ぎないのだ。
 が、この女が自分を愛していないばかりでなく、今まで自分を心から愛した女が一人でもあっただろうかと、忠直卿は考えた。
 彼は今まで、人間同士の人情を少しも味わわずに来たことに、この頃ようやく気がつき始めた。
 彼は、友人同士の情を、味わったことさえなかった。幼年時代から、同年輩の小姓を自分の周囲に幾人となく見出した。が、彼らは忠直卿と友人として交わったのではない。ただ服従をしただけである。忠直卿は、彼らを愛した。が、彼らは決してその主君を愛し返しはしなかった。ただ義務感情から服従しただけである。
 友情はともかく、異性との愛は、どうであっただろう、彼は、少年時代から、美しい女性を幾人となく自分の周囲に支配した。忠直卿は彼らを愛した。が、彼らの中の何人が彼を愛し返しただろう。忠直卿が愛しても、彼らは愛し返さなかった。ただ、唯々《いい》として服従を提供しただけである。彼は、今も自分の周囲に多くの人間を支配している。が、彼らは忠直卿に対して、人間としての人情の代りに、服従を提供しているだけである。
 考えてみると、忠直卿は恋愛の代用としても服従を受け、友情の代りにも服従を受け、親切の代りにも服従を受けていた。無論、その中には人情から動いている本当の恋愛もあり、友情もあり、純な親切もあったかも知れなかった。が、忠直卿の今の心持から見れば、それが混沌として、一様に服従の二字によって掩われて見える。
 人情の世界から一段高い所に放り上げられ、大勢の臣下の中央にありながら、索莫たる孤独を感じているのが、わが忠直卿であった。
 こうした意識が嵩ずるにつれ、彼の奥殿における生活は、砂を噛むように落莫たるものになって来た。
 彼は、今まで自分の愛した女の愛が不純であったことが、もう見え透くように思われた。
 自分が、心を掛けるとどの女も、唯々諾々として自分の心のままに従った。が、それは自分を愛しているのではない、ただ臣下として、君主の前に義務を尽くしているのに過ぎなかった。彼は、恋愛の代りに、義務や服従を喫するのに、飽き果ててしまっていた。
 彼の生活が荒むに従って、彼は単なる傀儡であるような異性の代りに、もっと弾力のある女性を愛したいと思った。彼を心から愛し返さなくてもいいから、せめては人間らしい反抗を示すような異性を愛したいと思った。
 そのために、彼は家中の高禄の士の娘を、後房へ連れて来させた。が、彼らも忠直卿のいうことを、殿の仰せとばかり、ただ不可抗力の命令のように、なんの反抗を示さずに忍従した。彼らは霊験あらたかな神の前に捧げられた人身御供のように、純な犠牲的な感情をもって忠直卿に対していた。忠直卿は、その女たちと相対していても、少しも淫蕩な心持にはなれなかった。
 彼の物足りなさは、なお続いた。彼は夫の定まっている女なら、少しは反抗もするだろうと思った。彼は、命じて許婚の夫ある娘を物色した。が、そうした女も、忠直卿の予期とは反して、主君の意志を絶対のものにして、忠直卿を人間以上のものに祭り上げてしまった。
 もうこの頃から、忠直卿の放埒を非難する声が、家中の士の間にさえ起った。
 が、忠直卿の乱行は、なお止まなかった。許婚の夫ある娘を得て、少しも慰まなかった彼は、さらに非道な所業を犯した。それは、家中の女房で艶名のあるものを私に探らしめて、その中の三名を、不時に城中に召し寄せたまま、帰さなかったことである。
 主君の御乱行ここに極まるとさえ、嘆くものがあった。
 夫からの数度の嘆願にかかわらず、女房は返されなかった。重臣は、人倫の道に悖る所業として忠直卿を強諫した。
 が、忠直卿は、重臣が諫むれば諫むるほど、自分の所業に興味を覚ゆるに至った。
 女房を奪われた三人の家臣のうち、二人まで忠直卿の非道な企ての真相を知ると、君臣の義もこれまでと思ったと見え、いい合わせたごとく、相続いて割腹した。
 横目付からその届出があると、忠直卿は手にしていた杯を、ぐっと飲み干されてから、微かな苦笑を洩されたまま、なんとも言葉はなかった。家中一同の同情は、翕然として死んだ二人の武士の上に注がれた。「さすがは武士じゃ。見事な最期じゃ」と、褒めそやす者さえあった。が、人々はこの二人を死せしめた原因を、ただ不可抗力な天災だと考えていた。一種の避くべからざる運命のように思っていた。
 二人が前後して死んでみると、家中の人々の興味は、妻を奪われながら、只一人生き残っている浅水与四郎の身に集っていた。
 そして、妻を奪われながら、腹を得切らぬその男を、臆病者として非難するものさえあった。
 が、四、五日してから、その男は飄然として登城した、そして、忠直卿にお目通りを願いたいと目付まで申し出でた。が、目付は、浅水与四郎をいろいろに宥め賺そうとした。
「なんと申しても、相手は主君じゃ。お身が今、お目通りに出たら必定お手打ちじゃ。殿の御非道は、我人共によく分かっている、がなんと申しても相手は主君じゃ」
 が、与四郎は断然としていい放った。
「たといいかがなろうとも、お目通りを願うのじゃ。たとえ身は八劈きにされようとも、念ないことじゃ。是非お取次ぎ下されい」と、必死の色を示した。
 目付は、仕方なく白書院に詰めている家老の一人へ、その嘆願を伝えた。それを聞いた老年の家老は、「与四郎めは、血迷うたと見えるな。主君の御無理は分かっていることじゃが、この場合腹をかっ切って死諫を進めるのが、臣下としての本分じゃ。他の二人はよう心得ているに、与四郎めは女房を取られたので血迷うたと見える。かほどの不覚人とは思わなかったに」と囁いた。
 家老は、なおブツブツと口小言をいいながら、小姓を呼んで、そのことを渋々ながら忠直卿の耳に伝えしめた。
 すると、忠直卿は、思いのほかに機嫌斜めならずであった。
「ははは、与四郎めが、参ったか。よくぞ参りおった。すぐ通せ! 目通り許すぞ」と、呼ばれたが、この頃絶えて見えなかった晴れがましい微笑が、頬の辺に漂うた。
 しばらくすると、忠直卿の目の前に、病犬のように呆けた与四郎の姿が現れた。数日来の心労に疲れたと見え、色が蒼ざめて、顔中にどことなく殺気が漂っている。そして、その瞳の中には、二筋も三筋も血を引いている。
 忠直卿は生来初めて、自分の目の前に、自分の家臣が本当の感情を隠さず、顔に現しているのを見た。
「与四郎か!近う進め!」と、忠直卿は温顔をもってこういわれた。なんだか、自分が人間として他の人間に対しているように思って、与四郎に対して、一種の懐しさをさえ覚えた。主従の境を隔つる膜が除かれて、ただ人間同士として、向い合っているように思われた。
 与四郎は、畳の上を三反ばかり滑り寄ると、地獄の底からでも、洩れるような呻き声を出した。
「殿!主従の道も、人倫の大道よりは小事でござるぞ。妻を奪われましたお恨み、かくのごとく申し上げまするぞ」と、いうかと思うと、与四郎は飛燕のごとく身を躍らせて、忠直卿に飛びかかった。その右の手には、早くも匕首が光っていた。が、与四郎は、軽捷な忠直卿にわけもなく利腕を取られて、そこに捻じ伏せられてしまった。近習の一人は、気を利かせたつもりで、小姓の持っていた忠直卿の佩刀を彼に手渡そうとした。が、忠直卿はかえってその男を斥けた。
「与四郎! さすがに其方は武士じゃのう」と、いいながら、忠直卿は取っていた与四郎の手を放した。与四郎は、匕首を持ったまま、面も揚げず、そこに平伏した。
「其方の女房も、さすがに命を召さるるとも、余が言葉に従わぬと申しおった。余の家来には珍しい者どもじゃ」と、いったまま、忠直卿は心から快げに哄笑した。
 忠直卿は、与四郎の反抗によって、二重の歓びを得ていた。一つは、一個の人間として、他人から恨まれ殺されんとすることによって、初めて自分も人間の世界へ一歩踏み入れることが許されたように覚えたことである。もう一つは、家中において、打物取っては俊捷第一の噂ある与四郎が必死の匕首を、物の見事に取り押えたことであった。この勝負に、嘘や佯があろうとは思えなかった。彼は、久し振りに勝利の快感を、なんの疑惑なしに、楽しむことができた。忠直卿は、この頃から胸のうちに腐りついている鬱懐の一端が解け始めて、明かな光明を見たように思われた。
「ただこのままに、お手打ちを」と嘆願する与四郎は、なんのお咎めもなく下げられたばかりでなく、与四郎の妻も、即刻お暇を賜った。
 が、忠直卿のこの歓びも、決して長くは続かなかった。
 与四郎夫婦は、城中から下げられると、その夜、枕を並べて覚悟の自殺を遂げてしまった、なんのために死んだのか、確かにはわからなかったが、おそらく相伝の主君に刃を向けたのを恥じたのと、かつは彼らの命を救った忠直卿の寛仁大度に、感激したためであろう。
 が、二人の死を聞いた忠直卿は、少しも歓ばなかった。与四郎が覚悟の自殺をしたところから考えると、彼が匕首をもって忠直卿に迫ったのも、どうやら怪しくなって来た。忠直卿に潔く手刃されんための手段に過ぎなかったようにも思われた、もしそうだとすると、忠直卿が見事にその利腕を取って捻じ倒したのも、紅白仕合に敵の大将を見事に破っていたのと、余り違ったわけのものではなかった。そう考えると、忠直卿は再び暗澹たる絶望的な気持に陥ってしまった。
 忠直卿の乱行が、その後益々進んだことは、歴史にある通りである。最後には、家臣をほしいままに手刃するばかりでなく、無辜の良民を捕えて、これに凶刃を加えるに至った。ことに口碑に残る「石の俎」の言い伝えは、百世の後なお人に面を背けさせるものである。が、忠直卿が、かかる残虐を敢てしたのは、多分臣下が忠直卿を人間扱いにしないので、忠直卿の方でも、おしまいに臣下を人間扱いにしなくなったのかも知れない。

