浅草志・敦盛・ありやなしや

浅草志

浅草志(一部)

浅草界隈の記述。

浅草上

○浅草
求涼雑記云、往古此武蔵野よりつゝきて都て野中なれば、草のみ生繁りし所ゆへ浅草浅茅などいひて皆草にもとつきたる地名なり、
廻国雑記云、浅草といへる所にとまりて庭に残れる草はなを見て 道興准后
水の色はまた浅草のうら枯に秋の露をも残す庭哉
東鑑曰、若宮営作事、有2其沙汰1而、於2鎌倉中1、無2可レ然工匠1、仍可レ召2進武蔵国浅草大工字郷司1之旨、被レ下2御書1、於2彼所1、沙汰人等中、昌寛奉2行之1、とみへたれば其いにしへ良工有て然も市中の地と見ゆ、
亦云、往古四谷牛込赤坂本郷湯島の辺は山にして此浅草辺はむさし野に続く平原也、しかれども此わたり民家所所にありておのつから草も浅きゆへ浅草の名有りといへり、尤さも有べし、
豊島郡峡田領千束郷浅草村と云へり、
浅草のすゑ大音寺辺、いにしへの千束村なるよし、今竜泉寺近きに千束稲荷祠あり、是其古き跡也、その辺今は下谷に属すなり、
今浅草と云へるは浅草橋より外、観音うしろ三谷わたり、西は下谷につゝき、東は大川をかぎり広き地なり、
往古北条比の書にも鳥越村千束の名みゆ、また浅草寺家四十貫九百文、浅草と出す、猶浅草の名久しき事は浅草寺観世音縁起にあり、

○浅草川 旧名宮戸川、又隅田川共云、同じ流れなり、源は当国秩父郡大滝中津川より出て児玉郡榛沢郡大里高麗入間の数郷を経て、足立郡川口千住へ長流して荒川といへり、いにしへは大川にて此わたり入江にもありしやと云、此辺に於て海苔を取りしとぞ、今名産とす、亦漁師も多く住たると云、既に漁捕を禁せられてより漁師の業なり難く、品川大森村へ移ると云、其遺意によつて今観音祭りの日は彼地より船を出す事恒例とは成りぬ、然るに江都繁華に隋かひ川はゞもせばまりしならん、天和三年五月の比浅草川幅広がるといへり、
又此川名産、紫鯉を称す、亦白魚佳物とす、是は鈞命に依て尾州名古屋浦より御取寄有てまかせらるゝ事ありしよし云伝ふ、

荒川長流凡、

○猿子橋 一名甚内橋 鳥越明神の前堀に架す所
向坂甚内の物語り有りこゝに略す、瘧疾の病を祈るに此橋柱の元へ願成就の時、塩を手向、川へ流す事也、
此橋の本花房善五郎殿千廿石 此屋敷の内向坂甚内の墓といふあり、五輪のくずれたる石塔を積重ねたる有、文字一向分ち難し、同し辺に小宮あり、永護霊神といふ額あり、これかの甚内を祭る処と云、八月十二日に祭事を行ふよし、

浅草下

○大聖歓喜天社 聖天町 別当金竜山本竜院 天台浅草末 
待乳山と云、社伝に云、推古天皇御宇九月廿日雲に乗じ当山に降臨あると云、
本地十一面観音 慈覚大師作
童子形尊天影像 一軸 山崎以空大僧正筆
鎮守 弁才天 弘法作、政子御前守仏と云、
当山地主 子安明神といふ、
鎮守道潅稲荷祠 是太田道潅勧請なるべし、
当所町内安全の木戸札は此道潅稲荷の守護と有、然れば当山地主の神ともいふべきか、猶尋ぬべし、
亦江戸志に、社伝曰、聖天は大同元年勧請すといふ、
求涼雑記に、当社は伊弉諾伊弉冊尊を祭るといへり、和漢三才図絵に斎藤別当実盛守本尊也と云、此説々いかゞならんか、先にいへる推古帝御宇雲に乗じ降臨ありといへるは、近き年開帳の節、社頭におゐて申処なり、
祭礼は毎年九月廿日(安永三午年祭礼練物出す、氏子金竜山下瓦町聖天町同横町)

江戸砂子に云、当山の森、沖よりの入津舟の目当なりと云、むかしは深川本所の辺海也と云、其頃の目あてなるか、今に本所深川小松川辺を霞といふ、沖のかすかなる縁のこと葉なるべし、当山の前は牛馬の通ひ路ありて往還うしろは浅草川、山の越をおいて絶景の地也、江戸惣鹿子名所大全に云、
此所元禄中迄は無双の繁栄、遊人集りて麓の茶屋、軒を並べたる門前に伊勢屋が米饅頭とて名物有、山下に弁天の宮有て、兵庫と云巫女、母子二人にて神楽を奏し、参詣の者貴賤、目を歓し、さばかり賑ひし宮居のいかなれば、今は門前の茶屋軒端荒て月みる為にのみたよりあり、住居物変り星移り旧観を改めざるは山上の木立のみ(下略)

紫一本に遺佚の狂歌あり、
根本はふもとの鶴や産ぬらん 米まんぢうは玉子也けり
米饅頭当所の名物なりしよし、根本鶴屋今はなし、

○待乳山又真土山とも、いにしへ大成松山なりしと云、廻国雑記に、まつち山と云所にて、
いかゝ我たのめそおかぬあづま路のまつちの山にけふそきぬらん
しくれてもつひにもみぢぬ待乳山落葉を時と木からしぞ吹
新千載 誰にかもやとりを問ん真土山夕越行ばあふ人もなし
按るに待乳同名、大和駿河紀伊に有て古歌は皆此地の事にてはあらじ、勝地吐懐編庵崎の頭注にゆふ、今下総隅田川近く、浅草の後にまつち山と呼所あるは、古歌によりて後人の名付たるとおぼし、
当所待乳山の碑、戸田恭光入道茂睡建る所也、
哀れとは夕こへて行人もみよ待乳の山に残すことの葉
此茂睡となんいへるも、寛文頃の歌よみ也、此碑は百余年に及べり、
川越記に云、川越よりは辰巳にあたり十余里、これぞこのしもつふさの境にて、角田川となんいへる中に流れおちて庵崎まつち山、世に移りわたる名をのこし侍るといふ、
此川越記といへる書は、大永頃川越合戦の事を天文六年に著しものにて、誠に近き間の事を書たる物なれば証文にはよろし、然あれば天文比も此まつち山庵崎などいふ事は有しとみへたり、たとへ駿河のものを移せしにもせよ、天文より享和元迄凡二百六十五年にも及、古くいひならはせし也、

○三谷堀 まつち山の下、浅草川入堀、今戸鳥越の方へ流れ、日本堤のきわに至る、此南堀岸通り船宿也、此所は聖天町浅草山川町新鳥越入組なり、
舟宿住居の河岸通り半分より今戸分、半分大川の方は聖天下瓦町分なり、

待乳山再考
建保内裡名所百首に、角太河武蔵 宮内卿家隆朝臣
月かけのさすやいほさき角太河越てまつちの山のかひより
此歌書は建保三年十月廿四日と有、定家卿家隆朝臣等十二人、其時代の人々なり、享保まで凡五百八十七年計に及べり、然れば其以前は不レ知、ふるく云来りし事也、

観音領

○馬道 浅草寺雷神門内東横道より田町の方へ続く往還、寛文延宝の比遊里へ行ものみな軽尻馬にて往来せし故に、今の四手籠のごとく馬蹄のたゆる事なきより、おのづから呼来れりとぞ、

○砂利取池 此辺ざり場といふ、今は埋りて町屋と成、元砂利取場にて今も下を堀に砂利多く出るよし、田町はみな田畑なりとぞ、

○孔雀長屋 田町末土手下構、あるひは九尺長屋ともいふよし、

浅草志(一部)

