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浅井三代記 第一
第一(全文)
永正乱の興
夫近江国には、鎌倉源氏の御代より三十六人の国衆、八十二人の郷侍と申て御座候処に、其後尊氏将軍の御時分、佐々木佐渡判官入道道誉の威勢に一国なびき、彼道誉にしたがはずといふ事なし。其以前より江州一国を二つにわかち、江南江北と申て、愛知川より北を江北と申、愛知川より南を江南と申ける。それゆゑ江北佐々木、江南佐々木と申す両家に引わかるゝ。しかりといへど南北ともに一家にして、嫡男次男のわかちもなく、相互に家を続来り。江南佐々木六角、江北佐々木京極と申、双方侍どもあるひは郡のあらそひなく、又は境目を論ずる事なし。其後明応年中に、天下大きに乱る。此時の佐々木六角義実は、義澄将軍の御妹聟なれば其威をかり、江北京極と相戦ふなり。其時佐々木六角義実卿は江南観音寺山に住城す。江北高清入道環山寺は坂田郡伊吹山の内に住城す。明応年中に、江南勢強働故、愛知郡犬上郡二郡、江南六角切取、京極入道環山寺病者なるにより、終に軍勢催さるゝ事もなし。夫故江南より江北をせはむる事多し。還山寺が臣下に上坂治部大輔泰貞と云者有。上坂に氏多し。此上坂は、梶原平三景時が末也。此泰貞は前の京極政経の三男上坂の家を継ぐ、其末なり。此者、高清卿御見立候て、江北の侍大将に被2仰付1ける。此治部大輔軍勇智謀の者なりとぞ申ける。其時上坂我身不肖なれば、江北の諸侍思ひ付事候はじと、京極殿に度々辞退申上る。京極殿、江北中の諸侍を召集仰られけるは、某近年病気たるにより、此治部大輔に我代をゆづる。汝等随分治部大輔を守立、江南と一戦をとげ、横領の二郡を取返し可レ申と被2仰出1けり。此時までは君臣の道のこりけるにや各御請申上る。それよりして京極殿は伊吹の太平を引退き同山の内上平と申所へ引籠給ひける。しかるうへは、江北中此上坂に出仕をする事夥し。されどもしたしき中と寄合申けるは、京極の家、今此時に滅亡し、他家に渡る事前代未聞の次第なるべしとさゝやかざるはなかりけり。爰に浅井三郎亮政は永正四年には十三歳治部大輔へ奉公に出るに何事も心にかなふやうにそばをもはなれず仕へ給ひしゆゑ、此の亮政其後立身して、江北こと/\〃く切したがへられしなり。
軍評議の事
永正七年三月上旬の事なるに、治部大輔江北中の諸士を廻文をまはし召集め相談して申けるは、佐和山の城を六角かたへ被2乗取1、江北の恥辱此所なり。何とか思案をめぐらし江北へ切かへし可レ申旨、屋形被2仰出1候にいかにと申ければ、堀能登守頼貞、磯野伊予守員吉申けるは江南の侍共に江北の侍共まくべきにあらざれと屋形の御出馬も候はず。又は侍中間も和せざるゆゑに先年六角方へ乗取候。今度はよく/\人数を組給ふべし。惣じて軍法を相定めらるべしと申せば泰貞申けるは先佐和山の一里此方、米原太尾山に要害を拵此方出張の足たまりにして、人数二手にわかち、海手へまはし磯山に楯籠る小河孫七郎を責べし。其内に観音城より六角勢をいださるべし。此方人数はすりはり米原の難所に陣取対陣して相戦べしと被レ申ければ、列座同音に尤よろしかるべしと申上れば、さあらは日限を相定べしとて同十六日、打立べしとの手はづをとり其日の評議はやみにけり。
佐和山へ押よする事
かくて上坂治部大輔泰貞は同十日に屋形へ参扣して軍評議を申上けるに、高清入道打えみ給ひて首途の御祝儀として御秘蔵の御馬御重代の御腰の物を給はる。同十一日には治部大輔横山へ取のぼり味方の勢を揃見んとて同姓信濃守、同伊賀守、同掃部頭をめしぐして其日の辰の刻ばかりに打出給ふに内々江南勢にあなどられし事をいきどをりければ我も/\と馳あつまる。先一番に磯野伊予守員吉、同右衛門大夫員詮、子息源三郎為員、井の口宮内少輔(後弾正にあらたむ)、大野木土佐守秀国、三田村左衛門大夫定元、西野丹波守家澄、同與八郎氏常、安養寺河内守勝光、浅見対馬守俊孝、阿閉三河守貞義、堀能登守頼貞、野村伯耆守直定、同肥後守定元、今井肥前守頼弘、新庄駿河守信家、横山掃部頭家盛、同肥後守、千田伯耆守有義、子息帯刀、東野左馬助行成、熊谷弥次郎、同新次郎、伊部清兵衛尉為利、大橋善次郎秀元、浅井新次郎教政、野一色、片桐富田、尾山彦右衛門、田部助七、木村海北助左衛門、同善右衛門、雨森主計、同弥兵衛、赤尾與四郎、同筑後守、同孫三郎、宗徒の侍として四千余騎雑兵共に二万余とぞ申ける。かくて治部大輔御名代を仕るしるしとやおもひけん。物頭の方へ酒肴を出しければ上下さゝめき喜びける。斯て泰貞物頭共に向て申けるは、某屋形の御名代を申上ると云ども江北の諸侍などが下知にしたがひ給はんと思ひしに、如レ此残らず出馬せらるゝ事満足なりと悦びて、さあらば打立べしとて永正七年三月十六日に横山を立て、米原口へ押出す諸勢三手にわくる。堀能登守、新庄駿河守、野村伯耆守、同肥後守浦手へ向ふ。大野木、三田村、阿閉、西野は醒ケ井口へまはる。治部大輔は残る勢を召具し米原山に陣取る。斯て佐和山の城へ江北の軍勢残らず馳向ふよし、かねてより風聞すれば観音城へ注進す。観音城には定頼、義実打より物頭共よび集め軍評議をとげ給ふ。末座の若者共あなどり申けるは何そ評議し給ふ。物頭一人被2仰付1なば、我々罷越即時に敵を追払ふべしとて、手に取るやうにそひしめ、きける中にも進藤山城守(父山城守なり)、後藤但馬守進み出て申けるは、今度は御大事の戦ひなるべし。数年鳥井本口にをいて相戦へと佐和山へは敵に足をためさせざるに、今かくもよほして来たる事は無二の一戦とげんとの儀たるべし。屋形の御出馬尤たるべしと申ける。かくて寄手の勢は三方より押まはし、鬨を憧とあげ先遠取巻にぞしたりける。城中にはしつまつて防き、矢も射さりけれは、治部大輔此由を見て、使番を以て味方の軍勢率爾に責よすべからず。江南より多勢もよほし後巻有べきとおもふなり。様子を見て明日未明より責べきとて、其夜は軍をやめ陣取て太尾の要害こしらえける。
磯山の城責落す事
翌日十七日未明より浦手へ向ひし堀能登守、新庄駿河守、野村伯耆守、同肥後守此四人の人々磯山に楯籠る松原弥三右衛門尉成久か城へ押よせ鬨を憧と作ける。城中よりも、二百五拾騎にて打て出て、明神山の上にてしばしか程はさゝへしか。味方六百余騎面もふらず切てかゝればこゝは防ぎがたき所なりとて、城へ引取り門をちやうとうち城を丈夫にかためたり。観音城には佐和山表へ敵働き出るとて、定頼卿諸卒引具し出張し給ふ。相つゞく人々には、進藤山城守、後藤但馬守、伊庭美濃守、目賀多伊豆守、蒲生筑後守、三上伊予守、平井加賀守、落合因幡守、永原安芸守、奈良崎源五左衛門尉彼を宗徒の大将として、都合其勢九千三百余騎の着到にて、十七日辰の一天に観音城を立て佐和山表へ進発すばや、前勢は清水村平田辺までみち/\たり。それより二手にわけ、一手は上道佐和山海道へ打むかふ。一手は海手へをしまはす。上道の士大将には進藤山城守なり。相つゝく人々には伊庭、目賀多、三上、蒲生、永原四千余騎にてかけむふ。海手の大将には後藤但馬守相したがふ人々には奈良崎源五左衛門、平井加賀守二千五百騎にてかけ向ふ。定頼旗本平田山に二千五百騎にて落合因幡守并に御馬廻衆守護し申さるゝかゝりける所に、磯山の合戦急なる由注進したりければ、後藤一里半計の所をもみにもんでぞ急きける。かくて味方は見次勢きたらぬさきに攻落すべしとて喚叫て、攻入けるにはや惣かまへを打破四方八方より込入れは城中には塀際まで近づくすきまもなく、あるひは射立又は切て出、命も不レ惜防ぎける。後藤五十町濱をすぐに打て急ぎけるか。去夜雨車軸に降て四川水増り、白浪せかいを打夥敷中々可レ渡様もなかりけり。此磯山と申は、東は佐和山の尾つゝき二町ばかり聞きれ入江廻て底ふかく、南は四ツ川常は歩わたりなれども、入江/\の水すそなりければ、水出ぬれは二町ばかりも海の面になり可レ渡たよりなし。西は湖水渺々としてきはもなし。北も入江に引つゝむ入江と海の間はゝ一町半ばかりの陸路あり。磯築間朝妻と詠せし村も此間に打つゝき味方は大きに道の便もよし。南はこれに打かへて以の外の難所なればよせて川端にしばらく猶予してゐたりける奈良崎、後藤に向ひ舟にて渡すべし。いかゞ候らんと申ければ、後藤尤とて舟をそこ/\にもよほそけるに、やゝ時刻も移ける。味方は是に気を得て四方すきまもなく、取囲み息をもつかせず攻めたりける。野村堀に向て言けるは、敵は四ツ川のあなたにひかえたり、昨夜の雨にて水さぞ深かるらん、渡る事はなるべからず。是も天のあたへなれば此図をぬかし給ふな。或は敵のをさへにむかふべしと云をてゝ明神山の麓に百四五十騎ばかりすくつて、一文字に攻よする敵を待たりける。後藤もさすが功有兵なれば兵船七八艘をし出す。奈良崎心やさぞせきぬらん。平駄といふ小舟三艘に取のり、一文字にをしぬけんとす。肥後は此由見るよりも明神山の高みより敵を見おろし、さしづめ引つめ雨のふる如く射たりけり。よせても舟よりいく程ともなく射いたしけれども、味方は高み敵は海上なれば、味方事ともせず防きければ、さしも進む佐々木勢舟をよせかねてぞゐたりける。味方の兵ども卯の刻より午の刻迄の戦なれば少たゆむやうに見ゆれば、堀、新庄大音あげてきはわづか三百には不レ可レ過。かほどの小城をせめあぐむか、見次勢は川を越かぬると見えたり。不レ来。さきに攻取と下知すれば、塀逆もきどもいはず、乗越/\攻入けるに、城中の者共弥三右衛門が郎等七八人踏留て戦ひ、枕を並て討死す。其隙に成久は腹かき切てぞ失にける。江北方の者どもは城を攻取剰弥三右衛門討取悦事は限りなし。今日の軍に敵雑兵百十三騎討とれば、味方も四十八騎ぞうたれにける。奈良崎は眼前にて味方をうたせしがのみならず城を敵方へ取れぬれば、猶も舟をしよせ、肥後と勝負を決せんとしたれども、後藤物なれたる兵なれば、奈良崎を怒て申けるは、尤敵は今朝よりの軍につかれたりとは申せども、おもふまゝに打勝いきほひかゝつたる時節なり。殊に舟の上にてのかけひきかなひがたし。一旦利ありとも後の大事たるべしとて、其陣十町引取五十町濱に備立てぞゐたりける。磯山討手の者共も敵人数を引とれば、磯山に陣取りしばらく息をぞつきにける。
鳥井本合戦の事
同日の事なるに、佐和山城にはからめての敵大軍にて寄ければ、高宮三河守、久徳左近大夫両人の者どもは近所一里二里の間なれば、敵東西を囲候之條、早々加勢し給へと申遣、十七日の未明より、わが身は鳥井本村をやかせしと城中より三百ばかりにて討て出、鳥井本村に人数を二段に備を立て、そゐたりける味方、すり針峠に陣取たる大野木土佐守、三田村左衛門大夫、阿閉三河守、西野丹波守手勢五百余騎にて峠より打おろす。孫七郎射手を揃へ、さしづめさん/\〃に射けれども、味方五百余騎の勢、事ともせず鬨を作て押よせ、鑓おつとり/\喚叫て戦たり。かゝる所に前勢軍初るとひとしく、磯野伊予守員吉、同右衛門大夫、井の口宮内、二番東野左馬助舎弟平野左兵衛尉、三番浅見対馬守、米原を立て鳥井本の此方矢倉といふ所へ押よせければ、味方猶も勇んて追立追まくり、火花を散て戦たり。佐和山勢敵猛勢にて押寄ると見ゆれば、引色にこそ成にける。孫七郎是を見て此儘勢を引とらば、敵に惣構をも付入にせらるべしと思ひ、自鑓ひつさげたなし、味方の者共よ敵大軍なりとも、いかほどの事か有べきとて取てかへし、はしたなく働けば寄手五町ばかり引退く。其間に我人数をまとめ城の内へ引入ける。味方左右なうしたふべき様もなければ、敵門を堅て防ければ、小河が軍ふり物なれたる働とてみな人感じける。斯て味方の者どもは思ふまゝに敵を追払ひ鳥井本村へみだれ入、町屋一軒も不レ残放火して、先勢はすり針山の麓に陣取、二番勢は矢倉に陣取、本陣は梅が原にぞすゑたりける。爰に久徳左近大夫と申者は多賀の奥久徳村と云所に小城をかまへ居住す。高宮三河守と申者も高宮村に小城を構住居しけるが、両人の者本は京極家の侍にて、佐和山の城をまもり居るに、明応の乱に佐々木家の大事とやおもひけん。両人相談して手勢二百四五十騎にて佐和山へつほみ入かゝりける所に佐々木勢小野村大堀村に着ければ、進藤山城守は進藤小兵衛と云し者を物見に遣し、敵の様体見するに立帰て申けるは、寄手は一働して鳥井本村の町屋一軒も不レ残放火して山のつまり/\峯々谷々に陣取しは正しく人数多とも五千には不可過重てたしなむべしとぞ申ける。かくて治部大輔は去る夜の雨夥敷して要害をかくる事ならざれば、上阪伊賀同信濃守に申付すり針山梅が原山米原の太尾に急に要害出来候様にと被申付ける。かかりける所へ磯山より早馬敷波を打て告きたりけるは、今朝卯剋に軍を初め午の下剋までに城をも落し城主松原を討、其上首数百三十味方へ打取申候。味方も四十八騎討れ候へどもしかとしたる者一人も討死不レ仕候と浦手の討手四人方より申越ければ、大将治部大輔を初軍中一度に軍初の吉事なりとて、憧と声して勇みけり。かくて山城守は敵に足たまりを拵させてはかなはじとて、四千余騎の人数を二手にわかち、馬淵、目賀多を大将として佐和山の尾つゞき佐渡根山へ千五百騎にて押あぐる。進藤、永原、蒲生は二千余騎海道筋を押よする。治部大輔は是を見て、佐々木勢是へ寄ると見へたり。先手の衆は、今朝よりの戦にさぞ労れ候らん。磯野、東野、井の口、此人々先を替り可申とて、前手と替て鳥井本に南向に備を立る。西野、阿閉、浅見は西向に備を立る。是は城中より討出なば可戦とのたくみなり。大野木、三田村、先備の上なる山に西向に備立る。是は横鑓に可懸との儀なり。治部大輔も引続き矢倉村に本陣を居る。旗本三段なり。横鑓二所に置。去程に永正七年三月十七日の事なるに、山城守前勢敵味方三町ばかりの合にて時をあくれば、佐和山勢、門を開切て出る。佐渡根山の勢も一時にときを作り、喚叫てかゝる。敵は三所より切てかゝる。味方も鬨をつくりかけ/\切てかゝる。敵味方の鬨の声、矢さけびの音、百千の雷も一時に落、山川も崩て湖海に入、天地もひるがへるかと夥し。やゝあつて鬨の声も静まれば、佐和山表と佐渡根山表と軍二つになりて、敵味方入乱れ、命も不惜しのぎをけづり、一時ばかりは黒煙を立てぞ戦たる。東野左馬助舎弟左兵衛尉、敵猛勢にて入替/\戦は一町ばかり敗北す。跡にひかへし永原安芸守追つめて討取や、者どもと息をもつかせず追かくる。味方防かねてぞ見えにける。敵、此由を見て伊庭美濃守、三上伊予守、目賀多伊豆守三人は、佐渡根山より人数をおろし、横鑓に突かくる。味方大きに気を失なひ、こと/\〃く敗北す。敵、勝にのつて追討に討たりける。大野木、三田村、爰はよき図なりとて、三百ばかり真黒に成て、横鑓に面もふらず突かかる。敵、横鑓に又つき立られ引色に見へけるを、磯野、東野、中(井)の口是に気を得て取てかへし戦は、佐々木勢をのれしらず一町ばかり引にけり。進藤、軍に功ある人なれば、我勢は八里ばかり道を来るといひ、今日の戦も一時ばかりの戦なれば味方さぞつかるらんとて、諸卒をまとめて引にけり。味方も数刻の戦人馬共つかれければ、陣をすり針山へぞ引にける。
同十八日合戦附京極より加勢の事
あけければ治部大輔は梅が原より鳥井本村へ旗本を寄せ、三千騎の兵を左右にして真円に成て備たり。先手磯野、東野、三田村も一手になり一文字に備を立る。扨佐々木も人数三段に立て居たりける。敵味方共に昨日の軍にや労れけん。互ににらみあふて軍もせず。午の刻ばかりに双方射手を出し、互に矢軍を初め、相戦ふ事しばらくなりかかりける処に、佐渡根山に陣とりたる三上、伊庭人数をおろし、横さまにつきかかる。磯野、大野木、是を見て敵は横鑓に来るぞ味方進むべからずとてひかへて敵を防ぎける。三上、伊庭、喚叫て面もふらず突かかる。磯野が勢しばしが間はささへしが、此いきほひに追立らる。井の口、東野爰にありと名乗かけ、味方の陣より討て出れども、敵猛勢にて事ともせず突かかれば、味方防かねてぞ見えにける。進藤は是を見て軍配をとり、軍は今なるぞ味方の者どもよと下知すれな、二千ばかり鬨を作りかけ真黒に成て切てかかる。治部大輔こらへかね、西野、阿閉、浅見、後詰せよと有ければ、承と申て七百余騎先手にくははり切むすぶ。佐和山勢、時分はよきと心得て、後藤、奈良崎、小河、千五百余騎にて切とをし道より馬廻煙を立て切て出れば、夫よりして敵味方入乱れ追つをはれつ戦ふたり。進藤が手へむかひし味方の者ども進藤にかけたてられ、旗本人数と一つになる。進藤は勝に乗、敵の旗本をさして追掛る後藤是を見て、進めや味方の者どもと、進藤殿の手は敵を追払と見えけるとて勇み進て切てかゝる。其内より進藤が勢一つに成、治部大輔おもふ図に敵はめくるぞと思ひ、旗本を崩し味方馬上三千四百余十死一生とおもひ定め、鬨を憧と作り、真円に成て切てかゝる。両藤命もおしまず、爰を詮途と戦ふたり。ま事に敵味方の叫声天地も震動して夥し。かゝる処に磯山の討手にむかひし堀能登守新庄駿河守は磯山に野村を一人残し置、鳥井本へ心さし米原の入江を廻てはせむかふ味方の陣へかけ入、一所に成て戦ふたり。寄手の大将定頼卿は敵鳥井本口にてつよく相働と聞給ひ、平田山より落合因幡に先をさせ、二千五百にてもみにもふてはせ来る。切とほしの四五町南小山と云所へ馳着給ふ。味方本より非生の人数なれば、少も不驚うちつうたれつ戦ふたり。然処に奈良崎は治部大輔に目をかけ、一陣にすゝんで来たりける。其中より高宮兵助と名乗、面もふらず一人かけぬけつきかゝる。浅井新三郎亮政は治部大輔にかた時離れずつきそふてありしかども、兵助が名乗を聞、我もわが名を荒言し、兵助と渡しあはせ、しばしば鑓にて仕合けれども、互に勝負はつかざりしが、兵助鑓を投すて亮政とむずと組、亮政を取てをさへ、首をかゝんとせし所を下に成ながら兵助が弓手の脇をつきけるが、されども上よりつよくをさへければ、おもふやうにとほらねばすでに首をかく所に、亮政運やつよかりけん。郎等どもかたり合てをのれが主を討せしとて、はしりかゝつて兵助を引立る。其隙に亮政おめきあがつて兵助が首をぞ討にける。かくて治部大輔が見参に入ければ、いまだ若年の身として神妙なりける組討かなとて感状をぞ出されける。此時生年は十六歳に成けり。場所やよかりけん。後々にいたるまで敵味方ともに感じけり。是を手柄の初として敵味方共に互に手柄は多かりき。磯野右衛門大夫が嫡子源三郎為員と云しは生年十五に成けるが、国中第一の大弓を好、いまだこぶしはさだまらざりしかども、其日の軍に雑兵何程射殺といふ。数を不知見たるをぞ記しける。永原安芸守が弟甚六、和田伊三郎、後藤茂兵衛などゝいふ歴々の侍を遠矢にて射落しければ、敵味方目を驚かしける。かくて敵は入替入替たゝかへば、味方防かねて上平殿はきのふ十七日の注進を聞給ひ、鳥井本へは六角定頼数千の軍勢を以て打向ひ給ひ、味方難儀に及のよし聞給ひ、両家老大津弾正加州宗愚治部大輔が本へ御加勢し給ふ。今村掃部頭は少子細ありて在所に有りしが両家老佐和山表へ発向の旨聞て、二百余騎にてかけむかふ。大津加州今村は箕浦河原にて落合其勢二千騎にてはや先勢の者ども軍最中と見て駒をはやめて急ぎければ、味方の後備に馳付ける。それより味方いよ/\力を得て勇みにいさんで戦たり。大津加州今村二千騎にて我々勢は荒手成ぞ、敵追散せ者どもとて、面もふらず切てかゝる。定頼是を見給ひて敵は荒手が入かはりたるぞと旗本を崩して両藤が後よりくはゝりける。敵九千余騎の人数に味方六千余騎さばき山合に入みだれ、終始三時ばかりも戦ひしが、互に勝負はなかりけり。磯野伊予守、浅見対馬守、山手の敵を南向に追散らし鑓衾を作て面もふらず突かゝれば、敵は思はぬ方より寄られ、足をそゞろに乱しける。治部大輔是を見てみづから身をもみ總がゝりにかゝれとてもみにもんで責たりければ、さしも防ぎし佐々木勢此いきほひに追立らる。味方元来十死と定めし軍なれば、追つめ/\戦ふたり。進藤、後藤も爰をせんどゝ防げども、後まばらに成ければ人数を引取んとせしを、味方勝に乗、四方八面に切て廻れば、惣敗軍にぞ成たりけるか。大津弾正加州、上坂伊賀此人々を初として味方三千余騎道筋へにぐる敵を追て行。磯野、浅見、赤尾、三田村、堀、今井は山手へにぐ。定頼旗本既に危く見えしが、湯浅六之助、佐津川宮内助、後藤宇兵衛、寺本加助、三上図書などゝ云。一騎当千の兵共踏留て向ふ敵多く突たほし切捨、枕を並べ討死しけるにぞ。佐渡根山を過ぎ平田をさして落給ふ道筋を追かくる人々は、敵を十四五町追討に打取、今日数刻の戦に人馬さぞつかるらんとて旗本さして引かへしける。小河孫七郎は敵味方の軍の色を見るに、南勢引色なると心得みだれぬ先に、此表可引取、一日なりとも城をあづかるよりしては我城こそ大事なれ。自然敵にへだてられてはかなふまじとて、手勢引つれ城中へ引にけり。後、沙汰していふようは誠に物なれたる引様かなといふ人もあり。己が主の逃を見すて、早く引といふ人もありとぞ聞えける。斯て治部大輔は敵を思ふまゝに追散し、太尾の要害へ引取給ひて今日の軍の次第をしるしける。敵首数昨今両日に五百三十余物頭首二つ討とれば、味方も三百六十余討れけり。治部大輔物頭ともに向ひ被申けるは、昨日十七日の軍には、先勢と三番備二手になり勝利を得るなり。去ながら加勢の衆の懸付給ふ時分よしとて悦び給ひ軍功品々しるされけり。其後敵味方合戦やみければ、鳥井本山の要害には、阿閉三河守、西野丹波守を入道太尾の城には磯野伊予守、大野木土佐守、三田村左衛門大夫、梅ケ原要害には今井肥前守、磯野右京大夫籠置。磯山の城には浅見対馬守、新庄駿河守を入置、惣じて江北の大名分の者ども一組づゝ月替に相守るべしと申付、治部大輔は上坂の城へ引にける。佐々木六角定頼は佐和山の城には小河孫七郎に目賀多、久徳、高宮を指添、松原村に要害をかまへ、平井、奈良崎を入置、重て一戦とくべきとて観音城へ引にけり。
浅井三代記第一終
底本には濁点、句読点は無いが、読みやすくするために濁点、句読点を附した。
(『改定史籍集覧』第六冊を底本としました。)
第二
第二(全文)
軍評定の事