 しかし、忠直卿の乱行も、無限には続かなかった。放埒がたび重なるにつれて、幕府の執政たる土居大炊頭利勝、本多上野介正純は、私に越前侯廃絶の策をめぐらした。が、剛強無双の上に、徳川家には嫡々たる忠直卿に、正面からことを計っては、いかなる大変をひき起すかも分からぬので、ついには、忠直卿の御生母なる清涼尼を越前へ送って、将軍家の意をそれとなく忠直卿に伝えることにした。
 忠直卿は、母君との絶えて久しき対面を欣ばれたが、改易の沙汰を思いのほかにたやすく聞き入れられ、六十七万石の封城を、弊履のごとく捨てられ、配所たる豊後国府内に赴かれた。途中、敦賀にて入道され、法名を一伯と付けられた。時に元和九年五月のことで、忠直卿は三十の年を越したばかりであった。後に豊後府内から同国津守に移されて、台所料として幕府から一万石を給され、晩年をこともなく過し、慶安三年九月十日に薨じた。享年五十六歳であった。
 忠直卿の晩年の生活については、なんらの史実も伝わっていない。ただ、忠直卿警護の任に当っていた府内の城主竹中采女正重次が、その家臣をして忠直卿の行状を録せしめて、幕席の執政たる土居大炊頭利勝に送った「忠直卿行状記」の一冊があるばかりである。その一節に、
「忠直卿当国津守に移らせ給うて後は、些の荒々しきお振舞もなく安けく暮され申候。兼々仰せられ候には、六十七万石の家国を失いつる折は、悪夢より覚めたらんが如く、ただすがすがしゅうこそ思い候え。生々世々、国主大名などに再びとは生れまじきぞ、多勢の中に交じりながら、孤独地獄にも陥ちたらんが如く苦艱を受くること屡々《しばしば》なりなど仰せられ、御改易のことについては、些の御後悔だに見えさせられず候。……徒然の折には、村年寄僧侶などさえお手近く召し寄せられ、囲棋のお遊びなどあり、打ち興ぜさせたもう有様、殷の紂王にも勝れる暴君よなど、噂せられたまいし面影更に見え給わず。ことに津守の浄建寺の洸山老衲とは、いと入懇に渡らせられ、老衲が、『六十七万石も持たせたまえば、誰も紂王の真似などもいたしたくなるものぞ。殿の悪しきに非ず』など、聞え上げけるに、お怒りのようもなく笑わせ給う。末には百姓町人の賤しきをさえお目通りに引き給い、無礼に飾なく申し上ぐることを、いと興がらせ給えり。御身はよろず、お慎み深く、近侍の者を憫み、領民を愛撫したもう有様、六十七万石の家国を失いたる無法人とも見えずと人々不審しく思うこと今に止まず候」と、あった。

(了)

青空文庫版『忠直卿行状記』を底本としました。

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玉菊考

玉菊考(新吉原略記附)一部

遊女玉菊之墳記

(前略)
新吉原角町中卍屋の遊女玉菊といひしは、宝永の初、情事によりながら、頗節操の聞えありて自尽せしを、人もあわれびて、中元の燈を家々にかゝげ、水調子といふ浄瑠理を、竹夫人が作りて追薦せしに、しば/\霊あらわしゝことありとて、おのれがはゝのおはしゝ日は、人も中万字やの楼上にて、かの追薦の浄るりを物すれば、必怪異の有となん、深く忌む事也しを、おのれ幼き時、母のかくものがたり給ひしを、耳にきゝはさみ居しが、今はかゝることだにしられぬは、世の四相のさまと思へりしも、いつか忘れたるがごとし、む月の末、隅田川の雪見んとて舟出せしかへるさ、かの万字屋に遊びし後朝、雪もはれ、春のけしきもやゝ催せる折から、卯時の飲など人々となすに、となといへる河東の浄るりに熟したるをむかへて、何おもはず中万字屋といふ名のみに心づきて、水調子を望みしに、あまりに長くしづかなるものとて、始と終とをしばし弄せし、こは彼の徒も、今はしかじかうたふものらはなかりしが、となは此わざに能くも熟しつれば、けふ望みに任せてすぐに語りしが、いといと道にかしこしといふべし、さて其日も、例の酔しれて、初更のころ、家にかへりしに、ありし浄るりの事あかず思ふまに/\、かの玉菊がこの浄るりにめづるにや、五十年前までは、異怪の事ありし事かたりいだし、子のふたつ頃に眠につくに、卒厥とかいふ病ひ起りて、息もたえ/\〃也しかど、くすしのしるしにや、やがて復しつるが、能々思ふに、はたして夫なりけりとうめかるゝに、一月余り伏枕し、仏の御いましめすらもちひゑぬ抔、中の物もいつとなくうとくて、たゞ例の念仏のみことゝするに、三月廿八日、退朝より外へまかり、ある人の校正せし江戸砂子を見たるに、浅草の条下光感寺といふ寺の所に、玉菊の墓をしるし、京伝などの考をあげて、宝永元年甲申三月廿九日死す、法名光岸明秀信女とあるに、此程の所労といひ、忌辰はそのあくる日にあたるも、因縁あるに似たると思ひ、あすの日廿九日、正忌とおもへるものから、光感寺に参りて、墳墓をはらふに、つゆたがはねば、おのれいつか此懐をはたして、兆域なりともつくり、あらたにせんと思ふに、医官生野生は齢だに三十にたらぬ人なりしが、かゝる故事好めるものから、物語とひとしく、彼寺に往て、青苔蘇衣よく/\はらひ、くわしく見るに、五月十九日は、かたへにある玉菊が母といひ伝ふるものゝ忌日也けり、又、Y鬢の幼波童女とおもひしを、波は渡の謬なる事さへたずねものして、村岡といへるは石を購求し、字を刻し、生野生ははか所石をたゝみ、芝草植て荘厳し、其忌辰には、現住の僧侶泰誉上人、ならびにさきに浄るり弄せしとな、又蘿月といへるもの、玉菊が三絃をもち伝へたれば、それら携へて、まつさきなる八百屋善四郎が家につどひ、伊蒲塞の供を設け、ありし三絃にて又水調子を鼓せしに、居まちの月いづるまで、これかれ物語し、梅塢ははじめよりの発起といひ、石碑にことがきつくりしかば、けふは文字かきし仏庵老人を待けるに、よべよりの風あれしかば、来らぬにこそなど、かたみにかたりあひつゝ、泰誉上人の帰らんとする時、梅塢、

  • たま/\にきくさへゆかし川竹の風もけふより法にともなへ

などいふに、二更のかね浅草寺のかたより響くれば、人々立わかれ、家にかへりぬ、かの万字屋にて、水調子をいみしこと、仏庵老人にもさきにかたるに、老人若かりし時、文漁といへると、かの万字屋にゆくに、能もおのれがこたびの態に似かよひ、その時、老人水調子をみづから奏せんとするに、文漁が手もて老人の口ふたぎし、とかたりたりしも、むかしがたり也しを、きのふ又、彼の妓の追福とて、かの浄るり弄したるに、樹林水鳥すら法音をのぶる涼しき御国のはちす、いまはひらけぬべければ、痴涼微妙の三昧となること、さらに疑ひなかるべしと思ひつゝ、日課念仏のいとまに、かくかきつゞくるは、蛇山にすめる梅塢居士也、

遊女玉菊伝  好間堂主人戯編

新吉原角町中万字屋勘兵衛抱の遊女に、玉菊といふ有り、禿を、しげみ、しのぶといへり、此玉菊容儀うるはしく、其性まことありて、情ふかゝりしかば、其頃、全盛ならぶ方なく、ことさら愛敬ありて、芸者、若いものはさらなり、茶屋、船宿に至るまで、常々こゝろくばりのゆきとゞかぬくまもなく、いとねんごろに詞などかえあせしかば、知るもしらぬも、この玉菊をほめ、心ひかぬかたはなかりし、さて、明けくれ、琴、三味線をもてあそび、ことに江戸節をふかく好み、かつ河東節の三絃に堪たりとぞ、しかるに、廿の年、心地例ならずしてわづらひしが、享保十一年三月のはじめより、再び枕に伏して、同月廿九日に、享年廿五歳にして、(これによりて推すときは元禄十五年の生れなり)竟に身まかりぬ、(玉菊伝、江戸節根元集、近世奇跡考)

按ずるに、古今吉原大全云、正徳年中、角町中万字屋に、玉菊とて全盛の女郎あり云々、七月の始、終に身まかりぬ、(北女閭起原にもおなじおもむきに記したり)しかれどもこれは謬なり、奇跡考云、享保十三年印本袖草紙(玉菊追善句集)といふものを按ずるに、享保十一年三月廿九日、身まかりぬ、光感寺といふに葬るよし、尋ね見るに、しかとしれがたし、といへり、此説是なり、しかはあれど、猶いはゞ、袖草紙は十三年の印本にして、水調子といふ河東節の浄るりも、此時の追薦に作りまうけしもの也、其文句に、目もとでひろふのべ紙の、ふたをり三をり年をへて、といへるは、三周の忌辰にあたれるをもて也、されば、享保十一年なること疑ふべからず、又、袖草紙の序に、其年の三月廿九日、此日いかなるどうよくの日ぞや、とあり、同書追善の発句に、「三月もこれまでぞ花もちりてのけ、一漁」といへるをもて、三月廿九日、忌日なる事証とすべし、又、水調子の文句に、廿五げんのあかつきに、くだけてきゆる玉菊の、といへるは、廿五歳にて身まかりたるをいへる也、江戸節根元集云、玉菊こと、廿歳の時、病気付けるが、神社仏閣へ、千度、百度、祈祷祈念、所々への代参上を下へとして、医師は名あるものをかけ、少も手透もなく療治をしける時、漸病気平癒ありけるに、四花ぐわんもんの灸事を致すべし、と医師申けるに、玉菊申には、灸事の内、半太夫、河東両人に、隔段に浄るり聞ながら、すへ度よし、これによりて、内証にても此由承知にて、日限をきめ、摺もの致出せし也、此時、家内女郎惣仕舞にて、仕切/\不レ残打抜ける、上るり聞に来る人へ、吸物、酒肴、本膳等までも出し、馳走ありし也、貴賤群集して賑々敷、言語にも尽しがたし、夫よりのち、廿五歳の時、又煩付、終に草葉の露と消うせぬ、(此説のよる時は、労症などの病にてや死したりけん、自尽したりと云事世に伝ふれど、しか記せし物なければ、信じがたし)

享保年間、酒宴の座興に、拳相撲と云ふこと行はれしが、此玉菊、ことにそのわざにたけたり、(奇跡考)

按ずるに、此奇跡考云、新吉原小田原某、玉菊が手におほひし拳まはしといふものを、今に蔵む、甲かけといふものゝ如く、黒天鵝絨にてつくり、金糸にて、■かくの如き紋をぬひたり、是かの拳相撲に用ひたる手おほひなりとぞ、

享保十三年七月、盂蘭盆に、廓中のものども、玉菊が三周忌の盆なれば、其追善をいとなまんとて、仲の町の家ごとに、てうちんを軒に出したり、此時、十寸見蘭洲の水調子といふ河東節の唄ひものを、竹夫人に作りまうけさせ、揚屋町なる三絃ひき河栄といふものゝ家にて、追善のわざをなしたり、そのころ、遊女等を始め、其外の人々も来り、これが為に追善の発句を手向草としたるをとり、すべて水調子をもくえあへ、序跋をそへ、冊子となし、上木して袖草紙と題せり、今まれに存す、さて、此時にてうちんを出したりしが、今の燈籠の権輿にてぞ有りける、(袖草紙、青楼雑話)