新吉原関連・その他の記述。

新吉原

新吉原江引移候上所申合取極之儀

一、遊女屋の儀は開基以来元地に罷在みぎりは昼ばかり渡世御免被2成下置1候処、明暦年中当所へ所替被2仰付1候砌、諸徳数多被2下置1内、昼夜商売之儀、御免被2仰付1候ニ付、只今以て一日一夜に限り身元慥成者に御座候供、御定之外、永留等不レ仕、且取遁欠落等仕候者参候節も、其主人親元より尋参り候へば急度相調、其者町内罷在候得ば先方へ引渡候、勿論御公儀様より御尋之者は別て大切ニ奉レ存、入念穿鑿仕、見当り候ハゞ早速に御注進申上候御儀に御座候、
但茶屋より以2案内1客ニ仕候節、右茶屋にて身元得と相調候儀に御座候、尤茶屋より案内無レ之、直に以2相対1罷越候得ば、名住所等承り身元取調候儀ニ御座候、
一、茶屋共之儀は古来より所申合を以人数取極候上、私共より得と申渡置、前書本文申上候儀、遊女屋共同意ニ一統為2相守1候事、
但未知候人無レ之者客に罷越案内致呉候様申族も在レ之候得共、是等は年久敷罷越候客の縁を以罷越候儀ニ付、その引合候者へ懸合身元取調候事、
一、近辺舟宿并田町竜泉寺町辺ニ住居仕候水茶屋共より吉原町遊女屋へ罷越候客之儀は、右之者共より舟宿水茶屋共へ懸合、身元得と相調仕候儀に御座候、
右被2仰渡1候趣相守、并所申合之儀共、且又一統相心得罷在渡世仕候儀ニ御座候、

○中の町 大門口より水道尻迄の大通り也、
○西川岸 あげや町かしを云
○肴市場 角町角をいふ、
△かよふ神 元あげや町尾張屋清十郎方に勧請有、
△八朔白無垢を著すなど、いろ/\古例あり、爰に略す、
△当所名産
巻煎餅 江戸町弐丁目万屋太郎兵衛初、今竹村伊勢製也
最中の月 松屋忠次郎、甘露梅 松屋庄兵衛手製初 山口屋四郎
山屋豆ふ あげや町山屋市右衛門、釣べそば 五十間道増田屋半次郎
袖の梅 正徳中天渓といへる隠者伏見町に住宅、酒宴客のために此薬製し弘む、世には袖の梅かんばんは、此天渓の筆写せし也、
安寧湯 ふり出し、諸病によし、中の町 みなとや権兵衛
昆布巻 中の町 近江屋梅兵衛初
漬菜 すさき屋久兵衛初
きのじやと云は台賄屋の家名と成、享保の末 中の町 喜右衛門と云者初
駕篭屋 土手下に有、
船宿 今戸より土手の間、三谷堀に軒を並ぶむかしは会所の際五七軒計あり
△廓中遊女惣数凡千七百余人ばかり、禿五百七十人余、
右は天明六午年細見図にて見る処なり、

一ニ遊女二千六百廿七禿六百九十人、芸者百七十三人 享和初の頃

○非人小屋 新吉原後ロ非人頭車善七小屋也、
政談に曰、車善七先祖は上杉影勝家来車丹波と云もの、御草履取と成、御当家を伺ひ、家来をみな江戸へ連来り、乞食の中へ入置けるに事顕れたるに、広大ふしぎの神徳にて御免あつて乞食の頭と成たると申伝也とぞ、
按るに上杉士にあらず、佐竹の家士なり、徂徠覚へ違て書なるべし、

今戸町

(前略)
○妙亀弁才天祠(浅茅原)別当(総泉寺末)福寿院
妙亀尼護持尊也、

縁起に云、人皇六十三代村上天皇の御宇吉田少将惟房卿、美濃国野上の長が娘花子を寵愛、梅若丸誕生有時、貞元元丙子春、信夫藤太といへる人、商人に為に欺れ、この総武の境隅田川に至り、無道のものゝ為に石浜におひて終に十二才にして隅田川の露ときへ給ふ、是三月十五日也、さても母堂花子、愛児の跡をしたひ、此地に来り、忠円阿闍梨に謁して小堂を営み、其身は薙髪して妙亀尼と法名し、浅茅原に草庵を結び、今の(妙亀堂是也)庵前の池水に我子の顔のそふてありければ、頻りに穢穢土の迷倒をはなれて浄土快楽を受ん事をおもひ、
かくばかり我俤のかわりけん 浅茅の池の水かゝみ見て
夫より弁才天に誓ひ、我世間嬰児の災難を救わんと誓ひ終て、
なか/\になきたまならば末の世も 守らんものを人の子までも
かくて心静に袈裟を池辺の松枝にかけ池水に没す(時に行年廿九歳也)ふしぎやな三日の後、霊亀其魂骸を負て池中浮ぶ、これを葬り、一宇を建て妙亀明神とす、
○鏡ケ池(妙亀尼捨身没るは天元元戊寅三月十五日といふ梅児随死貞元元丙子三月十五日と碑銘にみゆ)
○袈裟かけ松
爰に懸衣松碑あり、文略す、
此松、古木は枯れしを後人かさねて植る処、寛政子年十一月十七日大雪に枝摧折たり、明年丑二月十七日又植るよし、其しるしを残すの故に志よし、
○采女塚 此辺りといふ、寛文の比新吉原堺町雁金や采女といへる遊女、短冊に一首の歌をしるし、こゝに身を投死するよし、
名をそれとしらずとも知れ猿沢の 跡を鏡の池にしづめば
此趣をくわしくしるして此池辺に松を立たり、
(後略)

新鳥越(此地上古は浅草三谷の内なり)

(前略)
○弘願寺専称院西方寺(浄土宗本所大雲寺末 聖天町木戸際新鳥越ニ丁土手上り口)
開山念誉上人 此寺を世俗土手の道哲と云(同墓石像当寺内入口にあり)道哲は住職にはあらず、常念仏の願主道心者也、徳ある僧也、
片かきの弥陀立像三尺(安弥陀作)道哲持仏也と云(道哲万治三十二月廿五日寂)当寺に新吉原三浦屋遊女二代目高尾か墓と云有、
伝誉妙心(地蔵を彫辞世アリ)万治三庚子年十二月廿五日とあり、
江戸志に云、当寺の高尾の墓は誠のものにはあらず、法名文字二字相違せり、初代高尾の墓は三谷町春慶院にあり、是を偽作せしものにて信用ならずといふ、
(後略)

○山谷(山谷町は鳥越町つゞき千住通りなり 山谷いなり 山谷町東側のうら)
新鳥越の先を云へり、むかしは新鳥越辺おしなべて山谷の山、山なきに山谷の名いぶかし、また三谷とも書たれども谷もなき土地也、
按るに此辺昔広かりし野なるべし、浅草浅茅の原抔の末なるゆへに三ン野といひしならんかと江戸志にみゆ、方長云、いかにも此辺家居そまばらに、わづか三軒計も有しゆへ、おのづから三家三ン屋など呼来りしにや、三軒丁三間家など地名にあり、其類ひにて文字の書替りしにや、
(中略)
○月光山春慶院 同 霊厳末 同所
当寺開山閑誉上人(吉原三浦屋初代高尾石塔有、紋所(略)入口)
法名転誉妙身(万治三已亥十二月五日)
辞世 寒風にもろくもくつる紅葉かなと墓に有、
按するに土手道哲の高尾墓は此所にある誠の墓を偽作せしならん、
(後略)


(三田村鳶魚編『未刊随筆百種』第2巻を底本としました。)

敦盛

幸若舞『敦盛』

(全文)
赤字は織田信長が桶狭間合戦の前に、幸若舞をひと差し舞ったとされる一節。 

 そも/\、此たび平家一の谷の合戦に、御一門、侍大将、総じて以上十六人の組足のその中に、もののあはれを留めしは、相国の御弟経盛の御子息に、無官の太夫敦盛にて、もののあはれを留めたり。その日の御装束、いつにすぐれてはなやか也。梅の匂の肌寄の優なるに、唐紅を召され、練貫に色/\の糸をもつて、秋の野に草尽し縫ふたる直垂、弓手の手蓋、両面の脛当、紫裾濃の御着背長、黄金作りの御佩刀、十六差ひたる染羽の矢、村重籐の弓、連銭葦毛なる駒に、梨子地蒔白覆輪の鞍置かせ、御身軽げに召されたる御馬、鎧の毛に至るまで、げにゆゝしくぞ見えられける。御一門と同、主上の御供を召され、浜に下らせ給ひしが、御運の末の悲しさは、漢竹の横笛を大裡に忘れさせ給ひ、若上臈の悲しさは、捨てても御出であるならば、さまでの事のあるじきを、且うは、この笛を忘れたらんずる事を、一門の名折りと思し召し、取りに返らせ給ひて、かなたこなたの時刻に、はや御一門の御座船を、遥かの沖へ押し出す。あら、いたはしや、敦盛。塩屋の端を心掛け、駒に任せて落ちさせ給ふ。