去ぬる三月十八日の軍、畢て後は敵味方互に我居城/\へ取籠り、六月上旬迄休息をぞしたりける。斯て上坂治部大輔泰貞は屋形へ登城して、謹て言上しけるは、今度鳥井本表にをいて忠戦をとげ候綿々に、恩賞褒美あたへさせられ、尤たるべき旨をぞ申遣る。雄家卿宣ひけるは、今度の一戦に勝利を得る事、偏に汝が武畧の達したるゆゑなり。我汝を見立名代をゆづる処に不レ違、眼力佐々木六角に一しほ付け候儀、満足此所に期す。江北の諸士家恩褒美の儀は、我隠居の身なれば、汝心に相叶ふやうに可2執行1。たとへ我弟なりとも不忠にをいては其罪をたゞし、誅罰すべしと仰ければ、泰貞も達て謙退申上げれ共、雄家卿立腹に及び畏て候とて、それ/\〃に恩賞褒美をあたへける。各忠より賞の重ければ、世中の習にて欲にはふけるものなれば、諸卒大に悦て勇みをなさぬ者はなし。かくて上坂の城にて江北の諸侍をそれ/\〃のもてなしにて、三献の酒も漸過行は、泰貞立出軍評定せしむべしとて、旗頭共と評しけるにも、浅見対馬守、上坂信濃守などは年老たけたる者なれば、二人進み出て申けるは、今度のてだて何と可レ被レ遊候やと申ければ、泰貞申されしは、去ぬる三月の軍は鳥井本にての取合なれば、場所窄くして働自由ならざる故、思ふ程に勝利なし。重ては濱道越に押よすべし。此中は幸に空打つゞき雨降す磯山の脇并に四川なども白河原に成たると聞、此分にて有ならば五三日の内に雨降べしとも不レ覚。たとへば一日二日大雨降どもわたらざる程にはよもふらじ。さあらんにをいては鳥井本口は付城の面々可レ防。磯山越に打寄無二の一戦可レ遂なり。先てだてといづば随分此議を秘すべしとて、皆並居たる侍をのけ、只旗頭四人近付ての評議なり、明後十一日は吉日なり。十日に廻文をまはし支度をさせ、十一日も暮四つ時分に当城を立て、磯山の城へ取のぼり、後陣の者共を待合せ、人数余程着たりと見は、付城の者に約諾して置、一左右すべし。其時鳥井山、米原山に郷人少々雇ひ置、鬨を作らすべし。敵其声を聞、此方より又中道をよすると思ひ、切通道へかけむかはん事案の内なり。若さなくともからめてを大事とかたむべし。其時味方の鳥井本口の付城の者共、城より人数を出し責戦ふべし。旗本よりよき時分をはからひ松原村へ切て入、平井、奈良崎、朝がけにふみつぶし、佐和山の追手へ押よせ、外かまへ町屋を焼払ひ、追手からめ手一同に攻めなば、城中やはかこたふべき。即時に城は此方へ可2乗取1と申ければ、浅見対馬守、上坂信濃守尤よろしき御術にて御座候。去ながら観音城より多人数可レ被レ寄、大将の旗むかはさるさきに佐和山の城御手に入申事はいかがと申ければ、泰貞こたへていはく、尤なる不審なり。からめて一千七百にて付城の者ども責させ、磯野、阿閉、西野、今西、両熊谷、彼等五人をして平田山に人数を段々に立させ戦ふべし。然らばたやすく来る事よもならじ。其内には城をもみ落すべしといはれたりければ、尤御術よろしきとて旗頭共、同音に感じける。扨それよりして、諸士をのれ/\が住所へ帰り支度をぞしたりける。
松原佐和山両城没落の事
永正七年六月十一日の事なるに、上坂治部大輔泰貞、佐山表へ進発すべしとて、十一日の暮子の上刻に上坂の城を立、今濱村に諸卒をしばらく待合せける。したがふ人々には磯野伊予守員吉、同右衛門大夫員詮、子息源三郎為員、西野丹波守家澄、同予八郎、大野木土佐守、三田村左衛門大夫、安養寺河内守勝光、浅見対馬守俊孝、浅井新次郎、同新三郎亮政、三男新助政信、渡辺監物、八木予藤次、井の口宮内少輔、後藤弾正忠、筧助右衛門尉、中山五郎左衛門尉、赤尾予四郎、東野左馬助、野村伯耆守、同肥後守、口分田彦七郎、布施次郎左衛門尉、中山五郎左衛門尉、千田伯耆守、横山掃部頭家盛、加納弥八郎、伊吹内匠、住居平八郎、今井肥前守、新庄駿河守、富田新七、香鳥庄助、大宇右近大夫、高野瀬修理亮、山崎源八郎、黒田甚四郎、堀能登守、小室隼人助、此等を宗徒の大将として段々に馳集め、都合其勢四千余騎雑兵二萬余濱道へおしければ、今濱より磯山迄三里が間は、人馬打続きて駒のひづめもなかりけり。かくて先勢磯山に着しかば、鳥井本口へ右の相図のごとく時をあぐべしと申つかはされければ、三所の付城の者ども心得たりとて、夜もよう/\に明方の事なるに、鳥井本山の城に閧をあぐれば、残る二所の城よりも同じく閧をぞあげにける。もとよりたくみし事なれば、郷人多く馳集りをの/\時をつくる。佐和山の城には是を聞ずば、敵よするは支度せよ者どもとて、上を下へとかへしけり。中にも小河、目賀多は物なれたる老武者なれば、いまだ夜はあけざるぞ。卒爾に切て出な兵共とて、四方をかけ廻り、持口をさだめける。目賀多は切通へ出、敵の様子を可レ見計とて出けるが、小河は城に残り、高宮と久徳は追手をかためてゐたりけり。目賀多ばかり切通道迄出、敵の様子を見るに、寅の刻ばかりの事なれば、空暗くして敵の色めも見えざりけり。斯て三ヶ所の付城より一千七百騎にて討て出、切通道へはせむかひ、矢尻をそろへて射たりけり。目賀多も射手をそろへて防ぎ、矢をこそ射させけれ。かゝりける所へ泰貞味方の閧のこゑを聞とひとしく、松原村へをしよせて閧を童(元字は口篇)とぞあげにける。折しも城中無勢にて以の外騒動して弓取者は矢をわすれ、甲を着てよろひを着す。城中しばらくしづまらねば、敵を可レ防様もなし。されども平井、奈良崎は切て出、命ををしまず戦へど、味方多勢にて一千騎の兵を味方四千にてもみにもふで責けれな。平井、奈良崎かなはじとや思ひけん。南方あけをけば、佐和山へかけ入、一手に成て可レ防とて、寄手は西南をあけ東北より大軍にて入かへ/\せめたりけり。此西と申すは湖水なり。南をあけおく事は、諸卒を落し心安く攻取べきとのはかりごとゝぞ聞えける。かくて南向に敗北す。磯野員吉、阿閉貞義、西野家澄、熊谷直光、同信直五人の者どもは佐和山見次勢の役人にて平田山へ取登り備を立る筈成けるが、松原の様子暫見届とをもへば、佐和山と松原の間に西向に備を立、味方の軍を見居たるに、平井、奈良崎落ると見て、横槍に突かゝれば佐和山へ取入事なら、さればふみ留り戦ふたり。味方大軍にて三方よりつゝまんとせしを見て、蜘の子をちらすごとくにちり/\〃に敗北す。味方にぐる敵に目をかけず、其まゝ其を引取佐和山へ押よする城中の者ども、此中数度の戦にも搦手こそ大事と固めつれ。追手の敵は思ひよらざる事なればとや、せん角やあらんとしばしは評議きはまらず。やゝあつて孫七郎、高宮三河守に向ひて申けるは、目賀多伊豆守は切取口を防ぎ給へば、からめては心やすし。追手は我々三人して可レ防随分敵をさゝへ可レ申。其中に後巻あるべし。其期まで防ぎ給へと申ければ、高宮も久徳も相心得たりとて、追手より三百五十騎にて切て出、矢軍少々して泰貞が備を目懸切て入かと見えしが、兼て約諾の事なれば、降人と成寄手の勢と一つになる。泰貞両人に対面して数年、京極の舘へ御心付の段不レ浅、神妙に被レ存候。今度の忠義の段、弥以念比に可2申上1候条、御忠節頼入と申悦事かぎりなし。かくて降人の者ども案内として尾末山へ人数をあげ、もみにもふて責たりければ、城中こらへかねたるけしきなり。切通口へは三所の付城の者ども追手の軍、利を得ると聞、真黒になり千七百騎と戦しが、目賀多爰を詮途と防たり。今村掃部頭、小蘆宮内大輔、安養寺河内守など立かはり入かはり揉にもふて責れば、目賀多も過半人数をうたせ、其上跡よりつゞく勢はなし、城中へ引にけり。それより追手からめて四方七重八重に取囲喚叫て責めれば、城中防かねて見えにける。かゝりける所に尾末山の責手にむかひし堀能登守は、敵嶮岨をたのみにて防ぐ兵もあらざれば、塀逆茂木ともいはずのりこえ/\責入は、目賀多、小河、追手まで二三度切て出、はしたなき働し、つめの城へかけ込けり。泰貞心に何とか思ひけん城中へ使を立申けるは、城さへ無2相違1、渡されなば命の義は違背有まじきと申つかはしければ、両人の者ども相談して城を敵方へ渡し、命ばかりを助かる事侍の本意にあらざれども、重て本望とげんとて異儀なく城を相渡し、中道より観音城へ落行ば、泰貞は今日数刻も経ざるに、松原佐和山両城を攻取悦び給ふ事かぎりなし。斯て観音城定頼卿は佐和山表へ敵働出たる旨、松原城代の者方より注進あれば、定頼、館に折ふし、旗頭ども休息してをのれ/\が在所へ引籠り候て、わづか馬上千五百にてもみにもふて打立給ふ。江南諸士此由聞付てをひ/\にかけつくれば救常寺にて其勢三千余騎に成にけり。平田山の者どもは不勢にて、大敵の押なれば一術せんとて磯野三百にて一番備を立る。二番阿閉二百にて備へたり。三番西野二百騎にて備を立る。両熊谷は百五十づゝ両脇村中に引かくす。然る所に定頼卿の前手、進藤山城守一千騎にて磯野が陣へ押よする。源三郎為員、例のつよ弓にて射手二十人すぐりて、左右にをき、さしつめ引つめ、矢種をおしまず射たりければ、進藤が先勢すゝみかねて見えにける。吉田安芸守是を見て、進藤殿磯野が手に我等を仰付られよとて、我弟子の究竟の射手三十人すぐつて、弓手馬手に並べ置、四人張にて十三束をさしつめひきつめ互にさん/\〃に射たりしが、磯野勢、此矢前に立かねて半町ばかりも引にけり。此吉田と申は江南にてつよ弓を引、代々弓の上手なり。今にいたる迄、雪賀むらをなほしたる弓、皆人是を賞翫せしは、此吉田が末の事なり。かゝりける所に進藤は是にきほひつゝ敵小勢成ぞ、討取れ人々とて、きほひ懸つて押よする。磯野、進藤もみ合火花をちらしてたゝかふたり。後藤、伊庭喚叫て突かゝれば、阿閉見て横鑓に寄手の方へ突かゝる。今西、熊谷両人爰にありとて、両脇より兵三百騎、面もふらず切て出れば、敵などかは、たまるべき足をみだしてさばきける。磯野、西野、阿閉三人の者共打死爰なるぞ、味方の者共よとて、一足も引ず切てかゝれば、佐々木勢大に崩れて、旗本迄さばきけり。味方の者共は勝に乗て不覚すなとて、二町ばかり追捨て平田山迄引にけり。かくて佐和山の城程なくせめとれば、平田表へ江北勢我も/\と馳あつまる。又江南勢も聞がけにはせあつまり、敵味方乱合火花を散したゝかへば、しばし勝負はなかりけり。鳥井本表の兵ども切通の上に人数を休め、半時ばかりも居たりしが、大将平田へ打向ひ給ふと見て、人数を佐渡根山へおし出、平田表を見れば敵味方黒煙をたて、相たゝかへばこらへがたくや思ひけん。平田山の南の方へをしまわす。佐々木是を見てうら崩して敗北す。泰貞旗本を崩し、高名せよや兵どもよとて、一文字にかけやぶり、かけとほれば佐々木勢我さきにと敗北す。泰貞勝に乗二町ばかり追かけたり。かゝりし所に永原新左衛門尉は薮の一村あるかた陰に人数をかくし置、自余の敵には目もかけず、泰貞を心がけ相待て居たりしを、泰貞是を夢にも知ずして向ひしを、新左衛門尉と名乗かけ四五十騎どつと突かゝる。泰貞こはいかにと退かねてありけるに、浅井新三郎亮政、主の命にかはるを見よとてふみとゞまつて、歴々の武者二騎突落す。亮政もそこにてうたるべかりしに、大橋善次郎、伊部清兵衛尉、尾山彦右衛門、田中助七と名乗かけ/\亮政を討せじと取てかへし、たゝかへば味方の兵我も/\とふみとゞまつて、難なく永原を追立たり。此時に亮政なかりせば、泰貞は佐和山へ帰城したなへば、定頼卿も荒神山へぞ惣人数を引取給ふ。其日敵の首数五百討れければ、味方は三百うたれにけり。誠に昔より佐和山の城は落ちがたき城なれども、高宮、久徳降参し、泰貞武畧の達したりし故と皆人感じ合にけり。
江南江北和睦の事
去程に佐和山落城以後、佐々木定頼と上坂泰貞、愛知川表にして日々夜々に足軽小ぜりあひにて敵味方共にやすきこゝろもせざりしが、其年の九月迄は泰貞は佐和山の城に住ぜしに、江北の諸士は一手づゝ番がはりに休息のために、己々が在所へ引こもりけり。佐々木勢も一手宛在所へぞかへりける。斯て泰貞佐和山には磯野伊予守に与力二百相添て籠置、我身は九月初に上坂村へ帰城し給ひけり。次の年正月元朝より序次正しくして江北中の城持共、青銅百疋にて礼をうけらる。それより泰貞、城持衆同道にて上平へ伺候致され、高清卿へ太刀一腰にて年始の嘉儀を被2申上1、同二日には江北侍衆の礼をうけ給ふに、門前に駒の立ともなかりけり。此泰貞と申は内に寛徳有て、外に仁政をほどこし、我徳を謙退し、人の徳をあげ、萬民を撫育し給ふ人なれば、上下共にあつぱれ能大将也とて、帰依せざるものはなし。斯て年始の祝例、幾萬歳ととり行ひ給ひて、正月中休息有て、二月五日に治部大輔は同姓信濃守、掃部頭手廻馬廻計りにて、佐和山の城へこえて着座有り。同七日に江北の諸侍共具し給ひて佐和山へ登城せらるべき旨触まはし給へば、九日十日両日の内には諸軍勢不レ残佐和山へ馳集る。泰貞者頭に向ひ被レ申けるやうは、去年は各一命をもおしみ給はず軍功とげ給ふ故、当城并に磯山を乗取、高宮三河守、久徳左近大夫味方に参る事、偏に各忠戦故と存るなり。併如此日を積み年をかさね、日々夜々の戦にては国中人民安き心も是あるまじ。此度は近辺の小城共をふみつぶし、観音城へ押よせ無二の一戦をとげ、是非の埒を付可レ申覚悟を窮申つる間、各も頼み入と有れば、列座同音に尤たるべしと評判相極れば、佐和山に十一日十二日休息して、十三日に愛知川村の城波止土濃主税助が城をふみつぶし可レ申と一図に相極れば、各其通を触まはしける。然る所に観音寺には江南旗頭不レ残集り軍評定をして居たりけるに、三井寺門主登城被レ遊けるに、此門主は円満院殿なり。南屋形定頼卿一門なれば軍評議を聞給ひて宣ひけるは、近年は君は臣を討て臣は又君をおかし、父子の間に干戈を用る世となれば、仁信の道すたれて天下大きにみだれば其故を以て、江南江北の戦となる本は、六角京極とて一家にして車の両輪の如くなり。今かく一家として雌雄をあらそひなば、他国の大事は何と防ぐべき、よからぬ一家の取合なり。中和尤たるべしと諌められければ、定頼卿も長陣あぐみ給へば、仰尤にて御座候先年明応の戦に京極と不和に成、江南より人数を出し相戦ふ所に度々の取合に打勝、佐和山城迄此方より切とるなり。それゆゑ今以遺恨散せねば、如レ此戦ふなり。中和の理御座候はゞ可レ被2仰付1、諸卒休め可レ申とぞ被レ申ける。三井寺の門主聞給ひてさあらんに於ては、先江北勢をあさふべしとて円満院殿より治部大輔承り、江北の者頭共に件の旨いかゞ可レ有とありければ、決定中和相調べきにはあらざれど、三井寺の御門主の仰にて候へば、一先御請可レ然奉レ存候。其上にて此方の勝手悪く候はゞ御承引被レ成ましく候と申ければ、泰貞然らば御請を可�申上�とて御使僧の趣、畏奉レ存候。御一左右次第迄軍をやめ可レ申とぞ被レ申上ける。斯て円満院御門跡延暦寺へ御越被レ成彼山の御門主をかたらひまし/\て、中和の粧ひ被レ成ける。両御門主御相談あつて被レ仰けるは、江北京極家へのたよりなし。其方にて聞出し注進申由、佐々木家へ被レ仰遣ければ、定頼吟味を被レ致ければ、平井加賀守すゝみ出て申けるは、御内の小倉将監道氏は上坂治部大輔泰貞とは近き一門にて別ての間のよし、兼々承及申候といひければ、道氏をめされて右の旨を宣へば、御諚畏存候へ共、大事の御使なり。泰貞と申者一戦に取結よりしては、親子の間にても心をゆるさゞる者なり。今斯敵味方と罷成候上は、私罷越候共定て逢申間敷かと被レ存候。いかゞ可レ有御座候やと辞退申上れば、後藤いやとよ相調ひ不レ申とても、貴殿の無調法にては更になし。先御請被レ申可レ然と申せば、畏て候と申上る。斯て両門主の御使僧に道氏被2相添1、佐和山へ罷越則先へ案内申入れば、泰貞聞て道氏殿には逢申まじくと申ければ、道氏脇差を泰貞が小姓に預けて、是非御目にかゝり申入度候と申に付泰貞対面す。両御所の使僧も御登城のよし道氏申に付、泰貞衣冠たゞしくして請待申入、善尽美尽し御馳走を申上らる。漸有て中和の事申出さければ、泰貞謹て承り両御門主の御諚誠以恐多御事に御座候。尤佐々木京極は双方ともに佐々木氏にて京都御守護の館によそへて六角京極と名乗候へ共、本は一家の儀にて御座候間、中和仕可レ申の旨難レ有奉レ存候乍、然数年が内江北は佐々木殿に掠められ、遺恨山のごとくに御座候間、是非此度は一戦仕両家の内一方は滅亡可レ仕と覚悟極め、是迄罷向ひ申候間、御前宜被レ仰上可レ被レ為下とさらぬ体にもてなせば、両使の衆もあきれたる体なり。道氏泰貞を引立小声に成て申けるは、此度は其方存分達するやうにいたすべしと申しければ、泰貞存分は何と御はからひ候と被レ申けるは、道氏いやとよ佐々木家此中の戦に大きにつかれ申候、貴殿も嘸つかれ給ふべし。いにしへのごとく国分の定相違有まじと申せば、泰貞も長陣に疲れ果、言葉やはらかに成にけり。両使の人々重て申されけるは、泰貞殿両御所より被レ仰出よりしては、貴殿にきづはつけ申まじ、よく/\思案し給へと申ければ、浅見対馬守、上坂信濃守などは老武者共なれば御瞹の筋目により、いかにも畏可レ奉レ存とぞ申けりに付、泰貞も御請をぞ申ける。両使は夫より佐和山を御立有て、佐々木の舘へ引給ひ瞹の筋目を被レ申けるに、定頼とかく両御所の御下知次第に仕�違背�申まじくと御請被レ申上ける。此旨両御所はきこしめされ、いにしへの如く愛知川をかぎり、北は京極南は佐々木領分たるべし。海より西両郡は志賀の都は佐々木、高島郡は京極家の領知たるべき旨、かたく一札を取かはし、双方一家の中和と成にける。それより泰貞は鳥井本磯山二个所の城郭を破却して、佐和山には磯野伊予守に与力二百人相付佐和山城代に置、米原太尾の城には近所の城持共かはる/\〃相守べしと被レ申付、新庄駿河守は桐妻城を拵籠置、同月廿一日に上坂村へ帰城し給へば、江北の諸大将悦び勇みて我居住/\へ帰りける。泰貞は翌日上平へ参扣し右の次第を一々高清卿へ申上れば、御悦かぎりなくて、永孝坊といふ京極重代の刀を被レ下ければ、泰貞喜悦の眉をひらき上坂へ帰城したまひけり。
上坂泰貞養子附入道の事
斯て南北両家和睦し給ひてより軍止物静に成行は、諸侍も安堵の思ひをなし、国中の農夫それ/\〃の家業をなし、穏なる事本にきこえたり。ある時、泰貞熟我身を顧るに若き形目におとろへて、既に四十余歳に及べども家督をゆづる嫡子なし。女子一人ありけれど、浅見対馬守室となれば、今は誰をか養子とせんと種々思案をなすに、我高清卿御取立にて、今はかく栄ゆるなり。此恩いかでか報ずべき。とかく高清卿の御息一人申下し、我苗跡を譲らばやと思ひ、上平寺へ参上して高清卿へ言上す。高清不斜思召、汝が心に相かなふもの一人とらすべしとありければ、泰貞大に悦び、其時御子三人有けるが、中に次男にてわたらせ給ふ左近大夫殿を上坂の城にぐしたてまつり、泰貞はやがて隠居の暇を被レ申上ければ、京極殿被レ仰けるは、汝隠居せば、自然の時誰をか大将に指向べき二三年も、隠居の事はやきと被レ仰ければ、御意は御尤とは奉レ存候へども、我等隠居仕候とも、敵来にをいては何時なりとも罷出、討果し可レ申とさもゆゝしく申上れば、京極殿しからばともかくもと、御免を被レ出ける。泰貞よろこび、功成名とげしと申も今なるべしとて、やがて上坂より一里余西に今濱といふ所に城をつくり、上坂の城をば左近大夫にゆづり、我身は入道して実名を其まゝ用ひ、上坂入道泰貞斎と申今濱に住城す。此今濱と申は、太閤秀吉いまだ筑前守にておはせし時、城をきづき在名を改住給ふ今の長浜是なり。斯て治部大輔入道し給へば、上坂信濃守も入道して清眼と号、同修理亮入道し上坂道雲と申、同伊賀守は了満と名乗ける。入道泰貞斎聟なりける浅見対馬守は文武二道に達たる者にて、南北共に人用ゐる侍なりしが、各入道を聞嫡子斎宮助を対馬守と号し、家督を相渡し入道して実名を用ゐ俊孝軒と申、尾上村の城を拵隠居したりけり。泰貞斎つく/\〃物を案ずるに、其筋正しき人の子今一人申請、江北を両人しておさめ置、京極殿にかしづきたてまつらせたく被レ思けるに、此事美濃国土岐殿聞給ひ幸御息や多かりけん、泰貞斎に一人とらせたく思召されける。今濱への縁を尋給ふに、伊吹内匠助は土岐家中より縁組の人なれば、彼を被レ頼可レ然と申に付、内匠が許へ被レ仰遣。泰貞斎へ我子一人可レ遣候間、よく/\はからへよかしと御頼あれば、内匠今濱に来り、土岐殿方より右かやう/\と申入れば、泰貞斎聞て、土岐殿などの御子我養子などゝある事、無勿体次第なり、ふつ/\同心なしと申ける。伊吹罷帰土岐殿に此旨申入れば土岐殿聞給ひて、さればとよ泰貞斎もいやとは思はぬと見えたり。彼は義ふかきものと聞達て、被レ取持可レ給と伊吹が方へ被レ仰越ければ、伊吹又今濱に来り、再三しゐてぞ申ける。泰貞斎然は若君捨をかるべし。さあらば若き時より我城一里ばかりの間は夜廻り仕候間、其時見付申候はゞ、ひろひ取養子に可レ仕と申は、伊吹首尾は調ひると悦びて、しからば何方に捨置可レ申やと聞ければ、たつが鼻の川の辺にすてられよと申、互に約諾相極、伊吹内匠濃州へ立越、右の段々申上れば、泰貞老は聞及たるより義理の達したる人なりとて、御よろこびかぎりなし。内匠もおくへ請じられ、御馳走残る所なし。翌日十二歳に成たまふ若君小玉兵庫に被レ仰付、泰貞老が望にまかせよとて、江北に来、龍が鼻川辺に捨置、あたりを守護してゐたりけり。泰貞斎相図の暮にもなりぬれば、馬上二十人めしつれ、龍が鼻へ行、若君を見付、やあいかに人々われは子をもたざれば、一人は養子あり、今一人望しを、仏神三宝感応を蒙り、いまかく次男をあたへ給ふ事、祝着不過之候とて、則今濱へ具し申、囲繞渇仰中々なり。やがて少名を付、淵堤と申けり。此名は川端にてひろひ取しにより淵堤とぞ申ける。十三歳の春元服させ、上坂兵庫頭泰信と申ける。それより今濱の城を嫡子上坂治部大輔泰信にゆづり、上坂の城はかまへせましとて、次男兵庫頭泰信に相渡し、我身は今濱の内に舘を構へ、仏道修行に心を入て昼夜念仏三昧にて暮されける。此泰貞斎は若年の時分京極殿に奉公をとげ、後御名代被レ仕度々合戦に打勝、剰二人の子ともに所領大分あて行ひ、今又身しりそぎ、安楽に暮し給ふは一かたならぬ果報とて、うらやまざるものはなし。
上坂入道泰貞斎病死の事