按ずるに、水調子の文句に、くだけてきゆる玉菊の、光りはかりのものながら、本来空の明りには、げにともすべき挑灯も、とうろもいらず云々、とあり、また青楼雜話云、元文元年七月、中万字屋玉菊が追善より後、中の町茶屋の家々の軒へ、箱でうちんのすそへ、左り巻に青黒の筋を附たるを、附ならべける云々、翌年より、きりこ燈籠となり、又はまはり燈籠となれり、次第に潤色して、今は大からくりなどにもなりける云々、又、北女閭起原に、破笠といふ細工人、からくり燈籠を工み出せしより、年々金玉を鏤め、人を感歎さする事と也たり、大門口の茶屋松屋庄兵衛花礫と云もの、見物の群来るを見て、門へ埒を竹にて結びたりし、是又その始めなり、といへり、世に云伝ふる発句に、とうろうになき玉菊が来る夜かな、といへるは、明和五年の刊本俳諧鯛にいでゝ、東条万立といふ点者の聞句にて、平句なり、こゝの因に記し出でつ、さて、水調子といふ浄るりを作らせし蘭洲と云者は、江戸町二丁目つる蔦屋庄三郎といへるものなり、浄るり作りし竹夫人は、岩本乾什といふ俳諧師にて、竹夫人は其号也、(此乾什が伝は、近世奇跡考にのせたり、河東節の文あまた作れり、十寸見河東と親しく交りしとぞ)そのことのもとをおもふに、さきに引用したる江戸節根元集にもいへるごとく、此江戸節にふかくこゝろをこめしかば、その追善のとむらひにも、水調子を作りまうけしなるべし、水調子摺物は、筆者つる蔦屋蘭洲、(河東節の鳰鳥集といふ平切本も、此蘭洲が筆也)表紙の菊の絵は、中村少長(七三郎)なり、
菩提所は浅草堂前白竜山光感寺(増上寺末浄土宗)なり、法名つまびらかならず、(袖草紙、玉菊伝)

按ずるに、光感寺に、法名光岸明秀信女、宝永元年五月十九日とある墓碑を、玉菊が事なり、と本寺にいひつたふれども信じがたし、そのよしは、初にもいへるごとく、年号月日ともいたく違へり、奇跡考に、已に尋見るに、しかとしれがたし、といひしぞ正しといふべき、さて、此宝永元年の石碑を玉菊なりといひ出し初めは、すぎしころ、新吉原の桐屋某(梧桐亭などいひて、好事のものなり)光感寺へ再三行て、玉菊が墓所をたずねけるに、かつてしれざりければ、住僧にこの趣頼み来りけるに、後日、彼寺より使僧を以て申おこせしは、かの玉菊が墓所見出したりとて、光岸明秀信女(宝永元年五月十九日)かたはらに、禿の墓とて、幼渡童女とまであるを、書面にて告来る、されど、其年月等の相違あるをもて、そのまゝに打過したりとぞきゝし、しかるを、今に彼寺にては、右の墓じるしを玉菊也、といひ伝ふと見えたり、おもふに、明和九年の火災に、あとかたもなくなどやなりけんを、寺にもしらで過しを、香花手向るものもあらざれば、終にその所を失ひしなるべし、

今茲さ月、友人梅塢ぬし、遊女玉菊が墓じるし再興ありて、仏庵翁の筆を染、其事石にゑり付られし頃、さる事有るとも知らで、ゆくりなく牛島の庵訪ひ侍りしに、翁のかゝる事なんあるとて、其碑文の摺本を示さる、予、此時にいへらく、かつて玉菊が事跡をこれかれ集め記しおけるもの有しが、といへば、翁その事跡なんせちに見まほし、と促さるゝほどに、頓て捜り出て贈りぬ、今此記事に附して、参考に備ふと云、

乙酉五月廿三日  好間堂主人識

遊女玉菊考

新吉原角町中万字屋勘兵衛抱の遊女に、玉菊といへるあり、容顔いとうるはしく、其性質ま事有て、情けふかく、其ころ全盛ならぶかたなく、殊さら愛敬ありて、芸者、若者はいふもさらなり、茶屋、船宿に至るめで、常に心くばりの行届かぬくまもなく、ねんごろに詞などかはせしかば、知るもしらぬも、此玉菊が愛情にめで、こゝろひかぬかたぞなかりし、さて、明くれ、琴、三絃をもて遊び、殊に江戸節を深く好み、かつ河東ぶしの三絃に堪たりとぞ、しかるに、年廿ばかりの頃、こゝち例ならず煩ひしが、享保十一年三月のはじめより、再び枕に伏して、同月廿九日に、享年廿五歳にして、竟に身まかりぬ、(玉菊伝、江戸節根元集、近世奇跡考)

吉原大全、北女閭起原等に、正徳年中、玉菊身まかりしよしを記すは、甚謬なり、袖草紙を証とすべし、
袖草紙序(竹婦人)云、身の上の秋風を、はや玉祭る頃にもなりぬと、光陰の挑灯に数句の追善を題し、なきあとまでも、茶屋の軒をかゞやかすは、三子が執慕のつとめたるべし、其年の三月廿九日、此日いかなるどうよくの日ぞや云々、

按ずるに、挑灯に数句の追善を題し、なき跡までも、茶店の軒にかゞやかす、といへるは、今茲三回忌なるをもて、発句を題せし挑灯をともせし也、玉菊伝に云、揚屋町松屋八兵衛方に、青色の挑灯に白く発句をかき、馴染の遊君、白むく、さげ髪にて此追善に来る、といへり、これ今の燈籠の権輿にて有りける、そのころ、遊女をはじめちなみある人々、手向の発句多かるをとり、すべて水調子の上るりをも加へ、序跋を添へて、冊子となしたるが、此袖草紙なり、さて、燈籠の次第に今の如くなりしよしは、青楼雜話といへるものに、享保十三年七月盂蘭盆に、廓中のものども、玉菊が三周忌の追善いとなまんとて、仲の町の家ごとに挑灯を軒に出したり、その時、十寸見蘭洲(つる蔦屋庄三郎)の水調子といふ河東ぶしの唄ひものを、竹婦人(竹婦人は俳諧点者岩本乾什といへるものゝ号也、此人の作れる河東ぶしあまた有、伝は奇跡考に見えたり)に作らしめ、揚屋町に住める三味線ひき、河栄といふものゝ家にて、追善のわざをなしたり、その時、茶屋/\にも玉菊をいとをしみければ、いひあわすともなく、家々にて挑灯をともしけるとぞ、其後、元文元年には、箱でうちんにて、すそへ青黒の筋を付たるを、かけつらねし、となり、翌年より、きりこ燈籠など作り出し、次第に潤色して華美になれる、といへり、(以上、青楼雜話にこれかれ見えたる趣をあつめ記)

北女閭起原云、燈籠の権輿は云々、玉菊が追善より起ること、世の能くしる所なり、玉菊の世にあるころ、中の町の茶屋のものども懇意にて、志ふかゝりし故、死後の翌秋の盆に、それが追善とて、茶屋に挑灯をともして軒にかけたり、其挑灯、赤と青との立筋を付たる箱挑灯にてありけるとぞ、子細ありて、その翌年の秋より、茶屋廛ごとに燭台に作り、花をして仏法となす、夫より云々、破笠といふ細工人、からくり燈籠を又々出せしより、年玉を鏤め、人を感歎さすることゝなりたり、大門口の茶屋松屋庄兵衛花礫といふもの、見物の群来るを見て、門へ埒を竹にて結たりし、是また其始なり、俳諧鯛(明和五年刊本)東条万立と云点者の聞句に、

  • とうろうになき玉菊がくる夜かな

又、三月廿九日、此日いかなるどうよくの日ぞや、とあるは、玉菊が忌日也、同書の発句に、

  • つねにあれどほんのわかれぢ春のはて ひしやをのさき
  • 春雨もくふ一日の別れかな 文之
  • 三月もこれまでぞ花も散りてのけ 一漁

などあるをもて、三月廿九日身まかりし証とすべし、

同書香供養(和専)云、願我真浄如2香炉1、たゞひとたきの花がたみをくゆらし、墓の辺りの紅塵をはらふに、東大寺、法隆寺に尋ずして、光感寺と云香はなかりき、

按ずるに、こゝに光感寺とあるは、浅草堂前白竜山光感寺をいへる也、玉菊を此寺は増上寺末寺にて、浄土宗なるをもて、願我真浄の文をと、引用せしなるべし、しかれども、今玉菊が石塔なし、おもふに、明和九年などの火災に、あとかたもなくなりしにや、奇跡考、玉菊伝等にも、尋ぬれどしれがたき由を記したり、今光岸明秀信女(宝永元年五月十九日)とある石碑を、玉菊が墓也、と寺僧のいひ伝ふるれど、たへてねかたもなき誤にて、此墓を玉菊と定めしは、いと近き事也、新吉原の茶屋桐屋五兵衛といふものは、玉菊に恩を請し事有りけるをもて、今その無縁となりたる事をかなしみ、光感寺に来りて墓所を尋るに、それと覚しき墓もなければ、住僧へ頼みけるは、法名、墓碑等、此上尋ねくれ候へ、と申帰りけるに、寺僧たずねわびて、大神宮に鬮をうかゞひ、一の碑を玉菊が墓と定むといふて、傍なる一碑を禿の墓として、桐屋へ先おこしたれど、年月の相違せしをもて、其儘に打過したりとぞ、されば、墓所はさら也、法名だに伝はらざるは、いちほいなきことぞかし、又ある人の考とてきけるは、香供養の文に、覚樹妙雲の四字、ことに大く書たるは、玉菊が法名の文字をもて文をなせるものにや、といへり、これもゆかしき説にて、捨がたくこそおぼゆれば、左にその文を模写す、
のかたちをちりすてゝ、はやく覚樹の古木になし、果よ一切空無我としらずや、美橘の袖の薫りをふるふて、そめいろの妙なる模様を、むらさきの雲に行かへ候へしかりの宿ぞや、みせの中川にすはりし姿を忘れて、九品蓮台に手枕せんことをおもへ、
なほ思ふに、此香供養の書体、こゝかしこ大きなる文字あるを見れば、子母体などいへるものゝおもむき、書けるにはあらぬか、ともおもはれたり、

浅草新堀ばた桃雲山永見寺(禅寺)に、玉菊が墓あり、今茲百回忌のよしにて、新吉原にても追善有て、年ごとに茶屋の軒にのみともせしを、今茲の娼家までも細工の燈籠を掛たり、さてまた、手向の発句あまた有りしを、袖草紙を再刻し、その末にそへて上木し、もゝ羽がきと題し、ちなみある人々のもとに贈りし、こはもと誰が思ひ起せしわざにや、已にいへるごとく、袖草紙に、忌日、墓所まで分明なるを、永見寺に葬りしあらぬ玉菊が追善に再刻したるは、いかにぞや、しかれども、玉菊が名を継し遊女の年忌にならば、似つかはしからぬもあらねど、ひとわたりそのよしいわでやみぬべきことかは、いかにまれ、年号、葬地の異なるからは、袖草紙の玉菊ならぬは、論ずるに及ばず、
此墓碑は、去る年の火災にていたみぬるを、新に立たるものゝよし、もゝ羽がきに見えたり、文化三年の火災などにてありしか、石碑いとあたらしく見ゆ、
水調子(竹婦人作の玉菊追善の浄るり也)の文句に、つばさやすめよかぶろ松、しげみにからむしのぶ草、しめちからなきとごゝろに、ふたりがむすぶしら露を、目もとでひろうのべがみの、ふたをりみをり年をへて、いふた言葉をしらぶれば、なくより外のことのねも、廿五げんのあかつきに、くだけてきゆる玉菊の、光りはかりのものながら、本来空の明りには、げにともすべき挑灯も、とうろもいらずかきたてず、ありしよみせをそのまゝに云々、