 かゝりけるところに、武蔵の国の住人、私の党の旗頭、熊谷の次郎直実、この度一の谷の先陣とは申せども、させる高名をきはめず、無念類はなかりけり。「あつぱれ、こゝもとを、良からん敵の通れかし。押し並べ、むずと組んで、分捕りせばや」と思ひ、渚に沿ふて下りしが、敦盛を見つけ申、斜めならずに喜ふで、駒の手綱うつ据ゑて、大音上げて申。「あれに落ちさせ給ふは、平家方にをきては、良き大将と見え申て候。かう申兵を、いかなる者と思し召す。武蔵の国の住人、私の党の旗頭、熊谷の次郎直実、敵にをひては、良き敵候ぞ。まさなくも、敵の鎧の総角、逆板を見せ給ふものかな。引つ返し御勝負候へ。いかに/\」とて、追つかけ申。あら、いたはしや、敦盛。熊谷と聞し召し。逃れ難くは思し召されけれ共、駒に任せて落させ給ふ。

 かゝりけるところに、遥かの沖を御覧ずれば、御座船間近く浮かんであり。あの船を招き寄せ、乗らずものと思し召し、腰よりも、紅に日出したる扇抜き出で、はらりと開かせ給ひて、沖なる船を目にかけて、ひらり/\と招かるゝ。船中の人々に、人しもこそ多きに、門脇殿は、御覧じて、「母衣懸け武者の船招くは、左馬の頭行盛か、無官の太夫敦盛か。あれを見よ」との御諚なり。悪七兵衛承り、船梁につつ立ち上がり、長刀を杖につき、甲を脱いで、きつと見て、「いたはしの御事や。何として御座船に、召し遅れさせ給ひけん。経盛の御子息に、無官の太夫敦盛にて渡らせ給ひ候ぞや。召されたる御馬の毛、鎧の毛にいたる迄、まがふ所はましまさず。いたはしさよ」と申けり。門脇殿は、聞し召し、「敦盛ならば、この船を押し寄せて、助けよ」。水手、楫取、承り、臚櫂、舵を立て直し、船を渚へ寄せんとす。此ほど二三日吹きしほりたる北風の、名残の波は今日も立つ。風はきほおつて、波は強蛇のごとく也。白浪船世(元字は木篇)を洗ひ、砂子を天に上ぐれば、たゞ雪の山のごとくなり。小船こそ、自づから弓手へも馬手へも、思ふ様には扱はるれ、殊に勝れたる大船に、大勢は召されたり。畳む波に塞かれつゝ、次第/\に出づれ共、磯へ寄るべきやうはなし。

 敦盛、この由を御覧じて、「いや/\、この馬を泳がせて、あの船に乗らふずもの」と思し召し、駒の手綱かい繰つて、海上にうち出で、浮きぬ沈みぬ泳がせらるゝ。いたはしや、敦盛。老武者にてましまさば、三頭に乗り下がつて、時/\〃声を立て給はば、御馬は逸物なり、沖の御座船に難なく馬は着くべきに、若武者の悲しさは、馬に離れて叶はじと、思し召されける間、前嵩に乗り懸て、左右の鐙を強く踏み、手綱に縋り給ひて、浮きぬ沈みぬ泳がせらるゝ。馬逸物とは申せ共、畳む波に塞かれつゝ、泳ぎかねてぞ見えにける。

 熊谷、此由を見参らせ、「まさなの平家や。沖の御座船は、遥かにほどを隔てつゝ、しかも波風荒ふして、いかで叶はせ給ふべき。引つ返し御勝負あれ。さなき物ならば、中差を参らせん」と、弓と矢をうち番つて、そゞろ引てかゝりけり。敦盛、御覧じて、「なか/\錆矢に射当てられ、一門の名折り」と思召、駒の手綱引つ返して、遠浅になりしかば、水鞠ばつと蹴立て、染羽の鏑うち番ひ、かうこそ詠じ給ひけれ。
  梓弓矢をさし矧げて引く時は返す事をば知るかぞも君
熊谷も、心ある弓取にて、「あつ」と思ひ、左右の鐙を蹴放つて、返歌と思しくて、かくばかり、
平題箭のはや外れんと思ひしにやと言ふ声に立ちぞ留まる
かやうに詠じて、待ち受け申。

 さる間、敦盛、弓と矢をがらりと捨て、御佩刀ひん抜いて、「受けて見よ」とて、打たれたり。熊谷さらりと受け流し、取て直してちやうど打つ。二打ち三打ち、ちやう/\ど打合せけれども、いづれも勝負見えざれば、「寄れ、組まん」「尤」とて、互ひに打物がらりと捨て、鎧の袖を引つ違へ、むずと組んで、二人が、両馬の間にとうど落つる。あら、いたはしや、敦盛。御心は猛く勇ませ給へども、老武者の熊谷にて、物の数とはせざりけり。易/\と取て押さへ申。甲ちぎりてがらりと捨て、腰の刀ひん抜いて首を取らんとしたりしが、あまり手弱く思ひ、さしうつぶひて相好を見奉るに、薄化粧の鉄漿黒く、眉太う掃かせ、さもやごとなき殿上人の、年齢ならば十四五かと見えさせ給ふ。熊谷、あまりのいたはしさに、少しくうつろげ申。「上臈は、平家方にをひては、いかなる御公達にてましますぞ。御名字を御名乗り候へ」。あら、いたはしや、敦盛。老武者の熊谷に、組み敷かれさせ給ひ、よに苦しげなる息をつき、「げにや、熊谷は、文武二道の名人とこそ聞きつるに、何とて合戦に、法なき事をば申ぞ。我らは天下の朝臣とし、雲客の座敷に連なつて、詩歌管弦の道に長じたりし身なりしか共、この二三ヶ年は、一門の運尽き、帝都をあこがれ出しよりこの方、武士の勇める法をば、あら/\聞て候。それ、人の名乗といふは、互ひの陣に群がつて、軍乱れの折から、矢なき箙を腰に付け、鍔無き太刀を抜き持つて、これはしんぢやうその国の、何某、誰某と名乗て、打物の勝負をし、又組んで勝負を決するとこそ聞きつるに、我は敵に押へられ、下より名乗法とは、今こそ聞て候へ。あふ、心得たり、熊谷。名字を名乗らせ首を取つて、汝が主の義経に見せんためな。よし/\、それ、世には隠れもあるまじきぞ。たゞ某が首を取て、汝が主の義経に見せよ。見知る事もあるべし。それが見知らぬ物ならば、蒲の冠者に見せて問へ。蒲の冠者が見知らずは、この度平家の生捕りの、いかほど多くあるべきに、引向けて見せて問へ。それが見知らぬものならば、名もなき者の首ぞと思ひて、叢に捨てての後は用もなし、熊谷」とこそ仰けれ。熊谷承て、「扨は上臈は、武士の勇める法をば、詳しくは知ろし召されぬや。世にもの憂きは、我らにて候。君の御意に従つて、身を助けんとすれば、親と争ひ子と戦ひ、はからざる罪をのみ作るは、武士の習ひなり。花の下の半日の客、月の前の一夜の友、清風朗月飛花落葉の戯れ、尚今生ならぬ機縁と承る。この度の合戦に人しもこそ多きに、熊谷が参り合ふ事を、前世の事と思し召し、御名乗候へ。御首を給て、たゞ奉公の其忠に、後世を弔ひ申べし」。敦盛は、聞召、「名乗らじものとは思へ共、後世を問はんず嬉しさに、さらば、名乗て聞かすべし。我をば誰とか思ふらん。門脇の経盛の三男に、未だ無官は仮名にて、大夫敦盛。生年は十六歳。軍は、是が始めなり。さのみに物な尋ねそよ。はや首取れや、熊谷よ」。