去程に永正十二年十二月上旬より上坂入道泰貞斎は以の外の煩出しければ、良医かはる/\〃召寄せ医術をつくすといへども、業病のかなしさゆめ/\薬力すこしもかなはずして、次第/\によはり果て、入道必死と思ひさだめ、両人の子供を左右に近付、其外一門家老呼あつめて宣ひけるは、某病気目にそひ、重くして精気殊の外よわれば、定て程なく可死と思ふぞや。然は今迄我等仕置のごとく、江北の政事治部大輔とり行はるべし。第一に先君に忠義あるはこれ常のならひ道なり。上平におわします高清卿を尊崇し、随分忠義をつくし、又弟兵庫頭は治部大輔を主人とせられよ。治部大輔は兵庫頭を慈愛深くせらるべし。其下々旗本は先嫡子なれば、治部大輔を江北の主として某に付随ふがごとくせよ。一家とゝのはざれば、其国必乱るゝものなり。万事両人相談して、国の仕置を取行ふべしとのたまひて、其語二人の子どもばかりを枕本へ近付、潜に被レ申渡けるは、江北諸侍の中に某死したるとも、敵となるべき者一人もあるべからずゆへ、いかんとなれば、当国の諸侍いづれも久敷家なれば、其分際にしたがひて、所領安堵の地に住する故、求て謀叛の者あるまじきなり。爰に浅井新三郎亮政は若年の時よりも傍を不レ放召仕けるが、智恵才覚他にすぐれ、思案の深き者なれば、度々軍功其数多し。此者軍の術を我に向ひ推参せしに、一つとして違事なし。疾にも取立て者頭にもいひ付べしと、度々思ひけれども汝等が為にも行々あしかりなんとおもひ、家恩をも不宛行、小身にして置しかども少も不足の気色なく、よく奉公を勤めしは、とかく此亮政一人は僻者と思ふぞや。彼に心をゆるすな、又隔つる事も無益なり、よく念比にして召仕へと次第委被レ申渡ける。いよ/\病気おもく成行は浅見俊孝軒を近附て被レ申けるは、治部大輔も兵庫頭も両人共に若き者の事なれば、貴殿を偏に頼むなり。我存生の如く、家老の者と相談し給ひて、万事の仕置を申付給へ。兄弟のもの共も俊孝軒を父泰貞斎とおもひ、諸事異見に付可レ申と、それぞれに遺言して、永正十二年三月九日生年六十三歳臨終正念にして、念仏往生をぞとげられける。誠に若き時、軍功数度に及び仁政厚して君臣の道正しき者なれば、高清卿御落涙ましませば、江北中の諸侍おしまぬものはなかりけり。斯弥高寺にて葬礼いとなみ、青松院殿春岩宗月大居士と贈名して、其とぶらひはおびたゝし。高清卿御焼香被レ成ければ、江北の諸侍残らず焼香をぞしたりける。此泰貞斎初は上坂を三分一と堀部といふ小村一个所領知してゐたりし人なれども、かやうに江北の大将となり、死てまで人皆其跡をしたふ事、誠に果報の侍かなとうらやまざるはなかりけり。
浅井備前守先祖の事
浅井備前守亮政の先祖を相たづぬるに両説あり。先一説に後花園院宇、嘉吉年中に三條大納言公綱卿(後に政氏と改)勅勘を蒙り、左遷の身と成給ひ、佐々木京極中務少輔持清にあづけさせ給ひ、三條家の御知行所として江州浅井郡丁野村に蟄居したまふ。其時丁野村にて御子一人出来させ給ひぬ。若君三歳の時、勅勘をゆるされ帰洛したまふ。政氏公都に帰りのぼりて程なく薨す。母の心ひとつにて都へ若君を供し奉り上るべき便りなくして、十一歳迄土民の中にてそだておくに、若君母にむかひたづね給ふは、我父は何人ぞや、何方におはしまし候やと申給へば、母答て申せしは、汝が父は洛陽三條大納言殿にてわたらせ給ふが、勅勘を蒙り此所へ来、汝三歳の時帰洛まし/\て、やがて御迎可レ被レ下とかたく被レ仰置けれども、程もなく薨じ給ふと申、父の御かたみなるぞとて守り脇差さし出す。其後御年十四の春、京極持清鷹狩に出給ふを此君聞て、馬のさきにひざまづき被レ申は、某は丁野村の流人の子なり、供奉の御侍衆御名字を仰付いかやうにも被レ召仕可レ被レ下旨宣へば、持清聞たまひ、若年の身として近比神妙なりとて、そばちかくよせ給ひ、貴殿の父は公家なり、某近習に召仕事もいかゞなり、名字の事は貴殿住したまふ郡は浅井なりければ、則其名をなのらせ給ふべし。合力には其里を可レ遣とて丁野村の内をぞ被レ遣ける。去程に丁野村内上米は京着所の替作は京極の持分なり。それよりして、浅井新次郎重政と名乗、後には新左衛門尉とぞ申ける。其子浅井新三郎忠政、是も年たけ新左衛門尉とぞ申ける。其御子三人有、嫡子をば新次郎堅政、次男新七郎、是は三田村が家を次、三男新八郎、是も大野木が養子と成。嫡子新次郎堅政、男子四人あり。其嫡子をば浅井新次郎(後には姓字を改、赤尾駿河守教政と申、太尾後巻の時、箕浦河原にて討死)、次男浅井新三郎亮政(後備後守と改)、三男浅井新助(後に大和守政信と改)。備前守亮政に男子四人あり。嫡子は浅井新三郎高政(早世)、次男新九郎久政(後に下野守久政と云)、三男宮内少輔と申、四男は僧に成て智山和尚とぞ申ける。下野守久政の嫡男をば浅井新九郎(後、備前守長政と申て)近代の武勇者なり。此長政に男子一人萬福となづくるなり。長政の子ども衆の事(此物語の末に委可書入之)。又一説には、敏達天皇守屋大臣より俊忠卿、其御子式部大輔藤原忠次卿、初て武家にくだり、浅井郡五ヶ所を知行して、俊忠、俊政と来、此俊政より亮政迄廿七代と申なり。則其巻物も所持仕候へども、不審御座候。いづれが本説にて可レ有御座も、いまだ考出さず候。されども浅井新左衛門忠政より浅井名字多く栄へ、又一門も有レ之と申伝候。亮政武略を以て、上坂の城を乗取までは、江侍の内にても数ならざる小身人なり。四代が間は蟄居し給ふとぞ聞えける。
浅井新三郎木の本地蔵へ祈願を籠る事
浅井新三郎亮政、つら/\吾身の先祖を案ずるに、是三條大納言公綱卿の末流にして、今弓馬の家に下りて、其姓名をけがすといへども、草芥の中に埋れて当国にさへ人しれるものなし。武士たらん者は、天下をも心がけ、せめては一国一城をも不持して、徒に星霜を送る事生涯もなき次第なり。仰願は仏神三宝の感応を蒙り暴悪奸邪の偽臣を解し、一国一城の政事をも取行度思ふに、むかしより今に異至るまで、仏神に祈願を籠、其意思を述る習あれば、我も丹誠を抽て立願をなさんと思ふに、当国伊香郡木の本の邑長祈山浄信寺地蔵大菩薩は南天竺龍樹大士の彫刻たりしが、仁王四十代の帝、天武天皇白鳳元壬申年に竺土より摂津国難波の浦へ萬里の波濤に漂流して、よな/\金色の光、海上に耀きたまひければ、浦の長、帝へ奏し奉る。帝も怪き夢見たまひける事侍れば、思召あたらせ給ひて、則南都薬師寺の祥連に勅命をなし下し給ひて、彼尊像を海上より取上げさせたまふ。則灘波に伽藍を営し、唐隔山金光寺と号し、尊崇し給ふ。其後宣旨あつて、当国へ祥蓮安置し給ふ。今の尊像是なり。如此の霊像なれば、貴となく賎となく歩を運び、誠を以て祈り奉るに所願成就せずといふ事なし。吾則一夏九旬の間日詣をせんとて、永正七年四月八日、長祈山に詣て一通の願状をぞこめたまひける。其詞曰、
帰命頂礼地蔵大菩薩者、六趣苦海之大導師、其徳巍々而将超2余尊1也。是故昼夜愍2群生1普欲レ令レ到2彼岸1矣、是以無浄仏国土成就衆生之義者乎。抑当寺菩薩尊容者、霊験無双而、其号施2海内1実是日域不共之霊像也。時今及2澆季1、政道悉廃国豕将レ傾、爰亮政臥2田間1熟思レ此上専好レ驕無2撫民之義1下困窮、而既陥2塗炭1職之此由也。吾雖2庸夫1潜有2興復之志1以、為夫生2武勇之家1観2此衰頽1。不レ拯而徒累レ月積レ年與2草木1朽廃、非2武夫之本意1、仰願菩薩堆垂2無二之慈愍1満2吾素望1矣。然則已往当下傾2意於尊像1能修2堂塔及僧房伽藍1麼偏耀中寺門上仍願書之意趣蓋以如斯。
永正十二年孟夏吉日
藤原朝臣浅井新三郎亮政敬白
かくて亮政奉公の暇をうかゞひ、夏中九旬の間参詣をぞいたされける。其相満る夜、汝が祈願成就せり。能信ぜよとうつゝに告させ給へば、夢さめ手水うかひして、礼拝合掌して地蔵大薩堆の擁護し給ふよと感涙肝に銘して、いよ/\末たのもしくぞ覚へける。又同郡已高山鶏足寺は伝教大師来朝し給ひて、然るべき霊地をと所々を見立たまふに、御心にかなはせ給はねば、伊香郡に来て、延暦年中にみづから正観音の像を作りて、しばらく安座したまふ。其後又桓武帝に御心をあはせ給ひて延暦寺を開き給ふとぞ聞ゆ。誠なるかな此観世音は大慈大悲の御誓ひ、衆生済度の御願ありとて、同じく願状を籠給ふとぞ聞えける。しかはあれど今相尋ぬるに、其文章はしれざりき。
浅井亮政隠謀の事
去程に、浅井新三郎亮政は上坂入道泰貞斎死去の後、子息上坂治部大輔泰舜に付奉り、随分奉公勤といへども、泰貞斎に打かへ、新参の佞者を近付、忠諌なす者を遠ざけらる。誠なるかな忠言耳に逆ひ、良薬口に苦しとて、亮政などにも萬物隔つるようにして、外様奉公になりければ、亮政つら/\物を案ずるに、入道果給ひて、今幾程の年月もへざるに、よろづ我まゝにふるまはれ、酒宴遊興に心をよせ、出仕の慈にさへ不逢ば、行々は弥以て遊興に募り、家老の諌をも用る事はよもあらじ。さあらんにおいては、他人の国となるべきなり。我江北の者頭共の思慮を鑑るに、治部大輔を取のけ、上平殿を可守侍一人もなし。我所領さへ人にうばゝれずんば、たのしみこれに過しと思ふと見えたり。此時に当りて泰舜、泰信の行儀悪敷こそ幸なれ。何とぞ思案をめぐらして、泰舜、泰信を立て江北の政、我家より出すべし。しかはあれど小身の体として加様の大功思ひ立事、誠に蟷螂が斧を以て龍軍にむかふよりをろかなる事なるべし。去乍ら戦場の習にて、小勢を以て大軍を破る事古今其例多かりき。併我百分一に足ざる勢にて思ひ立んもをぼつかなし。しかはあれど、泰舜、泰信いまだうゐ/\しき内に思ひ立ずんば、いつの代を待べき。たとへば七十八十迄ながらふるとも、死は同じ理なり。某当年廿二歳にて討死せんも、以ては夢の夢なれば、此度是非に思ひ立、花々しき討死せんと、決定思ひ切、兄にておはします浅井新次郎教政が本へ行、此由潜にかたれば、教政大に怒て申されけるは、汝は気違候よな、我等兄弟三人が勢わづか六十には過す。此端武者を以て、泰舜、泰信を討ん事九牛が一毛よりもおとつて候ぞ。其上大野木三田村は一門なりとは申せども、御辺かやうなる死武者に、よも組せんとは申さじがたく、思ひとゞまれと大に怒てかへしけり。かくて亮政、三田村が舘に至り、隠謀かくと語れば、貴殿は狂気に成たまふか、治部大輔、兵庫頭とは江北の諸士うやまひ尊ぶ折なれば、我々にくみする武士あるべきぞ。勿体なき心中かなと耳にも更に聞いれねば、亮政心に思ふやふ、扨は此人も役に立まじ。とてもならぬ物ゆへに、ことばをつくすも無益なりと思ひ、そこをもずんと罷立、大野木が方へ行、内談して見んとて対面し右の趣密談す。大野木聞ていはく、亮政殿は例の大気なる事を宣ふ物かな、貴殿兄弟三人、三田村我等以上五人の勢を以て泰舜を討ん事、帳良が術をえたりとも、何とて本意を達せんや。五人が勢を今濱上坂勢に合すれば、百分一もあるまじきぞ、とてもかなはぬものゆへに恥辱をかきて、後代に悪名をとゞめんより、時節を侍たまへとよく/\諌られければ、亮政心に思ふやふ、三田村、大野木は頼甲斐なきものなるぞ。彼等が存立ならば、勢は七八百も有べきぞ。又我日比ちなみし方にも味方に参りなば、彼是合一千一二百騎も有べき。又治部兵庫勢とても五六千の外はよもあらじ、とかくに思ひ立追散さん事何の子細の有へさと、はがみをしてこそかへられけれ。かくありける程に、誰にたよりて相談をすべきやうもなかりしが、いや思ひ出したり。げにも尊照寺村に住せし大橋善次郎秀元は互に竹馬の時よりもちなみたる朋友なれば、かれに語り見ばやとて、秀元をひそかによび、此由かくとかたれば、善次郎聞、さて/\貴殿にはよくこそ思ひ立給ふ物かな。今治部大輔物ごとうゐ/\しき内に思立ずんば、いつの時をか期すべき。我等も内々は貴殿とこそ相談し、此儀を是非と思ひしに、よくこそしらせ給ふ物かなと感じければ、亮政は不斜によろこんで、誠に貴殿ならではだれあつて頼み甲斐のある人や候はんと、残ることもなげにぞ見えにける。秀元申けるは扨大野木殿、三田村殿へは御しらせあるまじきやと問に、其事にて候、はづかしくは候へども、昨夜両人方へ罷越かくとかたりしかども、中々色を変じ、以の外の体にて剰我を狂気者のやうに申候て、取申合さずとあれば、善次郎聞て、御一門には候へども腰のぬけたるかた/\〃に候程に、左様ならではえ申されまじきとゝつといふてぞ笑ける。此事他所へもれぬさきに、一時もはやく思ひ立給へ。貴殿御兄弟三人と我勢を合せなば、百六十程こそ有べけれ。今少勢も不足に候へば、伊部清兵衛為利は軍功も其隠なし。御辺とも我等とも別して心底残さずかたらふなれ。かくと申さばやといへば、亮政ともかくも御分別次第と被申ればさあらばとて、清兵衛尉所へ行、対面してしばらく世間の事を語り、やゝあつてひそかに申けるは、貴殿を此度偏に頼申度事候が、たのまれたまはゞ申べし。御同心もいかゞとおほしめさば、このまゝ罷帰らんといへば、為利聞てにつこと笑ひ、御辺の事に候はゞ、二なき命を奉らんと心よげに申て、はや/\〃意趣をかたられよとあれば、秀元別の子細ならず、我等も浅井亮政にたのまれ、其為に命をつかはして候と申せば、それはいかやうなる事に候やと問ざればとよ、亮政逆心を企て泰舜を討べき謀なり、就其貴殿を偏に頼べきとの事なりとあれば、為利聞て、内々は我等も思ひしが、扨は亮政の若者に先をせられける事よ。いまだ若年の分として加様に思慮あるは、江北の主となり天下をも心にかけ、諸士の棟梁となるべき器量ぞかしと感じ、何時なりとも我等先をいたし一方打破べしと憚もなく荒言す。とかく加様の事のび/\にては、他へもるゝものなり。明後日は是非に打たゝんとぞ申ける。秀元不斜に悦て、御心中の通、亮政にかたりよろこばせんとて暇乞して立返り、為利が心中を亮政にくはしく申ければ、さてもたのもしき人かな、是こそ武士の道ならめと、たはひによろこび勇みける。其儀ならば明後日は打立んとそれ/\〃に支度をぞしたりける。誠に小勢を以て大軍にむかひ其功をとぐべきの謀、よのつねならぬ人々かなと功なって後、感ぜぬ者はなかりけり。
浅井三代記第二終
底本には濁点、句読点は無いが、読みやすくするために濁点、句読点を附した。
第三
第三(全文)
浅井新三郎智略を以て上坂の城乗取事
かくて伊部清兵衛尉為利、大橋善次郎秀元二人の者どもは、浅井新三郎亮政が舘へ夜中に行、密談して申ける。明後日は軍の手立は何と謀りたまふぞや、様子心許なくおもひ、夜中にかくは来るなりといひければ、亮政承り、今宵是迄御越の儀、一入過分に候、明後日の手立相談可レ仕、兄弟共にも軍の契諾いまだ申含めず候間、只今此方へ呼よせ評議相極可レ申とて、則使節を以て申されける。其時兄新次郎政信は同所丁野村に住城す。三男浅井新助政統は川毛村と申て丁野村より五六町ばかり脇に住所ありけるが、二人の者共を呼寄、軍評議をぞしたりける。先亮政の思召入を語りたまへと有ければ、亮政被申けるは、明後日はこと/\〃く支度して日暮なば、五つ時分に上坂の城近く堀部村へしのび入、それより物見をば彼城内へ入、様子を見はからひ、時分を告来るにをいては、我等百騎の勢をつれ、上坂村惣構内の薮の内へしのび入、合詞を以て我手前へ馳来るやうに侍共に申付置なり。御辺達両人は新次郎を召つれられ、残る百三十騎の勢にて堀部村は上坂村より間六七町ならではこれなければ、其堀部村に火をかけ閧を憧(口篇)とあげらるべし。其時城中驚き取ものも取あへず、我先にとかけ出べし。敵合遠きと思ひ給はゞ、又閧をあげ給へ。其時兵庫頭も討て出べきなり。其後両人の人々は、百騎の人数を打つれ、敵の中へまぎれ入、追手の門を心がけ、随分はやく可被来新次郎は残る三十騎の勢にて四五町次なる垣龍村へ行、又四方より火を放ち、閧を作り給ひ、それより何方へなりとも、敵むかはざる方へにげのがるべし。自然首尾もよきならば、からめての門を心ざし可レ被2馳来1。我等は上坂の勢城中を出といふより心がけ、八分程出るを見ば、敵の帰足の様にして、城中かけ入、門を固めたるやつばら、番所/\の者共一々に切捨、やがて門をかため、手あて/\を申付、敵帰るものならば、射立切立さんざんに可レ防。貴殿達も随分はやく城中へかけ入たまひ、共に防ぎ給ふべし。若兵庫頭が勢懸出ぬ物ならば上坂の城へ押寄、侍共の家々町屋不レ残放火して、其上にて様子見はからひ、無二に切て入べし。敵こはくしてかなはずば丁野村へ各一所に取籠り在所をかためて可防。敵猛勢にて責来らば、花々敷一働し此程の眠を覚させ、其上にも我々に見つくものこれなくば、腹かき切て可レ果ぞ。各も覚悟し給へとありければ、秀元、為利是を聞、さて/\亮政の手立は異国の張良韓信、我朝にては義経、正成も御辺の術にはいかでか過べき。如レ此の術ならば、江北は廿日の内には切取べし。其いきほひを以て江南へ乱れ入、六角殿を追立、天下に旗を可レ立程の器量なりと称美すれば、亮政大によろこびて、さあらば明後日の暮に、丁野村へ二人の衆も御出あれと堅く契約いたし置、秀元、為利二人の人々は我居住へ帰、其用意をぞしたりける。去程に永正十三年子の八月廿三日の戌の刻に二百三十騎の勢を引具し、丁野村を立て上坂の城近くしのびより、堀部村の森に居たりしが、しのびの者をつかはし、上坂の様体を見せけるに、折ふし城中に酒宴の音したりければ、此者時分は今なるべしとおもひ立帰り、此旨かくと申せば、合図のごとく亮政は百騎の勢をつれ、追手の惣構の弓手馬手の薮陰田中に人数をかくし置。折しも稲葉をおとづるゝ秋風物さはがしく吹ければ、思ふまゝにぞしのびよる教政、秀元、為利、三人の人々は堀部村にみだれ入、家々に火をかけ、閧の声をぞあげたりける。上坂の城には酒宴なかばの事なるに、是はいかなる事やらん。何様謀叛人出来て夜討するかとて、上を下へとかへしつゝ騒動することおびたゞし。泰信申されけるは、入道泰貞斎殿の申をかれし事の候へば、浅井新三郎にて有べし。此者人数をよく持とも、五十か六十ならではあるまじ。急ぎ懸むかひしやつ生捕にせよとありければ、はやりをの若者ども我先にとかけむかふ。兵庫頭もはやりきつたる若者なれば、進みにすゝんで出給ふ。城中には大将討出給へば、誰可レ残といふ者なくて、皆追々に馳出、千五百騎の兵一人も不レ残兵庫頭に馳付けり。折ふし上坂入道了清子息伊賀守、同入道道宥、子息修理亮四人は其夜は今浜治部大輔泰舜にてふるまはれ、夜更までも不レ帰、上坂入道清眼子息信濃守ばかり城より外にあつて住たりし。兵庫頭懸向ふを聞若き大将一人夜中に取放事心許なく思ひ、追続き打て出る。新三郎は思図に敵を出しぬき、百騎の勢を引率して場内へ懸込は番所/\の者ども味方帰とおもへども、寄手兵仗して門番の者五六人、矢傷になきすてければ、こはいかなる事ぞとて、あなこなたと防げども、百騎の者ども四方八方へかけ廻り、追つめ/\戦へば、皆ちり/\〃に落にけり。かゝりける所に兵庫頭の妻をはじめ武士の妻どもいとけなき子をいだき、こゝのつまりかしこのつまりにひれふし、涙にむせび、途を失なひてゐたりしを、新三郎さすが大将と可レ成人の事なれば、此方へあだとならざる者を一人も殺すべからずと下々に下知して矢倉へ打あがり、敵合を見給ふに、いまだ一人もきたらざれば、搦手の門を開き、其妻子共を、案内を付てぞのけ給ふ。かくて伊部清兵衛尉為利、大橋善次郎秀元、敵むかはさる先に閧を二度作り、百騎の勢を引つれ、案内はよく知つ上道へまはり敵一人にも行逢ず、上坂の城へ馳付、新三郎一所にこもりける。新三郎不レ斜によろこび、門々を固め敵の帰るをぞ待ゐたる。浅井新次郎教政は郷つゞきなる垣籠村に火を放ち閧を憧(元字は口篇)とあげ、行方しらず成にければ、上坂勢は是を聞ざれば、小勢なるぞ一人もゝらすな討とれと、かの村へ押寄四方を取巻て見れども、敵一人もなかりけり。里の者を尋出し問ければ、武士とおぼしくて、甲冑を着たる者二三十人馳来り、家々に火を放ち閧をあげ何方へか帰り行候と申せば、それはいかなる方へにげ行やと問ば、南東へ逃行候と申。兵庫頭是を聞、扨もにくき夜込の次第かなとて跡をしたふて討とらんといひしに、信濃入道清眼申けるは、是いかさま心得がたき敵のふりにて候。味方をゝびき出すかと覚え候ばや引取給へと有ければ、兵庫頭も信濃入道に諌められ、上坂さして帰り何心もなく城へ入べきとせしを、城中には是を見て究竟の射手どもさしつめ引つめさん/\〃に射ける程に手負死人出来ければ、こはいかに城中ははや寄手の方へとられけるとて、兵庫頭無念たぐいなくおもはれ、此まゝ取巻可レ攻と下知せられければ、上坂信濃入道申けるは、比は八月廿三日折から一しぐれして、東西暗く物の色さだかならねば敵いかやうなる謀をやたくみ置らんに、多勢を頼みに取掛城中より追掛られなば、味方半討るべし。其上浅井一人して如此なる大功はよも思ひたゝじ組するもの多かるべし。又大野木、三田村も同心にて有べし。定て勢の一二千もなくば、よも思ひたつまじ。裏切をせられぬ先にまづ爰を引退き治部大輔殿と被2示合1、明日押よせ攻たまへと有し所へ、修理入道道宥、子息修理、伊賀入道了清、子息伊賀守、四人の者共は敵味方呼声を聞、もろあぶみにて馳来りけるが、はや城中を敵にうばひとられければ、伊賀の入道、信濃入道を怒て申けるは大将兵庫頭殿こそ若年にてはやり給ふとも、其方爰に有ながら如レ此敵におめ/\とだしぬかれける事の口惜さよとて、すでに攻んとせしに、味方雲のすきまを見て敵のよするかたへまはり、さしつめ引つめさん/\〃に射立ければとやせん、かくやあらんとしばしがあひだは騒動す。城中には是を見て、秀元、為利は門をひらき切て出、一々討取べきとひしめきける。新三郎引とめて申けるは、夜中に敵の中へかけ入、一旦利りとも多数取てかへされ、城を付入にせらればいかに悔とも、益あらじ今夜の勝は十分にて城中心易くかためたり、しづまり給へととゞめたり。かくて清眼、了清、心はたけく思へどもさうなう責入事のならざれば、兵庫頭の供をして今浜さして落行ば治部大輔は驚き、いかにいかにと尋ねけるに、信濃守右の仕合委く語れば不覚悟なる次第かなと言語を絶て怒りける。かくて明れば廿四日の早朝に浅井新三郎亮政謀叛を企て上坂の城を乗取旨江北中に隠れなし。亮政と常々なぢみし者とも、扨も大気なる事を思ひ立ものかな。亮政を見つかんとて浅井新六郎、中島加助、伊部助七郎、丁野弥助、田部助八、尾山彦右衛門尉、彼等六人其勢二百、上坂の城へ懸込、亮政に逢、加様の大義思召立ならば、我々にも少しらせ給ふべきに心底隔給ふかと恨をばして申ける。亮政大に悦び早速是迄御見次給ひ候段、弓矢のなさけにて一所に討死したまはんとの御事過分不レ浅とてよろこびかぎりなし。かゝりける所に三田村左衛門大夫、大野木土佐守、上坂の様子を聞、扨々亮政我等の意見も不2聞入1、上坂の城を攻取なり。我々も一門の中なればとてもゆるさぬ物ぞかし。上坂へ馳入一所に成て今浜勢を防がんとて一門与力八百余騎を引率して、上坂の城へかけいれば、廿四日の巳の刻迄に城中忽に千二百五十騎になれば、亮政大に悦びて、此人数を以て戦はゞ、敵幾千万騎にて寄来るとも、敵を城外に一足もためさせじと荒言す。大野木、三田村、是を聞亮政の例のごとくがさつなる事を被レ申よとて、皆一笑をぞしたりける。
上坂合戦の事