按ずるに、しげみにからむしのぶ草、といへるは、玉菊がふたりの禿を、しげみ、しのぶといひし故なり、袖草紙の句に、

  • 菊さくにつけて日にまししげみ(しのぶ)かな、かぶろ、と、

ふたをり三をり年を経て、とあるは、玉菊が身まかりし年の新盆ならで、三周忌なればなり、廿五げんの暁に、くだけて消る、とあるは、享年廿五歳にて終りしをいへる也、
本来空のあかりには、ともすべき挑灯も、とうろもいらずかきたてず、といへる文句は、この追善にあづからぬ人々へのあて言也、といへり、此浄るり摺ものにせし時、蘭洲自筆にて板下を書たりとぞ、
世に伝ふ鳰鳥集といふ河東ぶしの本も、蘭洲が画なり、

(後略)

(中央公論社刊『燕石十種』第三巻を底本としました。)

        

玉輿記

玉輿記(一部)

著者不詳

玉輿記 一 (一部)

○家康公の御祖父 徳川清康卿の奥方華陽院殿の伝
抑東照宮の御祖母花陽院殿と申奉るは、始の御名お富の御方と申、世に隠れなき美婦人也。養父は大河内左衛門元綱、始の名但馬守清成、祖は源三位頼政後胤にして、三州額田郡の住人なり。お富の方実父と申は、尾州の住士青木加賀守式宗と申、其祖は江州佐々木京極の種類也。お富の方、其始尾州小川の城主水野右衛門大夫忠政に嫁して、一女三男を産り、則女子と申は、源君の御母堂なりし伝通院殿是也、男子は水野織部忠守・同備前守忠分・同和泉守忠重等也。然るに天文年中に右衛門大夫忠政卒す、依て後室お富の方、養父大河内の方へ帰る、時に世良田(徳川)治郎三郎清康卿、兼てお富の方を思召有て御したひ有により、大河内氏方へ被2仰入1、しきりに御望有といへども、此時清康卿は十八歳にて、お富の方は廿三歳なりければ、両親御年不相応なりと、合点あらざりしにより、猶尾州宮の住士宮善五郎平秀成(本名岡本也)に、清康卿より御頼有しは、善五郎お富の方には叔父たるによりて、善五郎其意を得て、お富の方をうばひ取て清康卿へ嫁し奉る。則御男子一方、御女子一方産し給ふ、是松平源次郎信康卿、御女子は其始に松平上野介康高に嫁し給ふ、然るに康高病死後、御家臣酒井左衛門忠次に再縁し給ふ、是碓冰殿と申せし御方也。
一、おとみの方、其始水野家にて産し給ふ所の御女子(後伝通院殿)一方有、相具して清康卿へ御入有しを、清康卿御養女と成して、御前室(江州の士青木筑前守貞景の女也)の腹に儲けさせ給ふ御嫡子成る徳川次郎広忠卿に娶合せて、奥方となし給ふ、是行合兄弟の御夫婦也。此御腹に家康公を儲けさせ給ふ、是お大の方と申奉る、御長生にて後年伝通院殿と申御方也。
一、天文四年乙未十二月五日、尾州森山陣中にて、清康卿不慮の儀に御横死有、お富の方再後室と成給ふを、星野備中守秋国内室として、無レ程星野死去後、猶又菅沼藤十郎興望が妻と成給ふ。お富の方不幸の事に逢ひ給ふと申も、都合四五度御重嫁、乱世の時節はかヽるためしも有事なれども、後世是を不審せり。永禄三年庚申五月六日、大河内源三郎政房宅にて、七十余歳にて御卒去有、駿州宮ヶ崎少将松智源院に葬る。其砌の住持職智短上人也、此上人は家康公御幼少の砌、御手跡の師也と云、其弟子文慶は御手習御朋友也。右智短遷化の後、此文慶和尚を被2召出1、駿州狐ヶ崎に於て一宇御建立有て、華陽院と号し、智短の開基として文慶上人住持す。然るに今三州鳳来寺及び同国の山中法蔵寺に、源君御幼少の御手習道具有て、乱世の時節少将松智源院滅卻の砌、此寺へうばひ取来りたるものか。
但し清康卿の御前室は松平弾正富安の女也、其後室は青木筑前定景の女、此御腹に宏忠卿出誕し給ふ。其次の御室、大河内氏の女お富の御方也。此御腹に松平源次郎信康出誕、御女子酒井左衛門忠次の室。

○源君の御母堂広忠卿の御奥方伝通院殿の伝
東照宮の御母堂は、水野右衛門大夫忠政の女にて、先に云お富の御方の御腹、広忠卿の行合御兄弟と申せども、実は青木加賀守式宗の男政信の女也。水野忠政は伯母聟たるにより、実は其始よりお富の方にも養女也。後水野氏歿後、お富の方清康卿へ御再縁、御嫡子御先室の御腹御出誕の広忠卿御めとり、源君を産給ふ。其後ゆへ有て、広忠卿此お大の御方を御離縁有て、又久松佐渡守へ御再嫁有、三男三女を産し給ふ。慶長壬寅の年八月廿九日御卒去、御年七十五歳、関東小石川宗慶寺へ葬り奉る。則源君より紫量山伝通院寿経寺と号せられ、御寄附御寺領五百石と云。
一、お大の御方、後広忠公の御奥方は、平原権之丞正次の女也、此腹に二女産し給ふ、則御一人は荒川甲斐守頼持に嫁す、今御一人は松平上総介康忠に嫁せらる。
一、其後御奥方と申は、戸田弾正少輔康元の女也、此御腹に女子一人有、一場殿と申御方也。

○岡崎三郎信康公の御母堂 源君の御奥方築山殿の伝
御嫡子岡崎三郎信康公の御母堂は、駿州の太守今川治部大夫源義元の養女びして、則氏真の御妹分也、実父は同国瀬名の郷主関口刑部大輔氏縁の女也、今川関口従弟なりと云。築山殿と申奉る。生得悪質嫉妬深き御人也、源君の奥方にして、永禄二己未三月六日、三州岡崎の御城にて御嫡三郎信康公を産せ給ふ、御童名竹千代君と申。猶後年庚申三月、亀姫君を産し給ふ、此姫後に信長卿の御吹挙にて、奥平九八郎信昌(後美作守)室とならせ給ふ、則嫡子大膳大夫家昌を初、松平左京大夫家治・松平摂津守忠政・菅沼氏猶子。松平下総守忠明(是則長沢家也)等を産し給ふ。此御母堂後に加納殿と申、濃州加納に御住居也、寛永二乙未五月廿七日御卒去、法名盛徳院香林慈春大姉と号。
一、岡崎三郎殿は、元亀元年午八月廿八日、御行年十二歳にて、織田信長卿の許にして御元服有て、信長卿の諱の一字を被2加へ1、御父家康公の御一字を兼られ、信康と号し奉る。御先代清康公・広忠公迄の御代々の御家名を以、岡崎三郎と号し奉る、此三郎殿、御代々に勝れ給ひ、甚武備を好給ふ。同二年辛未五月廿七日、信長卿の御息女を以三郎殿へ御縁組有、則浜松の城にて御婚礼有て、御女子二方を産し給ふ。後年御嫡女は小笠原兵部大輔秀政の室、御次女は本多忠勝の御嫡子美濃守忠政の室也。然るに三郎殿の御母堂築山殿、ゆへ有て讒言有により、奥方(信長の御息女)と御中悪敷、御離縁有、其うへ信康公甲州武田勝頼へ御内通有の由聞え有に依て、源君御怒り有て、天正六年戊寅十月十五日、大久保七郎右衛門忠世、三郎殿を御供申、遠州二股の城に於て三郎殿御生害有、御年廿一歳、検使として天方山城、御介錯は服部半蔵正成也、遠州二股清龍寺に葬り奉る、清龍院殿遠岩善通大居士。依レ之築山殿にも天正十年卯八月廿九日、遠州浜松の城にて御生害、検使石川太郎左衛門、介錯岡本平左衛門也。後年信康公百年忌之節、延宝六年九月将軍家綱公鈞命に依て、御寺領御加増、御朱印高八十八石と云。
一、其先信長卿、源君の臣酒井左衛門尉忠次を召て、三郎信康殿に十二の罪即聞、十罪皆信也、未二罪を問ふに不レ及、則酒井を以源君に告て曰く、信康の心邪行也、家を立る事不レ能、殺さずんば不レ可レ有と云々、酒井是を聞て帰城するに、岡崎をすぐ通りにして、信康卿へ対顔せずして浜松に至る。
一、信康卿信長の殺さん事を知て、父と国の為に殺されん事は厭ふべからずと、居ながらに罪を待給ふと有。
酒井左衛門浜松に至て、事を源君に告て曰く、右の仔細逐一也。源君の仰に、宜哉信長の彼を殺さんと欲る事、去る八月四日信康を逐て大浜に行しむるの時、平岩七之助親吉(信康公の臣)がいわく、率爾に信康公を殺し給はゞ後悔有ん、我侍と成て教る事不レ能、爰に至れり、我罪大なり、我が首を刎て信長へ献ぜられよ、信長いかで一女の聟の好身を忘れんや、或は憤を止る事あらんと云。神君信長の命に背かざるがゆへに、平岩が言葉を聞不レ届、同九日二股城に入られて大久保忠世に預らる。猶八月廿九日村越茂助を検使として、築山殿を害せしむ、信長憤りいまださめず、信康卿の害心未たいらかならず、故に九月十五日信康卿を殺さしむ。
築山殿の妹聟は牟礼壱岐守と云、源君の御相聟也。壱岐守の男郷右衛門勝重、其子郷右衛門勝成、始て後年東照宮へ仕へ奉る、御使者を勤。其子萬五郎勝正、台徳院殿へ仕へ奉り、同御使番を勤めり、後故有て蒙2御勘気1其子又五郎、後遠江と号、其継関右衛門、御船方を勤、萬五郎孫弥大夫稲葉丹後守方へ従仕すと云。

○越前家の祖 秀康卿の御母堂小督局の伝
一、小督の局、後長勝院殿と申奉る、其父は池鯉鮒の住永見志摩守の女也、其始の名お萬の方と云。
一説に、大坂の住人村田意竹の娘也と云、意竹の男清右衛門、後年越前家へ被�召出�千石を給り、村田信濃と云。
其始お萬の方懐妊有しに、奥方築山殿嫉妬ふかき故、お萬の方を赤はだかになし、庭の樹木にしばりおかれしに、其ころ本田作左衛門重次御留守居在番たり、夜中女のなげく声聞ゆ、あやしみ尋得て、彼女を助け縄をときて、様子を聞得て、夫より則浜松の城下富見村に於て、天正二甲戌年二月八日出産す。ふた子にて、御一人は御即死、残る御一人は於義丸殿、後に云結城家、今越前の祖秀康卿是也、御幼年の間は、暫く御対顔なかりしと云。お萬の方後小督の局と申、元和五年十一月六日御卒去、越前北ノ荘に於て、御年七十二歳、法名長勝院殿、則敦賀顕教寺に葬り奉る。
越前家の伝に云、御母堂お萬の方懐妊の上、遠州浜松にて源君の命にそむかれ、俄に城内より出で、本多豊後守の家士本多半右衛門伯母の元に往く、半右衛門伯母は源君御幼少之砌奉2仕へ1表使番を勤む。浜松城下に休息所有、お萬の方其家に至り、今宵出奔せし事を云、早速城内へ帰られよとせいす、是に不レ従して死なんとす、おどろき翌朝登城して様子を伺ひしに、御咎もなし、依てわづか町家卅日居住、爰に於て雙子出産、お萬の方廿八歳と云、御疑ひの事有、御懐衣を医者慶仲に見せしむ、則葵の御紋有、本多半右衛門是を持参、本多作左衛門重次、誠是御子に無レ紛旨再三申、伺レ之に、岡崎信康卿の仰に、我当希に弟を求を以、重次に預ると有レ之。