 熊谷、承つて、「さては、上臈は、桓武の御末にて御座ありけるや。何、御年は十六歳。某が嫡子の小次郎も、生年十六歳に罷りなる。扨は、御同年に参候ひけるや。かほどなき小次郎、眉目悪く色黒く、情も知らぬ東夷と思へ共、我子と思へば不便也。あら無残や、直家、直実もろともに、今朝一の谷の大手にて、敵まれいの三郎が放つ矢を、直家が弓手の腕に受け留め、某に向かつて、「矢抜いてたべ」と申せしを、「痛手か、薄手か」と問ばやと思ひしが、いや/\、熊谷ほどの弓取が、敵味方の目の前にて、問ふべきかと思ひ、はつたと睨んで、「あら、言いに甲斐なの直家や。其手が大事ならば、そこにて腹を切れ。又薄手にてあるならば、敵と合ふて討死をせよ。味方の陣を枕とし、私の党の名ばし朽すな」と言ひてあれば、まことぞと思ひ、某が方を、たゞ一目見、敵の陣へ駆け入てよりその後、又二目とも見ざりしなり。さても熊谷が、つれなく命長らへ、武蔵の国に下り、直家が母に逢ひて、討たれたると言ふならば、眼路の母が嘆くべし。経盛とやらんも、花のやうなる若君を、渚に一人残し置き、さこそ嘆かせ給ふらん」。経盛の御愁嘆と、さて直実が思ひをば、物によく/\譬ふれば流水同じ水なれど、淵瀬の変るごとくなり。

 熊谷、あまりのいたはしさに、又さし俯ひて、御相好を見奉るに、嬋娟たる両鬢は、秋の蝉の羽にたぐへ、宛転たりし双蛾は、遠山の月に相同じ、業平の往古、交野の野辺の狩衣、袖打ち払ふ雪の下、翠黛紅顔錦繍の粧ひを、たとへば絵には写すとも、此上臈の御姿を、筆にもいかで尽すべき、熊谷、心に按じけるは、「いや/\、この君の御首を給て、某、恩賞に与りたればとて、千年を保ち、さて万年の齢かや。末代の物語りに、助け申さばや」と思ひ、「なふ、いかに敦盛。平家方にて仰せらるべき事は、「武蔵の熊谷と申者と、波打ち際にて組みは組んで候へども、我が子の直家に思ひ替へ、助け申たり」と、御物語り候へ」と、取つて引つ立奉り、鎧に付たる塵うち払ひ、馬に抱き乗せ奉り、直実も共に馬に乗り、西を指ひて、五町ばかり行き過ぎ、後ろをきつと見てあれば、近江源氏の大将に、目賀田、馬淵、伊庭、三井、四目結の旗差させ、五百騎斗で追つ掛くる。弓手を見てあれば、成田、平山控へたり。馬手の脇には、土肥殿、七騎で追つ掛くる。上の山には九郎御曹司、白旗を差させ、御近習にとつては、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、亀井、片岡、伊勢、駿河、この人々を先として、声/\〃に申やう、「武蔵の熊谷は、敵と組んづるが、既に助くるは、二心と覚えたり。二心あるならば、熊谷ともに討ち取れ」と、我も/\と追つ掛くる。この君の有様、物によく/\たとふれば、籠の内の鳥とかや。網代の氷魚のごとくにて、漏りて出づべきやうはなし。「人手に掛け申さんより、直実が手に掛け、後世を某弔はばや」と思ひて、又むずと組んでとうど落、いたはしや、御首を、水もたまらず掻き落し、目より高く差し上、鬼のやうなる熊谷も、東西を知らで泣き居たり。

 熊谷、涙を留め、御死骸を、かなたこなたへ押し動かして、見奉れば、鎧の引き合せに、漢竹の横笛を、紫檀の家に篳篥を添へて差されたり。又馬手の脇を見てあれば、巻物一巻おはします。「是は何ならん」と、開いて拝見仕に、あら、いたはしや、敦盛の、都出の言の葉を、くれ/\〃とこそ遊ばしけれ。此君、都に御座の御時は、按察使の大納言資賢の卿の姫君、十三にならせ給ひしが、天下一の美人にてましますを、仁和寺御室の御所にて、月次の管弦の有し時、敦盛は笛の役、同じ楽工にて、琴弾き給ひし御姿を、一目見しより恋と成て、歌に詠み、文に書きこさる。その文、数の重なりて、逢瀬の仲となり給ふ。中三日と申に、平家帝都の花洛を去つて、西海の波濤に赴き給ふ。あら、いたはしや、敦盛。御身は一の谷に御座あると申せども、御心は、さながら都へのみぞ通はれける。思召出されし時に、作られけるかと覚しくて、四季のちやうをぞ書かれける。先づ青陽の朝には、垣根木伝ふ鶯の、野辺になまめく忍び音や。野径の霞あらはれて、外面の花もいかばかり。重ね桜に八重桜。九夏三伏の夏の天にも成ぬれば、藤波いとふか、郭公。夜々の蚊遣り火下燃えて、忍ぶる恋の心す。黄菊紫蘭の秋にもなりぬれば、尾上の鹿、立田の紅葉、枕にすだく蟋蟀、聞かでや、萩の咲きぬらん。玄冬素雪の冬の暮れにもなりぬれば、谷の小河も通ひ路も、みな白妙に、四方なると言へ共、消えて跡もなし。名残惜しき故郷の木々の木末を見捨てつゝ、今は又一の谷の苔路の下に埋もるゝ、経盛の末の子の、無官の太夫、敦盛」と、書き留めてぞ置かれける。かれを見、これを見奉るに、いとゞ涙も塞きあへず。御死骸をば郎等に預け置き、御首、笛、巻物、供に持たせ、大将の御前に参り、此由かくと申上ぐる。判官、御覧じて、「あら、不思議や。この笛は、某が見知るところの候。それをいかにと申に、一年、高倉の宮、御謀叛企ての時、天下に、小枝、蝉折とて、二管の笛あり。蝉折をば、三井寺にて、弥勒に回向し給へり。小枝をば、御最後迄持たせ給ふ由、承るが、水無瀬光明山にて、討たれさせ給ひし時、此笛、平家の手に渡る。一門の其中に、笛に器用を召されしに、弱冠なれども、敦盛は、笛に器用の人也とて、下されけると承る。今朝一の谷の内裏役所にて、笛の遠音の聞えしは、此人の吹きけるか」とて、大将涙を流させ給へば、知も知らぬもをしなべて、皆涙をぞ流しける。

 「敦盛は名大将、熊谷、いしくも仕たり。この度の勧賞には、武蔵の国長井の庄を取らするぞ。急ぎ罷り下れ」との御諚なり。熊谷が郎等ども、所知入せんと喜ぶところに、熊谷、その御返事に及ばず、涙の隙よりも、かくばかり、
  人となり人とならばやと思ふさらずはつゐに墨染の袖
かやうに詠じ、御前を罷り立ち、「何として、敦盛の御死骸を、源氏雑兵の駒の蹄の通ふ処に、捨て置き申べきぞ。送り申てあればとて、よも罪科には行はれじ。いや/\、送り申さばや」と思ひ、塩屋の端に下り、小船一艘拵へ、雑色二人、侍一人相添へ、状を書きしたゝめ、八島の磯へぞ送られける。

 平家は、元暦元年二月七日に一の谷を落ち、浦伝ひして、十三日の早朝に、八島の磯に着く。熊谷が送りの船も、同じ日、八島の磯に着く。敵味方の事なれば、其間はるかに臚櫂を留め、大音上げて申。「抑源氏方よりも、熊谷が私の使ひに罷り向かつて候。門脇殿の御内なる、伊賀の平内左衛門の尉殿へ、申たき子細の候」と、高らかに呼ばはる。あら、いたはしや、平家は、一の谷を落ち、海路遥かに落延びたれば、左右なふ源氏の勢の、かゝるべしとも、思し召されず、只此程の朦気には、波枕、楫枕、夢驚かす松の風、命も知らぬ松浦船、こがれて物や思ふらん。心細く思せしに、「源氏の船よ」と聞召、我先に/\と、臚櫂を速め、落ち行けども、東国の源氏に会はんと言へる平家なし。