明れば子の八月廿四日の事なるに、今浜の城には上坂同姓打集り、軍の評定とり/\〃なり。中にも上坂掃部頭進出て申けるは、今日の軍は時刻移りてはあしかりなん、旗本人数にて上坂へ押寄侍せ、町まで焼立四方より責らるべし。其内に味方多く馳付可レ申候時をうつしなば、新三郎に心をあはせし者ども上坂へ馳着多勢籠城せば、事の外味方の手間入可レ申候間、はや/\〃打立給へと申けり。並居たる人々、味方在々より馳来を待合せ可レ寄といふもあり。又、掃部頭申所尤可レ然といふもあり、評定更に決しがたし。誠に泰舜、泰信、日比行儀あしき故、家老の中間さへしまらねば、諸卒の心もしられたり。かゝりける所に尾上村に住する浅見入道俊孝軒は山本へ馳来る子息対馬守孝成をいざなひ、手勢五百余騎を引率して今浜さして急ぎける。今浜に着、治部大輔に対面して何とて御油断候そ、御家老衆歴々の評定いかゞ被レ極候や。一時も急ぎ彼城へ押寄責らるべし故、いかにとなれば旗本の中にも新三郎に心をあはせつる者も多かるべし。彼に勢のつかざるさきに押寄べしとて、先其日の士大将には浅見対馬守、上坂信濃守、同掃部頭、彼等三人にいひ付らる。かくて永正十三年八月廿四日の巳の下刻に今浜を打立給へば、四方より人数馳集り、六千五百余騎に成にけり。俊孝軒治部大輔に向ひて申けるは、敵は小勢なれば無難責落すべし。去ながら新三郎は目ばやくして心するとし、かなはじと思ひなば四方を不顧旗本へ突かゝるべし。惣じて平城の事なれば、四方八面に働べし。物に心得たる者を旗本に可レ残とて上坂修理入道、同信濃入道、両人して旗本を守護したり。俊孝軒は脇備に有べしとて遊軍と成てそゐたりける。去程に上坂の城近く押まはし、遠巻に取巻て閧を憧とあげたりけり。城中には是を見て、伊部清兵衛、大橋善次郎、二人の者共は元来勇気なるものなれば、すでに懸出、敵を追立んといふ。大野木土佐守秀国、三田村左衛門大夫、定光清兵衛、善次郎を留め、率爾なりしばらく御覧ぜよ、敵もむざとは寄ましきぞ、味方も手立有べき所なり。亮政は何方に御入候やらんと有ければ、亮政は敵いまだ寄ざる先より大手の矢倉へ取のぼり、敵のよする次第を物見して居たりしが、寄手近/\と来るを見て矢倉よりおり軍の手立をしたりける。亮政申されけるは、寄手近/\と取巻なば城中は無労なり、勝利を得る事あるまじ、とかく今日の軍は無二の働こそよく候はめ。先一番備をば清兵衛殿、善次郎殿両人の人/\を頼み候なり。第二番は某可レ仕、三番には大野木殿、三田村殿を頼むなり。三番備は人数を被レ備我等引手色に見給はゞ切て懸らせ給ふべしとのたまへば、清兵衛、善次郎、尤なりとて門脇へ打立出る。相続く人/\には伊部助七郎、丁野弥助、田部助八以上其勢百七十騎、大手の門より五反ばかり打て出てぞ備たる。新三郎亮政、二番備にて敵を待、三番に大野木、三田村、門の内にひかへたり。寄手は近々とよせむかひ、二番備までの人数を見て、小勢なるぞいざ押よせて打とれとて、浅見対馬守、五百騎ばかりを左右にして時を作りて切て懸る。清兵衛、善次郎、百七十騎にて面もふらず突立追まはす。亮政、時分はよきと心得、憧といふて前手に追続き切てかゝる。寄手大勢と申せ共、此競ひに突立られて敗北す。上坂掃部頭、口分田彦七郎、両人の者ども鑓を横たへ、きたなき味方の者共かな敵を味方に合すれば十分一もなきに、取てかへして打とめよと喚叫て突かゝる。清兵衛、善次郎も心はたけく勇めども、上坂、口分田に追立らる。新三郎是を見て大音あげ、浅井新三郎亮政といふ者なるぞ、討取給へと名乗てかゝる舎兄新次郎、三男新助も相続て面もふらず突かゝり、蜘手十文字に打破りかけ通れば、掃部頭、口分田も爰を詮途と防げども、其まゝそこを追立る。対馬守入替りて戦へときをひかゝれる味方の勢、一足もひかず戦へば、旗本迄騒動す。遊軍となりて居たりし浅見入道俊孝軒さすが年老の武功の人なれば、二百五十騎横鑓につきかゝれば、大橋と伊部と火花を散して戦ふたり。亮政申されけるは、是名ある古武者なり、心得よ味方とてしばしが間は戦ひしに、又直道よりも追立る味方大に敗軍す。跡にひかへし大野木、三田村、八百ばかりの人数を一度に憧といふて打て出る。今浜勢肝をけし、一さゝへもさゝへずして旗本さして崩れければ、味方是に気を得て旗本さして追立る。旗本、大崩して騒動す。俊孝は是を見てきたなき味方のありさまかな、討死爰なりとて取てかへせば、新三郎、清兵衛、爰にあり、俊孝殿に見参とて面もふらず切てかゝる。さしもに剛なる俊孝も今浜さして引たまふ。新三郎、何くまで落さんとて追ふたりける。浅見新七、堀屋弥七、引かへして討死す。此隙に落のひける亮政は俊孝軒を既に討とらんとせしに、浅見新七、堀屋弥七、れき/\の働して打死する故もらしぬるこそ無念なれ。去ながら味方の勢もつかるらん。長追すべからずとて七八町追討して、皆打つれてぞ引にける。誠なるかな一陣敗れて残党不全、侍大将三人の者どもが手にて敗北しつれば、手に不合引のく兵過半なり。武者は大将のつかひからなる物なるべしと陰沙汰して申ける。今日の軍に敵百八十討とれば、味方も四十一人被レ討にけり。
今浜勢軍評定附上坂勢評議の事
かくて昨日廿四日上坂表にして治部大輔が勢大きに利を失ひければ、治部大輔兄弟、浅見入道を初め敗軍の士卒を集め重て上坂へ出張し、今度は無二の一戦をとげんとの儀なり。浅見入道俊孝軒、大将にむかひ申けるは、昨日廿四日の合戦に敵を小勢なりとあなどり、我討取高名せんと諸卒一度にいきほひしに、浅井、味方の気をつよくのんで、二番備までに火出る程戦ひ味方つよくして追立/\二度迄敗北す。しかれども跡に大野木、三田村、門の陰によつてこらへゐて、二番備の人数戦ひまけ崩れしを時分と思ひ、大軍身命を捨切てかゝる故、我等横鑓にて善次郎、清兵衛は討取べき物を大野木、三田村に突くづされし故、味方敗北す。我等横鑓の図、今少はやき故若者どもに戦ひまけ申候間、重ては一二三の備軍法をよく定めかけ、むかはるべしと被レ申ければ、其座に並居たる各申けるは俊孝軒の仰の通残多き軍なり。重ては此方にも一術しめて被レ遊可レ然とぞ申しける。かくて方々へ廻文付人数を集め給ひける。惣じて江州一国は六角京極両家代々久しく領知の国なり。其上近江侍とて我住する郡を知行する大名も有、或は我住する郡に他国の郡を添て知もあり。それより下つかたは己が在所に則、領知して居るもあり、又五ヶ所、お七ヶ所も相添て知行するも有て、其在所にて筋目正敷して戦場にてけなげなる者には、只今の足軽扶持程得させ置はいづれも馬にのり、家来少々引具し併せしなり。平生は月替に部分に相詰供せしと聞、其時治部大輔旗本三千と申けり。兵庫五百内、同姓掃部頭三百を加へてつもるなり。上坂伊賀、同修理、同信濃は幕下なり。人数つもり場所より多く出るにより、此段にて相断るなり。かくて高畠郡は海を隔ければ先指置、浅井郡は不レ及レ申、伊香郡坂田郡犬上郡迄今浜へ相詰らるべしとて触まはしければ、或は昨日の軍にいた手を負たるとかこつけて居るもあり、又畏存ると申て不レ来もあり、心/\にしてしまらざりけり。是を如何にと申に、泰信元来心甚しくて我前にて媚諂ふ者は近付、又諫言などを申程なる者は遠ざくるやうなる気質なれば、人/\不思付、又浅井智略を以て上坂を乗取といひ、翌日の合戦に花々敷働して、今浜勢追立る其力高く思へば人/\二の足を踏てゐたる故、廻文ありといへど坂田郡の勢、犬上郡の勢一人も不レ来、浅井郡伊香郡人数少々来りければ、俊来軒のたまひけるは方々より来る勢を待どもはか/\〃しき事よもあらじ。此人数に旗本人数をさし加へ押寄可レ責とぞ申ける。かくて上坂の城には今浜の様子告しらする者有て、勢不レ集事聞ければ伊部清兵衛、大橋善次郎二人の者ども申けるは、今浜より敵寄さる先に此方より押寄、明日未明より今浜の城を責られなば、矢一筋をもはか/\〃しく射出す者あるまじ。大方逃失可レ申、泰舜、泰信も定て落らるべし。城に残て戦ひなば、此二人の者手にかけ可2討取1と憚なくぞ申ける。亮政此旨を聞、御辺達のつもりも尤には候へども今浜の城は入道泰貞斎のよく拵置れたり堀深うして岸高し。其上俊孝軒は軍道常にわすれぬ良武士なれば、味方堀にひたると思ひなば、城中より切て出らるべし。其時味方切立られん事案の内なり。たとひ勝利ありとも後/\の大事たるべし。先しずまり給へとて、秀元、為利二人の者共をとめられけり。重て二人の人/\申けるは、いやいや軍は手ぬるく被レ成ては勝利すくなきものなり、其上勢多く集りなば、むつかしくなるべきぞ、唯打立たまへと申ける。亮政制してとめけるは尤各の術も宣く候へども、俊孝といへる人案深き人なれば、一昨日も今浜に勢を残し被レ申べし荒手の少々あるべし。其上今日押寄責るとも、城中に人数二千ばかりも有べし。又馳集る勢の五六百もあるらん。此方の諸卒も丈夫には思へども、多勢にて追立られば長途追討にうたれ剰、此城を付入にせられなばいかにせん、此城にて敵を引よせ俊孝軒の手立を見、城中堅めて今一両日も敵の働をよく見届ずんば軍はあひしらひばかりにて、つよくは働まじきと申されければ、大野木、三田村、尤と同じ二人の者共もとかく御手立次第なりとておもひとゞまりけり。かくて今浜には敗軍の士卒をあつめ給ふに、方々より馳集り、其勢四千余とぞしるしける。治部大輔俊孝軒に向ひてそれ/\〃人数組いたされよと有ければ、俊孝心得たりとて人数立をぞ定めける。浅井は武者の色をよく見て軍立すくやかなり。此方にも一術せんとて旗本に治部大輔、兵庫頭を七百余騎にてかためさせ、一番を浅見対馬守、二番を掃部頭、三番寄勢今村掃部頭、上坂信濃入道と俊孝は脇備になりて、亮政が働く色を見て雙方より包討に可レ討との巧みなり。其座の若者共は加様に敵にをちては軍勝事よもあらじ、敵の勢を味方の勢に合すれば五分一も有ままじ、新三郎討て出はひつ、つゝみ打取べき物をと敵をあなどつて申者も多かりけり。俊孝人数組、それ/\〃相極め、永正十三年九月三日の卯の刻に六千余騎を率し、上坂の城へ押寄たまふ。一番浅見対馬守、上坂修理亮、二番上坂掃部頭、口分田彦七郎、三番寄勢今村掃部頭、四番上坂伊賀守、小蘆宮内、五番旗本上坂兵庫頭、同治部大輔指添て置、上坂信濃守は脇備となりて居る。浅見入道俊孝右脇備となり堀部村に隠居る。是は浅井つよく働ば押包可レ討との事なり。新三郎は此旨を見て今日の一番には大将亮政五百余騎を左右にして出らるゝ、清兵衛、善次郎は二番に備たり、大野木、三田村は上坂の郷内に備を立てゐる。かくて浅井一番にかけ出、射手をそろへ、浅見対馬守、上坂修理亮備の中へ真黒に成て寄かくる。今浜勢も射手を出し、敵味方互にさん/\〃に射たりけり。修理亮閧を作り切てかゝれば、新三郎しばらく敵をあひしらひ、次の備へさつと引、跡にひかへし口分田彦七郎いきほひをぬかすな討とれとて、喚叫て切てかゝれば、浅井一勢さゝへもささへずして郷の内へにげいれば、今浜勢追続てかけいらんとせし処を俊孝軒使立、深入して敵に取てかへされたまふな早々引取れよとて、再三宣ひ越れければ、彦七郎申けるは、左様におくしたまふは何事ぞや、三段四段の勢を是へよせられ城の内へ敵を追込、平責にせしむべしとて勇みにいさんで責よする。俊孝達て引べしとありければ、今浜勢は浅井の勢を郷内へ追込てぞ引にける。清兵衛、善次郎、此由を見るよりも爰こそ能軍の図なれ、跡を黒めてたへ大野木殿とて討て出んとす。新三郎、鑓の袖にすがり付てとめけるは、先我次第にしたまへ、悪敷は計ましとてとゞめ城の中へ引入けり。俊孝手立は相違して敵少も働かねばいざ押寄て可レ責とて追手搦手一度に取巻、閧を作りかけ/\責れども、浅井勢しづまり切てかけ出す。されば寄手猶も競ひ四方八方より責ければ、やゝあつてつまり/\より矢先を揃へ、一度に雨の降程射出しければ、寄手猶予して見へしを、時分はよきぞ、いざ追散さんとて追手からめての城戸一度にひらき、千三百をめきさけんで切て出れば、寄手一足も踏とゞめずちり/\〃はつと敗北す。浅井首三十ばかり打取り門前ばかり追払ひ、味方を打つれ城の中へ引とれば、今浜勢其日の暮方迄城を取巻責れども、城中の兵どもこゝかしこと走廻り矢先をそろへて防ぎければ、責あぐみて見えし処に、又新三郎五百ばかり引具し追手の門をひらき、閧を作りて切て出、敵をさつと追払ふて人数打つれ城の中へ引とれば、亮政の軍ぶり古今まれなるかけ引て、敵味方と諸共にどよめき渡つてほめにけり。日も漸に暮行ば治部大輔も諸勢打つれ、今浜さしてぞ引取ける。
京極殿へ上坂治部大輔御出馬をこはるゝ事
かくて上坂治部大輔は浅見入道俊孝軒いざなひ、上平へ参扣して浅井新三郎亮政逆心を企て、上坂の城を乗取旨申上れば、京極高清卿聞たまひて被レ仰けるは、其旨此方へも疾きこえしが、只今迄此方より何の一左右もせざる段は、余り汝等鼻毛をのばして大ふせりをする故、目をさます迄はすきと君臣の中をたち可レ申と思ひかまはざるなり。先兵庫頭といふ上気者、浅井の若者に出抜れ我居城を無2由緒1乗取れ候事、前代未聞の恥辱たるべし。泰舜も又浅井小勢にて眼前に働かせ踏つぶさゞる事、汝が武勇の程のあさましさよとて大に怒りたまへば、入道俊孝軍の始終申上れども、御耳にも中/\聞入給はず怒らせ給へば、治部大輔は赤面してとかう不2申上1。されば俊孝御諚尤には御座候へども、屋形の御旗不2差向1候はでは、諸事働事も有まじ。其上御出馬被レ成候はゞ、治部大輔先懸仕、無二の軍勇をはげますべきとの覚悟にて御座候と申上れば、家の執権被レ召出いかゞ可レ有との評定なり。列座の面/\も御返事申かねてぞゐたりける。中にも大津弾正進み出て申上るは、とかく此軍油断候ひては悪敷可レ有御座候、此節にて候へども江北の大名分中にも浅井に心をかよはし、二の足踏者も多く候らん。時刻移しなば、上坂勢は重り可レ申候間、早々御出馬可レ然と申ける所に錦織図書申けるは、弾正被レ申段尤に候。先日も今浜よりの人数揃にも泰貞斎の時分とちがひ、無返事なる者も多きよし聞え候条、江北大名分の者共の心底もしれ不レ申候間、御廻文御まはし、勢を御そろえ被レ成候ひて御出馬可レ然奉存と申ければ、此儀尤と同じて頓て御出馬可レ被レ成候間、上坂の此方に向陣を取て敵城へ人数を不2馳込1やうに可レ仕とて治部大輔を今浜へ被レ返けり。斯て治部大輔人数を押出し上坂の近辺、垣籠村、小堀村、小蘆村三ケ所に人数を備てぞゐたりける。浅井が方よりも足軽歩立二十三十づゝ出合、敵をあひしらひてゐたりけるが、敵つよければ構の内へ引取懸つ返しつ足軽合戦をぞしたりける。今浜勢は浅井あひしらひ置とはしらずして、各寄合申けるは、先日廿四日の軍に亮政は深手を負ぬるか、又討死をするか二つに一つ必定なるべし。彼者堅固にあるならば、加様にをくれてよもあらじといふ者もあり。又上平より御旗むかひ申を聞、城中の侍共多く落行、無勢に成故、城中よばるかと覚ゆるとぞ申ける。浅井城中より人数も不レ出、其上見次勢も不レ来ば寄手大きに油断して、浅見入道俊孝父子共に屋形の御一左右迄休息せんとて居城山本の城へ帰り給へば、治部大輔も兵庫も足軽少々在番に置、今浜へ引取休息をぞしたりける。
浅井智畧を以て今浜の城を責取事
去程に江北屋形京極高清入道、環山寺殿より廻文有て諸侍に一左右次第に可2馳参1旨、黒田甚四郎、多賀新右衛門尉に被2仰付1御触有ければ、御一左右迄休息せんとて皆己/\が在所へ行、明日の命もしらざれば妻子ども名残をおしみ、我も/\と引籠りければ、今浜の城には治部大輔兄弟の手勢上坂一家ばかりにて、漸々千五百余騎程ならでは勢なかりけり。此旨浅井が本へ注進する者侍れば、亮政聞て是よき幸なり。謀を以て城を責取度被レ思けるが今浜近所の侍に誰人か伝あらんと相尋給ふに、今浜村つゞき宮川といふ所に宮川左次兵衛といふ者は代々久しき家にて武功も多く有者なりけり大野木姪聟なり。其所に筧助左衛門といふ者有けるが、此者だに味方に引入給はゞ、左次兵衛が儀は味方に異議有まじきと大野木申されければ、其儀に候はゞ左次兵衛尉を頼み、筧に手入を頼みて見ばやとて、大野木方より頼越ければ、筧助左衛門、宮川両人味方となれば、今浜七八町北に烈毛村といふ所あり、是に住せし細江十兵衛といひし者も宮川村の二人の者共に被2誘引1味方に来る。亮政不レ斜悦て清兵衛、善次郎を近付被レ申けるは、此者ども味方に来る事、天のあたふる幸なり、殊に今宵は風雨はげしければ一手立して見んとあり。二人の人/\いかにもしかるべしと有ければ、清兵衛尉兄新二郎召つれられ、三百余騎にて宮川村へ其夜丑の刻ばかりにしのび入て居給ふべし。善次郎は今浜の脇八幡の森に二百余騎にて伏たまへ、大野木殿と我等は六百余騎にて今浜の丑寅の方により明六ツ前に陣取程に可レ出、三田村殿は此城に残り給ふべしとありければ、三田村、此旨を聞尤術はさも可レ有候へども、四方共に皆敵なれば途中にて取巻なば、此城へ引取事なるべからず。又留守の内に此城へ上平より寄られば我等無勢に追立る程の事はいかゞなり。今浜と此方との間取きられば可レ引様あるまじ、此ばかり事無用なりと同心せず。亮政、為利、秀元は身命を塵芥よりも軽く思切し人なれば、三田村が異見に付可レ止との気色なくて亮政重て申けるは、先我等の手立を聞たまへと手立の始終を語りける。亮政のいはく、大野木我等六百余騎にて今浜よりはるか此方にて明方に閧を可レ揚、今浜勢宮川に敵あるとは不レ思寄、物見を出し小勢なりとあなどり討て可レ出なり。其時矢軍して跡なる勢へ引取べし。敵勝に乗、追て可レ来、そこにてしばらくさゝへ、又さつと引べし。敵いよ/\責来らば、其にて火出る程戦ふべし。其時は治部大輔かけ出たゝかひなん。治部大輔乗出すとひとしく宮川左次兵衛、筧助左衛門、町屋に火をはなち、火の手を見ば三方一度に閧をあぐべし。然らば今浜勢途をうしなふて騒動すべし。其時にをしよせ/\戦はゞ大半治部大輔も可2討取1と思ひ切て宣ひければ、三田村もしゐてとゞむる事もならず、いづれも其儀に一同して首途の酒を出せとて時移るほど酒宴してぞあそばれける。かくて伊部清兵衛、浅井新次郎、同新助、大橋善次郎、永正十三年九月廿一日の丑の刻、上坂を立て宮川村、中久保村、八幡森にしのび居る。新三郎亮政、大野木土佐守二人はあけほの暗き早天に今浜丑寅の方へ近々と忍びより、閧を憧とあぐれば、城中以の外騒動して新三郎が此中軍に勝にのり、又上坂の城を乗取様に出抜べきとのたくみなるべしとて大将を初め上を下へと返しつゝ、とやせんかくやあらんとありければ、中にも上坂修理亮走廻て下知すれば、城中少はしづまりけり。先物見を出し敵の様子を見せんとて上坂八郎右衛門を被レ出ければ、昨夜より雨気はれやらず、朝霧深くして敵の様子も見え分されば、八郎右衛門物なれたる者にて近々と懸出し様体見分て城中に帰り申けるは、敵はわづか千騎には不レ可レ過といふ。治部大輔、兵庫頭は是を聞、追散せ兵共と下知すれば、我先にと進みけり。上坂修理は是を見て大音あげて下知しけるは、城中猥にかけ出給ふべからじ、小勢なりとてあなどり付入に、城をとられ給ふなと懸廻て下知すれど、城の可レ落前兆か、うわうさわうにしづまらねば、先修理亮五百ばかりにて討出、備を立んとせし処を浅井射手を出し、はや軍をはじめける。今浜勢も射手を出し、さん/\〃に射たりけるが、浅井が勢射立られ色めく所を爰こそ戦ふべき所なれ。時節をぬがすなと修理亮黒煙をたてゝ戦へば、浅井勢次の備へさつと引、競をぬかさじと追かけ/\戦ふたり。治部大輔時分はよきと心得て備を崩して切てかゝる。大野木浅井勢は井溝を間にして火花を散して防ぎけり。かゝりける処に、宮川、筧、今浜の侍町に火を放つ。火の手を見るとひとしく、夜の内より隠し置たる大橋善次郎、今浜の町屋へ踏込、四方八方かけ廻り敵のむかふを幸にて働きける。折ふし辰巳の方より風はげしく吹ければ、町屋一軒も不レ残焼廻り、其火城の土手矢倉にかゝりければ、城中に上坂信濃入道清眼、子息信濃守走廻て下知するは浅井忍びの者を入、焼立る物なるべし。敵は小勢なるぞ、首尾を見て切て出、可2討取1ぞ。先城中へ火不レ入様に火の手を防ぐべしとて四方八面にかけ廻り下知すれど、風はげしくて防ぐに暇のあらざれば、城中騒動夥し。善次郎は風下より閧をあぐれば、清眼も信濃守もさすがゆゝしき人なれば、煙の中より切て出、善次郎と半時計蜘手十文字に働、終にそこにて討死す。信濃守家来廿七騎枕を並べて討れにけり。さて其間に城中一宇も不レ残焼廻れば、治部大輔浅井と火花を散して戦ひしが、城中の火の手を見て引にひかれざる所なりと覚悟し、思ひ切てぞ戦ひける。伊部清兵衛、八幡の森より横鑓に突かゝれば、今浜勢不レ思寄方より敵切て出れば戦かねてぞゐたりける。さて大野木、浅井、今浜殿に見参せんと名乗かけ、面もふらず切て懸れば裏崩れして敗北す。修理亮、治部大輔を引つゝみ尾上をさして敗北す。浅井其まゝ追詰なば、泰舜を討取べくば候へども、上平より御出勢心許なきと思へば、人数を引取べしと味方を集めて居たりける。かくて善次郎は信濃守を討取、そのいきほひに城中の焼る煙の中へ打入て見てあれど、裏手より海上へ舟に取乗、みなちり/\〃に落行、敵一人もなければ、我人数を引つれ旗本さして引とれば、亮政も思ふまゝ今浜は破却して、上坂の城へぞ引取ける。かくて浅見俊孝は今浜の煙を見て、是はいかなる事やらん、浅井は智略第一のおのこなればしのびを入、城を焼立る物か、又は手あやまちか、急見て可レ帰とて海老江彦次郎と言者に申付、我身も人数召つれ出給へば、治部大輔兄弟尾上の城を心ざし落来り給ふを途中にて逢申。それより帰り俊孝に右の旨申上れば、俊孝さて/\無念なる次第かな、浅井に両城迄出抜れ乗取られ、剰兄弟是へ落たまふは前代未聞のありさまなり。此体ならば行末とてもたのもしき事はあらじとて、はがみして申は口惜やな。我休息を仕る故今浜迄敵に落さるゝとて後悔する事かぎりかし。かゝりける所へ治部大輔兄弟百騎ばかりにて俊孝の本へ落来れば、俊孝出むかひ請待して城中へ入奉り、馳走かぎりはなかりけり。扨修理亮、俊孝に今日の軍の次第一々被レ申ければ、俊孝、清眼信濃守父子討死を聞、雙眼に涙をうかべてなげかるゝ。是は若年より入魂の人とぞ聞えける。
浅井三代記第三終
底本には濁点、句読点は無いが、読みやすくするために濁点、句読点を附した。
(『改定史籍集覧』第六冊を底本としました。)
第四
第四(全文)
上平へ今浜落城注進附江北の面々重て御請申上る事