○越前の祖 結城秀康卿の御奥方の伝
一、結城七郎朝光(右大将頼朝の三男也)より十九代、結城家左衛門督晴朝、元祖より数代下野の国結城の城邑拾万千石を領せらる。其頃相州小田原の北条氏政より、関東大方切したがへ、幕下に従ふ。天正十八年四月太閤秀吉公北条氏政を退治の砌、兼て志を通じ、一番にはせ参じて、北条持の城を責落し、御味方比類なくにより、本領安堵なりし。然るに晴朝に嗣子なく、秀吉公へ歎き被レ申る、依レ之則源君の御子三河守秀康卿を太閤の猶子として、結城晴朝にたまふ。則類葉の内江戸対馬守が娘を養ひ、是を秀康卿へ嫁せしめ、晴朝は閑居有。関東乱の治平後、秀康卿へ越前一国を賜り、国替有により、代々の結城を捨て越前へうつります。秀康卿に御男子六人有、成長に従ひ哀憐深し、是により結城氏を継しめ、結城五郎八と号し、代々の重器等を与ふ。後に松平大和守殿直矩と申也。晴朝は秀康卿より長命にして、後年慶長十九年甲寅の七月八十一歳、越前にて卒去有しと云。

玉輿記 二 (一部)

○紀伊頼宣卿、水戸頼房卿 御母堂養珠院殿伝系
一、頼宣卿・頼房卿は御同胞にて、御母堂は初の名於萬の方と称し、後蔭山殿と号す、父は安房の国の汰守里見忠吉一族、上総大喜多の城主正木左近大夫邦時入道寛斎が娘也。邦時は東国乱の時打亡さるゝ、後寛斎が妻は北条左衛門尉氏尭女也、男女二人連て蔭山長門守氏房へ再縁す。 一説に、お萬の方母儀寛斎が妻は遊女にて、名を桐と云、後に蔭山へ再縁して、お萬の方、庄兵衛を連て行と有、此説偽りならんか、正木家は既に北条家の息女と云伝へり。右連子お萬の方、神君へ被2召出1、慶長七年壬寅三月七日、頼宣卿を産せり、御幼名長福君と称す、是は御伯父松平隠岐守定勝の幼名なりし所、定勝勇名に似給ふべしとの公命によりて、定勝より授けたり。紀州家代々御嫡子御幼名に長福君と称し来る事、此故より始れり、後に常陸介と称し、従三位権大納言に至り給へり。お萬の方と同じ連子成し御弟庄兵衛、此由緒を以被2召出1、蔭山因幡守将春と号す。然るに神君其由緒を以御聞届の上、正木と三浦とは先祖同類たるに依て、三浦を称号とすべしと仰を蒙り、三男を三浦長門守と改め、段々御取立にて三万石領し、紀州の老臣に列し、安藤帯刀直次・水野対馬守重長と同役たり。然るに慶長八年癸卯八月十日、駿府城に於て頼房卿御出生、御幼名鶴千代君と号し、是は太田新六郎康資の娘お勝の方、後英勝院殿と称す、此お勝の方の養子と成給ふ。頼房卿後徳川左衛門督中納言に至り給ふ。お萬の方、神君薨御後、養珠院と称し、承応ニ年癸巳八月廿二日死去、則養珠院殿妙紹日心大姉と号す、池上本門寺に葬れり、則紀州若山に一宇建立有て、養珠寺と号す。
一、正木家の事は、扇が谷上杉為朝の次男弾正少弼高救は、三浦時高養子と成、家督相続の所、実父為朝の嫡子早世に依て、扇が谷相続すべき者なきにより、嫡子義同に三浦家を相続させて、身は扇が谷に帰り、上杉家相続す、依レ之三浦高救とも上杉高救共云へり。扨高救の次男弾正少弼義時、上杉家相続の所、上杉家段々衰るに付、房州は上杉家の領国ゆへ、安房国へ来住して正木弾正少弼義時と号しけるより、終に里見家の幕下となり、依て国府の台にて里見取合の時、弾正力戦して終に打死してけり。其子大膳亮高時、正木家を相続す、是は義時が兄三浦義同が次男也、実父義同は入道して道寸と号し、小田原の北条といどみ戦ひ、終に打負自害し、其子荒次郎義意も打死す、爰に於て三浦家亡びたり。其後北条■中にて荒次郎が幽霊に逢ひ、矢を射らるゝと云説有、是は此正木大膳亮時縄が実父、兄の怨を報ぜんと密に射たる也。正木大膳に二男有、嫡子太郎時義、後は大膳亮と号し、大喜多城五万石領す、次男八郎時宗、後に左近と号、勝浦五万石を領分す。嫡子時義の男大膳亮憲時男子なし、里見義安が叔父の聟里見左馬頭義瀬が二男を養子として家を譲る、是を大膳亮時音と号す。里見義康・同忠義に従し、勝浦に住居す。忠義没収して伯州に移し時は、駿河に在住するといへども、申上、伯州へ参り、是は宮内少輔へ御預也。元和ニ年丙辰五月御免にて江戸へ出る、ニ百俵給はりて、汝事、此度松平宮内少輔光政伯耆国を給はり引移に付、罷越相勤べきよしを被2仰付1処に、子孫陪臣ならん事をかなしみ、御免を乞、上意違背を御咎有て、松平新次郎へ御預也。可レ参由被2仰渡1、無2是非1罷越、新次郎へ念頃にして可2相務1由にて、上意難レ背、終に新次郎へ仕へて病死す、子二人有。此憤り有に付、父死後暇を取り江戸に有て、直勤の事を願ひしかども不2相叶1、采女介忠喜は永の浪人して病死す、次男伝左衛門時俊も、後年松平丹後守康長方へ扶持せられ、大久保加賀守忠職方より、外縁の末也、此方へ可レ参由にて、夫より大久保方へ参る、子孫今に勤仕す。三男甚之允、新太郎家に残り、今に備前に勤仕せり。

水野監物直元の相聟水野三右衛門信英、初水野忠元家老にて羽郷源左衛門と云有、此養子に参しに、源左衛門実子八助出生故、願を立別家と成る、千石を領し、其子三郎右衛門元貞、其子三郎右衛門元武、其子治部右衛門也。此三代之内、兄弟別々に家を立勤仕す、其内三浦軍次は水野兵九郎信久次男也。然るに寛永十八年辛巳五月十二日、三浦長門守為春入道貞蔭の外曾孫水野監物忠吉嫡子出生の時、入道長命の寿にあやかり可レ申とて、出生の子権五郎忠春と名づく、是は三浦の先祖鎌倉権五郎景政が武勇を賞して名附し也、後右衛門大夫忠春と云し是也。忠春の嫡子も権五郎忠直と号す、然るに延宝四年丙辰正月十日、十六歳にて早世す、依て是より後権五郎名を忌無レ用と也。養珠院殿は舎弟正木庄兵衛、後に三浦長門守為春、入道して定環と号す、紀伊瀬宣卿長臣と成り、一萬五千石領し、其子長門守時春、其子長門守為時、其子遠江守為隆、後長門守と改む。実父正木左近大夫邦時の嫡子次男両人共に被2召出1、嫡子正木左近康長へ七百石を賜り、寄合の列なり。其次正木甚五兵衛康可、其男甚五兵衛康重、其次平左衛門康長、其次甚十郎、但し三浦家也。先祖正木大膳亮時義次男左近時忠子孫は、前書に有レ之通、子孫住所所々に分散せり、御家へ正木與市家も此支配也。

養珠院殿養父は、蔭山長門守氏広と号す、其祖先は足利左兵衛督時氏末子五代也。氏広の男蔭山因幡守定広、神君御側小姓に被2召出1、其子六左衛門、其子数馬千二百石両し、小十人頭勤め、又下田奉行相-2勤之1。此弟蔭山外記、甲府綱重卿へ奉仕、其子外記二百石遺跡相続す、享保二年酉二月小普請に入と云々。

○水戸頼房卿御母堂 英勝院殿御由緒
一、英勝院殿(幼名おはち、後お勝と称す。)父太田新六郎康資入道三楽斎なり。お八の方、神君御寵愛たりといへども、御子なきにより、命に依て水戸頼房卿を養子にし給ふ、(頼房卿・紀伊頼宣卿とは御同腹也、養珠院殿御子也。)英勝院殿実は江戸但馬守女也。東照宮命に依て、太田新六郎養女として御側に奉仕、御寵愛なり、後に松平右衛門大夫正綱へ被レ下、妻と成、然れども正綱を嫌ふ、一月計過て神君被2聞召1、御取返し有しと也、法名英勝院殿長誉清春大姉と号す、武田瑞勝寺に葬す。鎌倉の扇が谷に一宇建立有て、英勝寺と号す。

○大猷院殿御母堂 崇源院殿の伝系
一、崇源院殿は、北近江浅井備前守長政の息女也。元亀二庚午年、浅井備前守長政、越前の朝倉義景に同意し、信長の為に亡さる。長政の妻(信長の妹小谷の方)息女三人を連て、柴田勝家に再縁せられ、天正十一年勝家も又秀吉の為に滅亡す、勝家自害の時、中村に命じ、小谷の方自害介錯して、天守に火をかけよとの儀に応ず。其時文荷斎心得にて、三人の息女を逃去しめ、遥の谷に遺し置けり、秀吉卿是を聞て、急ぎ是を安土に送り入、後に嫡女は秀吉の妾とす。(秀頼の御母堂淀殿也。)二女は京極若狭守高次の室、三女は尾張大野城佐治與九郎一成妻女とす。(五萬石領す、佐治八郎信方の七男、母は織田信長の妹也。)然るに信長の弟織田三之助信包の長臣に津田左近将監直政、故有て佐治八郎信方を殺害せしむといへども、其子與九郎一成は猶信包に従ひ、大野ノ城に居住の所に、天正十二年申四月上旬に小牧一戦の後、神君三河へ御帰城の路次、尾州さやの渡しにて乗船なく、終に難儀に及ばんの時、與九郎一成進んで乗船を出し、事故なく渡し奉る。神君御感悦の所に、此事秀吉公被2聞及1甚だ立腹して、淀殿病気と称して使者を遣し、與九郎妻を(淀殿の妹也。)迎へ給ふ、且又秀吉宣ふには、佐治八郎は相聟に不足なりとて、彼妻を留置て終に不レ返。與九郎是を侮るといへども、すべき様なく髪落し、清哉入道と名を改め居たり。彼妻を秀吉公養女として、丹波の少将秀勝(信長の四男也。)に嫁せられたり、然るに文禄元辰年、高麗の役にて彼地に於て秀勝病死す、依てやもめとなり居られしを、秀吉公又養女として九条左大臣道房卿へ嫁られ、九条の政所と称せらる、御息女二人産し給ふ。後に台徳院殿様御養女として、二人共東西御門跡へ嫁らる。扨道房公逝去の後、政所を秀吉公養女として、文禄四年乙未九月十七日、台徳院公に嫁らる、是を世に大御台と称し、其後崇源院殿と奉レ号、男女七人産めり。