 大臣殿、御覧じて、「不覚なり、方/\〃。世は澆季に及て、時末法に帰すといふ。例へば、異国の樊膾(元字は口篇)が渡て乗つたりとも、あれほどの小船に、何ほどの事のあるべきぞ。誰かある。行き向かつて、聞て参れ」とありし時、平内左衛門承て、「存ずる道候。聞て参り候はん」と、屋形の内へつつと入て、出で立つ。その日の装束は、はなやかにこそ見えにけれ。肌には白き帷子皆白折て引違へ、褐の鎧直垂の、四の括り緒ゆる/\と寄せさせ、楊梅桃李の左右の小手、白檀磨きの脛当に、獅子に牡丹の脛楯し、糸緋縅の鎧の、巳の時と輝くを、綿噛取つて引つ立て、草摺長にざつくと着、結つて上帯ちやうど締め、九寸五分の鎧通しを、馬手の脇に差いたりけり。一尺八寸の打刀、十文字に差すまゝに、三尺八寸候ひける赤胴作りの太刀佩ひて、梨子打烏帽子に鉢巻し、白柄の長刀を杖につき、我に劣らぬ郎等どもを、七八人相具し、端舟下ろし、打ち乗り、面に楯を蔀ませ、ざゝめかひて押し寄する。樊膾が勢ひも、あふ、かくやと、思ひ知られてあり。

 「抑源氏方よりも、熊谷が私の使ひとは、そも、何事の子細ぞや」。送りの者申。「さん候。敦盛を熊谷が手にかけ申、あまり御いたはしきによつて、御死骸に色/\の武具共、又は進状を相添へ、是迄送り申て候。急ぎ御座船に召され、阿波の鳴門にまします由を承て候が、やはか討たれさせ給ふべき。もし偽りにてや候らん」。送りの者申。「御不審は理誠偽りをば、たゞ船中を御覧ぜよ」と申。基国聞て、「げに/\、これは言はれたり」とて、送りの船に、我が船を押し寄せ、長刀を杖につき、送りの船をさし俯ひて見て有ければ、げにと色/\の縫物したる直垂に、敦盛の御死骸と覚しきを、押し包みてぞ置きにける。紫裾濃の御着背長、黄金作りの御佩刀、十六差いたる染羽の矢。村重籐の弓もあり。粉ふところはましまさず。基国、余りの悲しさに、長刀をがらりと捨て、送りの船に乗り移り、御死骸に抱き付き、泣け共さらに涙なし。叫べども声は出でざりけり。やゝありて、基国は、涙を流し、申やう、「いたはしや、この君の、一の谷を御出での時、この着背長を奉る。おとなしやかに、敦盛の、「いつしか御一門、世が世にまし/\て、四海に風の治まりつゝ、基国に所知領らせみるとだに思ひなば、いかばかり嬉しかるべき」と、仰られし其時は、基国が嬉しさを、何にたとへん方もなし。誠の時には動転し、召されざる敦盛を、一門の御船に召されつゝ、阿波の鳴門にましますと申たる、基国が心の中の不覚さよ。今一度基国かと、仰せ出され候へ」とて、消え入るやうに泣きければ、送りの者も、供人も、「げに理や、道理」とて、みな涙をぞ流しける。

 送りの者申。「是は御使ひの身にて候。急ぎ御座船に御移しあれ」と申。基国聞て、「げに/\思ひに忘じ、思ひ忘れて候」とて、敦盛の御死骸を、我船に移し、大船に漕ぎ寄せ、「この由かく」と申上ぐる。
 門脇殿も、経盛も、「何、敦盛が、討たれたると言ふか」「さん候」と申。「あら、不思議や。敦盛は、一門の船に乗り、阿波の鳴門にある由を、風の便りに聞しほどは、いかばかり嬉しかりつるに、熊谷が手に掛り、さては討たれてありけるか」と、涙ながらに出で給ふ。女房達にとりては、女院を始め奉り、宗徒の女官百六十人も、袴の稜を取り、皆船端に立ち出でて、御死骸に抱き付き、「是は、夢かや、現か」と、一度にわつと叫ばれしを、物によく/\たとふれば、これやこの、釈尊の御入滅の如月や、十大御弟子、十六羅漢、五十二類に至るまで、別れの道の御嘆き、かくやと思ひ知られたり。

 やゝ有て、父経盛は、落つる涙の隙よりも、「あら無残や、敦盛。一の谷を出し時、故郷の方を見送り、心細げにて立たりしを、いさめばやと思ひ、「あら、不覚なりとよ、敦盛よ。三代槐門の家を離れ、屍を野山に埋み、名を万天の雲居に挙ぐべき身が、郎等の見る目をも恥よかし」と言ふてあれば、さらぬ体にて、渚まで下りしが、「笛を忘れて候」とて、取りに帰りし其時、共に帰らんと思ひつれども、敵味方に押し隔てられ、又二目とも見ざりしなり。情ある熊谷にて、形見これまで送りたり。空しき死骸、この形見、今日は見つ。明日より後の恋しさを、誰に語りて慰まん。なふ、人々」との給ひつゝ、悶へ焦がれ給ひけり。平家方の人々は、今一人の涙なり。

 其後、熊谷が送たる状を召し出し、「大将なれば、此状を、もし義経ばし送りてあるか」。使ひは是非を弁へず、たゞ、「門脇殿へ」とばかり申。とても伊賀の平内左衛門へと書たる状にてある間、「家長、文を仕れ」「承り候」とて、船の船世(元字は木篇)に跪き、状を賜り、差し上げ、高らかにこそ読ふだりけれ。
直実謹言。不慮に此君と参会し奉し間、直に勝負を決せんと欲する刻、俄に怨敵の思ひを忘じ、却而武芸の勇み消え、剰は守護を加へ奉る処に、多勢一同に競い懸て、東西にこれは居る。かれは多勢、是は無勢。樊膾却而張良が芸を慎む。たま/\直実は、生を弓馬の家に生れ、巧を洛城に廻らし、命を同す。陣頭が夕、瀬ゞ万/\に及で、自他かくの面目を施せり。さても、此度、悲しきかなや、此君と直実、深く逆縁を結び奉るところ、嘆かしきかな、拙きかな。この悪縁を翻すものならば、永く生死の絆を離れ、一つ蓮の縁とならんや。閑居の地所をしめしつゝ、御菩提を懇ろに弔ひ申べき事、誠偽り、後聞隠れなく候。この趣をもつて、御一門の御中へ、御披露あるべく候。よつて恐惶謹言。元暦元年二月七日。武蔵の国の住人、熊谷の次郎直実。
進上。門脇殿の御内なる伊賀の平内左衛門殿へ。
と読ふだりけり。御一門雲客卿相、同音に「あつ」と感じ給ひ、「げにや、熊谷は、遠国にては、阿傍羅刹、夷なんどと伝へしが、情は深かりけるぞや。文章の達者さよ。筆勢のいつくしさよ。かほど優しき兵に、返状なくて叶はじ」と、大臣殿返状を、経盛の自筆に遊ばして賜ぶ。

 使ひは文を給はり、急ぎ一の谷に漕ぎ戻り、熊谷殿に見せ奉る。熊谷、「いかんとして、弓矢の冥加無くしては、経盛の御自筆を拝み申さん」と、三度戴き、開いて拝見仕る。その御書に曰く、

  • 敦盛が死骸、並びに遺物給はり訖。此度、花洛を打立しより此方、なんぞ二度思ひ返す事のあらんや。盛んなる者の衰ふるは。無常の習ひ。会へる者に別るゝ事、穢土の習ひ。釈尊、羅候(元字は目篇)羅(らごら)、天の一子の別れにあらずや。いはんや凡夫をや。去ぬる七日に打立しより以来、燕来たつて語らへど、其姿を見ず。帰雁翼を連ね、空に訪れ通るといへど、その声を聞かず。されば、彼遺跡の聞かまほしきによつて、天に仰ぎ地に伏し、これを祈る。神明の納受、仏陀の感応を待つところによつて、七日が内にこれを見る。内には信心をいたし、外には感涙袖を浸すによつて、生れ来たれるに会へり。喜悦の芳意なくしては、いかゞその姿を二度見ん。すみ、すこぶる須弥の頂低うして、蒼海却而浅し。進んで是を報ぜんとすれば、過去遠/\たり。退き応へんとすれば、未来永/\たる物か。万端多しと言へど、筆紙に尽しがたし。是は武蔵の熊谷の返し状。