去程に上坂八郎右衛門尉、浅見新八郎、二人密談して申けるは、上坂の城を敵方へ渡し、又今浜の城も今朝亮政が為に焼失せし事無念たぐひなき事なり。泰舜、泰信の体を見るに、両将共に亮政を討程の事は可レ成ども、不レ覚いたづらに日を送り、適方へ人数を富せなば、いかに悔ども益あらじ。所詮上平殿へ参上して、家老の面々をすゝめ、京極入道環山寺殿、御病気にて御出馬被レ成がたく候はゞ、御息高峯卿を大将に取立なば、江北の旗頭共御先駆に可2罷出1なり。しからば浅井をやす/\と可2討取1、いざ上平へ参上すべしとて、泰舜、泰信には不レ及レ申、傍輩共にもしらせずして、ひそかに尾上を罷立、上平へ参扣して大津弾正がもとへたより、今浜落城に付我々も泰舜の供いたし尾上へ落行、彼城より参扣せし旨かたりければ、弾正聞て大に怒て申けるは、治部大輔、兵庫頭、両人の人々こそいひかひなき大将なりとも、俊孝軒、上坂掃部頭、信濃守、三人の衆は何とてかくは老耄し給ふぞと申ければ、二人の者共こたへけるは、信濃守は今朝討死仕候、俊孝、掃部頭、両人は居城に休息いたし、今浜に在合不レ申といひければ、信濃守討死こそおしう候へ、残る二人の休息は天運のつくる処なり、後悔先にたゝずとつぶやきてこそ居たりけれ。かくて弾正は二人を我屋に残し置て、高清御病中とは申せども下にて相計ふ事如何なりとて、今浜の城は亮政が為に焼失し、其上、上坂信濃入道父子討死、泰舜、泰信、尾上へ落給ふ旨申上ければ、高清卿病中ながら起上らせ給ひて、尾上より来る二人の者共召せとあり。八郎右衛門尉、新八郎、御前に参扣す。高清卿、今浜の軍の次第御尋被レ成、二人の者共軍の始終委く申上れば、高清卿宣ひけるは兵庫頭といひし上気者が上坂の城を被2乗取1、又、治部大輔は我子ながら泰貞斎が家をつぎ、入道相果て今幾程の年月も経ざるに、浅井の若者に度々の合戦に不レ得2勝利1、両城共に被2追立1、討死も得せずして俊孝がもとへ落行事、前代未聞の次第なり。信濃守父子は討死の場所をしり討れけるこそ不便なれ。俊孝軒掃部頭は数度の戦ひに功あるものなりしが、敵を眼前に置ながら休息などゝいふ事はとかく老耄したると見えたり。治部大輔、兵庫頭、両人は京極の家にはかなふまじといからせ給ふ。弾正やゝ有て申上げるは両人の者共、御息高峯卿の御出馬御迎に罷越候と申ければ我病中にてかなひがたし、時日移してかなふまじ、急ぎ亮政を可2討取1旨、高峯卿はからひ給ふべしと有ければ、高峯、家老の面々を召れければ、加州宗愚、黒田甚四郎、尾木修理亮、多賀新右衛門尉、若宮兵助、大津弾正、右六人の者共寄集り、軍評議をしたりけり。中にも多賀新右衛門尉、年老なりければ進み出て申けるは、浅井亮政、此比度々の合戦に討勝、剰両城を乗散、亮政勢は勇み、上坂今浜勢は気を敵に奪はるべし。此砌に御座候得ば、江北の諸士浅井に心をかよはし、二心ある武士多かるべし。先日の御触状の如く、御廻文御廻し被レ成御請判を御覧ぜらるべしと申ければ、此儀尤可然とて高清、高峯父子の御判を被レ仰出ける。斯て高島郡、犬上郡、愛知郡、坂田郡、浅井郡、伊香郡六郡の諸将、御意いかでかそむかんとて何れも御請判をぞ出しける。先一番に堀能登守頼貞、樋口四郎左衛門尉兼益、今井肥前守頼弘、新庄駿河守基昭、磯野伊予守員吉、同右衛門太夫員詮、宮沢平三郎、井の口宮内少輔(後改弾正忠義氏)、西野丹波守家澄、同与八郎氏常、阿閉三河守貞義、安養寺河内守勝光、野村伯耆守直定、同肥後守定元、横山掃部頭家盛(後改大和守)、同肥後守信家、千田伯耆守有義、東野左馬助行成舎弟平野佐兵衛、赤尾筑後守清成、同与四郎国清、西山三郎左衛門尉、田井前権三郎、森勘解由、八木与藤次、渡部監物、伊吹内匠助、高宮三河守頼勝、久徳左近大夫、織錦周防守義忠、同図書、同壱岐守、加納弥八郎、大宇右近大夫、山崎源八郎、中山五郎左衛門、雨森主計、香鳥庄助、高野瀬修理亮、今西、熊谷弥次郎直光(後改内蔵助)、同新次郎信直(後改志摩守)、塩津、熊谷忠兵衛、同主殿助、早崎吉兵衛、海津長門守、同信濃守、新庄法泉、同玉林坊、宮部世上坊、小室勇人、笠原、松島若狭守景亮、田那部式部義明、長沢入道宗琢、神田孫八郎(後改修理亮)、下坂甚太郎、相撲平八郎、尾山彦右衛門、田部助七、細江甚七郎、大炊新左衛門尉、今井孫左衛門尉、同十兵衛、今村掃部頭、国平、片桐馬之丞、草野何某、千種宇兵衛尉、土田兵助、脇坂左近兵衛、土肥次郎左衛門尉、実遠、大木左太右衛門、百々隠岐守盛実、富田新七、小蘆宮内大輔、月ヶ瀬新六郎、小松市松、木戸庄六、四木三右衛門、其外御請判の人々不レ可2勝計1、彼等を宗徒の初として江北方の諸士、屋形よりの御一左右次第に可2馳参1旨申上ければ、京極父子不レ斜悦び給ひて浅井にくみせし小名少々有といふとも、此多勢を以て討取らん事何の子細が有べきとて上平の家臣上下さゞめいて悦びけるが、高清卿の御病、日に添おもらせ給へば、御出陣の沙汰は取置御養生の沙汰のみなり。
右の侍共常は己が領知する所に小城をかまへて居るも有、又屋敷形ばかりにて居るも有。月替に上平へ相詰けるが去る永正六年より上坂治部大輔へ京極の御名代を御ゆづり被レ成、侯より此内三つにわり、替り/\〃今浜に相詰る惣じて大名分は出仕ばかりに出、常は不レ罷出候。然れども何にとも事有時は狼煙を上る其煙立とひとしく馳参じ、御役を達するなり。遠境は大名たりといへども当番をかゝさず屋形へ相詰る。されども大形の小ぜり合には不レ来候。其所/\に物見を置、合図の山々候ひてのろしを揚る事なり。継飛脚などより早く用を達するとぞ。
亮政浅井郡小谷山に城を取建上坂の城今浜の城破却の事
浅井新三郎亮政、今浜の城を攻取、上坂の城に楯籠りけるが、京極入道環山寺殿病気甚しくして、子息高峯卿を初め家老の面々、浅井を可レ討事はさて置ぬ。療治の相談のみして種々の医術をつくされける。江北の諸士替る/\上平へ参、機嫌のよしあしを窺のみにて軍評定はかつてなし。心有人々は眼前に敵を置ながら徒に日を送る事、後日の大事なるべしとて案じ煩ひける。又、高清卿の御煩ひをさしおきて、浅井退治の沙汰可レ然といふ人も多かりけり。しかはあれど大将おもむかせ給はねば、誰有て討手に可レ向といふ者なかりけり。斯て亮政謀叛を企て両大将追立、上坂の城に楯籠るといへども、江北の諸士上平殿下知にや恐れけん。味方に参る武士一人もなかりければ心苦敷く思ひ、三田村左衛門大夫、大野木土佐守、大橋善次郎、伊部清兵衛尉四人の者共を近付相談し宣ひけるは上坂、今浜の両城攻取事智謀毫髪も不レ違、先当両月の内に人数をもそこなはず、早速手に入事、天のあたふる幸なりとは申せども、上平殿よりの御廻文に江北中の諸侍御請判を申上、味方に一人も不レ来事は追付当城へ押寄可レ攻との事なるべし。さあらんに於ひては此城も今浜も平城にしてつまりもなし。多勢七重八重に取巻なば、味方可レ防方便なし。伊部殿の領内小谷山に城を拵へ楯籠るべきと存ずるなり。我若年の時より見立るに思ふまゝに普請せば、百萬騎の勢を以て取囲といふども、あつぱれ一年二年の籠城は心やすかるべし。とかく上平殿の仰は尤らしくは候へども、誰有て軍の法を下知すべきや。五七年以前まで武士の手を置し人々も皆老耄したると見えたり。此比度々の戦に俊孝といはれし人もよく逃こそしたまへ。我々を討事は中々俊孝の手に余ると見えたり。貴殿御方便を以て我々に仰付られなば、取巻れ候とも敵をこと/\〃く追払ひ申べしとぞ申ける。亮政聞給ひて其方の宣ふごとく尤すゝしく候へども、勝ていさまず負ておくれずと云事あり。是良将の金言なりと宣ひければ、大野木も三田村も尤なりと同じ小谷山に普請可レ然と相談一図に決定して、九月二十八日より領分の人数を出し、小谷山に普請を初められけり。敵人足を追立べきがとの押へに大橋善次郎、伊部清兵衛尉両人は小谷山の麓に人数を立置、浅井新次郎教政、同新助政信、尾山彦右衛門尉三人は尊照寺村に備を立る。三田村左衛門太夫は小谷山つゞき雲雀山に備を立る。浅井亮政は浮武者に成て普請の指図をし給ふ。大野木土佐守に寄勢相添て上坂の城に置く。かくて小谷山三方に人数を立をき、昼夜のさかひもなく普請を急ぎたまふ。雇処の工匠に下行米過分にあたへ給へば、四方八方より馳集りける程に、十日計の間にはや惣構堀土手出来すれば、亮政大に悦びて、上坂の城より夜な/\兵糧米を小谷の小屋場へかよはしけるに、上平殿御病気に付、敵一人も不2寄来1。十月二十日迄に大形城のかたち出来候故、亮政、大野木が許へ宣ひつかはされけるは、当城小谷普請大形出来候条、其方兵糧武具等不レ残当城へ運び候はゞ、今浜城跡并に上坂城を自焼し、悉破却被レ致、小谷の城へ籠り給ふべき旨被レ仰付、大野木は上坂の城より小谷まで二里ばかりが間、各味方の領分なれば、雑物悉く小谷へはこばせ今浜の土手を切崩し堀を埋め、上坂の城をも十月二十二日の夜、城中一宇も不レ残放火して両城共に破却し、我身も小谷へ引取にけり。後、沙汰して申けるは泰貞斎死して幾程の日数もへざるに江北の諸侍中間、隔絶にして亮政心安く小谷を取立給ふを近辺の旗頭共、其まゝ相かまはず徒にさゝへざる事、泰舜、泰信、江北の仕置の器量にあたらざる故なり。又、亮政、小身なりとは申せども行々此人は江北の武士の棟梁となるべき人と思案して、皆所々旗頭共の様体を聞合せゐたる故、小谷の普請、指をさゝんとする者なき故なりとぞ申ける。
上坂泰舜今浜へ立帰城を拵事
去間、上坂治部大輔泰舜は浅井新三郎亮政、今浜上坂両城を破却して小谷山へ引籠りければ、上坂掃部頭、同修理亮に今浜へ立帰り城を可築のよし下知す。俊孝軒も上平殿御病気重るに付、上平に在合せ、此旨を聞、俊孝、治部大輔にむかひ今浜の城御取立の儀、何の為に候や、城を取立る手間にて、浅井、小谷の城を首尾せざる先に人数を被レ催、今途中にて一戦せらるべし。其子細は屋形病中なりとは申せども、国中の諸士義を重し、彼亮政に組するもの一人もなし。彼等身のたゝずみなりがたきにより、小谷へ引籠るとみえたり。小谷普請半に責入ば浅井討取可レ給間、高峯卿へ被レ仰上、一時もいそぎ小谷へ押寄給へと有ければ、治部大輔も家の子等も俊孝の宣ふ旨尤なれ共、先足だまりを拵へ其上の合戦こそ心つよくも有べけれ。我居所を定めずして一戦をとげん事如何候らんと申ければ、俊孝重て申けるは、此中も小谷へをしよせ給ふべき旨申入度候へども、高清卿御病気以の外なれば、御父子の間の事物まぎらはしく思召、屋形のとがめもいかゞとおもひひかへて遠慮なく申なり。今又今浜を城郭に取立給ふ物ならば、同じくは其手間にて浅井を攻給ふべし。かく延々に被レ成候事、敵城へ兵糧を籠るがごとし。是非一戦とのぞめども、終に同心なかりければ、俊孝余りに堪かねて高清卿へ右の旨申上けれども、父の病中に取紛れ給へば、浅井、鉄城を築(拵イ)とも江北の諸卒を以て攻むならば、何ぞ浅井に働かすべき。先重て可レ為評定とて御同心なかりければ達て申上る事もいかゞばれば、其分に指置ける中にも大津弾正、若宮兵助などは俊孝申処に尤なり、一刻もいそぎ御人数を被レ出、浅井退治可レ然と申上けれどもつゐにおもむかせ給はねば、俊孝も心せき、先御いとま申上、尾上の城へ帰りけり。それより今浜の城、近在の人夫をよせ二たび城をぞ拵ける。
真読大般若附口論の事
去程に、京極入道環山寺殿病気次第におもらせ給へば、御息高峯卿、家老の面々に宣ひけるは、延暦寺、竹生島、氏寺の観音寺三ヶ寺において病気平復の祈祷の為、真読大般若可レ令修行の旨沙汰せられければ、御詫尤なりとて延暦寺経奉行には高野瀬修理舎弟外記、錦織図書に被レ仰付、竹生島へは加州宗愚甥加州又八郎、島求馬に被レ仰付、観音寺は則所なりければ黒田甚四郎にぞ被レ仰付ける。永正十三年十月十一日より経読誦初りければ、観音寺へは高峯卿も毎日参籠し給ひける。かくて延暦寺へ被レ仰付し高野瀬外記、錦織図書は同十五日、読経半に口論仕出し、互に色を立しを山の僧宗二人が間に入、互に引分け中和をいたされけるが、終に遺恨やはれざりけん。翌日、指ちがへて果たりける。後、子細相尋ぬるに、ある坊の兒、色深き少童なれば、彼が為に歴々の侍二人相果けるとぞ聞えし其日に当て、竹生島へ被レ仰付し又八郎、求馬、両人が侍共、早崎吉兵衛尉許へ彼地賄の役にさゝれて越けるが、早崎村にして喧嘩を仕出し互に深手を負たりける。誠に延暦寺、竹生島両寺ともに祈祷の場にて時日不レ違人損害に及ぶ事、環山寺殿逝去の後、国大に乱れなん悪相なりとは後にぞ思ひしられける。
浅井大津の浦より塩を買取事
かくて敵寄来らざれば、十一月中旬までに小谷城中堀塀柵不レ残丈夫に拵えへ、味方領分の年貢米等納取、城中へこめられ糧沢山なり。其上、上坂の城より武具馬具等まで悉く運び取ければ、一年二年籠城せしむとも兵糧米秣等にとぼしき事あらじと悦びたまひけるが、是に難儀せしは塩城中に不足なり、いかゞ有べきと僉議せられて宣ひしは、宮川左治兵衛、筧助左衛門尉は両人して今浜近辺にて売人近付可レ有レ之間、才覚いたすべしと宣ひければ、両人今浜の商人に賄をつかはし頼可レ申。畏候とて大津の浦へ行、塩二三百俵買取候へども着岸の便おだやかならざれば、此塩は何方へうり申などゝとがめたtりぇはいかゞと思ひ、右の塩を箱に入替へ呉服櫃に事よせ、小舟五六艘に取乗、舟長に心を合せ中浜といふ所へつけ、それより川船にのせ馬渡川を心ざし、丁野村へ可レ着と相巧み川舟二十艘ばかりにつみ、川を上りに引処に、二の枝村に笠原杢といひし者居たりけるが、折節、川端へ出て殺生して遊びし前を舟二十艘計引通りければ、是は何者の舟にて候ぞや、又いかやうなる物をつみ候とゝがめられ、商人申けるは、我々は今浜商人にて御座候、舟につみたる物は国中の百姓共の方へ売申候衣類農具にて御座候と答けれども、杢猶もあやしくや思ひけん。供の侍に下知して荷物開きて見よとありければ、商人とやせんかくやあらんと陳するに言葉なくして既に川中へ飛込んとせしかど、天運是たすくる所か、前舟の櫃に筧助左衛門尉、宮川左次兵衛尉が家来下々共があつらへ物にて、衣類を入たる櫃二つあり。其櫃に手をかくれば商人それより色を直し、切ほどかれて御覧侯へと申、皆農具衣類にて御座侯、少もいつはり不レ申と申ければ、侍共櫃のふたを取見て有に、皆衣類なればゆるして其場を通しける。誠にあやうき命をたすかり、丁野川原へ付、則助左衛門尉、左治兵衛尉、両人小谷に籠りゐる故、此旨注進したりければ、夜の間に小谷へ運び入る。右次第両人の者共委申上れば、商人を御前に召れ、汝が忠義不レ浅候、追付運を開きなば随分恩賞行ふべし。先当分の褒美として鳥目五百匹被レ引ければ、商人不レ斜悦び、自今以後何にても被レ付候へ、少も違背申まじきと申上ける。此商人、後浅井代に成、今浜より中浜までの海川口(以下欠文)
京條高清入道病死の事
去程、京極高清入道還山寺殿、病悩次第におもらせ給へば、京都より良医替る/\〃召下し、医術をつくすといへども、其甲斐更になくして、永正十四年二月十六日、御年五十八歳にして終にはかなくなり給ふ。御子息達をはじめ御一門の御なげき深かりけり。御死骸を則御菩提寺清龍寺へ送り給ひ、御戒名は還山寺殿梅叟宗意大居士、御弔の儀式いとこまやかに執行ひ給ふ。十七日に成ければ、嫡子三郎高峯卿入道したまひて利角斎とぞ申ける。かくて十七日より千部法華妙典修行せられける。江北中の大名小名不レ残替る/\〃参上して、御焼香をつとむる。早其月も過行ば、三月にうつりける。俊孝上平へ参上して家老の者共に申けるは、御なげきの中に加様の事申もおかゞと存候へども、三十五日相過候はゞ利角斎御家督披露まし/\て江北の諸士を召し集められ、浅井退治の御沙汰可レ然存候と申ければ、家老の者ども是を聞、俊孝の仰尤には候へども還山寺殿逝去し給ひて今幾程も過ざるに軍の沙汰も余りなり。浅井は何時成とも可2討取1者をといふ人も有、いや/\俊孝が申処可レ然といふ人もあり、中にも多賀新右衛門尉、俊孝が申旨に付尤其沙汰よろしかるべしとて三月十九日に御家督披露有べき旨江北中へ触廻しければ六郡の諸士我も/\と馳参じ思ひ/\のさゝげ物にて御祝儀を申上る。さしもにひろき伊吹山の麓野に駒の立場もなかりけり。大将利角斎一々諸士に対面有りて、御盃を被レ下ける中にも浅見俊孝は永古坊と云家重代の太刀をぞ指上ける。
其後、此太刀江南佐々木義賢と利角斎初て対面の時、義賢所持して己が下部逃て門の扉によりそひて居たりけるを追駆討給ふに門の関木を切落し其下部を大袈裟に打おとされければ、それよりして名を改め関木落しと申ける。其太刀今に高宮家来所持し高宮村に伝りけるとなり。
かくて江北中の大名小名不レ残御盃を被レ下、其上にて浅井退治の御沙汰被レ仰出ければ、各畏存候。追付御進発被レ成、小谷を取巻せられなば、早速城はもみ落し可レ申とぞ申ける。去程に来四月十一日に小谷表へ進発せらるべき旨被レ仰渡ける。この利角斎までは泰貞斎び御名跡を御ゆづりなされ、還山寺殿万端国の仕置御かまひなくして隠居分なり。今治部大輔泰舜其器量にあたらざれば、又利角斎の御下知を諸将守りければ、上下共に本に立帰る事国の可レ栄瑞相なりとてよろこびさゞめき、先己/\が居城へ帰り支度をぞいたしける。大将手ぬるく渡らせ給ふ故、御進発の日限延々になる事是非なけれ。
京極勢揃附軍評定の事
去る丑の三月十九日、御家督相続の嘉儀の折節仰出さゞる旨にまかせ、遠近の次第をついでゝ江北六郡の武士共我も/\と馳集る程に、上平より春照、上野まで人数満々たり。六人の家老共高峯入道利角斎の御前に伺候し、軍評判とり/\〃なり。先、尾木修理亮、多賀新右衛門申上けるは、今度の御合戦は人数くみ大事たるべし。浅井小勢なりとは申せども、去年数度の戦ひに何れも勝利を得れば、取籠所の人数一致にして動ずること有べからず。其上浅井は其分限よりも心剛強にして謀の上手なれば、味方人数くみ大事たるべし。先誰をか御先に可レ被レ仰付と申ければ、利角斎宣ひけるは、浅見俊孝軒父子に可レ申付と被レ仰ければ、いや左様の儀に候はず、俊孝は案内者なれば旗本が遊軍におかるべしと申上ければ、然らば汝等六人の者共評定をとげ、書付を可レ出御有べしと宣へば、多賀新右衛門尉、尾木修理亮、大津弾正、黒田甚四郎、加州宗愚、若兵助、彼等六人軍兵組をぞ書付ける。先一番に磯野伊予守員吉、同右衛門大夫員詮、息子源三郎、東野左馬助、千田伯耆守、子息帯刀、右六人定め置、此磯野源三郎為員と申は先年泰貞斎に付、生年十五歳の時、鳥井本合戦の折節、国中にて強き弓を引、歴々の武士共多く射落しけるが、今は其時分より気力いやまし、定五人張に十六束の矢束を引、大やすきを以て四町面を射通しける。誠に其国ばかりにての事なれば、他国へは其名高くも覚えねど、古今ためしなき大兵なり。近き比まで大音大明神に弓と矢を籠、是を見る者多かりけれども今は炎上いたしける。此者真先に立ち浅井駆向ひなば射取せんとのたくみなり。二番は井の口宮内少輔(後改弾正)、今村掃部頭、西野丹波守、阿閉三河守、渡部監物、三番安養寺河内守、赤尾筑前守、同与四郎、今井肥前守、同孫左衛門尉、熊谷弥次郎(後改内蔵助)、同新次郎(後改志摩守)、月ヶ瀬新六郎(後改若狭守)、塩津熊谷主殿助、小蘆宮内大輔、香鳥庄助、中山五郎左衛門、四番加納弥八郎、神田孫八郎(後改修理)、犬木左太右衛門、富田新七、久徳左近大夫、下坂甚太郎、五番新庄駿河守、土肥次郎左衛門、伊吹内匠助、百々隠岐守、大宇右近大夫、六番山崎源八郎、土田兵助、田那部式部、錦織周防守、早崎吉兵衛、細江甚七郎、長沢入道宗琢、七番笠原杢助、今村掃部、小室隼人、島若狭守、八番宮部世上坊、高島新庄法泉坊、高宮三河守、堀能登守、子息遠江守、野村伯耆守、同肥後守、第八備は大軍なり。九番御旗本六人、家老馬廻衆なり。脇備の左は上坂治部大夫、同兵庫頭、右脇備は浅見入道俊孝軒子息対馬守、布施次郎左衛門尉、横山大和守等なり。總じて俊孝軒は浮武者となり軍の指引せらるべきとぞ定ける。かゝりける所へ俊孝馳来り、軍の次第尋侍れば、右定の通り語りけるに、いや/\左様にあらず、浅井といひし者、我数度戦ひ候ひて見申候に、常の者と打かへて命を塵芥にかけ死を不レ惜兵なれば、屋形如此攻寄給ふと見ば、門を開き切て出るか、さなくば亮政己一人なりとも東西の山のしげみの陰にかくれ、御旗本へ馳込勝負を決せんといたすべし。能々御思案候へと申、利角斎聞召、右の人数組御覧有、俊孝と相談したまへども右の備に極りけり。俊孝重て申けるは、浅井いかやうの謀いたし置もしれざれば、巧者なる人四五人小谷近辺へ物見に出され可レ然とぞ申ける。列座尤なりとて上坂八郎右衛門尉、浅見新八郎、大塚十兵衛などゝ云者共を初として六人物見に被レ仰付ける。
阿閉三河守赤尾孫三郎海北善右衛門尉小谷へ味方に参る事
去間、阿閉三河守は子息萬五郎を近付ひそかに申けるは、明十一日の合戦に第二番備の内に我々も被レ入置候なり。浅井小谷山に籠り勇気をはげますといふども如レ此大軍にて段々に備を立押寄給ひなば、さぞや心くるしく思ふらん。今日は人の身の上、明日は我身の上ぞかし。其上浅井百にもたらぬ手勢にて大功を思ひ立、度々合戦に討勝事是名将のなす所なり。いざ小谷へ見次、はな/\〃しく相働、名を後代に可レ残と思ふはいかにと有ければ、子息萬五郎承り仰の趣御尤なり。今屋形下知し給ふといへど、武将の中間隔て取しまりたる手立なし。俊孝一人心も剛にて案深しとは申せ共、此人度々の異見に及ぶと雖ども終に御用ひ無之して、軍の図ぬかし給へば行末とても頼もしからず。又浅井軍立は中々凡虜に及びがたし。とかく浅井に付給ひ、家の面目ほどこし給へと有ければ、三河守はやがて家の子郎等八十七騎召具して、四月十日の白昼に小谷の城へ引籠る。亮政頓て対面して阿閉殿味方に被レ参る事ひとかたならぬ忠義なりとて称美する事中々なり。赤尾孫三郎つら/\物を案ずるに、近年度々の戦ひに終に心にかなふ軍なし。亮政手に付花やかに相働き討死し、名を後の代に可レ残とおもひ切、同姓小四郎をいざなひ小谷へ籠り、此由かくと語ければ御心付神妙なり。一騎当千の士とは各なるべしと悦びける。此赤尾孫三郎は後美作守とぞ申ける。海北善右衛門尉も木村甚次郎を同道にて小谷へかけ入、亮政に対面し、我々両人来る事明日の御合戦に討死の御供可レ仕と存来る旨を申ければ、亮政不レ斜悦び給へば城中の者共見次勢来るとていきほひをなす事おびたゞし。かくて上平殿人数を段々に組、明日当城へ押寄給ふ旨告来りければ、亮政は清兵衛尉為利、善次郎秀元を近付、江北中の諸士段々に備を立押寄るといふ。一段二段は切立可レ申と存候へども、八段九段の備ならば心はたけく勇む共、大勢に取籠られ討れん事は必定なり。たとひ討死をとぐるとも軍の手立をかへ、花やかに討死すべし。秀元、為利両人は五百余騎の勢にて、大洞虎御前山森の中にかくれ居て、旗指物をふせられ、寄手此城を取巻とひとしく旗指物をほのかに出し、鯨波を揚て切てかゝらせ給ふべし。然らば追手の門をひらき、無二無三に切て出なば、寄手少は色めくべし。東の手は阿閉殿父子、赤尾殿両人、海北善右衛門尉とは小谷山の東なる大寄山と小室山との間に隠れたまひて追手より切て出るとひとしく敵の中へ駆込給へ、其時からめてより大野木、三田村閧を作りて切て出て給はゞ大形は大軍なりとも可2切崩1と申されければ、各其方便尤なりとて、此儀に決定して十日の宵より弓手馬手の人々は小谷山を下りて人数をかくし置たりけり。