或説に、江州浅井家は物部の姓也、然るに淀殿守屋連の子孫といふ事を忌給ひ、藤原氏を称し給ふ。守屋仏像を難波の堀江に捨給ふにより、其子孫として、後の世の事おそれてや、石山寺を再建し、深く仏に帰し給ふとなん。浅井筑後守殺されたり、浅井長政天正癸酉九月に生害す、寛永九年壬申九月十五日、贈大納言、法名養源院殿正二位西相大英宗清居士と号、嫡女淀殿、法名大広院と称し、次女京極高次の室お初の方、法名常高院殿と号す。三女は大相国秀忠公御台所、名は江子、寛永三年丙寅九月十五日御逝去、法名崇源院殿正一品大夫昌誉和興仁清大禅尼と号し、三縁山増上寺に葬。

○天樹院殿御局 松坂の局伝系
一、松坂の局は兄弟三人有、一人は比丘尼御所と成、一人は紀州松平左京大夫頼純の実母、剃髪して浄心院と号す。一人は松坂の局也。此局初は天樹院殿の侍女にて、初名はちよほと云、其年頃は天樹院殿に一つをとり、大坂落城の時、木矢蔵飾尾二間に五間の所を三つに仕切、両方に秀頼公と淀殿、天樹院殿とを分け置、中の仕切に女中を込置く。其時淀殿、天樹院殿のふり袖を自分膝の下に敷、質に取給ふ心にて、少しも不レ離おわする所に、刑部卿の局の才覚にて、内より只今秀頼公御生害の様に名を呼ばれしかば、淀殿驚きあわてゝ、天樹院殿を不レ計放し、秀頼公の方へ欠入たる其隙に、刑部卿局御側女中、纔か三人計にて、此場を立退被レ成、岡山の御陣所へ逃れ給ふ。此時右のおちよほ、いかゞしてか御跡に下りて天樹院を見失ひ、漸々城中を落出で、或陣所へ赴く、それより御供して二条の御城に入、関東へ下向有、此趣おちよほ常に物語也。此由緒を以、後年迄則天樹院へ御奉公申、松坂の局と名を称せらる。然るに清楊院殿(甲府公。)は、大猷院公四十二の二つ子たる俗忌を避させられ、天樹院殿の御養子に被レ成、松坂の局御生立可レ申旨被2仰附1ゆへ、局の部やへ後々迄も毎度御入なされしと也。此時局の召仕ひの女中御気に入、御子文昭公を儲け奉りて、後此女中又間もなく懐胎して、御弘めもあまり敷、何も取計、公家侍などの筋目可レ然方へ賜ふべき沙汰にて、懐胎して五月の時、此女中を御家臣越智與右衛門へ被レ下けり、與右衛門方にて出生の男子、越智民部(後に従四位侍従松平右近将監清武と称す也。)なり。此産後気色重り、終に死去也。右女中の妹、天樹院殿へ奉公有しを、右出生の小児介抱の為とて、與右衛門へ被レ下、嫁して二人の娘出生す。右縁を以、與右衛門事、松坂の局の弟分也、其一跡を貰ひ、自分の高に合て都合三千石を領せし也。松坂の局は長命にて九十一歳にて死去、本荘石原妙源寺に葬る、墳墓有、越智家の菩提所也。

或説に、松坂の局は水野監物家人二本松左京義継が娘也。

○東福門院御母代 神尾一位の局の伝系
一、一位局(須和 阿茶。)は甲州侍飯田久左衛門女にて、駿州今川家の臣神尾孫兵衛久宗妻也。永禄三庚申五月十九日、久宗義元の供して討死す、後天正十年、神君信州御打入の節、女幼子猪之介を連て、黒駒に於て神君へ歎訴す。東照宮、其昔駿河に御座の時、御好みの事被2思召1出し、母子共に被2召連1、阿茶の局と称し近仕す。元和六庚申六月十八日、台徳公姫君深利子、後水尾帝の中宮に立て御入内、東福門と奉レ称。時に阿茶の局御母堂となり、従一位に叙せられけり、武江瀧徳山高厳寺建立有、死去の時、此の寺に葬る。寺領二十石、厳有院公御台所高厳院殿逝去の時、寺号改め雲光院と称し、此侍後に深川に移る。法名雲光院殿従一位尼公松誉大姉と号す。
一、舎弟飯田又左衛門、天正十年午三月十二日武田勝頼滅亡して、武田衆御家へ被2召出1時辞退し、成瀬隼人正一岳と入魂に付、尾州犬山与力に入る。
一、神尾孫兵衛男幼名猪之助、後神尾刑部少輔守世と称し、其次宮内少輔守清、其次五郎大夫某家領二千七百石を賜り、御書院番に入。其次五兵衛に至り、遺領の内五百を弟外記へ配分し、時に享保二年乙酉十一月廿五日、外記事無盡金出入之儀に付御詮議の時、外記初、五兵衛・弥五兵衛共に御改易也。
一、孫兵衛次男神尾備前守勝実は、松平周防守長臣岡田助右衛門男也、土屋式部少輔忠直と行合兄弟に付、忠直より一位の局申請、養子として、終に飯田久右衛門が聟に付、神尾氏を与ふ、其子若狭守紹元、其次播磨守、其次左兵衛二千五百石を賜ふ。神尾式部少輔守世次男弥右衛門、後に伊予守に任ず、千石を拝領す、其次兵部少輔守宗、千石之内三百石弟五郎兵衛へ配分す。神尾伊予弟神尾豊前守、其次利兵衛、その次弥五兵衛、此時に同姓外記出入の節、加判の列たるより御改易也。然るに弥五兵衛が妻は、御小姓組宮田勘四郎が妹也、勘四郎が母は天英院殿の御年寄に付て、御願申上、江戸御構ひ、下谷に閑居す。

玉輿記 三 (一部)

赤字は『捨て童子松平忠輝』(11p)で引用されている個所です。

○台徳院殿御母堂西郷の局 宝台院殿伝系
一、当時猿楽宝生太夫座付のみに、多御切米に自分判にて請取、御切米百五十俵は笠庄之介、当時同庄次郎と云、始は服部平大夫と云て伊賀の者也。其頃伊賀名張の城主を服部出羽守保景とて明智日向守が舅也。光秀叛逆の時は、家康公には泉州堺に被レ成2御座1候に付、平大夫早速馳参、此日堺の町人今井宗薫方へ茶湯にて御入故、罷越委細の儀申告る。大きに驚き給ひ、御評定の上、堺御立被レ成、伊賀越に参州へ御帰りあらんと、彼名張の城下御通り有度旨、城主服部出羽守は平大夫の一族也、被2仰入1しかども、猶御用心にて山路の間道を御通り、此路次御忍びなれば、平大夫笠蓑を奉るなり、是を被レ召て、御凌被レ成候。夫より平大夫を蓑笠之助と可レ改と被2仰付1、則進仕す。御治世に改りて、江戸将軍家へ参勤仕奉るべき旨仰有しかども、老年に罷成候故御免を願、其弟服部七右衛門に家督被2仰付1ける。其後七右衛門は青山図書之助と改号し、加判の列に加り一万石を賜り、経年将軍家へ被レ附奉仕、其後家督の儀に付退転す。当時其子孫纔に青山平八(父七右衛門と云。)とて西丸御番頭也、一年将軍家より青山伯耆守に被2仰付1、名字を被レ為レ送云々、残念成かな。
一、笠之助実子、嫡子は薩摩守忠吉卿へ仰付にて、服部忠右衛門と号す、其子孫、今に尾州家に勤仕す、二男・三男早世にて、四男平四郎には七右衛門に家督を譲り、後隠居領として賜る所百五十俵を譲る、是を二代目の蓑笠之助と号して、妻は彼西郷家の親類たる故なりと云々。此女台徳院様・忠吉卿御母堂也、此因みに付、笠之助が嫡子惣右衛門を忠吉公へ御付被レ成候也。
一、服部出羽守は明智滅亡に付流牢、江州北村へ蟄し、則北村と改め、其子孫常憲院様御代に松平美濃守吉保に便り、被2召出1度旨を願といへども、彼出羽守が子として伝来の者は、明智が幼息にて嫡孫のよしなれば、実父明智障りと成て不レ調、依レ之是非なく松平右近将監家老の某が子と成と云々。
一、笠之助本姓は服部にて、猿楽の列なるよしを尋ぬれば、観世太夫も本姓服部なれば、其以前親類ならんか、観世も元祖は服部観阿弥と云て、足利将軍義政公の同朋なり、其前服部某と云て楠正成が臣のよしなれば、笠之助にも先祖は武士といへども、其頃観阿弥抔と同敷猿楽にて有べし。世説に、笠之助は丹波の猿楽にて、領地は丹波に有といへり、庄次郎が家伝に丹波の領主の事を記さるよし。
一、青山図書之介成重、一万石賜り奉仕の所、後に家督の事に付、知行没収せられ、其子作十郎新規千石被レ下、大御番に入る、其子七右衛門二百石、都合千二百石、其子青山新七と云、服部宗右衛門子孫は今尾張家にあり。蓑笠之助隠居料百五十俵給はり、今蓑庄次郎、宝台院殿御舎弟戸塚四郎右衛門、右由緒を以、神君へ被2召出1、其子作右衛門千五百石を給り、其子半四郎、其次作十郎、其子兵九郎、此時弟へ三百石分地、其次甚右衛門千二百石、其男万五郎、其次五郎大夫、その次門五郎、享保三戌三月四日遺跡拝領、千二百石、時に四歳也。

○台徳院様御乳母大姥の伝系
一、御姥殿と申は、岡崎與惣兵衛貞綱妹にて、河村善右衛門妻也、善右衛門は今川義元の侍也、氏実没落後小田原に仕へ、神君御幼少より御存の者故被2召出1、天正七年乙卯五月、台徳院公御誕生の時、御乳付相勤、御介抱被2仰付1、大姥と呼給ふ、慶長十八年丑正月十六日於2江戸1死す。秀忠将軍御幼少の時より御介抱申、殊の外才人たる故、諸人是を惜しみと也、大姥殿の弟岡崎庄左衛門長綱も、初て東照宮へ奉仕、千二百石被レ下、其弟佐太郎、其次次郎兵衛、其次六郎右衛門、其次男某、庄左衛門末子七之助、慶長九年辰七月十七日、大猷院様御七夜の内被2召出1、御小姓務、元和八年死す。其次岡島土佐守千五百石、父の遺領拝領、諸役を勤め隠居後卒す、其子庄左衛門御役諸度相勤、二千石を領す。其男庄左衛門貞重、正徳元年初て御目見仕る、享保三戌年、知行の内三百石、同姓伊右衛門へ配分也。
一、河村善右衛門総領、天正年中被2召出1、岡部主水と号し、文禄年中二千石拝領、其男玄蕃、其子外記、其子久太郎、其男大太郎、二千石遺跡相続、正徳元卯年病気に依て小普請に入る。
一、善右衛門次男藤左衛門、其次内記、其男三右衛門、遺跡五百石を領し、御小姓組勤、延宝六年御加増五百石、御小姓組勤、同年五百石御加恩、新院附、筑後守と号、元禄十年卒す、其子三左衛門、父家督拝領、御小姓組勤。