とぞ、読ふだりける。

 去程に、熊谷、よく/\見てあれば、菩提の心ぞ起りける。「今月十六日に、讃岐の八島を攻めらるべしと、聞てあり。我も人も、憂き世に長らへて、かゝる物憂き目にも、又、直実や遇はずらめ。思へば、此世は常の住処にあらず。草葉に置く白露、水に宿る月より猶あやし。金谷に花を詠じ、栄花は先立て、無常の風に誘はるゝ。南楼の月をもてあそぶ輩も、月に先立つて、有為の雲に隠れり。人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか。これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」と思ひ定め、急ぎ都に上りつゝ、敦盛の御首を見れば、もの憂さに、獄門よりも盗み取り、我が宿に帰り、御僧を供養し、無常の煙となし申。御骨ををつ取り首に掛け、昨日までも今日までも、人に弱気を見せじと、力を添へし白真弓、今は何にかせんとて、三つに切り折り、三本の卒塔婆と定め、浄土の橋に渡し、宿を出でて、東山黒谷に住み給ふ法然上人を師匠に頼み奉り、元結切り、西へ投げ、その名を引き変へて、蓮生房と申。花の袂を墨染の、十市の里の墨衣、今きて見るぞ由なき。かくなる事も誰ゆへ、風にはもろき露の身と、消えにし人のためなれば、恨みとは更に思はれず。

 かくて蓮生、黒谷に籠居し、正念念仏申てゐたりしが、ある時、蓮生、心の内に思ふやう、「紀の国に御立ある高野山へ参らばや」と思ひ。上人に御暇申、頭陀の縁笈肩に掛け、頼む物は竹の杖、黒谷を、まだ夜を籠めて出でけるが、都出での名所に、東を眺むれば、誓願寺、今熊野、清水、八坂、長楽寺。彼清水と申は、嵯峨の帝の御願所、すみともの造立、田村丸の御建立、大同二年に建てられ、万の仏の願よりも、千手の誓ひは頼もしや。「敦盛の聖霊頓証菩提」と回向して、西を眺むれば、丹波に老の山、下り口に谷の堂、峰の堂。北を帰て見送れば、内野を出でて蓮台野、舟岡山の墓じるし、見るに涙も塞きあへず。南を眺むれば、東寺、西寺、四塚、年はゆけども老もせぬ、六田川原とうち眺め、山崎、宝寺、関戸の院をうち過ぎ、八幡の山を下向して、惟喬の親王の御狩せし、交野の原を通り、禁野の雉子は子を思ふ。鵜ど野に茂き籬垣の、宿を過れば糸田の原、窪津の王子を伏し拝み、天王寺へぞ参りける。天王寺と申は、聖徳太子の御願なり。七不思議の有様、劫は経るとも尽きすまじ。亀井の水の流れ絶えぬぞ尊かりけると、伏し拝み候ひて、天野に参らるゝ。大明神と申は、高野の鎮守でおはします。「御山に法師を授けてたばせ給へ」と、懇ろに祈誓申て、はや高野山へ参らるゝ。忝くも高野山と申は、帝城を去つて二百里、郷里を離れ無人声、八葉の峰、八つの谷、峨ゝとして岸高し。青嵐梢を鳴らせど、夕日の影のどか也。

 相賀の寺より、御影堂の谷、胎蔵界の大日、百八十尊を表せり。金堂の本尊は、阿■(あしゅく)、宝生、弥陀、釈迦、これ又大師の御作なり。大塔と申は、南天の鉄塔を学んで、兜率天のばんりを象り、十六丈の宝塔、上は千体の阿弥陀、中は千手の二十八部衆、下は薬師の十二神。生/\〃世々に際なく、衆生悪所の罪消え、来迎の三尊を拝むぞ尊かりけると、伏し拝み候て、奥の院へぞ参りける。道の辺りの白骨は、砂子を撒くがごとく也。いよ/\念仏申、奥の院へ参り、敦盛の御骨を籠め置き、蓮華谷の傍らに、知識院と申庵室を結び、峰の花を手折り、閼伽の水を掬び、行ひすまし、蓮生八十三と申に、大往生を遂げにけり。悪に強ければ、善にも強し。文武二道の名人、漢家は知らず、本朝に、かゝる兵あらじと、感ぜぬ人はなかりけり。

 (岩波書店刊『舞の本』新日本古典文学大系59を底本としました。)

ありやなしや

ありやなしや

清水礫洲著
(一部)

余が総角の頃(文化の中頃)、撃剣家には山の手六番町に鈴木斧八郎(後大学。尾藩の士。初一刀流なり。戸ケ崎熊太郎に試合にまけ、改流すと云。此人剣法剣理共に精し。故に門中上手多しと云。此伝統、尾州の永井軍太郎と云。今は二代目なるべし)無念流にて盛なりき(此人の居る内は、岡田十松は行はれず)。門人数百人、中村一心、一の宮沢馬(合田守拙云。沢馬。当作琢磨)秋山要介等世に聞えたり。下タ町には、浅草門跡の裏与力赤石軍次兵衛、これは故藤川弥二郎右衛門の高弟にして、心影流なり。門人数百人あり(元近藤家の臣。剣術により家を起し、与力の株を買し也)。此門にも上手多し。本河の団野源之進(男谷精一君の師なり。男谷精一郎。名思孝字君則。号燕斎。善書。為旗下士)、石川瀬平二等世に聞えたる者多し。青山に若菜主計(後真鏡斎といふ)、真鏡流と唱ふ。これも可也には行はれたり。余が先師虚沖軒先生(櫛淵弥兵衛と云。一橋府に仕ふ。虚沖軒先生。葬小石川祥雲寺。其碑今猶在不忍天女祠傍。赤城先生撰文多賀谷向陵書。櫛淵門弟子数百人姓名扁額。先考所書今尚存于王子稲荷社額堂。美作津山松平三河守)、其頃は小川町広小路大岡伊織と云人の地面に道場を開き、先生とし四十ちかく強壮の頃なりき。身の丈五尺八寸、力三人に敵す。数流を研究し、一心流と云を建立す。門人吹雪算得(津山藩士。初本間丈右衛門と云。後に姓名を改む)、此人身の丈六尺二寸、力人を兼ぬ。真当流の柔術をとり一力流の剣を教ゆ。試合に来り先生に負け門人と成れり。此人長大美貌を以て津山侯の眷寵を受け、二百石にかゝへられたり。平山子龍曰く(平山行蔵。名潜。字子龍。号兵原。又運籌堂。文政十一年十二月廿四日没。年七十。葬四谷永昌寺。子龍与近藤重蔵。清水俊蔵。斎名。世称曰天下之三蔵。俊蔵即顕祖。而先考少壮入其門云。後有若山壮吉。一斎門下。常欽慕子龍之為人。又有松岡万者。幕府微臣。以奇行鳴。近年歿于静岡)、天下吹雪算得の男振は三百石にてはやすしといへりと聞く。風采想像すべし。白皙美服長剣を帯す。余も四五十年の間此人の風采に似たる人を見ず。四十餘にして死せり。其次を山崎孫四郎と云ふ。此人元来角抵藤綱と云ひ、右臂を折き、ゆゑに転業し扱心流の柔術をとり、種田流の鎗を遣ひ、剣を先生に学ぶ。身の丈五尺八寸、黒大粗壮、筋骨鉄の如し。一目して一武人たるを知る。高崎侯(上野高崎松平右京亮)より月俸を受け、銚子の戌兵を心得たり。浅草田原町八幡社地に住す。四十餘にして死す。其他山内相馬(大伝馬町に住す)、高橋武左衛門(駿河台堀田氏の臣なり)、こと/\〃く高弟たり。技芸皆衆に越えたり。他流試合田舎江戸より来る者日々にたえず。其後先生家を下谷三味線堀、松平豆州邸(三河吉田松平伊豆守)の後の御徒組屋敷に転ず。僻地なるを以て人しらず。高弟追々凋零して、晩年に業も大に衰へて先生も物故せられたり。嗣弥次馬、後多左衛門と云ふ、これも近年歿せり。