京極利角斎小谷城攻附阿閉赤尾海北働の事
かくて永正十四年四月十一日の未明より物見に被レ仰付し六人の者共、小谷近辺見廻りけるに大洞と虎御前山との森の内あやしく人おとすれば、馳帰て此旨注進す。俊孝申処不レ違とて其方便をいたされける。善次郎、清兵衛二人の者共は物見山の峯を通ると見てもはや敵にさとられたると思ひ、敵不レ向先に小谷へ引取て亮政にかくと語れば、されはこそ俊孝の老武者軍に念を入ると見えたれ。さあらば寄手を近々と取巻せ可レ切出とたくまれける。去程に京極殿は八千余騎の軍兵を引率し、段々に寄たまふ。尊照寺村より八段の人数を二つに分つ。第二番の備内阿閉敵方へ引籠りければ、俊孝思案こそ有つらめ、第八番の備野村肥後守を入替、第四番備までを小谷の東口へさしむけらる。五番より八番までを西表南まで引廻す。御旗本、尊照寺村に陣取給ふ俊孝父子は四方八方に目をくばり駆廻り下知をなす。城中には亮政物見に下り為利、秀元に申けるは寄手の次第を見るに率爾に切て出る事かなひがたし。俊孝浮武者となり我数度の戦ひに一番に働くを知り、若切て出なば城へ付入にせんとの様子なり。持口/\を堅め城を丈夫に防ぎ、能時分を見切出べしと宣ひばや、持口をぞ堅めける寄手小谷の城を取巻き鯨波を揚げければ、城中しづまり帰て居たりけり。宵より相図を定め大寄山にかくし置し阿閉三河守、海北善右衛門尉、赤尾孫三郎は城中追手より切て出るかと相まてども、其沙汰に不レ及候て、寄手小谷を取巻は追手の方便相違すると見えたり。今はかなはじと思ひ、三人心を一にして大音あげて名乗やふ阿閉三河守、海北善右衛門尉、赤尾孫三郎爰に有、討死せんと言まゝに二百余騎の勢にて一足も引しと思ひ定め、面も振らず敵の囲へ駆込喚叫て切てかゝれば、寄手此勢に追立られ四方へさつと引たりけり。野村肥後守、今村掃部頭是を見て、敵は小勢なるぞ、これ討とめて高名せよとて三人の者共を真中に引包む。赤尾、海北事ともせず向ふを幸と火花を散し戦ふたり。赤尾長刀を以てやにはに三騎なぎ落す。海北も二騎突落す。阿閉父子も向ふ敵を突散しかけ通らんとせしを井の口宮内少輔、西野丹波守が備にて支へける。城中には亮政此由を見るよりも阿閉打すな、赤尾、海北を城中へ引取れ、大橋伊部と宣へば承候とて搦手の門を開き三百騎計り閧を憧と作りかけ、真黒になり切て出る。井の口、西野が手にても討留ざれば三人の者共二百騎の勢にて一文字にかけぬけ、山田口へ引のき難なく城中へ引取ければ、敵方にもあつぱれよき働かなと感ぜぬ者はなかりけり。亮政、海北、赤尾、阿閉に向ひ宣ひけるは唯今三人の働は異国の張良、陳平にもおとらじと称美再三に及びける。斯て寄手猛勢を以て息をもつかせず攻給へば、城中にも矢尻を揃へて防ぎける。赤尾孫三郎、海北善右衛門尉、大橋善次郎三人は四方を廻り軍の下知をぞしたりける。亮政兄弟三人、清兵衛尉は味方のたゆむ所へ立ちそひ、士卒の勇気を励ましければ、城中小勢なりとはいへども寄手たやすく攻入るべきとも見えざりけり。浅見父子は亮政切て出なば、横鑓になり、跡をしきらんと相待ども城中は持口を堅め不2駆出1防ければ、寄手は昼夜のさかひも無入替/\攻たりけれども、剛の人共籠りければ、いつ可レ落とも見えざりけり。
浅井夜合戦の事
小谷の城には亮政千三百五十余騎にて楯籠りけるが、寄手八千余騎にて被2取囲1五六日が間は昼夜のさかひなく喚叫て攻給ひけれども、味方少もたゆまずつまり/\より矢種をおしまず射出しければ、寄手左右なく攻入る事もならざりけり。上平殿は頭共に下知したまひけるは浅井二千に不レ過勢にて楯籠る所の小城を国中の武士共打集り五六日に至るまで構の一つも不2乗取1事油断のやうに見えたりと怒らせ給へば、追手搦手三方に廻て攻入ける。東の手へ向ひし磯野伊予守員吉、同右衛門大夫員詮、子息源三郎為員、束野左馬助などはや総構討破込入ける。城中にはこれと見て、すは東の手は敵惣構まで込入たるぞ、つみ石を落せと有ければ、山のかさより為利、秀元心得たりとて三方ははなれ、山先東に池の奥と申て山のすそにまわり、二里計なる大池あり。南に大沼あり、西は堀水深し、山は手を立たるごとし、北は大山引まはす。されども其間きれて村あり。敵可レ向方便なき所なれば、秘して通ふにぬけ道あり。美濃国越前国まで山通りに道もあり。古木森々とはへ茂り尾通りなるくして味方の働自由なり。元来亮政此城を取建る時より如此被2取囲1給はん事は覚悟なり。から堀深くほり立、其上は岸なり。高さ四丈計も土ひきおとし手を立たるがごとく敵の上へ落かゝるやうに拵へ置、それのみならず種々の方便をたくみをき、敵近付は平討にうたるゝやうにしたりければ、寄手攻あぐみ徒に日をぞ送りける。是に城中難義に及びしは、磯野源三郎為員、大嵩の焼野へ忍び入、江北中の弓の上手共をすぐって召連れ、城の後なる山の高みへあがり、間三町許もある所よりすきま/\をねらひ遠矢に射たりければ、堀楯ともいはず射通しけり。残る人々射たる矢は別の子細もなかりけるが、源三郎が矢先に廻る者たすかる者とてはなし、城中彼にはあくみける。されども真木坂にてかこひ置、其のかげに居て防ぎける。然る所に浅井亮政は大橋、伊部、赤尾、海北此人々を近付密談して宣ひけるは、はや寄手も攻あぐみ、油断のやうに見えたるぞ。味方も又此中の籠城に人数も労れければ、次第/\に小勢に成べし。然れ共各や我だに残りなば、二ヶ月や三ヶ月は城も堅固に守るべけれども誰を頼みにいつまでかくは籠るべき、寄手の方へ忍びの者を出し、其様体を聞届、夜合戦に駆出、勝負を可決とぞ宣ひける。四人の者是を聞可レ然候らんと同しければ、亮政さあらば方便を語るべし。敵方にも此中の対陣に草臥たると見えければ、城中にも源三郎が大兵の矢先にあぐむ体にて防矢も少々ひかへさせなば、追付城を可2乗取1といさむべし。其能図を諜り海北善右衛門尉、赤尾孫三郎、大橋善次郎此三人の衆は敵廻らさる山田村山の東谷口の方へ忍び出、東の山の峯をつたひて京極殿の旗本、尊照寺村の後十町許南なる矢島村へしのび入、放火し閧を作り給ふべし。其時火の手を見ば旗本色めくべし。我等と大野木、三田村、七百騎にて追手の門をひらき閧を憧とあげ、切て出べし。阿閉三河守父子、浅井新次郎、同新助、彼等四人は追手の閧の声とひとしく、東の門より駆出給ふべし。伊部清兵衛尉は残る三百騎にて城中に残り給ふべし。我等切て出る物ならば、俊孝幸ひと思ひ跡をしきりて城中へ駆入べし。其心得をしたまへ。我等は京極殿の旗本さして可2切立1、敵踏留て取巻は随分と相働討死をとぐ可也。各も悪縁にむすぼふれ、若死するとおびしめし討死したまへと宣ひける。四人の者共称美していふやうは、あつぱれよき大将かな、かく手きれたる軍をせでば何ぞ大敵を亡さんやと何れもいさんですゝみける。亮政重て宣ひけるは、味方の相詞を定むべし。南風吹といはゞ切て掛るべし。北風烈といはゞ城中へ引退くべし。谷かゞとはゞ味方は山とこたふべし。味方のしるしには天目さいを切、具足のわたかみに付べし。歩立の者には織羽の後に付べし。打物のさやには三引両を紙にて押付べしと相定め其支度をぞいたされける。かくて寄手の方には去月十一日より取巻、当月一日までの事なれば各くたびれたる体なり。しかれども磯野源三郎為員精兵の矢前を以て城中殊の外よばるとて寄手是を悦びける。かゝりける処に亮政五月朔日の夜忍びの者を出し、寄手の様子聞せ給ふに立帰て申けるは、寄手の方には源三郎山のかさより大矢を城中へ射込により、城中以の外難義に及ぶの間追付、当城をもみ落すべしとて悦び、今はやはじめと違ひ、夜廻り番も少しく懈怠のやうに見え申候と語はりけれ。亮政よろこび時節は今成ぞ、明夜に是非思ひ可レ立堅く此事他へもらすまじ。先明夜の夜討の支度を書付、五人組七人組とて一組/\に頭を付、互にしめし合せ、其夜は酒肴を出し下々に至るまで酒宴こそは初めけれ。是も浅井が謀なり。寄手の者共是を聞、今宵か早朝には切て可レ出と定めたるが、若さなきものならば自害をするか城中の酒宴は無心許と申ける。中にも功者なる者は今宵か明日切出べき討死の用意といふ人もありて、寄手其夜は用心きびしくしたりけり。去程に永正十四年五月三日の夜、總軍兵を中の丸へあつめ、又酒を出しける。酒三献も過れば、今宵は必死非生と思ひ定めし事なれば、各と我等と盃を取かはすべしと、又盃を巡らしける。其時亮政の北方奥よりつゝと出、物頭共に肴を引、それより下々まで引通しければ、城中の兵心一筋に成にけり。忍ぶ夜の事なれば小声に成ていさみすゝむ。誠に城中千三百余騎の勢、今宵の軍に敵を追立ずんば生て可レ帰といふ者一人もなし。此亮政の室と申は浅井数政女にて、亮政とは従弟の間とぞ聞えける。斯て其夜もやう/\更行は右めの定の如く、大橋善次郎、海北善右衛門尉、赤尾孫三郎、残る人々をしたがへて其勢二百騎にて山田村東の山谷口へしのび出る。筧助左衛門尉、宮川左治兵衛、尾山彦右衛門尉、山田辺助七、同方より忍び出、馬上山の峯通へしのび通り、亮政の在所丁野村の百姓を頼み、近郷へ放火すべきとなり。去間矢島村へ忍び行三人のひと/\〃は無難忍び入しが、火影を後にして敵陣へ駆入ば、敵に見すかされ、敵のたよりと可レ成思ひ、下人二三十人計に申付、三人の者共は旗本尊照寺村を西向ひに見て、火の手を左に為べきとと思ひ、尊照寺村の東へ廻るとひとしく、矢島村に放火し閧を憧と揚たりければ、丁野村落川村柏原村所々を放火し、百姓五百計鯨波をぞあげたりける。城中にも相図の火の手を見るとひとしく追手搦手闘を一度に合せ、門を開き切て出る。寄手俄に騒動して、すは夜討が入か、浅井と兼て約諾して味方の内に謀叛人が出来し裏切するかとて、周章する事限りなし。去程に旗本へ向ひし大橋善次郎、海北善右衛門尉、赤尾孫三郎三人の者共は二百騎の兵何れも歩立にて真黒に突駆り、手本に向ふ兵十七八騎切落す。本よりさはぎ立ぬる備なれば踏留り可レ防ども見えざりけり。三人の者共は兼て定めし事なれば、敵の中へまぎれ入、二十騎三十騎づゝ引分れ、こゝかしこへ駆込喚叫て攻入、馬の平首太腹などゝもいはず突落しなきすゆる比は五月三日の夜亥の刻計の事なれば、東西暗くして敵味方ともわかたねばちり/\〃に落行けり。寄手の面々は矢島、北西は丁野、落川馬上村の放火を見てこはいかなる事やらんとあはてふためく所を閧を作り、かけ/\攻下しければ、我先にと落行けり。亮政是に力を得て追討に討取、旗本指て進行く。浅見俊孝父子、是を見て城中より切て出るともいか程の事かあるべき、返せ/\とよばはれど踏留る者あらざれば、我身は五百余騎にて横鑓に突掛る。亮政八百余騎、火花をちらし戦ひしが、浅井勢も此横鑓に突立られ半町計引退く、俊孝浅井が跡へ廻る処に伊部清兵衛尉は三百余騎小谷山の切ぬけ道の脇にひかへしが三百余騎面もふらず突かゝれば俊孝勢叶はじとや思ひけん、跡も見ずして敗北す。俊孝父子も志はさすがなれども、浅井が勢四方八方に打ちりて戦へば、尾上をさして敗北す。清兵衛尉はそれより逃る敵には目も掛す城の内へ引取ける。浅井はこゝかしこへ駆廻りし阿閉父子、浅井新次郎舎弟弟新助は磯野が備の中へ駆込蜘手十文字に働けるが、寄手の者共四角八面の放火を見て、味方浅井に心を合せ裏切すると思ひ、敵を少々あひしらひ皆散々に落行ける。かゝりける処に海北、赤尾、大橋、小勢なりとは申せども四方十文字に駆立ければ、京極殿引取兼て居給けるを黒田甚四郎、大津弾正、尾木修理亮など引包落給ふを海北善右衛門尉、赤尾孫三郎と名乗、透間もなく突かゝれば上坂掃部頭、同八郎右衛門尉二人取て返し戦ふたり。上坂掃部頭は赤尾孫三郎に渡し合せしのぎを削り、鍔をわりしばしが間は戦ひける、掃部頭踏込て討太刀を孫三郎長刀にてうけたりけるが、あまる太刀にて孫三郎がこ手のはづれを切けれど孫三郎ことゝもせず飛かゝり、むずと組赤尾は元来大力掃部頭は老武者の事なれば上を下へと働けど終に赤尾は組勝て掃部頭の首を取にけり。海北善右衛門尉は上坂八郎右衛門尉と仕合けるが互に名にしおふたる手きゝ共なれば、しばし勝負はつかざりけり。善右衛門尉は八郎右衛門尉が討太刀を請上て飛掛て組けるが、海北終に組勝て首をかゝんとする処に上坂もさすが名有る武者なれば、下より腰指をぬき上なる海北を二刀つきけれど海北実よき鎧を着ければいたむ程は通らず難なく首をぞ討取ける。此両人討るゝ隙に京極殿は上平指て落給ふ。善次郎は歴々の首二ツひつさげ、赤尾、海北に向ひ申やう、夜中長追無益なり、いざや引取んとて浅井が旗本へ引取ける北の方寄手の後へ向ひし筧助左衛門、宮川左治兵衛、尾山彦右衛門尉、田辺助七四人の者共も郷人をめしつれ四五箇所も放火し小谷山を左にして敵の囲へ横鑓になり、閧を作りてかけ入はしたなく働き敵悉く追払ひ城の中へ引取ける。今宵の軍に敵の首三百七十討取ければ、味方も五十二騎うたれにけり。浅井は大敵を思ふまゝに追払ひ不レ斜悦て城の中へ引にけり。近国にかくれなく浅井が夜軍と申伝へしは此軍の事なり。
浅井三代記第四終
底本には濁点、句読点は無いが、読みやすくするために濁点、句読点を附した。
(『改定史籍集覧』第六冊を底本としました。)
第五
第五(全文)
河北京極より江南六角を加勢に頼む事
去程に先日三日の夜の軍竟て後、江北の武士どもをのれ/\の居館へ取籠り居たりけるが、浅井度々大軍を破り剰上坂掃部頭、同八郎右衛門尉を討取ければ、各したしき中と寄合、浅井に心をかたむける者多かりけり。爰に浅見入道俊孝、此事を聞出し上平殿へ伺候して、家老の者共と打寄、評定して申けるは、江北の大名分の内にも、去る三日の敗軍の後は、浅井に心をかよはする者数多有之候由風聞す。時刻移りなば、御家の大事なるべし。いかゞ有べきと申ければ、多賀新左衛門尉、大津弾正申けるは、近日勢を催し、今度は小谷の後、大嵩をもみ落し、高みより大軍を以て一もみもんで見んと申ける。黒田甚四郎、若宮兵助申けるは、大津殿、多賀殿申さるゝ処も理有べく候へども、浅井大軍を追払ひ、勝に乗たる兵なれば、一刻に攻落す事も覚束なし。其上勇気にほこりたる兵共なれば、俊孝聞て、自然寄なば幸なり、持うけ、四方より引つゝみ、やす/\と討取べし。併、浅井と申兵は左様なる軍立にては無レ之候。江北の侍共三分一も彼に組せんは、他所へ出働事はあるまじ。今度は御合戦なさるれば、大軍を以て四方七重に取巻、一刻攻にせめらるべし。延々に攻なば、味方のすきをうかゞひ、智略を以て、又勝利を得べきなり。兎角此度の事なれば、江南佐々木定頼を頼み給ひ、両旗にて攻らるべしとぞ申ける。六人の家老共は承、尤いにしへは御兄弟の別にて御座あれど、此近年は敵味方と色を立、国を争ふ折なれば、今更六角殿を頼む事もいかゞ候らんと申せども、俊孝重て申けるは、各被レ仰処も、尤には候へども、京極家の大事今此時なれば、先々頼みて見給へと再三に及ぶ。各これに一同して利角斎に申上ければ、何れも宜く計らへとの御意にて、評議決定し、多賀新右衛門尉、河瀬壱岐守、両使にて佐々木殿の御内なる平井加賀守、三雲新左衛門尉が許へ参扣して申入けるば、京極殿の家人浅井新三郎亮政と申者、逆心を企て小谷山に楯籠りしを、味方大軍を以て取囲候処に味方の若者共、亮政に被計多勢忽に討破られ、悉く敗北仕候。誠に以て無2面目1次第にて御座候。彼者をゆるがせに仕置候はゞ、国の騒動難レ止候条、頓て押寄可レ攻と存候間、御加勢を頼上度存候と京極仰の口上、細に申上げる。平井三雲は定頼卿の御前に伺候して、此旨申上ければ旗頭の者共を被2招集1、此儀いかゞあるべきと相談をとげ給ふ。家老の面々承申けるは、京を定め中和被レ成候てより、軍やみけるに、今江北乱るゝ事幸なり。京極の家滅せば、江州一国御手に可レ入儀珍重なり。御加勢は御無用たるべしと申者多かりけり。中にも進藤山城守、後藤但馬守二人進み出て申上けるは、京極殿はいにしへ御兄弟の御別れの儀を思召出して、当家を御頼み候事、江南家の面目なり。殊に両家が中一家眼前にて浅井に討れん事他国の嘲いかゞなり。京極の家御再興被レ遊可レ然とぞ申ける。定頼卿、両藤が申分神妙なり。然らば京極よりの使節を召と有ければ、両人の使節、観音城に登城す。定頼対面まし/\て、此比合戦の次第御尋有ければ、使節の者共一々申上る。かくて定頼卿よりは進藤、後藤、伊庭三人を大将として、何時成とも一左右次第に御加勢可レ被レ成由議定候て、京極の両使に無束十郎右衛門尉相添てかへし給ふ。両使、息吹の上平に至て観音城の始尾申上ければ、京極殿不レ斜悦て、則観音城の使節に対面あり。善をつくし美をつくしてのもてなし也。京極宣ひけるは、加勢を請ひ奉る処に、早速加勢可レ賜旨誠に以過分なりとて無束を高宮まで、馬上二十人に被2仰付1送りてかへし給ひける。かくて此度は南北両家の勢を以て、浅井攻打可レ申とて利角斎をはじめ上下勇て悦びけり。
浅井新三郎私に備前守となる事
去程に浅井一家会合して申けるは、今度京極殿数千の御勢を以て被2取囲1候処に、亮政手立宜き故、悉追払ひ、剰歴々の旗頭共討取候事、弓矢取ての面目なり。其上此功近国他国まで伝り候べきに、其大将の新三郎などと名乗級はん事あまりかる/\しく存候間、何れの御国名成ども、下にて私に御受領被レ成可レ然存候旨申ければ、新三郎聞給ひ上より御ゆるしも不レ受して受領などゝいふ事は、天のとがめも恐あり。先新三郎にて可レ有レ之旨を宣へば、大野木、三田村重て申けるは、仰御尤には候へども、下にて国名を付たる其例多く御座候。追付国治りなば、其時参内被レ成候て、御ゆるしを申下し給ふべし。是非ともにと申ければ、さあらば先舎兄新次郎教政の名を改むべしとて、則字をもかへ給ひ、赤尾駿河守教政と改る。我身は浅井備前守亮政と改る。此備前守を近江にては故備前守殿と申。其故は浅井三代目備前守長政と申有之に付、故の字を加へて申けり。三男浅井新助政信を大和守に改大橋善次郎を安芸守利為とぞ申ける。如レ此名替有て御内外様の者共まで召集め、一日の酒宴幾千代までとの祝言目出たかりける事ともなり。かくて浅井備前守亮政城中の物頭衆被2召寄1宣ひけるは、上平には此中江南佐々木定頼卿を御頼、条の末流まで流浪して居たりけるに、時に至て図に当れば、大剛を思ひ立、去年当年度々の合戦に討勝、小勢にて小谷山へ取籠り、勇気をはげます事、古今にすぐれたる名人なり。彼者朝倉の家を頼もしく存、今血刀をふり走込候処を無下にかなふまじきと被仰候においては弓矢の道は長くすたり。近国までも笑草と成給ふべし。其上只今御加勢有て、彼浅井を御取立給はば、其恩をわするゝ事はあるまじ。当家に自然の大事も出来なば、浅井一番に馳参し、御先を可レ仕、又江北は当国と打続く国なれば、中睦敷こそ望む所なれ。他国に御味方一人持事末頼もしき事也。是非御加勢被レ遣べくと申されける。貞景聞給ひ、太郎左衛門尉被レ申所尤なり。さあらば誰を大将に可レ遣と有ければ、仰にて候はゞ、年罷寄て候へども、我等罷越、佐々木六角、佐々木京極、両旗にて向ふといふとも、悉く追払ひ、浅井に本望を遂させずんば、二度当国へは帰るまじき物をとぞ申されければ、貞景宣ひけるは、太郎左衛門尉、例の荒言かなと笑みをふくませたまひける。かくて使節赤尾駿河守、木村甚七郎を貞景の前へめされ対面ありて、備前守への返事には加勢の儀何時なりとも一左右次第に我等名代に朝倉太郎左衛門尉を可レ被レ遣旨御返事有ければ、両人は不レ斜よろこびて小谷に帰り、越前にての次第一々備前守に語ければ、近習外様の者までも色をなほしてよろこびける。
京極殿江南勢を引率し小谷へ押寄給ふ事
かくて京極三郎入道利角斎、同九月十九日に江北中の武士悉人数揃へしたまひて、江南佐々木六角殿へ宣ひ被レ遣けるは、今月二十一日に小谷へ押寄、備前守亮政を討取可レ申と存候条、御加勢被レ成可レ被レ下旨被2仰遣1ければ、後藤但馬守、進藤山城守を大将として江北へ仰付らるゝ人々には、平井加賀守、三雲新左衛門尉、小倉将監、奈良崎源五左衛門、三上外記、吉田安芸守、馬淵大賀を宗徒の大将として其勢都合七千余騎、矢島野に着陣す。江北勢都合八千余騎、南北其勢一万五千余騎、小谷の城へ押寄ける。其日江北軍奉行は浅見俊孝軒、磯野伊予守なり。後藤但馬守、俊孝に向ひ申されけるは江南の勢は荒手に候へば、小谷を荒攻可レ仕と望みければ、俊孝、承誠に宜敷仰にては御座候へども、江北の者共に一もみもませて、其後御勢を被2入替1可レ然と申ければ、是非一番に可レ攻と申けれども、俊孝何とか思ひけん。其旨をゆるさずして、いや/\左様の儀にあらず。浅井は智謀の達せしものなれば、何方へ勢を廻し置、後より切て駆る事もしれず、後備大事に候間、後に備給ひ、敵後より廻らば討取給へ。左なくば味方つかれ候間、御入替頼むなりと申ければ、後藤此儀をうけ、後備丁野表に備を立る。寄手小谷四方に廻るとひとしく、合図の鐘をならし、鬨を一時にあくれば、天地俄に震動して、大山も崩れて湖海に入かと夥しくぞ聞えし。城中には時の声をもあげず。役所/\の持口を堅め、しずまりかへりて居たりければ、寄手の者共も又謀や有らんとて進みかねて見えけるを、浅見俊孝、上坂修理亮、四方田彦七郎三人の者共、浮武者となり走り廻りて下知すれば、城中よりも矢先を揃へて防ぎける。
越前朝倉太郎左衛門尉江北小谷へ加勢の事