○武田信吉卿母堂下山殿 長慶院殿由緒伝系
一、是は穴山越前守源虎康女(虎康又秋山氏と称す、源四郎と云人か。)、同族穴山陸奥守入道梅雪養女として神君へ送りて、万千代君を産り、依て万千代君を母の姓にして武田七郎信吉君と改号し、穴山梅雪の名跡を継しめ、初て甲州にて穴山信吉卿と称す。慶長八年癸卯九月十二日逝去、二十一歳也、無2嗣子1故に、御舎弟中納言頼房卿(水戸殿、童名鶴千代君後武田五郎と改。)穴山家領御相続也。

○信吉卿室家御由緒
一、木下若狭守少将勝俊の息女請給ひ娶られぬ、勝俊は京霊山長嘯子也、勝俊関ヶ原乱の時、伏見出城也、嵯峨に退隠す、信吉卿舅に定りて、江戸へ著府の事を被2仰遣1といへども、堅辞して歌を以て心底を申送て不レ被レ出、其後霊山に退隠して永く風雲を嘯く、此歌の意味有事、知る人甚感心す。

  • 身のうきは世の嵯峨なれや亀山の 石垣泥に尾を引まほし

其頃嵯峨に蟄居の折なれば、荘子の心よりなり、此時に被2召出1候へば、三四万石は可レ賜旨也と云々。長嘯子の一男萩雲平と号し、井伊掃部頭直孝に仕へて、子孫代々井伊家に従仕し、二百石を領せり。

○越後少将上総介忠輝卿御母堂於茶阿の方 朝光院殿御由緒伝系
一、朝光院の父は駿州金谷の人にて鋳物師也、然る所に同所島田の郷の者と、水掛り場に於て口論して、終に棒にて打殺さる、依て鋳物師の妻、娘おはちを連て三州吉良の郷へ来り居る、神君御鷹野の時、母子、夫父の敵を御詮議被レ下候様にと申上る。彼母子を上意にて駕篭に乗て岡崎城に帰御也、彼寡女御寵愛に依て男子二人を産す、松千代・辰千代君と号、双子也、松千代は御早世、辰千代君は後二十五万石を領し、上総介左少将忠輝卿と号す。其後おはちは鈞命に依て花井遠江守に嫁す、遠江守は御由緒に付、忠輝卿臣下に被レ附、越後糸魚川の城主と成り、三万石を領す。又おはち従弟井伊兵部少輔家士長谷川八郎右衛門は、おはちが父の敵山田氏を鉄砲にて打殺す故、八郎右衛門も忠輝卿被2召出1、又忠輝卿の家臣木全刑部は長谷川氏の支配也、依てお茶阿の方未離縁せざる以前の子、兄は喜八郎、弟は又八郎、両人ともに木全刑部養子と成て、忠輝卿小姓に被2召出1。花井遠江守は唐人八宦が子にて、謡鼓に達し猿楽の列也、初は三九郎と云、神君の御小姓に被2召出1、五百石被レ下、段々立身して上総介殿に被レ附、長臣の列に入、御筋目有レ之、よつて隠居料として五千石、忠輝卿より被レ下レ之。其子主水正奢侈悪逆故、忠輝卿の家を乱すに付、酒井雅楽頭に御預、主水が弟左衛門は古河の城主土井大炊頭利勝に被レ預、終に下人と成、松下左門と改号す。本荘因幡守微少の時、因幡守が妹を妻とす、土井周防守代に出奔す、其後因幡守口入にて加賀家へ勤仕す、然るに左門が子、暴悪を振廻ふ故、老中より因幡守へ内意有レ之に付、密に招き客として置といへども、加賀家より扶持給る者、一旦の届もなく我意の由不興ゆへ、加賀に押返さる、其後左門事、十日ほど過て頓死す。次男は本多中務大輔に勤仕す。お茶阿の方、元和辛酉年六月三日卒す、法名朝光院貞誉宗慶大姉と号す、江武吉水に一宇建て宗慶寺と称す。松千代君は慶長四年乙亥正月六日に早世す、辰千代君は後に従四位下上総介忠輝卿と号す、此人素行行跡実相強、騎射人に勝れ、両腕自然に三鱗有り、水練の妙神に通ず、故淵川に入て蛇竜、山谷に入て鬼魅を求め、剣術絶倫化現の人也、元和壬辰年浜松の城に産る、慶長十年巳四月六日、左近衛権少将に任、従四位下に叙し、越後国の地に及び、信州川中島都合五十四万石を賜り、越後高田居城と成る、同十九年大坂御陣の時は江戸御留守、元和三乙卯年大坂再乱の時、大坂へ内通の志の沙汰有、叉は御陣の間に不レ合、依て家康公の鈞命有て、九鬼長門守に仰て、忠輝卿勢州朝熊へ流罪也、秀忠公御世に金森出雲守重頼承て飛騨の高山へ配流、其後諏訪安芸守承て信州諏訪に遠流、天和三癸亥年七月三日九十五歳にて卒去、御法名寂林院殿羽林誉輝窓月大居士と申す。忠輝卿御男徳松君、元和ニ丙辰七月三日、父流罪の時、武州岩槻の城に於て自害、時に十八歳。
一、忠輝卿の姉、同腹の種おはち、花井遠江守妻と成て、花井主水正忠義二万六千石領し、長臣たり、此者我意多く、忠輝卿御糾明の時、安西牛之亮と対決の上、元和ニ丙辰年六月二十三日に、松平丹波守に御預け、笠間に於て自害す。

或説に、酒井雅楽頭へ被レ預、厩橋にて死去すと云々、主水弟松平左門義賢、一万石を領し、松平の称号を給ひしが、忠輝卿配流の時、土井大炊頭利勝に被レ預、古河へ移り、後に免許を蒙りて松下左門と改、土井の臣と成、其子左門、因幡守利益代に家を立退て、加賀宰相より二百人扶持の合力を請て主水と改、時に一子内匠不行跡に付、本荘因幡守招て生害に及んとす、此事に付、加賀家を暇取其後預死す。次男は本多中務大輔正民臣大尾小隼人の養子と成、松平左門が弟遠江守・三男花井右衛門と号す、台徳院様へ奉仕、五千石領す、然るに忠輝卿落去の時御暇被レ下、幽斎入道と号す。其子彦右衛門浪人にて何方へも不レ務、其子花井半介、松平土佐守へ勤仕す、八百五十石領して留主居役勤む、其弟青沼斎宮と号し、青沼宇八郎養子と成、家督三百石領し小普請に入る。

○尾張大納言義直卿御母堂 相応院殿伝系
一、義直卿の御母堂は於亀の方と称し、其父清水甲斐守藤原宗清、落陽石清水八幡の神職の者也、於亀の方、神君へ奉レ仕、御懐妊の事有に付、神君御尋有けるは、汝の祖はいかにと被レ仰候時、石清水の修験と申上る、然らば産前は尋るとも、先祖の噺を堅くする事なかれ、隠密にして早還俗をさすべし、其内には髪も延び侍らんと有けり。其内お産有、時に慶長五庚子年十二月二十八日也、御幼名は千代君と申、後に神君仰に曰、城郭櫓井楼の石垣壁にも、大石巨石を積重るには、草尾に五郎太石を以てせざれば不2相叶1事也、其ごとくに天下の草尾は此子也、仍て五郎太丸と称すべしとの御事にて、御寵愛不レ浅、故に今以尾州家は、御嫡子は代々五郎太丸と称し来れり、初徳川右兵衛督に任じ、後大納言に至給ふ。於亀の方御父、其髪延て結れけるよし、密に神君へ申上られければ、然らば清水八右衛門と名を改め、若党一人・草履取一人・挟箱一人・道具持一人・主従五人にて御旗本の風俗にして、老中本多佐渡守正信宅へ行、兼て近臣の体に持なし可レ参との御事也、上意に任せ、八右衛門、老中佐渡守玄関へ上り、御用の儀有レ之申入ければ、佐渡守申は追付登城すべし、大手にて待合すべし、それより同道して、御城の御玄関より御徒目付芙蓉の間迄、老中列座、佐渡守上意を伝て曰く、八右衛門事は五郎太殿御由緒有レ之に依て三千石を賜ふ、且従五位下に叙し加賀守に任ぜらる、今其子孫相続て尾州の臣下と成。於亀の方は其先竹腰定右衛門と云者の妻にして、嫡子竹腰伝次郎出生後、定右衛門死す。後に神君被2召仕1、御側女と成て義直卿を産し奉る故、伝次郎は同腹の御兄弟也、仍て伝次郎御側小姓に被2召出1、後は五郎太丸殿の御側小姓と成。義直卿四歳の時、慶長八癸未年正月二十八日初て甲斐国二十五万石の地に補られ給ふ、東照宮の仰に曰く、尾州・紀州(此時は芸州也。)両家は鳥の羽翼のごとく、将軍家の補佐すべしと有て、御三家と称せり、其後頼房卿出生まし/\て水戸殿也、是准三家といへり。然に義直卿御舎兄清洲中将松平薩摩守忠吉卿、此年閏四月二十六日、御年二十八歳にて御逝去也、未御子なきゆへ、御名跡として義直卿すぐに御家領御相続有て、清洲の城へ移らせられ、六十万石御領有、忠吉公の御家臣悉く附従ふ。時に竹腰山城、従五位下に任じ、三万石拝領、扨叉成瀬半右衛門正成も隼人正に任じ、是も三万石拝領し、共に老臣と成る、於亀の方は神君薨御の後、剃髪して相応尼と称せり。寛永十九年壬午九月五日、尾州名護屋に於て御逝去也、時に七十四歳也、御法名相応院殿信誉公安大姉と号し、尾陽に於て一宇建立し、妙亀山相応寺と号し、寺領三百石御寄附也。

或説に、竹腰正安は金森の類葉也、土岐源氏の一族なり。
一説に、正安は斉藤が家族也、梅輪内は金森の紋所、又曰、斉藤代々天満宮を信心し、故に梅ばちを紋所とす、竹腰は一族故、紋所を贈ると云々。

玉輿記 五 (一部)

○会津中将正之卿御母堂
一、台徳院殿(将軍秀忠公。)の御末男保科肥後守正之卿の御母堂は、武州板橋郷竹村の大工の娘にて、父は貧窮なれば奉公かせぎに出せしに、不レ計御城内下女奉公相勤、夫より奥女中の召仕と成りしに、将軍家の御目に留り懐妊し、然るに御台所は江州浅井長政の息女にて、則太閤秀吉公の御養女分、なを秀吉公の妾淀殿の御妹也。此御腹に御男子御三方・姫五方御出生、則是三代目の大樹家光公・長松君(早世)・駿河の大納言忠長卿等也。此御母御台所常に御嫉妬深く、大樹にも其思召有しに、不レ計懐妊有し此女中、始の名お静の方と号、右のごとく御台所の御いかりを恐れ、其前東照宮の御側女中たりし信勝院比丘尼と申せしは、武田信玄の御娘也、此信勝院殿方へ密にお静の方を御預り有て是を介抱し、安達郡(武州)大間木村へ立のかれ、此所に於て慶長十六亥年五月七日に幸松君を産し奉る。然るに保科弾正正光養子となし奉る、是保科氏も武田家の侍にて、常に信勝院殿へ御懇意に出入有りしにより、斯の仕儀に及べりと。其後大猷院公の御吹挙にて、幸松君会津の城主二十万石を領し、従四位上左近衛中将に被レ任、大老職と成、寛文十二年十二月卒去、江城の南箕田の臺御屋敷にて六十一歳と云。(信勝院殿は神君の御八男信吉卿の御母堂の事也)。お静の方、後に浄光院殿と申、奥州会津に法花の道場一宇建立、御朱印百石御寄付有。