槍術にては、中津(豊前中津奥平大膳大夫)の種田流村上左仲次、森(豊後森久留島安房守)の山岡丈左衛門、宝蔵院流にては、富山藩(越中富山前田備後守)の篠田金右衛門、同篠田五兵衛。余が覚えし頃は、金右衛門は歿して其子を弥織と云、小石川すは町に住す。大小名夥敷弟子有り。高松侯(讃岐高松松平讃岐守)の支族をはじめとして、柳川侯(筑後柳川立花左近将監)、関宿侯(下総関宿久世大和守)等皆門人なり。五兵衛(伯父名正則。号練武堂。建演武場于小石川。教授子弟。弘化三年七月朔歿。年四十一。有二男一女。養子正熾継業。幕府建武場曰講武所。被徴拝槍術教授。正熾称昌蔵。歿于岐阜。年五十)は小石川百間長屋横丁に住す。家弟次郎は此人の門人なり、とし五十餘にて歿す。養子を長四郎と云、多病にして業を廃し、富山にゆく。本家弥織の家も業を失ふて富山に住すといふ。今此流末は高松の山田恒蔵の伝統なり。

酒井要人(此頃は牛が淵桜井蔵之介地面に住す。顕祖。名正徳。字俊蔵。号赤城山人。又淡菴。上毛人。謙山先生第二子。嘉永三年五月歿。齢八十三。葬小石川小日向日輪寺。配安平氏生四男一女。長即先人。次曰正則。次曰正順。出冒大橋氏。李曰正春。本編跋文其所撰也。女適村田氏。文久中。幕府建武場。養子要人。与清水正熾等同徴。為槍術教授)これはもと浜松水野家(遠江浜松水野越前守)の浪人吉田弥五右衛門といへるの高弟にて、小野派一刀流剣術、高田派宝蔵院流槍術を指南す。御旗本に数百人の門弟あり。先人の門人なれば、余も若年には二術ともにその人に学べり。後に小川町今川小路に転宅せり。今の要人は養子なり。

牛込築土明神下伊能惣右衛門(後一雲斎。始永見氏の家来、後浪人、後林肥後守家来となれり)宝蔵院流槍術、愛洲影流剣術を教ゆ。はやく槍の相面の試合をなせり。御旗本に数百人の門弟ありき。一雲近年七十餘にて死す。

馬術は、本郷桜の馬場の堀江源五右衛門(これは古き馬のりなり。斎藤主税の門人の中に名見えたり。又駅馬大意記にも見ゆ)盛に行はる。後に沼津水野侯(駿河沼津水野出羽守)の臣となる。番町にて林藤馬(浪人、後長岡牧野侯にかゝへられる。越後長岡牧野備前守)、其後築地の林代次郎など世に聞えたる馬のりなりき。

二番町、土屋伊賀守家来平野荘八、関口流柔術、田宮流居合剣術を教ゆ。此人膂力あり、ゆゑに門人こと/\〃く拳勇の人なり。只木柔兵衛(火の番。伝通院前に住す。柔兵衛養子敬之進、牛込肴町に住す。時々先考の家に来る。余幼時之を知る)、大小刀三貫目(三貫目の重刀は猶家に存すと聞けり。今は如何になりしや。直景記)の重刀を帯す。平子龍の心友なり。文字もありしと云。窪田助左衛門君、中根十郎大夫君(御番士なり)など皆其門人なり。中根氏は藝州上田主水より養子に来る。身の丈六尺に近く、三尺餘の朱鞘の太刀を帯し、大身槍をもたせ、大丈の馬にのりてあるかれたり。近来御旗本に此躰の人物なし。四十位にて物故せられたりき。

牛込中御徒士町の御徒に、小田武右衛門と云あり(元加賀屋敷三枝の家来なりと云。三枝左京と云人、平子龍の門人なればさも有るべし)。平子龍の門人にて、大島流の槍術、心貫流の剣術、関口流の柔術を教ゆ。朱鞘の大小刀を帯す。ゆゑに文恭公(徳川十一世将軍家斉公。諡曰文恭)赤トンボの称ありしより、此人朱鞘ならざればさす事ならずといへり。大奴にて六尺近くの大男子なりき。

牛込逢坂上に、若州小浜藩(若狭小浜酒井若狭守)塚原十郎左衛門と云人ありき。樫原流槍術、田宮流居合術を教ゆ。今は跡だになし。

四ツ谷大番町、吉里藤右衛門(後呑敵斎と号す)、これは小十人にて、竹ノ内流捕手を教ゆ。槍剣柔は平子龍の門人なり。身の丈六尺に近く、四方髪、長剣短衣、大酒にて豪邁の人なりとぞ。余若年しば/\途中に見る。柳川藩に門人多し。膂力は頗るありと平子龍物語れり。これも跡はいかゞにや。

高田侯榊原藩(越後高田榊原式部大輔)に酒井良佑と云剣客有り(初捨吉といふ)。これは今の藤川弥二郎右衛門がいまだ鵬八郎といへる頃の弟子にて、井上伝兵衛(初富太郎。井上伝兵衛、下谷に住し、業すこぶる行はる。後鳥居甲州の姦計の為に御成道に殺さる)、鵬八郎と三人伯仲の技にて、良佑最も超絶せり。余安平済父(安平玄俊君。名脩道。字常行。号見山楼。自父玄孝君。以医為業。越後人。赤城先生。聚其妹。太田才佐。名元貞。字公幹。号錦城。加賀人)と共に良佑に具して南総に遊びし事あり。上総には良佑の門人数百人ありき。其ゆゑんを旅中にて物語れり。初め高田藩の士多く太田錦城の門人なり(儒官中島某北山門人也。山本喜六。名信有。字天禧。号北山。江戸人)。大久保長之助(後儒官となる。大久保長之助。名好知。字学海。号鷲山。越後人)を初として、それが講を聞に行者多し。良佑も朋友と共に錦城の許にゆけり。一日錦城談撃剣の事に及ぶ。口を極めて秋山要介を称誉せり。良佑曰、元来無念流なるもの虚剣にして実理に暗し。己れに劣れるに勝のみ、恐るゞに足らずと云。錦城作色して曰、子少年長者を軽侮するか、要介が撃剣巧手なること世人もこれを許し、倅なども中々手におよばずと云(錦城の総領栄太郎と云者、今堀吉之介が門人にて剣客なり。ゆゑに山伏井戸に道場を出して居たり。後に加州の家督をつぎ本郷に住す。剣より囲棋に巧みなりといふ。これも已に歿したり。榮太郎囲棋をよくし、二だんなりと云)良佑曰、失礼ながら令郎の剣術と良佑の剣術と、日を同ふして論ぜらるゝと云物は、先生の素人了簡なりと答ふ。錦城いよ/\不平にして、然らば子要介と試合をなさんや。良佑曰、流儀の法これよりは求めずといへども、かれより求めばいつにても先生のために試合をなすべしと答ふ。錦城元来侠生にして、要介はことの外の贔屓なれば速にこれを談ず。要介とし已に五十、良佑二十五六、精神血気日を同ふすべからず。良佑若年にては絶技と云事、要介かねて聞恐をして居たれ共、錦城の口入なればいなみかねてこれを諾す。日を卜して榮太郎の家に会す。錦城の門人、要介の門人、上総の田舎漢等夥敷会集せり。良佑要介初対面の礼終り、要介曰、貴兄には壮年、拙子は老輩、数本を以て限りとすべし。良佑これを諾し、仮面を破り竹刀を執る。良佑身の丈六尺、力人を兼ぬ。其剣を揮ふに及んでは鬼神の如し。要介八九分の懸念あれば、精神萎爾して逡巡す。良佑大喝して上段より頭上を一打す。これを請留るといへども、割つけられて参りたりと云。其次は左の小手を打ち、其次は腹を打つ。三本つゞけて打込たれば、要介気力精神共衰へて、跡二本は分なしになして事果つ。要介実に甘心し、近日貴兄の如きの巧手に出会へる事なし。年若しといへ共五分の勝負は覚束なし、況や此老境に及んでをやとて、大に賞嘆す。錦城も此体を見て、要介は天下無双とおもへる所、如此し。其敬服する容子を見て、いかにも良佑は無双の巧手なりと甘心せしかば、口を極て賞誉し、其座に有会せし来客も此体を見て語りつぎせし程に、上総よりは師範に聘したしとて、それより錦城の門人、要介の門人こと/\〃く良佑の門人と成れるなりと云。南総高根村、酒井兵三郎(地引網の問屋大家なり)と云が家に寓居して、それが臺所にて稽古をするなり。近隣五六里より来集するもの数十人、十日程づゝ寓居するに、所々の門人より馬にて迎に来る。又外に行く也。上総にては幸手宿の近所大相撲の万五郎(これも無念流戸ケ崎熊太郎弟子也といふ。万五郎。余嘗遊于越谷。某寺中有碑。大槻磐渓撰文。今摘其要云。武州埼玉郡東方村土豪。曰中村万五郎政敏。万延元年庚申三月廿六日病歿。年七十七。而無以相撲為業之事。作者諱之歟)大男子にて、相撲をとり、剣術も可成には使ひたり。良佑が餘りに行はるゝを忌み試合を申込たりしかば、これと試みたれども、手もなく打込れ、いよ/\上総にては良佑を天狗の如くに尊仰せり。ゆゑに江都の稽古よりは、上総下総にて大利を得たり(小石川龍慶橋に住す)。四十餘にして暴卒す。(戊辰東臺之役。榊原藩士酒井良佐戦死。蓋子孫歟。本郷喜福寺に葬る。友人大久保長之助碑文を作る。)