かくて浅井備前守亮政、越前に使節を以て申入られけるは、今月二十一日より江南江北数万の軍兵を引率し、当城小谷山を稲麻竹葦の如くに取囲み候条、御加勢を頼上候よし、木村甚七郎を以て申遣ければ、朝倉太郎左衛門尉兼て用意の上なれば、此一左右聞とひとしく八千余騎を引率し、永正十四年九月二十七日に江北椿坂柳ヶ瀬に着陣し、諸軍勢に申付られけるは、先へ見えれば先一番に龍門寺千騎にて東野村の東の山へ打あくる。前野彦右衛門尉千騎にて池原山へ取のぼる。黒田山、賎嵩山へは魚住玄蕃二千騎にて一番備より先へ打て、人数をくり出す。はや先勢は木の本山、田部山まで満々たり。是は敵方へ多数引続くと見せん為の備と聞えたり。六角勢此由を見て浅井は朝倉を頼み加勢あると見えたり。猛勢雲霞の如く馳寄るとて色めき立てぞさはぎける。浅見俊孝駒をはやめて馳来り、後藤但馬守にむかひて申けるは、越前より浅井に加勢して人数少々坂口、木の本辺に見ゆるよし物見の者共申来り候間、江北の者ども某同道、由井の口、田部両郷の内にて朝倉勢を支へ可レ申候間、江南の御人数を入替へられ、小谷を攻給へと申ければ、後藤承り。いや/\京極殿の御人数は其儘小谷を攻たまふべし。我等朝倉勢を可防と申ければ、俊孝聞て、いやとよ其儀にあらず、江北の武士共我住所に候へば、駆引場所の地案内をよく存候。江南の御衆は御無案内の地なれば、是非入かへてたへと有けれど、進藤、後藤同心せず、其間にはや朝倉勢ははや引色に見え申候間、様子御覧じ御引取なさるべし。御前なる人々能々守護し申されよ。我々父子磯野が一家千田、横山を同道して朝倉勢さゝへんとて、千三百騎にて田川と申川、小谷の間に有けるを前にあて、ひかへて敵を待にけり。かくて太郎左衛門尉、物見を出し、小谷の近辺を見せければ立帰申けるは、両旗本、殊の外騒動仕候と申せば、さあらば先手より繰出せと申ければ、馬上山へ人数を打あげんとすれば、六角勢是を見て一支もさゝへずして引取、虎御前山へ取登り備て一戦すべきとせしを、龍門寺前波彦右衛門は是を見て、いさみにいさんで進みける。小谷を攻る江北勢色めき立て騒動す。上坂修理亮、口方田彦七郎是を見て、きたなき人々のありさまかなとて引返し、備を立、一合戦すべしと下知すれど、耳にも更に聞入ず。右往左往に周章ければ、城中には時分今と心得て、備前守二千余騎にて鬨をどうとあげ門をひらき切て出る。朝倉勢も城中より切て見るより喚叫て、磯野が備たる田川表へ切てかゝる。為員例の大弓にてむかひ来るを幸と、朝倉勢の歴々五六騎、矢庭に射落せば、朝倉勢是におそれ猶予して居たりけるを、朝倉掃部頭、龍門寺など大音あげてかゝれ/\と下知すれば、入みだれ戦ひける。浅見俊孝軒、子息対馬守、安養寺河内守、磯野右衛門大夫、子息源三郎、磯野伊予守、千田伯耆守、子息帯刀、同弥九郎、横山大和守、同肥後守、命もおしまず戦へば、朝倉勢しばしが間はさゝへしが、江南勢、虎御前山へ取のぼり、備を立んとせしを、越前魚住玄蕃、丁野川原へおし廻り、進藤勢にひしと付、すき間をあらせず戦へば、浅見、磯野、安養寺、千田、横山かなはじとや思ひけん。向ふ敵を追払ひ駒をはためて落にけり。それよりして朝倉勢は江南勢を中道筋へ追討に討、浅井は京極旗本勢を上道筋へ追討に討、浅井、京極勢を二百三十二討取ければ、味方も五十一騎討れにけり。朝倉勢は江南江北両方にて首三百八十討取ければ、六十七騎討れにけり。かくて朝倉勢は其日は横山に陣取、浅井勢は春照村に陣取て人馬をやすめて居たりけるが、翌日上平へ押寄べきに、議定してぞ居給ひける。誠に六角勢一戦もとげずして見ぐるしき敗北かなと後日に至るまで笑ひける。其時踏返し戦ひなば、かほどに多くうたれましきものと申さぬ者はなかりけり。
京極殿備前守と和睦附朝倉と浅井対面の事
去程に朝倉勢勇みにいさんで六角勢をしたひ行程に、今浜辺まで追討に討取、それより人数を引かへし、観音坂横山に陣取、浅井が勢は春照寺村まで京極勢をしたひ行、春照寺村に陣取、九月晦日の事なるに、日も漸々黄昏に及べば、其夜はそこに陣取、翌日越前の陣所へ浅井大和守を使として上平へ押寄給ふべき旨申遣す。備前守も上平へ人数くり出し京極城郭を幾重ともなく取巻ば朝倉勢も伊吹の麓に勢を立ならべ一刻にもみ落すべきとしたりければ、城中には昨日味方敗北に及び皆ちり/\に落うせ、其上旗頭の面々も上平へ取籠る事かなひがたくして方々へ敗軍せし上、無勢籠城かないがたしとて以の外驚き、京極殿より浅井備前守方陣へ大津弾正忠、河瀬壱岐守を以詫言被2仰入1けるは、此比数度人数を寄相戦ひけるといへども、終に不レ得2勝利1今如レ此に罷成事面目もなき次第なり。然る上は其方江北の守護所となり、某を先年上坂入道泰貞斎致置候通に閑居分にいたし置候はゝ、可レ為2満足1旨被2仰越1 ければ、亮政承両使に対面して宣ひけるは、某全く私用私欲をかまへ逆心を企るにては無2御座1候、御一家にては候へども上坂治部大輔、同兵庫頭泰貞斎入道相果、数日も不経に我まゝを振舞、罪なき国民を多く損害し国穏かならず、其上假初の出仕をいたす侍共にさへ対面もなく、武士の道長くすたり、当国他家へ渡り可申事を歎き、此両人の衆を追立申処に屋形大きに怒らせ給ひ、人数を寄らるゝ事御不覚にて御座候。且又我先祖落葉より流浪いたし参候処に当屋形の御先祖京極大膳大夫持清より丁野一箇所給はりて、其耻辱を隠置事御恩賞も深かりき。然れども時にしたがへば泰貞斎に幼少の時より被2付置1随分忠功を遂げゝれど治部大輔、兵庫頭にとほざけられ、今かく逆意の様に罷成候へども、屋形へ対し少も逆心は不レ存候間、泰貞斎守護せしごとく屋形に立置可レ申、諸事御隠居分にて御かまひあるまじ。江北の仕置は我等方より取行可レ申候。併今度我等につよく弓を引候者共、国中を追払ひ可レ申候間、左様に御心得可レ被レ成とぞ申されける。大津、河瀬承、兎角中和調なば、いか様にも宜相談可レ仕と申に付、備前守宣ふは其儀候はゝ、上平殿よりも誓紙一通可レ捧と両使へ申渡されければ、二人の者共承、備前守いにしへを思ひ出され、早速承引したまふ事誠に無我なる勇士なりとて備前守にいとまごい、上平殿に備前守口上の趣、一々申上ければ、京極殿をはじめ参らせ、家老の面々もろともに悦ぶ事はかぎりなし。やがて互に書状取かはし、勢を小谷へ引揚げ給ふ。翌日十月二日、朝倉勢浅井勢二千三千づゝ引分、小谷近辺の小城共押寄/\攻ければ、手答へするもの一人もなし。勢の不向先にあけ退くも有、詫言申立退くもあり、誠に目もあてられぬ風情なり。いたはしや俊孝は敵攻来らざる先に、尾上の城を開き、高島の知行所新庄へ落行けり。かくて備前守、陣中の取込ともいはず、小谷の内に麁相にかり屋を取立、朝倉太郎左衛門尉を請待し、備前守対面したまひ宣ひけるは、今度京極六角両旗を以て攻給ふ故、既討死可レ仕と覚悟仕候処に朝倉殿の御すくひ故、助命仕候事、且は貴殿御武勇達したるゆへなり。今御老体の身として早速是まで御出馬被成候故、大敵を破る事御恩山を重ぬれば、兎角申もおろかなりと慇懃にのたまへば、太郎左衛門尉悦て、誠に貴殿儀越前にて伝へ聞しより軍に巧者なる御人なり。一昨日の城出の時分、誠に図に当り候故、敵一支もさゝへず、皆敗北仕候。殊に仁義を本とし給ふ故、京極殿を可レ被2取立1との儀、弥以神妙に存候と称美し給ひける。小谷に中四日逗留有て昼夜軍物語なり。金吾申されけるは、此城今少引さがり候間、大嵩の方へ二町計も引上られ築給はゞ、敵取巻候ども攻入事成がたかるべしと申さるゝに付、其後城を引上げ築直し給ひけり。太郎左衛門尉居給ふ処を今に至るまで金吾嵩と申候てこれあり。かくて太郎左衛門尉申されけるは、我越前より加勢申候次手に近所の城持共を貴殿と某との人数を二手に分ち、押寄/\攻取べきと有ければ、備前守も多勢永々留置事も遠慮と思ひ候。又京極殿と中和の上なれば、江北の諸侍共降参すべきとおもはるゝが、此度は先貴殿の御人数は越前へ被レ入給ふべし。重て大事出来せば、頼み可レ申と申されければ、金吾も京極和睦の事なれば、江北は可レ治と思ひ、其儀にて候はゞ、先人数を可2引取1とて、同月七日に人数を越前へ可2引入1と互に暇乞したまへば、小谷の城より二里北木の本まで備前守見送り給ひけり。太郎左衛門尉越前に至て貞景へ江北にての軍の次第被2申上1ければ、朝倉の面目是に過しとよろこび給ふ。太郎左衛門尉申されけるは浅井はあつぱれ能き武士なり。今度御加勢被レ成彼に本望を遂させ、小谷の城に居候儀、末頼もしき事に御座候。浅井に先駆させ江南佐々木を追払ひ天下に御旗あげ給へと有ければ、列座の諸士同音に勇みをなさぬ者はあらざりけり。
浅井備前守上平殿へ御礼申上る事
かくて京極入道利角斎、家老の面々を召て宣ひけるは、今度多人数を引率し、浅井を攻といへども、一度も勝利を得ず、剰へ浅井に手を下げ降参に及ぶ事無2面目1次第なり。併浅井早速同心いたし、京極の家業相続可レ仕の旨祝着の事なり。彼者の心を宥んが為、此方より家老の者一人差遣し、先日は早速人数を引揚げ満足申段可2申入1は如何にと被2仰出1ければ、尤可レ然存候。其上江北の大名小名流浪いたし、あはれなる次第にて御座候条、彼者共を浅井に能々被2仰入1本領安堵仕候様に被レ遊候はゞ尤に存候と申上ければ、さあらば浅井へ使節可レ遣とて、多賀新右衛門尉、黒田甚四郎、両使にて京極殿より浅井が方へ被2仰下1候は、今度一戦に及ぶの処に、此方軍大に敗るゝに付、和睦を請申候処に、早速同心申され、剰京極の家を守り江北の成敗可レ仕の旨一入神妙の至りに存候。自今以後は弥頼入度との由被2仰下1ければ、浅井備前守両使を小谷へ請待仕善つくし美つくし馳走、尤夥し、浅井京極殿の仰謹て、承冥加不レ浅思ひ満足する事かぎりなし。やがて御請申上、両使見送り返しける。翌日十月十二日、備前守は三田村左衛門大夫、大野木土佐守、赤尾駿河守、三人を小谷に残し置、大橋安芸守、伊部清兵衛尉、海北善右衛門尉、赤尾孫三郎、彼等四人を召具し、上平殿へ参上申、大津弾正を以案内申上ければ、京極殿は聞召、備前守、早速是まで参らるゝ事神妙の至なりとて急ぎ対面まし/\て、今度は早速人数を引取、和睦無2残所1忠義なりと宣へば、備前守、御意忝奉レ存候。私儀御家へ対し少も不忠なる事可レ仕にては無2御座1候へども、弓馬の道の習ひにて一両年の間は争事御免可レ被レ下以来は御意を承、江北六郡の仕置可2申付1と被2申上1ければ、家老の面々承り、古へを被レ存可様に申上らるゝ事、古今稀なる次第なり。向後よりは貴殿存知のまゝに仕置等可2被レ申付1とぞ申ける。備前守重て申上られけるは江北の諸士中追払ふべき者共多し。其上に敵対申におひては押寄可2討取1とぞ申されければ、京極家老の面々承、貴殿の御所存尤に候へども、今日は敵となり、明日は味方となるも、是皆乱国の習なれば、降参仕候はゞ可レ有2赦免1京極の家を其まゝ被2立置1の上は郷侍の者共も旧家にて候へば、赦免候へと宥ける。其日は上平にて御馳走有て、翌朝小谷へ帰城したまひければ、京極和睦の上なれば江北の諸士内縁を以て、我も/\と降参す。先第一番に東野左馬助舎弟平野左兵衛、井の口弾正少弼、西野丹波守、野村伯耆守、同肥後守、錦織周防守、今村掃部頭、片桐右馬允、山田が一党、大宇右近大夫、山崎源八郎、雨森主計、中山五郎左衛門、高野瀬修理亮、彼等を降人のはじめとして、我も/\と小谷の城へ馳参して、備前守に降参して各幕下に属せしなり。中にも降参せざる者亦多し。此の次第、後に記すべし。
浅井備前守亮政越前に参朝倉殿へ御礼申上る事
去程に、備前守は家臣共を召寄て相談して申されけるは、我等今度既京極六角両将の為にうたるべきの処に、越前朝倉殿加勢候故猛勢を追払ひ、江北六郡の内二郡半手に入、相残る敵共をおのれ/\が在所へ追込置候ぬ。是も追付可2切取1さなくとも、自からに降参し、可レ来儀是皆朝倉殿の御恩なり。急ぎ越前へ罷越、先一体可2申上1と存なり、いかゞ候らんと宣へば、列座の面々承、仰御尤には御座候へども、唯今雪降に向ひて、北国下向の儀覚束なし。来春早々思召立給ひて可レ然存候と申ければ、備前守聞たまひ、各の申さるゝ様も尤には候へども、来春迄は延引なり。雪つもり候ども当月中に馬の足立ざる程の事はよもあらじ。自然雪俄につもりなば中河内椿坂までの間へ人足を入、雪をふみわけさすべし。是非に当年中に可2思立1とのたまひて、永正十四年十一月三日に大橋安芸守、伊部清兵衛尉、浅井大和守、阿閉三河守四人を大将として今度降人と成来候者共を相添、小谷の留主を被2仰付1我身は兄にて渡らせ給ひし。赤尾駿河守、海北善右衛門尉、赤尾筑前守、同与四郎、同孫三郎、彼等をはじめ、手勢五百にて居城小谷を立て、翌日四日に越前国府中につき、朝倉太郎左衛門尉所へ案内申入られければ、太郎左衛門尉殊の外に驚き、急ぎ貞景へ此旨申上ければ、貞景をはじめ家老の面々集り、備前守寒中押して来らるゝ事、義深くして慇懃をつとめらるゝ人なりとて、よろこびはかぎりなし。先当夜は太郎左衛門尉方にて休息あるべしとて、種々の取持なり。翌朝貞景対面ありて申されけるは、備前守殿此雪中に国を隔て、是まで御越の儀不レ浅候と悦び給へば、備前守亮政は承2御意1忝存候。今度江南佐々木六角、江北佐々木京極両旗にて被2取籠1候処に、御同名太郎左衛門尉殿に被2仰付1国中の御勢被2指向1候て、はげしく御働被レ成候に付、其御影を以て虎狼の囲を免がれ候段、生涯の面目過分不レ浅奉レ存候。自今以後御家に御大事もあらば、一番に馳参じ、此御恩を報じ候はんとぞ申されける。然る処に朝倉太郎左衛門尉取成て申されけるは、浅井殿儀武道ばかりでもなく仁道もつばらにして義を重んじ、礼正しくして智謀深き人に御座候。今度も先祖の亡慮を鑑み、京極すでに討れ給はんを助命し、しかのみならず、其家業を立置、和睦の段は常人のわざならず候と褒美いたされければ、貞景聞給ひ、亮政殿は弥末頼もしく覚え候条、向後は何によらず人数入申事候はゞ、加勢せしむべし。此方へも入申事候はゞ、可2頼入1と宣ひける。かくて越前一乗の城に中三日の逗留なり。先初日には御能三番これあり。第二日には越前国の射手を揃給ひて弓の会これあり。第三日には国中の名馬共をそろへて、若者共に乗せ、亮政をもてなし給ひ、此馬の中に何れなりとも亮政の気に入候はゞ、可レ遣との給ひければ、朝倉栗毛と申名馬を申請られける。かくて備前守可2罷帰1旨申入ければ、備前守へは来国光の太刀給はる。兄駿河守には長光の太刀に馬一匹なり。是も名ある馬なり。赤尾孫三郎には助実の太刀、海北善右衛門尉にも金作太刀を給はりて、魚住玄蕃に被2仰付1騎馬五十にて国境まで見送り給ふ。今度朝倉殿の馳走、言語を絶するばかりなり。かくて小谷の留守居の者共の中、大橋安芸守、伊部清兵衛尉、木の本まで御迎に罷出ければ、井の口弾正、今村掃部頭など御迎に罷出さゝめきつれて、小谷へ帰城したまひけり。是よりして浅井三代の間、水魚の思ひをなし。中よかりしなり。終に両家共に右の由緒ゆへ、信長の為に一同に滅亡せしなり。備前守の趣を高島へ立退し浅見入道俊孝聞付、人数を集め留守の隙を窺ひ、小谷へ込入べきと所々の郷士をかたらひけれども、浅見入道に勢思ひ付ざれば、心ばかりをはやらかし、いたずらに日を過しける。其内に浅井帰国に及び、残り多しとばかりにて終に其手立もむなしくなりにけり。
浅井三代記第五終
底本には濁点、句読点は無いが、読みやすくするために濁点、句読点を附した。
(『改定史籍集覧』第六冊を底本としました。)
第六
第六(全文)
京極陰謀の沙汰の事
去程に永正十五年正月九日の事なるに、去年十一月初より雪積り、今月初までは里より里の通ひだに自由ならざれば、江北の侍共爰かしこと縁に従がひて先妻子をのけ、味方の様体を見ゐたるに、浅見俊孝入道は浅井の郡を立のき、高島郡新庄は己が知行なれば、其村へ立退、罷在子息浅見対馬守は山本山に楯籠けるが、俊孝が指図として上平殿へ立越、年始の嘉儀申上る。嵩峯入道へ潜に申上けるは、去年十月の軍散して後、江北六郡の諸士、或は知行所へ引隠居るも有、或は江南佐々木殿を頼はしり込も有、おもひ/\に罷成候。併己が城を枕として討死を極め罷有者多く御座候。先一番に犬上郡佐和山の城に磯野伊予守員吉は近辺の者とも相したがへ、七百余騎にて楯籠り候。今井肥前守、新庄駿河守己が一門四百余騎にて坂田郡箕浦の城に楯籠る。堀能登守頼貞は樋口をかたらひ、門根村の城に五百余騎にて籠り候。高宮三河守頼勝、久徳左近大夫は高宮の城に三百五十騎にて楯籠り候。伊香郡には磯野右衛門大夫員詮、子息源三郎為員、二男源十郎、宮沢平三郎員資、千田伯耆守有義、子息帯刀有信、二男弥九郎、布施二郎左衛門尉義里、子息小次郎、横山掃部頭家隆(後改大和守)、同肥後守信家、森勘解由、都合其勢七百余騎にて同郡礒野山の城に楯籠り候。近所山本山の城には某兄弟熊谷弥次郎直光、同新二郎信直、安養寺河内守勝光、子息三郎左衛門尉六百余騎にて楯籠り罷在候。此者は浅井が幕下に罷成候事中々不2存寄1体にて御座候。其上先年環山寺殿御代に江北を上坂治部大輔泰貞に御預なされ候てより六郡の屋形有に甲斐なく渡らせ給ふだに口惜く存候や。浅井に降り、京極の家をやぶり申事かなふまじきの心ざしと相見え申候と申上れば、上平殿聞給ひ、浅井と中和し給ふ事、御口惜くや思召けん御心、忽に変じて浅見を御頼有て仰けるは、汝等義を守る段神妙なり。我浅井と中和をなすといふも、皆是智略なり。右の楯籠る所の城主どもに京極が心底を曲にのべ定頼卿を頼み出し、浅井退治偏に頼と仰られければ、浅見不斜悦び、さあらば御書一通可レ被レ下其通相触可レ申と申上ければ、京極殿宣ふ様は浅井を討べきの計略なれば、触状なんどゝいふならば敵方へ聞ゆべし。先其色をたつるまでもれざるやうにはかるべしと仰ける。かゝりける所に加州宗愚、大津弾正二人進み出て申けるは、浅井を人数入らずに討事あり。いまだ年始に来らず、定て一両日のうちに来るべし。其時殿中にて討取可レ申供侍の内、赤尾孫三郎、海北善右衛門尉、雨森弥兵衛、此三人の者共は若者第一の手きゝなり。此者共は大寄の間に人数を隠し置討べきと申ければ、何も此儀可レ然と同じて、此一坐より外へはもらさじとぞ示し置ける。
京極隠謀露顕の事
かくて小谷の城には亮政家中出仕取行給ひて上平殿へ年始の嘉儀可2申上1之処に何とか思案や有けん。正月十三日まで延引す。其日既に小谷を打立んとせし処へ、大橋安芸守秀元が方へ上平殿にて備前守亮政を可レ討と大津弾正、加州宗愚両人相計る旨告来る者はべれば秀元大きに驚き、備前守殿へ此旨委申上ければ、亮政聞給ひ宣ひけるは、尤さも有べき事なり。然れども去年中和を取むすび候処に今其色も立給はざるに此方よりひかへ申所にてもなし。たとひ某を討給はんとしたまふとも心易くは討れ候まし。是非打立んと宣ひける秀元重ねて申けるは、君君たらざれば臣も又臣たらずと申事の候へば、其理にては御座有間敷候。御名代をつかはされ可レ然と再三しゐて申ければ、尤なりとて三男浅井大和守政信に供の士五十人相添、亮政病気に依て大和守差越るゝ由、太刀馬代を以申されける。大和守上平へ参し、此旨申上ければ、加州大津計略相違して、大に怒り申けるは、亮政去年中和の上、向後京極の家を守り可レ申との旨にて屋形にも隔なく頼みおはしめす処に、今更病気と称して名代を以申るゝ事如何なり。遅速の儀はくるしからず。重て病気本復の時、出仕有べしとて大和守をかへされけり。大和守、両人の者に少も背かず、さあらぬ体にもてなし、其まゝ上平を罷立、小谷に帰り、上平にての様子曲に語りければ、亮政をはじめなみ居たる面々、秀元が申通り、少もたがはず、此上は雪も消、馬足自由なる時節に、上平へ押寄せ討奉るべし。近辺の諸士どもをこと/\く踏つぶさばやとて其術をぞ催されける。かくて上平殿には加州大津が謀露顕して、浅井追付、上平へ押寄可レ申沙汰を聞給ひて、六人の家老打寄、相談したりけるに、折節、上平に勢のあらざれば兎やせんと案じわづらひ給ひける。かゝりける処に、佐和山の城主磯野伊予守員吉、高宮三河守頼勝、久徳左近大夫三人、同正月十五日に上平へ参着して御祝儀を申上る。六人の家老共右の旨、竊に語りければ三河守申けるは、中和御破被レ成候事幸なり。佐々木定頼卿、去年御加勢有し時、江南勢越前勢に被レ破候事遺恨に思ひ給ひ、是非に二三月の時分数万の軍兵を引率し、小谷を攻給ふべきの内談これあり。其節此者共に案内せよとの仰にて候間、当春中には浅井を心易く討取可レ申候。屋形中和の事、江南佐々木殿、後指をさし給ふ様に申候間、今度浅井を討取、御外聞御清め可レ被レ遊とぞ申ける。京極殿をはじめ六人の家老ども悦び申事限なし。やがて御陣の内談有て各御暇給はり、佐和山さしてぞ帰りける。
伊香郡磯野山山本山両城合戦の事