○大猷院殿家光公御乳母分 春日の局の伝系
一、春日局、父は斉藤内蔵介利三(明智日向守の家老)の娘也、内蔵介明智の乱に山崎合戦に、先登にすゝみ相戦ふといへども、敗北して其場を立退、大津の駅にて生捕れ、粟田口に磔罪せらる。嫡子の斉藤伊豆、此時十六歳、父と共に山崎合戦先陣たり、味方敗北すといへども、手勢三千を以苦戦し、構への川降続たるに水増るといへども、すゝんで乗込、織田の信孝の臣と引組、川中へ落、終に其首を得たり。此間父に行別れ、方々沈落して、菩提寺へ赴き出家し、入道立本と号、父のしかばねを盗取、葬りて後、丹後田辺に赴き、細川忠興に内縁有を以て密に介抱せられ、猶細川より助命を乞、預る所に、従弟の卿意と云者野心を挟訴るに付、墓所にて鉄火を取、其難をのがる。其後太閤大政所の御願にて、秀吉公助命有て、朝鮮陣の砌加藤清正に給はり召具し、彼地にて先登して高名有、猶其後妹春日の局関東へ被2召出1、此縁によりて寛永六巳年被2召出1、本名斉藤伊豆守に立返り、三千石拝領、同七年大組鉄砲頭を勤、佐渡守と改。(老中松平伊豆守信綱に差合申により。)其妹女(春日局の事也。)山崎合戦後親兄弟に別れ幼年にて流浪して京都に住す、折柄小早川金吾秀秋の浪人稲葉佐渡守正成(始名林八右衛門、先妻稲葉道安。)の後妻と成、二子を産り、是正勝、正利也、然るに故有て春日の局被2召出1、其頃三代目将軍家光公御誕生、則御乳母分と成て三千石拝領す。猶夫佐渡守も御家人に被2召出1、内匠頭と改、(本多佐渡守正信同名たるにより。)其後越前少将忠昌卿へ御附人に成、其家士永見氏が娘を妻とする、一男を生ず。然るに此妻死去有て後、春日局迄願を立て、幕府へ又被2召出1、松平土佐守忠義の妹を娶り、又男子出生、局の縁を以、何も子共繁栄有。時に寛永二十年九月十四日、春日の局卒去、麟祥殿と号、武江神田湯島の地に菩提寺建立有、天沢寺と号、御朱印三百石御寄附被レ下。(忝も将軍家光公此寺へ御成有て御焼香被レ下しと云。)
一、春日の局弟斉藤助右衛門は加藤清正に仕へ、其後小早川秀秋に仕へ、故有て稲葉氏同前に其家を立退き浪人たり。然るに元和卯年姉局の縁を以て被2召出1、二千石拝領、同年大坂陣に向、辻弥兵衛を討取、同九年御持筒頭を相勤め、家光公御上洛の供奉し、唐の頭の対の御長柄を給はる、末代家の宝とす。其子左近、幼少より仕へ奉り、小姓組御番頭を勤、時に飛騨守三千石御加恩にて、其子宮内(後飛騨守。)常憲院殿の御代に千石御加恩、都合六千石領せらる。
一、稲葉佐渡守正成の前妻(稲葉兵庫重道の娘也。)の腹に出生の子を稲葉八右衛門正次と云、実は佐渡守兄の新九郎が胤を有ながら、其妻女正成へ再縁有し也、実は甥也、後年春日の局の執成しを以被2召出1、五千石拝領、其後尾州義直卿へ仕へ奉る。
一、佐渡守正成召仕ふ女の腹に出生の娘有、是を金吾秀秋家に仕へ申砌、同家士堀田勘左衛門正時の妻となす、稲葉氏と同事、秀秋の国を立退浪人たり。是以春日の局執成を以被Ⅱ召出Ⅰ、其始七百石拝領、其子権六正盛は家光公御小姓勤、段々立身して、佐倉の十四万石を領し、家光公(大猷院殿。)薨去後殉死す。其子上野介正信家督相続後、万治三庚子年十月八日、佐倉を立退き、一通を奉レ献、此儀に付脇坂淡路守安政へ御預、又重て酒井修理大夫へ御預、又松平阿波守へ御預の処、厳有院殿薨去承りて殉死す、其子帯刀へ預給ひ、領地没収の砌、一万石被レ下也。
一、堀田正盛の三男上野介には、弟久太郎正俊、後備中守又筑前守と改、其始春日局自身拝領の化粧料三千石を譲り養子とす、父の配分一万石、御加増五万石被レ下、安中の城主と成、若年寄の列に入、段々御取立、大老職と成て下総古河の城十三万石領す、然るに貞享元年子八月殿中にて、稲葉石見守正休に害せらる、其子下総守正仲相続。
一、稲葉正成の男正勝は、其母春日の局にて、則家光公御乳兄弟と号し、別に五千石給はる、父正成の遺領拝領して、猶其後加恩有て相州小田原の城主と成、八万五千石を領す。其弟内記正利は駿河大納言忠長卿へ御附人と成、然るに忠長卿御生害の砌、正利を細川家へ御預け也。正勝の嫡子美濃守正則幼少にて家督相続に付、斉藤利光(母方の伯父、即春日の局の舎弟也。)後見す、後に御老中相勤、追て御加恩有て十一万三千石と成。其子丹後守正通、部屋住の寺社奉行、家督の後京都諸司代相勤、後年御免、小田原より越後高田へ移り、数年の間蟄居の処に、尊大母桂昌院殿、春日の局の旧功を被2思召1、頻に執逹有、江戸大留主居と成再勤、其後御老中と成、隠居有て内匠頭と号、嫡子は宇右衛門正知、後丹後守と号。
一、正成の末子は伊勢守正能、母は松平土佐守忠義の姉也、春日の局の継子也、則申立て新に五千石拝領、御書院番頭を勤、駿府在番の内、家人安藤甚五右衛門・松永喜内、其主伊勢守を密に害す、其始色々と陳謝す、諸役人糾問すれども不レ落、然る所息権之介幼少たりといへども、一言の道理を以て忽落し也、則死罪に行ふたり。権之介正休相続して石見守と改、新地五千石拝領、番頭を勤、其後御加恩にて一万二千石と成、若年寄を勤め、故有て貞享元甲子年八月二十八日、於2殿中1彼堀田筑前守正俊(時の大老。)を害す、依レ之各立寄、石見守も害せらる、時に四十五歳と云。

○大猷院殿家光公の御台所 中の丸殿本理院殿と号
一、中の丸殿、御父は鷹司左府信房公の御姫也、寛永二乙丑年八月九日御台所と号し奉る、御祝賀、御年二十四歳と云、大猷公の会津(◎此間恐クハ脱文アラン、)中の丸と称し、不幸にして空敷月日を送らせらる。大猷公薨去の後御剃髪、延宝二寅年六月八日、七十三歳にて御逝去、伝通院に葬り奉る。
一、御養女甲府綱重公の御簾中、則中納言綱豊卿の御養母、実は近衛殿の姫君也、此姫の御姪君綱豊卿の御簾中也。
一、中の丸殿御弟信平卿、右の由緒を以て将軍家従仕あり、松平左兵衛督と号し、采地五千石を賜ふ、従四位権少将たり、大猷院殿・厳有院殿・常憲院三代に仕へ、延宝二寅年九月加恩二千石。其子左兵衛督信正、元禄二巳年十二月家督、七千石拝領。其嫡子越前守信清、元禄四年二月、継2父遺跡1七千石を請る、時にわづか三歳也、同十六年従四位侍従に任ず、宝永六丑年四月六日、文昭院殿の御代と成、三千石御加増有て、都合一万石拝領、是常憲公の御台所浄光院殿の思召を以てなりと云。

○常憲院殿の御台所浄光院殿の伝
一、常憲公の御台所は、鷹司関白房輔公の御妹君なり、寛文四辰年十月御迎として、大久保和泉守忠朝・天野弥治右衛門忠茂上洛す、同十一月九日と云に御入輿、延宝八庚申年八月十七日御台成り、宝永六丑年正月十日、常憲公薨去後御剃髪有、同二月九日逝去、法名浄光院贈従一位と有、委敷は日光邯鄲枕に有。

○大猷公の御二男甲府綱重公の御母堂 お夏の方
一、甲府綱重卿の御母堂は、大猷公の御台所の御供にて、御茶の間・御湯殿の役を勤、お夏殿と云。御台所の御側女中に成、折ふし御湯殿にて御手被レ為レ付、正保元年五月二十四日長松君を産し奉る、則甲府宰相綱重公と申奉る。天和三年六月二十九日逝去、時に七十余歳、法名順性院殿妙喜日圓大姉と申。お夏の方、藤枝弥一郎初て三百石被レ下、段々立身して若狭守に任じ、千石加恩、甲府の老臣と成、其舎弟藤枝帯刀重昌、五千石迄拝領相続す。

○大猷院殿御寵愛 お萬の方の伝
一、お萬の方の御父は、二条家の末流冷泉家の一族、六条宰相有純卿の御娘也、然るに勢州度合の郡宇治の郷に慶光院と申比丘寺有、むかし内宮御建立よりして社僧として、今に至迄代々慶光院と号し、禅比丘尼にて紫衣著御朱印也、時に後住(則六条家の御娘、後お萬の方。)十六歳にて慶光院へ入院有、三年の内継目御礼として関東へ来られ、紫衣にて始て将軍家(大猷院殿。)御目見有。この比丘尼、世に勝れたる容色にて、大猷院殿暫く江戸に御留め有て、御内意を戸田采女氏鎮承り、還俗させられ、お萬の方と改られ、有髪のかたちと変身、然れども老中方の内意有て御懐妊を禁ずるにより、君達を儲くる事なし。扨又慶光院の後住は、内宮の御師山本大夫が娘を剃髪させて院主とす、尤此山本大夫が先祖は慶光院の関山比丘尼の子孫とも云、今時に至りては、慶光院の住持は、代々山本氏より娘を立ると也、三百石を給はり御代々の御師也。慶光院格式は御門跡並にて、江戸参府の節は道中御朱印伝馬人足被レ下也。又於Ⅱ江戸Ⅰ霊岸島に屋舖拝領有、江戸参府の節は旅館とす。其地に社頭を建立して伊勢天照皇と号し承るは、将軍家の鈞命に依て也、偏に慶光院の規模となれり、毎年正月、将軍家より御鏡餅を被レ備、御尊崇是有也。お萬の方御寵愛有るにより、六条家の御息、則お萬の方御舎弟を被2召出1、千石を給はり、高家役として従四位下に敍し、又侍従に任ず、戸田采女正氏鎮の養女にしてより名乗也。戸田氏鎮は御譜代の内にても、当時奥表ともに御心やすく勤候せし故、お萬の方の諸事被2仰付1也、其後土佐守と改め加恩千石、都合二千石を領し、後年隠居、其嫡大学、父の家督拝領、常憲公御代高家役勤、中務大輔と改、従五位侍従に敍任し、六角越前守広治の妹を室とす、其子今の大学也、お萬の方は後永光院と贈号し、将軍家より百人扶持賜る、大猷公お萬の方死去の前、別て御寵愛深かりしと也。


(『柳営婦女伝双』 国書刊行会編 名著刊行会 1965年発行を底本としました。)





















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