秋元藩(此頃は羽州山形。羽前山形秋元但馬守、弘化二年館林に所替)の大沼優之助と云もの、日置流弓術者にて一時大に世に行はる。浅草神田祠等に鉄兜を貫徹せし額面を奉納して今尚有り(大沼の額、神田の額堂に今尚存せり)。余が若年の頃は浅草堂内に片見蔵人と云人の鉄兜を貫徹せし額面有りき。これは郡山(大和郡山松平甲斐守。柳沢)浪人の子にして、片見流と云ふ用前(用前。実用之義)の射法をのみ教導して、寛政頃は大に行はれたりと、先人などは安富景山(礫滸雑纂に云く、南隣の主人安富軍八景周と云。壬寅五月廿七日、大河端安藤対馬守殿に弓術稽古に往て夜五ツ時前に帰る。小川町護持院原にて何者か切害したり。安藤家より送りに附たる僕も切られ死したりと云。景周性飄々然たる人にて、宿恨など受る人にもあらじと覚ゆ。もとより検束なき人にて、黄白など蓄へもてるともみえず。いかなる事にや。廿九日夕、弔問にゆきたり。検屍来りて混雑の体也。用番御留守居は駒木根大内記也と云。医者二三人見えたり。安藤家の僕は死せずと云。次男に逢たり。すこしも手掛りの事なし。甚以恥辱の事残念の至也といひあへり)のもとにて、しば/\面会し玉ひて知る人におはせしとぞ。今は其額などは跡かたもなし。(安富軍八も郡山浪人にて、弓術をもて与力にめし出され、後旗下に進みしなり。)

此頃は砲術者と云もの世の中に払底なること、今よりしては啌の如し。先づ両家井上(左太夫君)、田村(四郎兵衛君。井上、田村、これを両家と称して幕府の砲術家となす)よりして、砲術を以て与力に出身せし家有り。所レ謂、依田大介、依田佐介、斎藤荘兵衛、渡辺荘左衛門、浅羽筈之介、渡辺文四郎、佐々木勘三郎、坂本源之進(坂本源之進は大坂の同心。大塩の乱に功あり、与力となる)、村上純平等数人なり。陪臣にては掛川(遠江掛川太田備中守)の東数馬、亀山(伊勢亀山石川主殿頭)の勢州三井友七、水口(近江水口加藤越中守)の管直記の事なり。(目赤不動監物打の額あり)。されば蝦夷騒ぎの時、出役の砲術者に事缺きて、御直参を遣はされては御手薄と云事にて、浪人より森重靭負(長州浪人)御雇与力に成る(これは時の参政、京極周防守殿の推挙によれりといふ)。井上貫流(先妣。即安平氏。顕祖所撰甲冑着用辨序云。名直。字貫流。江戸人。為人豪邁。有略胆。通甲陽兵法。最精究乎火砲之技。而其以医隠市井間。論者比之明季龍虚中云。これは平子龍、先人等の師なり。白川藩。其頃は忍侯阿部君の浪人にて、武衛流なり。陸奥白川松平越中守。後桑名に所替。武蔵忍阿部豊後守。文政六年白川に所替)、これは先人の口入にて、井上君の推挙により、これも御雇与力にて松前に行きたり。此人不幸にして一度の出没ゆゑ、子捨五郎と云は小禄の小普請方に成たり(近年死すといふ)。靭負は両三度の御用を勤めしゆゑ、与力に召出されたり。貫流惣髪にて白髭鬚生じ、容貌風采実に勇士と見ゆる人也と云。先妣など世にも立派なる人にて、髭の意休の如しと、毎々一ツ咄しなりき。外科にて渡世し、古伝の甲州流の兵学を教ゆ。後貫流左衛門といふ。余は露もども其人を覚えず。

佐藤百助(後玄海といふ。佐藤百助。字玄海。号椿園。戊辰之役。仙台藩士佐藤百助。戦死于白河。蓋椿園之子孫歟)、其頃先人のもとに来り、口入にて井上家に立入、砲術を以て御雇与力の心願有り。自走火船の図と説とを著し、これを持ありきて遊説せしかど、其人元来山師なれば、たれ一人も取用ふる者なし。其内山事にて官譴をうけ、江戸追放と成る。先人大にこれを救ひ玉ひしかば、江戸を去るの日、二十匁の銕砲一門を余が家に預けゆけり。大槻玄沢(大槻玄沢。名茂質。字子燠。陸奥人。磐渓之父也)の門人にて、蘭書の砲書等に手をかけしは、此人嚆矢と云べし。程無赦を蒙りて都へ返り、それより杜撰の著述をなして盲輩を欺きしかば、其後は蛩音を断じて先人の許へは来らざりき。

石川瀬平二が岳父、磯貞三郎と云は、赤石郡二兵衛の高弟にして、飯田町もちの木坂鍋島君(鍋島内匠頭)の家来分にて、麹町三丁目谷町に道場を出したり。門人に麹町の大工あり。(実は貞三郎稽古場普請の金子の事もありといふ)大工元来棍法の巧手にて、八月望の夜貞三郎のもとに来り、酒を呑み其上に口論となる。大工云へるやう、竹刀を取りてこそ先生とはすれ、棒をとりては恐るゝに足らずといふ。貞三郎も合点せず喧嘩になるにより、内弟子家内等大工をかへしやりたるに、酒狂のゆゑにや、家にかへり大棒を携へ来り、貞三郎の家の門を叩きて雌雄を決せんといふ。貞三郎も大に怒り、門を開きてこれを入れ、夜分なれば稽古場にては勝負出来かぬるゆゑ、家の裏の紺屋の物干場に出て雌雄を決すべしと。貞三郎は一尺五寸程の枕脇差し、大工は六尺餘の大棍なり。数十合闘ひしが、ひばらをつかれ、前歯二本折られ、迚も助くべきにあらざれば、踏込て左り袈裟に一刀に斬仆したり(余は幼弱にして此事はしらず。先人の話にて聞しなり。後に直話を聞しに、最初より殺す積りなれば、かすり手も負にあらず。いかにもして助けばやとおもひしかど、狂人精神猛烈にして、餘義なき事なり。刀は無銘の新刀にてよく切れたり。後人に懇望せられて、今はなしと話したりき)。これにより、きり徳にはなりたれども、江戸追放をうけ、上総下総あたりを遊歴して名も一斎と改む。元来沢田東江の門人にて書をかき、正虎と云て歌もよめり。柔術の法によりて導引をなして生活す。越後の書家尾島撲斎と云古法帖家と懇意にて、これが誘引して牧志州君(牧志摩守。四番町に住す。後長崎鎮臺となる。先人三世の交なり)のもとにつれ来れり。歌をよみ、書も古法帖家なれば、志州ことの外に愛眷せられて導引迄も頼まれたりき。余もしば/\面会せしが、旧来の豪骨、折々は頭角を著したりき。地蔵道人と号す。とし已に七十。間もなく浅草の親族の家に歿す。沢田東洋(東里の養子。東江の孫なり。沢田文二郎。名哲。字文明。号東洋。沢田文二郎。名千之。字文己。号東里)、地蔵のために芝又村帝釈の社地に伝碑を立たり。余も其後行てこれを見るに、諱忌を憚かれば一斎の始末はつくさぬ様におもはれたり。是等も今の世には得難き人なりかし。

(後略)

(吉川弘文館刊『続日本随筆大成』第八巻を底本としました。)
















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