かくて浅井備前守は上平殿御謀叛に付、所々の城主楯籠り、小谷へしたがはされば、家老の面々をめされ評議して宣ひけるは、所々山々漸雪も消候の条、軍兵を催し上平へ押寄可レ攻と思慮をめぐらし候へども、近所磯野山、山本山を眼前に置、上平へ押寄候も覚束なし。先山本山、磯野山両城を攻取、上平殿をしづめんと思ふは如何と被レ仰ければ、各沙汰し申けるは磯野山に楯籠る源三郎弓勢に兵進みかね申候条、磯野を押へ置、上平へ責よせ可然候はんやと申ければ、いやとよ其の儀に非ず、上平までは間七里許も候へば、味方の人馬つかれ勝利すくなし。磯野山は当城より其間二里の内なれば、掛引自由なるべし。其上磯野を責るといふとも上平より勢を出され当城へ取掛被レ申候事なるべからず。上平へ押寄なば、山本、磯野は二里間なれば、留守を窺ひ敵可レ来、兎角磯野を可レ攻と宣ひければ、然らば先一もみもんで見給へと評定極りて、永正十五年二月十七日、六百余騎を二手に分、山本へは赤尾駿河守教政を大将にて野村伯耆守、同肥後守、大橋安芸守、海北善右衛門尉、阿閉三河守、西野丹波守、雨森弥兵衛、此人々相添、都合其勢一千余騎さし向らる。我身は舎弟大和守、同宮内少輔、東野左馬助、井口弾正、赤尾筑前守、同孫三郎、今村掃部頭、伊部清兵衛、八木与藤次、片桐右馬允、千六百余騎にて磯野山へ向はる。磯野山には此よしを見るよりも浅井勢当城へよすると見ゆるぞ。川を前に当て戦ふべしとて源三郎を大将として究竟の射手を三十人一文字に川より半町許手前にひかへ、其の後には右衛門大夫、千田伯耆守、三百余騎にてひかへたり。大森山の切通し口には布施、横山、森、百五十騎にてひかへたり。かくて備前守は磯野の郷のこなた、あやと申所に本陣をすへ給ひ、先陣を伊部に被2仰付1、磯野郷の際まで打入見けれども、敵、川のあなたにひかへさゝへければ、伊部清兵衛、磯野村へ討入放火すべきと思ひ、郷中へかけいらんとせしを、源三郎是を見て、川よりこなたにひかへ勝利十分有といふとも、郷中を放火させては其甲斐有まじきとおもひ三十余騎の射手を引具し、川をさつと渡し、清兵衛が先手の勢へかけ向ひ、指詰引詰射たりけり。源三郎元来精強の大矢にて、向敵五六人目前に射落しければ、寄手しばらく進みかねたり。かゝる処に赤尾孫三郎旗本より三十騎許にて面も振らず馳向ふ。右衛門大夫是を見て源三郎を引連れ川よりむかひに引取けり。かくて浅井は此由を見たまひて郷中へ押込放火せんと又人数を出し給へども、右衛門大夫は源三郎を堅くいさめて静り帰りて備へたれば、思ふまゝに放火すれども敵一人も掛向はず、清兵衛五百騎許真黒になり川の端まで押よする。源三郎既に射立んとすれども右衛門大夫是を許さゞれば、弓を横にふせ置、打しづめてぞ居たりける。寄手是に気を得て川を渡り向の岸に二百四五十騎打あくるとひとしく両方に立分れ、指詰引詰射たりければ、川中にて色めくを右衛門大夫是を見て三百余騎真黒になりつきかゝりける。清兵衛こゝをせんどゝ戦へども、磯野が勢命を惜まず防ぎければ、二百四五十騎の兵、川中へ追込み川中にて討ちつ討れつ戦へば、清兵衛防ぎかねて居たりしを浅井は清兵衛を引取べきと思ひ、旗本を崩し一千許にて鬨を憧とあげ喚叫て突かゝる。大森山へ向し兵共横鎗になり馳来る。それよりして敵味方入違、一時許りはしのぎを削り戦ひしが、浅井勢つゐに戦ひ負け引取らんとせしを、千田帯刀、宮沢平三郎なんと勝に乗、突かゝりける処に赤尾孫三郎と名乗かけ、敵の中へ面も振らず駆入、東野左馬助、井口弾正、相つゞいて踏留め戦へば、磯野が勢は此の戦ひに追立られ川をあなたへ引取けり。浅井、時分はよきとおもひ采配を取て人数をあや戸まで引取給へども、敵したひ追はされば、山本表へ引取たまふ。其時磯野表にて味方の兵三十二騎討るれば、敵も十九騎討取ぬ。かくて山本山へむかひし赤尾駿河守は山本村より十町許り此方阿閉の南に陣取給ふに、山本山より人数を下し、川より此方へ渡り越、備を立て居たりけるに、大橋安芸守、海北善右衛門尉、雨森弥兵衛、野村肥後守六百騎許にて押寄けれども、敵鎗ふすまを作り一人も立出されば、敵味方の間二十間許もつめ寄けれども、敵事ともせず静りかへりて伏居たり。大橋此のよし見るよりも馬上にて駆散らすべしとおもひ真黒になり駆込んとせし処を浅見、熊谷共に下知して曰く、弓矢は今なるぞ、矢種を惜まず射かくべしと散々に射立ければ、大橋が兵、足をしどろに乱しける処を安養寺河内守、浅見対馬守、四百余騎面も振らず切て掛れば、大橋もこゝを先途と戦へど、此の者共に追立られ、半町許引退く。海北善右衛門尉、雨森弥兵衛爰に在りと名乗かけ、敵の中へ駆入、四方へ追ひ掛ひ銘々首を引さけて味方の陣へ引取りぬ。味方是に勢ひ得て備を崩して駆向ふ。山本勢取てかへし火花を散らして戦ひ向ふ。敵十七八騎討取、猶も進て責入ける。味方此の勢ひに追立てられ、一町許引揚げゝれども、敵したひ追はされば難なく川をうち渡り城の中へぞ引取ける。かゝりける処に浅井備前守は磯野表を引取、山本さして向ひ給へども、敵一働して城中へ引取ければ、押寄可レ攻にも便なしとて城取、川筋見分したまひて重て押寄攻むべしとて勢を小谷へ打入給ふ。
浅井箕浦の城を攻る事
浅井備前守亮政は山本山、磯野山より人数を引揚げ、旗頭共に向ひ宣ひけるは、今度攻る所の両城味方押寄がたき城取なり。殊に右衛門大夫も浅見対馬守も人数の差引軍に心有体なり。卒爾に攻落しがたし。伊香郡の両城は先すて置、坂田郡箕浦の城に楯籠る今井、新庄を可レ攻と被レ仰、小谷に五六日逗留ありて、同月二十四日、赤尾駿河守、大野木土佐守、三田村左右衛門大夫、其勢八百余騎、小谷の城に被2残置1、其身は千八百余騎にて小谷を立て中道を押出て給ふ。観音坂表にて野村伯耆守、同肥後守、阿閉三河守父子、洲川山、小屋山へ打上給ふ。是は上平より加勢来るにおひては相さゝへんとの術なり。残る千三百余騎は箕浦へ押寄取巻んとせし処を城中より新庄駿河守三百騎許にて顔戸山に人数を二段に備へて支へける。其日亮政の先手舎弟大和守、大橋安芸守は新庄が勢の中へ駆込しばらく戦ひけるが、大橋安芸守、五十騎許の手勢にて山の手にそふて追なびかす。亮政これを見給ひて、先手の者共はや敵にあひたり。赤尾、海北も打続て敵を城中へ追込給へと下知し給へば、畏て候とて其勢都合六七十騎にて顔戸山の西より押回す。大和守、安芸守、味方西より喚叫て突懸れば、新庄も命を不レ惜戦ひしが、西より赤尾、海北まはるを見て城中さして引取処を大和守、安芸守に赤尾、海北一手になり城際まで追ひせまる。新庄門の中へ駆入らんとせしを、味方幸ひと思ひ火花を散らして戦へば引入がたくて居ける処に、大橋真先に駆け向ひ、五十騎許の人数をさつと手前へ引取、其透に新庄城の中へ入らんとすれば、又味方の兵共城中へ付入に押込んとす。其時に城中より今井勢二百騎許門を開て切て出るに味方の兵一さゝへも支へず敗北す。今井肥前守、新庄駿河守両人城の中へ人数をさつと引取、門をてうと堅めける。門外へたて出したる今井が兵共、五六十人途を失ひて見えし処を味方追詰々々討んとす。亮政兵共を制して一人も不レ可レ討とて手勢を引揚げ、今井が兵共落しやる。かくて城中を二重三重に取巻喚叫て攻め給ふ。城中にても今井、新庄、命を不レ惜ふせぎける処に亮政、大橋に下知したまふは箕浦の民屋をこぼち、堀をうめ乗込めと有しかば、夫よりして箕浦、新庄の中へ乱れ入り、民屋をこぼち、忽ち堀を平地に埋めたりけり。城中には是を見て新庄駿河守、今井に向て申けるは、味方より敵すべき勢もなし。先今度は亮政に降参し重て味方の安否を御覧候へと申ければ、今井肥前守も味方の兵共多く討せたりといふとも、運ひらきがたき所なれば、新庄が申分に同心して、則今井十兵衛を城中より出し申入けるは今度一命を御助け置被レ下候はゞ、自今以後無二の忠節仕るべきと侘言申入ければ、亮政、此旨聞届け給ひて、さあらば人質を出すべし。其上今井肥前守一家と新庄駿河守と一手づゝ小谷へ相詰可レ申左候はゞ、扶助可レ申と有ければ畏候とて肥前守は八歳なる男子、新庄は五歳なる女子を城中より出し、両人ともに降人となり、御礼申上ければ、亮政不レ斜悦び、人数を小谷へ引取給ふ。其日に当て山本山、磯野山には亮政坂田郡へ働き出給ふを聞、小谷無勢にてあるべし。小谷の城へ押寄せ、上平殿へも人数を請ひ、途中にて亮政を可2討取1と両城共示し合せ、所々の浪人等かり催し、明二十五日可2打立1と支度する処へ亮政箕浦の城を攻め取り、今井、新庄を味方に打したがへ、翌二十五日早朝に小谷へ帰城したまへば思案大きに相違して其沙汰既にやみにけり。
江南六角江北京極小谷表へ出張の事
山本山、磯野山、両城の者共は去月十七日の合戦に勝利を得、浅井夫より此方へ兵をも出さず、小谷に引籠り居給ふはこれよき幸ひなり。上平殿と江南六角殿へ注進致し、勢を可2引出1と思ひ、江南へは宮沢平三郎、上平へは浅見新八郎差遣し申上けるは、先月十七日に浅井亮政数千騎の軍勢を率し、山本、磯野両城一度に攻寄せ候処に、味方大ひに勝利を得、浅井勢を忽ち追ひ払ひ、両城へ首数五十討取申候。夫より浅井勢箕浦へ働き出候といへども、今井、新庄両人、浅井となれ合、磯野表にての面目をきよめんが為めに箕浦へ引寄せ、浅井に武威を付け候、実は其儀にあらず候、夫より唯今小谷に引籠り罷在候。此節御人数を小谷へ被レ出候はゞ、早速浅井をば御討取可レ被レ成候と手に取やうに申ければ、定頼卿を初めまゐらせ、家老の面々も磯野、浅見が分として浅井勢をかよふに追立、剰首数多く討取事神妙の至なり。内々より江北へ発向し、浅井一家の凶徒を討静めんと願ふ処なれば、よき首途の吉事なり。追付討立べしとの返事にて約諾かたくしたまひ、宮沢平三郎を江北へ帰し給ふ。宮沢、夫より直に上平へ伺候して、六角定頼卿の御返事委曲申上ければ、京極悦び給ふ事限なし。斯て江南江北の両将、浅井は破敵なれば、今度は勢を段々にそなへ置、仕寄によすべしとて子息義賢に後藤但馬守を付、観音寺城の留守居なり。永正十五年戊寅五月十一日に惣勢一万余騎、江南観音寺の城を御立ありて、其日は諸勢佐和山に着陣す。六角定頼卿は佐和山の城磯野員吉が許に一宿候て、翌日江北へ押出て給ふ。江北方の者なればとて磯野伊予守、高宮三河守、久徳左近大夫に御先を被2仰付1、二番に長原安芸守、三雲新左衛門尉、小川孫七郎、三番に進藤山城守、三井修理亮、目賀多、四番に居場美濃守、平井加賀守、馬淵、大賀、蒲生、小倉将監、七番に定頼卿御旗本なり。かくて人数段々に仕組、佐和山より中道を討て押寄給ふ程に、同十二日にははや先手勢江北観音寺坂横山に着陣す。江北の浪人共此の由を見るよりも不斜悦びて、我先にと上平へ馳参じ京極殿を大将として其勢千八百余騎矢島野に陣取、山本山、磯野山の勢共今度の御先陣仕らんと悦ぶ事かぎりなし。小谷の城には備前守此由を聞給ひて、さればこそ江南勢去年のおくれを清めんが為、又勢を出すぞよ。今度は所々に足だまりをこしらへ、仕寄によすべきとの儀なるべし。味方の軍術相究むべしとの給ひて、大橋安芸守、赤尾孫三郎、海北善右衛門尉等外を不レ憚申けるは、敵の軍勢に味方の軍勢をくらぶれば、七分一ならではなし。今度は無二の軍をすべし。敵に近々とよせさせて、此三人の者ども一番に駆出、四方八面に働は敵十万騎にて備へたりとも、二三段も切立べし。其次に伊部清兵衛、阿閉三河守、雨森弥兵衛切て出らるべし。其次を御大将亮政と大野木、三田村を同勢として切り懸り給ふべし。然らば定頼旗本まで切崩し可レ申。夫にかなはぬ者ならば、我々三人討死をすべきなり。其隙に城中へ駆込、此度味方に被レ参、東野、井口、今村、今井、新庄に城中ふせがせ、城を丈夫に持ち堅め、越前へ使を立て御加勢を頼み、朝倉勢に後巻をさせ、城中より切て出て給はゞ、六角か京極か、一方は討ち給ふべし。其のいきほひを以て江南へ乱入、江州一国をしたがへ給はん事何の子細候べきと公言放て申ける。伊部清兵衛承り、いや/\それは手立もなく、荒き心得にて候。今度は南北共に卒爾なきように人数を立合、次第を追て攻よるべし。其故は去年大軍を一時に討ち破り申候条、其心得をして駆向はるべし。我等存候は当城をひそかに持ち堅め、数日を送らば、敵長陣につかれ必油断を生ずべし。其時を見はからひ無二に切て出、勝負を決すべしとぞ申されける。三田村、大野木も同心して城を堅固に防置き、越前へ使者を立て朝倉殿を相頼み、軍勢を引出し、もみ合せ戦はゞ勝利是に過しとぞ申ける。備前守、評議一々聴たまひて宣ひけるは、何も一術づゝ其徳候へども、先朝倉を頼み加券を請はゝ、早速加勢は来るべし。然りといへど去年、各異見に付、朝倉殿を頼むだに、口惜く存候に、又候や。相頼みなば、浅井困窮に及び朝倉を頼み、其難をのがるゝなど人々の口に懸るも口惜かるべし。とかく謀は我等が所存にあり。此の城を枕として討死せんこそ本望なれ。各も随分粉骨を抽て防てたへとぞ宣ひける。列坐の面々承引なき体には見えけれども、大将一向におもひ定められし事なれば、各其儀に同じけり。斯て海北善右衛門尉、雨森弥兵衛、赤尾孫三郎此三人の者共は浮武者となり、四方に心を付、味方に下知して可レ被防、大橋安芸守、伊部清兵衛尉、武者大将に定置、味方のたゆむ所を可レ被防、浅井大和守、東野左馬助に尾山彦右衛門尉、田部助七を付、大嵩の丸に可レ籠。赤尾駿河守、同帯刀、同与四郎、井口弾正は小丸の城に可レ被レ籠と被2相定1、備前守は矢倉へあからせ給ひ物見して居給ふ。かゝる処に江南佐々木六角勢を七段に備へ段々にしよりに押寄せ給ふ。真先には江北方の浪人共の内、弓の上手を四十人すぐりて先に立る。總じて射手二百人、磯野源三郎が左右にして小谷山の東の手へ押廻す江南の弓の上手五十三人すぐりて、是も先に立置、五百人吉田出雲守に付置、城の西南へ押廻す。備前守は此由を見て矢倉より下り、物頭共に向ひて宣ひけるは、敵此度は殊の外用心して近江国中の射手どもを両脇に立おかれ候へば、我等城中より討て出は、両脇より引包み射取らんとのたくみなり。卒爾に切て出べからず。しずまりて城中を堅むべしと宣ひぬ。斯て寄手は小谷、一方は大山なれば、三方に順ひて無レ難城を取囲む。六角本陣は内保村にすへ給ひ、江北京極は本陣を田川村にすへらるゝ。扨寄手に向ひし兵等、鬨を作り掛/\攻けるが、城中にも喚叫て防ぎけり。敵味方の鬨の声、矢さけびの音、山谷も崩れかゝるかと夥し。寄手猛烈なれば入替り入替り攻たりける。城中にも命をおしまず防ぎければ、たやすく可レ落とも見えざりけり。
千田磯野大嵩の城夜込に乗取事
斯て寄手の猛勢数日を送るといへども、終に門矢倉の一つも攻とらざれば、攻あぐみたる気色なり。城中にも防ぎ草臥たりかゝる処に磯野源三郎為員、同源十郎、千田帯刀有信、同弥九郎、浅見新八郎俊定、此者共小谷山の東の手の弓大将にて居たりしが、各一所に寄合、軍評議して為員は小声になりて申やう、昨日夕城中へしのびを入、様子を聞に、此の中の戦ひに殊の外つかれ、休息の体に見ゆる旨告来るなり。然らば今能き時分なり。我等兄弟、千田兄弟、浅見新八郎五人、今宵夜半許に大嵩の城へ忍入、小屋に火を放ち、其ひまに大嵩の敵を追立乗取べし。若敵さとり防ぎなば、我々運命のつくる所と思ひ、討死し名を後代に留むべしと申ければ、尤可然候とて、夜の更るを待にけり。かくて六月七日の夜半許の事なるに、雑兵三百皆歩立になり、山田口へ相まはり、大嵩の城の搦手鷲の石といふ所にから堀の切岸に足かたを打忍びあがり、城の塀近く寄けれど、もとかむる者も更になく静り切て音もせず、唯夜廻りの城中を廻る計聞えければ、頓て鬨をどうとあぐる城中には、是を聴、騒動する事限りなし。其間に五人の者共塀に手をかけ乗越、城中の小屋に火をはなちければ、折節北風烈しくて四方に焼廻る。城中の兵共太刀帯者は甲を忘れ、弓取る者は矢をはかず、上を下へと返しける。源三郎、四方に駆け廻り戦へば、城中の者等、本丸さして逃げ退く。新八郎、源三郎不斜悦びて、逃る敵を追ひ討に三十八人討留て勝鬨をどうと作り、小屋共の火をしめし門を堅めて居たりしが、備前守大嵩の火の手を見るよりも、大橋安芸守、伊部清兵衛尉に被2仰付1敵夜込すると見えたるぞ、追立よと下知したまへば承り候とて、大嵩さして急ぎけるが、早や城中敵に乗取られ、大嵩の者共開退く所へ来りければ、可レ防便りなし。又寄手如何なる手立もあるやらん。本丸心もとなしとて引返す。かくて千田帯刀、同弥九郎、浅見新八郎、磯野源三郎、舎弟源十郎、此者共大高の城乗取る旨風聞すれば、磯野右衛門を先として浅見対馬守、千田伯耆守、横山大和守馳来り。大嵩城へ楯籠り、城を丈夫に堅めける。かくて浅井大和守大に怒て宣ひしは扨々汝等戦場に向ひて、かく大敗をなし、敵の来るさへ不レ知、一支もさゝへずして城を敵に乗取らるゝ事前代未聞の次第なりと宣ひければ、大和守も左馬助も兎角の返事なかりけり。大橋安芸守、赤尾孫三郎、御前に候ひしが両人同音に御立腹御尤には候へども、軍と申す者は高名仕候も後れを取候も時の仕合にて御座候。全以此儀越度にては有まじくと宥めける。扨備前守、兵等に向ひ申されけるは、大嵩の城敵に攻取られぬる上は、敵勝に乗、明日は平攻に攻あがるべし。小丸は大嵩近き所なれば、板たゝみにて構置き源三郎矢先つよければ、能く防ぐべし。惣軍勢の者共は敵に気をうばはれ、可レ落気色の侍は敵の手には懸け候まじ。味方討て舎らるべし。此の城を枕として並居て討死とげらるべし。其上味方死を一筋にかためなば、百万騎の敵なりといへども、一度は討破り可レ被レ申と夜の間に城中へふれ廻し、四方丈夫に持ち堅め、よする敵を待ち居たり。かくて六角京極両大将は磯野源三郎、大嵩を夜討に乗取り磯野、浅見、千田が一家一千騎許にて楯籠る旨聞給ひ、是天のあたふる吉事なり。明日は小谷を四方より平攻に可レ攻と使番を以て南北の諸勢一度に鬨を作り攻あがりければ、城中にもときをあばせ、走り廻りてふせぎける。誠に敵味方の鬨の声、矢さけ、ひの音山河にひゞきて夥し。寄手四方にまはるといへども、東西は切り岸なり。南は堀切なり。其上より石を落し、大木を落し、矢先を揃へて射下せば、寄手討るゝ者多かりき。備前守は小丸と大嵩との間、第一に可レ防とて大橋、伊部、阿閉、今村、赤尾、海北、雨森等、此人々に被2仰付1、我身は四方に馳廻り、下知し給ふ。大嵩より源三郎、件の大弓にて討出し、板畳とも言はず射通せば、城中是にあぐみけり。海北善右衛門尉、雨森弥兵衛、赤尾孫三郎、三人の者ども大楯と中の丸との間、垣を引き落し、土手を楯に取り名乗りかけ/\攻下せば、敵も進みかねてぞ見えにける。此三人の者どもは海雨赤の三将とて近江一国にては古の頼光の四天王のやうに申、此三人向ひ一方討破らすといふ事なし。さる間昼夜の境もなく寄手は入替/\三日が間は息をもくれず攻けれども、城中には一騎当千の武士多く籠り、命を捨て防ぎければ、寄手攻あぐみ、陣所を少引退き人数を休め給ふ。有鬨備前守亮政朝飯して居給ふ処に源三郎為員、件の強弓にひら根の大矢を打つかひ射けるに、何方よりか来りけん。前なる膳を射わり、草摺を射抜て、後なるさくりの板に立ければ、さしもに剛の亮政も、此弓勢は一方ならぬ事なりとて、大嵩の方をつよく用心したまひけり。
浅井備前守以2智略1寄手を追ひ立る事
斯て浅井備前守亮政は物頭大将の面々を近付、宣ひけるは大嵩の敵に攻取られ、高みに敵を置き、味方ひくみよりふせぎけるは、城中の諸勢、気力よはると見ゆるなり。此分にて籠りなば追付、当城は可レ落なり、兵の勇気の少しく残れるうちに一術して、敵を出抜き可2追払1、もし敵さとり、術かなはずば三千余騎、真黒になり、六角の旗本、内保村へ無二に切入、討死をとくべきなり。今度は面々も我等と一所に討死をたのむと宣へば、赤尾孫三郎、海北善右衛門尉、雨森弥兵衛進み出て申けるは、敵何万騎にて取巻候とも、さのみ御大事にはおはしめさるまじ。我々御先を仕、伊部、大橋二人二番に切て出る物ならば、六角勢に自由は働かすまじく候へども、大将御免しなき故、此中取籠り、いたづらに日を曠くす。是非に切て出させ給ふべし。大軍を追散らし、追討に討程心地よき物は無2御座1候と申せば、亮政につこと笑ひ、汝等三人は心も剛に手立よし。さあらば我等の謀かたるべしとて宣ひしは、東野左馬助は余呉の庄の知行所なれば、其村々被官百姓多し。左馬助を先とし西野丹波守、尾山彦右衛門尉、田部助七、此等四人は北国よりの道筋、木の本、井の口まで知行所多し。然れば郷人頼むに便りよし。明夜は当城を奥山伝ひに忍び出べし。手勢五百余騎に郷人二三千ばかりの郷人に指上させ、明方の早朝に賤ヶ嵩、木の本山、田部山に狼煙をあげ、貝鐘にて鬨をあぐべし。新庄駿河守は汝が知行所横山辺に狼煙をあげ、郷人に鬨をあげさすべし。舎弟浅井大和守、丁野弥助両人は丁野村の郷人を八相山へ打あげ敵陣取の上にて木の本、田部山の鬨の声を聞なば、狼煙をほのかにあげ、鬨をどうとつくるべし。其時城中にも四方の鬨の声と一同に鬨をあげ、追手搦手一同に門を開き切て出べし。寄手又去年の如く朝倉勢馳来り当城へ加勢すると思ひ、木の本表へ人数半分差向らるべし。其時六角旗本へ切込、戦はゞ可レ得2勝利1と宣へば、物頭の面々御手立宣く候。はや/\支度せよとて紙のぼり、紙差物等それ/\″に調べて日の暮るゝを待て居たりけり。かくて六月十日の夜のうちに西野丹波守、東野左馬助、尾山彦右衛門尉、田部助七、其勢都合五百余騎にて奥山伝ひにしのび出る。相続て新庄駿河守は草野越に忍び出る。北国道へ向ひし西野、東野は余呉庄に到りて東野村左馬助舘にて在々所々へ触廻しけるは今夜の中に里の長に可2申渡1子細有。早々来るべき旨触れ通しければ、我も/\と馳参ず。左馬助里の長に向ひて頼みけるは、明十一日の夜の中に郷々下百姓不レ残召連、東野村へ可レ来旨申付、紙のぼり、紙差物等相渡す。十一日夜五つ時分に郷人我も/\と支度して三千五千人馳厚る。柳瀬より中郷迄の山の峯、梢々に件の旗さしものをゆひ付置、堂木山、坂口、賤ヶ嶽、木の本山へ頭々を付、三千五百人打上る。尾山彦右衛門尉、田部助七も己が在所、尾山、洞戸、田部山へ郷人をいざなひ打登り、六月十二日の明六ツ時に狼煙をほのかにあげ、鬨をどうと作れば、東野左馬助、木の本山、賤ヶ嶽、大音山にも貝鐘にて鬨の声をあぐる。夫よりして南方は観音坂、西は横山辺、八相山に狼煙を上、鬨を作れば四方の峯々狼煙天にのぼれば小谷の城中にも二千余騎鬨をどうと作る。寄手の者共これを見て軍中以の外に騒動す。進藤山城守、平井加賀守は定頼卿の旗本へ伺候し申けるは、越前朝倉浅井に加勢すと見えたり。南方の敵は味方中に逆心の者出来して四方に廻ると存候。先朝倉を被レ押可レ然と申上ければ、汝両人可レ向と仰付られ、則其勢三千余騎馬上表へ乗出す処に、物見の者共段々に馳帰て申けるは、北国表の道筋は皆人数にて山々峯々には皆敵なり。如何様二三万騎もをしよすると申、其内に江南勢大きにさはぎて大将下知もなきに、はや引取らんとす。西野丹波守、東野左馬助、尾山彦右衛門尉、田部助七、五百余騎、こゝかしこに打散り、井の口川原へ押寄る。馬上村表へ向ひし進藤、平井が人数うら崩れして敗北す。又小谷の城の東へ向ひし江南、江北の兵ども大将の一左右も不レ聞、さきに矢島をさして敗北す。内保村本陣へは伊庭美濃守、馬淵摂津守馳来て申けるは、味方勢大半此表を落行申候間、先御人数を被2打入1可レ然候と申せば、定頼卿も崩れ立たる味方なれば先手の者共呼取れと、進藤、平井を呼取、矢島野へ引取らんとせし所を亮政を見て、赤尾駿河守、井口弾正、今村掃部頭、其勢都合八百余騎、大嵩の押に残し置、備前守千二百余騎門を開き切て出らる。元来引立たる猛勢なれば、追討に尊照寺矢島まで討程に首数三百許り討取、かちどきどうとあげ、小谷を指て引取給ふ。南方観音坂へ向ひし新庄駿河守は狼煙をあげ、貝鐘をならし、鬨を作り、敵向はざる先に人数を引揚げ、箕浦の城へ打入ける。八相山へ向ひし大和守丁野弥助も鬨をあげ、今浜道へ引揚げる。かくて大嵩に楯籠る磯野右衛門大夫父子三人、千田伯耆守父子三人、浅見対馬守、横山大和守、横山肥後守、森勘解由、此人々味方不レ残敗北するを見て、朝倉勢に被2取籠1やみ/\と討れんより居城へ楯籠り、味方の安否を見ばやと思ひ、大嵩を開退き、磯野、山本の両城へ引にけり。
浅井三代記第六終
底本には濁点、句読点は無いが、読みやすくするために濁点、句読点を附した。
(『改定史籍集覧』第六冊を底本としました。)

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